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その時、岡崎陽子の内部にはドス黒くどろどろしたものが渦巻いていて、油田
から沸くガスのようなあぶくがぼこんぼこんと弾けていた。
無論、彼女の性質が元からそうだったというわけではない。彼女もほんの一
カ月ほど前までは善良さと平凡さを持つ普通の女にすぎなかった。ようするに、
大学を卒業してからずっと規模は小さいが古風な洋館のホテルでばりばり仕事
をこなし、三十五歳という年齢になって社内でもそれなりの地位につき、特別
美人というわけではないが適度に外見に気を配って見苦しくない程度に自身を
保っている。貯金もこつこつするタイプで、同時に恋愛もこつこつ真面目に積
み重ねる性質。それが先月までの岡崎陽子の姿だったということである。
が、その岡崎陽子の内部がドス黒いもので塗り潰されてしまったのは、先月、
陽子の部屋の全自動洗濯機が壊れたと同時に、約束していた結婚話しまでもが
「壊れた」せいだった。
「約束」とはほとんど秒読みの日取りも決まった婚約関係で、両親への挨拶
は勿論のこと式場もほぼ決まりつつあったのだが、婚約者である小野哲司から
「破棄」の申し入れを受けた時はまさに青天の霹靂、寝耳に水で最初は冗談か
と思い笑って、次に本気と分かると狼狽し、泣いたり怒ったり縋ったり、なん
だかんだと愁嘆を演じるはめになった。
こういった一方的な婚約破棄は当人同士も両家親族も巻き込んでの大騒ぎに
なるのが常だし、友人知人にはいらぬ心配と嘲笑を招くと決まっている。それ
は陽子がどんなに奔走しても避けられぬことだ。唯一の救いは式及び披露宴の
招待をまだどこにも出していなかったぐらいなことで、面倒で屈辱的な知らせ
一切を招待客全員に送らなければならないという事務作業を避けられたことだ
った。しかし、それを除けば申し入れから別れの瞬間までの猛烈な日々と後の
始末に至るまで、陽子には一点の救いもなかった。
そもそもなんだってこんなことになったのか、陽子にはまるで理解できなか
った。哲司との恋愛は五年の歳月をかけ育み、プロポーズも哲司から手順を踏
んで行われたにも関わらず、手のひらを返すように「僕らのことだけど……。
あれ、やっぱりやめたいんだ……」と言われた時、陽子にはなにをやめたいの
かさっぱり分からなくて、きょとんとしてしまった。
「あれってなに」
「……ごめん。俺、陽子と結婚できない」
陽子はその言葉を聞いた瞬間、髪がそそりたち内臓ごとひゅうっと浮き上が
るような急転直下、奈落の底へ突き落される感覚に眩暈がした。それは遊園地
のアトラクションのフリーフォールのようだった。
あまりに唐突な申し出だったので陽子は訳が分からなくて哲司に理由を問い
質したが、哲司は最後の最後まで「もう少し考えたい」だの「やっぱり自信が
ない」と言い、明確な答えは何一つ言わなかった。
もう少しなにを考える必要があったのか、果たして自信というものがなんの
自信なのか、陽子にはどうしても分からなかった。それでも本人がそう言うな
ら少し待ってもいいかとも思ったが、次第に聞いていくうちに「考えたい」と
いう言葉の先にはようするに陽子と「別れたい」という要望があることが分か
った。
陽子の心はその一点によりずたずたに引き裂かれた。
それは婚約破棄という屈辱よりも、単純に哲司がもう自分を好きではないの
だという事実を突き付けられたことによって受けた傷で、それでは一体なぜ哲
司はほんの半年ほど前に陽子に求婚したのだろうか陽子は混乱の渦に落ち込ん
だ。
言い争うことも理由や原因を追及することもひたすら精神を消耗するだけで、
陽子は立ち上がることもできないほどの喪失感で毎日泣き暮らした。
といっても、社会人としての陽子になにもかもを放り出して本当に涙にくれ
るだけの生活をすることなどできるわけもなく、別れ話が決着するまで毎日朝
起きて化粧をして電車に乗って職場へ行き、自分よりいくつも若い部下を叱咤
しながら平然とした顔で仕事をしなければならなかった。
それはインドの修行僧の極端に肉体を酷使する苦行のように耐えがたい苦痛
だった。
平然としているのはプライドではなかった。平然としていなければ到底自分
を保つことができないからそうしているだけで、陽子の精神は空気をぱんぱん
に孕んだ風船のように今にも弾けてしまいそうに危うかった。弾けてしまって
はもう元に戻すことはできない。その危機感と理性だけが陽子の支えだった。
いかなる場合であっても恋を失うのは手痛い。陽子は愛されなくなった自分
の存在というものがまったくの無価値で、人格そのものを否定されたような気
がしていた。
元婚約者となった哲司の所有物を部屋から一斉処分した夜、その痛烈な嘆き
の中で、それでも生活というルーティンな雑務から逃れることはできず、のろ
のろと無気力なままに洗濯機をまわそうとしたらどういうわけか洗濯機が動か
なくなった。
洗濯機の中にはシャツと下着、タオルなどが投げ込まれ、すでに水を張って
洗剤の清潔な泡と匂いに満たされていた。
陽子は突如として動かなくなった洗濯機を前に、スイッチを切ってみたり、
入れてみたり、電源を確かめたりしたが、どこをどうしても洗濯機が動く気配
はなく、次第に腹立たしくなってきて乱暴に蓋をばたんと閉じたり、本体を叩
いたり蹴ったりした。
そうしているうちにじわじわと自己憐憫の涙が湧きあがってきて、
「もう、な
んでよ!」とか「なんなのよ!」とかを連発し、その場に崩れ落ちてわあわあ
と一人で泣きだしてしまった。
世界中のなにもかもから見放されてしまったような気持ちだった。陽子は哲
司を本当に好きだったし、自分の理解者だと思っていた。陽子には陽子なりの
夢や憧れがあり、例えそれが少女漫画じみていたとしても結婚生活に対する希
望みたいなものがあった。二人の朝だとか休日だとか、生活を共にすることへ
の美しいイメージ。手まめな陽子は毎年梅酒を漬けて二人の年月のビンテージ
を作ろうとまで考えていた。外に出ればいっぱしの出来る女の顔をしていても
哲司の前では普通の恋する女だったし、それは今後も変わらないと思っていた。
それなのに哲司との五年は部屋に置かれた揃いのカップと陽子を残して、ネ
クタイ一本靴下一足も残さず消え去ってしまった。そこへもってきて洗濯機の
故障。陽子のみじめさは絶頂に達していた。
陽子は泣きながら水の中から重い洗濯物をひきあげ、風呂場に投げ込んだ。
びしゃりという鈍い音。飛び降り自殺でもしたらこんな感じに体がひしゃげる
のではないかと思いつつ、洗濯物を手で洗った。
洗剤のぬめりが手の上を滑っていく。シャツをぎりぎりと絞るも固く絞りき
ることはできず、ベランダに干すとしたたる滴が雨のようにコンクリにシミを
つけた。
洗濯機を買わなければ。そうと分かっていても陽子にはそんな買い物は到底
できそうになかった。無論それは金銭的な意味合いではなく洗濯機のような大
きなものを買う勢いとでも言おうか、気概みたいなものがまるでなくて厭世的
な気持ちでいっぱいで、いっそこのまま壊れた洗濯機と共に自身も壊れてしま
えばいいとさえ思った。だから新しい洗濯機を買う算段も陽子には永遠にでき
ないような気がした。
そういったわけで陽子の生活から哲司と洗濯機が消え去り、陽子は週末や時
間のある時に近所のコインランドリーに通うはめになったのだった。
陽子はコインランドリーに通うのは、実は初めてのことだった。それまでず
っと洗濯機は学生の時から小さいながらも自分の部屋にあったし、これからも
ずっと洗濯機を所有し続けるだろうと思っていた。だから、いざ洗濯機を失っ
てみるとこんなにも生活に影響があるのかと驚いていた。
たかが洗濯、されど洗濯である。いかに失恋したとはいえ岡崎陽子も女であ
り、社会人である。いくらなんでも洗いもしない衣服で世間へ出て行くわけに
はいかない。いや、それ以前に洗わない衣類など自分が一番気持ち悪い。当た
り前に思っていたことが実は重要なことであったかと陽子は深く感じ入った。
第一、陽子は洗濯機が壊れるまで近所のどこにコインランドリーがあるかも
知らずにいた。人間とは自分にとって興味のないものや関係のないものは視界
にさえ入らないものである。陽子にとってコインランドリーがそれだった。
陽子はテレビと冷蔵庫と洗濯機が三種の神器となる時代の生まれではない。
それらはすべて標準装備だと思っていたので、どこにコインランドリーなどと
いうものがあるのか想像もできなかったし、果たして存在し得るのかどうかも
分からなかった。
この時点で「早く洗濯機を買おう」と思えなかったのが陽子が打ちのめされ
ていた証拠で、哲司に去られてからの陽子からは正常な判断力が抜け落ちてし
まっていた。
とにかく陽子はコインランドリーを探した。検索してみるとコインランドリ
ーが案外点在しているのには驚いたが、もっと驚いたのは自分の住むマンショ
ンの真裏に一軒あったことだった。
陽子が今のマンションに引っ越してきたのは大学を卒業してからである。そ
の間にマンションの裏手の道を通らなかったというわけでもなく、ただ単に気
付かなかったのか、眼中になかったのか、その存在を忘れていたのか、とにか
く陽子は自分のすぐそばにあるコインランドリーをまったく知らなかった。
なんだ、こんなところにあったのか。陽子はその新たな発見に妙な安心感を
覚えた。洗濯機が壊れてどうしようかと考えあぐねていたところへ自分の住ま
いから一分の場所にコインランドリーがあるなんて、捨てる神あれば拾う神あ
りである。そうと知っていれば洗濯機など初めからなくてもよかったし、これ
からだって特に買う必要もないではないか。陽子はそう結論づけた。
以前の陽子なら思いつきもしないことなのだが、この時はそれが最良の解決
に思えた。どうせいつかは壊れるんだしというヤケクソのような気持ちがあっ
たのも否めないが、わざわざ洗濯に来なければならないという面倒さよりも厭
世的な気分が上回っていた。
マンションはゆるい坂の途中にあり、周囲も似たような建物の並ぶ住宅地で
ある。細い道に街燈がぽつぽつと坂の上まで街路樹の如く整列し、静かで、闇
の色が濃い。坂の下を見下ろせばそこには線路が町を分断し、繁華街の灯りが
さまざまな色のビーズをぶちまけたように光っている。そんな光と影の極端な
コントラストの中にコインランドリーはひっそりと佇んでいた。
陽子はマンションの出入り口から角をまがって裏手に出た瞬間すぐに「あ、
これだ」と思い、それからなんだか例えようもなく懐かしく温かな光を見たよ
うな気がしてしばし立ち尽くした。
コインランドリーは決して明るくもなければ清潔でもなく、古びたコンクリ
ート剥き出しの小さなもので、入口は田舎の家のアルミサッシのようなどこか
貧乏ったらしいガラスの引き戸になっていて、中に入ると真ん中に普通の洗濯
機が六台、縦一列に並び、片側の壁に乾燥機がこれは上下に三台ずつ据えられ
ていた。
陽子は独特の湿っぽい空気と奇妙な静けさに、一瞬自分がどこにいるのか分
からなくなるほどしんとした気持ちになった。
正面の壁際にはその辺のバス停にあるようなベンチと自動販売機が置かれて
いて、BGMがあるでなし、スタンド付きの灰皿にも使われた痕跡はなく、ま
るで世界が滅び去ったような錯覚さえうけるほど荒涼とした風景だった。
照明は青白い蛍光灯。昼間はどうだか知らないが、通りに面したガラス戸は
夜を吸いこんで鏡となって、陽子の姿を映している。
気色の悪い場所である。が、陽子はこの時あくまでも普通の状態ではなかっ
たから、その不気味さも静けさもひたひたと自分に沁み入ってきて、絶えず出
血を続ける精神を優しく包みこむように感じた。
彼女が受けた傷を、痛みを、誰もが気の毒に思うだろう。けれど、実際にそ
れを肩代わりすることなどできないし、ましてや誰にも「気持ちは分かるよ」
などとは言われたくなかった。分かるはずなどないのだから。
陽子と哲司の恋愛が二人だけのものであったようにその別れも二人のものだ
し、陽子は自分の気持ちを言葉に表すことなどできないほど落ち込んでいたか
ら、誰にも自分の気持ちを代弁して欲しくなかった。慰めさえ必要とはしてい
なかった。そうされればされるほど陽子は真実から遠のいていくのを感じ、そ
のことが陽子を置き去りにして世界が動き続けるのだという孤独の中に取り残
す。
コインランドリーはそんな陽子を一枚のフィルターをかけるように隔離した。
それはほとんど安らぎといっても過言ではない、静かな場所だった。
孤独にされるのと望んで孤独になるのは違う。陽子はこの時疲弊した心を休
める場所を本能的に求めていた。それがコインランドリーだったのである。
こんなところにあったのね。陽子は小さく呟いた。
陽子は再び部屋へ戻って洗濯物を籠に詰めて持って来ると、誰もいないコイ
ンランドリーで洗濯を始めた。
小銭を投入する音、洗濯機の始動音。じゃばじゃばと貯水が始まり、ごうん
ごうんと音をたてて回り始める。それは陽子とコインランドリーの生活の始ま
りの音だった。
陽子は出勤してから一日中イベントの企画書作りや担当であるバンケットの
会場の手配、厨房との打ち合わせからその他こまごまとした雑務、時々はコン
シェルジュの如き仕事までこなし、帰宅は九時や十時になるのもザラだった。
日常の買い物などは休日にまとめてするのだが、陽子は洗濯物を貯めるとい
うのが苦手で、どうにも気分が悪かった。洗い替えなら一週間や十日はやりく
りできるから休日にまとめて洗濯するというのも一つの方法である。しかし、
陽子は洗濯機健在の折にも洗濯物を一週間も貯めこむようなことはしたことが
ない。せいぜい二日か三日。貯めたところで誰に咎められるわけでなし、自分
の身から出た汚れであるわけだからそう嫌わなくてもいいとは思うのだが、陽
子は脱衣籠に盛りあがっていく汚れた衣類にくたびれた人生の垢のようなもの
を感じ、日常が汚れに浸食されていくような気がしていた。
だから帰宅してこまごまとした用事をしたり、片づけものをしたりしてから、
また部屋を出てコインランドリーに行かなくてはいけないという面倒さが陽子
の新しい生活だった。
洗濯機が回っている間の待ち時間。世界は陽子と洗濯機の二人きりになる。
ベンチに腰掛けぼんやりしながら、時々疲れのあまり寝てしまいそうにもな
りつつ洗濯機をまわす。遠くで救急車のサイレンが鳴っているのが聞こえる。
陽子はこうやってコインランドリーで一人座りながら、幾度も繰り返し思う。
なぜ別れてしまったのだろうか、と。
哲司は結婚に対して突然懐疑的になったのか知らないが、とにかく結婚でき
ないと言い張っていたけれど、陽子の方では婚約破棄だか延期だかになったと
しても別れるつもりなど毛頭なかった。考えたこともなかったし、自分のなに
がいけなくて別れることになったのか、この期に及んでまだ理解できなかった。
二人の間には決定的な価値観の相違も、すれ違いもなかった。式の日取りも
式場も、二人で話し合って決めたことで、その経過でさえも意見の食い違うこ
となどなかった。
いや、それよりもっとさかのぼれば、二人はお互いに大人になってから恋愛
を始めたから自己中心的な嫉妬もくだらない痴話喧嘩もせずにきた。恋愛とい
うものがとにかく優しく、甘く、多忙を極めるそれぞれにとっての癒しのよう
でさえあったのだ。だからこそ結婚へ進む過程はスムーズであったし、そこに
はひたすら穏やかな時間が流れていると信じていた。
それでも哲司が婚約破棄を申し出て別れたいと言い出したのは事実だから、
陽子にしてみれば、それではこの恋愛が幸福なものであると信じていたのは自
分だけだったのかと愕然としてしまった。
陽子はこういった別れ話の常として哲司にその理由を問い質したし、無論、
もう自分のことを好きじゃないのかとも尋ねたが、哲司はそれについては一貫
して「そうではない」と答えた。「嫌いになったわけじゃない」と。
ならば、なぜ。と、陽子は思った。今も、思う。嫌いじゃなければ別れなく
てもいいではないか。もう少し時間をおいて冷静に考えれば思い直すこともで
きたかもしれないし、陽子はその執行猶予の中で今一度二人の恋が全盛期の盛
り上がりを見せていた頃を思い出させようと考えてもいた。
しかしそういった陽子の懇願が受け入れられることはなく、非情ともとれる
頑なさで哲司は陽子との早急な別れを要求した。
洗濯機が脱水に入った。暴力的な振動と騒音が陽子に向かって押し寄せてく
る。その間陽子は自分の両親のことを考えて泣きそうになった。
父親の激怒、母親の涙。それらがいかに正当な感情であるかも分かっている
のに、哲司をかばった自分のあのみじめさ。自分が傷つく以上に家族を傷つけ
たと思うとやりきれなかった。
哲司は「嫌いになったわけじゃない」と言ったが、あれは方便だったのだろ
う。言いかえれば陽子を「好きじゃなくなって」しまったのだろう。
もし哲司がそう正直に言っていたなら、陽子は泣くだけ泣いて、尚且つ哲司
を罵り、その後にすべてを水に流せたように思える。けれど、哲司の優しさが
仇となり、陽子はなにもかもを持て余しこうしてコインランドリーで洗濯をす
るより他なかった。
洗濯終了を告げる電子音が控えめに鳴る。陽子は洗濯機の中から絡まりあっ
た洗濯物をひきずりだし、籠の中でほぐしてから乾燥機に入れた。
ここの乾燥機は洗濯機の小ささに反してやたらに大きい。昔、アメリカ映画
で見たような巨大なドラム式乾燥機。子供が這入りこんでいたずらする場面、
あれはなんの映画だったか。布団がまるごと入ってしまうほど大きな乾燥機は
陽子一人の数日の洗濯物などいとも簡単に乾かしてしまう。それも、大きいだ
けあってふんわりと。
陽子は乾燥機からほかほかに温まり乾いた洗濯物を取り出すと、ようやくほ
っとしてそれまでのネガティブで悲しい物思いから解放され、清潔な衣類と共
に自分のうちへと帰っていけるのだった。
そんな仕事とコインランドリーの往復も一カ月。陽子は物思いに耽って半泣
きになるのを避ける為に待ち時間に本を読んだり、ヘッドフォンで音楽を聴き
ながら持参の缶ビールを飲んだりするまでに進歩していた。
その日は同僚と軽く飲んで帰り、幾分酔っていたのだが洗濯物が溜まり始め
ていたこともあり、部屋でスーツを脱ぎ棄ててジーンズとTシャツという格好
になるとすぐに籠に洗濯物と缶ビールと文庫本を投げ込んでコインランドリー
へと向かった。
コインランドリーはその日も静かに陽子を迎えいれた。
陽子の帰宅が遅いせいなのか、タイミングなのか、陽子は一カ月たってもま
だ一度も同じくコインランドリーを利用する客を見たことがなかった。
洗濯物を洗濯機に入れ、コインを投入すると自動的にスイッチが入る。陽子
は貯水が始まると洗剤をいれる。洗濯槽に降り注ぐ水のおかげで洗剤がもくも
くと泡立っていき、陽子のシャツもタオルもすべて覆い隠す。
陽子はいつも通りベンチに腰掛けると、ビールのプルトップを引き抜いた。
桜もとうに終わり、新緑の季節。こんな殺風景な場所でもビールが美味しく
感じられ、疲れた体に気持ち良く沁みていく。
バンケットの仕事は歓送迎会やどこかの企業の記念行事の他に、ワインや日
本酒の試飲会、有閑婦人たちのシャンソンのリサイタルなど様々だが、なんと
いっても一番多いのは結婚披露宴だった。
仕事の八割はウエディングプランナーとの間に立って、実際的に披露宴を動
かす役目で、プランナーからの申し入れを受けてサービス動線や必要物の手配
確認などをする。プランナーが「演出家」なら、陽子はいわば披露宴の「現場
監督」みたいなものだった。
陽子は裏方として披露宴を実行する自分を、こんな立場になって初めて虚し
く思っていた。
それまではどんな種類の宴会によらず、ほんの数時間の刹那的な楽しみを完
璧なものにすることに使命感を覚えていたし、同期でもあるプランナーの宮本
千夏とは長年一緒に仕事をしてきただけあってツーカーの仲で、二人で手掛け
たパーティーや披露宴はいつも好評だった。
陽子はプランナーから提示される演出や要望を的確な判断で実行してきた。
そのことは誇りでもあったし、この仕事を愛しているということでもあった。
パーティーは一瞬の煌めきで、打ち上げ花火のようなものである。大きな花
火のインパクトと美しさと、それを見ている人の歓声と感動。人の心に残る瞬
間。陽子はそれを実際に作るのではなく、それを作りだす為の環境を整えるこ
とこそが本当に必要な準備であり、プランニングだと思っていたし、感動の屋
台骨を支えていると自負していた。
その表舞台に裏方である自分が登場するのは自身の結婚の時だと思っていた
が、その機会は失われてしまった。ようするに陽子の恋愛そのものが打ち上げ
花火のようにどかんと夜空に散っていったわけで、美しさの後には灰が残るだ
けなのだという気持ちにさせられた。
まるでやる気がでない。陽子は酔いと眠気でぼやける目をこすり、すでに飲
み干したビールの缶を握り潰した。
陽子は婚約破棄になったことを、今日初めて宮本千夏に告白した。
ロッカールームで打ち明けた時、千夏はぎょっとして、それから陽子をまじ
まじと見つめ、「本当に……?」と怪訝な顔をした。
陽子は頷きながら「残念ながら……」と苦笑いしてみせた。
哲司と千夏の三人で食事に行ったり飲みに行ったりしたことが何度もあった
だけに、陽子は報告が遅れたことを千夏に詫びた。
「ごめん。言いにくかったの」
「……それで……?」
「……一応、事態は収束したよ」
千夏は制服であるベージュのスーツをロッカーにしまってから、
「……大丈夫なの?」
と、なぜか小声で言った。
しかしその言葉に陽子は答えなかった。大丈夫って、一体なにが大丈夫なの
だろう。そして、なにが大丈夫じゃないのだろうか。
陽子は曖昧に微笑むと、同じように着換えている同僚や後輩に聞こえるよう
にわざと大きな声で言った。
「実は先月、洗濯機が壊れてさー」
「えー、本当ですか?」
後輩達が少し離れたところからこちらを振り向いた。
「それじゃあ洗濯どうしてるんですか」
「コインランドリー」
「うわ、めんどくさー」
「洗濯機って、ちょっとイタイですよねえ」
「最近の洗濯機っていくらぐらいすんのかな」
「洗濯機と冷蔵庫は値段下がらないですよね」
「だよねえ」
「あ、あと、電化製品って連続して壊れません?」
「あー、あるある。なぜか一つ壊れると続々と壊れていくのね。今んとこ大丈
夫そうだけど……。大物家電は勘弁してほしいわ」
連鎖的に壊れて行くのは家電だけではないのよ。陽子は笑いながら心の中で
呟いた。
そんな陽子を千夏はじっと見守っていたが、
「今度ゆっくり話し聞く。いい?」
とロッカーの扉を閉めた。
「……うん」
陽子が頷くと千夏も大きな声にスイッチを切り替えた。
「陽子、おつかれー」
「おつかれー」
大丈夫なのか、どうなのか。陽子は自分でも聞きたいと思った。一体、自分
は大丈夫なのだろうか。そして、大丈夫じゃなければどうなっていくのだろう
か。
洗濯機から洗濯終了の電子音が鳴り、陽子ははっと我に返った。
立ち上がり、洗濯機の蓋を開ける。いつも通り洗濯物を引き摺りだし、一旦
ほぐしてから乾燥機に放り込んだ。それから、なにを思ったのだろう。陽子は
乾燥機に小銭を投入しながら呟いた。
「なんとかしてよ……」
「なんとか」とはなんなのか。それは陽子にも分からなかった。ただ、突然
口をついて出た言葉だった。
喪失感と脱力感に塗り潰され、無気力で、そのくせ哲司への恨みつらみがど
うしても燻っている自分への言葉だったのか。アルコールのせいか、呟いた途
端陽子の目に涙がじわりと滲んできた。
その時だった。足元からどん!という衝撃があり、次いで激しい揺れに立っ
ていられなくて体ごと投げ出されるようにへたりこんでしまった。
地震! 陽子は揺さぶられながら乾燥機に縋って、持ちこたえようとした。
コインランドリー内の電気がちらちらっと明滅しかたと思うと真っ暗になり、
洗濯機やベンチががたがたと音を立てた。
停電したのはほんの一瞬だったが、その数秒の間に陽子は思わず小さく悲鳴
をあげた。揺れはコインランドリーなど灰塵に帰すかと思うほどひどく長く感
じられたが、実際はほんのわずか。陽子は揺れが収まると恐怖と緊張に固まっ
た指を乾燥機からえいやとばかりに引きはがした。
震える足で入口に駆け寄りランドリーの外へ飛び出したが、そこには静かな
住宅街が暗闇の中にぽかりと浮かびあがっているだけで、地震による被害など
はなさそうだった。
弱った心がちょっとの揺れも大きく感じさせたのだろうか。周辺にはなんの
変化も見られない。陽子は拍子抜けしてしまい、しかし胸を撫で下ろして再び
コインランドリーの中へ戻った。
停電のせいか乾燥機が止まってしまっている。陽子は乾燥機の前まで歩いて
行くと、扉に手をかけようとした。
が、手をかける寸前、いきなり乾燥機ががたがたがたっと異常な音を立てた。
陽子は驚いて「ひゃっ」と声をあげた。まさか乾燥機が爆発などするまいが、
振動を伴ういかにも機械が壊れる時の音らしく、陽子は固唾を飲んで乾燥機を
見守った。
異常音がやんだ。それでも陽子はすぐには乾燥機に触れる勇気が出なかった。
私が壊したわけじゃない。地震のせいよ……。陽子は誰にともなく胸の中で
言い訳をした。そして再び乾燥機に手をかけようとした。
しかし、その必要はなかった。陽子が手を伸ばすより早く、乾燥機の扉がぱ
かっと勝手に開き、信じがたいことにその中からにょっきりと人間の足が突き
出てきて、次いで腕が、肩が、洗濯物を引きずり出すようにずるずると現れた。
「ひゃあああ!」
陽子は叫びながら洗濯機の向こう側へ飛んで逃げた。
洗濯機の影に隠れるようにして身を潜めたが、歯の根も合わぬほどがたがた
と震え、陽子は恐怖のあまりどうしていいか分からなかった。信じられない気
持で胸が潰れそうで、心臓が早鐘を打ち息苦しいほどだった。
酔っているのだろうか。それとも寝とぼけてしまって夢でも見ているのだろ
うか。それなら早く醒めなくては。陽子は自分の頬を思い切りつねった。
「ちょっと、あんた」
痛い。夢じゃない。陽子はほとんど失神寸前だった。
乾燥機から出てきたのは背の高い若い男だった。
「ちょっと、ちょっと」
陽子は絶体絶命を感じ逃げようとしたが、腰が抜けて立ち上がることができ
なかった。
コインランドリーの中央に配置された洗濯機をぐるりとまわって、男は腰を
抜かしている陽子の前にやってきた。
「大丈夫?」
男は陽子を見下ろして言った。ジーンズにTシャツといった当たり前の格好
だが、その頭部は見事と言っていいほどの立派なアフロヘアだった。
「もしかして腰抜けてんの? まあ、そらびっくりするわな。ごめんなあ。心
配せんでもなんもせえへんから。ほら、立ちいな」
アフロはそう言って陽子に手を差し伸べた。
乾燥機から出てきたアフロが関西弁を喋っている……。陽子はますます訳が
分からなくて、もしかして自分は頭がおかしくなってしまったのかと泣きそう
になった。失恋による神経症とでもいうのか。自分はそんな所にお世話になる
ことなどないと思っていたのに、とうとう心療内科受診デビューを飾る日がき
たのか。
陽子は乾燥機から巨大なアフロが出てくることよりも自分の頭の中身の方が
よほど怖くて、情けなくてたまらなかった。
「ほら」
手を述べていたアフロが陽子の腕を掴んだ。陽子にはもう叫ぶ気力もなかっ
た。
アフロは陽子を支えるようにしてベンチに座らせると、
「しっかりしいな」
と言った。
「……」
「大丈夫か? どっか怪我でもしたんか?」
千夏も陽子に大丈夫かと尋ねたが、今ならはっきり言える。大丈夫じゃない、
と。
「とりあえず、まず自己紹介っていうか、説明させてもらうわな」
「……」
「理由はさておき、今、色々なことのタイミングが合うてなあ。なんて言うた
らええんかな……。あんたの心と運命と、自然と、その他いろんなことのタイ
ミングがばちっと合うてな」
「……」
「俺、あんたの願いごと叶えに来てんわ」
アフロの説明を聞きながら、陽子は腹の底から沸々と笑いが湧きだしてくる
のを感じていた。
なんてよくできた、訳の分からない幻覚と幻聴を見ているのだろう。一体、
いつの間に自分はこんなにも精神的に追い詰められていたのだろう。陽子はそ
う思うと湧きだした笑いを留めておくことができなくて、結んだ唇の端から「ふ
ふふふふ……」と低く絶望を伴って漏れ出てしまい、ついには「ははははは」
と声を出して笑いだしてしまった。
「なにがおかしいねん」
「どこから来たって?」
「んー、まー、所謂、魔界?」
「ってことは、あんたは……」
「そう、悪魔」
「ぎゃはははは!」
陽子はますます大笑いした。腹を抱え、足をバタつかせ、目尻に涙が滲むほ
ど笑った。
その様子をアフロは困惑顔で見守っていたが、文字通り「狂ったように」ひ
としきり笑うと陽子はすっくと立ち上がった。
陽子もそう背が低い方ではないのだが、アフロの顔は断然見上げる位置にあ
った。
「……帰ろ」
陽子は呟いて、洗濯籠を取り上げるとアフロの脇をすり抜けようとした。
「ちょ、ちょっとちょっと!」
「……」
「帰ってもうたら困るねん。まあ、もうちょっとちゃんと聞いてえな。まだ洗
濯物も乾いてえへんやろ?」
アフロは入口の前に立ちはだかると、自分が出てきた乾燥機に駆け寄りスイ
ッチを押した。
それまで停止していた乾燥機は、その中がどうなっているのか定かではない
が、いつものようにごんごんと回り始めた。
確かに洗濯物を放っていくわけにはいかないのだが、ずいぶん親切な幻覚で
ある。陽子はしぶしぶとベンチに戻って腰をおろした。
アフロは幾分ほっとしたように洗濯機の上に腰かけた。
「あんた、知らんかもしれんけどな。満月と大きなエネルギーと、一人の人間
の想念と、その他いろんな物が組み合わさると悪魔を召喚することがあるねん。
いや、それはもちろん普通やったら黒魔術っちゅーやつやで。生贄を与えて、
願い叶えさすっていうやつ。せやけど、あんたみたいに偶然呼んでしまういう
人も百年にいっぺんぐらいおるねん。ちょっとしたラッキーやな。宝くじに当
たるみたいなもんや。それがあんたいうわけや」
「……私、悪魔を呼ぶ理由ないし、必要もない」
「だからあ。さっきから言うてるやん。偶然って。意図せず呼んでまう人もお
るねんって。けど、理由はどうでも呼んでしもたら、もうどうにもできんねん」
「だって、願いを叶えるっていっても生贄がいるんでしょ? で、それって命
と引き換えとか、大事なもの持って行くとか、誰かを不幸にするとかなんでし
ょ? やだよ。そんなの。安いけど使い物にならないとか通販の商品と現物が
違うみたいな、買い物失敗みたいじゃない」
陽子はもう幻覚だろうと妄想だろうと、なにも怖くはなかった。頭がおかし
くなったのだから恐れるものなどない。ずけずけと言い放たれるのをアフロも
黙って聞いていた。
「それにね、私には悪魔に頼みたいような願いごとなんてなんにもないの」
それは本当のことだった。仮にそれが悪魔ではなく神様であったとしても、
陽子には……少なくとも今の陽子には……なんの願いも思いつかなかった。
願いというのはある種の希望だ。でも陽子の中にあった希望はすでに失われ
てしまった。幸福のさなか、希望に満ちていると思われた未来のすべて。それ
があんなにも簡単に崩壊するとは考えもしなかったし、失望の分だけ虚しく思
えた。もしもこんな状況でなければ叶えたい願いの一つもあったかもしれない
が、今はそれさえも思い出せない。
悪魔はジーンズのポケットからおもむろに煙草を取り出した。
「吸ってもええかな」
「どうぞ」
律義な悪魔である。
アフロは百円ライターで火をつけると、深く吸いつけ、長々と煙を吐き出し
た。
「無欲な人間なんておらんもんやねんけどな」
「別に無欲ってわけじゃないわ。欲はあるわよ」
「ほんなら、それ、言うてえな」
「だって新しい鞄欲しいとか、もうちょっと長く休みとって旅行に行きたいと
かって、命と引き換えにするような願いじゃないもん」
「……いや、そういうんやなくて。なんかないのん?」
「ない」
陽子はきっぱりと言った。
アフロは眉間に皺を寄せ、実に困ったように腕を組み、唸った。なんと言わ
れても、ないものはないのだ。
アフロが唇に咥えた煙草の先から紫煙が漂い、白く細く空気の中を流れて行
く。陽子はさっきまでの酔いがはっきりと醒めているのを感じていた。
「そんでも、俺はあんたの願いを叶えんとあかんねん。なんか考えてえな」
「ないって言ってるでしょ。私、もう帰るわ。洗濯物、乾いたみたいだし。明
日も仕事だから」
今度こそ陽子は立ち上がり、乾燥機の中からほかほかになった洗濯物を取り
出した。乾燥機の中は、なんの変哲もないただの乾燥機だった。
「待ってえな!」
「しつこいなあ。願い事なら他あたってよ」
「そういうわけにはいかんねん!」
「じゃあね」
陽子は洗濯物をいれた籠を手にランドリーを出て、ぴしゃりと出入り口の引
き戸を閉めた。
アフロが追ってこようとしたのを感じたが、振り返ることはしなかった。ア
フロとのやりとりはもう怖くはなかったが、今は振りかえることの方が怖い気
がした。振り返れば確実に狂った自分を認めることになる。きっとそこには誰
もいないだろうから。
部屋に戻った陽子は洗濯物を畳むと、シャワーを浴びて思い切り乱暴に髪を
洗った。シャンプーの泡を盛大に撥ね散らかし、わしゃわしゃと頭皮を指で力
強く。それはあたかも苦悩に頭を抱えるような、掻き毟るような痛ましい力だ
った。
翌日、陽子は昨夜の出来事……というか、一夜明けてみると昨夜の自分自身
が怖くて、出勤するとすぐに千夏のいるブライダルデスクまで出向いて行った。
ブライダルデスクはもちろんこれから結婚しようというカップルが見学だの
相談だのにやってくる場所で、いつもそこはかとなく甘酸っぱいような幸福な
気配に満ちている。
当初、陽子はその空気が気恥ずかしかったが、だんだん仕事に慣れていくう
ちに今度は微笑ましく感じるようになり、自身の婚約が決まってからは同胞の
ような親しみを感じ、そして破談になった今では近づきたくない場所になって
いた。
仕事の用事なら内線電話ですむし、いや、もちろんどんな用件であれ内線電
話や携帯電話を鳴らしてもかまわないわけだが、陽子はどうしても千夏の顔を
見て話したかった。
同期入社だが千夏の方が陽子より二歳ほど若い。陽子は大卒だが千夏は短大
卒だ。社内での評価は陽子の方がしっかり者で通っているが、プライベートと
なると千夏の方が物慣れていて、こと恋愛については経験豊富で、だから陽子
はこれまでにも哲司との交際について相談をかけたこともあった。
それに、なにより千夏とは元々ウマが合うとでもいうのか、てきぱきした仕
事ぶりもあっさりとした気性もどこか似たところがあり、他の同期の中でもと
りわけ仲がよいから、恋愛でなくとも仕事の相談や愚痴だって互いに言い合う
仲だった。
陽子はふかふかした絨毯のフロアをまっすぐに歩いてブライダルデスクのあ
るサロンに入って行った。
大きなガラスの扉には繊細な模様が描かれ、中はアイボリーを基調とした静
かで清潔な空間になっており、どっしりと重厚なデスクにお客様用のソファ、
中央のコーヒーテーブルにはカサブランカが活けられていていかにも「ブライ
ダル」を意識した飾り付けになっていた。
陽子は微笑みながら受付に座っていた後輩に、
「宮本さんは?」
と尋ねた。
「宮本さんは今お客様をチャペルにご案内中で……」
「ああ、そう。それじゃ出直すわ」
「ご伝言なら聞いておきますけど」
「それじゃあ、来週のバンケット、午前中の装花の手配は変更なしってことで
伝えておいて貰える?」
「はい」
陽子はさっとサロンの中に視線を走らせた。お客様は二組。それぞれデスク
でプランナーと話しをしている。どれも幸せそうな顔ばかり。陽子はため息が
出そうになるのをこらえてサロンを後にした。そしてその足でまっすぐにチャ
ペルへ向かった。
ホテルのチャペルは中庭に面した小さなもので、つるバラを這わせたアーチ
が可愛らしく人気がある。陽子は千夏がオンシーズンは特にチャペル内での挙
式よりも中庭に椅子と祭壇を持ち出して行う屋外での挙式をお勧めする傾向に
あるのを知っていた。
而して、中庭に千夏はいた。若いカップルを案内して、身ぶり手ぶりで屋外
挙式の様子を説明しているのが分かる。動くたびに制服のジャケットの金ボタ
ンが太陽に反射してきらりきらりと光っていた。
千夏は陽子の姿を認めると、一瞬驚いたような顔をしたが、陽子が目配せす
ると小さく頷き、お客様をチャペルの方へ向かわせてから小走りに駆けてきた。
「ごめん、接客中に」
「どうしたの」
「あの、ちょっと、今日いいかな」
「今日?」
「うん。今日、定時でしょ」
「そうだけど……」
「……都合悪かったらいいんだけど……」
陽子が言い淀むと千夏は「あ」という顔になり、すぐに察して、
「いいよ。大丈夫」
と頷いた。
「じゃあ、また後で」
陽子はまた急いでチャペルへ走って行く千夏を見送ってから、ゆっくりと中
庭の中央まで足を進めた。
一度空を見上げ、それから、あたりを見渡す。テラコッタのタイルを埋めこ
んだプロムナード。芝生の緑が濃い。つるバラはまだ咲いていないが、膨らん
だ蕾の淡いピンクが可憐だった。
植え込みのマーガレットや桜草がホテルの中庭という場所の豪華さを優しい
雰囲気に変えている。陽子はそれらを順に見てまわり、虫がついていないかど
うかや、植物の育ち具合などを確認した。
桜草のシーズンが終わったらここにはゼラニウムを植えよう。赤いゼラニウ
ム。夏に映える美しい赤。あの花には除虫の効果があると教えてくれたのは、
哲司だった。陽子はポケットから手帳を取り出し、土の消毒と植え替え時期に
ついてメモした。
夕方、退社時刻になると陽子はロッカーで着換えて千夏と晩ごはんを食べに
出かけた。
千夏は制服のかっちりしたスーツから柔らかなシフォンのチュニックに着替
え、軽快で明るかった。
二人はかつて哲司も含めた三人でよく出かけたイタリア料理屋へ行き、ブル
スケッタや生ハムを食べながらワインを飲んだ。
「それで、どうしたって?」
千夏はフォークの先でアンチョビ詰めのオリーブを突き刺しながら尋ねた。
陽子はいざ自分が誘っておきながら、一体なにをどこから話していいか分か
らず「うん……」とか「いや、ちょっと……」とか切れ切れに言葉を継ぐこと
しかできなかった。
実際、なにから話すべきなのか見当もつかないほど事態は複雑な気がした。
言葉にすれば単純なことだったかもしれない。自分は哲司と婚約したがそれ
が破棄になり、だいぶん落ち込んで、昨夜は乾燥機からアフロの男が出てくる
幻覚を見た。それが今日までの経過。しかし、それを説明するにはどんな言葉
を尽くせばいいのかがまるで分からなかった。
「……なんか色々ありすぎて……」
陽子はやむをえず、力なくそう呟いた。
「……うん」
千夏が頷いた。
「まさかこんなことになるなんてね……」
とも。
「哲司くんはなんて……?」
「なんだろう……。ほんと、急だったから。まだ結婚する自信ないとか、もう
ちょっと時間欲しいとか言ってたけど……。自信ないって言ってもプロポーズ
してきたのは向こうだし……」
陽子は白ワインを啜った。
この店は裏通りに面しているが、オープンカフェの様相を呈していて、中折
れ式の扉が今は半分ほど開けてあり爽やかな風と夕方特有のくたびれてどこか
埃っぽい空気が流れこんでいた。
店内は適度に混み合って賑やかで、陽子はこの気の置けないカジュアルな乱
雑さに少しほっとしていた。どうしたってシリアスな話ししかできないのだ。
せめて周囲は明るい方がいい。
「話し、進んでたんでしょ。揉めたんじゃないの?」
「揉めたよ。うちでもあるじゃない? キャンセル。それに、見学に来て意見
が合わなくてその場で大喧嘩になって、ほんとに別れちゃうとか……。あれ見
ていつも大変だなって思ってたけど、実際は私らが見てる百倍ぐらい大変」
「親はどうしたの?」
「それも大変。泣くし、怒るし。哲司の親も来て、そりゃもう大騒ぎ。哲司は
なに聞かれても、ごめんなさいの一点張りでろくに理由も説明しないし……。
まあ、時間が欲しいとか自信がないっていうのが理由じゃあ誰も納得しないし
ね。マリッジブルーって男もなるんだっけ?」
「……どうだろう……」
「ようするに、結局、私を好きじゃなくなったってことなんだけどさ……」
「そう言われたの?」
「ううん。そうは言わなかった。でも、そういうことでしょ」
千夏もワインを啜って、せつなそうに眉根を寄せた。
「だからってわけじゃないんだけど……。なんか、私、ちょっとおかしいって
いうかさ……」
「なによ、おかしいって」
「あの、これ言ったらどん引きかもしれないんだけど……」
「なに? なんかあったの?」
陽子はためらいつつ、尚も続けようとした。
が、続けようとしてふと視線を開け放された扉の外へ向けて、ぎょっとして
言葉を失ってしまった。
「どうしたの?」
愕然として硬直している陽子に、千夏が焦れたように先を促した。しかし陽
子は通りの一点を見つめるだけで声も出なかった。
信じられないことに陽子の視線の先には昨夜のアフロが映っていた。
アフロは通りの向こう側に立って陽子を見ている。昨夜も思ったが、本当に
巨大だ。たぶん180センチ以上あるだろう。けれど、アフロの膨張で優に1
90センチは超えている。
陽子は涙ぐみながら言った。
「私、頭おかしくなった……」
「やだ、なに言ってるの?」
「だって……」
鼻の奥がつんとする。声はすでに泣き声だ。千夏は慌てたように陽子の手に
自分の手のひらを重ねた。
「しっかりしてよ」
「……」
「……ねえ、陽子。あれ誰……? 知り合い?」
「え?」
視線をあげるとアフロが笑いながら手を振っている。
千夏は陽子の手を握ったまま不審そうに顔を歪めてもう一度言った。
「でかいアフロね」
「千夏、見えるの?!」
陽子は思わず頓狂な声をあげた。
「そんなに目は悪くないわよ」
そう答えた千夏はまるでその言葉を裏打ちするように、あろうことかアフロ
に愛想笑いをしながら軽く手を振り返した。
「まさかナンパじゃないよねえ?」
「……」
信じられない。乾燥機から出てきたアフロが今度は街の雑踏に現れるなんて。
陽子はワインの入ったグラスを掴むと一息に呷った。そうでもしなければ正
気を保っていられなくて。しかも、そうしている間にもアフロはこちらへやっ
て来るではないか。平然として長い足でアスファルトを踏みしめながら。
「ちぃーっす」
アフロは二人のテーブルまで辿りつくと、今時の若者同様に首をひょいとす
くめるような挨拶をした。しかし陽子はその姿を間近に見るのが怖くて、顔を
そらしたまま黙っていた。
一体、自分は頭がおかしくなったのか。それとも何者かに騙されているのだ
ろうか。所謂「ドッキリ」みたいなものに。
「ちょっと、無視せんとってくださいよ」
「……」
「なに怒ってるんすか」
アフロがなんの邪気もなく朗らかに陽子の顔を覗き込んでも、陽子は頑なに
唇を噛みしめて黙っていた。
陽子のそういう態度にアフロは苦笑いしながら、連れである千夏に向かって、
「すみませんね。お邪魔して。あ、ここ、座っていいっすか」
「あ、はい。どうぞ」
千夏は咄嗟に空いた椅子を勧めた。
「ちょー、ほんま、無視すんのんやめましょーよ。人の話しちゃんと聞いてよ」
あろうことかアフロは片手をあげて店員を呼び、ビールを注文した。
「お友達ですか?」
「あ、私は同期で……」
「へえ、同僚なんや。でも、えらい若くみえますやん」
「年は私の方が下だから」
「あー、どうりで」
アフロは異様な人懐こさで千夏に話しかけ、千夏も戸惑いながらもそれに答
えている。
それは自分の預かり知らぬとところで世界が変質し取り残されていく孤独の
味を思わせる。
陽子はとうとうたまらなくなって、
「あんた一体なんなのよ! あつかましいわね! なんでいきなり現れんの
よ?!」
と怒鳴った。
驚いたのは千夏だった。失恋直後の、友人でもある同僚がめずらしく真剣に、
切実な顔で誘いにきて半泣きの顔をしていたのに、そこへ明らかに年下であろ
う若い男が現れて馴れ馴れしく話しかけると思ったら、いきなり怒りを爆発さ
せるなんてどういうことなのだろう。
千夏はテーブルを叩いて今にも立ち上がりそうな陽子を「まあまあ」と制し
た。
「えーと、あなた達どういう関係なの? 友達?」
「ちがうよ!」
「そうっす」
陽子とアフロが同時に答える。
ビールが運ばれてくるとアフロはグラスを手にして、女二人に言った。
「ま、とりあえず飲みましょうよ。おつかれさまでーす」
グラスの中で金色のビールが細かい泡を立てて弾けている。悪びれもせずグ
ラスを掲げるから、千夏は思わず自分のワイングラスを取り上げると反射的に
アフロと乾杯をした。
「えーと……」
千夏は陽子をちらと見た。けれど陽子は何も言わない。ただ憮然とした表情
で黙っている。千夏は内心、陽子のこういう融通の利かない頑なさが前々から
恋愛向きではないと思っていた。
恋愛向きなんて性質があるのかというと、どうとは言えないのだけれど、少
なくとも男に愛されやすい性質はある。陽子の真面目さはそのまま硬質な印象
で、男を怖気づかせる。頭がよくて、冷静であろうとする性格はいつだって正
論を言おうとする。それもきちきちの正論で、言いわけ一つ許すゆとりもない
ほどに。
可愛げがないのよね、ようするに。千夏は心の中で苦く笑う。アフロは気持
ちのいい飲みっぷりで、咽喉をのけぞらせてビールを流し込んだ。
その美しい、妙に健全な佇まいと隆起する咽喉仏を見ながら、千夏ははっと
して再び陽子に視線を投げた。
陽子の話しはこれか……? 失恋直後の友人が、自分の頭がおかしくなった
と半泣きで言う。それはこの男のことなのか? 確かに陽子の相手にしては若
いし、まさか学生でもないだろうけれど、何をしているのか分からないとんで
もないアフロのことを言いたいのだろうか。
千夏はアフロを見つめながら、外見はさておき、そう悪い人間でもなさそう
だと仕事の時にお客の好みや恋愛遍歴、財布の中身まで推し量るように観察眼
を働かせた。
千夏は充分にアフロを検分すると、訳知り顔で微笑んだ。
「陽子、大丈夫よ。心配しなくても別におかしくないよ」
「えっ」
びっくりしたのは陽子だった。千夏は妙に穏やかに、すべてを知ったような
調子でうんうんと頷いてみせるけれど、陽子にはなにが大丈夫なのかやっぱり
分からなかった。
「待ち合わせてたんならそう言ってよ。ていうか、紹介してよ」
「しょ、紹介? 誰を?」
「彼、でしょ?」
「ええっ」
千夏の言葉の意味が初めて分かった陽子は椅子から転げ落ちそうなほどのけ
ぞった。
「ち、違う違う違う!」
陽子は両手をぶんぶん振って、全力で否定した。
乾燥機から出てきたアフロを新しい恋人にするなんて冗談じゃない。第一、
当分恋愛なんてしたくもないと思っているのに。陽子の頭の中に「食傷」とい
う言葉が浮かぶ。
しかし、またはっと気づく。そういう問題ではない、と。
アフロが自分の何かなんてどうだっていいのだ。問題はアフロの姿が千夏は
勿論のこと、店の店員にだって見えているということだ。自称悪魔という男の
姿が……!
「ぜんっぜんそういう関係じゃないから! むしろ無関係なのよ! いや、そ
うじゃなくて、千夏、本当に本当に見えてるの?」
「なに言ってるのよ?」
千夏はきょとんとして陽子を見返した。
「別にいいじゃない。世間体とかそういうの気にすることないわよ。次の恋愛
に早いも遅いもないわ。むしろ、早い方がいいぐらいよ。立ち直っていける証
拠じゃない?」
と、まるで諭すように言った。
そしてさらに、
「よかったじゃない」
とまで付け加えた。
陽子はそれを聞いていたアフロがにやりと笑うのを感じ、キッと睨みつけた。
「ね、ずいぶん若いみたいだけどどこで知り合ったの?」
「……こ、コインランドリー……」
陽子が観念したようにぼそりと答えると、アフロが椅子の背に背中を預けて
ぶっと吹きだした。
「ちょっと運命的な出会い方してもうたからな」
「へえ、運命的?」
「やめてよ!」
「テレんでもええやん」
「やめてったら!」
ムキになる陽子とからかうように笑うアフロの男。千夏はそれを見比べて、
肩をすくめた。
誰だって自分のしていることが本当に正しいのか分からなくて不安に陥り、
確かめたくなるものだ。千夏は陽子が自分を正当化したくて今日誘ってきたの
だと納得した。
それにしても、哲司と比べてあまりにも違う相手なのが千夏には少しひっか
かっていた。
哲司は造園会社で設計の仕事をする、当たり前のサラリーマンだった。背が
高くて細面、細いフレームの眼鏡をかけているのがいかにも朴訥で善良そうに
見え、実際真面目な男だった。それなのに哲司のようなサラリーマンとはまる
で違う若い男を次の相手に選ぶとは、確かに意外というより乱心のようでもあ
る。
食事の間中、千夏の目が探るように陽子とアフロを見つめるが、陽子は無口
になりワインばかりをひたすら啜った。
そんな陽子をよそに千夏とアフロは、
「仕事、なにしてるの?」
「便利屋みたいなこと、かな」
「へえ? あ、引っ越し手伝ったり、犬の散歩代行したりっていうのあるよね。
そういうの?」
「ま、そんなとこ」
「そういう仕事でその髪型ってありなの?」
「別に駄目ってことはないねん。もっとすごい奴とかおるし」
「ふうん。自由なのねえ」
といった具合に、普通の、初対面らしい会話を交わしている。
こういう時の千夏を陽子は大人だなと思う。何が起きても動じないで、臨機
応変に対応しようとする。それもにこやかに、美しい笑顔を崩さないで。
それに比べて自分はどうだろう。慌てるばかりで、今だって子供が拗ねて不
貞腐れるように黙ってワインを飲んでいるだけだ。
食事が終盤に差し掛かっても陽子はほとんど喋らなかった。千夏はそんな陽
子を「照れて」いるのだと思い、幾度もくすくすと忍び笑いをした。笑うたび
に片頬に笑窪が浮かぶ。
アフロは旺盛な食欲を見せて、ピッツァやミラノ風カツレツを追加注文し、
綺麗にたいらげていった。
実に奇妙な晩餐だった。それぞれが腹の中を探り合い、誰も真実など知らず、
何も信じるものがない状態。空腹が満たされても、まるで釈然としない空気が
漂う。
陽子は当初の目的を見失い、今はワインを飲み過ぎたせいで視界がぼんやり
とするのをどうにか正気を保っていた。
千夏が腕にはめた華奢なブレスレット型の時計を見た。
「あら、もうこんな時間?」
「二軒目、行きます?」
アフロが言った。
なぜこのアフロはこんなにもしゃあしゃあとしているのだろう。陽子はもう
アフロを睨むよりは頭を抱えてその場に突っ伏したくなった。
「うーん、悪いんだけど私は明日早いから……」
「あー、そうなんすか」
「陽子は明日休みだっけ?」
「え? 私?」
「陽子、今日はやけに飲んだわね。顔が赤いよ」
「う、うん……」
「私、しばらく忙しいのよ。資料まとめたりとか、デスクの仕事で」
言いながらすでに千夏は帰り仕度になっていた。
陽子もそれに促されるように身支度をし、鞄から財布を取り出した。そして
今になって初めて、自分が話しを聞いて欲しくて、いや、もう、正確には泣き
つきたくて千夏を誘い、それなのにろくに話しもしなかったことを思い出した。
「今日は私が誘ったから」
陽子は同じく財布を出しかけていた千夏を制して、さっと手をあげて店員を
呼んだ。
「えー、いいよ、そんなの」
「ううん。いいの。なんか、一方的な感じになっちゃったし……。本当はもっ
と色々聞いて欲しいことあったんだけど、それはまた改めて」
店員がテーブルに勘定書きを持って来ると、陽子はカードで支払いをした。
「あんまり気を使わなくていいんだよ」
「でも、私、今日いっぱい飲んだしさ」
「それじゃ、今度、私がなんか奢るわ。……私も聞いて欲しいことあるし……」
「うん」
「……それにしても、元気みたいでよかったわ」
女二人のやりとりをアフロは黙って聞いていた。
店を出て千夏が帰ってしまうと、陽子はその背中を見送りながら、結局事態
はなにも変わっていないことに気がついた。
頭がおかしくなったのではないとしても、アフロはここにいるということ。
この事実を一体どう受け止めればいいのだろう。
「さー、あんたの願いごと、ひとつ言うてみ」
陽子はアフロを見上げた。やはり、アフロはその髪の分だけより大きいと思
った。