天安門事件 その日の整理部

天安門事件 その日の整理部
■新編集講座 ウェブ版
第29号
2015/6/1
毎日新聞大阪本社 副代表(元編集制作センター室長)
三宅 直人
1989 年 6 月 4 日に起きた 「天安門事件」 から 26 年。中国現代史の一大事件から四半世紀以上が経過し、最近の
新入社員には、事件後に生まれた人もいます。私自身は発生の日に、大阪本社整理部(現・編集制作センター)の
一員として、リアルタイムで事件の一報を聞きながら紙面を作りました。その日の職場の模様をお伝えします。
《天安門事件》 89 年4月から北京・天安門
■ 宇野内閣発足の直後
前日の6月3日は土曜日でした。私はその日の夜に制作する翌日
朝刊(4日付)の当番で、お昼過ぎ、堂島の大阪本社旧社屋=写真=
に出勤しました。確か3面の担当だったように覚えています。
当時の国内は、リクルート事件で竹下内閣が崩壊、宇野内閣が発
足したばかりでした=右図①は当日3日の朝刊(大阪本社最終版、以下同じ)。
旧題字を使っていたころの古い話で、記憶はあいまいですが、4日
付朝刊の早版は、政局が1面トップだったような気がします。
中国情勢も緊迫。民主化デモや座り込みが勢いを増す北京には、
既に戒厳令が敷かれていました=右図②は5月20日朝刊。人民解放軍の
広場を中心に学生や知識人の民主化要求運動が
繰り広げられ、6月4日未明に軍が武力鎮圧し
た事件です。中国政府は死者数を 319 人として
いますが、異論もあり、実態は不明です。
堂
島
の
大
阪
本
社
旧
社
屋
戒厳部隊が北京中心部へ移動中との情報もありましたが、3日夜に
なり、社内は「今日も無事だった」という雰囲気が漂っていました。
図
①
■ 「軍が市民に発砲した!」
それが、時計の針が午前0時を回り、日付が4日に変わったあた
りから様相が一変。「軍が天安門広場に向かった」「学生に襲いかか
っている」という情報が、次々と舞い込み始めました。大変な事態
になったのは確かなようですが、全容が全く分かりません。
当時、特派員だった上村幸治氏(故人)の著書「中国
権力核心」
(文芸春秋)によると、氏は未明の北京を駆け回り、眼前で若者が
兵士に射たれる場面など、生々しい鎮圧の現場を目撃したそうです。
当時の私たちは、そうした詳細を知る由もなく、
「軍が学生に発砲
した」
「水平撃ちしている」と、東京本社から興奮した口調で伝えら
れる断片的な情報を基に、紙面の全面的な変更を決断しました。
1面には「戒厳軍が市民に発砲」
「天安門広場に突入」の大見出し。
軍の突入を防ぐため市民がバスに乗り込んで作った「人間の壁」の
写真を大きく扱い、現場の雰囲気を伝えました=右図③は 6 月 4 日朝刊。
早版で1面に掲載していた政局の連載企画は、急きょ3面に回し
ました。3面担当だった私は、他の記事を短く削って政局企画を押
し込むスペースを作ったと思うのですが、ほとんど記憶が飛んでい
ます。当日出番の編集者総動員で朝刊最終版を作ったのでした。
(
左
)
図
②
(
下
)
図
③
■ そしてホメイニ師も死んだ
朝刊最終版を印刷に回してから1時間ほど経った4日午前3時。
「交換紙」と呼ばれる他社の朝刊最終版が届きました。普段は他紙
の特ダネチェックが仕事ですが、この日はどの新聞も天安門事件を
大きく扱っています。各紙をざっと見た後、帰路につきました。
午前中いっぱい休んだ後、昼過ぎに再び出勤しました。今日は日
曜日ですが、カレンダー通りには休めないのが編集者稼業です。
この日に作る朝刊(翌5日付)は、当然、天安門事件で大展開。
1面や他の面のメニューを検討して作業に入ったのですが・・・。
ビッグニュースが飛び込んできました。イラン・イスラム革命の
立役者だったホメイニ師が死去したのです。通常なら1面トップの
話です。さらに、シベリア鉄道が炎上し数百人が死亡の速報。リク
ルート事件の影響で注目された新潟県知事選もありました。大型ニ
ュースの洪水に、
ぼうぜんとするばかりでした=右図④は6月 5 日朝刊。
■ まるで「三国志」の世界
事件の発生直後、
「軍の内部で深刻な対立」という情報が流れまし
た。主に香港情報で、「軍同士
(
上
)
図
④
(
左
)
図
⑤
交戦の情報」=右図⑤、6月6日朝刊=
とか、「軍、正面衝突の危機」=右図⑥、6月7日朝刊=など、紙面で大
図
⑥
きく扱われました。まるで「三国志」の世界のような話です。
民主化をひいきする気持ちから扱いも大きくなったようですが、
現実には、軍の内戦は起こりませんでした。私は中国専門家ではな
く、正確な事実関係は分かりませんが、軍内に市民鎮圧への多少の
温度差はあれ、国を割る気はなかったと見るのが相当なのでしょう。
価値判断をする際、冷静になることの必要性を痛感しました。
■ 冷戦崩壊は止まらず
こうして天安門事件は民衆側の敗北に終わりましたが、東欧の社
会主義諸国では、ソ連のゴルバチョフ議長(当時)が進めていたペ
レストロイカ(ロシア語で「再構築」の意、市場経済導入や共産党
図
⑦
(
東
京
本
社
版
紙
面
)
一党支配の否定など大規
《1989 年》 天安門事件やベルリンの壁崩壊
のあったこの年。日本では 1 月 7 日に昭和天皇
が崩御、平成時代になり、4月に消費税が導入
されました。リクルート事件で竹下登首相が辞
任。歌手の美空ひばり、漫画家の手塚治虫、松
下電器(現・パナソニック)創業者の松下幸之
助、音楽家のカラヤンの各氏が鬼籍に入るなど、
内外で歴史的な年でした。連続幼女殺人事件の
宮崎勤元死刑囚逮捕もこの年。ちまたには「一
杯のかけそば」という美談(?)が流行し、Wink
「淋しい熱帯魚」がレコード大賞に輝きました。
模な改革)に触発された
民主化運動の波は止まり
ませんでした。
この年の 11 月には、
東西冷戦の象徴だったベ
ルリンの壁が崩壊 =右図
⑦、11 月 10 日夕刊。さらに
年末には、ルーマニアの
独裁者・チャウシェスク
体制が打倒されたのでし
た=右図⑧、12 月 23 日朝刊。
図
⑧
(
同
上
)