ヨシエの座頭市

■連載小説 『檸檬に、キスマーク』 第5回■
ヨシエの座頭市
1
樂月慎
rakuzuki sin
目が覚めると、枕元から音楽が聞こえた。またヘッドホンをつけたまま眠って
いたらしい。マーヴィン・ゲイの甘く透き通るファルセットが、外れたヘッドホ
ンから小さく聞 こ え て い る 。
みかん箱に詰めるCDも残り少なくなってきており、昨夜はモータウン系のソ
ウルミュージックを三枚ほど聴いてから寝床に就いた。
時計を見ると、午前九時過ぎ。珍しく午前中の早い時間に目覚めることができ
た。
廊下に出てミカピョンの部屋を覗く。
絨毯の床には、ディズニーキャラクターのTシャツと、二本線が入ったジャー
ジのズボンが、くたくたになって脱ぎ捨てられている。ミカピョンは無事、学校
に行けたようだ 。
トイレを済ませ、欠伸をしながらリビングに向かうと、テレビの前にペタンと
座っている人影に気づき、慄きの悲鳴を上げた。
ヨシエが洗濯物を畳んでいたのだ。
最近、起床しては驚くことが多い。なんだか調子が狂う。
「なにが、うおぉぉぉぉ、よ。朝からバカじゃないの?」
まぁ「勝新」だからいたしかたない。それでも、ヨシエの背中がどこかくたび
「そこに目玉焼きあるから」
目 を 合 わ せ る こ と も な く、 彼 女 は 冷 淡 な 調 子 で、
と続ける。まったく朝から横柄な態度である。
1
れている様子なのが気になった。
「どうして、いるの? こんな時間に。仕事は?」
定休日だと気づきながらも、彼女の機嫌を窺うためにわざと尋ねる。
「は? それはこっちのセリフよ!」
予想通りの罵声が飛ぶ。しかし彼女のそんな憎まれ口は、いつもより威勢がな
いように感じられ、なんとなく物悲しさまで漂ってくるのだった。
「あぁ、ごめん 」
頭を掻いてごまかしながら目玉焼きをレンジで温める。
ヨシエは洗濯物を畳み終えると、掃除機をかけ始めた。
温めている間、牛乳をカップに注いでカウンター越しに彼女を眺めた。
ソファをずらし、テーブ
ルをずらし、慌しく動き廻
る彼女の横顔をよく見る
2
と、ふっくらとしていたは
ずの顎から首にかけてのラ
インが、痩せていることに
気がついた。すっきりした
というより、やつれている
ような印象である。
「なんか疲れているみたい
だな」
掃除機の騒音に消される
ことを知っていても、星野
はそう口にした。
「え なんか言った?」
とこ……」
いるな、と思って、ここん
「いや、なんか顔が疲れて
ヨシエは掃除機を止めて
振り向く。
!?
「ね、ね、ね、ね、
言い直していると、ヨシエは表情を豹変させ後方を凝視し、
もしかして目玉焼きそのままレンジに入れたの?」と喚き出した。
「そのままっていうか、皿には載せているけど」
彼女がただならぬ剣幕であることの真意を掴めずに、星野は返答した。
「バカ、そういうことじゃなくて。あぁ、もう、全然ダメね。カバーがあるでし
ょ! ほら、そのカバーで被せてから温めないと。中で目玉焼きが爆発してレン
ジが汚れるのよ。昔から何回も何回も私に言われているのわからない? まった
く進歩がない男 な ん だ か ら ッ 」
彼女は呆れ果てたように、前髪をかきあげる仕草をし、それから掃除機を片付
けにいった。
「こんなことで、そんなにキレるかよ、普通」
星野はぼやく 。
レンジの脇には、フライパンの蓋のような透明のプラスティックが確かにある。
なるほど。目玉焼きはレンジの中で、ウジュ、ブジュ、ボンッ、と音を発してい
た。なるほど。
「はぁ、終わっ た 、 終 わ っ た 」
ひと息吐くと、ヨシエは冷蔵庫を開けてトマトジュースであろう缶をひとつ取
り出す。そしてソファに凭れた彼女は、プシュ、と缶のプルを抜く音を立てた。
「なんだ、せっかくだからコーヒーでも淹れてやろうと思ったのに」
彼女に視線を送り、星野は唖然とした。
トマトジュースの缶だと思っていたが、ヨシエが手に持っていたのは缶ビール
であった。まだ午前九時半だというのに、スツールに両脚を伸ばすなどして、ず
いぶんといい身 分 で あ る 。
そのふんぞり返った態度に、無性に腹が立った。ミカピョンから聞いた、母親
のアルコール中毒の話を思い出していたからだろう。
星野は嘆くよ う に 息 を 吐 く 。
ビールメーカーの「夏限定」という金色のラベルが、窓から射し込む陽に反射
して、壁面の一箇所を照らしている。
「おい、おい。ちょっとそれはないだろ。午前中から酒かよ」
我慢ならず舌を鳴らした。するとヨシエは、キィッ、とした瞳で星野を見上げ
てきた。
3
「は? どうしたのよ、そんな怖い顔して。別にいいじゃない。たまにはひとり
でのんびりくつ ろ ぎ た い わ 」
「ぶははッ」と、下劣な声を上げ
ヨシエはなんの悪びれもなくテレビを眺め、
ている。
頭の中ではわ か っ て い る 。
星野だって午前中から酒を飲み、ひたすらワイドショーを観ている身であり、
それに本来であれば、ここに居てはならぬ分際なのだから。
彼女が缶を傾ける度、壁に映る光が波のように揺れて見えるのが、神経を苛立
たせる。
「おい、そんなことやめろよ! おまえ、幸せになるんだろッ」
星野は彼女の傍へ近づくと、ヨシエが手にしていた缶をひったくった。
「ちょっと! なにするのよ、頭狂ったの なんなのよ」
ヨシエとテレビの間に、星野は立ちはだかる。
「知っているんだろ? ミカピョンの母親のこと。アル中のことだ。おまえのこ
の姿、ミカピョンが見たらどう思う? おまえが精一杯、母親面したって、一生
心なんて開いてくれない。そうじゃないのか、えぇ? どうなんだッ」
星野は声を震わせ、元妻に詰め寄る。
4
!?
「ミカピョン、ミカピョンって、うるさいわねッ。仲がいいからって調子に乗っ
て、この変態! だいたいそんなこと初めて知ったわよ! わかってりゃ、こん
なことしないわ、バカじゃないの? それにあの子に手なんて出さないでよね」
ヨシエの頬が 痙 攣 し て い る 。
「問題をすりかえるなよッ。変態? 手を出す? バカなのはお前だろ」
どうだか。怪しいものだわ」
彼女は軽蔑の眼差しで星野を見下げながら、「さぁ、
と、一度眉を持ち上げ、まばたきを繰り返した。
ヨシエはふいに立ち上がり、どこかに行こうとする。反射的に星野は彼女の腕
を掴んだ。
元妻は「なによッ」と、顎をツンと上げ、星野の顔を睨みつける。
(また殴られたいのか? ああ?)
星野はヨシエ を 見 下 ろ す 。
壁に揺れる光 が 大 き く な る 。
星野は、右手に持っている缶を身体の後ろにやり、太陽から隠した。
鼻から息を吸い込む。そして鼻から息を出す。熱い息が上唇にかかる。星野は
懸命に「美輪さん」を呼び続ける。
(やめろ、やめろ、繰り返すだけだ)
深呼吸を繰り返し、光が映っていない白い壁面を見つめる。
「痛いからやめて! 放して、キチガイッ!」
「ちょっとビール返してよッ」と、絶
ヨシエは強引に星野の手を振り解くと、
叫し、再びソファに腰を下ろした。
缶ビールを奪われ、また光が壁に揺れて映る。
ゆらゆらとした光の波が、大きくなったり小さくなったり、星野の視覚を狂わ
せている。
「こいつ……」
どうしようもない憎しみが再現されていく。
あの日の、ヨシエを打ったときの感情である。
ヨシエのひくひくと痙攣させている頬に狙いを定めた。
光を見るな。見なければいい。
頭ではきちんと理解している。そんなことをやってもしょうがない。だが、理
解すればするほど、右手は平手打ちをするために固く作ってしまうのだ。
5
顔面に力を込め、やっとのことで瞼を閉じた。
ゆっくりと目を開く。閉じる。また開く。
ベランダ。太陽の光。ヨシエ。テレビ。ソファ。観葉植物。幸福の木であるマ
ッサンゲアナ8号。そして、アンクルトリス……。
薄井さんに接着され、元通りとなった人形は、ふざけた顔をしてパイポを咥え、
のほほんと太陽の光を浴びている。
(これをまた壊してしまうのか……)
鼻から息を大きく吸い込む。腹の奥底にそれをしまう。ゆっくりと吐き出す。
呼び込みイメージする「美輪さん」の声……。
――あなたもう忘れたの? 愛するのよ。愛しなさい――
ようやく訪れた、ビブラート。
テレビ画面を観ると、ワイドショーが始まっている。
いつも星野が観 て い る や つ だ 。
6
――鬼畜主婦、釈放か?―― ――新聞配達員の青年が自首。真犯人の出現 ―― ――警察の怠慢捜査が浮き彫り――
画面をスクロールしている文字。
彼女は缶ビールを星野に向かって投げつけた。しかし缶は、星野の身体にまで
は届かず、ラグマットの上に落ちてこぼれた。
ヨシエが泣き 出 し て い る 。
「そんなこと、本当に知らなかったのよ」
2
同時に視界が 広 が る 。
星野は右手の 力 を 抜 い た 。
ミカピョン。
(すべてを失くしたのに、今度はなにを失おうとしているのだ)
彼女がまっすぐに坂を下る光景が、星野の脳裏をかすめてくる。
脳裏に浮かぶのはピンク色のTシャツを着た少女。
殺された幼児が、七五三のおめかしをして微笑んでいる写真。
!?
ヨシエはクッションに顔をうずめ、しばらく泣き崩れた。
星野は壁時計を見上げる。時計の針は午前九時五十五分過ぎを示しているが、
なかなか十時まで動きそうにない針に思えてしまう。それだけ、空気が止まって
いるのである。
ラグマットの汚れたところを布巾で拭いて、ほとんど空となった缶ビールをテ
ーブルの上に置 い た 。
ゆるやかな風が窓のレースを膨らませて部屋に入り込む。さっきまでの諍いな
ど知る由もない穏やかな午前中のにおいに、鼻腔がくすぐられる。
ベランダに干している洗濯物のにおいだ。
「なにか面白いのやってないかな」と呟いて、リ
泣 き が 落 ち 着 い た ヨ シ エ が、
モコンのボタン を 押 し た 。
画面が次々と変わる。どのチャンネルもワイドショーである。
「ねぇ、ワタル ? 」
ヨシエはテーブルに置いた缶ビールを手に取り、クッションに顎をのせた。そ
して、もどかしそうにアルミ缶を指で押し、パキパキと音を鳴らしている。
彼女は問いかけたまま俯き黙り込む。
アルミ缶は、ヨシエが両手で被っている指の隙間から、光の粒を壁面に反射さ
せていた。
「なに?」
星野は、彼女 の 言 葉 を 促 す 。
「やっぱり、コーヒー飲みたいな。淹れてくれる?」
顔の半分が陽射しに照らされており、眩しそうに瞳を細めている。
ほんの数秒、 見 つ め 合 っ た 。
「あ、いいよ」
さっそく湯を 沸 か す 。
ドリップの準備をしていると、こちらをぼんやりと見続けているヨシエと再び
目が合った。
ヨシエの泣き腫らした瞼は、コーヒーのことではなく、もっと別のことを言い
たそうであった 。
「どうした?」
7
「ううん。なん で 私 た ち … … 」
言いかけ咎めたような表情をし、続く言葉を躊躇した。
「え?」
「ううん。なん で も な い 」
首を左右に振って、赤い瞳の笑みが向けられる。
よくわからなかったが、よくわかるものでもあり、星野もその微笑に頷いて返
した。
「なぁ、そういえば、変態っていえばさ。おまえに話しことあると思うんだけど、
芝原さんって人 い た だ ろ ? 」
なんとなく、重いというか、気恥ずかしい雰囲気を変えたくて口にした。
「ありがとう」と口だけ動かしてマ
星野はヨシエにコーヒーを渡す。彼女は、
グカップを受け 取 っ た 。
「あ、いつも顔色悪くて、データの打ち込みばかりしている課長のこと?」
「そうそう。こないだばっ
たり会ってさ」
星野は先日の、公園での
出来事を話した。美少女趣
向でアニメオタクな男。
「 そ れ っ て、
ヨ シ エ は、
キモすぎ。でもワタルも似
合いそうだね」と、子供の
ようにゲラゲラと笑って拍
手をしている。
キモすぎ、なんて言葉使
っちゃって。すっかりミカ
ピョンの喋り方がうつって
いるではないか。ヨシエの
口からそんな単語を聞く方
がキモい。
「なんでだよ!」
星野は失笑しながら言い
8
返す。
「だって、周りのことなんておかまいなしに自分の世界に入るじゃない」
ヨシエは泣き終えたばかりのくせに、しれっとした表情を向けてくる。
「そうか?」
「そうよ。だって、ワタル・ヒトラーだもん」
すっかりいつものヨシエの口調である。
「ふーん。それと、もうひとつ、面白い話があって」
星野は話を続 け た 。
「うん。なにな に ? 」
「生産管理開発部に異動してさ、二年間頑張ってエリアマネージャーになろうと
していたじゃん。あれってさ、とっくに会社に干されてたってことらしいんだよ
ね。ぶはっ」
星野はそう説明し、自ら大笑いした。
「へぇ~。まじ で ? 」
「うん。きっと……ヒトラーだったから、会社では必要とされなかったんだろう
な、ぶひゃひゃ ひ ゃ ひ ゃ 」
また自虐的におどけたが、ヨシエは真剣な顔をして星野を見据えてくる。
「ねぇ、ワタル ? 」
彼女の声が低 く こ も る 。
「うん?」
ヨシエがあまりにも改まっているので、星野は急に緊張を覚えた。だからコー
ヒーサーバーを手に持ち、彼女のマグカップにコーヒーを注ぎ足した。
「その時期、あまり力になれなくて……ごめんね」
「……」
「私、本当に、最低な女だと思う。妻として失格だった。ひどいことをしたと思
う。薄井さんと 」
彼女は唾を飲 み 込 む 。
「いいじゃないか、自分で決めた道だろ。俺なんて、打ったりして、もっとひど
いことをしている。そもそも、いろいろなことを置き去りにして、力になれなか
アップで映る鬼畜主婦の顔面。
ったのは俺の方なんだし。それに……完璧な人間なんていないんだ」
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もしかしたら彼女は、やっていないかもしれない、というわけか。
「完璧な人間… … そ う よ ね ぇ 」
ヨシエは難しそうな顔を向けてくる。
「いやいや、そこまで深刻に考えることじゃないよ」
昔ヨシエと行った動物園に、檻の中で方膝をつけて座り、頭を抱えて考え込ん
でいたゴリラがいた。先日ヨシエのことをゴリラの赤ちゃんみたいに思ったから
だろうか、そのときの光景を思い出して、星野はつい吹き出してしまった。
「なによ。バカにしたような顔して」
ゴリラを見物した後、ヨシエが作ってくれたお弁当を食べた。から揚げが大成
功し、彼女はご機嫌であった。動物園の芝生にビニールシートを敷いて、そこで
のんびりとくつろいだ休日であった。
「え ちがう、ちがう。なんでもない、なんでもない」
テレビからは、白熱している数人のコメンテーターの声がかぶって聞こえる。
―― そ う 思 い ま す け ど ね、
この事件のケースは――
――現代社会の病理だと―
―
―― 警 察 を 含 め た で す ね、
構造のあり方が――
ヨシエはテレビを消す。
そして二人は同時にため
息を吐いた。そして顔を見
合わせると、互いにもう一
度、息を吐いた。
「あの子どう思う?」
ヨシエは声をかすかに震
わせ囁く。
「あの子ってミカピョンの
ことだろ? 素直で、健康
的で、いい子だと思うよ」
「そうよね。私、空回りし
10
!?
て、余計なことばかりしてるかも」
「そんなことないよ。ヨシエなら大丈夫だよ。母親として認めてもらえるよ」
「だって、」
彼女は次の言葉を口ごもり、自分の中で飲み込んだ。
「え?」
「いいの。ワタルに言ってもしょうがないこ
星野が問うが、彼女は鼻を啜り、
とだわ」と、気を持ち直している。
「ふん。でもや る し か な い 」
ヨシエは急に 意 気 込 む 。
(ん? やるしかない? なにをやるというのだ)
星野が首を傾げていると、彼女は言葉を続ける。
「そうよ、自分で選んだ道だもん。とことん向き合うしかないわ。それとワタル、
あの子に変なことしないでね。絶対にしないでね」
ヨシエは決意を固めるように唇を真一文字に結ぶと、悪戯に上目遣いで見上げ
てきた。
「おいおい、だから俺は変態じゃないって! いや、変態かもしれないけど、断
じて美少女趣向ではない。ああいう見境のない奴らとはちがう」
星野は、
芝原課長が熱弁していた科白のような言葉が無意識に出てきてしまい、
「とにかく、職も家もないけど、きちんと分別ある大人だぞ」と言い直した。
ヨシエはまったく聞いていない様子で、「コーヒーおいしい」と呟いてから、「そ
んなに分別あるなら、さっさと出て行ってよね」と、相変わらずの憎まれ口をた
たいてくる。
「……はい」
星野が芝居じみた声で力なく呟くと、ヨシエは声高らかに笑い出す。
(大丈夫だ。言われなくともそろそろ出て行くよ)
レースのカーテンが膨らみ、その襞がテーブルに置いた空のビール缶に引っ掛
かり、缶が倒れ て し ま っ た 。
二人はそのことに気づいても、どちらも缶を立て直そうとはしなかった。
「お昼、ソーメン、一緒に食べる?」
彼女の言葉に星野は強く頷いた。
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3
定休日だと思っていたが仕事のようである。
午後からヨシエは出かけていった。
星野は不動産屋に行ってみようと自転車に乗った。しかしミカピョンのことが
気になり、彼女が通う小学校のある方へ向かっていった。
自転車に乗ったまま金網越しにミカピョンを探す。
学校に着くと、すでに授業を終えている時間であった。グランドではいくつか
のクラブチームが練習をしており、子供たちがまばらに散らばっていた。
サッカーと野球が、グランドの大部分を使っている。ソフトボールはわりと隅
っこであるが、すぐ目の前で他小学校と思われるチームと練習試合をしていた。
しかしどちらのユニホームが、ミカピョンのチームなのかはわからない。
パ コ ン と 乾 い た 音 が す る と、
「イェーイ! まわれ、まわれ」と片方のベンチ
から歓声が上が る 。
ひとりの女の子が打った打球は、
セカンドの頭上を抜けてセンターへ転がった。
二塁にいたランナーは顎を上げて走り、三塁ベースを蹴ってホームへ突進してい
る。
センターを守っていた外野手は、転がっているボールをすばやく処理してホー
ムへ投げた。ホームベース上に構えるキャッチャーのミットに吸い込まれるよう
な好返球であっ た 。
タッチアウト 。
スリーアウトで、守備についていた選手たちは一斉に走りながら、センターの
女の子とハイタッチをして喜びを分かち合っている。
そのセンターを守っていた女の子。彼女がベンチに戻ると、星野に向かって手
を振ってきたのである。なんと、ミカピョンではないか。
「ナイス返球! 」
星野はうれしさのあまり両手を口に当てて叫んだ。
もちろんその声には他の選手たちも気がついて、星野とミカピョンを交互に見
て笑っていた。
試合はこれで終わったらしい。二チームは向かい合って挨拶をしていた。
ミカピョンの打席を見ることができなかったのが残念である。舌打ちをしてい
ると、彼女が金網の傍まで駆け寄ってきた。
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「すごいよ、ミカピョン。超うまいじゃん」
星野は興奮しながら彼女を称えた。
「ねぇ、ちょっと! アレはないでしょ!」
しかしミカピョンは血相を変えている。帽子で瞳を隠しているのが、ちょっと
不気味だった。アレとは、星野のさっきの大声のことだろう。
「だって手を振ってくれたから、いいのかな、と思って、それについ興奮しちゃ
ってさ。それで試合には勝ったの?」
素直に返答し た 。
「せめてバッグホームって言ってくれない? ナイスヘンキュウなんて叫ぶ人、
初めて見たんだ け ど 」
鋭い口調で言い放たれたこの言葉に、ハッとなった。
アレとは、大声のことじゃなくて、ヘンキュウか……。無意識に死語を使った
ときのような後ろめたさと恥ずかしさに、身がよろめき自転車に座っているバラ
ンスが崩れた。
「そんなことより、もうここにいないでくれる。ニタニタして不審者みたいだし。
もう帰った方が い い っ て 」
(なんだよ、そんな言い草、まるでヨシエみたいじゃないか)
13
「わかったよぉー。もう帰るんだろ? ここで待ってるからさぁ、一緒に帰ろう
よ」
星野はわざとらしく猫なで声を出す。
「は 」
ミカピョンは星野の顔を怪訝そうに眺める。
「じゃあ、一緒に帰るのはいいけど、金網にへばりついているのはやめて。変態
みたいだからさ、もっと離れてよ! もっと離れて待ってて。すぐ行くから!」
ミカピョンは緊急事態が起こったように慌しくグランドへ駆けていく。
(失敗した……)と、星野は頭を抱えた。
走り去る背番号「8」の背中を眺め、
彼女が困るだけのようなことをしてしまったかもしれない。ミカピョンと一緒
に帰っても、周囲の目があるし、特に意地悪な松井マツエに見られたら、また冷
やかされて仲間外れがエスカレートすることだろう。そのことをすっかり忘れ、
調子に乗ってし ま っ た 。
星野は緑色が錆びた金網を蹴った。
ずっと先の金網の縁にとまっていたスズメが空に飛んでいった。
一分も経たないうちにミカピョンがユニホーム姿のまま現れた。ずいぶん急い
できた様子で、やはりチームメイトには見られたくないのだろうとわかった。
星野は彼女をサドルにのせると、タチコギでおもいっきり飛ばした。
「ねぇ、ねぇ、ぜんぜん家の方向じゃないよ、ホシノッチ!」
ミカピョンは自転車を漕ぐ勢いに驚き、なにごとかと大声で騒ぐ。
「いいんだよ、家の方に向かったら誰かに見られるじゃないか」
「ペッ、ベッ」とアスファルト
星野がそう返すと、口の中に虫が入ってきて、
に唾を吐き出し た 。
「きたなぁーい。別に、誰に見られても、
」
夢中で自転車を漕いでいるので、ミカピョンの後の言葉は聞きとれなかった。
台風前の突風が背中を押してくれ、自転車は気持ちよく加速していく。
その風の中には、ミカピョンの身体にある土のにおいが混ざっている。
オレンジ色に染まりかけている肌色の夕暮れが、視界の正面に低い壁を作って
いた。星野はその空の色に漂う薄紫色の雲を目で追いかけながら、ペダルを踏み
続ける。
14
!?
彼女は後ろから「キモーい」を連発していた。
空があまりにも異様な色なので、
星野は自転車を止めた。
先日ミカピョンと入った地下の喫茶店があるところで、
「ここでひと休 み し て 帰 ろ う 」
先日ビーズを撒き散らしてしまったが、そんなことかまわない。むしろ店員が
どんな反応をしてくるのか見てみたい気もする。
「またここぉ~ 」
「今日もモカフロスティー飲ん
ミカピョンは、イヤそうにうなだれながらも、
じゃおうっと」などと言い、楽しそうに自転車から降りた。
「やっぱりヤダッ!」と叫び、ふくれっ面で星野
し か し 数 歩 階 段 を 下 り る と、
を見上げてきた 。
「え? どうした?」
ビーズのことなんて気にするな、堂々と店に入ろう。
「ねぇ、こんな格好でお店に入れると思う?」
……そうだった。彼女はユニホーム姿にランドセルを背負っているのである。
4
なぜか芝原がコスプレをして座っていた公園に行くことにした。
風は相変らず生温いが、まだ雨は降ってこないようである。ベンチに腰を下ろ
すと、自動販売機で買ったペットボトルをミカピョンに渡した。
「ありがと。ずいぶん水っぽいモカフロスティーだね」
彼女は皮肉った笑みを向け、喉を鳴らしてスポーツドリンクを飲むと、ビルで
囲まれている頭上の空を見上げた。
二人の足元にある埋め込まれた白熱灯。灯りに照らされた彼女の喉から首元。
ユニホームの丸首からニョキッと出ている柔らかな曲線の肌は、透明なオレンジ
色のサランラップで包まれているように目に映る。
そんなふうに光を浴びた彼女を横目に、星野も一緒に見上げた。
いつのまにか日が暮れてゆく空は、少しも肌色を残していなかった。
今日のヨシエの言葉を思い出す。
あの子に変なことしないでね。絶対にしないでね。
(するわけねぇ だ ろ う が )
15
星野は胸の内で否定する。しかし、これっぽっちもやましいことなど脳裏にす
らなくても、すべてを見透かしたように嘲笑しているヨシエの顔が空に浮かぶ。
どこか悔しくなり、見上げるのをやめた。
ミカピョンを一瞥する。スクール水着でおしっこ座りをしていた表紙の美少女
と重なる。
(ちがう、ちがう)星野はすぐに打ち消す。
唐突に彼女が 喋 る 。
「空に穴が、開いているみたい」
隣のミカピョンは物思いに耽った雰囲気である。
美少女の想像をしていたからか、ユニホームを着ている小学生に、女、を感じ
てしまうほど、落ち着いた大人の声色として耳に届いた。
「え?」
訊き返しながらも、彼女の胸元に視線を送ってしまう。
「空からここまで四角のトンネルがあるみたい」
「あぁ、そうか な ? 」
16
膨らみが芽生えてはいるものの未成熟であり、そのことにひどく胸を撫で下ろ
した。
「空からずうっと穴を掘ってきて、その穴に、ここらへんのビルをはめ込んで、
ビルがトンネルみたいに見えない?」
「そう言われてみればそうかも」
ミカピョンがなにを言いたいのか、いまいちピンとこなかったが星野は相槌を
打って返した。
「でしょー。あそこがトンネルの出口になるのかな?」
彼女はひとつのビルの正面玄関を指差した。
「どうなんだろ う ね 」
「あっ、今、あたし、ヘンなこと言ってる? もしかしてバカ?」
「あー、今日
ミカピョンは急にいつものキンキンした声でおどける。そして、
はいろいろあったから頭がヘンになってるぅー。だって普通、こんなこと思わな
いって。ニョヘヘヘ」と、妙なテンションではしゃぎ始めてた。
彼女のその声に、しゅるしゅると萎んでいく欲の塊を体内に感じた。
それがどんな欲だったのかはわからないが、その萎れた塊は、ミカピョンの言
うトンネルみたいなビルにどんどん吸い込まれていくような気がした。
星野は慎重に言葉を選んで問う。
「どうしちゃったの? また仲間外れにされたりしたの?」
彼女がまた無理に明るさを繕っているのかもしれない、と思ったからだ。
しかしミカピョンは、クスッと微笑み首を振る。
「ホシノッチ、 知 ら な い ん だ 」
「え?」
「あのね、すごいことだと思うの。迷惑なんだけど、すごいことだと思うの。ヨ
シエって人、っていうか、あたしのお母さん。今日学校に来たのね」
「は? 家に居 た よ 」
「ううん。来たの。昼休み終わって、
午後一番で来たの。ホームルームの時間に。
まぁ、それはそれで、あと今日はそれだけじゃなくて、もっといろいろあって、
木村健吾にコクられたり、マッチンに謝られたり。練習試合ではサイクルヒット
だし。それからホシノッチが金網にへばりついて、突然大声で叫ぶし、もう大変
17
な一日だったん だ か ら 」
「トォー!」と叫
身振り手振り早口で説明すると、彼女はベンチの上に立ち、
んでジャンプし た 。
「ヨシエが、学校に? コクられた?」
「うん、うん。 そ う 、 そ う 」
ミカピョンは木の枝に飛びつき、ぶら下がっている。
「ちょっと、詳しく話してくれよ」
「やーだよー」
星野は立ち上がり、いつまでも木にぶら下がっている彼女の背後に近づき、脇
腹をくすぐって や っ た 。
「ギャ! やめてよぉ~。わかった、わかった、話すからコチョコチョやめてッ」
ミカピョンは再びベンチに座り、一日の出来事を話し始めた。
5
朝から憂鬱な気分で過ごし、ようやく昼休みが終わった。
給食は男子と机をくっつけて食べた。女子は誰も喋ってはくれず、もう限界。
ホームルームが終わったら早退しようと決めた。
みんなから
「ナメクジ」
と呼ばれている。
クラスの担任は四十二歳独身の女教師。
そのナメクジが教室に現れ、ホームルームが始まった。すると、ものすごい勢
いで教室の扉が開き、ヨシエが現れた。
「どうしました? どうしました?」と応
突然の出来事に慌てたナメクジは、
対するが「おめぇはすっこんでろ!」とナメクジを押しのけ、ヨシエは教壇の上
に仁王立ちした。クラス中が悲鳴に包まれた。
「誰だ? 美夏をイジメたのは?」
ヨシエは開口一番、こう声を荒げ、生徒を一人一人睨んでいった。もちろん誰
も名乗るわけがない。生徒はあんぐり口を開けたままでただ怯えている。ナメク
ジはもんどり打ちながら職員室へと走っていった。
その間、ヨシエは「どうせこのまま誰も名乗らないのだろうから、今日中にあ
とで美夏に謝りな。謝らない奴がいたら、そいつの家を破壊しに行くから覚悟し
ておけよ」と言い残し、足早に教室を出て行ってしまった。
18
教頭先生を連れ、再びナメクジが現れたときには教室は大騒ぎとなっていた。
男子が凄い盛り上がり様だった。
「すげぇ、
あんなカアチャンいるかよ、すげぇよ」
と。教頭は、「静かにしなさい! これから自習時間にします」と叫び、ミカピ
ョンだけを教室から連れ出した。
「ソフトボールチームでの活躍はすばらしいし、勉強も問題ないし、家庭環境に
問題があるのかな? イジメられたなんて嘘だろう。お母さんが代わったばかり
で、きっとそういうところに問題があるのじゃないかね。イジメなんて、それは
あなた自身にも問題があるのじゃないのかね」
放送室で、教頭はチンプンカンプンなことを言って諭してくる。隣にいるナメ
クジはなぜか号泣している。「私のクラスでイジメがあったなんて、そんなはず
ないわ」と。
「はいそうです。教頭
白けた。だから一刻も早くここを抜け出したくなって、
先生のおっしゃるとおりです」と言いそうになっていたところに、放送室のドア
がノックされ、ミウラッチャンを先頭に女子全員が謝りにきた。でも松井マツエ
だけが来ていな か っ た 。
ふと横を見ると、ナメクジが狼狽した様子でハンカチを出して顔を擦っている。
ぶ厚い化粧が剥がれ落ちて、ハンカチにべっとりとファンデーションを付着させ
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ていた。
「どういうこと で す か ? 」
「そ
教頭がナメクジに詰め寄る。塩をかけられたナメクジは、ただ黙り込む。
れじゃ、わかりました。まぁ、これからは仲良くやりなさい」教頭は急にまとめ
の一言を告げると、ナメクジだけを残し、生徒たちを教室へと戻した。
だけど、ひどい頭痛がすると訴えて保健室で休むことにした。保健室のおばち
ゃんにバファリンをもらって、硬いベッドに横になった。天井を見つめて、
「あ
の人、けっこうやるじゃん」と心で呟き、クスクス笑いながら目を瞑った。
今朝ヨシエが、やるしかない、と気張っていたのはこのことか。
「そんなことをしたら、もっとエスカレートしたイジメに遭うかもしれないのに」
ミカピョンの話が一区切りし、星野がぶつぶつと呟いていると、彼女がまた興
奮して話し始め る 。
「でもね。それでもいいの。うれしかったから。あっ、それでね、保健室で眠っ
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て起きたら、ベッドの横にマッチンが座っていたの。涙なんか流してさ。ごめん、
ごめんって連発してきて。全然泣き止まないから、今日の練習試合、一緒に頑張
ろうねって、言ったよ。そしたらますます泣いちゃって」
「そりゃ、よか っ た ね 」
星野の言葉は 再 び 遮 ら れ る 。
「次ぎがすごいんだよ! ねぇ、ホシノッチ、聞いてくれる? マッチンがいな
くなったらね、木村健吾が保健室に入ってきたの」
「うん。で、木村君にキスでもされたの?」
彼女の話を折って、わざと野蛮な質問をする。すると、ミカピョンは目を点に
し、みるみる頬を真っ赤に膨らませた。
「ちょっとホシノッチィー、いやらしすぎない? 純粋なる愛の告白を受けただ
け! いきなりそんなことしてこないって。ないって、そんなの、ない、ない」
「やっぱりなぁ~。ミカピョンも木村君が好きなんだぁ~。相当うれしかったで
しょ」
「え だって、まだ返事とかしてないし、あんな男と付き合うかどうかもわか
んないもんッ」
ユニホーム姿でのそのはしゃぎようが、どっからどう見ても小学生で、微笑ま
!?
しかった。
ミカピョンは立ち上がり、照れを隠すように地面に落ちていた石を蹴った。
「雨だッ」
ミカピョンが 突 然 叫 ぶ 。
「本当だ」
空を見上げると、星野の頬に大粒の雨が落ちてきた。
「あッ!」と、ミカピョ
二人は急いで自転車に乗る。漕ぎ始めようとすると、
ンが声を上げた 。
「ど、どうした ? 」
何事かと、振 り 向 く 。
「お尻がぽこんとなったボール持ってくるの忘れちゃったよ。ニョヘヘヘ」
「なんだよ、そ ん な こ と か 」
星野は、ミカピョンの帽子の鍔を下にしてヘラヘラ笑っている顔を隠すと、力
を込めてペダル を 踏 ん だ 。
タバコ屋の角を、ブレーキをかけずに曲がる。
遮断機が、カンカンカンカンとけたたましい音を響かせて下がり始めているが、
猛スピードで踏切を越えていった。
コンビニを過ぎ、坂道を上り始めていると、自転車の前カゴに入れていたラン
ドセルの内側にシールが貼られてあるのを見つけた。
それは、
マッチンぶっ殺す!
の文字が入っているプリクラである。
「ミカピョン、 こ れ … … 」
星野は自転車から降り、ランドセルの内側に指を差す。
「あー剥がす、剥がす。ヤバイよね、こんなのマッチンに見られたら」
坂道のアスファルトは、雨粒が滲み、いびつな斑点模様ができていた。
(第5回 了)
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