ダニエル・デフォーと English Gentleman ― The Compleat English Gentleman(1729)についての一考察 ― (1) 五十嵐理佳 ●メディアと表現 ● 要約 ダニエル・デフォーは1719年の『ロビンソン・クルーソー』出版以後、小説という新しい活動分野で の創作に打ち込んだが、晩年5年間で再びジャーナリズムにもどっていく。ジャンルを問わず生涯彼 が創作で追求したのは「いかに真実らしく描くか(veri - similitude)」であり、また自らの創作姿勢から も一貫して "虚偽" を排除しようと努めた。晩年期の著作は、いずれも過去の自身の経験に基づいた社 会的・経済的視点からの比較的長い論文で、非常に説得力がある。1729年69歳で執筆の The Compleat English Gentleman は、イギリスジェントルマンのあるべき姿を論じた論文であるが、匿 名を用いようとしたり生前の出版を拒んだりした点で特異な存在である。ジェントルマンは時代を問 わずイギリス国民の理想像であったが、その定義は絶えず時代と文化的要因で常に生成され続けてき た。The Compleat English Gentleman でデフォーは、理想のジェントルマン像として家系・家柄よ りも、中世期以後この言葉に付加された騎士道精神を重視する。さらに1726年執筆の The Compleat English Tradesman でも論じられる、商人の中に理想のイギリスジェントルマン像を見出しているの である。これは非国教徒として社会的制限を受けて生きなければならなかったデフォーの、既存のジ ェントルマン像に対する最大限の挑戦ともいえるのである。(英文要約 p. 43) ● キーワード ダニエル・デフォー ジェントルマン 非国教徒 gentleman tradesman dissenter The Compleat English Gentleman The Compleat English Tradesman 紀要 第2号 37 ダニエル・デフォー(1660−1731)は、1719年『ロビンソン・クルーソー』出版以後、政治的パンフレッ トや定期刊行物執筆からしばらく遠ざかり、小説という新しい活動分野を見出し、以後5年間にわた (1720)、 『モル・フランダース』『疫病年の記録(ペスト)』『ジャッ って『キャプテン・シングルトン』 (いずれも1722)、 (1724)をやつぎばやに出版する(2)。いずれの小説も、「いかに真実 『ロクサーナ』 ク大佐』 らしく描くか(veri-similitude)」をモットーとした作品であり、小説といえどもそれらは報告書的な 要素を多分にもつ。たとえば、プロットの語り手に一人称を用いたり、実在の場所名、歴史的人物を 登場させたり、数字を必要とする情報を詳細に列挙したりという工夫が随所に見られる。 『ロクサーナ』以後、晩年5年間でデフォーは再びジャーナリズムにもどっていくが、この時期の 作品は、社会的・経済的視点からの比較的長い論文が目立つ。いずれも、過去の自分自身の経験にも とづいた、説得力のある論文である。たとえば、1724から2年間を費やして書かれた『大英帝国全土 旅行記(A Tour thro' the Whole Island of Great Britain, 3 vols,) 』は、書簡体形式をとっているもの の、デフォー自身の17年間にわたるイギリス周遊旅行と、3回の小旅行の中で実際に収集した材料を あつかっている。訪問地随所の人々の暮らし、自然、気候風土などが詳細に語られている。このよう に、ジャンルを問わず自分の作品世界に "虚偽" を排除しようと努めていたのである。 またデフォーは、政治的パンフレットを精力的に執筆していた50歳代(1712)のころ、次のような文章 を書いている。 他の記者たちのように、読者の機嫌をとり、喜ばせるために書こうとは私は思わない。地 上のどんな人も喜ばせ、あるいは怒らせることを望んだり、あるいは、恐れて、書いたり 書くのを控えたりはしない。わたしの立場は、他のいかなる立場の記者の態度とも違う。 彼らは気に入られようとし、誘いをかけ、歓心をかおうととする。ジャーナルを読んでも らい、買ってもらいたい魂胆からである。私は、読者が自分自身の利益、必要のため、ま た、私があつかう問題を利用する目的のために買わずにはいられないような新聞を作るの だ。読者は自らすすんで買うのであって、筆者は当然読者に感謝する立場にはなく、読者 (3) こそ筆者に感謝すべきなのだと思う。 つまりデフォーは、一貫して、自身の創作姿勢から "虚偽" を排除しようと努めていたのである。 しかし、こうしたデフォーの創作姿勢を否定せざるを得ないような作品が、晩年の論文に存在する。 The Compleat English Gentleman という論文である。ダニエル・デフォーの著作におけるこの作品 の得意性を明らかにし、さらに彼のこの論文執筆の意図に迫りたいと考える。 The Compleat English Gentleman という論文が初めて世に出たのは、1890年。実に、デフォーが 亡くなってから、159年も経ているのである。デフォーのほかの著述で、世紀を経て出版されたもの は現時点ではまだない。この The Compleat English Gentleman のみである。1889年ロンドンの David Nutt出版社から初出を出した折の編集者、Karl D. Bulbring は、デフォーがこの論文の原稿を 1729年時点であたためてはいたものの出版する意図がなかったことを、次に示す Mr.T.Watts に献じ たデフォー自身の dedication(献辞文)を示して論証している。 38 稚内北星学園大学 ダニエル・デフォー と English Gentleman Sir ― I am to ask your pardon for keeping the enclosed so long, Mr. Baker having told me your resolution of taking it in hand and working it off. But I have been exceedingly ill. I have revised it again, and contracted it very much, and hope to bring it within the bulk you desire, or as near it as possible. But this and some sheet, and perhaps almost as bad as setting it over again, which so well corrected as to give you very little trouble. I here return more. You shall have all the remainder so as not to let you stan still all. I am Sir, Your most humble servant, De Foe Sept. 10th, 1729. 1729年には、デフォーはこの論文のほかに、The Compleat English Tradesman というタイトルの 論文も同時に発表している。然るになぜ、よく似たタイトルの Gentleman のほうは、書き上げてす ぐに出版しなかったのであろうか。しかも The Compleat English Tradesman においてデフォーは、 「自分は生まれながら天と領主から任命された血統による紳士である( I have the honour to be rank'd by the Direction of Province, in the fame class, and would be so far from lessening the Dignity Heaven has given us)」(4)と、自らの出自を偽っているのである。なぜこの論文には、それまでのデ フォーに見られる "虚偽の排除" という創作姿勢が機能していないのであろうか。このタイトルの論文 は、彼にとって、かなり特殊な意味をもつものなのではないだろうか。 ダニエル・デフォーは、非国教徒(Dissenters )であった。イギリス王政復古と同年に生まれた人間 が、非国教徒 Dissenters として生きるとは、どのような人生を意味していたのであろうか。 Elizabeth I によって確立された英国国教会の内部にとどまりながら、その礼拝式や教会統治方式な どに賛同できずに、国教会への遵法を拒んだ新教徒が non-conformist である。さらに名誉革命後の寛 容令( Declaration of Indulgence, 1689 )により、国教会外部での宗教結社を認められた新教徒(反国教徒)を dissenters と呼ぶのである。 非国教徒の多くは、17世紀はじめ以降、北アメリカ、ニューイングランド地方への殖民の中核とな り、新大陸へ渡っていった。が、イギリス本国では、1648年のピューリタン革命の主要な担い手とな り、その後は政治的・社会的差別を被ることになってしまうのである。たとえば、国会議員や地方自 治体役職などの公職への就任を1828年まで禁止された。(5)またオックスフォード、ケンブリッジ両 大学への入学は19世紀半ばまで、学位取得は1871年まで認可されなかったのである。17世紀当時、 Ox-Bridge 両大学に入学を許可されないということは、ラテン語が使えないことを意味する。つまり、 ダニエル・デフォーにとって、許された唯一の文字表現メディアは、「英語」だけだったのである。 デフォーの父ジェイムズ・フォー(James Foe)は、ロンドンで獣脂ろうそく職人であった。フォー家 の祖先は16世紀にベルギーのフレミングから移住してきたとされている。一家の祖先の姓は、元来フ レミング方言つづりで Defawe であったが、数代前の祖先によってイギリス式に Foe に改姓された。 紀要 第2号 39 しかしダニエル少年は、父がたびたび Dufoe と呼ばれていたことを記憶し、彼自身も成人後自分を、 De Foe と記し始めたのである。 少年時代のダニエルは、サレー州ドーキングのフィッシャー牧師の寄宿学校に送られ、その後ロン ドン北部のニューイングトン・グリーンにある非国教徒のための学校に進学する。英語による教育で はあったが、当時の非国教徒学校には珍しく数学・自然科学の授業も受けたようである。このあたり (6) の事情は『ロビンソン・クルーソー』で父親がロビンソンに与えた教育と一致している。 以上の生い立ちから判断して、ダニエル・デフォーは、生まれながらにして貴族ではなく、当時の 社会的概念から判断しても、gentleman と定義するには困難な出自を背景にもっていたといわざるを 得ないのである。その彼が、晩年、English Gentleman について、わざわざ匿名で、生前の出版を望 まないかたちで、2巻からなる当時のフォリオで 3 0 0 ページ近い論文をわざわざ執筆していることは、 やはり注目に値することなのである。 English Gentleman といっても、この言葉を定義することは現代でも困難である。なぜなら gentleman の定義は、時代と文化的要因で常に生成されるのもだからである。それについては、P. J.ケイ ン/A. G. ホプキンズ が以下に引用するように述べているとおりである。 イギリスのジェントルマンは、生まれによるものであると同時に歴史的に作り出されたも のでもある。ジェントルマンの家系に生まれたというだけで彼は伝統の輝きという優位を 手に入れる。しかしジェントルマンの地位は絶えず創始されていくものでもあった。それ ゆえイギリス・ジェントルマンの歴史は、時々の社会的情勢に影響をうけた絶えざる生成 の歴史でもあった。伝統にみがかれた既成のジェントルマンは、新たなる志願者(彼らの 時代はまだ到来していない)による挑戦を常にうけてきた。ジェントルマンの地位につい ての規定が、時代の流れとともにゆっくりと目に見えないかたちで変化してきたことが、 その規定の歴史的一般化を極めて難しくしている。しかし同時にその規定が変化してきた という事実そのものが、長いイギリス社会の歴史の、揺れ動き捉えがたい輪郭を認識する (7) 方法を我々に与えてくれたのである。 "Gentleman or not" あるいは "the definition of the Gentleman" という問題は、絶えずイギリス人の 関心事であり続けたと同時に彼らの理想でもあった。その点について一人のヨーロッパ大陸人の言及 として、スタール夫人(1766−1817)の書簡から以下のような言葉が引用できる。 どんな階級であれ、イギリスで尊敬されるための第一の条件は、いわゆるジェントルマン と呼ばれる人間であることです。この語にぴったり相当するフランス語はありません。こ の語の意味を完全に知っているというだけでもイギリスの流儀に通暁しているといえまし ょう。gentilhomme は厳密に血統だけを意味しますし、homme comme il faut はマナーと 社会的地位を意味しますし、galant homme や homme de merite は素行と人格を意味し ます。ジェントルマンは、血統、財産、才能あるいは生活状況において恵まれていること 40 稚内北星学園大学 ダニエル・デフォー と English Gentleman に加えて、社会的地位にふさわしい道徳資質をそなえ、教養のほどを示すマナーや習慣を 持つ人のことです。イギリス人たちはこの点に関しては、驚くほどきめこまかな感性をも っていまして、最上級の身分地位の華麗さにも目を欺かれることはめったにありません。 最高の家柄の男性であっても、その人の行動がその状況に即した身分地位相応の行動基準 から逸れるなら、あるいは単にマナーに反しただけでも、下層の者たちからさえ「あの人 は貴族であっても、ジェントルマンではない」とすぐさま言われてしまうのです。(8) gentleman という語は、元来ギリシア語の女性を表すγeνから発し、フランス語の gentilhomme と の関連から、貴族・地主階級出身であることを表す身分概念であった。そこに時代とともに人格的要 素を付加してきた、と考えられるが、英語においては13世紀には既に人格的な要素を家柄よりも重要 視する考え方が存在しているので、概念の転換時期を定義することは非常にむずかしい。たとえばジ (1387?−1400)においてすでに、"バースの女房" ェフリー・チョーサー(1340?−1400)は『カンタベリー物語』 に次のようなせりふを与えている。 「……あなたは貴族の階級の gentillesse というものを、昔からの金持ちの家柄にうまれて きたもの gentil men ばかりだと思ってらっしゃるらしいですが、そんな考えは横柄な考 えで、一羽の牝鶏ほどの価値もありません。最高の貴族 the grettest gentil man というの は、私の場合でも、公の場合でも、いつも立派な徳を行い、いつも立派な貴族らしい行い gentil dedes を心がける人たちです。キリストのご意志では、そういう人を our gentillesse というのです。先祖の財産からしていうのではありません。身分を高めるように思 われている世襲の財産は、いくら残されても、それでは貴族 gentil men ということはで きないのです。貴族といわれ、尊敬されるようになる人徳の一生は、世襲財産として子孫 (9) に伝えることができないものなのです。」(英語原文のまま) 実際にO.E.D.の gentle の項を見ると、上記のような「家柄のみでなく、行動・考え方が騎士道精神 に見合ったもの、人間的に立派な行いを人格にそなえているもの」の意味が、1360年の文例とともに 掲載されている。イギリス社会においては、中世においてすでに、家柄のジェントルマンに、人格 的ジェントルマンの意味が定着していたといえるのである。 さて、前述の The Compleat English Gentleman(1729)において、デフォーはチャールズ「世の言葉 として、「王は準男爵を作ることはできるが、ジェントルマンを作ることはできない……王はこの呼 び名に何が含まれるかを理解していた。称号をもつだけではジェントルマンになれないのは、ライオ (10) デフォ ンの皮を着ただけでロバがライオンになれないのと同じなのだ」という一節をあげている。 ーは、ジェントルマンの中に家柄よりも人間性を重く見ているのである。しかし彼の血筋に対する批 判はこれだけにとどまらず、「どんなことがらにも始まりがある。だから起源をたどると、われわれ 現代人の虚栄心にとってはさほど楽しいことがらまで陥ってしまうかもしれない。だから、家系につ (11) いては、2世代あるいは3世代ぐらいまでたどれば十分なのである」と発言する。 紀要 第2号 41 さらにこの論文の冒頭部分に注目すると、さらに興味深い。冒頭部分は次のように始まる。 Useful observations on the General Neglect of the education of English gentleman with the reasons and remedies, the apparent difference between a well born and a well bred gentleman, instruccions(原文つづりのまま)how gentleman may recover the defficiency(原文 つづりのまま)of their Latin, and be men of learning tho' without the pedantry of the schools. デフォーは、ジェントルマンを「well born(生まれがよい者)」と「well bred(育ちがよい者)」に大別 する。さらに教育の仕方にまで言及するのである。たとえラテン語ができなくても、名門の学校教育 を受けさせなくとも、人間をジェントルマンとして育て上げることが可能であるかを説くのである。 ここで前提とされているのは、ほかならないデフォー自身の生い立ちなのではないだろうか。The Compleat English Gentleman は、一人称による語り手が論を展開するかたちをとっており、前述の とおり、この語り手は家系も育ちも一流の貴族ということになっている。デフォーが自分自身を偽り、 生前この論文を出版する意図をもたなかったのは、実はそれまでの人生で非国教徒としての生きにく さを十分体得した結果であり、さらには文章上では否定していながら実は家系や血筋にコンプレック スを感じていたからではないだろうか。 同時期に執筆され、こちらは生前に出版された The Compleat English Tradesman(1725−1726)と比 較してみると興味深い。2巻から成るこの論文は、商人が心がけねばならないことがら、帳簿のつけ 方や人のあつかいかたなどを丁寧に説明している。さらに、イギリスの現在の発展が、そうした商人 たちの力によって支えられていることを力説するのであるが、注目すべきは、I巻24章に登場する以 下の言及である。 King Charles II, who was perhaps the prince of all the kings that ever reigned in England, who best understood the country and the people he governed, used to say, that the tradesmen were the only gentry in England.(12) 「商人こそはイギリスにおける唯一の紳士であり、それはおそらくはかつてイギリスを統治した王 の中で最もすぐれていた、チャールズII世がお認めになるところである」と断言するのである。さらに デフォーは商人を次のように賞賛する。 高貴で豊かな家系の多くは、商売によって大きく発展したのである。これは紛れもない真 実である。イギリスの gentry の若者の多くのものは、自分が恩恵をうけている泉へとさ かのぼり、その多数のものが商人になっていく。……他の国で一般的に言われていること とは違い、イングランドの商人は、必ずしもいやしい身分ではないのである。それどころ か、他の国々と異なり、イングランドにおける商業そのものは、人が手をそめる生業の最 もいやしむべきものではない。そうでないばかりか、商売は、人間にとって、財産を生み 42 稚内北星学園大学 ダニエル・デフォー と English Gentleman 出し、家族の生活水準を引き上げる最も速い手段なのである。だから、商売は、名士や家 (第1巻・34章) 柄のよいものも携わるべき分野なのである。 デフォーはかつて『ロビンソン・クルーソー』で描いた、近代人がいかに生きるべきかというテーマ を、晩年率直に訴えなおしているのである。中世的な規範に、さらに高利性や実用性を重んじる新し いジェントルマンとしての資質を問い直したのである。そして、イギリスの産業を支えていくものが、 こうしたあたらしいジェントルマンの資質であることを予言したのであった。 ●注 (1) デフォー自身が、原題にこのつづりを用いている。 なお The Compleat English Tradesman についても同様である。 (2) 『レビュー』は、1704−1713までデフォーが独力で刊行した。 彼が小説というほかの表現手段に移行せざるを得なかった理由としては、彼自身は非国教徒でありながら、 過激な国教徒を装って非国教徒を攻撃した文章によって3日間のさらし台の刑に処せられたこと(1702)、 1714年トーリー主義者であったアン女王の死によって、政治的文筆活動が困難になったことなどが考えられる。 (3) 1712年12月30日付け、 『レビュー』より (4) Daniel Defoe, ed. Karl D. Bulbring, The Compleat Englich Gentleman(Folcroft Library Editions, 1972) (5) 審査法・および地方自治体法、参照。 (6) George Calmers: The Life of De Foe, (Oxford 1841) p. 3 「……私(デフォー)が通ったのはいわゆる非国教徒のための養成所(Dissenters' Academy)で、 ここではあらゆる科目が哲学でも神学でも英語で行われ、私は非常に満足している。」 (7) P. J.ケイン/A.G.ホプキンズ 『ジェントルマン資本主義の帝国 ― 創生と膨張 1688−1914 ―』 (名古屋大学出版会 1997)p. 17 (8) M. de Stael Holstein, Letters on England(London, Treuttel and Wurtz, Treuttel, jun. And Richter, 1825), cited by Smyth-Palmer, p. 45 (9) G. Chaucer Caunterbury Tales, l. 1190−1124 (10) D. Defoe The Compleat Englich Gentleman p. 25 (11) 同上 p. 13 (12) D. Defoe The Compleat English Tradesman p. 242 ● 英文タイトル Daniel Defoe and "the English Gentleman" ― On his The Compleat English Gentleman(1729)― ● 英文要約 It has been impossible to define the word "gentleman" exactly, for the definition has been altered by 紀要 第2号 43 the social and cultural backgrounds. At the same time, in fact it is ideal for the English people to live , when Daniel Defoe was sixty years old, as a gentleman. In The Compleat English Gentleman(1729) he discussed what the ideal English Gentleman should be. He appreciated the chivalrous spirit, not the status of the family. Moreover, he found out the new idealistic gentlemanliness in the life of . His evaluation English tradesmen, as he also discussed in The Compleat English Tradesman(1726) was derived from the life as a dissenter, that was a kind of humble proposal to the old English value. 44 稚内北星学園大学
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