賀川豊彦の作品「序⽂文」(7)第121回〜~第140回 ブログ「賀川豊彦の魅⼒力力」http://keiyousan.blog.fc2.com/ 連載分 第121回 ⼩小説 嵐嵐にたえて 昭和24年年6⽉月15⽇日 ポプラ社 236⾴頁 本書『嵐嵐にたえて』は、戦後ポプラ社が「少年年少⼥女女⼩小説」として⽕火野葦平・北北条誠・吉屋信⼦子などの作 品を出版していたなかに、かつて賀川が『南⾵風に競う者』として書き上げた作品を改題して、それに加え られたものです。賀川は本書の巻頭に新しく「作者のことば」を添えています。ここでは、少年年少⼥女女向け に書かれた松本昌美の装幀と渡辺郁⼦子の挿絵を収めて置きます。 作者のことば 雪を犯して寒紅梅が咲く。何という勇ましい姿であろう。梅が去って、梢の先に⽊木蓮が開く。その⼤大き な花辨は、⻘青い⼤大空に美しい模様を染め出し、明朗な春のおとずれを傅えてくれ る。環境ばかり気にしているなら、花は盛夏に、すべて同時に咲くはずだ。だが ⼭山茶茶花は霜と争って咲き出で、桐は五⽉月⾬雨を無視して開花する。苦境を押して美 しく吠きいでる、そこに花の使命がある。花は新しい時代を創り出す運命をにな っているのだ。唯物主義の逆⾵風に敢然として、反撃し、梢の⽊木蓮として、寒⾵風に反抗するところに、花の ⾯面⽬目があるのだ。 花粉よ、花の花粉よ、⾵風に散れよ。そうして新しい⽣生命をつくり出せ。⽇日本の若若き魂たちよ、悲しむこ とはない、嵐嵐にたえて美しく⼤大きく咲き出でよ。 附記 なお本書は出版書肆の希望により、『南⾵風に競う者』を改題せるものである。 ⼀一九四九・三・⼆二三 賀 川 豊 彦 武蔵野の森にて 第123回 ⼈人格社会主義の本質 昭和24年年12⽉月20⽇日 清流流社 371⾴頁 本書『⼈人格社会主義の本質』は、賀川にとって、戦後最初の、そして⽣生涯最後の社会思想に関するまと まった論論⽂文集で、 「⼈人格社会主義の本質」 「唯物共産主義哲学の批判」 「⼈人格社会主義の運営」の三編で構成 されています。此処では本書の表紙と賀川の「序」並びに武藤富男⽒氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の 「解説」の⼀一部を取り出して置きます。 序 どん底⽣生活四⼗十⼆二年年年年間の苦い経験が、私にこの書をかかせた。貧⺠民窟を救ふために出発した私は、労 働組合の組織に没頭し、農⺠民組合運動に着⼿手し、これに平⾏行行して勤労者間の協同組合運動の畝作りに、⾻骨 を折った。そのお蔭で、裁判所で有罪の判決を四回も受け、警察の監房に⼆二回、未決監に⼆二回、憲兵隊の 独房に⼀一回収容せられ、資本⽣生義経済の法律律が、どんな形で運営せられてゐるかを詳かに知ることができ た。 私は明治三⼗十七年年頃から社会主義⽂文献に親しみ、 「新紀元」の思想に共鴫し、⽊木下尚江や徳冨蘆蘆花の演説 を楽しみに開きに⾏行行ったものでふる。若若い時から、マルクスや、エンゲルス を読んでゐたが、彼らの無産者解放に賛成しながらも、彼らの唯物思想に常 に反撥を感じてきた。それは、どん底⽣生活の⻑⾧長き経験によって、道徳⽣生活の ⽋欠除が、如何に多くの窮迫者を作るかをあまりに眼のあたりに⾒見見せつけられ たからであった。その当時の研究は⼤大正三年年(⼀一九⼀一四年年)拙者「貧⺠民⼼心理理 の研究」に採録しておいた。その後「主観経済の原理理」を著作し、唯物史観、唯物弁証法を基礎とするマ ルキシズム反対の社会主義を主張してきた。 敗戦後、⽇日本⼈人の性癖を多少とも知ってゐた私は、左翼への転移かあることを予期して、⾊色々と研究を 進めてゐたが、敗戦後のどさくさに稿を纏め得ないでゐた。然しいつまでも捨ててをくことが出来ないの で、この形にしてみた。実は「経済⼼心理理学概論論」と云ったものを先に出し、その後にこの書を出したいと 思ってゐたが、材料料の整理理が充分つかないので、この書を先に出版することにした。 私は飽迄「経済」を「⼈人間」の為めの「⼈人間能⼒力力」の経済と考へてゐる。⽩白然資源と云ふものも、⼈人間 と⼈人間能⼒力力の補強的役割しか持ってゐないと私は考へてゐる。この⼈人間中⼼心に考へることが、始めから唯 物弁証法的に問題を進めるマルクス的⽴立立場と異異なった⽅方向を私に指ざした。 勿論論、私はこの書で、私の云ひたいことの凡てを書きつくしてゐない。然し、私が⽇日本と世界に向って、 かくあって欲しいと云ふことを卒直にのべねぱならぬ任務を果したと思ってゐる。 ⽣生命と、労働と、⼈人格を連帯意識識的に組⽴立立てて⾏行行く運動を社会主義と考へてゐるので、⼈人間能⼒力力が⾼高度度 に進むと共に、社会化の必要が深く、広くなると思ってゐる。 ⽇日本の如きドン底に落落ちた国を救ひ、⽂文明の危機に⽴立立ってゐる世界を建直す⽅方策は、私が此書に記述し た⽅方法の外に、絶対に無いことを確信するものである。 「⼈人格社会主義」と云ふ⾔言葉葉を⻄西洋ではどんな⼈人が 使⽤用していつか、私は知らない。私は、東洋に於ける敗戦国⺠民として、社会科学に新しき分野を開拓拓して、 少しも差⽀支へはないと考へてゐる。社会科学が百年年前と同し⽅方程式で⾏行行く必要はないと考える。だが、多 くの叱正を待って、初めて完成し得ると思ふからら、あらゆる⽅方⾯面の厳正なる批判を仰ぎたく思ってゐる。 ⼀一九四九・⼋八・三⼀一 颱⾵風来襲の⼣夕 賀 川 豊 彦 東京・松沢 武藤富男⽒氏『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」の⼀一部(232⾴頁) 『⼈人格社会主義の本質』について 本書は昭和⼆二⼗十⽬目年年⼗十⼆二⽉月⼆二⼗十⽇日、東京清流流社から発⾏行行された。昭和⼆二⼗十四年年は、敗戦の荒廃が底を突 き、ようやく復復興の兆が⾒見見え始めた年年である。救国の情熱に燃える六六⼗十⼀一才の予⾔言者は『⽇日本の如きドソ 底に落落ちた⽥田を救い、⽂文明の危機に⽴立立っている世界を建直す⽅方策は私かこの書に記述した⽅方法の外に、絶 対にないことを確信するものである』との信念念のもとにこの書をあらわした。 これは三つの編から成っている。第⼀一は本書の表題をなす『⼈人格社会主義の本質』、第⼆二は『唯物共産⽣生 義哲学の批判』、第三は「⼈人格社会主義の運営」である。 四六六版三百七⼗十⼀一⾴頁に及ぶ本書は賀川の⼤大著の部に属するが、内容は新しいものではなく、従来の賀川 哲学、賀川経済学を、⼈人格主義という⽴立立場から編み直したものである。本書の持⾊色は、むしろ唯物共産主 義批判にある。それも決して新しいものではなく、貧⺠民窟時代から賀川が折にふれて書き⼜又は論論じた共産 主義批判をここでまとめたものである。但し『主観経済の原理理』に現われた分析の鋭さと⽴立立論論の精緻さは、 この書では⾒見見出ししえない。前書においては、壮年年学徒賀川はマルクスの学説を咀嚼し解明した後、唯⼼心 史観の⽴立立場から鋭くこれを批判しているが、本書においてはその鋭鋒が鈍っている。そこには⽣生涯をかけ て資本主義と闘い、唯物共産主義と戦い抜いた⽼老老学者の疲労の⾊色がうかがわれる。 賀川が本書の⼀一篇を共産主義批判に向けたのは、本書著作当時の政治情勢に影響されたところがあると 思われる。新憲法による第⼆二回衆議院総選挙は昭和⼆二⼗十四年年⼀一⽉月に⾏行行なわれ、⽇日本共産党は衆議院におい て三四名、参議院において四名の議席を得た。この現象は⼈人⼼心に不不安を与え、⽇日本は共産党に⽀支配される のではないかという危惧をいだく者もあった。この情勢に対処して賀川に⼈人格社会⽣生義によって⽇日本を救 おうと志し、本書をあらわし、その百⾴頁を共産主義批判に向けたのであろう。 第123回 キリスト教⼊入⾨門―⼊入⾨門百科叢書 昭和25年年6⽉月20⽇日 ⼤大泉書店 344⾴頁 本書『キリスト教⼊入⾨門』は、⼤大泉書店の企画出版「⼊入⾨門百科叢書」の中の⼀一冊に⼊入れられたもので、鑓 ⽥田研⼀一⽒氏の協⼒力力によって完成させています。第⼀一部が19章、第⼆二部が11章の構成ですが、⼤大変読みや すい⼊入⾨門書となっています。鑓⽥田⽒氏はこれまでも賀川の著作を編集して数冊も重要な作品を完成させてい ますが、本書は賀川⾃自ら執筆したものも多いと思われます。この作品は25年年に刊⾏行行されて26年年、27 年年と版を重ねて読み継がれていますが、賀川全集にはおさまりませんでした。現在賀川作品の復復刊の企画 もありますが、是⾮非本書もその中に含めていただくことをお薦めしたいと思います。 ここでは再販の時のカバーと賀川の「はしがき」を収めて置きます。 はしがき この本はキリスト教の単なる解説書ではない。さういふ種類のものなら、幾つも出てゐる。 私が、六六⼗十⼀一年年といふ⻑⾧長い⽣生涯を通じて、世界に⼆二つとない『聖書』をどのやうに読み、どのやうに味 ひ、そしてイエスの精神をどのやうに体験したか――それをわかり易易い⾔言葉葉で書いたのが、この本である。 だから、この本は⾃自叙伝的な性質をもおびてゐる。 私が少年年時代をすごした阿波の吉野川の流流域には、奮幕時代から⽩白壁を誇る豪家が沢⼭山あった。そして それらの豪家は、⼤大抵家と家とが⾎血縁で結ばれてゐた。私の⽗父の家はその中の⼀一軒であった。 明治の中頃から、どういふわけか、吉野川の流流域に淫蕩の気⾵風が傅染病のやうに蔓延して⾏行行った。私の 村でも、豪農の⼤大きな倉が、私の⾒見見てゐるうちにいくつも倒れた。そして⼦子供にまで道徳的頽廃の気分が 乗り移った。 私は⼗十⼀一歳の時から毎⽇日禅寺へ通って『論論語』や『孟⼦子』の読み⽅方を教はった。しかし⾃自分が聖⼈人にな れさうな望みは少しも湧いて来なかった。私は暗い寂しい⽣生活をつづけた。私がクリスチャンになるには 余程の決⼼心が必要であった。私の家は破産し、三⼗十五銭の『聖書』を買ふのに幾⽇日も躊躇しなければなら なかった。それほど私は貧乏であった。私は教会へ⾏行行くことを許されなかった。親戚のすべては私がクリ スチャンになることに反對した。 しかし、たうとうただ⼀一度度の機會が来た。私は⼗十五歳のとき徳島でアメリカの宣教師からパプテスマを 受けた。私の胸は躍った。私は宣教師とその夫⼈人の⽣生活を通じてイエスを⾒見見た。そしてイエスが歩んだ道 の正しさがよくわかって来た。 私の⼀一⽣生を通じて最も涙ぐましい徳島の空と、その下で⽣生活してゐるアメリカ⼈人たちの精神が、私に愛 を救へてくれた。愛する⼼心は美しい。⾃自然の中で愛するのは善い事である。若若い時代に互に愛し合ふのは、 最上の喜びである。 私は、⼗十五歳の時から六六⼗十⼀一歳の今⽇日まで、廣⼤大な神の愛に抱擁されて、 その恵みの⼀一⽇日⼀一⽇日を意味深く⽣生きて来た。貧乏が貧乏でなくなり、寂し さが寂しさでなくなり、死にかかった時でも、憲兵に拘引された時でも、 神の愛は私を別⼈人になったほど強めてくれた。 私は、イエスが千九百年年前のユダヤ⼈人であったことをいつも忘れてゐる。イエスは今も⽣生きてゐる。私 は、イエスによって無数の友⼈人を得た。イエスによって妻をも得た。⼦子供も、學問も、著書も――何もか もイエスが私に與へた。 私はイエスのために何もした憶えがない。しかしイエスは私にすべてを輿へた。 私がこの本の中に書いたのは、これらの体験である。私はそれを臆さすに書いた。 わかり易易い⾔言葉葉で書いたのは、キリスト教にたいして漠然とした憧憬を抱いてゐて、まだ、どこの教會 にも近づく決⼼心のつかない⼈人々に、ぜひ読んでもらひたいと考へたからである。もっとも、求道中の⼈人々 や、すでにバプテスマを受けて、クリスチヤンとしての⽣生活をしてゐる⼈人々が読んでくれても、失望させ ないつもりである。 第⼆二部の各章は少し程度度が⾼高くしてあるけれど、第⼀一部を読んだ頭で読んでもらったら、容易易に理理解で きると思ふ。 この本に出てくる⼈人名には、外國⼈人であっても⽇日本⼈人であっても、すべて敬称を省省いた。 最後に⾔言っておきたいのは、この本を書くにあたって友⼈人の鑓⽥田研⼀一⽒氏に協⼒力力してもらったことである。 同⽒氏0協⼒力力がなかったら、この本は書けたかったかもしれない。 ⼀一九四九年年⼗十⼆二⽉月⼗十⼋八⽇日 賀 川 豊 彦 第124回 信仰・愛・希望 昭和25年年8⽉月15⽇日 梧桐書院 323⾴頁 本書『信仰・愛・希望』は、既に取り上げた『⼈人⽣生読本』と同じ内容で⼀一部を改めた ものです。前回の『キリスト教⼊入⾨門』の仕上げに協⼒力力した鑓⽥田研⼀一⽒氏の編纂した作品で、 今⼿手元にあるものは、昭和27年年版のものですが、ここではその表紙と編者である鑓⽥田⽒氏の「はしがき」 を取り出して置きます。 はしがき 賀川⽒氏は世界を照らす太陽か何ぞのやうに偉⼤大な存在である。かういふ⼈人は、⼀一世紀に⼀一⼈人か⼆二世紀に ⼀一⼈人しかあらはれないだらうと思ふ。それほど、その⽣生活ぶり、活動ぶり、⼈人⽣生の⽣生き⽅方、考へ⽅方が特異異 性を持ってゐる。⽇日本⼈人の⾎血統と⽇日本の⼠士壌の中から、かういふ特異異な⼈人がよくあらはれたことだと、不不 思議に感じられるくらゐである。 傅道、貧⺠民救済運動、労働運動、農⺠民組合、消費組合、震災救護運動、医療療組合、各種の社会事業、⽴立立 体農業の実施、農⺠民福⾳音、看護婦や⼥女女⼦子の指導、等々と、⽒氏が過去四⼗十⼗十年年に亙ってやって来た仕事は実 に廣汎であったし、これからも⽒氏は、あの病気がちな、しかも頑丈で実軟性に富んだ⾁肉体が続く限り、精 ⼒力力的な活動を⾒見見せるであらう。 ⽒氏の學問は驚くほど多⽅方⾯面に亙ってゐる。明治學院在學中は、⼀一切切教室には出ないで、図書室から、カ ントや、ショーぺンハウェルや、シュライェルマッヘルのものを引き出して、どんなに厖⼤大なものでも、 三四⽇日で読破してしまひ、⽶米国のプリンストン⼤大學に⼊入ってからは、神學や実験⼼心理理學や数學以外に、⽣生 物學、殊に⽐比較解剖學、古⽣生物學、遺傅発⽣生學、胎⽣生學を専攻した。⽒氏が神⼾戸神學校の寄宿舎で書いた、 ⼀一九〇九年年、⽒氏が⼆二⼗十⼆二歳の時の⽇日記を⾒見見ると、巻末に、その年年に読んだ書物の名が列列記してある。その 中には、ロッツェの形⽽而上學、プルターク傅、独歩の『欺かざるの記』前後⼆二巻、クレオパトラ傅、頼朝、 菩提達磨、タロムエル傅、ヘロドトス、スピノザ、マルクスの『資本論論』、クロポトキンの『パンの略略取』、 論論語、禅學法話、菜根譚、⼆二宮尊徳などがある。宗教、哲學、科學、経済學、社會學、歴史の諸部⾨門の中 で、⽒氏が⼿手を着けないものはほとんど無いと云っていい。最近は天体物理理學、天⽂文學の書を漁って、アマ チュアの域を脱してゐるし、⽂文學的素養だって、あれで⽒氏は⼀一⼈人前以上のものを持ってゐるのである。⽒氏 の書いたものを理理解するには、だから、本当を云へば、⽒氏に劣劣らないくらゐの予備知識識が必要である。だ が幸ひ、⽒氏は⼤大衆の⾔言葉葉を持ってゐる。⽒氏の胸には⼤大衆の⾎血が流流れてゐる。⽒氏が⾔言はうとする事、訴へよ うとする事は、犇々と誰の胸にも迫る。⽒氏は永久に⻘青年年である。⽒氏は永久に童⼼心を失はない⼈人である。そ れに、何より嬉しいのは、⽒氏の⾔言葉葉の⼀一つ⼀一つが、⽒氏⾃自⾝身の⽣生々しい体験 から⽣生れ出てゐることである。どんな⾔言葉葉の切切れ端にも、⽒氏⾃自⾝身の⼼心臓の ⿎鼓動が脈搏ってゐる。 ⽒氏の著書は既に九⼗十冊からある。その中から必要な部分を抜葦して本書 を編んだのだが、この仕事は、⽒氏の側近者の⼀一⼈人となって⼆二⼗十数年年になる 私にとってさへ、予想以上に困難であった。私は屡々⾃自分の知識識の浅いことを歎かざるを得たかった。従 って、編輯を終え、校正の朱筆をおいた時にはほっとした。 この書は、苦熱や貧困や病気で喘ぐ者に、魂の涼⾵風を送るであらう。どのページを開いても、死線を越 えて信仰と愛と希望に⽣生きてゐる者の颯爽たる気魄と情熟が溢れてゐると私は信する。朝⾷食前、⼜又は⼣夕⾷食 後に、⼀一家団欒して、⼀一⼈人が朗読するのをみんなで聞くのも⾯面⽩白からう。そんな場合、朗読する⽅方も、聞 く⽅方も、そっと顔を染めなければならたいやうな⽂文句句は、この書には絶無である。再読し三読して、この 書で満⾜足できなくなったら、直接に賀川⽒氏の九⼗十冊の著書を読破したまへ。 賀川⽒氏は⽣生れながらの詩⼈人である。第⼀一詩集『涙の⼆二等分』が、与謝野晶⼦子⼥女女史の序⽂文附きで上梓され たのは、⼀一九⼀一九年年⼗十⼀一⽉月のことである。私は思ひ出すが、その時⽒氏は早速それを、当時私か席を置いて ゐた⼤大阪神學校の寄宿舎へ持って来て、あちらこちらを読んで聞かせてくれたものである。三⼗十幾歳にな っても、⽒氏には⻘青春のスリルがあった。⽒氏にとっては記念念すべき詩集であるから、この中からも私は数篇 抜粋した。 第⼆二詩集は『永遠の乳房』(⼀一九⼆二九年年⼀一⼆二⽉月刊)で、これももちろん⾒見見落落とすわけにゆかなかった。 ⽒氏の出世作は⾃自傅⼩小説『死線を越えて』 (⼀一九⼆二〇年年⼗十⼀一⽉月)である。あれが出た時、読書界に起こった センセイションは⾮非常なもので、おそらく五⼗十萬部から買れたであらう。今年年三⼗十⼀一⼆二歳になる者が呱呱 の聲を揚げた頃の事件である。それを思ふと、時が経つのが恐ろしいみたいだが、それから後も⽒氏は⼗十幾 篇の⻑⾧長篇⼩小説を書いた。とりわけ『⼀一粒粒の⻨麦』は『死線を越えで』についでの買れ⾏行行きを⽰示した。そして ⼆二つとも、今では幾つかの外国語に翻訳されてゐる。 この書を編むに当たって、私はしかし、⼩小説からは⼀一切切抜粋しなかった。といふのは、賀川⽒氏の⼩小説は、 ⼀一節、⼀一章を抜粋して、その技巧や表現を味ふべき性質のものではなく、全体を読んで初めて意義を持つ べき性質のものだからである。それほど⽒氏の⼩小説は全体性を持ち、その全体性は芳醇な⼈人⽣生的價値から成 り⽴立立ってゐるのである。 散⽂文詩の⽅方で⽒氏が特異異な技量量を持ってゐることを知ってゐる者は、⼩小説家としての⽒氏、宗教家、社会運 動家としての⽒氏の存在が華やかなだけに、わりに少ないのではないかと思はれる。それで、この書には、 ⽒氏の散⽂文詩の中でも、最もすぐれた部分を取り⼊入れた。 『地殻と破って』 (⼀一九⼆二〇年年⼗十⼆二⽉月刊)や、 『星よ り星への通路路』(⼀一九⼆二⼆二年年五⽉月刊)や、『雷雷島の⽬目醒むる前』(⼀一九⼆二三年年三⽉月刊)や、『地球を墳墓とし て』 (⼀一九⼆二四年年六六⽉月刊)からの抜粋がそれである。そこには神と共に歩む者の朗かな歓喜と魂の⾹香気が漲 ってゐる。 珠⽟玉のやうな短⽂文に充ちてゐる『暗中隻語』 (⼀一九⼆二六六年年⼗十⼆二⽉月刊)は、この書を編むのに⼀一番役⽴立立った。 英語にも⽀支那語にも訳されて、世界中の⼈人々に熱読されてゐる『愛の科学』は、この書の⾄至る所に、⾼高ら かな調べと⾳音楽的なリズムを輿へてくれた。 この『愛の科學』が上梓されたのは、⼀一九⼆二四年年五⽉月のことで、⼤大阪毎⽇日の村島帰之⽒氏と私とが、本所 のバラックで、震災救護運動で⼨寸暇もない賀川⽒氏の横顔を⽬目のあたり⾒見見ながら、⼗十幾⽇日かかって編輯と校 正をやったものである。さういふ思ひ出のある書物が今ここで再び使⽤用されたことは、私にとっては⼆二重 の喜びである。 ⼀一九五〇年年七⽉月 編 者 第125回 ⼈人間の運命 ルコント・デュ・ヌウイ著・賀川豊彦訳 昭和25年年12⽉月1⽇日 世界⽂文学社 315⾴頁 本書『⼈人間の運命』は、ヌウイの市⺠民向けの宇宙論論です。巻末に著者の略略歴が記されていますが、この ⽂文章は賀川によるものかどうかも確かめることができませんので、ここでは、本書の巻頭に、著者の「序」 が収められていますので、それを表紙と共に収めて置きます。 序 この本は平易易を旨として書いた、そして専⾨門語の使⽤用は思想の正確さに影響を与えないかぎり、出来る だけ避けた。従って教養ある男⼥女女には容易易に理理解されると思う。 ぞれにも拘らず本書は種々新しい思想、新しい解釈を提出すると共に、また思索索に訴えるのであるから、 読者諸君としては注意⼒力力を異異常に集中する必要があるかも知れない。ゆっくりと読まねばならないかも知 れず、或る部分は⼆二度度読まねばならないかと思う。ただし、知識識⼈人が理理解し得ないようなことは何も書い てない、理理解しようと⼼心掛けさえすれば出来る程度度である。 ⾷食物は嚼み砕かなければ消化されないのと同じように、思想も反省省し理理 解することなしには同化し難いものである。著者は明晰を期して最善を尽 した。しかしある機械の使⽤用法が如何にはっきりと書かれていても、それ を通読しただけでは機械を使いこなせるものではない。それを実際⼿手がけ て⾒見見なければならぬ。私は諸君が親しみのない思想を批判し、分解し、ま た他の思想で置き換えることによって、その思想を⼿手なづける努⼒力力を払われんことを切切望するものである。 今⽇日の諸問題は⾮非常に複雑になっているので、表⾯面的な⽣生噛じりの知識識では教養ある素⼈人に問題をすッ かり把握させるには不不充分であり、況んやこれを論論議するなどは以てのほかである。この事実は故意に真 理理を曲げて、⼤大衆を間違った⽅方向に引きつける為に時おり悪⽤用され来った。だが、もしも現在のキリスト 教⽂文明がなお持続すべきものならば、今や善意熱誠の⼠士はこぞって⽴立立ち上り、⾃自⼰己の演じ得る役割を⾃自覚 し、⽣生涯をかけてこれを果そうと決⼼心すべき時代が来たのである。 ⼈人はみな、未来に対しての責任を分担している。しかし、この責任を建設的努⼒力力にまで具体化しようと すれば、⼈人は先ず⾃自⼰己の⽣生命の意味を充分に理理解し、何故に労苦し奮闘せねばならぬかをよくわきまえ、 また⼈人間の⾼高貴なる運命に対する信仰を維持してゆかねばならぬ。 本書の⽬目的はこの信仰に科学的基礎を与えることによって、それを実質化することにある。読者諸君に 課された努⼒力力があらゆる時代を通じての最⼤大問題に対するより明かな展望によって報いられんことを著者 は希望して已まない。 ピエール・ルコント・デュ・ヌウイ ⼀一九四五年年コロラド州ティー・ラ・ウケト農場にて ⼀一九四六六年年カリフォルニア州アルタデナ・ラ・キンタにて 第126回 少年年平和読本 昭和26年年1⽉月1⽇日 世界⽂文学社 315⾴頁 本書『少年年平和読本』は、村島と賀川が創⽴立立した平和学園(茅ヶ崎市)での賀川の講演や雑誌「世界国 家」に連載されたものを村島が編集し、養徳社より出版されました。現在も賀川豊彦オフィシャルサイト http://k100.yorozubp.com/ において「世界国家」に連載されていた作品などを閲読可能です。 ここでは表紙や賀川・村島連名の「あとがき」を収めて置きます。 あとがき 戦争が放棄され、軍備が全く撤廃されて、いささか不不安をだいているやに⾒見見える、⽇日本⼈人、特にこれか ら成⻑⾧長して、新⽣生⽇日本、平和⽇日本をせおって⽴立立つ少年年少⼥女女の頭に、⽣生存競争のみが、真の⽣生命の進化を促 すものではなく、むしろ反對に、武装を放棄したものが永く栄えて⾏行行くという事実を、動物の進化の歴史 に徴して教える必要がある。 こういう考えをもって、わたしたちは、⾃自分たちの経営する神奈奈川県茅ヶ崎海岸の平和學園で、⼩小、中 學および⾼高等學校⽣生徒の前に、幾度度かそうした⽣生物界の真相を語り、また⾃自分たちの國際平和協會から発 ⾏行行する雑誌「世界國家」に少年年向読み物として他の平和問題に関する記述といっしょに⼆二ヵ年年にわたって これを連載したのであった。 近ごろ、平和問題に関する⽇日本⼈人の関⼼心が漸く⾼高まって、世界平和に関する多くの著作や記事が散⾒見見す るようになったことは、よろこばしい傾向である。ところがその⼤大部分、というよりは、その全部が成年年 向の「平和論論」であって、⼀一ばん、必要とされる少年年少⼥女女向のものはI冊もない。 ⼩小、中學校の「社會科」の単元を⾒見見ると、六六學年年には『世界中の⼈人⼈人が仲よくするには、わたしたちは どうすればよいか』があり、また九學年年(中學三年年)には『われわれは世界の他國⺠民との正常関係を再建 し、これを維持するために、どのような努⼒力力をしたらよいか』があり、そしてそれぞれ、ごれに伴う學習 活動の例例が当局によって指⽰示されているが、⽣生徒たちは(いいや、ある場合には教師諸君も)どういうも のを參參考に読めばいいのか、きっと迷うのではないかと思う。わたしたちは、いささか學校教育に関係す る者として、この点に思いをいたし、右の⽣生物講話を主体とし、これに平和問題や戦争の害悪に関するも のをあわせて、⼀一書にまとめ、愛ずる少年年少⼥女女に贈ろうと思いついたのである。 もしこの書物が、少年年少⼥女女によって読まれ、平和⽇日本の建設、無戦世界の実現のために、勇気と確信と をもって直進するそれらの諸君に、いくらかでも役⽴立立つことができるなら、わたしたちの望みは⾜足るので ある。 昭和⼆二⼗十五年年⼗十⼀一⽉月 賀 川 豊 彦 村 島 帰 之 第127回 私の⼈人⽣生観 昭和26年年5⽉月30⽇日 梧桐書院 178⾴頁 本書『私の⼈人⽣生観』は、既に取り出した『宗教読本』 『⽣生活としての宗教』を底本として⼀一部削除と新た な追加をして梧桐書院より出版されました。本書も著者の賀川の序⽂文は⼊入らず、編者の鑓⽥田研⼀一の「編者 の⾔言葉葉」が巻末に収められています。それも「1951年年5⽉月」の⽇日付のみ変更更して『宗教読本』の⽂文章 と同じですが、ここでは表紙などと「編者の⾔言葉葉」を収めて置きます。 編者の⾔言葉葉 賀川豊彦⽒氏は。宗教界の偉材である。 賀川⽒氏を印度度のガンジーと⽐比較するのは、外國から起つだ事で、どこの國でも、宗教的⽣生活者の良良⼼心と 情操は、國境と⼈人脈の別を越えて伸び上る。フラソスあたりの⽚片⽥田舎でも、⽇日本⼈人を⾒見見かけると、カガワ つてどんな⼈人かね、と訊くさうである。ジイドが⽇日本でもてはやされても、まだそれほど⼀一般化してはゐ ない。 ところで、賀川⽒氏とガンジーとの⽐比較だが、宗数的気魄に於いて、瞑想的気分に於いて、正義と愛への 傾倒に於いて、両者の間には著しく共通点のあることが、アメリカ⼈人やフランス⼈人の闊達な⼼心の窓にはそ のままに映るらしい。だが、その体験する宗教の⾊色彩⼜又は味覚といふ点になると、近代⼈人は賀川⽒氏の⽅方に ずつと魅⼒力力を感ずるであらう。 賀川⽒氏の宗教経験とその⽂文學的表現は、実に多彩である。それは第⼀一に⽒氏の豊富な知性から来てゐる。 メレジコフスキイの『神々の復復活』の中に描かれてゐるダ・ヴインチは、最後には知性の破産を嘆く段取 りになってゐるが、賀川⽒氏にはそんな事がない。それでは知性が信仰に打ち克ってゐるかといふと、さう でもない。⽒氏は信仰に最⾼高の王座を呉へてゐる。あらゆる知識識は、全⼒力力的に、しかもその有効性の限界を 越えることなしに、いはば信仰に仕へてゐる。信仰が⼥女女王なら、知識識はその美しい侍⼥女女たちだ。⽒氏が星を 覗く望遠鏡を据ゑつけ、結晶体の標本を誂へ、ランゲの『唯物論論史』や、ラスキンの『ヴェニスの⽯石』や、 ジーンズの『科学の新背景』を側近の者に翻訳させる時、⽒氏の頭の中にあるものは、また、信仰と知性と の問に置かれた正しい秩序である。 賀川⽒氏の宗教を多彩ならしめる第⼆二の要素は、⽒氏が⽂文学者であり、詩⼈人であることである。⽒氏の百冊に 近い著書の序⽂文は⼤大部分散⽂文詩であるが、そこには、宗教的気醜と芸術的感動、純真な霊性と官能的感情 が縦横に交錯して、⾼高らかな交響楽を奏してゐる。ああいふ⽂文章の書ける者はこの國にもちよつとゐない。 「⽣生命芸術としての宗教」 「神の潮が良良⼼心の岸辺に⾼高く渦巻く」 「聖浄は私の空気である。神の御顔ぽ拝せずとも、神の蝕指の⽖爪先は、い っも私の眼に映る」 かういふ表現の出来る者は、賀川⽒氏を措いて他にない。 『聖書』は、新約、旧約を併せて、霊性の泉、⽣生命のパンの貯蔵所だが、 それと同時に、⽒氏はそこに偉⼤大な⽂文學を⾒見見る。⽒氏の⼩小説の題は屡々『聖書』から取られる。 『⼀一粒粒の⻨麦』 『幻 の兵⾞車車』『⽯石の叫ぷ⽇日』『乳と蜜の流流るる郷』などがそれだ。 賀川⽒氏の宗教に光彩を添へるもう⼀一つの要因は、⽒氏の⽣生涯と性格が驚くほど特異異なところにある。 ⽒氏は芸者の⼦子であり、⽒氏の実兄にあたる⼈人は、⼗十六六歳の頃から妾狂ひをして家産を蕩尽した。 好⾊色と淫乱の巷から、巌かな神の聲に呼び出されて、聖浄の⽣生活に⼊入ったのが賀川⽒氏なのである。 永遠への思慕は、⽒氏にあっては絶対感をおびてゐる。⽒氏が肺患にかかつて⻑⾧長い間⽣生と死の境を彷徨したこ と、いっそ死ぬなら貧⺠民のために尽くして、と覚悟して神⼾戸の貧⺠民窟に⾝身を投じたこと、等等が、⽒氏の宗 教をどんなに⾹香気に富んだ芳醇なものにしてゐるか知れない。 だが、もし⽒氏の⼈人柄が控へ⽬目で、もの静かで、つつましい⼀一⽅方だったら、これほどの結果は予定されな かったであらう。賀川⽒氏の⽗父は、官界に腰を据ゑてゐれば⼤大⾂臣にもなれる⼈人物だったが、役⼈人なんかつま らぬと放⾔言して、弗相場に⼿手を出し、企業熱に⾝身を焦がした。冒険的と投機的――それを賀川⽒氏も⾃自らの 性格の中にそのまま受け継いでゐる。しかし⽒氏はそれを惜しみなくそっくり宗教の⽅方へ持って⾏行行って、神 のためにすべてを賭っだ。それを思ふ度度に、私は⼼心の愉悦を禁じ得ない。 賀川⽒氏は⾮非常に瞑想的な性質で、森の中、道のほとりで、夜露露に濡れそぼちながら⻑⾧長い間析ることの出 来る⼈人だが、さういふところだけが⽒氏の本領領ではない。⽒氏の宗教的情熱は、深く内部に凝ると同時に、外 部に向って、驟⾬雨のやうに放射される。沈沈潜的であると同時に⾼高踏的、個⼈人的であると同時に社会的―― 病躯を駆使しながら、さういふ進み⽅方をしてゐるのが⽒氏である。神聖な冒険、神聖な投機の好愛が、この 傾向に拍⾞車車をかける。後から後から社会事業を繰り拡げて、貧乏と借⾦金金に追はれながらも、⽒氏は平然とし てゐる。⽒氏は奇蹟に期待する。⽒氏にあっては、冒瞼と奇蹟はいつも背中合わせをしているらしい。 ⽒氏を売名家のやうに云ふ⼈人があるが、実を伴わない名に、さう簡軍に買ひ⼿手がつくものではない。世の 中はもっとせち⾟辛くなってゐる。それを颯爽と切切り抜けてゆくには、どうしても賀川⽒氏のやうな性格が必 要なのだ。 ⽒氏の性格に私は歴史的意義を⾒見見る。 それでは、賀川⽒氏の宗教は何派に属するか? この疑問はちよっとややこしいやうに⾒見見えるが、事実はさうでない。 『聖書』⼀一冊が⽒氏の宗教の典拠であ る。⽒氏の愛好する「⽣生命宗教」といふ⾔言葉葉にしても、イエスが「我は⽣生命なり」と⾔言ったのをそのまま取 ったのだ。キャベツのやうに、必要な⾐衣は幾枚かつけてゐるが、それを剥いでしまへば、中には蕊がある だけだ。もれが『聖書』である。だから、賀川⽒氏の宗教の本質はごくごく単純であり、単純であるだけに、 清く且つ美しい。⽒氏の宗教に普遍性があり⼤大衆的背景があるのは、そのためだと私は思ってゐる。 古今の思想家、宗教家の中で、賀川⽒氏に影響を及ぼした⼈人は多い。理理想主義哲学の祖プラトンなどもそ の⼀一⼈人であろう。トルストイ、ラスキンの影響も濃厚であった。とりわけ、トルストイには全部的に打ち 込んだ時期がある。しかし遂には、そのトルストイをさへ訂正し得るやうな⾼高さに⽒氏は達したのである。 ⼀一九五⼀一年年五⽉月 編 者 第128回 永遠の再⽣生⼒力力―⼗十字架宗教の絶対性 昭和26年年9⽉月15⽇日 新約書房 182⾴頁 本書『永遠の再⽣生⼒力力―⼗十字架宗教の絶対性』は、⽶米国ロサンゼルスのイエスの友会の25周年年記念念事業 として出版されています。これには賀川の「序」もあり、武藤富男⽒氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』で の「解説」もありますので、表紙などと共にここに収めて置きます。 序 端折られた葦に、また若若芽がふき出した。 亡びた⽇日本にまた再⽣生の希望が持てることになった。しかし、この敗戦後の六六年年問は、あまりにも気狂 はしい惨憺たるものであった。⾬雨親殺しは培加し、パンパン・ガールは蝗の如く群をなして移動した。刑 務所は収容⼒力力の三倍の犯罪者であふれ、⽇日本全國が貧⺠民窟になってしまった。中國が共産化し、北北鮮と満 洲が⾚赤軍の占領領地となったために、⽇日本の海外貿易易は萎縮し、⽷糸へん、⾦金金へん、紙へんの悪性インフレは、 悪質の恐慌に移⾏行行し、出版會社のつぶれるもの、織物問屋の倒産、鐡屋の破産、昨⽇日の栄華は今⽇日の嘆き と変らざるを得なかった。 唯物脅迫主義は、全⽇日本を蔽ひ、たとひ、講和條約が結ばれても、経済復復興 の前途が猶暗澹たるものがある。 全能者の庇護がなければ⽇日本の再⽣生は不不可能である。――それでゐて、私は、 キリストにある⼤大能者の再⽣生⼒力力を信する以上、失望することができない。罪の いやますところにめぐみもいや増す。聖書の記録は恩寵の記録である。悔改め のあるところに必ず再⽣生も保証せられる。 この再⽣生⼒力力を信じて⽇日本は再び⽴立立ち上る。 軒の燕は⼟土をもて巣を作り、秋の初めに南に帰って⾏行行く。⽇日本にまだ⼀一握りの⼟土が残り、⼀一塊の⼩小⼭山さ へ残って居れば、⼤大能者は、⽇日本の悲しき児らの為に、⼟土もて巣を作り、やがてくる秋の⽇日の巣⽴立立ちを待 たせ給ふのである。 國亡びて千九百年年⽬目に、イスラエルはパレスチナに婦り、イスラエル⺠民族の独⽴立立の旗をあげた。それは、 彼らに⼒力力があったのでは無い。全く聖書の約束により、全能者への信仰によったのである。 ⼆二⼗十六六年年前、私ぽ⼩小アジアパレスチナの⼀一⾓角、エルサレムに残ったダビデの城壁の前に⽴立立った。散⼗十の ユダヤ娘か⿇麻をかぶり、唇を⽯石灰岩にすりつけて、 「――シオンを再び興し給へ! ――この城壁をも⼀一度度造りなし給へ!」 と泣きながら、城壁に接吻の唾を以って洞洞窟をうがってゐた。彼らは千九百年年間、この祈りをつゞけて遂 にきかれた。 ⽇日本にはこの祈りの悲願をきかなかった。しかし、⼤大能者は再び、⽇日本に独⽴立立を保証し、⽇日の丸の國旗 を竿の上に⾼高く掲げることをゆるし給ふた。 されば、⼤大能者よ、⽇日本の罪を赦して新しき國を造らせ給へ! 懺悔も⾜足らず、愛も徹底しない、この ⾼高慢な⽇日本を、も⼀一度度、みめぐみによりて囲み、みさかえの故に、歴史を貫く、⾄至愛の世界の創設の為め に⽤用ひさせ給へ! ひでりが少しつゞけば、天を呪ひ、五⽉月⾬雨が少し⻑⾧長びけば飢饉を憂ふるこの⽇日本⺠民族に、サハラの沙漠 に逃れ出たイスラエル⺠民族が、四⼗十年年間天よりのマナによって養われた摂理理の歴史を教へ給へ! 試練を受く可くして、あまりにもそのきたはるる⽇日の短かりしこの六六年年間に、神の愛は未だ徹底せす、 唯物意慾のみ國⺠民を⾵風靡したこの悲しみの⽇日に、⼗十字架の真理理を⼼心の奥ふかく刻むことを許し給へ! 無防備、無武装――その新憲法にキリストの歌訓を、そのまま⽣生かさんとする⽇日本⺠民族の理理想を将来に、 創造主よ、嘗て、あなたが、紅海に於てイスラエルに⽰示し給ひし⼤大能を現し給へ! カルバリの⼭山の満⽉月の⽇日の悲しみを三⽇日⽬目に勝利利の復復活として、世界歴史を書き改め給ひし、再⽣生の神 よ、⽇日本の再⽣生を期として、世界歴史にも再⽣生を約束し給へ! ⼀一九五⼀一・⼋八・⼗十⼀一 ⽇日本再⽣生の感謝の涙に沈沈みつつ 賀 川 豊 彦 信越⾼高原にて 附 記 本書は⽇日本敗戦後、各地で⾏行行った私の講演を同志か筆記してくれたのを編集したものである。 また北北⽶米ロサンゼルスのイエスの友が四半世紀に渡る祈りと共に、⽇日本再建の希望に燃え、祈りの中に ⼆二⼗十五周年年を迎えたその記念念事業として、この書を出版し得ることを私は悦ぶものである。彼ら諸兄姉及 び、北北⽶米全⼟土に散在する⽇日本⼈人同胞の祈りの友に、此處に改めて⼼心よりの感謝の辞を捧げるものである。 武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』より 『永遠の再⽣生⼒力力』について 『永遠の再⽣生⼒力力』は昭和⼆二⼗十六六年年九⽉月⼗十五⽬目、東京の新約書房から発⾏行行された。これは敗戦後、各地で ⾏行行なった賀川の講演筆記である。北北⽶米ロスアソゼルスのイエスの友が、その結成⼆二⼗十五周年年を記念念して、 その記念念事業として出版したもので、巻末には、久保⽥田憲三、藤坂君代、釜薗兵⼀一、国分壬午郎郎、桝中幸 ⼀一、境弘、坂⽥田徳⼀一、佐藤久⼦子、末広栄司、恒吉国治、⾓角替美之吉、⾕谷⼝口顕実、横川全助各⽒氏の賀川への 感謝と証⾔言と⽇日本再建への祈りの⽂文が附されている。 この書の内容は必ずしも系統的ではない。第⼀一には、永遠の再⽣生⼒力力としてのイエスの堕罪愛を説く。 次いで『イエスの受難と堕罪愛』を語る。社会共同体の原理理、キリストの使命、その⼈人類を救おうとす る⾄至誠⾄至愛、⼈人間再⽣生のため、最微者の⾼高挙のための⼗十字架の死、⼈人間の罪を贖うための化⾝身、永遠の贖 罪愛のための復復活等が語られる。更更にイエスの受難の⾃自覚、⾰革命を避けて受難を選び、これを⽬目的、理理想 となし、神の命令令として受けたことか説かれる。 『その⾻骨くだかれず』の項においてはヘブル書の贖罪思想が説かれている。イスラエルの律律法による犠 牲の儀式は形式、型、表象であり、イエスの⼗十字架の死はこの表象を完成したものである。ヨハネ伝にお いては『⾔言は⾁肉休となって我らのうちに宿り給へり』とあり、キリストの⼀一粒粒の⻨麦としての死は、永遠の ⽣生命を与える。キリストの愛に⽣生きたものは死の恐怖をもたない。 『⼗十字架宗教の絶対性』においてはイエスの受難、⼗十字架上の七⾔言が語られ、 『⼈人間悪とその救済』の項 では道徳的標準について論論ぜられ、絶対的標準と⼈人間的標準とが⽰示される。天から与えられた⽣生命から出 発するものは前者である。⽣生命を物と同⼀一視する時は後者となる。罪悪は七つに分類される。第⼀一は神と の絶縁、第⼆二は⽣生命への尊敬の喪失、第三は⼈人間に与えられた⼒力力の濫濫⽤用、第四は変化性の乱⽤用、第五は天 の⽅方へと成⻑⾧長せず、⾃自分の貪りに耽けること、第六六は選択性を失って迷いを起こし宇宙を混乱におとし⼊入 れること、第七は宇宙の法則に反し、宇宙⽬目的を知らずに下向きの⽣生活をすることである。これらはいず れも⽣生命の⼒力力、成⻑⾧長、変化、選択、⽅方法、⽬目的の七つの要素に関連する。しかし神は常にこうした罪から ⼈人間を救おうとしているのである。 「贖罪愛の哲学」の項においては、神学としての贖罪論論を概説し、贖罪要素として、神とやわらぐこと、 迷える者が神にかえること、救われて世嗣になること、弱い者が⼒力力づけられること、死者が復復活させられ ることをあげる。 贖罪は、神が痛める部分を回復復し、全体を意識識し⾃自覚した部分としての個体を、傷ける個体に犠牲とし て与える、回復復した個体が全体に和解するという過程を経てなされる。 次いで本体論論と宇宙論論と贖罪論論との関係が論論ぜられ、更更に⽬目的論論と贖罪愛とが語られ、贖罪愛の絶対性 が主張される。そして贖罪愛を具現して、苦悩の底に陥った⽇日本の⺠民衆に救いの愛を実践したいという。 『⼈人⽣生創造と⽂文化創造』の項においては 『古きはすでに過ぎ去り、⾒見見よ、新しくなりたり』という聖 句句を主題にして、キリストによる⼈人⽣生再創造をするとともに、伝道だけでなく、学問に、政治に、経済に キリストの精神が浸透しなければ、⽇日本は破滅するよりほかにないと主張する。 『ギリシャ⽂文明は何故キリスト愛に降降伏したか』の項においては、ギリシャ⽂文化の歴史を述べ、ギリシ ャの宗教を説き、ギリシャ⼈人は良良⼼心なきギリシャ本来の宗教に満⾜足せず、結局良良⼼心宗教であるキリスト教 に帰依したのであると述べる。 『キリストの奉仕精神』の項においては、キリストの宗教が祭祀宗教でなく、意識識宗教であるため、神 と⼀一つになった時、はじめて発意的奉仕ができる、キリストの愛には救貧、防貧、福利利の三つが⼊入ってお り、奉仕の歓喜がある。キリスト⾃自らの⽣生活が⽣生きた隣隣保館であったともいえると説く。 『キリストと経済⽣生活』の項においては、天国に積む宝が強調され、『宗教はキリスト、実践は共産党』 (これは当時⾚赤岩栄が信仰はキリスト、実践はマルクスといったことから来たものであろう)という考え ⽅方をまちがいであるとし、神は⽣生命と労働と⼈人格を地上において神の国出現のために資材として⽤用い給う ので、⼈人間は神の使⽤用⼈人として神から委託されているものを喜んで増⼤大し、これを倍加し増殖するよう計 らねばならぬ、キリストは利利益を神に返すよう⽰示していられるから我々は発明発⾒見見をし、助け合いによっ て神に利利益を返すことができると説く。 『キリスト精神と教育⾰革命』の項においては、マルクスとペスタロッチを⽐比較して論論じた後、学校教育 の⽭矛盾を突き、宗教家教育家たる者は七つの点において教育を実施すればよいと提唱する。それは⽣生命尊 重の教育、⾃自然愛の教育、勤労愛の教育、博愛の教育、組織化の教育、敬虔の教育である。 『キリスト精神による学問と勤労の調和』の項においては、友の会(クエーカー)、メノナイト、セブン スデー・アドヴェンチスト、ユナイテッド・ブラザレンの沿⾰革とその信徒たちの⽣生活と勤労と奉仕とを述 べ、キリスト教による勤労教育を強調している。またム―ティー神学校その他三つの⼤大学における勤労教 育を紹介している。 『キリスト精神と⺠民主主義』の項においては、書経と易易経とを論論じた後、易易とは変化の哲学であり、天 に従って変って⾏行行くことを説いたものであるといい、イエスは易易経の教訓を完全にそなえた⽅方であると結 論論する。 次いでイエスの⽣生活を⽰示し、下座奉仕の道、神第⼀一の⽣生活、⾃自⼰己否定、洗⾜足の精神について語り、戦後 の⺠民主主義はこうした精神に基づかねばならぬと論論ずる。 最後の『神の国運動よりキリストの運動へ』は⼀一九⼆二⼋八年年から始められた神の国運動の実績を⽰示し、⼀一 九三⼆二年年に⾄至り、次いで⽇日本の政情の変化により伝道が困難となり、⼆二⼆二六六事件以後、次第に迫害が加わ り、第⼆二次⼤大戦勃発するや、宣教師の引揚げ、教会の閉鎖、ホーリネス教会の牧師たちの逮捕が起こり、 賀川⽩白⾝身も東京憲兵隊に拘束され、キリスト教の講演を禁ぜられてしまい、瀬⼾戸内海豊島に隠棲したが、 戦後となって⼀一九四六六年年六六⽉月九⽇日、⻘青⼭山学院に全国信徒⼤大会が開かれキリスト運動が決議され、戦後の⾷食 糧糧、交通の困難の中を全国に伝道しまわり、⼀一年年⼗十ヶ⽉月の間に九百⼋八⼗十七回の集会をいとなみ、五⼗十六六万 四千九百三⼗十⼋八名の聴衆を与えられ、⼀一九四九年年末までの間に⼆二⼗十万名の決⼼心者を与えられたことを述べ ている。 当時共産党の勢は盛んになりつつあったがその中で賀川の運動は⼒力力強く展開された。 賀川はこの運動において、この際奮起して⽇日本に⼗十字架精神が徹底するよう努⼒力力すべきを説き、神の霊 ⽕火が⽇日本に燃え上がることを祈るのであった。 第129回 ⼈人⽣生苦の解決 続⼈人⽣生ノート 昭和27年年1⽉月25⽇日 梧桐書院 182⾴頁 本書『続⼈人⽣生ノート ⼈人⽣生苦の解決』は、このとき梧桐書院で出版された⼀一連の賀川作 品のひとつで、編者の鑓⽥田研⼀一⽒氏の労作といえるものでしょう。本書には、賀川の序⽂文も鑓⽥田の編者の⾔言 葉葉も全く添えられていませんので、ここでは、本書の第⼀一章を取り出して、賀川の序⽂文に代えたいと思い ます。愈々、賀川の著作も最後の段階に⼊入ってまいります。 新らしき⼈人格への⾶飛躍 新らしさの意味 ⼀一体、新らしいとは何を意味するのでしようか? 標的がハッキリしていないと、どこまでが古くで、どれからが新らしいのか、サッパリわかりません。⼈人 間にとって、究極の⽬目あて――理理想とは「より⼈人格的」ということ以外にはないのです。 では、より⼈人格的とは何を意味するかといえば、「より⾃自由であること」を意味するのです。 なぜ正⽉月には、⼈人が喜ぶのでしょうか。それは、平素の拘束から、少なくとも正⽉月三が⽇日の間は、解放 の⾃自由を味うからです。⼩小説を読む愉快、芝居、映画を楽しむ理理由も、それが何らかの⾃自由を味わせるか らです。 『もう少しの⾃自由を!』というのが、社会運動の原理理であり、また、⼤大きなその理理想です。より⼈人格的 であるとは、だから、より多くの⾃自由の享受を意味します 今⽇日の時代は、あらゆる⽅方⾯面に、其の⾃自由が保証せられていません。労働者はエ場にしばりつけられ、役 ⼈人は官廳に、妻君は台所に、⼥女女中は流流し元に、それぞれ束縛を受けで『⾃自由を! ⾃自由を!』と⾃自由を求 めてあえいでいるのです。 しかし、ある者は、⾦金金を⼿手に⼊入れると、⾃自由を求めると称して、放蕩無頼の⽣生活に向っで⾛走って⾏行行きま すが、それは本とうの⾃自由でしょうか。 ⾃自由の種類 、 ⾃自由にもいくつかの種類がありますが、放蕩をすることを本とうの「⾃自由」とは呼ばないのです。 ⾃自由には⼆二種あります。横の⾃自由と縦の⾃自由です。 第⼀一の⾃自由は、思うまま、気まま⾝身ままにしたいという⾃自由です。それは妾狂いをする⾃自由であり、娼 婦を弄弄ばんとする⾃自由です。 神⼾戸に、某という⼤大親分が居ました。賭博の常習者でしたが、その⾏行行為をとがめられると、 『おれの⾦金金で、 おれが打つのにどこが悪い』といつで、喰ってかかるのが常でした。しかし、 真の⾃自由とは、かかる横への⾃自由ではないのです。 上の⽅方への⾃自由――つまり・偉くなりたい、⾶飛躍したい、発明したい、その ために要求するのが縦の⾃自由であり、真の⾃自由であります。 横幅の⾃自由を求めることはやさしい。けれども、上の⽅方へ⾶飛び上りたいという⾃自由を得ることはむつか しいのです。が、この第⼆二の⾃自由、真の⾃自由こそが、われわれの望みでなくてはならぬのです。 ⼀一⼈人の娼妓なく、虐げに泣く⼀一⼈人の労働者のない社会を求めてこそ、真の⾃自由への要求というべきでし ょう。 横幅の⾃自由は、⾃自由の成りそこねです。それは、⾃自由ではなくて、放縦です。 ⼈人格の要素としての⾃自由と秩序 ⼈人格の要素として⼆二つを挙げることができます。⾃自由と秩序です。 ⼀一⼈人が⾃自由を楽しむのみでなく、⾃自分以外の他⼈人もまた⾃自由になりたい要求を持っているのですから、 他と共に⾃自由を亨受しょう――というときに考えられるのが秩序の問題です。 昔は、⾦金金持であれば、他⼈人のことなぞは考えないで、⾃自分の⾃自由に振舞えました。ゴロツキの連中もほ しいままに横⾏行行しました。しかし、真の⾃自由は、秩序ある世界を要するのです。 秩序とは、即ち、「法」という意味です。変わらざる法を指して秩序と呼ぶのです。 われわれは、各種の「法」の裡裡を歩んでいます。例例えば、⽣生理理的法に従って⽣生きています。もちろん、 これを破ることができます。酒飲がそれです。その意味で、酒飲は⾃自由であるかも知れませんが、秩序よ くは歩けないのです。 ⼈人格とは⾃自由と秩序との組合わせです。⾃自由とは変って⾏行行くものです。移り⾏行行くものです。『今⽇日では、 フランス語も⾃自由に読めるようにたった』というのは、不不熟練から熟練へと変って来たことを意味するの です。われわれは、発明に対し、学問に対し、常に⾃自由を保つものとならたくてはなりません。しかし、 単なる変化のために⾃自由を握るという外に、⼈人格の成⻑⾧長には今⼀一つの⽅方⾯面――秩序のあることを知らたく てにたりません。 ⻘青年年期の誘惑は、秩序を重んじないことです。 ⾃自転⾞車車のベルには、たいてい、七つから⼆二⼗十⼀一ぐらいの仕掛があります。ベルーつ鳴るのにもある⼀一定 の秩序があって響を出すのです。わたしは嘗である⼤大学の⼼心理理学教室で、実験するために時計の機械を壌 してみました。壊すことは容易易でしたが、さで、⼀一旦こわした⼆二⼗十⼀一の部分品をもう⼀一度度、組み⽴立立てよう としても、なかたかできません。 しかし、その次には、最初、七つの部分品から組⽴立立てられている時計を、充分注意してこわしてみて、 それからそれを組⽴立立ててみると、こんどは⼆二分間でスツカリ完全に仕上げることができました。その後で もう⼀一度度、⼆二⼗十⼀一の部分品でできた精巧な時計の組⽴立立てをやってみると、今度度は五分間でできました。こ の⼀一事は何を⽰示すかというに、学習には⼀一定の原理理があるということです。即ち七つのものができるたら、 次には、⼆二⼗十⼀一のものが容易易に組⽴立立てることができるのです。このように、やさしいものがつくれるなら、 進んで、こんどは、むつかしいものでもできるというのが学習の原理理です。 ⼈人⽣生において、もし、成功せんと思うたら、このことを先すわきまえなくてはなりません。すなわち、 ⼀一⾜足⾶飛びにむつかしいことを試みないで、最初は容易易な⽅方をかたづける。即ち学習には順序があって、そ の順序を踏まぬと物事はできないのです。 われわれは、何かのことに熟練しようと思えば、漸次に秩序を踏んで熟練の⽅方へとのし上げで⾏行行く⼯工夫 を要するのです。 ⼈人格の成⻑⾧長と刺刺戟 そのために必要なのは、第⼀一に刺刺戟です。これを週期的にもたなくてはなりません。雀がまだ⽣生れで間 もたい頃、⼆二週間位、鶯のそばに置くと、鶯の真似をするようになります。しかし、その発声練習を⼀一⽇日 ぐらい構わたいだろうと思って、棄てゝ置ぐと、もうだめです。 われわれが⼈人格を練磨する場合でもこれは同じことで、偉くなろうと思えば、必ず⼀一定の刺刺戟を絶えず 週期的に與えるようにエ夫せねばなりません。⻘青年年時代に、⽬目的を確⽴立立せずして、⼆二⼗十⽇日⿏鼠のように、あ ちらを少し、こちらを少しという⾵風に、噛じりちらしているなら、決して⼈人格は完成しません。ある定っ たものをグウツと、間断なしに乗せて⾏行行かぬ限り、成就は覚束ないのです。 これは記憶作⽤用でも同じことで、実験してみるとよくわかります。われわれが何かある事柄を記憶して、 どれほど、覚えているか調べてみると、たいてい、最初の五分間に、約六六分位は忘却するものです。しか したびたび、繰返すならば、だんだんに忘れなくなります。だから、事物を習練するには、定まった⽣生活 をすることが必要です。七⽇日⽬目、七⽇日⽬目に、⼀一年年中、五⼗十⼆二回繰返して、宗教集会に⽋欠かさす出るという ことも、前述した学習⼼心理理の原則にかなった所のもので、そういった週期的な宗教的刺刺戟がないならば、 ⼈人格が、ただれてしまう恐れがあるのです。 新らしさと⼈人格の成⻑⾧長 秩序のあるところに⾃自由があり、そして次第に三、四、五、六六というようにその範囲が広くなて⾏行行きま す。これが成⻑⾧長です。 代数なり英語なりが、今年年は昨年年に⽐比して⾃自由になりたということは、学習の結果、成⻑⾧長かあり、ある 新らしい部分が加わったことを指すのです。伸び上った部分だけ、つまり新らしいのです。 秩序のある新らしさ、より⼤大いたる⾃自由を持ち新らしさがそこに⽣生じます。⽣生⻑⾧長する⼈人間は、常に新ら しさを要求します。⻘青年年は急速に成⻑⾧長します。すべての過去を踏台にして伸び上るのです。 新らしさとは、要するに⼈人格の⾃自由と秩序と成⻑⾧長との問題です。だから、本当の⼈人格の外に、真に新ら しいというものはないわけです。 恋愛は⼈人類の歴史とともにあったもので、その事⾃自⾝身は古いことですが、たぜ、これがあなたの経験と しては、新らしい気持があるかといえば、それは、⼈人間の⼤大きな運動だからです。 ⾃自由は冒険性に富みますが、秩序を失うと転覆する危険性をもちます。学問というものは、幾何にしろ、 物理理にしろ、必ず⼀一定の法則に従っています。そして、メンデレーフの週期律律の法則によって学習そのも のも進んで⾏行行くのです。 この変るものと、変らざるものとの⼆二つの配合によって、進歩かあり、成⻑⾧長があります。古い歴史を秩 序⽴立立って研究すると共に、そこに何か新らしいものを発⾒見見して⾏行行くのです。 優れたる⼈人格を踏台として われわれが聖書を研究し、孔⼦子、孟⼦子を研究するのは、それを⼟土台として、その⼈人格の上に新たに何か を組⽴立立てて⾏行行くためでなくてはなりません。この外別に新らしいと呼ぶ道はないのです。かかる偉⼤大たる 聖⼈人の道を外にして、新らしいといい、古いといっても、それは無意味なことです。 われわれは、キリストという⼈人格を踏台にして、伸び上ろうとするのです。 ⼈人を愛し、宇宙の構造を研究し、発明をし、⼈人を引き上げる――即ち、⼀一つでも、⼆二つでも、三つでも、 これまであるものの上に、成⻑⾧長せしめて⾏行行く、そういった⾏行行動の外に、どこに新らしさがありましょう。 ⼈人格の成⻑⾧長がありましょう。 かっで猿類が泥泥酔したという事実がありますか? ゴリラが、アフリカの砂漠で酔っ払ったという新聞 の報道がかつてあったでしょうか? 猿や、駝駱駱は酔っ払わず、彼等の間には梅毒はないというのに、⼈人 類のみ、アルコホルに中毒し、梅毒を受けて⾎血を濁すというのであれば、どこに⼈人間の進化があるのでし ょう? われわれはかえって、アダム、エバより退化したといわなくてはならぬではありますまいか? われわれは⽣生命の道に⾃自らの確⽴立立を計らなくてはなりません。 リンコルンの道を棄てた⽶米国は、古くなるばかりではありませんか? われわれも⽬目醒めて、聖徳太⼦子、弘法⼤大師、の⼈人格の上に、さらにある⽴立立派なものを加えて⾏行行くことを 考えるのでなくてはなりません。 ⽇日本の農⺠民が⼆二宮尊徳の美徳を全くかえりみす、たゞマルクス主義に⾛走るならば悲しいことです。尊徳 のもった謙譲の精神の如きは、優れたものです。 ⽇日本の農⺠民運動の精神も⽇日本のもついいものの上に、更更により善いものを加えて⾏行行くのでなくてはなり ません。 資本家は搾取のみを考へ労働者は少しでも多く取ることのみを計るというのでは、とうてい真の⾃自由世 界は来ません。憎悪のみ教えで、⾃自由と秩序の原則を忘れては、⽇日本の国の前途もみじめです。わたしは、 新らしき時代をつくるものは、⼈人格運動の外にないと考えて、その⽅方⾯面に懸命になっているのです。 ⼈人格運動の外に経済学はありません。⼈人格の平等を求め、⼈人格の⾃自由を求め、⼈人格の尊厳を回復復する以 外に、社会主義の⽬目的はありません。資本主義制度度と称する唯物的社会制度度から解放されたいというのが 今⽇日の嘆きではありませんか。 真の⾰革命運動とは、だから、⼈人格運動の外にはないのです。 ⼈人格を離離れて、何がわれわれを昂奮せしむるか? ⺟母の愛、お互同⼠士の奉仕、社会の愛――こういうものが、⼀一歩⼀一歩深まることを指して、箇性に、社会 に「新らしみ」が加わるというのではありませんか。 われわれを昂奮せしむるものは、⼈人格です。芝居をみてなぜ感動するか? そこに演出せられた⼈人格の 断⽚片に触れるからです。われわれは、⾰革命主義の⼩小説を読んでなぜ昂奮するのか、そこに⼈人格の断⽚片を⾒見見 るからです。 しかし、芝居や⼩小説に⾒見見るところのものは、⼈人格の断⽚片であって、⼈人格全部を握ることではないのです。 社会運動の⼈人格主義的動機 ⼈人格主義とは、発明と発⾒見見とに⾶飛躍することです。空腹である時には、飯を要求するでしょう。しかし、 満腹の次にはどうするつもりでしょうか? 社会主義の運動も、その究極は、⼈人格の外の何ものでもないのです。⼈人格が今⽇日では機械の番⼈人になっ ています。それで、もう⼀一度度、⼈人格の⾃自由を取り返そうというのが、園運動の最後の理理想です。そのため に、⼈人格の成⻑⾧長を妨げるものを取り除こうとして、わたしたちは⼒力力をつくすのです。 わたしは、⽇日本の無産運動のよき⽣生⻑⾧長を祈ってやみませんが、もし、無産運動というものが、⼈人格主義 的に⾏行行かぬなら、全く甲斐のないものになるでしょう。政治もそうで、政権の獲得に熱中するのみでは、 真の政治は決してありえません。せめて、⽇日本の政治界にも、ドイツに於けるくらいの⼈人格運動が起って ほしいと思いまず。フィヒテが⽇日本にも出なくてはなりません。しかし、わたしは絶望してはいません。 ここ、百年年も⾟辛抱して、⽇日本の⼈人格の畑を耕すことに努⼒力力するなら、決して、絶望することはありませ ん。わたしは百年年を待とうと思うのです。 ロマン・ローランは、近代の英雄は、実験室の中に居るといっています。われわれは、新らしき時代の ⼈人格としで、科学的知識識の世界に、またキリスト愛の運動に、⾃自由と秩序とを以で⼀一層の突進を試みまし よう。新時代の理理想主義達成のためには、⼈人格主義の外に向うべき路路はたいのですから。 第130回 聖書の話 昭和27年年3⽉月30⽇日 要書房 205⾴頁 本書『聖書の話』は、最初「要選書」のひとつとして刊⾏行行された後、昭和32年年には社会思想研究会出 版部より「現代教養⽂文庫」に納められたことから、晩年年の賀川の作品としては、⻑⾧長く⼈人々の⼿手に渡った好 著でした。この作品も鑓⽥田研⼀一⽒氏の協⼒力力で仕上げられています。残念念ながら賀川豊彦全集には⼊入っていま せんが、先に上げた『キリスト教⼊入⾨門』と共に重要な作品と思われます。 ここでは要書房版の表紙や「序」に加えて、⽂文庫版の賀川の新たな序も取り出して置きます。 序 古き低気圧が去って、新しき低気圧が来襲する。⼈人間の低迷が、深度度を加えると共に、新しき低気圧の 頻度度は激しくなる。 第⼆二次世界⼤大戦は過ぎて、また第三次世界⼤大戦が準備されている。⼗十⼀一世紀に始まった⼗十字軍の頻度度と 同じ歩調で世界戦争が来るのかも知れない。それにしても、悲しきは⼈人間の無智と狭量量である。その悲哀 を貫いて、なお変わらざるは宇宙創造主の慈愛の深さである。⼈人間が神に反逆すればするほど、その罪悪 を越えて⼈人類再⽣生の途を開いて下さる。罪のいや増すところに恵みもいや増し、 もう世界の週末かと思われる時に、また春の芽⽣生えが、⿊黒⼟土の下に準備されて いる。 めぐみの記録はかくして、歴史を貫く天啓となり、これが綴られてユダヤ⺠民 族の体験として、恩寵史は書かれた。これが旧約聖書である。その恩寵史を意 識識の上に乗せ、天⽗父の慈愛を⼈人間社会に⽣生かす場合に、罪をも赦す「⾎血⾁肉」の運動として、他⼈人の為めに、 「⾎血」となり「⾁肉」とならねばならぬと贖罪愛の地上⽣生活を書き出したのがイエスであった。彼は「神」 の愛の受⾁肉者として地上を闊歩し、神の國を地上に縫いつけたのであった。これが新約聖書である。 ⼈人類がイエスに同化すれば、地上に神の國が来るのは必然であり、⼈人類史は、全⼈人類がイエスの如き意 識識に到達する⽇日に、神の国を地球上に顕現させ得るのである。 この意味において、私は聖書のあらゆる批評を歓迎する。然し、それらの低等、⾼高等……⽂文學的、思想 的の凡てを越えて、私は、更更に神と私とを如何に結びつけてくれるかという点から聖書を読む。それで、 思想の時代的発展以上に、私を天に引上げてくれるものを私は探す。で、それが年年代的にどうであろうと、 私が歴史の頂点に⽴立立っていると考えている以上、私は、歴史の中にこみあげてくる神の恩寵の⾼高潮に、私 が乗っていることを⾃自覚すれば、それで、私はその聖霊のみめぐみに凡てを委ねる。 この本は、聖害の⼀一章⼀一節の意味をこまかに解きあかした註解書ではない。註解書なら私の先輩や友⼈人 の書いた本がすでに何⼗十冊、何百冊といって出ているから、それを読んでもらいたい。私は、旧約聖書と 新約聖書を構成する、両⽅方あわせて六六⼗十六六巻の記録について、各巻の根本的な主題と、思想の特質と、登 場⼈人物の⾵風貌を明かにすることを主限とした。 友⼈人鑓⽥田研⼀一⽒氏の協⼒力力がなかったら、私は時間的にこの本の執筆に困難を感じたであろう。ここで同 ⽒氏に⼼心からの謝意を表する。 ⼀一九五⼆二年年⼆二⽉月⼆二⼗十⼆二⽇日 賀 川 豊 彦 現代教養⽂文庫 ⽂文庫版への序 原⼦子⼒力力時代に⽣生れあわした私たちは、あたらしい恐怖と⽂文明の終末を予覚させられる。この⽂文明の崩壊 は創造主が宇宙と⼈人類をつくられた⽬目的であったろうか? 原⼦子⼒力力時代の悲劇は神を否定し、社会協同体をふみにじり、唯物主義と、暴暴⼒力力と、⾁肉慾のみを肯定する ところの神への反逆にはじまる。過去は過去に葬ればよいですまされない。良良⼼心がうずく。創造主がかく まで、宇宙を美しくつくり⼈人類を愛し育てて下さった⼤大愛にたいして、責務を感じる。 新宇宙の再創造のためには、世の始まりから今⽇日にいたるまでの建設についやされたエネルギーを弁償 せねばならぬ。そう神と⼈人との間にはさまって悶えたのがナザレの⼤大⼯工イエスであった。その総対的連帯 意識識に⽬目ざめた贖罪愛の発展史が「聖書」全巻の記録である。 それは階級意識識ぐらいの局部的なものではない。イスラエル⺠民族解放史のかげに天地の創造主がひそん で助けてくれた。神は解放者だというのが旧約聖書の編まれた理理由である。その解放者にすまない道徳的 堕落落がイスラエル⺠民族の良良⼼心をむしばんだ。それが⺠民族興亡史の背景として『精神覚醒史』が書かれた理理 由であった。預⾔言者の声を旧約聖書が集録し、その究極の完成者としてのイエスの贖罪愛の死と、その死 を突破したことを新約聖書は教えてくれる。 新約聖書の教えるところは、天の⽗父なる全能者は⼈人間の罪悪と⽋欠点にたいする協同の責任を感じ、連帯 責任をとり、神のなやみを神の⼦子としてひきうけたその⾃自覚の悲痛なる嘆きを福⾳音書として記録した。 しかし、原⽔水爆のなかった古代ローマ時代は⼈人類の終末とならずにすんだ。だが、今はそんな⽣生やさし い時代ではない。われらはもういちど聖書をかみくだいて味わい、あたらしい時代の贖罪愛と、あたらし い時代の再創造のために、あたらしい復復活を準備せねばならぬ。 ⼀一九五七・⼆二・⼆二七 賀 川 豊 彦 第132回 天の⼼心 地の⼼心 昭和30年年9⽉月7⽇日 実業之⽇日本社 274⾴頁 本書『天の⼼心 地の⼼心』は、前著『聖書の話』が出版されて2年年半ばかりの空⽩白の後の作品です。第⼀一 部「天の⼼心を地の⼼心とせよ」、第⼆二部「天の⼼心を地の⼼心とせし⼈人々」の⼆二部構成ですが、第⼆二部の多くは戦 前の作品が多く収められています。 「1955・7・9」付けの賀川の「序」には、本書を仕上げる⽀支援者 のことは記されていませんが、前回の『聖書の話』に協⼒力力した鑓⽥田研⼀一⽒氏かもしれません。それとも村島 ⽒氏か武藤⽒氏か。 ここでは表紙と⼝口絵写真、そして「序」並びに「序」の前に「著者略略歴」もありますので、それらも取 り出して置きます。また、本書は全集に収められており、武藤⽒氏の解説もありましので、それも加えます。 著者略略歴 明治⼆二⼗十⼀一年年七⽉月⼗十⼆二⽇日神⼾戸市に⽣生る。同四⼗十年年明治学院神学予科卒、神⼾戸神学校に⼊入学、四⼗十四年年同 校卒業。神⼾戸市葺合新川の貧⺠民街においてキリスト教布教に往事。⼤大正三年年奨学⾦金金を得て⽶米国プリンスト ン⼤大学及同神学校に⼊入学。同五年年同校卒業後シカゴ⼤大学に学ぶ。帰国後⼤大正七年年には関⻄西労働総同盟会⻑⾧長 となり、また神⼾戸市細⺠民街に隣隣保館設⽴立立。その後労働組合、農⺠民組介、協同組合等あらゆる組合運動の先 鞭をつけ、関東⼤大震災には難⺠民保護に当り、また帝国経済会議々員、中央職業紹介委員会委員、済⽣生会評 議員、東京市社会事業協会評議員等を委嘱された。 昭和⼆二⼗十年年には、厚⽣生省省救済委員会委員、同省省顧問、内開総理理⼤大⾂臣官参与、内閣議会制度度審議会委員、 ⽇日本社会党を組織し顧問となるなど、終戦後の混乱した社会に活躍し、同⼆二⼗十⼀一年年には貴族院議員に勅選 され、全国農⺠民組合会⻑⾧長に就任す。その後も終始キリスト教布教に従事、貧⺠民救済事業、社会事業等の措 導実践、啓蒙宣伝を⾏行行う。 現在、都社会事業協会、中央児童福祉審議会、済⽣生会等各役員、全国農⺠民組合⻑⾧長、雲柱社理理事⻑⾧長、世界 連邦副総裁等多くの⾯面に活躍、また前後九回世界各地に渡航。著書は「死線を越えて」「⼀一粒粒の⻨麦」「主観 観経済学の原理理」等多数がある。 序 ⽀支那の聖⼈人孔⼦子は、時代の激しい変転期には「天」を基準として⼈人の⼼心を易易(かえ)るようにと易易経を 編集した。 キリストは『私は⼀一⼈人じゃない、天の⽗父 といつも⼀一緒にいるのです』と⼗十字架を選 んだ。 フランスが百年年間もイギリスに占領領せ られていた時、⼗十六六才の⼩小娘ジャン・ダ・ アルクは天の声を聞いて祖国を解放した。 デンマークがドイツに占領領せられた時、⼆二⼗十⼋八才の⻘青年年グルドウィヒは、天の⼼心を国⺠民の⼼心に植えつけ てデンマークを再興した。 ノルウェーがスウェーデンに占領領せられていた時、南ノルウェーの農村⻘青年年ハソス・ニールソン・ハウ ゲは、天の声を春の雪解け時、畑の中で聞いた。それが、ノルウェーの再建の礎となった。 ⽇日本の再建は、天の⼼心を、地の⼼心とすることから始まる。 それを忘れて、唯物論論に迷い、汚職に没頭し、刑務所を新設し、最⾼高裁判所に防塞塞を築き、ゆがめられ た地の⼼心を以って、天の⼼心に置き換えようとしている。ここに⽇日本の新しき悲劇がある。 明治維新は、まだ天の声に聞かんとする熱意を持っていた。明治六六年年切切利利⽀支丹丹禁断の制札は撤去せられ、 迫害を怖れず、多くの⻘青年年は、救国の祈りを天に捧げた。それが死を怖れざる熊本バンド、札幌バンド、 横浜バンドの結成とたった。そして、この熱意が国会の設⽴立立となり、⺠民主々義国家の運動として発展した。 アブラハム・リンカーンは、徹夜の祈によって「奴隷隸解放」の宣⾔言⽂文を起草し、その精神を⽇日本に運ん だ横井⼩小楠は京都御所に殺され、森有礼⽂文部⼤大⾂臣は憲法発布の⽇日に兇漢の⼿手に倒れた。それにもかかわら ず、⽇日本の婦⼥女女⼦子は、⽩白⾊色奴隷隸解放の祈に燃え、婦⼥女女禁売令令は、明治五年年の太政官布令令となり、貯妾制度度 の廃⽌止は法令令なくして、⺠民衆の常識識となってしまった。 しかし、軍閥の台頭は⽇日本を遂に敗戦に導き、⽇日本は遂に⼆二千六六百年年の輝しき独⽴立立の歴史を反古にして しまった。 私は嘗て、満州の⾸首都より追放令令の予告を受けたことがあった。それは、私か新京で貯妾制度度反対の演 説をしたことが満州政府主脳部の忌むところとなったためであった。そして、太平洋戦争によって、⽇日本 は天を⾒見見失い、敗戦と共に唯物辨証法は「天」を嘲り、倫倫理理道徳は⽇日本を⾒見見捨てた。⽇日本そのものが、軍 閥下に於ける満州国のようになってしまった。 今⽇日の⽇日本はダンテの画いた地獄以上のあさましい悲曲の連続である。 私は、も⼀一度度、 「天」を呼び、天の⼼心を⽇日本の⼼心とする為めに、この書を戦災に焼け残った、⽇日本の若若き 良良⼼心への遺産とする。 ⼀一九五五、七、九、午前四時 賀 川 豊 彦 武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』より 『天の⼼心、地の⼼心』について 『天の⼼心、地の⼼心』は東京の実業之⽇日本社から昭和三⼗十年年九⽉月七⽇日に発⾏行行された。 賀川が六六⼗十七歳の時、すなわち晩年年の作品である。しかもこれは講演筆記でないから、⽂文体がよく整い、 内容も他の宗数的著作のように、同じことは、同じ表現の重複がなく、殊に後半は宗教的偉⼈人の⼈人物、事 業を記述しており、読む⼈人の興趣をそそるものがある。 実業之⽇日本社はこの時すでに賀川の著作として『⽯石の枕を⽴立立てて』『処世読本』『東雲は瞬く』などを出 版しており、キリスト精神をあまり表⾯面に出さず、内に秘めながらじわじわと⽇日本⼈人の⼼心に泌泌み通らせる ような企画をもって賀川に書かせたものと推定される。本書もまたそうした型に属する著作であり、宗数 的修養書とも名づくべきものである。 本書は第⼀一部「天の⼼心を地の⼼心とせよ」第⼆二部『天の⼼心を地の⼼心とせし⼈人々』に分かれており、前者は 著者の⾒見見解を述べたもの、後者は⼈人物評伝である。 第⼀一部の内容を紹介しよう。 『天を基準とする⽣生活』の項においては、太閤秀吉が『戦争に勝った時、勝 に乗じて敵を追かけずに、⼀一たん四辻に引返して、⼋八⽅方ににらみをきかせ』という四辻戦法の教訓を引き、 『天に通ずる聖き野⼼心』をもち⾒見見通しをきく⽬目で事業をやれ、実業に従事する⼈人は専⾨門的知識識だけでは経 営ができない、寛容の気持、強い意志、その上、⼈人の苦労を⾃自分の苦労にして社会全体を引上げてゆく社 会連帯意識識の深みに徹せよ、これが宇宙精神に通ずることであると説く。 (賀川はここで神といわずに天と いい、キリストといわずに宇宙精神といっているのである。) 悪につく下向きの⽣生活をせず、天と⾃自分とを⼀一直線において誘惑に勝ち、⼀一時の繁栄を⽬目当てにしない で、天を基準とする⽣生活をせよという。 『⽇日本を明るくする⼯工夫』の項においては、⽇日本は国⼟土は狭いが⾃自然に恵まれているから、⽣生活教案を 作り、樹⽊木作物農業、有畜農業等より⽣生ずる産物を加⼯工することを学び、⽣生活を豊かにせよ、 『⽇日本の⻘青年年 よ、⼤大⾃自然に帰れ』と叫ぶ。 『労働享楽時代の創造』の項においては、労働をいやがる国⺠民か亡びるという実例例をローマ、インド、 清朝において⽰示し、 『わが⽗父は今に⾄至るまで働き給う』という聖句句を引いて、労働神聖視による世界観の⾰革 新を説き、敗戦後の⽇日本⼈人が、賭博⾏行行為によって遊び暮しているのを批判し、更更にこの頃から盛んになっ てきた労働争議による⼯工場の休業に及び、昭和⼆二⼗十七年年、⼆二⼗十⼋八年年の⼤大⼯工場や鉱⼭山が、どんなに永い間争 議による休業をし、そのため損失を招いたかを語っている。 (資本家の暴暴威に対し労働組合の結成を促進し、⾃自ら労働争議を指導した賀川も、戦後の労働争議のや り⽅方に対してはよほど強い反対意⾒見見をもっていた。松岡駒吉君が、⾃自分たちの作った労働組合がこんなも のになろうとは思わなかったと嘆いていると賀川は当時私に語ったことがある。) 労働争議に対しては争議前に労働調停裁判所を通過すべきである。さもないとロックアウトやストライ キによって、完全雇⽤用の理理想が破られ、資本家も社会主義者も⾃自らを裏裏切切ることになり、⾃自ら貧乏を製造 することになると主張している。 次に労働が⾯面⽩白くやれる⽅方策を提唱し、経営者は、労働者の⽣生活不不安をなくし、労働過重にならないよ うにし、単調になる場合はリズムをつけたりラジオをかけたりして作業に変化を与え、作業⼯工程やその⽬目 的を理理解せしめ、⽣生理理的、⼼心理理的に作業の適格性を定め、労働者を⼈人格的に尊重し、互助友愛の精神に満 ちるようにし、つまらぬ作業でも宇宙⽬目的、⼈人⽣生⽬目的に合致することを教える等のことを提唱し、こうす れば、争議が起こらず、経営の不不振が起らぬと結論論している。 次に⽇日本⼈人は男⼦子も⼥女女⼦子も敗戦から⽴立立上がり、世界に卒先して労働享楽の時代を創造すべきであるとい う。 『激変する社会に処する道』の項においては、天を中⼼心とする易易経の教訓に従い、⾏行行き詰まったら零零か ら再出発し、頭たらんとする者は⼈人の僕となるべしというキリストの教えに従い奉仕の⽣生活をすれば失業 はない、⼤大きな困難にぶつかった時は天に向かって⽴立立直れ、きれいに失敗する者こそ勝利利者となる、正し い道を歩く者こそ勝利利者となるという。 『不不景気を突破する精神』の項においては社会連帯性の経済を主張し、完全雇⽤用の社会組織を協同組合 によって実現し、これを世界全体に及ぼすべきことを提唱している。 『現代にも⽴立立⾝身出世はありうる』の項においては、労働階級から出て代議⼠士になった⼤大⽮矢省省三、現代の 幡随院⻑⾧長兵衛といわれる武内勝、浪浪速銀⾏行行の⼩小僧を振出しに⼤大蔵⼤大⾂臣になった北北村徳太郎郎等の実例例をあげ、 共産主義国においてすら『労働英雄』『技術英雄』『発明英雄』などがあって勲章をもらっている。アトリ ー内閣の外務⼤大⾂臣ベビンは炭坑夫出⾝身であり、その他研究室の⼥女女性英雄があり、マーク・トインの如き河 蒸気船のボーイが⽂文豪になった例例がある、⼈人類社会に指導者を要する限り必ず⽴立立⾝身出世があると結ぶ。 『⽣生き甲斐のある⽣生活』の項においては、肺病院にて奉仕⽣生活をした肺病患者の話、公正都市の建設者 ジョンソンの話、カーネギー、フォード、ロックフェラーなどの話を語り、使命感に⽣生きるようすすめ、 ⽣生き甲斐のある⽣生活とは『⼆二度度くり返したい⽣生活』であるという。 『割切切れる理理屈と割切切れぬ⼈人⽣生』においては、理理屈で割り切切れても、⼈人⽣生には割り切切れぬことが多いと いう主題で、左翼学⽣生運動を批判し、礼儀と⾏行行動の美を論論じ、社会⾵風習を解剖し、マルクス、ジェームス、 ランゲ等の哲学に⾔言及し、永遠に割切切れない⽣生命の世界と信仰とがあるといい、理理論論を超越し、宇宙の志 向性の指さすところを信じて良良⼼心⽣生活を営むことが宗教であると結論論する。 『道徳復復興なくして経済復復興はない』においては、敗戦の結果起こった道徳の腐敗につき語り、ローマ 衰亡史は⽇日本への予⾔言者であるといい、慢性インフレ下の慢性ストライキ、⿇麻薬の流流⾏行行、娠娠中絶等、⽇日 本の衰亡が露露⾻骨になったことを指摘し、公⽤用族(社⽤用族)資本主義の堕落落を論論じ、公⽤用族の犯罪統計をあ げ、道徳なくして経済の復復興なく、宗教的基礎なくして国⺠民を退廃から救うことはできないと結論論する。 『世界平和と世界危機』においては、レニンの暴暴⼒力力国家論論の批判からはじまり、今⽇日の解放運動には⺠民 族解放と無産者解放の⼆二潮流流のあることを指摘し、結局世界連邦制度度によって世界平和を実現しなければ ならぬと提唱する。 『天の⼼心、地の⼼心』は問いと答えの形式による解説であり、宗教とは? 宗教の四つの⽬目的は? 新興 宗教は迷信か? 神はあるか? 愛こそ神の⼼心、⽣生命は⼼心を産む、科学で解けない⽣生命の神秘、善と悪、 平和と世界連邦運動、霊魂は宇宙の中にある、死は悲しからず等の諸項⽬目に亘って賀川の⾒見見解を述べてあ り、多くは『神による新⽣生』をはじめ、その他の講演集にあらわれたものを集約したものである。 第⼆二部『天の⼼心を地の⼼心とせし⼈人々』は宗教的偉⼈人伝であるから⼀一気呵成に読むことができる。 ⼀一五四⼀一年年インドに渡って伝道し、⼀一五五〇年年⽇日本を訪れて初めて⽇日本にキリストをもたらしたポルト ガル⼈人ザビエル、信仰に⽣生きた⼩小⻄西⾏行行⻑⾧長、キリスト教思想をいだいた近江聖⼈人中江藤樹、印度度の使徒靴屋 のケエリー、中国への伝道者で聖書の中国語訳を完成したモリソン、中国キリスト教の開拓拓者ハドソソ・ テーラー、奴隷隸解放の恩⼈人リンカーン、⽇日本黎黎明期の伝道者海⽼老老名弾正、インドの解放者マハトマ・ガン ジー等九⼈人の⼈人物について語る。殊にケエリー、モリソン、テーラー等の伝記はくわしく記されており、 ガンヂーについては⼀一九三九年年⼀一⽉月、賀川とガンヂーとの会⾒見見記から始まっているのが興味をそそる。 第132回 発⾞車車―基督者詩歌集 賀川豊彦の寄稿歌集 昭和30年年12⽉月20⽇日 キリスト新聞社 301⾴頁 本書『発⾞車車―基督者詩歌集』は、昭和26年年創刊の雑誌「草苑」の同⼈人誌のメンバーが、標題の詩歌集 を企画し、キリスト新聞社より刊⾏行行されました。この同⼈人には賀川豊彦のほか、賀川と歩みを共にした⼈人々、 例例えば由⽊木康・三浦清⼀一・本⽥田清⼀一・河野進・⼭山室武甫などが加わり、雑誌の出版を重ねていました。 本書は、⽥田中忠雄の装丁で箱⼊入りの上製本、1000部の限定出版です。編集代表の松本宗吉⽒氏によっ て、⻑⾧長⽂文の「基督教詩歌略略史」と「後記」が収められています。ここでは箱表紙・本体表紙などと共に、 武藤富男の「序」並びに賀川豊彦の掲載箇所を取り出して置きます。加えて、武藤の賀川全集で触れられ ている短い⽂文書も添えて置きます。 歌集『発⾞車車』 賀川豊彦 明治廿⼀一年年七⽉月⼗十⽬目神⼾戸市の⽣生れ。基督教伝道者、また社会事業家として知ら れ、協同組合運動の先駆者として「無⾎血精神⾰革命」を主唱、現在⽇日本社会党顧問、 キリスト新聞社社⻑⾧長。各種公職の数は列列挙のいとまがない。詩集『涙の⼆二等分』 『銀⾊色の泥泥蔀』の他『死線を越えて』 『⼀一粒粒の⻨麦』 『キリスト』等⼩小説集、童話集、 論論⽂文集等著書百五⼗十余冊。『草苑』同⼈人。 (東京都世⽥田⾕谷区) あゝ⽇日本は降降伏した 南に去りしもの遂に婦らず 北北に往きしもの遂に戻らず 空に⾶飛⽴立立ちしもの 永遠に帰らず 海に⾏行行きしもの まだ姿を⾒見見せず ⺟母親は戦死せし⼦子等の写真を胸に抱きて 敗戦を迎え 妻らは⽗父を失ひし ⼦子等の⼿手を引いて 終戦の詔勅に⽿耳を傾く 英雄は地下に沈沈黙し 憂愁は国⼟土を蔽ふ あゝ⽇日本は降降伏した! 涙の洪⽔水に 飢⺠民は押流流され 咽咽び声は街頭に漂ふ 平和よ、おまへの扉は ⼼心の内側に開いてゐる! 光栄よ、おまへを探すものは 霊魂の内側に尋ねるべきだ あゝ⽇日本は降降伏した それは予期されし如く来たり 予期された結果を⽣生んだ! 歴史は透明なものだ 歴史は硝⼦子張りの室だ ⾒見見透しがきく万化鏡だ! あゝ⽇日本は降降伏した ⼀一⼀一九四五・⼋八・⼆二六六- 森の⼩小笹よ途ひらけ 松よ 檜よ 杉の⽊木よ 間々⽥田の森に 呼吸する 鳳凰(ほうわう)の⼦子らを 翼(はぐく)めよ! 世紀の焔 ⾝身を焼けど あゝ鳳凰は 甦る 灰塵よりぞ 甦る! 苦難の嵐嵐 猛る時 静けき森に 巣籠籠れば 梢の⿃鳥よ 糧糧運べ! 今⽇日勤労に ⾝身を固め ⽇日本のなやみ 背負ふ⾝身に 森の⼩小笹よ 途ひらけ 憲兵隊が私を殺すと云ふ注意を受けて森に隠れし時、詠ひし歌 ――⼀一九四五・⼋八・⼆二五、栃⽊木県間間⽥田の森にて ⽇日本娘 試練は汝をきたえ 苦悩は汝をねる 逞しき⽇日本の娘よ 封建の鉄鎖、汝の胸より落落ち ⽇日輪輪は汝のために輝く 秀麗麗の⼦子、⽇日本娘 逞しくも⽴立立ち上り 裾(すそ)短く、腕まくし上げ 活溌に労作に急ぐ、⽇日本娘 終戦と共に涙をぬぐい 微笑もて颱⾵風をむかへ 地辷に、地震に、低き下駄穿(は)きて 髪の⽑毛も短かく 永遠の処⼥女女の悦びを持ちつつ ⻘青空に躍る光波を浴びて 「⽔水遠」に接近するその柔和なる⼼心 ⽇日本娘よ、海洋の⼦子よ! 数多き娘ら、駅より溢れ出で さっそうと群をなして 家路路に帰り⾏行行く⼥女女学⽣生、⼯工⼥女女たち― ⾝身軽きジャケット、靴下もはかず 胸をはり、肩をいからせて歩む 若若きしとやかなる姿 汝らの⺟母が 重き帯にしばられ ⻑⾧長き袂に苦しめられし 昔を忘れ、敗戦を区劃として 勇躍(ゆうやく)⽴立立ち上る勇しき姿! 過去を葬り、未来に⽣生き むくむくと春の若若芽の如く ⽴立立上るそのかんばせ! ⽇日本の為めに 私はおまへ達を祝福しよう ⽇日本娘-― ―⼀一⼀一九四七・⼀一〇・三 出雲今市にて 林林を縫ふ⼩小川 林林を縫ひ 森を貫いて 釧路路(くしろ)川は ⾛走る 摩周(ましゅう)⼭山麓 ⽩白樺の原⽣生林林をかすめて ⼋八⽉月・・・秋、北北海道の⾼高原 永遠に下へ下へと 俗塵を押しやる 藍藍の⾊色 絲葉葉にはゆ 弟⼦子屈(でしかが)の宿 静かな朝! ―北北海道阿寒国⽴立立公園にて 駿⾺馬の⼦子を 借りて来い! ラッパに響け、⾓角笛よ呼ばはれ ⽇日本の再出発だ キリストの約束で、三千年年の暗⿊黒を打破り 平和と希望の 解放の時が来た! 軒の雀も 野原のひばりも 声を合わせて 呼はるが善い 神の出御だ、光明の⽇日だ! 坑内深く うづくまる鉱夫も 海洋遠く 波濤にもまれてゐる ゼベダイの⼦子等も ⾒見見上ぐるがよい! そら、あそこに、希望を教へる ベッレヘムの星が 光ってゐるではないか? 罪に泣く ⽇日本の⺠民衆は キリストの出御に 間に合せるために 綜欄の杖を折って来い! そして驢⾺馬(ろば)の⼦子を 引いて来るがよい! これからキリストが その驢⾺馬(ろば)に秉って 東京に⾏行行進せられるのだ! ⼀一九五四年年 武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』346⾴頁 『発⾞車車』に寄稿した詩について 昭和三⼗十年年⼗十⼆二⽉月、キリスト新聞社から発⾏行行された基督者詩歌集『発⾞車車』には賀川は四篇の詩を寄せた。 ⼀一九四五年年⼋八⽉月⼆二⼗十六六⽇日に詠んだ『あゝ、⽇日本は降降伏した』は読者をして終戦時の感慨を新にさせる。 『森 の⼩小笹よ、途ひらけ』は本⽂文よりもこれに附した註に興味がある。 『憲兵隊が私を殺すという注意を受けて 森に隠れし時詠ひし歌-⼀一九四五・⼋八・⼀一五、栃⽊木県間々⽥田の森にて』とある。降降伏直後、まだ軍部の⼒力力 がほとぼりの如く残っていた時、賀川を殺そうとする企てがあったのかも知れない。この翌⽇日、すなわち ⼋八⽉月⼆二⼗十六六⽇日附で賀川は東久層内閣の参与となったのである。 第133回 宇宙の⽬目的 昭和33年年6⽉月25⽇日 毎⽇日新聞社 365⾴頁 本書『宇宙の⽬目的』は、賀川豊彦の代表作です。 『死線を越えて』や『⼩小説・キリスト』なども勿論論彼の 代表作といっていいのですが、やはり賀川豊彦が72年年の⽣生涯を貫いてたどり着いた最⼤大の労作は本書『宇 宙の⽬目的』であると⾔言えるでしょう。ただし本書の扱う内容は、彼の著作の中では最も難解なもので、毎 ⽇日新聞社から刊⾏行行されましたが、多分初版が出ただけで、版を重ねることはなかったのではないかと思い ます。しかし、⽣生前に本書が完成して、関係者がその出版を祝す集いも持たれたことも、喜ばしいことで した。 難解な中にも、 「私の友⼈人武内勝⽒氏」のことなども書き込まれていたり、とりわけ本書には、賀川の思想 の芯にあたる、現在に、また未来に受け継がれる表現が刻み込まれていて、ひきつけられるものがありま す。ここでは、本書の表紙と「序」、そして全集の武藤富男⽒氏の解説も取り出して置きます。 序 宇宙悪の問題と取り組んだのは、私の⼗十九才の時であった。私は原⼦子論論を研究するために京都⼤大学の⽔水 野敏之丞博⼠士を尋ねた。それは⼀一九⼆二⼀一年年ごろであった。⼀一九⼀一四年年七⽉月第⼀一次 世界戦争の勃発とともに、⽶米国プリンストン⼤大学におもむいて「哺乳動物の進化 論論」を専攻した。その後私はいそがしい⽇日本の社会運動の暇をぬすんで「宇宙悪 とその救済」を研究しつづけた。シナ事変のとき平和運動のために東京渋⾕谷の憲 兵隊の独房に拘置せられ、さらに巣鴨刑務所に移された。そのときも私は「哺乳動物の⾻骨格の進化」の書 物を獄中で読んでいた。 太平洋戦争が始まる少し前から、私は宇宙悪の問題を宇宙⽬目的の⾓角度度より⾒見見直し、宇宙の構造に新しい 芸術的興味を感じるようになった。私は宇宙の構築に神秘的発展が、まだ進⾏行行中であることを深く感じる。 それで、私は、それに結論論を出すことをいそがないで、宇宙の⼀一⼤大演出をただ⾒見見ておりたいと思う気がす る。しかし、私かあまりひとりで考え込んでいることも周囲の⼈人々にすまないので、私の宇宙の⾒見見⽅方の⼀一 端をここに発表し、宇宙芸術の味わい⽅方を世界の⼈人々に知ってもらいたいと思うのである。 校正のために努⼒力力せられた吉本浩三⽒氏に感謝する。眼病の私に、校正は困難であった。それを吉本⽒氏が 助けてくれた。このほか、微⽣生物の⾷食物選択について御教⽰示をいただいた中村浩博⼠士と原稿を整理理してく れた⿊黒⽥田四郎郎⽒氏、外国の科学者ではノーベル賞受賞の諸学者、特にミリカン博⼠士、パウル・コンプトン博 ⼠士、パウリング博⼠士、アーネスト・O・ロレンス博⼠士たちは、実験にあるいは疑問に未熟な私をいちいち ⼿手引きされた。また本書の出版についてお世話になった毎⽇日新聞社会⻑⾧長本⽥田親男⽒氏にも改めてここで感謝 を捧げる。 ⼀一九五⼋八年年初夏 賀 川 豊 彦 武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」より 『宇宙の⽬目的』について(冒頭に部分のみ) ⼀一、畢世の著作 ⼈人間社会の罪悪、⾃自然界に起こる災害、個⼈人の悪性、⾮非⾏行行、病気、貧困、死、苦難等を綜合して賀川は 『宇宙悪』と呼んだ。宇宙悪への疑問は、彼が、明治学院神学部予科を卒えて神⼾戸神学校に移る頃、すで に⼼心中に萌していた。すなわち⼗十九才の時、彼はこの問題と取組み、これを解決しようと志したのである。 宇宙悪の謎を解くためには、宇宙そのものを探究しなければならない。すなわち天⽂文学からはじめて、 地質、⽣生物、物理理、化学等の⾃自然科学部⾨門を究め、社会、法律律、倫倫理理、宗教等⼈人⽂文科学部⾨門に及ばなけれ ばならぬ。賀川は⼀一九⼀一⼆二年年、⼆二⼗十四才の時当時学界に波紋を起こしつつあった原⼦子論論に興味をもち、京 都⼤大学に⽔水野敏之丞博⼠士を訪ね教えを乞うている。⼆二年年後、プリンストン⼤大学に⼊入学するや、彼は⽣生物学 を学び、 『哺乳動物の進化論論』を専攻した。プリンストン⼤大学⼊入学試験の時、彼がすでに進化論論について教 授たちを驚かすだけの学殖をそなえていたことは横⼭山春⼀一著『賀川豊彦伝』に記されているところである。 帰朝後、社会運動や伝道に没頭している時も、彼は暇をぬすんで『宇宙悪とその救済』について研究を つづけた。 『苦難に対する態度度』 (本全集第⼆二巻収録) 『残されたる刺刺』などは宗教的⽅方⾯面から観察した宇宙 悪の解釈であり、『⽣生存競争の哲学』(本全集第九巻収録)は⽣生物学の⽅方⾯面から宇宙悪を取扱った著作であ る。 字宙悪の問題と取組んで半世紀を送った賀川が何故に『宇宙悪』という書を著わさずに『宇宙の⽬目的』 という本を書いたかということは興味ある課題である。宇宙悪の研究から出発した学徒賀川は、宇宙その ものの研究をして⾏行行くうちに、天体から原⼦子に⾄至るまで、⼈人間から微⽣生物に⾄至るまで、すべての存在に⽬目 的のあることを発⾒見見したのである。そこで彼の哲学は次第に⽬目的論論に傾いて⾏行行き、宇宙悪の問題は宇宙⽬目 的との対⽐比において、彼の表現を⽤用いれば『宇宙の⽬目的の⾓角度度から』解決されなければならぬこととなっ た。更更に宇宙⽬目的を探究して⾏行行くうちに、⽬目的論論のほうが賀川哲学の主題となり、宇宙悪はその副題に転 じてしまったのである。このことは本書の⾃自序及び全休の構成を⾒見見れば明らかである。 晩年年の賀川が、どんなに本書の著述に⼒力力を注いでいたかは、彼が⼝口癖のように『宇宙⽬目的論論を書かなけ れば』と⾔言っていたことに⽰示される。講演や伝道の依頼、⾯面会の申込みなど断る時、彼はいつも『宇宙⽬目 的論論を書かなければならないから』といっていた。世を去る前に、⼗十九才の時から念念願していた著述を完 成しようとして、彼がどんなに焦慮していたか、また絶えざる研鑽を積みつつあったかを、このことによ って知るのである。 宇宙⽬目的論論を導き出す契機となった宇宙悪の着想を彼はどこから得たかということもまた興味ある課題 である。この点について彼は⾃自ら語っていない。これを次の四点から推定してみよう。 第⼀一は彼の境遇である。妾の⼦子として⽣生まれ、幼にして両親を喪い、孤独のうちに⽣生育した彼は、少年年 時代においてすべて⼈人⽣生の不不幸や苦難について思いをめぐらせていたのではあるまいか。 第⼆二は旧約聖書のヨブ記である。⼗十七才にして明治学院に⼊入学し、その図書館にある本をすべて読みつ くそうと志した彼は、恐らく旧約聖書ヨブ記を精読したにちがいない。ヨブ記は宇宙悪の問題を提起した 書物として古今無双の名著である。ヨブの苦難及びヨブが友⼈人たちと⾏行行なう問答、そのうちに盛られた深 遠な思想は聡明にして多感な⻘青年年賀川をして、宇宙悪の問題と取り組みこれを解決しようとする志を抱か せたにちがいない。 第三は彼の病気である。結核のため死を宣告された⻘青年年賀川が、どんなに煩悶したかは想像に難くない。 病気と死について、彼は深く考えたにちがいない。学問の課題としてよりも、むしろ体験として彼は宇宙 悪と取り組んだのである。 第四は⼆二⼗十⼀一才の時⼊入って⾏行行った貧⺠民窟の体験である。彼はここで⼈人間社会の貧困と悲惨と罪悪とをつ ぶさに観察した。そしてその因って来るところが、単なる経済や社会制度度の問題でなく、更更に深いところ に存することを⾒見見出した。そして宇宙悪の救済についての研究にいよいよ本腰を⼊入れようと決⼼心したよう である。 かくて宇宙悪を解決せんがための宇宙学あるいは宇宙哲学は、天才が五⼗十余年年に亘る研鑽の結果、宇宙 ⽬目的論論となって世にあらわれたのである。(以下、⻑⾧長⽂文の「解説」が続く) 第134回 空の⿃鳥に養われて 昭和33年年7⽉月10⽇日 キリスト新聞社 198⾴頁 本書『空の⿃鳥に養われて』は、前回の『宇宙の⽬目的』のひと⽉月後に仕上げられたもので、戦後賀川⾃自⾝身 が創刊したキリスト新聞社の創刊号(昭和21年年4⽉月27⽇日)から昭和35年年1⽉月1⽇日までの13年年間、 ⼩小さなコラム「不不尽油壷」に連載した随筆集です。このコラムのあと、1959年年12⽉月の最後の作品ま では、賀川豊彦全集24巻に「続・空の⿃鳥に養われて」として収められました。 ここには本書の表紙と序、そして武藤富男⽒氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」を取り出して 置きます。 序 敗戦の真最中、憲兵の⼀一⼈人が、私を殺そうと待ち構えていた。その時、友⼈人の⼀一⼈人は茨城県の森の中に 隠してくれた。 ダンテがイタリー、フローレンスを追われて⻑⾧長い期間、放浪浪の旅に出たように、私は、瀬⼾戸内海の孤島 に⾃自らを幽閉した。その時も、預⾔言者エリヤを守られた創造主は、私をも守護し給うた。私は不不思議に、 その⽇日の糧糧には困難しなかった。旧新約聖書の物語は昔話ではなかった。私の⼀一⽣生は、旧約聖書の物語を 限の前に⾒見見た。天から⽕火の⾬雨が降降った。百四⼗十九の⼤大都市が全部焼けてしまった。原⼦子爆弾が廿⼀一万の⼈人 間を焼殺した。死骸の⼭山を乗り越えて、私は新しき神の国建設のために働いた。 ダンテは「神曲」の天国篇に、 『神が笑い給う』と書いているが、私は、神の咽咽び泣きを戦歿者の死骸の 間で闘いた。この神の咽咽び泣きを⽿耳にはさみながら、過去⼗十三年年間のみめぐみを綴ったのがこの⼀一篇であ る。⽇日本も⼗十三年年間に変った。敗戦後の闇はややあかるくなった。しかし、闇の⼒力力は衰えないで、国⺠民は 相変らず苦しんでいる。 しかし私は、新約聖書の⼗十字架愛がロマ時代の暗⿊黒に打勝ったように、アジアにおいても勝利利であるこ とを信じている。 ⼀一九五⼋八・五・⼆二五 賀 川 豊 彦 武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』370⾴頁〜~372⾴頁 『空の⿃鳥に養われて』について 昭和⼆二⼗十⼀一年年三⽉月、賀川の発案によってキリスト新聞社が創設され、同年年四⽉月第⼀一号が発刊されるや、 社⻑⾧長に就任した彼は毎号『不不尽油壷』と題して第⼀一⾯面右側下段カコミの中に随筆をのせることを買ってで た。海外旅⾏行行などでたまに中断することがあったが、この時から昭和三⼗十四年年に⾄至るまで、四百字原稿紙 ⼆二枚の短⽂文を⼗十三年年間書きつづけたのである。 昭和三⼗十三年年(⼀一九五⼋八年年)に、その時まで賀川がキリスト新聞に連載した短⽂文を⼀一まとめにして出版 しようという議がもち上がり、その結果、同年年七⽉月⼗十⽬目、キリスト新聞社から発⾏行行されたのが本書である。 『不不尽油壷』という本は本全集第⼆二巻に宗教論論⽂文集として収録されており、その⼝口頭にエリシャの故事 (旧約聖書列列王記下第四章)を引いて由来を記してある。本書にも⾒見見出しの中に同じ表題がある。本書の 書名をなす『空の⿃鳥に養われて』というのは旧約聖書列列王記上第⼗十七章⼀一節乃⾄至七節に記された故事から 取ったものである。迫害を避けてケリテ川のほとりに⾝身をかくした預⾔言者エリヤは、ガラスが朝ごとにパ ンと⾁肉を運び、⼣夕ごとにパンと⾁肉を運んでくれたので、⽣生命を保つことができた。賀川は満洲事変以後、 その平和思想のため、また平和運動のため、官憲及び社会の圧迫を受けて、⽣生活に苦しんだが、カラスが エリヤを養ったように『天の使が、あすこから少し、こちらから僅か、⼀一家族が飢えない程度度に⾷食糧糧を運 んでくれた』のであった。エリヤのカラスは今⽇日も⽇日本の空を⾶飛んでいるというわけである。 随筆集であるから各篇については系統的な解説ができないので、筆者が興味を感じた句句を次に抜き出し て感想を述べよう。 第⼆二章『空の烏に養われて』の中に、『四⼗十を過ぎて』という⼀一⽂文がある。『性欲も物欲も名誉欲も権⼒力力 欲をも離離れて、天⽗父のことをのみ思いうるのは六六⼗十才からである……みめぐみによって病気しながらも六六 ⼗十の坂を越した。そして霊魂の聖化ということがやっと判ってきた。宗教はやはり永⽣生の問題である。』六六 ⼗十に近づき、⼋八⼗十を過ぎた⼈人がここを読むといろいろと考えさせられるであろう。 第四章『桑の新芽』にある「多忙」中の⼀一句句。 『多忙なものほど規則正しく⽣生活すれば、多忙のうちにも 神よりの慰安が与えられる。神なき多忙は天罰である。』神なき多忙にある⼈人は、あゝ忙しい、あゝ忙しい といいながら⽣生命を浪浪費しているのである。同じ章に『雲雀よ!⽇日本に讃美歌を教えてくれ』の中には次 の句句がある。 『⻘青空でなければ歌わない雲雀は、地上のほこりを離離れて、⼆二つのつばさを激動させながら⼼心 臓がはりさけるような⼤大声で創造者への讃歌をうたいつづける。』⼤大空におけるひばりの讃美歌は、詩⼈人賀 川ならでは感じえないところであろう。 第五章『路路傍の⼩小⽯石との⽴立立話』の中にある『平凡の黙⽰示』の⼀一節――『平凡は神の黙⽰示であり、神の黙 ⽰示は良良⼼心の⾄至聖所に受取られる。』これは預⾔言者エレミヤが鉄瓶に吹く湯気、⼟土中の帯、破壊された甕など 平凡な事物を実例例として神の黙⽰示を語っていることを述べたものであり、⼀一瞬間のささやきに神の⼤大⽅方針 が⽕火柱の如く照りかがやくことを⽰示したものである。 同じ章の『パン屑』の項には『たばこ銭と酒代とを節約すれば、⼦子供⼀一⼈人学校へやるだけの資⼒力力はでき る』の⼀一句句があり、これまた教育論論として今⽇日の社会にあてはまる。 第六六章『宇宙を裏裏側からのぞく』の中にある『天井裏裏の凪』には⼭山上の垂訓をもじった句句があって⾯面⽩白 い――『屋根裏裏の凪を⾒見見よ、彼は武器も持たず、原⼦子爆弾も作らない。しかしこの種属を神はなお繁栄さ せ給う。まして⽇日本⺠民族をや、ああ信仰うすき者よ。』賀川は⼦子(ね)の年年⽣生まれである。 同じ章の『天の導き』には『⽇日本の伝道は⻄西から来たポルトガルは失敗し、東から⼊入ったアメリカのキ リスト教が成功した』とあり、英国の伝道が廻り道をしてアイルランドに⼊入り、スコットランドに及び、 次いで英国全⼟土の教化が実現したことと対⽐比している。 第⼋八章『海潮は我等の前に退く』の中にある『夏の⼣夕⽴立立』で、⼣夕⽴立立をさして『三千尺も五千尺も上から 落落ちてくる⼤大きな滝だ!』というところは、賀川流流である。同じ章に『合掌する⼼心』という⼀一⽂文があり、 天の⽗父を『常住の衛⼠士の如く、私につきまわり、⼤大⿊黒柱の如く私を⽀支え、杖の如く私の弱い体をもたげて くれる』というのは、詩篇を読むような感を与える。 第九章『植物に成ってみる』の中にある『栗栗の秋』には猿カニ合戦の話がでており、カニのように横ば いしなければならぬ時代には、我々は蜂(蜂蜜)、栗栗(殼果)⾅臼(製粉)の応援を得なければならぬといっ ている。戦後の⾷食糧糧事情と⽴立立体農業とを⽐比喩的に説いていて⾯面⽩白い。 『植物に成ってみた』賀川は、⽚片⽬目に 眼帯をかけ、⽚片眼で⽊木の枝先を⾒見見つめ、 『全⾝身病の問屋のような私でも、⽣生命がつづいてきただけ宇宙の戯 曲を永く⾒見見てきた⾯面⽩白さはあった……天とにらめっこをすると、⻘青空が枯枝の先端に輝き、私はもう永遠 に引越したような気になる。』永遠に引越すとは永遠の中に転居するの意である。 第⼗十章『⼭山茶茶花の囁やき』の中にある『独居』の中には次のような⾯面⽩白い句句がある――孔⼦子は⼩小⼈人閑居 すれば不不善をなすといっているが、閑居して最善をなしうる者にのみ天下をまかせうると私は考える。 『満 ⾜足⽣生活』の項には『⾜足らぬ、⾜足らぬといつもこぼしている⾦金金持に⽐比べて“兄弟持って⾏行行け”と、困っている 友⼈人に末代を持たせる労働者のほうが、はるかに⾦金金持である』とあり、パウロがコリント後書⼋八章に書い ているように『恵みのわざに富む』ことが真に富むことであるのを⽰示している。 第⼗十⼀一章『収穫への感謝』に『屋根の落落葉葉が話す』くだりがある。屋根の落落葉葉が⼟土になり、その上に雑 草が若若芽を出しかわいらしい畑が出来ていることに⼼心を打たれているのである。 第⼗十⼆二章『恒星を凝視する⼼心』においては『鏡』という⼀一⽂文が印象的である。眼がわるい賀川は、時に 鏡を⾒見見ても、⾃自分の顔に⽬目がついていない顔がうつる。その時鏡を⾒見見る気がしない。魂が濁ってくると、 鏡としての神が邪魔になることを、この⽐比喩をもって説いているのである。 その他この書には敗戦直後の⽇日本の混乱と腐敗をなげき、⽇日本⺠民族の再起への祈りが満ちている。そこ に本書の特質があるといえよう。 第135回 賀川豊彦集(現代知性全集39) 昭和35年年2⽉月27⽇日 ⽇日本書房 283⾴頁 本書『賀川豊彦集』 (現代知性全集39)は、上記のように昭和35年年2⽉月27⽇日の奥付で出版されまし たので、賀川豊彦は前年年(昭和34年年) 「1⽉月6⽇日に急性肺炎より⼼心筋梗塞塞症を併発して病臥し今⽇日に⾄至る。」 (本書巻末の「年年譜」記載)とあるように、4⽉月23⽇日に⾃自宅宅において召天するおよそ⼆二⽉月前のことです。 本書の「序」は「1960年年2⽉月」と記されていますから、この序⽂文が賀川豊彦の最後の遺稿と⾒見見られ るかもしれません。この序⽂文は拙著『賀川豊彦の贈りもの』でも取り上げたことがありますが、ここまで 「作品の序⽂文など」を連載してきた最後にふさわしい、賀川ならではの⽂文章です。 本書は「⼀一粒粒の⻨麦」 「表現の世界」 「黙想断⽚片」 「愛の科学」 「⾃自然が芸術となるまで」の5章構成ですが、 編者の名前はあげられていません。賀川⽣生前の最後の「年年譜」も貴重なものです。当時、 『賀川豊彦伝』を 纏めた横⼭山春⼀一⽒氏も、賀川と歩みをともにしてきた村島帰之⽒氏も、また『百三⼈人の賀川伝』を準備中だっ た武藤富男⽒氏もご健在でしたから、本書の編者として考えられますが、本書の性格からして、恐らく鑓⽥田 研⼀一⽒氏がこの作業に当たったのではないかと、勝⼿手に想像していますが、どうでしょうか。 なお、本書は『⼈人物書誌⼤大系:賀川豊彦25』によれば、昭和35年年8⽉月20⽇日付けの版並びに昭和3 5年年5⽉月15⽇日の「召天記念念版」が出ているようですし、先年年、内容はその ままにして復復刻版も刊⾏行行されています。 序 意識識を持つ者が意識識の本源を尋ね、宇宙意識識と⾃自⼰己意識識を連絡せんとする 努⼒力力が発⽣生する。この努⼒力力が本書になった。 ⼤大きく分けて、東洋流流の意識識運動は、⾃自⼰己以外に意識識の本源を探がし、⻄西洋の宗教哲学は、⾃自⼰己のうち に宇宙を探がさんとする努⼒力力であった。この⼆二つの傾向を⼀一つにせんとするのが我々の任務でなければな らぬ。 ⽣生まれ落落ちてから今⽇日まで我々は、⼀一種の⼤大砲の⽅方針として存在する。刻々の⽣生活は、実弾発射の訓練 であると考えてよい。世界の宗教史はこの訓練の上にひろがっている。あらゆる努⼒力力、あらゆる修業は、 この範囲を出ない。このうちで最も純粋なものは歴史的発展の記録を残している。これが経験である。そ れで我々は、おごそかな気持でこの経験をしらべる、経験は七種類に分類出来る。 ⼀一、神を知らんと努⼒力力した者 ⼆二、神の⼦子にならんとした者 三、⾃自然を通じて宇宙の本体と同化せんとした者 四、歴史科学のうちに⾃自然以上のものを発⾒見見しようとした者 五、美及びその類似したものに宇宙の⽅方向を発⾒見見せんとした者 六六、善のあらゆる努⼒力力のうちに宇宙の悪を克服せんとした者 七、最暗⿊黒の奥にも失望しない努⼒力力を払わんとした者 素直にこの七つの⽅方式を調べると、⼀一つびとつ特⻑⾧長を持っている。私は 組織的に記述していない。確かにこの書には、筋道を書いている。宗教で 云う救いというのは結局、悪が勝利利でないと云うことを証明せんとしてい る。キリスト等は、義のために責められる者は幸福なり天国はその⼈人のも のなりと、悪の世界を慴れないで、突進すべきことを教えた。ここにキリ ストの強い信仰があった。 私は凡ての⾏行行者、凡ての経典に教えられて、路路傍の雑草にも⽣生命の⽣生き抜く道が何処にあるかを知らん としている。それで私は、科学と宗教を⼀一つにし、芸術と倫倫理理⽣生活を統⼀一せんと努⼒力力して来た。結局私⾃自 ⾝身の⽇日常⽣生活が、神に向って発射された砲弾である。この砲弾は神が準備し私がその引き⾦金金を引かねばな らぬ運命にある。それで私は、神を信じ、霊魂の不不滅を信じ、神の国の実現を刻々待っているのである。 ⼀一九六六〇年年⼆二⽉月 賀 川 豊 彦 補記 溢恩記(武藤富男著『溢恩記注』) 賀川豊彦の⽇日記などは『賀川豊彦初期史料料集―1905(明治38)年年〜~ 1914(⼤大賞3)年年』として既に平成3年年7⽉月に緑陰書房より刊⾏行行されて いますが、⼤大正元年年12⽉月17⽇日付の賀川豊彦の⽇日記『溢恩記』(NOTE BOOK)(コピー版)を、1987年年10⽉月に賀川純基⽒氏より寄贈を受け ておりました。加えて、武藤富男著『溢恩記注』(発⾏行行など奥付のなどのな い45⾴頁の珍しい作品)の⾏行行き届いた作品もあり、⼤大変参考になりました。 なお、その前の賀川の⽇日記で『雲の柱 露露の⽣生命』 (千九百⼗十年年・救霊団)」 (230⾴頁)のコピーもいた だきました。この⽇日記は、布川弘⽒氏の「史料料紹介・賀川豊彦の『⽇日記』」(『部落落問題研究』(103号、1 990年年1⽉月)で部分紹介がおこなわれており、同じく布川⽒氏の⻑⾧長期連載「近代の社会的差別」(『⽉月刊部 落落問題』1995年年〜~2005年年)に於いても、賀川の⽇日記などを取り上げた検討が⾏行行われています。布 川⽒氏のこの労作は、私の仕事場在職中にご寄稿いただいたもので、いずれ著作として刊⾏行行されることを期 待しています。ここでは『溢恩記』と武藤⽒氏の『溢恩記注』、そして『露露の⽣生命』の表紙のみをスキャンし て置きます。
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