HNKスペシャルより

NHK スペシャル
アフリカ(2)
タンザニア
2009 年 10 月、財団法人石油開発情報センター主催の国際セミナー「タンザニア」が開か
れていた。ンゲレジャ資源エネルギー大臣は、いかにタンザニアの石油と天然ガスが豊富
かを語り、日本からの投資を呼びかけた。
最後に急に話を変えた。今、ゴールドラッシュが起こっているという話である。ここ数
年で南アフリカ、ガーナに次ぐ、アフリカ第3位の金産出国になったという。60 年代に独
立以来、社会主義体制をとってきたのが 90 年代に入って、資本主義体制に切り替え、外
資を導入し始めた。現在9箇所でメジャーと呼ばれる企業が採掘を始めている。
カナダ資本のバリック社の鉱山を見せて貰う。先頭で働いているのがタンザニア人労働
者。これを 20 年で「掘りつくす」とカナダ人は言う。他にもビクトリア湖周辺で2つの鉱
区を掘っている。「有事の金」と呼ばれるが、今、金の価格は上昇し続けている。中国やイ
ンドの需要が増えたのが1因と言われている。
これらの金鉱山の側には必ず飛行場がある。採掘し、精錬したら週に1度ほどのペース
で、小型機で全部海外に運び出されている。政府に納めるロイヤリティは 3%。これでは
少ないという議論が沸き起こっている。新しい植民地主義とも言われている。
確かに雇用は増えている。ただタンザニアの一般市民には恩恵は全く行っていないとい
う批判がある。政府はロイヤリティを 4%に上げる法案を通した。だがまだ実施されてい
ない。タンザニアだけが上げると外国資本が、他の国へ逃げていくからである。ダルエス
サラームの港にはザンビア、マラウイ、コンゴから銅やレアメタルを積んだトラックが集
中してくる。その向うの砂浜には、裸で遊ぶ子供たちが居る。
タンザニアの経済成長は5年連続で 7%を超えている。ダルエスサラームの大きなショ
ッピングモールには多くの人が集まり、ここを見る限りでは先進国と全く変らない。違う
のはその一角にジュエリーショップがあること。インド系、中東系の店主が多い。金はタ
ンザニアの鉱業主が持ち込んでくるという。
タンザニア人もビクトリア湖周辺ではあるが、まだ道路も通っていないようなところで
掘っている。「野うさぎ」と自らを呼んでいる。そのボス的な存在のカデオさんに出会う。
いち早く(1991 年)ルワムサガ村にやってきて金を掘り始めた成功者である。鉱山は縦穴で
ある。見せて貰った日は金は出なかったが、銀が出た。金鉱が近い印だという。2001 年に
金鉱を掘り当てて大金持ちになった。その儲けで、施設を整え、安全や福利厚生に力を入
れてきた。社員食堂も作り、5人の労働者も賄いも、この鉱山に誇りを持っている。主婦
を雇用した。
ある時金に困った老婆が、金の無心にきた。カデオさんは恩着せがましいことは何も言
わず、現金を渡していた。採掘した金は確かに自分のもの、しかしそれで設儲けた金は村
のみんなのものという考えだ。その村の人たちがお金を出し合って作った小さな診療所も
あった。今はそこに井戸を掘ることが願いだという。看護師が1人居るが水は 10km 先の
川から業者に汲んできて貰い、お金を払っているという。その金をアシスタントに回せれ
ば、目の回るような忙しさからも開放されるという。
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ある日2トンほどの石を鉱夫がカデオさんのところに持ち込んできた。やっと金鉱脈に
当たったらしい。採れた金は 33g。精錬が始まると多くの労働力が必要になる。近隣の村
から若者を雇用する。
車で2時間ほどの近隣で一番大きな町ゲイタ市でカデオさんは金を売る。ブローカーも
タンザニア人である。金の純度を測ると、携帯のインターネットでニューヨークの市場を
チェックする。国際市場にリンクしている。カデオさんはお金を手にすると、早速水道局
に行って、井戸を掘る道具一式と、職人を手配した。
それから3ヵ月後、行って見たら、ポンプが据えつけられていた。井戸開き式をやるか
ら撮ってくれという。「金が水に変った」と村中が大喜びだった。
ただ野うさぎ対大資本の対立が起きている。大資本が科学的調査をした上で、採掘権を
取得している。昔からの「野うさぎ」は、そんな許認可が必要だということも知らない。ま
たロイヤリティについても知らないので、納めていない。わずかの立ち退き料で立ち退い
た人は、今では後悔している。一方資源エネルギー大臣は、小規模事業者にも一定の鉱区
は与え、資源埋蔵情報なども公開するという。そしてロイヤリティを払って貰うことが、
国の発展にもつながると判断したのだ。
「資源の呪い」という言葉がある。資源があるのに豊かになれないとか、遡源を巡って汚
職が起きる、その分け前をめぎって内乱・紛争が起こるという事態である。ナイジェリア
では貧しい人たちが武装して、石油メジャーを襲ったという事件まで起きた。資源が「宝」
となるか「呪い」となるかは、政策次第である。
ボツワナ
タンザニアの新鉱業法では、大資本による鉱山開発には政府も一部権益を確保すると謳
っている。ボツワナは政府が積極的に大資本の開発に関与することによって、大きな経済
成長を遂げた国である。ジャン=ポール=トルコウスキーさんが 2010 年4月ボツワナの
首都ハボロネの空港に降り立った。ロンドン、ニューヨーク、東京などに 200 余りの宝石
の小売店を持つ目利きからこんな言葉が出た。「ボツワナ産のダイヤモンドはとても品質が
いい。高級な宝石店で売られているダイヤは殆どボツワナ産」とのこと。そのトルコウスキ
ーさんが原石の購入に向かったのは、ボツワナ政府とデビアスが 50%ずつ出資した DCTB。
ここで 500 万ドル分のダイヤの原石を買った。ここにはナミビア産や南アフリカ産のダイ
ヤも集まってくる。
DCTB は公表資料で年間5億5千万ドルの販売を目標にている。120 人からのボツワナ
の女性の手で3C(カラット、カラー、クラリティー)で選別されている。
ボツワナは 1966 年にイギリスから独立した頃には、牧畜しかない、世界最貧国の1つ
だった。転機となったのは独立の翌年、オラバという場所で世界最大級のダイヤモンド鉱
脈が見つかったことだ。資源がしばしば紛争の種になる、他のアフリカ諸国とは違い、当
時の大統領セレツェ・カーマは、すぐにデビアス 85%、政府 15%出資の会社を作り、安定
的財源を手に入れた。その後粘り強い交渉により、50%まで政府の出資を増やした。
更に 82 年には別のダイヤモンド鉱山もオープンし、現在金額ベースでは世界一のダイ
ヤモンド産出国になっている。この 30 年間の平均経済成長率は 7%で、国民1人当り GDP
は 3,000 ドルを超え、中進国の仲間入りをした。「アフリカの奇跡」と呼ばれている。
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政府はダイヤモンドの収益を、社会インフラ、教育、医療に優先的に廻してきた。複数
政党による民主的な政権運営も、腐敗の要因を少なくしている。首都では近代的ビルが並
び、舗装は勿論、照明も整備されている。日本の中都市と変らない景色である。
ボツワナの紙幣には、100 プラ札にはダイヤモンドの選別をする女性の姿、200 プラと
いう一番高額な札には娘と息子を教育する無名の女性が描かれている。ボツワナが何を大
事にしているかが分る。ボツワナはこれまで教育には、予算の 30~40%を廻してきた(日
本は 2010 年で 4%強)。13 歳までは教育は無料、中学・高校も 95%は国家負担である。授
業では国語(ツワナ語)以外はすべて英語で行なわれる。識字率は 80%以上。海外留学を希
望する人も積極的に支援する(日本からボツワナ大学に留学した、玉木歩さんとは交流中)。
DTCB を誘致したのは未来に向けての構想があったからである。それまではダイヤ原石
は DTC に集められ加工されて、ロンドンから世界に売られていた。DTCB はボツワナで
原石を研磨し、製品に仕上げるノウハウを蓄積することにある。DTCB でダイヤ原石を購
入できる 16 社には、研磨工場をボツワナに設立することを義務づけた。16 の研磨工場に
3,000 人のボツワナ人が雇用されている。その中には将来は自分たちの工場を持つという
夢も生まれてきている。
デビアスは 19 世紀後半の西欧列強によるアフリカ植民地支配の代名詞ともいうべき、
セシル・ローズが設立した。南部アフリカのダイヤモンド鉱山を支配下に置き、ロスチャ
イルド財閥の融資をバックに、世界の 90%のダイヤを独占してきた。ボツワナに追い風が
吹いたのは、90 年代後半から。他に新しい鉱山が発見され、デビアスのシェアも落ち、従
って価格決定権も弱まっていた。鉱山採掘権の延長契約が 2010 年になっていたことをた
てに、ボツワナはデビアスと交渉し DTCB の設立にこぎつけたのだ。アフリカの国によっ
て流通させる仕組を作りたかったと、当時の交渉担当者は言う。
ジュワネング鉱山はあと 20 年で枯渇すると言われている。枯渇する前に研磨産業を育
てておきたいという思いから、デビアス以外の多くの企業に、ボツワナ進出を求めた。ベ
ルギーやインドは鉱山はないにも関わらず研磨産業は育っている。同じ状態を作っておき
たかったということで、研磨技術さえあれば、原石は他の国から集められる。
ボツワナには多くの自然公園もある。海外からの観光客にダイヤの販売ができるように、
宝飾デザイナーを養成する学校も立ち上げた。ダイヤモンド売買の中心地になること、ボ
ツワナの若者の中からダイヤモンド企業を興す人が出て来るのを待っている。
ジンバブエ
ビクトリアの滝、ここは世界遺産に指定されている、世界最大の滝の1つである。高さ
は 100 メートルを越え、幅は 1700 メートルにも及び、ナイアガラの滝に匹敵する。従っ
てアフリカ有数の観光スポットとなり各国の人を惹きつけてきた。
この名勝地が危機に瀕している。ジンバブエの経済が破綻したことにより、観光客が激
減しているのである。
1990 年代末には年間 30 万人を超える観光客で賑わっていたが、
2003
年には年間6万人に急降下した。ジンバブエにとって観光は、農業、鉱工業と並ぶ主要産
業として外貨を稼いできた。そのドル箱が崩壊したのである。
ジンバブエは日本とほぼ同じ面積の国土に 1,200 万人あまりが暮している。ビクトリア
の滝は、西北部のザンビアとの国境地帯にある。ジンバブエ観光局や旅行社によると、政
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治的混乱で経済が破綻し、海外の人(勿論、日本も含む)から敬遠されるようになったとい
う。滝の周りは象や河馬が生息する自然豊かな地で、高級なリゾートホテルが点在してい
る。2010 年に訪れた時には、復活祭の観光シーズンにも関わらず、10 組ほどの団体客が
居るだけだった。
観光局では、経済成長の著しい中国やインドに向けての精力的キャンペーンを張ってい
る。お蔭で中国のお金持ちの姿は目立つようになったが、かつてのお得意様である、ヨー
ロッパや日本の客は低迷したままだ。
IMF や CIA によると世界で最も大きな財政赤字を抱えているのがジンバブエである。
2009 年の国の債務残高は GDP の 282.6%に及んでいる。日本は世界第2位で 189.3%であ
るから他人事ではない。
ビクトリア滝の周辺には観光客向けの店が数件並ぶ小さな商店街がある。徐々に客が戻
ってきているとは言え、売買に使われている通貨は、全部外国のものばかりである。アメ
リカ・ドル、南アフリカ・ランドはあっても、ジンバブエ・ドルは見当たらない。食事の
メニューもすべて米ドル表示である。超インフレで価値が暴落し、紙くずになってしまっ
たという。事実上 2009 年1月でジンバブエ・ドルは消滅し、ジンバブエは自国の通貨を
持たない国になってしまった。
皆、その原因を積極的に語ろうとはしない。ただムガベ大統領の肖像画を指して、「この
人のせいか?」と聞くと頷く。この独裁者が経済破綻の大きな原因を作ったらしい。
ジンバブエが白人の植民地支配から独立したのは 1980 年。その時からムガベ大統領は
権力を握り続け、北朝鮮の金正日総書記と同じような強硬な政治を行なってきた。かつて
はアフリカでもっとも豊かな国の一つだったジンバブエは大統領の失政で転落した。身元
を明かさないという条件でしか、話は聞けない。
発端は 2000 年にムガベ大統領が打ち出した「農地改革」だった。それまではムガベ大統
領は黒人と白人が共存する融和政策を取ってきた。だが国民の 1%にも満たない白人が、
最も肥沃な土地の大半を所有し、それが変らないことに批判が高まっていた。そこでムガ
ベ大統領は、大農場を所有する白人から強制的に土地を取り上げ、それを黒人たちに分け
与えるという強引な政策を実行した。
旧宗主国であるイギリスやヨーロッパ諸国、アメリカはこれに強く反発し、ジンバブエ
に強い経済制裁を科した。その上白人が持っていた農業技術や経営ノウハウが失われて、
農業の生産力は急降下し、食糧が不足し餓死者が出るほど深刻になった。こうした混乱の
中で、財政赤字が大きく膨らみ始めた。そこでムガベ大統領がとった政策が更に事態を悪
化させた。財政赤字を理由にジンバブエ・ドル紙幣を大量に発行し続けたのである。
物価は急上昇し、人々は食糧や生活用品の買い占めに走った。モノが不足するので、更
に物価は上がった。ムガベ大統領は価格統制令を出して、強制的に価格を半分にさせよう
とした。その結果は企業は商品を売らなくなり、店から商品が消えた。モノがないのに紙
幣はどんどん発行されるということで、2007 年にはついに2億%を超える記録的インフレ
になった。闇市では札束を台車に乗せて買い物に行く人々が見られるようになった。
ファスト・フードのチェーン店「チキン・イン」にとっても大きな打撃だった。値段は1
時間ごとに高騰し、1日に3倍を超えることもあった。仕入れ値は1日で倍になり、メニ
ューの値段も1日に三回書き換えなければならないこともあった。給与も上がるので、食
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糧で支給したこともあった。社員は社員で給与が出るとすぐ銀行で換金し、食糧や生活用
品を買わなければならなかった。銀行預金なんて全くできなかった。
この超インフレに歯止めをかけるため、政府は 2009 年1月に前代未聞の緊急措置をと
った。規制していた外国通貨の取り引きを解禁したのである。ジンバブエ・ドルの発行は
停止した。それ以来、公務員の給与でさえ、米ドルで支払われている。ただ当然ジンバブ
エで米ドルを発行することはできない。だから米ドル札はぼろぼろで、真っ黒になってい
る。これが新しいジンバブエ・ドルだとおどける人も居る。
ムガベ大統領の失政を批判する声も高まったが、ムガベ大統領は野党勢力を弾圧するな
どして、勢力を維持している。白人支配による「人種差別」と「格差」という負の遺産が「独裁
者」によってゆがめられた形で、今も国民を苦しめている。
それにしても大量に発行されたジンバブエ・ドル札はどこに行ったのか。店の人に聞い
たら、土産物用の大きな壺の中に、ぎっしり詰められていた。最高額面は 100 兆ドル札。
0 が 14 個ついている。これで当時何が買えたかと聞くと、パンが2~3個だけだったとい
う。億万長者なのに貧乏なのだ。土産物屋では、世界史に残るインフレの記念品として、
この札を売っていた。
ジンバブエではここ数年で多くの企業が倒産し、失業率は 90%を超えた。GDP もこの
10 年で半分近くに落ち込んだ。ジンバブエは世界でも一番劣悪なビジネス環境を持つ国と
言われている。しかし、この中で業績を伸ばしている企業がある。
ビクトリア湖から国境沿いに、ザンベジ川を東へ下って 300km 来たところに大きな人
造湖がある。川をせき止めて作られたカリバ湖である。長さ 220km、幅 40km。北側はザ
ンビアであり、まるで海のように広い。カリバ湖は 1963 年、英国の植民地下にあった時
代に完成し、
ジンバブエとザンビアの人々に欠かせない、
重要な水の供給源となっている。
この人里離れた湖のほとりに急速に業績を伸ばしている会社の1つがあった。
広大な敷地の中にいくつもの浅いプールがある。近づいてみるとそこに居たのはワニだ
った。この会社の名前はレイク・クロック(湖のワニ)。世界有数のワニ皮のメーカーであ
る。従業員 680 人で、養殖しているワニの数は 18 万匹にも及ぶ。ワニの皮を世界中に輸
出して、急成長している。
盆地にあるカリバ湖は高温多湿で、真夏の温度は 40 度を越す。ジンバブエでも最も暑
い地方だという。ワニは冷血動物なので、暑いところほど元気になるという。しかも水も
ふんだんに使える。このように環境の揃っている土地は世界にも仲々ない。だからどこよ
りも大きくて質のいいワニを大量に育てることができるという。
環境だけではなく、餌にも工夫が凝らされている。詳しくは教えてくれなかったが、特
に生後間もないワニに与えられる餌に工夫が凝らされている。その他この子供のワニにつ
いては、水温は 32 度に保つとか殺菌消毒もこまめにやるとか、細心の注意が払われてい
る。手間暇かけた結果がすべすべした皮のワニに成長するのだ。皮として使われるのは柔
らかい、腹の部分の白いところだけで、幅が広ければ広いほど高く売れる。ここのワニの
皮は幅が 42cm を超え、業界平均を大きく上回っている。客先はグッチ、プラダ、フェラ
ガモなど一流ブランドメーカーである。
更にワニ肉の販売にも力を入れている。脂肪分が少なくヘルシーなので、数年前までは
主としてヨーロッパが輸出先だった。今、一番伸びているのは、経済成長著しい中国だと
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いう。経済破綻したジンバブエにとっては重要な外貨の収入源になっている。
実はこのレイク・クロックは、ビクトリア滝の傍にあった、ファスト・フードのチェー
ン店「チキン・イン」と同じグループ会社で、従ってこの「インスコー」グループはジンバブ
エでは大手企業である。
「チキン・イン」も食材の一部や調理器具を海外から輸入している。
このワニで稼いだ外貨がなければ仕事は続けられなかったという。今、「インスコー」グル
ープは 2009 年で 240 億円を売上げ、GDP の 6%を超えている。
ここの経営者は「ジンバブエは経営には過酷な環境にはあるが、競争相手も少ない。ノウ
ハウと忍耐力があれば大きな利益が得られる。ハイリスク・ハイリターンの国です。」とい
う。ただ一般の市民は1日1ドル以下の生活を強いられている。
次に首都ハラレの近郊チトゥンギーザという首都のベッドタウンを目指した。そこで見
た光景は異様だった。玄関の前で多くの人たちがモノを売っている。売っているのは庭で
採れた野菜などの他は、使い古した家財道具だ。仕事がないから家の前でモノを売って生
計を立てていくしかないというのだ。中には路上で家具を作っている人も居る。元大企業
のセールスマンだったり、コンピュータ技術者だったりである。でも非常に明るい。あの
超インフレの時と比べると、米ドルが使えるようになって、経済が安定して来て、貧しい
ながらも希望は持てるようになったという。
住民の多くは流暢な英語を話す。きつい仕事も厭わない。10 年前まではアフリカ随一の
教育システムを誇り、優秀な人材を輩出してきた。今は宝の持ち腐れ状態だが、新しい動
きが出てきている。2009 年からは米ドルだけでなく南アフリカのランドも使えるようにな
ったので、南アフリカに行って働く人の数が急増したのである。南アフリカの1人当り年
間 GDP は 5,824 ドル(2009 年)で、ジンバブエの 15 倍を超えている。隣り合った国でこれ
程の大きな経済格差があり、しかも国境を自由に行き来できるところは、世界中でも滅多
にない。人口の 1/4 が南アフリカに移住して、ジンバブエに仕送りしているという。これ
がジンバブエでの大きな収入源になっている。
1組の夫婦の話を聞いた。夫は大学で電気工学を学んだエリート、妻はウエイトレスを
していたが、ともに仕事を失った。そこで子供2人を妻の両親に預けて、南アフリカに行
くことを決意した夫婦だった。両親の家族は1日1食の生活で、娘夫婦からの仕送りを待
っているが、まだ発ったばかりなので、当然仕送りはない。
次に首都ハラレに向う。ここは 300 万人が住む、最大の町だが、チトゥンギーザとは全
く風景が違った。高層ビルが立ち並ぶビジネス街があり、高級住宅地もあった。中心には
巨大な大統領宮殿がある。軍が守っているが決してカメラを向けてはいけないという。向
けた途端に銃で撃たれる可能性があるからだ。ムガベ大統領の自宅のあるボロデール・ブ
ルックと呼ばれる地域に入るには検問所を通らなければならない。関係者以外立入り禁止
の区域だが、
観光局の交渉で入れることになった。
まるでビバリーヒルズのような光景で、
住民が自由に使える 18 ホールのゴルフコースや、私立学校もある。失業者が溢れるこの
国で、一部の人に巨万の富が集中しているのだ。
4月 18 日(多分 2010 年)、
ジンバブエが白人の植民地支配から独立して 30 周年を祝う、
セレモニーがあり、ムガベ大統領も顔を見せた。演説では「経済制裁を続ける白人のせいで
今の状態になっている。ジンバブエの土地と財産は、イギリスやヨーロッパ諸国のもので
はない。」と演説し、自己の責任については一言も触れなかった(当たり前だと思う)。
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「巨万の富」と書いたが、この経済危機だからこそビジネスを拡げるチャンスだと考え、
活動している人もいる。投資会社を経営する人で、暴落した不動産を次々に買い占め、ホ
テル、ショッピング・モール、住宅街などを開発して巨万の富を築いた。その経営者、チ
ャングアさんを訪ねた。「どのようにして?」と聞くと、車で案内してくれた。
最初に行ったのはハラレ郊外の広大な空地。面積は6平方キロメートル。ここに1戸 150
ドルという激安の住宅を 6,000 戸建てるという。すでに建設前から売り出しており、注文
が殺到しているという。次に向ったのは高級住宅街の中の、ジンバブエ最大級の高級ホテ
ルを建設中の現場。ショッピング・モールに隣接することになる。狙いは海外からの観光
客やビジネスマン。経済が回復したら大きなビジネスになると考えての投資だ。
チャングアさんは超インフレで地価が暴落した時に、倒産した会社から破格の値段で大
量に買った。今では地価は上がって当時の数百万倍にもなっている。経済危機の時にこそ
大金持ちが生まれるという信念がある。「絶対成功するはずだ。」という「はず」が(福山には)
気になった。まだ成功はしていないのだ。チャングアさんは実はムガベ大統領の親族であ
る。国会議員もやったことのある有名人だ。コネが大切なんだろう。
自宅は大統領宮殿並みで、ハラレのホワイトハウスと呼ばれている。形もホワイトハウ
スそっくりで、それぞれの部屋の大きさと豪華さに圧倒される。寝室 19、リビング 25 に
イタリア製の高級家具や装飾品が備わっている。でも住んでいるのは家族4人と使用人だ
けだ。靴はイメルダ夫人を凌ぐほど持っており、車も高級車ばかりだ。何故これだけの投
資をする資産があったのかを聞くと、「神様がついている」としか答えてくれなかった。
一方でその他大勢の人たちは、国を出ることがやむを得ない選択肢のひとつになってい
る。ハラレ郊外のバスターミナルにその人たちは集まる。ボロボロのバスで、ハラレから
南アフリカの国境までは 12 時間余り。運賃は 800 円。
6時間で世界遺産のグレート・ジンバブエに到着。ここに王国があった頃(9世紀~15
世紀)は南部アフリカで最も豊かな国のひとつだった。基盤は農業と金の交易。それが今は
最も貧しい国のひとつになっている。その伝統的農業にも今は暗い影が覆い始めている。
60 代~70 代の人しか居ない。理由は主にトウモロコシを作っていたが、経済の混乱で、
肥料や種が手に入らなくなった上に、ここ数年旱魃が続いたらしい。そこで若者は家族を
助けるために南アフリカに行ってしまった。70 歳のチノムエさんの8人の子供は、全員南
アフリカに行った。チノムエさんは大勢の孫の面倒をみながら、夫婦で畑を守っている。
ムガベ大統領には経済の知識が無さ過ぎる。そのトップの判断ミスがどれだけ大きな影
響を社会に及ぼすかということを、取材陣は教訓として受け取った。格差社会が拡大する
中で、ようやくムガベ大統領も野党と連立政権を組み、歩み寄りを始めている。これが民
主的な政治への第1歩なのか。
南アフリカ
ジンバブエ移民たちの乗るバスは国境に接する、ベイトブリッジに到着した。ここで不
思議なことが起った。南アフリカへ行くはずの移民たちが、バスを降り始めたのだ。「パス
ポートを買う金がないから、
国境のフェンスを飛び越えて、南アフリカに入る」のだという。
取材陣は検問所を通って南アフリカに入り、南アフリカ側から国境のフェンスを見た。
200km に亘って続いている鉄条網の至る所に穴が開けられている。以前は強力な電流を流
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していたらしいが、
今は電気も止められている。
自由に出入りができるので「国境なき国境」
になっている。何故取り締まらないかを探るために、南アフリカ側の国境の町、ムッシー
ナに向う。ここは大きな商店が立ち並び、ジンバブエの人が「天国への入り口」と読んでい
る。
早朝5時、まだ暗い中にある施設の前に多くの移民たちが集まっていた。南アフリカ政
府が 2009 年に設立した「ムッシーナ難民受入センター」だ。毎日数千人のジンバブエ人が、
国境のフェンスを乗り越えて来る。20 代から 30 代の働き盛りの者ばかりだ。南アフリカ
政府はそれまでこれらの人たちを厳しく取り締まり、強制送還してきた。だがワールドカ
ップ・サッカーを目前にした 2009 年から、積極的に受入れ、働くことも認める異例の方
針を打ち出した。そのため「労働許可証」を貰うために大勢のジンバブエ人たちが殺到する
ようになったのだ。
ここで「難民申請許可証」を貰う。手続きは至ってシンプルである。正式に「難民」と認め
られるには半年から数年掛かる。だがこの許可証で働くことができる。いい仕事が見つか
れば、雇い主に「就労ビザ」を申請して貰って、永住することも可能である。難民と言うよ
り移民である。
2009 年の南アフリカの政策転換にはしたたかな戦略がある。貧しい国の人々を労働力と
して呼び込み、経済成長の原動力にしようというものだ。国境のボーダレス化を進めるこ
の政策は、世界からも注目を浴びた。副内務相は「移民を止めることはできない。それなら
移民をうまく管理することで、大きな利益を上げよう」と考えたという。
移民の数は 300 万人を超えるといわれている。この急増する移民に対する反発も日増し
に高まり、地元住民の暴動が頻発し、殺害される移民も少なくない。多民族の融和を掲げ
る「虹の国」南アフリカで、移民が差別される状態が深刻化してきている。南アフリカは何
故、国家の根幹を揺るがし兼ねないこのような政策を採ったのだろうか。
南アフリカは急速な成長を遂げる新興国だ。GDP はこの 10 年で2倍になった。天然資
源も豊富で、金、プラチナ、クロムの生産は世界最大。鉱業だけでなく自動車の生産や金
融などの産業も盛んである。
2010 年4月、取材陣はヨハネスブルグに入った。人口 700 万人、世界的な大企業も多
く、ビジネス地区には高層ビルが林立し、高級ブランド品を売る、ショッピング・モール
も街のあちこちに見られる。
プール付きの豪邸で暮らし、
お洒落なレストランで食事をし、
高級車に乗るというライフスタイルが広がっている。
サッカー・ワールドカップを目前にして、それを盛り上げるイベントも毎日のように行
なわれている。南アフリカの人にとっては、経済大国の仲間入りをし、1994 年まで続いた
白人支配を乗り越えて「勝利」を手にした証でもある。日本での東京オリンピックの頃の雰
囲気に似ている。
1994 年のアパルトヘイト撤廃後、政府は黒人の経営する会社を積極的に支援したり、企
業が雇う社員の 40%以上は黒人とすることを義務付けたりして来た。その中から黒人の新
しい富裕層や中間所得層が生まれてきた。サラリーマンだけでなく、鉱山のオーナー、大
企業の社長、新興ビジネスの起業家などが出てきた。これらは「ブラック・ダイヤモンド」
と呼ばれた。
激変を物語るひとつが、ヨハネスブルグ郊外の旧黒人居住区のソウェトだ。130 万人の
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人が住む。以前は暴動や抗議の前線基地だったが、バラック小屋暮らしで、スーパーやレ
ストランというお店は殆どなかった。それが今は「ブラック・ダイヤモンド」の豪邸が並び、
高級レストラン、ショッピング・モールが次々と建てられている。ワールドカップの開会
式の「サッカー・シティー」スタジアムもここに造られた。
「ブラック・ダイヤモンド」の多くは、今はソウェトを離れ、以前は白人しか住めなかっ
た高級住宅地に引越すようになっている。建設会社を経営するンドローブさんもその1人
である。彼はマンデラ元大統領のもとで、初の政権与党になった「アフリカ民族会議」の党
員を長年勤め、選挙活動にも積極的に参加してきた。政府関係者との豊かな人脈を活かし
て、仕事を次々に手に入れることができた。学校建設、警察のパトカーの整備、工事現場
の警備など政府が発注する様々な事業を請負うことで、ンドローブさんの会社は大きくな
った(かなり前近代的な仕組なのに、こんなことで威張れるのか?)。
「能力とやる気さえあれば、政府が黒人にどんどん仕事をくれるようになった。マンデラ
大統領のお蔭だよ」という。ンドローブさんのような富を手に入れた「ブラック・ダイヤモ
ンド」は、ここ数年で急増し、今では 300 万人を超えると言われている。でも国全体から
見ると、まだ人口の1割にも満たない、エリートだけのものである。大半の黒人は今なお、
十分な教育さえ受けることができず、貧しい生活から抜け出せないでいる。失業率は 20%
を超え、「世界一危険な国」と言われるほど、犯罪が急増している。その南アフリカが新た
に 300 万人の貧しい移民たちを受け入れている。一体何が起っているのか。
国境の町ムッシーナでは「難民受入センター」で手続きを終えた移民たちを、すぐに確保
するために、大きなトラックが待っていた。荷台を柵で囲い、中に椅子はない。立ったま
まということになるが、この日も 50 人あまりがこのトラックに乗り込んだ。この移民た
ちが向ったのは、町から2時間ほどのところにある大規模農場だった。ZZ2 と呼ばれる南
アフリカ最大手の農場で、農場の広さは大阪市とほぼ同じ面積だ。
この農場では 5,000 人の移民を雇っている。国際競争力のある安い農産物を輸出するた
めに移民の力を利用しているのだ。移民たちは気温 35 度を超える炎天下で、9時間猛烈
に働く。それは賃金のシステムがそうなっているからで、少しでも多く稼ぎたい移民たち
は必死に働く。一方で地元の若者は最低賃金ぎりぎりのこの農場を避けて、都会に出て行
った。そこでこの農場経営者は、政府に移民の受入を増やすように働きかけてきた。その
願いが叶ったことになる。「お蔭で中国や中南米より安く、質のいい農産物を大量に生産で
きるようになりました。ジンバブエ人には本当に感謝しています」。
取材陣は P6 で書いた1組の夫婦、アモスさんとトレイシーさんを探すことにした。ム
ッシーナの商店街で夫のアモスさんに出会うことができた。29 歳だがろくに食事もできず、
ガリガリに痩せている。ヨハネスブルグに行く旅費を稼ぐために、商店街で荷物を運ぶ日
雇いの仕事をしていた。妻のトレイシーさんの姿はなかった。フェンスを乗り越えようと
したとき、案内人としてついて来た者が、仲間を呼び寄せ、2人を拉致したのだ。案内人
を装った強盗団だった。2人は用意していたお金と所持品をすべて奪われ、引き離されて
行方が分らなくなった。
ムッシーナで無一文だったアモスさんは2週間あまりで何とか旅費を稼ぎ、ヨハネスブ
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ルグへ向った。高速道路で6時間の道のりである。実はその前日、アモスさんには嬉しい
知らせがあったのだ。ヨハネスブルグで暮す妻の叔父さんから連絡が入り、トレイシーさ
んの消息を伝えて来たのだ。強盗団が接触してきて、交渉に成功し、トレイシーさんは解
放され叔父さんの家で静養しているという。叔父さんは6年前にヨハネスブルグにやって
きて、車の修理工場で働いている。
ヨハネスブルグの郊外が、最近様変わりをしてきている。移民の多くがヨハネスブルグ
を目指すので、スラム街ができ、膨張を続けているのだ。トタンで造られたバラックが数
万件も軒を連ねている。原っぱだったところに、地元の住民がバラックを建てて格安の家
賃で提供したところ、移民たちが殺到したという。ジンバブエからの移民だけではなく、
モザンビーク、マラウイ、ソマリアなどアフリカ中の人たちがここで暮している。家賃は
月 4,000 円ほどなので、低賃金の仕事でも家族に仕送りができるのだ。
アパルトヘイトの時代には、黒人の移動は、周辺諸国も含めて厳しく制限されていた。
マンデラ元大統領になって、周辺諸国と友好な関係を結び、移民の受入も段階的に緩和し
てきた。今や大量で安価な労働力である移民は、南アフリカにとって欠かせない存在にな
っている。町工場、レストラン、鉱山、ホテル等で従業員の多くはジンバブエ人移民であ
る。
その移民の消費によって内需も拡大し、
国の税収も増加するという結果になっている。
またアパルトヘイト時代には、白人政権は黒人の教育を放置し、優秀な人材を育てよう
とはしなかった。だから南アフリカの黒人ではいい腕を持った職人は仲々集まらない。一
方でジンバブエからの移民は腕もよく、仕送りのためによく働き、そして賃金を値切るこ
とも容易だ。だからヨハネスブルグの旧黒人居住区に行くと、失業者が溢れている。読み
書きや簡単な計算もできないためだ。アパルトヘイト撤廃後に生まれた世代でも、親が失
業していると教育を受けられず、貧困が貧困を生む悪循環を断ち切れないでいる。
ンドローブさんはワールドカップを機に、アパレル事業に乗り出すことにした。警備員
のジャケット2万着を先ず作る。この業界は価格競争が激しい。安く働いてくれるジンバ
ブエ移民の力が是非必要である。週給 7,000 円程度で、朝の9時から遅い時には夜の 10
時まで働いてくれる。だからこうした移民たちを雇う会社が急激に増えている。
アモスさんも例のバラック小屋で生活を始めた。電気工学を学んだアモスさんは、その
技術を活かせる仕事がしたかったが、強盗団に襲われたために、ジンバブエを出てから3
週間が経っていた。家族のことが心配になり、取り敢えずは手っ取り早く稼げる仕事をす
ることにした。それはショッピング・モールの駐車場で、洗車をする仕事だった。この会
社は雇った人を個人事業主として扱う。だから最低賃金制は適用されない。自分で営業を
して多く洗えば、最低賃金より遥かに多い給与が貰えるし、最低は1円も貰えない。元々
は貧しい南アフリカ人を雇うために事業を立ち上げたのだが、労働条件が厳しく、リスク
も高いため、南アフリカ人は殆ど集まらなかった。その穴を埋めたのがジンバブエからの
移民だった。アモスさんも必死で客に声を掛け、1日 2,000 円ほど貰えるようになった。
南アフリカでは少ない金額だが、ジンバブエの公務員の約3倍に当る。やっと痩せた顔に
笑顔が戻った。
大量の移民の流入は、問題も多く起している。ヨハネスブルグの中心部にある廃墟ビル
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を移民が不法に占拠して住み着いたのだ。中は細かく仕切られ不衛生な環境になっていた。
また再開発計画を遅らせ、麻薬の売買も行なわれていた。市はそれを強制退去させた。2
つのビルから、1,000 人を超える移民が出てきたという。
また近くの金鉱山がジンバブエ移民を雇って、地元従業員を首にした。地元住民は怒り
を爆発させ、抗議活動に出た。移民が経営する店を荒らし、怪我人も続出した。鎮圧のた
めに警察が出て催涙弾を打ち、地元民は石で応戦し、一触即発の緊迫した状態が1週間も
続いた。このような移民排斥運動は、国中の至るところで起っている。自分たちに仕事が
ないのに、何故移民を受け入れるんだと政府に抗議しているのだ。徐々に抗議活動に止ま
らず、強盗や殺人等の凶悪犯罪が増えてきている。
移民が暮す街を取材するのは危険に満ちていた。赤信号で停まった車を襲って、財布や
所持品を盗む「カージャック」が多発していたからである。南アフリカは移民問題を国際機
関とも会議を開いて検討したが、移民の受入を制限はしないと明言した。移民を肯定的に
捉え、経済の発展、社会の多様化をもたらすとともに、人種差別的な運動は抑えるという
覚悟だ。ただ現実にはアモスさんが望むような高度な技術を要し、高い収入が得られるよ
うな仕事は、ジンバブエ人には廻って来ない。ただアモスさんはジンバブエ人が起した、
携帯電話修理の事業を教えて貰うことになった。理想は自分の店を持つことである。
このようなひたむきな人が南アフリカの経済を支えている。それでも中間層(年収 60 万
円以上、360 万円未満)に入れるのは南アフリカ全人口の2割に過ぎない。7割を超える貧
困層を救わない限り、移民への反発はなくならない。ボーダレス化を目指す南アフリカの
理想は達成できるだろうか。
以上
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