世界の矛盾が凝縮されるアフリカ Ⅰ ヨ ー ロ ッ パ の 世 界 分 割 の 対 象 と し て の ア フ リ カ 1870年代から第一次大戦の開始に至る数十年間は「帝国主義の時代」と呼ばれる。帝 国主義→一つの国家が特に経済的利益を求めて、政治的・経済的・軍事支配を他の社会や 領土に拡張していくイデオロギーや活動だ。特にアフリカは、ヨーロッパ諸国の帝国主義 的進出の対象となり、ヨーロッパ諸国はアフリカの富を競い合った。 19世紀か20世紀の転換期においてアフリカはヨーロッパ諸国によるジグソーパズル、 あるいはモザイク状態になった。1880年以前にはアフリカの分割は、さほど進行して おらず、沿岸地帯にのみヨーロッパ諸国は進出していた。ところが1890年代になると、 アフリカ大陸のほぼ全体がヨーロッパ諸国の分割の対象となった。 「暗黒大陸」「無主地」と呼ばれたアフリカ→ヨーロッパ帝国主義の領土分割の対象となっ た。帝国主義諸列強にアフリカへの関心をもたらしたのはスエズ問題である。1875年、 イギリスはエジプトの財政難に乗じて、エジプト・ムハンマド・アリー朝の太守から「ス エズ運河株式会社」の株式を買収、フランスとともにエジプトの内政に干渉した。188 1年、この干渉に反対して、反英、反仏のエジプト人軍人アフマド・アラービーが率いる 民族運動が起こった。イギリスはフランスに先んじて単独でこの乱を鎮圧し、1882年、 エジプトを事実上の保護国とした。 ※帝国主義諸列強にアフリカでの領土所有を決断させたのはコンゴ問題だった。コンゴで は、ベルギーの支援を受けるスタンレーの探検やフランスが支持するブラザの探検があっ た。他方、ポルトガルも海岸一帯の領有権を主張し、これをイギリスが支持するなど、コ ンゴ問題は現地のアフリカ人が関知しないところで国際問題化した。調停に乗り出したの が、ビスマルクで、1884年から1885年のベルリン会議において「コンゴ自由国(べ ルギー王の私領)」の成立と、ポルトガルのコンゴ北岸の領有が承認された。 ヨーロッパ諸国によるアフリカ沿岸地方の領有は保護条約締結をもって行われ、帝国主義 列強はアフリカ人首長のサイン集めに奔走した。領有の手口は、首長たちを欺いてサイン を収集するもの、武力征服などによるものだった。たとえば、ドイツはナミビア領有の際 にヘレロ族に絶滅戦争を行い、ヘレロ族人口は8万人から1万5千人に減少したと見積も られている。こうしたヨーロッパによる征服戦争は、アフリカ大陸全体で見るなら第一次 世界大戦直前までに一応終了したが、アフリカで残った独立国はエチオピアとリベリアの みという状態になった。エチオピアは高地に孤立し、リベリアは、実際はアメリカの傀儡 国家として、その保護下に置かれた。 Ⅱ ア フ リ カ の ナ シ ョ ナ リ ズ ム と 紛 争 ヨーロッパ諸国によって分割されたアフリカ諸国であったが、その独立への希求に重大 な契機を与えたのは、エジプトのナセルたち自由将校団による革命と、スエズ運河国有化 だった。 このエジプトのスエズ運河国有化に影響されて、1960年にアフリカの17カ国が独 立して、1960年は「アフリカの年」と呼ばれることになった。アフリカで独立的気運 がいっきに高揚していく。サハラ以南のアフリカで最初に独立を認められたのは、ガーナ 1 で、その独立の指導者であるエンクルマは、会議人民党を創設してガーナの独立運動を担 っていった。 アフリカ諸国→植民地主義から解放されて独立を果たしたものの、多くの矛盾を抱えるこ とになった。ヨーロッパ諸国が残した不自然な国境をもつため、多くの国が多部族的モザ イク国家であって、内部に重大な対立要因を抱え、特定の一次産品に依存した植民地型の モノカルチャア経済構造を引き継いで独立したため、これら一次産品の国際価格の変動に よって経済は大きく影響を受けることになる。一次産品価格が下落すれば、対外累積債務 も増大することになり、多くの国が最貧国ともいえる状態に陥っている。 経済的な閉塞感→アフリカの紛争を招く要因ともなっている。ほとんどのアフリカの諸国 は、統一性を欠いた多民族国家で、他の地域とは違ってアフリカの独立は、自決権の行使 によるものではあったが、自決権を行使したのはヨーロッパ諸国によって人工的に作られ た植民地だった。 アフリカの独立→民族自決ではなく、「植民地自決(colonial self-determination)」とも形 容されている。国民的統合が、独立した新興アフリカ諸国に共通の、差し迫った課題となっ たが、ザンビアの初代大統領K・カウンダは(1964~91年在任)は、「我々の目的は、 植民地主義者が全大陸を分割して作ったぶざまな加工品から、真のネイションを創り出す ことである」と語った。しかし、アフリカの場合、国民的統合は簡単ではなく、根強い民 族対立や地域意識が働いて、国民的統合を阻害したり、分裂要因となったりしている。 ※アフリカでは、90年代になってもルワンダやブルンジのツチ族とフツ族の対立による ルワンダ紛争、スーダンの激しい南北対立などは、アフリカ諸国における分裂状況の具体 的事例だが、アフリカではめずらしい単一民族とされる国ソマリアでも、90年代に入っ て分裂化傾向が表面化し、内戦が激化した。 スーダンのダルフール紛争→依然として不透明な状態に置かれ、ダルフールの反政府勢力 とスーダン政府との間の和平協定は2006年5月に締結されたものの、スーダン政府は 後にこれを拒絶して、2006年7月上旬よりダルフールの非アラブの武装勢力は首都ハ ルツームから400キロ離れたハラマト・アル・シャイフを攻撃した。2007年、スー ダン政府が国連・アフリカ連合(AU)合同平和維持舞台の受け入れを行い、和平への期 待を抱かせるようになった。 Ⅲ 中 央 政 府 の 権 威 が 失 墜 し た ソ マ リ ア ソマリア民主共和国→「アフリカの角」という北はアデン湾、また東と東南はインド洋 に面するアフリカ東部の突き出した地形部分に位置している。ソマリアの首都は、モガデ ィシュだが、地理的理由でソマリアは、古くから国際的交易の中心にあった。7世紀から 10世紀にかけてアラブ人、またイラン人商人たちがやって来て、沿岸部に交易の拠点を 設けるようになった。 イスラムの信仰→10世紀以降沿岸部で確立されるが、1939年にイギリスが対岸の イエメンのアデンを占領すると、北部は1884年にイギリスの保護領になり、南部は一 九〇四年にイタリア領になって、1936年には「イタリア東部アフリカ帝国」になった。 2 1940年にはムッソリーニのイタリアがイギリスのソマリアに侵入したが、翌年イギリ スはこれを奪回している。 第二次世界大戦後、イギリス支配が全ソマリアに及ぶようになったが、1950年に、旧 イタリア・ソマリアは国連による信託統治領になった。1960年7月1日に、アフリカ 独立の機運に乗じて北部と南部は合体して、ソマリア共和国として独立し、さらに196 3年にはケニアとの間で67年まで継続する国境紛争を戦った。1969年10月、軍部 のクーデターが発生し、バーレ将軍を中心とする革命評議会が政治の実権を掌握し、国名 も「ソマリア共和国」から「ソマリア民主共和国」となり、ソ連との親密な関係を築きあ げていく。 冷戦時代は、エチオピアとのオガデン紛争があり、ソ連がエチオピアを支援したため、バ ーレ政権は、ソ連からアメリカに友好関係をスイッチした。このバーレ政権も1990年 1月に反政府勢力の「統一ソマリア会議」によって打倒される。それ以来、ソマリアでは、 地方は氏族勢力の群雄割拠状態になり、国の統一が損なわれていった。これら勢力は互い に戦闘を行うようになったが、さらにその混迷を深めることになったのはソマリアの飢餓 で、およそ150万人が餓死寸前の状態になった。国連は、「希望の回復作戦」でソマリア の混迷を回復しようとしたが、この作戦は失敗して、米軍兵士に18人の犠牲者が出た結 果、米軍は94年に撤退する。 ブッシュ政権→「テロとの戦い」の舞台にソマリアを含めるようになった←というのも、 ソマリアもタリバン時代のアフガニスタンと同様に有効な中央政府が存在しないからだ。 一九九一年以降、国内は氏族を基盤とする武装勢力の独立化傾向が進み、91年に北西部 でソマリランドが、また98年には北東部でプントランドが分離独立し、さらに2000 年には南部でモガディシュを首都にする暫定政府が樹立された。ソマリアで強力な中央政 府の権威が確立されない場合、アメリカが危惧するように、ソマリアの「アフガン化」も 十分考えられる。職を失った漁民たちが海賊となる。 Ⅳ 苦 悩 す る ア フ リ カ 経 済 対外債務の返済に苦しむのは、アフリカ経済の特徴である。1970年代にアフリカ諸 国は、一次産品の価格が下がらないことを見込んで大幅な借り入れを行った。しかし、一 次産品の価格が下落すると、多くのアフリカ諸国は、その財政規模を維持するために、借 り入れを継続しなければならなくなった。 多くのアフリカ諸国→借款によって、農業生産力の向上、産業化、ダムや高速道路網など 巨大な建設プロジェクトに費やした。深刻だったのは無秩序な農業生産力の向上が図られ た点で、化学肥料が大量に使用されたことは土壌破壊につながった。さらに、農地拡大の ために森林伐採が行われ、生態系に多大な損害が与えられた。 アフリカ諸国の貧困層→森林に出かけては木材を伐採し、自分の家にもち帰って燃料とし たり、また農業生産を上げる資本を得るために、木材を売ったりした。しかし、その結果、 アフリカ諸国の砂漠化はいっそう進行していくことになる。また、構造改革による政府の 支出削減によって、貧困の撲滅や環境悪化への対策にますます予算が使われることがなく なった。アフリカ諸国政府が構造改革以前にも総じて環境問題に注意を払うことはまれで あったが、さらに環境の整備のための方策をとることがなくなった。 3 アフリカには依然として紛争の火種が絶えない←その紛争の要因の例として経済のグロー バル化に伴う多国籍企業の活動がある。アフリカ諸国政府は、その国土から生産される天 然資源から利益を得ようとするが、多国籍企業はほぼ例外なく、これらの資源の生産や購 入に関わっている。しかし、その経済活動がアフリカの人々の利益に役立っていないこと は明らかだ。 Ⅴ 紛 争 ダ イ ヤ モ ン ド と 多 国 籍 企 業 アンゴラはダイヤモンドの生産で知られているが、アンゴラのダイヤは、「血を吸うダイ ヤモンド、紛争ダイヤモンド」と形容されている。 ↓ ダイヤモンドから上がる収益→アンゴラにおける20年以上にわたる紛争を経済的に支え た。ダイヤモンドの原石から上がる収入は、ジョナス・サヴィンビが指導する反政府武装 組織UNITAの活動資金源となり、UNITAは戦闘遂行のための武器・弾薬を購入し、 戦争の泥沼化を招いた。ダイヤモンドがもたらすアフリカの紛争構造について知りながら、 「アメリカン鉱物フィールド(AMF)」や、世界の指導的なダイヤモンド会社である「ド ゥビアズ(De Beers)」はアンゴラとの貿易を継続した。アンゴラでは実に50万人の人々 が内戦で亡くなっている。 多国籍企業→1990代初頭より多国籍企業はその鉱山や石油採掘施設を守るために、民 間の警備会社と契約を結ぶようになった。これらの警備会社は、政府、あるいは反政府武 装勢力と結託して、多国籍企業の利益を最大限擁護しようとしている。 エクゼキュティブ・アウトカム(Executive Outcome:EO)→1995年にシエラレオー ネでの活動を開始したが、シエラレオーネ政府はRUFと戦闘するためにこの警備会社に 4億ドルを支払った。EOはアンゴラでも活動して、アンゴラ国軍を訓練し、政府が鉱山 資源を再奪取するための支援を行った。1993年にアンゴラの国営石油会社であるソナ ンゴルはEOと契約を行い、そのUNITAの攻撃に対する石油施設の防衛を依頼した。 アンゴラ政府は、3年間4千万ドルの契約を武器や訓練を供給するためにEOとの間で結 んだ。 イギリスの兵器売却業者である「J. & S. フランクリン」→「グルハ・セキュリティ・ガー ズ(Gurkha Security Guards)」という警備会社を使ってシエラレオーネの政府軍を訓練す る契約を結んだ。ガーズは、アフリカの他の戦闘地域でも天然資源を守るために戦闘行為 を行った。アフリカで活動する「ドゥ・ビアズ(De Beers)」、ロイヤル・ダッチ・シェル、 シェブロン、AMFなどの多国籍企業は、ジェット機の素材であるコバルトからも莫大な 利益を得るようになった。 アフリカ→鉱山開発や鉱物の流通で政府の腐敗が顕著となり、貧困、失業、社会不安、ま た公共サービスの欠如が支配し続けている。このために、アフリカでは人々が、自らの権 利獲得のために武器を手にするようになった。石油や、ダイヤモンド、銅などをめぐって 紛争が継続されている。こうした紛争はシエラレオーネ、アンゴラ、ナイジェリア、スー ダン、リベリアなどで見られ、アフリカの資源は、多国籍企業の経済的野心と結びついて、 アフリカのさらなる混迷をもたらすようになった。 4
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