ある絵画のアクシデント The Painting Accident

ある絵画のアクシデント
ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの視覚論における「開かれたイメージ」という概念を巡って
ロディオン・トロフィムチェンコ
(大学院造形研究科博士後期課程造形芸術専攻 美術理論研究領域 平成 22 年 3月単位取得退学)
The Painting Accident
On the concept of “Open Image” in the theory of Georges Didi-Huberman
Rodion Trofimchenko
それは日本の現代美術作家である笹山直規の
「Egocentric Story( 自己中心のストーリー)」から
始まる。開かれた裸体のイメージは我々を「 交通
事故 」というモチーフのトランスフォーメーション
に、つまり自己とその表現の事故に、そしてディゼー
ニョ全体の破壊に、さらにはクラッシュを表象する
のではなく、それを再現するものとしての美術作品
に導く。フランス美術史家ジョルジュ・ディディ=
ユベルマンの「 開かれたイメージ」という概念を分
析しながら、見る / 思考する主体としての我々が笹
I will begin with Egocentric Story by the Japanese
contemporary artist Naoki Sasayama. The image
of an open naked body leads to a transformation of
the traffic accident motif. That is to say, it leads to
accident of self and its expression, to collapse of
the design as a whole, and to a work of art that does
not so much represent the crash as reproduce it.
While analyzing the concept of “open image” of the
French art historian Georges Didi-Huberman, I will
approach Sasayama’s work in such a way that we
become participants in his painting catastrophe as
viewing/thinking subjects.
山の絵画カタストロフィの参加者になるべく彼の作
品にアプローチする。
1
図1.笹山直規、
「Egocentric Story」
、水彩 / 紙、130.3×162cm、2009 年
開く身体 — 閉じる身体
メージの全体の構成を見ても、身体自体とその上
部が画面の大半を占めるだけではなく、
「 開きの
身体の「外部」へ出されたその「内部」。ボタン
ジェスチャー」は中心から盛り上がり広がって、絵
をはずしコートのように開かれた皮膚は究極の裸
画空間全体を覆おうとしているように見える。そ
のイメージを見せる。細かく描かれた自動車の複
れは、何かの内側にある隠れた物を覗き見させる
雑な運転機械と運転席のデザインを背景として人
イメージではなく、出現する無形の中身は解放しな
間の無形なものが提示される。それはある事故ま
がら、広がって侵略するという開きを描くイメージ
たは殺人事件の果ての身体で、どちらにしても、笹
である。身体を開くだけではなく、裏返そうとして
山直規の 「Egocentric Story( 自己中心のストー
いる想像的なジェスチャーはそのイメージ全体を
リー)(
」 図1)において、開かれた身体は単なる中
その動きに巻き込もうとしている。肉体的な変化
が見える物体というより「開きのジェスチャー」とし
の起動によって絵自体の裏返しが起こりそうなも
て現れている。この場合、画面を / 描かれた空間
のだと言えるだろう。結局、モチーフの物語の側面
を / 自動車の中を見るということは、身体の内に目
から見ても、あるロジックの違和感( たとえば「 な
を向かせるということと同じである。皮膚をさっと
ぜこの女性は裸で車の前の席にいる( いた)の
開けるモーションの雰囲気、内に隠れた輝く内臓
か?」というような疑問)は、
「 開き」の避けられな
の分散 / 広がり / 流れ、その豊かな色彩と生き生
いプレゼンスを、論理を無視する
(非)
存在を定め
きしている質感は中身のアクティヴな性格を示し、
る。そのように、笹山の身体の開きは「 死体の写
「 外」に対し攻撃を行うような「内」を見せる。イ
2
実 」というものを超え、
「 開き」のダイナミクスを引
き起こし、その動きに絵画空間を絡ませ、場面の前
た作品より、ディディ=ユベルマンのアプローチは
後のストーリーとロジック自体に開口部を示し、視
一層極端で、出発点となるヌードの代表的な例は
覚と同時に思考において無形なものの侵略を試み
もっと無慈悲だと言えるだろう。ディディ=ユベル
るのである。描かれた死体だけではなく、絵画全
マンは( 裸性の)美とその背景にある残酷性の不
体の開きがあり、それは見る者自体を開こうとして
可避の関係性を示すためにサンドロ・ボティチェリ
いる。
の《ヴィーナスの誕生 (
》図 2)
に目を向けた。
「ボッ
ティチェッリのヴィーナスは裸であると同じく美し
しかし、その描かれた中身は出現すると同時に
い」という当たり前に聞こえることから始めて、美
覆われてもいる。その身体の開きの急進は実際に
術史の流れにおける「裸体の再閉鎖 」、
「裸性の洗
存在するかのようなフィルターを通して見え、閉じ
練化 」そして「 開いたイメージの鎮静」を明らかに
る行為をも行うと考えられる。まず、その内臓のイ
( 註1)
する。
メージは、作品のシリーズにおいて、つまりは一つ
ディディ=ユベルマンによると、ボッティチェッリ
のテーマである「 交通事故 」を巡る絵画の連続の
のヴィーナスというローマ神話の愛と美の女神の
中に挟まれており、
「シリーズの全体コンセプトとし
表象と
「美の誕生 」自体を表現する作品の裸体は、
ての作品の背景 」と「 他の作品との総合リンクに
美術史のディスクールの中に、ボッティチェッリの
沿う参考的な動き」の中に沈んでいる。第二に、
美術の理想化に従いながら、イメージとヴィーナス
作品は中身を見せながら、
「 象徴のからくり」を展
自体の元にある( たとえばウーラノスの去勢など
開する。つまり、死体が手で持つリンゴは「 身体」
の)残酷性との関係性を忘れ、幾重かの「 衣装 」
を「 主人公」に変えながら、その死体を「 白雪姫 」
をまとってしまった。
という表象と総合し、中身を覆うことにおいて( 皮
肉として見られても、シンパシーを示す白雪姫で
あっても)象徴を生み出す。その象徴が生み出す
二重性はイメージに導入される。しかし、それ以
外に、笹山は死と深い眠りの間に橋渡しを構成す
る。作家は事故を起こして死んだ人は、まるで自
分が死んだ事に気づかずに眠っているという死体
写真家の釣崎清隆の死体イメージに対するアプ
ローチの一つを想起させ、死体の「永遠的な睡眠 」
として表現しようとしている。その「 白雪姫 」のよ
うな昔話の導入は作品の鑑賞の経験をもう一つの
次元に導き、象徴的なドレスそして「眠り」というイ
図2.サンドロ・ボッティチェリ、
「ヴィーナスの誕生 」
、キャ
ンバスにテンペラ、172.5cm ×278.5cm、1483 年、ウ
フィッツィ美術館( フィレンツェ)
メージで人間の中身を「 かぶせる」ことを行う。そ
のように、身体のイメージ、その裸性と開きは隠れ、
まず、ヴィーナスは非常に鋭く、しっかりした輪
閉じようとしている。開きのジェスチャーと同時に、
郭線で描かれ、背景から切り出されていて、レリー
その身体とイメージの閉じこみの意図が存在し、見
フのような構成に近い。輪郭だけではなく、ヴィー
る者はイメージが開かれると同時に距離を得、閉
ナスの絵画表現は( 大き目の)スケールと( 不透明
じることも行うのである。
で、古彩に満ちた、石のように濃い)色彩という特
上に示したような「 裸性の再閉鎖 」とそれに対
徴によっても「 掘られていて」、古代彫刻との関係
する批評の試み、
「 裸体の極端 」と「 イメージの開
が強調されてきた。この特徴とこの特徴が引き起
き」の弁証法はジュルジュ・ディディ=ユベルマン
こす思考の方向はヴィーナスとその裸体を「性 」か
によって論じられている。しかし、我々が取り上げ
ら離れた、神性として示した上に、裸体は超越、昇
3
華、理想との関係に基づいて理解されることになっ
文学 / 物語、つまり文献的な原点の「 イラストレー
た。その過程で、ヴィーナスと美術における裸体
ション」でありながら、存在しているボッティチェッ
自体には、二重性が誕生し、裸体は「 美術という
リのヴィーナスは、存在していないアペレスのヴィー
領域に入るために未だ教養がないもの」で、
「 性的
ナスから始まった「ディスクールの連鎖の形象上の
にわずらわしいものとしての裸 」または「 理想的な
結果 」として理解されてきたということである。
「要
美術の形としてのもの」で、古代ギリシャの美術の
するに、間にスクリーンを置かなくてはいけなかっ
ジャンルとしての「裸 」に分かれていく。つまり、恥
たのだ。
「 裸体の現 象学」の前に、なんとしても
ず かしさを 絡 めて いる 状 態 の「 裸 体( nudité/
「 ヌードのシンボリズム」が立ちはだかることが求
nakedness )」と美術の形としての自信を持つ、晴
( 註4)
という風に考えるしかない
められたのである。」
れやかな「ヌード( nu /nude )」という分割が起こっ
のである。
てしまう
。それは裸体の「 発掘された古代大理
( 註2)
ディディ = ユベルマンは「 理想化されたヌード」
石像という衣裳 」と「 ジャンル化の衣裳 」をまとっ
の理論を開くために、裸体と欲望の分断を壊し続
ているということである。
け、アビ・ヴァールブルグによる「 ヴィーナスの誕
ディディ=ユベルマンは、
「否定 」の裸体のディス
生 」の分析と彼の「情念定型 Pathosformel」、ボッ
クールが発生する美術史の二つの理論的な領域を
ティチェッリの「 ナスタージョ・デリ・オネスティの
示す。それは、ヴァザーリの概念的なコンテクスト
物語」と「 夢と症状に取りつかれた美 」、クレメン
である。 つまり、イタリア語 の「 ディゼーニョ /
テ・スジーニの「腹を裂かれたヴィーナス」
( 図3)
と
disegno 」の優先を確立させる考え方である。そ
「優雅さの中の恐ろしさ / 形の中の無形」の分析を
れは「 構成 」ならびに「 デッサン」の優位を確立し
行い、
「 裸な身体 / 死を与えられた身体 / 開いた身
ようと す る 動 き で あ り な が ら、当 然「 知 性
体」を、より明確な理解に導く。しかし、我々はま
intelletto 」、
「着想 concetto 」、
「イデア idea」、
「判
だ歴史を持たないが、同様に開いたイメージに戻
断 guidizio 」という用語で挟まれた disegno であ
り、現代美術の作品に集中することにする。その
る。それと並行的に、ヌードの理想化においてカン
日本のコンテンポラリーアートの作家の一人による
トの概念的なコンテクストという文脈も働きかけを
裸体のラディカルな表現、彼の「 イメージの開き」
行う。つまり、イメージに関して、あらゆる「感情移
を明らかにしたいと思う。笹山直規の裸体を考え
入 」を拒否し、むしろ美的「 判断力」の優位を確
ながら、ディディ = ユベルマンの「 開いたイメージ」
立するという動きである。しかし、それはヌードを
という概念のキーポイントをはっきりさせたいと思
裸体から切り離そうとしているもので、
「形」と「欲
う。ディディ = ユベルマンの「 弁証法のからくり」
望 」を分けようとする美学上の力でもある。それ
を使いながら、イメージの開きを解釈するディス
はどのような意味かといえば、我々は「 ヌードを前
クールを明確にし、ディディ=ユベルマンの美術作
にしながら、判断力を保持して欲望を忘れ、概念
品と美術史に対する視点を理解しながら、自分に
を保持して現象を忘れ、象徴を保持してイメージを
よる作品の解釈 / 認識論を発展させることを本論
忘れ、デッサンを保持して肉体を忘れることがあり
の目的とする。
( 註3)
しかし、ディディ=ユベ
うるということなのだ。」
ルマンはそれに賛成できず、そうした美術史上の
認識を批判しながら「 デッサンと理想美という衣
裳 」と呼ぶことにする。
結局、
「 否定されたヴィーナス」は「 神話的な物
語や文献的記述 」の衣裳を着させられる。つまり、
裸より「 典拠 」を前に押し出され、言葉による表象
図3.クレメンテ・スジーニ、
「腹を裂かれたヴィーナス」
、
の絵解き、二次的な現実に変身してしまう。神話 /
4
蝋に色彩、1781〜 82 年
交通事故とその現場
ンタスムなのだ。その限界というのは、動くイメー
ジ、つまりは触覚的で欲望しているイメージ、そし
笹山の作品の解釈に戻って、そのイメージの開き
て見る者の体へとおのれの体を開くイメージという
の「構成 」と「機能 」、つまりその開きを現象として
(註 5)
フィクションのもとで、乗り越えられてゆく限界」
見てみたいと思う。しかし究極の裸体が生まれる
を探さなければならないのである。
ためには「 欲望 」の作動に注目しなければならな
上に取り上げた「Egocentric Story 」という作品
いのである。写実、ミメーシス、表象の構造を降り
は、すでに示した通り2004 年から作家の中で大き
開口部を開く制作上の出来事を、作品の視覚次元
な位置を占め始めたテーマ、つまり最も濃縮された
に出現する様相に目を向け、ファンタズムの働きの
結果としての「 裸体」と「 開き」を理解することが
命の瞬間、最後の運命的で致命的な出会いである
「交通事故 」というシリーズの一つの作である。
求められる。つまり
「これは模倣の限界を探るファ
図4.笹山直規、
「Sky is crying the tears, I cannot cry out 」
、水彩 / 紙、
130.3×130.3cm、2005 年
交通事故( traffic accident )
とは何だろうか?ま
り立ちをもつ。事故 / アクシデントは、主体が( 運
ず、現代英語の「accident」は言葉の次元が示す通
転についてだけではなく)あらゆるコントロールを
り偶然の流れの結果を指す。または、元々のラテ
失う瞬間で、偶然性の侵略によって、現実と出来事
ン語の「accidēns」は、つまり「accidō」
(=「 行われ
の計算をできず、主体( 性 )自体の落下を示すも
る」)から、
「ad」
( へ)
+「cadō」
( 落ちる)へと言う成
のである。
5
事故 / アクシデントはどの側面から見ても、出会
の」
( ”Simulaire et Simultané ”)という短いエッ
いだと認めるしかない。極端な出会いだ。つまり、
セイには、ディディ=ユベルマンは「 類似したもの」
予想されなかった、他の(人にしても機械にしても)
が同時に偶然性により触れ合ったなら、そのありう
意図的な力との遭遇で、時間を「 出会いの前」と
る結果の大きな違いを示す。さいころを投げると
「 出会いの後 」に( 事故の場合「 その前の生 」と
いうゲームとのリンクをヒントとし、ディディ = ユベ
「 その後の死 」に)分ける出来事である。つまり、
「 盲目の衝突です
ルマンはその代わりに衝突 −
決定的な偶然性 / アクシデントということである。
( 註6)
−に投げ出された
が、すべてをきめる衝突 」
事故に遭うということは、ある意味、極端に触覚
車の中にいる(「 類似したものとしての」)3 人の命
感的な出来事である。スピードや衝撃力などは視
の可能な三つの結果を示す。それは「 運命」、
「負
覚 / 知覚の強化を導くだけではなく、接触のラディ
傷」「
、死 」、そしてそれに重なる「視線 」「
、嘆願 」と
カルな絡みを発生させる。その交通事故の「 タッ
「 無 」である。煙を立てる自動車の瓦礫から掘り出
チ」は人生のレイアウトを変えるだけではなく、事
された一人は無傷で生き残り、自分がいた場所を
故に遭ったもの( 人にしても機械にしても)のアウ
ショックを受けながら見る。もう一人は、重傷を負
トラインをアクシデント的に、つまり企画なしで分
い、ずたずたに引裂かれ、命が今にも尽きるという
解 / 総合を引き起こすものである。事故は、我々の
ことも意識せずに、歩きながら助けを懇願してい
見慣れた物の区別、
(輪郭)線などを再構成するが、
る。もう一人は車の中に残され、その金属の山の
その偶然性によって、構造のない、または非構造的
下に血が広がっていく。同じ場所( 自動車と同時
な「 模様 」を生み出す。事故のシーンは鮮やかな
に、運命の手のひら)の中にいた同じ / 類似したも
カーペットのように、はっきりとしない境界、明確な
のは、皆同時に投げられて、偶然( accedo =「 へ」
アウト( 外)ライン( 線 )なしで、構造と構成が極
+「 落ちる」)、事故( accident )に出会い、その後
小化した状態で表わされる。交通事故の視覚的
ではそれぞれ完全に異なる最終的な形をとってし
な側面は、アラビア模様を連想させる表現と非形
まう。3 人目は血のシミまでに縮小され「 死 」以外
象上の抽象の独特のイメージを生み出す。
の何物でもない。二人目は意識を失い重傷を負い、
すでに示したそうした三つの特徴、
「偶然による
一人目は生き残っている。このように、偶然性の及
主体の落下」、
「 極端な出会い」と「 視覚における
ぼす暴力のような事故というできごとはものの運
触覚の関わり」ということによって、つまり事故現
命、その形と身体、その見る行為の性格を一つの
場の「モチーフ」における事故の性質の関わり自体
結束から違う方向に進む紐のように広げる。こう
によって、我々は「交通事故 」をテーマにしたイメー
した理由により「 交通事故 」のテーマは美術史家
ジを、
「 交通事故 」というモチーフの役割に限るこ
ディディ=ユベルマンの理論においても重要な位
とができないのだと考えられる。事故のイメージは
置づけとして捉えることができる。
「 模倣 」と「 表象 」の範囲に制限されずに、作家自
本論の主題にかかわる文脈においても、上述の
体の意思 / 欲望と関係しながら、見る者の「快楽」
ような展開をきっかけとし、笹山の制作における事
を超えて、見る者の主体を刺激し緊張感を起こす
故をモチーフに限った理論で捉えようとする視座
ものになるはずである。
を超えなければならない。笹山の絵画は事故の写
「 交通事故 」という実際の出来事は、視覚自体、
しとしてではなく、事故を起こそうとしているものと
イメージの( 再)構成自体にそのような強い絡み合
して考える必要がある。
いを持たせることにより、ディディ = ユベルマンも
この致命的な事柄を美術 / イメージの基本的な問
題を巡る議論のために取り上げる。彼によって、交
通事故はイメージの三つの運命を示す比喩の役割
を演じることができる。
「 類似したものと同時のも
6
図5.笹山直規、
「Hansel and Gretel」
、水彩 / 紙、91×72.7cm、2005 年
笹山の「Egocentric Story 」における開いた身体
関係していることを示す。
「Egocentric Story 」の
とイメージにおけるジェスチャーは、上に示した交
身体は、色彩が強く、生々しい水彩のシミで表現さ
通事故の特徴の文脈において捉えなければならな
れた無形の内臓としての「 蝶−イメージ」を飛翔さ
s gesture 」
い。
「 事故的なジェスチャー /accident ’
せるために開くというふうに言えるだろう。作品全
の結果としての開いたイメージである。突然で、偶
体も、その「 出生 」としての「 開き」を働かせるた
然の出会いの呼び起こすタッチにより、裸体自体
め、
「開いたイメージ」を表すということである。
の偶然性、身体という形象の中の無形の肉の現れ
さらに、
「 開く」とは「 掘る」という言葉とも重な
を行うイメージである。このような解釈はディディ
り、
「土を開き」、
「土を掘り」、その中に「壁や墓を
= ユベルマンの「 開く」ということの幾つかの定義
掘り」死者の新しい世界、死後の世界へ入ることの
的な指摘により導かれる。
準備としての「開き」ととらえることができる。ディ
まず、第一に、笹山の裸体はディディ = ユベルマ
ディ = ユベルマンは美術が先史時代の洞窟やカタ
ンのディスクールにおける「 始まる」という意味の
コンべの廊下で始まったと想起させ、古代エジプト
「 開く」を示し、
「 開く」における「 出産 」を指す。
に遡り、死の世界とのコンタクトを開く / 閉める墓
身体を生むために開いた身体という具体的なイ
の中のイメージの前の扉を参考とし、そのイメージ
メージのことでもある。ディディ = ユベルマンは改
の開き( とイメージを見せることとその図式の関
めて「imago 」という言葉の成り立ちを思い出し、
係 )を西洋美術史における長大な変遷に照らし合
「イメージ」とは変身し、開いた繭から飛び出る蝶と
わせる。
7
この意味において、開きという所作ぬきでは
には縫合面があり、その点においては「 開き」は対
イメージは存在しない。なぜなら、開くという
象と同時に主体、作品と同時に見る者両方を絡め、
ことはそのとき覆いをとるということと等しい
その区別をある特別な一瞬に消滅させてしまう。
からである。それは、見ることを妨げていたも
宗教美術の文脈において、祭壇画の扉は十字架の
の−扉であれカーテンであれ−を払いのけるこ
上に手を開いたイエスを見る主体のために開き、信
とであり、それはまた、以降は「 開かれて」あ
者を開けるためにイメージを開くという具体的な
るそのものを、内部と外部を交通させるような
シーンに言い換えることもできる。
空間的関係の中に配置し、提示することであ
イメージは現実の奥 / 中にある真実を孕みなが
る。その場合の内部とは、囲まれたイメージを
ら、見る者はその中を見るようにしている。イメー
保管していた暗い空間のことであり、外部と
ジの開きを見る行為の結果とは、自分を開くという
は、視るということの共通性に属する明るい空
ことで、その開きを「 対象 - 主体」の区別を超えた
間のことである。
瞬間にあり、イメージの開きから自分の開きへ視ら
( 註7)
れることである。しかし、笹山の場合、イメージは
見る主体の「 自分」を開く前に、作家の「 自分」と
そのイメージを開いてしまった。先に進む前に、ま
ずその作家自身の開きに触れたいと思う。
自己の事故
笹山は2003年から多数の自画像を制作し始め、
「 交通事故 」と並行して自分の内的な事故を直に
怪我として表現する。心理的なトラウマは肉体的
図6.サンティッシマアヌンツィアータ教会の聖具室、ナポリ、
1984 年
なトラウマと合体する。若い作家の内的な衝突、
疑いと自滅への衝動が、傷、切断、腐敗という形で
自画像の中の自分の身体上に現れることによって、
「開かれた」、
「衰弱」、
「分離 」という心理的な問題
扉で閉めた古代の鏡( 自分のイメージを開くた
を極端かつ率直に表現する。
( 図7)
めの装置 )、扉で閉められたアイコンまたはめった
に行わない儀式の中で広がるヴェロニカのヴェー
ル、教会の祭壇画の扉の儀式的な開き / 閉じ、ほど
よいページを開かれた宗教的な本などすべては人
間が「イメージの前で」の何かへ向けその開き自体
の行為の与えるものを信じていたと伝えてくれる。
ディディ=ユベルマンはそのイメージの前で行うこ
とを、触覚感を強調しながら記述している。見る
主体はイメージに近づきながら、ある儀式のような
非日常的なプロセスと作品を見ることの心の準備
と緊張感の瞬間にいながら、その「イメージは目の
ように、口のように、手のように、性器のように、内
( 註8)
開いたイメージと見る者の間
臓のように開く。」
8
図7.笹山直規、無題、
水彩/紙、
41×41cm、
2007 年
ナルシシズムのメカニズムと想像的な自傷行為
をとって、
「 自我 」の「 顔 」をついばんでいく時に、
の結果としての自画像は、笹山の「開いたイメージ」
偶然性による主体の落下が起きる。
の背景にある欲望との関係を示し、作品上に視覚
笹山のイメージは我々のために開く。それは、
化されたシンプトムとして現れる。コントロール /
極端に肉体的な意味で「 内臓の出現 」ということ
計算不可能な交通事故は、同様な偶然性の力を
から心理的で、感情的な意味で「 正直に自分の悩
持つ瀬病のようなシミで表現される。他者と同時
みと苦しさの現れ」の間の色々な意味を含む開き
に人間の自己の表れ / 外見を無視している潰瘍は
である。しかし、イメージの動きによって、知覚か
何の企画 / 目的 / 方向なしで、顔を、つまり自己のイ
らいつも逃げてしまう眼差しと同じように、
「我々の
メージを変形させ、非形象化させる。厳密な意味
ために開いたイメージ」は次の瞬間に「 我々で閉め
で自己イメージのアクシデント / 偶然化が行われ
るイメージ」になってしまう。2007 年の自画像の水
る。この視点から見れば、
「 交通の事故 」は「 顔
彩画は改めて「開き」と「閉め」の永遠的な変形を
(自己イメージ)の事故 」または「体の輪郭とフォー
見せる
(図8)
。自分の「率直に」開いた裸体は、性
ムに不可欠の皮膚の事故 」と強い関係を持つ。主
的でありながら、
「死的」である。このイメージはエ
体性を失う場面。心理的な不安が害毒の
( 無)形
ロスに触れていながら、タナトスにも触れると言え
図8.笹山直規、無題、水彩 / 紙、72.7×50cm、2007 年
9
るだろう。そして、この作家の自画像は我々の感情
ムの中にもう一度「 自分の身体」と「 自動車のボ
に触れると言うなら、その触れ方、そのタッチは感
ディ」の同一性を示し、その二つをつなぐ事故また
情的と同時に肉体的であり、視覚された「 生 」と
は分解ということにヒントを与える。しかし、この
「死 」の繰り返しのゲームを孕むと言えるだろう。
作品の文脈においては、
「偶然に現実に落ちてしま
それは新しい自身が生まれ、改めての「 開き」、
う (ac)cedo 交通事故 」から「 作家の身体 / 自己の
改めての「 閉め」、改めての「 開き」、改めての「 閉
事故 」に移行するだけではなく、その表象の連鎖
め」を引き起こし続ける行為 / 動き自体を表すイ
の上に逆の移転を行うことができる。笹山は、
「交
メージである。マトリョシカまたはチャイニーズ・
通事故 」という絵画のモチーフは運命 / 偶然性に
ボックスの構造のように、自分の中身、主体の真実
よって破壊される身体を想像するからくり、つまり
またはイメージの本質は、無限の再開を運命づけ
自己障害の視覚的かつ想像的メカニズムとして構
られ、見る主体からそのように逃げていく。開いた
成する。
「自動車」は「身体」で、
「交通事故 」は想
と同時に得がたく近づきにくい、乗り越えられない
像上の「自己損傷」の空間である。
邪魔な存在としてのイメージになっている。
しかし我々がその表象上の縫合面を心理的な領
視覚的撞着になっているが、開いた身体は包み
域だけではなく、それ自体を美術イメージの次元で
という性質が強調されている強大な腸を、中身を
見とればどうなるのだろうか?笹山の「作家的なス
主張する中身を生む。呼吸している中身に満ちた
トーリー」は、
「自己の境界を破壊する」ことを巡り、
その踏み込んだ腸は、体から出てきた肉的な結び
つまり狭義では( 絵画で描かれた身体の表象の)
となり、再びの開き / 広がりの可能性を持ち続ける。
輪郭線の砕け、広義では( 心理的な自我の視覚的
結局、その下に、開かれた自我の中からまた開けら
な纏まりとしての)境界( 線 )、自己表象の視覚的
れる自我が現れてきて、何かを隠そうとしていると
組立の分解を示す。それと同時に、この心的な過
いう性格を持つ赤ちゃんの姿のイメージで自分の
程はあらゆる擬人化のメカニズムを働かせながら、
イメージの開きが働かせる「 開き」−「 閉め」の変
自動車のボディとその形象の破壊、車の形象とそ
形において、主体は落下し続ける。
の形骸へのダメージの強迫的な再制作とファンタズ
ムの「 交通事故 」という場面の再生が行われる。
身体のデザイン…、自動車のデザイン…、その本格
ディゼーニョの事故、傷の拡散
的な崩しである。
この場合、我々は笹山の作品の流れにおいて
笹山は上の自画像を描いた動機については詳細
ディゼーニョ disegno 自体に対する攻撃に、ディ
な記憶がないというが、彼は何回もその崩壊する
ゼーニョの陥落に至るのではないだろうか?イメー
自我イメージの場所を強調する。
「絵では解り難い
ジに動いている欲望、
「 交通事故 」と自画像のモ
ですが、スクラップ工場の中にいる、という設定で
チーフの選択とその間に起きる同一化などはディ
す。壊れた自分は病院ではなくスクラップ工場に
ゼーニョの性質に流れ、統一感( いわば無意識的
いる、という絵ですね。」
と言う。
( 註 9)
な意図を実現させる混在 )を得ることとなるであろ
スクラップ工場…。 それは自動車を分解し、
う。言い換えれば、笹山の作品においては「身体」
ばらばらにする場所で、いわば「 物体が切断され」
をディゼーニョによって表象されたものとして、読
あらゆる「 暴力的な」行為が行われる空間である。
み取る( 分かりやすい、よい)形象としての身体を
笹山はその残酷な場所に自分の体を想像し、自動
理解するのではなく、ディゼーニョの概念に限るこ
車のように分解させ( られ)る。自分の身体自体
となく、構造とその構造を壊す力両方を考えなけ
を断片に、また取り外されたものにし、自分のパー
ればならない。つまり、硬いミメーシスに挟まれず、
ツをゴミになったスクラップとして想像してしまう。
ディゼーニョと異なったルートを選ぶ類似の操作
この様に、作家は自分の制作に、自分のファンタズ
に従う「身体性 」を考えなければならない。
10
図9.笹山直規、
「Entrance」
、水彩 / 紙、162×130cm、2004 年
2004年の「Entrance 」という作品に見られる開
暗いトーンで、
「 汚れ」の雰囲気を持つ不明確な色
きはある具体的なジェスチャーを見せる
( 図9)
。
を示す。色彩自体は外の「 形」と中の「 無形」の
鋭いナイフで切られたように、または激しい衝突に
対立 / 組合を強調する。
よって中身を維持できなくなり、破裂した自動車の
ジェスチャー、動きと色彩の働きによって行われ
外形には垂直の線三本と下の平面的な一本の切れ
る「 開き」においては、それは身体であるか、自動
線がはいり、中身を世界に見せる。その開きはス
車であるかという問いは二次的となり、その開きは
ピードと精緻さを感じさせる。
( 人間の身体、自動車とほかのあらゆるものの同一
物体は肉体的な動きと重力を示す。ずんぐりし
性を与える行為の基本にある)ディゼーニョ自体
た身体は薄くて、柔らかく見える虚弱な包皮を持
に、形象自体に「開き」を与える。絵画空間の中心
ち、過失で重くなった中身を自由にさせ、イメージ
的な位置をとったモチーフは形を失い、偶然の無
から中身をおろしてしまったという緊張感が読み
形の発生によって読み取れる / 認識できるモチー
取れる。長方形の形をとる幾何学的な外形は、中
フ自体は形を持たなくなる。この形象の破壊、あ
の無形の緊張に対抗できずに負け、
「 腸」を投下
らゆる差異の破壊においては、自動車と身体( と
し、自分の形や線や縦の姿なども失ってしまったと
他の一体的全体)の間の区別が弱くなり、有形と
いう「否姿」が表れる。
無形、外と中、無機物と有機的なもの、空間と傷の
外と中の色彩は極端に異なり、自動車のボディ
間の境界線は消えていく。
は優美な皮膚の薄い白さで表現され、その中味は
11
図10.笹山直規、
「Black Horse」
、水彩 / 紙、116×91cm、2005 年
イメージにおいてトラウマの無形の圧力によって
ゼーニョ」disegno が意味する「 構想 」dessein な
すでに対象自体のディゼーニョだけではなく、
(た
らびに「 デッサン」dessin の優位を確立しようと
とえば遠近法または前景 / 後景を構成させる)空
( 註10)
で笹山の事故を捉えるのは不可能
する動き」
間などの構造は落下し、限界を持たない身体性が
である。一番平面的で形式的な次元においても、
絵画のスペース全体を覆ってしまうことには驚きが
もっとも内的な領域でも笹山の美術は「反ディゼー
ない。作家的な行為はモチーフを形作ることがで
ニョ」の動き(「 ディゼーニョ」の反動き)を示す。
きず、絵画自体はある意味で形象を持てなくなり、
形式においては、
「 デッサン」dessin と「 構想 」
ミメーシスは傷を巡りながら( 傷を巡ることなしに
dessein と同じ「ディゼーニョ」disegno から成り立
しか発展できず )またある程度の差異を持ち、ま
つ「 デザイン」という言葉を加えて、自動車の「 デ
たある程度に読み取れる形象を行使し続ける。そ
ザイン」
( 機能と「 見た目の良さ」を支える構成 )
の時に、イメージは「 全体的な傷 total wound 」と
と同時にいわば身体のデザインは隠さないといけ
して生まれていく。絵画は「身体空間 bodyspace 」、
ないもの( 枠を付けないといけないもの)に形を与
「空間−傷 space-wound 」として登場する。開かれ
えることをせず、それによって自己デッサン dessin
た自動車は開かれた自我とその身体とを統合し、
は優位を失うことになる。笹山が選んだ「ディゼー
開かれた傷空間へ展開する。
ニョ」の失敗を引き起こす出来事である「 交通事
笹山の開いたイメージはヴァザーリのような美術
故 」とは「 構想 」dessein 自体を偶然性の力で超
史上のディスクールに抑えられることはない。つま
えることであるだろう。定義からして、
「事故 」とは
り、
「「欲望 」という暗黙の枠組み、あるいは絵画に
意図に従わない、計画をもたない、すべての可能性
おける「肉体」の現象学にかかわるものすべてとい
へ開かれている反構想である。
「 交通事故 」とい
う、より明白な枠組みに反抗し、イタリア語の「ディ
う笹山のプロット(=構想 dessein )は、物語の構
12
造にも、そこに関わる表象のイメージにも(「 何か」
して存在し続けるために、絵の具に直面 / 反発しな
としてではなく、
「なんでも」または「なんだろう」と
ければならないが、イメージの開きは象徴的な次
しての)開口部を与え、反企画性を孕んだプロット
元で行われるのではなく、表し方の基礎に矛盾を
を発展させる。そのデッサン dessin の中の崩れ、
投資し、作品の物質的な次元自体を関わらせる。
構想 dessein の中の意外性を通じ、作家自身の「自
このパラドクスは恐るべき事実を明らかにする。
己の事故 」と身体の崩れが現れてくる。そうした
笹山の作品で開かれた白い表面とは、モチーフ / 自
過程を経て、ディゼーニョの開きは我々を表象また
動車の外形だけではなく、同一化と擬人化によって
は美術の一つスタイルとしてのニューではなく、作
身体の皮膚だけではなく、形象とその認識の基礎
品が孕んだ肉、傷、症状へと繋げる。欲望から離
れた裸体性ではない、症状との関係を失っていな
にあるディゼーニョの枠組みだけではなく、作品の
「被膜 」自体である…。
い身体ということである。
物質は空白を開く。笹山の自作のどろどろした
この様に、笹山の「 事故 」を自動車の形( 交通
濃い絵の具は普通の水彩、つまり「水っぽい色彩」
事故 )、自分のイメージの身体( 自己の事故 )から
ではない。
「 水の彩」というより排泄物や排出物に
形象自体、ディゼーニョの事故に発展させて考える
近い性質を持ち、美術の昇華された「 精神上」の
ことができる。形自体のカタストロフィの現れであ
次元と正反対の次元、作家の手、物質的な肉体の
る。その瞬間に笹山のイメージにおいては「知性 」
作業によって生み出されたイメージのマテリアルで
から「 形象 」まであらゆる意味合いを持つ「 ディ
ある。笹山は( モチーフにすでに限らない)致命
ゼーニョ」を超え、絵画空間全体を負っていく裸
的な出来事を表現するために、アラビアゴム水溶
体、その無形の傷に直面するしかないということで
液、砂糖水、グリセリンなどを調合して作られたメ
ある。
ディウムで顔料を練り、非常に濃密な水彩顔料を自
ら作る。そこでは視覚的な効果と区別できないそ
の物質自体の侵略が考えられている。自動車のボ
事故としての絵、肉の出現
ディ、自己の身体、形象の枠を考え続ければ、絵画
自体の身体とその開きを語らなければならなくな
モチーフ、自己のイメージ、デッサンの基礎を壊
る。我々は再び新たな意味での「 生きている絵画
していく
「肉」はどこまで発展しつづけるのだろう?
tableau vivant 」に近づいてきた。
2004年の「Entrance 」の作品の構成における「 包
表象の次元の中の物質( ミメーシスのための見
み / 平面」と「 中身」の関係の複雑さに注目すれ
えなくなる支えとしてではなく、そのものとしての物
ば、
「破れやすい表面」と「外に出ようとしているは
質 )の出現は表象メカニズムに危険性を与え、描く
らわた」は作品の媒体自体の次元においても特別
主体自体の写実的な行為の中に異質的な「 未定 」
の働きをしている。水彩の基本技法に従う作家は
を導入する。
「 交通事故 」をテーマにした絵画の
白色部分を紙自体と紙の色で表現している。つま
媒体の次元の特徴は「 偶然性 」という事、絵画の
り、形象の成り立ちやミメーシスの操作は絵の具の
「事故 」ということについて再び考えさせる。
不適用、媒体自体の扱いによって構成されるという
ことである。言い換えると、その真っ白なボディは
予見する−様相のもとで図式とか定義とかを−
ライン
(line )を
「out-line 輪郭を描く」という方法で、
のではなくて、むしろ「 投げる jeter」という言葉の
に押し出
引きながら、色 / 絵の具の物質を外(out )
物質的な意 味において、
「 投げかけ、投 射 する
し、形象の外部に維持するという対立によって描
projeter」ということだ。定式をつくるのではなく
かれる。しかし、その対立自体は「 肉の突破 」やそ
て、賭けるのだ。こういってよければシミのために
の緊張感をさらに極端に際立たせる。紙の色自体
( 註11)
全体を賭けるのだ。
で表現された形象は輪郭線 / 見た目を守り、形象と
13
普段イメージにかかわりが少ない、ミメーシスの
みれの絶対、無形、あるいは身体の白い表面の対
原則によって抑えられた絵画の「 物質的な原因
極としての身体内部を、指示しているものではない
cause matérielle 」は、笹山の作品において絵画の
だろうか。その一方で、なぜ肉体は、画家たちのテ
「 形式的な原因 cause formelle 」から剥がれて、視
キストの中では、彼らの大文字の他者を、つまり皮
覚の次元に自律的に機能し始める。表象と同時に
膚を指示するために、いつも呼び出されているので
描く主体の企画 / 意識 / 中心的な位置を攻撃し、
あろうか?( 註12)
絵画を意外性へ開き、作品自体をアクシデントへ
投げかける。ボディのダメージとイメージの開きは
このパラドクス、この対立は笹山の作品の「血ま
自動車、身体、形象と結局作品自体に広がりなが
みれ」によって明らかになる。本物の意味の肉は
( projeter )
ら、上の引用における
「与える / 投影する
その他者である白い皮膚を裂き、絵の具の物質は
−投げる jeter」ということも笹山の場合にもう一つ
その他者である白い紙の奥から浮かびあがる。濃
の意味を引き受ける。色彩の強烈な物質を作品に
い色の面は前面に出、色は想像的な空間または描
「 与える / 投げる」行為によって事故の瞬間に行わ
かれた造形から紙自体の全面に広がってくる。
「類
れる行為の印象強い具体化を行う。交通事故の
似したものと同時のもの」というエッセイにおいて、
瞬間に運命に投げかけられた( projeter )者のイ
交通事故の場面を文学的に描くディディ=ユベルマ
メージは絵画に物質を投げる projeter 行為によっ
ンは、非常に近いイメージを想像している。あらゆ
て−やはり表象されるのではなく、むしろ−体現
るリミットを超えながら、白い霧に沈んだ車のジャ
されるという事である。作品自体は事故と偶然性
ンクの下にコンクリートの上に自動車から流れる血
を吸い込み、作品に直面する視覚的経験は事故に
( 註13)
何と交通事故の絵画的な
が広がっていく。
投げかけ projeter られる。
瞬間である。
自作の絵の具、それによって示されたものを見て
白い空間・平面で広がっていく赤さという絶対
みよう。破壊された自動車の切り口の中に見える
的な沈黙かつ静かな瞬間に、視覚があり得ないほ
物ではなく、衝突によって開かれた外形からにじみ
ど集中される交通事故という場面を描く作品は、
出るものとは、写されているものの部分、絵画の近
(現実の単なるコピーとして)実体のない状態から、
くから見たディテール、つまり「 理解の意味作用の
改めて超物質的な状態、
「肉」に移してしまう…
一部」としてのディテールではない。見えてくるも
と水を混ぜる。アラビアガム(30g )
と
砂糖( 20g )
のは形象化または理解のアトムではなく、孤立化の
水(100g )を混ぜ、砂糖水に加える。グリセリンと
可能なパーツでもない。絵画の表象上の網におい
オックスゴールリキッドを加え、水彩絵の具の伸び
ては、色彩が濃くなる絵の具は記述不可能な断片
と、湿潤性をよくする。紙上でのウオッシュに適し
である。交通事故の時に車の中に無形に投げ出さ
ている。木の乳棒で大理石の板の上で顔料の粒
れた身体と同様、絵画の絵の具は投げかけられる。
をすり潰し、ピグメントと接着剤を混ぜる。上のよ
事故の後に崩された(自動車の)形からにじみ出る
うな方法で制作された水彩は通常使用しない場
「 身体」は絵画の媒体、その白い紙から染み出る。
合は、腐敗を避けるために低い温度で保存される。
表象と描写に限らないミメーシスは機能していて、
ピグメントは有機体であり、色は肉であるので腐敗
絵画全体で事故の「 シミ」と「 スクラップ」を表す。
するわけである。
( 図11)
事故の恐るべき結果は絵画自体の存在の次元へ
発展し、アクシデントは作品自体と絡み合う。笹山
の表現とそれに関わるシンプトムは改めてリミット
の問題を取り上げ、境界を超えることを要求する。
肉、あるいは肉体、それは、いずれにせよ、血ま
14
コンタクトの優先。表象( re-presentation )のた
めの色がついている何かではなく、事故の提 示
( presentation )のための「ごちゃ混ぜ」から切り離
せないイメージということである。偶然に引っか
かった身体の表現は笹山の肉体自体の関わりから
始まる。白い紙に広がる身体の表現は笹山のテー
ブルの上で混ぜる行為によって出発する。彼の場
合、事故における最終的なコンタクトは絶対的な力
を持ち、作家のシンプトムと同時に現実における
非常に狭く、直截な意味のコンタクトにおいて成り
立つ。アクシデントを受けた人間の身体の内側の
現れと形象の混乱の表現は( ピグメントの)有機
体をこねることから始まる。偶然の原因( cause
accidental )との関わりによって、絵 画的な行為
( l'act picturale )は絵 画の物質的な原因( cause
materiel )に潜り込んでしまう。
笹山の色は滲み出ると言った。しかし、具体的
にどこへ出現するのだろうか?こちらだ!笹山の絵
はすでに何か向こう側に、作品の「 後ろ」にあると
想像されるシニフィアンの連鎖に表象された何か
を表すのではなく、事故のコンタクトを見る者がい
る空間に持ち込むのである。彼の絵画はすでに想
像的な空間へ開かれた窓として機能するのではな
く、あらゆる肉体の意味における開きを絵画のすぐ
前の次元へ押し出そうとしている。
前に述べたように事故は、交通、さらに自己の身
体、形象自体を通り、アクシデントの総合的な力
(その「形象上の総合性 」というのは事故において
一番恐ろしい力)は交通事故の表象ではなく、そ
の出現を引き起こし、作家自身が塗り込めた絵の
具、いわば彼自身の血と汗の混ざった色は有機体
のピグメントをある程度の偶然の下で絵画の媒体
の白い皮膚に広がってきている。車の瓦礫、車の
中に見える身体の残りは絵画の上に存在してくる。
事故はこちら側にある。
( 事故 / 偶然を核心に持
つ)出会いは仮説的なものではなく、目の前に存在
している。かくして場面、時間、身体は開かれる。
このように笹山の「イメージ・コンタクト」は絵画の
浄化の表象的な機能と工学上の距離を開き、私たち
に近づいてくる。笹山の事故現場は絵画の前の空間
図11.水彩の制作方法
に広がり、我々に触れようとしている。身体は開かれ
15
図12.笹山直規、
「Matin Feerique」
、水彩 / 紙、60.6×41cm、2012 年
我々に向かい、我々を巻き込もうとしている。
( 図12)
き」と「 表れ」は新たな意味で、
「 身体を切れば内
私に近づく身体。形象と背景は新たな関係を持
情が見える」という平凡さを超える意味合いをとる。
つことになり、形象は背景にあると言えず、全体空
モチーフである事故という出来事の時に起こる
間は傷を受けた身体、空間全体はトラウマになる。
動揺は表現に関わったシンプトムの不安と一緒に、
しかし、上に説明した絵画の物理的な原因との関
作品の上の物質の動きとして現れる。形は泡立つ。
わりを考え続ければ、笹山の作品における開いた
描かれた事故現場で混乱したあらゆる形はこちら
身体は背景を占領するだけではなく、全面と総合
側で作品の上に肉質的な「 絵の具」の混ぜ込みと
し、絵画の平面を覆い、絵画の次元から出ようとし
して出現する。衝突の瞬間に最強になった視覚と
ている。形象と背景、背景と前面の関係を崩すよう
触覚の交差は、こちらで作家の体温が混ざった色
な肉の開きである。背景は存在しない。背景は肉
彩に富んだ液体と泥のような物質の存在による
体として出現しているゆえに出現しながら、現れて
タッチ、イメージの誕生へ画家の身体の関わりを
くる。しかし、具体的な形、読み取れる表象として
通って表れる。事故を受けた自動車の中と現場全
ではなく、可能な何か、形を失ってまた形をとれる
体に散らばっている身体の小片は( 絵画に近づけ
ものとして近づいてきている。ここにおける身体 /
ば見えてくる)イメージとしてばらまかれた溶けて
イメージの開きは、偶然と無形への、形象の可能性
いないピグメントの有機体の小部分を出血させて
へ開かれているものとして見えてくる。その未定、
いる。この瞬間に描かれたモチーフではなく、画
つまりいわば「 未知の形象 」、その可能性によって
自体が事故そのものになってしまう。光を浴びた
行われる「 現れ」は出来事であると言える。事実
「 はらわた」は写実のコピーとしてではなく、見る者
というより、見る者の実存と交錯する行為である。
に向かい、見る主体をむさぼり食おうとしている。
「開
ディディ = ユベルマンの開きの理論において、
何か身体の臓器としてではなく、一定の姿に抑えら
16
れるはずの生き生きしながら発展している無形と
れず に、具 体 的 な 対 象 の 描 写 を 抜 いた 類 似
してこちらへ行為を起こす。腸は作品の中にまと
( ressemblance )のプロセスを行う。模様のように
まっているのではなく、絵自体が腸なのである。目
表現されているのは具体的な身体ではなく、
「肉体
の前に呼吸している内奥( profonduer )、我々の最
的な変換 」の行為である。このような視覚と肉の
終的な中身、事故の時にしか現れてこない基幹とし
関係においては、身体のイメージからイメージとし
て。恐るべきアクシデントは何時か前に起こって
ての身体まで論及せねばならない。描かれた出来
記録されたのではなく、衝突は今である。
事とその結果の非形は症状的な力を吸い込み、絵
の実際の存在の次元に入り込み、こちら側の傷の
場であり、それこそが開きの空間である。
( 図13)
見る主体の事故
色の面 pan は、何かを表象しないので、見る者
の方へ前進し、見る者を目指す。未定の一部分、見
形は渦巻き、絵のマテリアルは荒れ狂う。偶然
る主体の方へ進んでくる切れ端、行為に関わった
性により、事故現場のイメージは顔つき( aspect )
奥底は絵画の全面を覆いながら、作品の前に進
を失い、見える物は表象の性質をとったり、一定の
み、見る者を触ろうとしている。それは、絵に対す
読み取れる形を失ったりしながら、絵自体が事故
ではなく、外と中両
る外と関係のない姿( aspect )
現場になる。この作品は形のミメーシスに限定さ
者を関わらせる肉が出現する。トラウマは象徴的
図13.笹山直規、
「Watcher」
、水彩 / 紙、162×130cm、2009 年
17
なものとしてではなく、想像外のものとして、症状
いて、呼吸している。つまり、見る者に近づきかつ
的なものとして、具現化されたものとして動き始め
離れる行為を行うのであり、主体の視覚経験の中
る。傷を表現した絵画は、傷としての絵画になる。
心は破壊される。見る者は肉体から解放され、昇
傷絵画とでも言えるであろうか。
華された存在として見るのではなく、自分の内奥に
開きは対象を拒絶し、全体的になる。裸体は極
関わる経験をする。事故のイメージ / イメージの事
端な非形をとる。前面へと動き始めた傷は、絵画
故は作家の身体から絵の具の生成と作品が提示
の前のスペースを占有しようとするだけではなく、
する物質を通し、作品の前に身体として存在してい
絵画に直面している主体、イメージにぶつかる鑑
へ−落ちる。
る主体まで変動させている。ac-cedo. 賞者に絡み、導く。イメージは形の描写というより、
アクシデント。主体は落下する。見る者は裸にな
形成と否形成の過程、つまり変形を示すものにな
る。見る主体は開かれる。
る。このようなわけで、上に取り上げたすべての意
開いた身体から開いた自我へ、その後開いた絵
味の「 事故 」の再現としてのイメージに直面する見
画へ、結局見る者の開きへの進展がある。交通上
る主体とその運命に目を向けてみなければならな
の支障である事故は表象の意味作用の消失によ
い。表徴的な傷ではなく、
「生きている」傷、どこか
り、ナレーションとしての絵画の経験の崩壊を行う。
天上界のものではなく、肉体化されたトラウマに向
いわば事故はストーリーの故障であるだろう。絵
き合う見る主体の状態を考えるということである。
の具のはねかけ、ピグメントの逆巻きは表象の平
だが、どのようにして笹山のイメージは展示空間で
面、
( シニフィアンとその)連鎖にアタックしながら、
アクシデントを再生させ、見る主体のカタストロフ
シミまたは色の面は行為を行う。過剰、症状、消失
を引き起こすのだろうか?
はディスクール自体まで広がる。イメージは形の破
物質( cause materiel )の出現と同時に行うディ
れを目的とするというより、知性自体、判断の可能
ゼーニョの破壊はすでに示した通り、単なる「見慣
性の崩壊に導く。
「事故現場」のシリーズの作品は
れた形の崩し」を意味するのではなく、その開かれ
「主体のカタストロフ」を引き起こす。
た ディゼ ー ニョをヴァ ザ ーリのように「 知 性
本論文の最初に取り上げた「Egocentric Story 」
intelletto 」、
「着想 concetto 」、
「イデア idea」、
「判
に戻り、その開きを再度捉えるなら、裸体の本質的
断 guidizio 」まで広げ理解することが可能である。
な意味とその「開き」との関わり方は明らかとなり、
イメージにおける変形、症状の構成のような自動車
裸体は形象性の安定を侵略し、明確な象徴から逃
=作家の身体=作品自体のボディの同一化、その
げる存在である。
開きと物質の避けられない働きは、いわゆる「見た
目の綺麗さ」を侵略するのではなく、作品のストー
その主な理由は、裸体が存在を揺動させ、
リーを見る者の読み解ける能力、作品の単位として
欲望させ、
「横滑り」させるからであり、この横
の形象の理解とそのメッセージの解釈の可能性に
滑りそのものを、存在の豊かさに満たされた力
攻撃を与える。見る主体は、直面するイメージを把
性に、開かれた力性にしてしまい、思い描こう
握できず、そのイメージの主としての存在を失い、
としても、ふつうは「見定め」がたいものとする
落下する。
からである。裸体は世界の最も不明確である
イメージのシンプトムは距離に働きかける。つま
のは、その本質において、裸体がわれわれの
り、リミットが重要になる。交通事故を見るこの視
( 註14)
世界を開くからにほかならない。
覚経験においては崩壊の現場と見る者の位置の間
に絶対的な境界線は存在しない。イメージは「 笹
この文脈においてディディ=ユベルマンは(「さら
山の事故 」が絵の奥の想像的な次元で起き、現実
にもう二つの意味 」というより)弁証的な対立にお
からはっきり分かれるという絶対性を見る者に与え
けるまとめのような役割を果たす「 開き」の定義を
ることはしない。肉体とそのアクシデントは動いて
提示する。いつものように選択するのではなく、
(選
18
択とは逆に限る、閉めるという事になってしまうの
ディを持つ開きであり、見る主体自体と彼のイメー
で)両者の意味の働きに強調する。つまり場を開
ジの受け取り方に開く経験を発生させる絵のこと
き、無数の可能性を開くように、
「開く」ことである。
である。つまり、それは「 病 」と「 絵画 」の関係に
そして、身体を傷つけ、器官の全体を供犠に付する
対する正反対のパースペクティヴである。ヒステ
ように、
「 開くこと」もある。笹山のイメージはこの
リーの患者を長い時期観察し、多数の写真を撮り
ように皮膚を服のように脱ぎ、彼の裸体は「すべて
ながら「臨床の視点 」から「病の模倣 」を掴もうと
の可能性 」へ開かれている。この瞬間にイメージ
していたシャルコーと自分の立場を対比している
はエロチシズムと死の衝動の不可分な現れを示
ディディ = ユベルマンは「 批評的な視点 」から「 模
し、エロチシズムの身体はその終りへ、その死へ開
倣の病 」について考る方法を探したいと主張して
きを持つことが見えてくる。この「 すべての可能性
( 註16)
いる 。
へ開かれた」イメージはその表象的なボディに無
視覚経験に開口部を導入する傷の過剰はパニッ
形の面を入れることにより、その断片はイメージの
クの効果を導く。ディディ=ユベルマンの言う「 パ
全体を奪う。死へのエロスの軽いタッチは結局主
ニックの効果 un effet panique 」という表現はまた
体の全体的な消失を導く。
二つの意味を持つ。恐慌の状態と同時に、その原
effet de pan、つまり解読不可能な
因の le pan、l ’
それは、魅惑として、部分から全体へと、侵
「 面」そしていわゆる「 面的効果 」である。つまり、
入してくる戯れである。それは一つのパニック
グローバルなものに対するローカルなものの、全体
panique 効果である。それは、絵画における
に対して断片の反乱とも言えることとその結果の意
絵画性の、全体に拡大してゆく効果である。
味である。開きの働きの力により、絵画全体は面
それは「 病 mal」の特異的な効果である。こ
につきまとわれる。
の「 病 」という言葉を、われわれは運命の、シ
こうした「 面の恐慌の効果 」によってこそ、つま
ミの、角膜の濁った眼の見る、限界の言葉であ
り単なる「 切られた身体に腸が見える」という「 具
ると知っている。つまり絵画的なものそれ自
象の悪 」を指差す訳ではなく、主体性自体の危険
体の言葉であると知っている。
性こそが、美術館のような一般の組織において笹
( 註15)
山の作品の展示が制限される理由である。展示
フランス語の「mal」は「 害」を意味するととも
空間において彼の絵画は他の作家の作品から分け
に、
「悪 」、
「苦しみ」とも訳すことができる。最初か
られ、スペースは壁で隔てられ、
「 衝撃的な作品で
ら小さくて二次的と思われるイメージの部分、現れ
すので、お気を付けください」というような「 警告」
る瞬間を待っている覆い隠されている「 悪 」のよう
がスペースの入り口に表示される。
な形象として読み取れる色の面は、見る主体の注
イメージが引き起こすパニック / 面的な効果と見
目を奪い、絵画の表象的布に「害」を与え、自分を
る主体のカタストロフの性質は明らかである。展
孕んだ「 全体性 」を破壊させる。このような絵画
示空間と見る主体を事故に投げかけることは、
「す
的な「 病 mal」は角膜の濁った目で見るように見る
べての可能性への開き」引き起こすアクシデント
主体の視覚、つまりものを意識に基づいて見る可
( 偶然性 )であり、
「形象化していく形象 」は、それ
能性を麻痺させる。笹山の場合は、境界を崩して
に正反対の「形象化された形象 」、
「完全に完成さ
ディテールと全体の基礎対立につけこむものは絵
れて」読み解ける象徴としか考えず、イメージを
画的な「 病 mal」と最も狭義な関係を持つ。絵に
( 見 )取れなければならない主体( 性 )を事故のよ
おいて角膜の濁った目の働きするのは身体の開き
うに分解させ、開く。このようなイメージの変形の
であり、傷とその「 外化 」された「 内的無形」であ
力は作品の「症状的な価値 」と関係していて、シン
る。
「 精神的な苦しみ」を表す透明で実体のない
プトムから変形の可能性の能力を与えられる。
記号に近いイメージではなく、
「生きている傷」のボ
19
ここに表象が症状に規定されているという
註
のは、表象の外観上の安定性−その使命は、
形態をなんらかのかたちで認知し、特定の指
1
示対象へ送り返すべく要求することにある−
東京、2002 年 Didi-Huberman, Georges Ouvrir
の「 出現 」surgissement にして、同時に、
「隠
Vénus: Nudité, rêve, cruauté, Gallimard, Paris,
蔽 」dissimulation でもあるようなものによっ
て規定されているということにほかならない。
ここでの「 出現 」とは、表象の織物のうちに、
1999
2
し、裸体の現象の「浄化」と
「美術の形への整理」
あるし、
「隠蔽 」とは、この要素を思考可能なも
の思考プロセスを示す。
3
garder le jugement et oublier le desir, garder
le concept et oublier le phenomene, garder le
この様に笹山の作品は絵画への基本的なチャレ
symbole et oublier l'image, garder le dessin et
ンジを乗り越える。つまり、
「 事故現場」のイメー
oublier le chair.”Didi-Huberman, op.cit., p.16
4
que le symbolism du nu pût s’
imposer devant la
のという絵画に対する基本印象を開く。ここで取
phénoénology de sa nudité.”Didi-Huberman,
り上げた作品とディディ= ユベルマンの理論に沿っ
画を精神と同時に身体にも関わらせ、カタストロ
ディディ=ユベルマン、op. cit., p.18“Il s’
agissait,
en somme, d ’
interposer unn écran: il s’
agissait
目であり、真実と関係を持たず、本質を持たないも
て見た認識的な立場とイメージの解釈方法は、絵
デ ィ デ ィ= ユ ベ ル マ ン、op. cit., p.15 “Cela
siginifie que l'on pourrait, devant chaque nu,
( 註17)
る。
ジは、絵画は単なる写実的模倣であり、単なる見た
ディディ=ユベルマンは Kenneth Clark The Nude:
A Study of Ideal Art, Penguin Books, 1985 に参考
思いもやらぬ、予期せぬ要素が現れることで
のとしている世界が消失してしまうことであ
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ヴィーナスを開く
裸体、夢、残酷 』
、宮下志郎 / 森元庸介訳、白水社、
op.cit., p.18
5
Didi-Huber man, Georges L’Image Ouverte
Motifs de L’Incarnation dans Les Arts, Edition
フィのように「交通事故 」を引き起こす主体、イメー
G a l l i m a r d , 20 07, p.31 “ [… ] u n f a nt a s me
ジの空間、そしてさらに見る主体にまで広げられる
exploratoire quant aux limites de l'imitation:
という結論に至った。その瞬間、その方法でイメー
limites franchies dans la fiction d'une image
animée, tactile, désirante et qui ouvre son corps
ジの「事故 」はあなたを開くことができる。
この特 徴は、内的経験のリズムを与える。
au corps du spectateur.”
6
L’Apparition , Les Éditions De Minuit, 1998,
その経験はまさに自分の自我を顧みたり、自
p.21“C’
est l ’
image d ’
une collision, une collision
我を閉じ込めたりすることにではなく、自我に
傷を負わせ、現実界の他者性を自我に入り込
Didi-Huberman, Georges Phasmes. Essais sur
aveugle mais qui décide de tout.”
7
Didi-Huberman 2007, op.cit., p.42“En ce sens, il
n’
y a pas d ’
image sans le geste de son ouverture.
ませるために自我を大きく開くということに存
Parce qu’
ouvrir équivaut alors à dévoiler. C’
est l ’
acte
している。このときイメージは、われわれの非
d’
ecarter ce qui, jusque-là, empêchait de voir
−慰めの対象になる。なぜならイメージは、自
– porte ou rideu -, et c’
est disposer, présenter
分の−われわれの−固有の構成の、無形の
la chose désormais“ouverte”dans une relation
( 註18)
ものを、開いてくるからである。
spatiale qui fait communiquer un intérieur et
un extérieur, l ’
espace obtus qui tenait l ’
image
enclose et l ’
espace obvie de la communauté
spectratrice.”
8
Didi-Huberman 2007, op.cit., p.44“Alors ells
s’
ouvrent comme des yeaux, comme des bouches,
comme des bras, voire comme des sexes, voire
20
9
10
11
comme des viscères.”
介訳、白水社、東京、32 頁 翻訳は変更されてい
個人インタヴューからの引用。
る。 Didi-Huberman, Georges Ouvrir Vénus
ディディ=ユベルマン、op. cit., p.14“consiste à
Nudité, rêve, cruauté, Gallimard, Paris, 1999,
vouloir fonder la prééminence du dessein – ou du
p.30 «Dire ici que la représentation est soumise
dessin, selon les deux significations conjuguées
au symptôme , c'est constater que se stabilité
du mot diseigno – sur un encadrement implicite
aspectuelle – sa vocation à susciter une certaine
du désir et sur un encadrement, plus explicite,
recon naissa nce des for mes, u ne cer t ai ne
de tout ce qui, dans la peinture, toucherait à une
référentialité – est soumise à quelque chose
phénoménologie du corps et de la chair.”Didi-
qui se donne à la fois comme surgissement ,
Huberman 1999, op.cit., p.15
l'apparition d'un trait inattendu, impensable,
Didi-Huberman 2007, op.cit., p.92“ Non pas
dans le tissu du représenté, et com me
prévoir – un schéma, une définition aspectuelle - ,
dissimulation, la disparition du monde où ce trait
mais lancer, projeter, au sens matériel du mot
jeter. Non pas légitimer, mais risquer: risquer le
12
lui-meme serait pensable.»
18
Didi-Huber man, Georges L’Image Ouverte
tout pour la tache, si l ’
on peut dire.”
Motifs de L’Incarnation dans Les Arts, Edition
Didi-Huberman, Georges La Peinture Incarneé,
Gallimard, 2007, p.62 «Cet accent donne le
Les Édition de Minuit, 1985, p.22“Et la carne,
r y th me d'une expérience intérieure qui ne
la chair, n’
est-ce pas ce qui désigne en tout
consiste justement pas à réf léchir son moi, à
cas le sanglant absolu, l ’
informe, l ’
intérieur
le confiner, mais à le blesser, a l'ouvrir grand
de corps, par opposition à sa blanche surface?
pour y lasser entrer l ’
altérité du réel. L’
image
Alors, pourquoi les chairs se trouvent-elles
devient alors notre objet de non-consolation.
constamment invoquées, dans les textes des
Parce qu’
elle ouvre sur l’informe de sa – de notre
peintres, pour désigner leur Autre, c’
est-à-dire
– propre constitution.”
le peau? ”
13
14
Didi-Huberman 1998, op.cit., p.44
ディディ=ユベル マン 2002 年 , op.cit., p.110
«...pour la raison principale qu'elle met l'être
en mouvement, en désir, en «glissement», et
parce qu'elle fait du glissement lui-même une
dynamique d ’
exuberance ontologique, une
dynamique d ’
ouverture que la représentation
échouera généralement à“ distinguer”
. La nudité
est la chose du monde la moins définie pour la
raison essnetielle qu’
elle ouvre notre monde.”
Didi-Huberman 199, op.cit., p.95
15
Didi-Huberman 1985, op.cit., p.54 «C ’
est un
jeu qui, en tant que fascination, vient donc
envahir, du detail, le tout: c’
est un effet panique.
Effet «totalitaire» du pictural dans le tableau,
effet spécifique du Mal, - mot que l ’
on sait être
un mot du sort, de la tache, de la maille, de la
16
limite, mot de pictural comme tel.”
Didi-Huber man, Georges L’Image Ouverte
Motifs de L’Incarnation dans Les Arts, Edition
Gallimard, 2007, p.30
17
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ヴィーナス
を開く 裸体、夢、残酷』
、宮下志郎 / 森元庸
21