「アガペー」は神の愛を表す言葉か

「アガペー」は神の愛を表す言葉か
東京都立山崎高等学校
中村康英
ギリシア語で愛を表す言葉であるアガペーとエロスは一般的に広く知られている言葉で
ある。アガペーはキリスト教的な神の愛を表す言葉であり,エロスは性的な愛を語るとき
に使うことができる言葉であるとともに、自分の中にないより価値のあるものを求め自分
のものにしたいと願う愛として知られている。以上のような、アガペーとエロスについて
の考え方は一般的に承認されているものであり、それは教科書の中にも反映されている。
その根拠を最近の高等学校教科書において表記されていることを通して示しておく。
「放蕩のかぎりをつくし、落ちぶれて帰ってきた息子をやさしくだきかかえる父親に神
をたとえて、神の愛がどんなものであるかを教えた。そのような神の愛は、アガペーと
い う 言 葉 で 表 現 さ れ る が 、そ れ は 他 者 を 生 か す 無 差 別 、無 償 の 愛 で あ り 、ギ リ シ ア 的 な 、
自 分 に 欠 け た よ り 価 値 の 高 い も の を 求 め る 愛 で あ る エ ロ ス と は 異 な る 。」( 東 京 書 籍 ) 1
「エロスは、真・善・美のような価値あるものを求めて天上をあこがれていく『求める
愛』であるのに対して、アガペーは、……(中略)……どんな価値のない者に 対しても
無 条 件 に 上 か ら 注 ぎ か け る 無 差 別 の 『 与 え る 愛 』 で あ る 。」( 山 川 出 版 ) 2
「アガペーとしての愛は、価値や報いがあるからそのものを愛するというのではなく、
無 価 値 と 思 わ れ る も の を こ そ 愛 し 、は げ ま し 、勇 気 づ け て く れ る も の で あ る 。こ の 愛 は 無
差 別 平 等 の 無 償 の 愛 と し て 万 人 に そ そ が れ る 。」( 清 水 書 院 ) 3
「魂をイデアへと向かわせる情念を、エロスという。完全なものへの思墓であるエロス
は 、 人 間 の 徳 を 向 上 さ せ る 原 動 力 と な る 。」( 清 水 書 院 ) 4
「 (ア ガ ペ ー と は ) ど ん な に 弱 く 、 無 価 値 の よ う に 見 え る 人 に 対 し て も 、常 に 無 償 で 、 無
差別に与え続ける愛のことで、価値のあるものを求めるギリシャ思想のエロスとは対照
的 で あ る 。」〈 中 教 出 版 ) 5
――――――――――――――――――
1
平 木 幸 次 郎 ほ か 7 名 『 倫 理 』 来 京 書 籍 株 式 会 社 、 51 頁 、 2008 年 。
2
湯 浅 泰 男 ほ か 3 名 『 倫 理 』 山 川 出 版 社 、 35 頁 、 2007 年 。
3
菅 野 覚 明 ・ 熊 野 純 彦 ・ 山 田 忠 彰 ほ か 4 名 『 新 倫 理 改 訂 版 』 清 水 書 院 、 41 頁 、2007 年 。
4
同 書 、 31 頁 。
5
勝 部 真 長 ・ 持 田 行 雄 ほ か 8 名 『 倫 理 』 中 教 出 版 、 48 頁 、 脚 注 ① 、 2003 年 。
-1-
この教科書のなかで描かれている愛は、キリスト教的な神の愛を表す言葉としてのアガ
ペーと、自分に欠けたより価値の高いものを求め、自分のものにしたいと願うエロスであ
る。ここでの愛の定義は、A.ニーグレンの愛についての理解の仕方に従って述べられて
いると考えられる。
アガペーとエロスについて論じ、アガペーはキリスト教的な神の愛を表す言葉であると
断言した代表的な研究者はニーグレンである。アガペーはキリスト教の愛の本鷺を表す言
葉 で あ り ,エ ロ ス の 本 質 は 自 己 愛 で あ る と す る 彼 の 考 え 方 は 現 在 の ア ガ ペ ー と エ ロ ス に つ
いての一般的な理解に深い影響を与えている。いま述べたような、アガペーとエロスにつ
いて考え方とは別の理解が、オリゲネスの中にあることが指摘されている。 6
1節 アガペーとエロスについて
アガペーとエロスという愛を表す言葉が、研究者にはどのように理解されているのであ
ろうか。
アガペーとエロスについて論じ、その意味をキリスト教的な神の愛を表す愛と、ギリシ
ア的プラトン的な愛を表す言葉として断言した代表的な研究者はニーグレンである。アガ
ペーはキリスト教の愛の本質を表す言葉であり,エロスの本質は自己愛であると彼は述べ
る。
ニーグレンはエロスという言葉で表わされる愛とアガペーという言葉で表わされる愛に
ついて次のように語る。
「エ ロ ス と ア ガ ペ ー の 相 違 は 程 度 の 差 で は な く て 、 種 類 の 相 違 な の で あ る 。」 7
「一 方 の 場 合 に は 、 我 々 は 自 己 中 心 の 宗 教 を 得 る し 、 他 方 の 場 合 は 神 中 心 の 宗 教 を 得 る
の で あ る 。」 8
「ひ と つ の 場 合 に は 神 が 個 人 の 必 要 と 願 望 の 究 極 的 充 足 と し て 求 め ら れ る し 、 他 の 場 合
に は 、 神 が 人 間 の 自 我 を 全 く 支 配 す る 全 能 者 と し て 求 め ら れ る の で あ る 。」 9
アガペーは次のようなものであるとニーグレンは語る。
――――――――――――――――――
6
オ リ ゲ ネ ス 0 rigenes 184/5‐ 253/4 キ リ ス ト 教 最 大 思 想 家 の 一 人
最初の聖書学者ア
レ ク サ ン ド リ ア に 生 ま れ る 。 ス ト ア 派 ,プ ラ ト ン ,中 期 プ ラ ト ン 主 義 の 知 識 を 吸 収 し た 。
7
Nygren, Anders, Den kristna karlekstanken, 1930, ( 大 内 弘 助 訳 『 ア ガ ペ ー と エ ロ
ス』I,
新 教 出 版 1966 年 , 20 頁 。
8
同 上 書 , Ⅰ , 14 頁 .
9
同 上 書 , Ⅰ , 15 頁 .
-2-
「ア ガ ペ ー は 神 ご 自 身 の 人 間 に 至 る 道 で あ る 」 1 0
「ア ガ ペ ー は キ リ ス ト 教 の 愛 の 標 準 で あ る 」 1 1
「十 字 架 上 に 示 さ れ た 愛 は 神 ご 自 身 の 愛 で あ る 」 1 2
エロスとアガペーは本質的に種類を異にする愛であり、それぞれ自己と神という異なっ
た方向を目指す愛であるとニーグレンは語る。さらに、彼は、アガペーで表される愛は神
の愛の下降運動であり,神の愛がその愛の根本であると述べている。このアガペーという
言 葉 に よ っ て 人 間 の 自 己 に 対 す る 愛 を 表 す こ と は で き な い と 、 彼 は 考 え る 。 13
エロスについては次のように語る。
「 エ ロ ス 愛 は 、隣 人 を 隣 人 自 身 の た め に で は な く 、自 分 の 必 要 を 満 た す た め や 、善 へ の
向 上 の た め の 手 段 と し て 求 め る の で あ る 。…( 中 略 )… そ し て こ の 愛 は 、人 間 が 、感 覚
の 世 界 か ら 実 在 の 世 界 へ 、 昇 っ て い く 上 昇 運 動 の 一 つ で あ る 。」 1 4
「 自 己 愛 は エ ロ ス の 本 質 そ の も の で あ る 。」 1 5
さらに、エロスで表される愛において神自身には愛が欠けていると、ニーグレンは述べ
て い る 。 16
以 上 の よ う に 、ア ガ ペ ー は 神 の 愛 で あ り 、 神 か ら 人 に 向 か う 下 降 運 動 で も あ る と 定 義 し 、
エロスは自己愛であり、必要を満たすための上昇運動であるとニーグレンは断言する。そ
の考え方に立ってオリゲネスの愛について次のように主張する。
「 救 い の 道 に つ い て の 彼( オ リ ゲ ネ ス )の 見 解 は 、同 じ よ う に 明 白 に エ ロ ス 説 に 依 存 し
て い る 。 そ れ は 、 上 昇 運 動 、 す な わ ち 上 昇 の 観 念 に 全 く 支 配 さ れ て い る 。」 1 7
オ リ ゲ ネ ス の 神 の 救 い に つ い て の 理 解 は 、下 降 運 動 と し て の 十 字 架 上 に 示 さ れ た 神 の 愛 、
すなわちアガペーに基づくものではない自己愛というべきエロスに基づいているとニーグ
レンは述べている。即ち、オリゲネスはキリスト教を代表する3世紀の思想家ではあるが
キリスト教の神によって表現された愛を理解せずにプラトン的範疇の中で神の愛を理解し
ているので真のキリスト教徒ではないと主張しているのである。
――――――――――――――――――
10
同 上 書 , Ⅰ , 49 頁 .
11
同 上 書 , Ⅰ , 62 頁 .
12
同 上 書 , Ⅰ , 87 頁 .
13
同 上 書 , Ⅰ , 197 頁 参 照 .
14
同 上 書 , Ⅰ , 193 頁 .
15
同 上 書 , Ⅰ , 195 頁 .
16
同 上 書 , I , 197 頁 参 照 .
17
同 上 書 , Ⅰ , 200 頁 .
-3-
以 上 の よ う な 、ア ガ ペ ー は 神 の 愛 で あ り 、神 か ら 人 に 向 か う 下 降 運 動 で あ る と 定 義 し 、エ
ロ ス は 自 己 愛 で あ り 必 要 を 満 た す た め の 上 昇 運 動 で あ る と い う 主 張 に 対 し 、 J .M .リ ス ト
はエロスについてニーグレンとは別の理解を提示し 、ニーグレンに反論している。
リストは『エネアデス』でプロティヌスが一者(神)はエロスであると述べているのに
言及して、次のように述べている。18
「 一 者 (神 )を エ ロ ス と い う だ け で 、ニ ー グ レ ン の 見 方 に 対 す る 反 論 に な る 。何 故 な ら 、
一 者 ( 神 ) が 上 昇 す る 場 所 は ど こ に も な い か ら で あ る 。」 1 9
エロスという言葉が神である一者に帰せられることによってエロスという言葉はニーグ
レ ン の い う 意 味 と は 異 な る 意 味 を 持 つ こ と に な る 。な ぜ な ら 、欠 け る と こ ろ の な い 一 者 (神 )
がさらに善くなる余地はないからである。このように、一者(神)が上昇運動の一つであ
るはずのエロスであると言うことによって、エロスで示される愛はニーグレンが主張する
意味とは別の意味を持った言葉ではないかという見方を提示することができるようになる。
即ち、エロスは自己愛であり必要を満たすための上昇運動としての愛では無く、アガペー
の様な下降を示す愛であることを示唆することになる。リストは次のように述べる 。
「 一 者( 神 )の エ ロ ス は 上 へ も 下 へ も 向 か わ な い 。し か し 、間 接 的 で は あ る が 、一 者 は
下 へ 向 か う 動 き の 原 因 で あ る 。」 2 0
さらに、プロティヌスにおいては示唆されているだけの下向きのエロスがオリゲネスに
おいてはプロティヌス以上にはっきり示されているとリストは主張するのである。
「 渇 望 で あ る エ ロ ス だ け で な く 下 向 き に 流 れ る エ ロ ス を オ リ ゲ ネ ス は 認 め て い る 。」2 1
「 プ ラ ト ン と オ リ ゲ ネ ス の 間 の 相 違 は 次 の よ う な こ と で あ る 。即 ち 、知 恵 の 愛 又 は イ デ
ア で あ る 神 も し く は 一 者 の 愛 が 非 人 格 的 な も の で あ り 、生 命 の な い も の の 愛 で あ る の に
対 し 、 オ リ ゲ ネ ス の 花 婿 の 愛 は 人 格 的 な 愛 で あ る 。」 2 2
聖書の『雅歌』の花婿は人格を持つた花婿であり、その愛はエロスという言葉で表現さ
れている。そして、エロスという言葉で表現される愛で花嫁を愛する花婿とはキリストの
ことである。又、花嫁とは教会のことである。従って神であるキリストの愛は下向きの愛
――――――――――――――――――
18
プ ロ テ ィ ヌ ス 204/5-270 新 プ ラ ト ン 主 義 の 創 始 者 。ア レ ク サ ン ド リ ア で ア ン モ ニ オ ス・
サッカスに師事した。オリゲネスと同門。
19
Rist,John M., Eros and Psyche, University of Toronto Press,1967,P81.
20
Ibid., p.83.
21
Ibid., p.207
22
Ibid., p.210.
-4-
であり、その愛はここではエロスという言葉で表現されている。だから、ニー グレンの
ように、アガペーは神の愛であり、神から人に向かう下降運勵でもあるとし、エロスは自
己愛であり、必要を満たすための上昇運動であると定義することはできないとリストは主
張するのである。
エロスは自己愛であり、必要を満たすための上昇運動であるというニーグレンの主張に
対 し 、プ ロ テ ィヌ ス に お い て 示 唆 さ れ 、オ リ ゲ ネ ス に お い て は っ き り 示 さ れ て い る 下 向 き の
エロスを提示することによって、リストは反論している。
ニーグレンの、神の愛であり神から人に向かう下降運動としてのアガペーと自己愛であ
り必要を満たすための上昇運動としてのエロスという構造を踏まえたうえで、リストは、
エ ロ ス に は 下 向 き の 運 動 が あ る こ と を 示 す こ と で 反 論 し て い る 。し か し C.オ ズ ボ ー ン は ニ
ーグレンが提示した構造自体に異論を唱え次のように主張する。
「『 プ ラ ト ン に と っ て 、 愛 は 、 ま ず 第 一 に 、 足 り な い た め に 手 に 入 れ た い と 望 む 何 か を
求 め る 欲 望 で あ る 』と い う こ の 主 張 は ニ ー グ レ ン が プ ラ ト ン の『 饗 宴 』を 読 ん で い く と
き の 見 力 で あ る 。」 2 3
「 ニ ー グ レ ン が デ ィ オ テ ィマ の 話 の な か に 見 出 し た よ う な 、 欲 し い も の を 手 に 入 れ よ う
と す る エ ロ ス に つ い て の 見 解 は 、キ リ ス ト 教 の モ テ ィ ー フ と し て は 納 得 の い く も の で は
な い と い う こ と に 同 意 す る こ と と 、エ ロ ス を 完 全 に 否 定 す る こ と は 、全 く 別 の こ と で あ
る 。」 2 4
オズボーンはニーグレンが示すエロスの意味自体に疑問を呈しているのである。ニーグ
レンが提示した意味でのエロスをキリスト教の神の愛を示すものとしては受け入れること
ができないからといって、エロスで表現される愛自体を拒否することにはならないと主張
している。
「プ ラ ト ン の 『 饗 宴 』 は 伝 統 的 な 方 法 で 読 ま れ る べ き で は な い 。 プ ラ ト ン 自 身 が 、 何 か
を 求 め る 愛 の 対 象 を 乞 い 求 め る と 訴 え る こ と に よ っ て 愛 が 説 明 さ れ た り 、愛 が 自 己 愛 に
よって動機づけられているととられるべきではないという理由を示唆しているのであ
る 。」 2 5
「 何 か を 求 め る 愛 の 対 象 を 乞 い 求 め る と 訴 え る こ と に よ っ て 愛 が 説 明 さ れ た り 、愛 が 自
己 愛 に よ っ て 動 機 づ け ら れ て い る と と ら れ る べ き で は な い と プ ラ ト ン 自 身 、示 唆 し て い
る 。」 2 6
――――――――――――――――――
23
0sborne, Catherine, Eros unveiled, Oxford University Press, 2002, p.54.
24
Ibid., p.55.
25
Ibid., p.54.
26
Ibid., p.55.
-5-
ここでオズポーンは、自己愛であり必要を満たすための上昇運動として、エロスを理解
すること自体に異を唱えている。そのように異を唱えることはプラトン自身の考えに基づ
くものでもあると、主張している。
さらに、ニーグレンの主張するアガペーの理論についても異を唱える。
「 エ ロ ス も ア ガ ペ ー も 、寛 容 な 関 心 と 自 己 中 心 的 な 関 心 に よ っ て 特 徴 づ け ら れ る 愛 を 示
すものである」27
アガペーはキリスト教の愛の本質を表す言葉であり 、エロスの本質は自己愛であるとす
るニーグレンの主張に反対し、オズボーンは、アガペーもエロスも他者に対する無償の愛
と他者に何かを求める自己中心的な側面の両方を持つ言葉であると 述べるのである。28
「『 高 め ら れ た ア ガ ペ ー は エ ロ ス と 呼 ば れ る 』 と 雅 歌 注 解 の な か で グ レ ゴ リ ウ ス は 言 っ
て い る 。」 2 9
「オリゲネスは、二つの言葉の間には重要な相違は全くないと主張している」 30
「 オ リ ゲ ネ ス の コ メ ン ト は 、ア ガ ペ ー と エ ロ ス と い う 言 葉 は 文 の 脈 略 の な か で 良 く も 悪
くも表現され得るということを示している」31
「高められたアガペーはエロスと呼ばれる」というグレゴリウスの主張と「二つの言葉
の間には重要な相違は全くない」というオリゲネスの主張を根拠にしてアガペーとエロス
は本質を異にする言葉ではなく似た内容を表現できる言葉であるというのである。このよ
うな理解に立った上でオリゲネスは、エロスという言葉は、神が与える利益や神の美しさ
を求める欲望によって駆り立てられるものと理解すべきではないと考えていると、オズボ
ーンは述べる。
「 オ リ ゲ ネ ス は 、エ ロ ス と い う 言 葉 で 述 べ ら れ て い る 神 と 魂 が 関 わ り を 持 つ こ と を 認 め
て い る 。し か し そ の 愛 は 神 が 与 え る 利 益 や 神 の 美 し さ を 求 め る 欲 望 に よ っ て 駆 り 立 て ら
れ る も の で は な く 、 神 の 愛 の 弓 矢 の 傷 に よ っ て 駆 り 立 て ら れ る も の で あ る 。」 3 2
「 オ リ ゲ ネ ス は 、ニ ー グ レ ン が プ ラ ト ン の『 饗 宴 』の な か で 見 出 し た よ う な 肉 的 な 欲 望
に よ る 分 析 に 向 か う よ う な 傾 向 を 全 く 示 し て い な い 。」 3 3
――――――――――――――――――
27
Ibid., p.70.
28
Cf. Ibid., p.70.
29
Ibid., p.70.
30
Ibid., p.70.
31
Ibid., p.70.
32
Ibid., p.84.
33
Ibid., p.85.
-6-
オリゲネスにおける「エロス」についての理解は、それは「アガペー」という言葉と共
通の意味をもち得る言葉であり、ニーグレンがプラトンの『饗宴』のなかで見出したよう
な傾向を持つものではないとオズボーンは主張するのである
以上述べてきたように、プラトンの『饗宴』におけるエロスを根拠にして、ニーグレン
の主張にオズボーンは反対する。反対の立場に立った上でアガペーもエロスも共通の意味
をもった言葉であることを示す。そして「二つの言葉の間には重要な相違は全くない」と
いうオリゲネスの言葉に同意し、無償の愛と、他者に何かを求める自己中心的な側面の両
方を持つ言葉であると主張する。
2節 アガペー
アガペーという言葉をオリゲネスがどのように理解していたのであろうか。
『ヨハネによる福音注解』で、愛(アガペー)はキリストを通して働き、人間が霊的に成
長することを助ける。そのようにして、神からの愛(アガペー)を心の内に持った人間は
十 字 架 上 の キ リ ス ト を 誇 り に 思 い 、 神 と 人 を 愛 す る よ う に な る と 語 る 。『 雅 歌 注 解 』 で は 、
神 の 愛 は 、神 の 独 り 子 で あ る キ リ ス ト が 人 間 に な る と い う 謙 り( kenosis)の 中 に 現 わ れ て
い る 視 点 に 立 っ て 神 は 愛 (ア ガ ペ ー )で あ る と オ リ ゲ ネ ス は 語 る 。
『ヨハネによる福音注解』
においても『雅歌注解』においても十字架上のキリストや受肉して人間の罪の償いとして
死んだ子の中に神の愛(アガペー)が現われているとオリゲネスは考える。しかし他方で
『ヨハネによる福音注解』においても『雅歌注解』においても、割合は少ないながらも、
愛(アガペー)という言葉が、この世や悪魔や闇を愛するという文脈でも使われ、この世
的なものを愛する愛を表すためにアガペーを使うことができると考えている。
3節 エロス
私 は 『 雅 歌 注 解 』 で 使 わ れ て い る 115 例 の ギ リ シ ア 語 の エ ロ ス に 該 当 す る ラ テ ン 語 の 言
葉 を 考 察 し た 。そ の う ち 81 例 が 、魂 が 、欠 け た 何 か を 充 足 し よ う と す る 動 き に 関 す る も の
で あ っ た 。 例 え ば イ サ ク は リ ベ カ を 愛 し た ( adamare ) と い う よ う に 異 性 に 対 す る 愛
( Prologus-2-23.)、あ る い は お 金 に 対 す る 愛 (amor)
( Prologus-2-39.)さ ら に 虚 栄 を 愛 し
( cupidus)(Prologus-2-39.)と い う よ う に こ の 世 的 な も の を 求 め る 愛 と し て 使 わ れ て い る 。
こ の エ ロ ス は 知 恵 に 対 す る 愛 ( エ ロ ー ス )( amor)( Prologus-2-22.) と 言 う 形 で も 使 わ れ
る 。 さ ら に こ の エ ロ ス は 魂 を 地 上 か ら 天 の 一 番 高 い 端 ま で 導 い て い く 愛 (エ ロ ー ス ) (a m
o r)で あ り 、そ れ は 渇 望 の 渇 き に よ っ て 呼 び 出 さ れ る も の で あ る( Prologus-2-1)。こ こ で
述べられているエロスはその対象が善いものであれ、悪いものであれ自分に欠けているも
のを満たし自分を充足させるために使われている。自分に欠けてい るものを満たし自分を
充足させると言う意味で、その対象が異性であれ、金であれ、虚栄であれ、知恵であれ、
-7-
天の一番高い端であれ、このエロスはニーグレンが指摘する上昇のエロスの考え方と一致
するように見える。
し か し 、オ リ ゲ ネ ス に お い て エ ロ ス は ニ ー グ レ ン が 指 摘 す る エ ロ ス と は 別 の 使 わ れ 方 も す
る。
『 雅 歌 注 解 』第 3 巻 - 1 4 - 9 で 述 べ ら れ て い る よ う に 。花 婿 で あ る キ リ ス ト は 花 嫁 で あ
る 教 会 に 愛 (エ ロ ー ス ) を 感 じ て い る 。花 嫁 を 愛 す る (amare)花 婿 は 死 す べ き 花 嫁 に 代 わ り 、
死んだ。教会である花嫁に代わって死んだ花婿は、人々にとっ ては大祭司であり、その大
祭 司 は 人 々 に 代 わ っ て 死 ん だ と オ リ ゲ ネ ス は 語 る 。こ の 大 祭 司 と は 、
「へ ブライ人への手紙」
9 章 11 節 ~ 14 節 で 述 べ ら れ て い る 人 々 の た め に 死 ん だ キ リ ス ト で あ る 大 祭 司 で あ る 。彼 は 、
花婿が花嫁に愛を感じているように、人々に愛を感じていると考えられる。ここで述べら
れ て い る 愛 は「 ヨ ハ ネ 第 1 の 手 紙 」4 章 7 節 ~ 10 節 で 述 べ ら れ て い る 神 の 愛 で あ り「 わ た
したちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえと
し て 、御 子 を お 遣 わ し に な り ま し た 。こ こ に 愛 が あ り ま す 。」
( 日 本 聖 書 協 会 新 共 同 駅 )と い
う、神が受肉することによって表現された愛である。その愛を「エロス」という言葉を使
って表現することができるとオリゲネスは語っているのである。
以 上 述 べ て き た よ う に 、「 エ ロ ス 」 は 、 主 に 、こ の 世 的 な も の 等 に 対 す る 渇 望 の 渇 き に よ
っ て 呼 び 出 さ れ る も の の た め に 使 わ れ る 言 葉 で あ る が 、受 肉 し た 神 の 愛 を 表 現 す る た め に
も使うことができる言葉であるとオリゲネスは考えている。
4節
アガペーとエロス
ニ ー グ レ ン は「 十 字 架 上 に 示 さ れ た 愛 は 神 ご 自 身 の 愛 で あ る 」と 考 え 、こ の 愛 こ そ ア ガ ペ
ーであると彼は主張する。それゆえエロスという言葉でも神の愛を表現することができる
と考えるオリゲネスは、プラトン主義者であって使徒以来の伝承に立っていないという結
論に達する。
オリゲネスはアガペーという言葉とエロスという言葉を相互に置き換え可能な言葉と考
えている。その具体的な例を見ていくことにする。
『 雅 歌 書 注 解 』 の 序 文 で cupido や amor と い う 愛 ( エ ロ ー ス ) を calitas や directio と
い う 愛( ア ガ ペ ー )と い う 言 葉 を 使 っ て オ リ ゲ ネ ス は 表 現 す る 。 3 4 さ ら に『 雅 歌 書 注 解 』
の 序 文 で オ リ ゲ ネ ス は あ る 男 を 愛 し た 女 を 例 に 挙 げ て い る 。あ る 男 を 愛 す る( amare)こ と
で 燃 え 上 が り 、そ し て 愛 す る (cupere)と 言 っ た 直 後 に 、愛 す る (diligere)男 を そ の 女 ば 喜 ば
すとオリゲネスは表現する。35
同 じ <『 雅 歌 書 注 解 』 の 序 文 、 前 例 の す ぐ 後 で 、 完 全 な 愛 〈 ア ガ ベ ー ) (caritas)に つ い
て 語 る 。心 の 全 て を か け て 、魂 の 全 て を か け て 、力 の 全 て を か け て 愛 し( amare)熱 く な る
――――――――――――――――――
34
Origene, Comentaire sur le
Cantique des Cantiques, ed, H. Crouzel, Paris, 1961,
Prologus-2-20.
35
Ibid., Prologus-2-43.
-8-
こ と で 完 全 な 愛( ア ガ ペ ー )(caritas)が 実 現 す る と 主 張 す る 。 3 6 即 ち 、ア ガ ペ ー は エ ロ
スによって実現すると語っているのである。
『 雅 歌 書 注 解 』 の 第 1 巻 で オ リ ゲ ネ ス は 花 婿 の 胸 に 向 け る 愛 に つ い て 語 る 。「 花 婿 の 胸 に
向ける愛(エロース)によって動かされることができる」と語った直後に「花婿の胸が愛
さ れ る ( diligere) で し ょ う 」 と 述 べ る 。 同 じ 花 婿 の 胸 が エ ロ ス と い う 言 葉 で 表 現 さ れ る
愛によって愛されると語られた直後に、アガペーという言葉で表現される愛によって愛さ
れると語るのである。37
『 雅 歌 書 注 解 』の 第 2 巻 で 、愛〈 ア ガ ペ ー )(caritas)は 全 て を 耐 え と 語 っ て い る パ ウ ロ は 、
愛 (エ ロ ー ス )
( amor)の 力 に よ っ て 語 っ て い る と オ リ ゲ ネ ス は 言 う 。さ ら に『 雅 歌 書 注 解 』
第 3 巻 で 知 恵 の 美 し さ を 愛 す る 人 ( amator) は 知 恵 を 愛 す る ( diligere) 人 で も あ る と 述
べ る 。3 8
又 、オ リ ゲ ネ ス は ア ガ ペ ー と エ ロ ス を「 ア ガ ペ ー や エ ロ ス 」と い う 形 で 5 ケ 所
で並列的に並べて愛を表す言葉として使う。39
以上述べてきたようにオリゲネスはエロスという言葉をアガペーという言葉に置き換え
可能な言葉として理解しているのである。しかし、神はエロスであるというと、エロスは
この世的なものを求める愛を意味することのために多く使われているので、より弱い人た
ちは誤解して躓くかもしれない。そこでオリゲネスは語るのである。
『 雅 歌 注 解 』 序 文 -2 - 2 0 ( Prohgus-2-20)
「しかしながら聖書はエロスという表現が読者を躓かせることのないようにしている
う に 思 え る 。即 ち 、よ り 弱 い 人 た ち の た め に 、こ の 世 の 賢 者 が エ ロ ス と 呼 ん で い る 言 葉
に 対 し て よ り よ い 言 葉 、 即 ち 、 ア ガ ペ ー を 使 っ て い る 。」
しかしアガペーとエロスは置き換え可能な言葉であるのでアガペーという言葉さえも
「読者を躓かせる」可能性を持っている。ダビデの息子アムノンが妹タマルをレイプした
という聖書の箇所を引用して、エロスの動詞形を使うべきところをアガペーの動詞形を聖
書は使い、
「 (ダ ビ デ の 娘 タ マ ル を )愛 し た( admare)と い う 代 わ り に 、愛 し た( diligere)
と置き換えた」とオリゲネスは述べる。40
だから、オリゲネスは「神はアガペーであ
る」という言葉に不安を持つ。
――――――――――――――――――
36
Ibid., Prologus-2-43.
37
Ibid., 1-6-4.
38
Ibid., 3-7-2.
39
Ibid., Prologus-2-44. Ibid., Prologus-2-45. Ibid., Prologus-2-47. Ibid., 2-11-3.
Ibid., 3-7-2.
40
Ibid., Prologus-2-20.
-9-
『 雅 歌 注 解 』 序 文 - 2 - 3 8 ( Prologus-2-38)
「愛 ( ア ガ ペ ー ) は 神 の も の で あ り 、 神 の 贈 り 物 で あ る の に 、 必 ず し も 、 人 か ら 出 て も
神 に 属 す る こ と や 神 が 望 む こ と へ と 向 か わ ず 、神 の 動 き と み な さ れ て い な い よ う に み え
る 。」
以上述べてきたように、3世紀のアレクサンドリアにおいてアガペーという言葉は必ず
しも神の愛を表す言葉として限定されたものではなく、エロスという言葉と置き換え可能
な言葉であったのである。
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