これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および

これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
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「キュビスムにおける構成彫刻「ギター」の意義について」
序
第1章 「ギター」について
第2章 ピカソにおけるプリミティヴィズム(1906
—1909)
第3章 「ギター」における分析的キュビスムの意義
第4章 1912年における「ギター」とその周辺との関係
(1) コラージュ「籐椅子のある静物」
(2) コラージュ以降のピカソとブラックの新しい段階
(3) 「ギター」におけるグレボ族の仮面(Grebo mask)の影響
第5章 ピカソ、ブラックのパピエコレ
第6章 コンストラクションについて
第7章
脚注
参考文献
図版資料
結
『キュビスムにおける構成彫刻「ギター」の意義について』
序
ピカソの彫刻には伝統的な技法による作品も多いが、それとは個別にもう一つの立体作品の流れがピカソの彫刻を占め
ている。それが今回中心作品として取り上げる構成彫刻、レリーフ、コンストラクションと呼ばれる「ギター」fig. 1であ
る。ピカソの彫刻が大きく変容するのは鉄板を切り取り、それらを組み合わせた針金の線、弦をつけたこの作品からであ
るといわれる。構成彫刻、コンストラクションというのは、
「ギター」が制作される以前の西洋の彫刻では見たことのない
タイプの作品であり、それはキュビスムの面とヴォリュームを三次元に投入したものであり、またマッスとしての彫刻と
いう概念を完全に捨ててしまっている。今日、マッスにとって替わる面構成による立体作品はなんら珍しいものでないが、
それは当時まったく新しいものであった。
また「ギター」は、分析的キュビスム、コラージュを経て、パピエ・コレが制作されるまでの間に生み出されており、
彫刻の問題だけではなく、絵画の諸問題も抱えて制作されていたのである。1908年遅くから1909年の春までのピ
カソの絵画は彫刻的な、幾何学的造形性を有しているのにもかかわらず、3次元の作品を数点しか作らなかったのに対し
て、1912年に生まれた、イリュージョンを全く排除した平面のキュビスム絵画の方が、ピカソの彫刻の傑作へと導く
こととなる。なぜピカソは1912年に彫刻へと回帰したのか。キュビスムを語るに欠かさせない純粋なキュビストであ
るブラックが、ここでピカソのキュビスム、
「ギター」に関係、影響を与えていたことを忘れてはならない。また1912
年再びインスピレーションを受けていたアフリカ彫刻(グレボ族)との影響も大きいとされる。ここではこれらとの関係
とピカソの絵画を考察することによって、
「ギター」の革新性を導き出す。また「ギター」には、後の20世紀彫刻、絵画
の展開には欠かせない、コラージュ、パピエ・コレ∼抽象絵画との関係、コンストラクション、構成彫刻のと関係が含ま
れている。
「絵画、彫刻という区別を廃する可能性をもったあらゆる技法の母細胞なのであるi」とスピースは述べる。この
論文では、
「ギター」を軸に、この作品がどのような過程で、どんな影響を受け制作されたのかを考察し、また制作後にお
ける、新しい展開との関係を論じ、ピカソにおける革新的作品「ギター」の意義を論じていきたい。
第1章「ギター」について
論文の中心的作品である、1912年の構成作品、「ギター」について探究していくと、キュビスム時代の作品に特有
な制作期日の問題が生じてくる。キュビスム自体、複雑な段階を経て非常に急速に発達している。それゆえにその発展を
年代気的にかつ詳細に渡って正確にあとを辿っていくことが必要である。特にピカソの場合には、きわめて重大な変化が、
古い歴史的様式では数年とか十数年というのに反して、しばしば数カ月あるいは数週間のうちに起こっている。とりわけ、
制作時期推定上の諸問題はキュビスムの研究においてはその重要度がもっとも高い。当時、比較的大勢の非常に才能ある
芸術家相互の影響関係が緊密であったというまさにそのことが、細心の注意を払って日付けを考察せねばならなくしてい
るでのある。中心的存在であるピカソは、キュビスム時代には通例その作品に日付をいれず、時々キャンバスの裏面に場
1
所名を書き込むだけであったii。ピカソのキュビスム時代の作品のカタログが出版されてはいるが、すべての作品において
完璧といえるものはない。ピカソの作品のその制作期日を知るためには、しばしば夏の休暇旅行などの伝記的証拠や手紙
などに頼らなければならない。それはブラックについても同じことがいえる。とりわけピカソのコンストラクションはピ
カソのプライベートコレクションとして、10年間隔離され、壊されることなく、放置されていたiii。それらはピカソのキ
ュビスムの研究に大きく関係しており、またその発展を解明する大きな手掛かりとなっている。
1989年以前の「ギター」に関する研究論文はピカソのコラージュ、パピエコレに先行されて制作された1912年
春、制作説を基に論じられているものが多い。Johnson Ronald William は、「ギター」の制作期日はピカソの初コラージ
ュ「籐編み椅子のある静物」(1912年、May)fig.2より先行していると、ニューヨークタイムズ紙におけるD・H・
カーンワイラーの発言ivを有力視し、「ピカソ自身が、彼の最初のコンストラクション(「ギター」)は数か月「籐椅子編
みのある静物」に先立って(制作されて)いたと、ごく最近確証したv」 としてピカソの「ギター」論を進めている。 だ
がウィリアム・ルービンは後年、Picasso and Braque:Pioneering Cubismviにおいて、ピカソは確かにルービンにも同じ
ように、「ギター」はコラージュを始める前に制作されていたと語ってはいたがvii、当時ピカソがコラージュとパピエコレ
二つの用語を区別して使っていたかは定かでなく、ルービン自身、またカーンワイラーもピカソが発言したコラージュ作
品が「籐編み椅子のある静物」であると勘違いして、この発言を受け止めていたふしがあると述べている。当時ピカソが
コラージュとパピエコレの用語を区別して使っていたとは考えにくく、「ギター」は「籐編み椅子のある静物」に先行し
て制作されたと考えるよりも1912年秋のパピエコレの前と考えた方が自然であるviii。後年、エドワード・フライやPierre
Daix による研究により、カーンワイラーやルービンによって勘違いされた「ギター」の制作期日の詳細明らかになってき
た。近年では、Yve-Alain Bois によってもこの問題は分析されている。ここで議論されている「ギター」とは、数点ある
「ギター」の中でも、オリジナルのカードボード製による「ギター」の雛形のことを指し、金属製の「ギター」fig.3はこ
のカードボードの「ギター」の数カ月後に制作されていた。
現在「ギター」の制作期日の問題は、1912年10月より前に制作されてはいないという説が研究者の中でも有力な
ものとなっていて、それは1912年10月9日ピカソがブラックに宛てた手紙の詳細な分析により論証されているix.20
00年パリのポンピドゥセンターで行なわれたピカソの彫刻展xにおいては、「ギター」、1912年末とあいまいなもの
なっているが、この論文ではルービンが訂正した1912年10月の説を有力なものとして考え、論を進めていきたいと
考える。
1911—12年の年譜
—1911年秋—1912年にかけてブラックはpaper sculpture制作。
—1912年1月ピカソはパリでブラックのpaper sculptureを見る。
—1912年5月ピカソは初コラージュ作品「籐編み椅子のある静物」制作。
2
—1912年夏ピカソはグレボ族の仮面を購入。
—1912年9月ブラック初パピエ・コレ作品「フルーツ皿とグラス」制作。
—1912年10月カードボードバージョンの「ギター」制作。
—続いてピカソ自身初のパピエ・コレ作品「ギターと楽譜」制作。
第2章、ピカソにおけるプリミティヴィズム(1906
—1909)
「(部族社会の作品を見た)その瞬間、絵画とはどういうものかわかった。」xi そうピカソは語った。「芸術家たちの
言説は、彼等の行為と同一視される必要はないxiiとルービンは述べるが、後年「ギター」を制作したピカソのこの言葉は、
当時部族社会の作品の多様な面を感じていたに違いないと思わせるものがある。ピカソはグレボ族の仮面から影響を受け、
概念の芸術作品、記号的要素をもつ「ギター」を後年制作した。ピカソにおけるプリミティヴからの影響は、1912年
「ギター」を制作する以前からであったことは周知の事実である。ピカソにとって制作の方向転換する3つの時期、初期
のキュビスム様式を確立する1906年から09年の間,コラージュと構成的彫刻に関わる1912年から13年の総合的
キュビスム時代、そして彫塑と構成的彫刻に新しい方向性をみせる30年代初期~にプリミティヴィズムは決定的な力を持
っていたxiii。
「ギター」におけるグレボ族の彫刻の影響は決定的なものであり、ピカソにおける1906
—1909年のプ
リミティヴィズムもまたピカソの作品を解釈する上で重要な時期であると考える。ピカソは「ギター」を制作するにあた
って、2つの時期にわけてアフリカ彫刻を解釈した。最初の時期にあたる1906年から09年の間において、ピカソは
プリミティヴをどう解釈し、
「ギター」にまで結びつくような収穫があったのだろうか。
初期の評論家たち(アポリネール、サイモン、スタイン)もマティスやドランやブラマンクらがピカソよりも早い時期
に原始美術を知っていたにもかかわらず、ピカソを20世紀のプリミティヴィズムの鍵を握る重要人物とみなしているxiv。
ピカソはその時々、新思潮に対しても敏感な芸術家であった。20世紀初頭、ヨーロッパ中の芸術家、詩人、哲学者は、
産業革命の発展が惹き起こした悲劇的疎外に気づき始めていた。産業革命や近代化が生み出した機械的なものではなくて、
全く異質なプリミティヴ(原始的)なものへの関心が芸術の分野にまで広がっていた。その当時西洋は、非ヨーロッパ文
化の中でも特に自然に近く、野蛮と考えられていたアフリカ、オセアニアの仮面や彫刻への関心が強くなり、そうした未
開社会の文明に西洋文明に対する批判の根拠とそれに代わる価値を見出そうという傾向にあった。その先駆者的存在とい
えるのはポール・ゴーギャンであった。ゴーギャンもまた人一倍、原始美術の影響を強く受け、タヒチで絵を描いていた
ことはあまりにも有名である。当時、彼が亡くなった直後のサロン・ドートンヌの回顧展によって若い画家たちは強い刺
激を受けた。ピカソにとってもゴーギャンの影響はプリミティヴィスムの背景を形作り、
「アヴィニヨンの娘たち」fig. 4
の初期の段階までずっと続いていた。ゴーギャンは蓄積された今までの西洋の伝統を捨て去り、先史時代の人間や未開人
の原始的な精神へと到達する、そんな表現を達成したいと考えていたxv。ゴーギャンへの興味がピカソをプリミティヴの世
界へ引き込んだのかもしれない。ゴーギャン自身は時代精神を反映して、力強く対照的で素朴な木彫りfig. 5を制作し、今
3
までにない新しいアプローチを行った芸術家である。ピカソによるゴーギャンの影響は 1901 年にドゥルリオ(スペイン
人彫刻家パコ・ドゥルリオとの交流を通じて)を訪問したときから始まってはいたが、1906 年から 1907 年にかけての
ピカソの様式的変容の中に流れ込むゴーギャンの影響は、1906 年の春にピカソがイベリア彫刻に接して以後初めて彼の
作品にみられるようになる。明らかにそのイベリア彫刻の経験のおかげで、サロン・ドートンヌで開かれたゴーギャンの
記念大回顧展においてピカソはゴーギャンの芸術からこれまでとは全く異なったものを読みとったのであるxvi。イベリア彫
刻fig. 6はピカソのプリミティヴィズムの最初の重要な段階を構成している。このイベリア様式への傾倒はエジプト彫刻の
研究によってすでに準備させており、ピカソは 1903 年ルーブルで研究していたようであるxvii。イベリア彫刻の影響を受
けたとされる「ガートルート・スタインの肖像」fig. 7によってピカソは、何度も何度もモデルを使って描いていた途中一
度やめてしまい、その後記憶に基づいて描き直た。それゆえ、この絵は、知覚に基づく制作方法から概念に基づく制作方
法への橋渡しをしてるとも捉えられている。1906 年ー1907 年のイベリア趣味が、1907 年ー1908 年のアフリカ趣味
や1908 年ー1909 年の初期キュビスムとどれほど異なっていたとしても、アンドレ・サルモンは「概念は知覚を乗り越
えられる、これが新しい美学を支配する大原則である。
」
(たぶんピカソから聞いたのであろう。
)と語る。xviiiピカソは19
06年幾点かのブロンズのリリーフと木彫を試み、プリミティヴな芸術の感化を強く作品に出しているxix。1906 年の彫刻
作品「髪を梳く女」fig. 8は、ゴーギャンの浮き彫りの作品「愛せよ、さらば幸いならん」fig. 9から腕を曲げたポーズを
借りていたとか?xx、1905年のサロン・ドートンヌに展観されたアングルの「トルコ風呂」fig. 10で同じ主題による絵
を簡略化して三次元的に表したものであるというxxiふたつの説がある。どちらにしても周りからの影響は非常に強く、ピカ
ソの彫刻には当時吸収したあらゆるものが現れていた。以前のロダン的なピカソの彫刻から比べてみても、ピカソは原始
的なものに惹かれていたことは間違いない。
原始美術(アフリカ、オセアニア芸術)が当時苦悩に満ちた芸術家たちに与えたのは、自然や生命への信念、信仰であ
るxxii。当時、原始的なものに対する観念はフランス芸術家たちの意識の内にたちまち深く浸透していった。プリミティヴ
芸術の物の見方や表現は西洋絵画の自然主義、リアリズムを覆い隠すものであり、西洋絵画の教育を受けてきたピカソに
とって、その芸術に今までに味わったことのない野生的な魅力を感じたに違いない。1904年までにはブラマンクが部
族美術に関心を抱いていて、ブラマンクを通してドランへとドランを通じてマティスへと受け継がれていくこととなった。
当時すでに知り合っていたマティスのおかげでピカソは1906年秋、アフリカの彫刻を知ったとガードルド・スタイン
は語るxxiii。この時からピカソの「アフリカ趣味」は始まったとされている。ピカソはアフリカ彫刻の中でもより抽象的な、
想像力豊かな作品に惹かれていて、マティスがアフリカ美術とエジプト美術を同一視したことを軽蔑するほどであったと
いう。xxivドランもマティスも、ピカソが「アヴィニヨンの娘たち」を制作した1907年よりもかなり以前から部族美術
の収集をすでに始めていた。しかしマティスたちはアフリカ彫刻をそのすぐれた知性や感受性によって正当に評価できた
が、彼ら自身の芸術作品にはアフリカ彫刻の表面的な理解に留まり、そのプリミティヴ精神に対する理解までは表現され
4
ることはなかったxxv。そのプリミティヴな精神を理解したのはピカソであった。
ピカソがインスピレーションの源として、
「アヴィニヨンの娘たち」においてアフリカ美術に飛びついたのは、一般的に
信じられているようにアフリカ美術が「アヴィニヨンの娘たち」に初期キュビスムの形態を与えてくれたということより
も、彼が当時抱いていた恐怖(性病)を直接伝えるための新しい解決法を探していたためであったxxvi。初期キュビスムに
おいて、ピカソはアフリカ美術に、
「呪術的」概念を求めていた。ピカソは、個人的な恐怖を具体化するにふさわしい視覚
的アイディアを探していたちょうどその時に、アフリカ美術の持つ呪術的部分に引き込まれていったである。ピカソは「ア
ヴィニヨンの娘たち」を「最初の悪魔祓いの絵画」と特徴づけており、アンドレ・マルローに「私にとって(部族の)仮
面はただの彫刻ではなかった」と語り、また「それらは呪術的な品々だった・・・あらゆるものに対抗するー未知の脅か
す霊に対するー仲裁者だった。
・・・それは武器だったー人々が霊によって支配されないようにするための、自分を解放す
るもの。
」と語っているxxvii。 ピカソがこのように強調したからといって、またアポリネールが強調した「呪術的」特質だ
けに興味をひいていたわけではない。
「アヴィニヨンの娘たち」でピカソはアフリカ美術の仮面を取り入れるだけではなく、
平面的に、遠近法をやめて、多視点を導入している。ここでは全く自由な人間像の再構成を求め、かつて表現されたこと
のない精神状態への開示、概念によって作品への道を突き進む一歩となっているのであった。またサルモンは「ピカソは
未開の芸術家たちをガイドとして選びながら、幾何学について熱考した」と述べているxxviii。ピカソはアフリカ彫刻に造形
的特質、美的側面を感じ取っていた。特定の作品の美しさだけはなく、彼が対象を変形し、概念に形を与える性格(
「合理
的」
、つまり概念形成という意味で論理的だとサルモンに述べている。
)にも反応を示していた。即ち、部族美術の彫刻は
推理力も必要としているから論理的で、概念的であり、プリミティヴィスムの作品は観念に形を与える象徴的表現方法な
のであるxxix。ゴールドウォーターがピカソのこの時期の作品を「知的プリミティヴィスム」と呼んだものに対して、リデ
ィア・ガスマンは「呪術的プリミティヴィスム」と呼んでいるxxx。ピカソにおける部族美術からの影響のこのふたつの面
は、ピカソの中に同時に存在しているとしても矛盾はない。
「呪術的」という言葉には作品の機能と力を述べ、一方「合理
的」という言葉では(説明的な方法とは対照的に)変形し観念に形を与えるそれらの作品の表現方法をピカソは見いだし
ていたと考えるxxxi。ピカソはこの呪術的な部分を感じなければ、プリミティヴィスムの作品は観念に形を与えるという合
理的部分に気付かなかったのではないだろうか。この合理的部分こそ、プリミティヴな作品に共通する分母であり、19
12年の「ギター」にもつながる要素なのである。
1907—8年ピカソはアフリカ彫刻から影響を受けた作品を数多く残している。ピカソは「アヴィニヨンの娘たち」
においても、他のどんな油彩、素描、彫刻においても、部族社会の作品をそのとおりに写したり、模倣したことはない。
キュビスムの発展においてセザンヌの果たした役割に匹敵することは何もなかったのではないかともいわれることも多い
xxxii
。実際「アヴィニヨンの娘たち」の3つのアフリカ風といわれている頭部とアフリカの仮面fig. 11、fig. 12、fig. 13は
よく比較、研究されているが、ルービンはピカソが 1907 年のパリで友人たちのアトリエやトロカロデ博物館で見ること
5
ができたはずのアフリカやオセアニアの仮面のどれにも娘たちは似ていないと述べている。しかしそれは部族社会の作品
がピカソの作品の出発点にならなかったという意味においてではない。ルービンは、部族美術はピカソの作品の発想源よ
りも、彼の発想源を変形させる方法のほうが関心を惹くと語る。部族美術の呪術的な力を感じる以上に、ピカソはその美
術の概念的な仕組みの諸側面とその諸側面の源から引き出して彼自身の目的に使うことのできる原理に影響を受けたのだ
と語るxxxiii。ピカソはその観念を形に変える方法を完全に自分のものにするには1912年10月まで待たなくてはならな
かった。
「ニグロの踊子」fig. 14はよくアフリカの影響の決定的例とみなされるが、実際にはピカソのアフリカからの借用がか
なり表面的だったことを示しているxxxiv。描かれた画面をおおまかに細分化しながらも、歪曲された人体は角張った形をし
ている。鋭い線で描かれたこの絵画は、当時の部族美術の彫刻に影響されてはいるが、それをピカソは彫刻ではなく、絵
画に転化している。プリミティヴの影響をまるごと再現している芸術家も当時多かったが、その転化によって、ピカソは
アフリカ彫刻を絵画に間接的、または断片的であったにせよ、巧みに処理し変形している。ピカソは部族美術の仮面や彫
刻を絵画に取り入れたということは定説であるが、ここでルービンはピカソの手本とされた作品は“彫刻(立体)
”であり、
「アヴィニヨンの娘」は絵画で(平面)あることをしばし忘れがちであると指摘する。アフリカ彫刻には対象を変形し、
概念に形を与える性格があると感じていたようであるが、それを模倣ではなく、創造することによって処理する方法を試
してはいなかった。ピカソの1906ー07年の彫刻の大部分は未完成に終わっていて「船首像」fig.15でもわかるように、
これはゴーギャンなどが制作してきた木の彫刻fig.4に差はない。勿論このトーテムポールのような木彫は絵画で方法され
た方法を用いて、ここからゴーギャンの作品よりも人体は単純化されており、平面的に制作されてはいるが、この木彫が
絵画におけるダイナモとなったとは考えにくい。ここからはピカソ自身の絵画よりも、直接的な参考になると思われる部
族美術の仮面や彫刻とは間接的な関連しかなかったのである。ピカソはまだその時期の彫刻では、プリミティヴの本質、
「ギ
ター」において変換できた合理的解釈はできてはいないことがわかる。
しかしピカソの作品には見ることから直接生じる絵画的な模倣を通してよりも、概念的な記号を通して、芸術作品どうし
の親緑性が見い出される。絵画では、同じ時期プリミティヴなものに関心があった芸術家の作品よりも、親緑性が多く見
いだされる。その親縁性とは、それはピカソが部族社会の人々の芸術の原理と性格を普遍化して吸収していただけではな
くて、それらの人々の精神的に深く一体化したことを反映しているxxxv。目に見える借用よりも重要だったその親縁性とは、
部族社会の作品は強烈な感情、我々に深い影響を与えることができる呪術的力に満ちているとピカソが感じていたことで
ある。それは、アフリカの人々の表現の背後には概念に還元する原理がある、とピカソが理解したことであったとルービ
ンは語るxxxvi。ピカソはアフリカ彫刻から、形態においては表面的な影響、プロポーションや形のレベルにおける理解だけ
だったかもしれないが、精神の面では当時の芸術家が到達できなかった概念を形に変えるという性質を理解していた。こ
の次元では、ピカソのアフリカ美術の借用は表面的なものではなくて、深いものであったといえよう。
6
アンドレ・サルモンはピカソの部族美術に対する批評で、
「部族美術はリアリズムの一形式で、その本質は外見よりも感
情に忠実であるに基づいている」とみなした。この感情の造形的なものへの置き換えはまた、カリカチュアに通ずるとこ
ろがあるとルービンは述べ、
「サルモンの肖像」は、ピカソの部族美術に対する反応におけるカリカチュアの役割を考えさ
せるものではないかと指摘しているxxxvii。ピカソのカリカチュアへの才能は1910 年の抽象的な様式で描いた分析的キュビ
スムの肖像画でも発揮されている。連作の肖像画でピカソは個々の人間の顔の構造および表現の基本的諸要素を抽出する
ことができた。それはヴォラール、ウーデ、カーンワイラーの肖像において十分に確認できる。この連作の一番目に制作
された「アンブロ・ヴォラールの肖像」fig.16は厳しい分析的キュビスム処理がなされているにもかかわらず、モデルの
特徴をよく伝えている。ヴォラール自身が語っているところによれば、当時多くの人々は彼だとわからなかったが、友人
の四歳のなる男の子がこの絵を見たとたんに、躊躇なく、
「ヴォラールさんだ」といったいうxxxviii。同じ画中の中で多くの
ものが解読できないまま放っておかれる抽象的な状況で描きだせている。カリカチュアの特徴であるー迫真性よりも着想
と感情をより表現の基本とするよう促すーというコンセプチュアル的なものが、プリミティヴから解釈したものに密接に
関係しているとピカソが考えていたに違いない。ピカソのカリカチュアと、彼のプリミテヴィズムおよびキュビスムの形
態の間の類似は、
「カリカチュアの表面的形態は、頭の中で行なわれる再現の内面的構造をある程度反映している。つまり、
知覚したものをまず選別して組み立てるのに精神が使用する、概念化され、図式化された内面的イメージを反映している
のである。
」であるというxxxix。つまり両方とも本質を形に変えることを求められているのだ。この「サルモンの肖像」は
彫刻の習作のために制作された。この三枚のスケッチから解釈するに、サルモンのスケッチは明らかにアフリカ彫刻に発
想源を持ち、最終的にはプリミティヴ的な人体に変えている。fig.17では正面を向いているが、習作になると fig.18では
この図像をいじりはじめ、だんだんと身体を横向きに変え、より単純化され、サルモンの特徴を強調していると供に、背
中には部族美術の作品にあるような模様を描いている。最終的な構想 fig.19では、サルモンの最初の面影はもはや残って
おらず、カリカチュア的にサルモンの特徴的な要素だけ取り入れられ、部族美術風的な人体になってきている。サルモン
を部族彫刻に変えるのは、ピカソが非常に熱心に取り組んだものであった。多くの少しずつ違う素描がある。この変形の
過程でサルモンはサルモンであることをやめ、ピカソの主題の多くの場合そうであったように、完全に芸術家の創造した
ものとなったxl。ピカソがこの「サルモンの肖像」を彫刻という段階まで進めることができなかったのは、意外ではないと
ルービンは証言するxli。実際に制作を開始した彫刻すべてに比べて、はるかに多数の彫刻の計画が計画中のままとなってい
た。その理由は時間と忍耐の問題をはじめとしてたくさんあるが、ピカソは彫刻の着想に関心があったのだ。その着想に
伴う時間は紙の上で解決できてしまい、そしてその時点でピカソはたいがい関心を失ってしまう。彫ること、あるいは自
分の着想を三次元に実現することに含まれる努力を彼ははっきりと嫌っていた。彫刻作品そのものは、紙の上で探究され
た概念を検証するものとして第一に機能した。だからこそピカソの彫刻の業績は作品だけでなく、素描や同時進行してい
た絵画に基づいて研究しなければならいのである。ピカソの彫刻は絵画に息詰また時の余暇的、自由なものであった。
7
もうひとりのキュビスム創設者ブラックにおいて、プリミティヴィからの影響はあったのだろうか。ブラックにおいて
はエジプト美術に興味をもっていたようであるが、アフリカ彫刻に関してほとんど言及されることは少ない。ピカソが当
時アフリカ彫刻やセザンヌなど様々な影響を受け、作品を制作していたのに対して、ブラックの作品の中で用いている表
現手段としての形態が部族美術を何一つ、間接的にすら思い起こさせないからである。しかしそれにもかかわらずブラッ
クは熱心な収集家であり、自分にとってのアフリカ彫刻の重要性について次のようにはっきり語っている。
「アフリカの仮
面は・・・私に新しい地平を開いた。そのおかげで、我々が嫌悪する過った伝統(後期西洋のイリュージョン)に従わな
いのびのびした気持ちで、直観的な事物とつきあうことができた。
」xlii1911年のブラックのアトリエの写真fig.20には、
壁に掛かった見事なファン族の仮面と床におかれた彼のキュビスム絵画のひとつが写っている。その二つの間にはっきり
と目に見える関係があるわけではない。しかしすべてをそぎおとしていくような抽象化とイデオグラフィックな表現とい
う概念原理が仮面を支配しており、その原理は全く別の精神においてではあるが、ブラックの絵画でも働いてるとルービ
ンは主張するxliii。もしこれらの作品の間の明らかにつながりの薄い微妙な関係を捉えるなら、ブラックとアフリカ彫刻の関
係の性質が理解できるかもしれない。だが、彼のアフリカ彫刻の理解はピカソよりも形式に片寄っていて、その意味では
かなり限定されていたようである。スペイン人であるピカソとは違ってブラックはそういった作品の呪術的な魅力や神秘
的な力に興味はなかったようである。ブラックはピカソが後に断言したように「迷信深くはないのでアール・ネーグルが
本当には理解できなかった」xlivのである。さらにブラックはアフリカ彫刻に特徴的にみられ、ピカソのコラージュやコン
ストラクションの発明の背景ともなる様々な素材の混合という方法も正しく理解していなかった。
原始美術の影響をうけたポール・ゴーギャンから「アルカイック美術」
(イベリア美術)へ、ついで「プリミティヴ・ア
ート」
(アフリカ、オセアニアの彫刻)へとピカソの関心の道のりは、芸術の始まりまでさかのぼる旅と 20 世紀初頭には
簡単に解釈されていた。ピカソ自身もそう解釈していたに違いないxlv。プリミティヴィズムがこの時期のピカソの絵画に表
面的、模倣的な面でしか解釈されていなかったとカーンワイラーはこの時期を軽視している。しかしプリミティヴィスム
におけるピカソの解釈はそう単純なものではないと考える。この時期は再び1912年にグレボ族の仮面に衝撃を受け、
「ギター」にそれを解釈するための大切な準備段階だったのだ。ピカソは「アヴィニヨンの娘たち」で、アフリカ彫刻は
呪術的なものであると認識し、それを自分の絵画に取り入れ、最終的には概念的に捉えたいと思い始めたに違いない。こ
の意識がなければ、キュビスムの大きく歴史は変わったのかも知れない。結局それはキュビスムの段階的な歩みであった。
ピカソは自分なりに理解したアフリカ彫刻の手段で絵を描こうとしており、1908年以降、しばらくの間アフリカ彫刻
のヴィジョンよりもそのフォルムに興味を惹かれていたxlvi。彼は模倣ではなく、創造においてプリミティヴィズムを解釈
したということは間違いないとガードルド・スタインは語る。これまで述べてきたように、ピカソはプリミティヴィズム
に、自分の目的に合わせて、概念的な仕組みの諸側面を使いこなす原理を見つけだしはじめていた。そのはっきりとした
概念に自ら気付いていなかったにせよ、ピカソはそこから発想源というよりも発想源を変形させる方法を学んだといえよ
8
う。しかしその影響だけで、のちに「ギター」を完全に概念としてとらえ、記号としての作品を生みだして行くことは困
難である。アフリカ彫刻には後年マイヨールが述べたように、
「20の形態をひとつのものに」結合する天質があった。xlvii
しかしその前にピカソにはまだまだそのすべてを理解し、自分のものにして作品において使いこなすまでにいたってはい
なかった。その時にゼザンヌ、ブラックとの出会いがピカソをさらに深いところまで見つめさせることとなったのである。
1909年から1912年にかけて彼の作品とプリミティヴとの間に見せる唯一のつながりは、概念を重んじるという
共通的分母であるxlviii。ピカソのキュビスムは1910年に、堅固に肉付けされた浅浮彫りの形態からなる表現体系から、
不定形で計測できない明るい空間の中にしだいに透明になっていくモチーフの断片が浮かび上がるという、
「絵画的」な様
式へと移っていった。だがそれにつれて、1908年以前までの彼の作品が部族社会の彫刻でありさえすれば、いかなる
ものとでももっていたはずのつながりが必然的に希薄になってきた。盛期の分析的キュビスムがもっている文字どおりの
絵画的な性質のために、分析的キュビスムは様式の上でも精神の上でも部族美術と相容れなくなったのである。またより
現実に基づいていて触覚的で合理的な1909年のキュビスムとも、1907年から1908年かけてのピカソの「アフ
リカ的」な作品とも相容れなくなった。1908年後半から1909年を通してのより彫刻的、触覚的で「現実に基づい
た」キュビスムは、1907年から1908年のピカソの作品に比べれば部族美術から離れてはいるが、それでも盛期分
析的キュビスムの絵画形態よりはずっと部族美術に近い。盛期の分析的キュビスムでは余分なものを剃り落としていく性
格が、部族美術の“リアリズム”という言葉でピカソが意図したものからさらに先まで行ってしまったのであるxlix。アフ
リカ美術がそれまで育んできた概念的分析が、ピカソとブラックの進歩の弁証法的基礎であり続ける一方で、彼等が直面
した絵画的諸問題の解決法はもはや部族社会の彫刻に直接影響されることがなくなってきていた。キュビスムの堅固な形
態は、セザンヌの堅固で「構築的」な中期の絵画よりも後期の水彩画や油絵を思いださせるようなやり方で溶解していく
のだが、このころの様式ではピカソがそれ以前に部族美術の作品から取り入れていたような彫刻的着想を受け入れること
はほとんどできなくなっていったl。
第3章、
「ギター」における分析的キュビスムの意義
1908年それはピカソにとってセザンヌについて省察の時代であった。ブラックと知り合った当時のピカソはアフリ
カ彫刻に基づくプリミティヴィズムのほうに関心があったので、ピカソのセザンヌへの賛辞は、ブラックから生まれてい
る。
「アヴィニヨンの娘たち」それ以後の初期キュビスムの静物や風景に見られる、形態それ自体の彫刻的な様態に向けら
れた関心は、ブラックの影響なくしてはピカソを分析的キュビスムの対象の断片化へは導かなかったである。ピカソはす
でに(
「アヴィニヨンの娘たち」においてすら)セザンヌからモチーフの表面的な模倣をはじめていたが、しかしブラック
に会って初めてセザンヌの意義に気づき始め、セザンヌの再構築された形態とアフリカ彫刻における表面の単純化との間
に必然的な連関性を形成したli。1907 年暮れから1908年の人物のいる大画面のほとんどは、1906年以降の絵よ
りも描かれた彫刻という性格を備えている。アフリカ彫刻の純粋造形的、合理追求が、記念碑的性格の追求をうながす一
9
方で、主要な問題はセザンヌに由来しているからである。ピカソは水浴する女を描き、静物画、風景画でもセザンヌの手
法、創造思考について同一の探究を続けたlii。
ピカソはセザンヌから「対象の分析」を学んだ。だがブラックはピカソより先立ってセザンヌに傾倒していた。ブラッ
クはセザンヌが探究していたことを理解し、それを乗り越えなければ、前に進むことはできないと悟っていた。絵画で試
したようにピカソは彫刻でも伝統的なボリュームを壊して、面に解体することを試みた。セザンヌは絵画で見たものを多
視点的に捉えたり、考えたことを構成しようと試みていた。セザンヌは内的な意識の試みを「サンサシオン」と呼び、そ
れを実現するところに彼自身の芸術の目的はあったといってよい。そして同じく原始彫刻もまた見たままのものではなく、
イメージしたものを造っていた。そのために彼らの彫刻は多視点的になったり、見たものよりも内的なイメージに近づい
たために単純化されていった。ピカソのとって、イベリヤ彫刻やアフリカ彫刻への関心がセザンヌ芸術の追求と共ににさ
らに強くなっていったのは当然のことであろう。セザンヌからは彼が常に述べていた「自然を円筒、球、円錐によって表
現し、絵画は自然に即して描かなければならない。liii」に即して、常に見たもの、写実的なものを求める絵画から、再構成
された絵画という造形理論を、原始彫刻からは自然の魔力をストレートに表現する直接性を学んだ。ピカソはそれ以前の
青の時代やバラ色の時代のように何が描かれているかというストーリーやテーマではなく、フォルムを追求する画家へ変
貌していったのである。
ピカソが1909年の夏スペインのオルダ・デ・エブロで描いた「丘の上の家々、オルダ・デ・エブロ」fig. 21は、セ
ザンヌ的キュビスムの特徴といえよう。自然を基礎的な幾何学的な形態に単純化するセザンヌの教えを意識しながら、現
実の再構成へと画面を変えていく描き方である。しかもこれらの風景画における光と量感の効果が、堅く透明な切り子面
に分割された結晶体の集積のようなイリュージョンさえよびおこした。その後、ピカソはセザンヌの晩年の作品を慎重に
研究してセザンヌの量感と空間と抽象的処理の中に半透明の単位構成を発見し、そこから分析的キュビスムのあの多角形
の小さな面、即ち切り子面を導き出したのである。ピカソは分析的キュビスムに一歩近づきつつあった。ピカソはキュビ
スム絵画で、絵画に彫刻のような多視点の眺めを持つだけでなく、対象の内部の本質的な構造までも把握し、それらを二
次元的の同一平面に展開しつつ、同時にボリュームをも暗示したいと考えていた。
ピカソのキュビスムの典型的な彫刻は1909年にゴンサレスの工房で制作された「女の顔(フェルナンド・オリヴィエ)
」
fig. 22である。ピカソはこの時期に頭部を描いた一連の作品で分析的キュビスムの原理を応用している。これは同時期の
油絵「後ろに静物がある女の胸像」fig. 23に続いている彫刻作品であり、解釈の類似がみられる。
「後ろに静物がある女の
胸像」は実在するものの外観を堅固な様態で表し、明確な空間概念をつくりあげるために、抑制のきいた色彩の選択が行
なわれている。この堅固な絵画を描いた後で、三次元に対応する作品との関係を、彫刻において解明したいと思ったこと
は当然のことであろう。絵画で用いられたキュビスムは彫刻と密接に結びつき、絵画を彫刻に投影させて制作されている。
彼は当時カーンワイラーに「私は、絵画に倣ってエンジニアがそれらを組み立てることができるように事物を描きたい。
」
10
と語っているliv。その言葉にカーンワイラーは「エンジニアという言葉を彫刻家に置き換えてみると、勿論あらゆる形の歪
曲はこうした置換によって生じたものであるということを考慮にいれてのことだが、平面の上に置き換えられた彫刻とい
うものが、ピカソの狙っていたものとわかる・・・。
」とコメントをつけているlv。当時のピカソのキュビスムは本質的に
は立体的、彫刻的な性格を持ち合わせている。ピカソはここで人間の顔の自然な形を、凹凸の鋭い面に分解して三次元の
新しいキュビスムの解釈を示している。
「女の顔」の頭部は、その固体性、量塊を保持し、その一方で眼、鼻、唇などの顔
の主要な部分の凹凸面は実際の顔の凹凸面に従って、切子面に分解された。ブロンズ彫刻にはモノクロームであり、絵画
で失われつつあった色彩がここには最初から存在しない。ここでは実際に光線を受けた場合凹凸の明暗が明確なリズムに
統一されていて、その時期に描かれた絵画よりもいっそう強い光の効果を持った面を生み出している。この彫刻は当然記
号的ではなく、肉付けした塊という伝統的彫刻がここには存在している。1909年の時点では量塊から絶縁してはいな
かった。ピカソは自分の絵画に使った形態の再創造が、皮肉にも絵画上の工夫を彫刻上の錯覚にしてしまうだけだとハッ
キリと理解したlvi。ゴールドウォーターはこの彫刻を「くぼみと盛り上がりからなるロダン風の芸術だ」とみなしていた。
彫刻と絵画には同じ可能性は開かれていないとピカソはこの時期悟ったように思われる。事実この挫折により、3年間、
「ギ
ター」が制作されるまでピカソは彫刻を作っていない。絵画における探究をもう少しする必要があった。三次元における
ヴォリューム、マッスを自由に扱うことができるまでには、分析的キュビスムの絵画で研究する必要があった
ピカソとブラックの共同制作のハイライトは1910年と1912年に集約される。パリとセレで制作したこの時期の
分析的キュビスムの絵画は、気質の異なった二人の画家の緊密な対話から生みだされている。運命共同体となった二人は
絵画に反ブルジョワ的な匿名をもたらす目的で、さらにまたお互いへの熱狂的な傾倒の証しのようにして、識別が困難な
ほど似て見える絵画を制作したlvii。セレに数ヶ月滞在したこの画家二人は、錬金術的キュビスムを1910
—11 年まで展
開した。その年制作された作品のほとんどは静物画か単身像で、しばし楽器が一緒に描かれている。1910年ピカソは
それまでの立体的幾何学亭形態に単純化することから、事物の表面を破壊し、対象物、人間のヴォリュームを再編成、構
造化することに移行していく。画面の中でいかなる要素も突出せず、すべてを徹底して平面に表現すること、そのために
はこれまで1年間執着していたセザンヌ的処理を放棄しなくてはならなくなった。すべては「自然を円筒、球、円錐によ
って表現すること」ではなくなっていた。幾何学的な立体感覚を放棄して、もっぱら幾何学的な平面に固執し、すべてを
線、稜角、三角形、四角形に還元することがピカソのするべき方向であった。絵画のすべての表現要素を各々の本質に還
元する以外に前進する方法はなかった。そして人物は外的な標識によって区別されるべきものでは亡く、存在の本質をも
って識別されるものでなくてはならならかった。ピカソは対象をその通常の外観がほとんど識別できなくなるぐらいまで
に破壊し、色彩の多用を放棄していく過程で数点のキュビスムの肖像画を制作してる。前章でも説明したピカソの「アン
ブロ・ヴォラールの肖像」fig.16 では、キュビスム様式はヴォラールの上半身に、鋭角的な線に切り刻まれた面(切り子
面)によって顕著に示されている。他の部分と対象をなす顔におかれた明るい色彩によって、また鼻や目などの特徴的な
11
細部によって、顔の部分はきわだっている。その細部の取捨選択のプロセスはいっそう明白であり、このように肖像をき
わめて忠実に描くことに関して、わずかの細部を描くだけで顔の本質をとらえるカリカチュア的センスのあふれるピカソ
の腕前がとってわかるlviii。ピカソは実体を創造しようという大きな目的を尊重しながらも、画面に独自の性格を付与するこ
とを求めていたのであるlix。一画面の自律と平面性の優位をピカソは追求したのだ。
「カーンワイラーの肖像」fig.24はピカソの分析的キュビスムの中で、最も平面的かつ抽象化(あくまで抽象でない)
された作品であろう。ピカソはモデルを空間に透明な蜂の巣状にばらばらに細分化した諸要素の状態で存在する三次元的
組織体として扱い、いくつかの角度から見られた部分を合理的に統一したひとつの総体に結合しているlx。この時期の絵画
は絵画的記号をー象徴的意味を含むのではなく、本質を示すものであった。抽象にかぎりなく接近するが、絶対的な意味
においてピカソの作品は抽象ではない。ピカソは各部分の転換を行なっているのである。絵画において抽象というのは、
形体と色彩、それ自体を目的とした表現であって、抽象絵画では形体や色彩は、純粋に均衡、対比、配色などの高価だけ
のために画面に現れているlxi。ここでピカソは抽象画家から区別されるべきである。ピカソは常に何らかの現実的モチーフ
に依拠することを必要としている。ピカソはそれを転換させるにすぎない。ピカソのキュビスムが結果的に抽象的に見え
ようとも混同してはならないのである。1910年秋からピカソは画面にもっぱら直線や稜角を用いて徹底的な平面性、
すなわち空間の二次元性をきわだたせることと、一方、曲線がその二次元をこわすものとして、それを平面的ヴォリュー
ムをつくりだすものとして、このふたつの方向性の追求を始めていた。ピカソの作品では、直線と曲線の錯綜し、混在す
る両意義なものが多いlxii。
「クラリネットのある静物」fig.25でひとつの重要な変化がピカソの作品に現れている。この作品は「カーンワイラー
の肖像」と同様式として描かれているが、この静物画はクラリネット、パイプ、壜、楽譜、扇子などがすべてテーブルの
上に置かれていて、いずれも最低ひとつの特徴的細部あるいは対象をそれを示す細部によって描写されている。ここでピ
カソは分析的的キュビスムの様式をひとつの事物だけでなく、多数の直接は因果関係のない対象を描くため用いている。
この時期の描写は単一の人物やあるいは物体を描くには適してはいるが、お互いに連結しあういずれも同系色の面的要素
からなる複雑な構成は、単に対象と自分との関係だけでなく、対象どうしの関係までも描き出そうとする時、画面は曖昧
なものになってしまうlxiii。この画面でモチーフがからみ合って曖昧なものになってしまう解決法は、このあとのコラージュ
によって解決される。
錬金術的キュビスムの平坦な画面は、非人格的とも思える技法を用い、もはや芸術家の才能とか想像力で生み出される
芸術作品ではなくなり、画面は機械的なものになってきた。ブラックとピカソはこの時期に特に区別がつかない作品が多
い、しかしそれは二人にとって意味のあることであったのだ。ブラックは以下のように述べている。
「画家の個性を表現す
る必要はないし、また作品は特徴を持つべきではないと私は考えました。そのうち作品を記号化すべきでないと決めたの
も私でしたが、そのうちピカソとて同じでした。他の画家が自分と同じことをするのを見て、私はそれぞれの作品には相
12
違がなく、それらを記号で表わす必要はないと考えましたが。だが後にすべてが真実でないことを理解し、再度作品に記
・・・・・・・・・・・・・
号を用いはじめました。そしてピカソも再び作品を記号で表現しはじめたのです。lxiv」1911末になって分析的キュビ
スムを極限まで推進したことに気づいたピカソとブラックは、常にリアリズムを志向するキュビスムとは反対に、抽象的
絵画に達する危険性を、リアリスティックな手掛かりだけでなく、イリュージョニズムを用いずに表現するという、新し
い方法(文字)で展開するようになった。ピカソとブラックは分析的抽象化と記号的レアリスムの融合という問題を19
12年の春まで様々な形で追求した。ブラックはステンシルによって文字を書き込んだ一点の作品「ポルトガル人」fig.26
を、セレからパリへと持ち帰った。これは彼が若い頃にペンキ塗りの修行で学んだ技法のひとつである。文字や数字など
の記号はその性質上に二次元的、平面的なものであり、非常に非芸術的に再現されたこれらの記号は、転置されていない
現実の断片である。ピカソも直ちにこのステンシル文字の技法を使いはじめた。ブラックはこう述べる。
「できるだけ現実
に近付きたいと願っていた私は1911年に画面に文字を取り入れました。それらは平坦なため何も変形することのない
フォルムでしたし、文字は表面的空間であり、また画面でのそれらの存在は、空間を表面的にしたこれらと空間に配置さ
れたオブジェとの区別を可能にしました。lxv」このように分析的キュビスムの画面は断片的事物の錯綜する薄暗い空間と、
その上を浮遊するかのような平たい活字体の文字という二つの次元に対立することで、現実との接点をかろうじて保って
いたlxvi。ピカソやブラックにおいてこれらの文字や数字は、でたらめに選択されていたわけではなく、描かれる物体の特
定の局面、例えば新聞の名前といったものに関連していたのである。1912年始めには作品の対象が幾分か認識しやす
くなってきはじめた。ブラックはこの時期木目の効果を出すために、鋼鉄の櫛を使用することはじめた。
(この方法はフォ・
ボワとして知られている)鉄製の櫛で木目を模倣することによるこの技法は、セレから持ち帰った作品のひとつに最初に
使用された。画面では大理石や木目をまねるときこの櫛による技法を使っている。ブラックからこの技法を教えてもらっ
たピカソは、早速“フォ・ボワ”の技法を試しみた。最初は細部を識別するために行われたのであったが、この時期の作
品では色彩が使用されるようになったlxvii。フォ・ボワによって画面には色彩が生まれはじめていた。この偽の木目は、文
字の効果と組み合わされて、表現の幅を広げるのみではなく、のちのコラージュにおける効果ー画面に外的な物を挿入す
るというーを気付かせることとなる。視覚的現実をイリュージョニズムに訴えずに描写する、現実を導入するという方法
は、このように様々な方法で検討された。新聞の見出しや等の印刷物の一部分がますます共通して画面に導入されるよう
になり、また正確に描かれるようになったlxviii。コラージュの発明、現実の物体を挿入するまであと一歩のところまで近付
いていた。
ブラックの1912年はじめころの作品「小円卓」fig.27では画面は楕円形が使われている。後のピカソの初コラージ
ュも同じような楕円形の画面である。キュビスム的な形態分析ないし、断片化が極度に進んでくると構成感覚そのものが
揺らいできて、従来の長方形の画面だと収拾がつかなくなってくる。ところが楕円形の画面を採用すると四隅の余白、遊
13
びの部分がなくなって構図の方向性が失われるため、かえって秩序感覚が強まるようであるlxix。自然の模倣ではない、画
家の主観によって「構成され、構築され、秩序を与えられた」自律的な二次元の空間としての絵画で、それ自体が自律的
なオブジェである絵画が完成しつつあったが、客観的な実在の本質に迫ることを目的としたキュビスムは、画面に混乱と
抽象的な空間を招いてしまったlxx。この作品では長方形の画面にはない、安定感がある。ここでもブラックは文字を挿入し
ている。画面には斜めの線が目立ち、線もぼやけた感じで曖昧である。このブラック作品における画面の安定、秩序感覚
の強まりを、ピカソはやがてコラージュによって取り入れた。コラージュでは再現されたものと現実のものとの対立によ
り、画面の安定感や秩序があるはずもなかった。この楕円形の画面によって唯一秩序は保たれていたのかもしれない。ピ
カソは安定や秩序を画面に求める画家ではない、それを壊していく画家である。ブラックはその反対の気質であった。こ
の気質がさらにピカソを新しい方向へ向かわせることとなった。1912年5月のピカソの作品によって顕著な相違があ
らわれはじめた。
第4章、1912年における「ギター」とその周辺との関係
第4章—(1)コラージュ「籐椅子のある静物」
1912年のピカソとおよび同志であるブラックの展開を探究することは、「ギター」だけでなく、キュビスムを知る
上でも、また後の抽象絵画の根源を知る上でも重要なことである。二人の芸術家のコラボレーションともいえる試行錯誤
の結果、この年キュビスムにとって中心的な発明がなされてた。それは構成された彫刻(paper sculpture、「ギター」)、
コラージュ、パピエ・コレである。分析的キュビスムは過度の形態の分析によって、あまりに抽象的になりすぎた。そこ
でいま一度現実をイリュージョニズムに訴えずに描写する、現実を導入するというさらに新しい方法を、1912年5月、
ピカソは生みだした。それが初めてのコラージュ作品「籐椅子のある静物」である。fig.2 これまで分析的キュビスムにお
いてブラックが積極的に画面に文字、フォ・ボワ、砂により現実を導入をしてきたが、ここではピカソによって新しい方
法が提案された。コラージュとは「籐椅子のある静物」に見られるように、既存のコンテキストに異質の素材およびスタ
イルのものを挿入することによって一種混交的で対立的な効果を生みだすことである。「コラージュとパピエ・コレの区
別を主張することによって初めて、彼等の間のギブアンドテイクの特質と、ピカソとブラックの芸術の違いを本当に理解
することができる。コラージュはパピエコレを暗示していない。パピエ・コレは統一した素材による古典的な主義によっ
て支配されているのだ。」とルービンは語るlxxi。コラージュと区別するべきパピエ・コレとは、新聞紙、壁紙、楽譜、な
どの手近にある紙を切り抜き、寄せ集め、絵画の構成の一部として貼り付けることである。ピカソはコラージュにおいて
異質なものを組み合わせることはそれほど抵抗はなかった。それはピカソが強く惹かれ続けてきた部族社会の作品をみれ
ば明らかだろう。彼らの彫刻や仮面にはどんな手段も異物も自由に扱われている。ピカソはコラージュを制作する際に直
接アフリカ彫刻を手本にはしていなかったものの、自分のアトリエ fig.28に大量のプリミティヴ彫刻を所有していたので
免疫はもっていたはずである。コラージュの制作後この年ピカソは再びアフリカ彫刻を再発見する。1912年夏再びア
14
フリカ彫刻に魅せられるのであった。コラージュの原理とは不調和の定義や破壊的なものであり、ピカソの革命的な精神
や無政府主義の傾向をよく表わしているとルービンは述べているが、アフリカやオセアニアのそのようなアウトサイダー
アートや、イベリア彫刻への彼の傾倒は、本質的にコラージュのようなもの、つまりピカソにおける西洋美術への反発な
のかもしれないlxxii。1912年夏、ピカソがアフリカ彫刻へ再び興味をもつようになるのだが、それについては第4章
—
(3)で語ることにする。
「籐編み椅子のある静物」でピカソは、籐椅子の模様が印刷された油布をカンヴァスにはりつけた。楕円形のカンヴァ
スには、すべてが半透明のプランとなって重なり、レモン、牡蠣、グラス、パイプ、新聞紙を示す JOU の文字の断片が描
かれている。画面ではこれまでのキュビスム的なものと、実物そっくりの籐編みの模様を組み合わせて異様な対立な効果
が生まれている。画面に籐編みを表す貼られた油布はあるが、ロープが作品の一部をなしている以上、これはパピエコレ
ではなく、コラージュである。ここでは伝統的なイリュージョニズムの描写でなく断片を貼付けることによって、一個の
椅子の存在を表わしている。JOU という文字が新聞(Journal)を意味するのとまさしく同じく、模造の籐編みの断片は総
体としての椅子を意味しているのであるlxxiii。後にピカソは作品の中に本物の物体あるいは、物体の断片を組み込んで、そ
れらのものをそのままの意味で用いるようになる。このような画面のおけるコラージュの効果は一方で、ブラックに画面
のマチエールの変化を気付かせるものとなった。それがブラックのpaper sculptureやパピエ・コレを導くことになった。
コラージュがピカソによって制作されたのも、ブラックによって初パピエ・コレが生まれたのも必然的なものであった。
第4章—(2)コラージュ以降のピカソとブラックの新しい段階
ブラックの追求
1912年夏、ピカソとブラックの作品はもう一年前とは違って同じ方向に向かってはいなかった。しかしこの時期さ
らに競争心が強くなり、刺激しあっていたと思われる。彼らはそれぞれの芸術に新しい様相を、キュビスムの言語に新し
い段階を見い出すために考えを巡らせていた時期であったlxxiv。コラージュという突破口はすぐに新しい結果を生み出しは
しなかった。ピカソは現実の面をばらばらの面として分析することと、画面を不連続で重なりあった面によって構成する
ことにいっそう習熟したlxxv。ブラックはこれまで以上に絵画の表面に異常な興味を持ちはじめていた。ブラックは「ヴァ
イオリンとクラリネット」fig. 29でブラックは文字や楽譜の記号とともに、材木の木目模様を櫛で実物そっくりに写した
作品を制作するようになってきていたlxxvi。1912年ごろからブラックの絵画は以前の錬金術的キュビスムにみられるよ
うな細分化された抽象的な画面から、文字、フォ・ボワ、砂を導入し、次第に変化がみえるようになっていた。
このような二人の対抗心をピカソは「籐編み椅子のある風景」において紙とロープで作られた最初のコラージュで、本
当の意味でのパピエ・コレの発見をブラックに示唆したに違いない。またブラックはピカソに文字やフォ・ボワ、砂の導
入に伴う技術の存在を明らかにした。しかしそれを使い、役立たせたのはピカソだった。このようにお互いに競争意識が
15
高まっていた1912年夏に、新しく木材を模倣した紙への意外な啓示を試したいと思ったブラックが、ピカソがいなく
なる時期を狙ってパピエ・コレを制作した(密かに木材に模した紙を買い、ピカソがソルグを離れるのを待って9/3
—
9/12にパピエ・コレを制作した)という考えも不思議なことではないlxxvii。
ブラックはパピエコレの前に紙に対する実験を行なっていた。それは「ギター」よりも先に作られた彫刻作品 paper
sculptureであった。キュビスムの構成的彫刻は実は最初ブラックによって制作されていたのであった(しかし現存はして
いない)。ブラックは1911年には最初の paper sculpture の実験をしていたようだが、すぐに放棄した。なぜならブ
ラックはそれら彫刻を、絵画を豊かにし、組織するための実験としてしか見ていなかったからであるlxxviii。しかしそのあと
も断続的にその紙の研究を行っていた。ブラックのこの初期 paper sculpture を、ピカソは1912年の1月の時点で一
度見ていたとボワが立証しているlxxix。こうしたブラックの作品は現存していないが、写真や文献から、折り畳んだ紙に絵
画やドローイングがほどこされていることがわかる。この実験をブラックは再び、1912年の8月の終りに行なった。
ブラックは「(以前)パリで作れなかったことをやっている、とりわけ僕を満足させてくれる paper sculpture だ」とカ
ーンワイラーに言及しているlxxx。ピカソ、ブラックの画商であったカーンワイラーは、後にブラックのレリーフは紙から
作られ、ピカソのレリーフはカードボード、木、鉄で出来ていたことを特定しているlxxxi。ブラックはこう述べている。「私
は紙による彫刻を研究し、制作していました。ピカソは私への手紙の中で、よく親愛なる“ウィルバー”と呼んでいまし
た。飛行家のウィルバー・ライトから(ライト兄妹)からきたのです。paper sculptureは彼に飛行機を思いださせたから
です。それから彫刻を画面の中に取り入れました。それが私の最初のパピエ・コレで、突然それらと共に色彩が私にもど
ったのです。lxxxii」そしてそれらレリーフ作品は、この時期のピカソやブラックのコラージュやパピエコレと類似しており、
研究者たちは「ギター」をそれらコラージュ、パピエ・コレの拡張として表現していると論理的結論を引き出していたが、
近年「ギター」の制作期日が研究されると共に、コンストラクションがコラージュに由来するという概念は失われつつあ
る。ピカソも事実「ギター」はコラージュとは関係ない」と述べているlxxxiii。ブラックは語る「私の制作した彫刻は表面が
2次元、平面であった。それは私の最初のパピエ・コレであった。lxxxiv」ブラックはこのような紙の実験から最初のパピエ・
コレが制作されるようになった。ライバルピカソはそのブラックの paper sculpture を見、直覚的な反応を示し、「ギタ
ー」という新しいスタイルとパピエ・コレを生みだしたのであったのだ。ブラックはピカソのように paper sculpture の
可能性をすぐに追求しなかった。彼は絵画の表面の変化に興味があり、絵画のための実験でしかなく、それを展開させる
ことはしなかった。しかし1914年に再びレリーフに手をつけている。
ピカソの追求
この時期共同制作はそれぞれ固有の性質を帯びはじめていた。ピカソの絵画は現実の面をばらばらの面として分析する
ことと、画面を不連続で重なりあった面によって構成することにいっそう習熟するとともにlxxxv、ピカソにおける紙によ
16
る彫刻の制作は、ブラックとはまた違ったヴォリュームの問題によって足留めされていた。ウィリアム・ルービンは、
「「ギ
ター」は対象を通じて、視線は表面だけでなく、奥まで、本質までに入り込み、それが重なりあった、透明、不透明な平
面のコンビネーションであり、1911
—12年のピカソの分析的キュビスムを三次元に順応した作品」として解釈して
いるlxxxvi。ピカソは「ギター」において現実を再現する新しい方法に至るまでに、分析的キュビスムから形態の純化、ヴ
ォリュームの転換と、事物を概念的、記号的に解釈しなければならなかった。1912年のコラージュを制作してから1
0月までのピカソの作品にはその模索が捉えられる。
彫刻に向かって最終的な研究は始まった。この時期はすでにそれまでの木目のフォ・ボワにより、質面効果を求める新
技術も駆使され、従来の分割され、再構築された面が、対象の色と質を見る者に伝達する新たな記号としての役割が与え
られたlxxxvii。「ヴァイオリン“ジョリ・エヴァ”」fig.30では右手にはフォ・ボワ、本物のように描かれた木と同様に、
写実的に示された紙の縁飾りの模倣とも思われるものはパピエコレを予感させるものとなっている。またフォ・ボワの影
響からか、画面全体のプランは幅広くなりはじめているのがわかる。ここでは外部からの異物を挿入していはないが、す
でにコラージュ「籐椅子編みのある静物」で見ることができる虚像のもの(描かれたもの)と現実のもの(貼られたもの)
との対立関係をここでも用いている。この絵画ではコラージュに続く新しい表現法への模索が感じ取れる。また同時期の
「ギターを持つ女」fig.31ではいくつかの素描が具象の傾向に向かいつつ、他のものが抽象の領域にとどまるという表現
が行なわれている。直線、稜角、曲線と影による構成はのちに面として発展する。続く「女
—ギター」fig.32では、曲線
と直線から成る女性とギターという二つの構成要素は一体化する意図を明らかに持っている。ピカソは女性の構成要素の
中に、それがギターとしてでなければ理解できない要素があるように、女性のものとされなければ理解されないギターの
要素があると感じていたのであろうかlxxxviii。この時期ピカソにとって「ギター」は単なるものとしての楽器ではなく、あ
くまで彼の身近に存在している人間、女性像と重ね合わせて制作している。ギターの本体の曲線を女性の身体の曲線とし
て捉えたのではないかと主張する研究者もいる。確かにその論説は一理あるように思える。初期キュビスムの時期からピ
カソは、意図的に女性の頭をマンドリンと同じ形に描写したりしながら、探究を繰り返していたlxxxix。「マンドリンを弾
く女」fig.33では女の頭部とマンドリンが意図的に同じ形で描写されている。ピカソは生涯、女性をミューズとして、ピ
カソの発想源として、彼の作品には常に登場してくる。だかこのキュビスムの時代だけにその女性という対象はあまり登
場していない。キュビスム時代、ピカソの本能的表現欲求がこの楽器にうつしかえられ表現されているのかもしれない。
「ギター」における曲線は女性を象徴しているのだろうか。
ピカソのギターは以前のものとは対照をなす別作品グループを形成する。「ギター“ジェーム・エヴァ”」fig.34そこ
では曲線が画面の中央に導入され、直線と共存することを望んでいる。フォ・ボワによる平面が画面の中央を大きく支配
している。題名から思索するに、ギターはいくつかの側面を持ち、女性であり、ギターリストに“抱かれる”ギターでも
ある。ギターのこの女性的性質は、「女−ギター」のようにではなく、むしろ、ギターがそれ自身女性であることを表現
17
するために現れているのだろうxc。ピカソの幻想の感覚や形態の変容に対する直観はブラックをはるかにしのいでおり、
そのような楽器を人間のトルソや顔の類似性とみなす傾向が常にあったようだとルービンは語る。ピカソは「ギター」を
ニューヨーク近代美術館に寄贈するとルービンに渡してくれた折に、彼は腰掛けた人物であるかのように、その作品を椅
子にもたせかけ、そのままでジャクリーヌに写真を撮らせたというエピソードが残っているxci。アフリカの楽器などfig.35
はよく人間の擬した形をしているが、それは彼の考えをさらに刺激したとも考えられるxcii。
ピカソは分析的キュビスム時代にはあまり描かなかった人間の顔を描きはじめた。「男の顔」では一枚目 fig.36は男性
の顔を、また細部を立体的、具体的に抽出し、二枚目fig.37にはそれは直線と曲線によって表現されている。三枚目fig.38
には構成が抽象的になり、単純で、大きな平面になっていく過程が示されている。最後の四枚目 fig. 39では男性に変わ
って女性がギターを抱えている。1910年の分析的キュビスムにも研究された、画面では直線や稜角は徹底的な平面性、
すなわち空間の二次元性をきわだたせるものとして、一方、曲線はその二次元をこわし、平面的ヴォリュームをつくりだ
すものとして、この二種類の線の追求がここで発揮されている。「(緑とバラ色の)ギター」fig.40には、フォ・ボワに
よる面に重なって、パピエコレにも通ずるような、ギターの形態、そのヴォリュームまで伝達できている平面が出来つつ
ある。ここで輪郭が一層増幅されたギターは、平面空間を放棄せずにヴォリュームを獲得するという結果をもたらしてい
る。正確には平面空間を通じてヴォリュームを獲得したのであった。ギターの輪郭のひとつひとつは単なる輪郭でしかな
く、平面に含まれるxciii。この平面はヴォリュームとともに三次元を主張する。平面に形態、ヴォリュームを求める追求は
さらに進む。ここでギターの穴は前に突き出るような形で表現されているのであろうか。この作品におけるグレボ族との
因果関係は確かではないが、ピカソがギター穴をどう表現すればよいか模索していたのは事実である。最後に「ギター」
の制作される直前、1912年9月に描かれたドローイングfig.41のような作品では、ギターは多視点から捉えられ、様々
なギターの形の側面が強調されたりしながら、ほぼ平面と線だけでギターのが表現されている。ギターの持つ長い手のと
ころは、横から見たところを表現しているのか、凸凹を強調している。この時期までくると画面はピカソの自由な視点か
ら描かれている。ギターの穴の処理はまだ完全ではないが、これはこの夏に出会ったグレボ族の仮面により新しい展開が
見られるようになる。(グレボ族については次の章にて説明する)このような平面による探究は新たなる展開を呼ぶと同
時に、ピカソのさらなるヴォリュームへの欲求は彫刻のための一連のドローイングで明らかになる。
当時の彫刻ためのドローイングは「ギター」と深い関係にある。絵画は彫刻の着想の場所であり、出発の場であった。
しかしそこには表面的相似はあまり存在しない。ピカソの最初のコンストラクションの研究は1912年の初期頃からは
じめていたという。ピカソがそれらのドローイングを実際の彫刻として実現を企てたという証拠はないが、ピカソはサル
モンにこのドローイングを見せていて、1912年の新聞紙xcivにサロモンはそれらに関係するだろうコメントを載せてい
た。「現代彫刻—絵筆を捨て、画家ピカソは確かにいくつかの重要な彫刻を制作している。」1912年初期のの彫刻の
ための一連のドローイングシリーズは、アコーディオンプレイヤー fig.42のドローイングから始まっている。その次のド
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ローイングはアコーディオンプレイヤーをギタリスト fig.43に発展させ、性を変換している。彫刻のための一連のドロー
イングは、同時期の絵画作品「ヴァイオリン、ワイングラス、パイプ、いかり」fig.44を連想させるものがあるxcv。これ
は彫刻のためのドローイングではあるが、絵画における半透明の面や線よって構成されているが、三次元的解釈は感じら
れない。この時期のドローイングは、楽器、ギターというモチーフやレリーフ的というところには共通点が見られるが、
その形態、また三次元的構成の描写において、「ギター」と共通するところがほとんど見られないxcvi。だが1912年の
夏から秋にかけてのドローイングでは大きな展開をみせている。ギタリスト、特に女性とギターのドローイングを熱心に
制作している。時期から考えても一連のドローイングは「ギター」に最も密接に関係しているといえるのではないだろう
か。ドローイングfig.45、fig.46、fig.47においてドローイングの女性のギタリストは、影がほとんどない、装飾のない、
白い背景に表現されている。ここでピカソは実際の人間の姿のいくつかの側面を同等に三次元に供給している。顔は円の
塊になって、薄っぺらい平面のあごに支えられながら垂直に直立している。特に fig.45 では女性の乳が三角形となって
平面の板に刺さっているかようにも見える。空だの一部が幾何学的な形の平面体によって転換されている。もはやここで
は人間の胴体は垂直のパネルと下半身は水平のパネルと4つの長方形から構成されている。fig. 48になると人間の姿をも
はや塊で表現しなくとも、まるで「ギター」を予感させるかのようなパネルで表わされ、構成された。もはやヴォリュー
ムは平面を構成することによって生まれてきていた。このようなピカソの探究から、絵画で平坦で実体のない形態になっ
てしまった図像に、彫刻のためのドローイングで試したパネル、平面を使って、現実の事物のような触知できるような性
質を与えたいと思っていた。その新しい方法であるレリーフを制作するきっかえを与えてくれたのはまたもやブラックで
あった。
ピカソは絵画と彫刻のためのドローイングの制作後、1912年9月の中旬、ブラックのいるソルグへ一週間帰ってい
る。そしてブラックの初パピエコレ「果物皿とグラス」fig.49を見ている。これはブラックが語ったようにpaper sculpture
が、パピエ・コレに発展した作品である。「私は認めなければならない。パピエコレを作った後、私はとても大きなショ
ックをうけた、そしてピカソにとってさらに多きなショックであった」とブラックは言及しているxcvii9月27日に再びパ
リに戻ると、ピカソは新しいスタジオに移動し、作品を作りはじめたxcviii。10月9日、ピカソはブラックに手紙で、「“あ
なたの最新の紙と粉上の制作物を”使っている、そしては私はギターを“想像している”、そしてカンヴァスに砂や土を
使っていると」書いている。この手紙で重要なことは、ピカソが作っていたものが紙の作品や砂の絵画やパピエコレかど
うかということではなく、彼は「籐椅子のある静物」におけるコラージュ探究の背景に帰するのではく、彼の新しい作品
はブラックの最新の制作物に関係していると話しているxcix。砂と土の作品は「小さなヴァイオリン」fig.50である。紙に
よる制作欲求は構成彫刻「ギター」と同時期にパピエ・コレにも及んだ。
D ・ H ・カーンワイラーは「ピカソとブラックはこの時期に間制作していた、レリーフ彫刻の“模倣”として、キュビ
スムの絵画(パピエ・コレ)に重なった平面を描いていたc。
」と主張し、二人のレリーフ彫刻(ブラックの作品は現存し
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ていない)の模倣がパピエ・コレであると述べている。ブラックやピカソのおいて、他の方法によりも紙による彫刻がパ
ピエ・コレの革新的な展開を導いていた。ブラックの所から帰ってきたピカソは、紙による実験を行なった。ギターの形
に切り取られた紙片が、壁紙に底部をピンで止められ、外向きに曲げられることによって、壁紙から立ち上がり、影を描
く必要がなくなった。平面の紙によって構成することで、三次元に今までにない新たなるヴォリュームが生まれた。また
ピカソにとって「ギター」に見られる形は、今は描写対象を記述したものというよりも、それを表わす記号であった。概
念的形態という新しい解釈の風はグレボ族の仮面により吹いてきた。ここで「ギター」が彼の初の構成彫刻であるかとい
うことよりも、斬新な cutaway 彫刻が当時新しいもので、非イリュージョンを証明するような空間であったということ
がより重要であるci。ピカソのパピエ・コレにおける 2 次元性への記号言語の構造の翻訳は、
(総合的キュビスムのモデル
を提供した)ブラックのパピエ・コレにはない、退行的な、凹んだ空間の定義を備えているとルービンは主張するcii。つま
りピカソはパピエ・コレの空間を総合的でなく、平面性、2次元性への還元だと捉えていたのである。
第4章—(3)
「ギター」におけるグレボ族の仮面(Grebo mask)の影響
カーンワイラーは、
ピカソ自身が所有していたグレボ族
(コートジボワール共和国またはリベリア共和国)
の仮面fig. 51・
fig. 52ciiiが「ギター」に与えた影響を強く強調しているciv。彼は、この仮面の目における解釈が「ギター」の中央にある円
筒の音の穴の解釈において重要な役割を果たしているという、キュビスムにおけるアフリカ彫刻の重要性を主張しているcv。
カーンワイラーは語る「これらの画家たち(ピカソやブラック)は模倣に背を向けた。なぜならかれらは、絵画と彫刻の
真の性格は『書字 script 的』なものだということを発見したからである。芸術は記号の創造であるというこの考えにとっ
て、
(グレボなどの)仮面は、もっとも純粋なかたちで、その証例を提供している。cvi」ルービンもまた「ギター」とグレ
ボ族の仮面との因果関係を深く考察している。彼はグレボ族の仮面と「ギター」との影響関係の具体例を理想的なかたち
で示している。その影響関係は形態に直接というより、概念的に「ギター」に浸透していったという方が正しいのではな
いだろうかと語る。
「ギター」の形態と構成は、同時期の作品からもわかるように明らかにキュビスムの作品といえるから
である。1911年から12年にかけて分析的キュビスムの絵画のもつ透明でイリュージョスティックな名残りをとどめ
る面が、コラージュの衝撃のもとに、より大きく単純で、何よりも不明瞭な形態に変化した後、1912年後半に「ギタ
ー」は作られているcvii。
ピカソとアフリカ彫刻の関係は 2 つの段階に異なるふたつの解釈を経て、彼の作品に多大な影響を与えたとイヴ・アラ
ン・ボワは主張するcviii。ボワはこれまでの1910
—11年の分析的キュビスムの模倣により「ギター」は生まれ、分析
的キュビスムに同等する彫刻であり、
「ギター」は“空間の中の絵画(a painting in space)
”であるという解釈を拒絶した
cix
。アフリカ彫刻とピカソの関係は、
「アヴィニヨンの娘」から分析的キュビスムに至るまでのアフリカ美術「形態的」解
釈の時期と、1912年に制作されるレリーフ「ギター」に始まり、パピエ・コレ、コンストラクションに関わる「構造
的」解釈の時期という2段階にわけて消化されたと主張した。先述したように「アヴィニヨンの娘たち」やそれに続く作
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品が、当時パリのトロカデロ博物館やフォーヴィスムの画家のコレクションだけでなく、ピカソ自らもコレクションしは
じめたアフリカ彫刻と、いくつか共通点があることは否定できない。しかしピカソはアフリカ彫刻を直接的に模倣、コピ
ーしてはいないとカーンワイラーは述べるcx。アフリカ彫刻の第一段階における形態的な部分の理解とは、プロポーション
や形のレベルにおける理解である。第一段階の形態的な相似とは、例えばアフリカの仮面と「アヴィニヨンの娘たち」の
中の裸婦の顔の影響関係のことをさす。カーンワイラーによる言及のとおり、アフリカ彫刻を模写した作品はないにせよ、
ピカソはおそらく個々の仮面を眼前にしながら、あるいは記憶の中で想起しながら、模倣していくという制作過程をとっ
たのであろうcxi。しかし第二段階、構造的相似の時期においてそのような明示的な模倣関係を認めることは難しい。もちろ
んグレボ族の仮面が「ギター」の霊感源となっているのは、事実であるが、両者の関係は単なる模倣の関係ではないのだ。
第一段階後のピカソは、絵画に、彫刻におけるヴォリュームを表現するということが目的となり、絵画と彫刻の間にお
いての追求がみられはじめるのだ。だがすぐにピカソは彫刻には伝統的な方程式、それは固体としての量塊(マッス)の
伝統芸術が根強くあることを理解したのである。アフリカ彫刻を研究した後、1909年ピカソはこの固体におけるマッ
スの表面の光と影の効果を彫刻に翻訳した。
(第3章で先述している)ピカソは1910年の夏、Cadaques で過ごした時
期に彫刻にはマッスが必要でないと理解していたcxii。実際アフリカ彫刻の大部分は、ヴィリュームとマッスの同一視とい
う西洋の方程式を放棄している。しかしピカソはこの時期にはアフリカ彫刻に直接、深く関わろうとはしなかったようだ。
1909年に「女の頭部(フェルナンド)
」の彫刻で失敗して以来、全く立体の分野には手をつけてはいなかった。191
0年夏は初期キュビスムの時期にあたり、その研究に没頭していた。再び彫刻に対する関心が高まるのが、2 年後の夏、
あのグレボ族の仮面を購入してからである。 1912年の夏、ボワがアフリカ彫刻の第二段階の解釈だと捉えている「ギ
ター」の制作の時期に、どのような構造的相似がみられるのか。当時ピカソが所有していたグレボ族の仮面と「ギター」
を一見するだけでは、個々の細部にもほとんど直接的な類似はみあたらない。構造的相似とは具体的にそのようなもので
あったのか。ピカソはグレボ族の仮面をどのように解釈していたのか。
ピカソが概念的だとみなしたグレボ族の仮面fig.7では、一対の突き出た円筒と水平に重ねられた横木は、目と口に似て
いるというよりはそれらを表意的に表わしている。同じことは、額の役割をしていると思われる上向きに湾曲した装飾付
きの突起にもいえる。またこのグレボ族の仮面でルービンが重要視しているのは、突出した目や鼻や唇の土台になってい
る「顔」が、仮面というものに一般的にみられるような浮き彫り状の三次元の形態ではなく、
「ギター」の表面のような起
伏のない平板な板であるという点であるcxiii。しかしそれ以上にピカソがこの仮面で関心をもった部分は、円筒形の目だと
述べている。ピカソは次のようなことを書き留めている。
「顔の造りの中で鼻と唇とはどうみても突出した部分である。し
かし私自身、目については、彫刻において、特に目そのものよりも「眼窩」
—目の穴—を造形するような場合には、常に
くぼんで「空ろ」になった部分としてとらえてきた」と述べたcxiv。ピカソは自分が、粘土を用いてモデリングに精をだし
ていた若い頃、親指を粘土に押し込んで目を形作ったことを思いだしたのであろう。だがグレボ族の仮面は、突出した部
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分を用いて、顔の突き出た部分および、陥没した部分との双方を表わしていた。ピカソはカーンワイラーに(またルービ
ンにも)こう語ったcxv。
「「ギター」の胴の穴を、平らな黒い面から突き出た円筒形で表わすという解決法は、グレボの仮
面から思いついたものであったと。
」
「ギター」の表の面は、右側と下部だけに残されていて、この楽器の中心部分で大き
く切開されている。この作品の制作上の課題は次の一点であった。それは「ギター」の表の面の上に存在しない穴をどう
やって表わすのかということである。その解決法はグレボ族の仮面のように、ネガをポジに反転して、穴を前に突き出し、
中空の円筒形にすることであった。このようにグレボ族の仮面は、顔を描写したのではなく、余分なものを取り除きつつ、
表意的、合理的に再現する転換方法を理解したのであった。
第一段階の模倣の表現から、第二時段階の記号的表現へ、ピカソのアフリカ彫刻に対する解釈の相違はこのように彼の
作品にあらわれてくる。この記号的な表現とは、作品の個々の要素がそれだけでは表象されているもの(シニフェ)と結
びつかないのに、他の要素との関係の中で提示されることによってなにものかを表象しえるという、関係依存的な特徴を
指すcxvi。たとえばそれはグレボ族の仮面では、顔の現実的なヴォリュームはそれとして表象されてはいないが、飛び出た
目や口、鼻などの関係から、
「読む」ことは可能である。目にしても、現実には顔の中で引っ込んでいる部分が飛び出して
いるのは、模倣的な関係からは逸脱している。しかし他の要素との関係の中に置かれることによって、それを私達は目と
して「読む」ことができる。この「読む」というのは、記号的表現を達成したキュビスムに対応する新しい作品解説のあ
り方を示す表現として、カーンワイラー自身が意識的に、
「見る」対立ものとして多用しているcxvii。またボワはそのような
関係、ピカソの「ギター」を、一言語内の祭の体系こそが語の意味を決定するとした同時代のソシュールの言語学と比較
するcxviii。
「ギター」の中央にある管はグレボ族の仮面の円筒と同様に意味を持つというというならば、それは仮面の円筒が
目であり、
「ギター」の管がギターの孔を表わしているという理由からだけではない。円筒が目と“視線”
(それは目から
発せられる)であり、管が孔とギターから生まれる“音”を表わしているからだ。またこの作品は芸術的には革新的であ
るが、これはまた当時のエヴァという人物を歌っているのであるとファブルは言及する。
「ギター」はギターであり、音楽
なのだcxix。こうしてギターは生命を与えられ、単なるイミテーションとはならない。cxx「ギター」に見られる形は描写対
象を記述したものというよりも、それを表わす記号であった。グレボ族の仮面をこのように解釈することで、概念的形態
というレベルで「部族美術」とモダン・アートとの親緑性がうかびあがってくるとルービンは主張する。当然、部族美術
の彫刻家はこのような概念をもち、制作していたかはわからない。これはアフリカ彫刻の重要性を過大評価というわけで
はない。しかしグレボのマスクの重要性はピカソの「ギター」だけではなく、パピエ・コレやコンストラクション総合キ
ュビスム全体においても重要な役割を果たしたのは事実であるcxxi。
グレボ族の仮面との出会いによる直接的な結果は、分析的キュビスムの最後に同時に生まれたピカソの「ギター」であ
った。このような記号的表現、
「ギター」によってふたつの重要なステップへとそれを導くことになる。それはパピエ・コ
レ、コラージュとコンストラクションである。しかしブラックはそのパピエ・コレにおいて、テーブルを表象するのに木
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目の印刷された紙を使用するなど、依然として模倣関係を基礎にしたテクニックを保持している。ボワが立証した記号学
的な解釈によって、
「ギター」の存在が本物のギターと混同される危険もなくなり、また「ギター」はフレームや、また芸
術としてそれを立たせていた台座を必要としなくなったcxxii。ボワは“彫刻がオブジェにおける本物の空間によって吸収さ
れてしまうことを心配する必要はなくなった”と語ったcxxiii。カーンワイラーは「アフリカ美術が生み出した作品が外の世
界の記号や象徴であり、多かれ少なかれ、歪んだ様式で外の世界をうつしているような鏡ではない、いったんそれが認め
られてからは、造形芸術は幻想であった様式固有のあしかせから自由になった。
」とも述べているcxxiv。ボワはカーンワ−
ラ−の意見を引用し、
「グレボ族の仮面の発見と分析的キュビスムの終焉は同時に起こった」と語ったcxxv。
三次元性への展開はグレボ族における概念化だけの機能をもつだけの作品では克服できたとは思えない。ピカソが「ギ
ター」とコンストラクションで生み出したことは同様に彫刻の歴史に付随する。ピカソは彫刻の歴史に従ってヴォリュー
ムとマッスを克服してきた。もちろんそれは絵画の研究なくしては生まれてこなかっただろう。ピカソは「ギター」にお
いて現実を再現する新しい方法に至るまでに、分析的キュビスムから形態の純化、ヴォリュームの転換と、事物を概念的、
記号的に解釈しなければならなかった。
「ギター」におけるグレボ族的構成上の処理法は、総合的キュビスム(パピエコレ)
を可能にした諸々の処理法すべてと一致するとはいえない。総合キュビスムはすべてがそれぞれの処理の内的論理に従っ
ているからである。cxxvi
第5章ピカソ、ブラックのパピエコレ
ブラックのパピエコレ
ブラックは釘の描写、文字、フォ・ボワ、砂の導入に続き、画面の表面にこだわっていた。引き続きそのこだわりはpaper
sculptureよって実験された。ピカソとブラックは、どちらもパピエ・コレの前に紙による彫刻を制作していて、これらの
構成的作品がパピエ・コレの発展に貢献した。ブラックも後に言及している「カードボードの彫刻はパピエ・コレの革新
性を導いた。cxxvii」それはあくまで絵画の助けになるものとして、または物体との距離を縮めるための方法として思い付い
たものであった。そしてその実験は壁紙の切り抜きを用いた線的な木炭素描の連作にまで発展した。それはブラック初の
パピエコレ(新聞紙、壁紙、楽譜、などの手近にある紙を切り抜き、寄せ集め、絵画の構成の一部として貼り付けること)
となった。彼はパピエ・コレを分析的な画面にマチエールの確実性を与えるために、あくまで絵画的な意味で使用したの
である。ブラックにおいては絵画、paper sculptureすべてが表面性の傾向を持っていた。ブラックのこの絵画表面への関
心の優先はピカソに先駆けてのパピエ・コレ「果物皿とグラス」fig.49(1912年9月)へとつながっていった。ブラ
ックは初パピエ・コレ「果物皿とグラス」で印刷された三種類の壁紙を使用し、それを紙の上に貼り付けたり、その上に
ドローイングをほどこしたりしている。柏の木目を模した壁紙の切れ端を構造的に示すデッサンに挿入するアイディアを
ブラックは得たcxxviii。これら着彩された模様付きの紙は、対象の情報を伝えるものになった。色彩は、空間の構成において
独立した役割を果たしていた。これをブラックの言い方に借りれば、
「色彩の形態からの独立」であったcxxix。この作品は
23
木炭で、果物皿、グラス、テーブル、果物など、一見してそれとわかるようにかなり写実的に描いていて、貼付けられた
壁紙との間で現実のものと、描かれたイリュージョンの対比が強調されている。しかしここではまだ現実のモノとしての
壁紙自体の存在感を強調するより、むしろその木目模様がテーブルを意味するようにと、具体的な事物を端的に示す表現
的な機能において用いられているcxxx。
ブラックは paper sculpture の実験の他にも、表面に対する興味をひろげていた。それは油彩に砂を混ぜるという方法
であった。
「果物皿とグラス」の直前に作られた作品「果物皿“QuotidienduMidi”
」fig.53はフォ・ボワと砂と油彩による
作品である。この技法は絵画に実際の質感がもたらすことができる。この作品は初パピエ・コレの作品にモチーフ、構図
ともかなりの類似性が認められる。ブラックは紙と砂の導入による触感的な表面は、対象の造形的な構築というよりは、
絵画表面に対する関心を優先させていることがわかる。またブラックは「対象のための空間をつくっておかぬうちは、そ
の対象を導入できなかった」と語るように、ブラックの絵画空間への執着はセザンヌ的といってもよい。ブラックのパピ
エコレの紙はカンヴァスやあるいは地として糊付けされるや、そこに表わされた対象の本性に関する情報、色彩などの両
方を提供すると同時に、自律した造形的価値をも獲得する。パピエ・コレの貼付けた紙片はそれらが意味する物体の輪郭
にこだわることはなかった。対象の形態から独立した形と、写実的な目的から美学的意味で独立した模様や色彩の組み立
てに応じて、自由に紙片を組み合わせることにより作品をつくることができるようになったcxxxi。また画面の中で紙片と物
体の形態との相互関係は線と面の語彙によって示される。ピカソがそれまで行なっていたカンヴァス上に諸要素を貼る使
用法は、ブラックほど純粋ではなく、応用的、もしくは派生的で、要するに現実的であったcxxxii。ブラックは紙であるとい
う素材の限定以上に、貼付する要素が全体のハーモニーに資する用いられかたをする点で、ピカソのパピエ・コレとは異
なる。またブラックはパピエ・コレは制作してもコラージュは制作していない。またピカソのパピエ・コレには共通点の
ない諸要素が使用され、ブラックの作品では統一感と均衡が保たれている、自分たちの素質にあった作品が制作された。
ブラックの油彩画「果物皿とクラブのエース」fig.54は1912年初めて制作したパピエ・コレ作品「果物皿とグラス」
に基づいて制作している。
「果物皿とグラス」に使用したフォ・ボワによる紙を貼付けするかわりにブラックは木目を描い
ている。ここでは、画面上部の木目は壁板を暗示し、下部では、テーブルの引き出しになっており,とっては円が描かれて
いる。テーブルの残りの部分は大きな黒い色面で描かれている。ここでは、黒い色面とフォ・ボワによって、さらにあた
かも上方から眺めたかのように引き出しとテーブルが浮き上がって見える構成を通じて、画面全体は非常に平面的なもの
になっているcxxxiii。前のパピエ・コレにはないトランプが挿入され、日常感覚を付与している。この作品はパピエコレでは
ない、ブラックはパピエコレをドローイング程度の作品にしか加えていなかったという。
パピエ・コレにおいてブラックは、抽象から再現へと仕事を進めていき、空間的な面の結合という抽象的な土台に主題
を見い出してきた、または主題をそこに結び付けた。この時期の絵はうす塗りであり、多くの絵には主要な構成要素の隅
にピンの跡が見られる。これは最初に紙片を重ねて構成を作り上げ、ピンでカンヴァスにとめて、周囲を鉛筆でなぞり、
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それから取り外して、絵具を塗ったことを示している。その後で、これらの形がブラックに主題を示唆するか、さもなけ
れば、ブラックがこれらの形にイメージを重ねていたのであった。
ピカソのパピエコレ
ブラックは言及してる。
「paper sculpture は絵画、私の初のパピエ・コレに適応可能だということを示唆してたように
思える。cxxxiv」ブラックは paper sculpture がパピエ・コレに導いたと感じていたcxxxv。ピカソのパピエコレはブラックの
paper sculpture とパピエ・コレ、
「ギター」に続いて制作された。ピカソの最初のパピエ・コレ「ギターと楽譜」fig.55
では壁のかわりに壁紙を用いているように、ブラックは木の代りに木目模様の紙を初パピエ・コレでつかっている。19
12年末のアトリエの写真 fig. 56でもわかるように「ギター」を分解して平らな面に展開するような試みを何枚ものドロ
ーイングで行いながら、パピエ・コレの平坦のイメージの可能性を探っていたのである。
「ギター」を中心に番号が書いて
あるパピエコレのあるアトリエの壁に貼られた作品はほとんどがパピエ・コレであり、右上の作品「ギター」fig.57は後
にパピエ・コレによる作品であり「楽譜とギター」fig.58を生み出すことになる。紙による興味が立体作品「ギター」と
同時に、平面作品パピエ・コレにまでつながっていったことはこの写真から伺える。ピカソの「ギター」と最初のパピエ・
コレ「ギターと楽譜」と最初のパピエ・コレと同時に制作されていた「ギター、楽譜、グラス」fig.59は、色と輪郭線を
物体から分離させるためだけではなく、記号学的原理に従って描くための実験的な作品であったcxxxvi。1912年末ピカソ
は金属製「ギター」を制作した後、このギターを初期のパピエ・コレ「ギター、楽譜、グラス」に転写している。これは
ほとんど紙によるものであるが、木炭によるデッサンがわずかに残っている。この作品では「ギター」によって行なわれ
た記号学的、概念的な方法がさらに進んでいて、初パピエ・コレよりも非イリュージョニズムであり、文脈上、画面上で
の記号学的な語呂合わせがさらに発展している。ここではリアリティの異なった二つの概念が同一画面にもちこまれ、ち
ょうど言葉が使われる文脈によって、それぞれの意味が変化するように、物は意味を変えられ、視覚的な語呂合わせのよ
うな仕方で、ひとつの役割以上のことを果たしているcxxxvii。パピエ・コレは写実的から美学的意味で独立した模様や色彩
の組み立てに応じて、自由に紙を組み合わせることにより作ることができた。パピエコレの紙は表現された物体の情報を
伝達するものであって、幻象的な空間を排除している。キュビスムの初期の段階では画家たちは、多少自然主義的イメー
ジから入っていった。次いで空間と形態という新しいキュビスムの概念に照らされて、イメージは断片的で分析的に、そ
れだけに抽象的になった。今やその過程が逆になっている。抽象からはじめて、再現へと進めている。分析から綜合へ。
この完全なる平面作品となったパピエ・コレ「ギター、楽譜、グラス」を油彩画の連作に写しかえるが、そこでは、また
パピエ・コレの代りに絵画に砂を混入する手法が用いられる。
ピカソもブラックについで1912
—13年以降、絵画の表面のテクスチャーへの関心を深めていく。ピカソがブラッ
クのパピエ・コレに刺激され「あなたの最新の紙とカンヴァスに砂や土を使っている」と語ったようにcxxxviii1912年末
は表現法の一種の二極化によって特徴づけられるcxxxix。もちろんこの二つ方法は最初ブラックが提案したものであったが、
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ピカソはそれを発展させている。ひとつは貼られた紙だけによってほとんど作られた作品が多く現れる。
「ヴァイオリン」
fig.60での垂直線の支配は、ピカソの1912年の間に制作されたパピエコレの共通の特徴であった。それは垂直線によ
る構成の優位である。垂直性はほとんどいつも新聞紙の断片によって現れる。cxlまた一方で素材(砂、ガラス)によって、
紙よりも実体と物質性を持った作品である。一方で「小さなヴァイオリン」fig.50 は「ギター、楽譜、グラス」を写しか
えたものであり、ここでは油彩と砂のみで描かれ、全くパピエ・コレは用いられていない。文字も楽譜も油彩で描かれて
いる。ブラックのように表面性を強調するための実験だったのだろうか。このようにピカソは紙と砂を使った実験は交互
に繰りかえされていた。そこからピカソは、これら油彩画での経験をもって新しいパピエコレに戻り、パピエ・コレのた
めの新しいデッサンから新しいコンストラクションへの制作へと移るcxli。
すでにピカソは1911年春頃から、画面に文字や数字を描いたり、刷り込んだりしていたので、これらが文字や数字
を印刷した既成の印刷物、新聞紙などを直接画面にはりつけることは容易に思いつくことができたと思われる。しかしこ
こで“JOURNAL”という文字を描き込むのと、新聞紙を貼付けるのとでは、画面における意味が全く異なっている。描き
込まれた“JOU”は文字と記号によって“JOURNAL”つまり新聞という概念を意味している。これに対して、パピエ・コ
レの作品における貼付けられた新聞紙は、まさに現実のものとしての新聞であり、個別的な実体としての新聞である。そ
れはもはや新聞紙を意味する記号ではなく、新聞そのものとして画面に動かしがたく存在する現実なのであるcxlii。またパ
ピエ・コレによく使用される、ブラック「果物皿とグラス」における木目模様の紙にも同様のことが言える。しかし19
11年のブラックの「ヴァイオリンとクラリネット」の描かれた木目と比べてみれば、差は歴然である。そこにはものと
しての存在感がある。後にこの技法はピカソとブラックによって、新聞紙の断片や印刷されたラベルやそのほかの断片が
画面に組み込まれるまでに至ったのである。ピカソはパピエ・コレについてこう語る。
「パピエ・コレの目的は、異なった
質感のものを、一個の構成に参加させ、自然の現実感に匹敵する、絵画の中の現実感をつくり出すという観念を示すこと
だった。われわれはトロンプ・エスプリを見いだすためのにトロンプ・ルイユを排除した。もし新聞紙の切れ端が瓶にな
れるのなら、それによってそれによって新聞と瓶の両方に関係のあることを考える手だても与えられる。この置き換えら
れた物体は、ある程度奇妙さをかかえた、ぴったりしない世界に足を踏み入れている。この奇妙さについて、見る人に考
えてもらいたいと願っている。この世が奇妙なものとなりつつあり、必ずしも安心できるところではないと、我々は気付
いているからだ。cxliii」彼の作品は実験的であると同時に、均衡と調和を得ようとする点では古典的でもあった当時の運動
には未知のものであった。
その中でもピカソの「果物鉢、果物、ヴァイオリンとワイングラス」fig.61はパピエ・コレの中でも最も洗練された作
品ではなかろうか。画面にはテーブルの上に静物描かれ、テーブルの正面におかれた椅子の背が画面左下に見られる。RNAL
の新聞文字はテーブルに載った新聞紙を表わすのに用いている。だが、他の箇所では彼は新聞の断片に全く独断的な意義
を与えているcxliv。上方左隅では、鉢に盛った果物を示すのに、この場合は果物鉢の皿の意味をする新聞紙を切り抜いたも
26
のの上に印刷したリンゴと梨の絵を貼付け、その皿の部分の下には白紙の短片があって果物鉢の足を表わしている。テー
ブルの縁の部分は、画面の下半分の曲線によって暗示され、その下方に新聞がテーブルクロスとして広がっている。テー
ブルの本体は白い曲線部分とその上の紙によるフォ・ボワから構成されている。ここではヴァイオリンの本体は青い紙片
によって構成されているだけではなく、先程テーブルと解釈されたフォ・ボワが、ヴァイオリンの本体の曲線として解釈
できる。また青い部分の上方にはヴァイオリンのネックが見え、光と影を表わす白と黒の線で構成されているcxlv。そして
上の部分には、渦巻き模様が平面的に描かれている。ヴァイオリンの右側の大きな新聞紙には、もうひとつの新聞紙が貼
付されていて、そこにキュビスム的な解釈でグラスが素描されている。この対立的な画面はまさしく秩序を嫌うピカソら
しいものがある。また画面右には
”Apparition”という単語の断片が見える。これは降霊術の集まりに関する記事からとら
れたもので、霊の具現と紙片から対象が出現することの奇妙な類似性を引き出しているcxlvi。また色彩は光や対象の起伏を
描写するためではなくして、感覚の喜びすなわち色彩をそれ自体として復帰させている。この作品でピカソは複雑な空間
的、視覚的な遊びを取り入れた。また画面には様々な対立的な要素と類似性が存在し、この作品はピカソの気質があます
なく表現されている。
ピカソとブラックにはパピエ・コレによって発想の違いが大きく出てくる。ピカソは、イメージを創造するために抽象
的な形を集めた。彼の方法はブラックよりも直接的であり、ある意味で即物的ともいえた。
「ギター」によってにピカソは、
グレボ族の仮面から根本的な原理、記号的、概念的に作品を捉えるということを悟った。ピカソは色と輪郭を変化させた
平らなフォルムをまとめ、巧みに処理して、ギターや男の頭などを表現したり、示唆したりした。
、抽象的で、非現実的な
フォルムは、彼の抽象的配列、あるいは互いに関連のある示唆的な配置によって、再現としての役割を担うのである。ピ
カソの作品では、対になった曲線が、ギターの縁の線を思いださせたり、画面に向かって振り向いた人間の頭の側面と背
面を示唆したりする。ブラックの作品では、抽象的構成と主題の重なりが溶け合ったり、相互に働きかけたりするが、フ
ォルムが衰弱しているにもかかわらず、それぞれの存在を個別に感じることが可能であるcxlvii。ピカソの総合キュビスムで
は、パピエ・コレが発展して、抽象的要素が結合して、分解の不可能な再現的な統一体を形成している。
ピカソはまた新しい技法と材質の使い方は奇抜で大胆であったcxlviii。ブラックはパピエ・コレにおいても断片を論理的、
大部分を写実的に使っていたのに対して、ピカソは断片を、つじつまの合わない使い方で楽しみ、ひとつひとつの物体を
ほかの物体に変化させたり、新しくつなぎあわせたものの形から、思いがけない意味を引き出したりしたが、ブラックに
おいて木目プリントの紙は、テーブルやギターなどもともと木であるものの描写に使われる傾向があるのに対して、ピカ
ソは壁紙をテーブルクロスに、新聞の一片をヴァイオリンに変化させている。ピカソの絵画は構築され、構成されたもの、
または実体であるという考え方で、外部の世界を反映したり、写したりするのではなく、独立して外部の世界を創造する
ことでひとつの命をもった作品を生んだのである。
ブラックは形態的には「還元的」
、モダニスティックであるのに対して、ピカソは物体の「骨相学的」形態に関心がある
27
というルービンの指摘はうなずけるものがある。マティスやブラックが抽象へと向かう性向を備えているのに対し、ピカ
ソはあくまで再現的であり、したがってモンドリアンやおよびフランスの抽象は、ブラックのキュビスムに影響があると
考えていたほうがよい。ピカソは再現的であったが、概念によって作品を自由に変形する方法を覚えた。パピエ・コレで
ピカソは、視覚的・知的な連想の遊び、そしてそれによる現実とイリュージョンの戯れを見せたピカソと比較すると、パ
ピエ・コレをドローイングにしかほどこさなかったブラックはその点でか機知に欠ける。コラージュを行ったのがピカソ
であったということは、この相違をいっそうよく示している。コラージュにはさまざまな要素をしようすることが許され、
美術作品に期待される調和をもたない作品が制作されるようになったcxlix。
第6章、コンストラクションについて
「ギター」はその後、1912年−13年にかけて、ギターやヴァイオリンをモチーフとしたコンストラクションの模
範となった。1912年ピカソはカーンワイラーとのひとつの契約を交わした。この中にアンダーラインが引かれた“彫
刻”という言葉があるのは興味深い。それはピカソが彼の創作の一この面にいかに重要性を与えてきたか、のちに構成と
呼ばれがちであったこれらの作品に深い意図が隠されていることを証明するcl。ピカソは、パピエ・コレではそれ自体の彫
刻的な様態に関心があった。その関心が紙の中にいっそう反絵画的な、立体的な物質を貼り付けていった。それは画面に
レリーフ的な効果を与えるものであった。そこで画面に物体を呈示したのであった。これがピカソの総合的キュビスム時
代のコンストラクションにつながる。この方法は立体派の中に流れていた物体に対する新しい意識を立証している。ピカ
ソはおそらく立体派の中でオブジェの明証性を追求した唯一の芸術家であり、それは絵画と彫刻との間の境界線をなくな
るきっかけをもたらした。
「ギター」以降、物体の概念的解釈やヴォリュームからの開放により、コンストラクションはど
う変化していくのか。ブラックのパピエ・コレが作品の表面に配されたまま、それをまったく変えずに、むしろ表面性を
強調するのに対して、ピカソの方は多かれ、少なかれ開放的にヴォリュームを暗示しているcli。ピカソは本来平面よりも三
次元的傾向をもっていた。それはブラックとは違ったコンストラクションの探究へと向かわせた。
1912年「ギター」の後、新しいタイプの「ギター」を制作している。
「ギター」を制作した後、1912年から19
13年にかけてピカソのノートやデッサンにはよりいっそう彫刻の案が急に増えてくる。コンストラクションは独自の概
念によって制作されて作品と、パピエ・コレと非常に密接に関係があるものとがある。もちろんパピエ・コレと同時に制
作されていたわけであるから、関連がないと考えるが間違いなのかもしれない。しかしコンストラクションにしかない試
みも行なっているのは確かである。
「
(四面の)ギター」fig.62は伝統的な遠近法の法則によって切り取られ構成されてい
る。素描されたギターの側面のせいで、私たちはその右脇から見ている。しかし前に出た楽器の中央部分を形作る不等辺
四角形のボディの置き方のために、ギターの正面左からもギターを見ていることになる。この不等辺四角形のボディ自体、
傾いており、奥へ引いていくため、下からギターを見ることになり、ギターはずっと傾いて置かれていると思われる。し
かしギターのネックはこの傾きと矛盾している。中央部分の位置から連続して、上の方に引いていく代りにに、逆になっ
28
ている。そこで表現された遠近法は前方、つまり前景にネックが残り、ボディのほうが引いていくギターの遠近法に対応
している。正面とはいえ、4つの異なる視点を用いてギターを要約しているclii。
「
(尖った)ヴァイオリン」は、fig.63「ギター」のあるアトリエ写真の中の右下7のパピエ・コレと左上2のパピエ・
コレに非常によく似ている。アトリエの写真 fig.55 が1912年末のものであるから、その直後にこの「
(尖った)ヴァ
イオリン」を制作したことが伺える。また同時期にヴァイオリンをモチーフにしたコンストラクションを数点制作してい
て、そのひとつ「ヴァイオリン(のあるコンストラクション)
」fig.64では、ヴァイオリンの背景として壁紙を配置してい
る。だが画面ではそれはあまりに完全に壁紙を表わしてしまっている。コンストラクションでは壁紙はあまりに現実的、
写実的なものであった。ピカソは次の「
(尖った)ヴァイオリン」では壁紙は取り外され、その壁紙は同時期のパピエ・コ
レに使用された。その意味ではこの時期に幾つかの作品の原点ともいえる。また紙による構成作品「楽譜を持つギタリス
ト」fig.65にも極めて類似しているcliii。アトリエの作品、数点のコンストラクションとも高い垂直方向の構成という意味で
共通している。この時期のピカソにとって、コンストラクションはパピエ・コレの延長、共通の概念から生まれてくるこ
とが多かった。この作品では「ギター」から一歩進んだコンストラクション独自の概念に達していない。
ピカソは1913年になると、平面化したキュビスムを逆に立体化した、板の上にさまざまなかたちの板の小片を釘で
打ちつけたり、紙片を貼り付けたりするレリーフ化した作品をつくるようになってきた。
「構成・マンドリンとクラリネッ
ト」fig.66では拾い集められた何の意味も持たない木片が構成され、それにちょっとした色や線が加えられている。だが
それらはたちまちギターやマンドリン、クラリネットのイメージを持つことになる。白塗りの板をえぐったアーチ形がマ
ンドリンの胴を空洞で暗示し、中心軸には円が描かれていた。コンストラクションの根底には同時複数的なイメージがあ
る。各々の物体は例外なく複数の視点から見られている。これらのコンストラクションは背面となる根底上に高浮彫りの
形式で組み上げられた。
1913年の秋、
「ギターと“バス”の瓶」fig.67でのピカソの意図は“平面の彫刻”を作ることであった。絵画が三次
元の領域に侵入したのと同じ方法で、ピカソはここで反対のことを試みた。つまり三次元的な技法で二次元性を得る、あ
るいは二次元的な視覚効果を構成するのである。この作品では対象と素材が、力の強い機械によって押し付けられたよう
な印象がある。それだけでなく、白と黒とのコントラストによって後方に断片が前景へでてくように見え、凹凸のある断
片が背景と一体化しているcliv。また平面的な印象をより高めるためにギターの中心部分に新聞紙が貼付けられている。平
面を暗に意味するパピエ・コレによって、この作品の中の厚みは払拭されている。ここでピカソはギターの有する厚みよ
り、ギターのヴィジョンが有する厚み強調しようとしていて、ギターの柄と中心部分は各々の遠近法、平面性のために無
効になっている。ここでピカソは画面における視覚的ヴォリュームをなくそうと試みている。fig.68でもピカソはこの方
法を実験している。ここでのピカソの取り組みは、三次元の素材を用いて平面的なイリュージョンを得るという、これま
でとは逆説的なものに挑戦している。
29
ピカソはこの時期、視覚的な部分だけではなく、物体の内部にもこだわっていたようである。
「ギターと瓶」clvfig.69で
はギターの裏側から内部を捉えようとしている。同時期の絵画においてもピカソは人間の体の内部を捉えようと試みてい
る。ここではギターの穴を占める部分が円錐によって示されている。この意図はこのコンストラクションのためデッサン
によって明らかにされる。ギターの穴はなぜ円錐なのか。
「ギターと瓶」のドローイングでは円錐部分は私達の方に向けら
れている。
「ギターと瓶」では私達はうしろからギターを見ていることになるclvi。fig.70では明らかにテーブルの面と、ギ
ターの曲線を表わす面は平面であったが、fig.71では影がでてきて、最終的には立体的になり、テーブルは木の壁に対し
て斜めに、ギターの面は壁に対して浮き上がるレリーフのように配置されている。fig.72のドローイングと fig.73におけ
る中央を上下縦に横切る木の配置は、傾きによって全く違った印象が生まれている。Fig.73におけるこの中央を走る木と、
斜めのテーブルにのる瓶とギターの微妙な角度の交差が、背景の壁によりさらに際立っているように感じる。テーブルを
使って遠近法的に捉えたこの方法は、さらに翌年コラージュという形で発展する。コンストラクションでは現実の名残り
が再びピカソの作品の前で作用するようになってくる。ピカソの彫刻は固体から空虚へと量塊を崩壊したが、ピカソはそ
の反対、空虚から固体への転換も実験していていたのである。
1914年、コラージュの原理を使った次の展開がなされる。それはピカソの構成されたレリーフである木の「静物」
fig.74における実際の室内装飾の縁飾りの挿入によって、また同じ年のモデリングされた彫刻である「アブサントグラス」
fig.75、fig.76、fig.77のグラスとブロンズの砂糖角の間での現実のアブサンスプーンの使用によって応用されているclvii。
コンストラクションとコラージュのつながりは1914年の「静物」というコンストラクションによって確認することが
できるとカーンワイラーは解釈しているclviii。異質な素材を使うことにピカソは抵抗がなかった。コラージュ「籐編みのあ
る静物」で試したりしてはいるが、初期のアフリカ趣味時代からピカソはコラージュ的要素を含んだアフリカ彫刻を見慣
れていたはずである。
「静物」では全体を構成する中心的な面、背景の壁を表わす垂直の面に、それに接するテーブルが壁
に対して傾斜をつけて取り付けられている。これはピカソがまさしく意図して配置したものであり、ここでは遠近法的視
点を私達に呈示している。正面から作品を見る時、テーブルの上に載っているものは傾いているために少し上から見るた
め、まるでセザンヌの絵画を眺めているかのようになるclix。ピカソの意図はグラスの中の液体が傾いていることから明ら
かになる。グラスの中の液体は傾いているにもかかわらず、グラスの上の部分は水平におかれている。グラスの本体は内
側にえぐれているようであるが、グラスの浮彫りがほどこされていることから、グラスの外側であるかのようにも見える。
ここではグラスのヴォリューム感は見る者にゆだねられている。キュビスム的トリックが三次元でも木という材質に変え
て用いられている。実際の事物を使用したテーブルにぶらさがっている縁飾りはコラージュとの関連がある。この縁飾り
は、重力の法則に従い、壁と平行で、ことさらテーブルの丸さを強調しているように思える。遠近法的な捉え方をしてい
るにもかかわらず、ここでは画家の手によって物体を自由に扱っている。またテーブルの上にはふた切れのソーセージと
厚切りのパテとナイフが乗っており、ナイフをひかっているようにみせている。
30
「静物」に続いて、同じ年コラージュ的でかつ正面性に留まらず全面から見られる作品「アプサント・グラス」6枚(1
914)をピカソは作りだした。これはブロンズに鋳造されたグラスの上に、本物のスプーン(アブサントグリル)を載
せ、それへ本物そっくりの角砂糖の直方体を置いている。現実性の面で段階の異なるもの(ここではグラスの上に本物の
スプーンと偽者の角砂糖)を組み合わせることによって、一種のコラージュ的効果(既存のコンテキストに異質の素材お
よびスタイルのものを挿入することによって一種混交的で対立的な効果を生みだす)が生まれている。しかしそんな堅い
推測をしなくとも、これは単なるピカソのジョークなのかもしれない。このアブサントグラスは全部で六つあり、それぞ
れ違った色彩が施されている。各々に違ったブロンズに色を塗ったのは絵画的でもあり、ここでは彫刻と絵画の融合をめ
ざしたためでありclx、当時としては斬新な試みであったと語る研究者もいる。6つの「アブサント・グラス」は同じ型であ
るのに、着色が違うだけで全く異なる印象を受けるのには驚かされる。特に砂を用いたアブサント fig.76 は、絵画におけ
る技法の名残りであろうか。当時1912年にボッチョーニが「空間における瓶の展開」fig.78を制作しており、間接的
にその示唆を受けていた可能性はあるclxi。また当時「アブプサント・グラス」は作品に既製品(スプーン)
、日用品を素材
としてそのまま用いた早い例であった。しかしこれはレディーメイドではない。ピカソがその後一生使い続ける滑稽なト
ロンプ・レスプリであり、だましのテクニックのひとつである。この彫刻は量塊を解体するかのような、これまでのコン
ストラクションとは違った、キュビスム的なモデリングの技法が組み込まれている。コラージュの要素など、これまで用
いられてきたのピカソの技法を駆使してはいるが「アブサント・グラス」はモデリングの技法を使っているかぎり、コン
ストラクションではない。本体のカーブして曲がりくねったフォルムは模倣ではないが、グラスの丸みを適格に表わして
いるように思える。またこの彫刻は物体の外部と内部を同時にみせるために作られた透過的な作品でもある。しかしここ
では透明という概念を不透明物質に語られているclxii。中に入った液体の表面が見えるようにえぐってあるグラスは、中の
空間を感じ取ることができるようになっている。この方法は「静物」でも使用されている。描かれた点描的模様のある全
体像はどこかの貴婦人を思い起こさせるものがあるclxiii。ピカソはこのグラスに中の液体の濃さの違いと、そして砂糖が溶
ける時生じるだろう渦を表現しようという意図が込められているという。このようなコラージュ要素を用いた立体作品は、
パピエ・コレや絵画の原理よりも、アッサンブラジュの原理に基づいている。異なった要素をあつめて処理する技法であ
る。
ピカソのコンストラクションは「ギター」において、知伝統的な彫刻観を、キュビスムの絵画によって量塊を破壊した。
「ギター」以来の面による構成もまた絵画から生まれたものであった。ピカソのコンストラクションはパピエ・コレ、絵
画と深く関係してはいたが、同時にコンストラクション独自の概念を持ち、実験していた。
「ピカソは何か彼の眼に飛び込
んでくると、それを形態に変えようという衝動を抱く。彼が見るものを立体として体験している。だからピカソという画
家は潜在的に彫刻家なのだと」clxivと彫刻家ゴンザレスは語る。
「ギター」以降、ピカソのコンストラクションには自由な視
点が存在する。それは同時複合的なイメージである。素材は質感で選ばれており、各所に幾つかの大胆な直線や円が描か
31
れていて、この混成物体の強さと感覚性を高め、プリミティヴの彫刻のもつ造形的な力強さを持つclxv。その物体の丸み、
平板さ、充実感あるいは空虚さといったものを理解するためにどんな手段も自由にとられている。彫刻だけでなく、絵画
においても物体の「骨相学的」形態に関心を持ち、作品の中の不安定、動勢、緊張を好むピカソ。ピカソと反対の気質を
持つ、ブラックの彫刻とはどのようなものだったのであろうか。
ブラックのキュビスム時代のコンストラクションは現存していたない。写真 fig.79が残っているだけである。その写真
の目撃者は1914年ブラックのアトリエに訪れたカーンワ−ラーであった。初めてそのレリーフを見た時、カーンワイ
ラーはこう書き留めた。
“木、ペーパーもしくはカードボードのレリーフ”と。写真の中のレリーフは1914年のころの
ものであるので、それが彼の初期のコンストラクションまたはパピエ・コレにつながった paper sculpture の特徴を暗示
していると捉えることはできない。キュビスムの研究者はこのブラックの写真の中のレリーフを見逃してきたことが多い
ようである。このブラックのレリーフはピカソのレリーフと比べると全く違った形式で制作されている。ピカソのレリー
フは浅浮き彫りのような、壁の平面に反して構成されているが、しかしブラックのレリーフはアトリエの壁の直前のコ−
ナスペースに集中し、構成されている。彼はそのコーナーという点においてはタトリンより先手をうっていたといえる。
ブラックの初期の彫刻はピカソの「ギター」のようにーピカソの「静物」
(1914年)のように様々な物質を使ったその
ようなコラージュではなくーメディウムは統一されていたclxvi。壁の隅のコーナーに三角の平らな台が設けられ、その上下
に新聞紙などによる酒の瓶や立体が組み合わされている。
ブラックは写真にあるカードボードのコンストラクションを保存してはいなかった。ブラックの「コーナーレリーフ」
ではタトリンの「コーナーレリーフ」clxviifig.80のように、ブラックのレリーフは二つの壁の間にある。ピカソのコンスト
ラクションは順応した背景が残っていて、壁はレリーフのレイヤーの面が浮き出ているのを背景にして、他のものを引き
立たせる働きをしているclxviii。その意味では古典的な意味でのレリーフに留まっているのかもしれない。ブラックは自分の
コンストラクションの可能性を追求しようとはしなかった。そしてブラックは自分の paper sculpture にはー絵を助けて
くれるものを除いてはーほとんど関心を示さなかった。この「コーナーレリーフ」は三次元への試みというほどではなく、
彼のパピエ・コレにおいて三次元化の可能な要素を取り出して構成したものであるclxix。この写真の中のコンストラクショ
ンはピカソのオブジェよりももっとペイントされていて、そこには1912年にピカソが「ギター」でグレボ族の仮面に
おいて得た、記号言語という総合的キュビスムの形式は使っていなかった。ブラックはコーナーレリーフという新しい方
法を用いたものの、その立体作品には素材の統一されており、またそれはパピエ・コレの3次元版的なものであって、ピ
カソのコンストラクションようには発展することはなかった。しかしブラックが絵画にこだわっていたからこそ、キュビ
スム時代に様々な新しい展開が現れるのであって、3次元の分野での探究はピカソにまかせておけばよいのである。
32
第7章、結
ピカソは絵画においても彫刻においても形態発見の芸術家であった。ピカソは形態家であるがゆえに、自然に彫刻に移行
していくことができたのである。
「ギター」はキュビスム、グレボ族の仮面、ブラックの狭間で誕生した。分析的キュビスムの新たな発展を示す、技法
的、様式的改革はおそらく最もブラックの作品によって跡をたどることができる。分析的キュビスムの時代から画家同志
の綿密な共同作業がすでにはじまっており、個人による発見も、互いに教えあったり、刺激しあっていた。分析的キュビ
スムの時期までは、
、ピカソの芸術は大方ブラックと同じ方向を目指していた。しかしピカソは、ブラックが発見した新し
い画法(文字、フォ・ボワ、砂、paper sculpture、パピエ・コレ)の可能性に興奮して、極端な結論に達した。ピカソは
分析的キュビスムの頃から、ヴォリュームを平面に転換させたいと思っていた。その結果、ヴォリュームは平面を構成す
ることによって生まれてきていた。
「ギター」は、絵画で平坦で実体のない形態になってしまった図像に、平面を使って、
現実の事物のような触知できるような性質を与えた。その新しい方法は paper sculpture とパピエ・コレによって、ブラ
ックが先行していた。方法は一緒であっても、二人の彫刻やパピエ・コレは全く違う性質をもったものであった。ピカソ
はさらにグレボ族の仮面から影響を受け、
「ギター」に見られる形は、描写対象を記述したものというよりも、それを表わ
す記号になった。ボワが立証した記号学的な解釈によって、
「ギター」の存在が本物のギターと混同される危険もなくなっ
た。ひとつのオブジェとなった。また「物体」を単独で彫刻のモチーフにしたという点でも革新的であった。ピカソは分
析的キュビスムの手法から発展して、対象に対する変化する視点と様々な外観は、対象を記号的に、概念的に捉えること
で自由になった。この大きな発想の転換はブラックとは異なるパピエ・コレとコンストラクションを生んだ。ピカソのパ
ピエ・コレにおける2次元性へ構造の転換は、
「ギター」における3次元から平面性、2次元性への還元だと思われている
が、パピエ・コレにはそれ以上の発展をピカソにもたらした。パピエ・コレにおいて抽象的で、非現実的なフォルムは、
彼の抽象的配列、あるいは互いに関連のある示唆的な構成によって、再現としての役割を担うようになった。分析的キュ
ビスムでは形態的、空間的複合から物体が再び引き出されたが、ここに至って、その過程が単純で大胆になり、直接的に
読み取れるようになった。またコンストラクションでは混成物体の強さと、プリミティヴの彫刻のもつような造形的な力
強さを生んだ。その物体の形態、塊あるいは空虚さといった概念的なものまで表現するために自由な方法で制作された。
このようにピカソが自由に物体を構成したからといって、キュビスムを一種の抽象絵画と混同させてはならない。目に見
える現実、再現し得る現実の背後にある不動の絶対的な現実を再現することが、抽象絵画の最終的な目標であるとするな
らば、身の周りの日常的な現実にあくまでとどまり続けたキュビスムはむしろ究極の写実主義と呼ばれるべきでなのであ
るclxx。ピカソは転換を行なっているのであり、絶対的な意味での抽象ではないclxxi。
ピカソは概念と量塊の転換を、同時に「ギター」によって克服した。
「ギター」の制作された1912年は、様々な影響
を吸収し続け、常にスタイルを変え続けたピカソの生涯の中でも最も集約されていた時期だったように思える。また「ギ
33
ター」の周辺における様々な影響、ブラックの存在は、剽窃の画家ピカソにとってより重要であったが、
「ギター」にはピ
カソの芸術に対する絶対的な信頼が感じられた。その飽くなき追求の精神は、西洋美術への反発やライバルとの競争だけ
でもたらさせるものではない。そこにはピカソらしい(ブラックには感じられない)ギター=女性という構図もまた読み
取れた。このことはピカソの芸術を人間らしい、感情豊かなものに見せてくれた。
i
神吉敬三他 『ピカソ全集3 キュビスム』 講談社 1982年 p123
ii
エドワード・F・フライ 八重樫春樹訳 『キュビスム』 美術出版社 1973年
iii
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, London,1994 p189
iv
D.H.Kahnweiler,” Pablo Picasso’s Audacious Guitar” New York Times, March 21,1971 section D, p21
v
“Picasso himself has recently confirmed that his first construction preceded “by many month s” the Still Life with Chair Caning”
Johnson Ronald William ,The Early Sculpture of Picasso 1901-1914,Garland,New York,1975 p116
vi
William Rubin, "picasso and Braque: Pioneering Cubism" The Museum of Modern Art, New York,1989
vii
William Rubin , picasso IN THE COLLEECTION OF THE MUSEUM OF MODERN ART, P74
viii
1912年の夏の終りに、ピカソは10月の「ギター」に先行してコンストラクションの図案やドローイングを制作している。またより
重要な証言がフライから出てきた、ピカソの「ヴァイオリンと楽譜」
(1912年秋)に貼付けられているカードボードは「ギター」と同じ
カードボードが使われていることが判明したのである。これによりコラージュよりも先行して「ギター」が制作されていたと勘違いされて
きた年代の誤りが判明したのである。Rubin, " picasso and Braque " p31
ix
Rubin,"picasso and Braque" p31—32
x
Werner Spies, PICASSO THE SCULPTUR, The Centre Pompidou,Paris,2000
xi
フランソワーズ・ジロー、カールトン・レイク 瀬木慎一訳『ピカソとの生活』新潮社 1965 p226
xii
ウイリアム・ルービン 吉田憲司訳 『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』淡交社 p335
34
xiii
前掲書p335
xiv
前掲書p335
xv
藤原えみり訳 ハーバード・リード『近代彫刻史』 言叢社1995年 p46
xvi
ルービン 『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 p243
xvii
ルービン 『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 p242
xviii
前掲書p246
xix
瀬木慎一『ピカソ20世紀美術の象徴』 読売新聞社 1973年 xx
ルービン『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 xxi
中原佑介『ピカソ全集8 彫刻』講談社 1982年 p107
xxii
リード『近代彫刻史』p46
xxiii
千足伸行訳 D・H・カーンワイラー『キュビスムへの道』 鹿島出版社 1970年
xxiv
ルービン 『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 p339
xxv
D・H・カーンワイラー 『キュビスムへの道』
xxvi
ルービン『20世紀美術におけるプリミティヴィズム p253
—4
xxvii
A・マルロー『黒曜石の頭ーピカソ・仮面・変貌ー』みすず書房 1990
xxviii
ルービン『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』p254、335
xxix
前掲書 p336
xxx
前掲書 p335
xxxi
前掲書 p254
xxxii
前掲書 p259
xxxiii
前掲書 p259—60
xxxiv
Lucy Lippard Heroic Years From Humble Treasures: Notes On African And Modern Art Art Changing:Essays In Art Criticism
New York 1971 P38 /P337
xxxv
ルービン『20世紀美術におけるプリミティヴィズム p265
xxxvi
前掲書』 p267
xxxvii
前掲書 p282
xxxviii
ローランド・ペンローズ 高階秀爾、八重樫春樹訳 『ピカソその生涯と作品』 新潮社 1992年 p173
xxxix
Adam Gopnik , “High and Low: Caricature, Primitivism , and the Cubist Portrait” Art Journal43 1983 winter p371-76
xl
ルービン『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 p285
xli
前掲書 p285
xlii
前掲書 p305
xliii
前掲書p305
xliv
前掲書p307
xlv
前掲書 p242
xlvi
ガートルド・スタイン 本間満男、金関寿夫訳 『ピカソその他』 書籍山田 1984年 p53
xlvii
フライ 『キュビスム』 p49
xlviii
ルービン 『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 p307
xlix
前掲書 p340
l
前掲書 p309
li
リード『近代彫刻史』 p57
lii
中原佑介他 『ピカソ全集8 彫刻』 p109
liii
飯田義国 『ピカソ』 岩波書店 1983年
liv
リード『近代彫刻史』 p86
lv
前掲書 p86
lvi
ルービン 『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 p311
lvii
「美術手帖」 美術出版社 p72
lviii
フィリップ・クーパー 中村隆夫訳 『キュビスム』 西村書店 1999年 p48
lix
ファブル『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p199
lx
ローランド・ペンローズ 『ピカソその生涯と作品』p179
lxi
ファブル『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p190
35
lxii
前掲書 p199
lxiii
フライ 『キュビスム』 p35
lxiv
セルジュ・フォー・シュロー 佐和瑛子訳 『ブラック』 美術出版社 1990年 p15
lxv
前掲書 p15
lxvi
本江邦夫『世界美術大全集28 キュビスムと抽象絵画』p81
lxvii
フィリップ・クーパー『キュビスム』 p14
lxviii
前掲書 p14
lxix
本江邦夫『世界美術大全集28 キュビスムと抽象絵画』p363
lxix
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917 p190
lxx
神吉敬三他 『ピカソ全集3 キュビスム』 p108
lxxi
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p36
lxxii
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p36
lxxiii
エドワード・F・フライ 『キュビスム』 p41
lxxiv
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p271
lxxv
中原佑介他 『ピカソ全集8 彫刻』 p111
lxxvi
『世界美術大全集28 キュビスムと抽象絵画』p16
lxxvii
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p271
lxxviii
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p271
lxxix
William Rubin , Picasso and Braque :A Symposium The Museum of Modern Art, New York,1992 p175
lxxx
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p272
lxxxi
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, p189
lxxxii
セルジュ・フォー・シュロー 『ブラック』 p19
lxxxiii
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, p190
lxxxiv
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p57
lxxxv
中原佑介他 『ピカソ全集8 彫刻』 p111
lxxxvi
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, p189
lxxxvii
神吉敬三他 『ピカソ全集3 キュビスム』 講談社 1982年 p110
lxxxviii
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p258
lxxxix
ファブル『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p130
xc
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p266
xci
ルービン 『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 p340
xcii
前掲書 p307
xciii
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p269
xciv
Andre Salmon ,Paris-Jounal,11.January,1912
xcv
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery,190—191
xcvi
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery190—191
xcvii
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism"1989 p40
xcviii
xcix
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" 1989 p40
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" 1989 p40
c
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, p189
ci
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p30
cii
ciii
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p30
かつての文献は間違ってこの仮面を「ウォベ族」のものであるとしていた。Fig.5 の仮面は1912年8月にマルセイユで部族美術を買い
あさった時に購入されたものである。Fig.4 の仮面は明らかにそれより早く手に入れられている。
「ギター」に関してはfig.5 の仮面はそれほ
ど重要な役目を担っていなかった。しかし二つの仮面の本質的特徴は同じであるし、ピカソはそのような仮面の特質よりは、そのコンセプト
を扱っていたのであるから、
「ギター」を議論する目的においては両者をひとつとみなしてよいだろう。
(ウイリアム・ルービン 吉田憲司訳
『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』淡交社 1995年 p77)
36
civ
cv
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, p190
カーンワイラーはグレボ族の仮面がピカソに真のキュビスムを発見させたのだと主張してやまなかった。逆に彼はピカソの「アヴィニヨ
ンの娘たち」におけるアフリカ美術の影響をほとんど問題にしていない。
cvi
イブ・アラン・ボワ 林道郎、田中正之訳 『美術史を読む モデルとしての絵画』 「美術手帖」 1996年5月 p166
cvii
ウイリアム・ルービン 『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 p19
cviii
cix
cx
Yve-Alain-Bois Picasso and Braque :A Symposium,1992
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, p190
Yve-Alain-Bois Picasso and Braque :A Symposium p172
cxi
イブ・アラン・ボワ 林道郎、田中正之訳 『美術史を読む モデルとしての絵画』 「美術手帖」 1996年5月 p165
cxii
Yve-Alain-Bois Picasso and Braque :A Symposium p173
cxiii
ウイリアム・ルービン『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 p19
cxiv
前掲書 p19
cxv
Kahnweiler, ”Negro Art and Cubism, ”Horizon, London, 18, no108,1948,p418/ウイリアム・ルービン 吉田憲司訳 『20世紀美
術におけるプリミティヴィズム』淡交社 1995年 p19
cxvi
イブ・アラン・ボワ 林道郎、田中正之訳 『美術史を読む モデルとしての絵画』 「美術手帖」 1996年5月 p166
cxvii
前掲書 p166
cxviii
前掲書 p165
cxix
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p240
cxx
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p241
cxxi
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p58
cxxii
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, p190
cxxiii
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, p190
cxxiv
Yve-Alain-Bois Picasso and Braque :A Symposium p173
cxxv
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p58
cxxvi
ウイリアム・ルービン 『20世紀美術におけるプリミティヴィズム』 p20
cxxvii
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p57
cxxviii
中原佑介他 『ピカソ全集8 彫刻』p112
cxxix
本江邦夫『世界美術大全集28 キュビスムと抽象絵画』p
cxxx
『世界美術大全集28 キュビスムと抽象絵画』 P17
cxxxi
フライ 八重樫春樹訳 『キュビスム』 p41
cxxxii
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p271
cxxxiii
フィリップ・クーパー 『キュビスム』 p74
cxxxiv
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism"p57
cxxxv
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p57
cxxxvi
William Rubin , Picasso and Braque :A Symposium p188
cxxxvii
『近代彫刻と現代彫刻』 p52 (ローランド・ペンローズによる)
cxxxviii
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p40
cxxxix
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p294
cxl
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p305
cxli
中原佑介他 『ピカソ全集8 彫刻』 p112
cxlii
『世界美術大全集28 キュビスムと抽象絵画』 P26
cxliii
ニコス・スタンゴス 宝木範義訳 『20世紀美術フォービスムからコンセプチュアルアートまで』 PARCO出版社 1986年 p6
3
cxliv
フライ 『キュビスム』 p43
cxlv
前掲書p72
cxlvi
前掲書p72
cxlvii
ニコス・スタンゴス 宝木範義訳 『20世紀美術フォービスムからコンセプチュアルアートまで』 PARCO出版社 1986年p6
7
cxlviii
ニコス・スタンゴス 宝木範義訳 『20世紀美術フォービスムからコンセプチュアルアートまで』 PARCO出版社 1986年p6
37
7
cxlix
前掲書 p14
cl
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p280
cli
前掲書 p271
clii
前掲書 p293
cliii
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, p191
cliv
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』p345
clv
このコンストラクションは長年ピカソのもとにおかれていて、現存しておらず、今は写真でしかみることはできない。
clvi
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p350
clvii
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism"p40
clviii
PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, p190
clix
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p380
clx
中原佑介他 『ピカソ全集8 彫刻』p125
clxi
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917』 p386
clxii
中原佑介他 『ピカソ全集8 彫刻』 p125
clxiii
ローランド・ペンローズ 『ピカソその生涯と作品』 p202
clxiv
坂崎乙郎 「ピカソを考える」
clxv
ローランド・ペンローズ 『ピカソその生涯と作品』 p202
clxvi
William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" p30—41
clxvii
タトリンは1914年のパリ滞在中にピカソを訪ねたことがきっかけとなって、サイトスペーシフィックな「コーナーレリーフ」を制
作した。タトリンがブラックのコーナーレリーフをみたかはわからない
clxviii
Werner Spies, PICASSO THE SCULPTUR, The Centre Pompidou,Paris,2000 p68
clxix
藤枝晃雄『ジョルジュ・ブラック(ル・クーリエ紙)
』 「美術手帖」1988年2月 p97
clxx
『世界美術大全集28 キュビスムと抽象絵画』 p77
clxxi
ファブル 『ピカソキュビスム 1907
—1917 p190
38
第1章
1. 「ギター」
1912年10月
2. 「籐編み椅子のある静物」
1912年5月
3. 金属製の「ギター」
1912—13年冬
第2章
4. 「アヴィニヨンの娘たち」
1907
5. ポール・ゴーギャン「Pater Paillarad」
1901—02年木彫
6. イベリア彫刻「ライオンに襲われる男(部分)」
古代イベリア、オスナ、紀元前6世紀末
—3世紀
7. 「ガートルート・スタインの肖像」
1905—06年
8. 「髪を梳く女」
1906年
9. ポール・ゴーガン「愛せよ、さらば幸いならん」
1889年、彫って磨いたシナノキに彩色
10.
アングル「トルコ風呂」
1862年
11.
アフリカ美術の仮面、
ダン族、コートジボアールもしくはリベリア共和国
12.
アフリカ美術の仮面、
エトゥンビ地方
13.
アフリカ美術の仮面、
ペンデ族、ザイール共和国
14.
「ニグロの踊子」
1907年
15.
「船首像」
1907年、黄楊材、鉛筆、絵具
16.
「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」
1910年
17.
「アンドレ・サルモンの肖像」
1907年
18.
「アンドレ・サルモンの肖像」のための習作
1907年
19.
「アンドレ・サルモンの肖像」
1907—08年
20.
ブラックのアトリエ
1911年
第3章
21.
「丘の上の家々、オルダ・デ・エブロ」
1909年夏
22.
「女の顔(フェルナンド・オリヴィエ)
」
1909年秋
23.
「後ろに静物がある女の胸像」
1909年夏
24.
「D・H・カーンワイラーの肖像」
1910年秋
25.
「クラリネットのある静物」
1911年夏
26.
ジョルジュ・ブラック「ポルトガル人」
1911年
27.
ジョルジュ・ブラック「小円卓」
1912年初
第4章—(1)
28.
ピカソのアトリエ写真、
二枚ピカソが写っている1908年、コレクション1974年
第4章—(2)
29.
ジョルジュ・ブラック「ヴァイオリンとクラリネット」
1912年春、
30.
「ヴァイオリン“ジョリ・エヴァ”
」
1912年5月−6月
31.
「ギターを持つ女」
1912年春
32.
「女—ギター」
1912年春
33.
「マンドリンを弾く女」
1909年春
34.
「ギター“ジェーム・エヴァ”
」
1912年夏
35.
アフリカの楽器、マングベトゥ族、ザイール共和国
36.
「男の顔」
1912年夏
37.
「頭」
1912年夏
—秋
38.
「頭」
1912年夏
—秋
39.
「ギターを持って座る女」
1912年夏
—秋
40.
「
(緑とバラ色の)ギター」
1912年夏
—秋
41.
「ギター」
1912年8月下旬
—9月
42.
「アコーディオンプレイヤー」
1912年4月
—5月
43.
「ギタリスト」
1912年春
44.
「ヴァイオリン、ワイングラス、パイプ、いかり」
1912年5月
45.
「ギター弾く女(彫刻のための構想)
」
1912年夏
46.
「二人のギター演奏者とギター」
1912年夏、
47.
「ギターを持つ男(彫刻のための構想)
」
1912年夏
48.
「ギタリスト」
1912年夏
49.
ジョルジュ・ブラック「果物皿とグラス」
1912年9月初
50.
「小さなヴァイオリン」
1912年秋
第4章—(3)
51.
グレボ族(コートジボワール共和国またはリベリア共和国)の仮面、
木に彩色・繊維
52.
グレボ族(コートジボワール共和国またはリベリア共和国)の仮面、
木に彩色・繊維
第5章
53.
「果物皿“Quotidien du Midi”
」
1912年8月
—9月
54.
「果物皿とクラブのエース」
1913年初
55.
「ギターと楽譜」
1912年10月
—11月
56.
パピエコレのあるアトリエの写真
1912年11月
—12月
57.
「ギター」
1912年秋
58.
「楽譜とギター」
1912年秋
59.
「ギター、楽譜、グラス」
1912年11月
60.
「ヴァイオリン」
1912年秋
61.
「果物鉢、果物、ヴァイオリンとワイングラス」
1912年—1913年
第6章
62.
「
(四面の)ギター」
1912年12月、布、紐、ダンボール紙、
63.
「
(尖った)ヴァイオリン」
1913年、ひも、着彩されたガードボード、鉛筆、
64.
「ヴァイオリン(のあるコンストラクション)
」
1913年、ひも、着彩されたガードボード、壁紙、鉛筆、
65.
「楽譜を持つギタリスト」
1913年初期、紙
66.
「マンドリンとクラリネット」
1913年秋、松材、着彩、
67.
「ギターと“バス”の瓶」
1913年秋、松材による構成、木炭、絵具、パピエ・コレ、釘、木製ボード
68.
「平面彫刻のための構想」
1913年秋
69.
「ギターと瓶」
1913—14年木、工作用粘土、紙、コラージュ
70.
「テーブルの上のギター、瓶、グラス」
1913—14年
71.
「ギターとアルマニャックの瓶」
1913年—14年
72.
「テーブルの上のギターと瓶」
1913年—1914年
73.
「テーブルの上のギターと瓶」
1913年—1914年
74.
「静物」
1914年初 着彩された木に室内用縁飾り
75.
「アヴサントグラス」
1914年、ブロンズ、着彩、銀製のアブサントスプーン
76.
「アヴサントグラス」
1914年、ブロンズ、着彩、砂、銀製のアブサントスプーン
77.
「アヴサントグラス」
4つ、1914年、ブロンズ、着彩、銀製のアブサントスプーン
78.
ウンベルト・ボッチョーニ「空間における瓶の展開」
1912年、ブロンズ
79.
ブラックの「コーナーレリーフ」があるアトリエ、
1914年2月
80.
ウラジミール・タトリン「コーナーレリーフ」
1915年
参考文献
・Werner Spies, Picasso sculpture Thames & Hudson, London,1972
・PICASSO SCULPTUR / PAINTER Tate Gallery, London,1994
・ William Rubin,"picasso and Braque Pioneering Cubism" The Museum of Modern Art, New York,1989
・Pierre Daix, PICASSO THE CUBISUT YEARS 1907-1916 Thames & Hudson,
・William Rubin , Picasso and Braque :A Symposium The Museum of Modern Art, New York,1992
・Werner Spies, PICASSO THE SCULPTUR, The Centre Pompidou,Paris,2000
・John Golding ,Cubism A History and an Analysis 1907-1914 ,Harper & Row, New York, 1968
・Daniel-Henry Kahnweiler,PICASSO 1888/1973,Paul Elek Ltd,London,1973
・Johnson Ronald William ,The Early Sculpture of Picasso 1901-1914,Garland,New York,1975
・William Rubin , picasso IN THE COLLEECTION OFTHE MUSEUM OF MODERN ART,
・ART HISTORY Journal of the Association Art Historians Volume 8 Number 1 March,1985
・ART HISTORY Journal of the Association Art Historians December,1985
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・中原佑介 『現代彫刻』 美術出版社 1982年
・中原佑介他 『ピカソ全集8 彫刻』 講談社 1982年
・飯田義国 『ピカソ』 岩波書店 1983年
・瀬木慎一『ピカソ=20世紀美術の象徴』 読売新聞社 1973年
・土方定一著作集12『近代彫刻と現代彫刻』 平凡社 1977年
・今泉篤男著作集5『彫刻論』 株式会社求龍堂 1979年
・
『コレクション滝口修造12』みすず書房 1993年
・
『世界美術大全集28 キュビスムと抽象絵画』 小学館 1998年
・
『世界美術大全集27ダダとシュールレアリスム』 小学館 1997年
・滝口修造 『近代芸術』 美術出版社 1967年
・篠田達美 建畠哲『騒々しい静物たち』 新潮社1993年
・
『ピカソ:愛と苦悩―「ゲルニカ」への道』 東武美術館 1995年
・
『ピカソ展』 東京国立近代美術館 読売新聞社 1983年
・
『ジョルジュ・ブラック回顧展 』 Bunkamuraザ・ミュージアム 東京新聞, 共同
通信社編集1998年
・エドワード・フライ 岩原明子訳『ピカソ自身のピカソ』 「美術手帖」1980年12年
・末永照和、島田紀夫『視覚から触覚の移行』 「美術手帖」1980年12月
・藤枝晃雄『パブロ・ピカソ キュビスムをめぐって』 「美術手帖」1998年1月
・藤枝晃雄『パブロ・ピカソ(マ・ジョリ)
』 「美術手帖」1998年3月
・藤枝晃雄『ジョルジュ・ブラック(ル・クーリエ紙)
』 「美術手帖」1988年2月
・レオ・スタインバーグ 岩原明子訳『ピカソのキュビスム1 セザンヌの抵抗1』 「美術手帖」 1979年10月
—1980年1月
・レオ・スタインバーグ 岩原明子訳『ピカソのキュビスム1 セザンヌの抵抗2』 「美術手帖」 1980年2月
—3月
・ウィリアム・ルービン 岩原明子訳『ピカソのキュビスム1 パブロとジョルジュとレオとルビ』 「美術手帖」 1980年4月
—7月
・イブ・アラン・ボワ 林道郎、田中正之訳 『美術史を読む モデルとしての絵画』 「美術手帖」1996年5月
・中村隆夫『ピカソ、キュビスムの形而上学』 「美術手帖」2000年2月