はじめに 一 スキャンダラスな人々の発生 7 二 迫害が意味するもの 11 第 1 章 レーン・スパイ事件 17 一 自己をスキャンダラスと意識すること 18 二 レーン・スパイ事件について 21 三 事件の背景 29 四 レーン夫妻と北海道 34 第 2 章 分断の構造 一 非国民一というスキャンダル 64 二 分断の構造としてのスキャンダル 70 第 3 章 聖書書とスキャンダル 一 福音書におけるスキャンダル 78 二 スキャンダルとしての「恵み」84 三 スキャンダルとしての「創造」 87 四 スキャンダルとしての「神の無力さ」 91 五 山本周五郎「柳橋物語」の場合 95 第 4 章 戦争責任の問題 一 レーン事件の人びと 106 二 「漸次その感化を受け……」111 三 「だまされた者の責任」を伊丹万作に学ぶ 115 第 5 章 ケーリ事件‐ 一 スキャンダルを怖れて 128 二 宣教師ケーリ家と近代日本 130 三 「フランク・ケーリ排斥事件」 139 四 「然シ日本人基督教徒二御座候」 151 おわりに 163 あとがき 165 はじめに 一 スキャンダラスな人びとの発生 言うまでもないことですが、キリスト者をめぐる環境としての日本の社会は、西欧社会 のそれとは随分異なっています。この国では、キリスト者はマイノリティ(少数者)です。 そればかりではなく、その社会の文化も、西欧社会が当然のこととしているキリスト教的 な伝統とは、その質を異にしています。そうした状況のなかで聖書は、西欧のキリスト者 が読むのとはちがった音を響かせているはずです。 その一例として、パウロがコリントにいるキリスト者たちに送った第一の手紙のはじめ の部分を取りてげてみましょう(I コリントの信徒への手紙一・一八ー三一) 。非キリスト教 社会のなかで、きわめて少数のグループであった彼らに対して、バウロはここで、キリス トの福音が「神の力」であることを弁証しようとしていますが、その場合に彼はまず、福 音がコリント市民のあいだで、 「愚かなこと」と思われていることを指摘します。このよ うに、非キリスト教的な社会のマイノリティとして、人々のあざけりや迫害のなかに生き ているコリントの教会の人々やパウロにとって、自分たちの信じる福音が「愚かな」こと とあざけられ、笑われてきた事実が、まずいきなり神学的な論争として受け取られたとは 言い難いと思います。 むしろ、そのような高慢な言葉の剣によって、彼らが日常的に軽蔑され、差別され、抑 圧されているという、きわめて人間的な屈辱感が、まず事実としてあったのではないで しょうか。私たち日本のキリスト者が生活し、あるいは伝道するこの日本の現実の中で、 パウロの言葉から聞こえてくるのはそのような切実な行きなのです. そういう文脈の中でさらに、パウロが、 「このキリストはユダヤ人にはつずかせるも の、異邦人には愚かなもの」(二三節)と言っていることに注目させられます。パウロは、 キリストの福音が「愚かなこと」として無視されるだけでなく、もっと激しくユダヤの宗 教的な権威と衝突している事実を語っています。彼はここで、キリストがユダヤ人にとっ て「つまずき」であるといいます。もっと具体的には、呪わしい十字架刑に処せられたキ リストが、ユダヤ人たちにとって「つまずき」であるというのです。この「つまずき」 (stumbling-block)という言葉をパウロは、スカンダロンというギリシャ語を使って 表現しました。この skandalon というギリシャ語に、英語のスキャンダル(scandal) という言葉が由来します したがってパウロは、キリストの福音が、何か純枠に論争的な 意味で、ユダヤ人には分かりにくいものだ、と言っているのではなく、彼らにとってキリ ストの福音が感覚的にきわめて不愉快なもの、スキャングラスなものなのだ、と言うので す。 パウロは何故そう言うのでしょうか。彼をはじめキリスト者たちが、この福音のゆえに 「スキャンダラスな人びと」として忌み嫌われ、排除され、抑圧される具体的な体験が あったからではないてしょうか。パウロが先のテキストにおいて、くりかえし「愚か」と いう言葉に言及するのも、そのことと無関係ではないと思われます。その一つのケースを、 テサロニケの町における、彼らの経験に見ることかできるでしょう。 使徒言行録一七章によると、パウロがシラスとテモテとともにテサロニケの町にやって 来たのは、彼の第二次伝道旅行の途中であったと書かれています。彼らはすでにピリピの 町でも投獄される経験をしていました。しかしそれにひるむことなく、テサロニケの町で もユダヤ人の会堂にはいって伝道し、ギリシャ人を含む少なくない数の信者の群れがそこ に生まれました(そのなかにヤソンという名の家族があり、これらの新しいキリスト者た ちは、そのヤソンの家に集まって、教会を形成したようです。それがテサロニケ教会です。 ところが、彼らが教会を形成するとすぐに、ユダヤ人たちは「それをねたんで、広場にた むろしているならず者らを何人か抱きこんで暴動を起こし、町を混乱させた」と言われま す。彼らは、ヤソンの家にやって来て、パウロたちを捜索しましたが見つからないので、 そこにいたヤソンと、いあわせた教会員数人を引っぱっていって、市当局に訴えました。 ヤソンたちはすぐに釈放されましたが、パウロとシラス及びテモテは夜の闇にまぎれてベ レヤヘ脱出し、そこでも伝道しました。テサロニケのユダヤ人たちはそこまで押しかけて きて騒ぎを起こしかけたので、パウロは、シラスとテモテをそこに残してアテネに向かい ます。 使徒言行録の著者ルカには、後で言いますように独特な歴史観があって、彼がある出来 事、あるいは出来事の因果関係を解釈したり評価したりしている部分については、注意し て読まなければならないと思いますが、出来事のいきさつをいえば、大体こういうことで あったと思います。パウロ自身も、テサロニケの教会に降りかかっている迫害の嵐に言及 して、つぎのように書きしるしています。「兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリス ト・イエスに結ばれている神の諸教会にならう者となりました。彼らがユダヤ人たちから 苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです」(1 テサロニケ信 徒への手紙二•一四)。テサロニケの騒擾事件をユダヤ人たちによるものと見ているルカの 理解に対して、ここでパウロは、その事件や迫害が、テサロニケのキリスト者たちにとっ ての「同胞」すなわちローマ帝国支配の影響下にあったギリシャ人たちによって引き起 こされたと見ており、あとでふれようと思いますが、そこに少なからず相違があります。 二 迫害が意味するもの 初期のキリスト者たちが迫害されたということは、教会の歴史についての私たちの常識 になっています。その場合私たちは、こうした迫害の物語をつぎのような先入観をもって 聞くことが多いと思います。 「キリスト教がまだ世界的な広がりをもった文明になってい なかった時代だから、そういうことが起こったのは歴史のプロセスとしてやむを得なかっ たことだ。しかし今はもうそのような時代ではないし、またもし、いまだにそのような迫 害が起こっている国があるとしても、やがてはキリスト教文化の恩恵を受け入れるように なればその状況は変わるだろう」と。この考え方が、ほとんど従来のキリスト教伝道を支 えて来た考えであると言ってよいでしょう。しかし、はたしてそうした観察は、正しいの でしょうか。この問いを念頭において私たちは、このテサロニケ騒擾事件を、少し詳しく みておきたいと思います。 先に見たように、ルカは、使徒言行録一七章でこの事件を描くときに、ユダヤ人たちが パウロたちの伝道を「ねたんで」ことを起こした、と書いています(五節)。それにたい してパウロは、第一テサロニケ信徒への手紙二章一四節で、テサロニケのキリスト者たち がユダヤ人によってではなく、彼らの「同胞」によって迫害を受けていると語っているこ とは、さきに述べたとおりです。パウロ自身がテサロニケ騒擾事件の当事者でしたから、 この場合にはパウロの言っていることのほうが、歴史的に信頼度が高いと思います。ルカ がユダヤ人の「ねたみ」を理由に、テサロニケ事件の責任を彼らに帰そうとするのには、 確かにルカ特有の歴史観が影響しているように思います。 ここでルカの歴史観を詳しく説明するいとまはありませんが、簡単に言うと、ルカ福音 書とその続編である使徒言行録を通じて、ルカはひとつの一貫した歴史観によって、歴史 を描きます。それは、救済史観とよばれているものです。つまり、ユダヤ人に代表される 旧約の時代がイエス•キリストによって終りをつげ、キリストを歴史の分かれ日として、 それ以後の時代には、救済の福音の担い手として教会が登場し、世界的な広がりをもった 神の宣教の担い手となるべく、自らを組織的にも整えていく、という歴史観です。そ うであるとすれば、こうした教会の進展に「ねたみ」をいだき、新しい福音の前進を妨げ るのが、古い時代の代表であるユダヤの保守的な勢力であるのは当然だ、ということにな ります。さらに、こうした福音の担い手である教会は、その世界的な広がりの性格のゆえ に、すでに存在する世界的な国家であるローマ帝国を敵にまわすことはできるだけ避けた いという気持が、ルカには働いていると考えられます。ですから、テサロニケ事件のよう に、明らかにローマ帝国の国家権力を代理している市当局の関与がある場合にも、ルカは その責任を市当局ではなく(つまリローマの国家権力にではなく)、ユダヤ人のキリスト教 に対する宗教的「ねたみ」感情に押し付けているように思われます。 しかし、このような事情にもかかわらず、パウロをはじめキリスト者たちは、いやでも 国家権力に直面させられることになります。彼らを市当局に訴えるのに「この連中はカイ ザルの勅令にそむいて、イエスという別の王がいる、といっています」という理由があげ られていたと、使徒言行録はしるしています(一七・七)。このように見られていたキリス ト者たちは、ローマの植民都市の前歴のあるテサロニケの町にとっては、きわめて危険な 存在でありました。このことを種にローマ帝国から追及されれば、せっかくテサロニケの 町がかつての屈辱的な植民都市の状態から脱却して獲得した自治権や、ローマ元老院議員 選挙の権利を、剥奪されかねないからです。テサロニケのキリスト者たちが受けた迫害 は、こうした政治的な状況を背景にしておこっていることに注意したいと思います。 このような状況は、コリントにおいても同様であったと思われます。パウロのコリント での活動は、使徒言行録一八章に書かれていますが、そこでも、テサロニケで起こったこ とと同じようないざこざがあったことがしるされています。パウロたちがスキャンダラス な存在として、人びとから排斥されていた実情は、こういうことであったのです。そして、 その理由は、決してたんなるユダヤ人の一「ねたみ」というようなことでなく、テサロニ ケ での訴状にあるように、キリスト者たちが「カイザルの勅令にそむいて行動し」 、つまり ローマ帝国体制の意には従わず、 「イエスという別な王がいる」という、つまり彼らが本 当に服従すべきまことの主はカイザルではなくて、イエス•キリストであると告白してい る、というところにあったのです。パウロが、さきにあげた第一コリント信徒への手紙一 章一八節以下に語っていることの背後にある状況は、まさにこのことにほかなりません。 そうであるとすれば、この信仰をうけついでいるキリスト者は、この世界のなかで、イ エス・キリストを遣わしたもうた神をほかにしてまことの主はない、とするゆえに、皇帝 や天皇が神をよそおう、絶対的な国家権力に対立せざるをえないのです。そして、そうし た国家権力の側は、そのことをよく知っているからこそ、みずからの絶対的な権力を行使 しようとするときに、このような信仰に立つキリスト者たちを邪魔な存在と考え、その信 仰を力で脅して骨抜きにしようとしたり、あるいはそれに従わない人たちを「スキャンダ ラスな人びと」として、社会から排除したりするのです。それが、迫害ということなので す。テサロニケでそれが起こりました。コリントでもそれが起こりました。初代教会の時 代にそれが起こりました。日本の鎖国時代にもそれが起こり、ドイツのナチス時代にも起 こり、また明治以降の現代の日本でもそれが起こりました。この世の権力が絶対的な力を 帯びるときには、それがキリスト教国においてであれ、非キリスト教国においてであれ、 そのなかで、キリスト者はいつも「スキャンダラスな人びと」であらざるをえないので す。 注 (1) ルカがテサロニケにおける迫害をユダヤ人によるとしているのは、出来事の流れを語 ってきかせようと するルカの主要な関心事がユダヤ人対キリスト教会の対立にあったためであり、テサロ ニケ教会から見て の「同国人」すなわちギリシャ人による迫害とパウロが指摘していることは「ささいな こと」として、ルカ によって無視されてしまったのだろう、とするのがヘンヒェンの理解である(Ernst Haenchen,The Acts of the Apostles,E.Tr. by R.M.Wilson,Basil Blackwell,1997,pp.513-4)。しかし同時にヘン ヒェン は、このルカの省略が単なる歴史叙述上の問題とするには、あまりにも問題が多く、ル カ神学の性格にまで さ か の ぼ る べ き こ と を 示 唆 し た ロ ワ ジ イ の 指 摘 ( Alfred Loisy,Les Actes des Apostres,Paris 1920,p.655)に注目すべきことを示唆している。 第 1 章 レーン・スパイ事件 < 画像 > レーン家の暖らん(「写真集・北大百年」136p.より) 第1章 レーン・スパイ事件 画像;レーン家の暖らん( 「写真集・北大百年」136p.より) 一 自己をスキャンダラスと意識すること 私たちは、初期のキリスト者たちが受けた迫害が、具体的にはどういう意味をもってい たかについて、パウロたちが遭遇したテサロニケにおける迫害を例として考えてきました。 そしてそれが、単なる個人的な怨みやねたみ、あるいは現実的な利害から起こった紛争で はなくて、イエス・キリストにおける神のみを唯一の主とするキリスト者の信仰が、絶対 性を主張して服従を要求する国家権力とぶつかりあうときに、そのキリスト教信仰を排除 しようとする権力者側が必然的におこす意図的な挑戦であることを、指摘しました。 テサロニケでの事件をみても分かることですが、以上に述べた迫害は、その構造におい てかならずしも明瞭ではなく、多くの場合、国家権力は事件の背後にみずからを隠し、お もてだって迫害の手を下すのは、出先の地方官憲や隣保組織であったり、あるいはルカが 考えたような嫉妬深いライバルであったり、右翼団体であったり、暴力団であったり、個 人的なテロリストであったりもします。さらにはヒトラー政権下のドイツ・キリスト者の 例のように、権力側に骨抜きにされたキリスト者仲間であったりもするのです。また迫害 のかたちも必ずしも物理的暴力というかたちばかりでなく、デマゴギーや心理的圧迫と いった陰険なかたちで行なわれることもあります。しかし、それがどのようなかたちで行 なわれようとも、その本質において、権力者にとってキリスト者がスキャンダラスな存在 として受け取られて来ているという点を見過ごしてはならないのです。 キリスト者がこのようにスキャンダラスな人びととしてこの世にあるということの信仰 的な意味について、聖書がどのように語っているかということを、さらに学んでみたいと 思いますが、その学びの助けとして、私自身の身近かに起こった例をお話ししておきたい と思います。 私は、一九三一年一一月に群馬県の藤岡という小さな町(当時)で生まれました。私の 父はまだ健在ですが、その当時その町にあった組合教会の若い牧師でした。私の生まれた 一九三一年という年は、近代日本の歴史にとって重要な年でした。私が生まれる二か月ほ ど前の一九三一年九月一八日、中国大陸の東北地方に、日本人居留民と日本政府が経営し ていた鉄道を保護するという名目で駐留していた日本軍(関東軍)が、南満州の藩陽 (Sheng Yang、旧奉天)郊外で、みずからの鉄道を爆破し、それを中国軍の攻撃によ るものと詐称して中国軍陣地に攻め込み、戦争を引き起こしました。それから十五年にわ たって、日本は中国に対して侵略戦争を続けました。そして御承知のように、その終りの 五年間は、太平洋戦争となるわけです。 その十五年戦争の初めの年に私は生まれました。私が十四歳の年に、日本は戦争に負け ました。私が中学二年のときでした(一九四五年)。その間の十五年間、日本は軍国主義 の時代です。私が五歳のとき、父は北海道小樽市の組合教会の牧師として赴任しました。 そして、私は一九三八年に小学校に入学しました。その頃はすでに、日本全体が天皇制を 中心とした全体主義にいろどられていました。 私の小学校時代には、牧師の家族であるからアメリカのスパイの子であると、学校長や そのほかの教師たちからいじめられた記憶が多いのです。しかし、担任の先生や、クラス の友人たちは、そういう私に同情してくれたので、なんとか耐えることができました。そ ういう状況のなかで育ったので、私にとってキリスト教が、この社会のなかでスキャンダ ラスな存在である、という感じがいつも付きまとっているのかもしれません。まだ幼い子 供が、そのような迫害を受けることは耐え難いことですから、その迫害を避けようとする のは当然であると思います。しかしどのようにして迫害を逃れようとしたか、私自身の場 合をいま思い起こしてまことに恥ずかしい思いがしますし、私がみずからの戦争責任とい うことを考えるときに、その基本的な問題意識にかかわることなので、そのことにはまた あとでふれたいと思います。 いずれにしても、私や弟が学校で教師たちからスパイの家族と言われつづけたのは、た だ単にそういう時代であったというだけではなかったことが、最近になって分かりました。 それはその頃、私の父の協力者であった米国会衆派の宣教師フランク・ケーリ先生をめぐ るある事件が起こり、その影響が私の学校に及んでいたと思われるからです。その事件に ついては後で申します。その話に進むまえに、私にとってやはり忘れがたい、ひとつの 「スパイ事件」についてお話ししたいと思います。それは、ケーリ家と同じように、私ど もの家族にとって親しい友人であったハロルド・レーン(Harold Lane,1892〜1963)と ポーリン・レーン(Pauline Lane,1892〜1966)というクリスチャンの御夫妻のことです。 二 レーン・スパイ事件について(1) 一九四一年一二月八日、太平洋戦争が始まりました。この日の早朝、レーン夫妻は、札 幌市の北の一部を占める広大な北海道帝国大学(以下北大)構内にある外人教師官舎で、 特別高等警察(特高)によって逮捕されました。 その前年から駐日米国大使館は、日米関係の悪化にともなって、日本に在住する米国市 民(その多くは商社員、教員、宣教師などとその家族でしたが)に帰国を勧めていました。 しかし、レーン夫妻は、文部省から特に依頼を受けて、北大の数少ないすぐれた語学教師 として、ひきつづき翌年の末までの契約を結んだばかりであり、誠実で几帳面なお二人で したので、危険を承知しながら、大学に留まっていたのです。 夫妻の六人のお嬢さんたちのうち、年長の四人はすでに米国の大学にはいっており、そ の朝、夫妻と共に朝食のテーブルについていたのは、まだ小学生であったドロシーとキャ サリンという十二歳の双子の姉妹、そして別室に八十三歳になるハロルドさんの父ヘン リーさんが、高齢の弱った体をベットに横たえていました。夫妻が大使館のアドバイスを 受け入れることができなかったもう一つの理由は、この年老いたヘンリーさんが非常に 弱っていて、長い船旅には耐えられないし、長くてもあと一年もつかどうか危ぶまれる、 という医師の診断があったからであると思われます。 特高警察の人たちは、ふたりの子供たちの見ている前で夫妻に手錠をかけると、年老い たヘンリーさんの伏しているベット・ルームに押し入り、彼をベットから引きずり降ろし、 マットをひっくりかえしてしらべ、ほかの部屋の隅々まで捜索して後、夫妻を引き立てて 行きました。 そのあとに、ヘンリーさんのために札幌天使病院(フランシスコ修道院によって運営さ れている病院)の医師が、定期的な往診にこの家を訪れましたが、すっかり荒らされたこ の家の様子に驚き、事情がのみこめないままに、とりあえずヘンリーさんと双子のお孫さ んを人力車に乗せて、数丁はなれた病院に収容しました。 この朝、日本全国で百十一名の人たちが、特高によって逮捕されたという記録がありま す。その後二十五名が逮捕され、ほかに五十二名が陸軍憲兵隊によって逮捕されたと言わ れます。その中には、アメリカ、イギリス、カナダ、オランダ、フランス、ロシア、ポル トガル、デンマーク、ギリシャ、トルコ、ポーランド、ノルウェー、ドイツ、インド、中 国などの国籍をもつ人たちのほか、日本人も多数含まれていました。レーン家に働いてい たお手伝いさんも、また夫妻と特に親しくしていた北大の学生数人も、そのなかに含まれ ています。 その翌日の朝日新聞をいま見ることができますが、そのフロント・ページには、日本政 府の米英両国に対する宣戦布告の文章と天皇の「宣戦の詔勅」が掲載されており、社会面 には「外人スパイ一斉検挙」という大きなタイトルにつづいて、開戦当日朝の全国的な逮 捕のことが、逮捕者の名前や数を伏せて報じられています。未だ取り調べも行なわれない ままに、彼らはスパイという烙印を押されて仰々しく扱われています。スパイは、その頃 恐ろしい存在として、人々の心のなかに恐怖をかき立てるものとなっていました。しかも、 なんの証拠もないままに、その烙印が、マスメディアを通じて、支配者たちにとって好ま しくない人々におしつけられたのです。 北海道では、一九四二年四月に、レーン夫妻とその周辺の人々四名が起訴され、長い秘 密裁判のすえに、その年の一二月軍事機密保護法違反で有罪となりました。ハロルドさん が懲役十五年、ポーリンさんが懲役十二年、夫妻と最も親しかった北大工学部の学生、宮 沢弘幸(ルビ;ひろゆき)さんが懲役十五年、そのほかの三名がそれぞれ懲役二年の判決を受 け、上告しまし たが、翌一九四三年二月から六月にかけての上告棄却の確定判決で、ハロルド、ポーリン、 宮沢の三名はそれぞれ別々に刑務所に送られました。 太平洋戦争の期間に、いわゆるスパイ罪で有罪とされた人々のうち、最も有名なのが、 いわゆる「ゾルゲ・スパイ事件」に関係した人々で、リヒァルト・ゾルゲと尾崎秀実(ルビ; ほつみ)が死 刑、ブランコ・ド・ヴーケリッチ(獄死)とマックス・クラウゼンが無期懲役の刑に処せ られましたが、そのつぎに刑の重かったのがハロルド・レーンと宮沢弘幸、およびゾルゲ 事件関係者小代好信の十五年の刑、そしてゾルゲ事件関係の田口右源太(ルビ;うげんた) と水野成(ルビ;しげる)および北 方少数民族ツングース族のソロウィヨフの十三年の刑がこれにつづき、つぎにポーリン・ レーンとゾルゲ事件関係の山名正実(ルビ;まさみ)の十二年の刑がつづきます。それにゾル ゲ事件関係の 川合貞吉ら二人の十年の刑がありますが、そのほかは八年以下の刑となりますので、レー ン事件が「ゾルゲ事件」とならんで、いかに厳しい扱いを受けたかがわかります。 このように、開戦とともに逮捕された人々のうちで、レーン夫妻と夫妻をめぐる人々だ けが、とびぬけて重い刑罰を課せられているの ですが、そのおおやけの理由はまったく明らか にされてはいません。スパイという烙印が亡霊 のようにこの人びとに付きまとっているだけで、 画像;大通拘置所(「さっ 裁判は全く秘密裏に行なわれ、したがってその ぽろ歴史散歩」127p) 記録も公表されず、敗戦当時にそのほとんどの 記録が抹殺されたようです。 最近、上田誠吉という東京の弁護士さんが、 僅かな断片的な記録をもとにして、この事件の 判決理由を推定復元して発表されました。(2)そ れ によると、宮沢弘幸さんが夏休みを利用してサ ハリンの軍事施設でアルバイトをし、その帰り に北海道内を旅行して、見聞きしたことを、親 しいレーン夫妻に話したことが、スパイとされ たということのようです。 戦後、宮沢さんは釈放されましたが、獄中で ひどい栄養失調になり、そのために結核にかかり、 一 九四七年二月に亡くなりましたが、彼は妹にことば少 なに、獄中での経験や裁判のための取調べについて言 い残していたようです。妹さんが伝えている話のうち、 特に二つのことが心に残ります。 その一つは、宮沢さんが、これはレーン夫妻が自分 画像;宮沢弘幸とハロルド たちだけ助かりたくて、あることないことをでたらめ に証言し、自分を罪におとしいれたのだ、と信じてい たということです。そして、取調べの検事がそのよう に宮沢さんに語って、それを宮沢さんに認めさせよう と、彼を逆さまに天井から吊してさまざまな拷間を加 えた、ということです。おそらくレーン夫妻には、宮 沢さんがすでに自白していると告げ、それを認めるよ うに迫ったものと思われます。これは典型的な、フレーム・アップ事件なのです。しかも 悲劇的なことに、宮沢さんは死ぬまでレーン夫妻を憎み、さらにその憎しみはつい数年前 まで、宮沢さんの妹さんをはじめその家族の間に残されたままであったということです。 レーン夫妻は、一九四三年六月末まで、札幌市大通拘置所に拘禁され、そこから札幌郊 外苗穂にある札幌刑務所に送られ、一九四三年九月に最後の日米交換船でインドのゴアに 送られ、そこで迎えにきたアメリカ側の交換船 に乗り換えて、南回りでニューヨークに帰った と推測されます。 夫妻が逮捕された後、年老いたヘンリーさん と双子の娘さんたちは、札幌のフランシスコ修 道院にかくまわれて看護を受けていましたが、 事件から四〇日後の一九四二年一月一九日、ヘ 画像;ゴードン, レーン人妻と ンリーさんは二人の孫にみとられながら亡くな ヘンリーさんの墓(松竹谷智氏撮影) りました。その葬儀は、ごく限られた少数の 人々によって、しかも厳重な当局の監視のもと に、レーン家が属していた札幌組合教会(現在 の札幌北光教会)で、ひそかに行なわれ、ひと ことも口を開かないという約束で、ハロルド、 ポーリン夫妻も、出席を許されました。私の父 が戦時中に彼らの姿を見たのはそれが最後で、左右の席に別れ別れにすわっていた夫妻の 姿に容易ならぬ気配を感じたということを、父から聞いたことがあります。私たちは、夫 妻がその後すぐに日米交換船でアメリカに送還されたと信じていました。(3)しかし夫妻が 帰ったのは警察の代用監獄である拘置所でありました。 葬儀の後火葬にされたヘンリーさんの遺骨も、ポーリンの収容されていた拘置所女囚内 の仏壇に置かれていたと、その頃同じく大通拘置所に入れられていたホーリネス教会の婦 人牧師、内田ヒデ先生は語っておられます。(4) 一九四三年九月、最後の日米交換船で夫妻が帰国されたとき、その遺骨も米国に伴われ ましたが、戦後に夫妻が再び北大に招かれて札幌に帰られたとき、その分骨も再び運ばれ、 札幌市の郊外、円山公園の小高いこのうえにある墓地に、やがて夫妻とも合流するかたち で、それを葬られました。今その墓地には、道標のような小さい墓標が二つ、つつましく 立っています。幼くして亡くなった夫妻の長子ゴードンの墓標と夫妻およびヘンリーさん の墓標です。あれほどひどい仕打ちを受けた日本の地ですが、それでもこの人たちの愛す る故郷はここ以外にはなかったのです。 両親を刑務所に取られおじいさんを亡くした双子のお嬢さんたちは、親切な修道院のシ スターたちに保護され、一足はやく、グルー駐日大使たちとともに、第一次日米交換船 (一九四二年六月)でアメリカに帰りました。彼女たちを札幌駅に見送ったシスターたち は、見送りがすむとすぐ特高に連行され、一切のことを他人に話してはならぬとひどく脅 されたと言われています。(5) 二 事件の背景 これが、今知られている事件のあらましです。しかし今この話を聞かれた皆さんには、 いろいろと不思議に思われることがあるでしょう。まず第一に、どうしてレーン夫妻がそ れほどの重い刑に処せられることになったのか、ということです。 上田誠吉弁護士がようやく調べた判決理由については、先に述べました。しかし、こう して上田弁護士が苦心して復元された判決文も、裁判所がその時代の要請にしたがって、 拷問によって得た自白に基づいて作ったつじつまあわせの文章にすぎず、夫妻をはじめと するこの事件の被告たちの逮捕の真の理由はわからないのです。レーン夫妻も裁判につい ては何も話されず、宮沢さんが夫妻に対して抱いていた恨みについても、夫妻は一言も弁 解されませんでした。戦後、夫妻が再び文部省と北大の招きで日本に帰ってこられたのは、 宮沢さんが亡くなってから三年たった、一九五〇年秋のことでした。夫妻は東京に着くと そ の足で、飯田橋に住んでいた宮沢さんの両親を訪問したそうですが、それにもかかわらず、 夫妻は事実を明らかにして宮沢家の誤解を解く努力はしなかったようです。(6) このように夫妻の謙虚な人柄が、この事件の解明を困難にしたという事情がありますが、 それとともに、慨して日本の社会では、たとえそれが戦時中のことではあっても、スパイ 事件については人々の警戒が極めてきびしいという事情があります。最近、朝日新聞の編 集委員薮下彰治郎さんからうかがった話ですが、朝日新聞が、戦時中の人権問題を取材す るために、いろいろ調べて、個人インタビューをはじめたところ、治安維持法でつかまっ たことのある人々のインタビューは比較的容易に応じてもらえたが、スパイ容疑でつか まった人々のインタビューは、一人も応じてもらえなかったそうです。(7)誰もがそのよう な前 歴をひた隠しに隠して生活していて、それに触れようとはしない。もしそれが明るみに出 されたら、他の人々からいやな目で見られるだけではなくて、誰からも信用してもらえな くなるし、生活ができなくなる、恐ろしがられ、差別されるというのです。そのような日 本の社会の執念深い差別の現実が、いまも彼らのうえに重くのしかかっているというので す。 レーン夫妻はそうした現実をよく御存知で、自分の無実を明らかにすることよりも、そ の事件にかかわりのあった人々に迷惑をかけてはいけないと思われたのではないかと思 います。 一九八六年、自由民主党のタカ派は世界基督教統一神霊協会(いわゆる統一教会)の政 治的キャンぺーンと手を結んで、重い刑罰を前提とした国家秘密法を成立させようとし始 めました。これを心配した日本弁護士連合会が、同じような法律によって過去にどのよう なことが起こったかを調べることにし、レーン事件について調査した上田弁護士の報告が 発表されました。宮沢家で今生きているただ一人、宮沢弘幸さんの妹さんがたまたまそれ を目にされ、初めて、今まで信じてきたことが、戦時中の特高から吹き込まれた嘘であっ たことを知り、つい先頃彼女は、今住んでいるコロラド州ボウルダーから札幌に来て、夫 妻のお墓に行き、今までの非礼をお詫びしたということです。(8) 夫妻が戦後、札幌に帰ってきた頃、私の両親は、札幌の郊外、千歳で開拓伝道を始めま したが、夫妻はそれを熱心に応援され、北大から与えられた赴任準備金を全部、牧師の住 居を建築する費用として献金されました。その頃、私の家族は、夫妻が戦時中に受けた迫 害について聞こうとしましたが、とうとう一言も聞くことができませんでした。 「戦争で したから……」と言われてほほえむポーリン夫人のやさしい顔は今も忘れられません。 こういう次第で、この事件の本当の理由はわかりません。しかしこの人たちに、国家権 力の憎悪が集中したことは確かな事実です。 国家が敵とした国の人であるというだけで、 その人に何らかの圧迫を加える例は、日本に限らず米国にもカナダにもありました。その 両国でも戦争中には、すでに国籍をそれぞれの国に移した市民であっても、日系市民であ るという理由で隔離キャンプに強制的に移すといった過ちがありました。 しかしそれにしても日本の場合、ほかのアメリカ人も同じように捕まえられていながら、 どうしてレーン夫妻だけが重刑に服さねばならなかったのでしょうか。そこから色々な解 釈が生まれてきます。やはり夫妻には何らかの諜報活動があったのではないか、とか、日 本政府が海外で捕えられた重要な日本側のスパイと交換するために、夫妻をスパイに仕立 てたのではないか、といったたぐいの解釈です。 前者の考えは、宮沢さんの家族をはじめ多少でも事件を知る多くの日本人が、最近まで とってきた解釈ですが、それによれば、いかに戦時中であるとは言っても、裁判所がその 正義を曲げることまではしないだろう、という考えです。その例として、しばしばゾルゲ 事件のことが言及されます。ゾルゲ事件では違法な諜報活動があったといわれます。私も ゾルゲの場合については、それが国家秘密であるかどうかは別として、取材・通報という 事実だけからいえば、そうであるかもしれないと思います。しかしゾルゲたちの犯行とい われる内容を考えると、むしろこの人たちこそ、戦争を早く終結させ、戦争被害を最小限 にくい止めるために最もよいと信じた手段を選んで活動した悲劇的な人々である、という ことを認めざるをえないのです。(9) しかしそれにしてもレーン夫妻の場合には、そのような積極的な活動があったとは思え ません。裁判所の判決という結果から彼らの行動を推測することは、上田弁護士の書いて おられるように本末転倒であると思います。 後者の考えは、夫妻と親しい人々の中にも見られる解釈です。しかし戦時中、日米間で そのような重要なスパイ容疑者の交換があったということは聞いたことがありませんし、 戦時中の米国の諜報活動について書かれている文献を調べたことがありますが、そのよう な事例は見いだせませんでした。(10) 私の考えはこうです。つまりこの事件の鍵は、レーン夫妻の立場とその人柄にあったと いう考えです。まず夫妻の立場について申しましょう。夫妻は、たしかに文部省から招き を受けた教師でありました。お二人は宣教師のように、背後に教会やボード(宣教師派遣 を企画支援する教会またはボランティアの機関)のような国際的に認められている団体を持 っ てはいませんでした。お二人が所属していた札幌の教会において、宣教師のように熱心に 教会活動に協力してその働きは高く評価されてはいましたが、信徒として参加しているに 過ぎませんでした。 しいて言えばレーン夫妻のボスは、日本の政府でした。本来ならばお二人を危険から守 るべき責任は日本の政府にあります。しかし、その政府が夫妻を利用しようということに なれば、お二人はもはや孤立無援なのです。事実、夫妻が逮捕されたとき、国立の大学で ある北海道(帝国!)大学は、何の手を打つこともせずに、夫妻を見捨てました。それが お二人の、その当時の立場でした。 四 レーン夫妻と北海道 ハロルドは米国アイオワ州タマで一八九二年に生まれました。ウィリアム・ペン大学と ハバフォード大学で学びましたが、両校ともクウェーカー主義の学校で、彼自身も熱心な クウェーカーの信仰をもっていました。一九一七年に米国は第一次世界大戦に参戦し、選 抜徴兵法が施行されましたが、彼はすすんで良心的兵役拒否の立場を取り、それを貫きま した。 世界大戦ののち彼は、文部省の英語教師募集に応募して、一九二一年札幌に来ました。 それ以来二〇年間、彼は北海道帝国大学予科の英語教師を勤めました。さらに戦後も再び 札幌に来て、北海道大学で一三年間教えました。彼が最初札幌に来たときには、適当な外 人教師官舎がまだ出来ていなかったので、アメリカン・ボード(11)の宣教師ジョージ・ロー ラ ンド(George Rowland 1859〜1941)の宣教師館に身を寄せました。そこでローランド宣教 師の娘ポーリンと出会い、一九二二年に結婚しました。 ポーリンは、ローランド宣教師が岡山で伝道していた一八九二年に京都で生まれ、同志 社で教育を受けて後、米国にわたり、バーモント州のミドルベリー大学を出て、すぐに結 婚しましたが、夫のシステアさんが第一次世界大戦中にフランス戦線で戦死したので、ふ たりの間に生まれた娘、ウィルミンをつれて日本に帰り、札幌で父の伝道を手伝っていま した。その頃ポーリンは、若くして戦死したシステアの記念に、札幌組合教会に、大きい スケールのエスティ・オルガン会社製のペダル・オルガンを寄贈し、そのオルガンは、教 会が改築されて、ボッシュ社製のパイプ・オルガンに代わるまで、礼拝用楽器として活躍 しました。レーン夫妻が獄中にあったときも、官憲は、ポーリンを思い起こさせるこの大 きなペダル・オルガンの音まで沈黙させることはできませんでした。(12) ポーリンの父ローランド宣教師は、北海道の組合教会の父とも呼ばれている人で、一八 九六年以後札幌組合教会を拠点にして、馬にまたがって風雪に閉ざされた村々に伝道し、 小樽、岩見沢、名寄、帯広、浦河などの教会を創立しました。この意味で、ローランド一 家は、北海道の組合教会のみならず、北海道のキリスト教全体にとって大きな影響力をも ち、また広く尊敬を集めていたのです。(13) 結婚ののちには、ポーリンさんも一九三七年から北大で教えるようになりました。学校 で学生たちに教えるだけでなく、毎週金曜日に家庭を開放して学生たちを迎え、家庭から 遠く離れている彼らに家庭の楽しさを体験させ、キリスト教を理屈からではなく、生活の なかから伝えるようにしておられ、すべ ての学生に慕われていました。宮沢さん もその一人でした。 夫妻が判決を受けて、網走に護送され 画像;ポーリンが寄贈したエスティ・ オルガン(北光教会蔵) たとき(と聞きますが)、たまたま北大の ある学生が汽車のなかで鎖につながれた 夫妻に出会ったことがあるそうです、そ の学生は「レーン先生!」と叫んだきり 絶句して、涙をポロポロ落として夫妻を 見送った、という話を、最近も北大出身 の方から聞いたことがあります。(14)つい 二 年ほど前に、夫妻の六人の娘さんたち (といってももうかなりの高齢ですが) を米国から招いて、札幌および東京に住む、北海道大学の同窓生が集まり、夫妻を偲ぶ同 窓会が持たれました。一〇〇人以上の人たちが集まりましたが、彼らはみなレーン家のサ ロンで育った人々でした。その同窓会は、ほかの大学のように、ホテルや料理屋ではなく、 札幌では札幌北光教会で、東京では霊南坂教会で開かれ、礼拝をもって始まる内容でした。 今どき、クリスチャン・スクール同窓会でも、こんな例はあまり聞きません。 教師としてのレーン夫妻は、その経歴からいっても、また学生たちに対するアプローチ の仕方からみても、決して単なる「外国人」教師という意識ではありませんでした。先に も言いましたように、お二人の日本に対する思いは、私たち日本人以上に、日本の国土と 人々を愛するということであったと思います。夫妻に接する機会をもったすべての人々が、 そのことを深く印象づけられていたことは、以上のいくつかの例によっても明らかでしょ う。 そしてそのような夫妻の姿勢は、その深い信仰によって支えられていました。夫妻に とって伝道(ミッション)とは、ある教派的な信仰理解や教派的な組織をおしつけて、自 分たちの支配領域を拡大することではなく、キリストにあって与えられた愛と自由に基づ いて、人間としてあらゆる差別の壁を越えて人々と出会い、共に生きるということであっ たと思います。戦後四五年たっても、その大多数がキリスト者ではないかつての学生た ちが夫妻を偲ぶために、教会に集まり、神を賛美し祈りに心を合わせることができるのも、 夫妻のミッションが神の祝福のうちに実を結んでいるからである、と思わないではおられ ません。 これほど多くの人々から敬愛されていたのであれば、レーン夫妻の受けた迫害がますま す理解しがたいと思われるのですが、考えてみると、そのように人々から慕われていたか らこそ、第一に外国人であること、第二に熱心なキリスト者であること、第三に信仰に基 づく反戦主義者であること、という理由で、戦争遂行に狂奔する支配者たちから見れば、 きわめて目障りな存在であったことは、容易に推測できます。 戦争の遂行は支配者たちの至上命令でした。そのためにあらゆる犠牲を払って、国民の 心を統合しなければならないと考えた支配者たちは、天皇を国民統合の中心にすえ、その 命令として戦争をはじめました。こうした構造に入らない人々は排除されなければならな いと考えたのです。先に述べたように、開戦翌日の朝日新聞のフロント・ページに、日本 政府の米英両国に対する宣戦布告の文章と天皇の「宣戦の詔勅」が掲載され、次のページ に「外人スパイ一斉検挙」という大きなタイトルの記事があったのは、この意味できわめ て象徴的です。(15) しかし、さらにレーン夫妻の場合には、こうした熱狂的な支配者たちがどのような迫害 を加えても、それに対して抗議する教会や、ボードといった国際的な機関のうしろだては ありませんでした。しかも、国家権力側は、彼らを逮捕することによって、彼らを慕う 人々を効果的に脅かすことができます。 さらに北海道という辺境の地に置かれた警察には、中央警察機構に対してよい成績をあ げようという焦りがあったと考えられます。加えてその頃、かつての陸軍憲兵隊司令官東 条英機が、陸軍大臣となり、さらに内閣総理大臣に就任したことによって、憲兵隊を自分 の直属機関として整備拡張し、一般市民の生活にまでその権限をひろげ、こうして取締り のきびしさを警察と競いあうような関係になっていたことも背景として考えられます。(16) 注 (1)レーン事件については、私自身の個人的な記憶や、教会関係、北大関係者から得られた 断片的な情報も あったが、何しろ極めて分かりにくい事件であって、事件の当事者ですらその実態を把 握できないほどで あった。それを克明に調査、追跡し、法的な検討を加えて最終的にまとめられたのが、 上田誠吉弁護士の 『ある北大生の受難――国家秘密法の爪痕』(朝日新聞社、一九八七年)であった。上田弁 護士は、この最終 的な決定版に到るまでにも、 『戦争と国家秘密法』(イクォリティ、一九八六年)『核時代 の国家秘密法』(大 月書店、一九八七年)の二つの著作においてもこの事件にくりかえしてふれられた。私も それらによってよ うやく全体像をなんとか理解できたように思い、感謝している。上田弁護士の最終的な この事件に関する著 作の表題が示すように、その中心的な関心は、レーン事件のもう一人の主役といわれて いた、当時北海道帝 国大学(現、北海道大学)工学部電気工学科学生、宮沢弘幸氏におかれているので、私との あいだに多少の 関心のズレがあることは否めないが、上田弁護士のこの丁寧な作業に、私の個人的な情 報を重ね合わせつつ 叙述を進めることを、お許しいただきたい。なお、さらに上田弁護士は資料収集を重ね、 一九八八年にあら ためて『人間の絆を求めて――国家秘密法の周辺』(花伝社)を出版された。この新しい書 物も基本的には 『ある北大生の受難』と同じ姿勢である。 *『ある北大生の受難――国家秘密法の爪痕』復刻版(花伝社、2013 年 4 月 10 日、 ISBN978-4-7634-0658-3) (2)上田誠吉、 『ある北大生の受難』 、一二七〜一四九ぺ―ジ。 (3)一九四二年一月末、もしくは二月初めに行なわれた、ヘンリー・レーンのひそかな葬儀 に姿を見せてか らのちのレーン夫妻の動向については、上田弁護士も書いておられるように、公的、客 観的な資料はほとん どない。また私たち家族や教会関係あるいは北大関係の多くの人たちは、この話題を恐 れて意図的に忘却を 装ったし、レーン夫妻も戦後口をつぐんで語られなかったのである。現在までのところ 推測を助けてくれる 資料は、上田さんが引用しておられるレーン夫妻の四番目ヴァージニアさんの女婿、プ リンストン大学教授 アール・マイナーの『A little mirror of Japan』(吉田健一訳一『日本を映す小さな鏡』 一九六二年、筑摩書 房、残念ながら私は未見)にある「私の妻の両親はたちまち逮捕されて、警察署から刑務 所に移され、そこ からまた、警察署に戻されて、また、刑務所に連れていかれ、最後に別々に同じ大きな 刑務所に収容された が、当の二人は知らずにいた」という叙述(上田、前掲書、一六四ページ)と、札幌大通拘 置所での交わり 以来、ポーリンさんと親密な交わりを深めつづけた、内田ヒデ教師(東洋宣教会きよめ教 会小樽祈りの家、 のちの日本基督教団小樽末広伝道所教師)の証言(ホーリネス・バンド弾圧史刊行会編『ホ ーリネス・バン ドの軌跡ーーリバイバルとキリスト教弾圧』新教出版社、一九八三年、二三〇〜二四三 ページ、 「バビロン女 因の記」)この二つだけである。私は以下、比較的具体的な内田資料によりながら、経過 の再構築を試みたい。 ところで、いわゆる日本基督教団第六部・九部一斉検挙にあって、一九四二年六月二 六日早朝に小樽警察 署に連行された内田ヒデ教師は、長い間かかって警察調書作り(取調べ)に協力させられ、 翌一九四三年二 月、小樽署での取調べの終了と共に、札幌大通拘置所に身柄を移された。大通拘置所は、 札幌市大通公園の 西端にあった。この拘置所は男区と女区と施設が分けられており、収監室は個室であり、 室番が被疑者の名 前の代りに用いられており、内田ヒデ教師は「三番」であった。内田教師が入所した頃、 「一番」と呼ばれる 外国人因人が、検事調書完成以後の人にのみ認められている舎内清掃作業に従事してい るのに出会う。やが て少しずつ会話が成立し、 「1 番」がポーリン・レーンさんであり、 「三番」が教団教師内 田ヒデさんである ことを互いに確認しあう。翌月末には内田教 師の検事調書が完成し、 画像;内田ヒデ教師 ーリンさんと共に花壇 彼女もまた所内作業の権利をあたえられ、ポ 作りなどの作業に従事し、はげましあう「楽 しい時」を持つのであ る。四ケ月程のこうした交わりの時は、同一 九四三年七月、ポーリ ンさんの札幌刑務所への移送によって終りを 迎える。ポーリンさん は前年一九四二年一二月二一日、札幌地裁で 軍機保護法違反などで 懲役十二年の判決をうけ、直ち に上告(この場合には 控訴は認められない)、翌一九四 三年五月五日、大審 院第二刑事部による上告棄却の 判決があり、刑が確定 して服役することになり、たぶ ん六月末頃、苗穂にあ る札幌刑務所に移されることに なるのである。この頃 画像;網走刑務所 について、内田ヒデ教師は次の ような回想を『バビロ ン女因の記』に書いている。 「ポーリン夫人が苗穂に移さ れて間もないころ、 送っていった看守が『三番!』と呼ぶので『何ですか?』ときくと、 『一番がね、柿色の因 衣を着て苗穂の独 房で座っていたヨ』と聞かせてくれました。しかし刑期七年以上の重刑者は苗穂におけ ない規則なので、一 ヶ月ほどしてから網走へ移され、それから間もなく交換船で米国へ送還されています」(ホ ーリネスバンド弾 圧史刊行会編、前掲書二四一ページ)。この回想によると、ポーリンさんは、大通拘置所 ー札幌刑務所ー網走 刑務所ー交換船による帰国、という経過をたどったことになる。上田誠吉さんが引用し ているアール・マイ ナー教授の文の「警察署から刑務所へ」を繰り返し「最後に大きな刑務所に収容された」 (「大きな」の、傍点は岸本) という部分に相当するのだが、 「警察署から刑務所へ」と言われている部分は、検事調書 作製のための取調べ 段階を意味しているらしく、したがってこの刑務所というのは、大通拘置所のことと思 われる。 「最後に」 「大きな刑務所」(大きな;傍点)とは、内田証言のいうところの「苗穂」つまり、札幌刑 務所を意味しえよう。しかし別の場 合も考えられる。 実は私は長いあいだ内田ヒデ教師の考えをそのまま受けいれて、レーン夫妻が網走刑 務所に収容された と疑っていなかった。マイナー教授が、義父レーン先生から聞いた「大きな刑務所へ」(大 きな;傍点)という表現にピッ タリするスケールを持つのは「網走」である。これは北海道人の常識なのだ。しかし「大 きな」(大きな;傍点)という表 現が「その前に収容されていた施設より大きな(large あるいは bigger な)(大きな;傍点) 施設だ」ということならば、 札幌刑務所でもよいわけである。しかも、レーン夫妻は、 「大きな刑務所」(マイナー)「苗 穂」から間もな く「網走」に移された(内田)といわれる一九四三年八月末頃、ほとんど間をおかず、とに かく拘置所 (警察の未決施設)からでなく、司法省矯正施設である刑務所から、交換船に乗るために横 浜に送られてい るのである。内田証言はたしかに否定できない。内田教師とポーリンさんの特別な交わ りは、戦後さらに深 まったと考えられるからだ。であるとすれば、内田さんは「網走」行きを直接、ポーリ ンさんから聞いてい る可能性が高いのである。にもかかわらず当局は、恐らく一ケ月にも満たない収監のた めに、片道足かけ三 日もかかる網走への護送をさせる必要があるのだろうか。あるいはこの網走への移動は、 懲役判決執行を法 的に中断することになる「本国送還」を偽装するための工作であったのだろうか。上田 誠吉弁護士はレーン 夫妻の「網走」収監に否定的、あるいは懐疑的である(上田誠吉『人間の絆を求めて』(前 出)六七〜八ペー ジ) 。しかし私は内田証言に対して全面的に否定的になり切れない。かたく閉ざされた刑 務所、法務省側の情 報が公開されない限り、この問題は解けないだろう。そして、こうした国家にとって不 利な情報は、決して 公開されることはないだろう。 上田弁護士が、ポーリンさんの上告趣意書のなかから引用している、もうひとつの謎 がある。それはレー ン夫妻逮捕の翌年、つまり一九四二年八月二一日(ドロシーとキャサリンが本国へむけて 横浜を発った約二 カ月後)、レーン夫妻が拘置所から連れ出されて横浜へ送られていることである。名目は 「交換船による本国 送還」である。九月二日に夫妻は、横浜市中区新山下町(山下橋際にある)バンド・ホテル (現存)に収容 され、九月二〇日まで滞在して後再び札幌大通拘置所に帰されている。バンド・ホテル は日・欧米の戦時交 換船業務のためにリザーブされていた。したがって数ケ月まえにドロシーとキャシーも そこで乗船を待つ 日々を送ったホテルである。上田弁護士は「配船は無期延期になった。札幌へ帰れとい われて、九月二二日 に再び札幌に逆戻りして、大通拘置所に入れられてしまった……。しかし、このときか ら、それ以降の夫妻 の在日受難歴は消え去った。今まで夫妻について書かれたものは、マイナーのものを除 いて、すべて夫妻は 一九四二年に交換船で帰ったものとされてきた」と書いておられる(前掲書、一七〇ペー ジ)。 「私たち」教 会の者も北大関係者も、そう理解していたことは本文でも触れた通りである。そうだと すれば、この残酷で 謎に満ちた旅もまた当局の意図的な工作であったように思われる。事件全体のフレー ム・アップ的性格は、 こうしてますますその目的が何であったかを疑わせる内容のものとなる。上田弁護士は、 この謎に満ちた工 作の目的のひとつとして、 「交換」(人質または諜報要員との交換)の可能性が高いことを 上げておられる (同一七二〜四ぺージ)。私には少々信じえないことであるが、あるいはそうであるかも知 れない。この点に ついては後にさらに論じよう。 (4)内田ヒデ、前掲書、二四一ぺージ。 (5)このカトリック教会(当時すでに宗教団体法により、一九四一年五月三日以後、「日本天 主公教団」 、 統理・東京大司教上井辰雄司教)の修道会は、一九〇八年一月二〇日付でローマのフラン シスコ修道会総長 によって、十六世紀キリシタン禁教以来、伝道関係が断たれていた日本の、しかも今度 はその北部に主要な 動きを開拓するという方針が承認されて始められた現地修道会であった。一九〇八年に 札幌市北十一条にフ ランシスコ修道院が設立され、前年にローマのフランシスコ修道会総長によって送られ た、フランシスコ会 ドイツ•フルダ管区出身のヴェンセスラウス・キノルド(Wenceslaus Kinold)神父、同会パ リ管区出身の モーリス・ベルタン(Maurice Bertin)神父を中心として活動が始められた。二人ともまだ 三十代なかばの 働きざかりであった。このキノルド神父は、「日本天主公教団」設立直前の札幌代教区の 司教を勤め、教団成 立と共に官憲の強圧でその位置を日本人聖職にゆずらねばならなくなったが、ドイツ人 神父であるという立 場の助けもあって、以後戦中も札幌にとどまり、終生、札幌天使病院付司祭として活動 した。プロテスタン ト側が、私たちをも含めて何の支援をもレーン家に対してできなかったのに、フランシ スコ修道会天使病院 のスタッフたちが、文字通りいのちがけでこのことをなしとげたことは、十六世紀以来 の日本におけるフラ ンシスコ会の受難の伝統がみごとに生きていたと言わざるをえない。なお、札幌天使病 院は、フランシスコ 修道会によってインドのオータカムンドで創立された女子修道会が、一八九八年に七名 の修道女を札幌に送 り、札幌郡札幌村新川添二三(現、札幌市北十二条東三丁目)に開設された女子修道院から 一九一一年、病 院開設にいたったものである。ちなみに病院開設当時の札幌は「村」であって、戸数約 九百、人口は約五千 であったという。 官憲の強圧によって教区長を辞したキノルド 司祭のあと、ローマの 了承のもとに札幌教区長として一九四〇年一〇 月一一日に就任したの は、東京麻布教会主任司祭、ラウレンシオ戸田 帯刀神父(ルビ;たてき)であった。彼 画像;戸田帯刀神父 が実際にその職務を開始したのは、一九四一年 二月であったが、わず か一年後の一九四二年二月、逮捕、投獄されて しまうのである。戸田 教区長が理事長を兼ねた「札幌光星商業学校」 における配属将校との トラブル、あるいは教育理念の対立などが、その理由としてあげられているが、この投 獄の直前直後に、戸 田教区長直属の天使病院及び「マリアの宣教者フランシスコ修道女会」の、レーン家支 援が始まっていたこ とを思えば、戸田教区長の逮捕、拘留がそれとまったく無関係であったとは思えない。 戸田教区長は一九四 二年六月、レーン家の二人の娘が日米交換船に乗るため横浜に向かった直後に釈放され た。しかし、以後そ の職務はつねに官憲の干渉にさらされ、天主公教団はついに一九四四年九月、戸田帯刀 教区長を、横浜教区 長に転出させることになる。横浜に移って、戸田司教は横浜山手教会(司教座聖堂)が軍に よって接収され ていたため、やむをえず、横浜市保上ヶ谷区霞台にある「保土ヶ谷天主公教会」で職務 を執行していた。そ の間にも彼に対する憲兵隊からの監視、干渉はやむことなく、敗戦後三日目、一九四五 年八月一八日夕刻、 保土ヶ谷教会司祭館一階応接室に面会を求めて来た(元)憲兵がやにわに戸田司教の真正 面から発射したピ ストルの銃弾によって暗殺されてしまったのであった。もちろん、レーン事件だけが唯 一の理由というわけ ではなかろうが、しかしある意味では戸田司教は消されたのである。レーン・宮沢事件 の多くの公的資料と 同じ運命をたどったことになる。(以上については、中川宏神父監修、仁多見厳編著『北 海道とカトリック・ 戦前編』 、札幌、天使印刷所、一九八三年、に詳しい。なお福島恒雄『北海道キリスト教 史』日本キリスト教 団出版局、一九八二年、四四一〜四四四ページ、小野忠亮編著『北日本カトリック教会 史』 、中央出版社、一 九六七年、等を参照)。 (6)上田誠吉、前掲書、一八七ページ。 (7)宮沢弘幸氏の義弟にあたる秋間浩氏(米国コロラド州ボウルダー在住)が上田弁護士に送 られた書簡に も、次のような言葉がある。 「(上田)先生の著書ならびに朝日新聞の″スパイ防止″の連 載(「スパイ防止っ てなんだ」一九八六年一〇月一二日〜二一日、十回、さらに、一一月二八日より一二月 四日まで七回にわた り、続篇として「欧米の場合」という海外特派員のレポートがつづいた=岸本注)から、 もう一つの点で深 く考えさせられました。治安維持法で投獄された人々が、戦後大手を振って堂々として 歩いているのに、″ス パイ″の罪を着せられた者が始どすべて日陰者として暮らしていることを知りました。 同じ軍国主義、戦争 の犠牲者なのに、どうしてこうも違うのでしょうか (上田誠吉、前掲書、七ぺージ)。こ れはたしかに当時 の日本に独特な現象ともいえようが、そういった例に似たことは他にもある。たとえば、 わが国で神学者と して高い評価をあたえられ尊敬されているディートリヒ・ボンヘッファーが、長い間ド イツ福音主義教会で は、国家に対する反逆を企てたカナーリス・スパイ事件の関係者として否定的評価のも とに見られ、教会の 「執り成しの祈り」のリストに名を挙げることすら長く拒否されてきたという事実をこ こで思い起こしてお くことは、決して無駄ではない。ベートゲらによるボンヘッファー神学の解明は、この ような反応自体が非 福音的なことであることを明らかにする努力でもあったことは、ボンヘッファー神学の 「成人した世界に おける非宗教化されたキリスト教」の理解を得るためには、極めて重要なことであると 思われる。私の 「スキャンダラスな人びと」という考え方は、この、ボンヘッファー及びベートゲから、 さらにハンナ・ アーレントの「パーリア」という考え方から多くの示唆をえている。(特に、ハンナ・ア ーレント、寺島俊 穂・藤原隆裕訳『パーリアとしてのユダヤ人』 、未来社、一九八九年) (8)上田誠吉、前掲書、一九八ページ。 (9)ゾルゲ事件に関しては、このような事件にありがちな興味本位の俗説に類する文献、あ るいは一方的に 偏った見方のものが、ことに日米に多いので、注意する必要がある。尾崎秀樹さんらゾ ルゲ事件関係者が隔 月ごとに東京に集まってひらいている「ゾルゲ研究会」において最近、石堂清倫氏にう かがったところによ ると、現在まででもっとも公平で正確な事件の扱い方をしているのは、 Chalmers Johnson,An Instance of Treason-Ozaki Hotsumi and the Sorge Spy Ring,Stanford Univ.Press.1990(Expanded ed.) であると紹介されたので、早速読ませて頂いた。これはまったく同書名のものが一九六 四年に同じスタン フォード大学出版部から出ており、チャルマーズ•ジョンソン著、萩原実訳『尾崎・ゾル ゲ事件――その政 治学的研究』(弘文堂、一九六八年)という書名で翻訳も出ている。しかし、一九九〇年の 最新の版は全面的 に改訂が施され、しかもペレストロイカ以降のグラスノスチ状況のもとでのゾルゲ再評 価の動きを目ざとく 捉え、さらにユリウス・マーダーの「ゾルゲ通報」の分析(Julius Mader,Dr.Sorge Funkt aus Tokyo. Militaerverlag der DDR,Berlin,1966 および同著者の Dr.Sorge Report:Ein Dokumentarbericht über Kundschafter des Friedens mit ausgewählten Artikelen von Richard Sorge,1984同出版 社)などを通じて、日米の研究者たちの間で進んでいる新しい理解の方向、つまりゾルゲ 事件が単なる情報 売買を主とする醜業的事件ではなく、むしろ世界史的に高度な平和的国際政治にかかわ る機関工作であった こと(特に同書、二三一ページ以下の部分)を明らかにする方向を示しつつ、全面が一新さ れている。さら に手近かなものとしては、尾崎秀樹『ゾルゲ事件――尾崎秀実の理想と挫折』 、中央公論 社、一九五三年(中 公新書 8)、一九八三年(中公文庫)、同著者の『ゾルゲ事件と現代』、勁草董房、一九八二 年がある。資料と してはもちろん、 『現代史資料・ゾルゲ事件』 、みすず書房(第一巻〜第二巻は一九六二年、 第四巻は一九七 一年)および、尾崎秀樹、今井清一ほか編『尾崎秀実著作集(五巻)』、勁草書房、一九七七 年〜七八年、の 二種が、もっとも基本的なものである。 (10)おそらくこのような高度な政策的秘事に属することについて門外漢である私が、諜報活 動の問題につい てこのように断定的に語ることは適当でないであろう。上田誠吉弁護士はこの件につい て、二つの「事実」 をあげて「いずれにしろ、レーン夫妻は『日本政府の必要とする』特定の人物、恐らく は日本政府がアメリ カに放ったスパイで、当時アメリカで拘禁されていた人物と『交換』されることになっ た。……その際、 『交 換要員』として用意される自国内の敵国人『スパイ』は、必ずしも本当にスパイである 必要はない。案外こ のあたりに事件の真相があった疑いがある」と記しておられる(前掲書一七三〜四ページ)。 上田弁護士のあ げられる「事実」のひとつは、レーン夫妻の裁判を担当した札幌地裁判事のひとり、宮 崎梧一現弁護士の記 憶である。 「時期は忘れたが、裁判長の菅原二郎から刑事部の四人の裁判官全員に召集が かかり、司法省から 政府の必要とする在米の日本人と交換するために、アメリカ人教師夫妻を釈放してアメ リカに送還したいか ら了解してくれ、といって来たがどうするか。政府が必要とする人物と交換するためな らば致し方ない、と いう結論はすぐに出た」(前掲書一七二ページ)というのがその内容である。これと「符号 する」もうひとつ の「事実」は、前述のアール・マイナー教授の「妻の父(ハロルド・レーンさん=岸本注) の場合は、アメ リカで間諜として監禁された日本人と交換するために間諜の罪名を被せられていたらし く……」(前掲書一七 三ページ)という記述である。そして「このハロルドの説明には根拠があったのである。 宮崎の記憶と符合 するからである」と結論づけておられる(同ページ)。 にもかかわらず私には納得できない。まず上田弁護士が引用される宮沢弘幸さんの義 弟、秋間浩氏の書簡 にもあるように、 「開戦時に日本に滞在していたアメリカ人はレーン夫妻のほかにも沢山 いたと思われます。 それなのに、何故宮沢弘幸とレーン夫妻だけが捕えられ、拷問にかけられ、十年も前か ら世界中に知られて いた″軍の秘密″(リンドバークの太平洋横断初飛行に基地として提供され、すでに世界 的に知れわたってい た根室市郊外にあった海軍飛行場のことを、宮沢は話題としてハロルドさんとの対話の なかで言及したこと が『軍事秘密の探知および漏泄の罪』にあたるとされた=岸本注)を理由に処罰されたので しょうか」(前掲 書六ページ)という問いこそ、この事件に関するもっとも根本的な問いである。そして、 その答えとしてだ れにも納得できる理由が客観的に示されないかぎり、まずレーン夫妻自身のみならず、 誰もが、陰謀的な 「スケープ・ゴート説」あるいは「交換説」を考えるのがもっとも自然なのである。こ のような理由なき拘 禁、迫害は、説明を越えた権力側の横暴な行為に属することであり、被害者側には有無 をいわせない理不尽 な服従を要求する行為である。被害者はただそれに従わざるをえない。そのように抗弁 できない者が、無理 に自分に納得させようとするためには、 「スケープ・ゴート(犠牲のやぎ)説」あるいは「交 換説」がせめて もの気安めの一端になる。そんな理由づけでもなければ、気が変になるかもしれない。 ハロルドさんや宮沢 さんはそういう極限状況に置かれた。内田ヒデ教師とてある点では同様であったと思わ れるのである。した がって、前述のマイナー教授の「証言」は、ハロルドさんのこうした主観的な自己理解 を率直に述べたもの であって、それが客観的証言であるというのはかなり無理があると思われる。 次に、宮崎裁判官(現弁護士)の証言である。この興味深い証言を収集された上田弁護士 の御努力に深く 敬意をおぼえる。私自身がその努力をしないで上田弁護士の努力に依存しながら言うの ははばかられること であるが、それでもあえて言わせて頂きたい。宮崎裁判官の記憶の特徴は「時期ははっ きりしないが、寒い 時ではない。温かい季節であった。早朝に裁判長の菅原二郎から電話があって菅原の官 舎に至急に集ってく れ、急ぐ、というので、寝間着をきかえる暇もなく……行った」(前掲書、一七二ページ)。 北海道の夏、こ とに「早朝」でも「寒くなく温かい」と感じられ得るのは、せいぜい七月最後の週から 八月最初の週までの わずか二週間程であるのが普通だ。問題はそれが一九四二年であったか一九四三年であ ったかである。上田 弁護士は一九四三年であったと想定しておられるようである。だから「確定判決を事実 上変更することにな るので、その判決を言い渡した裁判官の了解を得たい、ということだったろう」(同一七 三ページ)と述べら れる。しかし一九四二年であるとすればどうであろう。この年六月一七日、駐日米大使 グルーをはじめ大使 館、領事館にとどまっていた外交官などにまじって、レーン夫妻のドロシーとキャサリ ンの双子の娘たちが 横浜を発つ浅間丸に乗船したはずである。本来ならばレーン夫妻もこの第一次交換船に 乗船できたはずで あった。この四一六名の船客たちは、モザンビークのロレンソ・マルケスで、米国から の交換船、スエーデ ン船籍のグリップスホルム号の日本人客(野村大使、来栖大使をはじめとする七八七名の 人びと)と交換す る。交換された日本人船客を乗せた浅間丸は、シンガポールを経由して、八月一九日横 浜へ入港した。これ で第一次交換船の計画は終了する。この米国よりの第一回帰国者のなかには、当時三〇 歳で、ハーバード大 学経済学部講師として招かれて三年目になっていた、若くして著名な経済学者都留重人 氏夫妻の名もあった。 都留氏は後に、一九五七年二月二六日に米国上院国内治安分科委員会に喚問され、いわ ゆるマッカーシーイ ズムの言論抑圧的追及をまともに受けて、在カイロ・カナダ国連大使ハーバート・ノー マンとの、一九四二 年帰国直前の関係を追及されることになる。カナダのノーマン家もまた私の親しい友人 なので、無関心では おれないのだが、それが一九五七年四月四日、カイロでのハーバートの投身自死とどう 関係があるか、今は 論じる時でない。(Roger Bowen,Innocence is not EnoughーThe Life and Death of Herbert Norman,M.E.Sharpe Inc.Armonk,N.Y.1986,p.301-302,中野利子『H・ノーマンーーある デモクラットの たどった運命』リブロポート、一九九〇年、二九〇ページ以下。加藤典洋「三十三年後 の「都留重人」―― 一九五七年、アメリカ上院の喚問考」、 『思想の科学』 、一九九〇年三月号二三〜三二ペー ジ等を参照)、いず れにしても都留氏はグリップスホルム号乗船まぎわまで、きびしい FBI の異常な追跡を 受け、一九五七年 の上院喚間でハーバート・ノーマンと共に、共産主義スパイ云々といった狂気じみた追 及をうける″根拠″ とされる情報を FBI にとられている。都留氏は帰国すると間もなく外務省嘱託(政務局第 六課)として勤 務することになる。他方レーン夫妻は、一九四二年四月に、宮沢弘幸さんらと共に軍機 保護法、陸軍刑法違 反などの理由で起訴され、この時期には札幌地裁で第一審裁判が進行中であった。 こうして日米開戦後一〇ケ月余にして、日米開戦の立役者たちを中心とした双方の交 換、帰還の一応の企 画は終わった。これが第一次交換船の特徴であった。しかし戦局はもう当時かなり日本 側に不利に展開しは じめていた。一九四二年六月五日、日本連合艦隊は北太平洋の孤島ミッドウェイ島攻略 に失敗し、主力艦隊 の大半の勢力を失い、以後次々に日本防衛線を破られるという負けいくさへの道を開戦 七ケ月にしてたどり はじめる。さらに注目すべきは、この年五月一六日にはゾルゲ事件がセンセーショナル に一般に公表され、 それまでは単に政府側のキャンペーン型の用語であった「スパイ」 「国際諜報団」という まぼろしが、にわか に日常的な現実感を帯びて、一般市民の隣組組織の間に、オストラシズム(密告主義的) 的相互監視態勢を 強化させる効果を発揮しはじめるのである。第一次交換船企画には、まだ人間味があっ た。しかし翌一九四 三年秋の最後の交換船企画は、まるで捕虜交換のように冷酷な業務であったようだ。し かし、それでレーン 夫妻はついに帰国できたのである。「私の妻がニューヨークまで二人を迎えに行って、痩 せこけた母親(ポー リン)と、二年間で髪がまっ白になった父親(ハロルド=岸本注)が迷い子になった子供のよ うに手をつな いで立っているのを見た時、妻は気絶した」(アール・マイナー、上田、前掲書一七四ペ ージ)。宮崎裁判官 のいう七月末ないし八月はじめの菅原二郎裁判長宅での、寝まき姿での早朝の会合が、 その年一九四三年の ことであって、レーン夫妻の確定判決をその時点になって変更、釈放を決定して本国へ 送還することにした とすれば、もはやその時期を失したことにならないであろうか。 一九四二年夏と四三年 夏では内外の情勢で は雲泥の差がある。四二年ならば小樽高商講師マッキンノンの場合と同じように「公訴 取消、棄却、本国送 還」の手続きも可能だった。しかし一方宮沢弘幸さんをかかえる当局とすれば、宮沢さ んの犯罪の素因とな るレーン夫妻を公訴取消にすれば、事件そのものが消滅してしまうことになる。したが って、そうはできな い。そこで仕組まれたのが、レーン夫妻の「本国送還偽装」というアリバイではなかっ たか。しかも上田さ んによれば、ハロルドさんの第一審の判事は、裁判長菅原二郎、判事宮崎梧一ほか二名 であったということ なので、次年の上告審のスタッフとは異なる。上告審では、大審院第三刑事部の裁判長 判事三宅正太郎、判 事神原甚造、判事江国亀、判事佐伯顕二、伏見正保であった。もちろん、ポーリンさん、 宮沢さん、それぞ れが異なっているわけで、大審院上告段階での(一九四三年の)措置では、宮崎判事が積極 的にかかわらな いのではないだろうか。これは素人の考えにすぎぬかもしれぬが(上田、前掲書、一四〜 一五ページ)。それ が一九四二年九月二日から二〇日までの夫妻の謎のバンド・ホテル滞在につなかってい るのではないか。少 なくとも教会関係者、北大関係者は、内心では疑いながらも、これでレーン夫妻本国帰 国を納得させられる ことになるのではないか。内田ヒデ教師ですら小樽署から大通拘置所に送還された一九 四三年二月、 「一番」 という外国人女因がポーリン・レーンさんだとは想像もできないほどの驚きであったと いう。 したがって私には、上田弁護士が調べて下さった宮崎証言の出来事は、一九四二年七 月末のことだと思わ れる。これなら、まだ「交換」の説明の可能性もなくはない。しかしそうなれば当局の 言う「宮沢犯罪」も 「軍機」の漏泄の相手なしになるから成立しがたくなるという当局にとって危険な矛盾 が生じる可能性が残 るのであるが……。最後に「スパイ交換」についてである。以前みたテレビ番組に、ス パイが政府から任命 されたとき「以後貴殿の行為について、当局はまったく関知しないこととするから、そ のつもりで……」と いう場面があった日本が対ロシア帝国戦争をし、さらに第一次大戦に参加した頃から中 国東北地方、シベ リヤ奥地で諜報活動をつつけた石光真清の手記(『曠野の歌』その他四冊、中公文庫)によ れば、戦中諜報関 係者の交換は、国家諜報機関そのものの暴露にほかならないから、絶対にありえないと いう。しかし他方、 次のような例もある。ソ連の一九三〇年代の赤軍第四部(参謀本部情報総局)のエージェン トで、第一次大 戦中「赤いオーケストラ」とよばれた対独諜報組織を指揮していたレオポルド・トレッ パーは、ヤン・カル ロヴィッチ・ベルジンの指揮のもとに、極東対日工作を担当したリヒァルト・ゾルゲと 対をなすかたちで ヨーロッパで工作を展開していたが、一九三七年ベルジンがスターリンによって「消さ れ」て以来、組織は 壊滅的となりトレッパー自身ゲペウに捕えられ、一九四五年夏投獄され、獄中で満州第 一二九師団長でソ連 軍の捕虜となっていた冨永恭次陸軍中将(ゾルゲ処刑の一九四三年一一月当時は陸軍次官 であった)と出 会っているが、トレッパーはその頃、冨永から聞いた話として、次のようなことを回想 録『赤いオーケスト ラ』(一九六七年)に記していると、トレッパーの仲間、ワルター・G・クリヴィツキーの 『スターリン時 代』(みすず書房、一九八七年第二版)の訳者、根岸隆夫氏が解説に紹介しておられる。) 「日本政府がゾルゲ の死刑執行を控訴棄却(正しくは上告棄却)後半年も延期しながら、東京のソヴィエト大使 館にソヴィエト が捕えているある日本人との交換提案を行なった。これに対してソヴィエトはゾルゲと いう人物は知らない という回答で拒絶してきた。戦後に都合の悪い証人が登場しないように日本政府に殺さ せたのだ……ゾルゲ はソヴィエト大使館に自分の身元を照会するよう取り調へ官に求めた。ゾルゲは外交交 渉でモスクワが救い の手を差しのべるだろうと期待を抱いていたのだろうが、甘かったといえる」(同書二三 〇ページ)。ゾルゲ は甘かったであろうが、おそらく諜報関係者は、見棄てられ犠牲にされる場合が普通な のではないか。冨永 はそのような常識をもとにトレッパーに語ったのだろう。ゾルゲの場合にはすでにスタ ーリンの一国社会主 義の方針にあわぬ者として粛清リストにいれられていたのだから、もはや助かる見込み はなかったのである。 何のことはない、スターリンは日本政府の手でゾルゲ・尾崎秀実を粛清させたにすぎな いのである。時に一 九四四年一一月七日、革命記念日のことであった。戦争におけるスパイの「交換説」は ほとんど成立しえな い空想的なことである(尾崎秀樹『ゾルゲ事件』、中公文庫、一九八三年、一五六―八ペー ジ)。 本書のゲラ(第一校)を上田弁護士にお見せしたところ、以下のような御指摘をいただい た。 〔なおレーン 夫妻の「交換説」に関連して、東郷茂徳の『時代の一面・大戦外交の手記』(中公文庫) に、次のような記載 があります。第一回の交換船は四二年六月二五日から八月一〇日にかけて、浅間丸ほか 三隻の船が出航する のですが、 「そのなかには刑事事件のため起訴せられ審理中の者もあり、これを釈放帰国 せしめるのも簡単で はなかった。即ちその釈放に司法当局までが文句を言うとのことであったから、司法大 臣に直談判して成功 したようなわけであった。然るに米国側でも出航間際に日本人二名を留め置くように企 てたりしたので、更 に困難を加えたが、漸くその解決を見たのである」。「その後も引き続き交換する申し合 わせであったが、自 分の辞任後は一九四三年九月に印度葡領ゴアに帝亜丸が赴いただけだそうだ」。(四二七ペ ージ以下) 〕 (11) American Board of Commissioners for Foreign Missions の略称。主として、米国会衆 派教会 (American Congregational Churches)による外国伝道団体で、性格は超教派的であった。 日本では主 として、日本組合教会と協力してきた。アメリカン・ボードは一八一〇年に創立された。 現在は、米国合同 教会の世界宣教部(United Church Board for World Ministries)に引き継がれ、日本基督 教団と関係を 保っている。 (12)ポーリンさんが、システア氏の記念として教会に寄贈したオルガンは、リード・オルガ ンであるが鍵板 は二段、そして足鍵板はパイプ・オルガンと同じ一六フィートのニオクターブ半のスケ ールを持つもので、 ほとんどのパイプ・オルガン用の作品を演奏できるものであった。時任正夫氏はこれを 「ペダル・バス・ リード・オルガン」と呼んでいる。現在、北光教会二階集会室に保存されているこのオ ルガンの手鍵板ケー スには、英語で「一九一八年、フランスで軍務についていて死亡したアメリカ合衆国野 砲部隊大尉、ウィリ アム・モーリス・システアを記念して寄贈された」と記された真鍮のパネルがはめこま れている。このオル ガンの起風装置(ブロウアー)は、二〇〇ワットの工業用電力だが、停電のときには、オル ガンの右サイド にハンドルがついていて、これを人力でまわして送風するようになっている。しかし手 まわしは楽でなかっ た。教会はパイプ・オルガンを購入できるほど裕福ではなかったし、北海道のような気 温の高低差のはげし い建物の中で、パイプ・オルガンのメンテナンスはむずかしいと考えるのが常識であっ たので、どの教会で も、どのみち比較的安価なアメリカ式リードオルガンを用いるのが精一杯であった。そ こにこの本格演奏が できる「ペダル・バス・リード・オルガン」が札幌に来たのである。これは北海道の音 楽文化に大きな衝撃 となった。恐らくそれを考えついたのは、ポーリンさんの父、ローランド宣教師であろ う。発注したオルガ ンは一九二〇年二月末に、組立てキットのかたちで到着し、ローランド宣教師と教会青 年の藤井保が三日が かりでそれを組み立て、四月四日、北星女学校宣教師エヴァンス女史による復活節特別 礼拝演奏をもって奉 献された(池田允則『隅のかしら石――札幌北光教会を支えた信徒』私家版、一九八七年、 一四一ページ)。 (13)ポーリンさんを通じて、ハロルドさんもいろいろな点で人びとに積極的に接する仕方を ローランド宣教 師から受け継いだと思われる。ローランドの深い薫陶をうけた札幌北光教会(旧札幌組合 基督教会)に所属 する教会員のひとり、池田允則氏がローランド宣教師を回想した文に次のような一節が ある。 「一九〇〇年代 のはじめ、夕張郡長沼から十数戸のクリスチャン農家が、天塩の中川郡誉平(ルビ;ぽん ぴら;現、中川町)に移住した。キ リスト教徒として、新しい理想郷の建設を目指した彼らは、開墾と同時に形ばかりの会 堂をつくり、天北基 督教会と名づけた。この一団を指導したのが、当時札幌組合基督教会において、宣教師 として活躍されて おった、ジョージ・ミラーテ・ローランドである。交通機関が不備、かつ不便な時代な ので、現地への道は遠 かった。名寄までは汽車に乗ることが出来たが、名寄から先は小舟で天塩川を下り、く ま笹におおわれた細 道を、駄馬にまたがり、ようやく辿り着く行程であった。しかしローランド宣教師は少 しも苦にせず、しば しば入植地を訪ねた。そして時には会堂で、時には一戸一戸を回り、ともすれば挫けそ うになる人々を励ま し、勇気づけた」(池田允則、前掲書、六七〜八ページ)。また一九六二年六月二日、札幌 北光教会で開催さ れた、ローランド宣教師夫妻記念会で、霊南坂教会牧師、小崎道雄氏は次のようにロー ランド宣教師を描い た。 「先生の信仰は、具体的な個人個人を徹底的に愛することであった。それは極めて自 然なもので、クリス チャンであるから、すべての人を愛さねばならぬというのではなく、愛さずにはいられ ないという、肉親の 愛と同様であった。我が汝等を愛せし如く汝等も互いに相愛せよ、というキリストの遺 訓をもっともよく、 しかも無理でなく、自然に実践できた人が、ローランド先生夫妻であった……。キリス ト教の伝道を、イデ オロギーの問題としたり、神学や哲学によって説得しようとする者もいるが、ローラン ド先生夫妻において は、最後の残されたひとりのため、または最小の微力者に奉仕し、献身することが、す なわち宣教であり、 説教であった」(小崎道雄「ローランド夫妻を語る」一九六二年六月二日、池田允則、前 掲書七七〜八ページ)。 これらはそのままレーン夫妻の姿勢であり、それが夫妻へのきびしい迫害を招くこと になった。さらに ローランド宣教師の北海道文化への多大の貢献を見逃すことはできない。「時計台の鐘」 で一躍この北都を 人々の胸にきざんだ声楽家村井満寿を見出し育て、札幌市内のさまざまな合唱団を育成 し、あるいは前記の 誉平近隣のアベシナイ集落のなかから後に芥川賞作家となった寒川光太郎を見出して導 びき、あるいはクリ スチャン酪農家、宇都宮仙太郎氏(札幌組合基督教会員)を指導して、北海道農業の将来の 基幹は酪農だと いう強烈な信念をひろげるなど、その働きは道民生活文化の中枢に立っているかと思わ れる程であるが、ま さにレーン夫妻はローランド宣教師のこれらの資質、交流の広さと深さをそのまま受け ついでいた。それも また事件の悲劇性を深めることとなったように思われる。(池田允則、前掲書、および札 幌市教育委員会編、 前掲書、一三二四〜五ページ、二八六〜七ページ参照) (14)上田弁護士も、このエピソードを記録しておられるが、北大のレーン・サロンの人びと の間では戦中か らひそかに流布されていたようだ。(上田誠吉、前掲書一六五ページ) (15)上田弁護士によれば、一九四一年四月、内務省警保局外事課が編集した『防諜参考資料 防諜講演資 料』なるものが各官庁諸機関に配布されていたということであったが、それには大要次 のようなことが書か れていたという(まとめは上田誠吉氏による)。 「戦争には武力戦と秘密戦の二種があり、秘密戦は、諜報、宣伝、謀略に対する戦争 である。スパイは主 として合法的組織のなかにおり、外国系の銀行、会社、商店、学校、教会のなかにいる。 防諜の主体は国民 であり、国民一人ひとりが防諜戦士である。外国崇拝、外国依存をやめて『自主独立の 日本』をつくること がその前提である。自由主義、個人主義を排して、『真の日本人にたちかえる』ことが必 要である。各部、課、 室ごとに防諜責任者を決めて、防諜の徹底をはかる」 。さらに上田弁護士は次のような句 を、驚きをもって引 用しておられる。 「我が国内において合法的に事業を営んで居る各種の外国組織網こそ、 恐るべきスパイの正 体なのである」 「宣教師が説教の間に、学校の教師が講義の間に、商人が取引の間に、い かに巧妙且つ猛烈に 秘密攻撃をやって居るか、之を知る我等は実に慄然として居るのである。諸君、軽々し く信ずることを止め よう」 「現在の日本国民は、私共の眼から見れば、防諜を知らざるが故にとは言い乍ら、 殆ど大部分外国スパ イの手先であると断言してはばからぬ程度なのである」(上田誠吉、前掲書一一〇〜一ペ ージ)。そしてこの ような視点にもとづいて、外国人及びそれと関係ありと疑われる日本国民の取扱いにつ いて、 「戦時特別措 置」が一九四一年六月二二日の独ソ開戦を契機に内務省警保局及び憲兵隊等の治安当局 によって策定された という(『外事警察概況』昭和三ハ年、上田誠吉、前掲書一一二ページ以下による)。 「(一)事前準備 (イ)外国人名簿を各国毎に左の三種に分類整理し置くこと (A)非常事態発生の際、検挙取調べを行ふべき者 (B)非常事態発生の際、退去せしむべき者 (C)その他の外国人 (ロ)外諜容疑邦人名簿を左の二種に分類整理し置くこと (A)非常事態発生の際、検挙取調べを行ふべき者 (B)外諜活動に利用せらるゝ虞あるを以て、非常事態発生の際、警告をなし又は 行動監視すべき者 (C) (略) (ハ) (略) (二)非常措置 (イ)事前準備中(イ)の(A)(B)及び(口)の(A)は、本省の指揮に依り一斉検挙を行ふこ と (口)事前準備中(イ)の(C)及び(口)の(B)に対しては、本省の指揮に依り夫々措置する こと そして、この「措置」の実施細目中「敵国人に対する措置」について、次のように指示 されていた。 「(一)在本邦敵国公館及び公館員に対する措置(略) (二)敵国人に対する措置 非常事態発生の際、本邦内に在る敵国人に対しては左の区別により措置を講ずるも のとす (イ)検挙すべき者 被疑者として検挙すべき外諜容疑充分なる者、右検挙は、平素の視察に依り予 め外諜容疑者名簿を 整理し置き、本省の指示により一斉検挙を行ふこと (口) (略) (A)〜(E)(略) (三)(略) (四)(略) (イ)〜(ハ)(略) (五)〜(六)(略) このようにして、権力の座にある人びとは、「国民の……殆ど大部分が外国スパイの手先 であると断じてはば からぬ」という異様な感覚をもとにして、自分たちの立場とは対極に見えると自分で勝 手に判断する人びと を、極限状況におしこんでゆくのである。そのようなスキャンダラスなスケープ・ゴー トをつくりあげるこ とで、自分たちの政治的権力は、いよいよ見かけ上は肥え太ってゆく(実はそれは栄養失 調型のアンバラン スな肥満で、早晩みずから崩壊せざるをえない……まるでヨハネ黙示録の画いている世 界のように) 。このよ うな権力政治のゆくすえは、日本の軍国主義、ナチズムばかりか、一九三〇年代にレー ニンの意志を受けつ いだ同志、将軍たち、農民たちを数千万も粛清の名のもとに死に追いやったソヴィエト 社会主義連邦国家の 場合にも、アパルトヘイトの南ア政権や、ヴェトナムのうらみを湾岸ではらそうと、テ レビ・ゲーム戦争で 市井の人びとの苦悩を画面から隠して戦争を謳歌する米国でも見られるのではなかろう か。 (16)大谷敬二郎『昭和憲兵史』みすず書房、一九六六年、四四二ぺージ以下。 第 2 章 分断の構造 画像;オルガンの蓋につけられたシステアさんを記念したパネル 一 「非国民」というスキャンダル 一九四一年一二月八日の開戦直後に、憲兵隊が五二名を拘留していることは先に言及し ましたが、そのなかに小山宗祐(ルビ;むねすけ)という神学生がいました。彼は東京にあっ たホーリネス派 の神学校(当時すでに日本基督教団に合同していました)に在学していましたが、無牧となっ た函館ホーリネス教会を長期応援するために函館に住んでいて、一九四二年一月一六日函 館憲兵分隊によって逮捕されました。開戦後五週間目のことです。そしてその年の二月二 六日、突然に彼は、遺体となって教会に返されました。 「遺体を引き取るように」という 命令があっただけで、その死については何の説明も釈明もなかったと言われます。小山さ んの遺体を引き取りに行って、その遺体を見た札幌ホーリネス教会の伊藤馨(ルビ;かおる) 牧師は、これ は殺されたと直感した、と語っておられました。(1) 小山さんの場合は、戦後に発見された特別警察資料に検事調書が残っていますが、それ によると彼は教会員に、 「神道の神は、まことの神ではないからお参りする必要がない。 お参りを強制されたときは、形式的に頭を下げておくように」と教えたりして、日本の国 教である神道とその祭主である天皇に対して反抗した、「非国民」であるとされています。 小山事件から約半年後の六月二六日、小山さんが属していた日本基督教団のなかの旧 ホーリネス・グループ(旧六部・九部)の教師たちが、全国的に特高によって逮捕され、 その教会も解散させられました。こうして、後にポーリンさんの戦中体験を証言すること となる内田ヒデ先生も入獄することとなります。その理由も小山さんの場合と同じでした。 その後、キリスト教会は、教派の別なく迫害されるようになります。このような背景を考 えると、レーン事件もまた、国家権力によるキリスト者迫害という視点から考えざるをえ ません。 東条首相時代の陸軍憲兵隊をとりしきっていたのは、大谷敬二郎大佐でありましたが、 彼は戦後になって、 『昭和憲兵史』という書物を書き、自分が戦時中に国家機関の中でど のようなことをしてきたかを告白しました。告白といってもその意図は、彼がいかに国家 に忠実であったかを弁護し、もしその行為に責められるところがあるとすれば、それは国 家が過ちを犯したからだ、と言おうとしているにすぎません。 その書物の中で彼は、キリスト教迫害について触れています。彼が言うには、国家の主 権に対して、それとは別の主を立てようとするものは、人種的に日本人であっても、それ は真の日本人ではない。日本の国民ではない。「非国民」である。しかもそのように、日 本の主として絶対的な存在である天皇に服従しない人たちは、多かれ少なかれ日本の敵で ある外国と深い関係を持ってきた人たちである。日本全体が、その唯一の主である天皇に 対する忠誠心において一致しなければならない時に、これらの「非国民」は、その存在自 体が「スパイ」と見なされてもやむを得なかった……。 そしてさらに、日本のキリスト教会について彼は次のように言います。 日本のキリスト教会が、外国との親密な関係を断ち切り、日本人の忠誠心を取りもどし て、国家のために一致した体制を取ることのあかしとして、日本独自の教会体制を取るよ うに、との指導にしたがって、日本基督教団ができた。これで一応彼らは天皇の主権を受 け入れたことになる。しかしそれは形だけのことで、信用するのは危険だ。政治上では天 皇を重んじているが、彼らの信仰は、天皇を神とすることを許さないはずだ。彼らは日本 の国家信条とは別な生活信条を持っている「非国民」である。彼らは、自らがこの日本と いう国家の中でどういう存在であるかを知るために、たえずいろいろな仕方で警告を受け なければならない。そのようにして彼らの国家に対する忠誠を養っていかなければならな い。それが戦時中の国の考え方であった……と。(2) こうして大谷氏は、戦時中のキリスト教迫害を正当化し、ホーリネス派のような小さい グループや、所属のないキリスト者個人に対する脅迫がひととおりすんだら、カトリック をはじめとして長老派やメソジスト、組合派などの大きなグループにも手を付けなければ ならない、と考えていたことを示唆しています。 レーン夫妻が文字どおり日本の国民でないお雇い教師であり、国籍は敵国にあり、生活 信条は「非国民」宗教であるキリスト教とそれに基づく平和主義であり、しかもその人柄 ゆえに多くの「日本人」 、ことに戦争遂行に重要な役割が期待されている若いエリートた ちから慕われており、その影響力が心配させられるほどであるとすれば、戦争開始という 大義名分が成立した時点で、ただちにその人格的影響力を恐怖の対象に変換するアクショ ンをとる国家権力の行動パターンは、ごく自然な成り行きであると言えましょう。それが レーン事件であったと思います。 レーン夫妻に対する多くの人々の尊敬を、恐怖に変換するキー・ワードが「スパイ」と いう言葉であり、本来スパイでもなんでもない夫妻に対する嫌疑が、根拠のない曖味模糊 としたものであればあるほど、 「スパイ」というキー・ワードのもつ胡故くさい恐ろしさ は増幅されて今日にまで到っているのです。 レーン事件が起こったとき、夫妻の直接の上司である文部省も、また北海道帝国大学も、 夫妻を助ける何の努力もしませんでした。 お二人の属していた教会が、何らかの救助の手を差し伸べようとしたことも聞きません。 それどころか、着のみ着のままで拘留された夫妻が、獄中からただ日本語の聖書の差し入 れを教会に求めたのに、かかわりを恐れた牧師が、教会員の安全をまもるという「牧会的 配慮」を理由に、さっそく差し入れに駆け付けようとした教会青年たちを押し止めたとい うことです。当時の看守の方に会って話を聞いたことがありますが、彼はそういう教会の 態度に非常に憤慨して、自分で聖書を買い求めて因人であるレーン夫妻に届けたというこ とです。 「キリスト教ってそんなものなのか」と、語気荒く問い返すその元看守の言葉に 返す言葉もなく、私は赤面するばかりでした。 大谷氏が言っているように、もはや教会は、暴力的な脅迫を繰り返す人間的な主権、す なわちファシズムに対して、神の主権に基づいて抵抗し、その犠牲になっている同僚たち を助けようとする気をなくしていました。こうしてレーン夫妻は、まったく孤立して、国 家の意のままに翻弄されたのです。 夫妻だけではありません。宮沢さんもそうですし、小山宗祐神学生の場合も、さらにそ れに続いて起こった日本基督教団の旧六部・九部に対する一斉検挙、教会解散、教職籍の 剥奪という事態においてもそうであったのです。もちろん、これらの事件で個人的に援助 しようとした人がないわけではありませんでした。(3)しかしそのような個人的な試みは、 強 大な国家の力の前では、あまりにも無力でした。そして、誰もがこうしたスキャンダルに 巻き込まれたくないと思ったのです。だれもが「スキャンダラスな人びと」になることを 恐れたのです。 しかし、大谷氏が言うように、人々の忠誠を強力に要求する国家にとっては、キリスト の主権に従うキリスト者は、国家信条とは別な生活信条を持っている不都合な存在、つま リ「スキャンダラスな人びと」なのです。一旦ことが起これば「非国民」、 「スパイ」とい うレッテルをはられて排除される可能性をいつももっている存在です。 パウロたちが、テサロニケやそのほかの町で迫害されたのも、彼らが「みなカイザルの 勅令にそむいて行動し、イエスという別の主がいるなどといっている」スキャンダラスな 存在であったからです。使徒言行録一七章で読むかぎり、これは単なるユダヤ人たちのい いがかりに過ぎないかのように書かれていますが、それは先にも述べたように、ローマの 支配者との対決を避けようとする著者ルカの意図が反映しているからであって、ルカの意 図にもかかわらず、起こっている出来事そのものが示唆しているのは、こうした厳しい主 権と主権のぶつかりあいであると思います。 レーン夫妻の事件を通じて私たちが聖書から聞くメッセージは、こういうことです。こ の世の主権に対して、キリスト者として生きるということは、この世では基本的にスキャ ンダラスであるということです。では私たち自身にとって、それは何を意味するのでしょ うか。 二 分断の構造としてのスキャンダル レーン夫妻の事件は、戦争という特別な状況下で意図的に増幅された、日本人の心の深 層にある外国人差別、弱い者いじめを利用した典型的な事例です。それが天皇ファシズム 体制のもとに、国民の全体主義的な統合を推進するためであったと考えられるということ は、先に述べたとおりです。 他人を差別したり排斥したりする人間の罪は、エゴイズムという人間の深い罪責に由来 するのではありますが、それをただ全く個人的な内面の問題のみに帰することは大きな誤 りであることを、レーン事件は私たちに訴えているのです。差別やいじめの背後に、もっ と大きく組織的、社会的、政治的な機構があって、それが、こうした人間の罪深い性格を 利用し煽動するという構造を持っているところに、私たちが本当に考えなければならない 問題があります。戦争という特別な状況のもとで、こうした構造をもつ政治権力が、積極 的に差別といじめを煽動したのがレーン事件でありますが、その構造自体は、戦後の平和 な時代にあっても、変わっていないのです。日米開戦から五十年、あの身心共に国全体が 廃墟と化した敗戦から四六年になりますが、その間に、日本は、そして私たちは平和で あったと考えがちです。しかし私は、この平和にしばしば戦慄を覚えます。平和というこ とばと「和」ということばとが混同され、社会の中のスキャンダラスな部分をひたすらに 斥け迫害しながら、仲よしクラブ的な「和」に身をよせて作り出す身勝手な「平和」を、 私たちは「本物の平和」と混同しているのではないでしょうか。仲間意識の結束によって 作り出され、排除を政策とする「和」は、決して「平和」の論理ではなく、それはむしろ 分断と闘争の論理なのだということを、しっかりと心に留めるべきだと思います。 こんにち問題になっている韓国・朝鮮人差別、部落差別、アイヌ差別、障害者差別など のさまざまな差別は、日本の国民統合という政治的幻想の上にたてられている権力構造に よって、支えられているものです。学校における「いじめ」の問題は、能力によってこの 統合を階層化しようとする日本の産業社会の要請と、それに応えて組織化されている教育 行政が産み出している問題です。 そういう構造の中で、そこからはみだしている人々や、弱い立場にある人々は差別され ていよいよ窮地に追い込まれ、結局は排除されてしまうのです。日本の社会では、こうし た排除の構造の中でいつも「非国民」とか「アカ」(気に入らない人を共産主義者または その同調者と勝手に断定して、その人を侮蔑的に表現する言葉)とか、 「スパイ」とかと いったスキャンダラスな言葉があらわれてくるのです。 一般に、 「スキャンダル」というご葉は、個人の道徳的退廃を批判的に表現する言葉と して用いられます。しかしこの言葉は、がんらい個人倫理に関連する言葉であるよりは、 むしろ社会学的な文脈で理解されるべき言葉です。それは、ある人の個人的な状態または 出来事を口実に、その人が属しているはずの社会的なグループが、その人を疎外するとい う構造を内包しているのです。レーン事件をはじめ、さまざまな差別の事例が示すように、 むしろ社会的環境の方に問題があるのに、それが、個人の倫理的な責任に矮小化されるの です。そして、そうした差別的な社会構造が国民統合の幻想を実現しようとする国家権力 によって意図的に利用されるときに、「スパイ」とか「アカ」 、あるいはまた「非国民」と かといったスキャンダラスな言葉が適用され、人々の間に恐怖をかきたてるのです。いわ ゆる差別用語や差別表現といわれるものは、みなこういう構造を背景にしているのです。 「この連中はみなカイザルの勅令にそむいて行動し、イエスという別の王がいるなどと いっています」というのが、テサロニケのキリスト者たちに対する迫害の理由でした。そ こでは、カイザルによって象徴されるローマの権力構造が背景にあって、その傘の下にあ るテサロニケの市民社会が、その社会構造にとって異質な存在となってしまったキリスト 者を疎外するプロセスが示されています。このようにしてキリスト者は、人間が作りあげ た権力構造にたいしてスキャンダラスな存在となるのです。パウロが「スカンダロン」と いったのは、このようなキリスト者の状況でありました。 しかし、こうしてスキャンダラスな存在とされたキリスト者はもはや、自分たちを疎外 している社会に対して言うべき言葉を持たないのでしょうか。主なるキリストヘの信従が スキャンダルとされるとき、私たちはそれをどう理解すればよいのでしょうか。こうした 問いに対して、聖書は私たちに何を語っているのでしょうか。これらのことについて私た ちはふたたび、聖書にもどって考えてみたいと思います。 注 (1) 「小山事件」については、当時から旧国鉄青函船舶部(青函連絡船)通信士を勤め、函館 に住んで、 ホーリネス教会とかかわりのあった坂本幸四郎氏の克明なルボルタージュがすぐれてい る。坂本幸四郎 『涙の谷を過ぎるとも』 、河出書房新社、一九八五年。さらに、和田洋一『抵抗の問題』、 同志社大学人文 科学研究所編『戦時下抵抗の研究』第一巻、みすず書房、一九六八年、一九〜二五ペー ジ,伊藤馨証言に ついては、山崎鷲夫「函館・小山宗祐の死」、 『ホーリネス・バンドの軌跡』(前出)一二九 〜一三三ページ。 当局側の釈明では、小山の死因を自死説とする。しかし坂本、和田、山崎などほとんど が他殺説をとる。 (2)大谷敬二郎、前掲洋三九六〜四〇三ページ。 (3)レーン夫妻逮捕の後に、ただちに父のヘンリーさんと、ドロシーとキャサリンに支援の 手をさし出した、 札幌カトリック教会の人たち、とくにフランシスコ修道会、および札幌天使病院の「マ リアの宣教者フラン シスコ修道女会」 、またその指導者の一人であったキノルド司祭、そしてその総責任者で あったラウレンシオ 戸田帯刀教区長の働きとその結末については、第一章の注 5 でふれた。レーン夫妻の所 属する札幌組合基督 教会(現札幌北光教会)側のことについて、上田誠吉弁護士は、次のようなことを伝えてい る。 「橋本誠二北 大名誉教授の母アイは、札幌組合教会を通じてポーリン・レーンと信仰上の交際があっ た。夫妻が大通拘置 所にいると聞いて、橋本アイは教会の仲間とともに、夫妻を激励するために、拘置所の 塀のそとで、心を込 めて賛美歌を合唱した。ポーリンは獄中でこの声を聞いて、自分のことを心から心配し てくれる日本の友人 たちのために感謝の祈りを捧げ涙をぬぐった」(上田誠吉、前掲書一六五ページ)。これは 一九四一年のクリ スマス・イブのことと思われる。 さらに獄外の家族に対してのみならず、獄中にあるレーン夫妻自身に対する天使病院 からの直接の援助があったらしい ことも、次のような内田ヒデ教師の証言から知りうる。「レーン夫妻の財産は凍結されて しまい、手もとに残された現金は 一千円だけでしたが、その現金の内で天使病院から栄養物の差入れがあった時、卵やバ ター等の栄養物を私にも分けて下 さいました」(内田ヒデ、前掲書、 『ホーリネス・ハンドの軌跡』(前出)二三八ページ)。上 田誠吉弁護士が言及している、 昭和一六(一九四一年一二月一九日行刑局長依命通牒『戦時収容に係る外国人の処遇に関 する準則の件』には、収容さ れた外国人については、 「衣類、布団、糧食及び飲料は原則として自弁せしむること」と あり、レーン夫妻の 場合、自弁の代理人の役割を天使病院およびフランシスコ修道会あるいはカトリック教 会が相ちていたこと がわかる。なお「卵やバター」云々というのは、恐らくはローランド宣教師時代から、 レーン家にバター等 を寄贈しつづけていた字都宮牧場によるもので、主人の仙太郎(札幌組合基督教会員で、 教会役員であった。 現在の雪印乳業の前身、北海道製酪連合会=ラクレンの創立者)はすでに一九四〇年三月一 日に亡くなって いたが、レーン家への援助は子息の宇都宮勤に引きつがれ、天使病院を介して獄中にま で及んでいたので あった(上田誠吉『人間の絆を求めて』、花伝社、一九八八年、六九〜七〇ページ、 一〇 九〜一一〇ページ、 池田允則『隅のかしら石』 、 一〇〇〜一〇五ページ参照)。 <つづき;第3章へ> 第3章 聖書とスキャンダル 第 3 章 聖書とスキャンダル 画像;ヴァレンシアの中世受難劇(1615年頃) 中央に受胎告知を演じた山車も見える 一 福音書におけるスキャンダル 私たちはこれまで、キリストヘの信従がスキャンダルとされる状況を、レーン・スパイ 事件を中心としてみてきましたが、このようなスキャンダルが神学的にどのような意味を もっているのかを、さらに福音書を通じて考えてみたいと思います。 ルカが使徒言行録において、テサロニケにおけるキリスト者のスキャンダルを、ユダヤ 人との宗教紛争に矮小化していることは、冒頭でふれたことですが、そのルカが福音書に おいて、キリストの福音をスキャンダルとして描いているということは、非常に興味深い ことです。その代表的な例として、いわゆる「マリアの受胎告知」物語を取り上げてみま しょう。 ルカはイエスの生涯を、他の福音書には語られていない、きわめて念入りなイエスの誕 生物語からはじめます。そのおかげで私たちは、クリスマスとよばれるキリストの降誕祝 祭に、美しくまた喜びに満ちたキリスト降誕を祝い、また楽しむことができます。その楽 しみに、水を差すつもりはありませんが、ルカの語ったイエス誕生の物語のほとんどが、 フィクションであることを認めざるをえません。しかし、そうだからといって、これら の物語が無意味だ、というのではありません。ルカは、これらの「仮説としての物語」を つうじて、そのようなかたちの物語によってしか伝ええないメッセージを語っているから です。(1) 「受胎告知」(enunciation)もそのような物語のひとつです(ルカ二・二六〜三八)。それ は、天使ガブリエルが、ナザレというガリラヤ地方の小さな町に住むマリアという名の娘 を訪れ、彼女が救い主イエスの母となるであろうと伝え、その受胎を祝福したという、美 しい夢のような物語です。たくさんの画家たちが、その場面を題材にしてその技を競いあ い、ライナー・マリア・リルケやポール・クローデルなど近代にいたる多くの詩人たちが この情景を詩にうたい、ヨーハン・ゼバスチァン・バッハやヘンデルからヘクトール・ベ ルリオーズ、そしてパウル・ヒンデミット、さらにはペンデレッキにまでいたる無数の音 楽家たちがその場面を美しい旋律で歌いました。そしてなによりも私たちは、西欧社会の ちまたで民衆によって歌いつがれてきた、おびただしい数のノエルやキャロルと呼ばれる 民謡、さらに町の広場で盛大に上演されたサイクル・プレイとよばれるいわば山車演劇や、 それを引き継いだ教会のクリスマス・ページェントなどがあることを忘れることができま せん。こうしてこの物語は、クリスマスの喜ばしい祭りにとって欠くことのできないエピ ソードとなっています。 さらにまたこの物語は、ナザレの処女マリアの純潔と清純さを保証し、そのゆえにまた 処女懐胎の奇跡を証しする依りどころとして、マタイ福音書一章と、そこに引用されたイ ザヤの預言(イザヤ七・一四)とともに、あたかも高価な宝石でも扱うかのように、代々 の教会によって大切に扱われてきたことは、よくご存じのとおりです。私はこの物語の、 こうした美しさの価値を否定するものではありません。それがキリスト教的なメルヘンと して、西欧の社会のなかで美化され、また多くの人々に慰めをもたらしてきたことを批判 するつもりもありません。しかし、それにもかかわらず私はつぎのことを、非キリスト教 的社会に住むものとして言わなければなりません。それは、ルカがここで語っている物語 が、ごく素朴な意味においてひとつのスキャンダルを語っている、ということです。しか も、それは現実的な目で見れば見るほど、実に惨酷なスキャンダルであるということです。 まだ結婚もしていない若い娘が、妊娠したというショッキングな話だからなのです。 マルティン・ルターは、その有名なクリスマス説教で、このときマリアはまだ十三歳か ら十五歳の少女であっただろうと語っています(2)が、現代の旧約学者ルートウィヒ・ケラ ー(3) が書いている当時のユダヤ人の日常的な習慣から考えると、その推測はかならずしも誇張 とは言い切れないようです。彼女は、まだ幼いうちから、おそらく親同志のあいだで、結 婚の約束が取り交わされていたのでしょう。しかし彼女の妊娠は、その祝福された関係の 結果ではなかったのです。どうにも説明しえない彼女の妊娠は、おきての厳しいユダヤの 社会では、死という刑罰さえ覚悟しなければならない重大なスキャンダルであったはずで す。 ジョン・ピールマイヤーという現代の劇作家が書いた芝居に「神のアグネス(Agnes of God)」(邦訳名「アグネス」角川文庫)という作品があります。(4)映画にもなっていますの で ご存知のかたも多いと思います。厳格なおきてに閉ざされた修道院のなかで、アグネスと いう名の若い修道女が子供を産み、そして殺してしまった、という架空の事件を描いた劇 です。それを殺人事件としてとりあげようとする裁判所の依頼を受けて、マーサ・リビン グストンという神経科の女医が調査を始めるのですが、アグネスの妊娠を宗教的な奇跡と 主張する、ミリアム・ルース修道院長の妨害にあい、さらにアグネス自身がまったくその 記憶を失っているために、真相がつかめず、裁判所も裁くことを諦めざるをえなかったと いう物語です。ここでは、修道女の妊娠というスキャンダラスな事態が、世のなかにどの ような反響を巻き起こしたかが、フォーカスのひとつになっています。そして、それにた いして、アグネスは献身した修道女であるから、それはスキャンダルではなくて奇跡、つ まり「神の業が彼女にあらわされたのだ」と主張する修道院あるいは教会側の立場がある とされます。 これと同じように、教会を中心とする西欧文化の伝統は、マリアの妊娠を「神のみ業が 彼女にあらわされたのだから、それはスキャンダルではない」として、その物語を、抵抗 のない美しいメルヘンや、奇跡物語にしたててきました。しかしそれは、キリスト教社会 では通用したとしても、非キリスト教の社会では通用しない話です。それはちょうど、ア グネスの奇跡が修道院という聖なる領域では通用しようとも、修道院の門の外の社会では 通用しないのと同様です。そして、マリアの妊娠という事態が、彼女をめぐる人びとに とって、そしてとりわけマリア自身にとってスキャンダラスなことであったということを こそ、福音書はまず、私たちに語っているのではないでしょうか。 その点では、ひかえめな形ではありますが、マタイ福音書一章一八、 一九節でも、つぎ のように書かれています。 「マリアは……まだ(ヨセフと)一緒になる前に、聖霊によって 身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのこと を表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。ここでも、マリアが受胎 したのは聖霊による、と言われている箇所なので、神学的な議論はそのことに集中し、い わゆる「処女懐胎」教義をめぐる議論に発展するのがつねでありますが、私たちはここで もまず、最も素朴なことに目をむける必要があります。言うまでもなく結婚前のマリアの 妊娠というスキャンダルに直面したヨセフの困惑ということです。「ヨセフは正しい人で あったので」というのですから、彼もまた、マリアの妊娠をスキャンダラスなことと思っ て困惑し、それを世間からひたかくしに隠し、ついには「ひそかに」婚約を解消して、難 を逃れようとしたわけです。 中世イングランドに流行したキリスト降誕劇の代表的作品のひとつに、コベントリー・ ページェントがありますが、その最もコミックな見せ場は、間男されたと思いこんでいる ヨセフが、マリアにさんざん毒づく場面です。それはまことに野卑で、中世においてしば しば権力者に私生活さえ犯された農民の悲しさが表現されています。(5) 中世といえば、迷信的なほどまでの奇跡信仰が一般的であったと思われている時代です。 しかしこうした民衆劇にも表われているように、その時代には不義密通事件が多かったの でしょう。それだけに、この芝居に表現されている、マリアに裏切られたと思ったヨセフ の嘆きと、マリアの妊娠をスキャンダラスなことと恥じ入るヨセフの思いは、それを直ち に奇跡として受け入れるように教える教会の宗教的な律儀さよりも、もっと現実的で素朴 な民衆の常識を示していると思います。このように、「正しいヨセフ」の困惑を強調する マタイ福音書に対して、ルカ福音書は、もっと切実なマリア自身の恐れと困惑を強調して います。 二 スキャンダルとしての「恵み」 まず、天使が彼女を訪れて、 「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」 と挨拶したといいます。 「神が共におられる」という言葉は、ユダヤ人たちの間で普通に 交わされる挨拶の言葉です。しかしそれはいつも、 「主があなたと共におられますよう に」という祈願の言葉として交わされるのが普通です。神が共におられるという祝福は、 ただそれにふさわしいような人物だけに与えられるのであって、誰にでも無条件に与えら れるものではない、と信じられていたことは言うまでもありません。ユダヤの社会では、 おきてを忠実に守っている人だけがそれにふさわしい人とされているわけです。そのおき ての完全性を確認するために、彼らは煩瑣な律法の解釈を発展させ、ごく普通の生活をし ていたのではとても守りきれない律法組織を作りあげました。律法学者やパリサイ人と いった選ばれた人だけが、こうして「神と共にいる恵み」の所有者という特権を享受し、 一般の人にはただ「神が共にいますように」という願いだけが形骸化して、日常の挨拶の 言葉として残されていました。 マリアが聞いた挨拶はしかし、ただ単なる祈願のかたちの言葉ではありませんでした。 彼女のような、律法を守りきるには程遠い幼い存在にたいして、きわめて断定的に、しか も一方的に、 「神が共にいますという恵み」が宣言されるのです。彼女が「この言葉に、 ひどく胸騒ぎがした」というのは、彼女がユダヤの社会で教えられてきた常識にさからう ような「恵みの宣言」を聞いて、かえってそれに不吉なものを感じとった、ということに ほかなりません。もし仮に、彼女がそのメッセージを鵜呑みにして、あのユダヤの宗教的 な特権階級の人々だけにしか認められていない恵みが、自分にも与えられていると主張し たとしたら、ただでは済まないはずです。こうして、天使のこの挨拶の言葉がすでに、マ リアの住んでいる厳しい宗教政治の社会のなかでは、スキャンダラスなこととなるような 意味を含んでいたと言わねばなりません。 こうして、それがあまりにも人の意表を突いた宣言でしたから、マリアが動転し、おじ まどったというのは無理もありません。しかし天使はマリアにむかってさらに、彼女がい ただいている神の恵みが何であるかを語ります。 「マリア、恐れることはない、あなたは 神から恵みをいただいた。あなたはみごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付け なさい……」と。 「あなたはみごもって男の子を産む」という言葉が、もし新婚の妻に語られるのであれ ば、それはまさに恵みのおとずれであり、大きな喜びのおとずれであるといえましょう。 しかしそれが未婚の、しかもまだ充分に成熟していない幼い娘にむけられた言葉であれば、 はなしは全く違ってきます。彼女が肉体的に処女であって、その妊娠は神の奇跡のみわざ による、という説明をしてみたところで、「それはよかった。本当にあなたは恵まれた人 だ」と言ってくれる人など、あるはずもありません。さきにいったようにマタイは、 「正 しいヨセフ」がこの出来事をいまわしいことと考え、彼が正しければ正しいほど、いよい よこの出来事を恥とし、彼女との婚約を解消して、そこから身を引かなければならないと 考えた、と言いますが、それは、彼が処女懐胎の奇跡が信じられない、不信仰なおろか者 であったからではありません。彼は信仰的にも、道徳的にも正しく立派であったからこそ、 そんなことが神の恵みであるというようなことは、とても受け入れ難い神への冒漬と思っ たにちがいありません。ヨセフは、彼女の婚約者でしたから、彼女の深刻な事態を、みず からもひとしく深刻に受け取ったことでしょう。しかもおきてに厳しい当時のユダヤ社会 の人々は、こうした出来事をもっと辛辣にあげつらうでしょう。マリアは恥ずべき存在と して、死につながるリンチの対象となったとしても、それはまだ良いほうで、運が悪けれ ば彼女は、通常の市民生活から転落してしまった早熟なあばずれ女だ、という烙印をおさ れて、一生のあいだ人々からまともに相手にされなくなるかもしれないのです。それがど うして「恵み」であり得ましょうか。正しい神がその「恵み」の名のもとに、どうし てそのような不義をされるのでしょうか。だからこそマリアは、天使のお告げに対して 「どうしてそのようなことがありえましょうか、私はまだ男の人を知りませんのに」と反 論して、抵抗するのです。 「どうしてそんな事がありえましょうか、私はまだ男の人を知りませんのに」という彼 女の反論は、直訳すれば「私は男を知らない」という言葉で、したがって「受胎するはず がない」ということになるのですが、「男を知る」という言葉は、かならずしも生理的な 意味で用いられるとはかぎらず、むしろ一般的には「結婚していること」を意味する通俗 的な表現である場合が多いので、すなおに読めば、このマリアの言葉は、むしろ倫理的な 意味において、彼女がまだ結婚をしていないのだから、妊娠というようなことがあっては ならないはずだ(あっては〜はずだ;傍点、岸本)、と抗議していると理解すべきでしょう。 三 スキャンダルとしての「創造」 これに対して天使は、 「神には何でもできないことはありません」と答えます。そして そのしるしとして、年老いるまで子を産むことのできなかったエリサベトが、年老いてか ら妊娠し、すでに六か月目にはいっている、と言います。 「神にはどんなことでも可能だ」ということのしるしとして、エリサベトの奇跡的な妊 娠のことが言及されるので、さきのマリアの抗議が、やはり処女懐胎の奇跡をめぐる彼女 の疑いの表明であったと言われるかもしれません。しかし、私たちがうけとめてきた文脈 から言えば、強固なユダヤの宗教的な権威によって厳しく規定されてきたユダヤ人社会の 倫理的常識という、いわば不毛な壁を打ち破ることは、マリアには不可能であっても、 「神にはできる」ことであって、まさしく不妊のエリサベトの胎を創造的に開かれたよう に、神はマリアを通じて、新しい創造を開始される、というメッセージをここに聞きとる ことができるのではないでしょうか。 それが彼女にとって、社会を敵にまわすような過酷なスキャンダルとなることではあっ ても、その出来事を通して表わされる神の新しい創造のみわざは、人間の民衆支配のイデ オロギーと化していたユダヤの伝統的な権威を、打ち破ることを意味するものとなるとい うのです。こうしてマリアのスキャンダルは、単なる個人倫理的あるいは社会道徳上の事 柄ではなくて、民衆支配のために権力者が幻想的につくりあげた宗教的、政治的な支配構 造にたいして、創造的な神の主権が現われることの象徴となるのです。その意味において ルカは、イエスが教え、かつ生きられた福音、彼の具体的な宣教のわざを私たちに報告す るときにいつも、それらがユダヤ社会においてスキャンダラスであったことを示唆するの です。 たとえば、ルカ一五章一五節以下にある放蕩息子のたとえでも、スキャンダラスな弟息 子に対する父親の態度には、まじめで正しい兄息子を怒らせるものがあり、こうして兄息 子に対して父親自身もまたスキャンダラスな存在となることによって、この父親は、神の 人間に対する新しい創造的なみわざのスキャンダラスな象徴となっているのです。 このような視点からルカ福音書全体を読みますと、キリストの福音が、この世のなかで いかにスキャンダラスなこととして語られているか驚かされます。もちろん、そのスキャ ンダルの中心は、イエスその人の存在です。もし私たちが、イエスを十字架につけたユダ ヤ人たちを単純に悪人と断定し、イエスはその正しさにもかかわらず、これらの悪しきユ ダヤ人たちの犠牲になったのだ、と考えているとすれば、それはあやまりです。ましてそ うした理由で、ユダヤ人憎悪や、ホロコースト(ユダヤ人の大景虐殺)を正当化するような ことは、決して許さるべきことではありません。ある意味では、イエスが処刑されたのに は、当然すぎるほど当然な理由があったといえるでしょう。彼はユダヤ社会の支配的構造 のなかで、まさにスキャンダルそのものであったからです。人間による政治権力のイデオ ロギーそのものとなってしまっていたユダヤの宗教的支配体制に抗して、ご自身が新しい わざを始められるとき、その創造のみわざはこうした宗教的、政治的権力にとってスキャ ンダラスなものとならざるをえないのです。 マリアの受胎告知の物語はこの意味で、人間の力に挑戦する神の新しい創造のみわざを 表現する物語です。この意味においてそれは、生理的な奇跡を語るのではなく、政治的な 奇跡を語る物語です。神ご自身が、人間の高慢が支配するこの世界においてスキャンダラ スな存在となられる物語です。 しかし受胎告知の物語が語るのは、神のこの世界における新しい創造の開始ということ だけではありません。神がそれを、どのような仕方でなされるかということをも語ってい ます。 祝福された夫婦の関係によるものでないマリアの懐胎は、彼女を社会的にきわめて困難 な立場に置くことになります。この世から排斥され、否定され、かつ差別されるという立 場に置かれるのです。天使はそうした過酷な運命を負う、まだ幼いマリアを「恵まれたも の」と呼びます。しかし、この世の常識から言えば、マリアを待ち受けているものは、屈 辱と差別という不幸なのであって、決して「恵み」ではありません。スキャンダルが、 「恵み」であるはずはないのです。しかしそれにもかかわらず、なおルカはそれをあえて 「恵み」とすることをはばかりません。 「主があなたと共におられる」からだ、とマリア に言うのです。主が彼女と共におられてその屈辱、差別、苦しみに参与されるというこ とが、彼女の「恵み」なのだ、というのです。神がマリアをあわれんで、彼女のために何 かしてくださるから「恵み」だ、というのではありません。神がマリアと共におられ、そ の屈辱、差別、苦しみを共に担われるゆえに、そこに「恵み」がある、というのです。 要約すれば、マリアとともに神御自身がスキャンダラスな存在となられるところに、ま ことの「恵み」があるというのです。そのような神のありようにこそ、いまここで始めら れる創造のみわざの新しさがあるのです。 四 スキャンダルとしての「神の無力さ」 私たちはここで、 「創造」とか「恵み」とか、あるいは「人間による権力をうちやぶる 神の力」といった表現を用いてきましたが、こうした言葉のイメージによって、神の私た ちに対するありようを誤解してはなりません。これらの言葉で表現される神の力あるわざ は、あたかも服従しない人々を力づくで征服したり、復讐したりするようなことではない のです。これに関連して、ルカが語っている興味深いエピソードを思い起こします。エル サレムにむかわれるイエスを、歓迎しようとしなかったサマリヤのある村人たちの態度に 腹をたてた弟子のヤコブとヨハネが、イエスに「主よ、お望みなら、天から火を降らせ て彼らを焼き滅ぼしましょうか」、といったところ、イエスは弟子たちをお叱りになった、 という話です(ルカ九・五一〜五六)。 イエスは、神のみわざを人間世界の力関係の類比で理解することを、厳しく拒否された のです。むしろ神の力あるみわざは、人間的には弱く、排斥され、差別され、その痛みが 御自分の存在を刺しつらぬくほどまでに、人間の弱さに参与されることにおいて――換言 すれば、もっとも無力となるという仕方において――示されるのです。そのようなありよ うにおいて神は、 「新しい創造」 、 「恵み」のみわざを行なわれます。そこに、この世の権 力にたいして福音がスキャンダラスである根拠があるとルカは語るのです。 マリアが直面したのは、こうした内容をもつ神のメッセージでした。それはキリストの 苦難を先取りした、神の新しい創造の発端でした。スキャンダラスな仕方で御自身を啓示 される神、その無力さにおいて人間による権力を無効にされる神、その神の呼びかけに自 分をゆだねることこそ、マリアが直面した事態であったのです。そして彼女は応えました、 「わたしは主のしもべです。お言葉どおりこの身に成りますように」と。 マリアの、神の新しい創造のみわざへのこうした服従において、イエスの福音的なみわ ざ、宣べ伝える福音、十字架にいたる生涯、十字架の死、そして復活の勝利という、私た ちにとって希望である彼の存在が開始されるというのです。この意味において、マリアに とって、その屈辱に満ちたスキャンダルが、彼女に与えられた「恵み」であったように、 私たちにとって福音とは、キリストの卑賎、屈辱、痛み、そして死、つまりおよそこの世 では「よろこばしいおとずれ」とは逆の、つまずきにみちた「おとずれ」のなかに、神の 創造のみわざを見出すことなのです。(6)こうしたキリストにおける神のスキャンダル抜き の、 ただ人間による権力意志の頂点に想定されるような、栄光に満ちた全能の神は、それがい かに宗教的な威厳をともなって礼拝されるとしても、それは世俗的な偶像に過ぎません。 紀元前六〇九年の秋に、エジプトの愧儡として王となったエホヤキムが、みせかけの宗 教的な祭儀をもって、みずからの政治的な権力のうしろだてとしていたとき、預言者エレ ミヤがエルサレム神殿の門に立って「あなたがたは『これは主の神殿だ、主の神殿だ、主 の神殿だ』という偽りの言葉を頼みとしてはならない」と叫んだ、ということを思い起こ させられます(エレミヤ書七章、二六章)。ディートリッヒ・ボンヘッファーがあの有名な 『キリストに従う』(Nachfolge,ボンヘッフアー選集第三巻)において語った「安価な恵 み」とは、こうしてキリストのスキャンダル抜きの神を頼みとしてきた安物の「ゆるしの 宗教」のことであり、力で人々を強制することによってみずからの勢力を拡大し、それを 福音宣教の勝利であるかのように誇る「偽りの言葉」の宗教のことではなかったでしょう か。 さきに私は、キリスト教の伝道が進み、教会がこの世界でその存在が認められるように なれば、かつてパウロたちがピリピやテサロニケなどで受けたような迫害などは起こらな くなる、という考えを批判しました。私は、こうした考えの背後にある思想あるいはいわ ゆる「神学」が、その思想的な優位性を誇ることによって、スキャンダルという「キリス トの恥辱」を、高慢な西欧文化中心の精神的植民地主義にすり替えてしまうのではないか、 と思います。それは「正統的な神学」のようでありますが、その態度において一種の「偶 像神学」にほかなりません。そうした神学の営みは、その態度においてキリストの恥辱 (スキャンダル)という「地の塩」を欠き、かえって高慢な、学問的、教会的な権威を徳 とするようになり、かつてドストエフスキーが、 『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」 の章で皮肉たっぷりに描いたように、「微行者キリストを追い出してしまう教会権力者」 を横行させることになるのです。 マリアの受胎告知の物語は、自分の願望を満たすことを願って造りあげる宗教的幻想を 打ち砕いて、神がむしろ人間の目から見れば不幸や痛みや絶望と思われるところに、共に おられるかたであることを語っています。しかし、それは決して敗北主義ではありません。 マリアは、スキャンダルの道へと、不承不承に引きずられていったのではありません。 「お言葉どおりこの身に成りますように」という彼女の応答は、積極的な服従への決断を 表明するものです。人間の世界のなかにみわざを積極的に引き起こされる神に対して、み ずからを積極的に明け渡すことは敗北主義ではありません。そのみわざがこの世界におい て必然的にスキャンダラスなのですから、そのなかに自分の身を置くことは、それ自体が ひとつの戦いなのであって、決して敗北を容認することではないのです。 五 山本周五郎「柳橋物語」の場合 山本周五郎に『柳橋物語』という作品があります。(7)江戸時代の庶民的日常生活を背景 に した一人の女性の生き方を題材にした小説で、日本の敗戦直後、一九四六年に書かれたも のです。 「柳橋」というのは、江戸の下町を流れる隅田川にかかる橋のことですが、その近くに 「おせん」という名の娘が、家庭用の刃物を研ぐことで細々と生計をたてている祖父とふ たりきりで住んでいました。彼女は十五歳になった年の初秋に、幼な馴染みの二人の友達 の一人である「庄吉」から、将来結婚してほしいと申し込まれ、突然のことで気が動転し ながらその申込みを受けてしまうのです。 「そのときおせんはたとえようもなく複雑な多くの感情を経験した。あとになって 考えると、わずか四半刻(十五分ほど)ばかりのその時間は、彼女の一生の半分にも 当るものだった。……」(8) 庄吉はその約束を信じて、大工としての技を磨くために大阪に旅立つのですが、じつは もう一人の友人である「幸太」も、彼女を愛していて、結婚したいと考えていたのです。 その幸太は、庄吉よりも大工としての腕がうえで、親方から見込まれており、やがてその 家を継ぐことになりました。 「おせん」と庄吉との約束を知らない幸太は、こうして自分 の将来がはっきり定まったときにようやく「おせん」に求婚するのですが、 「おせん」は 庄太(ママ、庄吉)とのひそかな約束を思いつづけて、彼の申し出を断わります。しかし「お せん」は、 このことが原因となって、幸太と庄吉の友情が壊れることを恐れ、その断りの理由を語り ませんでした。そのような事情も知らずに諦めかねている幸太は、祖父と二人きりの貧し い生活をしている「おせん」をいろいろと蔭から助けて、彼女の心が動くのを待っていま すが、そこに江戸下町の大火事がおこり、幸太の手助けで避難する途中「おせん」の祖父 が遭難し、ついで、彼女を助けようとした幸太も身代りになって死んでしまいます。 「お せん」は、その危険な状態のなかに置き去りにされていた見知らぬ赤ん坊を夢中で助けて 育てます。 そんな心のやさしい「おせん」が育てている赤ん坊が、彼女と死んだ幸太のあいだに生 まれた子だという噂が広がります。そのことが大阪にいる庄吉の耳にも入り、こうして日 に日に「おせん」に対する世間の風当りが厳しくなります。ついに庄吉が大阪から帰って きて「おせん」を罵り、もしその赤ん坊が彼女の言うように、ほんとうに拾った子である なら、捨ててくるようにと要求します。しかし、彼女はその子をどうしても捨てることが できないのです。次第に彼女がふしだらでひどい娘だという非難が世間にひろまり、彼女 は孤立し不幸に陥ってゆきます。しかしあるとき、彼女は一つの目覚めを経験します。 「振返ってみるとそのときからおせんの新しい日が始まっているようだ。……それ から後のおせんは、もうそのまえの彼女ではなかった。世を憚ったり怖れたりする い じけた気持もなくなり、 『生きよう』という心の張りとちからが出てきた。――なに を怖れたり憚ることがあろう、こんどは誰にむかってもはっきり言えるのだ、ええ こ の子はあたしの産んだ子です。この子の父親は幸太というひとです、あたしは良人 の 遺したこの子をりっぱに育ててみせます。……そうだ、おせんの新しい日はそこか ら 始まったのである」 。(9) この作品についてある評論家は次のように書いています。 「これは余りにも、辛い悲しい作品である。ぼくははじめて読んだ時、おせんの運 命が気の毒で、読み進むことができず、何度も巻をふせ、おせんが不幸になる中編、 後編を逃げるように拾い読みし、そして暗然となった。特に拾った子供を育てるお せ んに対する世間の誤解による非難、庄吉の誤解など、ぼくはおせんが可哀想で精読 す るに耐えなかった。山本周五郎という人は、登場人物にたいし、なんと残酷な人だ ろ うとさえ思った。ある一瞬の決断が、たった一言がその人の一生を決定してしまう。 この小説はそういう運命のわかれ日を見事に描いたおそろしい作品である。」(10) すでにお気づきのことと思いますが、この作品は、マリアの受胎告知の物語によく似て います。これは私の勝手な想像なのですが、山本周五郎は、マリアの物語にヒントをえて この小説を書いたのではないかとすら思います。彼は正統的な意味でのキリスト者と言い がたいかもしれませんが、キリスト者であった父の影響で若い頃教会に通い、その時以来 繰り返し聖書を精読し、彼の死によって未完に終わった最後の作品(『おごそかな渇き』一 九六七年)は、 「自分にとって福音書が何であったかを描いてみたい」という意味の序文を もって書きはじめられたものでした。(11)そういうことから考えると、日本の武士階級や封 建 時代の下町の民衆の日常生活に題材を得た作品を得意として、大衆小説家とよばれた彼で すが、彼のどの作品にも聖書的なテーマが隠されているように思われます。彼は、人間の 弱さ、醜さ、悲しさ、痛み、罪、といった問題を取り上げ、差別や偏見のもとで苦しむ 人々を描いていますが、しかもそれらがいつも愛やゆるしのもとに、ささやかながら希望 と喜びへと変えられて、人々がたくましく生きてゆくさまを描いています。 『柳橋物語』の「おせん」の場合もそうです。そこには一人の子供のために、いたたま れないような迫害を加えられる彼女の姿があります。「おせん」もまた、人並み以上のや さしい心の持ち主であるが故に、閉鎖的な江戸時代の町人社会のなかでせめぎあっている 人々から、ここぞとばかり非難攻撃され、スキャンダラスな存在として、その社会から蹴 落されそうになるのです。そのままでは、彼女は敗北です。しかしさきに引用したように、 ある日彼女は開きなおるのです。その日とは、両親が破産したために身を売って下町の娼 婦になり、悪い病気にかかって彼女のところに転がり込んでいた友人が、狭い彼女の家で 死んだ日のことでした。 「おせん」は、このもっともスキャンダラスな友人との共同生活 のなかで、あの目覚めを経験したのです。他人を蹴落してまで、自分のエゴイズムを満足 させようとするこの世界のなかで、本当に人を生かすものは、名誉や地位や財産ではなく て、この社会から疎外されている人々が、互いに心を開いて支えあう、愛と信頼の生活な のだと知らしめられたからです。その時はじめて彼女は、自分のために身代りになって死 んだ幸太こそ、彼女を支える愛の力であることに気がつくのです。その幸太がいつも彼女 と共にいると「おせん」は自覚することによって、彼女のスキャンダラスな生活が、喜び と新しい生きがいに満ちたものとなって行くのです。そのとき彼女は、初めて幸太の霊を まつる仏壇にむかって、こう言うのです。 「 『これでいいわね、幸さん……、これでようやく、はっきり幸さんと御夫婦に なったような気持よ、あんたもそう思ってくれるわね、幸さん……』 まぶたの裏が熱くなり涙が溢れてきた、ぼうとかすみだした燈明の光のかなたに、 幸太の顔がうなずいている、よしよしそれで結構、そういう声まで聞こえてくるよ う だ。――(江戸の大火のあとに完成した)柳橋の祝いに集まる人たちだろう、(家 の)表は浮き立つようなざわめきで賑わっていた」 。(12) このようにスキャンダラスな人々が、共に生きることによって、名誉や地位や権力ある 人々から隠されている真実と新しい力が顕われてくるのです。マリアのスキャンダルも、 「キリストの恥辱」も、このような仕方で始められる神の新しい創造のみわざです。その 意味において、キリスト者の苦しみは、神のみわざの積極的な証しなのであって、その痛 みも、悲しみも、病も、死も、そこに新しい私たちの生命の日のはじまりを告げる神の恵 みの告知があるというべきです。 ボンヘッフアーがフロッセンヴュルクの強制収容所で処刑されたのは、一九四五年四月 九日の朝のことでしたが、その朝早く、同僚の因人たちのために礼拝を司式して、その日 の聖書日課、イザヤ書五三章五節「彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた」と、 ペテロの第一の手紙一章三節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめた たえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の 中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」を朗読して、短 くそのテキストによる説教をしたということです。そしてまもなく呼び出され死刑台にむ かったのですが、その時のことを、すぐ近くにいた同僚の囚人ペイン・ベストが次のよう に伝えています。 「われわれは彼と『さよなら』と言葉をかわした。ディートリヒは私を、そばにひき よせ、 『これでおしまいです』……『しかし私にとってはいのちのはじまりなのだ』と ささやきました」 。(13) ここにキリスト者のスキャンダルの積極的な意味があります。キリスト者が、そしてこ の世界のなかで「スキャンダラスな人びと」とされて差別され、抑圧され、痛めつけられ、 死に追いやられているすべての人々の創造的な存在意味がそこにあります。神はこれらの 人々の苦難と痛みを共にされることによって、弱者に対する強者の側からの憐れみによっ てではなく、むしろ積極的な「スキャンダラスな人びと」の痛みにもとづくたたかいをつ うじて、権力意志にみちみちたこの世界を、自由で創造的な人々の生き方へと解放される のです。マリアがそうした呼びかけに応えたように、私たちもまた「お言葉どおり、この 身に成りますように」と応えるべく呼び掛けられているのではないでしょうか。そしてこ の文脈のなかでこそ、ルカの伝える「マリアの賛歌」の積極的な言葉が、私たちの腹の底 からの解放の歌となるでしょう。 主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高くあげ、 飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。 (ルカ福音書一・五一〜五三) 注 (1)福音書におけるイエスの誕生(クリスマス)物語の性格や解釈学上の総合的研究について は、Raymond E.Brown,The Birth of The Messiah,Doubleday,1997 特に「受胎告知 については、同書 二八六ペー ジ以下参照。 (2)マルティン・ルター、R・ベイントン編『クリスマス・ブック』、新教出版社、一九八三 年、一九ページ。 (3)ルートウィヒ・ケラー、池田裕訳『ヘブル的人間』、日本基督教団出版局、一九七〇年、 六八ページ。 (4)ジョン・ビールマイヤー「アグネス」 、角川文庫。 (5)石井美樹子訳『イギリス中世劇集――コーバス・クリスティ祝祭劇』篠崎書林、一九八 三年、一三九〜 一四〇ページ。 (6)パウロはローマの信徒への手紙九章三三節において、イザヤ書八章一四節と二八章一六 節を組み合わせ て引用して、つまずきの岩とはイエス・キリストのことである、と述べる。(なお、カー ル・バルト『ロマ 書」の当該箇所注解参照)さらに、第 I ペトロの手紙二章四節以下に、 「主は、人々から は見捨てられまし たが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。 」とある。 (7)山本周五郎「柳橋物語」 、山本周五郎全集第二巻、新潮社、一九八一年。 (8)山本周五郎、前掲書二一五ぺージ。 (9)前掲書、三〇七ページ。 (10)奥野健男『山本周五郎の「柳橋物語」について』、新潮文庫版、 「柳橋物語」解説、一九 六四年、二八四 ぺージ。 (11)木村久邇典『山本周五郎はどう読まれてきたか』、新潮社、一九八六年、四一二ぺージ 以下。 (12)山本周五郎全集、前掲書、三〇九ページ。 (13) Eberhard Bethge,Dietrich Bonhoeffer-A Biography,by Eric Mosbacher etc.Ed.by Edw in Glen-Doepel,Collins,1970,p.829-830. < つづく 第4章へ > 第 4 章 戦争責任の問題 画像;レーン一家と宮沢弘幸さん(1940 年 7 月) (注:これから電子化の予定) おわりに レーン夫妻が逮捕されたのは、一九四一年一二月八日早朝、日米開戦と時を同じくして でありました。レーン事件と日米開戦は内容的に深く関連しあっている二つの事件です。 一方はきわめて小さな個人的事件、他方は世界中を巻き込んだきわめて大きな事件のよう に見えます。そしてこれらは四年の後、日本の敗戦によって終わったと、一般には考えら れています。しかし、私たちが見て来た限り、決して「おわりに」なっていないと思いま す。この戦いをつうじて、決定的に「スキャンダラスな人びと」とされた人たちは、未だ にその立場に置かれたままであり、戦争責任についても依然として、 「だまし」「だまさ れ」の構造は生きています。 ケーリ排斥事件は、このような事件が生じる社会状況が顕在化するまえに、キリスト者 自身が、日本の国家権力によって「スキャンダラスな人びと」とされないように、あらか じめ国家への忠誠心を表現しようとしてひき起こした事件でした。「だまし」「だまされ」 構造が、伊丹万作のいうように、誰かどこかに張本人がいて、その指令によって作り出さ れるのではなく、まずはごく日常的な生活のなかで、ごくささいな自己保身の心や差別か ら生じて来るのだということを、この事件は示しているのではないでしょうか。 こうして私たちは「スキャンダラスな人びと」を恐れず、みずからこの「人びと」の一 部となることの積極的意義を考える必要にせまられます。これは必ずしも、キリスト者だ けの課題であるとは思いません。現代の社会のなかで、エリート意識によらず生きてゆく 積極的生き方に、 「スキャンダラスであることを肯定しつつ、大胆に生きる」という可能 性が考えられるのではないでしょうか。 あとがき 一九八七年秋に、私は日本基督教団日北米宣教協議会の新任宣教師オリエンテーション で、聖書 を今日の日本でどう読むか、という連続の講座を担当した。そのときに取り上げたのが、 日本にお けるキリスト者の自己認識としての「スカンダロン」という用語であり、その具体的ケー スが、 レーン事件とケーリ事件であった。本書はこの講座をもとにして、より具体的に出来事を 展開した ものである。日米開戦、半世紀の記念として、キリスト者のみならず、すべての人びとが、 みずか らをスキャンダルな存在として取り扱われることが、とりもなおさず戦争の本質であるこ とを知る のに、少しでも助けとなるならば、著者として望外のよろこびである。 この書物が成立するためには、多くの方がたの御協力があった。特に上田誠吉弁護士の 熱心な御 後援があったことを記しておかねばならない。今後もいかなる方法で再浮上するかもしれ ない国家 秘密法のたくらみによって、再び宮沢弘幸さんのような犠牲者をつくってはならないとい う共通の 思いが、上田先生のこうした御好意となったことを、深く感謝し、その一念に協力しつづ けたく思 う者である。 そのほかの多くの御協力について、そのひとつひとつを数えあげるのは不可能であるが、 協力し て下さった方がたのお名前をあげることで、謝意にかえたい。 秋間 浩、秋間江美子、池田允則、一方井孝親、内田ひで、尾崎秀樹、オーテス・ケーリ、 岸本貞 治、岸本和世、小林 浩、白井佳夫、鈴江英一、関 裕次(故人)、高橋雅之、保上ヶ谷カトリ ッ ク教会、松竹谷智、三谷高康、山上浩次郎(敬称略、アイウエオ順) なお、新教出版社編集部、貝沼信氏は、病床の私のところに幾度も足を運んで下さり、 本書の編 集に取り組んで下さった。そして、妻京子は、病中にあって執筆中の私をはげましつつ、 読みにく い文章を訂正するなど協力してくれた。それなくして本書は完成できなかったと思い、心 から感謝 したい。 一九九一年六月 著者 岸本 羊一 1931 年生まれ、同志社大学大学院、ユニオン神学校卒、 現在、日本キリスト教団紅葉坂教会牧師。 スキャンダラスな人びと (C)1991 1991 年 7 月 30 日 第 1 版第 1 刷発行 著 者 岸 本 羊 一 発行者 森 岡 巌 印刷所 松濤印刷株式会社 発行所 株式会社 新 教 出 版 社 東京都新宿区新小川町 9 の 1 振替・東京 8-9991 電話・3260-6148 ISBN 4-400-41231-8 C1016 (本書紹介者のコメント) 第 4 章 戦争責任の問題、第 5 章 ケーリ事件はこれから電子化の予定です。 これはあくまで野副が私的に電子化したもので著者ならびに新教出版社 とはなんら関係がありません。日本国内のキリスト教の信仰の基本に係 わる問題を、著者・岸本羊一先生は活写しておられます。現在、国内最 大教派の日本キリスト教団が陥っている問題の解決点が示されています。 岸本羊一先生の第 3 章聖書とスキャンダルの「五 山本周五郎『柳橋物語』 の場合」の「おせん」と「マリア」を対照させて筆を走らせる展開に些 かの感動さえ覚えました。あらためて山本周五郎長編小説全集第 5 巻・ 柳橋物語 を繙いたしだいです。胡散臭い存在であるキリスト者の存在を スキャンダラスという語で表現された時には、出版された当時、題名は耳 にしても中味にまでは思いが及ばず時を逸していました。レーン夫妻事件 については、日米交換船、新潮社、2006 年、306 頁以降にも記述がありま した。 わたしにとっては、総会閉会の挨拶でも申し上げましたが、レーン夫妻 が官憲に検挙連行されたとき、残された双子の小学生の女の子と八十一歳 のレーンさんの病床の父親の面倒を最後まで看たのが、カトリック教会戸 田帯刀神父や天使病院の方々であり、プロテスタント某教会では青年会の 青年達がレーンさんから求められた聖書の差し入れようとしたらを、レー ン夫妻に係わらないようにと指導した牧師の存在が記されています。 「牧 会的配慮」とは何なのか現在も同質の問題を感じます。わたしの属する教 会でも、未だに「社会派」だ「福音派」だ…と色分けされる方が少なから ずおられます。 <p.63 へ続く> 第 2 章 分断の構造 画像;オルガンの蓋につけられたシステアさんを記念したパネル
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