「フランスの労働・社会保障制度の形成過程」(『前衛』2011年3月号掲載

【
『前衛』2011 年 3 月号掲載】
フランスの労働・社会保障制度の形成過程
米沢博史(党国際委員会)
(一)はじめに
本稿は、フランスの社会保障および労働者保護の施策がどのように発展してきたかを紹
介することが課題である。その際、重要な時期に絞って、どのように国民の生活を守る制
度の基本的要素が形成され、比較的高いレベルにまで発展してきたのか、その歴史的発展
の大枠に焦点を当てて概観してみたい。
まず、フランス革命期に、
「契約の自由」を絶対化した団結禁止法によって、団結を禁じ
られた労働者が、生活防衛としての共済組合を活用し、そこから抵抗組織を派生させ、つ
いには団結禁止法を廃止させていく経過を述べる。次に、資本主義の本格的発展期に、労
働組合と社会主義運動が誕生・発展するなかで社会立法が進み、第一次世界大戦を機に家
族手当と社会保険が確立されていく進展を見る。そして、第二次世界大戦直前で「マティ
ニヨン協定」による成果と、戦時中のレジスタンス全国評議会(CNR)綱領、それを引き
継いだ戦後の社会保障制度の形成過程を概観する。さらに、60 年代の「グルネル協定」に
基づく諸立法、80 年代の左翼政権時代の「オルー改革」
、1990 年代から現在に至る 35 時間
労働制をめぐる攻防を、順を追って振り返ってみる。
(二)フランス革命期と共済組合
「2 重に自由」な労働者づくりの制度化
フランス革命前の絶対王制の社会(「アンシャン・レジーム」)では、貧民救済は基本的
に、教会の慈善組織、地域共同体や職業団体が担っていた。また、この時代の労使関係は、
同業組合などの共同体内部で規律され、国家規制の枠外にあった。
1789 年のフランス革命は、貴族特権・教会の権力・同業組合・国内関税など資本主義の
自由な発展を阻害する制度を撤廃するとともに、封建的束縛もないが生産手段も持たない
「2 重に自由」な労働者づくりを促進する制度改革を行い、資本主義発展の条件をつくった。
近代啓蒙思想に影響を受けたフランス革命の思想がそのイデオロギーとなった。そのなか
に、個人の“自由意思”に基づく、個人と個人ならびに個人と国家との直接的関係を強調
し、その間に立つ中間団体を排除する論理があった。この論理に基づく立法措置は、一方
では同業組合などの封建的規制を取り払い、職業選択などを法的に自由化したが、他方で
は、労働者の団結権を“自由意思”による“平等”な労使関係を侵害する行為として否定
した。また、封建的共同体の解体はその生活扶助機能の解体をも意味した。
団結禁止法と公的扶助
憲法制定議会は、パリなどで組織化し始めていた労働運動への対策として(1)、1791 年 3
月、同業組合など中間団体を廃止する「アラルドのデクレ(政令)」を発した。その翌月、
1
パリの大工労働者などが団結して賃上げを要求すると、これを自由な経済関係の障害とし
て扱い、6 月に「ル=シャプリエ法」
(
「同一身分同一職業の労働者および職人の集合に関す
るデクレ」
)を制定した。同法は、
「自由と人権宣言(2)にたいする侵害」として、労働者と使
用者の双方の団体結成や、ストライキや請願をはじめあらゆる団体行動を禁止したうえ、
労使合意さえも無効・違憲とした。憲法制定議会で同法の提案理由を求められたル=シャプ
リエは、賃金額の決定は「個人と個人の自由な取り決め」であり、「労働者が雇用主と交わ
した取り決めを守るのは労働者である」と説明した(3)。労働者が団結して賃上げを要求する
行為は、資本家個人と労働者個人とが交わした自由な契約(「労働の自由」)に反するとい
うのである(4)。
有名な 1804 年の「ナポレオン法典」(民法典)も、労働契約の内容を、当事者の“自由
意思”による合意に委ねた(5)。さらに、1810 年の刑法改正によって、経営者の賃下げのた
めの団結の禁止(414 条)と労働者の賃上げや労働条 件改善のための団結の禁止(415 条)
の両方が刑法に明記されたうえ、20 人以上の団体結成を許可制にした。
一方、雇用関係の枠外におかれた傷病者や失業中の貧困者にたいしては、公的扶助が「国
家の神聖な義務」とされた(6)。
共済組合が生活防衛・抵抗手段として発展
1789 年のフランス革命時には、賃金労働者の数は全人口比でわずかに 2%(家族を含め
ても 150 万人で 5%)に過ぎなかった(7)。産業革命が急速に進行し、大企業の工場労働者自
身が労働運動の担い手となったイギリスと異なり、産業革命の発展が緩やかだったフラン
スでは、労働運動を主導したのは、19 世紀に入っても、主に小規模な手工業で働く熟練労
働者だった。
こうした熟練労働者の生活自衛手段となり、その後、労働運動の温床に発展したのが、
互助組織である共済組合である。
共済組合は、古いものでは 1760 年の家具職人の組合など革命前から存在していたが、フ
ランス革命で封建的共同体が解体されると、職人・熟練労働者の協力組織および集団的生
活防衛手段として、とくに国民公会時代からナポレオン帝政時代にかけて次々と結成され
た(8)。ナポレオン 1 世はこれを弾圧した。
ルイ・フィリップの「7 月王政」も当初、共済組合の阻止を図ったが、労働者の抵抗で失
敗すると、一転して容認の態度に変わった。これにより、依然として厳しく禁止されてい
た労働組合のかわりに、労働者たちは、共済組合を通じて団結を強めていくようになる。
共済組合のなかには、非合法な秘密組織として、抵抗組合を設け、ストライキの支援基金
や、使用者と賃金・労働条件などの交渉を手掛けたりする組合もできてきた(9)。
1848 年の 2 月革命直後の第 2 共和国憲法で結社権が一般的に承認された後、
ナポレオン・
ボナパルトの第 2 帝政は、共済組合を弾圧するのではなく、体制順応の組織に変質させよ
うと画策した。1850 年 7 月 15 日法での合法化および助成措置と引き換えに、皇帝が組合
理事長の任命権を握り、加入者名簿、年度事業報告、年度会計報告の提出などを求め、国
家統制を敶いた。第 3 共和政に入ると、この枠が取り払われ、設立の自由と運営の自治を
定めた 1898 年 4 月 1 日法(共済組合憲章)が制定されるようになる(10)。
2
注
(1)大森弘喜「19 世紀フランスにおける労使の団体形成と労使関係」
(関東学院大学『経済系』第 227 集、
2006 年 4 月)の p24~26 参照
(2)「人権宣言」の第 3 条は、
「あらゆる主権の淵源は、本来的に国民にある。いかなる団体も、いかなる
個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない」
(
『解説 世界憲法集』有斐閣)と規定。
(3)菊池達彌「フランス労働争議権の史的発展の理論形成(一)
」
(『鹿児島大学法学論集』第 26 巻第 1 号、
1990 年)p23。また中村紘一「ル・シャプリエ法研究試論」
(
『早稲田大学法学会誌』1968 年 3 月 20 日号)
も参照。
(4)マルクスは、「資本論」で同法に言及し、「革命の嵐が始まると同時に、フランスのブルジョアジーは、
労働者がやっと獲得したばかりの団結権をふたたび彼らから取り上げた」
「この法律は、資本と労働との競
争戦を国家の警察権によって資本に好都合な限度内に押し込める」(新日本出版社『資本論
第一巻b』
p1264~1265)と記している。
(5)水町勇一郎『労働社会の変容と再生―フランス労働法制の歴史と理論』
(有斐閣、2001 年)p42-43
(6)1790 年のデクレで設置された「物乞い根絶委員会」の報告書では、
「生存権」を認めたうえで、①労働
能力のある貧困者には労働、②労働能力のない貧困者には公的救済、③労働能力がある物乞いや浮浪者に
は処罰を求めた。これは、1793 年 5 月 25 日法で市町村の救済事業義務を定めるなど、一連の立法措置に
反映された。
(7)水町、前掲書 p24-25
(8) Jean Magniadas «Histoire de la Sécurité sociale» L’institut CGT d’histoire sociale, 2003
(9)水町、前掲書 p52-53
(10) 柴田嘉彦『世界の社会保障』
(新日本出版社、1996 年)p.131 参照
(三)19 世紀末から 20 世紀初頭の社会・労働立法
19 世紀後半の資本主義の発展と労働組合結成の自由
資本主義発展が緩慢だったフランスでも 19 世紀後半、資本主義が本格的に発展していく。
工場労働者数は 1851 年の 130 万人から 1870 年の 500 万人へと 20 年のうちに 4 倍化した
(1)。これに伴って、工場労働者の貧困問題が深刻化し、労働運動も発展していく。
そもそも、フランス革命の思想にもとづく“自由意思”による労働者と使用者の契約関
係では、形式的あるいは法的に「自由」
「平等」に結ばれたとしても、実際は、生産手段を
持つ資本家にたいして、労働力を売る以外に生活するすべのない労働者は著しく不利な立
場におかれてしまう。そのことを無視した「労働の自由」「契約の自由」の制度では、非人
間的な処遇や失業さえも労働者の自己責任かのように扱われてしまう。
この時期、労働者は、
「労働の自由」の原則のもと、解雇自由、不安定雇用、务悪な労働
条件、機械化による単純作業、使用者が一方的に定める専制的な工場規則などに苦しめら
れていた。もはや共済組合だけで労働者の要求を満たすには不十分となった。また、 ル=
シャプリエ法の適用は、1802 年の商工会議所の承認をはじめ経営者には甘かった(2)が、資
本主義の発展にともない、資本の側も利益団体の全面的な承認を必要とした。こうしたなか、
1864 年 5 月 25 日法(オリビエ法)で、刑法上の「団結罪」を廃止し、集会やストライキ
など一時的団結が認められた。次いで 63 年と 67 年の商法改正で、株式会社が準則主義と
3
なり法認された。
西欧諸国全体に広がった長期不況の影響がフランスにも及ぶ 1880~90 年代はフランス
各地でストライキが頻発した。その担い手は従来の職人労働者から、工場労働者や公務員
へと拡大していった。さまざま潮流の社会主義勢力も伸長するなか、1879 年 10 月の社会
主義労働者大会によって、マルクス主義の影響を一定程度受けたフランス労働党が結成さ
れた(3)。同党は、1881 年 1 月 9 日の地方選挙で多くの当選者を得るとともに、議会多数派
となる自治体をも生み出した(4)。
労働組合も経営者団体も徐々に形成されていった。1881 年 3 月 15 日の国会調査では、
フランスにはすでに 1 万 5 千人を擁する 138 の経営者団体と、6 万人を擁する 500 の労働
組合があると報告され、報告者は団結禁止法の撤廃を求めた(5)。また、国会内の共和左派(急
進派)は、資本への累進課税や労働時間制限、退職年金などとともに、組合権の承認をか
かげた「急進社会主義綱領」を発表し、同年 9 月の総選挙で前進した(6)。こうしたなか、
1884 年 3 月 21 日法(バルデック=ルソー法)が成立し、ついにル=シャプリエ法の最終的
廃止と、労働組合および職業団体の結成の自由がかちとられた。
労働者懐柔の「パテルナリスム」
徐々に力をつけていく労働組合運動や社会主義運動に対抗するため、19 世紀後半から、
資本家側の労務政策として、経営者が権威的「温情」を労働者に与えて懐柔し、利潤追求
に協力させる経営・人事管理方法、すなわち「パテルナリスム」
(「家族的経営」
)を採用す
る企業が、当時の有力産業だった金属・石炭産業を中心に増加した。この精神で、企業自
体が福利厚生事業や共済事業に積極的に乗り出した。
パテルナリスムがフランスで比較的盛んだった背景の1つに、フランスの企業は、20 世
紀初頭でも一般的に小規模で、大企業でも、株式会社という形態をとる例は尐なく、家族
的・個人的な性格が強かったことがある。フランスは広大な植民地帝国を持っていたが、
資本の集積は比較的弱い状態が続き、就業者における農業従事者の比率は 1913 年時点でも
38.5%と高かった(7)。
ローマ法王の回勅と社会派カトリック
カトリック教会も動いた。第二インターナショナルから 2 年ほど経った 1891 年 5 月 15
日、ローマ法王レオ 13 世は、回勅「レールム・ノバールム(新しき事柄について)
」を発
した。この回勅は、
「貧困と窮乏が労働者階級の大半に不当にのしかかって」おり、それが
「無神論の社会主義」の温床となっていると警鐘を鳴らした。そのうえで、資本家は労働
者に「正当な賃金」を支払うべきで、需要と供給という市場の原理だけで決めてはならな
いと述べ、
「正義」による資本主義の規制と階級協調を求めた(8)。この回勅はフランスで強
い影響力を保持していた“社会派カトリック”を励まし、左翼と社会派カトリックの間で、
社会福祉の充実という限定された課題で政治協力を生む素地を生んだ(9)。
社会主義運動および労働運動の発展と時短・労災・保険の立法
19 世紀末になると、社会主義勢力が国政の表舞台に登場し活躍していく。国際社会主義
労働者大会(第二インターナショナル)がパリで開催された 1889 年、フランス労働党の国
4
会議員が初めて誕生した。さらに 1893 年の下院選挙では、社会主義勢力が各派合計で 30
議席を獲得した。それに急進左派の約 20 人の議員が合流し、
「50 人の社会主義議員」
(エン
ゲルス)が誕生し、国政で力を発揮していく(10)。
労働運動では、1895 年に労働組合のナショナルセンターとして労働総同盟(CGT)が結
成され、1901 年の大会で「民主的政府の第一の任務は、勤労者の生活保障」と宣言した。
労働運動の担い手が、19 世紀末から 20 世紀初頭に、従来の職人・熟練労働者層から、都市
部そして農村部の工場労働者や公務労働者へと拡大するにつれ、運動の力量と質も発展し
ていく。政権は、変動が激しかったが、基本的には、20 世紀初頭に共和穏健派から急進派
へと軸が移っていく。
こうした政治・社会状況のもとで、社会・労働立法が次々と成立する。労働時間の短縮
では、1892 年 11 月 2 日法で、16 歳未満の労働時間が 1 日 10 時間、女性と 18 歳以下の労
働時間が 11 時間に制限され、13 歳未満の雇用禁止が規定された。その後、労働日は、1900
年 3 月に男女 11 時間へ、1904 年には 10 時間へと短縮されていく。さらに 1906 年 7 月 13
日法で、日曜休日原則が確立された。
炭鉱労働者は 1905 年に早くも、先駆的な時短運動で 8 時間労働制を獲得した。これが模
範となって、8 時間労働日を求める労働者の運動が盛り上がり、1906 年のメーデーには 8
時間労働日を掲げたゼネストが行われた(11)。
労災補償では、1989 年に、最初に法案が提出されてから 18 年の議論を経て、労災補償
法が成立した。主に鉄鋼業や炭鉱などで、パテルナリスムの一環として、労災補償制度が
徐々に発達してきたが、それまでは労災認定に使用者の過失責任の証明が必要だった。同
法は、
「職業危険」の概念を導入し、使用者の過失の有無にかかわらず職業自体がもたらす
危険性で、労災補償を行う責任を使用者に負わせた(12)。
社会保険制度では、
1910 年の総選挙直前の 4 月 5 日に、
労働者・農民退職年金保険法(ROP)
が成立した。しかし、ROP は、年金額が不十分であったとことと併せて、労使同額の保険
料負担を求めたことから、使用者だけでなく労働者の不評も買い、加入者も伸びず、実質
的な強制保険制度にはならなかった(13)。
注
(1)不破哲三『マルクス・エンゲルス革命論研究(上)
』
(新日本出版社、2010 年)p146
(2)大森、前掲論文 p25-26
(3)フランス労働党の綱領前文はマルクスが起草した。エンゲルス『多数者革命』新日本出版社(古典選書)
p100-102 に全訳掲載。その事情については、不破哲三『マルクス・エンゲルス革命論研究(下)』
(新日本
出版社、2010 年)p135-141。
(4)エンゲルス、前掲書 p104。不破、前掲書 p142-143
(5)Édouard Dolléans «Histoire du mouvement ouvrier (tome II 1871-1936)» Librairie Armand Colin,
1948, p.19-20
(6)中木康夫『フランス政治史(上)
』
(未来社、1975 年)p253
(7)『世界歴史体系 フランス史 3』
(柴田三千雄・横山紘一・福井憲彦編、山川出版社、1995 年)p3-4
(8)この回勅には「資本と労働の権利と義務」との副題がついている。バチカンのウェブサイトに全文掲載。
(9)Paul V. Dutton “Origins of the French Welfare State – The Struggle for Social Reform in France,
5
1914-1947” Cambridge University Press, 2002, p.6-7
(10)エンゲルス、前掲書の「エンゲルス・マルクス『フランスおける階級闘争』1895 年への序文」p.262。
不破、前掲書 p257-267 参照。
(11)前掲『世界歴史体系
フランス史 3』p26
(12)廣澤孝之『フランス「福祉国家」体制の形成』
(法律文化社、2005 年)の第 3 章第 1 節の「二
職業
危険と労災補償制度」
(p90-97)、および Michel Dreyfus, Michèle Ruffat, Vicent Viet, Danièle Voldman,
avec la collaboration de Burno Valat «Se protéger, être protégé –Une histoire des Assurances sociales
en France» Presse Universitaire de Rennes, 2006, p21 参照。同法は、鉱山、建設業、動力機械を使用す
る事業などに限定されたが、翌年には農業分野、1938 年に全職種へと適用範囲が拡大した。
(13)他にもこの時期、前述の 1898 年 4 月 1 日共済組合法、1893 年 7 月 15 日医療扶助法、1904 年 6 月 30
日児童扶助法など重要な法律が次々に成立した。
(四)第一次大戦時と社会保険および家族手当制度
第一次世界大戦による影響
国家介入による全国レベルの社会保障制度づくり開始の画期となるのは、第一次世界大
戦である。
戦時中、政権側には、①共和政のもとで戦争に経済と人を総動員するため、経済介入と
ともに生活保障への関与が必要となったこと、②国民の不満が蓄積しストライキなど労働
運動が高揚したことへの対応という 2 つの要請があった。
また戦後は、①ロシア革命と労働運動の高揚が、労働者・国民の生活保障を軽視すれば
体制転覆もあることを示したこと、②講和条約により国際連盟機関として ILO(国際労働
機関)が設置され、労働者の権利擁護が各国の国際的責任となったこと、③アルザス・ロ
レーヌの奪還により、ドイツ型の国家主導のユニバーサルな社会保険体制が直接的な圧力
となったこと、④巨額の戦費調達と絶大な人的被害(1)などの情勢が推進的要因となった。
以下、家族手当制度と全国的社会保険制度の形成史からその経緯をみる。
①家族手当
賃上げ抑制・労働者懐柔策
児童扶養手当としての「家族手当(allocation familiale)
」は当初、①企業のパテルナリ
スムによる福利厚生事業の独占的管理とそこへの国家介入の排除、②賃上げの抑制、③頻
発するストライキなど労働運動を抑え、会社への忠誠心を植え付けるための労働者の懐柔
と分断の手段として、経営者主導で広まった。これが、国の立法によって、すべての勤労
者に適用する制度になったのは、第一次世界大戦後だった。
企業が連携した金庫を通じて家族手当を支給するというフランスの特徴的な形態は、戦
時中、グルノーブルやロリアンで始まった。
グルノーブルでは 1916 年秋、社会派カトリック教徒の経営者エミール・ロマネが、労働
者の戦債協力の拒否をきっかけに自社調査を行ったところ扶養児童の多い家庭ほど貧窮が
激しいことがわかった。そこで、労働者全員に一律昇給をおこなった場合と、扶養児童の
有無で昇給に格差をつけた場合を計算すると、格差をつけた方が、はるかに節約できるこ
6
とをはじき出した(2)。
さらに、ロマネは経営者という立場上、自分の工場だけ家族手当を実施すると競争で不
利な立場になるのを恐れ、他の経営者に働きかけ家族手当の普及と制度化を図った。そし
て、企業負担を均等化するために、扶養児童の有無の関係なく全労働者一律の割合で保険
料を企業から徴収して家族手当に充てる「家族手当補償金庫」(1918 年 5 月 1 日開始)を
設立する。
1919 年 5 月、フランス最大の業界団体「金属産業・鉱業連合」
(UIMM)のアルフレッ
ド・ランベール=リボ書記長は、グルノーブルなどに倣った家族手当補償金庫の設立を連
合加盟企業に提唱した。首都パリでは 1923 年 3 月 22 日、財界団体のパリ圏金属機械関連
産業集団(GIMM)のピエール・リシュモン会長が GIMM 定期総会で、家族手当は労使関
係を穏健化し、
「全般的賃上げの不当な要求にうまく対抗できることを約束する」と演説し
た(3)。つまり家族手当は、全般的賃上げを避け、賃金を個別化・差別化してコストを抑える
と同時に、労働者を懐柔かつ分断させることができるとの資本家にとっての効用を説いた 。
しかも、家族手当は日割り計算で、ストライキなどによる労働日の欠損にたいしては支払
われない。そのためストライキを防ぐ効果もあったという(4)。
経営者の好評を得た金庫制度は 20 年代に急増し(5)、フランス全土の商工業に広がった。
1928 年までに工業では半数以上の労働者、商業では 4 分の1以上の労働者が、家族手当補
償金庫に加入する企業に勤めるようになったという(6)。こうした進展が、国家の権限範囲外
で行われたところにフランスの大きな特徴がある。
家族賃金と家族手当一般化の要求
フランスは第一次世界大戦での巨額の戦費調達によって、世界第 2 の債権国から巨大債
務国へ転落した。財政危機と通貨・経済危機がインフレーションを引き起こした。1920 年
の生計費指数は 1914 年の 3.5 倍、1926 年は 5.5 倍まで上昇した(7)。労働者はそのしわ寄
せを受けた。
戦争直後および 1924~26 年の金融不況時の時期に、労働組合は生活費上昇に見合う賃金
スライド制を求める労働運動の波を引き起こした。
CGT は、子どもの有無や性別を問わない「同一労働・同一賃金」の原則を掲げ、4 人家
族が暮らしていくのに十分な「家族賃金」を掲げて、すべての労働者の全般的な賃金アッ
プを求めた。
経営者側は、これに対しても賃金の全般的昇給のかわりに家族手当のさらなる増額で懐
柔を図った。労働組合指導部は当初、家族手当が賃金上昇を抑制する効果や労働者を分断
する効果を宣伝し、家族手当に反対する立場をとった。しかし、末端の組合や労働者の間
では、むしろ補償金庫に加入していない企業に対し、金庫に加入し家族手当を支払えとい
う要求が大きかったという(8)。
こうしたなか、
「レールム・ノバールム」を受けて 1919 年に設立されたキリスト教労働
者同盟(CFTC)がまず、すべての企業が補償金庫に加入する立法措置を求めた。政府もそ
の方向の立法化を進めていくようになった。いっぽう CGT は 1923 年の大会以降、家族福
祉制度の「集団管理」を求めるようになる(8)。
7
労務対策から社会政策への発展
さらに、戦後、ドイツ占領地域のアルザス・ロレーヌ地方のフランス編入により、ドイ
ツ 型 の 国 家 に よ る ユ ニバ ー サ ル な 「 家 族 手 当」( Familienzulage ) と「 子 ど も 手 当 」
(Kinderzulage)の制度は 1920 年代、任意の企業努力を基本とするフランスの家族手当に
たいする圧力となった(9)。
労働者の要求運動の高揚と左翼の政治への進出、ドイツ制度の圧力、金庫加入企業が非
加入企業と同等の条件を望んだことなどによって、財界も妥協し、1932 年 3 月 11 日法(ラ
ンドリー法)が成立した。同法は、これまでの任意だった企業間協定による家族手当補償
金庫への加入を、全国すべての企業に義務づけた。これによって、民間企業の被用者にお
ける家族手当の一般化がようやく達成された。これが、その後、1936~38 年の 3 つのデク
レ(政令)で農業者へ、1939 年 7 月の家族法典で自営業者と使用者を含めすべての就業者
に拡大された。この国家の強制によるユニバーサル化は、家族手当制度の性格が、企業の
労務対策から全国民的対象の社会政策に発展したという意義を持つものと言えよう。
②社会保険
社会保険の義務化と一般化
社会保険の分野は地域差が大きく、1923 年になっても、3 分の 2 の市町村に共済組合が
ない状態だった(10)。
前述のように戦後、インフレと経済不況による労働者の生活悪化から労働運動が高揚し
た。1917 年のロシア革命の成功は労働運動および社会主義運動に弾みをつけた。革命ロシ
アを指導するレーニンは、国家・企業主の全額拠出、賃金全額補償、被保険者の自治管理
の原則を持つ労働者保険制度を提唱し(「労働者保険綱領」)、1918 年 10 月には、世界で初
めて「社会保障」という用語を公式に使用した「社会保障規則」を制定した(11)。支配勢力
が体制を維持しながら戦時経済と戦後の経済危機を乗り越えるためには、社会・労働分野
にも国家が積極的に介入し、労使関係を安定化する必要があった。
また、第一次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約の第 13 編「労働」にもとづいて、
国際労働機関(ILO)が国際連盟機関として創設され、各国での労働者保護の努力が義務付
けられた。フランス政府はこれに応える必要もあった。さらに、アルザス・ロレーヌ地方
のフランス併合により、ドイツ型の全国的・強制的社会保険制度を取り入れようとする機
運が広がった。政府はドイツとフランスの社会制度間の調整を進めることになる。
経営者は、国家介入を防ぐため(12)、経営者が管理・運営する家族手当補償金庫が扱う事
業を、医療・障害・年金などの福利厚生に拡大させた。しかし、経営者主導の社会保険は、
労働者や国家が求める水準に見合わず、また、共済組合団体との連携もうまく進まなかっ
た。
さらに、アルザス・ロレーヌ地方の経営者は、ドイツ型制度の企業負担は重くても、こ
れが同地域の労使協調に貢献していると考え、フランス型への水準の引き下げによる労働
不安を危惧した。また、他地域と企業負担を同等化するために、政府が約束した社会保険
の義務化・全国化を支持した(13)。アルザス・ロレーヌ地方を穏便に併合するには、この地
域のドイツ型社会保障制度への労使双方の愛着を考慮せざるをえない。経営者の国家介入
阻止の運動もついには挫折し路線変更が求められた。
8
1928 年までには通貨の安定と財政の黒字化が達成されたことも追い風となり(14)、1928
年 4 月 5 日に、全国的・強制的社会保険制度を導入する法律(疾病、出産、死亡、障害、
老齢)が成立した。しかし、実施には至らず、1930 年 4 月 30 日法で大幅に改正されるま
で、政府、議会、財界、共済組合、労働者の間でさまざまな駆け引きが続いた。この間、
財界は、国家介入を避けるため経営者がその影響力をさまざまな形で行使しうる共済組合
を基軸とした規制の緩やかな制度を求める方向に作戦を変更した。
1930 年 7 月 1 日になって、共済組合を基礎とする新たな全国的・強制的社会保険制度が
ようやく施行された(15)。
注
(1)フランスは第一次世界大戦で、動員兵士 300 万人のうち死者・行方不明者 140 万人、傷病者 400 万人、
民間人犠牲者 30 万人という絶大な人的損害を被った。戦場で父親となる世代の多くの男性が失われ、男性
労働力人口の約 1 割を失われた。戦後、労働力不足が社会問題化し、復興と国威発揚のために出産奨励の
機運が高まった。
(2)Dutton,前掲書 p21 にロマネの計算が掲載されている。
(3)Dutton,前掲書 p24-26。1924 年 2 月までに、GIMM 加盟企業のすべてがパリ圏補償金庫(CCRP)に
加入した。
(4)Dutton,前掲書 p30
(5)Dutton,前掲書 p.36 および p.95 では「20 年代末までに、2 万 5,000 人の経営者と 417 万人の賃労働者
を包含する 258 金庫」とし、深澤敦「フランスにおける家族手当の制度と展開」
(
『立命館産業社会論集』
第 43 巻第 4 号)p.26 では、
「1930 年には 230 金庫(加入企業数 3 万 2,000、雇用労働者数 188 万人、受
給家族数 48 万)
」と紹介している。いずれも 1920 年代の急増を指摘している。
(6)Dutton,前掲書 p.32
(7)Dutton,前掲書 p.68 掲載のグラフ
(8)Dutton,前掲書の第 3 章(p.66-96)参照
(9)ドイツ型は内容的にも、フランス型と以下の 3 点で違っていた。①支給額は、賃金総額の比率で計算さ
れ、労使の団体交渉の対象となった。それゆえフランスのように賃金抑制戦略に使いづらいものであった。
②家族手当は、子どもの有無にかかわらず既婚男性に支払われた。それゆえ子どもの有無で労働者の分断
を狙うのではなく、家父長制に基づくものだった。③子ども手当は、フランスのように出産からではなく、
学齢期に入ってから支給された。急激な人口減の経験がないドイツの子ども手当は、出産奨励策ではなく、
教育費支援策だった(Dutton,前掲書 p91-92)
。
ただし、ドイツ制度の原型をつくったビスマルクは、社会主義取締法の制定と引き換えに社会福祉制度
を導入したのであり、やはり労働者の懐柔・分断が当初の目的にあった。
(10)Dutton,前掲書 p44
(11)工藤恒夫『資本制社会保障の一般理論』
(新日本出版社、2003 年)p8-9。不破哲三『マルクスは生きて
いる』
(平凡社新書、2009 年)p103-104 では、レーニン指導下の革命ロシアの 1918 年の「人民の宣言」
が、「他のヨーロッパ諸国に次第に広がり、働く者の権利を守る『社会的ルール』をめざす流れを大きく」
したと指摘している。
(12)1921 年に、強制的な医療・年金・障害保険の導入法案が国会に提出されたが、財界は、インフレを
加速し国際競争力を削ぐことになるなどと強力に反対し、一時は挫折した。
9
(13)Dutton,前掲書 p90
(14)前掲『世界歴史体系
フランス史 3』p262-263
(15)社会保険法の成立過程については、Dutton 前掲書以外に、
水町、
前掲書 p78-81 や柴田、前掲書 p134-136
および『先進諸国の社会保障⑥フランス』(藤井良治・塩野谷祐一編、東京大学出版会、1999 年)の田端
博邦「第 5 章社会保障の歴史」p107-110 を参照。
(五)第二次世界大戦と戦後社会保障制度の確立
人民連合内閣とマティニヨン協定
1929 年にニューヨークの株価暴落で始まった世界恐慌の波が 1930 年代前半にフランス
に押し寄せる。1933 年 1 月にドイツでヒットラーが政権を掌握し、1934 年 2 月 6 日には、
フランスで極右団体のデモ隊が警官隊と衝突し死傷者が出る事件が発生した。ファシズム
と極右の勢力拡大を危惧して行われた 2 月 12 日の反ナチゼネストは 300 の都市で 500 万
近くの勤労者が参加する空前の規模となった。これは当時社会党の影響が強かった CGT が
決定し、フランス共産党が影響力を持つ CGTU(統一労働総同盟)が呼応して参加したも
ので、パリでは社共それぞれのデモが「統一を」と唱和して 1 つに合流した。以降、反フ
ァシズムの共同を求める機運が国民の間で高まっていく。
フランス共産党は 6 月、それまでの社民敵視路線を転換し、反ファシズム統一戦線(
「人
民戦線」
)の結成を呼び掛けると、社会党は翌月これを受け入れた。懐疑的だった急進社会
党も 1935 年 5 月の仏ソ相互援助条約の締結を見て、6 月に参加を決定する。7 月には、左
翼 3 党による統一デモと選挙の共闘委員会が結成された。
労働分野では翌 36 年 3 月、CGT と CGTU が合同大会を開き、15 年の分裂を克服して再
統一した(1)。統一時 100 万人程度だった CGT は急成長し、37 年には 400 万人に達した。
その内部では次第にフランス共産党の影響力が社会党を凌駕するようになっていく。
こうした社会情勢を力に、1936 年 4 月 26 日の総選挙で、618 議席中、共産党が 72 議席、
社会党が 146 議席(会派再編後 147 議席)
、急進社会党が 116(同 106 議席)を獲得した。
共産党は 62 議席増、社会党は 49 議席増という躍進ぶりだった(2)。これによりレオン・ブ
ルム人民連合内閣(共産党は閣外協力)が成立した(3)。このときの選挙で、週 40 時間労働
を共産党が、有給休暇を社共両党が公約していた(4)。
労働者はこれを機に自分たちの力で要求を実現しようと、200 万人のストライキと 9,900
の工場占拠という示威行動の波で応えた(5)。口火を切ったのは航空労働者で、メーデー参加
のため休職した労働者の解雇撤回を要求して工場に座り込み、人民戦線派の市長の調停に
よって、解雇撤回をかちとった。これが金属部門全体へと飛び火すると要求も有給休暇や
労働者代表制、労働協約などに発展し、6 月を境に他部門にも燎原の火のごとく広がった(6)。
6 月 4 日にブルム内閣が成立するとその翌日、財界団体のフランス生産総同盟(CGPF)会
長はブルム首相に仲介を要請する(7)。
6 月 7 日、ブルムは首相官邸(マティニヨン宮)に CGT 書記長と CGPF 会長を招き協議
が行われ、翌未明に、平均 12%の賃金アップ、労働組合の交渉権確立、経営者によるスト
ライキ参加者への懲罰禁止など 7 条からなるマティニヨン協定が妥結された。このときに、
ブルム首相とジュオーCGT 書記長との間で、週 40 時間労働、有給休暇、労働協約に関す
10
る法案提出の念書も交わされた(8)。これにもとづく労働 3 法案は月内にすべて成立した。
年 2 週間の有給休暇と週 40 時間労働は世界初で、その後フランスから他の欧州諸国、そ
して世界に広がった。また、労働協約法は、最も代表的な組合によって締結された労働協
約を、同地域・同職業のすべての労働者に適応可能とする拡張制度を初めて導入するもの
であった。
第四共和政時代の戦後社会保障改革
戦時中、ナチスへの屈服を許した保守政治家や資本家にたいし、国内でレジスタンスの
中心を担ったのは、労働者やフランス共産党や社会党の一部など左翼勢力であった。
フランス共産党は、1939 年 8 月の独ソ不可侵条約の支持を外国の党に強要したスターリ
ンの覇権主義により一時、深刻な混迷に陥った。しかし、41 年 6 月に独ソ戦が開始される
と、多くの党員がレジスタンスに献身した。そのレジスタンス活動が国民から評価され、
戦争直後に躍進を遂げ社会党をしのぐ勢力となる。
1944 年 3 月 15 日、政党や労組、抵抗団体など国内のレジスタンス勢力を結集した「レ
ジスタンス全国評議会」
(CNR)はその綱領で、フランス解放の方針とともに、戦後の社会・
経済改革計画を明らかにした。このなかで、「労働の権利と休息の権利」「賃金の大幅スラ
イド」
「労働者とその家族に生活保障、尊厳、完全に人間らしい生活を保障する賃金水準お
よび処遇水準の確保」
「経済・社会生活の組織において大きな権限を与えられた自主独立の
労働組合の再構築」
「当事者と国家によって運営され、すべての市民に生存手段を保証する
ことを目指す社会保障の完全な計画」
「雇用の保全、雇用と解雇の法制化、職場代表の再建」
などの労働政策が掲げられた(第 5 条 b 項)(9)。
1944 年 6 月、国外で活動していたド=ゴールと国内のレジスタンス勢力が共同し、アル
ジェリアの首都アルジェで「共和国臨時政府」
(~46 年 10 月)を結成した。8 月にパリが
解放されると、同政府は本国に帰還し、名実ともに政権を握った。フランス共産党、社会
党、人民共和運動の 3 党から成るこの連立政権は、対独協力のビシー政権(
「フランス国」)
のすべての決定を無効と宣言し(8 月 9 日のオルドナンス)
、CNR 綱領以降、進めていた戦
後の社会制度の基本設計を急いだ。すでにイギリスでは 1943 年 11 月、戦後の社会保障改
革の指針となった「ベヴァリッジ報告」が出されていた。
戦後の社会保障改革の目玉は、財界中心のパテルナリスムの枠に押し込まれていた社会
福祉制度を、いかにしてそこから独立させ、所得再分配に基づく全国民的な社会政策とし
て充実させるか、すなわちどのように“社会扶助”から真の“社会保障制度”へ発展させ
るかであった。
当時の社会保障長官ピエール・ラロックらが起草した政府原案(「ラロック・プラン」)
は、政労使のそれぞれの代表、社会保障団体代表、家族手当金庫代表および専門家から成
る特別委員会(「パロディ委員会」
)で検討・修正が加えられた。そして、臨時諮問議会で
「社会保障の組織に関するオルドナンス(委任立法)」
(1945 年 10 月 4 日制定、46 年 7 月
1 日実施)などの立法で制度化された。
ラロック・プランは、
「統一化、一般化、民主化(自律化)」という 3 原則を据えた。す
なわち、複数並立する社会保障制度を単一の金庫に統合し、ユニバーサルな社会保障制度
とし、当事者拠出による財源と当事者による民主的管理・運営を原則とした。
11
「統一化」および「一般化」という点では、アレクサンドル・パロディ労働相が「到達
すべき最終目標は、すべての不安定要素から全国民を保障する計画の実現だ」と諮問議会
で発言した(10)ように、戦前のように継ぎはぎで対象を拡大するのではなく、最初からユニ
バーサル化が展望された。そのため、それまでバラバラだった制度間の連携をはかり、制
度と金庫の統一を目指して、
「一般制度」と「社会保障金庫」が創設された。しかし、農業
者や公務員、自営業者などの職域保険である「特別制度」は、“暫定的”との留保付きで残
され、1946 年 8 月の家族手当法(産前手当と出産手当を新設した法)で、家族手当金庫は
分離されることに決まった。異なる制度や金庫の併存は現在まで解消されておらず、
「統一
化」は未完成に終わった(11)。
「民主化」という点では、経営者と共済組合団体が主体だった従来の制度を改め、単一
金庫の管理・運営を、労使それぞれの代表による理事制とし、そのうち 4 分の 3 の理事が
労働者代表に割り当てられた。
このように、フランスの戦後社会保障改革は、イギリスのベヴァリッジ報告のような国
家が統一的に管理・運営する制度への再編ではなかった。政府の関与は金庫の監督とその
管理運営費負担などきわめて限定的なものに留まっていた。むしろ従来の諸制度を母体と
して活用しながら(12)、ユニバーサル化の完成を通じて、社会保障を国家の社会政策として
据えるとともに、
“当事者管理原則”のなかに労働者管理という民主主義の魂を入れるもの
だった。
もともと賃上げ抑制・労働者の懐柔と分断という労務対策から出発した家族手当制度は、
第一次世界大戦後の国家の介入による勤労者全体への適用、第二次世界大戦後のユニバー
サル化と家族手当支給機関の管理・運営への労働者代表の参加を契機に、国民生活を守る
重要な社会政策へと発展した(13)。
ストライキ権の憲法規定、労働協約の適用拡大、最低賃金と失業保険の確立
戦後、労働者の法的権利も向上した。
1946 年 10 月 27 日のフランス第 4 共和国憲法前文により、国民のストライキ権は憲法規
定となった。これは現行の第 5 共和国憲法でも前文を踏襲する形で受け継がれている。
1950 年 2 月 11 日法では労働協約(14)を、同じ使用者で働くすべての労働者に適用するこ
とを定めた。その結果、代表性を有する労働組合の 1 つが使用者と結んだ労働協約は、別
の組合所属あるいは労組未加入の労働者にも適用されことになった。また、ストライキに
よって労働契約は終了したとされる旧制度を正式に廃止した。さらに、全職業共通の最低
賃金(SMIG)を制度化した。
失業保険の制度化は、フランスで遅れた分野だったが、1957 年にECに関するローマ条
約による失業保障制度の調和要請が契機となり、1958 年 12 月、失業保険を制度化する労
使協定が締結され、翌年 1 月全労働者に適用されるアレテ(省令)が出された。
注
(1)CGT は 1921 年 12 月に多数派の CGT と尐数派の CGTU に分裂していた。1920 年 5 月に CGT のゼネ
ストが、革命を恐れる財界とミルラン政権によって徹底的に弾圧され敗北するが、その対応をめぐって
CGT の内部対立が激化。同年 12 月にフランス社会党(SFIO)第 18 回大会で、党の多数派がコミンテル
12
ン参加を決定し、フランス共産党を結成。反対派はそのまま社会党(SFIO)として分裂する。翌年 7 月の
CGT 第 16 回大会で分裂が決定的となり、同年 12 月にフランス共産党に近い尐数派が CGTU を結成する
(CGTU 第 1 回大会は翌年 6 月)
。
(2) Georges Lefrance «Histoire du Front populaire» Payot, 1965, p131。人民戦線勢力は全体で 370 議席
獲得。政権党だった急進社会党は 43 議席減
(3)この内閣には、女性参政権がないまま、初めて女性 3 名が入閣した。
(4)平瀬轍也『フランス人民戦線』
(近藤出版社、世界史研究双書、1974 年)p65
(5) UGFF «Le Front Populaire et les conquêtes sociales »Fonction Publique n°128, 2006 掲載の労働省に
よる数字
(6)谷川稔『フランス社会運動史』
(山川出版社、1983 年)p296-298 および平瀬、前掲書 p92-93 参照
(7)平瀬、前掲書 p109
(8)谷川、前掲書 p300
(9) Olivier Wieviorka et Christophe Prochasson «La France du XXe Siècle » Édition du Seuil, 2004,
p398-401 に全文収録
(10)Dreyfus, Ruffat, Viet, Voldman, 前掲書 p262
(11)現在、
「一般制度」がカバーするのは国民の 8 割程度
(12)後日ラロックは「私たちは労働組合主義と共済組合というフランスの伝統に忠実でいることを望んだ。
しかし同時に、労働者をはじめすべての勤労者に適用する単一制度を確立したかった」
(
「ルモンド」85 年
9 月 28-30 日付のインタビュー記事)
と述べている
(Marc Montalembert (direction) «La protection sociale
en France» 5e édition, La documentation Française, 2008, p8 に収録)
。
(13)紙幅上、割愛したが、出産・育児支援はその後、多様な補助制度や税優遇措置が追加され、
“子どもが
いても、いなくても平等”の観点から、児童養育による家計の損失が生じないように充実が図られている。
その内容も、70 年代の男女平等を求める運動の前進と 80 年代の女性の社会進出の本格化を背景に、1978
年の「単一賃金手当」(被用者が一人の世帯への手当)の家族補足手当(CF)への統合をはじめ専業主婦
家庭の支援から共働き家庭への支援へと軸足を変えている。また、現行の家族手当金庫の被保険者と事業
主の理事の比率は全国金庫 13 対 10、各県金庫 8 対 5 と被保険者優位となっている。
(14)労働協約制度は 1919 年 3 月 25 日法によって確立され、
協約は法律と同様の強制力を認められていた。
同法は、労働協約に反する労働契約を無効とし、協約上の義務が履行されていない場合に、組合自体がそ
の構成員に代わって裁判上の義務を履行できる権利も認めた。
(六)第五共和政時代の労使関係の発展
「グルネル協定」とその後の立法措置
1967 年 8 月 21 日、ド=ゴール政権は、国際競争力強化や社会保険の赤字解消を理由に、
財界団体のフランス経営者連盟(CNPF)の提案を反映した4つのオルドナンスを、関係機
関との協議なしに一方的に発表した。これにより、統一的な全国社会保障金庫は廃止・分
割され、
「全国被用者医療保険金庫」
(CNAMTS)と「全国被用者老齢保険金庫」
(CNAVTS)
、
「全国家族手当金庫」
(CNAF)の 3 つの金庫がそれぞれ独立採算制を目指すとされた。金
庫の管理・運営者も、労使代表の比率が 3 対1という労働者多数制から労使同数制に後退
した。理事の直接選挙制も廃止となり、任命制へ移行した。さらに、医療費の被用者負担
13
を増やす一方、傷病手当の一部を廃止した。
この「改革」は、労働組合や共済組合の激しい反発を買った。翌年 5 月、学生運動を発
端に、労働者が呼応し、ゼネストに発展した(
「68 年 5 月事件」
)
。5 月 19 日には 200 万人
のデモが行われ、その翌日には 600 万人がストに参加し、200 か所以上の工場が労働者に
占拠された。
事態を収拾するため、政労使 3 者の団体交渉がおこなわれ、一連の合意
(
「グルネル協定」
)
が作成された。その内容は広範で、1 割以上の賃金引き上げ、最低賃金の 35%アップ、労
働時間の段階的短縮、雇用保障に関する団体交渉の実現、労働協約の改定、スト期間中の
賃金の部分支給と埋め合わせ労働の実施、企業内での労働組合の結成とその活動の承認な
どであった。この協定は、その後の一連の労働立法および労働協約の方向性を定めた。
そのなかで、制度形成として、特筆すべきなのは、労働組合に各事業所内の組合支部の
結成と、その活動保障のための組合代表委員の任命を認めた 1968 年 12 月 27 日法である。
これによって、現代フランスの企業内労使関係制度の 3 本柱が打ち立てられた。すなわち、
①苦情処理を担当する従業員代表委員(1936 年協約法で設置。全従業員の投票で選出)、②
企業経営や労働条件に関する情報提供と労使協議のための企業委員会(1944 年デクレと
1945 年法で設置。経営者、従業員代表、各組合代表で構成)
、③団体交渉と労働協約締結の
独占権を持つ組合代表委員(労組の任命)である(1)。
さらに、1971 年 7 月 13 日法では、国家の介入によらず労使合意による問題解決を促進
するために、①労働者の団体交渉権の明示的保障、②代表的労働組合の排他的交渉権限の
承認、③労働協約のない職業および地域への協約の適用拡大の手続きなどを定めた。
その他にも、グルネル協定をうけて、1969 年 2 月 10 日の雇用保障に関する全国・全職
業協定による労使同数の雇用委員会の設置や 1973 年 7 月 13 日法による解雇規制の強化
(解
雇手続きと正当理由の両面での規制)
、1970 年 1 月 2 日法による全国・全職業一律の最低
賃金(SMIC)の創設など、労働者保護の立法や協約が定められていった。
労働者保護の施策による賃上げと失業の減尐は、労働者の購買力を拡大して、その後の
経済発展に貢献した(2)。いっぽう、人気と信頼を失墜させたド=ゴールは 1969 年、行政改
革案にたいする国民投票での否決を機に退陣した。
企業単位の労使交渉・労使協定の制度を定めた「オルー改革」
1980 年代になるとフランス史上初めて社共連立政権が誕生するようになる。
1964 年にフランス共産党の党首となったバルデック・ロシェ書記長(~69 年)は、民主
社会主義左翼連合(FGDS)のフランソワ・ミッテランと密会を重ね共同条件を模索する(3)。
社会党は、1969 年の選挙で共産党との協力を拒み惨敗し(4)、左翼連携を主張してきたミッ
テランが第一書記となった。1968 年 12 月にフランス共産党が、社会主義への過渡的な「先
進的民主主義」(5)を提唱する一方、1971 年にミッテランは、現在の社会党(PS)の結党大
会で「資本主義との決別」を呼びかけた。そして社会党の内部統一と立て直しを図る戦略
として、国会で常に二桁の議席を持つフランス共産党との連携を求めた(6)。72 年 6 月に社
共の「左翼共同政府綱領」が結ばれるが、この綱領は 77 年に国有化の範囲を巡る対立など
で更新に失敗する。
81 年 5 月、大統領選挙で社会党のミッテランが勝利し、翌月の国民議会選挙でも左翼が
14
過半数を獲得した結果、社共による左翼連立政権が成立する。
この左翼連立政権のもとで新たな労使関係のルールづくりが行われた。1981 年 9 月に労
働相ジャン・オルーが報告書「労働者の諸権利」
(オルー報告書)を大統領に提出。これに
もとづいて、労働者の権利の拡大、企業内組合活動と従業員代表機関の強化、団体交渉制
度の刷新に関する立法措置がおこなわれた。
そのなかで労使関係の枠組み作りとして、経営者に毎年 1 回、賃金や労働条件などにつ
いて労働組合との企業内交渉を義務付けた。これにより、企業単位での労使交渉が開始さ
れ、労使協定の締結も促進された。労使協定の数は 1982 年の 1,470 から 1998 年の 13,328
件へと増加した(7)。
ミッテランは欧州政策も重視し、誕生直後に、欧州共同体(EC)に対し、国内の「オ
ルー改革」と同様の精神で、①EC社会政策の中心に雇用を据える、②労使対話の強化、
③社会保護の協力・協議を 3 本柱とする「仏政府覚書」を提案した(8)。
「社会的欧州」の概
念を持ち込んだミッテランは 85 年、EC委員長にドロール元蔵相を指名する。ドロールE
C委員長が推進する欧州社会政策は、ドイツの後援を受け、英国のサッチャー政権の妨害
とたたかいながら、89 年のEC社会憲章に結実する(9)。
フランスでは 80 年代以降、労働協約の適用率が 9 割という高い水準で推移している上、
全国・地域レベル・産業別の労働協約制度に加え、こうした企業単位の労使交渉・労使協
定による問題解決というルールも定着した。
週 35 時間労働をめぐる攻防
フランスでは、第一次石油ショック(1973 年)以降、1975 年に失業率が 4%を越え、1985
年には 10%の大台を越えた。失業増大が深刻な社会問題となるなか、1978 年の中央労使交
渉で、CGT ら労組は失業対策として週 35 時間労働制を要求した。財界が拒否反応を示す
なか、翌年 11 月の CGT と CFDT(フランス民主労働同盟)の呼びかけによるストライキ
とデモ、FTUC(ヨーロッパ労組連合)の全欧行動、80 年 6 月の CGT の全国行動など、週
35 時間労働を求める運動が高揚した(10)。
世論と運動を反映して、ミッテランは 81 年の大統領選挙の公約「フランスのための 110
の提案」のなかで週 35 時間労働制を 85 年までに実現すことを掲げて当選する。翌年 1 月、
同大統領下のモロワ左翼連立政権は、週 39 時間労働制と年次有給休暇 5 週間を定めた。し
かし、
「左翼共同政府綱領」の挫折後、事前の基本政策合意なしに社会党のミッテランの大
統領当選という事実に共産党が乗っかって組んだ連立政権の宿命で、83 年を機にミッテラ
ンは国民負担増・リストラ「合理化」路線に転換していき、翌年フランス共産党は連立を
離脱した。こうしたなか週 35 時間労働制の公約は立ち消えとなった。
95 年 5 月に成立したシラク大統領下のジュペ保守政権は同年 10 月、EUの通貨統合の
参加条件である「財政赤字の GDP 比 3%以内」の基準達成を最優先課題とし、公務員の賃
金凍結、国鉄のリストラ人減らし計画、そして翌月には福祉予算の削減を目的とする社会
保障制度改革計画(「ジュペ・プラン」)を発表した。折しもフランスが多額の国費を使っ
て地下核実験を行い、国際的非難を浴びている最中である。この国民犠牲の緊縮政策に労
働者は猛反発。CGT、CFDT、FO(労働者の力)と公共部門4労組の共同の呼び掛けで、
10 年ぶりの統一ストライキが行われた(11)。さらに 11~12 月には 6 度の全国ストライキと
15
数百万人のデモが繰り広げられる大闘争に発展した(12)。これにより国鉄「合理化」計画と
「ジュペ・プラン」に盛り込まれた公務員年金改革が阻止された。
97 年 5・6 月の総選挙で緊縮財政を強いる保守政権に審判が下り、雇用創出策として 35
時間労働制の実現を掲げた社会党とフランス共産党などによるジョスパン左翼連立政権が
誕生した。これにより、98 年 6 月 13 日法(
「オブリ法I」
)および 2000 年 1 月 19 日法(
「オ
ブリ法 II」
)(13)で、世界初の法定 35 時間労働制がついに実現した。
同法は、週 35 時間労働制の具体化を労使協約に基づくこととした。これにより労使協議
と協約締結が促進され、
2001 年 8 月時点で計 8 万 4 千件の労使協定締結が推計される(14)。
雇用への影響については、諸説があるが、フランスの国立統計経済研究所(INSEÉ)は 98
~02 年に 35 万人の雇用が創出されたとし(15)、日本の厚生労働省の「労働経済白書(平成
14 年度版)
」では「約 50 万人の雇用創出効果」と紹介している。失業率は、1997 年 6 月
の 12.6%から 2001 年 7 月の 8.9%へと減尐した(16)。
オブリ法施行後も、賃下げなしの週 35 時間労働制の完全実施を求める労働者側と、これ
を賃下げにつなげ、週 35 時間労働制を骨抜きにしようともくろむ資本家との攻防は続く。
同法は、労組が求めてきた賃下げなしの週 35 時間労働制への移行を明記しなかったのだ。
これがその後、ラファラン政権による労働者個人が望めば労働時間を延長できるなどの例
外措置の設定や、低賃金に不満を持つ労働者向けに「もっと働きもっと稼ごう」をスロー
ガンにした 2007 年 7 月のサルコジ大統領の登場につながった。
財界と深いつながりを持つサルコジ現大統領は、当選翌年の年頭記者会見で「週 35 時間労
働制を今年中に撤廃したいか」との問いに「正直に言えばそうだ」と答えた。同日、フィ
ヨン現首相も、週 35 時間労働制は「最悪の経済的・社会的過誤」と息巻いた。しかし、大
統領と首相がそろって週 35 時間労働制を目の敵にする政権であっても、労使合意による例
外措置の拡大や残業の規制緩和などの抜け穴づくりは進められても、法定週 35 時間労働制
の撤廃にまで踏み込むことはいまだにできていない。ただし、フルタイムの賃労働者の週
平均労働時間は、
2003 年の 38 時間 45 分から 2007 年の 39 時間 10 分へと増加している(17)。
注
(1)さらに、1982 年 12 月法で「労働条件」が追加・補強された「衛生安全労働条件委員会」がある。
(2)中木康夫『フランス政治史
下』
(未来社、1976 年)p243-244 および、p181「物価と賃金」と「工業
生産」
、p182「失業者数変動」の各グラフ参照。
(3)Archives departementales de la Seine-Saint-Denis; Archives du PCF «Réunions du Comité central
du PCF 1921 -1977 État des fonds et des instruments de recherche, tome IV 1965-1977» Conseil
général de la Seine-Saint-Denis et Fondation gabriel péri, 2010, p9-11 参照
(4)緒方靖夫『フランス左翼の実験』
(大月書店、1987 年)p86
(5)「先進的民主主義」については、不破哲三『激動の世界はどこに向かうか‐日中理論会談の報告』
(新日
本出版社、2009 年)の p. 137~140 を参照のこと。
(6)吉田徹『ミッテラン社会党の転換―社会主義から欧州統合へ』
(法政大学出版局、2008 年)p68-69
(7)松村文人「フランスにおける労使関係と労働組合の変化」
(
『大原社会問題研究所雑誌』№549、2004 年)
p.21 のグラフ参照
(8)恒川謙司『ソーシャル・ヨーロッパの建設』
(日本労働研究機構、1992 年)p36-39 参照
16
(9)EUの取り組みについては、『前衛』2010 年 10 月号の小島良一論文を参照のこと。
(10)小森良夫「世界初の週 35 時間労働法へすすむフランス」
(
『前衛』1999 年 10 月号)p34-35、および清
水耕一「フランス 35 時間労働法の性格と意義」
(同志社大学経済学会『經濟學論叢』第 54 巻第 4 号、2003
年)p.34 参照
(11)小森、前掲論文 p37
(12)浅田信幸「フランス国民が下したリストラへの審判」
(
『前衛』1997 年 8 月号)p124
(13)「オブリ法 I」は従業員 21 人以上、
「オブリ法 II」は従業員 20 人以下の事業所が対象。
(14)松村、前掲論文 p20
(15) «Les effets de la RTT sur l’emploi : des simulations ex ante aux évaluations ex pot» Économie et
statistique n°376-377, INSEE, 2004
(16)水町、前掲書 p133 掲載の INSEE 出典のグラフ参照
(17)フランス国立統計経済研究所(INSEÉ)のウェブサイトの Dureé et condition de travail のページ掲
載の表から。いずれも前回数値修正を経た値。未修正の最新数値は 2008 年の週 39 時間 15 分。
(七)むすび
フランスの社会保障制度は、19 世紀の共済組合から第一次世界大戦後の国家介入による
全国的な社会保険、第二次世界大戦後の当事者管理によるユニバーサルな社会保障へと発
展してきた。
社会保障制度が民間の金庫の活用で発展してきたことを反映して、1991 年の社会福祉目
的税(CSG)導入後の現在でも、社会保障費用の企業負担が、労働者はもちろん国の負担
よりもずっと重くなっている
(1)。税と社会保障を合わせた企業負担率で見ると、日本はフ
ランスの 6 割程度にしかならない(2)。
社会保障および労働者保護の発展の推進力となったのは、いずれも国民運動・労働運動
である。また、それを反映した勢力の政権も役割を果たした。こうして積み上げられてき
た社会的既得権を侵害されたと国民が感じる政策を政府が打ち出せば、労働・農民・学生・
高校生などの各種組合が職場・地域・学園の仲間に訴え、ストライキやデモなどの社会行
動に出る。政府と運動・世論の対抗関係によって、制度が前進する場合もあれば、二〇一
〇年秋のサルコジ政権の年金改悪(3)のように、後退する場合もある。
労働者保護は、国民の購買力を高め、内需主導型の経済をつくる。米英の主要メディア
のなかには、2008 年の米国発の世界的金融・経済危機によって、フランス経済をあらため
て見直す論調が現れてきている。米紙「ニューヨークタイムズ」
(09 年 12 月 19 日付)は、
こうした英米マスコミの論調の変化を紹介しながら、「フランス・モデルがまた流行ってい
るらしい。『ELLE』〔ファッション誌〕の表紙を飾るお洒落なモデルのことではなく、
厳しく規制された経済という発展モデルのことだ。よく機能する国家が市場をしっかりと
管理しており、公共支出と社会的支出が、危機を緩和している」との論説を掲げた。当論
説は、「現在の地球規模の危機」の教訓として「短期の経済パフォーマンス」よりも、「社
会としての成功」を考え「長期的条件」に焦点を当てる必要があるが、その点、フランス
の「強み」として、①欧州諸国最高水準の出生率、②収入格差が比較的尐なく、他の先進
国で格差が拡大し始めた 80 年代半ば以降、フランスでは逆に格差が減尐傾向にあること、
17
③世界最高レベルの医療制度、④低炭素型の経済発展の 4 点を挙げている。こうした「強
み」はいずれも、国民・労働者が社会的既得権を積み重ね、目先の利潤を追い求める資本
の衝動に歯止めをかけることで勝ち取ってきたものである。
他方、このフランスの内需主導型経済がいま、大きな試練に晒されていることもまた事
実である。2011 年 1 月初め、
「フランス人が悲観主義の世界チャンピオン」と題する世論調
査結果がフランスの報道をにぎわせた。
「2011 年が前年と比べて経済的に良くなると思うか」
との問いに、
「良くなる」と答えたフランス国民はわずか 3%で、調査した 53 カ国中最低だ
ったのだ。米ギャラップ社と共同でこの調査を行った仏 BVA 社のセリーヌ・バロック世論
調査副部長は、その理由として、
「福祉国家への信頼が以前より弱まっていることが考えら
れる」としている(4)。
本稿では、フランス国民がどのように社会的既得権を積み重ねてきたかを振り返った。
今日、利潤の無制限拡大をはかる国際金融資本や多国籍企業が主導するグローバル化経済
のもとで、自由競争の弊害を規制し、社会保障を充実させ、国民生活を守ることで購買力
を高めるという内需主導型の国民経済の確立が、世界で共通した大きな課題となっている。
それを検討するさいの参考になれば幸いである。
注
(1)Jean-Claude Barbier et Bruno Théret «Le système français de protection sociale» La Découverte,
2009, p33 掲載の DREES 出典の表によると、2007 年の社会保障全体(protection sociale)の支出におけ
る企業負担は 44.4%、労働者負担 16.8%、国家負担 31.4%である。また、「しんぶん赤旗」2010 年 11 月
23 日付 1 面のグラフ「各国の社会保障財源の構成比(2007 年)
」
(大門実紀史参院議員が 11 月 22 日の参
院予算委員会の質問で使用)によると、社会保障財源における事業主保険料の比率はフランスが 44.1%で、
日本 27.1%、ドイツ 35.2%、英国 35.8%、スウェーデン 40.3%と比べてかなり高い。そのためフランス
が比較的低い企業税の比率と合わせた企業負担比で見てもこの順番は変わらない。
(2) 「平成 22 年度税制改正大綱」の「参考資料」に、2006 年 3 月の「法人所得課税負担及び社会保障負
担」の「総売上から社会保障負担以外の費用を引いた額」に対する比率を国際比較した資料が掲載されて
いる。これによると企業負担率は、情報サービス業でフランス 70.1%に対し日本 44.2%、エレクトロニク
ス製造業でフランス 49.2%に対し日本 33.3%、自動車製造業で、フランス 41.6%に対し日本 30.4%、金
融(銀行)業では、フランス 31.3%に対し日本 26.3%である。
(3)法定退職年齢を 60 歳から 62 歳に、年金を満額受給できる年齢を 65 歳から 67 歳に延長する法律。フラ
ンスの法定退職年齢は、左翼連立政権時代の 1983 年に、65 歳から 60 歳に引き下げられていた。
(4)仏紙「フィガロ」 ウェブサイトの 2011 年 1 月 3 日付記事
(了)
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