第10回「ハンガリー旅の思い出」2013年コンテスト作品 東野 正さんの作品 ブタペスト満喫の旅 一言でいえば、ヨーロッパのそしてハンガリーの歴史は複雑すぎる。これまでの長い歴史の中で、様々な 民族が交代で立ち現われては、交代して別の民族や国が支配し、その後にまた別の民族や国が入れ替 わって歴史のひと時を支配する。そこに宗教や言語、文化が幾重にも重層している。 その点、私の住む日本は、権力者・権力体制は時々交代するものの、基本的には日本人が日本を支配 し、政権や政治体制が代わったとしても、次の政権も日本人が担うという歴史を繰り返してきた。宗教も基 本的には仏教であり、言葉も地域別に方言レベルでの差があるものの、基本的には日本語のみが一貫し て使われてきている。1800年代後半の江戸時代末期に、政権交代を主張する志を持った人々が全国から 京都に集まって活動した時では、話し言葉では方言が強すぎてお互いに理解できない場合でも、手紙によ る書き言葉では意思が通じ、それが明治維新という一種の革命を支えたのである。 そのようなことがヨーロッパ言語圏ではどれほど可能なのであろうか。 いきなり旅行記にはお門違いのスタートとなってしまったが、2013年3月に短期間ではあったもののブタ ペストを訪れた時、国立博物館でハンガリー人の現地ガイドさんがハンガリーの長い辛酸の歴史を語り出 し、それが止まらなくなった時に受けた印象が冒頭の感想になってしまったのである。 ここから旅行記らしくして、書き始めることにしよう。 私が定年退職の時期を迎え、公務員生活最後の時期に、これまで頑張ってきた自分へのご褒美の第2 弾として、中欧旅行に出かけることにしたのである。妻は1月のイタリア旅行には同行してくれたものの、今 回の旅行には仕事の都合でどうしても参加できないとのこと。仕方なく、私だけで団体旅行のパックツアー に申し込んだ。一人での参加ではホテルの部屋代などが割高料金になるのだが、自分へのご褒美である ので、思い切って参加することにしたのだった。 2013年3月13日 成田空港からウィ-ンに飛ぶ立つ前、空港は砂嵐に見舞われた。滑走路の手前で停止したまま全く動こ うとしない機内の中で、このままフライトが、この旅行自体が出発前にキャンセルになるのではとハラハラ し、頭の半分以上を絶望感が占め始めたとき、飛行機は滑走路に進み出した。実に3時間30分遅れの出 発となった。 ウィーンまでは約12時間のフライトで、予定より大幅に遅れて夜の8時前に空港に到着。小銭が欲しいた めに売店でドリンク類を購入してバスに乗り込む。運転手はイシュトバンさん。空港を出発し、高速道路経 由で一路ブタペストへ。ブタペスト市内のザラホテル到着は11時頃になった。夕食の時間はない。ホテル の付近には日本にあるようなコンビニのような店は無いとのことで、機内食の残りを食べて寝ることにす る。一人で寝るには少し贅沢過ぎる感じがして、ゆったりと眠ることができるはずであった。しかし、時差ボ ケのせいで眠りは浅く、3時半には目覚めてしまう。日本で準備してきたハンガリーの地図をベッドに広げ てじっくりと眺め、夜が明けるのを待った。 2013年3月14日 ホテルの朝食は旅行者向けにビュッフェ方式である。ヨー ロッパ旅行の楽しみの一つは食事にあるが、まず日本に比 べてチーズ類、パン類の種類が豊富であることである。 従ってチーズが何種類もあれば、すべて食べてみることを 原則にしているし、ハム類も同じスタンスで臨む。パン類 も、同じホテルに連泊できる時は、ほとんどの種類を楽しむ ことができる。 まず、クロワッサンに噛り付き、様々な料理を、サラダ類・ シリアル類・ドリンク類をどんどん胃袋に押し込む。食べ過 ぎだと自分でも思いつつ、美味しいものを食べ尽くすために ヨーロッパまで来たのだと思い込むことにして、とにかく食 べる。今回のツアーの添乗員の松原さんと同じテーブルで 会話も楽しむ。 8時半にバスでホテルを出発。まずは王宮の丘へ向か い、最初に漁夫の砦に上る。そしていきなり記念写真の撮 影会となる。デジタルカメラが乱舞し、ブタペストの街並み風景をバックに記念写真を撮りまくる日本人の カップル。今回のツアー参加者のほとんどが新婚旅行のペアなので仕方がない。ぽつねんとしている私に 現地ガイドのゾルタンさんが声を掛けてくれたので、町の風景をバックに、私の自由(?)で孤独(?)な姿 を一枚の画像に収めることができた。 撮影会が終了すると、マーチューシャ教会へ。 私はキリスト教の信者ではなく、生まれ落ちたのが仏教圏の日本であるため、気が付いたら一応仏教徒 には分類される立場になっているが、多くの日本人がそうであるように宗教的に確固たる信念に基づく信 仰は特に持ってはいない。こんなことを書くとキリスト教徒をはじめ他の宗教徒からも、日本人の大部分が 明確な信仰を持っていないことについては、理解し難いことのように思われるだろう。この宗教観について は、これ以上深入りはしない。しかし私は、神聖で荘厳な雰囲気の教会や、聖遺跡をみることは大好きな のである。心の奥底にある宗教性は、人間にそんなに違いはないような気がするのであるが、いずれ日本 人は理解し難い民族ではあるだろう。 イタリア旅行の時でも相当数の教会の中を見せてもらい、その宗教的な荘厳さ、重厚さ、日本にはない 装飾性に驚いてばかりいたのだったが、マーチューシャ教会も内部は想像以上で、壁や柱にびっしりと装 飾が施され、聖人像やフレスコ画のような宗教画もある。聖人となった人々の功績や墓銘碑など、日本人 には予備知識が無いため理解不可能な部分が多いが、しかしその雰囲気だけは日本人でも感じることは できると思うのである。 ただ、それが誤解と指摘されることもあるかもしれないが。 日本にも巨大な仏教寺院がある。その中の静寂さ荘厳さ神聖さは宗教を問わず共通するものではない だろうか。雰囲気だけの印象で語ることになるが、例えば映画「ブラザーサン シスタームーン」(英 語:Brother Sun Sister Moon, 伊語:Fratello sole,sorella luna)はイタリア中世のアッシジの聖人フランチェ スコを描いた作品であるが、その聖フランチェスコの心性、生き方に、この映画を見た20代の私は本当に 感動したのである。日本人にも共鳴できる聖人であり、その素朴な心情がキリスト教の全てを語るもので はないと思うが、実に心が洗われたのである。 さらに、少し古い映画になるが1955年製作のスベイン映画「汚れなき悪戯」(原題:Marcelino Pan y Vino 英語:Miracle of Marcelino)は、調べると監督はハンガリー人のヴァイダ・ヴェイス・ラースロー(Vajda Weisz Laszlo)とのこと。中世の伝承とされるが、これも私ですらラストで少年が天国に召されるシーンに号 泣した経験がある。 少しばかり脱線し過ぎたかもしれない。これでは旅行が進まないし、終わらない。大慌てで再びマー チューシャ教会へ戻ることにする。 教会の内部は祭壇付近から奥まで工事用の足場が組まれていて、内 部の補修工事中であった。彫刻や柱などの欠けた部分などを手直ししている様子で、女性の職人さんもき びきび働いている。日本ではこのような工事現場で女性が働いていることはほとんど皆無である。文化・環 境の違いなのだろうか。教会には20分ほど滞在し、イシュトヴァーン大聖堂に向かう。 イシュトヴァーン大聖堂に近いところでバスを降りて、大聖堂の脇を素通りして免税店へ誘導される。店 内では刺繍の実演などを見せられる。日本語のできる店員がいるため買い物はスムーズにゆく。ただ適正 な価格かどうかは「神のみぞしる」という言い回しになる。棚を眺めているとヘレンドの2種類の小さなカッ プを見つける。骨董品扱いで1950年代のものらしい。時代によってカップについているマークが変遷してい るため、その資料のコピーまで見せてくれるが、少し高い値段がついている。 しかし、私の大好きなバラの絵が描かれている。そう「ウィーンのバラ」シ リーズの一品なのである。綺麗で可愛いバラの絵柄のカップ。私は今回の 旅では、妻へのお土産に「ウィーンのバラ」を買うことに決めていた。この店 での値段は高すぎると思うものの、他の店を廻る時間は無いかもしれない ので、買うことに決めた。そして、それは実に正解だったのである。後日、ブ タペスト市内のヘレンドの直営店を探しまわったとき、革命記念日のために 店は休みで、ショーウィンドーから覗き込むことしかできなかったからであ る。 たまたま、そこにあったものに惹かれるように出会う。それを感じ取り、場 合によってはお土産として購入できる場合もあるが、とにかく旅の途中では後戻りもスキップすることもでき ない。その時、その時のドンピシャリのタイミングで旅人はその土地の何かと奇跡的な出会いをすることが あるのだ。これも「神のお導き」なのだろう。 買い物を終えてイシュトヴァーン大聖堂に入る。説明を聞く。ただ圧倒される。打ちのめされる。文化と宗 教の構造が違う。ただそれだけを感じて、外にでて深呼吸を繰り返す他はないのである。大聖堂の前の広 場のモザイクのタイル模様がモダンで驚いた。 再びバスで、英雄広場に向かう。この国の英雄たちの像が立ち並んでいる。しかし、名前を聞いても、ど んな人だったのか、どんな行為で歴史に名を残した人達だったのか、他国人にはほとんど理解も想像もで きない。広い広場に君臨する像たち、そこにはハンガリー創設期のドラマがたくさん秘められているに違い ないのだが。 英雄広場近くのレストラン・コガートで昼食となり、グヤーシュ、そして 鶏の胸肉のポテト添え、スポンジケーキなどを食べる。ここでは同年輩 の2組の夫婦のグループと一緒のテーブルとなった。私が一人でこの 旅行に参加していることから、「独身ですか」と素朴な質問を受ける。こ の質問に回答する場合、独身のふりをするか、妻を置いてきた非情の 夫に徹するか、色々選択枝があるが、まあ、今回は、独身のふりもで きないので・・・ 食後は、いよいよ半日間の自由時間である。夜にはドナウ川の川下 りが予定されているし、明日は午前にホテルを出発し、スロヴァキア経 由でチェコのプラハに行く予定になっているため、ブタペスト市内での、 最初で最後の自由時間となるはずであった。しかし、これについては 後にとんでもない事態に遭遇することになるのだが、それは今の段階では誰も何もわからないのである。 「人生 一寸先は闇」というような言い回しはヨーロッパ言語圏には存在するものだろうか。今はこれ以上 触れず、大通りを歩き始めることにする。 みんなとは別行動で、まず英雄広場に引き返し、西洋美術館に向かった。名画がそろっているとガイド ブックで紹介されていたので、はずすことはできないのである。入口でチケットを購入するとき、前に並んで いたアメリカ人女性らしい人と受付の女性のやり取りを聞いていると、あと300Ft払うと館内での写真撮影 ができるということらしい。彼女がそれを支払ってワッペンのようなものを、見えやすいところに張り付けて 中に入ってゆく。私は言葉に自信がないため、受付の女性にカメラを見せてシャッターを押す動作をしなが ら「OK?」ときくと、1800Ftプラス300FtでOK!とのこと。ヤッターという気分になる。日本の美術館では全く 考えらない撮影OKの美術館がブタペストにあったのである。これは本当に驚きである。 館内を歩き回って、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ゴヤ、ゴーギャン、ラファエロ、グレコ、クラナッハ、ドレの作 品などを写真に撮りまくる。この旅行のために画質のいいカメラを準備して良かったと思いながら。その他 にも美しい貴婦人の肖像画や、心に強い印象を受けたいくつかの宗教画も撮影をする。ただ、その描かれ ている人物なり背景にある物語はほとんど理解できない。聖母マリアとかイエスはなんとなく想像できる が、あまたの聖人や奇蹟などについてはほとんど知識がないのが残念である。 時代区分に従って作品が展示されている。夢中になって展示室を歩き廻っているうちに、撮影OKのワッ ペンがカバンから剥がれ落ちてしまったらしい。展示室の女性が微笑みながら、そのことに気が付いて私 に話しかけてくる。私は慌てて、今歩いてきた廊下に戻ると、すぐ近くに落ちていたのである。拾い上げて 部屋に戻り、その女性に見せるために近づくと、彼女はそれを手にとって私の上着にきちんとピンで留め 付けてくれたのである。疑いの目でこちらを見ることはなく、自然な微笑みで怪しい(?)東洋人に接してく れたのである。深く感謝するしかない。 西洋美術館を出た時は、もう午後3時を過ぎていた。芝生が雪で真っ白になっている。昼食の頃から雪 がちらつきはじめていて、美術館の窓から見た時は、少し雪の粒が大きくなっていたような気がしたもの の、日本の雪国地帯で暮らす私にとってはそんなに積もる雪ではないと思っていた。 英雄広場からアンドラ-ジ通りを歩きはじめる。美しい建物が並ぶ五階建てで統一されているということ は後で知ったが、その整然とした町並みは美しい。私は木造住宅の構造や木材利用に関する研究をして いて、ヨーロッパの建物にどんな風に木材が使われているのかについて非常に興味があり、そして木造以 外の建物をも含めて建築物全般に関心がある。 例えば、木製の彫刻で装飾されたドアや窓枠などに木材が使われている建物を見るだけでも参考になる し、嬉しくなってくるのである。建物を一つ一つ眺め通りを歩いていると、仮設の木製構造物があった。早 速、カメラを向ける。 コダーイ記念館前で、蓄音機に耳を傾ける姿のレリーフを見つけるが、これまでコダーイの曲をあまり聴 いたことがないため、写真を撮っただけでそのまま通りすぎる。 リスト・フェレンツ広場の入り口にきたので、リスト像を探す。超絶技巧を必要とするピアノ曲を作曲したリ ストは、日本でもよく知られた音楽家である。大きく指を広げている彫像を見ていると、それがピアノを激し く弾いている姿だと思えてきた。その広場にはカフェが並んでいたが、時間に余裕がないためにアンドラ- ジ通りに引き返して先に進む。 国立歌劇場にリストの像が立っているが、劇場の中を見学する時間は無い。歴史のある劇場で、あまた の名演奏が繰り広げられた場所であり、一体ここを見ないでブタペストの何を見たことになるのだろうかと 思いながら、その前を過ぎた。残念である。もう午後4時をすぎている。 通りに面したアレクサンドラ書店に入る。入口にたくさんのワインが並べられている。ワインを飲みながら 読書を!ということなのだろうか。2階まであがって写真集など手にとって眺める。しかし、ここでも時間が ない。外に出ると、雪は降り続けている。大きな通りにでて、そこがデアーク・フェレンツ広場前になる。さす がに人通りが多くなってくる。左に曲がって進みシナゴーグに向かう。ホテルに帰る途中にあるので、外観 だけ眺めるが、初めて観る様式の建物である。その手前をさらに曲がって細くなった道を歩いて、ホテルに 到着。午後5時を過ぎている。 午後6時半にホテルを出発し、エルジェーベト橋を渡ってすぐに、バスは坂道を上り始め、ゲッレールトの 丘の中腹にあるチダデラ・パノラマレストランに到着した。レストランの外壁は城壁のような石積の壁であ り、その壁一面雪が吹き付けたように白くなっている。そこに照明があたって実に綺麗な光の世界になって いる。テーブル席につくと、ガラス越しに王宮の丘が見えるが、雪で曇って灯がぼやけ、うるんで見える。幻 想的といってもいい夜景が広がっている。外はかなり冷え込んできている。 パルメザンチーズ入りのサラダ、ポークのトマトとチーズのはさみ焼とリゾットの付け合せ、ティラミスのデ ザ-ト、白ワインも楽しむ。食事の間、ピアノの生演奏が流れた。日本の曲を何曲も演奏してくれるが、少 しアレンジが強すぎて原曲が破壊される寸前の演奏もあったが、サービスはありがたく受け取った。 食事が終わって外にでると、さすがに道路は雪で真っ白になっていた。これから予定通り、ドナウ川の川 下りに向かうのである。しかし、この寒さと雪は全く予定されていなかったはずである。船乗り場に着いて 遊覧船に乗り込んだ時は、もう午後9時30分近くになっていて、我々だけを乗せて船は動き始める。ドナウ 川を遡る様に上流に向けてエンジン音が響く。川の上の冷気も加わってものすごく寒いため、私以外の全 員は船の中に入ってしまい、窓越しに風景を眺めていることにしたらしい。しかし、今回の参加者では一番 寒さに慣れている岩手県出身の私は、一人デッキに立ち、どこまでもこの風景をこの寒さと一緒に体験し ようと決めたのである。 ライトアップされた国会議事堂が見えてくる。筆舌に尽くしがたい絶景である。何枚も写真をとる。今回の 旅行では観光する予定がないため(無いはずだったが・・)、ずうっと眺め続ける。対岸には午前に行った マーチャーシュ教会や漁夫の砦が見えてくる。雪のため、遠いところはぼんやりと見える。くさり橋の下をく ぐるとブタ王宮が見えてくる。いくつかの教会の塔も見え、エルジェーベト橋を過ぎると、モダンな建物(名 前は忘れた・・)の近くで船はUターンした。行きと帰りは同じ風景となるが、ライトアップされた議事堂、王 宮・教会・そして橋のすばらしい夜景と底冷えのする冷気を体全体で楽しむことができたのである。船の操 縦士さん、そして我々を待っていたバスの運転手さんに感謝の気持ちで一杯になりながら、ホテルに戻る。 もう午後11時に近い。ブタペストでの最後の一日を、そして夜景を十分に満喫した夜となった(なるはず だった・・)。 2013年3月15日 今日はブタペストを出発し、プラハに向かうことになる。ホテル発が早いため、朝食は7時からで、昨日食 べなかったパン類を中心に、ビュッヘ料理を食べる。 出発準備のため、スーツケ-スを廊下に出してから部屋に引き返そうとすると、ドアが開かない。ルーム キーを部屋の中に置いたままだったことに気が付いて、慌ててフロントに向かう。その途中の階段で添乗 員の松原さんが、私を探していた様子で話しかけてくる。 「大雪で高速道が閉鎖になっているので、出発が遅れます。今日のスケジュールが、どうなるか分からな いので、とりあえず9時にフロントに集合してください」とのこと。フロント で片言の英語が通じて、ルームキーを受け取って部屋に戻る。 この段階では、私は全く楽観していたのである。私の住む岩手県で は、大雪が降っても高速道路が閉鎖になることなど、10年に一回位し かないのである。ホテルの外の景色をみると、せいぜい5cm位の積雪 である。大丈夫なはずだ。遅くなっても今日中にプラハに着きさえすれ ば、明日の午後の自由時間に、今回の旅で楽しみしていた作家フラン ツ・カフカ記念館を、予定通り見学できるはずだと確信してさえいたの である。 いや、今日中にプラハに着かないと予定が狂って、本当に困るのだ。 今回の旅行の前に、これまで何度も読みかけては途中で挫折して読 み通すことができなかったカフカの未完の長編小説「城」を、なんとか読み切ったのである。「城」の舞台と なっているのはプラハ市内ではないようであるが、その雰囲気だけでも味わうことが出来るかもしれない。 それよりも第一にカフカの肉筆原稿を見みることが楽しみで仕方なかったのである。 実は、岩手県にもカフカと似たような作家で詩人の宮澤賢治という人がいた。37才で亡くなるまで詩や童 話を書き続けて膨大な原稿を残しているが、その肉筆原稿への書き込みの跡は、どこかカフカと共通して いる。そして二人とも結婚することなく独身のまま世を去っている。残された膨大な原稿。カフカの原稿を直 接この目で見たいのである。今日中にプラハに行かないと、カフカに会えなくなってしまうのである。 フロントに集合しても、添乗員の松原さんは携帯電話を離さないまま、ずうっと連絡をとりあっている。とり あえず、バスは9時にホテルを出発した。当然、スーツケースも積み込んでいる。道路の状況が変われ ば、バスはプラハに向かうはずである。状況が好転するまでの時間調整のため、当初の予定にはなかっ た国会議事堂を見学することとなった。 昨夜のドナウ川下りで、美しい夜景を眺めただけで中に入って見学する予定は無かった国会議事堂を、 急遽観光することになったのである。この日は革命記念日のために、無料で市民に公開されるとのこと で、雪で白くなった広場の道路で入館待ちの人々の長い行列の後に並び、20分くらい並んでから中に入 る。 建物の中央にある幅広の長い階段を上り詰めた広間では、ガラスケースの中に王冠が飾られている。王 冠の上の十字架が何故か曲がっている。ちょっと手で押せば元に戻せるのではと思ったが、なにか伝承が あるのだろう。現地ガイドさんからは、王冠が盗まれたときに斜めに曲がったというような話を聞いたような 気もするが、確かではない。建物の内部の装飾や構造のほうに関心が行ってしまっていたためである。 しかし、これはハンガリーの国のまさに至宝であろう。日本でいうと三種の神器に当たるものに違いな い。内部の見学が終わり、議事堂の外にでる。壁の純白の色を保つため、絶えず塗り直しをしなければな らないと昨日の遊覧船のガイドさんが説明していたが、今回は建物の南側に足場が組まれていて、まさに その作業中の様子である。そこで驚いたのは、なんとその足場が木材で組まれたていたのである。私はこ こでも木材利用の実例をみることができて嬉しくなった。日本ではこのような時に木材で組み上げた足場を 使うことはほとんど無い。スチール製の足場パイプで無機質に組まれるだけなのである。それがハンガ リーの首都、ブタペストの中心部で木製の足場が使われていたのである。ただ、研究者として、その木材 の樹種や寸法を調べるための時間は残されておらず、またバスに戻るしかなかった。 まだ、高速道路は閉鎖中とのこと。もしかすると、この日はハンガリーの革命記念日で休日のため、除雪 する人は出動していないのかもしれないとも思った。町の中をバスが進んでも、休んでいる店が多い。 これからの状況がわからないまま、時間調整のため、バスはセンテンドレに向かったのである。その途中 に世界一長いアパートがあった。カメラのアングル次第では一枚に収まらない想像を絶する長さである。単 純に驚いてしまった。さらに、古代ローマ時代の石組みの遺跡があちこちにある。さすがヨーロッパの歴史 ではローマ帝国の影響を抜きにして語れないというころだろう。 まったく予備知識のないままセンテンドレについた。世界遺産の候補に挙げられながら、お土産の売店 が多すぎるとかの理由で、なかなか認定されないという話を現地ガイドさんがしてくれた。しかしである。木 造建築マニアの私には匂うのである。古い民家があれば、家のどこかに木材を使っているところが間近に 見えるはずである。カメラを取り出し、狩人になった気持ちで歩きはじめる。町の中心に教会の塔が見え る。そこに向かって歩いてゆくと、あるある!屋根の軒下や、屋根の骨組みに木材が使われている。それ に薪が積まれている風景、外壁に木材の板が張られている家がたくさんある。町の中心部からはずれに 向かい、また中心部に戻り、違う道をたどりながら写真を撮りまくる。私には充分満足できた町であった。 雪のためとはいえ、予定には全く無くて、そして全く未知だったセンテンドレを訪れることができたことも、も しかすると木材が好きな私のための「神のお導き」だったのかもしれない。 12時になってセンテンドレを出発した。プラハには向かわず、ブタペストに戻ることになって、市内のレスト ランKaltenbergに入る。ビ-ルの醸造をしているような雰囲気のある店で、肉のすり身入りのグヤ-シュ、 スズキとポテトフライの付け合せ、パイシューケーキなど食べる。勿論ビールもそして今まで飲み忘れてい た名物のトカイワインも飲む。これで充分満足する昼食となった。 しかし、この食事中に、添乗員の松原さんにクレームをつけている夫婦がいた。怖い表情の女性が、「ブ タペストを出発できないのならホテルで待機していたほうが良かったし、センテンドレなんて田舎町には行 きたくも無かった」と言っている。かなり個人主義的クレームである。ヨーロッパ人ならこんな発想をするの だろうか。日本では「郷に入りては郷に従え」という諺がある。その土地に行ったら、そこでのルールに従 う、そこでの成り行きに身を任せるという意味なのであるが、これはすこぶる日本人的な発想かもしれな い。だから、このクレームをつけた夫婦は午後の歴史博物館見学の時はバスから降りようともしなかった。 私だってプラハにどんなことがあっても今日中に直行して欲しい気持ちを我慢している一方で、それでも私 はブタペストの街並みを、風景を、食事を十分に楽しんでいたのである。その夫婦の個人の意思は尊重さ れるべきであるが、それも状況に応じての話になるだろうと思う。 昼食後、レストランを出ると,通りの向かい側に木材の仮説のようなアーケードがある。恒久的なものかは よく分からないが、日本ではまず見かけることの無い構造物である。これから建物の外壁の補修工事のた めの仮設的なものなのだろうが、とにかく面白い。 さて、それからは国立博物館に向かった。そこで冒頭に戻るが、ハンガリーの実に複雑な歴史に立ち向 かうことになる。さまざまな遺物、絵画、説明パネルが満ち溢れている。何の予備知識のない異国人に、2 時間程度の見学でどこまで理解できるだろうか。日本語のガイドブックのようなものがあればいいのにと痛 切に思った。ただ、木製の巨大な家具と椅子があって、興味深く見続けることができた。 そして、現地ガイドのアンジェラさんは、アメリカの映画監督マイケル・ムーアのような体形をしている人 だったが、ハンガリーの苦難の歴史を語りだしたら止まらなくなったのである。さまざまな民族や国家に支 配されながらも独立にいたった歴史、様々な歴史上の人物の紹介をはじめ、エピ-ドをノンストップで語り 続けた。日本語で解説してくれたものの、最後はついていけなくなってしまい、彼には申し訳ないことをした と思っているが、ただ、彼の燃え上がるよう愛国心を強く感じることができた。我々日本人に、あれほどの 熱意で日本の歴史を語ることのできる者が一体何人いるだろうか。旅行の前に、もう少しハンガリーの歴 史を知っていればよかったのであるが。 ホテルには4時前に戻った。朝にチェックアウトしたばかりホテルで ある。添乗員の松原さん達の尽力で、同じホテルに泊まることができ たのである。スーツケースを部屋に運び込み、食事の時間まではまだ 間があるので、散歩に出かけた。ヘレンドの直営店がヴァーツィ通り にあるので行くことにしたのである。ところが、辿り着くことはできたも のの、国民の休日のために店は営業していなかった。店のショーウィ ンドー越しに店の中を覗き込む。くやしい!「ウィーンのバラ」シリーズ が棚に並んでいるのである。残念無念ではあるものの、昨日思い切っ てカップを買っていてよかったと思うことにした。 ヴァーツィ通りを歩き、デアーク・フェレンツ広場の手前で曲がって、 ドナウ川の河畔に沿ってぶらぶら散歩する。川の向こう側に王宮など が見える。 5時前にホテルに戻る。部屋に入るとなんとなく疲れを感じてそのままベッドで寝てしまい、気がつくと夕 食の時間に遅れてしまっていた。慌ててレストランに走り込む。ポテトのポタージュ、ポークのクリーム煮と フライドポテトの付け合せ、チョコレートケーキそしてビール、ワイン。 今日こそブタペスト最後の夜になるか? 2013年3月16日 ついにホテルを、7時20分に出発。一路、西に向かった。高速道に 入るまでは順調だった。しかし、また状況は暗転する。トラック3台の 追突事故のために高速道路が閉鎖され、また、一般道でも事故が あったとのこと。雪でのスリップ事故らしい。 高速道でプラハに向かうことも、一般道をのろのろ走りオーストリア 経由で行くこともあきらめたようで、バスは再びブタペストに戻る。もう 一日ブタペスト観光?おいおいどうなるんじゃ! おお、これこそ「神 のお導き」なのか。 今まで気が付かなかったが、高速道路の遮音壁に木材が使われて いる。これも、木材利用事例収集マニアの目に止まり、写真を撮りまく る。 ブタペスト市内に戻ると、それからバスは北西の方向に方向を変えた。手元に広げた地図で、今進んで いる道がどこなのかを確認する。ドナウ川沿いに一般道をスロヴァキア方面に向かうことになったらしい。 プラハまでは約450Kmもある。時間が相当かかりそうな、いやな予感がしてくる。 これから先の道路が大渋滞し、一日がかりで、夜になってようやくプラハに辿り着くことになったことなど、 今の段階では知る由もない。 ただ、今、ブタペストを出発したのである。さらばブタペストよ、たった3泊の旅だったが、忘れられない旅 となってしまった。 (だって、この旅行記、2日間で一気に書くことができたのだもの。) さあ、いざプラハへ。 そこでの思い出は、また別の旅行記に書くことになるのである。 2013年3月
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