ウマの輪郭 東京農業大学教職・学術情報課程 教授 木村李花子 1 .野にウマを見に行く 馬に会う ウマとそれにまつわる事象が私の専門となった背景 には、子供の日々に巨大な馬という生き物に直接触れ た、という恐怖にも似た感動の体験がある。 この動物を知る手段として、当時まだ目新しかっ た動物の行動や社会を研究する学問に取り組んだ。 フィールドは北海道自然放牧馬にはじまり、カナダ・ セーブル島の再野生馬、アフリカ・ケニアのグラント シマウマやグレビーシマウマ、インドのインドノロバ やチベットノロバなど、ウマ属の系統図を動物行動学 きむら りかこ 1959年生まれ。 東京農業大学農学部農学科 卒。 名古屋大学大学院生命農学研 究科博士課程(後期課程)修 了。 東京農業大学教職・学術情報 課程(博物館情報学研究室) 教授。農学博士。 馬の博物館、馬事文化研究所 (インド)を経て、現職。 専門分野:動物行動学、博物 館学、民族生態学 という磁石を携えて歩いてきたのかもしれない。 野生ウマの生きざま ウマ属動物の社会を構造の違いで分けると、ハレム 型と縄張り型に分けることができる。比較的湿潤な草 の匂い付け作業に忙殺され雄はゆっくり草を食べる暇 もない。糞や尿には多くの情報フェロモンが含まれて おり、また雄の尿には匂いの情報を隠蔽するクレゾー 原のような環境下で形成されるハレム型社会では個体 間コミュニケーションがよく発達し、特にハレム内に ル類が含まれていることも分かってきた。発情した雌 会性が認められる。モウコノウマやサバンナシマウマ の尿は雄の交尾行動を促す。糞には性別、発情、年齢、 出産経験などの、個体情報が満載されていて雄たちに とっての格好の標的になってしまうのだ。この匂いを などのハレム雄は敵雄と戦い、雌たちを管理するため ハレム雄は命がけで確認・隠蔽作業を繰り返すのであ に膨大なエネルギーを費やす。 一方、ノロバやグレビーシマウマなどは縄張り型社 る。匂いの世界とは個体を表出し、隠す、権謀術数、 は優劣関係にもとづいた順位制が存在するなど高い社 会に属する。それぞれの個体が殖兼採食地の土地を維 持する社会である。繁殖戦略としての囲い込む土地の 条件は、雌との出会いが多いか、あるいは出産と育児 に適しているかになる。乾燥した食草バイオマスの低 い土地では恒久的な群れは作られず、雌は雄の縄張り 目に見えぬ闘いの世界でもある。 2 .野に人を見に行く ヒマラヤを移動する人々 インドの野生ロバについては行動学の周辺が面白 い。移牧民や遊牧民等、つまりは移動する人々とウマ で一時的な関係を持つにとどまり、多くの縄張りを渡 り歩くなど、ハレム型の集団に対し基本単位は個であ 属動物の関係を調査する事が、家畜化や環境問題、グ ると言える。 しかしこの区別も可逆性を含んでいて、原拠である た。西部の塩性湿地や北部の山岳地帯が次なるフィー ルドである。 現在、インドの国立公園や野生動植物保護区の、実 バイオマスの変化により一般的には縄張り型と考えら ローバリズム等の是非に直接触れられる機会となっ れていたウマ属が、群れてコミュニケーション行動を 発達し始めた例もある。これをふまえれば「賢い馬」 に65%が牧畜民に放牧地として利用されている。これ と 「強情なロバ」といったお伽話の中にも定着したキャ まく共生を実現させている数字と捉えるかは、判断し ラクターの違いは、種の違いというよりは、むしろ社 かねるところだ。 ジャンムー・カシミール州での調査は、宮崎大学や 会型の差違が生み出した特徴であると考えられる。 匂いの世界の攻防戦 ウマ属動物が深淵な嗅覚世界を持っていることは繁 を、保護生物の危機と捉えるか、あるいは牧畜民がう ミュンヘン工科大学の研究者らとのプロジェクトにま で発展した。はじめに野生動物保護区を放牧地として 殖期に多くの雌を抱えたハレムの雄が一日中、雌の糞 活用する遊牧民・移牧民による草地の利用状況を調査 し、さらに野生ロバなどの野生動物との利用空間の競 や尿に、自分の尿をかけている光景からも容易に察し 合状態、あるいは共生関係の有無等の現状把握に努め 新・実学ジャーナル 2014.9 1
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