近代企業の 発展

1
第 章
The Evolution of
The Modern Firm
近代企業の
発展
本書は、企業戦略に関する普遍的な経済原則を明らかにするものである。それらは一般原理で
あるから、さまざまな事業環境に直面するマネジャーにとって役立つはずである。期待したほど
成功していない事業の業績を改善しようとするマネジャーにとっては、これは明らかに有益なも
のになるであろう。企業の戦略を事業環境に合わせることにより、すぐに改善が図れるからであ
る。また、一般原理はきわめて成功している企業のマネジャーにも役立つものである。マネジャ
ーのだれもが認めるように、事業の条件は時とともに変わる。つまり、今日の事業環境に適切な
戦略でも、将来は不適当なものになるかもしれない。事業環境の変化は、20世紀後半の都市郊外
の成長のように徐々に起きることもあるが、1990年代の情報処理技術のように素早く起きること
もある。また、共産主義の崩壊と東欧と旧ソ連における事業の民営化のように、一晩のうちに起
こるものもある。そこで、一連の一般原理を知ることによって、変わり続ける環境に自社の経営
戦略をうまく適応させることができるのである。
多種多様な事業状況に、経済原則を適用することが可能だろうか。これを実証するために、簡
単に歴史的な分析を行いたい。本章では、1840年、1910年、今日という、3つの時代における経
済活動と企業組織に注目して、近代的な営利企業の進化を考察していく。さらに、各時代におい
て、事業のインフラと市場の状況がどのように企業の規模と活動範囲に影響したか、企業組織が
どのように変化に対応したかについて議論する。本書ではアメリカ経済の発展に絞って考察して
(注1)
いるが、似たような発展は、イギリス、フランス、ドイツなど他の工業国でも起こっている。本
(注1)ヨーロッパとアメリカの比較については、Chandler, A. D. and H. Daems(eds.), Managerial Hierarchies: Comparative
Perspectives on the Rise of the Modern Industrial Enterprise, Cambridge, MA: Harvard University Press, 1980を参照。ヨーロッパ
内の産業化に関する問題については、Pollard, S., "Industrialization and the European Economy," Economic History Review, 26,
November 1973: pp. 636-648を参照。組織および経営に関する考えの発達の国際比較については、Guillen, M. F., Models of
Management: Work, Authority, and Organization in a Comparative Perspective, Chicago: University of Chicago Press, 1994を参照。
47
章の最後では、開発途上国の今日の事業環境について考察することにする。
3つの時代を対象にしたことには根拠がある。1840年以前は事業の諸条件が制約となり、企業
規模は小さく、地域的な市場での活動に限定されていた。1840年から1910年にかけてのインフラ
の変化によって、スタンダード・オイル、USスチール、デュポンといった巨大企業の成長が促
進された。この時代は、これらの最大でかつ最高の経営がなされた企業でさえ、協調と管理の問
題を抱えていた。つまり、大規模な操業を効率的に管理し、市場の変化に対応するために必要な
情報を、いかに素早く得るかという問題である。1910年以降、とりわけ過去30年において、遠隔
通信とデータ処理の変化は、企業の情報処理と業務の管理に革新をもたらした。その結果ますま
す多くの組織が、事業環境へ効果的に対応できるようになった。しかし、環境はおそらく以前よ
り急速に変化し続けており、このことは企業が対応すべき重圧が増していることを意味する。
1
___
◆
1840年の世界
1840年の事業
(注2)
1840年以前は、事業家たち(businessmen)は、今日では見られないような方法で企業を経営し
(注3)
ていた。ジョン・バロウズの例は当時の典型と言えよう。バロウズはアイオワの商人で、近くの
農民からじゃが芋を買い、それらを洗って箱詰めにした。じゃが芋がニューオーリンズで1ブッ
シェル当たり2ドルで売れていたと聞いて、彼はイリノイ川の平底船に荷積みし下流へと下った。
航行中に彼はじゃが芋1ブッシェル当たり50セントの買い値を提示されたが、ニューオーリンズ
でより高値がつくことを期待し、それを断った。南へと向かう間、同じように高値を求める他の
じゃが芋商人が乗り込んできた。そしてすぐに、ニューオーリンズ市場は供給過剰になった。需
給のバランスは、じゃが芋の価格が急落する方向に向かった。結局バロウズは6週間の旅行の挙
句、バーミューダ島の船長に1ブッシェル当たり8セントでじゃが芋を売ることになってしまっ
たのである。
バロウズは「ファクター」
(販売代理人)と呼ばれる商人であった。アメリカの農場主は農作
物をバロウズのようなファクターに売る。ファクターは買い手を見つけようと、ニューオーリン
ズやニューヨークといった大きな市場に品物を運んだ。市場の買い手の一部は、自分の食料雑貨
店のために仕入れをする地元の商人であったが、ほとんどの買い手は、ヨーロッパも含む遠方の
商人の代行をする「エージェント」
(買い付け人)であった。ファクターとエージェントはめっ
たに直接の取引をせず、かわりに「ブローカー」の助けを借りる。ブローカーはファクターとエ
ージェントの仲介を務める。ブローカーは、個々のファクターやエージェントが持っていない知
(注2)我々はbusinessmen(ビジネスマン)という単語を字面どおりに使用する。1840年においてビジネスに関係してい
た女性は、ほとんどいなかった(たとえいたとしてもごく少数)。このことは、1910年まであまり変わらなかった。
(注3)この例は、William Crononによる優れたシカゴ市の歴史、Nature's Metropolis, New York: Norton, 1991より引用 。
48
第 I 部 企業の境界
識を豊富に持っていた。それは、ファクターとエージェントの顔ぶれ、供給の目途および需要の
大きさなど市場条件に関する知識である。
売買は正式な手続きによるものではなかった。ファクターやエージェントは、彼らが以前に取
引したブローカーを捜し出した。取引条件が前もって定められたり契約で特定されたりすること
はほとんどなかった。かわりに、ブローカーが需給の平衡を最もよく保つように価格を調整した。
1840年には、このようにしてほとんどの取引が行われた。今日、ブローカーはアメリカの経済取
引を支配してはいないが、不動産取引などのように、さまざまなかたちで残っている。今日でも
ブローカーが重要な役割を果たす例は、証券取引における「マーケットメーカー」である。ニュ
ーヨーク証券取引所(NYSE)のマーケットメーカーは、互いに見知らぬ者の買い注文と売り注
文を一致させるが、他の方法では取引をさばくことは難しいであろう。
NYSEで取引される株式の買いと売りの注文はほとんど瞬間的に実行されるため、取引の参加
者は、売買がなされる価格に対してある程度の確信が持てる。1840年のジョン・バロウズの時代
は、このようなことは実現されておらず、ファクターとエージェントが相当な価格リスクを背負
っていた。すなわち、取引が成立した時点で、彼らが受け取った価格は、取引を始めた時点に
(たとえばジョン・バロウズが下流に下り始めた時)
、予期したものとは異なっていることもままあ
った。このリスクは明らかに、生産地と最終取引地の間の距離に比例して増加した。したがって、
アメリカと取引するヨーロッパの商人は、バロウズよりもさらに大きなリスクを背負っていたの
である。
価格や購買者や販売者に関する知識の不足と、それに伴うリスクは、事業の性格を劇的に決定
づけている。農場主は最も高いリスクに直面していて、彼らはバロウズのようなファクターにリ
スクを一部肩代わりしてもらっていた。ファクターは1年のあらゆる時期にさまざまな農産物を
売り、また市場へ行く途中でもいろいろな時機に商品を売っていた。バロウズは、農民よりもリ
スクを背負うことに抵抗がなかったのだろう。また、だからこそ、彼は農民ではなくファクター
になったのかもしれない。彼はいったん市場に到着すると、商品の買い手を見つけること(彼自
身で容易に実行できない仕事)はブローカーに任せた。
情報とリスクは、事業の規模と構造にとってさらに別の意味合いを持った。当時の製品は、織
物業、時計製造業、兵器産業などの例外を除いて、小さな家族経営「企業」によって生産されて
いた。小さな企業では、100人程度の労働者を雇用しており、多くの場合は所有者(株主)と経
営者に明瞭な区別がなかった。今日とは対照的である。製品の市場価値がおそろしく不確実であ
ることを考えると、人々が事業の生産能力を拡張するために自分の資産を使うことをためらった
のも驚くに値しない。同様の理由で銀行もまた、事業拡張のための融資には消極的であった。輸
送と通信の障害のために(それについては後述するが)
、家族経営の企業は、原料の調達や最終生
産物の流通に投資できなかった。たとえそのような投資が生産プロセスをより協調させ効率的に
するとしても、投資を正当化できなかったのである。生産と流通は多くの個人企業によっていた
が、それは単に、他のどんなシステムもこの市場条件では成立しなかったためである。
第1章 近代企業の発展 49
1840年の事業環境:近代的なインフラのない状況
1840年に家族経営の小企業が支配的であったことは、当時のインフラと直接的に結びついてい
た。インフラのなかには、企業独自では容易に提供することができない、製品およびサービスの
生産や流通を助ける資産がある。たとえば、輸送、通信と資金調達を促進するインフラである。
企業がよりよい生産技術を開発するような基礎研究も含まれる。また、政府は、企業の事業環境
に影響を与えたり(たとえば通信事業の規制によって)
、インフラ(たとえば高速自動車道)を供給
したりするなど、重要な役割を担っている。
今日の基準に照らせば、1840年のヨーロッパとアメリカのインフラは貧弱であった。輸送、通
信および金融における制約が、ジョン・バロウズの時代の人々が直面していた事業環境を形成し
ていた。以下の項ではアメリカの状況について議論するが、ヨーロッパも似たような制約に直面
していて、しばしば政治的要因のためにそれはアメリカよりひどいほどだった。これから詳述す
るような制限のもとでは、1840年の事業のやり方は今日の我々にとって風変わりに感じられるか
もしれないが、当時においては適切なものであった。
輸送
19世紀前半、輸送は蒸気機関による革命を経験していた。かつてローマ人はいろいろな種類の
レールを街道に敷こうと試みたが、近代の鉄道では、蒸気機関を導入して鉄と鋼のレールを用い
た。これによって通商に付加価値を与えることになった。1840年までに鉄道は、原料と消費財の
(注4)
出荷において馬車に取って代わり始めた。しかし、アメリカの鉄道が発展するのには時間がかか
(注5)
り、1836年になっても、1年にたった175マイルの鉄道線路が敷設されただけだった。1850年に
なっても、アメリカの鉄道網は分散しすぎており、アメリカ全土にわたり市場の成長を促進させ
(注6)
ることはなく、アパラチア山脈の西側にはほとんど鉄道が走っていなかった。接続する路線はし
ばしば異なる規格になっており、運行スケジュールもほとんど連携していなかった。アメリカの
(注7)
鉄道による統合輸送インフラの開発が完了したのは1870年代であった。
(注4)Chandler, A. D. and R. S. Tedlow, The Coming of Managerial Capitalism, Homewood, IL: Irwin, 1985, p. 179.
(注5)Cochran, T. C. and W. Miller, The Age of Enterprise: A Social History of Industrial America, New York: Harper & Row, 1961,
p.45.
(注6)Chandler, A. D., The Visible Hand, Cambridge, MA: Belknap, 1977(邦訳『経営者の時代』
(上・下巻)東洋経済新報社、
1979年)
、Scale and Scope: The Dynamics of Industrial Capitalism, Cambridge, MA: Belknap, 1990(邦訳『スケールアンドスコ
ープ――経営力発展の国際比較』有斐閣、1993年)
(注7)アメリカの完成した鉄道マイル数は、1840年の2,808マイルから、1870年の52,922マイル、1890年の163,597マイル、
ピークの1916年には254,000マイルに成長した (Beniger, J. R., The Control Revolution, Cambridge, MA: Harvard University
Press, 1986, p.213)。ドイツの鉄道の発展は、アメリカでの発展に並行した(Chandler, 1990, p. 411)。フランスでは、
1842年と1857年の鉄道法を通じて、政府が構築に主な役割を果たした。フランスの鉄道網は、1851年の3627キロメー
トルから、1858年には16,207キロメートルに拡張した。イタリアの鉄道網は、フランスより遅れて構築され、それほど
は発展しなかった(1860年に1,758キロメートル、1876年7,438キロメートル)(Langer , W. L. An Encyclopedia of World
History, New York: Houghton Mifflin, 1980, p.684, 708, 835, 929)
。
50
第 I 部 企業の境界
水路による輸送も多くの問題を抱えていたが、鉄道が開発されるまで、製造業者は製品の長距
離輸送に水路を活用した。たとえば、1813年には新しい汽船が早くも主なアメリカの河川と五大
湖を結んだが、1825年のエリー運河の完成まで東海岸の主要都市と五大湖を結ぶ直行ルートはな
かった。さらに、汽船は1840年代までシカゴで荷下ろしをすることができなかった。ニューヨー
クからシカゴへの運航は時間がかかり、特に悪天候時には危険であった。水路は限定されており、
(注8)
運河の構築と維持には費用がかかった。そんななか、エリー運河の開設は驚くほどの成長を導い
た。たとえば1830年から1840年にかけて、イリノイ州の人口は15万7000人から47万6000人へと3
(注9)
倍になり、シカゴの人口は500人から4000人以上へと8倍も増加した。
運河と鉄道が成長に拍車をかけたものの、1840年にはそれらはいまだ発展の初期段階にあった。
製品を大量に輸送する安全かつ信頼性の高い手段がなかったため、生産者は生産能力を拡張した
り、原料を購入するのに必要な投資に懐疑的であった。巨大企業が中心となる産業経済を迎える
には、鉄道網の完成と効率的な通信技術の発達を待つ必要があった。
通信
1840年には長距離通信の主な手段は郵便であった。郵便事業は産業革命以前に生まれ、アメリ
カの連邦郵政省は1791年に設立された。しかし、今日でもよく言われることだが、郵便はだれも
が利用できるかわりに時間がかかり比較的高価であった。郵便は1840年になってももっぱら馬に
頼っており、アメリカ西海岸の拡張と大量生産経済の漸進的な発展により膨れ上がった通信量の
拡大についていくのは困難だった。
通信の近代化の第一歩は、電信(サービス地点間に電線を敷設する必要があった)であった。
1830年、サミュエル・モースが電信によってボルティモアとワシントンを結ぶと、電信の利用は
すぐに広まった。1852年までに電信線はほとんどの鉄道線に並行して引かれるようになった。
1870年にはウエスタン・ユニオンがアメリカで最大の企業の1つになり、電信は産業経済の成長
(注10)
に必要な通信インフラを提供した。
1840年における経済活動の規模が地域的なものにとどまっていたのは、近代的通信インフラの
不足に帰するものであった。遠方の取引先と取引をする事業家は、市場条件が変わった場合に対
応する必要がある。適切な通信方法がないなら、事業家は自らリスクをとるよりも、むしろバロ
ウズのようなエージェントあるいはファクターに取引を委任することになる。もし事業家が異な
る場所に別々の事業所を設置するなら、事業所間を通信で結び、それらの活動を調整しなければ
ならない。当時は通信方法が十分ではなかったため、これもまた不可能であった。同様に鉄道は、
列車を確実かつ安全に運行することができなかった。このことは長距離の製品流通を妨げ、大規
模生産のリスクを高めていた。
(注8)Chandler, A. D. and R. S. Tedlow, The Coming of Managerial Capitalism, Homewood, IL: Irwin, 1985, p. 176.
(注9)Cochran, T. C. and W. Miller, The Age of Enterprise: A Social History of Industrial America, New York: Harper & Row, 1961, p.
42.
(注10)Beniger, James R., The Control Revolution, Boston: Harvard University Press, 1986; Chandler, Alfred D., The Visible Hand,
Cambridge, MA: Belknap, 1977(邦訳『経営者の時代』
(上・下巻)東洋経済新報社、1979年)
第1章 近代企業の発展 51
近代的な通信が利用可能になった時でさえ、コストが高かったうえに最初はその潜在的な価値
が明らかでなく、企業は必ずしもそれらを採用するとは限らなかった。企業はまず、価格決定の
ような問題に関して遠方のエージェントと電信を使うことに価値を見出した。電信の使用は高価
だが、重要かつ緊急のメッセージのためにはコストも妥当と思われた。鉄道会社もこのような理
由で電信を使用したが、通常の運行予定作成に取り入れるまでには時間がかかった。1851年にア
メリカで最初に電信を利用したのはニューヨーク・エリー鉄道であり、イギリスの鉄道に倣って
(注11)
のものだった。
郵便サービスは、当初は不安定かつ高価であった。たとえば1840年代に、スコービルの本社が
あるコネチカット州ウォーターベリーからの書簡は、天候がよい場合でも、ニューヨークに着く
のに1日、フィラデルフィアに着くのに2日かかった。悪天候の場合はゆうに1週間かかること
もあった。しかも手紙1枚の値段は、ウォーターベリーからニューヨークへは12.5セント、フィ
ラデルフィアへは18.5セントかかった。当時の手紙の一部に消印がないものも残っているが、そ
れは高い郵便料金のため、スコービルの社主とそのエージェントがなるべく手紙を手渡しするよ
うにしていたためであろう。アメリカ郵政省が1845年と1851年の2度にわたって料金を大幅に下
(注12)
げた後は、商用通信の量は増加した。
金融
当時ほとんどの人には、複雑な企業を自ら設立し運営する資金的余裕はなかった。金融市場は
資本を提供する人と調達する人を集め、参加者はそこで資金繰りを平準化し、価格変動のリスク
を縮小させることができる。19世紀前半は長期の借入れが困難であったため、ほとんどの事業体
はパートナーシップ(合名会社)であった。株式は容易に取引されなかったため価値が上がらず、
株式資本のコストを増加させた。先進的な金融インフラの欠如により、企業には大量生産型経済
で求められる大規模プロジェクトのための資金調達が困難であった。またこのことは、大きな投
資プロジェクトのリスクに対し投資家が自らを保護できる限度を狭めた。
当時の民間銀行の主な役割は、信用貸しの付与であった。1820年までにアメリカには300行以
上の銀行があり、1837年までには788行になった。19世紀を通じて投機とインフレの高いリスク
があったが、銀行は短期の信用貸しによって買い手と売り手の資金繰りを円滑にし、信頼性の高
(注13)
い取引を促進した。この時代には、好景気と不景気が繰り返され、1837年恐慌のような周期的な
不況に見舞われた。
一方、小さな企業は信用貸しを受けるのが困難であった。多少なりとも貸付枠がある場合でさ
え、貸付は正式な手続きによらず個人的なつながりによって行われた。このことによって、小さ
な企業の可能性は制限されていた。政府あるいは私的なコンソーシアム(特定のプロジェクトに
融資するために集められた民間グループ)は、主にエリー運河のような大型プロジェクトに資金を
(注11)Yates, J., Control Through Communication: The Rise of System in American Management, Baltimore, MD: Johns Hopkins
University Press, 1989, pp.22-23.
(注12)Yates, J., Control Through Communication: The Rise of System in American Management, 22, pp. 160-161.
(注13)Cochran, T. C. and W. Miller, The Age of Enterprise, pp. 43-49.
52
第 I 部 企業の境界
提供した。1840年以降、投資プロジェクトの規模が増大するとともに、政府による援助または投
資銀行による大規模な債権や株式の公募が、民間人や小さな投資家グループによる資金調達に取
って代わった。
金融機関は事業リスクも減少させる。価格変動のリスクを縮小する仕組みとして、先物市場
(一定期日にあらかじめ決めた価格で商品を買う・売る権利を購入する市場)がある。先物市場におい
ては、取引されている商品の品質を検証することが要求される。さらに、先物取引の一方は、満
期日のスポット価格(現物価格)が、取引した価格(先物価格)と異なるリスクを負う覚悟が必
要である。1840年には、価格変動のリスクを縮小する制度上の仕組みがなかった。最初の先物市
場は1858年にシカゴ商品取引所によって創設され、事例1.1のように農産業に多大な影響を与
えた。
E
x
事例
1.1
a
m
p
l
e
(注14)
シカゴの台頭
1800年代の商業中心地としてのシカゴの台頭は、企業ではなく都市であるが、ここまでに議論
してきた中心的な概念を描き出すものである。1840年代に発展しつつあったシンシナティ、トレ
ド、ピオリア、セントルイス、シカゴといった中西部の都市は、地域の通商の中心地の座をめぐ
り、市場における企業と同様に激しく競争していた。最終的に都市の競争の行方は、企業の水
平・垂直境界を決定するのと同じ条件によって決まった。この場合、インフラと技術の著しい変
化により、シカゴの商業組織と金融資産が他の都市をしのぐこととなった。たとえば1860年まで
に、シカゴ商品取引所は中西部で生産された穀物のほぼすべてを取引した。同様に、シカゴの精
肉業者であるスウィフトとアーマーの2社は精肉業界を支配した。
シカゴは、競合する商業地とは異なる方法で事業を展開したために繁栄した。シカゴの企業は、
コストとリスクを削減する新しい技術を最初に利用した。たとえば、スウィフトとアーマーは同
時期に、もともとイリノイ州の果実栽培者が使っていた冷蔵貨車を採用した(普通の貨車にミシ
ガン湖の氷を敷き込んで冷凍車をつくった)
。これにより、市場へ運ぶ途中で家畜がやせて体重(価
値)が落ちてしまう前に、シカゴで牛や豚を屠殺できるようになった。サイラス・マコーミック
たちは、中西部の農民から買った穀物を安価に仕分け貯蔵し出荷するために、新たに発明された
穀物エレベーターを利用した。彼らはシカゴ商品取引所で穀物の先物を売り買いすることで、大
量の穀物を扱うリスクを縮小した。
スウィフト、アーマー、マコーミックらのシカゴの事業家によって営まれる事業は、鉄道路線、
冷凍設備、穀物倉庫、先物市場などへの本格的な投資を必要とした。彼らは、大きな取引量がな
いと投資を回収できないことを認識していた。これにはスループット(投入物と産出物が生産プロ
(注14)この例は、Cronon, W., Nature's Metropolis, New York: Norton, 1991より引用。
第1章 近代企業の発展 53
図1-1
1840年から1890年にかけてのアメリカの鉄道の成長
シカゴは東西南北への鉄道路線の重要なハブになった。このことは、部分的にはシカゴの成長を促進する地元の企業家の努力に負う。
しかし、
シカゴがいったんハブとして台頭し始めると、他の鉄道もシカゴを通過しやすくなり、
シカゴはさらに大きな輸送の中心地になった。
出典:Association of American Railroads. Beniger, J. R., The Control Revolution, Cambridge, MA: Harvard University Press, 1986, P.212 より再掲。
54
第 I 部 企業の境界
セスを通過すること)が必要であった。シカゴの精肉業と穀物業は、氷の大規模な供給と、農場
地帯からの穀物と家畜の大規模かつ確実な移動、および東部市場への穀物と精肉の大規模かつ確
実な移動を必要とした。なぜ他の都市でなくシカゴが中西部の商業中心地として台頭したのか。
それはスループットの必要性によって説明できる。シカゴは、東部と西部からの鉄道と水路の結
節点という独特の立地により、スループットを保証するのに必要な輸送インフラを備えていた。
シカゴはこのようにして1800年代半ばに台頭し、今日でも中西部諸都市の「マーケット・リーダ
ー」の地位を保っているのである。
図1−1は1840年、1870年および1890年におけるアメリカの鉄道網を示している。図が示すよ
うに、シカゴは東西南北へ向かう鉄道路線の重要なハブになった。これは、部分的にシカゴの成
長を促進する地元の企業家たちの努力に依存するものである。シカゴがいったんハブとして台頭
し始めると、他の鉄道もシカゴを通過しやすくなり、シカゴはさらに大きな輸送の中心地になっ
た。鉄道のスループットでは、セントルイスのみが競い合うことができたが、セントルイスから
は、夏季と秋季の有望な穀物出荷ルートであり、かつ精肉業用の氷の主な供給源である五大湖へ
のアクセスが困難であった。
生産技術
生産技術とは、生産プロセスに関する科学的・技術的な知識の応用を意味する。企業はしばし
ば、企業内のイノベーションと市場における新製品の需要を喚起すること(ともに技術開発の促
進を助ける)に経営資源を注ぐ。しかし、一企業や企業グループが、一般的な生産技術の水準を
変える能力は限られており、その時点での技術水準が必然的に企業活動の広がりを制約してしま
う。この技術的な制約は1840年においては重大であった。
1840年の生産技術は、次の半世紀における進歩に比べれば未発達であり、ほとんどの工場は前
世紀につくられた方法で製品を生産していた。当時の最先端の工場でさえ、1910年には一般的と
なっていた標準品の大量生産はできなかった。織物工場は1820年以前に機械化され始め、時計と
火器の製造においては標準化は一般的であったが、交換可能な部分を使用して製造する「アメリ
カン・システム」は、まさに始まったばかりであった。1870年代まで、工場は内部契約に基づい
て運営されていた。すなわち、設備は監督者に貸され、その借り主が労働者を雇って製品を生産
した。交換可能な部品を備えた比較的標準化された製品を生産していた工場でさえ、少量生産で
あり、家畜以外の動力源をほとんど利用していなかった。もし他の動力を使用していれば、生産
(注15)
は加速し、工場組織と共同作業の新しいやり方を必要としたであろう。
政府
政府は、取引における紛争を解決し、事業が円滑に行われるよう規則を設定する。さらに政府
は、製品やサービスの支給や購買、税制やその他の規制を通じて、経済活動に直接参加する。歴
(注15)Best, M., The New Competition: Institutions of Industrial Restructuring, Cambridge, MA: Harvard University Press, 1990, chap.
1; Robinson, R. V. and C. M. Briggs, "The Rise of Factories in Nineteenth-Century Indianapolis," American Journal of Sociology,
97, November 1991: pp. 622-656.
第1章 近代企業の発展 55
史的に、ほとんどのインフラ投資は公共部門へ委ねられてきた。民間投資家は、競争相手も利益
を享受する可能性があるインフラに、自ら費用を負担し投資しようとは思わない。政府機関は民
間企業と競合しないので、運河や鉄道のような公共に役立つインフラの開発に適していた。たと
えば、1820年から1838年までに18の州が、運河に6000万ドル、鉄道に4300万ドル、有料高速道路
(注16)
に450万ドルの信用貸しを行った。これらの大規模な固定費的な社会資源の開発を除いては、
1840年の政府は、特に1930年代における政府の投資と比較すると、アメリカ経済にそれほど関わ
っていなかった。当時の限られた地域市場の状況を鑑みると、政府関与の不在は、おそらく経済
の成長を抑制していたに違いない。
要約
1840年における経済活動は近代的なインフラの不足によって、制限されていた。企業は小さく、
非公式に組織されていたが、それは近代的な企業体の存在を非現実的なものにしていた諸条件の
当然の結果であった。当時の技術は、生産が従来の水準を大きく上回って拡大するのを妨げた。
また、たとえそのような技術が利用可能であったとしても、輸送インフラが限られており、早く
正確な情報を得ることも難しかったため、1840年の企業家にとっては、大規模な生産と流通への
投資はリスクが高すぎた。今日のようなプロの経営者はおらず、企業のオーナーが自分の企業を
運営した。高速かつ大量の生産と流通が発展するには、その前に市場の需要と技術の発展が進む
必要があった。そしてこれには、経済インフラの拡張を必要とした。
しかし、事業の条件を変え、操業規模を飛躍的に増大するような力も働いていた。変化の影響
が十分に把握されたのは、輸送と通信のインフラが発展して、広範な地域にまたがる大規模な経
済活動を可能にしてからである。また、大規模なプロジェクトの増加は、経営を確実に管理して、
大型投資プロジェクトの所有者や運営する企業の事業管理コストを縮小するような手法の開発を
待たなければならなかった。
2
___
◆
1910年の世界
1910年の事業
ビジネスは1840年と1910年の間に急速に変化した。1910年の商習慣と組織は1840年のそれに比
べれば、今日の企業人にとってはるかに見慣れたものであろう。農業や繊維のようないくつかの
分野では小さな企業がまだ支配的であったが、それら小企業は、多数の購買者と供給者に接し、
通商を支援したり情報を提供したりする多くのサービス業者に囲まれていた。化学、鉄鋼、運輸
(注16)Cochran, T. C. and W. Miller, The Age of Enterprise, p. 42.
56
第 I 部 企業の境界