INTERVIEW - Schoffel

“Ich bin raus.”
外へ出よう、自然のなかへ
ドイツ南部バイエルン州にある小さな街シュヴァブ・ミュンヘン。
ここで、
ニット製ストッキングを作る会社として誕生して以来7世代、212年にわたって
脈々と受け継がれてきたアウトドアウエアブランド「ショッフェル」を訪ねた。
文・写真◉村石太郎 Text by Taro Muraishi
イラスト◉浅野文彦 Illustrations by Fumihiko Asano
※この冊子は、雑誌『PEAKS』
( 枻出版社刊)
の連載「野外道具探訪記」を加筆・再編集したものです。
州都ミュンヘンから
シュヴァブ・ミュンヘンへ
上)シュヴァブ・ミュン
ヘン中心部に現在まで残
されている建物(写真手
前)こそ、ショッフェル
創業地である。左)現社
長ピーターの祖父である、
5代目ルドウィッグ・シ
ョッフェル
上)ポップアートが大好きだというピーターは、柔らかな物腰の紳士である。彼のオフィス
には、キース・ヘリングやアンディ・ウォーホルらの作品が飾られていた。右・右上)シュ
ヴァブ・ミュンヘン中心部にある創業地の向かいには、十数年前までピーターの母親が経営
していた「ショッフェルストア」がある。同社製品のほかローバー製の登山靴などもある
伝統あるアウトドアブランドが
多いドイツにおいても、ひときわ
長い歴史を有するのが日本に上陸
を果たしたばかりの﹁ショッフェ
ル﹂だ。創業は、1804 年とい
うから驚かされる。そんな彼らが
先 に は、
﹁IHLE﹂ と い う ベ ー
カリーがあった。いまから 200
年以上も前に、この建物の中でシ
ョッフェルは産声を上げたと彼は
いう。その向かいには、ショッフ
ェル製品に加えてローバー社製の
登山靴、ドイター社製バックパッ
クなども置かれたショッフェルス
トアがある。この店は、同社の社
長 兼 CEO で あ る ピ ー タ ー・シ
ョッフェルの祖父ルドウィッグ・
ショッフェルが始めた店であり、
近年までピーターの母親が経営し
ていた。
てしまってね。それから数年間は
﹁でも、彼女は 年前に亡くなっ
17
外に引っ越すことにしたんだ。で
て広い敷地が必要になってね、郊
よ。会社が大きくなるにしたがっ
建物の中にオフィスがあったんだ
らっている。 年代までは、この
いまは別の人たちに引き継いでも
ロコシや小麦などの穀物、野菜の
だよ。この一帯は、昔からトウモ
る、いまとはまったく異なる時代
てね。ひとりに一部屋を与えられ
ひとつの屋根の下で生活をしてい
ろは、老人から子どもたちまでが
んだ。ショッフェルが創業したこ
ピーターの姉が手伝っていたんだ。 へ行く。そんな日々を送っていた
もね、この建物にはいまも先代の
栽培、牛や羊などの畜産業が盛ん
に行なわれていた地域なんだ。近
フーバート・ショッフェルが住ん
でいるんだよ﹂
くを流れるレヒ川によって肥沃な
土壌が運ばれてできた、比較的平
マネキンと、古めかしいミシンな
入って行くと、同社製品を着せた
きた。彼らと入れ替わりに社内へ
若い男女のスタッフが笑顔で出て
くと、エントランスドアが開いて
っ白な建物の表玄関へと歩いて行
ッグの名前だ。素っ気ないほど真
とある。ピーターの祖父ルドウィ
通りの名前をよくみると、
﹁ル
ドウィッグ・ショッフェル通り﹂
不釣り合いに建っていた。
に彩られたマクドナルドの店舗が
る田園風景のなかには、赤と黄色
ェル本社へ向かった。田畑が広が
ン中心街から郊外にあるショッフ
僕たちは、ベルンドの運転する
車に乗ってシュヴァブ・ミュンヘ
だ。そのほかのことはなにも分か
許可を得たことで商売を始めたん
ット製のストッキングを販売する
年に彼の妻や母親たちが編んだニ
生まれたらしい。でも、1804
によると、もともとは彼も農家に
だからね。祖父から聞いたところ
なにしろ200年以上も前のこと
﹁詳しいことはわからないんだ、
ショッフェルについて尋ねた。
てくれた。僕は、彼にゲオルグ・
ーターは同社創業当時の街の状況
ィスプレイを眺めていた僕に、ピ
ショッフェル家が代々使ってい
たであろうと想像できる道具のデ
農業に向いているんだ﹂
はならないし、降雨量も多いから
らな地形が広がっているからさ。
どの縫製道具が飾られていた。
休みなく働いて、日曜日には教会
ていてね。月曜日から土曜日まで
いた人たちは、みんなが農業をし
シュヴァブ・ミュンヘンに住んで
1804 年 と い う の は、 ナ ポ
んだよ﹂
から、肖像写真すら残っていない
んだ。写真技術が確立される前だ
の恵みを糧に生活をしていたんだ。 請書類が当時を知り得るすべてな
について伝え聞いたという話をし
冬になっても気温もそれほど低く
﹁初代ゲオルグ・ショッフェルが
らなくてね、この年に残された申
世紀初頭
ショッフェル誕生
'70
生きた時代の人たちは、この土地
19
本拠地としているのが、ドイツ南
部バイエルン州の州都ミュンヘン
から西へ車で 時間ほどのところ
人 口 万 3500 人 ほ ど の 街
の路上で、輸出営業部長を務める
会社を始めた建物だよ﹂
業者のゲオルグ・ショッフェルが
あそこにあるのがショッフェル創
ンと呼ばれているんだ︵笑︶
。ほら、
﹁ここは、いわば小さなミュンヘ
ヘンである。
にある田舎街シュヴァブ・ミュン
1
ベルンド・デイトリッヒが指差す
1
レオン・ボナパルトがフランス皇
帝に即位した年である。当時は、
バイエルン地方一帯もその勢力圏
におかれ、ヨーロッパの広い地域
で行なわれる経済活動が規制され
ていた。域内で事業を始めるには
帝国から許可を得る必要があり、
ゲオルグ・ショッフェルはこれを
得たことで商売を始めたと推測で
きる。だが、権利を得たことを証
明する書類が唯一の手がかりであ
り、
﹁より以前から事業を始めて
いた可能性もある﹂とピーターは
話してくれた。
シュヴァブ・ミュンヘン・
ブルーが街を彩る
約 200 年 前、 シ ュ ヴ ァ ブ・
ミュンヘンの住民たちは田畑での
仕事を終えると家に帰り、女性た
ちは地元の羊毛を使って編み物を
楽しんでいたのであろう。ゲオル
グ・ショッフェルは、女性たちが
編んだストッキングを馬車に乗せ
て、週末になると隣町へと出かけ
ていった。それは、現在のような
ストッキングではなく、毛糸で作
ったタイツのようなものであった。
ショッフェル家が作ったストッキ
ングの特色は、街に代々伝わる方
法で染めたシュヴァブ・ミュンヘ
ン・ブルーという彩りにあった。
﹁僕も詳しい方法は知らないんだ
けど、この地方独特の染め技術が
あってね。これを、シュヴァブ・
ミュンヘン・ブルーと呼んでいる
んだ。これはもともとショッフェ
ル家だけのものではなくて、この
本社内に入るためのエントランスは、
建物と建物のあいだにある。ふたつ
の建物は、このエントランスの上に
設けられた渡り廊下で繋がっている
上︶製品開発を行なうデザイナーたちが
集まる 階部分には、デザイン画やサン
プル生地などがあった。左︶製品開発を
指揮するゲルマン・カスミマイアー
ミュンヘンから西へ
約1時間ほどのシュ
ヴァブ・ミュンヘン
郊外にあるショッフ
ェル本社。この建物
の奥にはサンプルな
どを作る工場がある
ナポレオンから許可を得たことでゲオルグ・ショッフェルは
ストッキングを売り始めたんだ
本社建物に入ると、
ガラス張りのエント
ランスルームに最新
の同社製品やショッ
フェル家に代々引き
継がれてきたであろ
う縫製道具などがデ
ィスプレイされてい
る。欧州域内での同
社は、
ドイツNo.1の
スキーウエアブラン
ドとして人気が高い
2
地域の色だったんだ﹂
慮の死を遂げる。ふたりの姉も家
﹁子どものころ、母とよくいっし
ていたと当時を思い起こす。
仕事を手伝うため会社によく訪れ
書類整理や倉庫管理などを手伝っ
業を継ぐことはなく、末っ子であ
ていたんだけど、僕はいつもタイ
った彼が急遽引き継ぐことになっ
カを作り始めたのだ。
プライターをおもちゃにして遊ん
現在、彼らのロゴマークにも使
われているシュヴァブ・ミュンヘ
﹁それまでは、アウトド
でいた。 代後半になると、簡単
ょに会社を訪れていたね。彼女は
アで遊ぶという概念自体
戦後の復興を終えて、生
がなかったんだ。でも、
た。そして、登山用のニッカボッ
右上︶本社建物から渡り廊下を進み、
螺旋階段で 階部分へと降りていく。
右下︶本社工場にあるストックヤード。
試作サンプルなどもあり、これらすべ
てがハンガーに掛けられレールを通っ
て移動させることができる
ン・ブルーは、次第にショッフェ
ルのイメージカラーになっていっ
た。また、ゲオルグ・ショッフェ
ルは、ストッキングに加えて就寝
用の帽子などの販売も始めている。
暖房設備が整っていない家も多く、
頭部を温かく保つためにニット帽
をかぶって寝るためだ。
長い年月が流れ、初代ゲオルグ
から、彼の息子で 代目となるヨ
ゼフ・ショッフェルへ。そしてゲ
オルグの孫である 代目のヤコブ
・ショッフェルへと家業が受け継
がれていった。
﹁じつは、 代目がだれなのかが、
どこを探しても資料がないんだ。
代目は祖父ルドウィッグ・ショ
ッフェル。 代目は父のフーバー
ト・ショッフェル。そして、 代
目が僕だね。でも、父の世代にな
るまで、百数十年のあいだニット
製品を作り続けていたんだ﹂
年代、フーバート
が家業に関わり始めた
からね﹂
かを知ることになった
じて仕事をしているの
とで、彼らがなにを感
ちとの時間を過ごすこ
たね。工場で働く人た
けがえのない経験だっ
事 だ︵ 笑 ︶
。 で も、 か
ても退屈で大嫌いな仕
くんだ。いま思い出し
もの穴に紐を通してい
ていたよ。毎日、何百
こに紐を通す仕事をし
いているんだけど、そ
紐を通すための穴が開
ニッカボッカの裾には
な仕事を手伝うようにもなったね。
10
ころの同社は、 ∼
とで、ようやく余暇を過ごす時間
活に余裕も生まれ始めた。そのこ
第にアウトドアジャケットやスキ
会社だった。 年代になると、次
人ほどの職人が働くとても小さな
左)経営チームやデザイナーたちのオフィスがある本社建物から、工場へ向かうた
めに2階部分に設けられた渡り廊下。右)オフィス内に敷かれていたカーペットを
よく見ると、なんとショフェルロゴがあしらわれていた
を大切にするというような雰囲気
百数十年間、父の世代になるまで
ニット製品を作り続けていたのさ
感じ取ったんだね﹂
んだ。父は、時代の流れを敏感に
向けにニッカボッカを作り始めた
自身の趣味でもあったアウトドア
アのナショナルチームなどに採用
ウエアは定評を集め、オーストリ
になっていった。なかでもスキー
テクニカルな製品を手がけるよう
現在のショッフェル製品に通じる
が芽生え始めたんだ。そこで彼は、 ーパンツなども作り始め、次第に
そのころのピーターは、父親の
30
こうした状況に変化が訪れたの
は、第 次世界大戦の終結後、経
済が安定し始めた 年代のことだ。
街にあった縫製工場が破綻の危機
に遭ったことから、ピーターの父
であり、ショッフェル家の 代目
となるフーバートがこれを買い取
り、家業から独立して自身の会社
を経営していた。この工場では、
一般的なパンツ︵ズボン︶の製造
と販売が行なわれていたが、本来
家業を引き継ぐはずだった兄が不
20
7
6
'60
'70
2
3
'60
2
右)柔らかな着心地
が特徴的な独自の防
水透湿性素材を使っ
た「ベンチュリ・ス
トレッチ・ジャケッ
ト」
。ジップインシ
ステム対応フリース
などを内側に装着可
左上)試作サンプルなどを作る本社工場内には色とりどりの生地や縫製糸が整然と並べられていた。右
上)ストックヤードのハンガーに吊されていた、地元の森林警備隊や警察官などが着る制服
4
6
5
1
も採用された。しかし、主な取引
た、森林警備隊や警察官の制服に
されることで注目されていく。ま
に上げていかなければならない。
の返信に追われ、売り上げをつね
面に向かって書類の作成やメール
しまったからね。コンピュータ画
間と同じように、これから何世代
い る ん だ。 こ れ ま で の 200 年
前が製品のひとつひとつについて
い。ショッフェルという家族の名
ッキングといったマーケティング
相手はドイツ国内やスイス、オー
用語が盛んに踊る。自然のなかに
にもわたって買ってくれたユーザ
ドイツでは過去 年くらいのあ
いだ、アウトドアビジネスが驚く
身を置くアウトドアの世界にも、
ーに喜ばれる製品を作っていくと
ほど成長してきているという。そ
忙しい時間の合間をぬって素早く
そこで使い始めたのが〝イッヒ・
の理由は、
﹁多くの人が椅子に座
野山を歩こうといった流れが広ま
ビン・ラウス〟だったんだ。これ
って仕事をしていて体を動かすこ
りつつある。もちろん、こうした
ストリアといったドイツ語圏の国
とも少なくなったからではないか
が、ゆっくりと家族や友人たちと
に限られていた。彼らが世界展開
な﹂とピーターは話す。
時間を過ごすのもアウトドアの醍
約束したいんだ﹂
ショッフェルが掲げる﹁イッヒ
・ビン・ラウス﹂も、こうした状
醐味だ。自分たちのペースで自然
は、ショッフェルをほかとは異な
本社工場の脇にあったのは、
海外生産拠点と本社をつなぐ
品質管理チームが集うオフィ
ス。いずれも白を基調とした
インテリアが印象的だ
況に対するメッセージである。こ
外にあり﹂とも訳することができ
ショッフェルは考えているのだ。
日がより豊かなものになる。そう
クやテント、登山靴などを作るこ
り上げを伸ばすためにバックパッ
スキーウエアだけに注力する。売
だ。僕たちはアウトドアウエアと
な。そのための手助けをしたいん
があると感じているんじゃないか
動かし、自然のなかで過ごす必要
ている社会だからね。人々は体を
﹁プレッシャーがますます増大し
が込められている。
う、自然のなかへ﹂といった思い
るだろう。そこには、
﹁外へ出よ
うなもので、日本語にすれば﹁我、 を楽しもう。そうすることで、毎
潮流を否定するつもりはない。だ
れはドイツ語における慣用句のよ
る存在にするモットーなんだ﹂
上・右)'90年代までは実際の製品の製造を行なっていた本社工場。
現在は試作サンプル作りや、警察官、森林警備隊、スキーレーシ
ングチームなど、プロユースの製品を製作している
左上︶雑然としがちな見本生地なども整
然と保管されており、規律を遵守するド
イツ企業らしい光景である。左︶幾種類
ものバックルやジッパースライダー、リ
ベットなどが収納されたリペアルーム
を果たしたのは、わずか 年ほど
前のことだ。
一般的な試験機に加えて、目を引いたのが
この透湿性試験器。細かな穴から水蒸気を
出して、透湿性などを確認するという
昨今の企業広告や雑誌誌面では、
スピードハイキングやファストパ
身近な自然を楽しむための
アウトドアウエア作り
現在のショッフェルは、オラン
ダやベルギー、スペインや東欧諸
国に始まり、台湾や韓国にも輸出
を始めるなど カ国以上と取引を
行なうまでに成長を遂げた。ただ
し、家族経営である同社では、こ
れ以上性急に事業を拡大するつも
りはないと断言する。また、
﹁より
いった一般的なアウトドアブラン
高く、より早く、より遠くまで﹂と
ドがユーザーに投げかけるメッセ
ージとも距離を置いていると話す。
﹁アウトドアウエアの多くは、ス
ペックが高すぎるものが多過ぎる
と感じているよ。多くの人たちは
エベレストに登りたいわけではな
くて、身近な自然を楽しみたいん
じゃないかな。標高 8000m の
山の頂上を目指すような限られた
人のためでなく、一般的な登山者
が悪天候から身を守るための完璧
なウエアを作りたいと考えている
とはしない。そして、アウトドア
活動のなかでしっかりと機能して、
表紙写真の
キャプション
んだ。同時に、こうした人たちは、
日々の生活で大きなストレスを感
だれもが快適だと感じられるよう
に品質や機能を大事にしていきた
1
3
6
5
4
じている。いまは、あまりにも多
10
15
くの物事が早く進むようになって
2
1)創業から百数十年のあいだ、ショッ
フェルでは手編みのニット製品を作り続
けてきた。2)本社内にある工場で縫い
つけられるロゴマーク。3)創業当時か
ら使われてきたシュヴァブ・ミュンヘン
中心部にあるショッフェルの旧本社。4)
ピーター・ショッフェル(写真右)と、
彼の父親で前社長のフーバート・ショッ
フェル。5)ショッフェル家の7代目で
あり、現社長兼CEOのピーター・ショ
ッフェルとスタッフが真剣な面持ちで将
来の製品について話し合う。6)本社工
場では試作サンプルを製作するため、色
とりどりの縫い糸が用意されている
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