東日本大震災をポルトガル語で聞く・語る会

東日本大震災をポルトガル語で聞く・語る会
皆さん初めまして、私は Valeria Harue Otsuki(ヴァレリアはるえ
オオツキ)です。
面白いことに、今までに日本語で色々な場所でお話をしてきましたが、ポルトガル語で講
演会をするのは今回初めてかも知りませんので、がんばってわかりやすいようにお話した
いと思います。
まず始めに、今回私にこのような機会を与えてくださいました滋賀県国際協会にお礼を
言いたいと思います。ありがとうございます。
皆さんも知ってのとおり、去年の大震災から大体 1 年半の月日が経ちます。人間という
のは自分に悪いと思うことは徐々に忘れて、楽しい、嬉しいことだけを覚えていきます。
ですので、このような機会であっても、まだ皆さんにあの出来事を伝えられることを嬉し
く思います。あの出来事はいずれ他のところでも起きる事なので、簡単には忘れていいこ
とではありません。ただし、忘れていけないというのは、怖がるためではありません。そ
れに対して警戒し、心の準備をしておくためです。恐怖と警戒は全くの別物です。
まずは自己紹介を簡単に、私は 1991 年に愛知県の自動車部品工場で 1 年半働いており
ました。そのときには余り日本語は話せず、聞いて理解できることはありましたが、あま
り話せなくって家族に頼るばっかりでした。その間は日本の色々なところに旅行も行きま
したし、父の故郷である仙台にも行きました。
仙台に降りた瞬間、感動を覚えました。来た事もないところでしたが、私には自分の故
郷のようにとても気持ちのよい感じがしました。その時にいとこの家を訪ね(父方祖父の
実家)、ものすごく歓迎されて、日帰りの予定が一泊してしまいました。帰る前にいとこ
は自分たちの祖先の土地を見せてくれました。祖父と自分の先祖のことなどたくさん聴き
たかったけれども、そのとき日本語が出来なくって悔しかったです。
その後、工場に戻り仕事を続けました。
工場での契約期間が終わり、私はそのままブラジル、サンパウロに戻りました。その頃
の自分は日本で暮らすつもりはありませんでした。予定通り自分の診療所を立ち上げて、
仕事を始めました。
しかし、どうしても日本語が上手になりたくって、当時のブラジル宮城県人会技術研修
生奨学金に応募して受かりました。日本語がきちんと書けなかったので、叔父に頼んで書
類を書いてもらいました。
その時に問題になったのが自分の診療所でした。放っておく事もできなかったので、弟
と友達に頼んで、仙台にある東北大学小児歯科へ研修に旅立ちました。
東北大学で研修している間には色々なお友達ができまして、少し日本語が上達出来たと
きに、もう一度親戚を訪ねました。日本語で親戚とお話出来てとても嬉しかったです!そ
して、ブラジル日系人の先輩に日本人のいとこを紹介して頂き、その日本人と付き合い始
めました。
10 ヶ月間の東北大学での勉強を終えて、ブラジルに戻りました。ブラジルに戻って一
年たって、付き合っていた日本人がブラジルにきまして、そのとき結婚しました。
再び仙台に戻り、新たな生活を始めました!東北大学に戻る予定のはずが、色々な理由
で実現出来なくなりました。日本での歯科医師免許を取得しようとしましたが、日本の厚
生労働省の指導から、外国人が歯科医師の免許を取得することは非常に難しい、と。その
ときに日本での歯科医師の仕事はあきらめましたが、日本語の勉強を頑張ろうと思いまし
た。
仙台では外国人の為にたくさんの日本語講座がありますので、毎日ぐらい通っていまし
た。そして色々な外国人や日本人住民と知り合い、自然にブラジルの文化について紹介し
たりしてポルトガル語も教えはじめました。学校や市民活動などの講演会でブラジルの文
化のお話しているうちに、だんだん生活も面白くなって来ました。仙台市民はとてもシャ
イな市民ですが、新しいチャレンジに抵抗はないような気がしますので、私はとっても住
みやすいところだと思います。14年ぐらいこの活動をやらせていただいています。私の
ちょっとしたプロフィールでした!
ちなみに仙台では外国人は確かに多いのですが、ブラジル人は多くても 30 人程度しか
おりません。多いのは中国人とフィリピン人で、その次に多いのが韓国人です。その他に
も色々おります。
滋賀はそれとは違い、9,000 人近くのブラジル人が住んでいると言われます。ただ大き
な違いは、あちらの外国人たちは日本語が達者な事です。皆バラバラな所に住んでいるの
で、私も全員の顔を見た事はありませんが、誰かの通訳が必要とは聞いた事がありません。
その為、こちらにあるブラジル人コミュニティーのようなグループもブラジル料理を出す
お店もないので、少し寂しいし羨ましいです。
では、震災についてお話を始めたいと思います。
当日 3 月 11 日は、私は当時通っていたあるセミナーに参加していました。地震が起き
たのはちょうどその時です。大体 14 時 46 分頃です。私はビルの 7 階にいました。少し
ずつ揺れ始めたかと思うと、急に大きく揺れ始め、すぐ机の下に移動しましたが揺れがど
んどん強くなり、そのときにはすべてが終わりだと思いました。言葉に表せない恐怖です。
その時の私はもうパニックになり、大声を出して叫んでいました。その時隣の席に座っ
て、同じ机の下にいた中国人の知り合いが私を抱きしめて、「落ち着け、落ち着け」と言
ってくれました。本当に死ぬかと思い、その時最初に頭に浮かんだのが母親の顔でした。
その後に夫や他の人が脳裏に浮かびました。この時ばかりはもう終わりかと思いました。
母親への親孝行も、他に何もやっていないのにもう終わりなのかと本気で思いました。
地震は震度7で約 3 分程度続きましたが、とても長く感じました。大きな揺れが治まり、
落ち着いたところで教室にいた先生が「下におりましょう」と提案し、非常階段で降りま
した。降りている間も揺れは続き、外に出たときは本当に目を疑いました。こんな地震で
はもう建物などは存在しないと思いましたが、幸いなことに建物は崩れていませんでした。
けれどもたくさんの窓ガラスの破片が散らばっていました。車の大渋滞と避難している人
たちがたくさんいました。その時にとても恐ろしかったのが、雪です。本当に映画で見る
ような黒く大きな雲が向こうからやってきて、急に雪が降り始めたのです。
みんなが携帯をいじっていまして、同時に口々と「津波がくる」と繰り返していました
が、私はそんなのは大げさだと思い気に留めませんでした。
とりあえず家に帰ろう、先生のその提案に皆が賛同し、各々がそれぞれの帰路につきま
した。その時すでにライフラインは全部ダウンしていました。もちろん信号機なども止ま
っていたので大渋滞でした。大雪と寒さは一気にやって来て、本当に目を疑う光景でした。
車や電車を使う事は出来なかったので、歩いて帰る事になったのですが、皆さんこういう
時にやってはいけないのが、誰かと連絡を取り合おうとする事です。こういう事態になる
と多くの人が一斉にやろうとするので、電話回線は混雑し、電話会社のサーバーが持たず
機能が重くなります。最悪の場合、ブラックアウトする可能性もありえます。
しかし私は混乱していて、別のところで仕事をしていた夫に連絡を取ろうと必死でした。
歩きながら何度も電話をかけましたがつながりませんでした。そんな中で、私の友達で徳
島に住んでいた友達から連絡が入り、短い会話でしたが私の安否を母親に連絡するように
頼むことができました。その少し後に、今度は沖縄に旅行していた別の友達から連絡が入
り、今度は夫に連絡するように頼み、すぐにその友達から折り返しの電話があり、夫の無
事も確認できました。こんな事は本当に奇跡としか言いようがありませんので、誰とでも
連絡が取れるとは思わないでください。私は本当に運が良かったのです。
まちから家までは大体3〜4駅ありますが、歩く以外に方法はありませんでした。その
途中に本当に色々な光景を見ました。その中でもとても印象に残っているのが、コンビニ
での出来事です。途中に6軒のコンビニがあるのですが、最初の一つに着いた時に、何か
買おうと思い近くまで行ったのですが、その光景にとても驚きました。人の“行列”が出
来ているのです。行列ですよ?皆並んでちゃんと“買って”いるのです。電気はもちろん
ありませんので、レジは店員が懐中電灯を片手に行っていました。皆並んで順番を待って
一人一人買っていました。棚には本当にもうほとんど何もなかったのにも関わらず、人々
は自分の順番がくるまで気長に待ってきちんと買っていたのです。誰も取り乱したり、泣
いたり、叫んだりもせず、ただただそこで必要な食料等を買っていたのです。本当に私に
とってはそれが何よりも衝撃でした。他の5軒も同様に並んでいたのです。地震が来ると
一旦避難して、収まると同じようにまた並び、買い物をする。すごいと思いました。ブラ
ジルだったら暴動が起きて、買い物なんて誰もしないのに、ここでは皆順番を守っている。
私には考えられない事でした。
住んでいる周辺にたどり着くと、私のマンションを見ることができ安心しました。建物
は崩れていなかったのですが、敷地内に入ると地面や壁などのひび割れがすごかったです。
マンションの玄関に着いたときに、親しくしていただいているお隣の方に会って、一緒に
近くの避難所に行くことにしました。その方に少し待ってもらい、何か荷物を持っていこ
うかと部屋に入ろうとしましたが、入れる状況ではありませんでした。物が散乱して、ガ
ラスの破片もあり、暗くって、寒くって、10分ごとに強い余震が来るという状況でした
ので、部屋に居られないと思いました。そして、玄関のすぐ近くにあった緊急用荷物を手
に取り、ドアの安否確認札を直し、お隣の方ととともに近くの緊急避難所である学校へと
避難しました。
安否確認札ですが、仙台では全ての家庭につけられている物です。ドアに取り付ける物
で、小さな札です。これを直さずに何処かに行ってしまいますと、中で誰か倒れて危ない
状況だと判断されて家の中に救助にくる可能性もあるので、とても大切です。
そして緊急用の持出袋。これはとてもよい物です。とても助けられました。実を言うと
これは夫が買った物で、私は買おうとは思っていませんでした。震災の一ヶ月くらい前に
たまたまホームセンターでセールしていたので、夫が買うと言い出した物です。その時私
は「そんな物いらないでしょ?」と反対したのですが、夫は「いや、万が一に備えて買っ
ておく、家の入り口においておく」と言ったので、「万が一ってなに?別にいらないよ、
そんな物。逆に地震を呼んでいるみたいで嫌よ」と言い、夫と口論した末に買った物でし
た。この時期にはもう大きな地震がくるとは噂されていましたが、私は信じておりません
でした。大げさすぎるとさえ思っておりました。まさかこのバッグにここまで助けられる
とは想像もしませんでした。
実は東北地方宮城県は地震が起こりやすいところで、約30年前に大きな地震があり、
建物などの崩れで死者は少なくなかったです。そして頻繁に地震があったため、私は慣れ
っこになっていて、自然の力を甘くみていたかもしれないので、すごく反省しています。
話を戻します。夕方6時頃に学校へ着いた私たちは、支給されていたマットレスをそれ
ぞれもらい休んでいました。一時間くらいして、学校の方が水を一人一人に配っていたの
でそれを貰いました。その時私は「これで水も一週間に一体何回飲めるのかな。当分は水
も食料も不足するから大切に飲まないと」と悲観していたのですが、一時間後、今度はお
にぎりの支給がありました。おにぎりといってもアルファ米で作った物だと思いますが、
とてもおいしかったです。
こんな状況でも支給品があるのはとても不思議でした。しかし、それも当然でした。仙
台では学校等避難所は常に何事があっても大丈夫なように、食料や最低限の毛布等を備蓄
していたので、慌てる事なく人々に分けられたのでした。
夜になって、夫が無事避難所に着きました。夫は仕事のため、福島県相馬市で仕事をし
ていましたが、戻る途中に車の中でラジオやワンセグテレビから津波の被害等を聞いたら
しく、とても信じられない状態でした。夫の実家は仙台市ではなく東松島市に住んでいま
して、仙台から40分ぐらいのところで、海から目と鼻の先のところですから、夫はすぐ
にでも彼の父親、母親のところに向かおうと言ってきました。しかし、灯りがなくとても
暗かったので、説得して次の日の朝、日が昇ってから出かけました。
お父さんやお母さんも無事でしたが、どちらも頭の先から足までビッショリ濡れていて、
お母さんはひどく震えていました。
お母さんは避難所の学校の体育館で友達と津波に襲われて、何度も溺れそうになり、何
度か浮いては沈むの繰り返しで、もうだめかと思った時、体育館の2階に避難していた人
に手を取ってもらい引き上げられました。その時に一緒に手をつないでいた友達が耐えら
れなくなり、手が離れてそのまま流されてしまいました。更に寒さもあり、耐えられなく
なった人が何人も亡くなっているのも目の当たりにしていたので、その事がトラウマにな
り精神的に不安定な状態にいました。
お父さんは、一度避難所にいたのですが、津波ももうこないだろうと思い、車に乗って
家に帰る途中に、正面から来た津波に襲われて車ごと流されてしまいました。車は何度も
回転して、何にぶつかったかは話を聞いていると木だったり家だったりと曖昧ですが、す
ぐ近くに家があったので、車を飛び出してその民家の二階に逃げ込み一晩過ごしました。
二人とも無事で安心しました。
夫の兄夫婦とその4人の子供たちにも再会して、みんな無事だったことを神様に感謝し
ました。
義理の姉は、次男を一人で習い事のために石巻市へと向かう電車にのせ、後の三人を別
の集まりに連れて行ったときに地震にあいました。義理の姉によると、強い揺れがあって
20分後津波警報があり、集会場の4階にみんな避難したけれど、彼女は電車に乗せた次
男のことが心配で、その会場にいる知り合いの方に3人の子供を預けて自力で電車の駅ま
でいきました。そのとき道が渋滞していたので歩いて駅まで向かいました。ずっと津波警
報がなっていたので、早く着くために何度も自分を乗せてくれる車を聞いてみたそうです
が、誰も乗せてくれなかったそうです。そんな中、ある人が、子供が乗車した駅の近くま
で乗せてくれました。駅へと着いたのはいいのですが、そこには電車がなかったので、線
路沿いに道を歩く事にしました。そして丘の上の方に電車が止まっているのが見えて、す
ぐに向かうと、乗車していた人たちは全員一番上の車両に移動していて、体を寄り添って
寒い夜をそこで過ごしていたのです。幸いにも運転手が丘の頂上付近に車両を停めていた
ので、ギリギリ津波は電車に届いていなかったという事でした。皆無事で、母親と息子の
再会に拍手で迎えてくれました。
そこからは本当につらい日が続きました。夫の父と母は伯母さんの家に避難させてもら
い、兄家族は私たちのマンションに避難させました。ライフラインはすべてストップして、
さらに頻繁に余震があり、つらい日々でした。私が住んでいるところはだいたい一週間で
電気がきましたが、ガスと水道はまだ復旧せず、生きていくためのことで頭がいっぱいで
した。被災地により事情は異なっていたので、あくまでも仙台市の周辺のことの話です。
私の家に避難していたのは兄夫婦と4人の子供だったので、食べ物をたくさんいただき
ました。親戚の農家と、料理屋をされている夫の友達からたくさん食べ物いただきました。
私のポルトガル語の生徒達なども近くに住んでいたために色々いただきました。そして衣
類品も食べ物と同様に大事です。ありがたいことにたくさんいただいたりしたので、とり
あえず大丈夫でした。
震災三日目は何が足りなかったかというと、ロウソク、電池、ガスボンベ。下水の水
はお風呂にあったお水を使ったりしたので、とりあえずトイレは大丈夫でした。飲み水も
幸いなことに、ミネラルウォーターのタンクがあったので大丈夫でした。震災四日目には
お友達からたくさんのロウソク、電池をいただき、暗闇にちょっと明かりが照らされて本
当にちょっと前向きな気持ちになりました。その間にラジオで情報を聴いて、まだこれは
本当に現実なのだろうかという気持ちでした。そして電気が復旧したとたん事態も変わっ
て、今度は何が必要になったかというと、ガソリン、灯油などです。そして、テレビやイ
ンターネット、電話を使うようになって、びっくりする情報がたくさんありました。電気
がつながった瞬間に、テレビをつけて初めて福島の原発問題を知りました。本当にそれど
ころではありませんでした。電気と同時にインターネットもつながったので Skype に入
ると、ブラジルにいる母親がすぐに連絡をくれて、感動して泣いておりました。私も泣き
崩れてすぐ日本を離れたかったです。
そんな中、仙台国際センターから連絡がありまして、できれば力になって欲しいとのこ
と。実はブラジルの方がトラックで支援物資を東京から運んで来たのですが、市役所に置
く場所がないために返された、という話しでした。何とかそのブラジルの方と連絡を取っ
てくれないかと頼まれて、私が彼らの携帯電話に連絡してみると、個人的に仙台の避難所
に支援物資を渡したそうでした。そのころ市役所は支援物資などを置く場所もなかったた
め、いろいろな支援物資を断っていたらしく、とにかく行政も混乱していたと思うのでな
んとも言えませんが、私は遠くから来てくれた方に感動しました。同時に、あるブラジル
人の新聞記者から電話がありました。彼は私に、「こういう状況だけど、日本は必ず復活
する。私は神戸も新潟の地震も体験しましたが、どれも復興し、以前よりも発展して復活
しているのです。だから希望を忘れないでください。仙台は必ず復興できます。」と言い
ました。
それから、次から次に日本に住んでいるたくさんのブラジル人から電話やメールなどで、
支援物資を運びたいがどこに持っていけばいいか、という問い合わせなどがありました。
私もどうすればいいかわからなくて、何人かのブラジルの方を直接避難所に案内して、そ
の方が持って来てくれた支援物資を避難所のボランティアセンターに持って行きました。
本当のことを言えば、私はそのとき全部置いてブラジルに帰りたかったです。今それを
考えると恥ずかしいですね。この時の私はと言えば、本当に自分勝手で、一人でも帰りた
いと思っていました。夫とも口論になって、冷静に考えることが出来なくなっていました。
しかし、毎日津波の現場に行って、何か無いかと探してびしょ濡れになって帰ってくる夫
を見るとそんな事出来なくなりました。
その後に、今度は大使館の女性から電話がありました。私の安否を知りたくて電話した
そうです。私は福島の原発の状況と私たちの状況を話したかったのですが、大使館は、バ
スを出すので、仙台を離れたかったらバスに乗ってくださいと言いました。しかし、私の
ように残らないといけない人には何も出来ないとのことで、私もその人たちに助けを求め
るのをあきらめました。本当にこちらの心配も何もなしで、更には彼女の方が慌てている
感じだったので、逆に不安になるような電話でした。大使館は逃げる方法は与えてくれま
したが、残る人への援助はほぼ無かったです。支援物資もあったらしいのですが、量が少
なかったのか、私の手元へは一つも届いておりませんでした。でも被災者になって色々体
験できて本当によかったと思っています。
よく考えてみたら、これだけの事があっても自分は生きている。まだ何もしていない。
ならばここで他の人を支えていこう、そう考えた瞬間でした。
ボランティア活動についてですが、日本に住んでいるブラジル人から、たくさんの支援
物資送りたいという電話があり、私もとりあえず受けることにしました。OK をした途端、
日本の方からもたくさん支援が届いて私の部屋に入らなくなり、これは大変と思って、仙
台に残っているブラジル人の知り合いと一緒に仙台周辺の避難所に配り始めました。その
時はまだガソリンがなかったので、知り合いの車で慎重に配る計画を立てて、支援物資を
避難所に持っていたことが忘れられないです。そのなかには、関西や関東からブラジル人
グル-プが来て、炊き出しでブラジルのバーベキューをしてくれたこともあります。その
時はまさかお肉を食べられると思わなかったので嬉しかったです。ライフラインが落ち着
くまでの間は、仙台は一ヶ月くらい色々本当に大変でしたけれど、たくさんの方の支えが
あったので、この苦難を乗り越えることができたと思います。
ライフラインがある程度落ち着いたころには、うちのマンションに避難していた夫の兄
家族は家を借りて引っ越しをしました。夫の両親も伯母の家から出て小さいアパートを借
りることができました。うちはまだ幸せな方だと思います。仮設住宅の建設を待っていた
被災者は、3ヶ月くらい避難所で共同生活していました。その間も日本に住んでいるブラ
ジルの方のボランティアがたくさん来てくれました。大阪のボランティアグル-プは、今
でも季節ごとに東北地方に来てくれますのでとても感謝しています。
そして私は、たまたま支援物資を避難所に配る活動から、他にいろいろなボランティア
活動を始めましたが、本音を言うと最初は日本から離れたかった気持ちを忘れるためにや
っていたのかも知れません。でも活動をしていくうちに、いろいろなステキな方に会った
り、仮設住宅の住民の顔を見たりするうちに私も考え方が変わっていきました。それはと
ても不思議だと思います。
私はボランティアグル-プや NPO グル-プに入っているわけではありません。全部個
人でやっていて、少し大変なこともあります。被災地のボランティア活動にはグル-プで
来られることがありますが、被災から3、4ヶ月経ったとき、たくさんのブラジル人がボ
ランティア活動に来られ、その受け入れをする中でたくさん勉強させてもらいました。被
災者が仮設住宅などで一緒にボランティア活動をやったり、ボランティアグル-プを仮設
住宅の会長に紹介したりしました。この活動にたくさん励まされました。ボランティアグ
ル-プのみなさんとブラジルのバーベキュー、音楽、ブラジル文化の紹介などを行い、私
たちはボランティアをしているつもりですが、逆に被災地の皆さんからパワーをいただい
ているような気がします。震災から1年10ヶ月くらい経ちましたが、ボランティア活動
は時々やっています。特に東京、大阪から来てくれるボランティアグル-プと交じって活
動をしています。
皆さんは多分ご存知ないと思うのですが、地震のあとから今まで、毎日と言えるぐらい
余震があります。もう慣れっこになったとは言っても、たまに少し大きい揺れがあるので
いつも怖くなります。そのストレスでも多くの方が亡くなりました。さらに余震のあまり、
自律神経がみだれた人がたくさんいました。
現在、被災地では復興のためにみんな頑張っているけれど、本当に問題はたくさんあり
ます。
さて、ではこの非常持出袋について少しお話ししましょう。
まずはこのポリタンク、これはとても便利です。最初は水がないので、支給される物が
飲み水です。仙台では常にお風呂に水を溜めておくという習慣があるので、ちなみに、お
風呂を洗ったりする場合は、洗ってからまた溜めておきます。その水はトイレを流すため
に使ったりしますが、とても飲める物ではありません。ですので、この時にポリタンクが
あればとても便利です。
次にこのラップ。コレも必要な物になります。今でもかなり消費しますので、私の家に
は色々な大きさのラップがあります。ラップは紙皿等で食べる時にお皿に巻いてからその
上に食べ物をおく事でお皿を汚さず、更には洗う必要もないので水を消費しなくて済むと
いう、使い方があります。その他にも食べ物や、お皿に巻いておく事で埃や汚れ予防にも
なります。今では食器はほぼ全て使い捨ての紙やプラスチック製のものですが、それでも
毎回買い足すことが出来ないので、同じようにラップで何度も使い回しています。
次にこのラジオ。今ではラジオはもう過去の物だと言われていますが、それは大いに間
違っています。こういう非常時には、どんな情報もラジオが早く流します。テレビやイン
ターネットは電気が無ければ観ることが出来ないので、こういう手動で充電できるものだ
と本当に助かります。ラジオの他にライトや、携帯電話も充電が出来る物もあるので、非
常時には必要不可欠です。
ゴミ袋、ゴミを捨てる等の他に、汚いバケツでもゴミ袋で包んで、きれいなお水を入れ
て運べるので便利です。
ウエットティッシュ、手洗いは重要ですが、水が無いところではやはりコレが一番活躍
します。
防寒カッパ、私のバッグにはコレはありませんでしたが、本当にあったかいです。
非常食、アルファ米。ご飯がこんなに手軽に食べられるのはとても嬉しいです。色々な
味もありますし、あるととても便利です。
乾パン。正直最初は全然食べる気にならなかったのですが、毎日毎日ご飯ですと他の物
も食べたくなったので、コレを食べてみたのですが、想像以上においしかったです。
ちなみにですが、東北の外国人は少ないからかは知りませんが、言語で困るような事は
ありませんでした。みんな日本語がしゃべれたので特に不自由はしませんでしたし、避難
のときも差別等はいっさい無かったのでとても助かりました。
しかし、同じ事がもし滋賀で起きたらどうでしょう?あまり日本語がしゃべれないと聞
きましたので、大使館や市役所がどのように彼らを援助するのかは心配です。
また、母国へと帰った人は少なくありません。それは特に問題は無いのですが、緊急で
帰ったこともあり、東北では問題が増えております。それは、住宅等の放置です。アパー
トを借りていた人が多くて、しかし急に帰ってしまったので、連絡の取りようもありませ
ん。少し前まで住んでいたので、家具や車等も全て放置されたままです。その他、人の家
に勝手に入る事も、ましては壊す事も出来ません。
そして必要物資というのは本当に毎週毎週と変わっていきます。最初は服と食料が必要
になりますが、それが必要以上の量となった場合は物資を断る以外ないのです。保管場所
がないからです。物資を送る場合は、皆さんにも気をつけてほしいのですが、相手に確認
をとってから送らないと無駄になってしまいます。貯蔵スペースは有限ですので、必要最
低限の物しかおく事が出来ません。多くのブラジル人が自分たちで物資を市役所等に持っ
て行っていましたが、保管場所が無いとのことで断られていました。そしてそれが我々の
ところに持ってこられたので、こちらで他のところに廻したりしてうまく調整が必要と思
いました。断ってしまったら、ここまで来てくれた彼らにとても失礼でしたし。
今でも余震がくる事は多いです。そうなると体がおかしくなり、揺れてもいないのに揺
れている感覚がする。一種の病気です、被災地では多くの人がこれにかかっています。後
は地震と津波、その大惨事を見た人たちのトラウマも小さくはありません。少し揺れたり
するだけでも震えだしたりする人もいます。
電車に閉じ込められた甥は未だにテレビの地震の映像等を見る事が出来ませんし、少し
揺れると大変怖がります。一番下の子は幸いにもトラウマにならず、元気に遊んでいます。
夫側の伯父二人といとこは津波に流され亡くなりました。仙台で私の父方の実家も津波で
全滅です。はとこ一家は津波で亡くなりました。よく考えてみれば、生かされた私たちに
は亡くなった皆様の分を背負って生きていかなければなりません。
東北の人は、最初はあまりよく接してくれません。それは外国人だからとか関係なく、
全員に対してそうみたいです。ただ友達になるととても親切でよくしてくれます。
この出来事の前と今では私の考え方はとても大きく変わりました。今ではすごく“今”
を大切に生きています。地震を体験したあの 3 分は、本当に今までの人生を走馬灯のよう
に、全て考える事が出来ました。ですので、今日を大切に。明日は生きているかさえもわ
からないですし、明日の事なんてわかりません。昨日は存在しない。大切なのは“今日”
です。
私はボランティア団体には参加してなくて、震災でやっていたことや今までの活動はす
べて個人でやっています。色々な方に勘違いを招く行動かも知りませんが、実は今までや
って来たことはすべてプランニングしてなくて自然に生まれた活動です。
宮城県仙台市、とても綺麗なところですので、皆さんも一度お越しになってください。
以上