ノォル-パドカレ 図版博物館 vol.28 I 土地の記憶 14 Musée imaginaire philatélique Région Nord-Pas de Calais au travers des timbres français 4e éd. 2013 【5-1-1 ノォル・パドカレ地域圏と紋章切手】 フランスの最北にノォル県 Nord とパドカレ県 Pas de Calais があ る。ノォル県はベルギーとの国境に沿って南東に長く横たわり、パドカレ県はそ の内側に位置して南隣のピカルディ地域圏 Région Picardie につながる。この 2 つの県で 1 つの地域圏 RégionNord-Pas de Calais を構成している。従来 は一般に Nord と呼ばれていた地方であるが新たにつくられた地域圏の名 称に Nord だけを用いればノォル県にパドカレ県が吸収されたような印象を与 えかねないので、上記のような長い呼称となった。フランス人にとって海は《パ ドカレ》(カレ海峡)、陸は一括して《ノォル》でよかったのだが、人為的な統合にともなう軋みが 「表札」の書き方にも及んだというところ である。まず、紋章切手を見よう。 Région Nord-Pas de Calais YT-1852 Flandres YT-602 Artois YT-899 YT-527 Lille YT-1186 紋章切手は、上掲の旧州 2 種と Région の首都リール Lille の 2 種である(このほか、リール 5 フラン の同一デザインのデノミ版 0.05 新フラン ©bibliotheca philatelica inamoto YT-1230 がある。) 旧州と県とのおおよその対応はフラ 1 ンドルがノォル県、アルトワがパドカレ県と言えるが、旧州はもっと細かく分かれていて簡単には説明 はできない。歴史的にみるとフランス領になったのは 17 世紀以降の地域がほとんどであるが、 フランス郵政は「国土の拡張はすべて切手の発行で記念する」という方針を堅持しているため、 切手の上で辿りやすい。以下のようだ。5-1-1 【5-1-2 フランスへの併合】 1659 年のピレネ条約でス ペインから南仏のルシヨン、ピレネ山脈東部のサルダーニャなど とともにスペインがオランダから割譲されていたフランドル、 アルトワ地方の諸領地とともにアヴェヌ・シュル・エルプ Avesnessur-Helpe が フランスに帰属 した。左の 20 フラン切手はアヴェヌの町を描いたもの Ponts des Dames で、ノォル県最東部の帰属を記念したものである。YT-1221 アヴェヌ地方には石造の立派な建築物が多く、また都市 の自然環境もよく整備されてきたので「北仏のスイス」 と昔から言われてきた。1668 年のエクスラシャペル条約(フラ ンドル継承戦争 guerre de Dévolution の講和条約)でスペ インからリール、アルマンチエール、ドウエなどフランドルの主要部分がフラ ンスに帰属した。左の切手の肖像はルイ 14 世である。フラン スはスペインにフランシュコンテを移譲した YT-1563。1677 年のカン ブレの攻略によってフランスはカンブレジ Cambrésis を併合し た YT-1932。 1678 年のニメグ条約 Nimègue によって、 スペイン、オランダを相手にして多年にわたって続いたオラン ダ戦争が終結し、割譲と合わせて種々の領土交換が行 われ国境の整序が行われた。同条約によってカッセル、カン ブレに加えて、ヴァレンシエンヌ Valenciennes, モォブージュ Maubeuge などがフランス領となったことを記念して、左 の 1.20 フラン切手が発行された YT-2016。左に掲げた 4 点の切手はすべて、300 周年記念を銘打って発行さ れたものであり、フランス革命前でフランスの軍事力が最強で あったルイ 14 世時代を顕彰するような意図が窺われる。 5-1-2 【5-1-3 ダンケルクとカレ海峡】 はじめに旧フランドル地方に相 ©bibliotheca philatelica inamoto 2 当するノォル県に諸地域から見ていくことにしよう。海の玄関 はダンケルク Dunkerque である。海域の名称について念のため一 言。イギリスとフランスを隔てる海はフランスではラ・マンシュ La Manche といい、イギリスでは English Channel という。日本語では「英 仏海峡」である。これに対してフランスとイギリスの距離が最も短 い(34km)海域をフランスではカレの町の海峡であるので Pas de Calais といい、イギリスではドーバーの町の海峡であるので Strait of Dover という。日本語では「ドーバー海峡」である。ダンケルクは 海峡の宇宙衛星写真 フランスの全港湾中でもルアーヴル、マルセイユに次いで 第 3 位の荷扱港であり、イ ギリスとは最短ではないが商港としては最も重要な港湾であった。ただし、海峡が狭く、海 流が早く、干満差が大きく、通航する船舶数が非常に多く、風・濃霧など気象条件が悪い。 このような海域を出入りするダンケルク港は、宿命的に海難事故が多い。2002 年、ノルウエーの自 動車輸送船とバハマ船籍の貨物船が衝突して沈没し、翌日沈没船にドイツの船が衝突して航行 不能となるなど、レーダーでも回避できない事故が近年でも起きている。 ダンケルクは第 2 次大戦中に徹底的に破壊された町であるが、それには他とは異なる事情も あった。いわゆる「ダンケルクの戦い」である。これは西部戦線に展開した大規模なイギリス軍と フランス軍が、1940 年 5 月の「電撃作戦」によって分断され、退路を断たれた結果ダンケルク港から イギリスへの脱出を決行した「戦い」(ダイナモ作戦)で、35 万人の兵員を帰国させたが、ドイツ軍の 攻撃で多くの犠牲を出し、町も破壊された。ドイツ占領後は逆に連合軍からの砲爆撃の目的 とされた。すでにブルターニュとノルマンディの切手として見たように、1945 年に戦災復興のための 高付加金つきの切手 4 種が発行されたが、ダンケルク YT-744 はサンマロ、カァン、ルーアンと並んで取り上げられた。 右下の切手 YT-1317 はダンケルク 300 年の記念切手で ある。ダンケルクは 17 世紀中葉スペインの支配下にあった が、1657 年のイギリスとの戦争でスペイン国王が捕虜とな り、翌年のダンケルクの戦い(チュレンヌが英仏軍を率いた)の 和平で王の身代としてイギリスの手に移った。フランスはそれを 1662 年にチャールズ 2 世から 32 万ポンドで買ったのである。この買い物 から 300 年を記念したのがこの切手である。復興を遂げたダンケ ルクの住宅と鉄鋼を中心とする工業施設とクレーンと船舶の図であっ て、ここには上の戦火にまみれた鐘楼などは描かれていない。 町全体がかつてのフランドルの美しい景観を取り戻すのはもう少し あとのことである。切手も 1970 年代から、とくにフランス郵趣団体 連合がノォル・パドカレ地方での全国大会開催に力を入れるようにな ってから発行されるようになった。まず、1977 年のカーニヴァルの写 真で市庁舎広場の賑わいを見てほしい。左は第 53 回全国大会の ©bibliotheca philatelica inamoto 3 記念切手の市庁舎である。YT-2088 画面左手は港湾のクレーン群であろうか。中央は、第 71 回大会が再度ダンケルクで開催された時の記念切手でデザインは盛りだくさんだ。大きな像は、 ノォル地方の名物の「巨人」Géant du Nord である。お祭 りとなると必ずこの「巨人」の行列・行進がある。切 手の「巨人」はルーズ・パパと呼ばれている名物男。背 景手前は灯台船、背後は鐘楼 Beffroi(ユネスコ世界遺産)と サンテロワ Saint-Eloi の教会である。YT-3164 港湾の側か らの市庁舎の後姿の写真もあったので添付しておく。 ダンケルクの郵趣団体は熱心さで知られているが、1984 年の青年 切手展を招致し、その記念切手が切手芸術大賞となった YT-2308。 彫版者は著名なクロード・アン ドレットで、自分の娘 2 人を 描いたと言っている。そう し た ら生 存中 の人 間 は大 統 領 を除 いて 切手 に して は な らな いと いう 法 令に 反するではないか、と余計な事を言う輩が現れ、本当に娘なの か調査すべきや、とうるさくなった。例のレンヌの暇人に見解を尋ねたところ、もう 25 年も たてば「比較は困難」であろう(mais les petites doivent être bien grandes maintenant, ce qui complique le comparaison)というよくわからない ような、わかるような返事であった。5-1-3 【5-1-4 リール】 次は、地域圏の首都人口 23 万人 (都市圏としては 116 万人)の大都市(フランスで 10 番 目)リール Lille である。右の写真は市庁舎と鐘楼とい ©bibliotheca philatelica inamoto 4 う代表的な景観である。 戦後すぐの時期(1949 年)にパリで国際電信電話会議が開催されたとき、航空切手として大 判のパリの切手(グランパレとアレキサンダー 3 世橋 YT-A28 )と ともにリール、ボルドォ、リヨン、 リールの切手が発行された。リ ールは 100 フラン切手であった YT-A24。 1982 年は鐘楼の年とされ、 当然にリールのそれが切手と なった YT-2238。 フランス郵趣団体連合の全国 大会は 1993 年に開催され、 記念切手のテーマは LGV によ る TGV の開通であった YT-2811。フランスの新幹線の略 称 TGV は、正しくは超高速走行列車であってこれに は専用線 LGV(Ligne de Grande Vitesse)と在来線使用 とがある。パリからリールを経てベルギーのブリュクセルへ、またリールからパドカレ、マンシュ海峡トンネルを経 てイギリスのロンドンへ向かう TGV は専用線である。 比較のため古い鉄道の切手はいかが。これはリールで はないが、それほど遠くない南東の町ヴァレンシエンヌとフラ ンス東部モゼル県チオンヴィル Thion-ville を結ぶ石炭・鉄鋼輸 送 鉄 道 の 電 化 完 成 を 祝 う 1955 年 の 切 手 で あ る YT-1024。強力なモーターを具えたアルストーム社の CC14000 型で、先行モデル BB12000,13000 と同様にニックネームがつ けられているが、この製鉄用資材運搬機関車は「鍛鉄 号」fer à repasser と名付けられた。鉄道と製鉄を掛け た名である。 リールは 2004 年にも切手となった YT-3638。 これは、 イタリアのジェノアとともにヨーロッパ文化都市に選ばれたこと の記念であるが、この種の選考は二番煎じのきらいが あり、選ばれてどうということはなさそうだ。それよ りも、左のリールのトラムカーは最先端を行くデザインでないところ がよい。一部郊外にも走って行ってホッとしているような ところがよい。しかし、切手にはなりそうもない。5-1-4 【5-1-5 ドウェ】 地方都市に移る。リールから南に少し下ったとこ ©bibliotheca philatelica inamoto 5 ろがドウエ Douai だ。ここにも有名な鐘楼がある(左) YT-1051。 ところで、ドウエといえばこ この「巨人」は、つとに有名である。最も古いのは 16 世紀からの「ゲイヤン家」の一家と言わ れるもので、それが切手の絵になった。夫婦と 3 人の子の 5 体からなる。夫 Jehan Gelon は Cantin の領主で 9 世紀にノルマン人に攻囲さ れたドウエを救った。妻は Marie Cagenon、 子は Jacquot, Fillon, Bimbin という。こ れを担いで行列をつくって行進する。50 人掛りで、手元の資料によれば儀典長 2 人、太鼓 2 人、担ぎ子 22 人、募金長 1 人、 (募金の)受け子 23 人である。担ぎ 子になるには、担ぎ子の誰かと血族関係 があり、徒弟として受け子を数年経験し ていなければならない。 「領主ゲイヤン」は 高さ 8.5m、重さ 370kg、 甲冑の中に隠れる担ぎ子 6 人が必要である。「奥方カジュノン」は 6.25m、 250kg だがスカートの下に 6 人が入る。子は大小があるが、3.4-3.1m、45-80kg で 1 人で担げる。 この家族の周りを馬の胴をつけた投石隊が囲み、最後に「ローズ姫」「スイス傭兵」 「農民」 「銀行 家」 「軍人」 「目隠しをした幸運の女神」の回転する 6 体をのせた山車が続くのである YT-2076。 5-1-5 【5-1-6 ルケノア】 ノォル県の地方都市に歴史的な建造物を訪ねる。まず、ルケノワ Le Quesnoy の町で はよく保 存された 城郭を見 よう。ベ ルギー国境 ま で 10km ほ どのと ころに ある町 だが、その鐘楼と城郭の正門 Fauroeulx、それにつながる Vauban 湖のわたり橋、それらが 1 枚の絵に描きこまれて切手となっている YT-1105。 この 8 フラン切手(くすんだ緑)と同一のデザインで色調が異なる 15 フラン切手(セピアと青 緑)YT-1106 が同時に発売された。これはフランスにおいては極めてまれな発行形態である(金額 の異なる 2 種を同時に発行するときはデザインそのものを変えるのが通常である)。描かれた 城郭には前頁右の写真のようなルリエフが設置されている。これは第 1 次大戦のとき連合国と ©bibliotheca philatelica inamoto 6 して参戦したニュージーランド軍がケノワを独軍の手から解放する上で戦功があったことを記念す るモニュメントであった。5-1-6 【5-1-7 修道院など】 右の切手 YT-1948 は、Saint-Armandles-Eaux の大修道院の鐘楼である。修道院自体はフランス革命まで 存続したが、今は 1846 年に歴史的記念物に登録されたファサドと 高さ 100mの鐘楼のみが残る。鐘楼は基部から頂上まで彫刻で 覆われている。 左は、1131 年にサン・ベル ナールによって 12 世紀に定 礎されたシトー派のヴォーセル 修 道 院 Abbaye de Vaucelles である。当時は、 北フランスで最大の建造物であったようだが、フランス革命 以降は廃墟の状態で 20 世紀初めに国が買い取って 復元作業を進 めている。写真は復元された僧院内部を撮影したもの だが、切手の絵図は昔の 絵図をもとに彫版され たものだろう YT-2160。 左は、デスケルベクの城館 Château d’Esquelbecq で ある。正方形の城壁と 8 つの塔からなる美しい城のよ うであるが現在は崩壊した部分の修復などで公開さ れていない。ホームページを見ると、正面のグリルから庭の 一部と鳩小屋とコンシエルジュリーを覗くことができるだけ のようである。1984 年に付 属の土地を含めてすべて が歴史的記念物に指定さ れたようだが、それに先立って観光地シリーズ 7 点の 1 つとして切 手が発行された YT-2000 。 なぜ、デスケルベク城が選ばれたか。切手になると観光客が殺到す るのが通常だから、非公開であっても切手にすべき特別の事情が あったようだが、それが何であるかわかりにくい。ここでは、や むなく鳩小屋(上右)をかかげた。かなり立派な鳩小屋である。 5-1-7 ©bibliotheca philatelica inamoto 7
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