2011年度 - 新潟大学人文学部

新潟大学人文学部・情報文化課程
文化コミュニケーション履修コース
2011 年度
岩井
尹
遼祐
成哲
卒業論文概要
巨大ロボットアニメ史におけるガンダムシリーズ
~富野由悠季がもたらした変化と発展~ .......................
1
水城せとな作品における生と性 ...............................
2
澁川
亜樹
ロシア・アニメーション研究――Р.カチャーノフ作品を中心に ..
3
荒井
雅樹
新海誠作品における「切なさ」と物語構造・風景との関係性 .....
4
ファッションイラストレーションという形態 ...................
5
6
五十嵐
あゆ美
池田
早来
桜庭一樹と「少女」のフィクション ...........................
居城
舞
映画作家ティム・バートンの自画像
一牛
― 俳優ジョニー・デップを中心に ― .........................
7
悠紀子
ゼロ年代におけるインディーズ・ミュージック .................
8
真紀
村上春樹の作品における「歴史」と物語 .......................
9
今古賀
岡村
知也
自己を語るヒト ............................................
10
川口
沙野花
現代音楽における「沈黙」への問い ..........................
11
小泉
香織
ロリータファッションにおける自己と〈お洋服〉の関係性 ......
12
齋藤
まりん
乙女ゲームにおける恋愛表現 ................................
13
佐藤
輝
ハリウッド映画とタバコの関係
-タバコを吸うジェームズ・ボンドの魅力とは- ..............
14
庄司
平
『宝島』論 ............................................. ...
15
杉田
世里香
ニコニコ動画がつくる仮想空間 ..............................
16
高木
絵里奈
東京ディズニーリゾートにおける演出 ........................
17
高木
萌
テレビゲームによる歴史への介入――『戦国 BASARA』を中心に .. 18
田中
葉
SMAP 論
谷澤
摩理子
現代日本における動物の姿~バラエティ番組を中心に~ ........
20
外山
恵
東野圭吾『白夜行』―「夜」を中心とした考察― ..............
21
西尾
拓也
草創期の『こどものとも』の歴史的意義
―日本の男性アイドル史の中で― .................... 19
― 松居直の絵本観とその反映 ...............................
22
根津
瑞枝
宮崎駿の「変身」 ..........................................
23
星野
香菜子
『火の鳥』における生命と時間 ..............................
24
丸山
葉
『ONE PIECE』における<泣き> .............................
25
三浦
琴未
宮崎駿監督作品における固体と流動体 ........................
26
三留
茜
有川浩論――その文体をめぐって―― ........................
27
峯田
翔子
山口百恵論 ................................................
28
湯田
美怜
現代の食卓 ................................................
29
渡辺
明穂
『三國志演義』における劉備の「善」と曹 操の「悪」 ..........
30
渡邉
由里
橋口亮輔作品にみる女性の表象 ..............................
31
今井
ひかる
現代日本における広告の変遷――PR 誌『花椿』を中心に .......
32
未来
ゆずという二人組 ..........................................
33
伊丸岡
大平
祥子
雑誌『Zipper』と少女文化 ..................................
34
齋藤
愛美
『キノの旅』論 ............................................
35
濱松
穂那美
ラーメンズ論―プレゼンテーションの工夫― ..................
36
古田
和人
初音ミク消費体系 ..........................................
37
大橋
あゆ美
ミヒャエル・ハネケ作品論 ..................................
38
鶴巻
春翔
アメリカン・カートゥーンアニメーションの分析
―ディズニー・ライバルズの黄金期― ........................
39
巨大ロボットアニメ史におけるガンダムシリーズ~富野由悠季がもたらした変化と発展~
岩井
遼祐
アニメは子ども騙しのものだと考えられていた戦後日本において、『宇宙戦艦ヤマ
ト』、『機動戦士ガンダム』、『新世紀エヴァンゲリオン』はアニメ界全体に革命と呼ば
れることのあるほどの影響を及ぼした作品である。これらによってアニメは現在のような
多くの人々が気軽に見ることのできる映像作品となった。これらの内の2つが巨大ロボッ
トの登場するアニメである。アニメがどのような進歩を遂げてきたのか考える手段の一つ
と し て 、 本 論 で は こ の 巨 大 ロ ボ ッ ト ア ニ メ の 歴 史 と そ の 変 遷 の 中 で 、 『 機 動 戦 士 ガ ンダ
ム』以降現在まで制作され続けているガンダムシリーズを中心として巨大ロボットアニメ
を扱った。
第 1 章 で は 『 機 動 戦 士 ガ ン ダ ム 』 以 前 ま で の 代 表 的 な 巨 大 ロ ボ ッ ト ア ニ メ を 取 り 上 げ、
巨大ロボットアニメが段々と方向性を定めていったことを述べた。その過程で巨大ロボッ
トが登場する作品ではないが『宇宙戦艦ヤマト』が与えた影 響についても触れ、この作品
がガンダムシリーズの制作の中心人物となる富野由悠季にどのような影響を及ぼし、『機
動戦士ガンダム』までの富野の作品においてどのような変化があったのかについて述べた。
第2章ではガンダムシリーズ最初の作品である『機動戦士ガンダム』から『機動戦士
Vガンダム』で富野が降板するまでのガンダムシリーズを取り扱った。『機動戦士ガンダ
ム』がそれまでの巨大ロボットアニメと何が大きく異なっていたのか、について主に考察
した。簡潔に述べると『機動戦士ガンダム』によって巨大ロボットアニメは単なるヒーロ
ー物から物語性の深い群像劇を描くことのできるジャンルへとその可能性を広げた、とし
た。
第3章ではまず、ガンダムシリーズにおいて綿密な舞台設定やSF設定が制作陣の意
図を超えて深まった結果、こうした設定を擁する巨大ロボットアニメが「リアルロボット
もの」と呼ばれるようになったことについてまず触れた。また、それらの要素を取り入れ
つつも趣の異なる作品として90年代にヒットした『新世紀エヴァンゲリオン』について
述べた。この『新世紀エヴァンゲリオン』は設定のパターンとしてはガンダム以前のもの
を引き継いでいるものであり、その内容も80年代の巨大ロボットアニメの主流とは全く
異なる、後に「セカイ系」と呼ばれるジャンルに近いものであった。そして、こうした流
れの中で富野が99年に制作した『∀(ターンエー)ガンダム』について分析した。∀は
ガンダムシリーズの世界観をまとめるというガンダムシリーズの中においての意義がある
だけでなく、それまでの巨大ロボットアニメと毛色の異なる物語を描いた。これは巨大ロ
ボットアニメが作品として様々な方向性を志向できるという可能性を示す意味でも大変重
要な作品である、ということを述べた。
結果として、富野由悠季は単なるヒーロー物という扱いであった巨大ロボットアニメの
物語としての発展性を『機動戦士ガンダム』によって示し、20年後の『∀ガンダム』で
更にその中で物語の多様性を深めた。このことから、今後も巨大ロボットアニメには更な
る発展の可能性があることが富野由悠季によって明らかにされた、と結論づけた。
1
水城せとな作品における生と性
尹
成哲
水城せとなは自身の作品でほぼ必ず性の要素を取り入れ、時には性をストーリーの中心
に置いた作品を発表している漫画家である。本論文は、水城作品の分析を通して、彼女の
独自性や他のジャンルや作家にはないもの、そして彼女が何を描きたいのかについて考察
する。
第一章では、少年愛、ボーイズラブやレディースコミックといったジェンダーやセック
スといった性の要素を描いている女性向け漫画作品の歴史を振り返った。ボーイズラブや
レディースコミックの特徴として、性的快楽をはっきり描く性描写を挙げた。それが、過
去にボーイズラブ誌やレディースコミック誌で作品を発表したことがある水城の作品にお
いても見られるものであることを述べた。
第二章では、水城の代表作である、『窮鼠はチーズの夢を見る』と『俎上の鯉は二度跳
ねる』を女性、身体、空間の 3 つの側面から分析し、他の女性向け漫画作品との比較を
通して、水城の独自性と他の作品との共通点について論じた。そして、第一章で述べたこ
とをはじめとして、いくつか共通点は見られるものの、物語を前進させる重要な存在とし
て描かれた女性、骨ばって描かれた理想化されていない身体、文字数を考慮した吹き出し
や、屋内と屋外で展開される場面の描き分けといった空間の使い方など、水城の独自性を
明らかにした。
第三章では、水城のもう一つの代表作である『放課後保健室』の分析を行った。ここで
はまず、二つの性の間で揺らぐ主人公真白が最終的に女性という一つの性を選ぶに至る過
程で重要な役割を果たしたクラスメイトの大原桃花と、物語の中での変化していく真白の
身体の描かれ方について分析した。
次に、『放課後保健室』の最大の謎である「卒業」に隠されたものについて論じた。こ
の物語は母親の胎内で展開されており、「卒業」とはこの世に生まれるということだった
のである。生徒たちの「卒業」をかけた戦いを描いていると思われていたこの作品は、実
は出産という女性読者にとってシビアな現実を突きつけている。そして、傷つき血を流し
ながら戦うという怖い要素はあくまで表向きのものであり、その裏でこれまでの女性向け
漫画作品が描くのを避けてきた出産に対する不安や恐怖を水城は描いていることを指摘し
た。
終章では、これまで論じたことを振り返り、水城の作品には独自性と他の女性向け漫画
作品の特徴との共通点の両方があるということを確認した。水城は、厳しい現実や苦難に
直面した人という描きたい主題をジャンルの表現方法を用いながら、謎を物語終盤まで秘
密にしておくことで読者をひきつけ、自身が伝えたいことを伝えている作家である。そし
て、物語の結末において、厳しい現実だけではなく、そ こから前を向いて進んでいくとい
う希望をも描くのである。
2
Исследование русской анимации
- преимущественно мультипликации Р. Качанова
Аки Сибукава
Эта статья была написана с целью проанализировать такой феномен, как загадочное
существование Чебурашки.
В первой главе рассказывается о способах создания рисованной мультипликации
Качанова, истории его перехода к кукольной мультипликации, развитии собственной
техники. Анализ мультипликации приводится в соответствии с теорией Юрия Лотмана
«Язык мультипликации». Качанов попытался создать рисованную мультипликацию в
технике Эклер (Ротоскопирование), однако ему не удалось достичь реалистичности. С
другой стороны, он был очарован куклами. Он создал кукол и смог сделать их реальными
благодаря «незначительному движению».
В второй главе анализируются «Варежка», «Письмо» и «Мама», которые были созданны
примерно в один период времени, и на которых оказало значительное влияние теории Ю.
Лотмана и Ф.Мейерхольда, касающиеся характеров кукол. Как и в его последней работе,
основываясь на существенных особенностях кукол, Качанов реализовал, выразил «Варежку»,
т.е. он исполнил желание кукол, которое заключается в том, чтобы стать реальными. А в
«Письме» и «Маме» он создал кукол и их окружение реальными, другими словами он
заставил кукол сопротивляться самому их характеру.
В третьей главе рассказывается о «Чебурашке», преимущественно истории «Крокодил
Гена и его друзья». В главе указывается, что в даной серии скрыта сатира на Советское
общество, но также полагается, что Качанов хотел сатирой вызвать катарсис у зрителей. То
есть Качанов старался сделать рассказ о «Чебурашке» интересным и юмористическим, а
вопреки его желанию, в этой серии герои обрели свое реальное существование. С разных
сторон существование Чебурашки было «незначительным». Такой «неясный» Чебурашка
вызвал у зрителей «остранение». Таким образом у самих зрителей мог возникнуть вопрос,
выраженный и словами самого Чебурашки: «Кто я такой?».
3
新海誠作品における「切なさ」と物語構造・風景との関係性
荒井
雅樹
新海誠は、美麗な風景描写が特徴的な日本のアニメーション作家である。 2002 年に脚
本・作画・演出・美術・編集などのほぼ全ての作業を 1 人で担当した約 25 分間のフルデ
ジタルアニメーション『ほしのこえ
-The voices of a distant star-』を発表し、高い評
価を得た。2004 年には、初の劇場長編作品となる『雲のむこう、約束の場所』、2007 年
には連作短編アニメーション『秒速 5 センチメートル』が公開され、国内外で高い評価
を受けている。2011 年 5 月 7 日には、最新作の『星を追う子ども』が公開された。
本稿では、新海誠が描く、胸が締めつけられつつも温かい、ある意味で叙情性を兼ね備
えた「切なさ」について述べ、新海作品における「切なさ」と物語構造、風景との関連性
について考察した。そして、新海作品における叙情的な「切なさ」が何によってもたらさ
れるのかについて論究した。
第 1 章では、新海作品に共通する物語構造として「遠距離恋愛」構造を取り上げ、新
海作品において「時間」的要因が主人公とヒロインの障害となっていることを指摘した。
そして、抗いようのない「時間」的要因によるヒロインとの関係の変化を受け入れつつ、
前向きに生きようとする主人公の姿が叙情的な「切なさ」をもたらすと指摘した。
第 2 章では、新海作品における「風景」についての分析を行っ た。新海誠の描く「風
景」は、登場人物のアクションやセリフ以上に心情を物語る心象風景としての一面や、よ
ごれ、光の繊細な描写によるリアルでノスタルジックさを演出する「風景」など、多くの
機能を担っていることを指摘した。また、新海の描く「風景」は、絶えず動き「変化する
風景」であり、それらの「風景」の連鎖によって観客に「時間」のうつろいを強く体感さ
せる と述 べた 。そ して 、『 化物 語』 ( 2009) との 比較 分析 を行 い、 現実 の風 景写 真を ト
レースして描かれる新海作品の「風景」が、登場人物が存在する虚構世界と我々の存在す
る現実世界の双方に立脚しながらも、「風景」のリアルな描写によってふたつの世界の境
界を曖昧にすると指摘した。故に、観客は新海作品の世界での「時間」のうつろいや心情
の変化を現実の出来事であるかのように鮮烈に感じ取れるのである。この章での分析は、
新海作品における「風景」が新海作品の世界への一番のアプローチ手段であることを示す
ものであった。
第 3 章では、『秒速 5 センチメートル』の踏切シーンの分析を経て、物語構造や哀愁
漂うノスタルジックな「風景」自体がもたらす「切なさ」を指摘した。そして、「変化す
る風景」の連鎖や、虚構と現実の境界を曖昧にする「風景」の機能によって、感情移入を
超える、登場人物の心情や時間感覚、世界観への同調が可能になる。その結果、新海誠作
品においては物語と「風景」描写自体のもたらす「切なさ」が増幅され、観客はそれをよ
り鮮烈に、そして叙情的に体感することができるという結論に達した。
4
ファッションイラストレーションという形態
五十嵐
あゆ美
今日、ファッション雑誌への掲載が少ないファッションイラストレーションだが、
1960 年代以前では、ファッションを伝達する媒体として大いに用いられた。本稿では、
現代でもファッションイラストレーションがファッションを伝達する有用な媒体であると
証明することを目的とする。そのために、多くのファッションイラストレーターが活躍し
ていた戦後初期に注目し、その中でも、ファッションイラストレーター、中原淳一を取り
上げる。彼は女性向けファッション雑誌を多く創刊し、ファッション雑誌によって当時の
ファッション文化に高い影響を与えた。
第一章では、中原淳一の経歴をまとめ、中原が生涯のテーマとして挙げていた独自の
美学、「美しく生きる」について言及した。『少女の友』より「女学生服装帖」、『ソレ
イユ』より「それいゆ・ぱたん」の二つの企画を取り上げ、彼がファッションイラストレ
ーションによってファッションを提示し、消費者である女性たちを「理想の女性像」に近
づけるために「指導」を行っていたことが分かった。それをふまえて、「理想の女性像」
について具体的に考察し、読者が自らの力で美しい暮らしを作り上げるために、ファッシ
ョンだけではなく様々な面から独自の美学を発信していたことを明らかにした。
第二章では、中原がイラストレーションで表現したファッションが、受け手である読
者にどのように消費されているかについて、戦後初期に巻き起こった「洋裁」、「洋裁学
校」ブームをファッション雑誌がどのように発信しているかについて言及した。そこから、
当時の婦人雑誌の画一化を垣間見る事が出来た。また、実際に洋裁ページに注目し、衣服
を「つくる」こととイラストで描くこととの関係について考察した。そこでのファッショ
ンイラストレーションは、技術面を説明するものではなく、衣服のデザインやイメージな
どを伝達するために用いられていたことが分かった。そして、洋裁ブームが収束に向かっ
ても尚「つくる」ことを追求していた中原の独自性をも明らかにした。
第三章では、ファッションイラストレーションとファッション写真との比較を行い、
ファッションイラストレーションの特性について分析した。現代ではファッションイラス
トレーションも多様化し、定義出来ない程に表現も豊かになっている。特に、ファッショ
ンを身に纏う身体に関しては、ファッションイラストレーションの表現の幅は写真をも超
える。現代のファッションビジネスモデルは画一化が進んでおり、ファッション雑誌では
ファッション写真によるモデルの身体への効果に頼り切っていることが分かった。
多 様 化 し 、 更 な る 可 能 性 に 満 ち た 将 来 の 日 本 の フ ァ ッ シ ョ ン に お い て 、 独 自 性 を 貫 き、
他雑誌との差別化を積極的に行っていく中原の姿勢や、アーティストの独自性を発揮する
ことが容易なファッションイラストレーションは、時代の流れに左右されやすく、それに
よって画一化されるファッションビジネスを打破し、ファッションメディアだけではなく、
日本のファッション産業の活性化に繋げる糸口になり得るのではないだろうか。
5
桜庭一樹と「少女」のフィクション
池田
早来
桜庭一樹は、2000 年にオリジナル小説 デビューをした作家である。本稿では、彼女が、
作中で少女を頻出させている点に着目し、桜庭作品 に共通する特徴のうちの二つ、「ヒロ
インと関わるもう一人の人物の存在」と「少女と場所との関係」を手がかりにしながら、
桜庭作品の少女を通して描かれるものを分析した。
まず第一章では、現代に至るまでの「少女小説」の歴史を概観した上で、桜庭作品にお
ける少女の描かれ方をいくつかの作品を挙げて探った。少女小説的な共通点が見られる桜
庭作品では、自らの意志によって行動し、個人的な成長をとげていく少女の姿が描かれる
に留まらず、少女が抱える問題やその解決を通して、少女以外の人物の成熟のしにくさや、
ある種の社会的な問題を明るみに出していると述べた。また、インタビューの発言などを
引き、作中の少女が、ヒロインの少女個人に限らない問題を描きだす「ツール」として用
いられていることに触れ、少女たちの問題探究の深刻さが、桜庭が活躍していたライトノ
ベルの領域で求められる内容から外れうるものだったのではないかと述べた。
第二章では『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を分析した。語り手の少女と、作中で死
ぬもう一人の少女を分身的関係と捉えた上で、後者を昔話における「異類」としても当て
はめ、その死が供犠的であり、語り手の通過儀礼のために機能していると述 べた。同時に
死の直接的な原因にも触れ、後者の死が語り手の視線を「世の中」へと向かわせる契機と
なっていると同時に、その死の原因が、語り手個人に関わる成長や経験に留まらない問題
として、語り手から意味付けされることを示した。また、語り手が家庭などの境遇の点で
自らを「不幸」だとしながらも、舞台からの脱出が不可能に終わる事態に対しては、血縁
からの逃れ難さを表していると述べた。さらに、語り手が行うもう一人の少女の正体につ
いての言及に、それまで作品を発表してきた領域に対する桜庭の自己言及性を見た。
第三章は『少女七竈と七人の可愛そうな大人』を分析した。大塚英志の「双子物語
論」を用いて、少女と少年の鏡像的な関係を整理し、主人公の少女が「都会」に向かうこ
とが少年との別れとなり、その出立は主人公が大人になるためのイニシエーションである
ことを示した。主人公と母親との関係にも着目し、主人公が「都会」に向かうきっかけと
なる特質である「美しさ」が、母親の生き方に由来していること、出立が母親の影響下か
ら脱してゆくものであることも示した。さらには「美しさ」を「呪い」と考えていた主人
公が出立に際して自らを受け入れていく姿勢を、作中人物と比較し た。そしてその姿勢を、
母親や主人公の持つような特質に憧れる人物が成し得ようとしてこなかった「生の肯定」
であると考え、出立する少女の姿は、それら少女以外の人物の潜在的な姿を浮かび上がら
せているのではないかと指摘した。桜庭一樹作品における「少女」は、少女以外の人物の
悩みや問題を仮託される存在であり、作中の少女の示す行動や少女のつかみ取るものは、
作中の他の人物や、ひいては読者に対する普遍的なメッセージとしても表れている。
6
映画作家ティム・バートンの自画像
―俳優ジョニー・デップを中心に―
居城
舞
ティム・バートンは毒々しい映像美などによって独自の世界観を作り出しており、普通
の映画監督に留まらない活動を続けている。よって、本論文では彼をより作家性の強い
「映画作家」として位置付けた。作品の中核をなす主人公達は概してアウトサイダーであ
り、幼年期から青年期にかけて周囲との関係を築くのが苦手であったバートンの姿に重な
る。つまり、彼らはバートンの自画像なのだ。本論文の目的は、これまでバートン作品の
主人公を最も多く演じてきた俳優ジョニー・デップの身体に焦点を当て、「バートンの自
画像としての主人公」がどのように描かれ、作り上 げられているのかを明らかにすること
である。
第 1 章では二人の経歴を追い、彼らがどちらも幼少期から成人後に至るまでアウトサ
イダーであったことを示した。また、二人が初めて仕事をした『シザーハンズ』
(1990)でバートンは自作品の「顔」となる俳優を獲得したこと、デップにとっては同
作がコンプレックスを抱いていた顔を隠す為の「白塗り」デビュー作であったことを指摘
した。
第 2 章では「俳優のスター性=顔」であると定義し、多くのバートン作品でメイクに
より顔を隠されているデップのスター性について考察した。その際『アリス・イ ン・ワン
ダーランド』(2010)を取り上げ、メイクの下からにじみ出る彼の整った容貌がアリス
との恋愛を思わせると指摘し、デップのスター性は隠れていないと結論づけた。また、こ
のメイクが当初整った顔を隠す為の手段だったのに対し、今では彼の老化を隠匿する働き
をしていることを明らかにした。これは何故デップが俳優にとって致命的となる白塗りキ
ャラクターを演じ続けているのか、という問いに対する答えでもある。さらに、デップに
よる年齢不詳の非人間的な主人公達が作り物めいた世界観をさらに強化していると指摘し
た。しかし、彼が持ち込んだ恋愛要素は非人間的に見える主人公の人間臭い部分であり、
過剰に人工的なバートンの世界を曖昧化している。そしてバートンも作品に私生活を投影
することで自身の人工的な世界を曖昧にし、虚構と現実のグレーゾーンな状態を生み出し
ていた。
第 3 章では、バートンと同様に二枚目俳優を起用し続けたフェデリコ・フェリーニを取
り挙げた。彼は俳優マルチェロ・マストロヤンニの顔をさらに魅力的に見えるように撮る
ことで自画像を美化・理想化し、さらに俳優の老化に対する対処を行わなかった。 一方、
バートンはデップの顔をそのまま使わずに白塗りメイクによって覆い隠し、さらには CG
などの様々な方法で手を加えた。つまり、彼の自画像は歪められたものなのである。
バートンにとって、デップは自身の作り物めいた世界観を強化させる為の有効な材料で
ある。一方、デップにとってバートン作品で得た白塗りというペルソナはコンプレックス
を抱く顔を隠すことが出来、さらに二枚目俳優にとって重大な懸念要素である老化を隠匿
出来る最良の手段となった。映画作家ティム・バートンの自画像は、需要と供給が合致し
た俳優ジョニー・デップとの持ちつ持たれつの関係によって描かれ、表現され 続けている。
7
ゼロ年代におけるインディーズ・ミュージック
一牛
悠紀子
メジャー・レコードの CD の生産枚数が 2001 年をピークに下降し続けている一方で、
インディーズ・シーンが盛り上がりを見せている。そこで、本稿では、「インディーズと
は何か」ということを主題に置いて、インディーズ・ミュージックの歴史を概観するとと
もに、ゼロ年代におけるインディーズ・ミュージックを考察した。
第一章では、メジャー・レコードの CD 生産枚数の低下とその原因を把握した上で、イ
ンディーズ・ミュージックとは、そしてその魅力とは何なのかという問題提起を行った。
第二章では、URC の登場をインディーズの始点として、なぜインディーズが生まれた
のか、その理由を考察した。反体制や反商業主義と結びついた「非大衆的」である音楽を
自由に発表する場として生まれたインディーズは、過激な歌詞や表現方法を伴ったがゆえ
に、放送禁止や発売禁止となるレコードを世に発信する場として機能していたことが明ら
かになった。
第三章では、インディーズ・レーベルの役割の変化を考察した。 1970 年代の初期は業
界寄りであったのに対し、1980 年代になるとアーティストが独立し、自給自足で音楽を
作る環境が出来上がる。プロではなく聴き手側に近いアマチュアによるバンド活動が盛ん
に行われた。1990 年代に入ると青田買いの場として機能することともなったが、2000 年
代に入るにつれ、メジャーという選択肢があっても、あえてインディーズを選ぶアーティ
ストが増えた。
第四章では、インディーズとメディアの関係を振り返ることによって、非大衆化をめ
ざしたインディーズがいかに大衆化してきたのか、その経緯を把握することが可能となっ
た。深夜ラジオやミニコミ誌など、情報を伝える手段が限られていたインディーズだが、
カセット・テープの開発に伴いカセット・ブックによる伝達が可能となるなど、テクノロ
ジーの発達とともに、伝播するスピードや規模が大きくなっていったことが明らかとなっ
た。
第五章では、それらを踏まえたうえで、ゼロ年代のインディーズの魅力とは何か、改
めて考察した。メジャーと違い、インディーズは聴き手とアーティストとの距離が近いこ
とが挙げられる。また、自主制作における手作り感もさることながら、インディーズの魅
力はぬくもりを感じ取れることなのではないかという結論に至った。
第六章では、「インディーズとは何か」という問いに対して、「分からない」という
答えを出した。なぜなら、インディーズは現在進行形でそのかたちを変え続けているから
である。何十年もインディーズに関わってきた人たちのなかには、現在も旺盛な音楽活動
を続けている人がたくさんいる。音楽がひとりひとりのアイデンティティと結びついてい
る以上、簡単に結論づけることはできないのだ。むしろ音楽は無機物ではなく、人と人と
のかかわりの中で絶えず変化していくものだということが、本論の導き出した答えになる。
8
村上春樹の作品における「歴史」と物語
今古賀
真紀
本論文は、村上春樹の転換点と言われる『ねじまき鳥クロニクル』(1993 年)から『海
辺のカフカ』(2002 年) をへて『1Q84』(2009-2010 年)の三部作に至る三つの長編小説を
分析し、長編小説作家としての村上春樹の変遷を明らかにすることを目的としたものであ
る。
まず序論で、本論で扱う『ねじまき鳥』以前に書かれた『世界の終りとハードボイル
ド・ワンダーワンド』(1985 年)に触れ、その物語構造が『カフカ』『1Q84』の基である
ことを確認した。『世界の終り……』では「超越論的な自己」が失われた結果、他者性、
歴史性を排除した「内在的な自己」の世界へと同一化してしまう。『ねじまき鳥』以降の
村上の物語の変遷は、『世界の終り……』で排除したものを獲得するプロセスではないか
と仮定した。
第一章では『ねじまき鳥クロニクル』について分析した。『ねじまき鳥』は村上の「コ
ミットメント」に対する姿勢、歴史的モチーフの導入などから、村上の作品の転換点だと
言われている。しかし、まず第 1 部・第 2 部が『世界の終り……』以降の物語と同じ構
造であり、構造が変化する第 3 部こそが転換点だと指摘した。『ねじまき鳥』第 3 部で
は、メタ的な視点を持つ登場人物が導入される。メタ的、客 観的な視点の導入と「歴史」
語りは「他者性」の再獲得をめざすものであった。しかし、物語は主人公の自己の内部へ
と閉じていくかたちで結末をむかえ、他者性の再獲得には至らなかったと考えられる。
第二章では『海辺のカフカ』について分析した。まず『ねじまき鳥』以降の物語につい
て触れ、『カフカ』が従来とは異なる「新しい小説」として描かれたことを確認した。そ
れを踏まえ、『カフカ』が『世界の終り……』で失われた「超越論的な自己」の回復を果
たし、「内在的な他者」の世界から「新しい世界の一部」として開かれていく物語である
ことを論じた。同様に、三人称による他者性の獲得、「メタファー」として機能する「歴
史語り」など、『世界の終り……』で「失ったもの」を再獲得し始めていることから、
『カフカ』が『ねじまき鳥』第 3 部以降の「新しい小説」として、一つの到達点に達す
ると考えた。
第三章では、前章までを踏まえ、『1Q84』について論じた。まず『1Q84』が BOOK
1・BOOK 2 と BOOK 3 で物語構造が異なることを確認した。『1Q84』はジョージ・オ
ーウェル『1984 年』(1985 年)を意識したものであり、BOOK 1・BOOK 2 では『1984
年』で失われる「過去」や「メタファー」が「存在の根拠」として重要視されている。一
方、BOOK 3 でその比重が「過去」から「現在」へと変化していることを明らかにした。
以上から、自己と他者の関係性、物語構造、「歴史」の変化が如実にあらわれる『ねじ
まき鳥』以降の長編小説は、『世界の終り……』で失われたものの再獲得のプロセスであ
ると結論づけた。また、最後に『1Q84』BOOK 3 の結末について考察した。「第三の物
語世界」に移動した主人公たちは、世界に「ランディング=着地」し「開かれていく」よ
うに見える一方で、「私たち」という内閉した共同体を「閉じていく」ような両義性も見
受けられる。このような両義性、曖昧さこそが村上の物語の本質といえるのではないだろ
うか。
9
自己を語るヒト
岡村
知也
犯罪者によって著される自伝文学作品はこの世界に多く存在するわけである。作品の
中で自身の犯罪を「弁明」したり「正当化」する者もいれば、自身の犯罪行為を強く
「後悔」し「反省」する者もおり、犯罪者が自伝を記す時、その目的は極めて多岐に渡
る。しかしながら、彼らが自伝を記す時、目的は違えどそこにはある二つの共通点が存
在している。それは、「自己を知る」べくして書かれたもの/「自己を知ってもらう」べ
くして書かれたものという 2 点である。この共通点をふまえていても、犯罪者・永山則
夫によって記された自伝作品『無知の涙』を解釈するのは非常に難しい。本論文では、
永山が自伝の中で探した自己、そして伝えたかった自己とはいったい何だったのかを考
察対象とし、研究を進めた。
第 1 章では、「自己を語る」という行為そのものに関して考察した。犯罪者に限らず、
われわれ人間はどのような場合に「自己を語る」という行為に出会うのか。また、犯罪
者が頻繁に「自己を語る」という行為と遭遇する背景には一体何が存在しているのかに
ついて自身の考えをまとめた。
第 2 章では、永山則夫という人物についての詳細をまとめた。永山の生い立ちに始まり、
起こした 4 件もの殺人事件、投獄、そして自伝を書くに至るまでの経緯を細かに記した。
第 3 章では、永山が自伝の中で本当に伝えたかったことが何だったのかについて考察し
た。永山は『無知の涙』の中で、「普通の人間に戻りたい!」/「自分は天才肌の犯罪者
だ!」と一見矛盾しているとも思える対局の叫びを繰り返す。しかしながら永山が本当
にありたかったのは「普通の人間」であった。一見対局しているように見える叫びが、
実は一貫して「人間に戻りたい!」という願望であったのだ。この逆説構造について考
察したのが本章である。
第 4 章にて、永山の見つめてきた自己、その結果どのような自己を発見したのかにつ
いてまとめた。『無知の涙』の中で見つめてきた自己、発見した自己、伝えたかった自己
について考察し、最終的に永山があろうとした自己が何だったのか、自身の考えを示し、
結論とした。
10
現代音楽における「沈黙」への問い
川口
沙野花
20 世紀に入り、「現代音楽」と称されるようになったクラシッ ク音楽は「沈黙」の発
見に至る。多くの作曲家が、音楽における「沈黙」について語り、それを自身の曲の中に
取り入れる方法を模索した。彼らの多くは、「沈黙」は「多数の音の集まり」だと考え、
その可能性に大きな期待を抱いていた。音楽における「沈黙」とは一体どのようなもので
あるのだろう。そしてそれは音楽にどのような影響を与えたのか。本稿では、そのような
現代音楽における「沈黙」の問題を考察した。
第一章では、「沈黙」の意味の定義づけを行った。「沈黙」という言葉は充分に多義的
である。そこで、本稿で扱う「沈黙」の意味を明確に捉えるために、音楽事典、バフチン
の言葉などを借りながら、それと類似した語との比較を行った。また、作曲家や音楽評論
家 の 言 葉 、 特 に 武 満 徹 、 ジ ョ ン ・ ケ ー ジ の 「 沈 黙 」 に 関 す る 言 葉 を 中 心 的 に 扱 い 、 「沈
黙」の本質を探った。そして本稿で扱う「沈黙」を、単なる無音の持続ではなく、あらゆ
る音の可能性、潜在性を秘めた無音の持続であると位置づけた。
第二章では、「沈黙」の獲得の背景を探った。ただ単に曲の中に無音を置くだけでは、
「沈黙」とはみなされない。よって、20 世紀の音楽家たちが、どのようにして音楽の中
に「沈黙」を表現することを可能にしたのかを、楽譜を見ることによって考察した。そこ
で 1950 年代に、楽譜が従来の五線記譜法を離れ、「図形楽譜」という全く新しい表現方
法を得たことにより、均一的な時間の流れから脱却し、自由な時間を獲得したことを指摘
した。そして、その時間の解放が、「沈黙」の表現を可能にする手段であることを述べた。
また、時間の解放に至った経緯として、美術による影響も欠かせないものとし、音楽と美
術の関係についても論じた。そして、時間を解体することで浮き彫りになる「空間」の問
題を提示した。
第 三 章 で は 、 「 沈 黙 」 の 獲 得 が 音 楽 に も た ら し た も の に つ い て 考 察 し た 。 音 楽 の 中に
「沈黙」が表現され始めた頃、『ブラック・マウンテン・イヴェント』という企画が、ケ
ージを含む、様々な芸術家の手によって催された。そのイヴェントが、「統一されない複
数の時間」を作り出すことを一つの目的としている点において、極めて「沈黙」の問題と
近いものであると考え、他の類似したイヴェントやパフォーマンスなども挙げ、「沈黙」
が音楽にもたらした影響を知るための一つの指針とした。そして、「複数の時間」が「複
数の空間」を作り出すことを指摘し、音楽における「沈黙」と「空間」の問 題を武満とケ
ージの考えを軸に、考察した。
音楽にとって、確かに「時間」とは、欠くことのできない重要な要素である。しかし、
音楽は時間の要素だけではなく、本来は「空間」の要素も内包している。終章では、音楽
における「沈黙」の誕生は、音楽における時間の複数化と、空間性の回復をもたらしたと
述べ、結論とした。
11
ロリータファッションにおける自己と〈お洋服〉の関係性
小泉
香織
ロリータファッションとは、大きく広がったスカートやフリルやリボンなどの装飾によ
って少女性を強調したストリートファッションである。このような装いをする者は自らを
「ロリータ」と呼んでおり、ファッションとアイデンティティの強い結び付きを物語って
いる。本論文ではファッションによる自己同定に着目し、ロリータファッションにおける
衣服と自己の濃密な関係性について考察した。
第一章では 1970 年代に始まるガーリースタイルの流れから、ロリータファッションが
生まれるまでの経緯をまとめた。「ロリータ」というファッションカテゴリーが世間で認
識され始めた 90 年代には、作家の嶽本野ばらが自身のエッセイの中で乙女の美意識を提
唱した。そこには過去への郷愁、死や残酷さへの憧憬といった思想が存在しており、これ
らは過剰な少女趣味を持った乙女たちに浸透していった。さらに嶽本は 2000 年に小説家
としてデビューし、少女と衣服の精神的な繋がりを描いた。これによりロリータファッシ
ョンにおける衣服は、着る人間の自己にも強く影響する〈お洋服〉へと昇華された。
第二章ではロリータたちの身体レベルでの自己表象について論じた。その中でルイ
ス・キャロルの『不思議の国のアリス』のアリスを例に、彼女たちが理想とするのは少女
性とグロテスクさを併せ持つ、人造美女的・人形的身体イメージであること指摘した。さ
らに嶽本の小説分析を行い、「見る/見られる」という男女関係の構図や性器の交わりを
ロリータたちが忌避していることを明らかにした。しかしその一方で、嶽本の描く性は皮
膚感覚的な「番い」という新しい身体的結び付きの可能性を開いていることを示した。
第三章では〈お洋服〉の構造分析を行い、それを身に纏ったときの身体感覚について
考察した。大きく広がるスカートや日傘は他者との距離を作り出し、編み上げや不安定な
厚底靴は着る人間の身体を拘束していた。これはロリータファッションが自己防衛的かつ
自律的なものであることの表れであると述べた。さらに少女性で覆われた部分には何重も
の影が落ち、少女の精神性を象徴していた。またリボンやフリルによる「ひらひら」感覚
が現実/非現実の境界のゆらぎを引き起こし、二つの世界を同時に生きることを可能とし
ていることを指摘した。さらにロリータファッションを着ること自体が、偽りの自分から
本当の自分になるという、多元的な生き方の獲得を示すものであった。
現代の日本社会には効率志向、未来志向が根付いており、これらは過去や死の世界に思
いを馳せるロリータたちの精神風土とは相反するものである。それゆえに彼女たちは現実
世界において何らかの孤独を背負わなければならなかった。皮膚感覚でもって〈お洋服〉
という存在を実感することは他者との「番い」の可能性を示唆しており、孤独なロリータ
たちに希望を与えている。しかしながら実際にロリータファッションを着ることが出来な
い人々も大勢いることも否定出来ない。嶽本の小説における細やかな〈お洋服〉描写は、
そのような乙女たちに向けられた贈り物なのである。
12
乙女ゲームにおける恋愛表現
齋藤
まりん
乙女ゲームは、プレイヤーが複数のキャラクターと疑似恋愛を体験することができる女
性向けの恋愛シミュレーションゲームである。本論文では近年急激な盛り上がりを見せる
乙女ゲームを取り上げ、同じ恋愛を扱ったものでも映画や小説、少女漫画などに比べて評
価され難いのはなぜか、そしてその一方で様々なメディア展開がなされるほどの人気が出
た理由は何なのかというところに注目し、男性向けの美少女ゲームとの比較を行いながら、
乙女ゲームのプレイヤーは乙女ゲームに何を求めているのかを探った。
第一章では、乙女ゲームの概要を述べた上で、いくつかのゲームを取り上げて美少女
ゲームと乙女ゲームの特徴の比較を行った。特に主人公像の比較では、美少女ゲームは攻
略対象のヒロインを“見る”ことに特化したゲームであり、主人公はプレイヤーが視線を
同化させやすいように没個性的な人物として作られている一方、乙女ゲームの主人公は設
定・ビジュアル共にはっきりした、つまり“キャラが立った”キャラクターであるという
ことを述べ、プレイヤーはあくまで一歩引いたところからキャラクター同士の恋愛を見つ
め、主人公に同化するというよりは、感情移入という形で疑似恋愛に打ち込んでいるとい
うことを明らかにした。
第二章では乙女ゲームにおける声優について述べた。男は視覚で刺激され、女は聴覚で
刺激されると言われるように、欲望を消費する対象として男性の文化では美少女フィギュ
アが、女性の文化ではドラマ CD がそれぞれ発達していると言えるだろう。また、声優に
関する部分では、ゲームの声優イベントの盛り上がりも、美少女ゲームに比べて乙女ゲー
ムの方が大きいということがわかった。美少女ゲームとの比較で見てみると、乙女ゲーム
における声・声優は、美少女ゲームよりもオフィシャルかつ中心的なコンテンツとして扱
われているということを指摘した。
第三章では、乙女ゲームのゲームシステムの特徴を述べつつ乙女ゲームのプレイヤーが
求めるもの、つまり乙女ゲームの魅力を明らかにした。マルチエンディングシステムがも
た ら す “ ま ま な ら な さ ” と 、 半 強 制 的 な 受 け 身 の 恋 愛 を 始 め と す る 様 々 な 制 限 は 、 “恋
愛”を乙女ゲームという“型”にはめるものであり、乙女ゲームは恋愛を数値でしか判断
し得ないゲームなのだと実感させられると同時に、現実の恋愛の曖昧さ、複雑さを再認識
させる機能も持っているのだと述べた。
乙女ゲームのプレイヤーは、必ずしも疑似的な恋愛を体験したくて乙女ゲームに没頭す
る訳ではない。囁きかけてくれる素敵な声、マルチエンディングシステムによって様々な
方 向 か ら 補 完 さ れ て い く 世 界 観 な ど 、 普 段 経 験 で き な い “ と き め き ” や “ 非 日 常 ” の空
間・時間を求めている。そして、乙女ゲームはそうしたプレイヤーに応えるのである。
13
ハリウッド映画とタバコの関係
-タバコを吸うジェームズ・ボンドの魅力とは-
佐藤
輝
映画は視聴者の喫煙を促進する強い影響力を持つとされ、世界中で映画の喫煙シーン
に関する規制が進んでいる。しかし、それでも製作される映画の半数以上に喫煙シーンが
あるのが現状である。では、映画におけるタバコの役割とは何であろうか。
本稿では、映画に喫煙シーンが登場する理由として、タバコ産業が映画会社に 働きか
けている可能性があることをもふまえ、アメリカにおけるタバコ規制やタバコ産業による
広告宣伝の歴史を見た上で、映画におけるタバコの描かれ方がどう変わってきたのかを 、
1962 年から現代まで製作され続けている映画『007』シリーズを例にとって考察した。
第一章では、アメリカにおけるタバコの規制運動と擁護運動の歴史を概観した。喫煙
のスティグマ化と喫煙の名誉回復という相反する二つの動きは現代まで繰り返されてきた。
また当初、マイナスなイメージを持っていた紙巻タバコは、第一次 世界大戦の影響によっ
て、威厳や勇気といったプラスの象徴的意味を獲得するようになったのである。
第二章では、タバコにポジティブなイメージを持たせようとするタバコ産業の広告宣
伝戦略の歴史を概観した。アメリカでは 1970 年代にテレビでのタバコ CM が禁じられると、
タバコ産業は銘柄名や企業名を付けられるようなタバコ以外の製品やサービスを見つけ出
し始めた。タバコ産業の行ってきた CM や スポンサー活動などのイメージ向上戦略の中に
は、「マルボロマン」を始めとした、男性俳優を用いた広告宣伝がある。タバコの広告は
消費者が自己同一化できるようなヒーロー像を提示している。タバコや喫煙行為の魅力形
成には、広告や宣伝によって作られたイメージが重要な役割を果たしているのである。
第三章では、実際の映画作品における喫煙シーンを分析するために、映画『007』シリ
ーズをとりあげ、ヒーローとタバコの関係に限定して検討を行った。主人公であるジェー
ムズ・ボンドが喫煙する場面は彼を魅力的に見せるシーンのひとつであった。ボンドのイ
メージと喫煙シーンは密接につながっており、演じる俳優が変わるとともにシーンも変化
し、また紙巻タバコが葉巻になったりした。それは時代の反映でもあり、新しいボンドに
先代ボンドのイメージを踏襲させたり、あるいは逆に差異化したりするための手段でもあ
った。しかし禁煙傾向が強まっている現代、ボンドはタバコを吸わなくなった。それは タ
バコがボンドを魅力的に見せるアイテムから排除された ことを意味する。以上のように、
『007』シリーズからは映画作品においてタバコの持つ意味が変わってきているという事
実が明瞭に見てとれるのである。
こうした現状に対してハリウッドの映画製作者は今後どのように対応していくのだろ
うか。いずれにせよ、これからも喫煙に対する世間の考え方が、映画における喫煙シーン
に影響を与えてゆくのは間違いない。映画におけるタバコは作品によって異なる役割を果
たすが、そのひとつとして主人公を魅力的に見せるというものがある。タバコが嫌われる
現代においても“タバコを吸う者はカッコいい”という神話は未だに存在しているの であ
る。
14
『宝島』論
庄司
平
本論文は、ヴィクトリア朝末期のイギリス作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンの
冒険小説『宝島』(一八八三)を取り上げ、その作品分析を論の中心としている。先行す
る冒険小説の要素を取り入れる一方で、後世の冒険小説 に大きな影響を与えることにもな
った『宝島』は、冒険小説の変遷を見る上で優れた題材であると判断し、比較分析を通し
てその特質を考察する。また、冒険小説と密接に連動していた帝国主義との関係に注目す
ることで、『宝島』の社会的な意味合いを探る。これらを通して、『宝島』を時代の転換
点として捉え直すことを課題とした。
第一章では『宝島』が世に出た時代の特質、およびその時代における冒険小説の地位を
明らかにする。『宝島』が生まれたのは、大英帝国の対外進出活動が最も盛んな時期に当
たる。帝国の建設と維持は国民の義務として喧伝さ れるようになり、冒険小説はこの帝国
の風潮と積極的に手を組み、帝国の活動を称揚する役割を担った。しかし、二〇世紀に入
ると帝国主義的動向は急速に縮小し、反帝国的な作品が現れ始める。『宝島』はこの時代
の境目に位置する作品であった。
第二章から第四章にかけては『宝島』の登場人物の分析を行った。第二章では主人公ジ
ム・ホーキンズに注目し、冒険小説における少年像の変化を論じた。指導者の大人に従属
するそれまでの少年たちに対して、ジムは大人の支配から抜け出す自由な少年像を提示し、
それはピーター・パンなどの後世の少年主人公たちに受け継がれていく。第三章では、海
賊の頭ジョン・シルヴァーの陰に隠れ、先行研究ではほとんど語られてこなかった配下の
海賊たちについて考察した。島における彼らの破滅的な行動は、従来の冒険小説の登場人
物たちが隠蔽してきた冒険の裏にある帝国の実態を明らかにし、帝国の権威を揺るがす働
きを持っていた。その影響は後続の作品におよび、冒険小説の伝統を方向転換させること
にもなる。第四章ではイズレイル・ハンズとジョン・シルヴァーという『宝島』の二人の
大物海賊を取り上げた。船上でのハンズとジムの切実な会話は、帝国主義の教育媒体 とい
う冒険小説の伝統的役割に一石を投じた。二面性を持つシルヴァーの逸脱的な行動からは、
抑圧的な帝国体制からの脱出を求める時代動向とその変化への戸惑いとがうかがえる。
第五章では後続作品との比較を行うことで冒険小説というジャンル内における『宝島』
の位置づけをより明確にした。『宝島』出版当時の文学界ではまだ扇情的な冒険小説が主
流であり、この作品の先駆性は突出していたといえる。一方、二〇世紀以降の新しい冒険
小説を見れば、『宝島』の生み出した要素が受け継がれていることが読み取れる。
『宝島』は、冒険小説の伝統的な男性性や非日常への憧憬を満たしながらも、その水面
下には冒険小説が根ざしてきた帝国の体制への挑戦があった。それはスティーヴンソンの
人生の二面性とも対応する。支配体制から脱しきれず、それでも飛び出そうとする精神は、
逸脱性という魅力となって表出し、現在まで多くの読者を引きつけている。
15
ニコニコ動画がつくる仮想空間
杉田
世里香
ニコニコ動画とは、2006 年 12 月 12 日よりサービスを開始した動画共有サービスであ
る。動画にコメントを投稿できる「コメント機能」から導き出される、ニコニコ動画独自
の「時間性」を提示したうえで、その構造及び機能に言及する。かつニコニコ動画という
「仮想空間」の中でユーザーが真に何をどのように消費しているのかを明らかすることで、
ニコニコ動画がいかなる「場」であるかを考察した。
第 1 章では、ニコニコ動画の持つ「時間性」について、視聴者同士の動画視聴体験の
共有を擬似的に実現するという「擬似同期」と照らし合わせて考察した。視聴者に各々流
れる時間を検討し、また「擬似同期」の定義の不明確さをあげ、「擬似同期」は視聴者同
士ではなく動画とコメントの間に起こることを指摘した。加えて、ユーザーはコメントを
投 稿 す る こ と に よ っ て 、 無 意 識 に 複 数 の 時 間 を 追 加 し 操 作 す る と い っ た 推 移 す る 「 時間
性」を保つ役割を果たし、かつユーザー同士が時間操作やコメント投稿などという他者の
行為に依存していることを明らかにした。
第 2 章では、ニコニコ動画の「空間」の検証を試みた。ニコニコ動画に実装されてい
る機能と実際に投稿されている動画を足がかりに、複数の「時間」が共生するという特殊
な「時間性」が組み込まれていることを述べた。このことから「コメント機能」では視聴
者同士は互いに「コミュニケーションができない」ことを示した。コメントは投稿される
と同時に視聴者の手を離れ、動画コンテンツに取り込まれることで動画とコメントは一体
化する。そのため、それぞれの動画コンテンツは、コメントが存在する「空間」があり、
無数に存在する「空間」の中で、「投稿者」や「視聴者」などといった役割をユーザーが
担うことで成り立っている。ユーザーは他の役割を担う他者の存在を大いに意識し、動画
という一つの「空間」の中で「作品」に介入しながら相互作用していると分析した。
第 3 章では、ニコニコ動画の生放送サービスに焦点を当て、動画共有サービスと比較
することでユーザーの動きを見ていった。動画共有サービスとは異なる同期的なサービス
だが、コメントを投稿できることから同様に「空間」が存在する。ただし、生放送サービ
スは単一な「時間性」であり、それゆえにユーザーの役割が確定されるため、ニコニコ動
画内ではユーザー同士で唯一コミュニケーションができる「空間」である。ユーザーはコ
ミュニケーションをするために生放送サービスを利用し、同じ「空間」にいる他者と「作
品」を作り上げていることを指摘した。
終章では、以上の論述をまとめるとともに、ニコニコ動画というサービスは、ユーザー
がひとりぼっちで現実空間にいるにもかかわらず、無意識に他者を意識させ、かつ動画及
び番組という「作品」にユーザー自ら相互作用することで「仮想空間」に存在させるとい
うことを述べた。その中で、ユーザーは点在する「空間」に関与し、新しい「作品」を作
り出すという行為そのものを消費していると結論付けた。
16
東京ディズニーリゾートにおける演出
高木
絵里奈
1983 年に東京ディズニーランドが千葉県浦安市で開園して以来、日本各地にテーマパ
ークが乱立した。だが、これらのテーマパークは現在赤字経営で苦戦を強いられている所
や、閉鎖に追い込まれてしまった所も多い。その中で東京ディズニーリゾートの年間総入
場者は、2 位のユニバーサル・スタジオ・ジャパンの 3 倍以上であり、独走状態となって
いる。これほどまでに人々の心を虜にするのはなぜだろうか。
本論文では、東京ディズニーリゾートの中の 2 つのパークに焦点を絞り、そこで繰り
広げられる演出について考察した。
第1章では、アメリカでディズニーランドが誕生してから東京ディズニーランドが開園
し、テーマパークからテーマリゾートへと変貌するまでの経緯について説明した。そして
東京ディズニーリゾートは、日本人が生活の中で最もレジャーに 関心を向けるようになっ
た時代に誕生したのであり、日本人のレジャーの特徴にもマッチした空間であることを述
べた。
第 2 章では、東京ディズニーランドが徹底的にテーマ性や物語性に沿った、非日常空
間として演出されていることを示した。そして、ディズニーランドの発案者であるウォル
ト・ディズニーはもともと映画のプロデューサーであったわけだが、ディズニー映画の世
界をパークで 3 次元化する上でも、映画的技法を用いることで、ゲストを物語世界へと
すんなり入り込ませていることを明らかにした。また、人気アトラクションである「スプ
ラ ッ シ ュ ・ マ ウ ン テ ン 」 を 取 り 上 げ 、 ア ト ラ ク シ ョ ン の 構 造 と 演 出 を 分 析 し た 。 そ して
「スプラッシュ・マウンテン」では、映画の物語をアトラクションとして表現し展開して
いく上で、蛇行・トンネル・スプラッシュという 3 つの要素が効果的に用いられており、
ゲストが容易に物語消費できるよう演出されていることを指摘した。
第 3 章ではディズニーランドはアメリカ史のテーマパークでもあるという先行研究を
ふまえた上で、東京ディズニーランドが単なるアメリカのディズニーランドのコピーその
ものではなく、日本的コンテクストに合わせて変更されていると いうことを具体例を挙げ
ながら述べた。また、新たに日本独自のディズニーランドとして 2001 年に誕生した東京
ディズニーシーでは、より日本的なコンテクスト化が施されていることを検証した。
そして第 2 章で述べたような演出に加え、第 3 章で述べたようにさりげなく日本的に
コンテクスト化されているということが、人々の心を掴む鍵となっているのであり、本来
アメリカから輸入されたものである東京ディズニーリゾートは、現代日本を象徴する場と
なっていると結論づけた。
17
テレビゲームによる歴史への介入――『戦国 BASARA』を中心に
高木
萌
『戦国 BASARA(以下 BASARA)』(2005)とは、織田信長や伊 達政宗など実在の
戦国武将を基にしたキャラクターが登場するテレビゲームである。「個性豊かに描かれた
キャラクター」と「簡単な操作による派手な技」が特徴であるこの作品は、歴史好きの女
性を指す新たな呼称、「歴女」の原因であるともいわれる。これまでにも歴史を扱った作
品は多く存在するが、虚構作品から歴史へと関心を向ける人の流れが非常に大きく表れて
い る点 に 目 を向 け た い 。 本論 文 で はこ の 原 因 を 、『 BASARA』 が 今 ま での 歴 史 を基 に し
た作品とは異なった要素を含んでいたからではないかと仮定し、歴史を基にしたテレビゲ
ー ム作 品 が どの よ う に し て享 受 さ れる の か を 見 てい く と とも に 、 『 BASARA』の 特異 性
を明らかにする。
第一章では、テレビゲーム、とりわけアクションゲームにおけるキャラクターについて
考察した。 内容が非 常 に似ている 『戦国無 双 』( 2004) との比較 を し、『 BASARA』が
アクションゲームとして発売されながらも、キャラクターゲームとして受け手に認知され
ている原因を探った。それは、アクションゲームがキャラクターゲームの構造を含んでい
る こと に 関 係す る 。 『 BASARA』は 、キ ャ ラ ク ター が 自 分の 操 作 に よ って 反 応 する こ と
を悦ぶ「操作的快楽」を極限まで求めたアクションゲームであり、それに付随するかたち
でキャラクターゲーム性がアクションゲーム性を上回るほどに高まったのではないだろう
か。
第 二 章 では 、 プレ イ ヤー の 存 在に つ いて 注 目し た 。 『 BASARA』 では 、 簡 単な 操 作と 、
明確なストーリーの存在が無いことにより、プレイヤーはゲーム世界を自由に操れる感覚
を持つことが可能である。また、史実上の人物が持つ強大なキャラクター性と、ゲーム内
で描かれた史実と虚構の双方から乖離したキャラクターとが、この感覚をさらに強めてい
ると思われる。
第三章では、メディアとしてのテレビゲームと歴史との関係について考察した。テレビ
ゲームと既存のメディアとの違いは、受け手が介入できるという点である。すなわち、歴
史を基に作られたテレビゲーム作品の場合、作り手と受け手によって、本来過去のもので
ある歴史に対して二回の作品化が行われているのではないかと述べた。また「歴女」によ
る歴史のたしなみ方が、歴史小説に代表されるような従来の共感や感情移入といった内面
的なものとは異なり、武将ゆかりの地を訪ねるといった 外部からも分かりやすいものであ
ることを指摘した。これが、あたかも「歴女」が新しい流れであると認識される要因では
ないだろうか。
『BASARA』は 、 プ レ イヤ ー が 介入 で き る テ レビ ゲ ー ム作 品 の 中 で も、 特 に その 範 囲
が広いものだった。受け手であるプレイヤーに自由さを与える一方で、歴史を基にしてい
るという強固な背景があるために、ある程度の世界観を保つことができたのだろう。これ
ら から 、 歴 史と 、 プ レ イ ヤー の 介 入性 を う ま く 利用 し て いた こ と が 、 『 BASARA』の 特
異性だったのではないかと結論付けた。
18
SMAP 論
―日本の男性アイドル史の中で―
田中
葉
現代の日本の中心ともいえる文化のひとつに芸能があり、中でもとりわけ、国内外やそ
の分野を問わず広く人々に知れ渡っている存在としてアイドルが挙げられる。「アイド
ル」とはメディアを通して歌やダンスといったパフォーマンスを披露し人々を魅了する職
業であると同時に、それらをおこなう少年あるいは少女たちを指す。これまで多種多様な
アイドルたちがデビューし、引退してきた。私はそんなアイドルたちに興味を持ち、本稿
では男性アイドルについて彼らの魅力や形態を探り考察を試みるべく、とくに今日にいた
るまで男性アイドル界の発展を支え、デビューから 20 周年を迎えた今もなお活躍し続け
るアイドルグループ「SMAP」について深く研究することとした。
第 1 章では、男性アイドルの歴史について再考した。男性アイドルの根源なるものが
1960 年代に活躍した若手映画スターや青春歌謡の歌い手、そして当時活動を開始したば
かりのジャニーズ事務所の存在にみられ、以降 80 年代までにかけて「アイドル」という
ものがつくりあげてこられた。そして昭和から平成へ時代が変化し迎えた 90 年代は、音
楽番組の相次ぐ終了や不況によってアイドルの存続にも 大きく影響した。そんな時代にデ
ビューしたのが SMAP であり、現在にいたってはジャニーズ事務所のアイドルが男性ア
イドル界の王道を歩んでいることをとらえた。
第 2 章では、SMAP の経歴についてそれらを分野別に分け述べた。そこでは「アイド
ル=王子様」として活躍してきた先輩アイドルとは違い、アイドル業以外の仕事も積極的
にこなしたことによって SMAP がそれまでのアイドルとは違う存在だと位置づけるにふ
さわしい数々の経歴をあげることができた。
第 3 章では、SMAP の活動の中でもとりわけ彼らの独自性にむすびつき、特徴づけて
いる事柄を数点挙げ、それについて論じた。SMAP はそれまで以上に個性の強い個人が
そろい、解散の危機になりかねない出来事や苦難が数多く存在してきたアイドルである。
SMAP はアイドルの枠にとらわれないさまざまな活動を通して、彼らのもつマイナス面
や個性を巧みに披露し、強みに変えてきた。また、彼らのもつ視線や関係性は「 SMAP」
を維持していく上で重要な要素であった。SMAP の人気は決して事務所の商業的な戦略
だけでなく、彼ら自身の努力と意志への評価ともいえる。そして「SMAP」はメンバーの
みならず周りで彼らを支える人々やファンも含めて構成される空間のようなものであると
いえ、それを共有することで「SMAP」が成長し、より魅力的なものになっているとのべ
た。
SMAP がアイドルグループとして現在も引退せずに業界の一線で活動を続けている点
や、彼らの限界はまだ達するにいたらずこれからも魅力の向上が期待できる点から、本稿
において彼らの魅力や形態を断言することは難しい。しかし現在の SMAP からは、年齢
的には「おじさんたち」でありながらも、それを感じさせない内に秘める「光」が感じら
れ、それが魅力につながっているとして結論とした。
19
現代日本における動物の姿~バラエティ番組を中心に~
谷澤
摩理子
ドラマや映画を始め、インターネット上でも動物に関する映像が溢れている現代にお
いて、日常生活の一部として身近なテレビの中で映し出される動物とはいかなる存在なの
か。本論文では、動物番組に焦点を当て、そこで描かれる動物の姿から、現代における動
物がいかに消費されているのか、その位置付けの分析を試みた。
第一章ではテレビ文化の発展を追い、娯楽として大きな役割を担ってきたテレ ビが、
単なる娯楽ではなくなり、感動を提供するツールとしての機能を強めていったと述べた。
この傾向は 90 年代頃から見られていたが、東日本大震災を機にクローズアップされ、
「つながり」や「絆」といったキーワードに注目が集まったと論じた。また、テレビ番組
全体が、画一化したバラエティ的な形式をとっている中で、特に 2012 年 1 月現在放送さ
れている動物バラエティ番組に関しては、構成をはじめ、内容やテーマ自体にも類似点が
多いことを指摘した。
第二章では、人と動物の関わりとして、最も身近に存在する動物園とペットについて
考察し、日本の動物園の在り方が見直されたことを確認した。それは複数の視点を取り入
れた新たな展示に関心が寄せられる結果となり、動物の見せ方の工夫として大きな変化が
あったと述べた。また、ペットに対する関心の高まりと同時に、“愛護”精神に基づく極
端な反応があることを受けて、その扱いに慎重さが必要になったことを確認した。
第三章では、動物番組の変遷とそれぞれの特徴を分析した。民放の動物番組は、野生
動物や自然の姿をドキュメンタリー的に放送する教養番組から始まり、次第にエンターテ
インメント性を高めていった。現在、主に扱われるのはペットや動物園であり、視聴者の
身近にある話題にほぼ限られるようになった。ここでは、飼い主や飼育員をはじめ、動物
に関わる人々の個々の事情や心情が語られ、動物ではなく人間の立場に関心が向けられて
いると論じた。また、人々が温もりを求めているという背景を受けて、出演者の立ち位置
や振舞い、あるいはセットの配置によって、親密な距離感を持つ親和的空間が演出され、
視聴者に好印象を与えると同時に、強い共感を呼ぶための工夫が施されていることを明ら
かにした。NHK の自然・動物番組においても、教養番組としては比較的親しみやすい演
出がなされており、視聴者に歩み寄る姿勢が見受けられた。感動・共感志向が強まる中、
現在の動物バラエティ番組は、それに応える形で制作されていったのである。
映し出される動物が、人と関わり合う動物に移行したことは、「絆」や「つながり」
を強調するうえで重要な変化であった。その動物に関係する人々の内面描写も含め、人間
の立場を意識した構成を取ることで、結果的に視聴者の感動や共感を呼びやすくなったか
らである。動物番組、とりわけ動物バラエティ番組に多くの類似点が見られるのは、視聴
者が共感を求め、温もりを共有しようとしている結果だと考え、その中で動物は「絆」を
確認し、「つながり」を意識させるものとして消費されていると結論付けた。
20
東野圭吾『白夜行』―「夜」を中心とした考察―
外山
恵
『白夜行』は質屋殺し事件をきっかけに犯罪を重ねながら生きていく主人公、桐原亮司
と唐沢雪穂の人生を描いた小説である。2人はいつも犯罪という暗い「夜」の世界を生き
ていたが、彼らは自らの人生を「白夜」を歩いていると例えている。本論文では『白夜
行』の舞台や主人公たちの人間関係などを「夜」と「昼」というキーワードをもとのに対
比させて考察し、物語の中に存在する「白夜」は2人の人生であり絆そのものだというこ
とについて述べた。
第一章では物語の舞台である大阪と東京を、「夜」としての大阪、「昼」としての東京
として分析した。『白夜行』に描かれている大阪は暗い過去を象徴する場所であり、東京
はきらびやかな明るさに満ちた場所だったが、物語の最後に雪穂は東京で得た明るさ(ブ
ティック『R&Y』)を大阪に持ち込むことで「夜」の空間である大阪を「白夜」に変え
過去との決別を示した。次に亮司と雪穂という罪を生み出してしまった彼らの家庭環境を
考察した。彼らの両親は子どもに与えるべき愛情を十分に与えておらず、亮司と雪穂は家
庭に居場所がなかった。彼らは互いの存在が唯一、安らげる場所であり、希望だったので
ある。
第二章では主人公たちが犯した罪についてまとめ、2人の間に存在した「夜」と「昼」
について考察した。犯罪は主に亮司が実行犯となり、雪穂はその犯罪によって社会的地位
を手に入れた。よって2人の間においては亮司が「夜」、雪穂が「昼」を担っていたと考
えることができ、亮司は雪穂の影のように常に近くで彼女を支えて2人でひとつの人生を
歩んでおり、「夜」の亮司と「昼」の雪穂がともに人生を歩むことで彼らの人生は「白
夜」となっていた。そして亮司と同様に雪穂も犯罪と関わっており、また亮司も表の社会
の人間との関わりを持っていたことから、2人とも「夜」と「昼」の顔を持ち合わせてい
たことがうかがえる。このことから彼ら自身の中にも「白夜」が存在していた。
第三章では『白夜行』の姉妹作品ともいわれる『幻夜』を比較対象としてとりあげ、
『幻夜』における「夜」がどのようなものであったかを指摘した上で『白夜行』における
「夜(白夜)」がどのようなものだったのかを考察した。非常に共通点の多い作品だが、
『幻夜』の主人公たちには亮司と雪穂の間にあったような絆はなく、彼らはそれぞれたっ
たひとりで犯罪とつながる「夜」を生き、決して手に入れることのできない幻とともに生
きていた。一方で物語中の主人公たちの行動から『白夜行』の2人の間に絆が存在してい
たことは明らかであり、第一章・第二章で示した「白夜」は2人の絆の象徴、彼らが支え
あってきた人生そのものだったと結論付けた。
以上のとおり彼らにとって犯罪と関わる人生は「夜」だったが、そこには互いの存在と
いう光が存在しており、決して闇のみの空間ではなかったのである。『白夜行』における
「夜」の空間は亮司と雪穂が犯した罪と絆によって生まれたもので、「白夜」は2人の間
に存在する絆であり人生そのものなのである。
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草創期の『こどものとも』の歴史的意義―松居直の絵本観とその反映
西尾
拓也
現在、絵本は、対象とする年齢が細分化しており、絵本観の多様化が起こっている。
こうした多様化が顕在化したのは、 1970 年代である。本稿では、その多様化に至る過程
を明確にするために、草創期の『こどものとも』の歴史的意義について考察を行った。そ
の際に、1956 年の『こどものとも』創刊当時、企画・編集を担当していた松居直の絵本
観という観点から論を展開した。なお、『こどものとも』創刊号から 100 号までを資料
とした。
第一章では、松居の幼少期の絵本体験に触れて、『こどものとも』に反映された絵本観
について考察を行った。その際に、松居が自身の著書で影響を受けたと発言している『コ
ドモノクニ』、『キンダ―ブック』、『講談社の絵本』の三誌について特徴を論じた。こ
れら三誌は、松居の絵本観形成に、絵本の絵や文の表現性を編集方針として活かしていく
という肯定的な影響だけでなく、同じ轍を踏まないようにするという否定的な影響も与え
ていた。
第二章では、戦時下から『こどものとも』創刊までの絵本の出版情勢について触れて、
『こどものとも』創刊の動機を明らかにした。戦時下の絵本出版は、戦時統制の急速な進
行により、軍国色の強い画一化したものになっていった。それが戦後になると、多数の絵
本雑誌が出版され、海外の翻訳絵本の出版も行われるようになった。松居は、日本の戦時
下における絵本出版と比較し、戦争の影を感じさせない欧米の絵本の絵本水準の高さや物
語絵本の楽しさに衝撃を受けたとしている。そして、このような海外の絵本から受けた影
響や幼少期に形成された絵本観が、『こどものとも』創刊の動機となっているのである。
第三章では、『こどものとも』について、表紙や判型等の形式面と絵本の絵や文の内
容面の二点から考察を行った。形式面では、横型の体裁への移行等の大きな変化が見られ
た 1961 年末から 1962 年初めの期間に一つの区切りを迎えたということが読み取れた。
この期間以降は、創刊当初はあった啓蒙性が徐々に希薄になっていくのである。
内容面では、『こどものとも』を三分野に分類し、分野別に論を展開した。創作物語絵
本の分野では、類型化しているジャンル、表現方法から差別化を図ろうとしていることが
わかった。こうした編集方針は、絵本の世界観を広げることにつながっている。また、翻
訳、再話物語絵本の分野では、語りの文や擬音の軽妙さが特徴的であった。これらの分野
には、戦前の絵本から受けた表現性の影響が反映されている。一方、生活、科学絵本の分
野には、啓蒙的要素を持つ作品が登場し、戦時下の絵本出版の影響を見ることができる。
草創期の『こどものとも』には、松居が持つ複数の絵本観の影響が反映されているのであ
る。
草 創 期 の 『 こ ど も の と も 』 の 意 義 は 、 松 居 の 複 数 の 絵 本 観 が 相 互 に 関 連 し 合 う こ と で、
絵本の表現や世界観を広げたことにある。それは、戦時統制による画一化で失われつつあ
った戦前の絵本雑誌の表現性を再興したということでもあった。このとき松居の絵本観は、
戦前と戦後の絵本出版を結びつけている。また、この意義から、戦前の絵本雑誌の表現性
や戦時下の影響の中で、現代の絵本観の多様化が生じてきたということができるのである。
22
宮崎駿の「変身」
根津
瑞枝
異なる者への変身は物語のポピュラーなテーマとして、神話や民話など、古今東西で扱
われてきた。物語それぞれにおける変身は、物語ごとの様々な要素によってその意味合い
を大きく異にしている。だが、変身する者のそのほとんどが物語中に重要な役割を担わさ
れており、その他の登場人物、引いては物語の展開に大きな影響を与えているといえるだ
ろう。
日本を代表するアニメーション作家である宮崎駿(以下宮崎)の劇場版長編アニメーショ
ン作品の中にも変身が幾度も登場する。変身の取り上げ方は様々であるが、多くの人なら
ざるものが登場する宮崎の作品の中で、人とそれ以外どちらでもありうる変身者の変身が
どのような効果を持っているか、作品、登場人物ごとに変身を抽出し、その傾向を比較、
考 察 し た 。 取 り 上 げ た 作 品 は 年 代 順 に 『 紅 の 豚 』 『 千 と 千 尋 の 神 隠 し 』 『 ハ ウ ル の 動く
城』『崖の上のポニョ』である。
第一章では、各作品の紹介及び、変身の抽出を行った。「変身の機能」「方法」「変
身前後の姿」「変身への主体性」を主軸に、それぞれの作品において、変身のもつ意味に
ついて考察した。作品ごとに重要視される要素は異なるが、ここで、変身は物語ごとの状
況、要素を持ちながらも共通項があることがわかった。特に変身に対して受動的であるか
能動的であるかは、宮崎の作品の中でも作品を越えた共通項となり、変身の機能を考察す
るにあたって、基幹となる要素であることがわかった。また 、変身する対象が持つイメー
ジは、変身そのものに大きく関わることが示された。
第二章では前章で抽出された要素、共通・類似項を元に「変身方法の類似」「自発
的・強制的変身とその機能」「主人公の変身と状態表現」の三点に分けて考察した。
宮崎の変身にはその方法として多く魔法が扱われている。魔法を用いることで、物語
における変身という事象を受け手に対してよりシンプルに、受け取り易くしている。また、
このことは方法以外の要素をより印象的にする効果をもたらしている。
前章でも述べた変身の受動・能動に関して、受動つまり強制的に被る変身は多くが呪
いとして機能し、変身者へ、またはその近親者への困難として与えられることがわかった。
変身を解くための困難が近親者に与えられるとき、それは童話世界に多い典型的な変身譚
をなぞるものになるといえる。
最後に、変身者が主人公である場合をあげ、その特異性を考察した。主人公のものと
して変身が描かれるとき、変身した姿は一定ではなく、主人公の意思を超え、主人公の精
神状態によって変動する。主人公以外の変身が固定されるのに対して、主人公の姿は流動
的で、物語と相互に影響を与える関係になっている。物語の展開によって主 人公の心情の
変化がもたらされるとその姿は変動し、姿が変動することによって、受け手は物語の展開
に踏み込む手掛かりを得ることになる。主人公という特殊な人物を描くにあたって、変身
はその心情を映す重要な要素だといえる。
以上から、宮崎作品における変身は、構造そのものをシンプルにすることによって、
非常に受け入れやすくなる一方で、「人間」と「それ以外」を多く描いて来た宮崎作品に
おいて、登場人物の心情、そして、前記した二つの対立項を描き、より「人間」を表現す
るのに最適なテーマであったと結論付けた。
23
『火の鳥』における生命と時間
星野
香菜子
『火の鳥』は、手塚治虫の長編漫画である。この漫画は手塚が 34 年間に渡って『漫画
少年』、『少女クラブ』、『COM』、『COM コミックス』、『COM 復刊号』、『マン
ガ少年』、『野性時代』と掲載誌を変えながらも描き続け、未完に終わっている。全体の
構成として過去と未来が現代を軸に反復するという特徴、一貫して生命の尊厳がテーマで
あると手塚自身が語っていることから、本稿は『火の鳥』を「時間」「生命」を中心に作
品を分析した。
第一章では『火の鳥』の成立背景を、手塚自身の経歴と時代の出来事、漫画界の 動向
などを踏まえて確認した。手塚の初期の少年少女漫画から劇画ブーム時に陥った不調、そ
れからの長編漫画家としての復活という漫画家人生の殆どに『火の鳥』は寄り添っている。
第二章では『火の鳥』の基本的な構造についての概要を述べた。火の鳥というキャラ
クターは手塚の医学生時代の体験に基づいて生まれたこと、手塚マンガに採用されている
スターシステムの不在、宗教への冷静な視点があることについて触れた。
第三章では『火の鳥』における「時間」についての分析を行い、基本的に三つの「時
間」があると指摘した。第一に、登場する人間たちが持つ、不可逆的な「直線的な時間」
が存在する。第二に、火の鳥が持つ「無時間的な時間」があることを指摘した。これは、
火の鳥が『火の鳥』の構造と同様に過去未来を自在に行き来する永遠を内包した存在であ
ることを示している。第三に、「黎明編」「未来編」に見られる人類の歴史があたかもル
ープしているかのように見えることから、「円環的な時間」があることを述べた。以上の
三つより『火の鳥』における時間とは、人間は円を描く歴史をたどっているように見えて
実はその度に細部が異なっていることから、流れる時間は重なることなく螺旋を描い た立
体的モデルになることが分かる。これが、作中で火の鳥の望む「正しい生命の使い方」に
呼応する形に近づいているものと見ることができる。
第四章では、『火の鳥』における「生命」について論じた。第一に、物語に現れる女
性性は生命に直接結びついているものとして、その精神性は「母親の強かさ」と「母親で
ない女性性の母的献身性」にあることを指摘した。第二に、登場人物の身体の変容につい
て述べた。ムーピーなどの変化する不定形の身体を持つ女性性のエロチックさとグロテス
クさは、根源的に生命力と繋がっていると言える。第三に、『火の鳥』における「生命」
とは何かを見る際に、ロビタというロボットと猿田を取り上げて分析した。手塚の構想し
た「宇宙生命(コスモゾーン)」というエネルギーが物質に飛び込むことで「生きてい
る」状態になるのだ。こうして無機物・惑星・宇宙にも生命は存在するという生命観が
『火の鳥』を壮大にしている。以上のように、火の鳥と手塚は「時間」と「生命」を通し
て「分相応に、一所懸命生を全うする」という普遍的命題を登場人物・読者に訴えている。
それ故に『火の鳥』は火の鳥の如く時間を越え多くの人々に読み継がれる名作となり得た
のである。
24
『ONE PIECE』における<泣き>
丸山
葉
尾 田 栄 一 郎 が 描 く 漫 画 『 ONE PIECE』 は 、 少 年 漫 画 の 王 道 で あ る 『 週 刊 少 年 ジ ャ ン
プ』に掲載され、そのターゲットである小・中学生の「少年」に向けて描かれている。し
かし、そのコミックスの購買層の約 9 割は「大人」であり、さらに、この作品を「泣け
る」と評している。現代の子ども向けコンテンツの代表作の一つである『ONE PIECE』
によって「大人」が<泣き>を消費する。そこには、どのような構造があるのだろうか。
本論文では、<泣き>を「物語作品によって涙を流す行為」と定 義し、「漫画的技法」と
「物語構造」という異なる二つの観点から『ONE PIECE』における<泣き>を分析した。
その中で、如何にして子ども向けのコンテンツを大人が積極的に消費するに至ったのかを
探り、21 世紀という時代における物語のテーマなるものの一断面を切り取ることを試み
た。
第一章では、『ONE PIECE』における物語世界の描かれ方と<泣き>の関連性を論じ
た。まず、『ONE PIECE』が、バトル漫画に「バトル」以外の要素、すなわち「人間ド
ラマ」という要素を取り込むことで少年漫画における<泣き>を実現したことを述べた。
そして、主人公の纏う「軽薄さ」と「内語の排除」というキャラクター造形の方法が読者
の想像との落差を生み出し<泣き>をもたらすことを指摘した。また、泣き顔を過度に崩
す、デフォルメするという描画方法が<泣き>に貢献していることをここで言及した。
第二章以降では、如何なる漫画的技法と物語構造を以て読者の<泣き>をもたらすかを、
具体的な場面を取り上げながら論じた。第二章では、まず、汗や吐息といった漫画的記号
とオノマトペの効果的な使用が、キャラクターのより動的で具体的な心理描写を可能にし、
< 泣 き > に 貢 献 し て い る こ と を 示 し た 。 さ ら に 、 見 開 き に 大 き く 描 か れ る 「 一 枚 絵 」が
『ONE PIECE』における<泣き>の特徴の一つであることを指摘し、連続するコマの中
の一つでありながらそれを一枚絵として成立させているのが、「モノに物語を付与する」
方法であるとした。読者が一枚絵に直面する際、それまでの物語がフラッシュバックされ
ると同時に、読者の視界の広がりを意味するコマの「開放」が最大限に起こることによっ
て、読者を抑圧から解放し、<泣き>がもたらされる。
第三章では、『ONE PIECE』における共同体の在り方に注目し、<泣き>の構造を解
明した。「視線の同一化」と「デフォルメされた泣き顔」が読者とキャラクター、さらに
は作者との同化を促し<泣き>を誘発することを示した。また<泣き>を論じる中で、そ
の中に組み込まれた「擬似家族」というモチーフが、社会(親)が生きる意味を示せなく
なった現代における一つの自己成長の在り方の提示であると導き、その根拠を「船」とい
う居場所と「精神的外傷」という繋がりにあるとした。さらに、子どもが「主人公が海賊
王になる」という「大きな物語」に胸を躍らせる一方で、大人は「船という限定的な共同
体における人間ドラマ」という「小さな物語」、またそれによってもたらされる<泣き>
という娯楽に『ONE PIECE』の魅力を見いだし、積極的に消費していったと指摘し、結
びとした。
25
宮崎駿監督作品における固体と流動体
三浦
琴未
宮崎駿監督作品には、ドロドロとした流動体のイメージが数多く登場する。これらの物
体は、アメーバのように不定形で、重力に従わず、伸縮自在に動きまわる異質なものとし
て表現されている。これらは原作から新たに付加された宮崎作品の要素として、特徴的な
表現である。この流動体は、宮崎作品においては、物語の大きな転 換としての役割を果た
すものとして、繰り返し描かれている。本論文では、宮崎作品における流動体の表現を分
類することによって、作品のテーマや流動体の表現の役割について考察した。
第一章では、『崖の上のポニョ』(2008)と『もののけ姫』(1997)のシシ神を取り
上げた。ここで登場する流動体は、対照的な着色でありながら、どちらも圧倒的なエネル
ギーとして描かれており、他の固体を取りこんで膨張していくイメージを持つ。ここでは、
宮崎は流動体を生と死などのように、対立する二つの性質が同居する場所として描 いてい
ると述べた。また、流動体がそれぞれの作品のテーマを示すものとして使用されている。
第二章では、『千と千尋の神隠し』(2000)と『もののけ姫』(1997)のタタリ神に
ついて取り上げた。固体が流動体に覆われている表現について、宮崎の発言から、これら
が登場人物の心象表現であるとして考察した。宮崎作品の登場人物は、内面の葛藤を、言
葉で表現することが少ないため、流動体を使うことによって、台詞で表現するよりも視覚
的に分かりやすく、その登場人物の心情が表現できると述べた。また、これらの流動体は、
登場人物の体から滲み出て動き回ることにより、物語の世界を変化させる役割があると述
べた。
第三章では、『風の谷のナウシカ』(1984)、『千と千尋の神隠し』(2000)、『ハ
ウルの動く城』(2004)について取り上げ、ここに登場する物語の重大な転換のきっか
けとして使われない流動体について考察した。これらは、兵器として生み出された望まれ
ない生命であるなど、不遇なものとして描かれている。物語の中では現れた秒数が非常に
短く、絵コンテにも細かい記載が無いことから、宮崎が注力して描いたものではないこと
がうかがえる。これらは作品の中では共通して、他の登場人物に利用され、道具扱いされ
ているものとして描かれている。このことから、宮崎作品における流動体は、強い意志の
かたまりのような固体と結びつくことなしには、物語のなかで重要な位置を担うことが で
きないと述べた。
終章では、第1章から考察してきたことをまとめ、固体と流動体が合わさることで、物
語の世界に変化が生まれ、物語や登場人物の動きが成り立つとまとめた。宮崎作品におけ
る固体と流動体は、それぞれ異なる意味を持ち、物語において、心象表現や、自己の回復
というテーマを担う特徴があると述べた。第1章から考察した流動体は、『崖 の上のポニ
ョ』を例外的に除いては、どれもが共通して重い着色であった。子供も多く観るアニメー
ションとしては、子供が怖がるのではないかと思われるほど、不可解な動きをしている。
宮崎アニメーションにおける流動体の運動は、意識の深部に対しても訴えかける効果があ
ることを述べた。
26
有川浩論――その文体をめぐって――
三留
茜
有川浩は、2004 年に『塩の街』でデビューして以来、現在も活躍する作家である。本
論文では、有川の文体における特徴がよく現れている『図書館戦争』シリーズを主に考察、
分析した。有川の作品のその文体に焦点を当て、有川がどのような語りを選択したかをみ
ることによって、有川作品と作家・有川浩を明らかにしようと考えた。
第一章では、有川の作品の焦点人物に注目し考察した。三人称で描かれ、焦点人物が
頻繁に変わる有川の作品は、感情移入する作中人物は読者に委ねられる構造がみられ、読
者に作中人物たちを公平に観察する感覚を与えるとした。また、焦点人物を変えることで
焦点人物の内言も描き作中人物のそれぞれの性格の肉付けをしていることを明らかにした。
さらに、焦点人物が急に移行する場面の読者の意識の内の聞き手は、一時的に仮の焦点人
物になることを指摘した。
第二章では、有川の作品の内言の描き方に注目した。有川の作品では、三人称の語り
の中にいきなり内言が描かれ、語り手の〈声〉に作中人物の〈声〉がいきなり立ち現れて
いた。このことと、第一章で述べた作中人物の性格描写と合わせて、作中人物の〈声〉は
よりその作中人物らしい〈声〉として読者の意識の中で再生されるとした。加えて、補助
記号によっても、心中を表現しつつ作中人物と語り手の〈声〉は変化させられており、有
川の作品は〈声〉に富んだ作品だと指摘した。さらに、作中人物の名前や人称を使い分け、
虚構の語り手や人称を強調することで、読者は、作中人物の〈声〉を感じながらも、客観
的に作中人物をみてとれることになり、作品世界を傍観する 作用が強まっていることを明
らかにした。こうした構造が、読者の意識の内で作中人物の〈声〉を強く感じさせること
に繋がり、語り手の〈声〉と作中人物の〈声〉の差を色濃く示していたのである。
第三章では、焦点人物がいない場面と焦点化の判断が困難な場面の〈声〉、焦点人物
がいる場面の曖昧な言葉について考察した。『図書館戦争』シリーズでは、有川の「表現
の自由を侵すこと」や「検閲」に対する主張が、語り手の存在を強く感じさせるもの、そ
してそれを誰の感情、感覚から言われた意見であるか断定できなくさせるものに現れてい
るとした。また、焦点人物のいる場面が大部分の有川の作品は、基本的には、読者に焦点
人物をみとめさせたうえで他者の言葉や作者の言葉 を挿入しており、読者に自然と、「図
書館の自由を守る」ということを伝えていると指摘した。
有川は、読者に作中人物たちのダイレクトな〈声〉を感じさせつつ、作中人物とある
程度距離を取らせ、一人一人を公平に観察する感覚を与えていた。 描き出す作中人物たち
の〈声〉とあらゆる人間関係の行く末に注目させ、読者に物語を読み進めさせることで、
そこに潜ませた作者の〈声〉の可能性もある図書館の自由を守る〈声〉、 検閲に断固とし
て反対する〈声〉をも、巧みに伝えていたのである。
27
山口百恵論
峯田
翔子
山口百恵は 1970 年代を代表するスター歌手である。デビューから引退までの八年間、
とくに後半の彼女の爆発的人気とそれに伴う諸現象は、今日にいたるまで稀有な芸能現象
である。引退した後も、人々の好奇の視線はやむことがなく、その事柄自体がまた語られ
る。そして、今日において山口百恵には、「伝説」「神話」という言葉が 彼女を紹介する
時の常套句となっている。ところが、どうやら、山口百恵は始めからそのようなイメージ
を持たれる存在ではなかったようなのである。山口百恵の存在と山口百恵の語られ方は分
けることができない。本論文のねらいは、山口百恵という存在がどのように出発し、どの
ように変化してきたのかということに注目し、彼女の「神話化」のプロセスを明らかにす
ることである。
まず、第一章では、「アイドル」という概念を明確化した。日本における「アイド
ル」は、いつ、どのような経緯をもって誕生したのか、また、「アイドル」とはどのよう
な存在であったのかについて、先行研究を参考にしながらまとめた。その上で、山口百恵
のデビューについて考察した。山口百恵がアイドルとしてプロデュースされ、デビューし
た経緯を明らかにするとともに、アイドルの特質である、「キャラクター性」に注目して、
彼女がどのような「キャラクター」を付与された「アイドル」であったのかを、同時期の
アイドルとの比較も参考にしながら分析した。
第二章では、その「キャラクター性」に着目し、楽曲分析を中心に、山口百恵の「キ
ャラクター」が大きく変化していったことを明らかにした。山口百恵にまつわる言説を 参
考 に し な が ら 、 「 ア イ ド ル 」 と い う 枠 組 み に 入 れ ら れ た 山 口 百 恵 と い う 存 在 が 、 い かに
「アイドル」という存在から「ズレ」ていったかということに注目し、彼女の稀有なパー
ソナリティを特徴づけた。
第三章では、山口百恵のプロデュースの仕方の変化とともに、歌う山口百恵という存
在が完成されていったことについて、楽曲分析を中心に分析した。その際、曲ごとの彼女
の表現の変化にも注目した。
ここまでの分析では、はっきりと「神話化」の現象について結論付けることはできな
かったが、彼女が一曲ごとに確実に着実に成長を遂げたこと、表現力、歌 唱力に大変な伸
びがあったことなどを、「神話化」のプロセスの一因であるとした。
引退前後の諸現象を含め、今日にいたるまで、どのように山口百恵が語られてきたのか
を明らかにすることは、今後の課題である。
28
現代の食卓
湯田
美怜
経済圏の拡大や加工技術の発展により、良くも悪くも食の世界は格段に広がった。珍し
い材料を集め手の込んだ料理を作ることも、楽に手早く栄養をとることも、娯楽要素をプ
ラスして味以外の楽しみを見いだすことも、どれも簡単にできてしまう。毎日の食に事欠
かずおいしいものしか流通されない現代、食はどのように位置づけられているのか。本論
文は、日常生活において最も身近な食の舞台だと思われる食卓について考察した。食卓に
上がる料理や味付け、味わい方、作り手の思いや食べ手の好みはどうなっているのか。こ
れらについて考え、現代の食意識の一面を明らかにしたいと考えた。
第一章では 2000 年代の食のトレンド変遷を追いかけ、特徴的なものや新たな変化をあ
ぶりだした。その結果、ここ 10 年間で現代人の食意識は「ボーダレス」「多様化」「二
極化」が進んだことが分かった。
第二章は、第一章で浮かび上がった「遊び」「簡単」「ネタになる」「おしゃれ」「気
分」というキーワードについて詳しく考察した。何でも好みの味にしなければ落ち着かな
い調味料依存症の人、作ることはもちろん食べることすら煩わしい人、とにかくおもしろ
さや話題性を求める人など、食に対する現代人の姿を明らかにすることができた。調理器
具も性能や効率が一定の基準を超え、デザインで競争する段階へ入ったことも主張した。
いずれも 5 つのキーワードが単独で機能しているのではなく、複数個が絡み合いながら
現代の食意識を形成していることが分かった。
第三章は、現代の食卓に最も近くかつ影響力を持つ主婦に注目した。米澤泉は「ママ」
は一つのキャラクターであり、あくまで自分を大切にしたい主婦が増えていると述べる。
また、岩村暢子も一般家庭の食卓調査【食 DRAIVE】で、気分を大切にする主婦の増加
を指摘している。本論文では岩村の研究に料理に関心の高いカリスマ主婦ブロガーの食卓
と料理への意識を追加した。その結果、料理に関心の高いカリスマ主婦ブロガーでも一般
家庭の主婦と同じように自分の気分を重視する傾向にあることが分かり、米澤と岩村の主
張を補強した。さらに、山尾美香の研究を参考にカリスマ主婦ブロガーについて も考察し
た。一般主婦にとってカリスマ主婦ブロガーは「自分もなれる」と思えるくらい近い関係
にあることが特徴だと述べた。
考察の結果、現代の食意識は非常に多様で複雑、また流動的 であり、グループ分けや
固定化することは難しく、食は個人や個人の状況や気分によって様々に位置づけられてい
ることが結論付けられた。また、今後の食卓についても言及した。「ボーダレス」「多様
化」「二極化」の進行は続き、特に手間・時間・お金について、節約とこだわりを気分に
よって使い分ける二極化は一層進むと思われる。しかしどちらにせよ「失敗」はありえ な
い。今後の食卓は「失敗しないおうちごはん」が主流になるのではないだろうか。
29
『三國志演義』における劉備の「善」と曹操の「悪」
渡辺
明穂
『三國志』といえば、今から約 1800 年も前の中国で魏・呉・蜀の三国が覇を競って英
雄たちが活躍する物語として、日本でも幅広い年齢層に親しまれている。ここでは曹操を
悪玉として、善なる存在の劉備を阻むという構図が基本となっている。この善と悪の構造
が成立した背景、そして劉備の「善」と曹操の「悪」は、それぞれ物語の中でどのような
役割を果たしているのか、ということを『三國志演 義』をもとに考察した。
第一章では、劉備の人物像について、基本的性格を分析した上でその人生を三つの時期
に分けて考察した。福耳や膝まで届く長い腕という身体的特徴から、劉備が帝位に就くに
ふさわしい人物であることを印象付け、また信義を重んじて天下に名乗りを上げる機会を
逃すといった、優柔不断な性格が特徴となっている。「信義を重んじる心優しい君主」と
い う 基 本 的 性 格 か ら 、 自 ら が 影 と な り 、 周 り の 英 雄 た ち の 存 在 を 際 立 た せ る 「 虚 な る存
在」としての役割を果たしていることが確認できた。人に対して信義を尽くす姿勢が劉備
の「善」としての本質であるといえる。
第二章では、第一章と同様に、曹操の基本的性格と、彼の人生を追いながら人物像の分
析を行った。宦官の生まれという生い立ちが生涯を通してのコンプレックスとなっていく。
しかしそのコンプレックスを巧みに利用し、宦官と対立する勢力の清流派知識人らを重用
して、内政の充実に効果を発揮したことも大きな特徴である。曹操は宦官の家の出という
ことから、自らを取り巻く利害を嗅ぎ分ける能力に長けていた。そのため少しでも身の危
険を感じ、自分を裏切る者には容赦なく残酷になった。『演義』ではこの側面を特に強く
強調し、「悪玉」としての人物像を作り上げている。しかし、武将たちとの間には全人格
的な信頼関係が存在しており、冷酷な悪人とは一概に言えない側面も持っていた。このよ
うな悪人の範囲に収まらない魅力を曹操は持っていた。
第三章では、第一章と第二章を踏まえたうえで、『演義』における善悪関係の構造につ
いて考察を行った。『演義』で善悪の基準を決定するものが「漢王朝」であり、漢王朝に
対 し て 忠 誠 を 貫 い た 劉 備 が 善 と さ れ 、 歯 向 か っ た 曹 操 は 悪 と さ れ た 。 こ の 構 造 は 陳 寿の
『三国志』の中にすでに見え、『演義』へと継承された。滅び行く漢王朝をめぐって曹操
と劉備が対立するとき、善と悪はいっそう鮮明となる。
『演義』の善悪の構造は漢王朝に対するスタンスによって決定付けられたものであ
ったが、視点を変えることによって、両者の「善」と「悪」には、その領域には収まらな
い様々な側面が見えてくる。基本とする善と悪それぞれのイメージに加えて、劉備の荒々
しい武将的な面や、曹操の民衆をいたわる繊細な心などの対照的な側面をも表している。
このような触れ幅の大きい英雄たちを多面的に描くことで、読み手にはよりいっそう強烈
な印象を与えているのである。
30
橋口亮輔作品にみる女性の表象
渡邉
由里
橋口亮輔は 1962 年長崎県生まれの映画監督である。『夕辺の秘密』(1989)で PFF
アワ ード グラ ンプ リを 受賞 、 『 二十 才の 微熱 』( 1992) で劇 場デ ビ ュー 、『 渚の シン ド
バット』(1995)や『ハッシュ!』(2001)、『ぐるりのこと。』(2008)などを発表
した。劇場用作品では『二十才の微熱』から『ハッシュ!』までの 3 作品において男性
同性愛が一つのテーマとして描かれており、『ぐるりのこと。』では橋口自身の鬱の経験
が主題となっている。
橋口はおそらく、日本で初めて自身が同性愛者であることを公表した上で、どこにで
もいるような少年や青年の姿の同性愛者を劇場用映画において明確に描いた監督であろう。
しかし、橋口作品の特色はゲイ男性以上に女性の表象である。本稿では、橋口作品におけ
る女性たち、特に同性愛者の男性とともに登場する異性愛者の女性の表象について分析を
行った。
第一章では、日本映画における同性愛的主題の流行の背景を踏まえ、自主映画出身で
ある橋口作品の作家性とその評価を明らかにした。そして、劇場用デビュー作『二十才の
微熱』における「生身の女の子」が、男性同性愛を主題としない後期作品の原型にな って
いることを示した。
第二章では、『渚のシンドバッド』と『ハッシュ!』を主に分析し、橋口作品におけ
る「女性と病」というモチーフが「不安定なジェンダー」を構築し、同性愛者男性と異性
愛者女性の繋がりを演出する役割を担っていることを明らかにした。橋口作品では、不安
定なジェンダーを抱えて同性愛者男性と対等な関係を築いていく女性だけが美化されてい
るのではない。「女らしさ」を強調された女性たちも丁寧に描かれている。こうした演出
の豊かさは、橋口が「見る男性・見られる女性」という古典的な視線力学を意図的に踏襲
して同性愛者男性を描くことから生まれている。女性たちは同性愛者男性を「目撃」する
のでも、「鑑賞」するのでもなく、「観察」することに徹するのである。
第三章では、ゲイ男性を明確に描いたことにより多様な女性の表象を可能にした橋口
の作品を「女性映画」として分析した。その際に、撮影所黄金時代の監督である「女性映
画」の巨匠と知られる木下惠介作品が弱く、美しい男性を登場させていることに注目し、
そうした規範から逸脱した男性像が女性表現の可能性を広げていることを明らかにした。
そして最新作『ぐるりのこと。』を取り上げ、「子ども」の欠落や 〈ジェンダーとの折り
合いの中で苦悩する女性〉といったモチーフから、『ぐるりのこと。』はこれまでの橋口
作品の発展形であると同時に、同性愛が描かれないことでより純粋に「女性映画」なりえ
ているとした。
以上から、橋口が描く同性愛者男性と異性愛者女性の物語の最大の功績は、不安定な
ジェンダーを抱えながらも逞しく生きる女性を明確に描いたことにあるとし、結びとした。
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現代日本における広告の変遷――PR 誌『花椿』を中心に
今井
ひかる
広告は時代を映す鏡であると言われる。広告は何らかの形で その時どきの社会情勢を
反映するからである。そうした広告を時系列的に分析することにより、広告そのものだけ
でなくターゲットを取り巻く環境の時代的な変化を捉えることが期待できると考えられる。
本稿では、広告の変遷を表現方法や技術面などから明らかにすることを目的に、株式会社
資生堂(以下「資生堂」)の PR 誌『花椿』(以下『花椿』)を題材として広告分析を行
った。月刊誌でもある『花椿』の裏表紙には、毎月その時期 のキャンペーンや季節に合わ
せた広告が全面掲載される。サイズが等しく比較しやすい裏表紙広告を主に用い、 1957
年から 2011 年の『花椿』および当時のテレビ CM などを参照しながら、検証を行った。
第 1 章では対象やその背景を確認した。『花椿』の歴史、取扱店舗や読者層などから、
『花椿』を雑誌として見たとき、女性週刊誌やカタログ誌(ファッション雑誌などを指
す)などのように即物的な情報源としてではなく、 教養やセンスなど自己を高める情報源
としての性質を持っていることに言及した。さらに 1950 年代以降の日本の社会的背景、
広告史および一般の女性雑誌の変遷、日本の化粧史について、先行研究を用いて年代ごと
に確認し、その中で、女性の美意識や化粧に対する意識などの変化を明らか にした。
第 2 章では第 1 章をもとに化粧をする理由と目的をまとめた上で、時系列を追って裏
表紙広告の分析を列記しながら各広告に見られる特徴を挙げた。 50 年代は高級志向から
始まり、60 年代には CM とグラフィック広告を連携させる手法も見られた。カタログの
ように複数のモデルに異なるイメージを持たせて商品をアピールする手法も既に見られ、
70 年代後半にはキャンペーンモデルの出現に起因するグラフィック広告上の変化が確認
できた。80 年代にはイメージに重きが置かれるようになり、ブランドモデルとしてモデ
ルを採用する例が増える一方で、84 年からはモデル不在の「モノ広告」が掲載され始め
る。90 年代以降は、エイジングケア商品の広告を筆頭にコピー(文字情報)に成分名な
ど専門用語が用いられるようになり、消費者が成分を気にし始めていることが伺える。
94 年からはほとんどモノ広告に移行して裏表紙広告のヒトはモデルといよりグラフィッ
クの一部となっていった。以降、2000 年代に向けてモノ広告は、パロディなどインパク
トとイメージありきの広告の様相を強めていく。Twitter 小説の導入からは広告の行き詰
まりも感じられる。
第 3 章では、第 2 章で分析した内容のうち、コピー、グラフィック、モデルに注目し
て考察を行った。字体や大きさの変化からコピーの効果を明らかにし、イラストレーショ
ンからモデル、モノ広告へ移行する中で変化した商品の 役割と広告がもつ意味段階につい
て言及した。以上より、広告において重点が置かれる部分が遷移してきたことが明らかと
なり、モデルが時代を反映しながら女性たちの理想像となるべく態度や性格を変化させて
きたことを読み取ることができた。
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ゆずという二人組
伊丸岡
未来
J ポップという大きなジャンルのなかで、音楽ジャンルが複雑に多様化している日本の
音楽シーン。そのなかで、1997 年にフォーク・デュオとしてデビューしたゆずはいかな
る存在であるのか。その解明を目的として、本論では、ゆずの特徴である、フォークソン
グ、路上ライブ、男性二人組という観点から、ゆずという二人組について論じていった。
第一章では、日本におけるフォークソングの歴史を確認し、ゆずをフォークの歴史に位
置づけることを試みた。日本のフォークに残存した“日本性”、“ダサさ”といった要素
を、ゆずは自身に内在する要素として自覚した上で意図的に模倣し前面に押し出すことで、
90 年代後半の音楽シーンとの差異を作り出していた。さらに、個人も時代も特定されな
い生々しさの欠如した歌詞でありつつ、前向きで肯定的なメッセージをもつことによって、
従来のフォークのイメージを飛び越えることを可能としていた。フォークの要素をもちつ
つもロックのリズムも導入されており、その結果、ゆずは J ポップのなかにフォークソ
ングを組み込むことに成功したと考察した。
次に第二章では、ゆずの出自である路上ライブについて言及した。路上とは不特定多数
の他者がいる「ややこしい生態系の空間」であり、他者とのコミュニケーションがゆずや
その音楽に影響を与えていたと指摘した。路上においてゆずと聴き手は同じコミュニティ
ーの仲間であり、“ゆず”と“私”という密接なコミュニケーションを可能としていた。
それは閉鎖的なコミュニティーであり、そこにはファン同士が作り出す“私たち”の意識
があった。デビュー後、閉鎖的なコミュニティーは解消されるが、プロ意識に基づいたエ
ンターテイメント性と路上的なものが、ゆずのライブには共存するようになった。
第三章では、男性二人組という形態に着目し、同じ形態をもつ CHAGE and ASKA と
KinKi Kids との比較を行うことで、ゆずの特徴を示した。CHAGE and ASKA と KinKi
Kids から聞こえてくる声はいずれも単声的である。こうしたモノフォニックな二人組に
比べると、ゆずの楽曲では二人それぞれの個性が際立つように声が配置され、二人である
からこその歌唱法が使用されていることが明らかになった。声に複数性が生じることによ
って、歌詞に多様な読みを行うことが可能となり、時には主体が複数化されて、“ゆずの
二人”と“私”、の「ような」コミュニケーションをも作り出していると考えた。
最後に、以上の論述をまとめ、ゆずが戦後ポップス界にお いてもっていた意義について、
フォークソングを J ポップに組み込んだ点、路上ライブをポップな存在に押し上げた点、
男性二人組の新しいタイプを誕生させその市場を広げた点の三つを提示した。ゆずのデビ
ュー後、ゆずのようなタイプだけでなく様々なタイプの男性二人組が登場している。ゆず
がもつ意義のなかでも特に、ゆずは二人組であることに意味がある存在なのだと強調した。
そして、ゆずの声が換喩する身体とは、「アコースティック・ギターを持って歌っている
二つの身体」なのだと述べ、結びとした。
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雑誌『Zipper』と少女文化
大平
祥子
雑誌『Zipper』(ジッパー)は 1993 年に祥伝社から創刊された雑誌で、若年層の女の子
を主な読者ターゲットに、衣服やヘアメイクなどのファッションを中心としたライフスタ
イ ル の 情 報 を 発 信 し て い る フ ァ ッ シ ョ ン 雑 誌 で あ る 。 卒 業 論 文 で は 、 雑 誌 『 Zipper』 と
『 Zipper』 が つ く り 出 す 少 女 文 化 が 如 何 な る も の で あ る か 、 そ し て そ の 文 化 を 肯 定 的 に
共有する女の子たち(以下「ジッパー系」と呼ぶ)がどのような存在であるかを明らかに
するために、様々な分析を試みた。
第一章では、「原宿」「社会的階層」「消費文化」を取り上げて、ジッパー系の女の
子たちを社会的な視点から考察した。そこからジッパー系の女の子たちは、都市空間のな
かで、路上の演技者となって無時間的に衣服の記号と戯れる若者の一部である。彼女たち
のライフスタイルの基軸となっているのは、社会的階層の上昇願望ではなく「おしゃれ」
という個人的な主観による価値観である。ジッパー系の少女文化では、モノの消費やコレ
ク シ ョ ン を 通 じ て 自 分 の 世 界 観 を 築 き 上 げ 、 フ ァ ッ シ ョ ン に 自 分 の 個 性 を 表 そ う と し、
「おしゃれ」をするという行為によって自己表現をしようとする姿が見出される。
第 二 章 で は 、 若 い 女 性 向 け フ ァ ッ シ ョ ン 雑 誌 の 『 CanCam』 、 『 Soup.』 、 『 egg』 と
『 Zipper』 を 比 較 し 分 析 す る こ と で 、 雑 誌 『 Zipper』 が 描 く 女 の 子 像 と ジ ッ パ ー 系 の 志
向性を明らかにすることを試みた。『CanCam』との比較からは雑誌と読者の距離につい
て、 『egg』 と の比 較 か らは 性 へ の眼 差 しに つ いて 、 『 Soup.』 との 比 較か ら は 流行 への
ア プ ロ ー チ に つ い て 、 『 Zipper』 の 志 向 の 独 自 性 が 明 ら か に な る 。 こ れ ら の 対 比 に よ っ
て 『 Zipper』 は そ の 情 報 を 取 り 入 れ る か ど う か を 読 者 の 手 に 委 ね る 雑 誌 で あ り 、 ジ ッ パ
ー系の女の子たちは、身体的・性的魅力よりも、衣服や所有物に示されるセンスや個性を
重視して主体的にファッションを選択し、他者との同調よりも差異化を志向する姿勢が特
徴であることを指摘した。
第三章では、「誌面デザイン」「装飾性」「古着」「ブログ」を取り上げ、ジッパー
系 の 少 女 文 化 の 深 層 に 迫 っ た 。 雑 誌 『 Zipper』 の 誌 面 に は 作 り 込 ん だ グ ラ フ ィ ッ ク デ ザ
インによって人工的なイメージの空間が作り出されており、ジッパー系の女の子たちのフ
ァッション感覚には、写真家である蜷川実花の連載「蜷川変身写真館」の作品に見られる
ようなコスプレ感覚や過剰な装飾性が内在している。古着を着ることは自分だけのオリジ
ナルなファッションスタイルを作ろうとすることであり、ジッパー系の女の子たちが自分
の世界を表現する場はブログというメディアによって Web の空間にまで広がりを見せて
いる。
ジ ッ パ ー 系 の 少 女 文 化 は 、 雑 誌 『 Zipper』 が 描 き 出 す お し ゃ れ な 空 間 の な か で 、 お し
ゃれを第一の価値として生きている女の子たちによって作り出され実践される文化である。
ジッパー系の女の子たちにとっておしゃれをするという行為は、ファッションに自分の世
界観を縮小化して提示し、自分の身体を用いて自己を表現する文化実践なのである。
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『キノの旅』論
齋藤
愛美
冒険や旅を題材にした作品で、主人公に相棒がいることは珍しくなく、互いに助け合
い、喧嘩し、仲直りするといった要素は、キャラクターを補強し読者に魅力を感じさせる
ために必要不可欠である。だが、時雨沢恵一の『キノの旅』では、主人公キノの相棒であ
るエルメスはモトラドという喋るバイクであり、自分では走ることもできないため、先に
述べた要素を充分に満たすことは難しい。そこで本論文では、キノの相棒がエルメスでな
ければならない理由を、メインキャラごとの話の傾向と、「リアル」という観点から考察
した。
第 1 章では、『キノの旅』の基本構造を述べた後、メインキャラの組ごとの役割を分
析した。『キノの旅』は、キノ達旅人が様々な国を巡り、その国の人々と関わる話がメイ
ンである。キノとエルメス以外に、シズと陸とティー、師匠と相棒の2組の旅人達がメイ
ンキャラとして登場するが、それぞれの話の時間軸が明確にされていないため、読者が自
らのデータベースを更新することでしかその関係性を把握できないという特徴がある。ま
た、各話は基本的に三人称視点で記述され、極端にデフォルメされた要素をもつ、寓 話や
風刺的内容のものが多い。このことから、メインキャラごとの話の傾向を、プロップの昔
話の構造機能を用いて示すことができるのではないかと考え、分類した。さらに、分類さ
れた機能に着目して各話を分析しなおすことで、キノ達は中立的、シズ達は正義的、師匠
達は悪的機能を持って話に登場する傾向があることを示した。
第 2 章では、諸星典子が『キノの旅』に感じた「リアル」について述べた。諸星は
「『キノの旅』を読みながら「リアル」を考える」において、「リアルであるということ
は、書かれていない情報を埋めながら読むこと」と述べた上で、『キノの旅』は話と話の
関 係 性 が つ か み づ ら い た め 、 読 者 は 「 し か け 」 を 解 い て い く た め に 話 を 操 作 し て 「 リア
ル」に読むのだとしている。また、登場する国は現実の社会問題を極端にデフォルメした
ものとして仕立てられており、デフォルメされた問題は誰にでも見えるシンプルなもので
あ る だけ に 、 読 者 の同 意 や 異論 や 反 論 を 誘発 す る とも 述 べ て い る。 こ の こと か ら 、第 1
章で示したメインキャラの機能の傾向は、デフォルメされた問題である国を強調する役割
を持っているために生じたものであり、読者から更なる同意や異論や反論を引き出してい
るとした。
第 3 章では、エルメスがキノの相棒でなくてはならない理由について述べた。キノ達
が中立的な機能を持って話に登場する以上、その行動は中立的でなければならないが、キ
ノは人間である以上、常に中立的でいることができない。そのため、キノが人間的魅力を
損なわずに中立的な立場でいられるよう、キノの迷いや苦悩をあっさりと切り捨てる機械
として、エルメスが相棒という位置にいるのだと考察した。
『キノの旅』では、読者は常に「リアル」に読むことを求められている。このときエル
メスは、読者の同意や異論や反論を引き出しやすいよう、キノを中 立的な立場でいさせる
ために、相棒としてキノの近くにおり、機能しているのである。
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ラーメンズ論―プレゼンテーションの工夫―
濱松
穂那美
ラーメンズ(Rahmens)とは、1996 年に結成された小林賢太郎(1973-)と片桐仁(1973-)の
2 人によるお笑いコンビである。テレビへの露出は少なく、舞台を中心とした活動を行な
っているが、舞台公演の模様が収録された DVD はランキングチャートの常連になるなど
一定のファン層の獲得に成功している。『演劇ぶっく』や『広告批評』に幾度となく取り
上げられ、その作風は「お笑い」としてだけでなく「演劇」や「アート」として批評され
てきた。ラーメンズに対する批評の中で「アート」と評されることに特に着目して、ラー
メンズの作品におけるコントテーマの魅せ方を捉えていくことが本稿の目的である。
第一章では、ラーメンズの立ち位置を明らかにすることを目的として、経歴をまとめラ
ーメンズのコントの特徴について考察した。第二節では、ラーメンズにおける「お笑い」
と「演劇」の両面性を『study』において確認した後、その両面性はコントという笑芸自
体が持ち合わせているものだと指摘した。そして、ラーメンズを 特徴づけるためには「ア
ート」として批評されることに着目したコントテーマの魅せ方の分析が必要だと言及した。
第二章と第三章ではこれを踏まえて、その具体的な分析を行なった。
ま ず 第 二 章 で は 、 「 分 割 」 と 「 結 合 」 と い う 視 点 を 分 析 の 軸 に 置 い た 。 第 一 節 で は、
『アカミー賞授賞式』と『モーフィング』の両コントに「分割」と「結合」の手法が用い
られていることを指摘し、通常のコントの形式にズレを生じさせていることを論じた。第
二節では、「分割」と「結合」の手法を用いることで心の具現化を可能にしたコントとし
て 、 『 心 の 中 の 男 』 と 『 バ ー ス デ ー 』 を 分 析 し た 。 こ れ ら 四 つ の コ ン ト は 、 「 分 割 」と
「結合」の手法が用いられている点で共通しているが、似たコントとは言い難い。それは、
「分割」と「結合」の多様な種類で魅せ方を変えているためである。このことから第二章
では、コントの要素として魅せ方が重要だということを逆説的に証明することができた。
次に第三章では、ラーメンズにおける「アート」性を特徴づけるために、視覚的要素を
軸とした非言語的空間の分析を行なった。第一節では、言葉との対比の中で仕草について
取り上げた。小林が言葉よりも仕草の方を表現方法として優先していると述べた言論を紹
介した後に、その思想を表現していると思われる『透明人間』を分析した。コント内で小
林が演じた「息子」の被抑圧的な仕草のみの表現は、言葉の「強さ」に対する仕草の「弱
さ」ゆえに「息子」のことを語る雄弁なものとなっていると論じた。第二節では、視覚的
な美について言及した。『時間電話』と『本人不在』におけるそれぞれの冒頭場面は、視
覚的なこだわりが感じられる上に物語展開が凝縮された場面であることを論じあげた。ま
た、分析対象の中で唯一「戯曲化不可能」として小林賢太郎戯曲集から割愛された
『count』では、数の意味を視覚的要素のみで解釈を施しており、そのうちの「鯨」の解
釈はこのコントが収録された公演名『鯨』を象徴する点でラーメンズにおける「アート」
性を特徴づけるものであった。
結果的に本稿は、ラーメンズのコント分析がメインとなってしまった点で彼等を論じき
るには不足な点が多々あることは否めない。しかし、「分割」と「結合」の手法を指摘し
たことや「アート」性を特徴づけたことは、ラーメンズのコントにおけるプレゼンテーシ
ョンの工夫については言及することができたと思う。
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初音ミク消費体系
古田
和人
『初音ミク消費体系』では、人々の自己表現の可能性を大きく広げた『初音ミク』と
いう存在が、どのように消費されているのかを明らかにする事で、今日のサブカルチャー
全体で起きている人々の消費行動の仕組みを改めて見直し、 90 年代と比べてインターネ
ットが人々に及ぼす影響がより強まった、日本全体における消費行動に新たな変化が起き
ているかどうかを探ることを目的としている。しかし 2008 年の時点で、『初音ミク』の
消費のされ方は、『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』の著者である
東浩紀氏によって既に示されている。だが、その 後 3 年間でミクは新たな領域に進出し
ている。その変化はミクの消費のされ方にも変化を及ぼしているという推測から、一旦白
紙の戻し、一からミクについて考察し直す必要があると考え、考察を進めた。
全体の流れとしては、現実の世界におけるライブの実施や、コマーシャルへの起用な
どの 2008 年以降に新しく始まった活動を含め、様々な角度から改めてミクを見直し、従
来の消費のされ方と比較してそこに生じていると思われる変化を見極めるという手順を踏
んだ。
そういった新しい活動の発生がどのようにして成立しているのかを明らかにするため
に、まずはミクの性質を明らかにする所から始め、ミクの主な活動拠点ともなる『ニコニ
コ動画』についても合わせて分析した。
ミ ク を 分 析 す る に あ た り 、 伊 藤 剛 氏 の 『 テ ヅ カ ・ イ ズ ・ デ ッ ド 』 の 内 容 に 沿 う 形 で、
「 キ ャ ラ 」 と 「 キ ャ ラ ク タ ー 」 の 考 え 方 を 使 用 し 、 背 景 に 物 語 を 持 た な か っ た ミ ク が、
人々が作成した楽曲を歌うことでその背景に物語性を獲得し、その規模が大きくなるにつ
れ、つまりユーザーや楽曲の数が増えるにつれ、背景の物語は現実の世界に近づいている
ことが明らかになった。この段階で、ミクは現実の「登場人物」ともなることが判明し、
その結果として 2011 年に公開された、現実に実在するように描かれ、他の出演者と会話
をする姿も写されている米トヨタのコマーシャルが、現象としてあらわれていると述べる
に至った。
つまり新たな活動の一つのコマーシャルについては、その消費行動の変化によって生
じたものではなく、もともと形成されていた消費システムの中で、一般のアイドル達がそ
の活動の幅を広げるように行われた、商業的な現象であったのだ。
ライブの実施についても、同様の仕組みであるということも同時に判明し、その後
『消費』の視点から考察を進めたが、この結論以上の成果は出ず、当初の「ミクの消費の
され方に変化が起きている」という仮説を立証することは出来なかった。
つまり『初音ミク』を通して見た時、サブカルチャー全体で起きているであろう消費
行動の変化を明らかにする事は出来ず、人々がミクを消費する仕組みにも変化は無かった
のである。
37
ミヒャエル・ハネケ作品論
大橋 あゆ美
ミヒャエル・ハネケは 1989 年、『セブンス・コンチネント』で映画監督としてデビュ
ーしてから 2010 年公開の『白いリボン』に至るまで、11 作 の映画作品を生み出してい
る。彼の作品が評されるとき、よく言われるのは暴力表現の独特さである。ハネケの作品
における暴力表現は決して年齢制限規定を適用されるようなスプラッタ的なものではない。
むしろ暴力表現については非常に慎重であるとさえ言える。この論文では、ハネケの作品
におけるそうした特異な暴力表現が、観客に対してどのように作用するのかを論じた。
第一章では、『ファニー・ゲーム』、『ファニー・ゲーム U.S.A』、『白いリボン』の
三作品において、子どもが暴力的な状況に追い込まれるという物語構成と、子どもに対す
る暴力表現がどのように描かれているかについて考察した。そしてハネケは暴力が人を選
別することなくふりかかるという事情を観客にリアリスティックに伝えようとしているの
ではないかと結論づけた。
第二章では、ハネケの作品ではビデオテープやテレビニュースなどの二次的な映像が
物語の中に組み込まれていることを踏まえて、二次的な映像と暴力表現との関わりについ
て考察し、二次的な映像の使用は観客にとっては物語への没頭を妨げるものの、“映像を
観る”という行為を観客自身に再認識させる装置になっていることを指摘した。
第三章では、ハネケが暴力行為を直接描写するのではなく、暴力行為を見ている人間
を映すことで間接的に描写するという方法をしばしば用いる理由について考察した。そし
ていくつかのホラー映画やパニック映画を例に挙げながら比較検討し、あえて暴力的な場
面を描かないという手法がより強く観客の想像力を喚起し、その恐怖や不安に訴えかける
効果を持つことを指摘した。
第四章は、三章とは逆に、暴力的行為を直接描写している作品群について考察した。
この場合、ハネケが狙ったのは傷つけられる身体や血の描写そのもので観客を映画にのめ
りこませることでなく、そうした暴力的行為に至るまでの登場人物の内面や動機について
観客の興味をかきたてることであったと論じた。
第五章では、ハネケの初期作品である「感情の氷河化」三部作を中心に、ハネケ作品
における登場人物について考察し、観客は、自分と近い生活をしている登場人物たちが 不
条理なほどの暴力的な状況に陥っていく様子を見ることで、ある種の解放感を感じるので
はないかという分析を行った。
最後に、これら全五章の分析を踏まえて結論を出した。観客は、ハネケ作品における
特異な暴力表現に出会い、物語への没頭を中断させられるような映像表現にさらされ、自
分なりに作品の中に答えを見つけることを余儀なくされ るが、そのような過程をたどりな
がら自分が映像を観るということの意味を再認識させられるのではないだろうか。
38
アメリカン・カートゥーンアニメーションの分析―ディズニー・ライバルズの黄金期―
鶴巻
春翔
アメリカでは、1910 年代後半から 1960 年代にカートゥーンと呼ばれる短編アニメー
ションが映画館で上映されていた。トーキーが導入され始めた 1928 年から各スタジオが
閉 鎖 を 始 め る 1960 年 代 ま で の 間 が カ ー ト ゥ ー ン の 黄 金 期 と さ れ て い る 。 そ の 中 で も
1930 年 代 は デ ィ ズ ニ ー の 独 走 状 態 で あ り ラ イ バ ル た ち は デ ィ ズ ニ ー を 真 似 て い た が 、
1940 年代に入るとそうした状態に変化が生じる。本稿では、ディズニーのライバルで 40
年代以降ディズニーから短編カートゥーンのトップを奪うようになったワーナー・ブラザ
ーズ(以下ワーナー)と MGM の作品を取り上げ、ディズニーとの相違点がどこにある
のか、また人気を博した要因が何であったのかを考察した。
第 1 章では 1930 年代のディズニー、ワーナー、MGM の作品を取り上げた。30 年代の
ディズニーは従来のギャグ重視からストーリー重視へと方向転換し、作品をより感動的な
ものにするためにキャラクターの表情や動きのリア ルさを追求していった。他方、ワーナ
ーは当初、ディズニーに倣っていたが、監督が替わったことでディズニーとは違う方向性
の作品を製作し始めた。また MGM はディズニーと同じような作品でディズニーに対抗
しようとした。しかし両社ともディズニーを追い抜くにはいたらなかった。
第 2 章では、1940 年代以降のワーナーと MGM の作品を取り上げ、ヒットするように
なった要因とそれぞれの作品やスター・キャラクターの特徴について論じた。ヒットの要
因としては、40 年代に入るとディズニーからの人材流入などによりアニメーションの技
術が向上したことに加え、第二次世界大戦中という暗い時代であるためにかえって笑える
作品がうけるようになったことがあると考えられる。ワーナーは様々なスター・キャラク
ターが登場するヴァリエーション豊かな作品を製作し、 MGM はスピードと絶妙なテンポ、
刺激的な視覚表現を用いた作品を製作した。
第 3 章では 30 年代のディズニー作品と 40 年代のワーナー、MGM の作品との相違点
について論じた。30 年代のディズニーはストーリー重視で心温まる内容の作品を作って
いた。そこではギャグも作品を盛り上げるための1つの要素でしかなかった。しかし 40
年代のワーナーと MGM では過激なギャグを連発した喜劇性の強い作品がメインとなり、
それにあわせてキャラクターたちもディズニーに比べると攻撃的になってくる。また、ア
ニメーションの絵柄に関しては、ディズニーが 3 次元的なリアルさを打ち出したのに対
して、ワーナーと MGM は 2 次元性を全面的に押し出していった。
以上見てきたように、40 年代以降のワーナーと MGM は、30 年代のディズニーとは異
なる表現方法や内容の作品を製作して人気を博した。両社の作品はその時代の人々が求め
るものに一致しただけでなく、ディズニーに劣らない技術でもって表現されたからこそ観
客の大きな支持を得たのだと結論付けた。
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