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私にとっての海外での研究生活の意味
高橋 正征 (東京大学・高知大学名誉教授)
東京教育大学理学部生物学科植物学専攻卒(1965 年)
東京教育大学理学研究科植物学専攻修士課程修了(1967 年)
東京教育大学理学研究科植物学専攻博士課程修了(1970 年)理学博士
このところ日本から海外に留学や長期研究に出かける若手が少なくなったと言われます。
海外経験には、様々なプラスがありますが、同時にマイナスも結構たくさんあります。こ
うしたプラス・マイナスは、時代とともに変化したりしますから、私の経験が必ずしもそ
のまま利用していただけませんが、何らかのヒントになるかもしれないと思い、今回、書
かせていただくことにしました。
私は 1970 年 3 月に博士課程を修了し、学位を取得しました。当時は、学位取得しても国
内ですぐに就職することは容易ではなく、多くは同じ大学や他大学で研究生として就職先
の見つかるのを待っているのが普通でした。しかし、私は、カナダでの研究生活を希望し
て、カナダ政府招聘の PDF に応募しました。これには背景がありました。恩師の故市村俊
英筑波大学名誉教授の旧知の T.R.Parsons 博士(当時は、ナナイモ海洋生物研究所)が、
私の学位論文を学術誌に公表する件で修士課程の 2 年生から、相談にのってくれました。
お蔭で、D1 で第 1 報を、博士課程の修了した年に第 2 報を、共に私の専門分野で世界をリ
ードしている“Limnology and Oceanography”誌に発表できました。
学内外の先輩や知人は、皆さんが私のカナダ行について“日本で就職してからにしない
と、将来、日本に戻って来られなくなる”と親身に心配してくれました。しかし、当時の
私は、
“外国で就職してもいいや”と気軽に考えていて、1970 年 9 月にカナダに渡り、先
のナナイモ海洋生物研究所で研究生活を始めました。40 数年を経過した今、様々な記憶の
中で鮮明に残っているものが2つあります。
一つは、私が実験で使ったガラス器具を洗っていた時に、主任技師の Ken Stephen さん
が、
“実験器具の洗浄は技師の仕事で、科学者は頭を使うことを考えなさい”と言ったこと
です。日本では、
“優れた科学実験は十分に洗浄・整備された器具を使って初めて実現でき、
したがって科学者は実験器具の整備をしっかりすることが第一”と教育されました。どち
らも科学研究には大事なことですが、力点の置き方が違います。日本式では、研究が尖鋭
化しますが、反面、研究全体を俯瞰することが手薄になりがちです。
二つ目は、1950 年代に東京水産大学(現在の東京海洋大学)の故宇田道隆教授が 1 年間
ナナイモ海洋生物研究所に滞在され、先進的な“水産海洋学”の講義をされたことを知っ
たことです。週 1 回、1 年間近く続けられたそうで、20 年近く経って私が研究所に行った
時も、伝説的な名講義として海洋物理学だけでなく、水産学、海洋生物学などの幅広い分
野の専門家に影響を与えていたことでした。日本の一部の学問の先進性を知ったことです。
加えて、私は日本で植物学教室に所属していた関係で、関心の中心は植物学をより深め
ることでした。しかし、カナダで所属した海洋生物学研究所では、植物(主として海藻や
単細胞藻類)はもとより、動物プランクトンから魚類、微生物、物理化学を含めた海洋環
境まで幅広いもので、自然界を生態系として認識することになったのです。これは、大学
の研究分野が個別に仕切られている日本では難しいことでした。
カナダ政府の招聘は 2 年間で、2 年目には Parsons 博士がブリティッシュ・コロンビア
大学(UBC)へ転出され、私も UBC に移り、同時にカナダの移民権を取得しました。そ
れまで周囲の人たちの私への態度は何となく“客”にたいするものでしたが、移民権取得
後は“仲間”として扱ってくれるようになったのです。これは、大学だけでなく、私生活
でも同じで、生まれて初めての様々な経験ができるようになりました。
UBC に移った Parsons 先生の研究室には、実験器具らしいものは何もなく、そこで
Parsons 先生が担当することになる“生物海洋学”の教科書作りを二人ですることになった
のです。私は植物と微生物、それから生態系のモデル解析を中心に執筆しました。前者は、
大学・大学院時代に学んだ植物に共通する性質に着目した自然認識で、微生物についても
同様。動物を取り扱った Parsons 先生も同じ視点で整理しました。これらを基礎に、生態
系のモデル解析を組み立てるという枠組みです。1973 年に“Biological Oceanographic
Processes”として英国の Pergamon Press 社から出版された初版は、幸いに多くの人たち
の共感を呼び、その後、5 年ごとに 2 回の改訂を行いました。1974 年には、世界的な海洋
生物モデルの専門家の J.H.Steele 博士が Science 誌に書評を寄せてくれました。この経験
で、私が日本の大学・大学院で学んだ知識は世界をリードしていたものだったことを改め
て認識しました。
私は 1977 年 4 月に筑波大学助教授のポストを得て 6 年7ヶ月ぶりに帰国しました。私に
帰国の決心をさせたのは、3歳半の長女です。夕食の時に、
“Open your mouth!”と娘に言
った私の英語の“mouth”の発音が間違っていることを指摘し、正しい発音になるまで何
回も練習させられました。幼児に発音を直されるという親子関係に私は考えさせられたの
です。
“horse”の発音は“hose”になってしまって、結局、合格しませんでした。UBC に
おられた日本人の教授が、当時10代の二人の子供さんの話を、ご夫妻の英語力の不足で
理解できないと真剣に悩んでいたことも私の帰国への背中を押した要因の一つです。
私は日本での勤務年数が少なくなって、退職金や年金でかなりの損失を受けましたが、
カナダでの7年弱の生活によってすばらしい経験と日本にいたら生まれなかったと思われ
る世界観を身につけることができたことを感謝しています。
外国にいた日本人の知人の中には、学齢の子供さんと奥さんを外国に残して日本に単身
赴任した人、外国で定年を迎え子供さんたちを外国において奥さんと帰国した人、日本へ
の帰国をあきらめた人など、様々です。もし、海外に出て、将来は日本に職を見つけて帰
国することを望む場合には、そのタイミングを慎重に考えて選ぶことが重要です。私の場
合は、偶然にも娘がそれを気づかせてくれました。