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カントに於ける理性と理性批判
高山, 伊弘
1953-03-31T00:00:00Z
http://hdl.handle.net/10228/3258
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Kyushu Institute of Technology Academic Repository
カントに於ける理性己理性批剣
高 山 伊 弘
もヘーゲル哲学はいうまでもなく理性の必然性に媒介されて、カントの先
一 験義の繁徹纏於いて成立するものであるから・→ゲルよりカント
批判の事業が形而上学にとつて積極的な意義を持つとの解釈は今日既に へ還る途が充実した積極性を持つためには、却つてヵントよりへーゲルへ
耳新しいものではない。嘗て新ヵント派と呼ばれた一群の人達はカント哲 至る発展の積極的な理解に媒介されることを必要とするのである。このよ
学の意義を科学的認識の批判のうちに求めたのであるが、これはヘーゲル うに考えるならば、認識論的科学批判を以てカント哲学の眞を尽くすもの
に於ける強引な現実の思弁的構成の後をうけ、十九世紀に於ける実証諸科 とは考えることが出来ぬ。+﹂の観点からすれば、むしろカントは新カント、 一
学のめざましい発展に裏付けられた沿々たる実証主義的風潮によつて思弁 派に﹁遙かに先んじて歩んでいる﹂とも評し得るであろう。 27
んとしてなされた試みであろうが、叉たしかにカント哲学の貴重なる一面 き、形而上学的認識に関わるものであることはカント自身の語るところで
哲学に対して向けられた不信の念に対し、飽くまでも哲学の立場を擁護せ 実際、ヵント哲学が単なる認識批判には尽きず、形而上学的動機に基 一
を閨明せるものとして、その意義は固より大である。しかしながら哲学は あろう。勿論、直接に何等かの形而上学の体系を意図したのではないこと
単に認識批判、科学の基礎づけに止まることの出来るものでないことは新 いうまでもない。しかし、メンデルスゾーンの評した如き三切を破砕す
カント派以後の哲学そのものの歩みに徴しても明白であるといわなければ るカントLは眞のカントではあり得ぬ。却つて形而上学をば一箇の学の確
ならぬ。それ故、カント哲学を認識論的に解釈し、認識批判を科学に非ざ 実なる進路に持ち来さんとするのがヵントの念願するところであつたであ
ユ る哲学固有の職能となし、これを以て哲学を擁護し得たとなすことは許さ ろう。それの謂わば準備をなすものが純粋理性批判なのであつて、純粋理
の再興を計るのに、単純に﹁ヵントに還る﹂ことを以てしても問題は依然 のである。カントにとつては形而上学は決して絶滅さるべきものではなか
れないのである。まして、へーゲル哲学そのものがカント哲学の深化完成 性批判は単に認識批判を目指すものではない。それは形而上学の可能を計
ヨ とも考えられるものであつてみれば、 ヘーゲル哲学崩壊の後をうけて哲学 るために﹁形而上学のこれまでの方法を転回せんとする試図しに成立つも
蟹されないのである。然もそのカン壱学を認識批判に限定して問題の つた。蟻は恐らく、﹁他の凡ての蕎が絶滅される場△.が起るとしても
解決を計るという仕方は到底満足出来るものではない。かくてはヵントよ 残留する﹂ものである。何故誌らば、形而上学とは﹁人闇性にとつて無関
りヘーゲルへのドイッ観念論の発展の必然性は理解すべくもない。けれど 心であり得ぬ対象を研究する﹂学であつて、從つて﹁人間の理性は決して
んとしたのであるといわれる。けれどもこれによつては、未だこのため純
迄の方法とは珪く反対の仕方で培養し、終にはいつか繁茂せる豊饒な発達 は充分に明瞭ではない。純粋数学と純粋自然科学、特に後者と形而上学と
形而上学を欠くわけにゆかぬU︶からである・かくの如き形而上学を﹁これ警警及び魏自然科学が批判の対象とせられねばならなかつた必然性
のであつた。それは決し量に覆的な璽ではない。﹁内部的の困難と 判全体に対して持っ意義を明かにするためにはこの点が明かにされなけれ
に至らしめる﹂ために予め要求せられるものが﹁荊棘多き批判の小径しな の間の内面的関係が明かではない。しかしながら、認識批判の純粋理性批
外部的の反対とによつて挫折せしめられぬ﹂ためには内に自主的にして強 ばならぬ。然らざれば純粋理性批判の問題が本来形而上学にあるというこ
靱な意志三貫性が要求せられるであろう。恐らく、、、﹂に批判の見逃し得 とが充実した意義を持つことは出来ぬこととならざるを得ない・這仰に
ない性格が存するのである。 場所を与えるために知識を止揚せねばならなかつたLということも積極的
な意味を失わねばならぬ。この両者の間に何等か内面的に必然的な緊密な
一一 関係がなければ、所謂認識批判は形而上学的意図に対して結局軍に一の便
宜的手段たるに過ぎないこととなろう。かくては批判全体の意義は失われ
理性批判は自然科学的認識の批判を動機としそれに終るものではない。力 判﹂に対して持っ関係は軍なる便宜的手段、外的な関係たるに過ぎぬもの 28
カントのそもそもの意図が形而上学的動機に促され、形而上学の新生を て了わざるを得ぬこととなりはしないか。しかし勿論﹁批判﹂全体の意図
企図したものであつたことは以上の事から一応了解出来るであろう。純粋 が認識批判に尽きるものでないことと対応して、認識批判もそれが﹁批 一
ントが十年の苦圃から脆して純粋理性批判を出版した年、 マルクス・ヘル ではない。純粋理性批判の本来の問題が形而上学の間題にあつたとするこ 一
ッ宛の書簡に於いて、純粋理性の二律背反なる題下に叙述したところから とが認識批判の批判全体に対して持っ意義を積極的なものとするのであ
論遠を始めても差支えなかつた旨を報じ、その場合には華々しき論述と、 る。この点にこそカントの﹁批判﹂の特異性が存するものと思われる。從
うと語つていることは周知の通りである。これは純粋理性批判が所謂理性 企てるLというとき、この﹁模範とする﹂ということの意味は問題的とい
読者をしてこ⊇字いの源に立入つて探求せしめることを可能にしたであろ つてカン→がコ幾何学者と自然科学者とを模範として形而上学の全革命を
の二律背反を機縁とし、これの解決を企図したものであつたことを物語る わなけれ時ならぬ。
ものであろう。それにも拘らず、ここに既に示唆されている如く、純梓理 周知の如く、ヵントは学的認識に対して、所謂事実問題と権利問題とを
性批判が理性の弁証性を止揚せんとするに当つて何故に所謂認識の批判を 区別した。而して所謂批判とは、事実に向けられるものではなく、却つて
先行せしめたのであるか。 それが客観的たることを承認して、た父如何なる根拠の上にその客観性が
カントの語ると.、うによれば、蓮壇者と自然科学者とを模範として 基くものであるかを欝するものであるといわれる。勿論、・﹂の事はそれ
形而上学の全革命を企てることによつてL形而上学の再生を企図したので 自体としては誤りではない。ヵントは彼の眼前に提示されてあつた数学
あつた。即ち、これによつて学的認識一般の構造を明かにし、以て学的認 的認識、自然科学的認識が客観的妥当性を持つているという事実に疑いを
識一般の充たすべき条件を求め、形而上学が可能なりや否やの除味に資せ 懐いては居らぬ。﹁これ等の学問は実際に与えられているのであるから、
それは如何にして可能的であるかーとこれ等の学問について間うのは元 あろう。カントは之と異なり、か瓦る歌態をもつとも恐れたというべきで
来全く蕩なことである。何となればそれが可能的で趨ねばならぬ事ある。.﹂の場合のカントの震は恐らくZフンがデカルトに関して語羨
は・それの現実性によつて証明せられるところであるからL。さればカン の一句の中に等しく見出されるであろう。 ﹁直線に関するわれわれの正し
トがかxる学の事実が可能的であることには疑いを懐かず、これを前提し い思想は、現実に引かれた線がわれわれに語ろうとすること、われわれに
㌶罐竃鷲誘甦︰馴鯵せ鳥賢警霞璽ゲ蕪唖詰竃曇、㍉.、残ド鞠鞍
大道を着実に歩んで豊饒なる学の体系となつたことをヵントは否定しな 事情より身を引いて、これを理性に於いて問題化し、理性そのものの問題
い・しかも何故にこれ等の学が批判されねばならなかつたか。即ちその可 として.﹂れを理性の根源に遡つて解決せんとしたのであつた。形而上学の
得たのであるか。これは即ち批判そのものの本質構造に関する問題である を下すことは出来ぬ。却つてこれの審判の場所は純粋理性そのものでなけ
能根拠が問われねばならなかつたか。叉如何にしてかくの如き問いを問い 不生産も新科学の豊饒も、外的に我に迫る間は、これに対して最後的な決定
とバ竪爲誘賢ントがその下に育くま㌔︶彼が独断的哲学曇憲竃ぽ霞誕簿躍霞竃議㌦晶
者中の橿大なる哲遵となし、徹底性の震・ひ声ω三。.。.穗ロ法。穿㊥詳判Lの本質からいうならば、ヵントがA。理論的形而上学と経讐基盤とす一
の創始者とし嘉揚す㌍オルフの合理論は“経験と警を轟とする新暗然科学との対立、しかも認識の世界に於ける薯のデスポ・アィスム四
興自然科学器にその震を動揺芒められ“︶人‡形而上竃去つて新へを打破する後者の前者に対する轟的覆を器にして、毘ぞる外一
科学へ赴かんとする霧にあつ㌔カントが魏理性批判序文に叙述せる的な事竺勿論、婁る外的藩ではないけれども、.、れを内的に璽そ
如く・形而上学の霧は否定すべくもなかつたであろう。しかし、かくの のものに於いて問題化し、把握しなければ、かくの如くいわざるを得ぬ、﹂
は事態の眞は見えなかつたとも℃得る。かくの如き儂の動きはむしろ 判の本質を逸するものといわなければならぬのではないか。いうまでも
如き事態を前にして形而上学を捨て新科学に走らんとした人乏は恐らく ととなろう︶に促されて、﹁批判﹂の瞼路に踏み入つたと解する.、とは批
外的に迫つた対立を前にして、これを理性の根源に於いて把握せんとする なく、かくの如き当時の攣界の事情を無頑することは許されぬ。動機はま
であろう。まことに批判は儒弱なる精祠の堪えると、﹂ろではな心詰わね よつては批判的理性の本質を明かにするには不充分であるといわなければ
内的な勇氣を欠いた、外的原因によつて左石せられた動揺とも評せられる さにこの中にあつたことは否定できないとしても、しかした父これのみに
の一片を手に炉辺に坐したかの﹁悟性の王者﹂はかつてブリ膓蛎︶ンドの 性はあるものと考、羨ければならぬ。それは竃妻に從う.、とではな
ばならぬ。治安の確立した卒和が四辺を領している夜と静寂を選んで蜜蝋 ならないのではないか。むしろ、外的事情を拒否するところに批判の可能
舟中にあつては沈着と剛毅の人であつたことを思わなければならぬ。これ く、軍なる事実は理性に於いて問題化せられざるを得ぬこと、否むしろ、
離聾罐鐘馨籠噺爵ぼ蝋鯉、詰羅讃鷲鯛㌶鷲竃。樋竃竃竃錫勝鍛雛“勲
科学に対する態度はかくの如く考えることが出来るのではないかと思う。
、 ︵未完︶
2.民゜△°峠゜<ニロ◆民閣﹃°
註1.民゜△≒°<二匂 d ° 民 × 覇 ゜
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4.民゜臼戸く二炉゜民゜
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9.肉゜エ゜﹃°< ニ ロ ゜ 芸 ﹃
11.丙゜口゜﹃°<二出゜村卑゜
臣.カントはケ⊥三三ルク大学に於いては俊鋭なるヴオルフ学徒たるマルテ 一
イン.クヌツツエンの影響を及けたことは一般に指摘されており、その後五 30
+年代に一日三、所謂独断論的立場皇つていたものと見ることができるで 一
13.民゜鮎゜︹<ニロ゜民菌民く一゜
あろう。
14.勿論ヴオルフ哲学を動揺せしめたものとして、他にクルジウス一派の批難が
あつたであろう。併し、決定的なものは矢張りニユートンの自然哲学であつ
たであろう。
15.天野貞祐著﹁カント純粋理性批判﹂四頁以下参照。
16.桑原、野田両氏訳、アラン﹁デカルト﹂一〇頁、二〇頁参照
17.同上書、二三頁。
18.同上書、二七ー二八頁。
19.宍゜幽゜戸く∨°︾°一×°