ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)

ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
大森
淳史
序
ハーバート・リードは、自伝的エッセイ集である『対蹠的な経験』の中で、親交のあった T
・S・エリオットが自分のことを、王党派で、古典主義者で、アングロ・カトリックだと称し
てきたことに倣って、自分は「アナーキストで、ロマン主義者で、不可知論者」だと書いてい
る(1)。結果的にこの言葉は、きわめて広範囲にわたる思想的影響を吸収しつつ哲学的思索や芸
術批評活動を展開したリードが自分自身をわずか 3 つのラベルで端的に言い表した言葉だと言
える。
当初、新たな古典主義復興を主張し、反ロマン主義を標榜した T・E・ヒュームの感化を受
けていたリードであったが、次第に生来のロマン主義的感性を自覚するとともに、ニーチェ、
ベルクソン、ホワイトヘッド、さらにフロイト、ユングらを通じて、ロマン主義の根拠を確信
するようになっていった。そうして 1930 年代中ごろ、リードは、オートマティスムを主原理
(2)を認め、そこに自らの芸術哲学的
とするシュルレアリスムに「ロマン主義的原理の再是認」
立脚点を見定めて行くこととなる(3)。このロマン主義とは、リードにとって、芸術における自
由、創造、解放の原理を意味し、それと規制的原理である古典主義との弁証法的関係の中から
現実の芸術作品は生み出されるとされた。
不可知論は、神の存在や事物の本質など経験を超えた事柄は人知をもっては計りえず、した
がって真か偽かの議論もできないとする経験論的立場を言うが、リードの場合、これは彼の非
決定論的姿勢とも関係していた。大学へ入学する前後の時期に両親から受け継いだキリスト教
の信仰を捨てたリードは、精神の空白を埋めるものを求めるようにさまざまな思想を渉猟して
行ったが、たとえば、ベルクソンの言う開かれた動的原理としての「創造的進化」や、ホワイ
トヘッドのやはり動的な有機的・目的論的宇宙観によって、自然科学的決定論に対抗する開か
れた世界観への思想的根拠づけを得た。また、カール・ポパー同様、リードもまたヘーゲルと
マルクスの「歴史主義」的決定論を排し、開かれた社会の見方を基本に据えた。
彼が自らの政治的信条として公言したアナーキズムは、これらロマン主義および不可知論と
密接に結び付きながら、その全体を視野に収める、いわば「彼の知的パースペクティブの試金
(4)であり、したがって彼の芸術哲学ないし美学全体を理解して行くキーワードでもあった
石」
と言える。古今東西、さまざまな文化・学問・思想領域にまたがる幅広い芸術哲学および芸術
批評活動を行ったリードであったが、つねにその念頭にあったのは、彼が活動を開始した 1910
―1―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
年代前半から亡くなる 1960 年代後半に至る時期のモダン・アートの展開であった。リードの
活躍時期は、まさにモダン・アート全盛期全体とほぼぴったり重なり合う。リードは、一時的
に抽象美術やシュルレアリスムへと肩入れすることがあったにしても、どれか特定の潮流や運
動に自分の足場を定めるということがなかった。彼がそれらを眺め、あくまで批評家的視点を
失わずに、しかもそれらのなかに分け入っていくとき、その視点を支え続けたのがアナーキス
ト的信念ではなかったかと考える。
歴史的にもさまざまなヴァリエーションのあるアナーキズムがどういう思想かを端的に言う
のは難しいが、ここではとりあえず、アナーキズムのアンソロジー集『神もなく主人もなく』
の編者ダニエル・ゲランが、その序文でアナーキストの教説に対する中傷を要約しているとこ
ろを引用しておこう。「アナーキズムは、本質上個人主義的、特殊主義的であり、あらゆる形
態の組織に逆らうものである。それが目指すのは分割、細分であり、管理および生産の小地域
単位自体への後退である。それは統一、集中、計画には無能である。それは、『黄金時代』に
郷愁をいだき、原始的な形態の社会を復活させようとする。それは子供じみた楽観主義によっ
て過ちを犯し、その『観念論』は物質的下部構造の堅固な現実を考慮しない。それは矯正しよ
うもなくプチ・ブルジョア的であって、現代のプロレタリア階級運動の圏外にあり、要するに
(5)ゲランが列挙する、この主にマルクス主義者からアナーキズ
『反動的』であるというのだ。
」
ムに投げつけられた中傷は、アナーキズム思想に共通する特徴を、逆によくあぶりだしている
と言える。
一般には、私有財産を認める個人主義的アナーキズムと、それを認めない集産主義的アナー
キズムに分類されるアナーキズムであるが、すべてのアナーキズムの中心には、個人の自由に
対する最大限の尊重がある。それは、人間本性の善なることへの楽観主義に立ちつつ、歴史的
に形成された国家や法、文化的制度などの人為的規制を撤廃することを理想社会実現への必須
要件であると考える。彼らの考える理想社会の基本単位は、個人の自由と相互の契約にもとづ
く小規模の共同体である。一般の理解とは違って、アナーキストたちはけっして無秩序を好ん
だのではなく、逆に秩序を望んだ。ただし、その秩序は内側から、自然に生じるものでなけれ
ばならなかった。そのイメージは、往々にして原初の調和的世界を原型としていた。1954 年
に第 1 版が出版されたリードのアナーキズム関連エッセイ集『アナーキーと秩序』の 1971 年
版編者ハワード・ジンによれば、その秩序は、「芸術家によって与えられた形に似て」、「心地
(6)。ジンによれば、したがって、
良く、しばしば喜ばしく、ときに美しい形である」
「詩人であ
り芸術の哲学者であるハーバート・リードがアナーキストであるというのは、なんら驚くべき
(7)
ことではない。
」
アナーキズムは、芸術哲学ないし美学の領域にもさまざまなかたちで現れる。1973 年に出
た『アナーキズムの美学』の著者アンドレ・レスレールが、その冒頭あたりにアナーキズムの
―2―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
美学の特徴を簡潔に列挙しているので、少し長いがここでもそれを引用しておこう。
「アナーキズムの理論家は芸術を一つの実験と見なす。したがって彼は、経験した芸術に創
造する芸術を対比させる。彼はあらゆる人の中に創造的芸術家を見ようとする。〔中略〕こう
してアナーキズムの理論家は、もう一度、個人の至上権、あるいはむしろ、創造への人間の譲
渡不可能な権利を断言する。
反−権威主義者たる彼は、『偉大な人』とその歴史的役割に有罪の宣告を下す。『大芸術
家』
、『比類なき芸術家』
、『天才的創作家』に対しても同様である。彼は、傑作の死、美術館と
コンサートホールの廃止を宣言する。彼は、時と場が働きあう自然発生的な『状況芸術(l’art
en situation)
』
(プルードン)のために戦う。創造の行為が行為そのものの成果よりも重要であ
る。直接行動の概念を社会的行動の領域から芸術の分野へと移し換えることによって、彼は芸
術家に参加を促す。意味深いのは、彼が芸術と生活を隔てるあらゆるものの破壊を望んでいる
ことである。
最後に、アナーキズムの哲学者は、芸術に対して、美的であると同時に政治的、社会的でも
あるような次元を与えるために、諸芸術の総合というロマン主義的理論を自分のものとする。
! ! !
芸術は、ただ単に民衆の、そして民衆のための芸術であるにとどまらず、民衆による芸術とな
るであろう。
アナーキストはしたがって、変貌の瞬間へ向けて、変貌の永遠性へ向けて、すべてを開放し
ながら、しかも政治的、社会的ないし宗教的な役割を芸術に対して強制的に託すという力業に
成功する。歴史の束縛から解放され、今後いかなる規則にも制限されることなく、芸術は自由
に展開するであろう。(たしかに、芸術をその原初的無垢の状態に立ち戻らせようとする絶対
自由主義の流れは存在する。そしてこの流れは、現代の『対抗文化(カウンターカルチュ
ア)』の真っただ中に、そして特に『ロック』と『ポップ』の音楽活動の中に再び見出され
(8)
る。
)
」
レスレールの考察の対象には入っていないが、ハーバート・リードはこのアナーキズムの美
学を考える上で、きわめて重要な人物である。レスレールの挙げる特徴に加えて、リードの場
合、フロイトとユングの精神分析を受けた識閾下の領域へのまなざし、伝統的美術教育に反発
する感性の教育としての美的教育の重視、芸術の秩序と社会および自然の秩序との照応といっ
た点を挙げることができるだろう。本稿は、そうしたリードにおけるアナーキズムの美学の特
徴を跡づけて行くことを目的とする。
1.リードとアナーキズムとの関わり
リードがその最晩年の自伝風エッセイ集『誠実さの崇拝』に収められた「私のアナーキズ
ム」の中で、彼が生涯の信条とすることになるアナーキズムを最初に受け入れたときのことに
―3―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
ついて書いている。「私は自分が改宗した日を、エドワード・カーペンターによる『政府のな
い社会』というタイトルのパンフレットを読んだ日としている。それは 1911 年か 1912 年のこ
とであった。私の前にただちに新しい思想の領域全体が開かれた。それは、クロポトキン、バ
クーニン、プルードンといったプロのアナーキストの著作ばかりではなく、アナーキズム哲学
を直接、間接に支えたニーチェ、イプセン、トルストイの著作、アナーキズム哲学を攻撃した
マルクスやショーの著作も含んでいる。私は自分の経験を言い表すのに『改宗(conversion)』
という言葉を使っているが、これは明らかにそれが疑似−宗教的だったからである。それと時
(9)
を同じくして、私は信仰篤い家族を背景に得たキリスト教の信仰から離れていった。
」
ヨークシャーの豊かな農家に生まれながら、9 歳で父親を亡くしたリードは、寄宿制の孤児
養育学校、銀行勤めを経て、1912 年に地元のリーズ大学に入学した。リード自身の記憶によ
れば、カーペンターの無政府主義の著作を読んで衝撃を受けたのは、ちょうどその頃のことに
なる。それ以前の彼は、その出身階層の伝統に従って、熱心なトーリー党支持者だった(10)。
やはり『対蹠的な経験』には、晩年に至るまで所持していたそのときのカーペンターの著書
に、集産主義とサンディカリズム双方の誤りを正しつつ、それらの長所を総合することで理想
の社会主義が実現される旨のリードによる当時の声明文が挟み込まれていたことを紹介し、そ
の考え方が基本的には晩年に至るまで変化していないと書かれている(11)。当時のリードは、
1903 年にリーズ芸術協会を創設し、1907 年にロンドンへ移って『新時代』の復刊・編集にあ
たっていたアルフレッド・オレージを通じて、ギルド社会主義に理想の社会主義実現の可能性
を見ていた。ギルド社会主義は、官僚的国家統制や資本主義に反対し、中世のギルドに範を取
った職能別自主組合を基本単位として、その相互協力によって自治的社会主義実現を目指すと
いうもので、フランスのサンディカリズムの考え方に近いものであった。また、この点は、リ
ードのウィリアム・モリスからの影響とも深く関係している。
上の引用には出てこないが、『対蹠的な経験』にはまた、フランスのアナルコ・サンディカ
リストで、1916 年に当時のリードがその影響下にあった T・E・ヒュームによる翻訳が出たジ
ョルジュ・ソレルの『暴力論』の影響の甚大さについても言及がある。大学入学直後に読ん
で、哲学への眼を開かせられたニーチェよりも当時ソレルはリードに影響を与え、その後ベル
クソンを読み、さらにプルードンを読むきっかけとなったとも書かれている。ソレルの読書
(12)と書かれているので、1916
は、「私は〔出版されてから(筆者補筆)
〕すぐそれを手に入れた」
年のことかと思われる。
さらにはまた、『知られざるものの形』に、ヘーゲル左派に属した 19 世紀前半の特異なドイ
ツ人思想家マックス・シュティルナー(13)の『唯一者とその所有』の読書についても記述があ
る(14)。リードも書いているとおり、『唯一者とその所有』の英訳が出たのは 1913 年であ
る(15)。リードは、「私は、青年時代に読んだ一冊の本を全部忘れてしまってはいない。それは
―4―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
私に大した影響を及ぼした」と書いている。ただ、リードの回想の文章から読書の正確な時期
まではわからない。シュティルナーの言う「唯一者とその所有」とは、ダニエル・ゲランの言
葉を借りれば、「
『唯一の』
、すなわち他に類のない、自然がただ一つの型に打ち出した個人の
(16)のことであり、この「私の個性」を宣揚する過激な個人主義がシュティルナー
固有の価値」
の思想全体を貫いている。リードは特に、シュティルナーが「国家」や「社会」にとどまら
ず、「人間」や「人間性」をも自己とは無関係の抽象的観念であるとして攻撃し、これを
「私」の上に置くヒューマニズムを批判したことに注目している。ただ、この「言語道断な本」
は「消化を拒否し」
、「気持ちのよくないところに引っかかったまま」になっているとも書いて
いる(17)。
彼のアナーキスト的、リバタリアン的信念は、第 1 次世界大戦の従軍体験のなかで確固たる
ものとなっていったようである。『対蹠的な経験』に収められた「戦時の日記」によると、1918
年 3 月 21 日から 6 日間、リードたちはドイツ軍との激しい戦闘にさらされた。その直後の 4
月 6 日の日記にはこう書かれている。「僕の『政治的』感情の中に起こりつつある変化を論じ
る用意が僕にはまだできていない。それは人間を、自分が興味を感じない活動の中に巻き込む
ところの集団に対する個人の反抗だ。人生の持つ美しさと強烈さを尊ぶすべての者の理想だと
僕が考えてきた究極的なアナーキーへの飛躍だ。『美しいアナーキー(a beautiful anarchy)
』──
これが僕の叫びだ。僕は群衆を憎む。彼らは戦い、殺し、汚い都市を作り、恐ろしい騒音をた
てる。そして僕は彼らの救済と再生は僕の知ったことではなく、彼らが個人で考えるべきこと
だと思い始めている。そのようにしてのみ、こうした集団は破壊されることができる──一部
(18)ここには、アナーキズム思想家の影響と混ざり合ってニーチェの響
屋ずつ、一部分ずつ。」
きも聞こえてくる。さらに、同じ戦場での日記の 5 月 9 日のところにはこうある。「だがわれ
われが国家という冷たく非人間的な集団に結び付けられているというそれだけのために、そし
て国家という怪物の生命と主権とを維持することをその目的(そしてこういう状況の下ではそ
の義務)とする政治家によって国家が統治されているために、生命と希望が否定され犠牲にさ
(19)
れるのだ。
」
リードは、終戦直後の 1919 年から 1931 年まで、最初財務省、次いでヴィクトリア・アンド
・アルバート美術館と、役所勤めをした。そのため、この間は政治的な問題にかかわる意見表
明を一切控えることとなった。リードが自らの政治的信条としてのアナーキズムを表明したの
は、グッドウェイによれば 1937 年のことであったが(20)、それ以前にも、リバタリアン的信条
の表明は行われていた。1934 年 9 月、リードは英国放送協会(BBC)の読者向け週刊雑誌
『リスナー』に「知識人と自由(The Intellectual and Liberty)」と題するエッセイを寄稿し
た(21)。翌 1935 年には、これを元に大幅な書き足しと書き直しを行い、タイトルを『コミュニ
ズムの本質(Essential Communism)
』と改めて、当時リードが強い関心を持っていた社会信用
―5―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
運動(22)のパンフレットとして出版し(23)、これを 1938 年出版の『詩とアナーキズム』の第 4
章に再録した。この短いエッセイの内容についてはのちに触れるが、ただ 1934 年から 35 年に
かけての段階では、「リバタリアニズム」という語は登場するものの、いまだ「アナーキズ
ム」の語は慎重に避けられている。
3 年後、「コミュニズムの本質」を取り込む形で発表された『詩とアナーキズム』で、明確
にアナーキズムが信条として語られる。その冒頭近く、ロシア革命の経過への不満が述べられ
る。「1917 年から、私はロシアに確立されたコミュニズムが、私の理想とする社会的な自由を
約束しているように幻想した。レーニンとスターリンが信頼に満ちた調子で『国家の消滅』を
約束してくれている限り、わたしは自分の疑念を抑え込み、確信を持ち続ける覚悟でいた。し
かし、5 年、10 年、15 年経ち、そうして 20 年が過ぎても、あらゆる場面で個人の自由は後退
(24)リードは期待したロシアに幻滅を
して行くばかりであり、もはや絶縁は不可避となった。」
味わったのち、今度は 1936 年に勃発したスペイン内戦にアナーキズムの理想実現を期待する
こととなる。上の引用のすぐ後にこう続く。「それから息苦しい数ヶ月があって、われわれは
希望をスペインへと移すことができることになった。そこでは、あまりの長きにわたって抑圧
され、覆い隠されてきたアナーキズムが、建設的な社会主義の主たる力として立ち現われてき
(25)リードがこの文章を書いたとき、内戦の最終的決着はまだついていなかった。誰もが
た。
」
そうであったように、リードもまたヒトラーとムッソリーニの敗北を予想し、フランコの失脚
を期待した。彼はまた、アナーキストの新聞である『スペインと世界』に寄稿し、避難民救済
委員会の委員として会議に出席し、内戦を題材にした詩を書いた。
『ハーバート・リード
流れと源泉』を書いたカナダ生まれの詩人、批評家のジョージ・ウ
ッドコックは、第二次世界大戦前から戦後直後の時期までイギリスのアナーキズム運動に身を
投じた経験を持つ人物で、ゴドウィン、プルードン、クロポトキンらアナーキスト思想家の伝
記、アナーキズム思想と運動の歴史も書いている。ウッドコックは、1942 年にケンブリッジ
でアナーキズム雑誌『今日(Now)』の編集に携わっていたときにリードと知り合い、以後親
交を結んだ(26)。リードはウッドコックの『今日』に定期的にエッセイを寄稿したり、イギリ
スのアナーキズム運動の一つの中心であった出版社フリーダム・プレスにも関わって、ここか
らいくつかの著書、パンフレットを出版したり(27)、クロポトキン著作集の編集と序文執筆に
関わったほか、アナーキズム運動の集会にも積極的に出席したりと、積極的活動を行ったが、
ウッドコックによれば、それでもリードはあくまで詩人、哲学者として実際の政治的活動から
は一定の距離を置いていて、特定のグループに所属するということもなかった。ただ、1945
年にフリーダム・プレスが扇動行為を行った廉で摘発を受け、メンバー 4 人が当局に逮捕され
るという事件が起こった際には、擁護のための「自由防衛委員会」の代表を 1949 年の委員会
解散まで務め、『自由、それは犯罪か?』と題するパンフレットを出版したり、募金活動の中
―6―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
心に立ったりと、積極的活動を行った。この委員会は、上記フリーダム・プレスの事件以外で
の逮捕者の擁護にも関与していった(28)。ちなみに、この委員会の副代表は作家のジョージ・
オーウェルであった。
アナーキズム運動との関係に大きな変化が起こったのは、1953 年にリードが女王の前に跪
いて騎士の称号を受けるという出来事が起こったときである。それ以降、現実の運動との関係
は途絶えたようである。この出来事の直後に書かれた 1953 年の「革命と理性」には、あらゆ
る権威主義者を攻撃する一方、リバタリアン的理想としての「人格的な統合と社会的な一致の
反映である本質的調和」は西欧では達成されえないという諦念が語られている(29)。しかし、
リードが亡くなる 1968 年に書かれた「私のアナーキズム」の最後はこう締めくくられている。
「無関心や安逸を正当化したり、どんなものであっても忍耐強く一貫して革命的目標へと向か
う実際的行動以外のものを正当化することなど、アナーキズムの哲学には一切ないのであ
(30)
る。
」
2.機械時代における民衆芸術──工業デザインの視点
リードは 1923 年から 1931 年まで、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に
勤務し、主として陶磁器部門とガラス工芸部門を担当した。この応用美術作品および工業デザ
イン作品を収集・展示する美術館での勤務経験は、リードの芸術哲学思想にも大きく影響した
と考えられる。1934 年出版の『美術と工業』は、副題が「工業デザインの原理」となってお
り、機械時代のいわゆる「応用美術」の在り方について、歴史的に批判的分析を行い、芸術哲
学の立場からあるべき理想を語るとともに、さらに各部門ごとに具体的提言を行うという趣旨
のもので、この分野の実際に通じたリードならではの著書となっている。
そこでまず批判的に検証されるのが、美術(fine art)と応用美術(applied art)の区別の問
題である。ルネサンス期以降、実用目的から離れて個人的楽しみのための非実用的な室内絵画
などの「室内美術」ないし「純粋美術」が発達し、これと建築や工芸などの実用目的に仕える
実用美術とが分離した。リードは必ずしも前者を否定するわけではない。それは、「独自の範
(31)リードが批判の眼を向けるのは、前者を後者
疇として、完全に存在の権利を持っている。」
の上位に置く考え方であり、その背後にある「美術鑑識(connoisseurship)
」ないし「美術愛好
(dilettantism)
」
、およびそれらと密接に結びついた「趣味」ないし「よき趣味」の伝統である。
(32)と言わ
「16 世紀から現代に至るまで存在してきた価値の混乱は、すべてこの伝統に帰する」
れる。なお、1930 年代にはまだ肯定的な意味でつかわれていた「文化」を、この「趣味」の
伝統の「総計」としてとらえ、これに対して激しい非難の言葉を投げつけたのが、1941 年の
『文化などくたばってしまえ(To Hell with Culture)』である。そこでは、「趣味」は、近代に
入り中世の手わざの「直感的な伝統」に代わって手工業者によって導入された「有用性」と
―7―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
「採算性」のせいで繊細な感覚の人々の間に生じた不満を取り繕うためになされた、過去の
「良きものの蒐集と模倣」のことであり、その皮相な知識の集積にすぎないとされる(33)。
『美術と工業』でもリードがことに問題にするのは、機械時代に入って、実用美術の美的価
値を形態そのものの中にあるべき本来の直観的要素が担いきれなくなったとき、「趣味」の名
の下に「装飾」として外から美的価値が付け加えられる、すなわち「応用される」という事態
が生じてきたことである。リードはそうした事態の最初期の例として、18 世紀イギリスにお
いて陶磁器業を手工業から近代的工業へと移行させ、大成功を収めたジョサイア・ウェッジウ
ッドを挙げる(34)。ウェッジウッドは、製品の美的価値向上のために、古典主義画家ジョン・
フラクスマンら美術家をデザイナーとして雇い入れた。フラクスマンらは、絵画的および装飾
的要素が優先した古代ギリシア陶器をモデルにして、陶器それ自体の実用的形態にではなく、
むしろ美的価値を担うべき装飾のデザインに力を注いだ。この場合、陶磁器という実用美術に
美術が外から装飾として応用されたのである。ウェッジウッドはその結果成功したのだが、リ
ードはこれが美術と応用美術の不適正な関係が生じた最初の例の一つであると考えている。
ウェッジウッドと対比的に示されるのが、リードが大いに尊敬し、その芸術哲学思想や社会
思想のうえで多大な影響を受けたウィリアム・モリスである。美術を利用して成功した工業家
ウェッジウッドと違って、あくまでディレッタントであったモリスは、ジョン・ラスキンの感
化の下に、美術と実用美術が分化していなかった中世を憧れ、機械を憎んだ。彼にとって、機
械はせいぜいが低級な肉体労働を軽減するための手段でしかなく、美術と実用美術の共通の基
礎はあくまで手わざにあった。印刷と造本におけるその成果が機械製品に及ぼした影響も、せ
いぜいが「装飾の応用の面であって、もっと底の方にある形態の問題にまでは喰い込んでいか
(35)。
なかった」
機械は装飾を生み出せず、工業製品の形態に外から装飾を「文化的化粧板(a cultural ve(36)として付け加えることは、役に立たないどころか、害悪ですらある。一方、機械のま
neer)
」
(37)
だない過去へ戻ろうとするラスキンやモリスの主張は、所詮「見果てぬ夢(a lost cause)」
にすぎない。リードは、機械時代の現実を認めたうえで、問題を「機械は美術作品を生み出し
うるか」という問いに凝縮させる。その際ここにいう「美術」がいかなるものかが問題とな
る。リードは「美術の一般的本質の検討」によって、美術を「二つの明確に際立つ類型」、す
なわち「人間的理想ないし人間的感情を造形的形態のなかで表現することに関わる人間主義的
美術と、その造形的形態によって美的感性に訴えかける物をつくりだすこと以外にいかなる関
(38)に分類する。この二分類は、それ以前にリ
心も持たない抽象的美術、ないし非具象的美術」
ードが提示していた「古典主義的」と「ロマン主義的」、ないし「抽象的」と「有機的」の区
別に対応すると言える(39)。そしてリードは、後者の「抽象的美術」に唯一工業製品への美術
の応用の可能性を認める。
―8―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
それはまず、合理的に把握できる抽象的形態が機械による生産に適しているとともに、その
調和や比率がわれわれの感性に訴えかけるからである。さらにそれらは、「一般に承認された
語義における感性に訴えかけるだけでなく、なにか分析不可能な形式的性質のゆえに、不分明
(40)とも言う。この言葉は、芸術の形式が
な無意識の力にも〔中略〕訴えかけるかもしれない」
自然の隠された秩序に通じていくというリードのアナーキスト的信念を示唆するものと考えら
れる。この問題については、のちに論ずる。いずれにしても、抽象的形態は、合理的に把握さ
れる以上に、むしろ本質的には直観的に把握されるものである。すると、規格化によって生産
される工業製品にそれが可能かという疑問が出てくる。しかしリードは、鋭い感覚を持った抽
象美術家でもあるデザイナーがデザインの決定に責任を持って当たるならば、工業製品も「言
(41)という。
葉のより繊細な意味において抽象美術作品になりうるし、現になっている」
工業デザインの新たな意味づけをめぐるこうしたリードの議論は、本書の冒頭近くに言われ
(42)と
る、「現代のほとんどの芸術家が、単に社会のエンテーテイナーになってしまっている」
いう言葉に現れている、機械時代における美術と美術家の現状への危機感から来ている。美術
は社会を構成して行く必須の要素の一つであるというのが、リードの変わらぬ信念であった。
それは、現実の社会から遊離しつつ、社会の表面を飾る単なる装飾であってはならない。シュ
ルレアリスムに本格的に肩入れしていないこの時点でのリードにとっては、特にそれは、抽象
美術とそれが結びつく工業デザインであったにちがいない。「われわれはデザインが抽象美術
(43)
家の職務であることを承認しなければならない。
」
この機械時代の工業デザインにおいて活躍すべき抽象美術家への期待は、翌 1935 年に「美
(44)でさら
術家国際協会」主催のシンポジウム「革命的芸術」での講演「革命的芸術とは何か」
にはっきりと語られることとなる。リードの主張は、抽象美術こそここで問われている「革命
(45)であるというものである。そのため
的芸術」であり、来るべき「新しい無階級社会の芸術」
にリードは二方面に対する防衛線を張る必要に迫られる。
その一つは、マルクス主義主流派のいわゆる社会主義リアリズムへのけん制である。冒頭付
近から、「赤色旗、ハンマーと鎌、工場と機械」など「革命的主題」を描けと命令したり、デ
ィエゴ・リベラのような所詮二流の画家を誇大に賞賛するといった、「革命的芸術」という用
語の「説得力の弱い解釈」への批判が述べられる(46)。リードの推薦する中心的ジャンルは、
「共産主義の政治体制下で生起すべき社会の再構成」と直結する「必要な芸術」としての建築
であり、真っ先にヴァルター・グロピウスの名があげられる。問題は、絵画や彫刻における抽
象美術に対する、「プロレタリアートには理解不能で、革命運動にとって何の役にも立たな
い」という「厄介な反対」である。リードはまず、抽象美術家の一見超然とした形式主義的態
度が革命運動からは縁遠いように見えても、じつはそのほとんどは共産主義運動に共感を持っ
ているのだといった、やや苦しい弁護を行ったあとで、「ではなぜ、彼らはこの運動の誠実さ
―9―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
のなかでいわゆる形式主義的態度をとるのか」と自ら問い、これに対しては「美術の本質に関
して少々主題から離れないと質問に答えられない」と断りながら、抽象美術が「美術における
純粋に形式的な要素」に基づくものであり、時代的な様式の変遷を越えた普遍的本質を表わし
ているという内容の説明を行う。そうして、「美術におけるそのような普遍的な形式的性質の
(47)とする。
認識は、一貫して唯物論的である」
今一つは、共産主義との連帯を公言していたシュルレアリスムである。もっとも、主流派マ
ルキストの側からシュルレアリスムに向けられた態度は、きわめて冷淡なものではあったが。
リードによれば、そもそもシュルレアリストの目指すところは、「芸術におけるブルジョア・
イデオロギーの信用を失墜させることであり、芸術のアカデミックな観念を破壊すること」で
ある(48)。すなわち、シュルレアリスムは「消極的な芸術」であり、さらには「破壊的な芸術」
である。それによって、シュルレアリスムは「一時的な役割」を担う「過渡期の芸術」である
と言われる(49)。
1936 年には、デイヴィッド・ガスコイン、ポール・ナッシュ、ローランド・ペンローズ、
それにリードが中心となって、イギリスのシュルリアリズム・グループが結成され、同じ年に
ロンドンで、アンドレ・ブルトンらを迎えて「国際シュルリアリズム展」がパリに先駆けて開
催されることになる。1935 年から 36 年にかけての時期、リードは、自らの芸術哲学的立場と
して見定めていくロマン主義の極点に、狭義のシュルレアリスム運動を越えて広義に解釈した
(50)を位置づけていくことになる。しかしここでは、シュ
概念としての「スーパーリアリズム」
ルレアリスム運動が導くかもしれないこの「新しいロマン主義」は、「差し迫った職務の彼方
に横たわっている」とされている(51)。
それに対して、抽象美術は、「革命的職務」ないし「積極的職務」を持つ。
「その象牙の塔に
閉じこめられた純粋形式の芸術」は、「社会がふたたびそれら芸術の普遍的性質を利用する準
(52)。ここにいう「純粋形式の芸術」とは、
備が整うその時まで、けがされないままとどまる」
絵画と彫刻における抽象美術のことである。このいわば「酢漬けの漬け汁のなかの芸術」を現
実の社会での積極的職務へと結び付ける役割を果たすのが、建築と工業デザインである。抽象
美術家たちは、「新しい社会」を「煉瓦とモルタル、鉄とガラスで」建設するそのときを、
「そ
の形への感性を研ぎ澄ませながら」待っているのである。『美術と工業』では、抽象絵画と工
業デザインの関係が、純粋数学と応用諸科学の関係に似ていると説明された(53)。1933 年に初
版の出た『今日の美術』でも、「もはや自分自身社会と生きた接触を持っていないと感じ
(54)いる抽象美術家だが、
て」
「われわれは、彼ならもし必要とあらば大聖堂でも建てられるだ
(55)と言われる。
ろうことを知っている」
これらには、社会変革の視点における抽象美術と建築および工業デザインとの結びつきに対
する、1930 年代のリードのやや多幸症的期待が見て取れる。しかし、第 2 次世界大戦後の
― 10 ―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
『美術と工業』の改訂版に添えられた序文では、現代美術運動のリーダーたちが脱落者も出さ
ずに頑張っているし、建築と工業デザインでは新しい世代が現れてきてはいるものの、「製造
業者と消費者によって代表される膨大な無気力集団」がたがいに責任をなすりつけあいなが
ら、「美しくもなく効率的でもないデザイン」をだらだらとつくり続けているという現状への
醒めた認識が表明されている(56)。そうして、「この悪循環」を断ち切る可能性がいっそう「教
育」に求められていくことになる。この問題についても、のちに論ずることになる。
3.個人と社会
先に述べたように、リードは、1934 年 9 月の『リスナー』誌掲載エッセイ「知識人と自由」
を大幅に書き改めたうえ、タイトルを『コミュニズムの本質』として、彼が当時強い関心を持
っていた社会信用運動のパンフレットとして出版し、さらには、1938 年出版の『詩とアナー
キズム』の第四章に再録した。この中でのリードの中心的論点が、個人の自由と社会共同体の
関係についてである。この短いエッセイの中で、リードは、個性と個人主義、個人の自由と自
由を制約するものとの関係について細心に整理しながら、彼の理想とする「無階級社会」のイ
メージを描いて行く。
その際、まずリードの関心の中心にあるのが、知的自由、ことに芸術的自由と社会との関係
である。芸術家の個性も社会の現実を避けることはできない。リードはこの社会の現実を磁石
の磁場に喩え、それは「人間の感性という磁石のすべての点を貫いて、さまざまな方向に働い
(57)と言う。人間がつくりあげてきた社会共同体の中で個人の自由は制約を受ける。個
ている」
人の「完全な自由」などありえない。また、芸術家の個性は独自のものであるが、この独自性
といえども彼の芸術を受け取る読者や観者の個性の独自性と質的に異なるものではない。リー
ドはこのことの説明のためにレオン・トロツキーの文章を引用している。「個性とは、一族や
国民や階級といった要素、一時的および制度的要素が一緒にして溶接されたものである。事
実、個性が表現されるというのは、この心理−化学的混合の比率に応じたこの溶接の独自性に
(58)。この点において両者の個性は「共通性」を持つ。むしろ、
ほかならない」
「共通性を通し
(59)。
てのみ、独自性は認められる」
ところで、「自由」という言葉は、リードにとって両面的なニュアンスを持っている。この
言葉は、リードが「熱烈に固執する一つの観念」を表わすとともに、「幻滅した眼で眺める一
つの言葉」でもある(60)。「幻滅した眼で眺める」とは、この言葉がさまざまに解釈され、往々
にしてほとんど現実逃避同然の「理想主義的な意味」を込めて使われてきたからである。まし
てや、「自由(リバティー)
」から派生した「リベラル」とか「リベラリズム」といった言葉の
場合、資本主義の政治的イデオロギーとしての「自由放任主義(レッセフェール)」を言い繕
う標語となる。
― 11 ―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
それに対して、リードが「熱烈に固執する」自由とは、精神の「純粋な信条」
、「生き生きと
した信条」としての自由であり、リードが「リベラリズム」と区別して用いる「リバタリアニ
(61)の個人主義的信条としての自由である。リードにとってそれは、知識人なかんずく芸
ズム」
術家の自由と結び付いている。ことに彼にとってそこには、社会革命に比肩すべき、近代芸術
の主要な伝統としての一貫した現実への態度が含意されている。ここにはややニーチェに通ず
るようなエリート思想の響きが聞こえてくる。「生命は少数の風変わりな個人の扇動に依存し
ている。その生命、生命力のために、共同体はいくらか危険を冒して、少量の異端を認めなけ
(62)
ればならない。とにかく生きようと思うなら、危険を覚悟で生きなければならない。
」
1935 年から 36 年にかけての冬、リードはリヴァプール大学で連続講演を行い、1937 年にそ
れを『美術と社会(Art and Society)
』というタイトルで出版した。内容としては、旧石器時代
の洞窟壁画から現代の諸潮流まで、人類の美術活動をことに社会との関連という視点から考察
していくもので、章立てとしては、「美術と呪術」に始まり、「美術と神秘主義」、「美術と宗
教」
、「世俗的美術」とおおむね歴史順に進んだあと、リードのアナーキズム的美学にとって重
要な理論的主題を論じる「美術と無意識」
、「美術と教育」の 2 つの章が挟み込まれた後、最後
に現代のさまざまな美術潮流を扱う「移行期の美術」が来るという構成になっている。この書
の序文冒頭、リードは、これまで芸術活動の本質がもっぱら心理学的問題として取り扱われ、
その社会的起源や、社会と芸術家個人との関係の本質はあまり注視されてこなかったことを指
摘したうえで、この書の意図は、「どこであれ所定の時期における社会の形式とその同時代の
美術の形式とのあいだにおそらく存在するに違いない連関の一般的本質を詳しく調査するこ
(63)であるとする。リードにとって、芸術とは、
と」
「相対立する両極、すなわち一方は個人、
(64)である。リ
他方は社会という二つの極の間でしかるべき瞬間にはじける火花のごときもの」
ードはくりかえしさまざまな個所で、ワイルド流の「芸術のための芸術」を批判する。
同時にリードにおいて強く見られるのが、社会的・政治的・宗教的等、芸術外の世界と芸術
との連関を認めつつ、芸術の自律的価値をあくまで強調する姿勢である。全体にわたって、芸
術をすべての時代と人種の人間にとって統一ある活動と考えるリードの基本態度が貫かれてい
るが、それは、当時最新の人類学的研究に拠りながら考察される旧石器時代の洞窟壁画におい
ても変わらない。そこにおいて開かれる価値は、「真実らしさ(verisimilitude)
」ではなく、「生
命力、鮮やかさ、情動的な力」などであり、それはすなわち「美的性質」である。この芸術活
動の自律性の強調は、ひとつには芸術を社会的・経済的発展の副産物としてしか評価しないマ
ルクス主義主流派への失望と反発の態度表明という意味を持っている。「芸術は社会的発展の
副産物などではない。そうではなく、それは社会を形成していく根源的な諸要素の一つであ
(65)
る。
」
さらに、この自律的な美的価値の強調は、芸術の社会的連関によって制約を受けるべき、芸
― 12 ―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
術活動における個人の自由な活動の強調と結び付く。旧石器時代の洞窟壁画においてもまた、
自ら試行錯誤を重ねながら、線の引き方や色の用い方、岩の自然な膨らみなどを効果的に利用
する仕方などを発見し、習熟し、そうしてそれらを後継者に伝えて行く「芸術家」個人がいた
ことが強調される。「旧石器時代美術のこれらすべての特徴が、原始人が美術を用いるその用
い方がいかに公共的ないし実践的であろうとも、それでも美術それ自体は個人的才能の行使だ
ったということを証明して行く。〔中略〕われわれは、絵画とは狩人たちの部族があえて狩り
をしない時の何気ない制作物だとか、あるいは呪術の儀式の実践的な副産物だなどという考え
を放棄しなければならない。絵画がそうした活動と関係していることは疑いえないが、しかし
それらの制作のための必須の前提条件は、例外的な感覚と表現技術をもつ稀な個人の存在だっ
(66)時代を越えて生きる芸術作品の美的性質は、そうした類稀な個人の力に負う
たのである。」
ものである。「ある芸術作品の生存価値、すなわち特定の時代の観念や願望のなかを生き残り、
後世の美的能力に訴えかけるような芸術作品におけるさまざまな性質、それらは第一に、類稀
(67)
な技術ないし感性を備えた個人の創造と理解されるべきものである。
」
(68)を備えた例外的な個人であ
このように、芸術家とは「特殊な身体的ないし感覚的組織」
り、芸術作品の美的性質はそうした少数の個人に帰されるべきである。そして、「いわゆる教
養人において単に眠っているだけの」「美的衝動」を呼び覚まし、鍛えて行くことによって、
「芸術の審美眼(appreciation)
」を持った人間の数を膨大に増大させるのは、美的教育の役割で
ある(69)。ただし、『美術と社会』では芸術家の才能の特殊性が強調され、「ある身体的素因」
を生まれつき与えられている子どもだけが芸術家になりうるとして(70)、「芸術家を一人の芸術
家にする教育と、ふつうの個人が芸術を理解できるようにする教育」を区別する必要性が説か
れたのに対し(71)、6 年後の『芸術による教育』では、「『芸術家』のタイプといったものは存
(72)という考え方へと変化して行く(73)。
在せず」、「すべての人は特別な種類の芸術家である」
そこには、子どもたちの絵から得た啓示とともに、心理学ことにユング心理学への理解の深化
が深く影響していた。そしてそれもまたリードのアナーキスト的信念と結び付いて行く。
注
⑴
Herbert Read, Contrary Experience : Autobiographies, London : Faber and Faber, 1963, p.178.
⑵
Read(ed.)
, Surrrealism, London : Faber and Faber, 1936, p.28.
⑶
拙稿「抽象とシュルレアリスム−1930 年代におけるハーバート・リードの芸術哲学を中心に(上・下)」
『帝塚山学院大学研究論集(文学部)
』第 43 集(2007・2008 年、帝塚山学院大学)所収参照
⑷
Dana Ward,“Art and Anarchy : Herbert Read’s Aesthetic Politics”, Rereading Read, London : Freedom Press,
2007, pp.20−21.
⑸
ダニエル・ゲラン編、長谷川進訳『神もなく主人もなくⅠ』河出書房出版、1973 年(原書出版は 1970
年)
、11 頁。
⑹
Howard Zinn,“The Art of Revolution”, Introduction of : Herbert Read, Anarchy and Order, Boston : Beacon
Press, 1971(First edition, London : Faber and Faber, 1954)
, p.x.
― 13 ―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
⑺
ibid.
⑻
André Reazler, L’Esthétique Anarchiste, Paris : Presses Universitaires de France, 1973, p.6.
⑼
Read,“My Anarchism”
(1968)
, The Cult of Sincerity, New York : Horizen Press, 1969, pp.76−77.
⑽
George Woodcock, Herbert Read : The Stream and the Sources, London : Faber and Faber, 1972, p.240.
⑾
Read, Contrary Experience, pp.201−202.
⑿
ibid. p.203.
⒀
本名はヨーハン・カスパル・シュミット(Johann Kaspar Schmidt)で、シュティルナー(Stirner)とは、
学生時代にその高い額(Stirn)からつけられたあだ名である。
⒁
⒂
Read, The Forms of Things Unknown, London : Faber and Faber, 1960, pp.173−174.
リードもわざわざ記載しているとおり、シュティルナーの主著のドイツ語原題は、Der Einzige und sein
Eigentum であるが、1913 年に出た英語訳の題名は、The Ego and his Own(自我と自我自身のもの)と
なっている。
⒃
ダニエル・ゲラン前掲書、15 頁。
⒄
Read, The Forms of Things Unknown, p.173.
⒅
Read, Contrary Experience, p.124.
⒆
ibid. p.128.
⒇
David Goodway,“Herbert Read, organicism, abstraction and an anarchist aesthetic”, Anarchist Studies, Vol.19,
Num.1, 2011, p.82. ただし、公刊された著作としては、1938 年の『詩とアナーキズム』が最初である。
Read,“The Intellectual and Liberty”
, The Listener, No.297, 19 Sep., 1934. Vol.XII, p.479−480.
イギリスのクリフォード・ヒュー・ダグラス(Clifford Hugh Douglas, 1879−1952)によって展開された
経済思想理論である社会信用論(Social Credit)は、イギリスを中心に、カナダ、アメリカ、オーストラ
リアなど主として英語圏で影響の輪を広げ、一種の社会運動にまでなった。社会信用論は、公共通貨に
よる基礎所得保障と正当価格によって生産と消費のギャップを解消し、資本主義経済の矛盾を是正しよ
うという経済理論を骨格とするが、その思想は学際的広がりを持っていた。社会思想的には、力を多数
の個人の手に分配すべきだとする思想が本質にある。ダグラスの変則的な経歴もあり、その理論は経済
学界からは完全に無視されたが、1920 年代と 30 年代のイギリスでかなりの影響力を持った運動となり、
T・S・エリオット、オルダス・ハクスレイ、エズラ・パウンドらとともに、リードも一時期これに接近
した。リードがリーズ時代から師と仰いだアルフレッド・オレージはダグラスを「発見」し、自身が編
集にあたっていた雑誌『新時代』にその論文を載せて行った。リードがダグラスの理論を知ったのも、
まず『新時代』を通じてであったと想像される。リードが社会信用論に自身のアナーキズムと通ずるも
のを見ていたことは、『リスナー』誌掲載論文を元に加筆修正を行ってダグラスの社会信用運動のパン
フレットとして出版し、さらに 1938 年にそれを自身の『詩とアナーキズム』に収めたことからも想像
できる。
David Goodway, op cit, pp.84−85.
Read,“Poetry and Anarchism”
(1938)
, Anarchy and Order, p.57.
ibid.
戦後ウッドコックが教鞭をとったカナダのブリティッシュ・コロンビア大学には、リードの書簡、遺稿
を含むハーバート・リード・アーカイブがある。
1940 年の『アナーキズムの哲学』
、1944 年の『自由人の教育』、1949 年の『実存主義、マルクス主義、
アナーキズム』がフリーダム・プレスから出版されている。
Woodcock, op cit, pp.233−239.
Read,“Revolution and Reason”
(1953)
, Anarchy and Order, p.28.
Read,“My Anarchism”
, The Cult of Sincerity, p.93.
Read, Art and Industry, Bloomington : Indiana University Press, 1964(First edition, 1934)
, p.11.
ibid., p.12.
Read, To Hell with Culture, New York : First Schocken Paperback edition, 1964(First Edition, 1941)
, p.12.
― 14 ―
ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
Read, Art and Indutry, pp.23−29.
ibid., p.30.
ibid., p.42.
ibid., p.35.
ibid., p.36.
拙稿「抽象とシュルレアリスム」
(上)37 頁参照。
Read, Art and Industry, p.36
ibid. p.38.
ibid. p.4.
ibid. p.41.
これは、1941 年に出版された刺激的タイトルのエッセイ集『文化などくたばってしまえ(To Hell with
Culture)
』にかなりの修正、加筆を加えられたうえで収められた。
Read,“What is Revolutionary Art?”
, On Revolutionary Art, London : Wishart, 1935, p.21.
ibid., pp.12−13.
ibid., p.15.
ibid., pp.20−21.
ibid., p.21.
拙稿「抽象とシュルレアリスム(下)
」4−9 頁参照
Read,“What is Revolutionary Art?”
, p.21.
ibid.
Read, Art and Industry, pp.40−41.
Read, Art Now : An Introduction to the Theory of Modern Painting and Sculpture, Harcourt : Brace & Company, 1933, p.117.
ibid., p.119.
Read, Art and Industry, p.ix.
Read,“Essential Communism”
, Anarchy and Order, p.76.
ibid., p.80.
ibid.
ibid., p.82.
この言葉の用法は時代によって変化している。現在では主として、政治・経済分野の用語として、新自
由主義を進展させた極端な自由原理主義、市場原理主義を指すようになっているが、リードの用法はこ
れとは別物で、むしろアナーキズムとほぼ同義でつかわれている。
Read,“Essential Communism”
, Anarchy and Order, p 84.
Read, Art and Society, London, New York : The Macmillan Company, 1937, p.xii.
ibid., p.xiv.
ibid., p.xvi.
ibid., pp.16.
ibid., p.133.
ibid., p.225
ibid., p.223.
ibid., p.213.
ibid., p.221.
Read, The Education through Art, London : Faber and Faber, 1958(First Edition, 1943)
, p.308.
この変化に対応して、『芸術と社会』の第 6 章「芸術と教育」には、1937 年の初版と 1945 年の第 2 版の
あいだで若干の変更箇所がある。たとえば、「生まれつき才能ある子ども」と題された節では、初版で、
「ある身体的素因が必須であり、そうした素因を備えた子どもだけが芸術家となりうる」(Read, Art and
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ハーバート・リードにおけるアナーキズムの美学(上)
Society, 1937, p.213)とされたのに対し、第 2 版の当該個所では、「わたしは、すべての子どもたちが、
芸術家になるために必要なすべての身体的ないし感覚的資質を備えて人生を始めると想定してよいと考
えている」(Read, Art and Society, London : Faber and Faber, Second edition, 1945, p.99)とされる。また
その少し後では、「われわれはみな芸術家として生まれたのである」(ibid.)とも言われる。なお、この
点についてはシスルウッドに同様の指摘がある。cf. David Thistlewood, Herbert Read, Formlessness and
Form : An Introduction to his aesthetics, London : Routledge & Kegan Paul, 1984, p.112.
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