安全保障法制に関わる国会の関与

安全保障法制に関わる国会の関与
はじめに
日本の安全保障法制はポジテイブリスト形式に拠っているため、拡大する自
衛隊の任務達成にあたり障害となっていると指摘される。このため煩瑣な法解
釈が長年積み重ねられてきた現状がある。しかしながら、法解釈の推移を検証
した研究は積み重ねられているものの、なぜ日本の安全保障法制がポジテイブ
リスト形式に拠っているのかという理論的考察は少ない。本稿は、これについ
て国会の関与という視点で論じる。
1
問題の所在と本稿の目的
日本における安全保障法制はポジテイブリスト形式に拠っている。政府の国
会答弁として、
「自衛隊法の書き方というのはポジリストになっておりますから、
あれもできる、これもできるという、できることが列挙してある」があげられ
る (1) 。同様の指摘は研究報告にもある (2) 。理由については様々な側面があり、そ
れらを網羅的に論じることは本論の範囲を超えるが、太平洋戦争の敗戦による
政治的側面、社会的側面などが要因として指摘されている (3)(4)。このような既往
の報告でも要因を特定した詳細な検証に至っていないが、それぞれの要因が互
いに影響し合い、個々の要因の影響の特定が困難なためである。
本稿では試みとして、政治過程に着目し、国会の関与という視点に絞って議
論を進めたい。様々な側面があるものの、国会の関与という視点で論じること
で、どのようなことが明らかにできるのかを示したい。すなわち、国会の関与
という視点での議論がほとんどなされていないことと、ポジテイブリストを採
用している理由は日本国憲法(「現行憲法」という)に基づく立憲主義的要請と
考えるからである。
安全保障法制の立法化という作業は、既存の安全保障政策に関わるポジテイ
ブリストを更新することに他ならない。この前提として本論では、現行の安全
保障法制がポジテイブリスト形式であることは、現行憲法に自衛権が明示され
ていなためと考える。憲法テキストには自衛権は明示されていないものの、国
会の関与という立憲主義的統制が行われことで、自衛権の内容が具体化される
と考える。
憲法学者の議論では現行憲法は軍権の規定を持たないのであるのだから、国
権の発動としての戦争や武力の行使を放棄しており、自衛権の行使も非常に限
定的であるというのが学説通説である (5)(6) 。これらの学説によれば、憲法解釈上、
自衛権の行使は限定的にしか許されない。憲法学の議論は、日本政府は武力の
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行使ができないという立場である。他方、政府の見解は主権国家の固有の権利
として日本は自衛権を放棄していないとしている (7)(8) 。具体的な自衛権の内容に
ついては明確にされているとはいえないが、政府解釈に基づき日本の安全保障
法制は整備されてきた。日本の安全保障研究はこの立場に基づいている (9)。
現行の安全保障法制はこのような「折衷」的な産物であり、本論は、現行憲
法上明示されていない自衛権の内容を国会で具体的に立法化することにより、
国会が政府に権限を授権しているのだと考える。他方、授権のための明確な基
準もなく、立法化はその時点の政治情勢に大きく左右される。日本の安全保障
法制の整備が不十分であったことはこのような背景を持つ。
本稿では、このような視点に立ち、日本の安全保障法制に関わる国会の関与
について論じる。
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軍権に対する立憲主義的統制の概観
前提として、本稿が軍権に対する立憲主義的統制をどのように捉えているの
かを明らかにすべきだが、立憲主義についての定義も論者により一様ではなく、
精緻な定義づけを試みることやこれまでの定義を列挙することは本稿の範囲を
超える。以下では軍権に対する立憲主義的統制の形成過程を概観し、本稿の問
題意識につなげる。
近代国家の成立以前には、
「軍の指揮監督を含め、戦争権限は君主の専権であ
り、君主政の憲法にあっては議会との配分関係ははなから想定されていなかっ
た」 (10) 。軍は君主の意思に基づいて行使された。戦費調達のための課税や平時
の常備軍の徴集については議会の承認が必要であることが慣習として確立され
たが、非常時の行使については制約を受けない。国家の通常の活動の「いずれ
にも適合しない非常の国家活動」として戦争があり、
「それ自体としてはあらゆ
る法秩序の外に存在する」状態であった (11) 。
軍権は中世の領主が領土や主権を守る権利、防衛高権に由来し、例えば領土
高権などと称されものを含んだ領主権の一つであった。高権という考え方は国
王大権と密接で、公法上の概念として土地所有権などの私権的なものとの対比
される (12) 。このような権力は領主が独占的に行使し得る諸権能で、様々な高権
が領主の下で束ねられ主権に統合されてきた (13) 。高権は時代により変化してお
り、本稿では領主の統治権を淵源として国王大権の根拠になったと考えるにと
どめる。
近代国家の成立により中央集権的な国家制度が形成される。王制の場合、軍
は君主個人のものであったが、共和制国家では軍権は主権者たる国民の負託に
由来し、国民が政府に軍権の行使を委任する。これらの国家間でも戦争が絶え
ることなく、「各人の各人に対する戦争」の状態にあり、「継続的な恐怖と暴力
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による死の危険があり」、「自己を安全にしておくには、だれにとっても、先手
をうつことほど妥当な方法はない」のであった (14) 。このような現状に対してト
マス・ホッブズ( Thomas Hobbes )は、「人びとを平和に向かわせる諸情念は、
死への恐怖であり、快適な生活に必要なものごとに対する意欲」であるとし、
理性は「平和の諸条項を示唆し、人びとはそれによって、協定へとみちびかれ
る」と述べているものの (15) 、実際に近代ヨーロッパの「統一理念となったもの
は勢力均衡の原理」であった (16) 。この前提として、君主の軍隊同士が君主の意
思に基づき、平時には対峙し、外交的に解決し得ない問題が生じれば戦争を行
い決着させるという現実がある。
一方、近代国家では立憲主義の発展にともない、国民の基本的人権を保障す
ることが国家の責務となった。近代立憲主義の確立過程について、本稿は踏み
込まないが、国家の責務として外敵の侵攻から国民の基本的人権を守ることが
求められはじめる。このためどのように軍を使用すべきであるかという観点で
軍権が規定され、君主や政府の恣意的な軍の使用は抑制される。軍の行動によ
り国民の人権が損なわれるためである。
例えば、権利章典で合法的な国王大権は確認されているが、
「法に反して兵士
を(民家に)宿泊せしめた」ことは違法なものである (17) 。ヴァージニア憲法で
は、
「規律正しい民兵は自由国家の適当にして完全なる護り」であるとしつつも、
「平時における常備軍は、自由にとり危険なものとして避けなければない」と
される (18) 。軍権の行使にあたって議論が求められ、国民議会で議論が行われる
ようになる。基本的人権は天賦の権利で不可侵であると認識されていくが (19) 、
軍権は自然権ではなく、国家がどのように国民の人権を守るのかという目的に
応じて決められる。軍権は近代国家においては所与のものではないのである。
どのような軍を持つのかは、近代立憲主義の確立以前では専ら国王の意思に
よったが、立憲主義の確立過程で国王の軍権は次第に制約を受ける。それは専
ら軍費の徴収や常備軍の徴収、維持に関するものであったが、軍権に議会が制
限を与えるようになる。もっとも非常時の軍権は制約を受けないと考えるのが
一般的であった。ゲオルグ・イェリネック( Georg Jellinek )は三権の「いずれ
にも適合しない非常の国家活動」として戦争があり、
「それ自体としてはあらゆ
る法秩序の外に存在する」と述べている (20) 。権利章典でも合法的な国王大権は
確認され、正当な軍の行使は制約されていない。正当な軍の行使は国王大権に
由来するもので、制約の対象にはならないのである。
17 世紀以後のヨーロッパでは、1648 年に成立したウエストファリア体制下の
国際秩序で、宗教問題から脱却して主権国家の相互の対立と均衡に基づく新し
い国際体制が形成されていた (21) 。
「勢力均衡の原理を基本とする列強の覇権交代
の歴史」が展開される (22) 。主権国家間に利害対立が生じれば、戦争により紛争
3
解決することは否定されない。主権国家は同列であり、紛争が生じた場合にそ
の正否を判断するより上位の存在はないのである。戦争が国家間の政治問題を
解決する手段として行われ、軍の行使は主権者たる国王の意思によるのである。
すなわち、「 18 、 19 世紀までの近代国家の成立過程では、国家の基本的権利と
して、自存権または自己保存権の存在」 (23) が慣習的に認められていたためであ
る。この権利の内容は、
「自己の存在を維持し、自己の存在に必要なすべてのも
のをもつ権利」、「自己を完成する権利、すなわち、自己を発展させ拡大する権
利」であると考えられていた (24) 。権利の行使にあたって、前者からは「他国か
らの攻撃にたいして、これに反撃すること」、「将来発生するおそれのある攻撃
を予防する措置をとること」が導き出され、後者からは「国家はその経済力・
軍事力を増強し、その福利を増進するために物資を獲得し、領土を拡大し、ま
た資源を開発すること」まで含まれる (25) 。このような権利の行使が認められる
のであれば、軍権の内容に制限はほとんどない。国家の経済力や軍事力を増強
し、領土を拡大し、資源を開発することが許容されるのであれば、国家は他国
に侵攻することも可能である。領土拡大に関わる紛争が生じれば、武力で解決
することになる。例示すれば、植民地の獲得戦争があげられる。
主権国家は何れも自国より上位にある判定者の存在を認めないので、交戦国
のどちらを正当であるかを決定できない。この結果、主権国家は国際法上の手
続きに従って戦争をする限り、合法であるという無差別戦争観が形成される (26) 。
主権国家の相互の対立と均衡に基づく国際体制下では、イエリネックのいうと
ころの三権の「いずれにも適合しない非常の国家活動」として戦争があり、
「そ
れ自体としてはあらゆる法秩序の外に存在」する (27) 。立憲主義に基づいて国家
権力を制限しようとする考え方は示されていたものの、必ずしも主権国家の軍
権には反映されなかった。もっとも軍事行動そのものが 20 世紀の戦争と比べて
比較的小規模で、国家間の決闘であったという側面は否定できない。
こ れ を 理 論 化 し た の は カ ー ル ・ フ ォ ン ・ ク ラ ウ ゼ ヴ ィ ッ ツ ( Carl von
Clausewitz )である。クラウゼヴィッツは「戦争は政治的行為であるばかりで
なく、政治の道具であり、彼我両国のあいだの政治的交渉の継続であり、政治
におけるとは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為」と述べた (28) 。
ここで戦争は国家間の政治的交渉の継続として存在する。目的については限定
されない。主権国家は同格であり、政治的交渉の内容の正否を判断する上位者
がいないためである。クラウゼヴィッツは「政治的意図が常に目的であり、戦
争はその手段に過ぎない」と述べ、政治交渉で決着がつかなかった問題につい
ては武力による解決を想定し、
「公法学者たちのあいだで議論されているこちた
い定義を今さらあげつらう積もりはない」と前置きした上で、
「戦争は拡大され
た決闘にほかならない」、「物理的な力を行使して我が方の意志を相手に強要し
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ようとする」ものであるとしている (29) 。
このように 18 、19 世紀には、戦争は国家の行う決闘として見なされた。武力
を行使して紛争を解決することは主権の発動であり、政策の実現のために必要
な行為であると考えられた。このために必要な軍権の内容は主権者の意思に依
拠し、近隣諸国との国際関係に左右される。軍権はほとんど無制限に、他国と
の国際紛争を解決するために必要な内容が形成されてきたのである。
なお、この場合の「国際社会」は欧米のキリスト教文明国である。それ以外
については国際法の適用範囲外である (30) 。この「国際社会」の中で、主権国家
の相互の対立と均衡に基づく国際体制が維持されていた。また「ヨーロッパの
王朝は、王国貴族の婚姻などを通じて「家族」のように繋がっており、そこに
は一定の連帯感」があった (31) 。
「国際社会」がこのような前提を持つことに留意
しなければならない。それ以外の「大部分のアジア・アフリカ諸国は」、「第二
次世界大戦終結までは」
「国際法の主体とされておらず、単なる支配の客体」で
あった (31) 。自己保存権の内容でいうところの、
「領土を拡大し、資源を開発する
こと」の対象となるものである。支配の対象であり、それらの国の権利は国際
法の議論では考慮されない。軍権はこの「国際社会」である欧米のキリスト教
文明国において、
「国家間の政治交渉の結果」の中で形成された。
以上、軍権の内容の推移を概観してきたが、恣意的な行使が行われ、市民生
活への被害が生じた場合は深刻であった。このためイギリスでは常備軍に対す
る不信が存在すると指摘されている (33) 。ヴァージニア憲法では、
「平時における
常備軍は、自由にとり危険なものとして避けなければない」と示される (34) 。ヴ
ァージニア憲法は権利請願、権利章典を典拠にしており (35) 、常備軍への不信も
継承されている。また「軍隊はシビルパワーに厳格に服従し、その支配を受け
なければならない」と明示され、文民統制の原型である。権利章典とヴァージ
ニア憲法の間には、軍隊の募集が職業志願制に転じていく過程がある。それ以
前は諸侯の保有していた軍隊を国家が占有し管理する体制が形成されていたが、
この国家の軍隊をどのように管理し、市民の自由や権利を保障していくかが課
題となる。立憲主義には軍の違法な行動から国民の自由や権利を保障するとい
う意義も含まれる。本来、軍の行動は対外的なものであるが、国内での軍事行
動の可能性も否定できないためである。このため軍への制約、すなわち立憲主
義的統制が課題になる。
本稿は立憲主義を「国家権力の恣意的な侵害を制限することで、国民の自由、
権利を保障しようという考え方」と考えるが、軍隊の行動にともなって生じる
国民の自由や権利の侵害を抑制することも立憲主義の意義であり、現代でも変
わらない。軍隊の役割は外敵から国家を防衛するだが、一方で国民の自由や権
利を侵害する力にもなり得る。その上で、どのように軍隊を管理するのかが課
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題となった。もっとも軍隊の本来持つべき外敵から国家を防衛するという役割
が損なわれてはならないため、議会が本来の目的を達成する範囲で監視するこ
とになる。この場合、軍隊の行動を制限する程度は、外敵からの攻撃と軍隊に
よる国民の自由や権利の侵害の抑止の比較考量によるべきもので、議会が政治
的価値を加味しつつ判断することになる。
さらに、 20 世紀前半から戦争を制限しようとする試みが生じる。特に第一次
世界大戦、第二次世界大戦による戦争被害は甚大であった。これを受けて、一
国家の垣根を越えた基本的人権の保障のため、戦争の違法化、一般的禁止が進
められ、他方、国際条約で主権国家の自衛権の留保が制度化される (36) 。その結
果が 1920 年の国際連盟の創設、1928 年の不戦条約の成立、1945 年の国際連合
の創設である。国際連合憲章では、武力の行使、武力による威嚇が禁止の対象
となった (37) 。戦争そのものについては明示的に禁止していないものの、国際関
係における国家間の武力の使用を原則禁止した。国際連合は違法な行動に対し
ては加盟国が共同で行動するという原則を採用している (38) 。例外として、国連
憲章第 51 条に「自衛権」の規定を設け、安全保障理事会が必要な措置を取るま
での間、加盟国に自衛権の行使を容認するに至った。
この結果、本来、主権国家の固有の権利である軍権は国際連合の加盟国とい
う要件において制約を受け、ここでいう自衛権は近代以前の軍権と比較すれば
大きく変化する。主権国家の権利であるとしても固有の権利であるとまでは言
えない。自衛権は制約を受けた軍権であり、主権国家の権利として具体化する
ためには、国際法上の位置づけとともに、国家間の武力の使用を原則禁止した
のだから、他国との関係において憲法等で明示されることが必要となる。
以上、軍権の立憲主義的統制の形成過程を俯瞰した。国民の人権保障のため
に、軍権への立憲主義的統制は近代以後の基本的な考え方であり、普遍的なも
のである。本稿でも、日本の安全保障法制の立法過程においても、政府の判断
や行為に対して議会が関与して政治的価値を付与させるということは、国民の
自由や権利を保障するための議会の権能の現れであり、立憲主義の要請するも
のであると考える。
3
日本国憲法における自衛権
現行憲法上、自衛権がどのように規定されているのだろうか。さらには、自
衛権への立憲主義的統制はどのような形で行われているのだろうか。
日本国憲法で軍事に関する規定は第 9 条の条文だけである (39) 。第 66 条第 2
項に「文民」条項があるが、国務大臣の資格を規定する。前文でも「平和」に
言及しているが、
「 前文の規定は抽象的な原理の宣言にとどまる」と指摘され (40) 、
そこから具体的な規範を導き出すには至らない。
従って 9 条が検証対象となる。
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9 条の解釈に関しては膨大な蓄積がある。多数の学説を検証していくことは本
稿の目的ではないので、現行憲法を自衛権と関連付けて論じる。
憲法学の分野では 9 条の持つ平和主義、戦争放棄をテキストに従って厳密に
解釈することから出発している。このため自衛戦争を含めて全ての戦争が放棄
されているという見解が通説である。芦部信喜は「第二次世界大戦の悲惨な体
験を踏まえ」、「侵略戦争を含めた一切の戦争と武力の行使および武力による威
嚇を放棄し」、
「 比類のない徹底した戦争否定の態度を打ち出している」とする (41) 。
他方、安全保障分野では、自衛戦争も含めて一切の戦争が放棄されていると
いう議論は見あたらない。安全保障の分野では軍事的手段を使用することは与
件となっている。例えば、田村重信らは「非軍事的手段による努力のみでは、
必ずしも外部からの実力をもってする侵略を未然に防止することができないこ
とは明らか」としているが (42) 、根拠としては、「政府の見解を中心に説明する」
と示すのみである (43) 。例外として小針司 (44) や富井幸雄 (45) などの研究がある。こ
れらの研究では憲法学の成果を踏まえて戦争放棄や戦力についてあらかじめ論
証しているが、研究の出発点は憲法学にある。
一般的に安全保障の分野で与件とされているものは、従来の憲法学の研究成
果を踏まえて論証されていない。外部からの脅威に対して軍事的な手段によっ
て防衛することは所与である。従って、現行憲法上どのような戦争が放棄され
ているのかなどの、本来、前提部分で論証しておくべき過程が省略されている。
しかしながら、安全保障分野の研究から憲法学の成果に言及したものはほとん
ど見あたらず、このために重要な視点が見いだされなかった。憲法学の長年の
研究成果を軽んじることは、安全保障に関する研究の精緻さを損なうものであ
る。研究分野が異なるとしても憲法学の成果との整合性を取った検証が行われ
るべきであり、本稿は国会の関与という視点を与える。
(1)学説および政府見解の概観
現行憲法上の自衛権について概観すると、芦部は 9 条 1 項の意味について、
「放
棄されているのは侵略戦争であり、自衛戦争は放棄されていない」
(甲説)とい
う見解と「自衛戦争も含めてすべての戦争が放棄されている」
(乙説)という見
解を示している (46) 。乙説を採れば安全保障の分野の研究は成り立たない。9 条 2
項についても、甲説に従っても、
「一切の戦力の保持が禁止され、交戦権も否認
されていると解釈すれば」、自衛のための戦争もできずすべての戦争が禁止され、
乙説と変わらないと述べ、これを通説であるとしている (47) 。すなわち、芦部は
9 条ではすべての戦争が放棄されているとの立場を採っている。これが憲法学の
学説通説である。野中俊彦らも、現行憲法 9 条に示された平和主義は「侵略戦
争を含む一切の戦争と武力の行使を放棄し、それを徹底させるために戦力の不
保持を明示した」もので、
「憲法史上、画期的な意義をもつもの」とする (48) 。戦
7
争放棄についても同様の整理を行い、全面放棄説(乙説)が正当であるとして
いる (49) 。憲法学の見解によれば、一切の戦争は放棄されているのだから、現行
憲法には自衛権の規定はないことになる。
判例は判断を回避してきた。例えば、自衛隊の存在について、
「最高裁は、こ
れまで自衛隊が違憲か否かの判断を避けてきた」が、
「砂川事件判決などの論理
からして、いわゆる統治行為論に基づいて、その判断を政治部門ないし国民に
委ねるであろう」として、
「主権者たる国民が最終決着をはかるべきもの」との
指摘がある (50) 。高度に政治的な問題であるため裁判所が判断するには相応しく
ないとの判断である。
政府の解釈は、現行憲法により日本は戦力を持つことは出来ず、戦争は放棄
されたという立場である。
「この点で学説通説の理解と同じ」であるが、このた
め「自衛隊の合憲性に憲法の「外」的な理由づけ」を行ったとの青井未帆の指
摘がある (51) 。現行憲法を根拠からは自衛権の行使の正当性は引き出せないため、
「わが国が独立国である以上、この規定は主権国家としての固有の自衛権を否
定するものではありません」と考えるのである (52)。その結果、政府解釈は、
「政
府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏付ける自
衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められる」とする (53) 。
政府解釈が現行憲法のテキスト解釈と齟齬があると認めれば、違憲のおそれ
のある国家機関を持つことになる。このため現行憲法は戦争放棄を要求してい
るものの、主権国家としての固有の自衛権は保有すると考えている。しかしな
がら、現行憲法のテキスト解釈を根拠にせず、主権国家の固有の権利に根拠を
見いだすことが妥当な解釈なのだろうか。現行憲法が沈黙していることは、そ
れを必置の機関ではないとしたからではないか。
青井は「外」的な理由づけを行ったのは、9 条のテキスト解釈としての正当性
や国民の戦争放棄への支持があったことを指摘している (54) 。政府は現行憲法に
自衛権が明記されないため、自衛権をどのようにとらえるのかについて模索し、
このような理由付けに帰着したのである。しかしながら、現行憲法に明示され
ていない権利について、主権国家の固有の権利だから当然保有すると主張する
ことは妥当ではない。本来、国民に向けて十分な説明がなければならないし、
主権国家の持つべき重要な権利ならば、憲法に明示されるべきである。
(2)国会の関与による授権
主権国家の固有の権利として自衛権を正当化するならば、本来憲法改正で対
応すべきである。他方、それが容易ではない政治状況として、国民の強い平和
愛好の心情、米ソ冷戦下の国内政治の保革対立などが存在した。このため、政
府の見解が「外」的な理由で「折衷」的に導き出されたと考えられる。これに
は「憲法解釈と立法措置という法的解釈」という森本敏らの批判もある (55) 。そ
8
れでは、このような「折衷」的な手続きは立憲主義的統制に反しないのか。
立憲主義に基づけば、政府のこのような見解に対して、国会や裁判所がチェ
ックを行うべきである。国会は政府の恣意的権力行使を抑制しなければならな
い。裁判所は判例を見る限り統治行為論を援用して判断を忌避している (56) 。
近代立憲主義に基づく憲法の基本原理の一つは、国家権力の恣意的な侵害を
制限することで、国民の自由、権利を保障することである。また自衛権の作用
の向かうところは国民生活ではなく外敵であり、直接国民生活が自衛権の行使
によって侵害を受ける可能性は低い。他方、自衛権の行使が必要となる場合、
外敵によって国民の自由、権利が著しく侵害される可能性が生じている。外敵
の攻撃を受けた場合、国家が自衛権を行使して抵抗しなければ国民の自由、権
利は保障されない。従って、たとえ現行憲法に明示されていないとしても、国
家が自衛権を行使しなければ、国民の自由や権利を保障することはできない。
自衛権が明示されていないから外敵に抵抗できないというならば、むしろ憲
法の基本原理を損なうことになる。このような考えに立ち、主権国家は自衛権
を持つのであるが、それは外敵からの攻撃と軍隊による国民の自由や権利の侵
害の抑止の比較考量によるべきもので、議会が政治的価値を加味しつつ判断し
なければならない。憲法の基本原理には自衛権が包括されているものの、その
内容は個別具体的に見ていかなければならない。本稿でも主権国家は自衛権を
持ち、そのために必要な武力の保有は禁じられていないと考えるものの、その
内容は立憲主義的統制に服すると考える。
問題となるのは政府解釈と立憲主義との整合性である。政府解釈は、憲法解
釈上、自衛権の規定を設けるための「折衷」的運用の結果である。長谷部恭男
も従来の政府解釈は「十分に説得力のある立場」のものと指摘している (57) 。本
稿もこれをやむを得ないものと考える。そこで、これを自衛権の内容をどのよ
うに決めていくのかが問題になる。背景として、憲法改正を行うことは困難で
あるという情勢が続いている。NHK の世論調査でも、憲法改正に賛成であると
の回答が多数になったのは 2002 年以後である (58) 。憲法改正に対する国民の抵
抗が強く、このために必要な国民投票法も存在してこなかった事実もある。国
民投票法である「日本国憲法の改正手続に関する法律」が整備されたのは 2014
年 5 月であり (59) 、それ以前は憲法改正が制度的にもできない状態にあった。
しかしながら、芦部が指摘するように「比類のない徹底した戦争否定の態度」
を主張することは学説としては合理性を持つものの、主権国家を外敵から防衛
する責務を持つ政府には受け入れることはできない。学説の多数が一切の戦争
を放棄していると主張することと、政府が外敵の侵攻を受ける可能性に政策的
に対処することは異なる問題である。学説の多数の結論とは関係なく、政府は
国民の生命、財産を守る責務を放棄できない。このため、政府は「折衷」的な
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解釈を示し、安全保障法制の整備を行ってきたのが、憲法学的知見との整合性
に欠ける。本稿では、国会が立法過程で関与し、政府との政治的合意を行うこ
とで立憲主義的統制が加えられてきたとの視点を与える。
従来、政府は自衛権を具体化するために、関連法令を必要に応じて個別具体
的に立法化し、自衛権の内容を形成してきた。国会が法案を可決することで、
議会が政府を監視するという立憲主義的要請にも配慮しつつ、憲法解釈上可能
な範囲で自衛権を具体化した。立法措置をともなわなければ自衛権の内容に変
更は生じない。すなわち、日本の自衛権の行使は法に依拠しなければ行うこと
ができない、いわゆる「ポジテイブリスト形式」に基づいてきた。
本稿は、これは国会が法律によって個別具体的に政府に自衛権の作用の権能
を「授権」しているものと考える。例えば、政府は「自衛隊法は、自衛隊の行
動及び権限を個別に規定しており、いわゆる「ポジティブリスト」である」と
し、
「任務の的確な遂行に必要な自衛隊の行動及び権限が明確な形で規定されて
いることが重要である」と述べている (60) 。法案の形で準備され、それが内閣法
制局の審査を経て、違憲ではないという有権解釈の下、政府提出法案として国
会に提出される。これが国会審議を経て、法律として成立する。政府はこのよ
うな意思決定過程を積み重ねてきた。
「授権」とは「自己の有する権威又は権限の行使を他者にゆだねること」で
ある (61) 。
「一定の資格、権利、権限などを特定人に付与すること」などの定義も
ある (62) 。法学の概念でいう授権は、行為者が自らの名で契約を結ぶが効果は本
人に帰属するというもので (63) 、民法学説上の議論を指す。他方、本稿で論ずべ
きものは公法上の問題で、憲法学と関連づけた議論である。自己の有する権限
の行使を他者に委ねるとは、
「憲法制定権力を持つ国民の保有する自衛権という
権限の行使を政府に委任するのであり、その行使たる自衛権の作用は法令に依
拠しなければならない」ことになる。
これが本稿における「授権」であり、政治過程を通じて国会が政府に授権し
てきたのである。主権国家の自衛権が立憲主義的統制に服するべきことは先に
論じた。現行憲法のテキスト解釈からは禁止されると考えられる自衛権の行使
について、国会が関与することで、
「一切の戦争を放棄する」という原則が浸食
されてきたのである。どの程度までの浸食が許されるのかについて明確な基準
がない。また、その時々の政治判断によるため、必ずしも軍事的合理性が優先
されないが、現行憲法に自衛権が明示されていない以上、現行憲法の要請する
ものである。なお、国会論争では、長い期間、与野党が防衛政策に関して対立
を続けてきたことがあり、大規模な立法そのものがほとんど行われていない時
期が存在する (64) 。国会が政府に授権することを拒んでいたことを意味する。与
野党の政治的対立が安全保障法制の立法化の阻害要因となっていたのである。
10
おわりに
軍権の立憲主義的統制の形成過程を俯瞰し、 20 世紀以後に形成された「自衛
権」は近代以前の軍権と比較すれば大きく制約を受けていることを示した。主
権国家が当然有する権利であるとしても固有の権利であるとまでは言えず、自
衛権を主権国家の権利として具体化するためには、国際法上の位置づけととも
に、憲法等で明示的に示されることが必要である。
日本の安全保障法制の立法過程においても、政府の判断や行為に対して議会
が関与して政治的価値を付与させるということは、国民の自由や権利を保障す
るための議会の権能の現れであり、立憲主義の要請するものである。
これらの知見を踏まえて現行の安全保障法制の立法過程を検証し、政府は自
衛権の作用の具体化のために立法を行い、国会が政府に自衛権の内容を授権す
るという慣習が形成されていることを示した。すなわち、日本の自衛権の行使
は法に依拠しなければ行うことができない、
「ポジテイブリスト形式」に基づい
ており、これは国会が法律によって個別具体的に政府に自衛権の作用の権能を
「授権」している。
安全保障分野の議論では、主権国家は固有の自衛権を保有し、その行使が当
然のことで、むしろポジテイブリストに基づく政府の防衛作用は、
「任務達成の
ための大きな障害とならざるを得ない」との指摘もあるが (65) 、現行憲法下では、
国会が関与し、ポジテイブリストにより授権されなければ自衛権の行使できな
い。この場合、国会の関与によりその時点の政治情勢に左右され、法案に政治
的価値が加味されることになるが、政府の自衛権の行使に対する立憲主義的統
制の現れであり、現行憲法の要請するものである。
11
註
(1)
石破茂「第 156 国会
衆議院安全保障委員会 第 6 号」
、2003 年 5 月 16 日。
(2)
奥平穣治「軍の行動に関する法規の規定のあり方」防衛研究所紀要第 10 巻
第 2 号、
(防衛研究所、 2007 年 12 月) 67∼ 101 頁
(3)
猪木正道『軍国日本の興亡』中公新書、
(中央公論新社、 1995 年 3 月)ⅰ頁。
(4)
西修『日本国憲法を考える』、文春新書(文藝春秋、 1999 年 3 月) 78 ∼ 79 頁。
(5)
芦部信喜『憲法(第五版)』
、(岩波書店、 2011 年 3 月) 54 頁。
(6)
野中俊彦ほか『憲法Ⅰ(新版)
』、
(有斐閣、 1997 年 4 月) 163 ∼ 167 頁。
(7)
防衛省・自衛隊の HP の「憲法と自衛権」
「防衛省の政策」を参照にした。
http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/seisaku/kihon02.html 。
(8) 「衆議院議員森清君提出「憲法第九条の解釈に関する質問主意書」に対する答弁書」、
(内閣衆質 93 第 11 号、 1980 年 12 月 5 日)
。
(9)
例えば、田村重信、杉之尾宣生『教科書・日本の安全保障』
、
(芙蓉書房出版、2004
年 3 月) 30∼ 31 頁。
(10)
富井幸雄『海外派兵と議会』
、(成文堂、 2013 年 1 月) 16 頁。
(11)
イエリネック『一般国家学』訳芦部信喜ほか、
(学陽書房、 1974 年) 493 頁。
(12)
「政治學辞典」、
(平凡社、 1954 年 5 月) 1376-1377 頁。
(13)
同上、 995-996 頁。
(14)
ホッブズ『リヴァイアサン 1』岩波文庫、
(岩波書店、1992 年 2 月)207∼ 211
頁。
(15)
ホッブズ、同上、 214 頁。
(16)
義井博『国際関係史
(17)
高木八尺ほか『人権宣言集』岩波文庫、
(岩波書店、 1957 年) 78∼ 80 頁。
(18)
髙木ほか、同上、 109-112 頁。
(19)
田中成明ほか『法思想史 第 2 版』、
(有斐閣、 1997 年 5 月) 54 ∼ 55 頁。
(20)
イエリネック「一般国家学」 493 頁。
(21)
義井、前掲書、 25 頁。
(22)
義井、前掲書、 25 頁。
(23)
城戸正彦『戦争と国際法 改訂版』、
(嵯峨野書院、 1996 年 9 月) 20 頁。
(24)
城戸、同上、 20 頁。
(25)
城戸、同上、 20 頁。
(26)
城戸、同上、 6-7 頁。
(27)
イエリネック、前掲書、 493 頁。
(28)
クラウゼヴィッツ『戦争論 上』岩波文庫、
(岩波書店、 1968 年 2 月) 58 頁。
(29)
クラウゼヴィッツ、同上、 28∼ 29 頁。
(30)
筒井若水『戦争と法
五訂版』、
(南窓社、 1979 年 10 月) 45 頁。
第 2 版』、
(東京大学出版会、 1976 年 1 月) 80 頁。
12
(31)
細谷雄一『国際秩序』中公新書、(中央公論新社、 2012 年 11 月) 27 頁。
(32)
筒井、前掲書、 80 頁。
(33)
富井、前掲書、 11 頁。
(34)
高木ほか、前掲書、 108 頁。
(35)
髙木ほか、前掲書、 108 頁。
(36)
深瀬忠一「現代国際法上の自衛権についての考察」、北大法学論集第 38 号(北
海道大学法学部、 1988 年 7 月) 205∼ 239 頁。
(37)
国際連合憲章の第 2 条 4 項では「すべての加盟国は、その国際関係において、
武力による威嚇または武力の行使を、いかなる国の領土保全または政治的独立に対
するものも・・・慎まなければならない」としている。
(38)
国際連合憲章の第 7 章に規定がある。解説したものとしては、
青井未帆「 9 条・平和主義と自衛隊」
『憲法学の現代的論点 第 2 版』、
(有斐閣、2009
年 8 月) 85∼ 86 頁。
(39)
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する」(第 9 条第 1 項)
。「前項の目的を達するため、陸海空軍そ
の他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない(同条第 2 項)」
。
(40)
芦部、前掲書、 36 頁。
(41)
芦部、前掲書、 38 頁。
(42)
田村・杉之尾、前掲書、 28∼ 29 頁。
(43)
田村・杉之尾、前掲書、 28 頁。
(44)
例えば、小針司『文民統制の憲法学的研究』
、(信山社、 1990 年)。
(45)
(46)
例えば、富井『海外派兵と議会』。
芦部、前掲書、 54 頁。
(47)
芦部、前掲書、 57 頁。
(48)
野中ほか、前掲書、 148 頁。
(49)
野中ほか、前掲書、 163∼ 167 頁。
(50)
野中ほか、前掲書、 170 頁。
(51)
青井、前掲書、 91∼ 92 頁。
(52)
青井、前掲書、 91∼ 92 頁。
(53)
防 衛省 ・自 衛隊の HP の「 憲法 と自 衛権」「 防衛省 の政 策」 を参照 にし た。
http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/seisaku/kihon02.html
(54)
青井、前掲書、 91∼ 92 頁。
(55)
森本ほか、前掲書、 14-16 頁。
(56)
野中ほか、前掲書、 170 頁。
(57)
長谷部恭男「集団的自衛権行使容認論の問題点」自由と正義 Vol.65 、
(日本弁護
13
士連合会、 2014 年 9) 8∼ 15 頁。
(58)
(59)
「平和観についての世論調査」、
( NHK、 2014 年 7 月)
。
日本国憲法の改正手続に関する法律が成立したのは 2007 年 5 月であるが、一
部の規定が未整備なままで、その部分の改正を含めて改正案が成立したのは 2014
年 5 月である。
(60)
「参議院議員浜田和幸君提出「防衛法制における「ポジリスト」、
「ネガリスト」
に関する質問主意書」に対する答弁書」、
(内閣参質 186 第 105 号、 2014 年 6 月 3
日)
。
(61)
『新法律学辞典 第三版』、
(有斐閣、 1989 年 10 月) 683 頁。
(62)
『広辞苑 第六版』、
(岩波書店、 2008 年 1 月) 1340 頁。
(63)
内田貴『民法Ⅰ 第 4 版』、
(東京大学出版会、 2008 年 4 月) 204 ∼ 205 頁。
(64)
助川康「 1990 年代以降の防衛分野における立法と政党の態度」防衛研究所紀
要第 9 巻第 3 号(防衛研究所、 2007 年 2 月) 1∼ 19 頁。
(65)
奥平、前掲論文、 68 頁。
14