第三章 鄂托克(ウトク)国家地質公園を見学につき分かる

第三章
鄂托克(
鄂托克(ウトク)
ウトク)国家地質公園を
国家地質公園を見学につき
見学につき分
かるべき基礎知識
につき分かるべき基礎知識
第一節 地球科学基本知識
地球は太陽系の九個の惑星の一つだ。地球の年は 46 年で人類が生活する唯一の場所だ。人類は地
球で既に何百万年生息してきた。歴史記録以来人類は地球について研究を積み重なってきた。一番古
い地図から現在のデジタル地図まで人類は地球について研究を続いてきた。
一、地球の構造
地球は均一の球体ではない。長い地殻運動と物質分離過程中、地球は内部から外部に密度により、
地球はいくつかの層から成っている。
(一)地球の表面構造
地球の一番外は固い岩石の層があり、人類が生存する場所でもある。岩石の層は岩浆岩,沉积岩,
变質岩と土になっている。
岩石の層の表面は大部分海になって、陸地の低いところも湖と河流になっている。寒いところの川
は氷河になっている。地下の一定的深いところも地下水があって様々な水が水圏を構成する。岩石層
と水圏の外は大気圏で大気圏は酸素と窒素である。大気圏は地面から宇宙につながる空気層である。
岩石層、水圏、大気圏は独立しながら、お互い連携がある。こうして地球は鉱物質、空気、水があ
り、適当な温度で生物が繁栄するようになっている。これが生物圏である。生物圏は岩石層の上部、
大気圏の下、水圏の全部を含んで独特な生存圏を構成している。これが人類の生存空間である。
(二)地球の内部構造
地球の内部構造は地球の内部層構造である。今日に至るまで探査機は宇宙のはるかに遠いところま
で届いたが地球の内部にはまだまだ入ったとはいえない。今、世界一番深くまで掘ったのはわずか
12km である。地殻を越えるまでは届いてない。科学者たちは地震波や地磁波、火山噴火を通じて地
球内部の研究をせざる得ない状況だ。地震波は同じ深度で伝送する速度は変化がある。これで地球内
部の物質成分と状況を把握してきた。
地球内部には地震波の反応がぜんぜん違う二つの層がある。一番目の層の深度は様々である。大陸
は深く 60km あるが海は浅いのだ。一番浅いところは 5 km も満たない。この層を地殻という。二番
1
目の層は 2900 km 深いところにある。これをマントルという。一番深いところにあるのが核(コア)
である。
1
地殻
地殻は固体の岩石で構成されている。厚さは様々であって、海のほうが薄い。海は平均的で 6km
で一番厚いところは 8km、一番薄いところは 5 km も満たないのだ。大陸のほうは厚く平均的で
35 km で一番厚いところは 70 km にもなる。地球全体地殻の厚さは 6 km で地球半径の 1/400 に
ならない。地殻はさらに二つの層に分けることができる。
2
マントル
マントルは地殻とコアの間にある。厚さは 2800 km で平均密度は 4.9g/㎤で地球全体積 83.4%
を占めて、全質量の 2/3 を占めている。
3 核(コア)
コアの厚さは 3473 km で地球全体積の 16.3%を占めて、全質量の 1/3 を占める。地震波の変化
により 4640 km と 5155 km のところで二つの層に分けて内核とが外核に分けることができる。
二
地球の発展歴史――地質年代。
46 億年という長い地質歴史の中、地球は複雑な変化をどけだ。例えば生物大規模の繁栄と絶滅、
強烈な構造運動、コア運動、海と陸地の変化などである。こうして地殻に残された地層、古代生物化
石、様々な構造運動遺跡を通じて地球の歴史について研究することができる。
1
絶対地質年代
岩石の中の放射性同位素の量の検定を通じて岩石の年齢をわかることができる。
2
相対地質年代
地層のできた順序を通じて新旧関係がわかる。これは地質歴史の相対順序と発展段階を現す、しか
し、各地質時代の単位の長さを表してない。地質相対年代の主な地層の成型順序を確定し、古代生物
環境と地殻構造運動の分析をする。
3 地質年代表
総合岩の特徴、地層の関係、相対年齢と絶対年齢などで地層について比べて、区分することができ
る。これで、地域性または地球全体の地層系統をたてることができる。つまり地層は形成された地質
2
年代の表した。
人類は地球の歴史を主に3つの段階にわけた。つまり、太古宙、元古宙と、顕生宙だ。宙以下は代、
紀、期、時にわけられている。上で述べた宙、代、紀、期、時に形成された地層を宇、界、系、統、
階、帯と読んでいる。地質年代は年代表を参照してください。
3
地
地
質
年
質 年 代
代
表
等位素年齢
生物進化
紀
(百万年)
第四紀(Q)
2.60
人類時代
新近紀(N)
23.3
被子植物と
古近紀(E)
65
獣類時代
白悪紀(K)
137
ZU 羅紀(J)
205
生
三畳紀(T)
250
宙
二畳紀(P)
295
(PH)
石炭紀(C)
354
泥盆紀(D)
410
裸#植物と
志留紀(S)
483
魚類時代
奥陶紀(O)
490
寒武紀(E)
543
震旦紀(Z)
680
真核藻類と
南華紀(Nh)
800
三葉虫時代
青白口紀(Qb)
1000
JING 県紀(Jx)
1400
長城紀(Ch)
1800
##紀(Ht)
2300
宙
代
新生代(Cz)
顕
中生代(Mz)
古生代(Pz)
元
新元古代(Pt3)
古
宙
中元古代(Pt2)
(PT)
古元古代(Pt1)
2500
太
古
宙
(AR)
新太古代(Ar3)
2800
中太古代(Ar2)
3200
古太古代(Ar1)
3600
裸子植物と
恐竜時代
#類と爬虫類時代
細菌藻類時代
地球形成と
始太古代(Ar0)
進化時期
4
三
鄂尔多斯(オウルトス)盆地地質発展簡略史
鄂尔多斯は高原で発展歴史としては 35 億年前の地質歴史時代だ。鄂尔多斯高原は地球ほかの大
陸と同じく長くて複雑な発展をとけた。
(一) 早太古代(35 億年)から晩太古代――土台地盤時期
これは華北土台の発展時期だ。35 億年前、華北地方は海であった。早太古代の時、当時の地殻
は薄くてマントルがあがってきて火山活動が非常に活発だった。そこで大量の拉斑玄武岩、钙碱質火
山岩、火山砕屑岩など中基性―中酸性火山岩が現れた。
強烈な造山運動で沈殿物は次々新たに盛り上がり、高温流で高温変質を発生した。長い変質と変形
を重ね、古い岩石は花崗――片麻穹隆構造になって現れ、深成混合花崗と共にあらわれる。晩太古代
は緑岩建造であって、科馬提岩がある。
早太古代の火山と沈積と変質、晩太古代の火山―沈積、変質を通じてつながってない初始陸核――
島链状硅镁質、硅铝質の陸が造成、拡大し一体化した。これが華北土台の地盤である。
(二)早太古代――華北地方地盤の形成
この時期の火山――沈積で発生した鄂尔多斯(オウルトス)高原北部今の烏拉山(ウラサン)、大
青山(ダテンサン)
、色爾腾山である。主に海相镁铁拉斑玄武岩、钙碱性火山熔岩、火山砕屑岩及び
炭酸塩岩で明らかに緑岩である。同じ時代沈積は太古代の古代古陸の辺縁地にも発生した。ここは海
相火山岩、砕屑岩、炭酸塩岩の構造である。
早元古代末期の色爾腾山の運動は地殻を厚く、硬く、克拉通化し、構造運動と伴うマントル運動は
華北地盤を固め華北地盤に形成された。地盤の範囲は西から阿拉善(アラサン)隆起東の山西(サン
シ)隆起で北は白雲鄂博(バイユンオボ)一帯、もっと広いところまで及ぶ。
(三)中、晩元古代――蓋層発展期
蓋層沈積は地盤の古い結晶基地が形成以降、その上に正常の陸源砕屑でなって火山活動がない。今
まで、鄂尔多斯陸地は古生代地層と分厚い中、新生代地層で負われている。その深部は中、晩古代の
沈積があるかはまだ分かっていない。しかし、贺蘭山(ホランサン)地区の中晩元古生代黄旗口群(フ
アンチコウチン)、王全口群(ワンチコウチン)、渣爾泰山(ザオウルタイサン)地区の渣爾泰山群、
白雲鄂博群(バイユンオボ)の特徴を分析から、この時期の蓋層沈積はこの地域に限っていることか
5
ら鄂尔多斯陸地の下にあって、中、晩元古代の沈積が存在しない可能性がある。
(四)古生代――陸表海沈積
鄂尔多斯(オウルトス)陸地は陸が海の沈積環境であることがわかる。その海は華北の祁连海(チ
レンハイ)からだと思う。この地域は早元古代末に古陸が形成したあと、長い時間のなか腐食され平
野化し穏当である。古生代初期この地域は沈没し盆地になりさらに沈積を続けた。早寒武世、つまり
華北饅頭期の竜王寺期の沈積で砕屑岩になり、東勝(ドンソン)一帯では東勝隆起(つまり烏蘭格爾
隆起「ウランゴオル」)がある。当時気候は乾燥、暑熱、海水は非常に浅くて塩分度が高くて沈積物
は紫色砂岩、页岩になっている。白雲岩の中には石膏と石塩仮晶が含まれている。中寒武世は海の腐
食が拡大し、炭酸塩になった。晩寒武世の時海が去り、潮坪相炭酸塩になった。この地域の陸表海の
沈積岩相は完全に海の行き去りが記録され、地盤蓋層沈積である。中、晩寒武世の良い生態環境は大
量の三葉虫や腕足動物が繁栄したと思われる。晩寒武世は短い海が去ったあと、早奥陶世にはまた大
面積の海になった。初期の海は浅く、気候の暑く、蒸発環境になっている。晩期になっては海水が深
くなり生物が繁盛し始めた。主に有頭足類、腹足類、腕足類など華北型海相生物である。早奥陶世晩
期華北海、祁连海は鄂尔多斯(オウルトス)でつながった。早奥陶世馬家沟(マジャゴウ)末期に中
加里東(ゾンジャリドン)運動第I幕(早期)が発生し、鄂尔多斯(オウルトス)陸地を上昇させ海
が去り、中奥陶統がなくなった。中奥陶世末期中加里東(ゾンジャリドン)運動第II幕(晩期)が
発生し、華北地盤が多く上昇され、海が去り侵食区になった。こうして華北地盤は奥陶世、志留紀、
早石炭世の沈積がなくなった。中石炭世、鄂尔多斯(オウルトス)は長い侵食をした後また海水が浸
入し中石炭本渓組浅海相砕屑岩つまり炭酸塩を作らせた。本渓組の下はよく山西式鉄鉱と高アルミニ
ュム粘土がある。晩石炭世鄂尔多斯(オウルトス)内に海が行き去りを振り替えす中、上は石炭統海
陸が交差する沈積構造になっている。早二畳世、鄂尔多斯(オウルトス)陸地は近海平野の環境を整
え、平野の河流、湖、湿原が現すような石炭を含む沈積構造になっている。
(五) 中――新生代発展期――坳陷盆地
1 中生早期――鄂尔多斯(オウルトス)盆地の発達
鄂尔多斯(オウルトス)地域の早三畳世は気候が乾燥、焦熱で植物が生えない沈積環境になってい
る。主に川、湖のような赤色の砕屑岩になっている。沈積物は主に砂岩、泥岩でこの間爬虫類が繁盛
し、主に前菱蜥類、鄂尔多斯獣、哈鎮獣など四つの足で走る爬虫類だ。早三畳世、盆地の東には赤色
6
の砾岩、泥岩が沈積し、中には石炭が挟まれていてこれは当時脇木、優脂杉などの植物が繁盛した証
拠だ。爬虫類なかの中国肯氏獣はその代表的存在だ。中三畳世末は印支運動第II幕が始まり、中晩
三畳世地層が断裂した。盆地の北部は盛り上がり始め晩三畳世地層が喪失した。西は沈没を続けやが
て盆地中心も沈没した。鄂尔多斯(オウルトス)地域は全面的に内陸盆地発展期に入った。晩三畳世
は北部を除いて他の地域は灰緑色泥岩が沈積され、中には石炭が挟まれている。盆地の辺縁地帯は沈
積が百メートル足りないが、盆地のなか、最大沈積は 300 メートルになっている。その中西部の卓子
山地区の沈積の最大厚さは 1,800 メートルになっている。ここから盆地の沈没中心は西部区間にある
ことがわかる。晩三畳世区内植物の発達は延長植物を代表とする区域性植物群を形成した。晩三畳世
末は印支運動第III幕が発生し盆地は一度上がって三畳統部分地層が侵食された。
2 中世代晩期――鄂尔多斯(オウルトス)盆地の最盛期に恐竜が繁盛から絶滅まで
早、中诛羅世、鄂尔多斯(オウルトス)盆地は陸相沈積物である。早诛羅世中晩期は準格璽旗(ジ
ュンゴアルチ)南部だけでも百メートルぐらい厚い陸相砕屑沈積――福県組がある。中诛羅世、盆地
は温暖な熱帯気候になって植物が繁殖し西から東まで上々に薄くなる石炭を含む砂質沈積物になっ
ている。早、中诛羅世は植物繁盛し、主に綱格蕨、格子蕨植物群で中诛羅世は锥叶蕨、拟刺蕨植物群
で構成された。その以外銀杏類、松柏類、蘇鉄類植物である。動物は魚類、辨鰓類と叶肢介などが湖
に生殖していた。中诛羅世末期は燕山運動の第II幕が発生し、下诛羅世は強烈な褶曲と断裂が発生
し、鄂尔多斯(オウルトス)高台が侵食区になっている。白垩紀初期鄂尔多斯(オウルトス)盆地は
沈み初め全区間の大部分が早白垩紀世の沈積を受け、早白垩紀世沈積地層志丹群(今は伊金霍洛組と
呼ぶ)を形成した。早期沈積物は河川のような赤色砕屑になっている。晩期は湖のような砂泥質で厚
さは 1,000 メートルを越えている。沈積の中心は盆地北部の河川一帯になって南北で箕状盆地になっ
て盆地東部は東勝(ドンソン)にまで縮んだ。早白垩紀世中期盆地は縮む初め東勝(ドンソン)組は
赤色砕屑沈積構造になっている。早白垩紀晩期、鄂尔多斯(オウルトス)盆地が盛り上がり始め湖が
なくなった。晩白垩世盆地は侵食区になった。早白垩世は鄂尔多斯(オウルトス)盆地は主に湖、河
川環境で植物も繁盛し動物の種類多様であった。爬虫類は主に恐竜及び亀類で魚類、水生軟体動物、
叶肢介、介形類などで非常に繁盛していた。
(六)新生代――現代地形の形成
古近紀鄂尔多斯(オウルトス)は川、湖は石膏赤色砂泥砕屑で形成された。鄂尔多斯(オウルトス)
7
盆地は始新世に沈みはじめた。渐新世盆地の西部沈積物は範囲が広くて主に赤色を含む石膏沈積構造
になって新進系は発達してない。渐新統動物群は非常に豊富で主に哺乳類動物で大角雷獣、巨犀、両
栖犀などである。盆地東部は古近系がなくて上新統の沈積地層がある。その岩は赤色泥岩、砂質泥岩
に泥灰岩及び灰質結核が挟んでいる。下は底砾岩で厚さ 50-100 メートルになって湖と河流のような
沈積物になっている。哺乳類は大唇犀、独角犀、叉角鹿、三趾馬である。古近紀と新進紀は被子植物
繁盛時期でもあり、主に楊、柳、榆、木蘭、胡桃などがある。
第四紀は人類が現れ氷期も何度行った。鄂尔多斯(オウルトス)南部の萨拉烏蘇(サラウス)地区
は晩更新世の時は河川のような粉砂、粘土沈積でそのなかに人類の化石、旧石器に大量の哺乳動物化
石と鳥類化石がある。人類化石は「河套人」と命名された。哺乳類は「萨拉烏蘇(サラウス)動物群」
と命名した。主に納玛象、斑鬃狗、狼、鹿、披毛犀、野馬、野驴、河套大角鹿などである。
上で述べたように鄂尔多斯(オウルトス)陸地は地質発展史で主な時期を経って太古代以来各期構
造活動は陸地に様々な影響を与えた。陸地の発生、発展の歴史を見れば鄂尔多斯(オウルトス)陸地
は古い結晶基底岩系発達と古生代蓋層沈積たって、中新生代坳堕盆地をたって、最終ヒラヤマ影響を
受け、陸地はだんだん上がり今の高原の地形になっている。
四
風化地質の役割と沈積地質の役割
(一)母岩的風化と運ぶ
地表が岩は岩浆岩、沈積岩と変質岩が形成され、これが沈積岩と母岩になる。
母岩は太陽の輻射、大気、水と生物の腐蝕で粉粉になる変化の現象を風化という。
① 物理風化 主に温度変化で母岩が膨張、母岩のヒビに水の凍結と塩類結晶での膨張、母岩が重
みを解除するための膨張などがある。
② 化学風化 主に水が母岩に融解し、鉱物が水分を吸収して新たな水を含む鉱物が造られて母岩
が膨張し水に溶けること。鉱物が水と反応、分解し新たな鉱物になること。母岩が空気と水の
中の遊離酸素で破壊され酸素化すること。
③ 生物風化 動物と植物が母岩に対する破壊。
地表と近い岩屑と融解質など風化物が自然力によって他のところに移動することをさす。自然力は
水流、波、潮、海流、地下水、風と生物などがある。
(二)沈積地質作業
8
沈積岩は地球表面及びその以下の深度が一定的なところで形成される地質体だ。沈積岩は常温と一
気圧で風化作業、生物作業と部分火山作業で形成された砕屑物質だ。一連の(動き、沈積、成岩作業
など)動きで岩石になる。陸地の 3/4 が沈積岩である。
沈積作業は水、風などの媒体をさす。介質動能の減少または条件発生、生物の作業で新たの場所で
沈積される作業を言う。
成岩作業はやわらかい沈積物が固定し沈積岩になる作業をさす。
簡単に言うと沈積岩は粉状沈積物が沈積を通じて沈積場所で一つ一つ積み上げ、水に溶けている鉱
物質が粉状粒をまとめたごとだ。時間の流れにつれ気圧などでやわらかい沈積物が固定し、硬い岩石
になる過程を沈積岩の過程を言う。
(三)沈積構造
沈積岩の構造と色は沈積岩の重要な特徴だ。沈積岩の原生沈積構造は沈積岩を分析するにあだって
重要なことだ。
沈積岩の構造は沈積岩が沈積するときまたは沈積後、物理作業、化学作業及び生物作業で形成され
た様々な構造だ。よくみられる流動が原因での構造が層理構造、層面構造、沈積などがある。
層理は沈積岩の最も重要な特徴でもある。また、大部分沈積物または沈積岩が持つ特徴でもある。
層理は層状構造だ。沈積物の沈積方向で沿ってみると物質の成分或いは色の変化、粒の大きさ、形の
変化の原因で沈積の内部層状構造が作られる。
層理の種類は多様で水平層理、逓変層理、波状層理、交差層理(槽状、板状、交差層理)など
浪状と昆虫痕跡層理構造。河流、浪、風で沈積物の表面は浪状の痕跡が残されていることを浪痕跡
という。
各種の生物が活動で沈積物の表面に様々な痕跡を残している。昆虫の痕跡、虫穴などがある。
自然の雨跡、雹、太陽の輻射などの痕跡も層理構造になる。
第二節 カルスト地形
カルスト地形に
地形に関する基本知識
する基本知識
一
カルスト及びその発達条件
(一)カルストの概念
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カルストは地表水と地下水が可溶性岩石に対しての侵食をいう。機械侵食などの地質作業及び
様々な現象の総称だ。地下水は可溶性岩石の内部まで入れるためカルストの形成過程に地表水より重
要な役割になる。
一定的可溶性岩石とやわらかい沈積もカルストに似た現象が起こる。これを偽カルスト或いは類カ
ルスト地形という。
カルスト地区には鍾乳洞がよくみられる。そして、地下河がある。
カルスト地区の地表水は一般的に発達してない。非常に水が少ないのだ。しかし、その反面地下に
は豊富な水源がある。カルストの研究を通じて地下水のあるところを把握し農業用と民間用の用水を
確保することができる。
(二)カルストの発達条件
1
カルストの基本条件
(1)岩石の可溶性主な構成成分と構造
岩石の成分 可溶性岩石の構成成分は炭酸塩類岩石(石灰岩、白雲岩、泥灰岩、硅質灰岩)
、硫
酸塩類岩石(石膏、硬石膏と芒硝)と卤素塩類岩石(岩塩と钾盐を含む)
。その中一番良く解けるの
は卤素塩類で炭酸塩類が最も溶けにくいのだ。
岩石の構造から見ると粒が小さいほど溶けやすく、細かい晶体は粗い晶体より解けやすいのだ。不
均等晶体は均等晶体より解けやすい。
(2)岩石の透過性 岩石の透過性は水と可溶性岩石の接触を提供し腐食が表面だけではなく深い
ところまで発展することだ。
二
カルスト地形
位置によってカルスト地形は地表と地下二種類に分けることができる。
(一) 地表カルスト地形
1
溶沟と石筍
溶沟と石筍は地表にカレストの最初の形態である。可溶性岩石が地表に出したら、水流のために、
不均衡の侵蝕を与えられる。そうすると、層とその裂け目からだんだん凹凸が出ける。凹んだ部分を
溶沟であって突の部分を石芽と言う。その形態を分けて軌道式、棋盤式、石芽、石林などある。
2
侵蝕漏斗と凹む漏斗。侵蝕漏斗とは皿状または円錐形のくぼ地で平面輪郭円と楕円形である。
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その広さは深くて大きい。一般的には数メートルから数十メートルになる。たとえ、地下洞窟の屋
根が崩れば同じように漏斗状の窪地が形成される。これを崩れ漏斗という。その特徴として漏斗の壁
が険しく底は石が積もっている。
3
落水洞と縦井戸
落水洞は地表水と地下川に通る垂直管である。一般的は裂け目から発展し、
裂け目の形による。
4
侵食窪地は侵食による小型閉鎖窪地である。面積は一般的には数十平方メートルである。平面
は主に円形と楕円形である。
5
坂立谷、坂立谷(又は岩溶盆地、岩溶平野)は大型の地表河川が岩溶窪地を経過する。
6
干谷と盲谷 干谷は岩溶地区の古河谷だ。盲谷は先が詰まった谷である。その末端は石灰岩の
絶壁である。
7
峰林、孤峰
(二)地下岩溶地形
1
カルストは大型地下通路と層の裂け目、断層又は他の構造の裂け目から発達する。
2
溶孔と溶隙
溶孔と溶隙は虹吸管式と深部循環帯内にあって地下水の構造裂け目に沿ってゆ
ったり流動しできた侵食物である。
(三)カルストの堆積物
カルストの堆積物は主に化学沈殿物で構成された複雑な堆積物である。カルスト堆積物は以下の五
つに分けることができる。
1
化学沈殿物
重炭酸カルシュームの地下水が岩の関間から滲出し圧力と水分の蒸発によって水
の中の重炭酸カルシュームが飽和しCO2が出てきて部分炭酸カルシュームの沈殿が作った化学沈
殿物だ。鍾乳洞の中に上からぶら下がっているのは鍾乳石で下から上に向かって成長するのは石筍と
いう。上から下までつながっているのは石柱で鍾乳洞の壁から滲出するのをカーテン状沈殿物は石幔
という。泉の口から泉水沈殿は石灰華という。
2
地下河川及び地下湖の沈殿物
3
崩積物 鍾乳洞天井あるいは壁から落ちた岩屑と石。よく鍾乳洞底の石灰華と粘土などと混ぜ
られ角砾岩になっている。
4
侵食残余粘土 石灰岩が侵食後 AI2O3とFe2O3 を含んだ粘土物質が残される。これらの残
11
余物質は質が均一で赤色と黄色になっている。
生物と文化の堆積物
5
水源と近く洞窟の口が東向きで出入りが便利の洞窟は原始人と動物の
住所になる。これらの洞窟は人類が残した石器と炊飯した跡、動物の化石が残されている。
第三節 恐竜及び
恐竜及び恐竜遺跡化石基本知識
一
恐竜地質遺跡の形成条件と形成過程
恐竜足跡は湿度、粘度、颗粒度が適度の地表の上を歩いたとき残した足跡の化石である。遺跡化
石の一種である。今、多くの科学者が動物身体特徴を反映させる古生物化石だと考える。恐竜の足跡
は凸型と凹型二つの種類がある。型は足跡そのものが岩石に残され化石なったものである。凸型は恐
竜の足跡に他の沈殿物が残され形成されたものである。凹型か凸型の足跡かは岩石の硬さによる。表
面に出ている足跡化石は一般的には硬い表面の上にある。しかし下の岩石が固く上の岩石が風化にな
りやすい場合は岩石正面の下凹した足跡が残れやすい。例え、上の岩石が固く、差異風化作業の結果
下の岩石が脱落して上の岩石の下には凸型の足跡が残される。二つの種類は研究で同じ重要な役割が
ある。特別の場合凹凸二種類の足跡が残されるケースもある。これは非常に珍しい場合だ。
恐竜の足跡の形成、保存、発見は様々厳しい条件がある。まず、恐竜が歩いた地表は湿度、粘度、
颗粒度が適度であることだ。恐竜は一生いろいろなところを歩く。しかし、これらの条件を満たす地
表だけ足跡が残される。これらの条件を満たす場所は一般的には湖邊、海辺及び河流に残されること
が多い。次ぎ、恐竜が足跡を残すためには迅速に埋めされなければならない。そうしなかったら雨な
どになくされるだろう。一般的は洪水が大量の泥砂をもちいて恐竜の足跡を埋める。後は、地殻は沈
没し足跡が迅速に一定的な深度に沈んで岩石になるのだ。深いところの温度圧力は泥を岩石にさせる
のだ。岩石になったあと重要なのは地面に現すことだ。そうしなかったら永遠に地下に埋められ見つ
かれなかっただろう。地層があがったあとも風化を得て足跡が現われなければならない。同時風化を
完成するためには足跡の岩層と上におわれた岩層の岩性に硬度の差別がなければならない。それで風
化が進んで足跡が現れるのだ。最後、少しでも現れ人類に見つけなければならない。しかし、人間が
すまないところで交通が発達してないところは人間に見つかれないでしょう。これから厳しい条件を
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クリアし残された恐竜の足跡はどのぐらい貴重がわかる。それで貴重な自然遺産を保存しなければな
らない。
世界でアメリカのコロラドグランドキャニオンには晩三畳から早朱羅世の恐竜の足跡が見つかれ
た。100 年歴史を持って国家級公園になっている。イギリス、フランス、ドイツ、ブラジルなど世界
の少数の国家からも大量の足跡の化石が見つかれる。しかし、他の地方ではまた発見が少ない。
中国の科学界で始めて恐竜の足跡を発見したのは 1929 年で陕西省神木(ソンム)からの禽竜類足
跡出ある。一枚見つかったが今はなくしてある。その足跡は「中国足跡」と呼ばれている。足跡を一
番多く見つかったのは遼寧省の羊山(ヤンサン)地区である。全部で 4,000 枚の足跡を見つかった。
しかし、これらの足跡は一種類で虚骨竜が残した绕脚竜の足跡である。年代が一番古いのは四川省彭
県にあって、三畳紀晩期の原蜥脚類の恐竜の足跡である。しかし、中国ではまた三畳紀晩期の恐竜の
骨化石を見つかってない。全国と比べると内モンゴル鄂托克旗(ウトクチ)に残された恐竜の足跡は
種類から数からも国内他の地区より抜群に良いと言われる。
最近、甘肃省からも大量の蜥脚類足跡化石を発見された。政府は積極的保護している。しかし、甘
肃省の恐竜層は単一で岩層の傾度が大きく交通も不便である。
二
恐竜遺跡の分類及び命名
恐竜足跡の命名と分類は争議がいまだ大きい。今、通用している主な命名分類方法は足跡化石を低
級分類から自然分類に入れていて恐竜の足跡の研究が古生物学の中の一部分に過ぎない。この分類方
法は簡単で足跡属と足跡種を現在の生物系統分類の中に入れている。本文はこの分類法を用いて低級
分類方法で足跡種、足跡属、足跡科で命名をする。この方法は分類方法で比較的に客観的に恐竜の特
徴と恐竜の属を反映させる。
13
第四章 鄂托克(
鄂托克(ウトク)
ウトク)国家地質公園園区
国家地質公園園区の
分割及び旅行資源の
旅行資源の紹介
園区の分割及び
鄂托克(ウトク)国家地質公園は八箇所の地質景観と人文景観で構成されている。査布(チャア
ブ)恐竜足跡化石区、卓子山(ツオツサン)地質景観群、包爾浩晓 (ボオルショ)草原温泉旅行村、
西鄂爾多斯(オウルトス)貴重植物区、布龍湖(ブロンフ)旅行区、蘇里格庙旅行区(スリゴミヨウ)
旅行区、阿爾寨(アオルザイ)鍾乳洞、百眼井(バイエンジン)旅行区である。
第一節 査布(
査布(チャアブ)
チャアブ)恐竜足跡化石区
内モンゴル自治区鄂爾多斯(オウルトス)市鄂托克旗(ウトクチ)査布蘇木(チャアブスム)恐竜
足跡化石区区内の恐竜の足跡化石は非常に珍しい地質遺跡である。恐竜足跡化石の種類、数の多さ、
広さは国内外でも珍しい。そして、他の古代脊髄動物化石と無脊髄動物化石もある。
鄂托克旗(ウトクチ)査布蘇木(チャアブスム)地区下の白垩統産出した化石は熱河生物群で属さ
れる。その中比較的重要なのは鳥類骨化石、鳥類足跡化石と獣足類、蜥脚類足跡が代表的の恐竜生物
群、亀鳖化石と鰐類化石が代表的な古代爬虫類動物化石、大量の狼藉魚化石、女星介、达爾文など介
形虫化石である。
査布蘇木(チャアブスム)地区の化石は主に 2 種類に分けられる。恐竜骨化石と
(図 4-1)
足跡化石と他脊髄動物化石だ。骨化石は鄂托克(ウトク)竜、伊克昭(イコゾ)竜、
剣竜、
嘴竜、坦歯蒙古竜と鳥類化石がある。足跡の化石は蜥脚類、獣脚類、鳥
脚類と鳥類足跡がある。
蜥脚類恐竜足跡化石は主に雷竜の一種であって、泊徳雷竜の足跡に属される。その中に大小二つの足
跡を分けることができる。それぞれ6号化石点と5G化石点にある。
(図 4-1)
鳥脚類恐竜足跡、3号点で少し足跡が発見された。(図 4-2)
(図 4-2)
獣類足跡は七種に分けられる。
3
1
洛克雷査布(ロコロイチャアブ)足跡(
(図 4-3)
2
克林頓(コリントン)足跡(図 4-4)
跷脚竜足跡、斯氏跷脚竜が代表だ(図 4-5)
4
14
(図 4-4)
(図 4-3)
(図 4-5)
4
実雷竜足跡(図 4-6)
5
譚氏分叉跷脚竜足跡(図 4-7)
6
躍竜足跡(図 4-8)
7
虚骨竜足跡(図 4-9)
遼西熱河生物群の中の恐竜群は植物性種類が多い。しかし、恐竜の
中で蜥脚類恐竜を発見してない。査布(チャアブ)地区蜥脚類恐竜
足跡の発見は熱河生物群に蜥脚類恐竜があることを証明した。
恐竜の足跡は査布蘇木(チャアブスム)の馬新呼都格(マシンフドゴ)地区に残されている。都斯
図河(ドストウホ)及び哈达図(ハタトウ)から阿如布拉格(アルブラゴウ)一帯 500 平方キロメー
トル内にある。今まで見つかった恐竜の足跡は数千枚がある。大多数は連続の跡で獣類、鳥類、蜥脚
類と鳥類の足跡だ。今まで 12 点が記録されている。その中一番大きいのは直径が 1 メートル足して
いる。ここからこの恐竜の体重が 100 トン超えていることが予測される。我々は 80 センチメートル
の深さがある蜥脚類恐竜の足跡を見つかった。その後沈殿物に埋められ直径 60 センチメートル、長
さ 80 センチメートルの恐竜の足跡鋳物であった。
(図 4-10)2003 年鄂托克旗(ウトクチ)で巨大蜥
脚類恐竜の骨化石を発見された。
15
(図 4-7)
(図 4-8)
(図 4-9)
(図 4-10)
蜥脚類恐竜足跡と獣脚類恐竜足跡が混雑しているのももう一つの特徴でもある。この現象は国内には
非常に珍しくて世界でも例が少ない。(図 4-11)
(図 4-9)
第二節 卓子山(
卓子山(ツオツサン)
ツオツサン)地質景観区
卓子山(ツオツサン)は鄂托克旗(ウトクチ)西北部の阿爾巴
斯山(アオルバスサン)に位置している。海抜 2149 メートルの主
峰烏仁都喜(ウロンドウシ)つまり卓子山(ツオツサン)は山頂
が平坦で四角状でまるで巨大のレンガのように山々の中に立って
鄂爾多斯(オウルトス)高原の屋根と言われる。
(図 4-12)ここは太古代から新生代までの沈積地層
が残されている。
16
(図 4-12)
特に古生代、中世代の地層は完全で完璧で漏出がはっきりなのが特徴だ。山南の楡木沟(ユウスゴ)
の中は天然の鍾乳洞があり、その深さは 70 メートルあまりで二つの大きい部屋がある。中には石筍、
鍾乳、石花などがあって非常にきれい。これは北の地区に非常に珍しい大型鍾乳洞で開発価値がある。
こらから南まで数キロメートルまでのグランドキャニオンは絶壁で寒武紀―奥陶紀地層の漏出が完
全で沈積の構造がはっきり見えて古生物化石が豊富だ。断層、褶曲が丸見えで天然地質教室でもある。
西山には座禅洞と迪延阿貴庙(テイエンアグイミアオウ)と鉱泉水がある。1921 年仏教の建物を建
設以来、陰陽極楽寺と呼ばれ中国四大勝楽金剛聖地の一つでもある。迪延庙(テイエンミアオウ)あ
たりは五つの薬用鉱泉水源がある。特にリウマチ病、胃病、眼病、婦人病などに効き目が抜群だ。
一
1
地層切断面
迪延阿貴庙(テイエンアグイミアオウ)寒武――奥陶紀の切断面(図 4-13)
(図 4-13)
17
整合しない震旦系上の寒武系饅頭組から、連続的に毛庄組、徐庄組、張夏組、崮山組、長山組と奥
陶系三道坎組卓子山組が沈積されている。奥陶系と寒武系間の整合しないのがはっきり見える。(図
4-13)地層は産状の平坦で、地形は切ったような絶壁になって地層の漏出が良いのだ。多種沈積構造
と平行層理、水平層理、透境状層理、丘状層理、沖刷層理、風暴層、渣状層のような地層と古生物の
化石が層ことから見える。
(4-15、4-16、4-17、4-18、4-19、4-20)小さい断層と褶曲が丸見えだ。
下古生界理想のもってこい研究地でもある。
(図 4-16)
(図 4-15)
(図 4-17)
(図 4-18)
(図 4-19)
2
棋盤井石炭――二畳紀地層の切断面
ここは重要な石炭産地だ。石炭系中統の本渓組から上にのぼ
ると順次に太原組、山西組、石盒子組、石千峰組がある。砂岩、
泥岩、煤層構成の韻律層がはっきりみえる。動植物の化石も豊
富である。
(図 4-20、4-21)
18
(図 4-19)
3
烏仁都喜(ウロンドウシ)三畳――侏羅紀地
層切断面
総体では赤色の河川のような砂岩――泥岩の建
造である。そのなかには劉家沟組、和尚沟組、二馬営組、銅川組、延長組、延安組、直羅組、安定組
が小範囲で漏出している。
以上三地地層切断面及び鄂托克(ウトク)高原的の主な地層の組合わせ――下白垩紀統伊金霍絡組
である。これは華北地盤の全部の古生代と中世代の地層を含む。ここは地質旅行と地層学、沈殿学研
究の最もいい場所だ。
二
沈殿構造
古生代地層のなかに大量の原生沈殿構造がある。区内には古生代地層は主に寒武系、奥陶系の炭酸
塩沈殿がある。
1
紋層状音律層理(図 4-22)は数ミリメートルからの繊細な層で交差的に現れる。同じ層は比較的
に均一的な成分構造で同じ水動力で形成された産物であることで深水環境からの沈積されたことが
考えられる。
2
風暴岩(図 4-23)風暴岩は暴風で作られた沈積岩である。主に風波基面付近と浅海と沖かわであ
る。暴風は気候と関係ある自然現象で外力地質の営力である。暴風は台風、暴風及び地震、津波など
が行われた災害性作業のことだ。暴風は海洋暴風と中緯度冬季暴風及び荒波が起こす。
(図 4-19)
これらの特徴で我々は地層の記録の中で風暴岩の発達の特徴
から風暴岩の発達地区の古緯度と古気候の特徴を取ることができる。区内で発達した風暴岩から古生
代を見れば、この地区は浅海と沖地区だったことが分かる。ここは台風と津波がよく発生したと思わ
れる。
3
粒屑灰岩(図 4-24)石灰岩は方解石を主な成分とする炭酸塩岩である。粒屑灰岩(異化粒灰岩)
は颗粒を主な成分とする石灰岩である。異化粒の種類が違うにつれ内砕屑灰岩、骨粒灰岩、球
粒灰岩、団塊灰岩、鲕粒灰岩などに分けられる。卓子山(ツオツサン)地区の粒屑灰岩は主に
19
砾状灰岩、砂屑灰岩、粉屑灰岩などがある。これは水盆地の中で団結あるいは弱団結した炭酸
塩沈殿物で波、水流で浸食され、破壊しまた沈殿し、形成された砕屑のような石灰岩だ。
4
竹葉状灰岩(図 4-25)
(図 4-25)
(図 4-26)
卓子山(ツオツサン)地
区の寒武系及び奥陶系
地層に大量の竹葉状灰岩が漏出している。これは典型的な砾屑灰岩である。砾屑は楕円形で切断面が
竹の葉に似ていることから竹葉状灰岩といわれる。竹葉の円度が高く大きさも違う。大きさは何ミリ
から何センチで成分は多く微晶灰岩、粉屑灰岩または生物(三葉虫)を含む微晶灰岩である。砾屑表
面は一氧化鉄質圏があり、黄色または紫紅色になっている。粒間の填隙物は微晶、粉晶、細晶など晶
粒方解石であって 30-40%を占める。この岩石は主に弱固結の炭酸塩軟泥の薄い層である。海が去っ
た後水面に現れ、干し裂けられ多角形の破片になっている。あと、海が上がり水波の浸食によって潮
波活動が頻繁な海辺地区になっている。
5
海波痕(図 4-26)波痕は沈積岩の中で一番多く見える層面構造だ。または非粘性砂質沈殿物の中
で発達する特有の層面構造だ。波は波痕系波作業で、非粘性物質表面でできた対称または非対象の浪
状起伏構造だ。一般的は直線型湾曲形浪脊がある。
浪痕の大きさと浪伝達の速度と粒度に関係がある。速度以外粒度の浪成波痕の規模を決める大きな
要素だ。一般的に大きな波痕は粗砂の中で発生する。小さい波痕は粉砂の中で発生する。波が浪痕に
なるのは波脊の対称性の異様によって浪成波痕と不対称の浪成浪痕に分けることができる。
6
丘状層理(図 4-27)または截頂浪成沙紋層理と言う。暴風、または浪で形成された上に向けて凸
であることに上がる円丘状の層理だ。頂面は浪に切断され浪の長さが(10 ミリ―5 メートル)
、浪の
高さが(1-100 センチメートル)になっている。切断面から見ると緩い波状になっている。層系底界
面は侵食面身なっている。細面と層系界は平行に近く細層の傾角は 8―10 度を越えない。
一般的にこの種類の層理の形成条件は近海帯と波基面以下であって、暴風作業がある。大暴風浪底
と正常浪底の間は大暴風で凹凸の表面がつくられて浮いている粉沙が上に沈殿しこのような層理に
なっている。これは正常浪基面したと特大暴風基面以下の環境の重要な識別になっている。
7
串珠状層理(図 4-27)結晶がいい細粒晶体が砕屑颗粒結晶をめぐってあるいは辺縁を沿って成長
し、串珠状のように排列される。串珠状排列された鉱物は方解石、白雲石、菱鉄鉱、黄鉄鉱などがあ
20
る。成岩期、後成期に形成されている。
8
透鏡状層理(図 4-27)一種類の多層系層理である。その特徴として砂質の透明鏡体である。泥質
の中に包まれ砂質鏡体内部発達がいい前積紋層だ。紋層の傾向は多くは単行的である。しかし、時に
二つ並行になることもある。これは水流の作業が弱く主に潮の流砂
(図 4-28)
の供給が不足してからである。泥の沈積の保存条件が有利の状況で
形成される。潮帯の潮沈殿の中でよく見える。
9
鲕状灰岩(図 4-28)または鲕粒灰岩ともいう。鲕粒が主な成分
とする石灰岩である。これは化学機械成因とする石灰岩である。炭酸钙が飽和状態の海、湖波活動地
または潮水流活動地に形成される。
浪と潮の作業で水介質が混ぜられる。毎回一回混ぜられると生物砕屑、球状、内砕屑、陸源砕屑など
が浮く状態になって同時 CO2 が水から出て過飽和した炭酸钙が砕屑粒を包囲し殻を作る。このように
振り替えし混ぜて、一圏一圏同心円で殻がある鲕粒になる。鲕粒が一定的な大きさになれば海底に沈
殿し方解石と癒着し鲕粒灰岩になる。鲕粒灰岩は多く温暖な浅水、強烈の混ぜるところと強烈に蒸発
されるところから形成される。炭酸塩台辺縁地からも良く発見される。または潮汐砂ダムまたは潮汐
三角州に産生する。
10
豹皮灰岩(図 4-29)は寒武系、奥陶系地層の中に良く見える岩石だ。これは一種の黄色、赤色
の不規則の斑紋の石灰岩だ。チターの皮に似ているため豹皮灰岩といわれる。通常基質部分は隠晶質
方解石または微晶方解石であって斑紋部分には白雲石が多く含まれている。これは石灰岩が岩になる
とき白雲が発生し形成された。白雲の石化は石灰岩の中に浸透性がいいしまと斑紋を選んで進む。
三
1
旅行景色
卓子山(ツオツサン)景観区
卓子山(ツオツサン)景観区は高山、深い谷、絶壁、珍しい花、鍾乳洞、山寺などで雄大な景観を
構成する。多爾奔温都爾(ドオルボンオンドオロ)南山麓からの都斯図河(ドストウホ)が蛇行し、
山林草原に潤いをもたらす。
(図 4-30)川に沿って駱駝、馬、牛、羊が群れを作って山林、草原が茂
っている。ここにきたらストレス解散し、体を休むため温泉療養も可能だ。
21
卓子山(ツオツサン)は主に石灰岩、砂岩で形成され風化と雨水により溶けて絶壁に無数の鍾乳洞
が作られ羊などの巣にもなるのだ。迪延沟(デイエンゴウ)の深いところは 100 メートルを超えて広
さは数十メートルに達しっている。雨季ではないときは通行が可能で人間がその下を潜ると巨大の石
に挟まれたようになる。上を向いて見ると一線の天が見える。
2
迪延阿貴庙(デイエンアグイミアオ)旅行区
はるか元代から卓子山(ツオツサン)山頂は簡易の建物を作って天地を祭って豊作を祈ったと伝わ
れている。清朝までに各旗(中国の満族は族人を 8 の旗に分けでそれぞれ自治していた)親王は毎年
旧暦 5 月 13 日にここで天地を祭ってにぎやかだった。卓子山(ツオツサン)は奇抜で周囲の景観は
雄大で山頂は草原になって絶壁には鍾乳洞があり、西山麓には座禅が有名な迪延阿貴庙(デイエンア
グイミアオ)があってまた鉱泉水があるため近年旅行地域として開発をしている。
迪延阿貴庙(デイエンアグイミアオ)は烏海市卡布其(ウハイ市カブチ)から谷を沿って 4 キロ行
けばたどり着く。1921 年鄂托克旗(ウトクチ)の僧侶ザラオスオルがここで寺を建設後陰陽極楽寺
として中国の四大勝楽金剛聖地となっている。
(図 4-31)迪延庙(デイエンミアオ)は大経殿、壇城
殿、舎利殿及び勝楽金剛洞、納若行空佛母洞、蓮花生洞、度母洞、不動佛洞、薬師洞、時輪金剛洞、
弥勒佛洞など十三の洞窟と建物、赤塔、尊勝佛母などで形成される。寺の中は五つの薬用鉱泉水が(図
4-32)があり、リウマチ病、眼病、胃病、婦人病などに効き目があると伝わっている。寺にはモンゴ
ル族のレストラン、ホテル、民族用品、お土産商店、鉱泉水療養施設がある。迪延阿貴庙(デイエン
アグイミアオ)をでて谷を沿って東に 3 キロメートル進むと烏仁都喜山(ウロントシサン)に着く。
この山は西が緩く東が険しい。山頂には元代最高点の証である塔型建物がある。
(図 4-33)山頂には
約 2 キロメートルぐらいの草原がある。東側には絶壁で柏、山榆などの木が茂っている。山の西側に
は大きい鍾乳洞があり深さは 70 メートルで二つの大きいホールがある。洞内にはカルスト特徴で石
筍、鍾乳、石花などが多い。これは北の地域で大きさとして非常に珍しいのだ。
(図 4-34)卓子山(ツ
オツサン)の山頂に登れば下の景色が一眼に収められ、わからないうちに微笑みが顔に表れる。烏海
市(ウハイシ)はまるで真珠のようで黄河はシルクの帯のようだ。千里沟(テンリゴウ)
、蘇旦沟(ス
タンゴウ)二つの大きい谷は東から西に向かって黄河まで延びている。烏仁都喜山(ウロントシサン)
の東は広い阿爾巴斯(アルバス)草原だ。ここで牛乳搾りを体験し、ミルクお茶を飲んで馬レスも楽
22
しめる。登山が好きの方は登山などもできる。
3
卓子山(ツオツサン)壁画
新石器時代から鄂托克旗(ウ
(図 4-35)
(図 4-34)
トクチ)は人類が生活、居住し
た。卓子山(ツオツサン)壁画
は鄂托克旗(ウトクチ)先人たちの知恵、文化芸術創造力などを反映している。壁画は自然に対する
理解とトーテム崇拝また生産、生活の一面が見えてくる。卓子山(ツオツサン)壁画は鄂托克旗(ウ
トクチ)阿爾巴斯(アルバス)及び烏海に位置している。壁画は主に烏蘭布拉格(ウランブラゴウ)
、
召烧沟(ソウソウゴウ)
、苦菜沟(クタイゴウ)、毛爾沟(モオルゴウ)
、蘇白音沟(スウバイオンゴ
ウ)、蘇白音後沟(スウバイオンホウゴウ)、雀爾沟地(テオルゴウチ)
(図 4-35、4-36)にある。
壁画は「鄂尔多斯(オウルトス)壁画」または「烏海(ウハイ)壁画」と呼ばれる。壁画の製法は彫
刻と輪郭法がある。道
具は銅器と鉄器で彫られている。前の
(図 4-36)
ものは神霊の上半身像
で太陽の紋様、重圏紋様など多人類図
面だ。後者は動物形と
騎馬人などの紋様が多い。これらの壁
画の大多数は人類と
様々な図面になっている。其のなかに
太陽の光がはなす太陽神上半身像、細長い帽子をかぶった人類上半身像がある。研究によるとこれら
の壁画は三千年から四千年の間の絵で中国の夏、商、周の青銅時代に当たる。
卓子山(ツオツサン)旅行区を見ると中国の古生代中生代地層と沈積を研究する一番理想的な地域
だ。地質地理景観を見ると旱魃区のカルスト地質はその壮大さでもっともいい旅行観光地で民俗文化、
草原文化を体験する場所にもなる。
第三節 阿爾寨(
阿爾寨(アオルザイ)
アオルザイ)石窟景観区
一
(図 4-37)
沈積構造
区内阿爾寨(アオルザイ)石窟一帯は大量の沈積構造が保存され
ている。沈積岩野原生構造は分析沈積環境の重要証でもある。沈積
岩の原生構造の研究を通じて、違う場所の地質歴史時期の環境、気候を分析することができる。区内
23
多くの沈積構造はわれわれが研究、教学及び地理地学知識を普及するもてこい場所だ。
阿爾寨(アオルザイ)石窟付近は赤砂岩の中には沈積構造が保存されている。
1
包巻層理(図 4-37)は構造変動をされなくて上と下の界がは
(図 4-38)
っきりした沈積岩の中で連続の皺ができる構造だ。その特徴と
しては単層内の連続的に限られている。また小型「複式向斜と
背斜」の複雑な形になって岩石の底面に向かって上々なくなる。包巻層理は多く細砂岩または粉砂岩
の中にある。
其の形成は沈積物の液化で形成する。または重力滑動力と流水牽引作業で形成される。包巻層理は濁
積岩計の中でよく見える。しかし、干潟、河流、三角州の前にも見える。
2
斜層理(図 4-38)層理と主層面斜めに交わって層系は一組同じ方向の傾斜の直線型または曲線の
細層でなっている。層系の間は平行と斜めに交わっている。
斜層理は媒質定向運動の時作られる。媒質が一定的の流速があったとき底の砂坂を影響し前に沿って
移動する。砂坂の形は対称的ではない。逆流方向は緩い坂で流れる方向は急な坂である。
斜層理の形態と水流の速度は関係がある。水流の速度があまりないときは砂坂の中心の線が平行の
直線の時横の断面は水平になる。縦の断面は単斜の水平斜に交わる層理になる。水流が早い時砂坂の
中線は波状になる。横の断面は波状になって、縦の断面は単斜の細かい波状の斜めで交わる層理にな
っている。水流がもっと強くなる場合並みの中心は新月状になって横の断面は槽状または船のような
斜めで交わる層理になっている。
層系中の細層の傾斜方向が違うのを根拠として斜理層を斜交層理と交差層理に分ける。
3
結核体(図 4-39)一種成分、構造、色などが周囲の岩石と著しい区別が鉱物だ。結核体は富水ゲ
ル質の物質が脱水、収縮し網状の裂け目ができて鉱物が詰め込まれなったものだ。結核は周囲の岩石
(図 4-39)
の中に単独に現れこともあってリングのようにたくさん現れること
もある。あるいは層状に数十メートル伸びて表れることもある。(灰
岩中の結核帯など)一般的に結核体は周囲の岩と境が鮮明だがはっき
りしてないのもある。
(1)同生結核
同生結核は沈殿作業と一緒に形成される。ゲル状物質の周囲に質点が集まり、同心結核の結核にな
24
る。その成分は同じ時期の沈積物と違う。例えば今の海底の鉄マンガン結核がある。鉄マンガン結核
の特徴は層理を突き通るではなく結核を回りながら湾曲するのだ。
(2)成岩結核
成岩結核は沈積物質が岩になる時発生物質が新たに分配し形成さるのだ。その特徴としては結核が
偏平な状態になり部分が層理を突き通って部分が岩に覆ってしまって層理が湾曲の現象が起こる。こ
れは結核が圧縮され周囲の岩より体積が少ないため層理を回って湾曲した現象だ。
(3)後成結核
後成結核は沈積物質が固まったあと様々な自生または次生鉱物が集合し結核になる。だから結核は明
らかに層理を突き通り曲がった現象はない。
二
旅行区
阿爾寨(アオルザイ)石窟寺は鄂托克旗(ウトクチ)阿爾巴斯蘇木(アオルバススム)東北部の平
坦な丘地区の赤色の小さな砂丘に位置している。丘の周囲に石窟が多いため有名になった。別名百眼
窯(バイエンヨウ)
、阿爾寨蘭素(アオルザイランス)。山の周囲は絶壁であってその中には石窟、佛
塔がある。丘は東西 200 メートル、南北 70-90 メートルあって山頂は 1460 メートルで周りのやまの
差は 40 メートルだ。
阿爾寨(アオルザイ)石窟寺(図 4-40、4-41)は内モンゴル自治区区内で発見した規模最大の石
窟寺建築群だ。山頂は三つの建築物の跡がある。
(図 4-42)長方形石で積み上げたのだ。面積は平均
100 平方メートルで寺の遺跡が残っている。この寺は元代ここを守った賀希格騰部(ホシゴトン)首
領が建てた神寺だ。明思宗崇禎元年(1628 年)戦乱によって壊された。
25
(図 4-41)
(図 4-40)
この石窟 108 の洞窟があったが自然、人為的の破壊により今は 65 ヶ所しか残ってない。石窟の構
(図 4-42)
造は多くは長方形で大、中、小三種に分ける。その中一番大きいのは壊れて面積は 25 平方メートル
になっている。中型の石窟は面積が一般的は 20 平方メートルで高さは 2 メートルで多くは壁画があ
って拱の形ドアがついて四面の壁は垂直で中心の壁には仏壇がある。石窟の天井は蓮の飾りがあって
周囲に格子があって中には仏像と様々な文様書いてある。小型石窟の面積は 9 平方メートルで多くは
山の東西両側にある。石窟中の壁画は大量の仏教内容があるとともに生活の壁画も描いてある。(図
4-43、4-44、4-45、4-46)仏教の壁画には密教早期の絵が保存されている。その中には密教の宗家と
サジャ派、ニンマ派、ゴル派の体表作が描いてある。生活の壁画は大量の当時社会生活場面が描かれ
ている。その中に「チンギス汗と夫人及び四人の子どもの祭り図」と「各族僧侶礼佛図」が一番貴重
である。壁画の周囲はチベット語と古代モンゴル語でタイトルを書いている。ここは世界で古代モン
ゴル語が一番多く発見された場所だ。
浮き彫り塔は石窟の周囲の絶壁に掘られている。全部で 22 箇所ある。(図 4-47、4-48、4-49)主
に 2 種類に分けることができる。
(図 4-43)
(図 4-44)
(図 4-45)
(図 4-46)
26
(図 4-47)
ひとつは密軒式塔で真正面の絶壁に位置している。もうひとつは舎利式塔だ。大
きさは様々で高さが違って平坦な絶壁に位置している。壁画は多くは緑、黒、白、赤などの色で染め
られている。専門家、学者の研究によると阿爾寨(アオルザイ)石窟寺は内モンゴル自治区区内で規
模が最大で内容が一番豊富な石窟寺であってともに中国でも規模が大きい西夏からモンゴル、元時代
の石窟寺でもあることだ。寺の中は大量の貴重な壁画と古代モンゴル語が保存され、国内外研究者に
人気がある。ここは非常に珍しい芸術宝庫でもあって我々がモンゴル歴史、文化、生活習慣などを研
究する重要な資料にもなるのだ。だからこそ高い歴史、宗教文化と芸術価値があるのだ。
(図 4-48)
(図 4-49)
第四節 百眼井景観区
百眼井(バイエンジン)は鄂托克旗(ウトクチ)北部ゴンチロガ郷の旱魃な草原に位置している。
広い平原の中東北から西南に凹形石盤湾が伸ばしている。湾の中に入って周囲を眺めると井戸がすき
まなく掘られている。(図 4-50)
チンギスカンが西夏を討伐する時ここがモンゴル軍と西夏軍が対陣した戦地だった。戦が始まり戦
争がますます長期化、大規模化し、兵力、補給などの規模が大きくなってきた。モンゴル兵はここに
1 年間滞在し井戸を掘り、人間と馬の飲み水にしている。井戸の中はつるつるでどうやって掘ったか
が非常に不思議だ。
百眼井はチンギスカンが西夏を討伐し、戦をした証でもある。歴史を理解するのには見る価値があ
ると思う。
図 4-50
27
五節 西鄂爾多斯(
多斯(オウルトス)
オウルトス)
西鄂爾多斯(オウルトス)国家自然保護区 1997 年国務院の許可で建設された。主に絶滅に近い植
(図 4-51)
物と草原から砂漠に過渡型の植物帯及
び多様性生態系が主な保護対象の総合
性自然保護区だ。(図 4-51)
保護区は内モンゴル自治区の西部に位置し、鄂爾多斯旗(オウルトスチ)と烏海市(ウハイシ)に
わたっている。保護区東部は鄂爾多斯(オウルトス)高原の西部辺縁で西南は卓子山(ツオツサン)
山地である。黄河を地質公園の境とし、北部は烏蘭布(ウランブ)と砂漠の東北辺縁地帯は黄河と向
かえ合う。南北 150 キロメートル、東西 86 キロメートルで総面積は 55.58 万 ha だ。その中 53 万 ha
が鄂爾多斯旗(オウルトスチ)のなかにある。保護区は五つの核心区に分けて鄂爾多斯旗(オウルト
スチ)ないには四つがある。その中に基盤井半日花核心区と阿爾巴斯植物過渡型帯核心区がある。
(図 4-52)
(図 4-53)
保護区内には現在見つかった植物は 335 種でその中には国家重点保護植物は四合木、半日花、綿
刺、沙冬青、革包菊、蒙古扁桃、胡楊など七種類が
(図 4-53)
ある。内モンゴル自治区の貴重絶滅危機植物は四合
木、半日花、内モンゴル丁香、賀蘭山善黄芪、大花
雀児豆、長叶紅沙、阿ラ善コガネヤナギ、白龍昌菜、潅木清蘭、綿刺、沙冬青、革包菊、蒙古扁桃な
ど 13 種類がある。(図 4-52、4-53、4-54、4-55)
「中国生物多様性保護行動計画」に入った植物
(図 4-52)
は半日花、沙冬青、革包菊、四合木など五種類
がある。保護区内には特有種、古代残留植物及
び絶滅危機植物が 72 種類ある。その中四合木、半日花、綿刺、沙冬青などの植物は絶滅危機にさら
われている。
28
保護区はアジア荒漠の東部辺縁地区と草原区の西部の辺縁地帯に位置するため草原と荒漠の中間
渡帯である。自然地理観光が非常に複雑で生態環境が破壊やすいのである。この特徴があるため国
内外の学者と専門家がここに訪れて研究見学する。ここは種の起源、発展、変化を研究する最も良い
場所だ。また古生物、古代地理陸地の変遷、気候変化など様々の学科に良い素材を提供する場所だ。
さらに、生態旅行、科学普及教育、レジャー、休日を過ごすいいところでもある。
第六節 布龍湖(
布龍湖(ブロンフ)
ブロンフ)景観区
布龍湖(ブロンフ)旅行区は烏蘭鎮(ウランジン)南西 52 キロメートルのところに位置している。
毛烏素(ボリス)砂漠辺縁で始まった都思図河(トスト)は鄂爾多斯旗(オウルトスチ)の西南部を
流れ寧夏(ニンシャ)を通り黄河に入る。都思図河(トスト)の中流の烏蘭敖包(ウラオバオ)と哈
拉陶勒蓋の間にダムが作られ巨大な湖ができている。その湖の名前は布龍湖(ブロンフ)だ。
(図 4-56)
布龍湖(ブロンフ)の全長は 13 キロメートルでダムを境とし北部は 3 キロの谷で南部は 10 キロメ
ートルの大きい湖だ。北部の谷間は緩やかな伊金霍洛組砂岩、泥岩は層理がはっきりして大型板状、
(図 4-56)
槽状交差層などが多い。南部面積は 106,515 畝で水面が 6,500 畝だ。そのほかは草原である。湖の草
地は草原と一体化している。
湖は鳥島とラマ洞などの景観がある(図 4-57、58)
。春夏には棕頭 、サカツラガン、灰ガン、カワ
ウ、白頭鵞鳥、鴛鴦など 30 種類の鳥類が生息する。湖の中にはスッポン、鯉、白レン、フナ、大銀
魚などの魚類が生息している。地下には豊富な地熱鉱山水があり、湖から温泉を汲み上げている。水
温は 39 度で 1 日 750 トンの量を出している。地鉱部門の検定によって優質の鉱山水に認定されてい
る。最近布龍湖(ブロンフ)は鄂爾多斯旗(オウルトスチ)重点旅行開発区に確定し、水面と草原 1
万畝借りて高い囲の欄でまわした。そこに井戸を掘り、ドアをつけ埠頭を作った。さらにモンゴル式
テントや遊覧船など生活水、電気、ガス、道路などの生活サービス施設を完備させた。旅行区には段々
設備を備えて遊覧船で湖と山、谷、ラマ洞などの地質を見学することができる。さらに布龍湖(ブロ
ンフ)の魚尽くし宴会を満喫し温泉も楽しめる。またカサ、ホウト地区の民俗にも触れ合うこともで
29
きる。
(図 4-57)
(図 4-58)
第七節 包楽浩晓 (ボロホウショ)
ボロホウショ)草原温泉旅行村
包楽浩晓 (ボロホウショ)温泉は烏蘭鎮(ウラン)から約 30 キロメートル離れている。これは草
(図 4-59)
原温泉旅行、ダムなどの様々な旅行点を一体化した旅行地である。(図 4-59)
包楽浩晓(ボロホウショ)温泉は白垩統伊金霍洛組から漏出した深部断裂帯にある。温泉の水量が
大きくてその一つの源泉からは 150 トン/時間出ていて水温は 33.5 度だ。他三つの温泉は何十メート
(図 4-60)
ル離れているが見えて水の音も聞こえる。水質分析ではこの温泉の成分は アンモニウム珪素重碳酸
系で医療飲用両用中温鉱山水である。飲むと甘味で胃の健康にもよく疲れが取れる。ここにはすでに
鄂爾多斯旗(オウルトスチ)
「賽烏蘇」
(サイウス)というブランドのミネラルウォーターが生産され
ている。四つの温泉はダムに流れる一方、稚魚繁殖会社にも温水を送って様々な熱帯魚と南温帯魚の
稚魚を育てている。ここは内モンゴル唯一の温泉養魚所でもある。稚魚生産会社に入ると産卵池、孵
(図 4-61)
化池、動物ブランクトン管、暫養池がある。ここで魚は産卵、
孵化を得て稚魚になり 1.5 ミリメートルになったとき市場に
販売するのだ。この漁場には大きさが違う 30 あまりの飼育場があり様々な魚を養殖している。(図
30
4-61、4-62、4-63)
(図 4-62)
旅行区には大型温泉プールがあり、室内温泉場は建設中だ。 (図 4-63)
ダムには遊覧船、釣り、ボットなどがある。温泉周囲きれ
いな草原と空気は癒される空間になるのだ。
第八節 蘇里格寺(
蘇里格寺(スゴリミャオ)
スゴリミャオ)旅行区
(図 4-64)
烏蘭鎮(ウラン)から東南 80 キロメートルのところ、毛
烏素砂漠の深いところに古い寺がある。これが蘇里格寺(ス
ゴリミャオ)である。
(図 4-64)蘇里格(スリゴ)はモンゴル語で「半分生の肉」という意味だ。西
暦 1226 年チンギスカンの大軍が六回目西夏を討伐するとき阿爾巴斯(アロルバス)で野馬を狩りし
たとき馬から落とされ怪我したのだ。阿爾寨で療養したとき西夏軍を討伐する作戦を練ったのだ。二
年目チンギスカンは蘇里格(スリゴ)にきて四面が湖であることで軍旗を祭った。チンギスカンは
81 匹の羊を殺し、一週間をかけて煮るようにした。しかし、その中に巴また「半分生の肉」があっ
たのだ。チンギスカンはこれを天意だと思って西夏を討伐し、大きな勝利をあげた。この地を記念す
るためここでモンゴル式建物を建てて蘇里格(スリゴ)だと呼ぶようになって祭りは続くようになっ
た。明、清朝時代には密教が鄂爾多斯(オウルトス)地域で拡がってモンゴル祭りの中に仏教の内容
が多くなってきた。それで清朝光绪三十三年(1907 年)蘇里格(スリゴ)に仏教寺蘇里格(スリゴ)
寺を建設したのだ。もとはラマ式大経堂 25 軒、12 軒明王殿、仏塔、ラマ居住場所などの建物があっ
たが戦乱と長い間修理しなかったため破壊されてしまった。近年修繕を得て今は鄂爾多斯(オウルト
ス)最大の寺になっている。区内は面積 1000 畝、建物の面積は 43,200 平方メートルで前は 1000 平
方メートルの広場がある。広場中央には 4.5 メートルのチンギスカン騎馬銅像が立てられている。寺
の南大門は 81 の階段があり、チンギスカンが 81 匹の羊を祭って西夏を討伐勝利したのを意味する。
寺には四柱三楼牌坊、山門、正殿、仏塔、佛爺商、納銀商、モンゴルオボなどの建物がある。正殿と
31
仏塔の中は釈迦と弟子の銅像、ゾンコウバ弟子木彫金箔張り仏像、緑渡母と弟子木彫金箔張り仏像、
吉祥天母木彫金箔張り仏像、無量寿佛木彫金箔張り像などがある。
(図 4-65)また寺には 35000 平方
メートルの広場があり、様々な植物がある。
蘇里格寺(スゴリミャオ)周囲の風景は奇抜できれい
(図 4-65)
だ。砂漠をパックにし西南、西北、東北、東南に各ひと
つの湖があり、塩湖(モンゴル語ではブオルハンダブス
ゾウつまり神の塩を意味する。)
、塩碱湖、碱湖、淡水湖がある。淡水湖は海市唇楼の現象が起きて 2
キロ時点から砂漠、家、樹木が見える。また蘇里格(スゴリ)の有名は鄂托克旗(ウトクチ)
、烏審
旗(ウソンチ)内に天然ガス田が蘇里格(スゴリ)と命名されたことだ。世界級天然ガス田の開発、
建設で蘇里格(スゴリ)はますます有名になってくるだろう。旅行地として烏蘭鎮(ウラン)から蘇
里格(スゴリ)に通る道路は建設され旅行、レストラン、ショッピングセンターなどの施設が建設中
だ。
第九節 鄂爾多斯(
鄂爾多斯(オウルトス)
オウルトス)モンゴルの
モンゴルの民俗
勤労勇敢なモンゴル族は長い歴史の中で独特の生活習慣、民族習慣などを生み出しだ。
一
飲食
鄂托克旗(ウトクチ)モンゴル族は主食に茶食、ミルク食、肉食と野菜などがある。
1
茶食 ミルク茶はモンゴル族の一番良く飲む飲料だ。
「一日食べずにもいれるが一日ミルク茶なし
ではいられない」という話がある。お茶は一般的に青 茶を使用する。ミルク茶は甘くてとてもおい
しい。主食は炒米でまたバター、ミルク豆腐、ミルク菓子、紅砂糖、手扒肉と様々小麦料理がある。
2
ミルク食
鄂托克旗(ウトクチ)ミルク食の種類は非常に多い。主に食品と飲料二種類にわける。食品は白酥油、
黄酥油、ミルク豆腐、ミルク菓子、ミルクゆばなどがある。飲料は馬乳酒、ミルク、沃ミルク、ヨー
グルトがある。一番貴重なのは馬乳酒である。アルコル度が低くとても飲みやすいからお客に出すの
だ。鄂托克(ウトク)では普段大量に搾らないが夏の馬乳祭りのときだけ馬乳を搾るのだ。発酵後「チ
ゴウ」
(つまり馬乳酒である。
)と呼んでお客と楽しく飲むことだ。馬乳酒は豊富な栄養を含まれてい
32
て夏には暑さを忍ぶにはとてもよいのだ。また、ある病気にも効く話がある。
3
肉食
モンゴル族の飲食は肉を離れることがない。伝統的な食べ方は肉煮、手扒肉、羊丸焼き、肉団子など
がある。これらの料理は濃厚な民族特色があってある料理は昔宮内料理になっていた。今は草原のど
こでも羊丸焼きなどの料理を見ることができる。お客が訪れた時鄂托克旗(ウトクチ)のモンゴル人
は特有の料理と厚い人情で出迎える。
二
1
冠婚葬祭の儀礼
日常礼儀作法
鄂托克旗(ウトクチ)のモンゴル族は非常に礼儀作法を重視する。モンゴルの諺では「骨を折って
も礼儀は守る」という話がある。モンゴル族の通常の礼儀作法では会うたびに挨拶すること、客が来
ると必ず主人が出迎えることなどがある。部屋に入ると客は年齢身分に分けて上座から下座に座らせ
る。その後モンゴル族独特の礼儀が始まる。例えば鼻煙ポットをもらう、ハダ(モンゴル式の白いマ
フラ)をもらう、ミルク茶を飲むなどがある。
接客
モンゴル族の家に客として訪ねる場合、主人は客が知り合いか、遠いか近いか、とこから来たかを関
係なく熱く迎えるのだ。例えば知らない人がきてもミルク茶、ミルク食品を出して接客するのだ。モ
ンゴル族の考えるのは「誰が釜を負って家を出るのか、客に飲み物食べ物を出すのはあたり前のこと
だ。」という。
2
お正月
鄂托克旗(ウトクチ)モンゴル族は旧暦お正月を「チャガンサル」という。
「チャガン」は白い意味
で「サル」は月の意味だ。モンゴル族は白を万物の母とする。主に純白、良い兆しなどに使われる。
お正月の初めは「白い服」を着て白いものを送るのが伝統である。白い服は「吉服」とよんで白色は
福をもたらすと信じている。この風俗は草原で長い間伝わってきた。この盛大の祝日を過ごすためお
正月の前皆は新しい服を着て様々なミルク食品を用意し、馬乳酒も準備する。また馬何匹を準備し年
越しのとき乗るのだ。1 月 24 日はかまどを祭る儀式をする。大晦日になると家には「禄馬旗」を新
しくし、361 枚を灯芯で一つの松明に練って「天灯」と呼ぶ。新しい年になるとき家族は「禄馬旗」
で天を祭ったあと、家族は家に帰り目下が年長のかたにぬかずいで鼻煙ポットを渡す。年長の方は目
33
下に祝福する。太陽があがると新年挨拶をするために準備した馬に乗り親戚と親友の家に訪ね新年の
あいさつをする。
3
婚礼
モンゴル族の婚礼は非常に盛大で情熱だ。また昔からの遊牧民族の習慣がたくさん残されて独特の順
序がある。
(図 4-66、4-67)
婚礼は新郎の家で宴会をはじめ新婦を迎え、新婦が新郎の家に連れてきて、新郎新婦が新しい道を歩
むのを連続 2-3 日続く。
図 4-66
図 4-67
新郎が新婦の家に行くとき主賓、新郎の介添え、謡人と新郎が「禄馬旗」の祭り台で天を祭って弓を
用意し新婦の家に行くのだ。新郎の四人衆(或いは 6-8 人)が新婦の家に到着するとき新婦介添えた
ちは新郎を入らせないのだ。これが「閉門迎婿」である。新郎の謡人と新婦の介添えたたは合戦が始
まり、最後は新婦側が牛皮の「渾簡」
(完全に牛から剥がれた皮ポケット)をもらって新郎側を家に
入れるのだ。新郎側が新婦側と挨拶、着席しお茶を飲む。また持ち込みの「徳吉」という結納を陳列
する。両家が皆着席したら持ち込みの羊の丸焼きを新婦側のテイブルに載せて大礼をする。その後新
郎側は「献羊祝酒詞」という歌を歌って新郎はお客に酒を注ぐのだ。これで両家とお客が酒を交わし、
料理を食べながら歌って踊って条々に盛り上がる。朝になると新婦の髪を解いて新たに様々な修飾物
をつける。朝日が昇るとき新婦側は歌を歌いながら新婦を見送るのだ。頭にはシルクをかぶるが緑色
あるいは赤色がある。新婦は馬に乗り新郎の家に到着後馬に乗ったまま二つの火たまりを渡る。新婦
側が羊料理を献上したら新婦側と友人を家に案内する。新婦は部屋に入ってまず新郎の親、親戚、親
友に礼をする。その後義母が新婦にプレゼントを挙げる。新婦が様々な儀式を得たら新郎は新婦がか
ぶったシルクをあげて新婦の顔が見えてくるのだ。最後新郎新婦は全体の親戚客のお茶、酒を注ぎ婚
礼を終わるのだ。
4
服飾
モンゴル族は独特の民族服がある。彼らの服は実用で素朴な特徴がある。
モンゴル袍
モンゴル袍 モンゴル族は長い服を好む。モンゴル袍は長くて両側があげている。右胸にはポタンが
あって、腰には締めるひもで締める。袖は長く襟は高い。これは冬に馬に乗るとき寒さを忍ぶためだ。
34
女性が着る服は体に合うようにしている。これは女性の美しいラインを現すためだといる。
フード、
フード、帽子 モンゴル族の女性はフードかぶっている。フードの色は様々で年齢好みに違って種類
が多い。お嬢さんたちはフードを頭にぐるり一回まわし右側に少し残すのがお洒落だという。結婚し
た女性はフードをまわしたあと右側に残さないのだ。これの由来は昔チンギスカンのとき、チンギス
カンがモンゴルを統一したあと皆にフードをかぶるように命じだ。これは頭に旗の一部があるという
意味で、常にモンゴル族の自信、自慢を誇るようにとした。「マカポロアジア紀行」にもこれの伝説
が記載されている。男性は一般的に帽子をかぶるがフードをかぶる人もいる。冬になると男性は鷹型
の皮帽子をかぶる。これは羊の皮でできて遠くみると鷹のように見える。昔これは皇后が猟のため作
った帽子だと伝わってきた。しかし、今は民間に伝われモンゴル族が好む帽子になっている。
帯 モンゴル族の男女はモンゴル袍をきるため腰を締める帯が必要になる。女性の帯は様々な規則が
ある。例えば未婚の女性は帯を結ぶが結婚した女性は帯の代わりに袖なしの上着を着る。男性みんな
帯びを締めるが締める時服を上にあげた後締めるのだ。これは乗馬にも便利で男性がお洒落に見える
ためだ。帯には鼻煙ポット、モンゴル刀、火打ち、ハンカチなどを挟むことができる。
袖なしの上着
なしの上着 袖なしの上着は成年の男性と既婚女性が着る服装だ。女性が結婚し袖なしの上着を着
るのは主婦になった証でもある。女性の袖なしの上着は二種類ある。主に派手なシルクを使って作る
がモンゴル特有な花などの刺繍を入れてとてもきれい。裾長い袖なしの上着は「ウジ」といわれ前後
4 箇所にあげられて既婚婦人が着るのだ。裾長い袖なしの上着は裕福に見えて裾短い袖なしの上着は
かわいらしく見えるのが特徴だ。男性の袖なしの上着は大きく修飾がないのが特徴だ。男性が着ると
お洒落にみえる。
モンゴル靴
モンゴル靴 モンゴル靴は布製と皮製がある。布靴はモンゴル語で「マハイ」といわれ非常に軽くて
水に濡れにくく一般的には夏にはく。牛皮靴はモンゴル語で「ゴトロウ」で皮靴は冬に履く。皮靴の
中には厚い靴下があり、寒い冬雪の中でも暖かいのが特徴だ。
女性の
女性のアッセサリ モンゴル族の女性のアッセサリは主に銀の工芸品が多い。既婚女性の夫人のアッ
セサリはさらにきれい。髪が顔の両側にたれてそこに棒のような修飾品がたくさん組み込まれている。
頭の上には頂圏、前流海、傍流穂、側飾片などで組み合わせている。修飾品は珊瑚、真珠、瑪瑙、銀
など宝石と貴金属で修飾される。婦人の修飾品は精密に作られ裕福にみえて価値が非常に高くて歩く
と風鈴のような音がする。
35
鼻煙ポット
鼻煙ポット 男女の分別がある。男性の鼻煙ポットの長さは 30-40 センチメートルで幅は 10 センチ
メートルがある。折式は帯に挟むことができる。外部に露出している部分は様々な紋様がある。女性
の鼻煙ポットにはタバコを入れる包みがあって一般的の大きさは 5-7 センチメートルだ。下には銀、
銅または玉で作られた修飾品胸にまでたれる。
モンゴル刀
モンゴル刀 モンゴル刀はモンゴル族が身につける実用品または修飾品でもある。刀鞘の刀柄は銅、
銀、木、牛角、骨などの材料で作られうえにはきれいな紋様が彫られてある。
煙荷包 タバコを入れる包みだ。包みには刺繍とカラフルな布で作られたのがある。長方形で、長さ
15 センチで幅は 5 センチぐらいだ。口は緩めたり締めたりすることができる。口を締める紐には修
飾品があって腰に挟む。
5
葬式
モンゴル族の葬式には主に野葬、土葬、火葬がある。清朝の時は一般的に野葬だった。人が死んだ
あと背負ってあるいは馬車に乗せ野良に座らせ野獣に食べさせた。三日間食べ終わると大吉とする。
民国の時土葬がはやり始まった。しかし、平民は棺を買うことができず死体を裸体で座らせ袋の入れ
て浅く埋めた。王族、貴族、宗教の偉い人は座棺が主流だった。モンゴル語では「ザマダゴ」だ。死
体を棺に座らせ墓地に運び埋葬したのだ。清朝または民国時代はチザサコという有力な藩主が死んだ
後火葬して骨を舎利塔に入れてウリジトサリソ(今のホウチンソ)のチザサコ家舎利寺ない安置され
た。活佛も圆寂後も火葬をした。また孕婦、未成年者が死亡すると必ず火葬した。
モンゴル族は家族が死ぬと親戚は泣くが声を出さない。また灵床を設置しない、孝服を着ない、紙
銭をもやさない、音楽を使わないという守りがある。昔はラマ経を呼んで霊魂を送ったという。葬式
後 49 日または 100 日に悲しみを覚え、活動は避ける。長老または戸主が亡くなると「禄馬旗」を外
し、哀弔を示す。子孫は葬式の時はタバコ、酒をやめ、娯楽、祝いなどを避ける。婦人はアッセサリ
を外し、黒い布で頭を包む。
新中国が成立後土葬、火葬で葬式をするのが主流だ。土葬の時棺を入れるのはまた少ない。ラマ経
を読むのは廃止されたが上で述べた様々な決まりはまた守っている。
三
1
主な祭り
ナダム
ナダムはモンゴル語で娯楽またはゲームと言う意味だ。これはモンゴル族の伝統的な祭りである。ナ
36
ダムは長い歴史がある。1225 年チンギスカンがチズモ藩に勝ちその勝利を祝うため盛大なナダム祭
りを開いた伝えがある。
(図 4-68)古代また近代のナダム祭りは必ず男子三つの競技が行われる。つ
まり、賽馬、弓、相撲だ。今のナダムは男子三項目が行われる以外ポロ、馬術、陸上、映画上映、新
劇などの新しいメニューが入っている。また展覧会を開き、優勝者に賞品を渡す。ナダムは夏の 7-8
月に行われる。そのときなると様々のところからモンゴル族が集まり試合、観戦し祭りが盛大に盛り
上がる。
モンゴル相撲はモンゴル族に普及しているスポーツだ。またモンゴル族が一番好きなスポーツでも
ある。モンゴル式の相撲は独特な決まりがある。試合のとき必ず銅の修飾品があって牛皮で作られた
「ソダゴ」という袖なし服を着る。頭には赤、黄色、緑三色のフードをかぶって、足はモンゴル皮靴
を履いて、腰には派手な皮ベルトをする。ズボンは広くて首には五つ色の帯で締める。出場するとき
両選手は腕を振るいながら出場して相撲取りを始まる。モンゴル式相撲はレベルを定めなくて循環式
試合をする。最後に優勝から第三名まで絞り商品と名誉を挙げる。
競馬はモンゴル族男子の三つの主要競技の一つだ。モンゴル族は幼い時から馬に乗り馬術に優れる。
また荒馬を慣らすにも一人前の象徴になる。モンゴル競馬は快馬と走馬に分けられる。馬の年齢に分
けて距離もさまざまだ。一般的は何十キロ走るのだ。競馬用の馬は多くは去勢馬でモンゴル族の子ど
もが乗る。試合の時審判がいて優勝、準優勝、第三名に決め、旗をわたす。試合の時ルールに違反し
た選手は除名処分をする。モンゴル族は一番いい詩で優秀な選手を賛美する。優勝選手が終点に到達
すると、馬乳酒をさしあげる。旗級ナダム大会で優勝した馬は一定的な名誉をもらって、シルクの帯
が馬に縛られる。
弓道はモンゴル族一番古い競技である。騎射と歩射二種類がある。騎射は古代から初め最初は狩り
と原始的な戦いに使った。その後だんだん戦の重要戦争道具になってきた。
「元史」にモンゴル人は
「騎馬、弓道に堪能し、弓馬で天下を取る。」と記載されている。
(元史・兵志・馬政)新中国が建国
後モンゴル族の弓道はだんだん民族運動に変化した。試合の時一匹の馬に矢三本が配られる。三回で
9 本の矢を飛ばし多的に刺された選手が優勝する。歩射はは的の中心に近いほど優勝の可能性が高い。
内モンゴル自治区は全国大会でも男女団体優勝、準優勝など獲得し、有名な選手を輩出してきた。
2
オボを祭る
オボはモンゴル語である。意味は丘である。オボはモンゴル民族最大な祭りの一つである。オボは
37
高い山または丘に設置されている。石で円錐形の塔を積み上げてその上に長い竿をさし、そこに家畜
の角と経文を縛る。その四面に木の枝がさされ、羊、馬乳酒、バッタなどが置いている。古代祭りの
時はサマン教の呪術者型太鼓を打って、経文を読む。近代はラマがさまざまな儀式をする。モンゴル
族はオボを左から右に三週回って祈る。モンゴル族の祖先の原始的な崇拝は高い山だった。それは天
に近く天国に近くまた天国は神が住んでいる場所だと思った。だからオボの形式で高山に崇拝する気
持ちを表すのだ。しかし、社会の進化、科学の発展、モンゴル族観念の進展などで今のオボはその内
容、形式も変えつつある。
四
タブー
(一)生活タブー
夫婦間お互い鼻煙ポット交換しない。それは離婚する時鼻煙ポット交換するのだ。
他人から借りた器を返す時からっぽで返すのは禁止だ。中に食べ物あるいは乳食品をのせる。
放牧の時たいまつを持つこと
お客として食事する時食卓を叩いてはいけない。主人の顔に叩くと同じなのだ。
肉料理を食べる時ナイフを渡す場合ナイフの先を他人に向けてはいけない。
お客としている場合、自分で盛り付けることをやってはいけない。主人が盛り付けるのを待つこと。
腰に手綱などを締めて他人の家に入ってはいけない。
婦人は一生の中连垂架の木を変えるのはいけない。再婚する場合连垂架を変えるのだ。
乳食品あるいは酒を飲む時立ったままのむのは禁止。必ず手に持って座って飲むことだ。
食事の時話が多いのは禁止だ。
食事の時ため息、あくびなど失礼なことをやってはいけない。
(二) 生産タブー
去勢した家畜は七日間家の中のものを借りたり、家畜を売ったりしてはいけない。
草原にいる家畜群れの中を通り抜けることは禁止だ。
羊の毛を刈る時羊に乗ってはいけない。
馬を売る時手綱を一緒に売ってはいけない。手綱は必ずはずす。
他人にうちの家畜が産んだ子畜を教えてはいけない。
羊小屋で羊を殺すのは禁止だ。
38
馬ポールの上を飛び越えるのは禁止だ。
猟人は銃を持って部屋に入るのはいけない。
子連れの獣を殺すのはいけない。
馬の頭、牛の角を叩いてはいけない。
(三)年越しのタブー
他人が妊婦の部屋に入ってはいけない。
幼児の服を外において夜を越してはいけない。
新婦が夫側の年上に自分の煙ポットとハダを渡す時自分で渡すのはいけない。他人の手を借りて渡
す。自分は大礼をすることだ。
大晦日は別人の家で過ごすのは禁止だ。
大晦日は家畜を殺すのは禁止だ。
元旦は他人の家で過ごすのは禁止だ。
12 月 23 日から元旦までの七日間、家で喧嘩、器を壊すのは禁止だ。
夜間爪を切るのは禁止だ。
棺はドアで運ぶのは禁止だ。必ず窓から運ぶ。モンゴル式テントの場合、ハナの下から運ぶ。
なくなった人の名前を呼ぶのは禁止だ。
死者に着せる着物に涙を滴るのは禁止だ。
(四)信仰タブー
家畜に乗ってオボを通り過ぎは禁止だ。必ず降りて通る。
日食、月食のとき娯楽は禁止だ。
雷雨の時乳を搾るのは禁止だ。
禄馬旗の竿と家の中を馬に乗って通ってはいけない。
火の中に水を入れてはいけない。
火の中につばをやってはいけない。
火の中に塩を入れてはいけない。
馬に乗ってチンギスカンの墓を通ってはいけない。
ラマの名前を直接よんではいけない。
39
ゾンコバの誕生日(旧暦 10 月 25 日)に家畜を殺してはいけない。
第十節 故事成語
一
チンギスカンが阿爾寨(アオルザイ)石窟及び阿爾巴斯地区の活動
紀元 1226 年チンギスカンは 7 年間連続西に討伐した。夫人も第六回の西討伐を同行した。チンギス
カンは北のモンゴル本部から南下し黄河を越え、西夏を討伐した。まだ、彼はロシアから来たソブダ
イを西北から西夏攻めるのを命じた。これで東、西両方から挟む有利な立場になってきた。「モンゴ
ル秘史」には「太祖は七年間討伐を・・・ ・・・第七年つまり酉年の秋(1225)トツ河黒林の旧営
にもとった。」
「チンギスカンは冬を越したあとまたタントウ(西夏)を討伐するため軍備を整え、犬
年(1226)タントウを討伐し、夫人も遂行した。
」と記載されている。この年の晩秋初冬の時チンギ
スカンは大軍を引率して鄂尔多斯(オウルトス)に入った。今の鄂爾多斯旗(オウルトスチ)のとこ
ろで西夏軍隊と黄河を向かって対峙したのだ。討伐中チンギスカンは阿爾巴斯で野良馬狩りしたとき
馬から落ちて怪我した。その後阿爾寨(アオルザイ)石窟で療養した。これについて「モンゴル秘史」
のなかには「アオルブホウ」が記載されている。これが今の阿爾巴斯山である。
「ソカンアルホウツ」
の意味は「多い窟が集まる」場所の意味だ。学者たいはこれは阿爾寨(アオルザイ)石窟だという。
チンギスカンは阿爾巴斯で怪我をしたあと阿爾寨(アオルザイ)で療養して夫人は看病したのだ。
「モ
ンゴル秘史」の中でも夫人がチンギスカンの看病について詳細な記録がある。『翌日、夫人は大王、
大臣に「皇上は前夜高熱が出てどうすればいいか」
』という記載がある。将軍たちはチンギスカンが
怪我で熱まで出ているからとりあえず退却したほうがよいではないか提案した。しかしチンギスカン
は頭を横に振ったのである。彼は「タントウの人たちは我らが帰ったのを見たら怖くて帰ったと思う
から使者を送ってここで療養すると伝えてくれ、彼らはどんな返事が来るかみよう。」モンゴルの使
者は西夏の都に行って西夏国の大臣たちにチンギスカンの質問を伝えた。
「以前あなたの国王はこう
話した。我西夏の庶民は陛下の右腕になってほしいと言った。しかし、フアズモウ人が戦を起こす時、
われわれは使者を出し西夏国の援助を求めたがあなたたちは約束を守ってなかった。それに讽刺まで
したのだ。それで西討伐が終わるとまたお前らを清算するといった。今日われらと清算するためきた
40
のだ。」といった。西夏国王ブオウルカン(夏献宗李徳旺)は「讽刺の話はしたことない。」と弁明し
た。西夏大臣アサガンブがすぐ出てきて「今モンゴル軍は戦になれてしようとする。しかし、われア
ツサイの营地は(アツサイは阿拉善で当時は賀蘭山をさす。)ホウツの本部がある。そこには馬など
の物資があってアツサイサンが内を襲ったら彼と戦うつもりだった。もし、金銀、シルク、金がほし
かったらオリホヤ(西夏中興府、今の銀川)
、エリゾトウ(涼州、今の甘肅武威西北)にいけばいい。」
といった。アサガンはうそをつくことはできなかった。西夏はもともと小さい国で 200 年間存続した
のは自分に一定的な兵力があること。もう一つは宋、遼、金の争いの隙間にうまく生き延びたのだ。
チンギスカンが西夏を討伐する時、情勢が変化した。しかし、西夏の大臣たちは態度が大きくモンゴ
ルと講和するチャンスをのかしたのだ。チンギスカンは使者の報告を聞いて激怒したのだ。そのとき
熱が出たのも換わらず兵を出したのだ。チンギスカンは「彼らがこのぐらい言ったら、俺も下がるこ
とができない。死んでもいった通りやるから長生きしなくてもいい。
」といった。チンギスカンが重
病ながら帰らなくて西夏を討伐しないとあきらめないという精神が兵士たちを多く激励し西夏の滅
びを早めた。だから、阿爾巴斯地区はチンギスカンが療養また西夏と戦かった場所でもある。阿爾寨
(アオルザイ)石窟は大軍を指揮した司令部でもある。チンギスカンはここで西夏を滅ぶ計画をねっ
た。
二
千里堀――チンギスカンが眠る「起辇谷」
戦国以来鄂爾多斯(オウルトス)地区はまたは黄河の阿爾巴斯山地区は中国西北諸民族と国が必ず
争うほどの古戦場だ。石口山から北のホンジンチ内まで阿爾巴斯は今も万里長城の遺跡が残っている。
一番早く記載されているのは「史記」
「漢書」で「ソンノウモウドンサンと東コウ国王がオウトウの
戦役が鄂爾多斯(オウルトス)地区で行った。」オウトウのモンゴル語の発音は鄂托克(ウトク)で
ある。当時の意味では高原だった。鄂托克(ウトク)地区は地盤が高く黄河が東から北に流れていた。
この地形の形をとり、「オウトウ」だと呼んだ。清朝張穆が書いた「モンゴル遊牧記」では鄂托克旗
(ウトクチ)「西北から阿爾布坦山(アジブタンサン)旧名省嵬山で二百二十里のサイテンノウエン部
に隣接している」と記載されている。彼はまた「寰宇通志」で「山は黄河に接し、省嵬城で命名され
ている。黄河東には省嵬要塞がありその下に城があった。西夏が建てたのだ。」と述べた。学者たち
は阿爾布坦山(アジブタンサン)は阿爾巴斯山という。
41
西暦 1226 年、チンギスカンが西夏を討伐する時まず要塞である阿爾巴斯山を占領した。伝説では
チンギスカンがホラトウロホウに来た時ここの美しい景色に魅了され馬鞭子を落としてしまった。待
从が拾うとしたらチンギスカンに止めされた。彼は馬に乗り陶酔してから、
「梅花幼い鹿が暮らすと
ころ、鳥が雛を育つ故郷、衰亡した国が甦る地、白髪爺が晩年を過ごす場だな。ここ素晴らしいとこ
ろだから、朕が死んだあとここに埋めてくれ」といったそうだ。西暦 1227 年、チンギスカンが西夏
を攻める時甘肃の軍営でなくなった。遺体は諸王たちがチンギスカンの遗言とおり千里を運んでここ
にやすませた。今阿爾巴斯山蘇木地区内の千里堀と周囲 10 キロ以内はボラトウロハイ、ゴンシリ、
ホウロトウ、アラタントウサン、チャンホウゴウなどの地名はチンギスカン葬儀、墓など関する資料
と一致する。
「元史」に「太祖二十二年西夏を討伐する時、閏五月六盤山に避暑して六月に西夏が降し、八月サ
リツウアンハツトウ行宮で驾崩し、辇谷に埋めた。
」という記載がある。明代叶史奇が書いた「草木
子」にモンゴル帝王を送る言葉では「元諸帝陵寝は起辇谷にあり、その国は墓を作らなくて、埋めた
後、何万の骑兵で踏まれて平坦な地にする。その後子駱駝を殺しその上に置いて何千の騎馬兵がそこ
を守る。一年を過ぎて新しい草が芽を出すと、テントを撤収し帰る。だから墓はとこにあるか知る人
はいないのだ。祀る時には親駱駝を殺し、悲鳴の場所が墓だと決めた。」と記載されている。張穆が
書いた「モンゴル遊牧記」が「モンゴル源流」を引用したチンギスカンは死亡後「金身を出すことが
できなくて大きい陵を作って保護した。そこには白い部屋 8 間がありアラタンサンインハダイサンヤ
ンンのタオトコ地方だ。
」と記載されている。その後の文書では「だから歴史でいう起辇谷は今のサ
イインノウエン右旗と」鄂爾多斯(オウルトス)右旗のあわせるところで間違いない。
「アオトコウ」
はまさに鄂托克(ウトク)であることだ。これは鄂爾多斯(オウルトス)右旗中旗の昔の言い方であ
り今の鄂托克旗(ウトクチ)である。
「モンゴル遊牧記」には「阿拉坦山(アラタンサン)はつまり右
翼中旗の西北の阿爾布坦山(アジブタンサン)である。」と記載されている。
上で述べた記載で判断すると起辇谷は鄂托克旗(ウトクチ)と阿拉善のあわせる付近に位置する。
鄂托克旗(ウトクチ)の北部黄河にはチオロ山(今は千里山という)がある。そこに谷があってそれ
がチゴロ堀である。チゴロはモンゴル語で意味は龍譚虎穴である。起辇谷はチゴロの発音であること
だ。後で千里と名前を変えたのだ。つまり起辇谷は千里堀である。今の千里堀の西北何キロのところ
に台地がありボトウゴンシリといって山をバックにして前は川が流れて昔からの風水がいい地だと
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いわれていた。ボトウゴンシリの意味は駱の子ども丘でチンギスカンが死んだあと子駱駝を殺したと
ころだといわれている。トウゴンシリの東北 10 キロのところにボラトウラホウというところがあっ
て、チンギスカンが馬鞭子を落としたところだという。ボラトウラホウの東側はホウラトウ山があり
ホウラトウはチンギスカンが眠る陵である。だから千里堀地区はチンギスカンが長く眠っている場所
だ。
三、奇妙な百眼井戸
百眼井戸は古代では「オロンノウハイインチロゴ」(意味は犬の井戸)だ。百眼井戸はオオンコウ
オオルドス高原で唯一で有名な古代井戸群だ。地平線が見えないほど広い台地で東北から西南に向か
って伸びる凹型盆地がある。盆地に入って四面を見るとびっしり井戸が並べられている。その井戸の
数を数えたら先人たちのわなにはまってしまう。井戸が不規則に並べられているためこの井戸を数え
たらほかの井戸を見忘れてしまうのだ。だから数えても数が分からないままで百眼井戸だと命名した。
百眼井戸は砂漠に位置して、井戸の壁面はつるつるで壁面は掘った痕跡がない。また、壁面は階段な
どの痕跡がなく非常に不思議だ。伝説ではチンギスカンが西夏を攻撃する時阿爾巴斯山に軍隊をおい
て猟をした。ある日チンギスカンが 108 匹の猟犬を連れて草原で羊、狸など狩猟した。ちょうど夏だ
ったので人も家畜も猟犬も喉がからからだった。草原には井戸も川もなく非常事態だったそうだ。そ
れでチンギスカンが巨匠ロウロダロマを命じて猟犬のため井戸を掘るとした。さすが巨匠であって一
瞬で 108 口の井戸ができたのだ。これでここの地名はロウロダロマなっていたのだ。
「巨匠井戸」は神話に過ぎないがチンギスカンが西夏を討伐する時ここに軍隊を置いたのは事実だ。
阿爾巴斯及び百眼井戸一帯はモンゴル軍と西夏軍が対峙した戦地でもある。戦が始まったあとも兵力、
物資を補充する場所だった。モンゴル軍はここで一年間滞在してたくさんの井戸を掘って馬の飲用水
にまわした。チンギスカンは自分の兵士たちを虎豹鷹犬にたとえたという。古代モンゴル族の詩では
チンギスカンのため戦地に向かう戦士を犬とたとえた。「皇主が外敵と戦う時勇士たちは飢えた犬の
ようだ。
」と記載されている。このたとえは中国の言葉では皇帝のために働く自分を犬、馬にたとえ
るのだ。皇帝に自分の意識を伝える時「犬馬のように働く」というのだ。たから犬の井戸を「戦士た
ちの井戸」だと理解してもよいと思われる。
四、山寺デイエン寺
デイエン寺は阿爾巴斯山蘇木烏仁都西山山麓の谷に位置している。デイエンはモンゴル語で意味は
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座禅だ。この寺は絶壁に面し、水の音がする。昔の伝えではデイエン寺の谷には夕方になるとどらと
太鼓の音と僧侶たちが経を読む声が聞こえるが僧侶は見えないと伝えてきた。ある日猟人が山で猟を
していた。突然北山からおじいさんが南に向かって降りてきて南山からはおばあさんが北に向けて降
りてきたのだ。二人は山谷の平地で会って並んで経を読み始めたそうだ。夜になって二人は来たとこ
ろに去ったそうだ。その光景は多くの人に見られたそうだ。二十世紀十二十年代、鄂托克旗(ウトク
チ)著名医学専門家、また五明神経に詳しい哲人ザラソンオスオルジダライが阿爾巴斯山に修業をす
る場所を探した時のことだ。ある日彼は馬を引いて山の中を歩いていた。天は雲もなく風もなかった
のに馬に置いた座布団が落ちてきた。彼は周りを見たら四面八方八つの山が釈迦の蓮華座席に似てい
たのだ。ここでカレは、これは釈迦の教えたと思って座布団を置いて経を読む準備をした。そのとき
ある婦人が牛乳を持ってきた。これはよい兆しと思い経を読み始めた。夜はになって絶壁が落ちて翌
日みたら自然でできた納若行空佛の母像ができたのだ。ザラソンオスオルジダライはここは釈迦が説
教したところだと思い寺を建設すると決めた。仏像のところにオボを重ね上げ納若行空佛をオボのと
なりの洞窟に入れた。そこでデイエン寺は有名になり始めた。デイエン寺はもともと自然の洞窟区だ
った。1921 年鄂托克旗(ウトクチ)僧侶ザラソンオスオルジダライがここで仏教殿堂を建てたあと
陰陽極楽寺だと命名した。この寺は中国四大勝楽金剛聖地の一つだ。デイエン寺は大経殿、壇城殿、
舎利殿などの建物と勝楽金剛洞、納若行空佛母洞、蓮花生洞、度母洞、不動佛洞、薬師洞、時輪金剛
洞など 13 の洞窟とオボ、赤塔、尊勝佛母塔などで形成されている。寺にはまた五つの鉱泉があり胃
病、眼病、皮膚病、婦人病などに効くそうだ。デイエン寺は西鄂爾多斯(オウルトス)国家自然保護
区のど真ん中に位置し、周囲に烏仁都西(ウロンドス)の美しい自然と貴重な植物があり、烏仁都西
(ウロンドス)の壁画、阿爾寨(アオルザイ)石窟文化遺産、秦万里長城の跡が残ってまさに自然と
人文の景色が交わる場所だ。ここは人文、名所、自然、生態、民俗などが一体化した旅行地だ。
五
チンギスカンオボ
チンギスカンのオボはシンソウスムと阿爾巴斯蘇木に隣接するバインオボに位置する。歴史のチン
ギスカンのオボは鄂托克旗(ウトクチ)政府が作成した「鄂托克放文史資料」の第一編に詳しく記載
されている。この本は曹徳巴先生が 1984 年旧政府の資料また各地の人を訪ねて編成した「鄂托克旗
十三オボ及び祭殿習俗」一文を載せてある。文書には「過去鄂托克旗は旗の名義で祭殿しているオボ
は十三場所ある。・・・第一オボ、第二オボ、チンギスカンオボ、王オボ、ほかは地名に命名されて
44
いる。
・・・チンギスカンのオボはバインオボで今は阿爾巴斯シンゾに連接のところに位置している。」
と記載されている。伝えによるとバインオボの周囲は広い草原でチンギスカンの二匹馬の草原だそう
だ。チンギスカン二匹の馬の名前は「オウヤリザゴラ」(意味は双駿馬)だ。今のカラコオル羊養殖
場の付近はザゴラという井戸一つがあり、養殖場の前には季節川があり、ザゴラ川という。これらは
チンギスカンの二匹の馬が水を飲むところで名前がつけられた。旗の政府である烏蘭鎮の街道を命名
するとき農業電力局から馬レス場の大通りをザゴラ街と命名した。伝えによるとバインオボの下のト
ウジハイジもチンギスカン 2 つの馬が来たところで水をのませるため、堀を作った。雨が多い年には
トウジハイジには水がたまりここの動物たちに水を供給するのだ。バインオボ祭りは盛大だ。毎年旧
暦 5 月十三日で行われ旧社会の時、旗の王族が参加または人を派遣して参加するようにした。祭りに
参加する大部分は鄂托克旗(ウトクチ)、オソン旗、ハンメン旗など旗のバイン(裕福な人たち)が
参加する。バインオボはチンギスカン二匹の馬の死体が安置されているオボだ。馬はモンゴル族遊牧
生活するのに欠かせない存在で民族生命力の象徴だ。チンギスカン二匹の馬が死んだあと神としてオ
ボを建てて代々祭るようになって名前はチンギスカンオボと命名した。バインたちはチンギスカン二
匹のかげで彼らの馬が健康に繁殖できて裕福になると信じている。たからチンギスカンオボはバイン
オボと呼ばれている。バインオボの周辺はよい草で家畜がのびのび育てられるのだ。今はバインオボ
周辺は鄂托克旗(ウトクチ)人民政府の草原自然保護区になっている。また、鄂爾多斯(オウルトス)
国家級貴重植物保護区の核心地にもなっている。バインオボにのぼると周囲は見渡り限り草原で馬の
群れが移動している。
六
蘇里格(ソリゴ)歴史話
鄂爾多斯(オウルトス)高原のソリゴ天然ガスの発見で世界に知らせるようになった。ソリゴはソ
ミトスムスリゴガザ内の丘だ。丘の下は寺があり、ソリゴ寺である。地理座標は北緯 38℃33″で東
経 108℃16″である。ソリゴはモンゴル語で意味は半熟な肉の意味だ。モンゴル語を翻訳する時、各
時代の地図はさまざまな表示になった。1937 年イコウソウ盟の政府が制作した六十万分の一の地図
では「イコウソウ盟全図」には神力格(シンリゴ寺)と命名されている。1968 年中国測絵総部出版
した五万分の一の地図では蘇里格(ソリゴ)だと表示されている。1982 年全国地名調査の時国務院
「1979」305 文件第十三規定にはモンゴル語、チベット語の発音が特定してないため統一を図り、当
時の蘇里格(ソリゴ)の「蘇」を「書」にし、「里」を「力」にするようによってされにモンゴル語
45
に近よる。だから 1991 年イコウソウ盟政府が公認された五十万分の一の地図には「書力格寺」
(スリ
ゴ)だ。ソリゴの地名は 700 年前歴史事件から来た。西暦 1226 年チンギスカンは大軍を引率して第
六回の西夏討伐を図った。チンギスカンは北モンゴル本部から南下し、黄河を渡って西夏を攻撃した。
同時彼はロシアから帰国したソブタイ部隊を西北方向から西夏を攻めようと命じた。
「モンゴル秘史」
には「太祖は七年間討伐を・・・ ・・・第七年つまり酉年の秋(1225)トツ河黒林の旧営にもとっ
た。」
「チンギスカンは冬を越したあとまたタントウ(西夏)を討伐するため軍備を整え、犬年(1226)
タントウを討伐し、夫人も遂行した。
」と記載されている。この冬チンギスカンは大軍を引率して鄂
托克旗(ウトクチ)の阿爾巴斯山に入って黄河を面して対峙した。その後チンギスカンは猟のとき馬
から落ちて怪我をした。二年目チンギスカンは蘇里格(スリゴ)にきて四面が湖であることで軍旗を
祭った。チンギスカンは 81 匹の羊を殺し、一週間をかけて煮るようにした。しかし、その中に巴ま
た「半分生の肉」があったのだ。チンギスカンはこれを天意だと思って西夏を討伐し、大きな勝利を
あげた。この地を記念するためここでモンゴル式建物を建てて蘇里格(スリゴ)だと呼ぶようになっ
て祭りは続くようになった。ソリゴ軍旗の祭りは西夏を滅ぼすために大きな役割をしたためここはモ
ンゴル歴史文化の孵化地でもある。ソリゴ周囲はまた多くのチンギスカン家族の遺跡が発見されてい
る。ソリゴ寺東 13 キロのところはチンギスカンの弟ゴダイゴン駐屯地の祭り場がある。スリゴ西南
40 キロのところはチンギスカンの弟ハサオルの軍旗(アラゴスロド)の祭り場がある。ソリゴ寺西
10 キロのところはチンギスカン 15 世孫バトモンコダエンカンの墓がある。龍の年軍旗の祭りは今も
ソリゴオボに訪ねて式典をする。明清朝の時チベット教が鄂爾多斯(オウルトス)地区で広がってモ
ンゴル族古い祭典に仏教の内容が含まれるようになった。清朝光緒三十三年にスリゴオボに仏教寺を
建てた。寺は 35 間の大経堂、12 間の明王殿、仏塔、ラマ住宅になっている。1952 年この寺に鄂托克
旗(ウトクチ)第十二区(今のソミトウスム)ドリゴロングイ郷人民政府を建てた。人民公社はオン
ゴン大隊と命名されたがその後文化革命のときウランゾ大隊に変えた。今はスリゴゴザで隊部は寺の
西に移された。
七、タライイジン宮帳
今のザハンゾオル鎮サイハンタラゴザハサト牧畜業組合内に元太祖チンギスカン継子であるタラ
イ宮帳遺跡が残っている。タライ(1186-1232)は元世祖フビレの父である。彼は文武両道に秀でて
軍隊を指揮するのに優れていた。チンギスカンは戦の時いつもタライを同伴させた。1211 年チンギ
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スカンが金を攻撃する時タライは父と今の河北省で金の 30 万大軍を破って中都(今の北京)を包囲
したのだ。1219 年チンギスカンが西に討伐する時彼は中堅軍を引率して 1220 年にフアズモウの重要
都市ブハラ市を占領した。また、まもなくフアズモウの新しい都サマオルハンを占領した。「中国歴
史大辞典」、
「遼夏金元史」人物部分記載によると「(タライ)尊称エコナエン(大官人)
。元太祖十六
年(1221 年)西討伐する時、軍隊を引率してフロウサンに入り、マルを破り、ニサブオル、エリを
投降させた。二十二年チンギスカン死後、ハンナン河、層緑連河のチンギスカン遺産及び部隊を継承
した。再来年フリタイなどを集めてチンギスカンの遺言とおり兄オコウタイ(太祖)を大汗になった。
太宗三年(1231 年)金を攻撃する時、軍隊を引率して宝鶏、漢中にはいり漢に沿って東にはいった。
翌年、鈞州(今の河南省南禹県)で金の大将ワンエンホウダを破り、その後ツプアユ三峰山に行った。
北に帰る途中病に倒れ、息を引き取った時は 40 歳余りだ。息子はモンゴ(憲宗)、フビレ(世祖)だ。」
1226 年チンギスカンは六回目の西夏侵略を始めた時、タライはチンギスカンと共に鄂爾多斯(オウ
ルトス)地区に入った。チンギスカンが阿爾巴斯で狩りをしたとき怪我し阿爾寨(アオルザイ)石窟
で療養したとき夫人も同伴していた。
「モンゴル秘史」の中でも夫人がチンギスカンの看病について
詳細な記録がある。
『翌日、夫人は大王、大臣に「皇上は前夜高熱が出てどうすればいいか」』という
記載がある。ここの大王は「エコウナエン」つまりタライである。「史集」にはチンギスカンの病が
重くなる期間、オコウタイとタライを呼んで、三つの重要な遺言を残した。一つは心を共にし、敵を
破ること、オコウタイをモンゴル大汗にすること、次は南宋を通って金を滅ぼすこと、後は葬儀をし
ないで秘密にすること、西夏大王、大臣、民衆たちが城を出て投降する時全員殺すことだ。タライは
この三つの遺言を全部果たした。タライはモンゴル国の発展と夏、金などの国を滅ぶすに大きい役割
をした。タライがなくなった後鄂爾多斯(オウルトス)にタライ遺物宮帳を建てた。帳ないには彼が
生前使った火打ち、帯環などの遺物が祭られていて何十世代のダオルフトが守り続けている。歴史は
タライイジン(聖主)宮帳とよばれる。清朝末頃タライイジン宮帳はバインゾ鎮桃力民村東鄂托克(ウ
トク)と杭旗、錦旗のあいたに位置している。付近には七眼井戸があり、モンゴル語では「ドロ」井
戸とよぶ。その原因でここの地名はタライイジンから「ドロイジン」と変えた。二十世紀二十年代桃
力民村には大量の軍隊が入り、兵士と馬の食料のためタライイジン宮帳付近の草原は開墾され始めた。
タライイジン宮帳を守るダオルフトは仕方なく西に移し、タライイジン宮帳をボオルハントウ、コウ
メンリ、ボラホナイなどのところ転々した後、1944 年今のチャハンゾオル鎮サイハンタラゴザハサ
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トウ牧畜業組合のところに移された。
「鄂托克旗志」によると「タライイジン宮帳はもともとは前後
繋がる 2 つのテントだ。後になって一つになった。タライイジン宮帳はタライ画像、金像、火打ち、
トウハイ(帯玉)などの遺物がある。また「白史」
、
「金冊」などの本がある。大祭りになると旗ザサ
コあるいは代表ザサコドタイジが旗政府が用意した供物を持って宮帳で祭典をする。旧暦月三日は宮
帳を守るダオルフト人一匹の羊を供物にする。」サイインジロゴラ、サリロダイが編著した「チンギ
スカン祭奠」の本では「タライイジンのダオルフトは二つ大きい祭典を行う義務がある。一つは上で
述べたようにザハンスロコ祭のゴリロ祭典を行うこと、もうひとつは軍旗祭りの時彼らが必ず参加し
なければならないことだ。十三年に一回の寅年威猛祭はタライイジンのダオルフトは旗に行って旗は
特有札がある役者を派遣する。タライイジンダオルハトも札を持って同行する。軍旗祭りの時タライ
イジンダオルハフも馬頭板を叩く。」
「ゴリロ祭典」は祖先を祭る儀式だ。モンゴル族の習俗では父親
がなくなると季子が父親の後を続くのだ。当然季子が祭典を仕切るのだ。チンギスカンがなくなった
後喪主になったのはタライなのだ。彼はモンゴル族がチンギスカンに八の白室を設置し、代々チンギ
スカンを祭る儀式を続けるようとした。だからタライ宮帳のダオルフトは「ゴリロ祭典」を仕切るの
だ。軍旗はチンギスカンの弟ハサオルの遺留した神器だ。軍旗の祭典はタライが叔父を記念するため
にやるようになった。だからタライ宮帳のダオルフトは必ず軍旗祭りに参加するのだ。
1956 年新しく建設されたチンギスカン陵墓ができた。内モンゴル自治区人民政府は鄂爾多斯(オ
ウルトス)に散乱しているチンギスカンの遺物を一箇所にまとめ統一の祭りをするようにした。タラ
イイジン神像、テント、遺物及び祭典の器物などを全部チンギスカン陵墓に移され、東配殿に安置さ
れている。
八、馬駒湖の伝説
今のスミトウスムダオオルヘツガザ内に高い山があってオオルホウツとよばれる。オオルホウツ山
頂に登ると目の前には鏡のような湖が現れる。これがウナガンブリドでつまり馬駒湖だ。湖の周囲に
は森林、草原で茂られていて森林の中にはさまざまな花が咲いている。その中には獣、鳥たちの楽園
であることは間違いない。馬駒湖には美しい伝説がある。伝えによるとモンゴル軍と西夏軍が戦う時
あるモンゴル勇士が一人で敵の陣営に入って西夏軍に包囲された。彼は必死に戦って包囲を出たが彼
が乗った銀色馬派多か所怪我を受けた。しかし、馬は最後の力を絞り、主人を背負ってここの湖に来
てから倒れてしまったのだ。勇士は馬を記念するため馬頭琴を作りたてがみで弦を作った。それで
48
時々賛馬歌を歌った。その後馬の残骸が金馬駒になったのだ。夜が深くなって名月があがる時、一匹
の金馬駒が湖から出てきて湖の草原で走って主人に向かってなくらしい。金馬駒のなく声は千里まで
響いて草原の馬たちも鳴き始める。これでこの湖の名前はウナガンブリドでつまり馬駒湖になった。
そのかげでここにはモンゴルで有名な馬の産地になった。
九、布龍湖(ブロンフ)の伝説
布龍湖(ブロンフ)は鄂托克旗ザブスムブロンガザ内にある。鄂托克と草原台地とモウス砂地の分
水嶺に位置する。布龍はモンゴル語で大きい曲げの意味だ。鄂爾多斯(オウルトス)で一番長い川ド
スツ川はドオルボンオンツオル南山麓を流れここにきて、東から西に河流は大きい曲げをする。標高
1500 メートルのツオルボンオントオルリャンを抜く。大きい山を真ん中から切断するように見えて
ここに布龍湖(ブロンフ)ができている。布龍湖(ブロンフ)の周囲には七つの温泉があって布龍湖
(ブロンフ)はいる。布龍湖(ブロンフ)となりのトスツ川の谷には仙人洞がある。伝えによると天
の七仙女がここの美しい景色が羨ましくて降りてきたらしい。ここで水浴し楽しく遊んで疲れた彼女
たちは一人一つの温泉に入った。あんまりも長く寛ぎで彼女たちは七つの石柱になったそうだ。
光陰は矢の如く。元朝の時代にきて仙人洞は仏教信者たちが修業の地になっていた。仙人洞中心の
柱にはその時期僧侶たちが残した「天賜大成殿」五つの文字と多くのチベット文、モンゴル文が残さ
れている。
第十一節 地質遺跡保護
鄂托克国家地質公園の地質構造活動は歴史が長く、出た地質構造は鮮明で岩層の表れがよく、褶皱、
断層の保存がよいことで地質教育の良い場所だ。公園には地質旅行資源が豊富で恐竜足跡化石、鳥類
化石、ほかの種類の化石が多い。白垩纪化石地層の断面はさまざまな沈殿の構造の証がある。公園は
高い科学研究、地質科学知識普及と旅行観光価値がある。これで地質公園の地質遺跡と生態環境の保
護は非常に重要な課題だ。地質遺跡は再生できない自然資源でもあり、それに対する保護は自然、人
為的破壊に対する保護だ。保護の方法はさまざまで既に着手はじめた。国と地方の法律、規定により
地質公園内の資質景観及び自然人文景観に総合的な保護をしている。特別地質遺跡及び原生態系統に
は絶対的な保護を実施する。科学管理の前提で保護と開発をうまく組み合わせ発展、社会、経済、環
境を総合的に考える。
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