森の石松の 毛利の石松

森 の石 松 の
毛 利 の石 松
出来 が良 い と云 うジンクス が出来 て、墓の
昨年 5月 当会 の一女 性会員 が訪 ね来 られ た
時 、その数 露鋳入 手 した石松 の父親 の資料 を
見 せ た ところ昭和 57年 福 山城友 の会 の機 関
誌「 友 の会だ よ り」に寄稿 した
「 森 の石松 の
良 きが絶 えず一 夜 の内 に変 え られ てい る。
博 変打 が児 いの為 に墓 を欠 ぐとの事 であ
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る。
の事 で糞 の度 会員 で もない私 が あ えて書 かせ
(今 日では 1番 新 しいのと合 せ て 、 3基 あ る
との事 であ る。 )
て頂 い た訳 です 。
又 当時、小政 の 娘 と云 う老婆 が清 水 に生 存
基 について 」を書 き直 して寄稿 して欲 しい と
して居 た。 そ して 、その老 女 の 話 に よる と
実 は石 松 の従弟 の子孫 が話 され るの を大袈
裟 と思 つて書 か なか った反面 、父親柴 田氏 が
大塩平 八 郎 に築係 あ るか も無 れ ぬ と云 う心 よ
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り大 阪府高槻市 の村上義光氏 (古 文書 の解読
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とその指導者 )に お尋 ね した ところ丁重 なお
・F‐ 紙 、研 究 内容 、大 阪城番武鑑 の コ ピー をお
送 り戴 きま した。い ささか伝 え 間違 い を含 め
て その裏付 け を得 ま したの で、書 き直 しを書
溝水 一 家 には森の石松 と云 う人 は い なか
った。
客人 に石松 と機 う人 が居 た様 に思 う。 だ
か らあれ は広沢 虎造 の創作 であ る。
以 上 に よ り森町生れの石松 でな く客人 の石松
であ って 、湾水 に基が あ る とその 時間 い てい
な いの で駿遠 に は輿 の彼 の墓 はない。
今 日、森 の 石松 は遠州森町 (当 時 は村 )の
これ等 二 者 につ いて 、遠 方 なのに、何故 と
不 審 に 思 われ るか も知 れない。 その 頃私 は浜
生 れで清 水次郎長 一 家 の渡 鸞人 と云 うのが通
松 で学 生 々活 を送 ってお り、友人 達 の話 を興
説 であ る。 これは次郎長 の 養子 が、清水 一 家
味深 く思 い訪 ねたのであ る。勿論 、輛 に石松
の子分衆 、客人 等 や他 の親分衆 一家 の 間 漱覚
の墓 が あ るなんで私 は知 らなか った。
かせい頂 きます 。
え を基 に して倉』
作 した
「 東海遊 僚伝 」を更 に
譲 曲師
広 沢虎造 が 脚色 した浪 曲 に よる もの
彼 の墓 は類 の法宣寺 の墓地 の もの と、彼が
亡 くな った大分 県中津市 の ものが本物 であ る。
で ある。そ して森 町 に於て は石松 の墓が観 光
石松 の従弟 の孫 、安西 と もえ氏 と村 上義光 氏
資源 とな り、又 、茶生産業者 の守 り本尊的立
よ りの資料 を合 せ て記 るさせて頂 きます 。
場 にな ってい るの であ る。
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石松 は天保 8年 (1837)に 大 阪城城番与
7年 頃 、森町 を訪れ た事 が ある。
力柴 田勘兵衛 を父 に 、足利 氏 の一 族 で銀 閣
当時はまだ森町 に於 ては今程 は石松 は菫 きを
おかれてい なか ったのか 、茶生 産業者 は私 の
寺 にゆか りのあ る安西遠 江守 の子孫、大 阪
質 輩 に対 して次 の 3点 を答 えて呉 れ たのであ
攣 で生 れた。
昭和
16、
屋書助 の娘 、妙 真 (旧 名不詳 )の 子 として
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る。
1.森 町 には石松 と云 う渡 世人 はいなか った。
これ は事実 であ る。
父親柴 田勘 兵衛 は大塩 平 八 郎 の槍 の師匠
であ り、親交が あ った。 そ こで大 塩事変 に
つい ては早 く察知 してい たのか 、後難 を恐
■ 石松 の墓 は難 穣 8年 、虎造 の浪曲 に よ り
れ た らしく妻 と親嬢弟 を鰺 で逃 げ さした。
森町 と森 町 のお茶 の名 声が高 ま り、売 り上
そ こで輛 で石松 は生 れた。 (離 縁 か ?)
が伸 び たの で、宣 伝 の為 にお墓 を建 てた。
勘共衛 は大 阪城 よ り町奉行 所 へ 同事変鎮圧
そ して お墓 の 向 いてい る方 向 の 茶畑 の 茶 の
応援 に派遣 され活躍 した記録 され てい る由。
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尚安西 家 の 方 で は勘 兵衛 は弟子 であ る平八
土地が あ る為 、毛利 を森 として東海遊侠伝 に
郎 を殺 した後切腹 した もの と思 い込 み、生
森 の石 松 と記 したか 、虎造 が その様 に した も
れ た石 松 を尊敬す る平八 郎 の生 れ更 りと喜
ので 、輛 に ある毛利 の石松 の墓 と、中津の墓
んだ と伝 え られ てい る 。
とが森 の石松 の墓 である。
石 松 は放 蕩 の末 、家 出 して長 州 にて 渡世
稼業人 とな り、旅鳥 として全 国 を股 に渡 り
尚参考迄 に安西家 、柴 田勘 兵衛 に関す る資
料 の一 部 を次 に記す 。
歩 く。
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長 州 は毛 利公 の領 国 な る故 を以 て 、人 呼
と云 う。今 尚銀 閣寺 も丁重 に安西家 を遇す
で毛利 の石 松 と云 う。
ス′
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母親 は亡夫 (死 ん だ もの と思 い込 み )の
菩提 を弔 う為 と石松 の罪減 しの ため 、出家
る由。
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し、 妙真比丘尼 と号 し後 山の寺迫峠 の寿量
の藩主保料弾正忠 が大坂城定 番 (玉 造 口 )
に任 ぜ られ 、大城城 に赴 任 の際 、与力 30
騎 、同心 100名 を新規召抱 えた。 この 時
刀傷 があ り、切 られ て片 眼 で あった。
の与力 、同心 が大 阪 に定着 、定 住 し、世襲
であ った。柴 田家 もその一 家 で代 々勘兵衛
誰 々の代 参 か不 明 であ るが 、両 三 度金比
を襲名 した。天 保
短気 で喧嘩早 く、義侠 心 に 富 ん でいた。
羅 宮に代 参 し、多度津 よ り輛 に上 陸 し、藩
吏 に捕 われて い る。
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な まず切 りに切 り殺 され、知 らせが あ り叔
父 が遺骸 を火 葬 に して つれ帰 えった。 その
時家族 が建 て たのか 、地元 の親分 さんが建
てたのか 言 い伝 えがないが 、中津 に墓 があ
明治初年 の旧大 阪城在 番 の与力 や同心が
「 士族籍復帰願 書 」の 中 に も旧玉造 に与力
柴 田勘 兵衛 の名 あ り。
■ 大 阪城定 番与 力 は譜代扱 で 、大 阪町奉行
所与力 は抱 席 で別 の 組織形 態 であ り、定 番
与 力 の方 が一 格 上 であ る。
次郎長 が建 て たのでは と も云 う。
きは作 らせ て いない 。従 って 、或 は名 前 を
か えて人 目 につ きに く ゝひっそ りと墓 を作
200石 現米 80石 」で 、与力
30騎 全部 同 じ。同心 は 10石 3人 扶持 。
家 禄 は「
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る。 西 南 の役 の時石松 の死 を聞 い て清水 の
犯 罪者 や博徒等 は当 時 は一般 に墓 を表 向
10年 の 大 阪袖鑑 (武 鑑 )
参照。
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明治 6年 、豊 前 国中津 (大 分県 中津 )で
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柴田勘 兵衛 、慶 安元年上総 飯野藩 2万 石
を建 て直 して庵主 とな り読経 三 味 の生 活 を
送 り、 里人 の為 に世話役 的役割 を果 たす。
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安 西家 は大坂 に 出 る前 は京都 に住 し、 そ
の跡地 は銀閣寺 の そばに あ り
「 安西家敷 」
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玉造組与力衆 の 屋敷 は大 阪市東 区 の現在
の大 阪城公園 の東 南 の一 角 であ る。
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柴 田氏本貫 の地 は参州 (三 河 )で 槍術宗
った。 彼 、石松の場 合 は世 間体 を考 え、祖
家 ?で あ り、柴 田勘 兵衛 が 大塩 平八 郎 の槍
術 の 師匠 であ った事 は大 阪 での大 塩平八郎
父母 の墓 に葬 り、墓 の裏側 を浅 い額縁 出腹
に 彫 り、次 の 如 く刻 し、又水鉢 をつ くりか
研究者 の定 説 であ る。平八郎 の師匠 か 、 そ
の先代 と思 える勘 兵衛直筆 の書状 の コピー
え、銚子 と盃 を浮 き彫 に し た。
を参考迄 に付す。
り、或 は又 、親兄弟 の墓 に葬 るの が常 であ
明治 6年 癸酉
以
転玖 院宗聡 日勇信士
10月 8日
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浪 曲 で知 った時 にはあま りに もよく似 て
い るの で驚 い た と安西 ともえ氏 は言 ってい
る。
以上 に依 り、毛利 の石松 を遠 州 に森 村 と云 う
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上
と 崚漁く、 黙
黙
戴紺覆懸翠ゼ撻
導工ふ笙二
申 N雨│■ 嶺 《
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