一泊二日 秘密の偵察

一泊二日★秘密の偵察
氏名:保刈愛李
1
一泊二日★秘密の偵察
2
あらすじ
白石未央、28歳。ホテルやリゾート施設を運営している会社で経理の仕事をしている。
そんなある日、休日出勤して一人で仕事をしていると、突然社長の手塚正人が現れる。
正人は他社が経営するホテルの偵察に行く予定だったが、一緒に行く人にドタキャンされ
た為、未央が代わりに行くことになった。
ライバル会社で人気のカップル限定宿泊プランの偵察。正人と恋人のフリをし、同じ部屋
で一夜を共にすることになり、未央は困惑する。
社長としての会社への思い、自分だけに見せる弱い部分、正人を知っていくにつれ、惹か
れ始める未央。しかし次の日には社長と一社員に戻る関係。未央は諦めようと決意する。
日常生活に戻った未央だったが、理不尽な理由で未央は上司に罵倒される。そこに正人が
現れ、未央を救う。そして正人も未央に想いを寄せていたと知り、二人は結ばれる。
数ヶ月後。今度は本当の恋人としてホテルに宿泊し、甘い夜を過ごす二人がいた。
3
本文
【1】
○オフィス
私は白石未央、28歳。
現在日曜日の午後2時。
誰もいないオフィスで、山のような仕事をこなしている。
(何で私だけ
)
私はホテルやリゾート施設を運営している手塚ホールディングスで経理の仕事をしている。
現場スタッフは土日祝日関係なく働いているけど、私みたいに本社勤務の人間は原則土日
休み。
しかし現在休日出勤中。
今まではこんなことなかったのに、1ヶ月くらい前から事態が変わってしまった。
それは私が課長の逆鱗に触れてしまったからだ。
大島課長は41歳、バツイチ、現在は独身。
以前から何度も課長から個人的に食事に誘われていた。
下心があるのが見え見えだったので、迷惑だから今後誘わないで欲しいということを遠回
しに伝えた。
それが気に食わなかったらしく、その後から私の仕事量が一気に増えた。
そのせいで残業が増え、間に合わないときは休日出勤もしている。
部長など上司に相談することも考えたけど、職場の雰囲気を悪くしたくない。
(私が我慢すればいいだけだし
)
近いうちに課長の転勤の話もあるし、それまでの我慢。
そう自分の心に言い聞かせていた。
今日中にやる予定の仕事が半分終わった時だった。
???
「はあ!?来れないってどういうことだよ!」
廊下から男性の怒る声が聞こえた。
うちの会社のオフィスは廊下と仕切られているだけで、ドアがない。
その為、廊下で喋る声もよく聞こえるのだ。
聞こえるのはその男性の声だけなので、恐らく電話越しの人に怒っているのだろう。
4
(私以外にも休日出勤している人がいたんだ)
(でも、何で怒っているんだろう?)
???
「女なら誰でもいいからなんとか用意できないか?」
(女なら誰でもいい
?)
段々足音と声が近付いてくる。
???
「ったく、これから代わりなんて見つけるなんて無理だろ
」
すると怒っていた男性が私のいるオフィスの入口の前で立ち止まる。
そして私と目が合った。
遠目で顔は分からないけど、私服の男性だった。
???
「代わり
いたかも」
そう言って男性は電話を切り、私に近づいてくる。
(えっ?代わりってもしかして私!?)
少しずつ男性が近付いてきて、顔がハッキリと分かる。
(えっ
ちょっと待って!もしかしてこの人!)
未央
「しゃ
社長!?」
私は慌てて立ち上がった。
未央
「お疲れ様です!」
(うわ
、こんな近くで社長見たの初めてだ
)
うちの会社は6000人を超える大手の会社。
本社に勤めているけど、私みたいな一般社員が社長と関わることなんて普通はない。
そして手塚正人社長はまだ32歳。
社長のおじい様が一代で築きあげ、現在会長の社長のお父様が二代目、そして現在の社長
が昨年就任し三代目なのだ。
まだ若いということで就任時、社員たちは不安を隠せなかった。
でも手塚社長の経営手腕で業績は右肩上がり。
5
前社長を超えるのではないかと言われるほどのやり手。
顔も格好良く、実力もあるので、以前テレビで特集されたこともある。
そんな社長が今私の前にいる。
そして私を足先から頭の上まで、舐めるように見ている。
(社長が近くにいるだけで緊張するのに、そんな見られたらもっと緊張するよ!)
未央
「あの
、社長?」
正人
「名前は?」
未央
「はい!経理課の白石未央と申します」
正人
「君に重要な任務を任せる」
未央
「えっ?」
正人
「今から俺についてきてくれ」
未央
「えっ!?私、まだ仕事が残って
」
正人
「業務命令だ。責任は俺がとる!」
未央
「は、はい!」
作業中の書類を机の中に入れ、理由もわからないまま社長の後を追いかけた。
○車の中
社長が運転する車の助手席に座る。
(私、どこに連れて行かれるんだろう
?)
私は社長をチラッと見る。
(それにしてもいつもと雰囲気が違うな)
6
いつもと言っても写真や映像でしか見たことないけど、普段はもっと高そうなスーツに身
を包んでいた。
車も噂だと高級外車を乗っていると聞いた。
それなのに今日はジーンズにシャツ。車も普通の乗用車。
正人
「どうした?ジッと見つめて」
未央
「いえ。あの、どこに向かっているのでしょうか?」
正人
「ディアマンローズホテルだ」
未央
「そこってライバル会社のですよね?」
正人
「あぁ。ちょっと偵察にな」
未央
「もしかして、その偵察に私も行くということですか?」
正人
「そうだ。実はあそこのホテルがカップル限定プランを打ち出していて、それが人気らし
い」
「実際うちのホテルのカップル利用率が減っているという噂もあるからな」
未央
「なるほど。だから女性の相手を探していたんですね」
正人
「秘書に知り合いを紹介してもらう予定だったんだが、ドタキャンされてな」
「時間が今日しかとれないから、困っていたんだ」
未央
「もしかしてこの車も偵察の為に?」
正人
「あぁ、レンタカーを借りてきた。あとは服装もラフな感じにしてみた」
未央
7
「なるほど。だからいつもの社長と雰囲気が違ったんですね」
正人
「正人」
未央
「えっ?」
正人
「これからカップルのフリをして乗り込むんだ。社長って呼ぶな」
未央
「すみません。えっと、では
正人さん」
正人
「さん
はいらないけど、まあいいか。俺は未央って呼ぶから」
未央
「は、はい!」
突然下の名前で呼ばれてドキッとしてしまった。
かれこれ2年くらい彼氏もいないから、男性から名前で呼ばれるのも久しぶりだった。
(名前呼ばれただけでドキドキして、恋愛免疫力なさすぎるよ
)
○ホテル・ロビー
着いたのは千葉の海沿いのホテルだった。
私たちはホテルの駐車場に車を停めた後、ロビーに向かった。
中に入ると高級感があり、自然と背筋が伸びる。
(カップルが記念日とかに泊まったら、いい雰囲気になりそう)
正人さんがフロントに向かうので、それについていく。
正人
「予約していた佐藤です」
(佐藤?
あぁ、偽名か)
(そりゃそうだよね。ライバル会社の社長が本名で泊まるわけないよね)
フロントマン
「佐藤様、お待ちしておりました」
そして正人さんはチェックインの手続きを進める。
8
(ん
?チェックイン?)
(あれ?深く考えてなかったけど、もしかして偵察って泊まり!?)
女性従業員
「ではお部屋にご案内させて頂きます」
案内係の従業員が近付き、正人さんの荷物を持つ。
そして客室に案内される。
(泊まりでもさすがに部屋は別だよね
?)
○客室
しかし案内されたのは一部屋だけだった。
女性従業員は部屋の案内などを終え、すぐに部屋を出て行ってしまった。
正人
「思ったよりも広いな」
未央
「あの!正人さん!」
正人
「なんだ?」
未央
「偵察って泊まりですか?」
正人
「まぁ、カップル限定宿泊プランの偵察だからな」
未央
「
私の部屋は?」
正人
「カップルプランなのに何で別の部屋に泊まるんだよ」
未央
「で、でも、ベッドも一つしか
」
そう。部屋にはダブルベッドが一つしかないのだ。
正人
「あぁ、そこは盲点だったな。まぁ、なんとかなるだろう」
9
(えぇ!?じゃあベッドが一つしかない部屋で一夜を共にするってこと!?)
正人
「
ん?過ちが起こるかもってもし思っているなら、それは心配しなくていい」
未央
「えっ?」
正人
「俺にも好みというものがあるからな」
未央
「
それって、遠回しに私が好みじゃないって言っているってことですか?」
正人
「不満か?」
未央
「不満ってわけじゃないですけど」
正人
「それとも何か起こった方がいいの?」
正人さんの右手が私の顔に伸び、グイッと顎を持ち上げられる。
正人
「お望みならばいくらでも」
未央
「の、望んでいません!!」
真っ赤になりながら答えると、正人さんが声を出して笑い出す。
正人
「はははっ
冗談だよ。今の顔、面白すぎる!」
未央
「騙したんですか!?最低です!」
正人
「はいはい、悪かったって」
未央
「全然悪気はなさそうですね」
正人
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「でも、そういうのいいね」
未央
「はい?」
正人
「普通の社員って、俺を目の前にすると緊張して思ったこと言えなくなるからさ。思った
こと言ってくれるのは有難い」
「今回の偵察は自分の目で見たいのもあったけど、女性の意見が聞きたいっていうのもあ
るから」
「このホテルの感想とか思ったこと、うちのホテルで足りないと思う部分でもいいから、
バンバン言ってよ」
大手企業の社長だし、きっと偉そうな人なんだと勝手に思っていた。
でも全然違った。
忙しい中、ライバル会社の偵察をして、自分の会社を良くしようとしている。
やり手だと言われているけど、その実力も努力があって成り立っているんだろうな。
正人
「このホテルにいる間は俺が社長ってこと忘れてくれ」
「難しいかもしれないけど、俺が恋人だと思って楽しんで、その率直な感想を聞かせてく
れ」
未央
「分かりました。私が出来ることなら協力します!会社を良くする為ですから」
正人
「じゃあ改めてよろしく」
正人さんが握手を求めて手を差し伸べる。私はその手を握る。
未央
「はい、よろしくお願いします」
【2】
○レストラン(夜)
その後夕食まで時間があったので、ホテルの中にあるエステを体験してきた。
宿泊プランの中に女性はエステ60分コース、男性はマッサージが含まれていた。
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各々それらを体験してきた。
未央
「もうエステ最高でした。顔が一回り小さくなったかも」
正人
「マッサージもなかなか良かったよ」
私たちは食事をしながら話をする。
ディナーはイタリアンのコース。
私みたいな一般人は食事のマナーとか分かっていない。
しかしそんなに堅苦しくない為、緊張せずに食事ができる。
未央
「やっぱり正人さんはこういう料理食べるの日常茶飯事なんですか?」
正人
「いや、たまにだよ。やっぱりって、どういうイメージ持っているの?」
未央
「毎日高級なもの食べているイメージ」
正人
「全然違うから。普段なんてコンビニばかりだよ」
未央
「嘘!?」
正人
「毎日仕事に追われて、適当に済ませているから」
「でもさ、最近のコンビニスイーツって美味しいよね。つい一緒に買っちゃう」
未央
「コンビニのスイーツ食べるんですか?」
正人
「食べるよ。甘党だし」
未央
「えぇ!?意外!じゃあ、会社の前にあるコンビニのロールケーキ食べたことあります?」
正人
「この前食べた!あれ美味いよな!」
12
雲の上の存在だった社長と、スイーツの話で盛り上がっている。
他の社員は知らない素顔。今それを私が独り占めしている。
数時間前の私では想像も出来なかったことだ。
そんな話をしながら食事を一通り終え、残りはデザート。
さっきスイーツの話をしたせいか、お腹いっぱいなのにデザートが早く食べたくて仕方な
かった。
するとウェイターが小さいホールケーキを持って私たちのテーブルに来る。
未央
「ケーキ?」
ケーキの上のチョコプレートには『誕生日おめでとう』と書かれていた。
正人
「未央、誕生日おめでとう」
(誕生日
?私今日じゃないのに?)
戸惑っていると正人さんが目配せをした。
そして私が今日誕生日でお祝いに泊まりに来ている設定なのだと理解した。
未央
「わぁ、ありがとうございます!とても嬉しいです!」
と、必死に話を合わせる。
正人
「初めて過ごす未央の誕生日だからサプライズがしたくて。喜んでもらえたかな?」
未央
「もちろんです」
正人
「あと、もう一つプレゼントがあるんだ」
正人さんはポケットからジュエリーケースを取り出し、蓋を開けると指輪が出てきた。
正人
「右手を出して」
未央
「は、はい!」
言われるがまま右手を差し出した。
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すると正人さんが私の小指に指輪をはめる。
未央
「ピンキーリング?」
正人
「うん。まだ俺たち付き合ったばかりだし、薬指だと早すぎるかなって思って」
「ちゃんとした指輪はプロポーズする時まで待っていて」
ピンキーリングが照明に反射してキラキラ光る。
指輪をプレゼントされたのって何年ぶりだろう
(ヤバい
。
。嘘だと分かっているのに本当に嬉しい)
私が何も言えずにいると、正人さんが不安そうな顔をする。
正人
「ダメだった
?」
未央
「ううん。嬉しすぎて言葉にならなかっただけ。本当に嬉しいです!」
正人
「良かった。これからもずっと未央の誕生日を祝わせてね」
未央
「
はい!」
正人さんの甘い嘘に私は笑顔で答えた。
○海(夜)
ディナーの後、私たちはホテルの前の浜辺に来ていた。
砂浜に二人で並んで座る。
今日は天気がよく、無数の星が広がっている。
その星たちが真っ暗の海に反射して光っていた。
未央
「正人さん、嘘上手すぎます」
私はそう言いながら、右手にはめられたピンキーリングを眺める。
正人
「そういう未央だって上手いじゃん。突然の嘘にも対応して」
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「指輪はめた後の言葉も出ないくらい喜んでいたところなんてアカデミー賞レベルだよ」
(うっ
、それは本気で喜んでいたところだ)
正人
「宿泊プランにプラス2000円でケーキをつけられるってことで試してみたんだ」
「だから誕生日っていう設定にしてみた」
未央
「でもわざわざプレゼントまで用意する必要ないのに」
正人
「せっかくだし、楽しいかなって思って」
(正人さんって、きっと本当の彼女の前でも自然にサプライズとかしちゃうのかな)
(彼女
いるのかな?)
未央
「
正人さんって、彼女いるんですか?」
正人
「なに?突然」
未央
「いえ、ちょっと気になっただけです」
正人
「いないよ。もう5年になるかな」
未央
「5年ですか!?何で!?絶対モテるのに」
正人
「ははっ、モテないよ。まぁ社長って肩書きで近づいてくる人はいるけど」
「今は仕事が忙しすぎて、彼女が出来ても相手してあげられないし」
未央
「じゃあ暫く彼女は作らないんですか?」
正人
「そうだね。運命の出会いでもない限りは」
(運命の出会いか
)
正人
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「未央は?」
未央
「私もいないです。もう2年くらい」
正人
「何で?」
未央
「じゃあ私も仕事が忙しいってことにしといて下さい」
正人
「あっ、便乗した」
未央
「ふふっ
」
正人
「でも今日も休日出勤していたし、本当に忙しいんじゃない?」
未央
「いや、そんなことは」
正人
「本当?自分のキャパを超える仕事押し付けられたりしていない?」
(うっ
、鋭い)
(でも課長に仕事押し付けられているってバレたら大ごとになっちゃう)
未央
「大丈夫です!今回たまたま時間が掛かっちゃっただけなので」
正人
「それならいいけど。うちの会社を絶対にブラック企業とかにしたくないんだ」
「だから残業とか休日出勤が続くようならちゃんと相談してね」
未央
「あの
、今日一緒にいて思ったんですけど、正人さんって常に仕事のこと考えていま
すよね」
正人
「そう?」
未央
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「疲れないですか?たまには息抜きしたいとか思いませんか?」
正人
「思わなくもないけど、でも社員の生活も懸かっているし、気は抜けないかな」
「俺にもっと実力があれば、心の余裕も持てるんだろうけど」
まだ32歳で、6000人以上の社員とその家族の人生を担っている。
それがどれほどの重圧なのか、きっと私には考えても分からないものなのだろう。
未央
「やっぱり正人さんは凄いですね
」
正人
「何が?」
未央
「これだけ大きな会社の社長ってきっといろんな重圧もあるんだろうなって」
「私なんかじゃ分からないくらいのものが、いっぱい
」
正人さんが凄い人で、社長という仕事に重圧があることなんて当たり前。
そんな当たり前の事しか言葉にできない自分の語彙のなさに嫌気がさす。
正人
「本当の事言うと、昔は社長になりたくなかったんだよね」
未央
「えっ?」
正人
「高校生くらいの時かな。あっ、この話は他の社員には内緒ね」
未央
「はい」
正人
「俺には自分の意志で将来を選ぶ権利を与えられなかった」
「祖父が起業して、それを父が受け継いで、そして俺が受け継ぐ。生まれた時から決まっ
ていた」
「反抗した時もあったけど、意味はないと悟ったよ。だから腹をくくった」
「大学で経営学を学んで、留学して海外の経営についても学んできた」
未央
17
「海外留学していたんですね」
正人
「うん。今はグローバル社会だから、視野も広くしないと」
(社長になるまでの間に、いろんな苦労や葛藤があったんだろうな
)
正人
「ねえ、同族経営の場合3代目が滅ぼすって言われているの知っている?」
未央
「いえ」
正人
「2代目は1代目の苦労を見てきたからまだいいんだけど、3代目は生まれた時からお坊
ちゃまだったりして苦労をしないんだよ」
「跡取りだからってチヤホヤされて育って、実力もないのに社長になる」
「だからよく3代目が会社を滅ぼすことがあるんだって」
未央
「
」
正人
「俺が社長になるって時、もうこの会社は終わりなんじゃないかって噂する人も多かった」
「だから俺の代では絶対にこの会社を潰さないって決めた。社員たちを路頭に迷わせるこ
とは絶対しないって」
正人さんは真剣な眼差しで真っ暗な海を見つめる。
私は正人さんから目を離せなかった。
正人
「ごめん、突然いろいろ語って。喋りすぎたな」
未央
「私、良い会社に就職出来たなって改めて感じました」
正人
「えっ?」
未央
「こんなにも良い社長の会社で働けるなんて幸せ者です」
正人
18
「未央
。うん、みんながそう思ってくれる会社を目指すよ」
優しく微笑む正人さんに、胸がドキッとした。
社長だからって偉い態度とるわけじゃなく、社員のことを大切に思い、会社に対して誰よ
りも熱い思いを持っている。
さっき言った言葉は嘘じゃない。
この社長の下で働けることが幸せなのだと、心の底から感じた。
○ホテル・客室(夜)
その後も暫く浜辺で話し、部屋に戻ってきた。
先に私がシャワーを浴びて、今は正人さんがシャワーを浴びている。
私はベッドの上で寝そべり、枕元の時計を見る。
(もう11時か
、話しすぎた。夜の海って人の心を開くのかも)
最初は話すだけでも緊張したけど、今は嘘のようにリラックス出来ている。
今日初めて話したとは思えないくらい話しやすい。
(波長が合うっていうのかな
?)
正人さんがお風呂から出てくる音がしたので、体を起こす。
するとバスローブ姿の正人さんが現れた。
胸元が少しはだけていて、色気を感じる。
私は食い入るように見てしまった。
正人
「なに?」
未央
「あっ、いえ!」
慌てて視線を逸らす。
(男性なのに色気があるなんて反則だよ!)
正人
「明日だけど、仕事だし7時にはここを出ないといけないな」
未央
「そっか。明日は月曜日ですもんね」
またいつもと変わらない日常が始まる。
19
今日だけ恋人のフリをしていたけど、明日からは顔を合わすこともない。
社長とただの一般社員に戻る。
(なんだか淋しいな
)
正人
「さてと、そろそろ寝るか」
正人さんがそう言って布団の中に入る。
私はベッドの上に座っていたけど、慌てて立ち上がる。
正人
「どうしたの?」
未央
「わ、私、そこのソファで寝ます!」
正人
「は?何言っているんだよ。風邪ひくって」
未央
「大丈夫です!体丈夫なんで」
正人
「そんなに俺と同じベッドで寝たくない?」
未央
「寝たくないわけではないですが、やはり男女が同じベッドで寝るというのは
正人
「だから何もしないって」
未央
「それは分かっているんですが
」
すると正人さんが立ち上がり、私の腕を掴む。
正人
「だったら俺がソファで寝るから、未央はベッドで寝ろ」
未央
「それはダメです!社長をソファで寝かせるなんて社員として出来ません」
正人
「こっちだって女性をソファで寝かせるわけにはいかないんだよ!」
20
」
「自分だけベッドで寝る男なんて最低だろ」
(でも平社員がベッドで寝て、社長がソファで寝るのはダメだって)
心の中で何度も葛藤して、ようやく決断した。
未央
「
分かりました」
私は正人さんのバスローブを掴む。
「
一緒に、ベッドで寝ましょう」
すると突然正人さんが笑い出す。
正人
「ははっ」
未央
「な、なんで笑うんですか!?」
正人
「そんな顔を赤らめて言われると、誘われているみたい」
未央
「誘っていないです!!」
正人さんが私の頭をポンッと撫でる。
正人
「冗談だよ。寝ようか」
未央
「はい
」
○真っ暗な客室
部屋の電気を消してベッドに入る。
お互い背を向けて横になる。背中に正人さんの体温が伝わってくるくらい近い。
自分の心臓の音が正人さんに聞こえてしまうのではないかと心配になるくらいうるさい。
暫くして正人さんの寝息が聞こえてきた。
(もう寝たかな?)
寝返りを打ち、正人さんの方を向く。
すると私の視界には正人さんの大きな背中が入ってくる。
21
(近い
)
私はゆっくりと正人さんに手を伸ばす。
しかし正人さんの背中を触る寸前のところで手を止める。
こんなに近くにいるのに遠い存在。
今なら手を伸ばせばすぐ届くのに、手の届かない別世界の人。
私は伸ばしかけて手を引っ込める。
すると瞳から熱いものが溢れてきた。
(あぁ。私
正人さんを好きになっちゃったんだ)
こんなに遠い存在なのに。
正人さんにとっては6000人以上いる社員の一人にしかすぎないのに。
絶対に報われない恋。
(
このホテルを出たら、正人さんへの気持ちを忘れよう)
枕で涙を拭いきながら、決意した。
【3】
○車の中
次の日。
予定通り7時前にホテルをチェックアウトして、車で都内まで戻ってきた。
他の社員に見られたら困るので、会社から少し離れたところで車を停める。
正人
「付き合ってくれてありがとう。本当に助かった」
未央
「いえ、会社の為になるならいくらでも力になります」
正人
「ありがとう、未央」
未央
「白石
です」
正人
「えっ?」
未央
22
「さすがに下の名前だとマズイと思うので。あと、これ返します」
昨日プレゼントされたピンキーリングを外し、正人さんに差し出す。
正人
「いいって。プレゼントしたものだし」
未央
「しかし」
正人
「値段も高くないから、貰ってよ」
未央
「
ダメです」
「恋人だったのはホテルをチェックアウトした時までです」
「今はただ社長と社員の関係なので貰えません」
無理矢理ピンキーリングを正人さんに返した。
正人
「ちょっと!」
未央
「失礼します!」
私は車を飛び出た。
正人
「未央!」
後ろで正人さんの声が聞こえたけど、振り返らずに走る。
(振り返れないよ。こんな顔じゃ
)
私の目からは涙が溢れていた。
夢のような時間は終わった。またいつもの日常が始まる。
○オフィス
出社した私を待ち受けていていたのは大量の仕事だった。
昨日仕事の途中で正人さんに連れて行かれてしまったため、半分までしか出来ていなかっ
た。
絵里子
23
「締め切り間に合うの?」
同期の相田絵里子が声を掛けてくる。
未央
「ヤバいかも」
絵里子
「私も自分の仕事終わったら手伝うから」
未央
「ありがとう」
絵里子
「ったく、あのアホ課長。こんなの一人に任せる仕事量じゃないっての!」
絵里子は私の為に課長を怒ってくれている。
私と絵里子は昼休憩も取らずに、必死に仕事をこなした。
途中から他の社員も手伝ってくれた。
けど、結局締め切りの時間までに間に合わなかった。
大島
「間に合わなかったとはどういうことだ!!」
課長の怒号が飛ぶ。
未央
「申し訳ございません!」
大島
「君が間に合わなかったことで上に怒られるのは私なんだよ!」
未央
「すみません
」
大島
「締め切りも守れないなんて社会人として失格なんじゃないか!」
未央
「
」
大島
「君みたいな社員はうちの課ではいらないな」
課長の厳しい一言に胸が苦しくなる。
24
今回の件で私の評価は落ちるだろう。
そうなると、この部署も異動させられるかもしれない。
(この仕事好きだったんだけどな
)
そう思った時だった。
オフィスの中がザワザワし始めた。
(なに
?)
そう思ってみんなの視線の先を見ると、そこには正人さんが立っていた。
(正人さん!?なんで?)
課長も気づき、慌てて立ち上がる。
大島
「社長!?どうされたんですか?」
正人
「大島課長。今の発言はいささか問題ではないですか?」
大島
「はっ、申し訳ございません。確かに少し言いすぎました」
正人
「あと今の件だけど、締め切りが間に合わなかったのは私のせいなので、大目に見てくれ
ませんか?」
大島
「えっ?どういう
?」
正人
「昨日、彼女に重要な任務を急に任せてしまったからね。異論は?」
大島
「いえ、まさか!そういうことでしたら、部長にも私から伝えておきますので」
正人
「そう、それなら良かった。では、本題に入りますか」
大島
「本題ですか?」
正人
「1ヶ月くらい前から彼女の仕事量が増えていますよね」
25
大島
「いや、そんなことは
」
正人
「彼女の勤怠を見ると残業が増えているのは一目瞭然です」
大島
「それは
その、忙しい時期だったので
」
すると正人さんは課長に近づき、私と課長以外には聞こえない声で喋る。
正人
「フラれたからって仕事で当て付けるなんて最低ですね」
大島
「えっ!?」
正人
「誤解だとは言わせませんよ。他の社員から裏は取れています」
「もし、今後彼女を困らせることしたら、私が許しませんよ」
未央
「正人
さん
」
正人さんは課長から離れ、私の腕を掴む。
正人
「未央、こっち来て」
未央
「えっ?ま、正人さん!?」
呆然としている課長と、驚いている他の社員を横目に、私たちは出ていく。
○社長室
連れて行かれたのは社長室だった。
部屋に入り、正人さんが内鍵を閉める。
そこでようやく握られた手が離された。
未央
「正人さん!何でこんな
」
正人
26
「何で言わなかったんだ?」
正人さんが鋭い目で私を見つめる。
(怒っている
?)
未央
「何の話ですか?」
正人
「大島課長に仕事を押し付けられているって」
未央
「それは
」
正人
「俺そんなに頼りない?社員一人も守れない社長だとか思っているの?」
未央
「そんなことないです!ただ私が我慢すればいいだけのことだったから」
すると正人さんは私を抱きしめる。
正人
「俺は社員がみんな幸せになれる会社を目指したい」
「もちろんそれが理想論だということは分かっている」
「でも少しでも我慢したり悩んだりしている社員を減らしたいんだ」
「好きな奴一人守れなくて、そんな会社に出来るわけがないだろ!」
未央
「好きな奴
?」
正人
「お前のことだよ」
未央
「
」
「えぇぇぇ!?」
(どういうこと!?正人さんが私を好き!?)
正人
「驚きすぎ」
未央
27
「いや、だって
」
正人
「まぁ俺も昨日初めて会った時は好きになるなんて思わなかったけど。タイプと違うし」
「でも昨日海で話して、喋るつもりじゃないのに本心が零れ落ちた」
「今まで誰にも話したことない俺の弱い部分を、初めてお前に見せた」
未央
「正人さん
」
正人さんは私を抱きしめる腕を緩ませ、私の顔を真っ直ぐ見つめる。
正人
「未央は?どう思っているの?」
未央
「
私だって
正人さんが好きです」
すると正人さんから安堵の溜め息が出る。
正人
「良かった
。今朝指輪返された時、もしかして嫌われたのかもって思ったよ」
未央
「まさか!嫌いになるわけがないです!」
「ただ世界が違うから諦めなきゃって思っただけで
正人
「バカか。好きに世界が違うとか関係ないだろ」
未央
「バカって言わないで下さい」
正人
「バカ、アホ、マヌケ」
未央
「ちょっと悪口やめて下さい」
正人
「でも
好きだ」
そして私の唇に正人さんの唇が重なる。
優しくて甘い、私たちの初めてのキスだった。
28
」
○会社・廊下
3ヶ月後。
絵里子
「あー、終わった!明日は休みだ!」
未央
「金曜の仕事終わりは格別だよね」
私と絵里子は並んで歩いていると、私を見る女子社員たちがいた。
女子社員A
「ねえ、あそこにいる人だよ!社長の彼女」
女子社員B
「どっち?」
女子社員A
「向かって右側」
女子社員B
「へえ、結構普通な感じだね」
絵里子
「また噂されているね。社長の彼女は大変だ」
未央
「ははっ
まぁ最近はもう慣れたけどね」
絵里子
「まさか未央が社長と付き合っているなんて、未だに信じられないんだけど」
未央
「だよね。自分でも不思議なくらい」
絵里子
「でもあの時、未央の手を引いて立ち去る社長は格好良かったな」
あの日の出来事を会社内で知らない人はいないくらい有名な話になった。
その後、大島課長は別の支店に異動になった。元々転勤の噂があったから、左遷とは違う
と思うけど。
正人
29
「未央!」
後ろから名前を呼ばれて振り返ると、そこには正人さんがいた。
未央
「正人さん!」
絵里子
「えっ!社長!?」
周りの社員たちも正人さんに気付き、騒がしくなる。
(正人さん、いちいち目立つから、ちょっと恥ずかしい)
未央
「どうしたんですか?」
正人
「覚えているか?今日からうちのホテルでカップル限定プラン始まるって」
未央
「はい。覚えていますよ」
正人
「これから宿泊しに行く」
未央
「これからですか!?」
正人
「ほら、さっさと行くぞ」
正人さんに腕を掴まれる。
未央
「えぇぇ!?」
笑顔で手を振る絵里子を見ながら、正人さんに手を引かれて歩き出した。
○ホテル・客室(夜)
私たちはうちの会社が経営するグラナートホテルにやってきた。
ホテルに着いた時には既に日が沈んでいて、客室に入ると窓の外には夜景が広がっていた。
未央
「わぁ
綺麗!」
30
部屋に入るなり、窓際に駆け寄る。
(100万ドルの夜景ってこういうこと言うのかな)
窓の外を見ていると、後ろから抱き寄せられる。
未央
「ま、正人さん!?」
正人
「会いたかった。ずっと抱きしめたかった
」
最近正人さんが忙しかった為、きちんと会えたのは1ヶ月ぶりだった。
未央
「私も会いたかったです」
正人
「うん」
未央
「
でも、後ろから抱きしめられるのは嫌です」
正人
「えっ?」
私は振り返り、正人さんの顔を見つめる。
未央
「正人さんの顔、見たいから」
すると正人さんが私にキスをする。深いキスを何度も、何度も。
未央
「んっ
はぁ
」
離れたかと思えばまた重なる。
暫くして、ようやく私の唇が解放される。
正人
「そんな可愛いこと言われたら止まらなくなるだろ」
未央
「えっ?ひゃっ
」
今度は耳にキスをされる。そして首元、鎖骨とキスが下がってくる。
未央
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「あっ
正人さん、ダメです!これからディナーですよね?」
正人
「大丈夫。まだ時間があるから」
未央
「えっ!?ちょっと
」
恋人のフリではなく、本当の恋人になった私たち。
2人の甘い夜はまだまだ長い。
Fin
32