ユートピアの 風(第30号) 2010.10.1 お はよ うご ざいま す 。 「 エル トゥ ールル 号 遭難事 件 エ ルト ゥー ルル号 遭 難事件 ( エルト ゥ ールル ごう そう なん じけ ん) とは 1890 年 9 月 16 日夜 半、オ ス マン 帝 国 (そ の 一部 は 現 在の ト ル コ) の 軍 艦エ ル トゥ ー ル ル号 が 和 歌山 県 串 本沖 、紀 伊大 島の 樫野 埼東 方海 上 で 遭難 し 500 名 以上 の犠 牲者 を出 した 事件 であ る。 この 事件 は、 日本 とト ルコ の友 好関 係の 起点と し て記 憶 され てい る。 事 件の 経過 来日 木 造フ リゲ ート艦 ・ エルト ゥ ールル 号 (1864 年建 造、 全長 76m) は 1887 年 に 行わ れた 日本 の皇族 、 小松 宮 夫 妻 の イ ス タ ン ブ -ル 訪 問 に 応 え る こ と を 目 的 に 、 訓 練 不 足 の オ ス マ ン 帝 国 海 軍 の 練 習 航 海 を 兼 ね て 日 本 へ派 遣さ れるこ と となっ た 。 1889 年 7 月 14 日、 イス タン ブル を出 港。 数々 の困 難に 遭い なが らも 航海 の途 上に 立ち 寄っ たイス ラ ム諸 国 で熱 烈な 歓迎を 受 けつつ 、 11 ヶ月 をか けて 翌 1890 年 6 月 7 日 よう やく 日本 に到 着し た。 横浜港 に 入港 し たエ ルト ゥール ル 号の司 令 官オス マ ン・パ シャ を特 使と する 一行 は 6 月 13 日に 皇帝 親書 を明治 天 皇に 奉 呈し 、オ スマン 帝 国最初 の 親善訪 日 使節団 とし て歓 迎を 受け た。 帰 途に 遭難 エ ル トゥ ー ルル 号 は 出港 以 来 蓄積 し た 艦の 老 朽や 、 物 資、 資 金 不足 が 限 界に 達し てい た。 多く の乗 員が コ レ ラに 見舞 われた た め 9 月 15 日 にな って よう やく 横浜 出港 の目 処を つけ 、し かし 遠洋 航海 に耐え な い老 朽 ぶ りを み た日 本 側 が台 風 の 時期 を や り過 ご すよ う に 勧告 す る も、 そ の 制止 を振 り切 って 帰路 につ いた 。 こ の よう に 無理 を 押 して エ ル トゥ ー ル ル号 が 派遣 さ れ た裏 に は 、イ ン ド ・東 南ア ジア のム スリ ム( イス ラ ム 教徒 )に イスラ ム 教の盟 主 オスマ ン 帝国の 国力 を誇 示し たい アブ デュ ルハ ミト 2 世皇 帝の 意志が 働 いて お り 、出 港 を強 行 し たの も 、 日本 に 留 まり つ づけ る こ とで オ ス マン 帝 国 海軍 の弱 体化 が喧 伝さ れて しま う こ とを 恐れ たのだ と 言われ る 。遭難 事 件はそ の帰 途に 起こ った 。 9 月 16 日 22 時 ご ろ に[1]、 折 から の 台 風に よ る強 風 に あお られ 紀伊 大島 の樫 野崎 に連 なる 岩礁に 激 突、 座 礁 した エ ルト ゥ ー ルル 号 は 、機 関 部 に浸 水 して 水 蒸 気爆 発 を 起こ し 沈 没し た。 これ によ り、 司令 官オ ス マ ン・ パシ ャをは じ めとす る 587 名 が死 亡ま たは 行方 不明 にな る大 惨事 とな った 。 つ づ く 」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第31号 2010.10.4) お はよ うご ざいま す 。 「救難活動 樫野埼灯台下に流れ着いた生存者が数十メートルの断崖を這い登って灯台に遭難を知らせ、 灯 台守 の通 報を受 け た大島 村( 現在 の 串本町 樫 野)の 住 民たち は、総 出で 救助 と生 存者 の介 抱に 当た った。 こ の 時、 台 風に よ り 出漁 で き ず食 料 の 蓄え も わず か だ った に も かか わ ら ず、 住民 は浴 衣な どの 衣類 、卵 や サ ツ マイ モ 、そ れ に 非常 用 の ニワ ト リ すら 供 出す る な ど献 身 的 に生 存 者 たち の回 復に 努め た。 この 結果 、 樫 野の 寺、 学校、 灯 台に収 容 された 69 名が 救 出され 生還 する こと がで きた 。 遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられ、沖は神戸港の外国領事 館 に 援助 を 求め て 生 存者 を 神 戸の 病 院 に搬 送 させ る よ う手 配 す ると と も に、 県を 通じ て日 本政 府に 通報 し た 。 知ら せ を聞 い た 明治 天 皇 はこ の 遭 難に 大 いに 心 を 痛め 、 政 府と し て 可能 な限 りの 援助 を行 うよ う指 示 し た。 各新 聞は衝 撃 的なニ ュ ースと し て伝え 、多 くの 義捐 金・ 弔慰 金が 寄せ られ た。 送 還 こ う し て 遭 難 者 に 対 す る 支 援 が 政 府 を あ げ て 行 わ れ 、 69 名 の 生 存 者 は 一 旦 東 京 に 送 られ 、 遭難 事 故 の 20 日 後の 10 月 5 日 に東 京の 品川 湾か ら出 航し た日 本海 軍の「比 叡」と「 金 剛」に より 、翌 年の 1891 年 1 月 2 日 にオ スマ ン帝国 の 首都・ イ スタン ブ ルに送 り届 けら れた 。な お 2 隻 には 、秋 山真 之ら海 兵 17 期 生 が少 尉 候補 生と して乗 り 組んだ 。 つ づ く 」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第32号 2010.10.5) お はよ うご ざいま す 。 「 遭難 事件 後の日 土 関係」 エ ルト ゥー ルル号 の 遭難は オ スマン 帝 国内に 大き な衝 撃を 呼ん だが 、ア ブデ ュル ハミ ト 2 世 のもと で は人 災 と して の 側面 は 覆 い隠 さ れ 、天 災 に よる 殉 難と 位 置 付け ら れ 新聞 で 大 きく 報道 され ると とも に、 遺族 へ の 弔慰 金が 集めら れ た。また この とき 新聞 を通 じて 大島 村民 によ る救 助活 動や 日本 政府 の尽 力が 伝え られ、 当 時の トル コの人 々 は遠い 異 国であ る 日本と 日本 人に 対し て好 印象 を抱 いた とい われ てい る。 山 田寅 次郎 茶 道 宗徧 流 の跡 取 り 、山 田 寅 次郎 も こ の事 件 に衝 撃 を 受け た 日 本人 の ひ とり であ った 。彼 は日 本の 民間 か ら エ ルト ゥ ール ル 号 事件 の 犠 牲者 の 遺 族に 対 する 義 捐 金を 集 め るキ ャ ン ペー ンを 行い 、事 件の 翌々 年に 、 集 まっ た義 捐金を 携 えて自 ら オスマ ン 帝国の 首都 ・イ スタ ンブ ルに 渡っ た。 山 田 が民 間 人な が ら 義捐 金 を 持っ て や って き たこ と が 知ら れ る や、 彼 は 熱烈 な歓 迎を 受け 、皇 帝ア ブデ ュ ル ハミ ト 2 世に 拝謁 する 機会 にす ら恵 まれ た。 この とき 、皇 帝の 要請 でト ルコ に留 まる こと を決意 し た山 田 は イス タ ンブ ル に 貿易 商 店 を開 き 、 士官 学 校で 少 壮 の士 官 に 日本 語 や 日本 のこ とを 教え 、日 本政 府の 高 官 の イス タ ンブ ル 訪 問を 手 引 きす る な ど、 日 土国 交 が 樹立 さ れ ない 中 で 官民 の交 流に 尽力 した 。彼 が士 官 学 校 で教 鞭 をと っ た 際、 そ の 教え を 受 けた 生 徒の 中 に は後 に ト ルコ 共 和 国の 初代 大統 領と なっ たム スタ フ ァ ・ケ マル もいた と される 。 山 田が イス タンブ ル 滞在中 に 起こっ た 日露戦 争が 日本 の勝 利に 帰す と、長 らく ロシ アか ら圧 力を 受け 続け、 同 様 にロ シ アの 南 下 圧力 に さ らさ れ る 日本 に 対し て 親 近感 を 高 めて い た オス マン 帝国 の人 々は 、東 の小 国 日 本の 快挙 として こ れに熱 狂 した。日 本海 海戦 時の 連合 艦隊 司令 長官 であ った 東郷 平八 郎提 督に ちな んで、 ト ーゴ ーと いう名 を 子供に つ けるこ と が流行 した とい う。 日 土国 交 し か し、 山 田ら の 尽 力に よ る 民間 交 流 とは う らは ら に 、と う と うオ ス マ ン帝 国が 滅び るま で正 式の 国交 が 結 ば れる こ とは な か った 。 日 本と オ ス マン 帝 国の 外 交 当局 に よ る国 交 交 渉は 何度 も行 われ たの だが 、日 本 側 が 欧米 列 強と 同 等 の待 遇 の 条約 を 望 み、 治 外法 権 を 認め る よ う要 求 し たの に対 し、 オス マン 帝国 は不 平 等 条約 の拡 大を嫌 い 、両者 の 交渉が 暗 礁に乗 り上 げた ため であ る。 1914 年 、 第 一 次 世 界 大 戦 が 勃 発 す る と 、 ド イ ツ ら 同 盟 国 側 に 引 き 入 れ ら れ つ つ あ っ た オ ス マ ン 帝 国 の 対 外 情 勢は 緊 迫し 、 山 田は イ ス タン ブ ル の店 を 閉鎖 し て 日本 へ と 帰国 し た 。こ の戦 争で イギ リス ら連 合国 の 側 に つい た 日本 は オ スマ ン 帝 国と 敵 同 士と な り、 戦 後 のオ ス マ ン帝 国 の 解体 とト ルコ 共和 国の 成立 とい う 目 ま ぐ る し い 情 勢 の 変 化 を 経 て 、 1924 年 発 効 の ロ ー ザ ン ヌ 条 約 締 結 ・ 1925 年 の 大 使 館 開 設 に よ り 、 よ う や く日 本と トルコ は 正式の 国 交を結 ぶ ことに なる 。 つ づ く 」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第33号 2010.10.6) お はよ うご ざいま す 。 「 日土 友好 の起点 」 の記憶 公 的記 憶 エ ル トゥ ー ルル 号 遭 難事 件 は オス マ ン 帝国 末 期の 外 交 政策 と 海 軍の 弱 体 化が もた らし た悲 劇で あっ たが 、 こ の 事件 で 被害 者 に 対し て 示 され た 日 本人 の 友誼 は 、 その 後 も 長く 日 土 友好 関係 の起 点と して 両国 の関 係 者 に 記憶 さ れる こ と にな っ た 。ト ル コ 人が 公 的な 場 で 日本 人 に 対し て 日 土友 好の 歴史 につ いて 語る とき 、 必 ず とい っ てい い ほ ど第 一 に 持ち 出 さ れる の がエ ル ト ゥー ル ル 号遭 難 事 件の 顛末 であ る。 一方 、こ うし た ト ル コ人 の 言説 に 対 して 、 エ ルト ゥ ー ルル 号 遭難 事 件 の顛 末 は 日本 で は あま り記 憶さ れて おら ず、 長ら く 公 的な 場で 語られ る ことす ら もまれ で あった 。 イ ラン ・イ ラク戦 争 し かし 21 世紀 に入 って から は、 エル トゥ ール ル号 事件 の顛末 が 、1985 年の イラ ン・ イラ ク戦 争に おけ る エ ピソ ード と絡め て インタ ー ネット 上 の電子 掲示 板や メー ルマ ガジ ンで 紹介 され る機 会が 増え た。 そ の エピ ソ ード と は 、イ ラ ク のイ ラ ン 上空 の 航空 機 に 対す る 無 差別 攻 撃 宣言 に対 し、 イラ ン国 内に 取り 残 さ れ た日 本 人が 自 衛 隊の 海 外 派遣 不 可 の原 則 のた め に 自衛 隊 機 によ る 救 援を 受け られ なか った うえ 、日 本 航 空 の組 合 の反 対 に より 日 本 航空 機 に よる 救 援も で き ない と い う危 機 的 状況 での 出来 事で 、こ のと き、 イ ラ ンの 日本 大使館 の 野村豊 大 使がト ル コ大使 館の ビル レル 大使 に窮 状を 訴え ると 、大 使は「 わか り ました 。 た だ ちに 本 国に 求 め 、救 援 機 を派 遣 さ せま し ょう 。 ト ルコ 人 な らだ れ も が、 エル トゥ ール ル号 の遭 難の 際 に 受 け た 恩 義 を 知 っ て い ま す 。 ご 恩 返 し を さ せ て い た だ き ま し ょ う と も 」 と 答 え [2]、 大 使 の 要 請 を 受 け て 派遣 され たトル コ 航空機 に よって 215 名 の日 本人 全員 が救 出さ れ、 無事 にト ルコ 経由 で帰 国でき た こと で ある 。 こ れは 特に 2002 年 のサ ッカ ー FIFA ワ ール ドカ ップ 日韓 大会 での トル コチ ーム の活 躍を 機と して盛 ん にテ レ ビ 番 組 や 雑 誌 で も 取 り 上 げ ら れ 、 日 本 の 一 般 の 人 々 の 間 に も 徐 々 に 広 め ら れ る よ う に な っ た 。 2004 年 に は 、こ れ らの こ と を紹 介 し た児 童 書 が小 学 生高 学 年 向け の 読 書感 想 文 コン クー ル課 題図 書に もな り、 こ う し て現 在 では 日 本 でも 、 エ ルト ゥ ー ルル 号 遭難 事 件 は「 親 日 国ト ル コ 」の イメ ージ を語 るエ ピソ ード と し てな くて はなら な いもの と なった 。 ま た 2007 年 10 月 28 日 、同 時期 に開 催さ れた エル トゥ ール ル号 回顧 展に 併せ て、 東京 都三 鷹市の 中 近東 文 化 セン タ ーで こ の 事件 に 関 する シ ン ポジ ウ ムが 、 当 該ト ル コ 航空 機 の 元機 長、 元客 室乗 務員 、野 村元 駐 イ ラ ン日 本 国特 命 全 権大 使 、 森永 元 伊 藤忠 商 事イ ス タ ンブ ル 支 店長 、 毛 利悟 元東 京銀 行テ ヘラ ン駐 在員 ら 当 時の 関係 者出席 の 上、行 わ れてい る 。 つ づ く 」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第34号 2010.10.7) お はよ うご ざいま す 。 「 検証 と追 悼 エ ル ト ゥ ー ル ル 号 の 残 骸 は 、 現 在 も 大 島 沖 の 海 底 に 眠 っ て い る 。 2007 年 か ら ト ル コ を 中 心 と す る 数 カ 国 か ら なる 水 中考 古 学 の調 査 団 は海 中 の エル ト ゥー ル ル 号の 調 査 を進 め て おり 、海 底か らの 遺品 引き 揚げ を 進 め てい る 。2008 年 1 ~ 2 月 、米 国 ・ 海洋 考 古 学研 究 所 のト ル コ人 ス タ ッフ ら が 発掘 調査 を行い 遺 骨や 弾 丸な ど 1000 点以 上の 遺品 を引 き揚 げた 。錨 は未 だに 見つ かっ てお らず 、2010 年 1 月 8 日 に沈没 地 点近 く の海 底に て探索 作 業が行 わ れてい る 。 2008 年 6 月 7 日、 来 日 して い たト ル コ のア ブ ド ゥラ ー ・ ギュ ル 大統 領 は 同国 の 大 統領 とし て初め て この 地 を訪 れ遭 難慰霊 碑 前で行 わ れた追 悼 式典に 出席 し献 花を 行っ た。」 6 回に 渡 って お 届 けし た 、 12 0 年 前の エ ルト ゥ ー ルル 号 の お話 で し た。 それ から 95 年後 の、 イラ ン ・ イ ラク 戦 争の 時 の 日本 人 救 出と 絡 め て考 え ると 、 い っそ う 感 慨深 い も のが あり ます 。1 00 年近 くた っ て 、日 本人 も忘れ て いた話 を 、トル コ の人は 憶え てい てく れた 。 こう ゆう 話こそ 教 科書に 載 せるべ き ではな いで しょ うか 。 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第35号 2010.10.8) お はよ うご ざいま す 。 「 今週は運動会の練習の合間をぬって、各園の園長・副園長・主任の先生を中心に、平成23年度の幼 稚 園説 明会( 1 0月 下旬に 2 回)の チ ラシ原 稿 作 り に取り 組ん で頂 いて いる 。それ が終 われ ば来 週は、 幼 稚園 説明 会で使 用 する、 イ メージ 作 り(映 像と 音声 )の 仕事 が待 って いる 。 〆 切と い う現 実 と 、よ り 良 いも の を 作り た い人 間 と して の 本 性の 葛 藤 。こ の二 つが 揃う こと で初 めて 、 い い仕 事が でき、 達 成感や 感 動が生 ま れる。 そう 信じ てい る。」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第36号 2010.10.13) お はよ うご ざいま す 。 「 20 1 0 年度 運 動 会も 、 1 0月 1 0日 に 大 王谷 幼 稚 園、 1 1 日に 富 高・ 日知 屋東 幼稚 園、 12 日に 日 知 屋 幼稚 園 と挙 行 さ れた 。 変 わり や す い秋 の 天候 に 翻 弄さ れ 、 終わ っ て みれ ば、 第一 予定 日で 出来 たの は 一 園の み。 当 学園 は 運動 会 の 屋外 開 催 にこ だ わ りを 持 って 例 年 行っ て い る。 今 回 第一 予定 日に 出来 なか った 園も 、 前 日 準備 の 天候 か ら より ベ ス トを 目 指 して 一 日延 ば し たり 、 小 学校 の 運 動会 との 絡み があ った り、 PT A 役 員 会ま で 開い た り と、 決 定 に到 る ま では 単 純な 道 の りで は な かっ た 。 そう いう 思い をさ せら れた 年は 当 日 を 迎え た とき に 、 すん な り 行っ た 年 とは ま た違 っ た 感慨 も あ る。 子 ど もた ちの 心の 中に も、 何か を育 ん だ こと だろ う。 実 施 日こ そ 違っ た が 、い ず れ も4 月 に 新ク ラ スを 編 成 して か ら 半年 間 の 子ど もた ちの 成長 を実 感で きる 、 よ い運 動会 ではな か ったか と 思う。 本 当にご 苦労 様で した 。」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第38号 2010.10.15) お はよ うご ざいま す 。 「 昨日 は、 入園説 明 会で使 う イメー ジ 映像に つい ての 最終 打合 せを した 。 ・ 各園 とも アーテ ィ ストと 楽 曲が重 な らない よう に配 慮す るこ と。 ・ スト ーリ ーが先 で 、それ に あった 写 真を選 ぶこ と。 ・ 説明 ぽく ならな い こと。 以 上、 作成 におい て 気をつ け なけれ ば ならな い点 であ る。 大 王谷 幼稚 園は、 運 動会準 備 と平行 し ながら 、既 に完 成間 近ま で漕 ぎ着 けて いた 。 試 写し ても らった が オリジ ナ ルな内 容 で良く でき てい たと 思う 。 各 園の 作品 の完成 が 楽しみ で ある。」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第39号 2010.10.18) お はよ うご ざいま す 。 「 園児 募集 を間近 に 控え、 2 年ぶり に 『学校 法人 富高 学園 の教 育理 念』 の一 部表 現を 改め てみ た。 考 え 方の 大 枠は 変 わ って い な いが 、 や はり 数 年す る と 表現 が 古 びて し ま った り、 自分 の中 の確 信が 強ま っ た り する 部 分に つ い ては 変 更 して 、 よ りし っ くり し た もの に し てい く 必 要が ある 。久 しぶ りに あっ た友 人 が ど こ か 進 歩 し て い る よ う に 、 教 育 理 念 も 進 歩 し て い く の か も 知 れ な い 。『 人 』 も 『 理 念 』 も 真 剣 に 向 き 合 う機 会が 多いほ ど 、お互 い 進歩し て いくの だろ う。」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第40号 2010.10.19) お はよ うご ざいま す 。 「 き ょう は 宮崎 県 私 立幼 稚 園 PT A 大 会が メ ディ キ ッ ト県 民 文 化セ ン タ ーで 行わ れる 。回 を重 ねて もう 2 5 回。 四半 世紀続 い たこと に なる。 7 00 名の 参加者 名 簿が事 前 に各地 区 から上 がっ てき た。 あり がた いこ とで ある 。 今 日 も宮 私 幼連 会 長 とし て 、 挨拶 を し なけ れ ばな ら な いが 、 以 前ユ ー ト ピア の風 で紹 介し た『 全国 学力 ・ 学 習状 況調 査結果 』 の話で も しよう か な。 記 念 講演 の 講師 は 、 われ わ れ が現 在 様 々な 改 革で 御 世 話に な っ てい る S ・Y ワー クス の佐 藤芳 直先 生で あ る。全 員で はな かっ たが、4 月に富 高 幼稚園 の ホール で 講演し て頂 いた こと を憶 えて いま すか 。演題 は『 真 っ 白 な キ ャ ン パ ス に 描 く 夢 ~ 幸 せ な 時 代 』。 あ の 佐 藤 先 生 だ か ら 保 護 者 の 皆 さ ん も き っ と 満 足 頂 け る だ ろ う。」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第41号 2010.10.20) お はよ うご ざいま す 。 「『 人 間 は み ん な 、 誰 か に 喜 ば れ る た め に 生 ま れ て く る 。』・『 人 間 は み ん な 、 誰 か に 喜 ば れ る 自 分 を 発 見 し て 成 長 す る 。』・『 人 間 は み ん な 、 誰 か の た め に 生 き て い る 。』『 人 間 は み ん な 、 役 割 を も っ て 生 ま れ て く る。』・『 自分の 長所 に気 づい たら、そ れを 生か すよ うに 生き よ。』。全 て、昨日 の宮 私幼 PT A大 会の 講師、 S ・Y ワー クス代 表 の佐藤 芳 直先生 の 言葉で 、特 に印 象に 残っ たも ので ある 。」 皆 さ んの 心 の中 に 一 つで も 素 直に 入 っ てく る 言葉 が あ れば そ れ は幸 せ な こと です ね。 詳し くは 、行 かれ た ス タッ フ、 保護者 の 方に是 非 聞いて み てくだ さい 。 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第42号 2010.10.21) お はよ うご ざいま す 。 「信用をつないでいく。私たちの仕事の中に大きなウェイトを占めている部分ではなかろうか。日々の 信 用づ くり はもち ろ んだが 、 数年を か けての 信用 作り は大 変で ある 。 数 年 前 、『 P T A 主 催 の 謝 恩 会 』 の 段 取 り の デ ー タ を 来 年 以 降 の 役 員 さ ん が 困 ら な い よ う に と 、 当 時 の 役 員 さん が 、園 の 承 諾の 元 に 、園 の ど れか の パソ コ ン に直 接 書 き込 ん だ こと があ った 。し かし その 後数 年 間 、歴 代の 役員さ ん からは 園 の方に デ ータの 要請 はな く、 その 存在 は忘 れら れて いた 。 と こ ろ が 昨 日 遅 く 、『 あ の デ ー タ が 必 要 な ん で す が 』 と 問 い 合 わ せ が あ っ た 。『 明 日 の 9 時 半 に は 今 年 の 役 員 さ ん が 受 け 取 り に 来 る 。』 と い う 。 し か し 、 わ た し の パ ソ コ ン を い く ら さ が し て も 出 て こ な い 。 何 か の拍 子に 、削除 し てしま っ たのか ? 申し訳 ない 気持 ちで あっ た。 結果 的に は、当時 職員室 の パソコ ン に書き 込 んでい たこ とが 解っ た。そし て、職 員室 のス タッ フた ちは、 事 の 経 緯 は 知 ら ず 、 中 身 も 開 け た こ と は な い が 、『 P T A 』 と 名 前 が 付 い て い る の で 大 事 な デ ー タ な の だ ろ うと 、削 除せず に 残して い てくれ た のだ。 数 年の 時空 を超え て 、信用 が つなが っ た。あ りが とう 。」 今日 も一 日、 がん ばっ てい きま しょ う。 ユートピアの風(第43号 2010.10.22) お はよ うご ざいま す 。 「今日50回目の誕生日を迎える。いつかは来る日と思っていたが、とう とう来たか。いったい、今 の自分は、50歳にふさわしい心境なのか。 年々密度が濃くなってきた。ここから先はもっと濃くな る のだ ろう か。 『 一日 一日 を大 事に した い 出 会う人 々 を大事 に したい も っと伸 び 伸びと 自 然に振 る 舞いた い も っと透 明 な風の よ うにな り たい 自 分の使 命 を果た し てゆき た い 』 」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第44号 2010.10.25) お はよ うご ざいま す 。 「 今日 から しばら く 神戸・ 大 阪・東 京 と研修 に行 くこ とに なっ た。 神 戸 では 全 日本 私 立 幼稚 園 連 合会 の 設 置者 ・ 園長 全 国 大会 で 幼 保一 体 化 の最 新情 報に つい て意 見交 換、 大 阪 で は 建 て 替 え た ば か り の 幼 稚 園 を 訪 問 、 東 京 で は 、 S・ Y ワ ー ク ス 主 催 の 幼 稚 園 ・ 佐 藤 塾 に 第 一 期 生 と し て参 加の 予定。 そ のつ ど、 最新の 話 題を送 信 してみ た い。 」 入 園説 明会 の諸準 備 、ご苦 労 様です 。 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第45号 2010.10.26) お はよ うご ざいま す 。 「 昨日 、神 戸での 全 日私幼 連 設置者 ・ 園長全 国大 会初 日。 衆 議 院 議 員 泉 健 太 氏 ・ OECD ア ナ リ ス ト 田 熊 美 保 氏 ・ 全 日 本 私 立 幼 稚 園 幼 児 教 育 研 究 機 構 理 事 長 田 中 雅 道 氏 と い う す ば ら し い 論 客 た ち に よ る 鼎 談 ( 二 人 で 語 り 合 う と 『 対 談 』、 三 人 で 語 り 合 う 時 に 『 鼎 談 』 と 言う )が あった 。 鼎談の中でも触れられたが、 今年度中には結論を出して、来年度中に法案成立という、非常にタイト な ス ケジ ュ ール で あ る今 回 の 幼保 一 体 化に も かか わ ら ず、 保 育 制度 改 革 につ いて はた くさ ん述 べら れて い る が、 幼児 教育は ほ とんど 語 られて い ないの は一 体ど うい うこ とな のか ? 子 ど も 子 育 て 新 シ ス テ ム 会 議 に 参 加 し て い る 有 力 な 政 治 家 や 大 学 教 授 そ し て 経 済 界 の 方 々 に 、『 改 革 は も ち ろ ん 進 め な け れ ば な ら な い が 、 そ の 中 に あ っ て な お 、 守 る べ き 幼 児 教 育 と は 何 か 。』 と い う こ と を も っと 学ん でほし い 。心か ら そう思 っ た。 今日も真剣な議論がなされることだろう。いや、子どもたちとこの国の未来のために、どうしても語 り 尽く すべ きであ る。」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第46号 2010.10.27) お はよ うご ざいま す 。 「 昨日 、全 国大会 終 了後、 大 阪府高 槻 市の高 槻双 葉幼 稚園 を視 察さ せて いた だい た。 高槻双葉幼稚園の理事長である岡部圭二先生とは、全日私幼連経営研究委員会からのお付き合いであ る 。 大規 模 園が 多 い 大阪 で も 、園 児 数 42 0 名と 目 立 って い る 存在 だ 。 鉄筋 コン クリ ート 2階 建て の園 舎 の 中 は、 木 材が ふ ん だん に 使 われ て お り、 暖 かい 空 間 を作 り 出 して い る 。ス タッ フの 意見 も随 所に 生か さ れ て いた 。 園庭 の 築 山が 特 に 印象 に 残 った 。 今後 は フ ラッ ト な 園庭 か ら 立体 的な 園庭 への 流れ が主 流に な っ てく るだ ろう。 そ の後京 都 駅から 新 幹線で 東京 に入 った 。 お 疲れ のと ころ 、誠 心誠 意案 内し てい ただ いた 岡部 先生 に感 謝し た。」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第47号 2010.10.28) お はよ うご ざいま す 「 1 0月 27 日、 幼稚 園佐 藤塾 ・素 心塾 に参 加し た。 そ も そ も 人 間 は 『 未 来 に 恋 す る 存 在 』。 恋 の で き る よ う な 未 来 を 目 指 し 、 社 会 ・ 人 間 ・ 自 分 の 在 り 方 を 20 年後 の時空 を 越えて 届 け続け る 気概を 持つ こと が幼 稚園 の一 番の 志事 では ない か。 そ う 考 え る 、 株 式 会 社 S・ Y ワ ー ク ス 代 表 取 締 役 佐 藤 芳 直 氏 が 、 全 国 の 幼 稚 園 関 係 者 2 0 名 限 定 で 開 始 し たセ ミナ ーであ る 。 佐 藤氏 の 講 演内 容 の 素晴 ら し さは 、 よく ご 存 じの 方 々 も多 い と 思う が 、今 回の 特別 講師 は1 98 4年 ロ サ ン ジェ ル スオ リ ン ピッ ク 金 メダ リ ス ト柔 道 家の 山 下 泰裕 氏 で ある 。 体 が大 きく エネ ルギ ーが あり 余っ て い た小 学校 時代。 そ のエネ ル ギーを 正 しい方 向に 向か わせ るた めに 習い 始め た柔 道。 ・ 相手 を敬 う気 持ち が『 礼』 に通 じる 。 ・ 強い だけ では ダメ 。柔 道を 通じ て得 たも のを 、日 常生 活や 人生 で生 かし てい くこ とが 大事。 ・ 夢を 持つ こと 、持 ち続 ける こと の大 切さ 。 ・ 伝統 とは 、魂 を継 承す るこ とで ある 。 一部紹介するとこうなるが、教育的観点やリーダー論も存分に語っていただいた。道をきわめ、頂点 に 立た れた 方だけ に 素晴ら し い説得 力 であっ た。 次 回特 別講 師は 上智 大学 名誉 教授 渡辺 昇一 先生 であ る。」 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。 ユートピアの風(第48号 2010.10.29) お はよ うご ざいま す 。 昨 日 の 続 き に な り ま す が 、 佐 藤 芳 直 氏 は 、 世 界 史 の 中 で 2 0 世 紀 を 一 言 で 表 す と 、『 日 本 の 躍 進 』 で あ る と言 いま した。 以下 、佐 藤氏の 仮 説をご 紹 介しま す 。 「世 界中 から理 想 の国を 求 めてや っ てきた 日本 人の 祖先 たち 。 夜 は真 っ暗で 移 動でき な いので 、 太古の 旅は 、朝 日の 昇る 方角 を目 指し て進 む。 必然 的に多 く の旅は 、 東へ東 へ と向か う。 そ こ で遂 に 出 会っ た の が、 周 囲 を海 に 囲ま れ る こと で 外 敵か ら 守 られ 、豊 かな 降水 量で 緑多 く、 一 年 中、 水と 食料に 困 らない 日 本であ っ た。 戦乱 に明け 暮 れてい た 乾燥地 帯 の民か らす れば 、天 国に も見 えた こと だろ う。 日本 人には 、 旅をす る 遺伝子 が あるか ら、 なん でも 工夫 して コン パク ト・ 多機 能に する 。 旅の 目的地 に たどり 着 きたい か ら、和 合し て争 いを 好ま ない 。 旅を してき た 日本人 の 3つの 本 性とは 1. 感謝・ ・ ・( 恵ま れた 自然 への 畏れ →目 に見 えぬ 誰か が見 てい る) 2. 勤勉・ ・ ・( なん でも 工夫 →『 メイ クベ ター ・も っと よく なれ の精 神』 →人 格的 にも ) 3 . 互 助 ・ ・ ・( 和 合 し 助 け 合 い → 孫 子 の た め に 植 林 → 未 来 に 伝 達 ) 」 日 本人 とし ての誇 り ととも に 、ロマ ン を感じ る話 でし た。 自 分も もっ と日本 人 として の 本性を 磨 いてい きた い、 子ど もた ちに 伝え てい きた いと 素直 に思 いま す。 皆 さん はい かがで す か? 今 日も 一日 、がん ば ってい き ましょ う 。
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