道徳的声、道徳的自己−道徳理論において それを正しく理解すること

S・ヘクマン「道徳的声、道徳的自己−道徳理論において
それを正しく理解すること」
Susan Hekman, “Moral Voices, Moral Selves: About getting it right in Moral theory”
Human Studies 16: 143-162, 1993 & in Moira Gatens (ed.), THE INTERNATIONAL
RESEARCH LIBRARY OF PHILOSOPHY 22: Feminist Ethics, 1998, Dartmouth Publishing Company. pp.509-28.
金光秀和
1 序論
1982 年、キャロル・ギリガンは道徳的ジレンマに直面した少女や若い女性を対象と
した意思決定過程の経験的分析を公表した。
ギリガンは少女と女性たちが主として男
性を被験者とした以前の研究で規定されてきた道徳的な声と違った道徳的な声で、
み
ずからの道徳的状況を明確に表現すると主張した。この十年間、彼女の研究に由来す
る道徳的認識論的問題が詳細に分析されるとともに、広範な議論が展開されてきた。
しかし、私見によれば、ギリガンとその解説者の主張の多くは十分に根本的ではな
い。彼らの主張は二つに区別できる。第一に、西洋的伝統の一元論的な道徳理論は二
元論的理論に取って代わられるべきである。第二に、道徳理論における正義の視点
(justice perspective)は、いっそう優れたケアの視点(care perspective)に取って代わ
られるべきである。こうした主張に関わる問題は、どちらも西洋の道徳理論を特徴づ
ける認識論、
すなわち一つの真の道徳理論を定義しようと試みる認識論に異議を申し
立てないことにある。もしギリガンの道徳的な声の創造(creation of moral voices)に
関する理解を真剣に受け取るなら、いっそう根本的な含意が彼女の業績から生ずる。
主体が言説を介する関係(discursive relationships)を通して構成され、主体の構成の
中心をなすのが道徳的な声の創造であるということが事実なら、
この事実から生じる
道徳的認識論は実在する道徳理論の根本的な変更を伴う。
道徳的な声はそれを生み出
す主体と同様に多様であり、ただ二つだけではなく、数多くの道徳的な声が定義され
なければならない。
要するに、私はギリガンの記述する関係的自己(relational self)は、西洋を支配し
てきた道徳理論についてのメタ物語(metanarrative)を事実上解体すると主張したい。
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ギリガンの理論は現存の道徳理論の認識論を作り直すことによってそこに収容される
のではなく、むしろ道徳なものに対する新たな認識論的空間を要求するのである。
2 ケアと正義
ギリガンの基本的主張は表面上きわめて単純である。
コールバーグが研究した男性
と少年は正義の視点を表現するのに対して、
彼女が研究した女性と少女はケアの視点
を表現する。しかし、両者の関係は外見ほど単純ではない。ギリガンはこれら二つの
視点に少なくとも三つの関係を教示している。
第一に、正義とケアの関係は「異なるが等しい(separate but equal)」
。 コールバー
グの道徳性の発達段階では、
ケアの視点は道徳性の発達段階の低い水準に位置づけら
れる。これに対して、ギリガンの原則的見解はケアの視点を男性の発達段階とは異
なってはいるが、同様に妥当な女性の発達類型として提示する(Gilligan1982: 26)。ギ
リガンは後の経験的研究(Gilligan 1987a: 28, 1989: x viii)に基づいて、正義とケア
は対立するのではなく、むしろ道徳的問題を構成する仕方の違いであると結論する。
道徳的問題は正義あるいはケアの一方の視点からしか考察することができないから、
道徳的問題に唯一の正しい解答があるという考えは放棄しなければならない
(Gilligan
1987a: 22)。
ここから、ある種の道徳的問題はケア的推論(care reasoning)に適合し、他は正義
的推論(justice reasoning)に適合する主張が生ずる。ギリガン自身はこの見解を採用
しないが、何人かの解説者はこれを支持した。たとえば、正義による態度決定は公的
領域に、ケアのそれは私的領域に適合する(Hardwig 1984)。ギリガンの立場は「領
域相対主義」を、したがって多元的で寛容な道徳理論を導く、というのである(Held
1987)。しかし、
「異なるが等しい」という主張はギリガンの見解であれ、解説者のそ
れであれ、フェミニスト理論に危険な落とし穴を作り出す。このような道徳的領域の
分断は公私の区分を実体化するが、
西洋思想において女性の劣った役割を規定してき
たのは、公私の区分に他ならないからである。ギリガンは正義とケアとの嫉妬深い比
較を避けようとしたが、
この比較それ自体が女性の位置を貶めてきた西洋思想の認識
論と不可分である。
第二は、相補性(complementarity)である。
『もうひとつの声』の末尾 では、成熟
した個人ではケアの視点と正義の視点が収斂し、
「公平とケアとの間の対話」に至る
とされる(Gilligan 1982: 174)。最近の著作では、この対話が「二重フーガ」として
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記述され、正義とケアという二つの主題は調和的全体に織り込まれる (Gilligan,
Rogers and Brown 1990: 321)。また、他の複数の論文では、少女たちが正義とケアの
考察を統合することが強調される(Bernstein and Gilligan 1990; Stern 1990)。ギリガ
ンによれば、この二つの道徳的視点は自己の概念に関係する。ケアの視点から関係的
自己が、正義の視点から孤立した自己が帰結する。多くの解説者たちとは異なって、
ギリガンは関係的自己と自律的自己(autonomous self)を切り離さずに、人間の二つ
のあり方(modes of being)として規定する。人が自己を経験できるのはただ他人と
の関係においてであり、また関係を経験できるのは自己と他人を差異化することに
よってである(Gilligan, Rogers and Brown 1990: 328)。
相補性という主張は問題を解決するよりも、むしろ多くの問題を提起する。何より
も、それは「異なっているが等しい」という主張に矛盾する。相補性は収斂を帰結す
るから、分離にはならない。いっそう重要なことは、この主張が女性を道徳的生活の
ケア的関係的側面に、男性を自律的で孤立した側面に結びつけ、同時に男性優位の秩
序を否定することである。しかし、こうした考え方には無理がある。アダムとイブの
物語以来、女性は男性の劣等な補足物と見なされてきた。ギリガンは女性の声を通俗
的に理解し、その地位を男性の声と平等な位置に高めようとする。この努力は貴重で
はあるが、無益である。
さらに、いっそう困難な認識論的問題がある。ギリガンによれば、正義の視点はケ
アの視点が加えられないなら不完全であるから、この視点を加えることによって、
我々は道徳性の発達の「真理」の理解に接近できる。これは『もうひとつの声』全体
の主題であり、その目的は「女性の経験の真理」
(1982: 62)の探求によって、
「男女
両性の生活に関するいっそう包括的な見方をもたらす」
(Ibid., 4)ことにある。しか
し、ギリガンの「真理」の探究は女性の経験だけに限定されない。彼女はケアの視点
が人間のライフサイクルの真の特徴を記述すると主張したいのである。
「道徳性の発
達に関して女性の視点の真理を認めることは、
男女両性が自己と他者の結合の人生全
体における重要性を認識することである。
孤立した自己と妥協の余地のない原則とい
う概念は青年期特有の理想にすぎない」
(Ibid.,98)。男性の発達の類型と女性の発達の
類型の「結婚」は人間の発達の理解を変え、人間生活のいっそう生産的な見方に至る
(Ibid., 174)。
『もうひとつの声』における普遍性と真理という主題は、後の研究でいっそう強
化された。幼年期の関係には不平等と愛着という二つの普遍的な次元があり、こうし
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た二つの経験が正義とケアという二つの視点を生み出す。
二つの視点は人間の経験の
真理に根ざしている(Gilligan and Wiggins 1988: 114-16)。ギリガンは自己中心主義を
本有的とするピアジェの主張を批判して、それを男の子の経験の結果とする(Ibid.,
1 3 6 )。 彼 女 の 理 論 は 孤 立 し 自 律 的 で 利 己 的 と す る 人 間 の 定 義 に 挑 戦 す る 。
(Gilligan1987a: 31)最後に、彼女の研究が道徳性の発達の一元的理論を二元的な理論
で置き換えると主張する(Gilligan 1987b: 93, 77)。
ギリガンのこうした立場は「フェミニスト経験論」に他ならない。フェミニスト経
験論者は科学の男性的伝統の基礎構造を批判せずに、それを修正しようと試みる
(Harding 1987)。ギリガンはコールバーグの方法論を公然と批判せずに、それが不完
全であると主張する。さらに、彼女は人間経験の「真理」を解明するというコール
バーグの研究目標を批判しない。反対に、彼女は自己の目標として真理と客観性を採
用し、それらに到達するのに失敗したとして彼を非難するのである。
第三のケアの正義に対する優位という関係は、
ギリガンの著作ではたんに暗示され
るに留まる。
「女性と道徳理論を結びつけることが有望であるのは、人類の生存が20
世紀後半においては形式的合意ではなく、
むしろ人間の結合に依存するという事実に
存する」
(Gilligan 1987a: 32)。これはギリガンがケアの視点に優位を与えた唯一の機
会である。それにも関わらず、ギリガンの研究のもっとも際立った成果の一つは、第
一にケアの視点は本質的に女性的であるという議論、
第二にそれは男性として規定さ
れた正義の視点よりも優れているという議論の展開にあった。S . ラディック
(Ruddick 1989)と N. ノディング (Noddings 1984)は、女性のケア的で他人と結び
ついた道徳的視点は男性の抽象的で形式的な道徳に優ると主張する。
しかし、こうした道徳理論に対するアプローチは、第一に男性中心主義者の理論の
一元論的階層的普遍的認識論を少しも排除しない。
それはたんに男性中心主義の理論
に副次的な階層構造を逆転させるに過ぎない。第二に、こうしたアプローチが提示す
るケアの視点はギリガンの全体的な趣旨と矛盾する。
ギリガンの目標は人間の条件の
真理、
ケアと正義とを包括する真理の探求を試みる理論を展開することにあったから
である。
3 真理と客観性
ギリガンの基本的主張は、
『もうひとつの声』が他の研究よりも十分に的確に人間
発達の「真理」を捉えており、女性と男性の両方の道徳的経験を包摂するから、いっ
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そう「客観的」であるという点にあった。ギリガンの批判者の多くは彼女の主張が本
質的に経験的であると理解した。
『もうひとつの声』の出版後、もうひとつの声の存
在は科学的に実証されうるか否かに関して激しい論争が起こった。
コールバーグはギ
リガンの研究に疑念を抱きながらも、
「新しいデータと新しい発見」に偏見はないと
述べた(Kohlberg 1982: 528)。何人かの批判者は彼女の研究が社会科学方法論に合致
しないという理由で非難した。彼女の説明における「偏見」から「錨なしに海をさま
よう社会科学」(social science at sea without an anchor)の状態に陥ったという批判
(Nail 1983: 664)や、ギリガンの提出した証拠は不十分であるという批判 (Eisenberg
and Lennon 1983; Walker 1984)があった。こうした批判を受けて、ギリガンは最近の
著作で彼女の理論を支持する経験的証拠、
たとえば服役者には男性が多いことを感情
移入における性差の存在の証拠として挙げている(Gilligan and Wiggins 1988: 113)。
1986 年 Signs 誌に、
『もうひとつの声』に関するシンポジウムが掲載された。これ
は多くの理由で有益である。第一に、それはフェミニスト理論やフェミニスト科学批
判の枠内においてさえフェミニスト経験主義が優勢であることを示している。
寄稿者
たちは『もう一つの声』に関する対話が「男女対決的な論争における男性支配の伝
統」(Kerber et al. 1986: 304)からの断絶を意味するか否かに否定的であった。寄稿
者の多くはギリガンの主張には科学的な証拠が欠けていると批判した。
「こうした性
差に関する主張は経験的なテストを受けなければならない。
これは社会科学の基礎で
ある」(Greeno and Macoby 1986: 316)。
このシンポジウムの注目に値する第二の局面は、ギリガンが『もうひとつの声』に
おける彼女の主張は統計学的あるいは経験的ではなく、
解釈的であると答えた点にあ
る。コールバーグ批判の要点は、男性と女性が彼の尺度に照らして異なることにある
のではない。彼の尺度は男性の経験にのみ適合するということにある。
「理論から独
立したデータは存在しない。観察は必ずある観点からなされる。データだけでは何も
教えない。データはみずから語るのではない。それは解釈されるのである」
(Gilligan
1986: 328)。これと同じ立場が『もうひとつの声』の冒頭で述べられていた。
「言語
の中立性と同様に、
いわゆる科学の中立性は知識の諸カテゴリは人間の構成物である
という認識に道を譲る」(Gilligan 1982: 6)。
ギリガンは近年の科学哲学における観察の理論負荷性の主張を基に、
コールバーグ
理論には偏向があると非難する。
コールバーグは何が道徳的行動を構成するかに関わ
る仮定に基づいて、彼の理論に適合するデータの発見に進むからである。女性の道徳
91
的未発達はコールバーグ理論に本有的な偏見であり、
彼の理論と女性の道徳的経験に
関するデータの不一致があるに過ぎない(Gilligan 1987b: 78)。こうした主張は社会
科学の「客観性」に対する批判、フェミニストの科学批判に一致する。しかし、この
批判から彼女の研究が道徳性の発達の「真理」に至るという結果は導けない。彼女の
研究が道徳性の発達の「真理」に至るという主張は、彼女がコールバーグを攻撃する
ために用いた客観性批判と両立しない。彼女の研究における深刻な矛盾である。
こうした矛盾にもかかわらず、
コールバーグ道徳理論に対するギリガンの批判は重
大な含意をもつ。そこから、道徳性の発達の類型の客観的評価は不可能であることが
帰結するからである。その客観的評価を試みるなら、何が道徳性を構成するのかとい
う仮定をそうした探求にもちこまざるをえないからである。コールバーグの目標は
「道徳的に養育された成人の道徳的判断と直観の深層構造を合理的に再構成する」こ
とにある(Kohlberg 1982: 525)。しかし、彼が「道徳的」であると示すものは、西洋
の道徳理論において道徳的であると認められてきた思考様式に他ならない。他方、こ
の批判から他の結論が導かれる。
もし道徳性の発達理論がすべて人間の構築物である
なら、このことは彼女の理論にも妥当する。コールバーグ理論と同様に、ギリガンの
女性の道徳性発達理論は彼女の先入観によって偏向している。さらに、ギリガンは女
性の経験の「真理」を「発見する」のではなく、何が「道徳的なもの」を構成するの
かに関する彼女自身の先入見に照らしてデータを解釈しているにすぎない。
コールバーグによる道徳領域の定義は、
古代ギリシャ人の表現した論述に根ざす道
徳理論の伝統の忠実な翻訳である。この論述では、抽象的で形式的な原理に基づいた
道徳的推論が道徳思想の真の最高の形態と規定された。他方、個人的で相対的な要素
を伴う考慮は劣等と見なされ、すべて道徳の領域外に置かれた。ギリガンが実際にな
したことは、西洋の道徳的伝統とコールバーグに反して、こうした要素が「道徳的な
もの」の領域にあると宣言したことである。彼女はこの宣言によって重大な概念的突
破をなしている。彼女はたんに彼女の集めたデータに「道徳的なもの」の個人的定義
を押しつけているのではない。
彼女は多くの女性がもつ自己理解を科学的に実証して
いる。彼女は西洋文化において女性がなすと想定され、実際になしてきた気遣い
(concern)を「道徳的なもの」として分類する。それゆえ、「もうひとつの声」は彼
女の著作を読んだ多くの女性の心を捉えたのである。
92
4 道徳の言説(discourses of morality)
ギリガンの研究の認識論的重要性は何を「道徳的なもの」と見なすべきかを規定し
直す新たな道徳の言説を主張したことである。一元的な道徳の伝統に対して、ギリガ
ンは道徳的言説の二元的理解を提唱した。いくつかの事例では、青年期の女性は彼女
たちの直面する倫理的葛藤を道徳的問題として記述するのを躊躇した。彼女たちは
「道徳」は抽象的な規則と義務の領域にあり、関係の特殊性に関わる領域にはないと
教えられた。彼女たちにとって道徳的に避けがたいことは、社会的には道徳的と見な
されない。その結果、彼女たちの判断と道徳的全一性に対する信頼が失われる
(Brown 1990: 107)。
「女たちの間を吹き抜ける伝統の風は冷たい。それは排除のメッ
セージを運ぶからである」(Gilligan 1990: 26)。
しかし、ギリガンの二元的道徳理論に関する主張は、男性中心的な道徳理論に対す
る彼女の批判と両立しない。
ギリガンは西洋の道徳的伝統は古来女性に結びつけられ
てきた道徳的な気遣いを排除してきたと主張し、
「もうひとつの声」を「異なるが等
しい」構成要素として道徳的伝統に加えることができると論ずる。この立場は認識論
的に混乱しているだけでなく、理論的に望ましくない。第一に、西洋の道徳的伝統の
規定する認識論的空間は、
普遍的で形式的な原則と対等の別の要素を加えることを許
さない。第二に、ギリガンの理論が男性中心的な道徳理論の一元的原則を実際に解体
したなら、ギリガン自身が提唱する以上に過激な結論が導かれる。
「もうひとつの声」
は女性の幼年期の関係的経験によって形成され、
男性の自律的な道徳的な声も幼年期
の関係の結果である。道徳的な声が特定の関係的経験の結果であり、こうした経験に
よって構成される主体の表現であるなら、道徳的な声はただ二つだけではなく、数多
くのそれが存在しなければならない。主体を構成する力は性だけではない。人種、階
級、文化、歴史的位置も構成要因である。ギリガンの研究は我々を根本的に新しい認
識論的空間に導く。それは複数の声が聞かれる空間である。
近代の道徳的言説はカント倫理学に代表される抽象的形式的原則に支配されてき
た。コールバーグはこの伝統の 20 世紀における代表者 J. ロールズに強く依拠してい
る。ロールズの『正義論』は権威の道徳性(morality of authority)、共同体の道徳性
(morality of association)、原則の道徳性(morality of principles)という道徳性の発達
理論を提示した。権威の道徳性は一時的で愛に基づくのに対して、原則の道徳性は
「偶然性」を超えた抽象的「第一原則」に基づく(Rawls 1971: 456)。コールバーグは
それぞれ二段階をもつ前慣習的(pre-conventional)、慣習的(conventional)、後慣習的
93
(post-conventional)という三つの発達水準を立てた。コールバーグのモデルでは第六
段階がもっとも高い道徳性を示し、
個人的原則あるいは良心の道徳性として特徴づけ
られる(Kohlberg 1984: x x ix)。
コールバーグの基本的見解は以下である。第一に、こうした発達段階は科学的であ
り経験的である(Kohlberg 1981: 178)。第二に、道徳哲学は普遍的ではありえないが、
基本的道徳原則は普遍的である。
第五および第六段階に達する者はどの文化に属する
にせよ、普遍的原則を定式化しようと試みる(Ibid., 98)。第三に、発達段階は文化と
しても個人としても進化する。高次の二段階は原始的文化には見られないが、特定の
文化内で個人は成長するに連れて高次の段階に進歩する。第四に、高次の段階に到達
した個人は、必ずしもいっそう道徳的であるわけではない。高次の段階の一般的原則
はいっそう十分であって、道徳的問題をいっそうよく解決できる(Kohlberg 1984:
331)。しかし、この見解は次のような主張に対立する。第六段階とは「道徳的判断が
意味する当のものである。もしあなたが道徳ゲームを演じたいなら、社会的衝突の解
決において誰もが賛成しうる意思決定を行いたいなら、第六段階がそれである」
(Kohlberg1981: 172)。
ここから、コールバーグの方法論的前提の欠陥が露わになる。コールバーグは道徳
性の本質、すなわち第六段階の明確な理解から始めて、彼の理論を支持する証拠の収
集に着手する。彼がこの証拠を見出すのは、ギリガンが明らかにした理由による。す
なわち、
この文化では人々は道徳は抽象的で普遍的な原則から成ると教えられてきた
からである。実際、第6段階の評価を受けるのは、アメリカ人成人の5%にすぎな
い。アメリカ人成人の大多数とほとんどすべての女性は慣習的段階に留まる(Ibid.,
100, 146, 192)。コールバーグのエリート主義、性差別主義、自民族中心主義を批判
するのは容易である。しかし、問題は彼をこの結論へ導いた方法論的かつ認識論的前
提にある。
「打算的判断や美的判断とは異なって、道徳判断は普遍的、包括的、整合
的であり、客観的で非人称的あるいは理念的基礎に基づく傾向がある」
(Ibid., 170)。
コールバーグの観点では、それ以外の判断は道徳的判断とは呼ばれない。コールバー
グは西洋の伝統で表現されてきたように「道徳ゲーム」を定義し、このゲームの規則
の中で教育を受けた男性と少年を調査して自己の理論を確証したのである。
コールバーグによれば、ギリガンは家族関係のような「特殊」な関係を取り扱って
いる。彼は彼の研究が道徳性の発達の全領域を包括しないことを認め、この領域を増
大させようとするギリガンの試みを「歓迎」する(Kohlberg1984: 338)。彼は道徳が
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一端で個人的なものに関わり、
他端で不偏的な正義に関わるという考え方を提案する
(Ibid., 232)。さらに、彼は女性が男性の職業に就くなら、彼女はケアよりも正義の道
徳を採用するであろうと主張する(Ibid., 348)。こうした仕方で、コールバーグはギ
リガンの理論を彼の伝統的な視点に適合させる。
ギリガンとコールバーグとの衝突を道徳理論のもう一つの伝統に訴えて解決しよう
とする試みがある。しばしば引用されるのは、シモーヌ・ヴェーユ(Simone Weil)と
アイリス・マードック(Irs Murdoch)である。ヴェーユもマードックもギリガンのい
うケアの倫理に似た文脈依存的道徳(contextual morality)を提案する。ヴェーユは個
人主義と権利に反対し、正義を愛として定義し直すとともに、権利と正義との分離を
提案する。道徳的経験の中心は「気配り(attention)」という形式の実践である。マー
ドックはこの概念を彼女の理論の要石とする。道徳は個人に対する「気配り」によっ
て構成される。道徳は普通は理性的で自律的な個人が自由に、抽象的原則を適用して
行う選択の問題ではない。道徳的選択は我々の生活と我々が他人と作り上げる愛の
結合によって歴史的に条件づけられている(Murdoch 1970: 37-8)。他方、マードック
が正義の伝統をケアの視点で置き換えることを主張するのに対して、
ギリガンは非階
層的二元論を支持する。ギリガンにいっそう調和するのは、ローレンス・ブラン
(Lawrence Blum)である。ブランはカント倫理学の伝統は利他主義によって補完され
るべきであると主張する。利他主義的感情は普遍的な道徳原則に基づかないから
「我々が友人に対してなす善はカントのカテゴリーの枠内では表現できない」
(Blum
1980: 5-6)。友情は正当な道徳的現象であり、我々が友人に与えるケア的愛は道徳的
善である。ブランはカント倫理学を否定するのではない。道徳的な善には他のタイプ
があると主張するのである。道徳にはさまざまな領域がある。カントとマードックは
異なった領域を表現しているにすぎない(Blum 1986: 360)。
しかし、もう一つの道徳的伝統に訴える議論は維持し難い。ヴェーユとマードック
が道徳理論の支配的伝統に反論するのは、
それがまさに支配的であることを認めるか
らである。他方、彼女たちの声はもう一つの伝統として認められてはない。それはた
んに弱々しい抗議の声にすぎない。ブランはこの立場に対して違う反論を示した。正
義の伝統の論理は多元的相対主義的要素の付加を排除する。
ケアの視点がつけ加えら
れるべきであるとしても、伝統の論理に従って、それは従属的な地位に追いやられ
る。コールバーグの主張するように、道徳の核心は第六段階にあるから、ケアは正義
の平等な協力者ではなりえない。正義の伝統は認識論的に排除的であり、その認識論
95
的基礎を解体する視点の追加を許さない。
最近、ギリガンのケアの倫理が提起した問題に他の解決が提示された。すなわち、
ケアによる正義の再定義である。S. M. オーキンは正義とケアの区分は行き過ぎであ
り、正義に関する最善の理論化はケアを包含すると論ずる(Okin 1989: 15)。オーキ
ンがなそうとするのは、正義を公的領域に限定する公私の区別の転換に他ならない。
I. M. ヤングはこの問題の他の側面を強調する。道徳理論において公私の区別を保持
するフェミニストは公的領域における不偏性を批判できない(Young 1990: 97)。不
偏性は主導的団体の支配を隠蔽する受け入れ難い理想である。しかし、オーキンもヤ
ングも正義とケアの関係の再定義を試みるが、
それは伝統的道徳理論の認識論的枠内
においてである。さらに、両者はともに道徳的問題への一つの「正しい」アプローチ
があることを批判しない。正しい答えの探究はつねに空しい。反対に、求められてい
るのはその認識論を却下し、一つの正しい答えの探究を放棄するアプローチである。
そうしたアプローチは道徳的な声の関係的起源に関するギリガンの理解から導き出
される。ギリガンは二種の主体が子供時代の経験から生成すると論じた。男性的主体
では道徳的な声は分離独立した観点から抽象的原則に基づいて語り、
女性的主体では
ケアと結合の考慮に共鳴する。ここには、いくつかの根本的な観点の移行がある。正
義の伝統の絶対主義を解体することによって、
ギリガンは我々を新たな認識論的空間
へ移行させる。彼女の研究が示唆するのは、道徳的言説が正しさや発達の内的基準を
もつこと、
西洋の伝統が前提としてきた一元的な道徳的世界は退去しなければならな
いことである。これは我々の道徳的言語ゲームの規則の理解に深刻な変化をもたら
す。道徳が逃れ出た認識論的空間に道徳を適合させることはできない。しかし、道徳
的な声は主体そのものが形成される経験の産物であるというギリガンの主張が正しい
なら、二つ以上の主体が存在するはずである。
ギリガンの研究は伝統的な道徳理論のメタ物語を解体する。道徳的観念は、それら
をもつ主体と同様に文脈依存的で関係的である。
そうした観念は主体が生きる社会の
言説あるいは言語ゲームによって構成される。男らしさや女らしさは、異なった文化
では異なった仕方で構成される。人種や階級の違いから、男性的主体と女性的主体の
多様な仕方で構成される。道徳的規準はこうした道徳的な声に応じて多様化する。任
意の社会の内部にさえも多くの異なった道徳的な声が存在する。
こうしたアプローチ
には、道徳的判断の可能性を不要にするという批判がある。しかし、この立場は道徳
のメタ物語への依拠を排除するが、恣意性を意味しない。むしろ、それは道徳の定義
96
と道徳的思考が、生活の他のあらゆる側面と同様に、言説によって形成されることを
意味する。その結果は道徳的無秩序ではなく、道徳的観念の特殊性とそれらを構成す
る内的活力に対する気遣いである。
これが道徳に対する非常に異なったアプローチで
あることは否定できない。
個々の人間社会においてさまざまに異なった道徳的な声を
説明する必要があることは、見逃すことができない。
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