小野派一刀流と剣道について

武道と禅
◆武道と禅
小野派一刀流と剣道について
佐瀨
霞山
始めに一刀流についてお話したいと思います。
一刀流の流祖は伊藤一刀斎景久で、お名前は聞いたことが有ると思
います。この方は1550年生れで90歳まで長生きであったと、言われて
おりますが定かではないようです。一刀斎は鐘巻自斎より剣術を学ん
だそうです。その当時、鐘巻自斎は何流を名乗っていたかは定かでは
ありません。その頃が剣術流派の創生期であったようであります。剣
術修行の始めこそ師の存在がありましたが、あくまでも各個人が体験
し会得した技が、剣術流派としての意味合いを持っていたようです、
即ち一人一派的な色彩が強くあったように思われます。
伊藤一刀斎景久が最後に鐘巻自斎から学んだものは、「妙剣・絶妙剣
・真剣・金翅鳥王剣・独妙剣」の五つとされております。これが現在
小野派一刀流の「高上極意五点」として、一刀流の最高の技とされて
伝わっております。
その後に編み出した「払捨刀」は、一刀斎がしたたか酒に酔って気
を許した時に、蚊帳の外から賊に襲われ、その時に編み出した技とさ
れております。
一刀流はその後、千葉県の房総の出身である小野次郎右衛門忠明が
伊藤一刀斎から一刀流を継ぎ、独自の技を工夫して大太刀60本の型を
体系立てて、一刀流を不動のものとしました。是れが小野派一刀流と
して現在に伝わっております。但し、現在では小太刀・合小太刀を入
れて、全部で100本の型として伝わっておりますが、それに「高上極意
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五点」が別にあるわけで有ります。
小野派一刀流は柳生新陰流と共に、徳川家の指南役として選ばれて
おります。
なり お
かの有名な山岡鉄舟居士は明治18年に小野業雄忠政から、正式に小
野派一刀流の道統を継いでおられるので有ります。山岡鉄舟居士は小
野派一刀流継いだ後、ご自分で工夫をされ、『一刀正伝無刀流』を名乗
られました。
一刀流はその後15代まで伝わり、笹森順造先生(明治19年生)が16
代宗家として小野派一刀流を継がれ、『小野派一刀流極意書』を昭和40
年に発行され現在に至っております。
笹森先生は敬虔なクリスチャンであり剣道場に禮樂堂を作り、そこ
で私も小学生時代に稽古をさせて頂きました。お弟子さんには石田和
外先生・小川忠太郎先生(無得庵老居士)・小野十生先生らのそうそう
たる方々がお見えになり、一刀流の稽古をさせて頂きました。
無得庵小川刀耕老居士を警視庁の最高師範に推薦されましたのが、
当時の最高裁長官であられた石田和外先生であります。本部道場にも
何度もお越し頂いております。
昭和33年頃から5年間ぐらい、日曜日の午後に駒場東大前の道場に
通わせて頂いた思い出があります。そこでの稽古は大人も子供もなく、
本当に真剣にお相手をして頂いた記憶が御座います。その後は小川先
生が宏道会に来て頂けるようになり直接ご指導頂きました。
小野派一刀流は100本の型がありますが、基本は1本から5本までで
御座います、特に一本目の型「一つ勝ち」が基本となっております。
一刀流の初手であり、また奥の手である切り落としの一手を修練する
ところであります。一刀流は古来から「切り落としに始まり切り落と
しに終わる」と教えたほどの必殺必勝の烈しく強く正しい技でありま
す。
切り落としは型の多くに応用される技でありますから、先ずこの一
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本目でよくよく習い覚え、充分に呑み込み体得し熟達しなければなり
ません。切り落としは相手の太刀を一度打ち落としておいて、改めて
第二段の拍子で切るのではなく、相手から切りかかる太刀のおこりを
見抜いて、少しもそれにこだわらず、己からも進んで打ちだすので、
姿においては一拍子の相打ちの勝ちとなるのであります。
すなわち己が打ちこむ一つの技により、相手の太刀を切り落としは
ずして己を守り、その一拍子の勢いでそのまま相手を真っ二つに切る
のであります。つまり一をもって二の働きをなすのであります。一を
持って二の働きをするから必ず勝つのであります。
それでは相打ちでありながら相手の太刀を切り落として、わが勝ち
となるにはどうしたらよいか、その心得は先ず、わが心を自ら切り落
とすのでなければなりません。わが心を切り落とすというのは、死に
たくないとか打たれたくないとかいうわが心を切り落とすことであり
ます。此処に一刀流の神髄があるのであります。
一刀流の哲理は、万有が一に始まり一に帰す原則に立っております。
この理による組太刀はいろは48文字に譬えられ、始め習う時は「い・
ろ・は」と一字づつ順々に覚え、一旦覚えたらその順序を捨てて必要
に応じてこれらを自由に組み合わせ、言葉を言い文章を綴って要を弁
じますが、組太刀もそのように始めは一本一本正しく習い、覚えたも
のが後には敵のあり様に応じ、いずれの用にも働き得るようにする。
たとえば切り落としの一本の理が組太刀百本に乗り移り、百本の技が
切り落とし一本に帰する。百本の技が各々離れ離れにならぬ様に一貫
して一本につかう事が大切となります。中々出来るものではありませ
んが、そこを目指して稽古にはげむことが大切であると思っておりま
す。
此処で大切なことはわが心を切り落とすということであります、こ
れは言葉を換えれば、己を殺すという事でありますが、剣道だけでは
中々難しい訳であります。無得庵小川刀耕先生も、禅をやると早く到
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達できますよと言っておられます。宏道会の諸先生方が次のようなお
言葉を残しておりますので紹介させて頂きます。
寶鏡庵長野善光老師曰く、「禅は布団上に己を殺すことが主眼であ
り、剣は己を捨てる即ち捨て身が原点である。表現は異なるが云わん
とする処は同じである」又曰く、「剣・禅ともに其の正しい道は、己
を殺すことによって転迷開悟することが出発点であって、一生悟後の
修行を継続して、人間形成という高い目標に向かって精進するもので
あることを知らなければならない」
又、無得庵小川刀耕老居士が『剣と禅』について遺された言葉を次
ぎに紹介しておきます。
小川先生曰く、「私のいう剣道は剣の道であり、この道の修行目標
は生死をあきらめることである。」
また曰く「剣を通して人間形成をする。これが剣道の目的である。」
また曰く「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である。(全
剣連・剣道の理念)」(※「人間形成」という言葉は、「人間形成のた
めの禅」を標榜する人間禅道場にて長年禅の修行をされた、小川先生
が剣道理念に特に付け加えられた言葉であり、現在も全日本剣道連盟
内原
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の剣道の理念に「人間形成の道である」と入っているのは、小川先生
のこの言葉から取られたものであります。)
まと
以上の宝鏡庵老師、無得庵小川刀耕老居士の共通する的は、一点「命
を捨てる」というところにあります。剣も禅も同じように人間形成が
その目的であるとし、そしてその人間形成のためになすべき事は、
「命
を捨てる」ということであると二人の大先輩が申されています。
「命を捨てる」と云うことはどういうことでしょうか?
そして、命を捨てると云うことが何故人間形成に繋がるのでありま
しょうか?
このことについて少しお話しをさせて頂きます。
まず、「命を捨てる」ということですが、これは生物としての機能
が停止し無機物になるという生物的死とは異なり、生物として人間と
して生きたまま「命を捨てる」ということであります。これは、宝鏡
庵老師のお言葉にある「布団上で死ぬ」ということであります。
この生きたまま「死ぬ」ということは、意識の中で「我を殺す」と
いうことであります。すなわち数息観法であれば、数息観になりきっ
て数息観以外の念慮は全く出てこない「一念不生」のところまで行っ
た数息三昧の極地に浸りきることであります。耕雲庵老大師の『数息
観のすすめ』でいえば、第三期の数息観「息を数えない数息観法」の
状態であります。
「我」というものは相対的なものであります。「我」が意識的にし
ろ無意識的にしろ、少しでも残っておれば、絶対の境地に入ることは
できません。絶対の境地に入ることは、釈迦牟尼世尊の悟りの前提で
あります。絶対の境地に入ることなくして悟りは絶対に得られません。
まさに「大死一番、絶後に再蘇」であります。
「我」というものは相対的なものの代表であり、これを殺し尽くせ
ば絶対の境地に入ることができ、宗教の根幹に触れることができると
いうことであります。
科学と宗教の違いは、相対的思考と絶対的無の世界の違いであり、
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相対的か絶対的かの明確な違いがあります。相対的の代表が「我」で
あり「生死」であります。宗教的な領域での見方・尺度、剣道・剣の
道というような「道」と付くもの、禅による人間形成・剣道による人
間形成などは全て、相対を超えた絶対の世界に入り込まなければ本物
にはなりません。
日常社会生活はほとんどが相対的尺度で考えられ動いております
が、ではその相対の世界から絶対の世界に入り込む道・方途はどうす
ればよいのか?ということが当然の疑問として出てくると思います。
これに対する答えは全ての宗教において用意されています。すなわち
のこ
その架け橋は、先人の知恵によって工夫され遺されているのでありま
す。全ての宗教はそれぞれ独自の方法を持っていますが、その共通す
る本質は「三昧」であります。架け橋は「三昧」なのであります。何
等かの方法(キリスト教の祈り、イスラム教の礼拝、浄土真宗の読経、
禅宗の坐禅)によって「三昧」になるということが、その架け橋を渡
るということになります。数息観法もその一つであります。
この相対から絶対の世界に入らないと本物にならないというのは、
宗教だけではなく、一流の技芸道は全てそうであります。もちろん剣
道においても然りであります。剣道での代表的な三昧の行すなわち
「我」を殺し尽くす方法としてあげられるのが、一刀流では「切り落
とし」であり、山岡鉄舟先生の「立ち切り」であります。
勝海舟が師の島田虎之助のところで死にものぐるいの修行をし、実
際に稽古の最中に打ち負かされて気絶をしてしまった。そして息を吹
き返したときの最初の一言が「私の死に様は如何でございましたか?」
という言葉であり、それを聞いた島田虎之助は勝海舟に免許皆伝を許
したということであります。「我」というものが切り落とされ文字通
り「絶後に再蘇」したのを見て取ったのであります。
「命を捨てる」ということは、
「布団上で死にきる」ということで、
剣道の稽古での「切り落とし」と同じことであり、一念不生の透徹し
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た三昧に入り込むということであります。そこでは「我」というもの
は消えております。生死はなく「不生不滅」の境であります。本物の
剣道を目指し、剣の道で人間形成をしようとするのであれば、「命を
捨てる」ことをやる剣道稽古でなければ、「生死をあきらめる」剣道
にはなりません。
仏教を志す学人であれば、「命を捨てる」修行をしなければ本当の
修行にはならない。と鈴木正三和尚は申されておられますが、まこと
にその通りであります。「人間形成のための禅」といっても、最初か
ら最後まで「命を捨てる」ことを離れてはあり得ないものです。言い
換えると本当の「三昧」に入り込むこと無くして人間形成はあり得な
いのであります。
この小野派一刀流は、人間形成のために非常に役立つ流派の一つで
あると思います。特に「高上極意五点」、その神髄は禅の修行をしな
いと、とうてい到達できるものではありません。
まさに悟後の修行、人間形成の仕上げになった極めつけの公案があ
ります。それは人間禅の『瓦筌集』の190番目の公案である「洞山五
位」の中の兼中至:【両刃鉾先を交えて避くることを須いず
って火裡の蓮に同じ
好手還
宛然自から沖天の気あり】であります。この則
も人類の掛け替えのない素晴らしい法財であります。本格の剣道を志
す方々はこの法財と真正面から向き合い、これを噛み破って初めて「高
上極意五点」を極める事が出来るのであります。
禅においても剣道においても「命を捨てる」修行は「絶対の信をお
ける師に対して、己を空しくして参ずる」ということが大前提であり
ます。無得庵老居士はご自分の著書、『剣と禅』の最後に、この五点
について述べられております。
宏道会は昭和31年に第二世総裁妙峰庵老師が日本の将来を思って、
子供たちに剣道と静坐を通して至誠の人となることを願って設立され
た会であります。耕雲庵老大師が命名して下さり、最高師範を無得庵
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老居士にお願いをされたわけで御座います。その時老大師は無得庵老
居士に宏道会には、本当の剣道を伝えるようにと言われたそうであり
ます。無得庵老居士はそれを受けて92歳で帰寂されるまで、36年間そ
のお言葉を守って指導されました。
特に小野派一刀流の型と、その後直心影流法定の型とを柱にしてご
指導頂きました。防具稽古も何時も先生が基に立たれて、我々が掛っ
ていく稽古方法でした。試合形式の立ち会いは一切ありませんでした。
先生は試合形式はどうしても勝った!負けた!に走るので、そのよう
な稽古は稽古になりませんと言われ、本当に真剣を持って勇気を奮い
起こし、師匠に立ち向ってゆき全てを出しつくす事が、本当の稽古で
すと言われました。ですから稽古の最中、掛る方に何かある時はそれ
がなくなるまで、徹底して稽古をつけて頂きました。相手を打ちたい!
うまく見せたい!早く終わらないか!等の「我」がある時は何本やっ
ても終わりになりませんでした。くたびれ果てて、もうどうにでもな
れ!という本当に「我」が取れた時に、「はい!
宜しい」と言って
終わるという稽古でした。本当に心を見透かされておりました。又、
地稽古では無心で正しい打ちの時は黙って打たしていただきました、
我々若い者が力いっぱい掛かって行きましたが平然と受けられ、稽古
が終わって防具を取るときに小手が取りにくそうにしておられました
ので、どうされたかなと思いましたら、手が倍に腫れ上がっているこ
とが何度も有りました。誠に申し訳なく思っております。現在も無得
庵老居士の剣道を続けて行けるように、会員一同で努力しております。
最後に無得庵老居士は、剣道そのものが人生でありどんなに苦境に
はら
立っても、この剣道で鍛えた肚で、一歩も引かずに、平然と生きて行
くことが大切であり、それが本当の人間形成の道である。と述べられ
ておりました。
無得庵老居士はお亡くなりになる直前に、次のお言葉を残されまし
た、誠に重たく有りがたいお言葉であります。
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このお言葉を心に秘めて、先生の境涯に少しでも近づけるようにな
りたいものであります。
辞世の句をご披露して、終わりにしたいと存じます。
我が胸に
剣道理念
死に行く今日ぞ
抱きしめて
楽しかりける
合掌
■著者プロフィール
佐瀨霞山(本名/長和)
昭和24年生まれ。宏道会第四代会長を経て、現
在同会師範。同会離位。小野派一刀流免許皆伝。
現在、人間禅師家。庵号/千鈞庵。