死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません

1999 年 9 月 5 日(主日説教)
『主が共におられますから』
説教:
「趙鏞基(チョー・ヨンギ)牧師」
本文:
「詩篇 23 篇:4 節」
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともに
おられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
今日、私は皆さんたちとご一緒に『主が私と共におられますから』と言う題目でお恵みを分かち
合いたいと思います。
聖書の旧約「ヨブ記 5 章 7 節」に、
『人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。
』と
記録されています。このように、私たちが願おうが願うまいが、火花が上に飛ぶように、人は苦し
みに会うために生まれたのだと言う事です。
人生のすべてが不確実であり、不安です。そのような中で大小様々な試練がいつも、私たちの傍
をくるくる駆け回っています。私たちは、どこから心の慰めとまことの平安を得ることができるで
しょうか?
今日、神様が与えてくださった「詩篇 23 篇 4 節」の御言葉は、私たちに大いなる慰めと平安を
与えてくださる貴重な真理の道に、私たちを導いてくださることができます。
第一、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。
この聖書の御言葉、
『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。』と言
うこの御言葉を、私たちが一度心のとびらを開いて深く、詳細に、考えてみたいと思います。
聖書には、「死の陰の谷」があると言われました。私はイスラエルを旅行するときに、ユダヤの
荒野で「死の陰の谷」と言う渓谷に行って見たことがあります。どんなに渓谷が深く、険しかった
か知れません。欄干にしっかりと寄りかかって下を見下ろしたのですが、怖く、眩暈がして、到底
長くは見下ろしていることができませんでした。直ぐにも吸い込まれるように、まっさかさまに落
ち込みそうでありました。
皆さん、昔、私たちが「カンヌン」
(江陵)に行く途中に「ジンブリョン」(陳富嶺)と言う峠を
くるくる回りながら越えることになりますが、そのとき、下の渓谷を見下ろしてからは、
「私が生き
て戻って行くことができるだろうか…?」と凄い恐怖を感じました。そんなにもその渓谷は深く、
険しく、恐ろしかったのです。今もそのときのことを思い出したら、背筋が寒くなります。それこ
そ「死の陰の谷」です。
ところが聖書は、私たちが「死の陰の谷」を歩くことがある、そのようなときが近づいて来ると
言うのです。
皆さん、私たちが罪悪の死の陰の谷を一回見下ろして見ましょう。真っ暗い罪悪の死の陰の谷に
落ち込んで、そこで彷徨うと言うことは、恐ろしく、戦慄を感じます。
また、貪欲の死の陰の谷を一回見下ろして見ましょう。保険金を貰おうとして、9 歳の子どもを
殺してからは火で焼く、貪欲の恐ろしい死の陰の谷を見下ろして見てください。私たちが、そのよ
うな貪欲に捕らわれたら、到底人としてはすることが出来ないことをするようになるのです。眩暈
がし、恐いです。
または、疾病と苦痛の死の陰の深い谷を見下ろして見てください。耐えられない恐ろしい病気に
罹って 24 時間、苦しみと悩みに遭うその苦痛の死の陰の谷を見下ろしたら、慄き震えざるを得なく
なります。
または、悲しみと絶望の深い死の陰の谷を見下ろして見てください。到底耐え抜くことのできな
い挫折と絶望、沈鬱と悲しみに陥ってあえぐその深い谷底、とても抜け出ることができない、その
ような絶望の底に一回入って見てご覧下さい。
そうでなければ、失敗と窮乏の死の陰の谷を一回見下ろして見てご覧ください。眩暈がするはず
です。事業が崩壊し、職場を失ってしまい、生きて行く方法が全くなく、天と地のどこへ行って見
ても拠り頼むところがない、そのような失敗と失望と挫折の深い谷底を見下ろしていたら、眩暈が
します。
しかし最後に、死の谷を見下ろして見たら、そこは本当に絶望です。どこから来てどこへ行くの
か知らないまま、死の陰の谷を見下ろすとき、そこに降りて行った人はみな戻って来たことがあり
ませんので、どんなに恐ろしいか知れません。
私たちは人生を暮らして行きながら、色々な大小の死の陰の谷を通らざるを得ません。その谷間
の入り口に足を踏み入れた瞬間、私たちは身震いし絶望します。聖書を見ますと、死の陰の谷を歩
くときには、必ず災いに遭うと言うのです。そのまま死の陰の谷を歩くことは問題がありません。
しかし死の陰の谷を歩くようになれば、私たちは災いに遭うようになるのです。
死の陰の谷を歩く間、良心の苦しみの災いに遭う恐れがあります。良心が責めることを犯して死
の陰の谷を歩かなければならないので、良心の苦痛に遭う、そのような恐れがあるのです。
死の陰の谷を歩く間、この世で積み立てて置いた名誉をすべて失ってしまって、人たちから指差
されながら嘲笑われる辱しめと侮辱に遭う、そのような恐れが襲います。或いは死の陰の谷を歩く
間、肉体的な苦しみと不安とに襲われる、そのような恐れもあります。
または、果てしなく遠く、希望が全くない、精神的に真っ暗闇の夜に見舞われる恐れもあります。
或いは、死の陰の谷を通るとき、完全に捨てられて、自分ひとりで侘しく歩いて行かなければなら
ない、そのような恐れもあります。または、存在自体がなくなってしまう、そのような恐れに身震
いすることもあります。完全に自分がなくなってしまう苦悩、恐怖…、このような災いにも遭うよ
うになるのです。
従って、死の陰の谷を歩くと言うことは決して楽しい体験ではないのです。それは恐ろしく、苦
しく、辛い体験なのです。そうであるのにも拘わらず、私たちは人生を生きて行きながら大小様々
な死の陰の谷を歩くようになっているのです。
それでは、死の陰の谷を歩くとき、どうしたら私たちは災いに遭わず、傷を負わず、無事に通り
過ぎることができるか、と言うことです。
第二、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから。
第 2 番目に、私たちが注目しなければならないことは、「私は災いを恐れません。
」と記録されて
いることです。イエス様を牧者としている人は、死の陰の谷を歩くことがあっても、災いを恐れな
い、と言うのです。それは、死の陰の谷を歩くとき、すべての人たちがみな離れ去って行って捨て
られたと言う絶望の夜が襲ってきます。そんなときに、突然私たちの傍に現れたひとりのお方がお
られます。それはイエス様です。主が私たちと共におられると言うことなのです。
これは私たちに大きな救いとなります。死の陰の谷を歩くときに、すべての人たちがみな私たち
の傍を離れて行きます。父母、兄弟、一家親戚、友だちまでもみな離れ去って行きます。自分自ら
も自分を捨てる心情になるのです。そのような絶望的なときに、私たちの傍に近づいて来られて私
たちを捨てられず、離れて行かれず、共に居てくださるお方がおられれます。それは私たちの主イ
エス様なのです。
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。
」と主が仰せられました。また、
「見
よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あたたがたと共にいます。
」と主は仰せられました。私た
ちの主イエス様は私たちより先立って、この死の陰の谷を通って行かれながらすべてに勝たれたお
方です。イエス様は十字架で死なれてからよみがえられることによって、そのような偉大な勝利を
もたらしました。主は罪悪の死の陰の谷を平地にしてしまわれたのです。
主は、私たちより先立って死の陰の谷を通られながら、そこに赦しと義を満たして平地にしてし
まわれたのです。「テトスへの手紙 3 章 6 節~7 節」に、
『神は、この聖霊を、私たちの救い主なる
イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリスト
の恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。
』と記録され
ています。
主は、死の陰の谷を私たちに先立って通られながら、赦しで埋めてしまわれ、義で埋めてしまわ
れました。イエス様を信じる人たちは、死の陰の谷を歩くことがあっても赦しと義の平坦な道を歩
いて行くようにしておかれました。イエス様は貪欲の死の陰の谷を通って行かれながら、それを平
地にしてしまわれました。
「詩篇 23 篇 1 節」
に、『主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
』
と記録されています。
主のうちにあって私たちがまことの満足を得ましたので、貪欲に引っ張られて行かないように、
主は貪欲の死の陰の谷を埋めてしまわれました。
「マタイの福音書 6 章 33 節」に、『だから、神の国
とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられ
ます。
』と記録されています。人たちが貪欲の誘惑に溺れこんで行かないように、主がその対策を樹
立しておかれたのです。
疾病の死の陰の谷、苦しみの死の陰の谷を、主は先立って通って行かれながら平地にしてしまわ
れました。癒しと平安で満たして平地に作り変えてしまわれたのです。
「ペテロの手紙第一 2 章 24
節」に、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪
を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたので
す。』と記録されています。主は、死の陰の疾病と苦しみの谷を通って行かれながら、癒しと平安で
その谷を埋めてしまわれたのです。
ですから、私たちは主イエス様に拠り頼んで、癒しと平安の確信を持って疾病と苦しみの死の陰
の谷を悠々と勝利の歩みで通り過ぎることができるのです。また、悲しみと絶望の死の陰の谷を主
は平地に作り変えておかれました。それで私たちは、悲しみと絶望の死の陰の谷も希望と喜びと歓
喜の歩みで通り過ぎることができるのです。
「ヨハネの福音書 16 章 24 節」に、
『あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたこと
はありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたもの
となるためです。
』と記録されています。主は、悲しみと絶望の死の陰の谷を喜びで埋めてしまわれ
たのです。
「詩篇 16 篇 11 節」に、『あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には
喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。』と記録されています。主と共に歩い
て行くところには悲しみの死の陰の谷も喜びの平地となってしまうのです。
主は、死の陰の谷を平地に作り変えられました。それはよみがえりといのちで死の陰の谷を埋め
てしまわれたからです。
「ヨハネの黙示録 21 章 3 節~4 節」には、『そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うの
を聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、
神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もな
く、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。
」』と
記録されています。
死の陰の谷が私たちに近づいてくるとき、私たちがそれだけを見つめたら戦慄し、身震いし、恐
れるでしょうけれども、早くイエス様を見つめるようになったら、既にイエス様が先立って死の陰
の谷を通られながらよみがえりといのちで平地にしてくださったのを見ることができるようになり
ます。従って、私たちが死の陰の谷を歩くことがあっても災いを恐れないのは、主が共にいてくだ
さるからなのです。
イエス様が共に居てくださらない人は、災いに遭います。イエス様が共に居てくださらない人は、
あらゆる傷を負うようになり、苦しみと絶望の目に遭うようになるのです。しかし、イエス様が共
に居てくださる人には、イエス様が既にその死の陰の谷を私たちに先立って通られながら、それら
をすべて埋めて平地にしてしまわれたので、何の苦しみにも絶望にも遭うことがありません。です
から、私たちクリスチャンには、死の陰の谷は虚像であり、イエス様は実像です。
イエス様の御手を握って共に歩めば、私たちが険しい死の陰の谷だと思われるところがみな、通
って見たら平地となっていることを知るようになります。それで、私たちは災いを恐れないように
なるのです。私たちは罪悪の死の陰の谷も赦しと義の平地として歩き、貪欲の死の陰の谷も満足の
平地として歩くようになります。疾病と苦しみの死の陰の谷も癒しと平安の平地として歩くことが
できるようになり、悲しみと絶望の死の陰の谷も喜びと歓喜の平地として歩いて行き、失敗と窮乏
の死の陰の谷も幸いと祝福の平地として歩いて行けるようになります。また死の谷もよみがえりと
いのちの平地として歩いて行くことができるようになるのです。
ですから、イエス様が私たちに先立たれて十字架で死なれ、死の陰の谷を通られてよみがえられ
たことによって、イエス様を信じる人たちのために死の陰の谷を平安の平地にされたことを知って、
私たちに近づいて来る大小様々な死の陰の谷を歩くようになるとき、その険しい谷を見つめず、私
たちと共におられるイエス様を見つめ、イエス様の御手を握って歩けば、私たちは平地を歩いて行
くようになるのです。
第三、共におられるイエス様
第 3 番目に、私たちと共におられるイエス様がなぜ、私たちに平安を与えてくださることができ
るかと言うことです。イエス様は私たちの避けどころであり、私たちの砦(とりで)であるからな
のです。
「詩篇 18 篇 2 節~3 節」に、
『主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、
わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、
敵から救われる。』と記録されています。
皆さん、櫓や砦は、敵が攻め寄せて来ても難攻不落の城としての役割をするものです。いくら敵
が攻撃しても崩れない要塞を言うのです。ところが、イエス様が私たちには要塞となられると言う
のです。私たちが人生を生きて行くとき、数多い敵軍が私たちに攻め寄せて来るとしても、イエス
様が私たちの避けどころ、砦、要塞となってくださると言うのです。
ですから死の陰の谷を歩くとき、数多い敵たちが私たちに攻撃して来ても、私たちがイエス様の
もとに避難したら、イエス様は私たちを守ってくださる要塞となってくださるのです。それで私た
ちが自分自身をイエス様に完全に委ねて、イエス様の背後に隠れていたら、そしてイエス様だけを
見つめて拠り頼んだら、イエス様が私たちを災いから守ってくださり、私たちの堅固な要塞となっ
てくださるのです。
「詩篇 91 篇 9 節~11 節」に、
『91:9 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あ
なたの住まいとしたからである。91:10 わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの
天幕に近づかない。91:11 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、
あなたを守るようにされる。』と記録されています。
ですから皆さん、私たちが死の陰の谷を歩くことがあっても、私たちの傍におられるイエス様を
発見し、キリストの背後に隠れたら、イエス様は皆さんと私を守る城となり、要塞となってくださ
るのです。イエス様の城と要塞を打ち破って攻めて来ることができる敵はないのです。
その上に主はもう一歩進まれて、主の鞭と杖で私たちをかえりみてくださいます。鞭は、羊を導
くのに使用されるものです。鞭は、主の知恵と聡明と明哲と力を言うのです。誰が主の知恵と聡明
と明哲と力に敵対して勝つことができるでしょうか。敵がいくら知恵をしぼっても、イエス様は予
めご存知になられて、その鞭で、その知恵と聡明と明哲と力で戦われて、敵を撃退させてくださる
のです。
また主の杖は、主の全知全能なる権能を言います。牧者は、獣が襲って来たら杖で打ちます。主
はこの杖で私たちを守ってくださるのです。
「ヨハネの手紙第一 5 章 18 節」に、
『神によって生まれ
た者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守ってい
てくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。』と記録されています。
イエス様は私たちの要塞であられますので、私たちがその中に隠れるとき、主は、牧者の鞭と杖
で敵に対抗して、敵が私たちに近寄ることができないようにしてくださるのです。ですから私たち
は安心して暮らすことができるのです。
聖書に、『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私
とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。』
と記録されています。
どのような死の陰の谷を歩くことがあっても、イエス様を要塞としてそこに避難したら、主の鞭と
杖が私たちを守ってくださいますから、私たちは心の中に大きな平安をもって暮らすことができま
す。
イエス様を信じ、拠り頼む人だけがこの世を暮らしながら、真実で、深い心の平安を保つことが
できるのです。この世の中には何事も確実なものがありません。すべてのことがいつも揺れ動き、
渦巻き、変化します。それで私たちはいつも身辺が不安であり、慰めてもらえるところがありませ
ん。従って、権力を握ってそれに拠り頼むか、お金を儲けてそれに拠り頼むか、父母・兄弟・親戚・
親友に拠り頼もうかとして人たちは力いっぱい努めますが、このようなものは信頼することができ
ません。
「詩篇 146 篇 3 節~4 節」に、
『君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。その息
が絶えると、その者はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。
』と記
録されています。人がこの世の中で拠り頼むことができるものは何もないのです。しかし、ひとえ
にイエス様を知り、イエス様のところに避けたら、そしてイエス様に拠り頼み、イエス様の鞭と杖
で顧みていただくことを信じるときに、私たちの心に大いなる慰めが近づいて来るようになるので
す。
天が崩れ、地が消え去っても、主の御言葉は一点一画も変わることがありません。天と地のすべ
ての権力を持たれた私たちの主イエス様が、私たちの避けどころ、私たちのとりで、私たちの要塞
となってくださり、イエス様がその中で知恵と聡明と明哲と力で、全知全能なる権勢で、私たちの
為に戦ってくださり、守ってくださることによって、私たちがキリストに拠り頼んだら、そしてこ
の知識を持っていたら、私たちは心に平安を持つことができるのです。
「ローマ人への手紙 8 章 35 節~39 節」に、
『8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれ
ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなさ
れた。」と書いてあるとおりです。8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。8:38 私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、8:39 高
さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私た
ちを引き離すことはできません。』と記録されています。
私たちのためにその身を裂かれ、血を流してくださったイエス・キリスト、限りない愛を施して
くださり、私たちを召されてふどころに抱いてくださったこのイエス・キリストが、私たちが死の
陰の谷を歩くとき私たちと共に居てくださり、私たちの櫓、砦、避けどころ、要塞となってくださ
って、私たちがイエス・キリストに拠り頼み、私たちが彼の背後に隠れていたら、限りない御力の
鞭と杖で私たちを守ってくださるのです。
このイエス様を知り、このイエス様を見つめ、その後ろに隠れている私たちは、心の中に無限の
慰めと平安で満ち溢れるようになるのです。イエス様が私たちの牧者であられる、と言うことがい
かに大きな祝福であるかを私たちは悟らなければなりません。
イエス様を知らない人たちは牧者がない羊のように、山野を彷徨い、けものに噛み裂かれ、崖下
に落ち込んだりして傷つくか、
死ぬようになります。しかし私たちは牧者がない羊ではありません。
牧者であられる我が主イエス様が、私たちが死の陰の谷を歩くとき、人生のすべての苦しみ、失望、
挫折、大きな悲しみに遭っているとき、この世の友だちがみな私たちを捨てて去って行っても、主
は私たちを捨てず、私たちの傍に居てくださって、私たちの砦となってくださり、要塞となってく
ださり、避けどころとなってくださるのです。どんなに有り難いことか知れません。
ですから皆さん、人生を生きて行きながら大小様々な死の陰の谷を歩くようになったとき、その
死の陰の谷だけを見下ろして眩暈に襲われ、災いを恐れて慄き震えながら、不安と恐怖と挫折と絶
望に落ち込まないようにしてください。その死の陰の谷が近づいて来たら、皆さんの傍にイエス様
も近づいて来られる、と言うことを忘れないでください。
いくら孤独で侘しいところであっても、イエス様はそこに来て居られるのです。どの誰も、皆さ
んの傍にイエス様が訪ねて来られることを妨害することはできません。そのイエス様が手を伸ばし
てくださりながら、
「わたしがあなたの砦です。巌です。避けどころです。要塞です。わたしの後ろ
に隠れなさい…。」と言われるのです。イエス様は、その全知全能なる御力と、知恵と、聡明と、明
哲とで敵と戦われ、全能なる杖で敵と戦われて、私たちが災いに遭わないようにしてくださるので
す。
ですから、イエス・キリストを見つめるとき、私たちの心の中に慰めと平安と喜びが満ち溢れる
ようになるのです。この牧者イエス・キリストを見つめながら生きて行く人は、決して災いを恐れ
ないようになります。この牧者イエス様は皆さんと私を導いて、緑の牧場に伏させ、憩いの水のほ
とりに伴われて水を飲ませてくださり、私たちのたましいを生き返らせてくださり、義の道に導い
てくださるのです。
そしてまたイエス様は、私たちを永遠なる父の家に導いてくださる良き牧者であられるのです。
私たちの牧者であられるイエス様は、私たちの為に死なれてからよみがえられて、死の陰の谷を既
にみな埋めて置かれた勝利者となられたのです。
ですから皆さんは、寝ていようが覚めていようがイエス様を思い、イエス様に礼拝し、イエス様
に仕え、イエス様に拠り頼み、イエス様の背後を避けどころとしてください。そうするとき、皆さ
んはどのような立場に置かれても災いに遭わないようになるのです。心に大きな平安をもってこの
険しい世の中を悠々と生きて行くことができるようになるのです。
皆さん、一緒に大きく声を出して奉読しましょう。『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、そ
れが私の慰めです。
』
このイエス様を救い主とし、牧者としたなら、
「アーメン!」と応えてください。
そうだとしたら、驚かず、恐れないでください。皆さんは、人生の谷を歩いて行く間、キリスト
と共に余裕を持って、勝利の毎日を暮らして行くことができます。
~祈祷~
愛であられ、聖き、我が父なる神様! 私たちは絶えず大小様々な死の陰の谷を歩くようになり
ます。谷底に下りて見回すとどんなに深い谷なのか眩暈がします。
真っ暗で、黒雲でいっぱいです。前後が全く見えません。その死の陰の谷を目の前にするとき毎
に、私たちに襲って来る災いが怖くて私たちは身震いするだけです。
全知全能であられる、我が天のお父さま! しかし、私たちが突然として私たちの前に現れられ
るイエス様を見つめるとき、私たちから恐れは去ってしまいます。イエス様は私たちのために、そ
の死の陰の谷を私たちに先立って通られた私たちの牧者であられ、その死の陰の谷を平地にしてし
まった偉大なお方であることに心より感謝申し上げます。
主であられる、我が神様! キリスト・イエスのうちにあれば、死の陰の谷も赦しと義の平地に
なってしまいます。イエス・キリストにしがみついていたら、悲しみの死の陰の谷も喜びの平地と
なってしまい、疾病の死の陰の谷も癒しの平地となってしまいます。また、呪いの死の陰の谷も祝
福の平地となってしまい、死の谷もよみがえりといのちの平地に変化されてしまいます。
イエス様こそ、私たちの避けどころとなり、私たちの巌、砦、要塞となります。イエス様にはど
の誰も敵いません。イエス様の鞭は知恵と聡明と明哲と力の鞭であり、イエス様の杖は全知全能な
る杖です。
このイエス様の鞭と杖に勝つことができる武器は、この世にはありません。この世にはイエス様
に打ち勝つことができる力の持ち主は全くありません。
「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」
と言われたイエス様が、私たちの牧者として私たちと共に居られます。
父なる神様!
このイエス様を信じ、このイエス様に仕え、このイエス様を愛し、このイエス様
に拠り頼んでいる私たちに、限りない平安を持つことが出来るようにしてくださって有り難うござ
います。
こんにち、平安がなく、この世の風に吹きまくられて不安におののいている人たちが皆、イエス
様のふところに抱かれるように助けてください。
すべてイエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!
(twkim 訳)