「そらあみ」考 山田創平(京都精華大学准教授) 1. 作品とその思想 五十嵐靖晃はなぜ、皆で編んだ漁網を空に向かって立ち上げようと思ったのか。そして また、なぜクスノキの落ち葉を掻いて集め、かつて存在した千年樟を描き出そうと考えた のか。そしてまた、なぜ日本海の海沿いを延々と小舟で移動しようとしたのだろうか。そ こにはおそらく五十嵐の思いがあり、彼はそれを「世界は簡単には変わらない。自らの視 点を変えることで、世界は変わるのである。自分は最近、そのヒントやきっかけが島や海 といった“海からの視座”にあるのではないかと考えている。」iと語る。 しかし、なぜ「海からの視座」なのか。そしてさらに「海からの視座」を、五十嵐はな ぜ「そらあみ」や「くすかき」といった作品や「種は船」による航海によって表現しよう とするのだろうか。彼の作品を最初に知ったとき、私にはその理由が何の矛盾もなくはっ きりと理解できるように感じられた。なぜなら五十嵐の作品が内包する思想が、十数年に わたって私が考えてきた「水の文化」に関する思考と見事に重なったからだ。五十嵐の作 品のメッセージ性や論理性、学術的な根拠、文化的背景、つまり五十嵐の諸作品がこの世 に生まれる必然が私にははっきりと理解できるように感じられた。しかしその事実は同時 に私を混乱させる。なぜなら私と五十嵐は昨年まで一度も会ったことがなかったからだ。 なぜ私は、自分自身のことを理解するように彼の作品が理解できるのか。いや、あるいは 実のところ私は彼の作品を全く理解などしていないのかもしれない。昨年まで会ったこと もなければ、意見を交換したこともないのだから、この「理解」は私の思い込みかもしれ ない。しかし「思い込み」というには無理があるほどに、彼の作品と私の学究は通底して いる。それぞれ異なる専門性をもってして、離れた場所で、それぞれになんとなく似通っ たことを考えてきたのかもしれない。だとすれば、あくまでも「私の理解」ではあれ、こ こでそれを述べることにも何かの意味があるのかもしれないと思う。 私はここ10年あまり日本列島の水の文化について考え、調べ、いろいろなところで発 言してきた。もともとの専門は都市研究で、中でも繁華街、夜の街、都市と「人間の性」 といったことに関心があり、特に都市におけるエイズ予防には自ら NPO の運営にも携わり ながら深く関わってきた。関心の根底には常に「差別」に対する意識があったように思う。 いわゆる「日本社会」を「社会的な排除や差別があまり無い社会」と捉えるか否か、人に よって意見は分かれるかもしれない。しかし私が関わってきた現場では、厳しい差別や社 会的排除によって人命が失われることも少なくなかった。エイズは薬物依存、性的少数者 や女性の人権、社会保障や生活保護といった問題と無関係ではない。エイズは予防の方法 が確立されており、多くの人がその方法を知っている。人々が予防行動をとれれば、本来 この課題は解決できるはずである。しかし現実はそうなっていない。そこには差別や排除、 貧困や格差が大きな影を落としている。端的に言えば「10 年後、20 年後も自分は生きてい る」と思うから、人は健康のための行動がとれるのである。今日生きることに精一杯の人、 差別によって社会の中に居場所が無い人、来年の幸せな自分を想像すらできない人が、20 年後の自分のために健康行動(予防行動)をとることなどできるだろうか。それは無理な 話である。私は私自身の経験から、いわゆる「日本社会」は極めて差別の厳しい社会であ り、「同じになれ」という同調圧力が非常に強く、そこから外れた人々に対して極めて冷淡 な社会であると感じてきた。それは絶望的な感覚である。昨今マスメディアなどで語られ る「家族」や「人々の絆」「コミュニティ」という「幸せのかたち」も、私には同調圧力に しか感じられない。そのとき排除され見えなくなっている人は誰か。そのとき追いやられ ている人は誰か。そろそろ社会は本気でそのことを考えなければいけないのではないか。 これまでとは全く異なった価値観が求められている。想像もつかないような新しい発想に よって、これからの社会に思いを馳せなければならない。私にとってそれは「水辺」や「海」 「海流」といった「水の文化」を考えるということだった。 「家族」「人々の絆」「地域コミュニティ」といった概念は、基本的に近代以前の地縁や 封建制を引き継ぎつつ、近代以降、資本主義や社会的な階級を維持するために編み出され たシステムである。そこでは「女性」の役割と「男性」の役割が明確に定められ、家族を 基本単位として職業や財産、学歴、居住地によってその人が社会のどの層に属するのかが 決定される。そのことが生産を効率化し、資本は蓄積され拡大する。近代を生きる私たち がこの枠組みから逃れることは難しい。私自身がその渦中にいるこの枠組みは、「安定」や 「蓄積」、「継続」を前提とする。それは「陸」のイメージである。そこでは家を持ち、財 産を持ち、人間関係が固定され、領域が区切られ、人々はお互いの領域を侵犯してはなら ず、日々の生活は十年一日のごとく継続されるだろう。一方で「水の文化」は不安定であ り、領域から染み出て流れ、蓄積せず、住む場所も人間関係も流動的で可変的である。そ うれは単にイメージの話ではなく、たとえば家船【えぶね】のように長い系譜を持つ生活 文化のひとつのありようでもあった。平清盛の出生譚【たん】にみるように、中世には流 浪民である白拍子【しらびょうし】は天皇と関係を持ったが、現在の社会では階級は明確 に区切られ、階層を越えて人々が互いに交わることはない。個人と個人の間にも線が引か れ、徹底した領域の固定化が実践されてゆく。領域を侵犯するもの、たとえば最も身近な ところでは体液や汗や涙といった自ら「染み出るもの」「内なる感情」は他者に見せてはい けない禁忌となる。人と人だけでなく、「生と死」や「神と人」といった、かつて渾然とな っていた世界が明確に分離される。それは生きるという感覚そのものの喪失ではないだろ うか。「水の文化」を再び見出さなければならない。水は流動し、定形を取らず、常にその ありようを変えるため、一カ所にとどまり、誰かに所有されることはない。その開かれた ありようは近代社会を根底から見直す重要なイメージだ。そして学問的には、そのような 水のイメージは単なる想像の産物ではなく、日本列島弧の海洋民の文化に、数千年にもわ たって深く根ざしていた事が明らかだ。記紀や豊後国風土記に現れる水辺の人々や「海部」 という呼称は、様々な来歴や系譜を持つ海洋民が、5世紀以降中央政権によって部民(被 支配層)とされたことをあらわしている。日本列島弧の歴史を巨視的に見渡す時、そこに は海洋的な文化から陸的な文化への覇権の変遷が見える。近代の閉塞はその先に現れる。 しかし水の文化は決して死に絶えてはいない。ほとんど顧みられることのない地域の様々 な場所や局面に、その名残をはっきりと見ることができる。私は日本やアジアの様々な水 辺を歩き、そのような文化的な痕跡を見てきた。そして五十嵐の作品に出合った。私の意 見では、現代の優れたアーティストは、それぞれ形こそ異なれ反近代の視点、私が象徴的 に言うところの「水の視点」持っていると思う。その視点の、作品における現れ方は実に 多様である。「私の理解」では、五十嵐の作品にはその視点が非常に直接的に現れており、 彼の作品は、意識的か無意識的かは判然としないが、数千年にわたる日本列島弧の海洋文 化、黒潮がもたらした南洋の海洋文化の系譜を正統に(ダイレクトに)引き継ぐものであ ると感じられる。そのようなアーティストを、私は五十嵐の他には知らない。ここでは、 それがいかに「正統(ダイレクト)」であるかを確認してみたい。 2. 作品と「水の文化」 「そらあみ」の写真をはじめて見たとき、ああこれは隼人【はやと】の色だと思った。 平城宮跡で発見された「隼人の盾」が延喜式の記述をもとに復元されたものを見たことが ある。そこには赤と白と黒で幾何学文様が描かれていた。現在の南九州を拠点としたとさ れる隼人は、海洋民であり『古事記』において海幸彦【うみさちひこ】の子孫とされる。 神話研究者の松本直樹は、海幸彦は山幸彦【やまさちひこ】によって漁撈【】霊能を奪わ れ山幸彦に服従を誓うが、これは「隼人の天皇家への服属由来」iiを現しているとする。海 洋民であった隼人が陸の民である王権に支配される様子を描いたとされる海幸山幸神話は、 「源流をインドネシア方面にもつ失われた釣針型説話」iiiが原型という。 同様に南洋からもたらされた文物として、私が真っ先に思い浮かべるのはクスノキであ る。民俗学者の谷川健一は「クスノキでこしらえた弥生期や古墳期のクリ舟が千葉県など で発掘されている。土佐や紀州のように黒潮の通る南海の国にクスノキが繁茂している。 人びとがそれにつよい関心をもったのはそれが船材に適していたからであろう。」としたう えで、さらに「クスノキ科の植物に共通な強烈な芳香が、八重の潮路のはるか南につなが る民族渡来の原郷をいつまでも思い起こさせたのではないか」とし、クスノキこそが、日 本列島と南洋との深いつながりを象徴するイメージだとするiv。また農学者の佐藤洋一郎は、 クスノキは「標木」であり、海辺のランドマークであり、クスノキをはじめとした巨樹の 分布には「人間の要素が大きく関係している」vとして、大阪府高石市の等乃伎【とのき】 神社縁起をもとに、クスノキの配置と天体の運行とが符合する事例を紹介しているvi。天体 の運行を神聖視する思想も、後述するように海洋民に由来するものだ。五十嵐靖晃が「そ らあみ」以外の作品として「くすかき」viiをやっていると聞いたとき、私はその文化的連続 性に深く納得したものである。 「くすかき」が行われている太宰府天満宮も興味深い。太宰府天満宮は北野天満宮とな らぶ天神信仰の拠点だが、上田正昭は「いわゆる北野天神の祭祀以前に、すでに北野の地 に『天神』を祀る事例のあったことを見逃せない」とし、「『西宮記』巻七裏書には、〈延暦 四年十二月十九日、此日【このひ】左衛門督藤原朝臣【さえもんのじょうふじわらのあそ ん】を使いとして、雷公【らいこう】を北野に祭らしむ〉とあり」としている。つまり延 暦四年(785 年)にはすでに北野に雷公(天神)を祭っていたという指摘であり、それは菅 原道真が薨去【こうきょ】した延喜三年(903 年)のはるか以前であるということである。 つまり天神信仰の起源は菅原道真ではないということである。天神信仰は文字通り、天の 神、天で光る物(月、太陽、星々、雷)に対する信仰であったviii。 天で光る物は、洋上を移動する人々にとって目印であり生命線である。したがって天神 信仰は同時に海洋民の信仰であり、それゆえに大阪天神祭では船渡御【ふなとぎょ】が行 われる。天神信仰はまた同時に牛を神聖視するが、日本書紀皇極帝元年三月に雨乞いのた めに「村々の祝部【ほふりべ】(神職)が教えたとおりに、牛や馬を殺し、それを供えて諸 社の神々に祈ったり」ixと記述されている。雨乞いのための殺牛馬祭祀は全国に見られるが、 雨乞いも天への祈り、天神信仰である。おそらく天満宮の牛は、日本書紀の言う供犠の牛 と無関係ではない。この「天で光る物」による航海術、いわゆる「星の航海術」は世界各 地でみられるし、日本列島にも存在する。人類学者の後藤明は、かつて古墳が航海の目印 であったことをふまえ、古墳の壁画にしばしば星辰図があることから、この星の絵が航海 と関係するのではないかと指摘しているx。 光る物は海の中にもある。たとえばそれは海ほたるやホタルイカのような発光する生き 物であり、海底火山であり、漁火である。島根県隠岐諸島の焼火【たくひ】神社には、海 中から 3 つの光が浮かび上がったとする縁起が伝えられているし、奇祭として知られる大 分県国東市の岩倉社には海から光る物体が打ち上がったとの伝承が伝えられている(境内 縁起)。空にも海にも光る物があり、いわばそれらは一体となって航海者を四方から取り囲 むことになるだろう。後藤明はそれを「海と天を押し分けて進むイメージ」xiとし、『土佐 日記』の「雲もみな波とぞ見ゆる海人【あま】もがな いづれか海と問ひて知るべく(雲と 波の区別がつかない。それを教えてくれる海人がいないものか)」を引きつつ、「海と空が 合一する」としている。海にあるものは空にあり、空にあるものは海にある。 たとえばそれは船である。天鳥船【あまのとりふね】、天磐櫲樟船【あまのいはくすぶね】、 鳥磐櫲樟船【とりのいわくすぶね】は、魂や神霊を乗せて天を翔るクスノキでできた船で ある。神話では天を行く船は鳥に例えられる。谷口雅博は「鳥も船も死者の霊魂を運ぶも のである」とし、また「雷は船に乗って天翔【あまかけ】り降臨する」 としている。その ような空間の逆転は、陸と海の間でも起こる。谷川健一は「海亀や鮫などを自分の先祖と みなす人たちがいた」としている。また常世【とこよ】(海底の死者の世界)は水葬や、地 先【じさき】の島や洞窟への埋葬から生じた思想であると言われるが、そこにおいて死者 の魂は船に乗り、死後の世界へと赴く。死者の世界は天上であり、同時に海底である。そ こに区別はない。その境目には汀【みぎわ】がある。汀を挟んでこの世とあの世が存在し ている。それは常識的な x 軸と y 軸のデカルト平面では理解しがたい空間であり、谷川は 「この世とあの世は全く相似の事象を反映する合わせ鏡である」と語る。そして「そらあ み」は、海の中にある「あみ」が天に翻るという意味で、まさにこの文化的系譜、海洋文 化の空間性を明瞭に示している。海にあるものは空にあり、空にあるものは海にあるのだ。 「そらあみ」はまた汀である。空にいるようで海にいる、海にいるようで空にいる、その 間で揺れるのが「そらあみ」である。そして「そらあみ」はまた「種は船」の網でもある から、「種は船」は洋上を行く船であると同時に天上を行く船でもあるだろう。それは魂を 乗せる船、常世へと向かう船であり、死者と生者の境界が消え、二つの世界が連続する。 先に紹介した海幸山幸神話では、山幸彦の海神の宮訪問をシホツチノヲジ(塩土老翁) が助けるが、この老翁は宮城県塩竈市にある盬竈【しおがま】神社の祭神である。盬竈神 社のある松島湾岸には製塩遺跡が多数確認されており、盬竈神社で宮司をつとめた押木耿 介【おしきこうすけ】はシホツチノヲジを製塩との関係で捉えているxii。神話研究の岡久生 はシホツチは「潮つ路【シホツチ】」「潮つ霊【シホツチ】」であり、「海の老人」というモ チーフのギリシャ神話との影響関係説を紹介しているxiii。はからずも私がはじめてしっかり と「そらあみ」を見たのは、その塩竈の地であった。そこで私は「種は船」に乗ることに なる。その時の経験は忘れがたい。海に向かって開かれた「種は船」の甲板に立つと、自 分が海原に一人立っているような感覚になる。私はその時にはじめて常世を見たように思 った。島々の先に広がる太平洋は、真夏の太陽を受けて信じがたいほどの光を放ち、その 光の中で私は今自分がどこにいるのかを見失った。それは貴重な経験だった。港に戻ると 皆で網を編んでいた。それはこの世ならぬ、幻のような光景だった。あれが海底での出来 事であったと言われれば、そうであったと言うしかない。それほどに幻想的な光景だった。 五十嵐の作品と私との関係について、どこまでが偶然でどこからが必然であるのかは、つ まるところ私にはわからない。すべては私の思い込みかもしれない。従ってこの文章が批 評として成り立っているのかどうかも心もとない。だが確実に言えることは、彼の作品が 深く過去を志向するがゆえに、まるでその反作用のように未来へと向かう強い力を持って いるということだ。それは私自身が、学問的な説明を越えた次元で、実際に塩竈の海上で、 体で感じたから間違いはない。 i 『三宅島大学の試み 五十嵐靖晃「そらあみ-三宅島-」を事例に』東京文化発信プロジェク ト室、2013 年、10 頁 ii 大林太良、吉田敦彦監修『日本神話事典』大和書房、1997、285 頁 iii 大林、同上書、72 頁 iv 谷川健一『常世論』 (谷川健一著作集 8)三一書房、1988、40 頁 v 佐藤洋一郎『クスノキと日本人 知られざる古代巨樹信仰』八坂書房、2004、230 頁 vi 佐藤、同上書、104 頁-120 頁 vii 樟【くすのき】の落ち葉を掻いて集めて、かつて存在した千年樟を描き出すアートプロジェ クト(2010 年から太宰府天満宮で実施) 御霊から学問神へ』筑摩書房、1988、6 頁 ix 井上光貞訳『日本書紀(下) 』中央公論社、1987、177 頁 x 後藤明『海から見た日本人 海人で読む日本の歴史』講談社、2010 年、186 頁 xi 後藤、同上書、185 頁 xii 押木耿介『盬竈神社』学生社、2005 年、54 頁 xiii 大林、同上書、166 頁 viii上田正昭編『天満天神
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