「葬儀セミナー」 2015 年 6 月 20 日 カルバリーチャペル西東京にて 1A 生死の主権者 1B 支配できない領域 2B 神の恵み 3B 偶像「支配しようとする試み」 2A 死者の復活 3A 葬儀の主役 1B 神ご自身 2B 追悼と慰霊の違い 本文 みなさん、こんにちは。私たちの初めての試み、キリスト教による葬儀セミナーにお越しくださり、 ありがとうございます。初めに取り組みたいのは、「キリスト者にとっての、死、墓、そして葬儀」で す。私たちにとって、死や墓、そして葬儀を取り扱う時には、必ず一つの宗教の中でそれを行なう ようにされています。仏教ですね。それは第二部、山東さんがどうして日本がそうなったのかを話 していただきますが、死、墓、葬儀となれば、それは仏式ということになります。けれども、他宗教 でも葬儀はもちろん行われています。神道においても葬儀があります。しかし、キリスト教の葬儀 というものが、一体、どういうものなのか触れる機会は、ほとんどないと思います。クリスチャンでさ え、あまり参加したことがないでしょう。 しかし、実はキリスト者の信仰ほど、死や墓において、はっきりと表明されるものはありません。 誰がキリスト者で、そうでないかを分けるものは、教会に来ているかどうかではありません。「キリ ストの死とその復活を自分のものとしている者」に他ならないからです。キリストが自分の罪のた めに死に、墓に葬られ、そして三日目に甦られた、このことを信じ、そしてイエスを自分の人生の 主として迎え入れる者が、死後に、地獄ではなく天国に行くというものです。そして、世界が新しく された時に、私たちはその神の国を相続するという信仰であります。 バプテスマ(洗礼)というのも、実はその水は「墓」を表しています。罪によって支配されていた古 い人がキリストと共に死に、水の中に入ることによって、キリストと共に墓に葬られたことを示し、そ して水から上がってくる時に、キリストと共によみがえったことを示します。ですから、キリスト者は、 肉体は生きているのに、霊的には一つの葬儀を経ていると言ってよいでしょう。ですから、死と墓、 葬儀というのは、キリスト者にとってはあまりにも身近な存在であり死という問題に体当たりしてい る信仰です。 1 1A 生死の主権者 1B 支配できない領域 ところで日本の人々に特徴的なのは、「死ぬことは考えられない」というものです。クリスチャンが、 イエス・キリストの福音を信じていない人に伝えます。そして尋ねます、「もしかしたら、明日、病気 や交通事故で死ぬかもしれません。死んだらどうなると思いますか。」すると答えは、「そんなこと 考えられない。」というものです。そして、「死んだら終わりだ」と答えます。でも人は必ず、一度、死 ぬことが定められています。これは、誰も免れることのない事実です。ある癌の研究者が、講演で こう言いました。「癌によって死ぬ日本人は二人に一人です。」そうすると、聞いている人は必ず、 「この隣にいる人が癌になるのだろう。」と思っているのだというのです。自分が癌にかかり、死ぬ という想定ができない、「いつまでも生きているだろう」という願望を漠然と、けれども非常に強く抱 いています。 なぜ、ここまで死ぬことが受け入れられないのかと言いますと、「自分で生きていく」ということ以 外を考えられないからです。物心が付いたときから、自分は自分の意志で生きてきたという意識 があります。けれども、死というものは、それを不可能にします。自分で何とかするということが、そ の時に全くできなくなるからです。自分が自分のことを制御し、支配できない領域、それが死です。 実は、既に私たちは、その領域を経てこの世にいます。そうです、誕生です。赤ん坊として誕生 する時に、私たちは全く自分では何もできなかったのを知っています。そうです、この領域は、この 生命を与える主のみが支配している所です。私たちキリスト者は、天と地を創造した神を信じてい ます。そしてこの神こそが、命を与え、また命を取る力を持っています。ヨブと言う人は、このように 信仰告白しました。「1:21 私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与 え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」自分の命の誕生を全く自分で支配することができ なかったのに、このように生まれてきた、その生命の主が、これから死ぬ時も、その死を定めてお られるのです。 したがって、死というのは神の領域です。「伝道者 12:7 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下 さった神に帰る。」死後の世界は、地獄であれ、天国であれ、完全に神の領域にあります。これを 何とかできる物では全くなく、私たちはゆえに、葬儀において、仏式にあるような、死者との交流と いうものはせず、もっぱら、人の命を与え、また取られる神のみを認め、この方に自分の魂を静め る、つまり礼拝を行ないます。 2B 神の恵み いかがでしょうか、生命の誕生と死の時だけが、果たして自分たちの支配できない領域でしょう か?実は、その間に生きている私たちは、自分ではどうすることもできない領域に生きていないで しょうか?心臓を一つ動かすことはできないし、息も今、神が止めようと思えば止めることができけ れども、自分には支配できないことは明らかです。したがって、私たちは神の恵みによって生きて 2 います。母親の胸に抱かれた赤子のように、今の命を生かしていただいているのです。 しかし今、自分がしなければいけないことだけを考えている。それを聖書では「罪」と呼んでいま す。聖書が言っている罪は、神を神と認めず、心を虚しくしていることです。命を支配している神を 知らないこと、意図的に拒んでいること、これを罪と呼んでいます。そこに自我が生まれ、そして 「自分が生きていくのだ」という自己中心性が生まれ、それで我が儘になり、表に出てくる罪を犯し ています。例えば、空気を吸うのは全く神に拠っているのに、それを認めないことが罪です。 3B 偶像「支配しようとする試み」 そこで人間は、代わりの神を心の中に作っています、それは、自分を支配している神ではなく、 自分の操作で動いてくれる神のことです。これを形として造ると、偶像になります。それが、日本の 宗教観です。まず、死そのものを否定します。死ぬことを、「死んでも、その人はそこに生きてい る。」という死の否定を行ないます。それで、神道の場合であれば死んだらカミになる、仏教であれ ば死んだら仏になると言います。けれども、死んだら、全く自分たちの領域から離れた天地創造の 主、命の神のところに行くというのが、私たちの考えです。けれども、日本の死生観では、そのまま 自分のそばに死んだ人がいてくれて、それで自分が何とかその人と語り合うことができるようにし たいのです。そして、仏式における法事というのは、その供養がすべて、死んだ後の人々を供養 するということ、死者の霊に対する奉仕になっています。このようにして、死後に対しても自分たち が何らかの形で関わって、操作することができると願いたいのです。 2A 死者の復活 キリスト教が定義している「死」とは、自分の努力では全く何もできない、無能であり、倒産状態 であるということを意味します。単に、自分が肉体として死ぬだけを意味していません。しかし、希 望があります。むしろ、自分というものに対する死を経るからこそ、希望に満ちあふれています。そ れは、キリストが死に、葬られたけれども、甦られたからです。 キリストが死なれたように、私たちも罪に対して死んだ。そし て、キリストが葬られたように、私も自分の努力で生きていこう とするそうした自分も葬られた。そして今生きているのは、甦ら れたキリストを信じて、キリストが生きて内におられるからだ、と いうことです。ですから、私たちが墓を見る時は、新しい命を見 ます。復活の信仰です。パウロという宣教者がこう言いました。 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生 きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるので す。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のために ご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているの です。(ガラテヤ 2:20)」 3 ここにあるのは、あるキリスト教の墓地の入り口にある写真です。墓がたくさんあるところで、こ の人たちが墓から甦る、ということを信じてこう記しています。キリスト者は墓を見る時に、キリスト が甦られたように、自分もキリストが天から戻ってこられる時に、体をもって甦ることを信じていま す。イエスがマルタに言われました。「ヨハネ 11:25 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたし を信じる者は、死んでも生きるのです。」そして、キリストが天から戻って来られることを私たちは信 じていますが、その時に死んだ者も復活し、生きている者は体が変えられて、共に引き上げられる ことが約束されています。「1テサロニケ 4:16-17 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッ パの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めに よみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げら れ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」 3A 葬儀の主役 このことを踏まえて、キリスト教の葬儀は進行していきます。 1B 神ご自身 他の冠婚葬祭でも同じですが、キリスト教においては、結婚式でも葬式でも、主役は誰か決まっ ています。それは、「神ご自身」だということです。葬儀の前に、結婚式を考えてみたいと思います。 日本においては、結婚式においてはキリスト教式であれ神式であれ、社会儀礼であり、二人をお 祝いしなければいけないものとして捉えます。しかし、本当にキリストを信じているクリスチャンに おいては、そうではありません。聖書には、はっきりと男女の関係は、キリストと教会の関係を表し ていると書いてあります。キリストが花婿であり、教会が花嫁であることが書かれています。です から、結婚式において、花婿が初めに出場して、それから花嫁が中心に出てきます。それは、天 から来られたキリストが、花嫁である教会を引き寄せて迎え入れる、先ほど引用した、キリストが 空中にまで戻って来られる携挙の出来事を示しています。 私も、カルバリーチャペル所沢に通っておられる若い家族の、その結婚式で司式の通訳の奉仕 をさせていただきました。あまりにも花嫁の方の姿が麗しく、輝いていました。それは、ウェディング ドレスがきれいだとか、その容姿の話をしていません。そうではなく、これから一つになろうとして いる夫婦を通して、神の栄光が輝いていたからです。二人をお祝いは確かにするのですが、それ が主体ではなく、あくまでも神がその栄光を受けるように、神を礼拝するのです。 葬儀も全く同じです。葬儀は厳かな儀式です。私は、人のすべての命を造り、それを支配されて いる神がおられることを葬儀の中で感じ、畏敬の念に満たされます。人は生きている間は、自分で 何とかできると思っています。その人間の力が、普段は神の栄光の姿を見えなくさせています。し かし、人は死を目の前にして何もできない、そこに人がどんなに神に抵抗しようが、やはり神は神 であることを示しているのが葬式です。その人をこの世に誕生せしめ、そしてこの世から取り去ら れたということを認めます。そしてその中間にあった人生の中でも、実は神がすべてを支配して、 4 導いておられたことを厳かに感じることができます。その人についての思い出を葬儀の間に話しま すが、それはその人のことではなく、その人をすべてご自分の手中に入れておられた神を感じ取 るのです。葬儀は、徹頭徹尾、命を与え、命を取られる神に対する礼拝であります。 2B 追悼と慰霊の違い ですから、ここではっきりと、「追悼」と、いわゆる「慰霊」についての違いをはっきりさせたほうが よいでしょう。キリスト者はしばしば、死んだ家族や先祖のことを無視する、ないがしろにすると思 われます。なぜなら、焼香はしないし、遺影の前でも礼をしないであるとか、ある人はその葬儀の 場にも入ってこないとか、とにかく仏式の葬儀の何か、あるいは全てを避けようとする傾向がある からです。その時に、信仰をお持ちでない家族や親族の方々は、人と人の結びつきとして機能し ている、その結びつきを断ち切られたように感じて、それで淋しさを覚え、時に怒りを表します。 実はキリスト者は、親のことも、家族のことも、とても愛しています。教会に来れば、近しい人々 のためにどれだけ祈りを捧げているかしれません。仏式においては、その儀式を行わないので非 情な者と思われるのですが、実は数十倍の時間を、エネルギーを使って、家族や知人のことを思 って祈りを捧げ、愛しています。けれども、その愛し方が違うのです。 キリスト者は飽くまでも、神にあって一つになろうとします。その神との和解を十字架において果 たしてくださったのはキリストですから、キリストにあって一つになろうとします。先に話したように、 人は神に完全に依存しており、それゆえ神の永遠の命にあずかってこそ、初めて人と人が親密に 結び合うことができることを知っています。家族との絆も強いですが、神との絆があって初めてそ の絆が本物になると信じています。 ところが、神無しで日本の多くの人はつながろうとします。人と人の結びつきの中に神がおられ ないので、直接つながろうとします。それが宗教にも影響しています。人の霊はあくまでも神のとこ ろに行くのですが、それがないので、いつまでもその霊とのつながりを求めます。そのため、そうで はないと信じているクリスチャンの行動を見ると、そのつながりをも断たれると感じているのです。 私の周りには、アメリカ人のクリスチャンも多いので、どのようにしてこの日本の宗教観を理解し てもらうか、譬えを使っています。日本では、戦没者などに「慰霊」という言葉を使いますね。靖国 神社のホームページが非常に興味深いですが、「英霊」という言葉も使っています。アメリカでは、 アーリントン墓地などで「英雄を敬う」という敬意(honor)という単語が使われます。キリスト者は、 アメリカのそれに近いです。 つまり、死んだ人、亡くなったご遺体、先祖を非常に敬います。神がくださった人、その遺産は神 からのものとして敬います。そして、ご遺体についても、単なる物質とみなさず、神が下さったもの として丁重に取り扱います。聖書では、旧約聖書から新約聖書の全てに渡って、死んだ人を葬る 5 ことをきちんと行っています。ですから、そのことを具体的に実行しようというのが、私たちキリスト 者の葬儀です。(・喪に服すること(2 サムエル 11:27) •墓石を立てる(創世 35:20) •喪服を着る(2 サムエル 3:31) •遺体を洗う(使徒 9:37) •納棺(ルカ 7:14)) しかし、慰霊は決してしません。敬うこと、慰霊の違いは次の通りです。例えばある夫婦が、誰 かを自分の家に招き入れます。その居間、リビングルームまでは招き入れるでしょう。けれども、 寝室、ベッドルームまで来てもらうでしょうか?これの違いです。夫婦の寝室はその親密なところ であり、そこに入ることは第三者には決してさせません。けれども、居間までには入っていただい て、もちろんそれは客を敬うことです。同じように、私たちは死んだ人々を敬います。その人たちを 追悼します。けれども、その人々の霊を慰めることは決してしません。人の霊というのは、神のみ が親しく交わることのできる部分です。それを他の人が立ち入ることは、ちょうど夫婦の親しい交 わりの場に入るようなものです。これを私たちキリスト者は恐れるので、直接的に死者に対して仕 えると疑われる行為を避けています。「申命 26:14 私は喪のときに、それを食べず、また汚れてい るときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありま せん。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしまし た。」 具体的には、仏式においては、死者に香を焚くことは避けるでしょう。そして遺影の前で深く一 礼することも、避けます。これは死者が霊においてそこにいて、それに対して仕えることになる直 接の礼拝行為だからです。また、同じ行為であってもそれが死者への弔いの行為になる場合があ ります。お棺を花で飾ることはよいことでしょうが、それを死者に対して花を捧げるという、「献花」 になってしまうというのも事実です。ですから、言葉を変えて、それらが死者に対するものではない ことを示すのは大切です。お墓参りにおいては、そのお墓は掃除したりすることはよいことでしょう。 けれども、そこで線香をあげることも、墓に向かって手を合わせることもしません。 しかし、避けることだけを気にしていてはいけません。むしろ、キリスト者として葬儀ということを きっかけに、自分がどれだけご遺族のことを愛しているのか、示すことができます。避けることだけ でなく、他の方法で関わることによってむしろクリスチャンがどのようなことを信じているのか、知ら せることができます。例えば、亡くなった後にすぐにお悔やみを述べる。そして葬儀の中ではなく、 その後でご遺族、残された家族を慰める。葬儀の時は、死者に対してではなく、生きている方々に 深い敬意を示す。私個人は、焼香の代わりに、ご遺族に対して深くお辞儀するようにします。そう すれば、「拝まないけれども、敬っています。」ということを示すことができるからです。 最後に参考になる文献: 「キリスト教と日本の習慣」http://www.h5.dion.ne.jp/~biblroom/text/cust_idx.htm 勝本正實「日本の宗教行事にどう対応するか」(いのちのことば社,1993) 6 フォローアップ「クリスチャンの仏式の葬儀に対する姿勢」:人それぞれ少しずつ異なるでしょう。ク リスチャンの方に対しては三つの点を述べたいと思います。ローマ 14 章、コリント第一 8 章と 10 章に詳しく書かれていますが、時間の関係上、この大きな問題はまた別の機会に、葬儀セミナー でしたいと思います。三つの要素が必要になります。一つは、「自分が、偶像を避けて主なる神の みを礼拝しているのか。」ということです。もし良心が痛むのに、それを周りの人の圧力でそれを恐 れて行なっている、また何も考えずにただ流れに従っているのであれば、それは神に対する罪で す。もう一つは、「それでも、主の与えられる良心は少しずつ個々人で異なる。」ということがありま す。大事なのは、「はっきりと自分が良心を清い状態にして、主に対して捧げているのか。」という ことです。もし自分と同じようにしない人がいてもその意見を裁いてはいけません。その人はそれ をして、主に対して行なっているからです。 しかし、三つ目は、「他の人が見て、その行為が果たして自分の信じていることのように見られ るかどうか。」であります。もし心が主に向いていたとしても、明らかに他の人が見て、それが死者 に対して弔っているということが分かれば、それもまた神に対する罪であることが書かれています。 私が、心が自分の妻に向いていると言いながら、ある女性と一日デートをしていたら、そんなの嘘 だと思われるでしょう。同じように、人々からも明らかに「私は死者ではなく、生きているご遺族を慰 めるためにここに来ました。また死なれた方に挨拶に来たのではなく、みなさんに対してお悔やみ を申し上げるために訪問させていただきました。」という姿勢を分かる形で示します。 7
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