第3回(5/14) パリの城壁の歴史 — 前代未聞7回もの「脱皮」— Ⅰ 歴史

横浜市立大学エクステンション講座
エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第3回(5/14) パリの城壁の歴史 — 前代未聞7回もの「脱皮」—
Ⅰ
歴史の町パリ
1 パリの魅力
パリは世界中の人々の憧れの町である。パリがなぜ魅力的であるかについて解釈は、
その町が①現代的機能性、②歴史性、③国際性、④開放性を具備しているからだ。
① 「現代的機能性」とは、ここが過去の遺跡ではなく、ヨーロッパの事実上の首都と
して現に立派に生きつづけている町であることである。
② 「歴史性」とは、①の正反対、つまりこの街が2千年以上の年輪を刻んだ都市であ
ることである。パリの魅力の大半はここから発する。
③ 「国際性」とは、この町が古今を通じコスモポリタン的雰囲気を湛えていることで
ある。パリの発展は、歴代王朝の首都であったこともあるが、それ以上にキリスト
教神学の中心地として宗教・哲学・思想・科学を養い異国から多数の学徒と貴顕を
引き寄せたことによって支えられている。
④ 「開放性」- 解放性といってもよい- とは、この町が自由と人権の避難場所
として、ヨーロッパ諸国から絶え間なく政治的異端者を引き寄せた事実を指す。
パリはこのように多様な顔をもち、この町の特性を一義的に定めることはできない。
実は、パリの魅力とはこのような雑多性にあるともいえよう。これら4要素のどれひと
つを欠いてもその魅力は半減する。また、この4要素すべてを具備した町は世界中でパ
リ以外にはないといっても過言ではない。
2 「パリは1日にして成らず」
パリの魅力のすべてを語ることは時間の制約と筆者の能力を超えることなので、ここ
では②の歴史性について主題を絞り、なかでもパリの城壁の問題に絞って知られざるパ
リの一面に迫ることにしたい。その前に大まかにせよ、パリの発展に固有の条件につい
て概観しておく必要があろう。
「ローマは1日にして成らず」
「パリは1日にして成らず」- この成句はむろん、
の成句を捩ったものだが、言われていることは真実である。じっさい、パリは2千年以
上もの長い時を刻む町であり、古い遺跡が各所に残っている。驚嘆すべきことは歴史の
長さではなく、この町がポンペイのような廃墟ではなく生きている町であることだ。
17
つまり、パリは日々新たに古い衣を脱ぎ捨て、新しい時代の要請に応え模様換えをし
てきたのだ。巨大な古都市は戦災、火災、地震に遭遇し灰燼に帰すという経験をもたず
[注]
、古いものがそっくりそのまま残るという経緯を経てきたのだ。これは僥倖にちが
いなかろうが、都市刷新の立場からみると、重荷になったはずである。つまり、古いも
のを少しずつ壊し新しいものに取り換えるという、いわば“ツギハギ応急修理”に終始
したのだ。これはいつの世でもパリの苦悩の種となった。
[注]ナポレオン一世が没落したとき、2度(1814 年と 1815 年)にわたって敵の占領下におかれたが、パ
リは焼かれたのではない。1870~71 年の普仏戦争とパリ・コミューン騒動で都心部の一部は炎上した
が、すべてではなかった。また、第一次世界大戦のとき、パリ近郊 40kmまで迫るドイツ軍はこの町
を砲撃したが、罹災家屋はそれほど多くはない。さらに第二次世界大戦のとき、パリは、窮迫してく
る独軍に対し、国家の降伏宣言に先んじて降伏開城したため罹災を免れた。1944 年8月のパリ蜂起時
にも多少建物への被害は出たが、パリ占領軍総司令官フォン・ホルティッツ将軍がヒトラーの命に背
き歴史的記念物の爆破を中止したため、甚大な被害を出さずに済んだ。
とはいえ、古い殻からの脱皮の仕方というのはわれわれの眼からすれば、お見事!と
しか言いようのないものがある。過去の遺物=伝統の保存と新しい独創の移入のバラン
スは真似ようのない出来栄えで、都市計画そのものが一つの芸術作品であるかのようだ。
新旧の混在状況は市内の建物や街路を見ればすぐわかる。建物の一部(たとえば壁面)
が様式や装飾からいって周囲と馴染まないところがある。たいていのばあい、それらは
歴史的記念物である。また、折れ曲がった街路は中世の名残であり、これが不便である
のは当然だが、
「名残」であればこそ、簡単に拡幅や直線化ができないのだ。パリ市内の
主要な交通手段は地下鉄(メトロポリタン鉄道、略称メトロ)であるが、これも街路整
備不良に対する代替手段として発達してきたのである。
パリの変化は漸次的であった。ときどき偉大な王や偉大な皇帝のもとで抜本的改修を
受けることはあっても、それは全体からみれば一部分でしかない。たとえば、パリの象
徴としてのノートル=ダム大聖堂の建設工事が始まるのが 1163 年、完工が 1300 年で、実
に 137 年間の長い年月をくぐり抜けている。この息の長さは“木と竹の文化”=日本文
化に対する“石の文化”の西洋文化の特質のなせるところでもある。
また、シテ島を介しセーヌ左岸と右岸を連結する橋にポン・ヌフ(新橋の意)がある。
これはその名称とは逆に、現存する橋の中でパリ最古の橋だが、架橋の計画立案から完
成までに実に 30 年を要している。さらに、現パリ第4区のヴォージュ広場- 昔は決
闘場で有名- はいくたびも形を変えられ、
現在の形に落ち着くまでに 300 年を要した。
新しいところでは、
「新凱旋門」と高層ビルディングなどでパリの新名所となった(1989
年の革命二百年祭記念碑)デファンス地区の立案は半世紀前の 1959 年に溯る。
パリは確かに華麗さを誇るが、どんな都市もこれを真似ようとしても2千年の時間差
を埋めることはできない。真似できることがあるとすれば、それは都市計画の息の長さ、
つまり、何世紀かかっても当初計画を執拗に追求するという一貫した態度であるだろう。
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3 パリ発展の自然的条件
成長する都市はたいていのばあい、有利な自然的条件を従えている。自然的条件は多
少、時代的変遷を辿るが、大まかにいって
(1)肥沃な穀倉地帯をもつこと
(2)交通の要衝であること
(3)防備に有利な天然の要害であること、などである。
パリはこの3つの要素のすべてを具えている。
パリは、総面積 18 万平方キロメートルに達するパリ盆地のほぼ中心に位置する。この
広さはフランス全土の3分の1、日本全土の約半分に相当する広さである。その平均高
度は 178m、高い山は皆無だ。しかもこの盆地は、北部がイル=ド=フランス、東部にシ
ャンパーニュ、西南部がボースというヨーロッパ有数の穀倉地帯、肥沃な原野を従えて
いる。フランク族の豪族カペー家が統一国家の中核となりえたのも、この穀倉地帯があ
ったからで、パリはカペー家の運命と軌を一にし、両者が百年戦争や宗教戦争で一時衰
退を味わってもすぐに勢力を盛り返したのは、この穀倉地帯をかかえていたためである。
パリの“地の利”の第二は、そこが河川の合流点に位置した点にある。セーヌ、マル
ヌ、オワーズ、ヨンヌ、ロワンの各河川がパリ近郊で合流し、水上交通の要衝を形づく
る。都市というのは基本的に商工業に依存し、たいていは商業路の交錯地点で発達する。
陸上交通も大切だが、ヨーロッパでは水上交通はそれ以上に大切だった。穀物や原料な
ど重い嵩ばる商品の輸送にはこのほうが適していた。パリにとってセーヌが“母”に譬
えられるように、そこは物資補給の要となり、フランドルやシャンパーニュの都市との
連絡路でもあった。
最後に、軍事上の利点の問題に移ろう。パリはセーヌ川の川中島シテ[注]で生まれた。
これは長さ=1.1km、幅=0.25kmの比較的大きな島である。シテ島は外敵侵入の際の避
難所となった。9世紀のノルマン人の4度にわたる激しい来襲を防いだのも、この天然
の要害に恵まれていたからこそである。それは、同じようにセーヌ川沿岸に発達した都
市ルーアンが陥落しノルマン人の定植地となったのと好対照をなす。
[注]「シテ Cité」は英語の City と同義で、防柵(壁)で囲まれた集落という意である。
しかも、シテ島の北側の右岸にはメニルモンタン、ベルヴィル、モンマルトルの丘地、
南側=左岸にはサント= ジュヌヴィエーヴ、モンパルナスの丘地があり、西方には今で
こそ大土木工事で低く均らされてしまったが、エトワール丘とシャイヨー丘が控えてお
り、それぞれ防備上前進基地の役割を担った。さらにパリの東側でマルヌ川が深い谷を
穿ち、進撃する外敵の前に立ちはだかった。
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Ⅱ
城壁の歴史
本題の城壁の問題に入ろう。前述のように、都市の発展にとって軍事的防衛の問題は
われわれ日本人が想像できないほどの重要課題であるが、それを“地の利”だけで解決
済みにはならない。さらに、人工の防備施設=城壁を築かねばならなかった。ヨーロッ
パの都市はいずれもほとんど例外なく城壁をもっている。これは反面、都市の成長にと
って足枷となる。つまり、大きくなった子どもが絶えず衣服を替えなければならないよ
うに、都市は成長するに合わせ、絶えず古い城壁を取り壊し、新しい城壁を築かねばな
らなかったのだ。
じっさい、パリは過去に6度ほど城壁の構築、取り壊し、再構築を経験する。これほ
ど頻度の「脱皮」はヨーロッパの町で他に類例を見ない。成長が早かったということだ。
1670 年、ルイ十四世のもとで城壁はいったん撤去されたが、170 年後の 1841 年に再び城
壁を築かねばならないはめに陥っている。ヨーロッパの覇者となったルイ十四世は城壁
不要と考えたが、19 世紀初におけるナポレオン戦争の敗北は外敵にパリ入城を許し、こ
の屈辱感からパリはまたもや、比類なき規模の城壁をもつにいたったのである。
パリが城壁の衣を脱ぎ捨てるのは第一次世界大戦後となる。すでに戦法が根本的に変
わり(空襲!)
、町を守るのに城壁はもはや意味をなさなくなったからだ。
1 パリジィ人の居住地=シテ島
今日エッフェル塔の観覧台からパリの中心部を観望したとしても、昔の光景を想像す
るのは難しい。2 千年前のそこは狼、熊、カワウソ、ビーバーの生息する森と沼沢地で
あった。この盥状の地に定植したのはケルト系半遊牧民パリジィ人であった。
「パリ」の
語源はここに発する。いつ定着したかは不確かだが、ローマ軍の侵攻を受ける半世紀ほ
ど前(紀元前1世紀?)と推定される。彼らは狩猟と漁撈を営み、必要に迫られないか
ぎり、土地を耕作することはなかった。彼らはシテ島に居住地[注]を定めた。ここはセ
ーヌ川と南北道路の十字路に位置し、イギリスおよびフランドルから南方へ錫と織物を
輸送する途中にあった。
[注]1967 年、ノートル=ダムの前庭の地下においてパリジィ人の遺跡が発見された。シテ島の北側サン=
マルタン地域は低地であったが、ところどころに砂利状の台地を形づくっており、セーヌの水嵩が増
したとき、そこは避難所の役割を果たした。サン= マルタン地域の境界は幅 300~400mの半輪環状の
枯れ川であり、ちょっとした増水でも水路となった。これは現在のグラン・ブルヴァール(
「大通り」
)
にほぼ重なる。
2 リュテス- ローマ都市の誕生
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紀元前 51 年、土着のガリア人の英雄ヴェルサンジェトリクスがついにアレジアでロー
マ軍の軍門に降った。紀元前 58 年からつづくローマ軍との激闘(ガリア戦役)はこうし
て百年後に決着がついた。シテ島に立て籠もるパリジィ人はローマ軍の侵攻に激しく抵
抗していたが、ユリウス・カエサル(英語名シーザー)が派遣したラビエヌス麾下のロ
ーマ軍の猛攻を前にして、自らの居住地に火を放って島を撤退した。
代わってローマ人がシテ島を支配する。ローマ人はここを中心として町を築いた。こ
れが、ケルト語で「沼」意味するリュテスの始まりである。最初のゲルマン人が侵入す
る紀元 253 年まで、リュテスは繁栄する。ローマ帝国は強大であって外敵を恐れる必要
がなかったため、町は城壁をもたなかった。
当時、ガリア人の居住地シテにおける住居は木材と粘土で造られていたが、数少ない
ローマ人の公共建築物だけが石造であった。気候は湿度が高く、セーヌはたびたび氾濫
を起こした。左岸の山の手がローマ人の居住地であり、ここはセーヌの氾濫を避けるこ
とができ、都市計画に基づくローマ風様式の建築物を備えていた。公共浴場、広場、円
形闘技場、劇場など。19 世紀後半、これらの遺跡は次々と発掘され、一大古代ブームを
巻き起こした。
3 異民族(ゲルマン、フン、ヴィキング)の侵入(253~911 年)
3世紀末、異民族がローマ帝国のいたるところに侵入し、略奪・殺戮・破壊の限りを
つくした。パリの山の手はいくたびも襲撃されたが、シテは川中島という地の利のせい
で防御に成功した。
この侵入に備えて最初の城壁が構築された。ノートル=ダム大聖堂の地下礼拝堂にその
痕跡が残っている。防壁構築のために、シテ島に大々的な土盛りがなされた。
異民族の波状攻撃に対し、リュテスはことごとく撃退に成功した。同じころ、キリス
ト教が不断の広がりを見せるようになっていた。サン=ドニ(ドニ聖人)が殉教者となっ
た 250 年、キリスト教がリュテスを征服した。313 年、ローマ皇帝コンスタンティヌス
はシテ島での新宗教の祭式を許可した。
360 年、リュテスはパリ(Civitas parisorium、パリジィの町)と改名する。
「パリ」
の誕生である。ローマ人のガリア総督ユリアヌスが武力で皇帝の地位に就いた。
406 年、ガリアはフランク族の侵入を受け、これが同地の支配者となった。
450 年、アジア系フン族が侵入。アッチラ率いる獰猛野蛮なフンは各地を荒しまわり、
彼らの接近の噂を聞いただけで住民は震えあがるしまつだった。パリの住民も浮き足立
ち、すぐさま逃亡しようとした。しかし、聖女ジュヌヴィエーヴの激励を受けて防戦に
転じた。アッチラの大軍は 451 年、最終的にカタラウヌムの戦いで、ローマ軍総司令ア
エティウスとフランク族首長メロヴィニの同盟軍に屈した。かくて、パリは救われた。
メロヴィニの孫クローヴィスが 496 年にキリスト教に改宗し、508 年、パリはフランク
王国の首都になった。これはこの町の運命にとって決定的な出来事となった。
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732 年、ポワティエの戦いでイスラム教徒に勝利した宮宰シャルル・マルテルは、イ
スラムの支配をピレネー以南に食い止めることに成功。このとき以来、パリは西方キリ
スト教世界の首都への道を歩みはじめる。
しかし、シャルルマーニュ(カール大帝)が神聖ローマ帝国の首都をアーヘン(仏名
Aix-la-Chapelle )に移したとき、パリの政治的、文化的影響力は一時的に衰えた。
最後の侵入者は海賊ヴィキングである。856 年と 881 年、ヴィキングはパリを襲撃し
略奪を繰り返した。住民はすぐさま防御反撃に取りかかる。そして最後の決戦を迎えた。
885 年 11 月 24 日、防備を施されたグラン・ポン(大橋)とプチ・ポン(小橋)はヴ
ィキングの 700 隻の行く手を遮る。ヴィキングはブルゴーニュ地方の劫略をめざし、セ
ーヌ川を溯っていたのである。首領シーグフリートはパリ伯ウードに向かって迫る。
「町
を略奪されたくなければここを通せ」
、と。ウード伯はきっぱり断る。
11 月 26 日の払暁、ヴィキングがグラン・ポンを攻撃したのを皮切りに激戦がはじま
った。包囲は1年間つづく。飢饉、疫病、激闘に明け暮れした1年であった。
長期戦を覚悟したヴィキングはサン=ジェルマン・デ・プレ大修道院に本拠を設け、付
近を荒しまわった。塔屋戦車、火船などを用いて攻略につとめるが、それでもなおパリ
は陥ちない。均衡が崩れたのは自然災害のせいだ。時ならぬセーヌの増水がプチ・ポン
を押し流し、左岸の陣地を孤立させた。ヴィキングはチャンス! とばかり、激しく攻め
立てる。左岸の旧オテル・デュー(施療院)の石板に、このとき犠牲となったパリ兵の
名前が刻まれている。数か月後、ウード伯はシャルル肥満王に救援を頼みにパリを離れ
た。シャルル王は8カ月後に戻り、ヴィキングと交渉する。その結果、700 万リーヴル
金貨の支払いを条件に、シテ島を離れたところで船を陸揚げしパリの横手を通り過ぎ、
ブルゴーニュ向かうことが決まった。
911 年、サン=クレール=シュル=エプト条約はヴィキングにノルマンディを与え、ノル
マンディ公国が誕生した。これによりノルマン人とフランクの争いは終止符を打った。
4 中世の城壁
異民族侵入が終わっても、騒動や不安が鎮まるというわけでもなかった。カペー朝の
第7代国王ルイ七世(在位 1137~80 年)はパリにいくらか防御工事を施し、グラン・シ
ャトレと新グラン・ポン(のちのポン・ト・シャンジュ=両替橋)を建造させた。この
橋がシテ島にある王宮に繋がっていた。プチ・シャトレはセーヌ左岸を防御した。要す
るに、グラン・シャトレとプチ・シャトレは、城壁を施されたシテ島の外部要塞の役割
をもたされたのだ。右岸と左岸にはまだ環状城壁はない。それは次代フィリップ=オーギ
ュスト(二世、威厳王、在位 1180~1223 年)の仕事である。
フィリップ=オーギュストはその渾名のとおり、神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)
、イギ
リス王、ブルゴーニュ侯の同盟軍に挟まれながら、ローマ教皇軍を味方に、彼らを撃破
し(1214 年、ブヴィーヌの戦い)フランス王国の盛名を一挙に高らしめた王である。フ
ランス人はフィリップ王を誇りにする。同王は 1190 年頃、決戦に備えパリ城壁[注]の
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建造にとりかかった。かくて、パリは周囲 5.3kmの城壁で閉じられ。その面積は 253
m2となった。これはまだ堀こそないが、直径6mの 67 個の塔屋をもち、西方はルーヴ
ル要塞とネスル塔で守られていた。この城壁は、
「フィリップ=オーギュストの壁」とい
う通り名で知られる。
[注]左岸のクローヴィス通り3番地、右岸のジャルダン= サン= ポール通りとフラン= ブルジョア通り
57 番地、そして、ルーヴルの方形中庭にこの当時の城壁の名残が見出だせる。
城壁は高さ6m、厚さ3mで、市門は6か所だった。防備上の弱点を補うために複雑
な装置が施されていた。これはパリに限らず、中世の城郭都市でごくふつうに見られる
ものだ。
(1)壁を攀のぼる兵士に、沸騰した油や岩石を浴びせるための狭間
(2) 城壁最頂部の巡警路を包囲軍の射撃から保護するための、狭間をもつ櫓
(3) 城壁監視と死角除去のための物見櫓- 大きな塔に突き出す形で付属する小塔
「フィリップ=オーギュストの壁」はすぐに追い越される。すなわち、パリは外に向か
って成長を止めなかったからだ。城壁外の道沿いの集落はしだいに集まりはじめ、サン=
ポール、サン=マルタン・デ・シャン、サン=ジェルマンなどがそれである。
英仏百年戦争(1337~1453 年)の脅威はパリに新たな城壁の構築を余儀なくさせた。
これが「シャルル五世(在位 1364~80 年)の壁」である。1356 年、王はパリ市長エテ
ィエンヌ・マルセルに城壁構築を命じた。フィリップ王の城壁に似た、この新しい城壁
はパリに 166 ヘクタールを付加した。新しいのは、これが二重の水濠で守られている点
にある。この堀はのちに環状道路[注]になる。1370 年にルーヴル宮と同形のバスティー
ユ要塞が東方に建造された。
[注]マザリーヌ通り、アンシエンヌ・コメディ通り、フォッセ・サン=ジャック通り、クレリー通り、サ
ン=ドニ大通り、サン=マルタン大通り、ボーマルシェ大通り、サン=マルタン運河。
5 ルイ十三世の壁
宗教戦争が一段落すると、ルイ十三世(在位 1610~43 年)は長いあいだ放置されてい
た新城壁の問題を取りあげる。これは、シャルル九世(在位 1560~73 年)が着工したも
のだった。近代に登場した大砲の射程距離と命中精度は陳腐な城壁の抵抗力を奪った。
狙われやすい高塔は低い塔に置き換えられた。長方形の陣地は多角形のそれに代わった。
この新型城壁は次代ルイ十四世治下、ヴォーバン(1633~1707 年)が創始した要塞で一
時代をかたちづくる。だが、陣形の偉容こそ立派だったが、これは維持管理が不十分で
すぐに用をなさなくなった。
ルイ十四世(太陽王、在位 1643~1715 年)治下の 1670 年、パリの都市化にとって画
期的な出来事が生じた。この年、パリは“開かれた町”になったのだ。時はフランスの
全盛期、ヨーロッパの覇者となったフランスにもはや城壁は要らないというのがその理
由。じっさい、以後の1世紀半ものあいだ外国軍はパリの地を踏まないはずである。
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かくて、ルイ王はシャルル五世とルイ十三世の城壁の撤去を命じた。跡地に幅 36mの
大通りを走らせ、両側を植樹させた。こうしてセーヌ右岸に、今日のパリの名勝のひと
つ「グラン・ブルヴァール」が誕生した。左岸はミディ大通りとなる。ここは格好の散
歩道(プロムナード)となった。当時のヨーロッパでこれほど広い幅の道路は存在しな
かった。同時に贅沢な装飾をもつサン=ドニ門とサン=マルタン門がつくられ、内外の都
市装飾に大きな影響を与えた。
6 徴税請負人の柵(1784~87 年)
ルイ十六世治下で、ふたたびパリは囲まれることになった。これは外敵から防御する
ための城壁ではなく、入市税を徴収するための柵である。パリ市民は次のような歌で揶
揄する。
おカネを殖やし
わが地平線を短くするため
徴税請負制を必要とみなすのだ
パリを牢獄となすことも
これは高さ 3.5m、長さ 23kmの柵であり、巡警路を備えていた。内部面積は 3,370
m2に達した。柵の外 100 m以内に建造物をつくることは禁止された。60 か所に関所が
設けられた。
こうした自由への拘束はパリ市民の不平の的であり、すぐに有名な故事成句を生んだ。
“Le mur murant Paris rend Paris murmurant.”
(パリを囲む壁はパリ人に不平を言わしめる)
密輸入[注]が横行し、関所の近くでは暴動が頻発した。
「徴税請負人の柵」は市民と市
外住民の不満を募らせ、大革命を誘発する。
[注]密輸入は地下の石切場跡地を通して行われた。パリの地下には縦横に石切場跡地が残っており、そ
こに闇商人らがトンネルを掘って、
「柵」の内外の物資の輸送路として利用したのである。
7 バスティーユ
シャルル五世の城壁の東端がサン=タントワーヌ門であった。門の外は広場であったが、
この門を守る必要から、ここに2つの塔を備えた防御施設(バスティオン)が造られた。
「バスティオン」が固有名詞に転化し、人はいつしか「バスティーユ」と言うようにな
った。
バスティーユ要塞は高さ 20mの塔をもっていた。塔間を厚さ 2mの壁が繋ぐ。この要
塞はルーヴル要塞と瓜ふたつであり、サン=ポールの国王行在所を守る。セーヌの水を引
いて堀が水を湛える。葦の生い茂るこの場所は湿っぽく、人々は蛙と川魚を釣った。
14 世紀から 16 世紀にかけてバスティーユは激しい攻防の舞台となりつづけた。とく
に百年戦争時は内紛を招き、アルマニャック党とブルギニョン党はこの要塞の争奪戦を
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くりひろげた。1536 年、シャルル五世の城壁の東の部分が取り壊されてバスティーユと
繋がる。しかし、大砲の発達のせいで防御施設としての要塞の役割は徐々に減じていく。
ルイ十三世の低い防御施設の東端でバスティーユは、中世的な名残をとどめる高さを
誇っていた。しかし、都市化がこの要塞を包み込むとともに、要塞は牢獄に転用された。
ルイ十三世の寵臣リシュリューは政敵を捕えてはバスティーユ牢獄に送った。
収監の状況は身分に応じてまちまちだった。低身分の者は、増水時には水没する牢に
入れられ、貴人は特製の独房に入れられた。1709 年、前者に収監されたコンスタンマン・
ド・レンヌヴィルは、
「私は藁もなく、身を横たえるべき石床もなく、独房の泥のなかに
長時間繋がれた。餓死寸前になってようやく外に出された」
、と書き残した。反対にサド
侯爵は見張りがいないときは、地酒のサービスまで受けることができた。
1789 年 7 月 14 日のバスティーユ奪取はとくに有名である。監獄長ド・ローネィはス
イス傭兵とともに激しく抵抗したが、ついに降伏。そのとき、7人の囚人しかいなかっ
た。彼らは政治犯ではなくコソ泥であったが、革命派に救出されて英雄扱いされた。
ルイ十六世はまだ王座にあるとき、都市発展の障害物たるバスティーユの撤去を願っ
ていた。この工事は 1789 年に始まる。暴政の象徴としてのバスティーユは真っ先に革命
派の生け贄にされたのだ。跡地は均されて広場となった。
第一帝政下、この広場に高さ 15mの青銅製の像を建造する計画がもちあがった。しか
し、この工事は木と石灰製の像の雛型ができたところで中断された。これは 1846 年まで、
風雨に打たれ鼠に齧られながら醜い姿を晒していた。
「バスティーユの象」がこれだ。
1840 年、この広場に 1830 年の革命の戦闘(栄光の三日間)で犠牲者となった人々の
名を刻む円柱が建造された。今も残る七月革命記念塔がこれである。
8 ティエールの壁
ナポレオン百日天下のエピソードと、それにつづく外国軍のパリ進駐の事件はパリに
ふたたび防衛の課題を突きつけた。
「徴税請負人の柵」ではとうてい防御は無理で、それ
ゆえ、七月王政下の首相ティエールは新しい城壁の建造を命じた。おりもおり、フラン
スはエジプト支配をめぐりイギリスと対立し、あわや!開戦の一歩手前まで緊張が高ま
った。この工事は 1841 年に始まり 1845 年に完成した。これは建造者の名に因み「ティ
エールの壁」と呼ばれる。多くの労働者が地方から招集されたが、やがて工事が終わる
と失業者に転じ、二月革命を準備する。
この新城壁は「徴税請負人の柵」より 1~1.5kmほど外側に総延長 39kmの大輪を描
く。城壁の 94 か所に多角形の低い稜堡が設置されていた。壁の外側に幅 15mの空堀が
穿たれ、内側には軍用道路が城壁に沿って走っていた。そして、城壁の外側、200m以内
はいっさいの建造物の構築が禁止された。外敵の監視と作戦行動のためだ。
城壁の防御は、城壁3km以内 16 か所に配置された外部要塞が受けもつ。そして、パ
リの北に隣接する町サン=ドニも要塞化された。
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パリは「ティエールの壁」で囲まれたが、市域は依然として「徴税請負人の柵」まで
である。
「柵」と「壁」のあいだの市町村は独立したままであった。ここはまだ都市化の
波の第一波が押し寄せたばかりで、大半が農地、菜園、牧地のままである。このベルト
ゾーンがパリ市に編入されるのは第二帝政下の 1860 年のことである。
この城壁が実戦で用をなしたのは2度ほどある。最初は普仏戦争時、2度目はコミュ
ーン騒動時であった。とくに後者でヴェルサイユ軍とパリ軍が激突したとき、ヴェルサ
イユ政府を代表したのが、
「壁」を建造したティエールその人であり、彼が派遣した政府
軍の行く手を遮ったのが「壁」である。皮肉なことに、ティエールは「ティエールの壁」
によって阻まれたことになる。これは、かつてギロチン処刑台を発明したギロチン男爵
がギロチンによって始末された悲劇に似ている。
ナポレオン三世が 1870 年 9 月 2 日、北仏ベルギー国境に近いスダンで降伏したのち、
プロイセン軍はパリを包囲した。それは4か月と 10 日間つづく。町の防衛はトロシュ将
軍に委託されたが、トロシュは最初からパリ防衛は無理と見なしていた。
9 月 4 日、スダン陥落の報を知るや、憤激したパリ市民は市役所に殺到し、共和政と
国防政府の樹立を宣言。ガンベッタ、ジュール・ファーヴルらが熱っぽく抗戦を訴えた
が、老革命家ブランキはさすがに憂いを包み隠さなかった。
「パリが打ち破られるように、われわれも打ち破られるだろう。高慢ちきな新聞報
道によって神秘化されたパリは危険の大きさを軽視している」
、と。
プロイセン軍は外部要塞を攻め落とし、首都を砲撃しはじめる。やがて飢えと寒さが
市民に忍び寄る。いっぽう、パリからブールジェ、ブージヴァル、シャンピニー、ビュ
ザンヴァルに向けての脱出戦の試みはいずれも失敗、残された道はビスマルクとの交渉
しかなかった。
1871 年 1 月 28 日、ヴェルサイユで休戦協定が結ばれた。それより 10 日ほど前、この
宮殿でプロイセン王はドイツ皇帝を宣言する。2 月初め、フランスに国民議会が招集さ
れ新政府が誕生、ティエールがその首班に選ばれた。
3 月 1 日、ドイツ軍は休戦協定に基づき儀式的にシャン=ゼリゼ通りを進駐したのち、
東部の外部要塞に退去した。同軍は戦後も 50 億フランの賠償金が支払われるまでフラン
スに駐留するであろう。
パリは敵兵による占領こそ免れたが、シャン=ゼリゼ大通りで敵の軍靴の音を聴かねば
ならなかったのだ。屈辱感の虜となったパリ市民は国民衛兵(民兵)を中心に武装を固
め、
「降伏派]のヴェルサイユ政府に不服従の姿勢を貫く。
3 月 18 日、ティエールはパリに残存する大砲の接収を企図し、夜陰に紛れ軍を送った
が、住民の妨害に遭い、計画は頓挫。この日からパリの謀反が決定的となる。パリのい
たるところにバリケードが築かれた。住民から孤立したティエールは軍を率いてヴェル
サイユに逃げ帰った。3 月 28 日、市役所でコミューン政府の樹立が宣言された。
ヴェルサイユに退避したティエールはドイツ宰相ビスマルクに頼んで、ドイツに抑留
されていた8万の兵士を返還してもらい、手持ちの兵と合流させた。ドイツ軍の監視下
で2度目のパリ包囲が始まる。4 月 2 日の最初の衝突の1か月半後、パリは降伏する。
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5 月 20 日、ヴェルサイユ軍はサン=クルー門よりパリに突入。同軍は西から東へ展開
し、4 日後にはほぼ都市全体を制圧する。
「血の一週間」つまり、
「一週間の残虐きわま
りない殺戮」がくりひろげられ、ペール=ラシェーズ墓地の死闘で仕上げられる。連盟兵
は墓標を盾に戦う。その間、パリ中心部が炎上し、市役所、テュイルリー宮、賞勲局、
会計院などが焼失した。5 月 28 日、コミューンは瓦解。戦闘のせいで約 2 万が戦死した。
9 城壁の撤去
1860 年、パリの市域は軍事ライン「ティエールの壁」にまで拡大された。この新境界
はほぼ現在の循環高速道路に一致する。
第二帝政期の急速な産業発展が新しい生活と労働条件を規定した。労働者階級が発展
し、長いあいだ職人的、農村的経済と結びついていたパリは新しい段階を迎える。都心
部の貧民窟がオスマン知事により一掃され、そこに住む貧民たちは「柵」または「壁」
の外側に押し出されていく。こうして新しいタイプの“囲い”が形成された。すなわち、
外側の貧民地区に対して、内側のブルジョア地区というドーナツ化現象がこれである。
パリの膨脹はその後もとどまることを知らない。1871 年の人口 184 万は 1877 年の 204
万、1896 年の 250 万を経て 1921 年の 290 万のピークに達した。それ以後は漸減傾向を
見せはじめ、現在の 219 万に向かう。
経年的にみると中心部は一貫して減少し、外周部は逆に増加しつづけていく。パリを
含む周辺諸県の全体すなわちパリ地方(日本の首都圏に相当)の人口は 1870 年の 250 万
から、1886 年の 300 万、1905 年の 400 万を経て 1920 年の 500 万に、そして、1940 年の
600 万を経て、現在の 1,200 万に到達する。
第三共和政はしばらくのあいだ、第二帝政下のオスマン知事のやり残した都市計画を
引き継ぎ実行に移す。それは 1889 年で完了した。パリは第二次大戦後の 1959 年にいた
るまでほとんど付加しない。
「付加しない」と言ったが、第三共和政がパリ・コミューン
騒動で焼失したパリ市役所など記念碑・建築物の復元のため、そして万博のたびごとの
エッフェル塔やシャイヨー宮、グラン・パレ、プティ・パレなどの施設の造営のための
努力は忘れてはならないであろう。
1919 年 4 月の法律は「ティエールの壁」の撤去を決定した。航空機が登場し、大砲の
射程距離が延びた以上、この要塞は軍事上意味を成さなくなったばかりか、パリの成長
を締めつけるベルトの役割を果たしていたからだ。1820 年に始まる撤去工事は 1924 年
一杯までかかった。すでに 1900 年にガソリンカーが誕生していたが、城壁の内側と外側
を平行して走る二重の高速道路は新たな“外敵”たる自動車の侵入に備えてのものであ
る。
(c)Michiaki Matsui 2015
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