輔仁会創立 50 周年記念講演「医療と信仰」 東京神学大学教授 近藤勝彦先生講演要旨 期日:2008 年 2 月 26 日 午後 4 時~ 会場:地域交流ホーム はじめに 昨年の秋、東京の拙宅に田崎邦男先生がお訪ねくださって、2月頃沖縄を訪ね、病院で 働いておられる皆さんにキリスト教関係の話をしてほしいとの御依頼を受けました。私は 以前、一度ここでお話をさせていただいたことがあり、そのときの講演は、私の著書『癒 しと信仰』(教文館、1997年初版、1999年第三版)の中に収められています。今回 その「あとがき」を見ましたら、1992年10月26日だったとありました。もう15 年以上前になります。今日は久しぶり二度目のお話のためにお訪ねしたことになります。 私は東京神学大学というキリスト教の「牧師」を養成することと、「キリスト教神学」を 研究することを使命としている大学で教鞭をとっている者です。「キリスト教神学」が私の 専門的な研究分野ですので、医療や医学については、まったくの素人で、患者としての経 験以外にないものです。ただ「キリスト教神学」の分野には「生命倫理」があり、「医の倫 理」についても検討を求められます。またキリスト教信仰は言うまでもなく、人間の「救 い」の問題を主題にしています。そして人間の救いには、救いを求める人の「心の問題」 も深く関係します。それで宗教的な救済の観点から「癒し」が重大な主題になり、「癒しの 神学」 (Theology of Healing)ということも言われます。また宗教的な救済には、当然、 「生 と死の理解」が含まれ、死生観の問題も含まれます。こうした問題はまた、サイコセラピ ーの問題とも深く触れ合うでしょう。医療と宗教、医療による癒しと信仰による癒しとは、 それぞれ次元が異なりますが、しかしそこにはまた何らかの関連もあって、今日では医療 関係者の中にも宗教との関連に関心を持って、「霊性」(spirituality)に関心を向ける方も いると聞いています。もちろん、医療と信仰は違います。医療的には健康な人でも信仰に よる救いが必要ですし、医療的には病んでいても信仰の点では健やかにされている場合が あります。繰り返して言いますように、医療と信仰は次元を異にするのですが、しかしま た何らかの関連もあるのではないでしょうか。信仰は人間生活の全体に関係し、信仰によ って支えられ、生と死を超えた救いに生かされていることは、病んでいる中にも慰めにな り、支えになるのではないでしょうか。 病院の中にはそうした信仰の次元にはまったく注目しない病院もあると思います。人間 の身体にだけ、あるいは人間の心と人間関係の次元にだけ、つまり水平次元にのみ関心を 向ける、それ以上に踏み込めばことは複雑になるだけとも考えられます。しかし信仰の意 味を知り、神の恵みの働きを信じ、神と人間の関係を尊重し、超越の次元に窓を開いた病 院もあり得るでしょう。本病院は「キリスト教病院」として、そのようにあることを願っ ている病院と思います。話しは色々広がりますが、基本的に「医療と信仰」ということで お話したいと思います。精神科を専門とする本病院とは直接関係のない話にもなるかも知 1 れませんが、参考にしていただけることがあれば、幸いと思っています。 1、信仰による救いと心身の癒し 人間の健康というのは、どういうことを言うのでしょうか。私の友人の牧師に最近、突 然「視界の狭窄」が起きた人がいます。原因はいろいろ調べたのですが、結局、よく分か らなかったようで、先天的な異常があって、それが年齢とともに出たのではないかとも言 われたりしています。とにかく視界の横幅がぐっと狭くなって、大変に不自由なことのよ うです。しかし彼の年賀状には「一病息災」と書いてありました。身体的には不自由です が、精神はその不自由を受け入れ、それとバランスをとってやっていけないことはないと いうわけです。人間の健やかさには、身体的な側面がありますが、また同時にそれと関連 を持ちながら、区別ももって、精神的な側面があります。身体と精神とはばらばらではな く人間としては「心身統合体」ですから、身体に対して無理に抑圧を重ねることはできま せん。身体的な異常は精神に強く影響します。またその逆も当てはまるでしょう。身体的 に異常はないのに、精神的な不調のために、身体の異常になって表れると場合があるので はないでしょうか。人間には精神と身体の相互関係があり、両方の統合体として人間は生 きているわけです。しかしそれでも精神と身体の次元的区別は存在します。ですから、人 間は物理的、生物的な存在であるともに、精神的、人格的な存在です。さらに言いますと、 人間の「精神、心、魂」も身体と繋がる側面と共に、その有限的というか拘束された精神 の状態を超えた、それ以上の自由の次元に繋がる側面もあるのではないでしょうか。「心理 的な側面」と「霊性の側面」とがあると言うことができるでしょう。 宗教的な信仰というのは、自分を越えた大いなる方を信じ、その方に信頼を寄せ、そこ に身を委ねる精神の態度です。表現を換えますと、自分を越えた大いなる方に捉えられ、 そこに受け容れられていることを肯定し、それを受け容れている態度です。この信仰の座 は、心身統合の人間の中でも特に霊性にあります。信仰は身体と統合された精神の働きで すが、それも「心理的」というより「霊的」な働きです。しかし霊的な信仰が、心理的に も作用し、身体的にも影響を及ぼすということはあるのではないでしょうか。次元的区別 とともに何らかの関連があると思われるゆえんです。 2、主イエス・キリストによる癒し キリスト教信仰が医療的な癒しとどう関係するかということをよく示しているのは、福 音書に描かれているイエス・キリストが癒しの働きをしていることです。イエス・キリス トは、罪を赦し、悪霊を追い出し、足のなえた人、目の見えない人を癒し、中風の人、ハ ンセン病の人を癒されました。弟子たちを派遣するときにも、「行って、神の国は近づいた と宣べ伝えなさい」と言われると共に、「病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患 っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」 (マタイ10・7-8)と言われました。人 間の救済には「罪が赦されること」と共に、精神が癒され、さらに身体が癒されることが 含まれていました。罪が赦されることで、神との関係に平安が取り戻され、人間の心に究 2 極の安心が与えられ、そして自己の精神や身体との関係も癒され、全体としての自分が新 しく生き返らされ、そして同時に他の人々との関係が回復されることも含まれています。 神との和解が土台になって、自分を受け入れ、他者との和解が成立する、救いというのは そういう全体的な救いを意味しています。それでキリスト教の伝道は、はやくから医療活 動を伴ってなされてきました。 日本で最初に伝道した宣教師ヘボンは、ヘボン式ローマ字などでもよく知られていると 思いますが、彼は医者でもありました。台湾で伝道した宣教師マカイも、宣教師であって 医者でもあり、教会と神学校を立てる共に台北に病院を設立しています。ルカ福音書と使 徒言行録を記したルカは医者でもあったので、ルカの名を取った聖路加病院も有名です。 その他、いろいろなキリスト教病院があるのは、医療が「愛」の業であって、キリスト教 信仰と深く関係しているからですが、その根本には主イエスの癒しの業があります。 主イエスによれば、「罪の赦し」と共に「心身の癒し」は「神の国」(神の支配)のしる しです。神の国のまったき完成における救済は、神関係における救済を軸にして、心と体 の健康、人間の自己関係と他者関係、さらには自然万物との関係も含めて全体的な救済と 健康を含んでいます。そうした人間の救済の完全な実現は、神の国の完成時に待望されて いて、いわば「完全な癒しの終末論」があるわけです。 いま、私たちが生きているのは、最後の完成の時ではありません。キリストの十字架に よる救いの時と最後の完成の時の間の時、つまり「終末論的な中間時」に生きています。 それで神の恵みの支配による救いがありますが、救いは経験的に部分的、断片的、あるい は暫定的です。完全な救済、完全な癒しは、なお希望の中にあって、経験的には断片的な 救済、そして断片的な癒しを経験しているわけです。ですから私たちの日々の中では、「罪 の赦し」と「神との平和」による信仰の救いと、経験的な医療的癒しも区別されています。 あるいは社会的な救済、さらには自然万物の救済も区別されています。心の健康、自己関 係や他者関係の健康、世界関係の健康は区別されています。 3、生と死の問題 医療とキリスト教信仰の関係で取り上げられる問題に「生と死の問題」 (「死生観」や「サ ナトロジー」 )の問題があります。これは「末期医療」や「ホスピス」の運営においては特 に重大な問題であって、その人が「死」という現実をどう受け取っているかが問題になり ます。あるホスピスの専門家によりますと、死についてただ「分からない」と答える人や 暗い行き詰まり感や諦めをもった人が多い中で、キリスト教信仰の人は死を最後と考えて いないで、その先の天の国や神のみもとに進む中間点と見ている人が多いと言われます。 この問題はおそらく「人生の不安」や「恐怖感」とも関係し、心の医療の問題とも深く関 係するのではないでしょうか。 私は、クリスチャンであれば、みな、死の不安を絶対化しないで、それを越えた確信を 抱いていると、楽観しているわけではありません。もちろんキリスト教信仰から考えます 3 と、死は最後ではありませんし、死は絶対でもありません。死によっても引き離されない 神の愛を信じるのがキリスト教信仰です。ですからキリスト教信仰は、死から絶対性を奪 い、相対化しています。しかし私たちクリスチャンはいつでも聖書にしっかりと結びつい たクリスチャンであるわけではありません。みないつでも信仰の動揺や疑いを経験します。 イエス・キリストに捉えられ、キリストに結ばれている以外には、いろいろな弱点のまま にいて、信仰も弱いのがクリスチャンです。 しかし弱い信仰のまま、イエス・キリストのゆえに神に赦され、受け容れられ、捉えら れているという点からしますと、キリスト教信仰は死に打ち勝っているものです。イエス・ キリストにおいて神は「虚無と死の力」に対して勝利して、キリストを復活させ、イエス・ キリストにおける神の愛からは死もまた引き離すことはできないと言われています。その 意味でキリスト教信仰は、死を相対化させています。 実は「死の問題」は、青年時代にキリスト教信仰を求めた私の求道のテーマでした。私 は「死よりも確かなもの」を求めて教会の門を叩きました。それは、私の父がはやくなく なり、人生は結局死が最後なのか、死よりも確かなものはないのかという問いを持ったか らです。これはなかなか容易に答えの見つかる問題ではありません。そのうちこの問いの ことはあまり意識しないようになって、神様を信じるようになり、洗礼を受け、牧師にな りました。最近、青年を相手に自分の求道時代のことを話す機会があって、この問いがい つの間にか答えられていたということに気がつきました。 「神を信じている」ことがその答 えです。なぜなら、「神を信じている」ということは「死よりも確かなもの」があると信じ ていることです。それでこの問題は、私にとってもう完全に片付いたというわけではあり ませんが、いつのまにかこの問いを意識しなくなったのは理由のあることと思うわけです。 しかし死の現実に改めて打たれるとき、再び問題になり、 「神が共におられる」という以外 に解決はないと思わされるわけです。信仰生活には必至な信仰に立たなければならないと きがあります。しかし「神が共におられる」「主イエス・キリストが共におられる」とキリ スト者は信じます。「神が共におられること」が私たちの「生と死」を変えているのです。 神の命に与り、死には究極の支配権はない、死の恐ろしさは非神話化されている、そのこ とに改めて真剣に立つ必要があります。死は「通過点」と考えられ、それもイエス・キリ ストなしに孤独で立ち向かうものでなく、そのときにもキリストのものとされたものとし て、キリストを証ししながら通過することができる通過点になったということです。この 確信をしっかりと持てたら、末期医療にも、ホスピスにも、あるいは神経や精神の不安定 にも確かな影響を与えるのではないでしょうか。 4、Cure と Care 「病院」(ホスピタル)と同様の語源から来ている施設に「ホスピス」「ホテル」などが ありますが、それらはいずれもホスピタリティ(親切)を必要として施設です。語源のラ テン語で言うと、病院は hospitale であり、客を遇することは hospitium で、「客」あるい 4 は「あるじ」が hospes です。病院は患者を大切な「客」として、あるいは「あるじ」とし て「手厚く」(ラテン語では hospitaliter)遇するわけです。この「厚遇」や「親切」を hosipitalitas と言いました。ホスピタリティには愛と配慮が必要です。もちろん医療技術 や治癒の技能がなければ、病院ではないでしょう。ただ親切では話しにならないと思いま す。医療技術、治療の技能は不可欠です。しかし病院では「治療」(Cure)だけではない。 「配慮」 (Care)がなくてはならないと言われます。末期医療の場合など、もはや治療は不 可能で、緩和治療のほかはなく、あとはただもっぱら患者に対するケアが不可欠と言われ ます。しかしそれは治療からケアに転換するという話ではないのではないでしょうか。病 院の医療は、どこまでも治療し、常にケアする、Care しながら Cure するというのが病院 のあり方ではないかと思います。 しかし現実問題として Care しながら Cure するというのは、常に限界に直面するような ことでしょう。病院のホスピタリティも常に限界に直面すると思います。作家の大仏次郎 が自分自身を含めて、日本人の愛の底が浅いと言ったことがあります。戦後「浮浪児」の 救済がなかなか進まない状況で、その理由をイギリスの友人に尋ねられたという話です。 戦災で親を失った孤児たちが、ストリート・チルドレンになって、治安上も教育上も一大 問題であった戦後の頃です。なぜ彼らを助けてやらないのか。対策に時間がかかっている のか、そう問われて、大仏次郎は経済的な理由からだと言って、経済復興がなかなか進ま ないので戦災孤児の救済も進まないと答えたが、すぐ後でそれは本当でないと自分自身感 じたと言うのです。孤児たちは実際ひどくぐれていて、手に負えない連中であって、自分 も、彼らを引き取って援助する気にはなれなかったと言います。そして日本人の愛の底が 浅いのではないかと自問しています。 今、私たちは社会のあちこちで愛を必要とし、それと同時に人間の愛の底の浅さを痛感 しているのではないでしょうか。多くの家庭が高齢者を抱えて介護の難しさを経験してい ます。介護施設でも在宅介護でも、病院でも、私たちのホスピタリティ、親切心、配慮す る心が必要です。しかし私たちは、現実の壁に当たってたちまち崩れます。私たちのホス ピタリティは何に支えられるのでしょうか。聖書の「善いサマリア人」の譬え話の中で、 主イエスは傷ついた人を助けた親切なサマリア人の話をなさいました。そして「善いサマ リア人」の話の終りに、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ10・37)と言 われました。しかし聖書はその直後に「マルタとマリア」の話を伝えています。そこでは 「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働く」マリアが不平を言わずにはいられなかっ たのです。それと対照的に、妹のマリアの姿が描かれ、彼女は「主の足もとに座って、そ の話に聞き入っていた」というのです。そしてそのマリアを主イエスは「必要なことはた だ一つだけで、マリアは良い方を選んだ」と言って擁護されました。私たちが「善いサマ リア人」のように傷ついた人を助け、病人を看護するためには、真実の「客」であり、「あ るじ」である主イエスの足もとに座って、その話に聞き入るときが必要なのです。私たち 自身が主イエスの中に hospes(客であり、あるじである方)を持ち、その方のホスピタリ 5 ティに支えられなくては、私たちの愛の底は浅くすぐに涸れ、ケアする深みや力、他者の 魂に対する新鮮な感覚を持ち続けることはできないでしょう。 「キリストのいるホスピタリ ティ」が重要です。 これもイエス・キリストが話された譬え話ですが、終末の審判のときにこう言われると いうのです。 「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために 用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、 のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気の ときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25・33以下)。その人た ちは、主よ、いつわたしたちはそのようにしたでしょうかと問います。答えは、 「はっきり 言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれ たことなのである」(25・40)。一人の人を助けたのは、主イエス・キリストを助けた ことだと主イエスは言われるわけです。それでその人から見返りを期待する必要はありま せん。私たちはすでに主イエスから十分いただいているわけです。それが「クリスチャン・ ホスピタリティ」の秘密です。 5、癒しの根拠としてのキリストの十字架と聖書の神観念 キリスト教信仰による「救い」は、 「神との和解」と言われ、あるいは「永遠の生命」 「神 の国の義と平和」など色々な表現で言い表されています。そこには「健やかさ」 「健康」 「生 き生きした命」「死に対する勝利」も含まれています。「使徒信条」の表現に「罪の赦し、 体の甦り、永遠の命を信ず」と言われている通りです。この救いのためにイエス・キリス トが決定的な意味を持っています。ヨハネによる福音書は、このことを一言で次のように 表現しました。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる 者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3・16)。「独り子をお与えになっ た」というのは、ただキリストが世に現れただけでなく、世に来て、ゴルゴタで十字架に かかられたことを意味します。キリストは世に来て、人の罪を赦し、悪霊を追い出だし、 病人を癒されましたが、それらのことをしながら、またそれらのことをしたために十字架 にかかられました。しかしキリストが十字架にかかられたのは、罪を赦し、悪霊を追い出 し、病人を癒すことと結びついており、それらのことをするためであったのです。罪の赦 しと悪霊の追放、そして病人の癒しは、キリストの十字架の中に「根拠」を持っています。 キリストの十字架の死による贖罪行為によって、私たちは罪を赦され、病を癒され、聖霊 を与えられます。癒しの根拠としてのキリストの十字架による贖罪です。「そのお受けにな った傷によって、あなたがたはいやされました」(ペトロ一2・24)と言われます。「彼 が担ったのは私たちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザヤ53・4) とも言われます。キリストの贖罪は癒しの行為でもあったのです。彼の癒しは、その贖罪 を示しています。 キリストの贖罪が癒しであり、あらゆる癒しの行為の根拠であるということは、神の救 6 いには健やかであること、健康であることが含まれていることを意味します。最終的な救 済の完成には健康が含まれています。だからこそキリストの贖罪は癒しでもあるわけです。 このことはさらに言うと、「聖書の神観念」と関係しているでしょう。神の救いの働きには 健やかにすることが含まれています。そのように「救う神」が聖書には語られています。 神は「いのちを与え」(創世記1・24;2・7)ます。そして「生き返らせて」(エゼキ エル37・3;詩篇23・3;119・25;ロマ11・15)くださいます。神は「いや す主」(出エジプト15・26)で、 「癒す」(ラーパー)神(詩篇103・3;107・2 0;147・3;歴代下30・20)です。それゆえ「主よ、癒してください」 (詩篇6・ 3;60・4)と祈られます。詩篇147編はこう歌います。「ハレルヤ。わたしたちの神 をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。主はエルサレム を再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。打ち砕かれた心の人々を癒 し、その傷を包んでくださる」。包帯で心の傷を包んでくださる神の姿が描かれています。 「善きサマリア人」の原型はこの神にあると言わなければならないでしょう。ここから「主 の力が働いて、イエスは病気を癒しておられた」(ルカ5・17)と言われ、「イエスから 力が出て、すべての人の病気をいやしていた」 (ルカ8・19)と言われます。聖書は、神 の力を創造する力として示しますが、また癒す力として示しています。 かつて無教会の内村鑑三は、神を「万軍の主」 「大将」よりは、地を耕す「農夫」 「大農」 と表現しました。確かに聖書で「大地」は重要な意味を与えられています。「地を耕す」こ とも重要な意味を与えられています。しかし万軍の主、羊飼い・牧者と言われた神が、ご 自身「耕す神」と言われたことは聖書にはないのではないでしょうか。しかし「癒す神」 であることは言われています。神はむしろ「名医」であり、大いなる「主治医」である神 と言うべきです。 6、祈る病院 神が「癒す神」であり、「主よ、癒してください」という祈りがあるならば、その祈りは あらゆる病人の口からもれ、家族の口からももれ出ることでしょう。病院で祈られ、医師 の口からも祈られるのではないでしょうか。 医師と患者の関係について、ポール・ラムゼーというキリスト教倫理学者は「医師と患 者の同意の意味」という論文の中で、「インフォームド・コンセント」について、医師と患 者の間に十分な情報と自由な同意が必要であると語っています。そして医師と患者の関係 を「コントラクト」(商業的な契約)として考えるのでなく、「パートナーシップ」として 考えるべきだと主張しています。私は病院の経験がありませんので、学校の経験で考えま すと、これは教師と生徒、教授と学生の関係についても言い得ることで、両者の関係を「コ ントラクト」でなく、「パートナーシップ」で考えるということだと思います。お金を払っ た分だけのことはしてもらうといった商業的な関係でなく、人格的な信頼の関係があって はじめてなし得る教育や治療の働きがあるわけです。コントラクト(取引の契約)でなく、 7 同じ目標のために互いに助け合うパートナーというのですが、ただ疑問に思うのは、この パートナーシップが医師と患者の間に当てはまるでしょうか。一つの実験室で共通の真理 の探究に携わっている教授と学生の間には、パートナーシップは比較的容易に当てはまる でしょう。しかし人間として成長していく若い生徒さんたちとそれを教える教師の間にそ れが当てはまるかどうか、分かりません。まして医者と患者の間でどうでしょうか。しか し「祈るのある関係」はどうでしょうか。「コントラクト」とも「パートナーシップ」とも 異なって、神の前に祈る医師と患者、神の前に祈る先生と生徒という関係はあります。も ちろん祈りを強い、宗教を押し付けるという話でなく、両方共に神を信じる人たちであれ ばということです。「コントラクト」 (商業的取引の契約)とは異なる「カヴェナント」(神 の前で約束した聖なる契約)という関係があります。結婚は、コントラクトではなくカヴ ェナントです。神の前で約束し誓います。教会の群も、商業的な取引関係(コントラクト) でなく、損得を越えた人格的な関係であり、神の前での関係です。この「新しい契約」の ためにキリストはその血を流すと御自身言われました。神との契約、神による契約には、 キリストの犠牲の血が流されています。医者と患者の関係も、商取引よりむしろ人格的な 関係であって、コントラクトよりはカヴェナントです。 「カヴェナント」には垂直次元、神との関係があります。それが心棒になり、土台にな って人間同士の水平次元の関係が支えられます。それは教会が典型的に示していますが、 夫婦や家族もこれに準じますし、学校や病院にもあることではないかと思います。「カヴェ ナント」の特徴は、ただ人間同士の関係があるだけでなく、それが神との垂直関係を心棒 にし、それに支えられてあることですから、それは祈りのある群になります。垂直関係は、 「祈り」によって表されます。「キリスト教病院」には祈りがあるでしょう。医師は患者の ために祈っている、祈りを持っているということではないでしょうか。外科病棟のある病 院であれば、手術の直前、患者は不安です。しかし外科手術だけでなく、患者は不安では ないでしょうか。不安は未来に関係しており、未来のことは誰も自由にできないからです。 患者のために祈ってあげられたら、未来をご自身の手におさめておられる神が癒しの神で あることを信じて祈ることができたら、患者に対する深い配慮、ケアになるでしょう。 クリスチャンでないから祈れないし、祈らないという方もおられるかと思います。しか し作家の大江健三郎さんは、信仰のない人にも祈りがあると語りました。障害を持った息 子さんが6歳ころまで話をしなかった。はじめて話したのは軽井沢で鳥がないた、すると 「クイナです」と息子さんが言ったという話です。最初その声を幻覚かと思った大江さん は、もう一度クイナが鳴かないか、そして息子さんが「クイナです」と言ってくれないか、 もしそう言ってくれればこの子は人間の言葉を話す可能性があると思った、そしてそのと き信仰のない者であるのに「祈っていた」と語っています。「人が人のために祈る」という のです。井伏鱒二の『黒い雨』の最後の場面にも祈りがあると語っています。 この病院は「キリスト教病院」です。それは患者のために祈りを持っている、祈りのあ る病院、祈る病院だということではないでしょうか。病院の中の「伝道所」はそのことを 8 具体的に示していると思います。祈りがある、祈りを持ちながら医療をしているというこ とは、本当に慰めのある、また希望を与えることでもあります。 9
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