拡大 EU の境界線をめぐる民族・地域格差と ヨーロッパの安全保障

拡大 EU の境界線をめぐる民族・地域格差と
ヨーロッパの安全保障(アメリカの影響)
課題番号
平成 17 年度~平成 19 年度 科学研究費補助金
(基盤研究(B))研究成果報告書
平成 22 年 3 月
研究代表者 羽場 久美子
青山学院大学 国際政治経済学部 教授
17402016
平成17
平成17年度
17年度~
年度~平成19
平成19年度
19年度 科学研究費補助金
基盤研究(
基盤研究(B)研究成果報告書
「拡大 EU の境界線をめぐる
境界線をめぐる民族
をめぐる民族・
民族・地域格差と
地域格差とヨーロッパの
ヨーロッパの安全保障(
安全保障(アメリカの
アメリカの影響)
影響)」
研究代表者 羽場久美子
羽場久美子 (青山学院大学)
青山学院大学)
はしがき
本稿は
本稿は、平成17
平成17年度
17年度から
年度から平成
から平成19
平成19年度
19年度、
年度、基盤研究(
基盤研究(B)研究成果報告書(
研究成果報告書(冊子)
冊子)である。
である。
1.<研究目的とその
研究目的とその具体的内容
とその具体的内容>
具体的内容>
本研究は、拡大する EU の境界線をめぐる問題点とその解決方向を検討する為、地域的にはEU
の東と南の4領域(
(①カリーニングラード、
カリーニングラード、②西ウクライナ、
ウクライナ、③西バルカン、
バルカン、④黒海沿岸地域)
黒海沿岸地域)に
焦点を当て、EUの近隣諸国政策として、周辺国との協力・安全保障関係を中心に、検討を行った。
これを踏まえ、2005―7 年にかけ、次の3つの研究計画を掲げた。
1)拡大EU
拡大EUの
EUの境界線への
境界線への現地調査
への現地調査、
現地調査、
2)拡大EU
拡大EUと
EUとアメリカの
アメリカの安全保障観の
安全保障観の比較検討、
比較検討、
3)ワイダー・
ワイダー・ヨーロッパ(
ヨーロッパ(広域欧州圏)
広域欧州圏)としてのEU
としてのEU境界線
EU境界線をめぐる
境界線をめぐる経済文化的協力
をめぐる経済文化的協力さらに
経済文化的協力さらに、
さらに、関
係―パートナーシップ協力
パートナーシップ協力、
協力、バルセロナ・
バルセロナ・プロセス、
プロセス、黒海沿岸地域協力。
黒海沿岸地域協力。
またその情報蒐集のため、各地で調査を行った。
2.<研究の
研究の意義、
意義、重要性>
重要性>
本研究の意義・重要性は、1)何より日本に殆ど知られていなかった EU の東と南の境界線地域
の情報を世に知らしめたこと、2)加えてそれがイラク戦争、人の移動、対ロシア関係、対中東関
係など、国際政治をめぐる重要な問題や決定と密接にかかわっている点を明らかにしたことにある。
3)またこの研究の過程で、欧州とアメリカとの国際秩序および安全保障認識の違いを明らかにす
ることができた。
3.<研究成果>
研究成果>
成果については、既にイタリア
イタリア・
イタリア・パドウァ大学
パドウァ大学での
大学での共同
での共同 COE 研究、
研究、京都大学での
京都大学での COE 研究が、
研究
英文の
学会、
アメリカの
英文の著書として刊行されている。また学会
著書
学会、外務省、
外務省、参議院調査会での
参議院調査会での報告
での報告として、アメリカ
報告
アメリカの
世界国際関係学会(ISA)
ISA)やベルリンでの
ベルリンでの世界中東欧学会
での世界中東欧学会(ICCEES)
ICCEES)、トルコでの
トルコでの国際会議
での国際会議(WISC)
WISC)、
台湾や
台湾や外務省主催の
外務省主催の黒海沿岸地域協力の
黒海沿岸地域協力の国際会議で
国際会議で報告した。加えて、種々の論文や著書を上梓し
報告
た。その後研究が、基盤Aに移行し本研究は終了したが、終了後も『
『フロンティアの
フロンティアのヨーロッパ』
ヨーロッパ』
(国際書院)
国際書院)、『シティズンシップ
『シティズンシップと
シティズンシップと境界線』
境界線』(勁草書房
(勁草書房)
勁草書房)など境界線をめぐる研究成果の刊行は、
現在に至るまで継続的に世に上梓し続けている。
研究組織
研究代表者 : 羽場久美子(
羽場久美子(青山学院大学国際政治経済学部教授)
青山学院大学国際政治経済学部教授)
交付決定額(配分額)
平成 17 年度
平成 18 年度
平成 19 年度
総計
直接経費
1,100,000
1,000,000
1,100,000
3,200,000
間接経費
0
0
330,000
330,000
1
(金額単位:円)
合計
1,100,000
1,000,000
1,430,000
3,530,000
目次
はしがき
1
研究発表
5
研究成果
11
2005年
1.羽場久美子「序論 新しいヨーロッパー拡大EUの諸相」
(『新しいヨーロッパ―拡大EUの諸相』日本国際政治学会 有斐閣、2005 年
8 月、178p+16p)
2.羽場久美子「拡大 EU の今日的意義」
(特集:拡大 EU のインパクト『海外事情』拓殖大学海外事情研究所、2005 年
2 月、130 頁、pp.2-16.)
11
19
3.羽場久美子「拡大EUと中・東欧、ワイダー・ヨーロッパ」
27
(『国際関係の中の拡大EU』、森井裕一編、信山社、2005 年 2 月、326 頁, pp.225-249.)
4.羽場久美子「NATOの東方拡大と欧州の安全保障
―コソヴォ空爆からイラク戦争へ:アメリカの影」
(『21 世紀の安全保障と日本』菅英輝編、ミネルヴァ書房、2005 年 7 月。
)
41
5.羽場久美子「拡大EUとその境界線をめぐる地域協力―「地域からなるヨーロッパ」再考」53
(特集 20 世紀ヨーロッパ史の中の<境界>『歴史評論』歴史科学協議会編、
校倉書房、665 号、2005 年 9 月、2-16pp。)
6.Kumiko Haba, “NATO and EU Enlargement and the Central Europe”,
(Globalization, Regionalization and the History of International Relations,
2005 October, 512 p., pp.91-100.)
2006年
7.羽場久美子 「総論 ヨーロッパの東方拡大―グローバル化とナショナリズムの相克」
(『ヨーロッパの東方拡大』羽場・小森田・田中編、岩波書店、2006 年 6 月、
全 404 頁。
)
61
77
8.羽場久美子「拡大EUとナショナリズムー民主化とグローバル化の帰結」
(『ヨーロッパの軌跡とベクトル』慶応大学出版会、2006 年。
)
81
9.羽場久美子「『イラク戦争後』のEU・NATOの拡大と中・東欧の国際関係」
(『国際問題』2006 年 10 月、no.555.)
93
2007年
10.Kumiko Haba, “Democracy, Nationalism, and Citizenship in the Enlarged EU,
119
The Effects of Globalisation and Democratisation”,
( Intercultural Dialogue and Citizenship, ed. by Leonce Bekemans, Maria
Karasinska-Fendler, Marco Mascia, Antonio Papisca, Constantine A. Stephanou, Peter G.
Xuereb, Marsilio, Venice, 2007. pp. 601-620. )
2
11.羽場久美子「拡大 EU の教訓と東アジア共同体」
131
(特集:欧州と国際関係、
『海外事情』拓殖大学海外事情研究所、2007 年 6 月。112 頁、
pp.27-51,)
12.羽場久美子「EU・NATOの拡大とイラク戦争―中・東欧の加盟とアメリカの影響」
(『ヨーロッパの衝突と和解』山内進・大芝亮編、ミネルヴァ書房、2007 年。
)
2008年
13.羽場久美子 「拡大EUとフロンティア」『フロンティアのヨーロッパ』
(山内進編、国際書院、2008 年。)
143
155
14.Kumiko Haba,“The EU Enlargement and the Border Question, Wider Europe”,
(Melting Borders, Ed. by Ygaki and Mizobata, Kyoto University Press, 2008.)
169
15.Kumiko Haba, “The Lesson of the EU Enlargement and the East Asian Community
and Shanghai Cooperative Organization, What and How we can learn from
the European Integration”,
(50 Years Rome Treaty and EU-Asia Relations, ed. by Chong-ko Peter Tzou,
Tamkang University, 2008.)
183
2009年
16.羽場久美子 「拡大EU、東アジア共同体への示唆」
(特集:東アジア共同体と拡大EU『学術の動向』日本学術会議、2009 年 5 月号。)
189
17.羽場久美子「冷戦の終焉とトラフィッキング(人身売買)
-東から西への女性の移動と「奴隷化」-」
(特集:人の移動―東西比較、
『歴史評論』713 号、2009 年 9 月、33―44 頁。)
193
18.羽場久美子 「冷戦終焉 20 年と中・東欧―鉄のカーテン崩壊から現在まで」
(『歴史評論』716 号、2009 年 12 月。)
201
2010年
19.Kumiko Haba, “Japan-China reconciliation is key to unified Asia”
(International Herald Tribune, 16-17 January, 2010.)
211
20.羽場久美子「拡大EUにおける境界線とシティズンシップ」
(『シティズンシップと境界線』勁草書房、2010 年春(出版予定)
。)
213
21.羽場久美子「拡大EU・NATOと中・東欧の『民主化』」
(『世界政治叢書 ロシア・拡大EU』ミネルヴァ書房、2010 年(出版予定)。)
221
3
4
研究発表
(1) 雑誌論文(
雑誌論文(著者名、
著者名、論文標題、
論文標題、雑誌名 等)
2005 年
羽場久美子「拡大 EU の今日的意義」特集:拡大 EU のインパクト『海外事情』拓殖大学、
2005 年 2 月、130 頁、pp.2-16.
羽場久美子「拡大EUと中・東欧、ワイダー・ヨーロッパ」
『国際関係の中の拡大EU』
(森井裕一編)信山社、2005 年 2 月、326 頁, pp.225-249.
羽場久美子「25 カ国拡大ヨーロッパ、『世界秩序の構築』に向けて」『学術の動向』日本学術会議、
2005 年 5 月号
羽場久美子「NATOの東方拡大と欧州の安全保障―コソヴォ空爆からイラク戦争へ:アメリカの影」
『21 世紀の安全保障と日本』ミネルヴァ書房、2005 年 7 月。
羽場久美子「序論 新しいヨーロッパー拡大EUの諸相」『新しいヨーロッパ―拡大EUの諸相』
日本国際政治学会 有斐閣、2005 年 8 月、178p+16p
羽場久美子「拡大EUとその境界線をめぐる地域協力―「地域からなるヨーロッパ」再考―」
特集 20 世紀ヨーロッパ史の中の<境界>『歴史評論』歴史科学協議会編、校倉書房、665
号、2005 年 9 月、2-16pp。
Kumiko Haba, “NATO and EU Enlargement and the Central Europe”, Globalization,
Regionalization and the History of International Relations, 2005 October, 512 p.,
pp.91-100.
2006 年
羽場久美子 「総論 ヨーロッパの東方拡大―グローバル化とナショナリズムの相克」
『ヨーロッパの東方拡大』羽場・小森田・田中編、岩波書店、2006 年 6 月、全 404 頁。
羽場久美子「拡大EUとナショナリズムー民主化とグローバル化の帰結」
『ヨーロッパの軌跡と
ベクトル』慶応大学出版会、2006 年。
羽場久美子「『イラク戦争後』のEU・NATOの拡大と中・東欧の国際関係」『国際問題』2006 年 10
月、no.555. 2007 年
Kumiko Haba, “Democracy, Nationalism, and Citizenship in the Enlarged EU, The Effects of
Globalisation and Democratisation”, Intercultural Dialogue and Citizenship, ed. by
Leonce Bekemans, Maria Karasinska-Fendler, Marco Mascia, Antonio Papisca,
Constantine A. Stephanou, Peter G. Xuereb, Marsilio, Venice, 2007. pp. 601-620.
羽場久美子「拡大 EU の教訓と東アジア共同体」特集:欧州と国際関係、
『海外事情』拓殖大学
海外事情研究所、2007 年 6 月。112 頁、pp.27-51,
羽場久美子「EU・NATOの拡大とイラク戦争―中・東欧の加盟とアメリカの影響」
『ヨーロッパの衝突と和解』山内進・大芝亮編、ミネルヴァ書房、2007 年。
2008 年
羽場久美子「コソボ独立 国際社会の不安定化懸念」『読売新聞』2008 年 3 月 28 日。
羽場久美子 「拡大EUとフロンティア」『フロンティアのヨーロッパ』山内進編、国際書院、
2008 年。
Kumiko Haba,“The EU Enlargement and the Border Question, Wider Europe”, Melting Borders, Ed.
by Ygaki and Mizobata, Kyoto University Press, 2008.
Kumiko Haba, “The Lesson of the EU Enlargement and the East Asian Community and
Shanghai Cooperative Organization, What and How we can learn from the
European Integration”, 50 Years Rome Treaty and EU-Asia Relations, ed. by
Chong-ko Peter Tzou, Tamkang University, 2008.
2009 年
羽場久美子 「拡大EU、府がしアジア共同体への示唆」、特集:東アジア共同体と拡大EU、
『学術の動向』
、日本学術会議、2009 年 5 月号。
羽場久美子「冷戦の終焉とトラフィッキング(人身売買)-東から西への女性の移動と「奴隷化」」
特集:人の移動―東西比較、『歴史評論』713 号、2009 年 9 月、33―44 頁。
5
羽場久美子「東アジア共同体:日中和解を基礎に繁栄探れ」
『朝日新聞』2009 年 11 月 22 日。
羽場久美子「冷戦終焉 20 年と中・東欧―鉄のカーテン崩壊から現在まで」
『歴史評論』716 号、
2009 年 12 月。
2010 年
Kumiko Haba, “Japan-China reconciliation is key to unified Asia”, International Herald
Tribune, 16-17 January, 2010.
羽場久美子「拡大EUにおける境界線とシティズンシップ」『シティズンシップと境界線』勁草書房、
2010 年春(出版予定)
。
羽場久美子「拡大EU・NATOと中・東欧の『民主化』」
『世界政治叢書 ロシア・拡大EU』
ミネルヴァ書房、2010 年(出版予定)。
(2) 学会発表(
学会発表(発表者名、
発表者名、発表標題、
発表標題、学会等名 等)
2005 年
羽場久美子「拡大するEUの現状と課題―世界秩序の構築と、内なる相克」参議院
『国際問題に関する調査会』会議録、第 5 号、2005 年 2 月 28 日、参議院別館。
羽場久美子「台頭する勢力:EU、ロシア」21 世紀かながわ円卓会議『21 世紀を構築する』
第 1 回『超大国の行方と日本の対応』湘南国際村センター、神奈川県葉山町、2005 年
3 月 11-12 日。
羽場久美子「25 カ国拡大EU 解説」アイルランド・ダブリン、EU25 カ国 EU 拡大当日の
衛星放送、NHK 衛星、2005 年、5月1日。
羽場久美子「拡大EUとワイダー・ヨーロッパ―多元的世界秩序の構築と、内なる相克の克服」
東京大学、ドイツ研究センター講演、2005 年 5 月 13 日。
羽場久美子「拡大EUと、新しい「世界秩序」の構築」
『地球宇宙平和研究所研究会』
2005 年 5 月 15 日。
羽場久美子「拡大EUと、中欧のアイデンティティ」東京都歴史教育研究会講演会 2005 年 6 月 4 日。
羽場久美子「フランス・オランダでの欧州憲法否決はどのような意味をもつか。
」
『EU憲法条約の影響と今後』NHK ラジオ、2005 年 6 月 8 日。
羽場久美子「中・東欧の民主化・市場化と経路依存性:拡大EUからイラク戦争に見る
中・東欧の『民主化』」比較政治学会年次大会、名古屋大学、2005 年 6 月 26 日。
Kumiko Haba, “The EU Enlargement and Border Questions, Kaliningrad”,
Wider Europe: Economy, Border, Minority, Security, ICCEES International Conference
in Berlin, July, 2005. (ICCEES 国際会議、ベルリン)
羽場久美子「EUの東方拡大―アメリカに並ぶ経済圏と、内なる相克―」三井業際研究所、
2005 年 7 月 1 日。
Kumiko Haba, “NATO Enlargement and the Iraq War---The Role of Central European Countries
under the Shadow of the US”, International Conference of the Conflict and
Reconciliation of Europe, COE Project of Hitotsubashi University, 23 September, 2005.
(一橋大学 COE 国際会議、東京)
Kumiko Haba, “The EU Enlargement and Border Questions, Kaliningrad”, Russia and
European Union After Enlargement, New Prospects and New Problems,
St. Petersburg University, Institute of International Relations, 7 October,
2005. (セント・ペテルブルグ大学国際会議、ロシア)
羽場久美子「拡大EU―内なる相克と「境界線」をめぐる国際関係」
『日本地理学会、中欧研究
グループ』
、2005 年 10 月 23 日。
羽場久美子「『EUの拡大』「何故今、ヨーロッパ拡大なのか」、
「ヨーロッパのナショナリズム」
一橋大学公共政策大学院、講義。2005 年 9 月
Kumiko Haba, “Wider Europe and the Kaliningrad Question as the Border of the EU” Wider Europe,
International Conference at Kyoto University, COE Programme of Kyoto University,
24-26 November, 2005.(京都大学 COE 国際会議、京都)
Kumiko Haba, “The Lesson of the European Union to the Asian Regional Cooperation”, Panel
6
Discussion among Russia, Turkey, Central Europe, Korea, and China, Chair Kumiko
Haba, EUSA-Asia Pacific International Conference, Keio University, Tokyo, 10
December, 2005.(世界 EU 学会国際会議、東京)
2006 年
Kumiko Haba, “Social Security and Nationalism Uprising of Central and Eastern Europe under the
EU Enlargement and the Regional Cooperation”, ISA Conference at San Diego, March 23,
2006. (世界国際関係学会 ISA 国際会議、サンディエゴ、USA)
Kumiko Haba, “Human Security and the EU Borders : minority, immigrants and conflicts”,
Jean Monnet Project, Padua International Conference of Human Security and EU’s Role,
24 March, 2006. (ジャン・モネ・プロジェクト、パドゥア大学国際会議、イタリア)
Kumiko Haba, "Lessons of the EU for Asian Regional Cooperation”, Joint Symposium New Visions
for EU-Japan
Governmental Research Conference 、 European Commission,
Charlemagne Building, Brussels, 6 April, 2006. (日 EU 政府間研究会議、ベルギー)
2007 年
羽場久美子. 「グローバリゼーションと、拡大ヨーロッパーアメリカに並ぶ経済圏か、メガ・リージョ
ンの対立かー」東京外国語大学オープンアカデミー、地球の将来を考える EUの現状と未来、
2007 年 1 月 11 日。
Kumiko Haba, “The Enlarged EU and before and After the Iraq War”, ISA Conference, Chicago,
1st March 2007. (世界国際関係学会 ISA 年次国際会議、USA)
Kumiko Haba,”Democracy, Nationalism and Citizenship in the Enlarged EU—The Effect of
Globalization and Democratization--- “, ECSA COE Conference in Padua, Intercultural
Dialogue and Citizenship, Translating Values into Actions A Common Project for
Europeans and their Partners, Padua, 3rd March 200k7.
「拡大EUとネオ・ナショナリズムーグローバル化、民主化と、アイデンティティの相克―」
国際関係思想・研究ネットワーク研究会、2007 年 3 月 30 日。
「拡大EUと東アジア共同体(コメント)」「東アジア共同体との比較研究」報告高原明生
(東京大学)、馬小軍(中国中央党学校国際戦略研究所)
、司会鈴木佑司(法政大学)
ヨーロッパ研究所成果報告会、国際ワークショップ<<ヨーロッパとアジアー地域統合と
共存に向けてー>>、法政大学ヨーロッパ研究所、2007 年 3 月 18 日。
「拡大EUと東アジア共同体―欧州から何が学べるかー」東海大学平和戦略研究所国際
シンポジウム 2007 年 3 月 12 日。
Kumiko Haba, ““Comparative Studies between the Enlarged European Union and the East Asian
Regional Cooperation”, AAS Conference in Boston, Harvard University, 25 March
羽場久美子「拡大EUのフロンティアと冷戦秩序の再編」一橋大学 EUIJ, EU Politics ワークショプ
「EUのフロンティアー内と外」2007 年 6 月 2 日。
羽場久美子「拡大欧州の地域戦略 III,―-NATOの拡大と中・東欧---欧州の安全保障をめぐる、
拡大NATOの意義と限界、課題」慶応大学大学院政策・メディア研究科講演、グローバル・
ガバナンスとリージョナル・ストラテジー、2007 年 6 月 5 日。
Kumiko Haba, “Democracy and Neo-Nationalism under the EU Enlargement
-------The Effect of the Globalization and Democratization----“,
ICCEES International Conference, Berlin, 1-6 August, 2007.
(ICCEES, 世界国際学会、ベルリン、ドイツ)
Kumiko Haba, “The Enlargement of the EU and the East Asian Regional Cooperation”, Russia,
Vladivostok, 7-12 September, 2007.(日露国際会議、EU と地域統合)
羽場久美子「拡大EUのナショナリズムとポピュリズム」「セッション:ポピュリズム」
日本政治学会大会報告、明治学院大学、2007 年 10 月 6 日。
Kumiko Haba, “The Lesson of the EU Enlargement and the East Asian Community + Shanghai
Cooperative Organization ---What and how we can learn from the European Integration.
---“, International Conference on the 50th Anniversary of the Treaty of Rome and EU –Asia
Relations, Organizer: Graduate Institute of European Studies, Tamkang University,
Ministry of Foreign Affairs, Taiwan, R.O.C., 20 November 2007.
(ローマ条約 50 周年記念、国際会議、淡港大学、台湾)
Kumiko Haba, “The Arc of Freedom and Prosperity and Prospects of Japan-Wider Black Sea Area
7
Cooperation”, Black Sea Regional Cooperation and Cooperation with Japan, Foreign
Ministry of Japan, Institute of Japanese International Affairs, 21 November 2007.
Kumiko Haba, “Comparative Studies between the Enlarged EU and the East Asian Regional
Cooperation, Aoyama Gakuin University, International Symposium, 14 December, 2007.
2008 年
羽場久美子「拡大EUとネオ・ナショナリズムーグローバル化、民主化と、アイデンティティの相克」
神戸大学 21 世紀 COE プログラム「市場化社会の法動態学」「地域紛争研究会」2008 年 2 月
3 日。
羽場久美子「拡大EU下の、ナショナリズムとゼノフォビア ー国境修正から 移民排斥へー」
世界政治研究会、東京大学山上会館、2008 年 2 月 23 日。
Kumiko Haba, “Nationalism and Xenophobia under the Enlarged EU--- Reformation of the national
border and boycott of immigrants, WISC World Conference, Ljubljana, Slovenia, 23 July,
2008. (世界国際中・東欧学会、リュブリャナ、スロヴェニア)
Kumiko Haba, “East Asian Regional Cooperation and Shanghai Cooperative Organization under
the lesson of the Enlarged EU, Bangkok, Thailand, 26 July, 2008.
(国際アジア共同体学会、バンコク、タイ)
羽場久美子 「拡大EUと東アジア共同体 地域統合の比較研究」シンポジウムプログラム、
拡大 EU と日本、日本政治学会・日本学術会議共催、2008 年 10 月 11 日。
(3) 図書(
図書(著者名、
著者名、出版社名、
出版社名、書名 等)
2005
森井裕一編『国際関係の中の拡大EU』信山社、2005 年 2 月。
羽場久美子「拡大EUと中・東欧、ワイダー・ヨーロッパ」
菅英輝・石田正治編著『21 世紀の安全保障と日本』ミネルヴァ書房、2005 年 7 月。
羽場久美子「NATOの東方拡大と欧州の安全保障―コソヴォ空爆からイラク戦争へ:
アメリカの影」
羽場久美子編『新しいヨーロッパ 拡大EUの諸相』、日本国際政治学会、2005 年 8 月。
羽場久美子「序論 新しいヨーロッパ 拡大 EU の諸相」
Eds. By Joan Beaumont, Alfredo Canavero, Globalization, Regionalization and the History of
International Relations, Commission of History of International Relations, Edizioni
Unicopli, Deakin University, Milano, Victoria, Austria, 2005.
Kumiko Haba, “The Central and Eastern Europe Nationality problem and Regional
Cooperation under the EU and NATO Enlargement”, pp. 91-102.
2006
羽場久美子・小森田秋夫・田中素香編、
『ヨーロッパの東方拡大』岩波書店、361+10p。2006 年 2 刷。 羽
場久美子 「総論 ヨーロッパの拡大―グローバリズムとナショナリズムの相克」1-28p。
山内進・大芝亮編、
『衝突と和解のヨーロッパーユーロ・グローバリズムの挑戦』ミネルヴァ書房、2006
年。
羽場久美子「EU・NATOの拡大とイラク戦争―中・東欧の加盟とアメリカの影響」pp/
135-166.
田中俊郎・庄司克宏編、
『ヨーロッパの軌跡とベクトル』慶応大学出版会、2006 年。
羽場久美子「拡大EUとナショナリズムー民主化とグローバル化の帰結」pp. 83-110.
2007
Ed. by Leonce Bekemans, Maria Karasinska-Fendler, Marco Mascia, Antonio Papisca, Constantine A.
Stephanou, Peter G. Xuereb, Marsilio, Intercultural Dialogue and Citizenship, Translating
Values into Actions, A Common Project for Europeans and Their Partners, Venice, 2007.
Kumiko Haba, “Democracy, Nationalism and Citizenship in the Enlarged EU, The Effects of
Globalisation and Democratisation", pp. 601-620.
2008
山内進編、
『ヨーロッパのフロンティア』
、國際書院、2008年。
羽場久美子「拡大EUのフロンティアーポスト冷戦秩序の再構築・規範と現実」pp. 75-110
Ed. by Chong-ko Peter Tzou, 50 Years Rome Treaty and EU-Asia Relations, Tamkang University,
8
Taiwan, July 2008. 394p.
Kumiko Haba, “The Lesson of the EU Enlargement and the East Asian Community and
Shanghai Cooperative Organization---What and How we can learn from the European
Integration?” pp.269-274.
Ed. by Kiichiro Yagi and Satoshi Mizobata, Melting Boundaries, Institutional Transformation in the
Wider Europe, Kyoto University Press, 2008. 376p.
Kumiko Haba, “EU Enoargement, Border Question and Wider Europe”, pp.331-352.
2010
『シティズンシップと境界線』
、勁草書房、2010年春刊行予定(近刊)。
羽場久美子「拡大EUにおける境界線とシティズンシップ」
羽場久美子・溝端佐登史編、『ロシアと拡大 EU』政治学叢書、ミネルヴァ書房、2010 年。
羽場久美子「拡大 EU と中・東欧の『民主化』」
9
10
研究成果
1. 序論:
序論:新しいヨーロッパ
しいヨーロッパ、
ヨーロッパ、拡大EU
拡大EUの
EUの諸相
羽場久美子
一.問題設定
問題設定:
しい欧州と
拡大EU
設定:新しい欧州
欧州と拡大EU
・一つのヨーロッパ One、and Regional Europe
二〇〇四年五月一日、EUが一五カ国から二五カ国に拡大した。
欧州委員会前委員長のプローディは、拡大前夜の二〇〇四年四月三〇日のスピーチで、「新しいヨー
ロッパ」について触れている。そこではヨーロッパがついに一つになるとして「アイルランド西海岸か
らポーランド東側の国境まで、マルタの首都バレッタからフィンランドの最北端まで」を覆う「境界に
よって分割されない」ヨーロッパが謳歌された 1)。 これは冷戦終焉後、半世紀の「分断」から解き放
たれた「ひとつのヨーロッパ」の論理的帰結であった。
「新しい」ヨーロッパの含意は、ローマ帝国以来の広大な領土が戦争によらず統合されたこと、「国
民国家という人工的境界を超えて」「地域からなる」「市民からなる」「多様なヨーロッパ」として語ら
れる。これは近代ヨーロッパ理念の全面的な書き換えであろう。先のプローディの演説でも、東と南の
拡大により一〇カ国の新しい欧州委員が増え、「独特の歴史的背景を持つ一〇カ国の文化や多様性」を
基礎に「多様性の統一」を目指すこと、「拡大は国境を開放するだけでなく心も開放する」と述べてい
る 2)。旧来の「欧州」にとっても新しい試みなのである。
こうした「新しさ」の背景には、1.
「イデオロギーの終焉」、2.冷戦の終焉と東欧・ソ連社会主義体
制の崩壊、3.民主主義という一つの価値への収斂、4.グローバリゼーション(地球化)が作用している。
・地域からなる
地域からなるヨーロッパ
からなるヨーロッパ Multiple and Regional Europe
歴史的にヨーロッパ統合、地域統合研究については、西と東でそれぞれ連邦制や国家連合の機能的枠
組みの研究が、一九世紀後半、戦間期、第二次世界大戦後を貫いて存在した。3)
しかし第二次世界大戦後、冷戦の開始の中で、東西欧州の統合の試みは別々に分断されたものとなった。
冷戦期の統合過程は分断の中の統合であった 4)。こうした東西別々の研究は、一九七〇年代から八〇年
代にかけ、欧州統合の進展の影響を受けて、東側でも各地での連邦制、国家連合研究の発展につながっ
ていく。
それが解き放たれて「東西ひとつのヨーロッパ」を意識しつつ研究が飛躍的に発展したのは、冷戦の終
焉以降である。
(三)ヨーロッパ・
ヨーロッパ・アイデンティティの
アイデンティティの模索
冷戦の終焉とヨーロッパの分断の終焉は、「ヨーロッパ性」を再認識する動きにつながる。一九九
〇年代、「ヨーロッパとは何か」を問う動きが、欧州全土に広がった。その含意は、ヨーロッパの東の
地域が入ってくることによりヨーロッパがどう変容するのかということであった。そうした中、フラン
ス・社会科学高等研究院のクシシトフ・ポミアン、イギリス・ロンドン大学(SSEES:スラブ東欧研究所)
のノーマン・デイヴィス、さらにソルボンヌ大学国際関係研究所のロベール・フランクらのそれぞれの
著作は、「ヨーロッパ」認識の再検討を促した 5)。
三人がいずれもポーランド系出自あるいはスコットランド系の中・東欧研究者であったことは示唆的
である。東西の多様な地域の統合からなるヨーロッパに対する「ヨーロッパとは何であるか」の問いは、
当初新しく参入する側、あるいはそれに共感を持つマイノリティの視点から提起されたのである。
日本でも、ヨーロッパ統合を東西双方の統合として検討しなおす研究が進められた。西と東の地域の
統合については、宮島・羽場『ヨーロッパ統合のゆくえ』、谷川稔編『歴史としてのヨーロッパ・アイ
デンティティ』が、前者は地理的広がりをもった地域・民族から見た統合について、後者はローマ帝国
以降、拡大EUに至る欧州各地におけるそれぞれの欧州アイデンティティ考察に迫っている。またヨー
ロッパの「東」の持つ意味について近世の共和政認識の問題として、小倉欣一編『近世ヨーロッパの東
と西』が、共和政の理念と現実を比較しながら、共和政の「公共善」の理念、自立的な地域の現実東か
ら提起されたことに光を当てた 6)。
ジャン・モネは統合が「国家間の連合体ではなく市民の統合体」となることを期待した。これは「市
民社会」の合意の政治(同p。一四)、あるいはEUの基本的理念の一つである「補完性原則(subsidiarity):
下位機関への権限委譲」を実行するものであった。7) 西でも東でも、ユーロリージョン、地方自治な
どとして、旧来の社会主義体制下ではなしえなかった、中・東欧の地方自治体分析の試みが、中・東欧の
草の根民主主義の確立の問題として注目されたのであった 8)。
(四)<「
)<「もうひとつのヨーロッパ
もうひとつのヨーロッパ The Other Europe」
Europe」>
11
歴史的には「新しいヨーロッパ」とは、二〇世紀初頭、第一次世界大戦の結果、大国の支配から独立
した新興ヨーロッパについて使われた概念でもある。第一次世界大戦後、ドイツ、ハプスブルグ、ロシ
ア、三つの帝国が崩れて、その下にあった中欧の諸小国が独立した。彼らは、ハンス・コーンに寄れば、
「歴史なき民」として「国民国家の形成が困難」な民族であった 9)。しかし第一次世界大戦後、これら
の国が独立して国民国家を形成したことにより、これまでの歴史地図とは異なる、「新しい、多様なヨ
ーロッパ」が誕生した。新しい国境、新しい「国民国家」が形成され、民主主義体制が遂行され、希望
に満ちた新体制が滑り出したのである。
イギリス・ロンドン大学 Kings College 教授(のち SSEES:スラブ東欧研究所)のシートン・ワトソ
ン(Seton-Watson, Robert)は、第一次世界大戦中の一九一六年から二〇年にかけ『新しいヨーロッパ』
という週刊誌を刊行しその変容をつぶさに記録した。ここでは逆に三帝国の解体による継承国の「国民
国家形成」と民族独立運動を「新しいヨーロッパ」と呼んだのである。10)
しかしこの「新しいヨーロッパ」は、境界線をめぐる民族対立、不安定な政治・経済体制、東からの
ソヴェト・ロシアの脅威、政治の腐敗と混迷、金融恐慌を経て、ほどなくナチス・ドイツが、中欧の振
興諸国家を蹂躙していく 11)。
もうひとつの「新しいヨーロッパ」は、2003年のイラク戦争で、アメリカの国防長官ラムズフェ
ルドが、アメリカのイラク政策を批判する独仏を「古いヨーロッパ」、アメリカを支持してイラクに派
兵する有志連合国家、とりわけ中・東欧を「新しいヨーロッパ」と呼んだことである。以後「新しいヨ
ーロッパ」は、地政学的安全保障観を持ち、アメリカの安全保障に依拠する欧州グループを指す言葉と
なった。
拡大EUの課題
では、1989年、冷戦の終焉以降16年の拡大EUの課題は何であろうか。
一.冷戦の
冷戦の終焉と
終焉と拡大EU
拡大EUの
EUの諸問題
一九八九年の米ソの「冷戦の終焉」と、同年の東欧各国でのヤルタを越えた文化的レベルでの「中欧
Central Europe」の要求九)、社会主義体制放棄の動きの後、「鉄のカーテン」の切断、ベルリンの壁の
崩壊、に象徴されるように「一つのドイツ」「一つのヨーロッパ」が謳われ、東西欧州の分断がとけて
いった。
拡大EUの第五次東方拡大。中・東欧一〇カ国の加盟交渉。「ローマ帝国に並ぶ、史上最大の拡大。
どこまでがヨーロッパか、ヨーロッパ周辺国とどのように共存していくのか。
拡大EUは史上最大の課題を抱えている。リスボン戦略にいうように、経済的統合。アメリカに並び、
中国の急成長に対抗しつつ、「二〇一〇年までに世界で最も競争力ある経済圏」一〇)となれるか?
その際、GDP は、五%増、現実には、西の国と大きく離れているという中・東欧の経済をどうするか。
中・東欧のみならず西を含むグローバリゼーションの下でのトップとボトム、地域格差の二極分解をど
うするか。
政治統合。二五カ国、二〇〇七年からの二七カ国をどう「多様性の中で統合」していくか。欧州憲法
条約の課題。また、国家を超えた政治統合は必要であるのか。
文化統合。ヨーロッパ・アイデンティティ。ヨーロッパ共同体としての自覚をどう作るか。多様性
を認めながら政治的・文化的に「統合」していくことはどのように可能なのか。
本特集では、「新しいヨーロッパ 拡大EUの諸相」として、これらを取り込んだ新しい枠組みを、
ディシプリンと地域の双方から示そうとする試みである。
元より「拡大EU」は「新しいヨーロッパ」とイコールではない。「新しいヨーロッパ」が、より大
きく、多様に用いられる概念であるのに対して、拡大EUは、冷戦終焉とマーストリヒト以降のより機
構的・実態的な枠組みであるとともに、地域的な現状を表している。ただし「拡大EU」自体が、旧来
の EC を大きく脱皮し、旧来の慣習では理解できない多くの慣習的文化的社会的違いをもっており、そ
れ抜きには考えられない状況にきている。
以下、それぞれの論文が、どのように「新しいヨーロッパ」「拡大EUの現状を分析しているのかにつ
いて、概観しておこう。
1. 拡大EU
拡大EUをめぐる
EUをめぐる諸問題
をめぐる諸問題
「二段階、
二段階、二元的ヨーロッパ
二元的ヨーロッパ」
ヨーロッパ」の再興
1) コソヴォ空爆
コソヴォ空爆から
空爆からイラク
からイラク戦争
イラク戦争へ
戦争へ(安全保障)
安全保障)
2) 移民、
移民、農業問題に
農業問題に見る東西対立(
東西対立(財政・
財政・利害調整)
利害調整)
3) 欧州憲法条約:
欧州憲法条約:強いヨーロッパか
ヨーロッパか、多様な
多様なヨーロッパか
ヨーロッパか
12
拡大一周年を迎え、欧州条約を牽引してきたフランスおよびオランダの刻印投票での否決により、
「二
段階と二元的欧州」が表面化している。
なぜ、二段階、二元的なヨーロッパなのか。何が問題なのか。
これについて、一)イラク戦争、二)移民・農業問題、三)欧州憲法条約をめぐる問題を中心に、二段階、
二元的ヨーロッパが現れる原因について検討する。
(一)イラク戦争
イラク戦争をめぐる
戦争をめぐる、
をめぐる、ヨーロッパの
ヨーロッパの二分化
二〇〇三年のイラク戦争をめぐり、CFSP の統合の困難性を露呈。仏独がアメリカの単独行動主義を
批判し、それに変わる多元的世界秩序(New World Orders)
)を提言。しかし、現実には、欧州の大多
数は、仏独に従わなかった矛盾。なぜ「二元的ヨーロッパ」が出現したのか。
仏独主導の二七カ国欧州は実現するのか、(力のこもった論文があったが内部審査の結果掲載はならな
かった)。
二〇〇三年イラク戦争をめぐってアメリカと独仏の路線の違いが強まったとき、二月に米ラムズフェ
ルド国防次官が、アメリカのイラク戦争派兵の要求に応じた新加盟国の中・東欧に対して、アメリカに
反対する独仏の「古い」ヨーロッパをあてこすって、「新しいヨーロッパ」と呼び、これが欧州を席巻
した。このアメリカによる「新しいヨーロッパ」の呼び名は、新加盟候補国との利害調整に苦しむ元加
盟国との欧州の分断をあえて白日にさらす用語でもあった。「新しいヨーロッパ」がアメリカを支持す
ると、その軋轢はますます強まった。
ゆえにここでは、第一次世界大戦後、セトン・ワトソンが期待を込めて用い、冷戦後にドイツや中欧
の人々が期待を込めて使った「一つの、新しい、統合されたヨーロッパ」、二〇〇三年の分断の象徴と
して使われたラムズフェルドの「新しいヨーロッパ」、二〇〇四年にアイルランドのダブリンで統合さ
れた、二五ヵ国拡大EUなど、それぞれの諸相を表す用語として使用する。
そうした中で、それぞれの領域におけるさまざまなレベルの「新しいヨーロッパ」を、それぞれの時
期と領域に限定しつつ、分析することとしたい。
(二)移民、
移民、農業問題:
農業問題:何が対立点なのか
対立点なのか。
なのか。
(三)欧州憲法条約
五.
(ここはもう少し具体的に)
中欧、バルカン。
この二領域は、冷戦終焉後の「新しいヨーロッパ」拡大EUの根幹。
『ヨーロッパの東方拡大』羽場久シ尾子・田中素香・小森田秋夫、(岩波書店、二〇〇六)で、展開予定。
拡大EU:一つは、旧来のヨーロッパ認識では説明できない。領域も、枠組みも、理論も。
今ひとつは、取り込まれる領域からの見方(向こう岸からの世界史)
拡大EU、新しいヨーロッパ
一九八九-二〇〇四年。中欧、中・東欧
二〇〇四-二〇一〇年。バルカン、ロシア、トルコ。
1. 冷戦、ソ連型・東欧型社会主義をどう捉えるか。
冷戦終焉後の改革派社民、とてもヨーロッパ的。
歴史的に、反ソ(反権威主義)、時に強い親米(リベラル、民主主義)、ヨーロッパ・アイデンティティ
(キリスト教、Regional, International, democracy)
バルカン、ロシア
「赤茶連合」ナショナル、オリジナル。保守、伝統的。
前者は、社会党的、後者は、ソ連共産党的。
今後一〇年間は、この第二段階まで取り込む。
アメリカとの関係:イラク戦争に象徴されるように、新米。
ポーランド。大国パワー
ハンガリー、チェコ、スロヴァキア、スロヴェニア:Visegrad 中央連合。
多様、共存、自己主張、仏独大国主義への懐疑。
13
2. 新しいヨーロッパ
しいヨーロッパ、
拡大EUをめぐる
ヨーロッパ、拡大EU
EUをめぐる各論文
をめぐる各論文
本特集では、以上を体現するものとして、冷戦終焉以降一六年にわたるEU拡大の発展と変容の動き
を、欧州憲法条約、環境 NGO、安全保障、各地の地域・境界・マイノリティ研究と国際関係、さらに
国際政治の理論と現実などから追い、拡大EUの諸相を明らかにする。EC,EU 研究については、戦後
六〇年にわたるおびただしい研究があるが、ここでは特に冷戦終焉後の拡大EU、とりわけ中・東欧の
加盟によって変容しつつあるヨーロッパ・システム、国際政治システムへのインパクトと価値と現実の
地域政治の諸問題に焦点を宛て検討する。
(一)憲法条約、
憲法条約、環境 NGO、
NGO、安全保障
冷戦後に準備された拡大EUの基本的状況は、冷戦崩壊直後から始まった。
最初に拡大EUの機能的枠組みを再編するものとして、庄司克宏論文が、EUにおける立憲的多元主
義と欧州憲法条約の「多様性の中の統合」の問題を扱う。憲法条約は国民国家という単一の国民に基づ
かない複数のデモス、共通の価値への関与を共有するEU市民を基盤とする統治制度(demoi-cracy)
である。加盟国国民と憲法条約との関係は、上位下達でなく、下部から上位への関係にある。また欧州
司法裁判所と国内裁判所の関係は、EU法の絶対的優越性と、EU法の優越に対する国内法からの拒否
権(事実上は行使されない)という暗黙の合意が存在する。憲法条約は参加民主主義、国票と人口票を
組み合わせた二重多数決制の導入などにより、「多様性」と「統合」の非対称性を解決するため強力な
指導力、部分的解決としての先行統合(二段階統合)を導入する必要が説かれている。この非対称性に
ついては、庄司氏は社会保障、移民・国境管理問題、安全保障問題を指摘し、政策統合が実現できない
まま並立している状況を指摘している。この多様性と結合の非対称性という問題自体が、欧州憲法条約
を市民レベルで否決し、かつ二五カ国全体としても延期せざるを得ない状況を生み出したといえる。拡
大EUの多様性をいかに維持しながら強力な統合を実現していくかというEUの苦悩と市民の懐疑の
双方に示唆的な問題提起を与えている。
井関正久論文は、欧州における環境 NGO「地球の友」とドイツ自然保護環境連盟(BUND)の国際
連携を扱うことにより、環境問題に関する欧州からのグローバル市民社会形成の動きを扱っている。氏
はそもそも「東欧革命」と市民社会形成においても NGO が果たした大きな役割を評価しつつ、反原発、
市民による加盟準備金の監視活動(汚職の摘発)
、CAP 補助金の利用の監視、などEU東方拡大と結び
ついた中・東欧の市民社会化にも目を向けている。さまざまな問題をはらみつつ欧州レベルでの「公共
圏」形成にも後見しようとする活動は、現在ナショナリズムが強まり市民社会との温度差が言われるだ
けに、欧州のみにとどまらない水平的ガバナンス協力の動きとして注目しうるものである。
今ひとつ注目すべき枠組みは、欧州の安全保障を扱う広瀬佳一論文である。EUは、マーストリヒト
条約により、共通外交・安全保障政策(CFSP)を掲げて独自の安保政策を提示したが、その後コソヴ
ォ空爆からイラク戦争にいたるアメリカとの安全保障政策と世界戦略認識のずれの中で、安全保障面で
大きな対立軸が形成されたことは周知のとおりである。これに対し、広瀬論文は、九九年にケルン欧州
理事会で打ち出された欧州安全保障暴政政策(ESDP)に焦点を当て、ヘルシンキ・ヘッドライン・ゴ
ールにより欧州の安全保障の目標が策定され、軍事能力がいかに制度化され、整備されていったかの具
体的メカニズムを分析している。その上で、EUの軍事能力は、NATOとの相互補完関係の上に成り
立っており、これに対する軍事的競合の可能性は難しいと結論付けている。
(二) 拡大EU
拡大EUと
EUと地域・
地域・境界・
境界・マイノリティの
マイノリティの国際関係
五月女論文から六鹿論文までは、拡大EUが直面する最も重要な課題を、地域の問題と絡めて検証し
ている。五月女律子論文は、スウェーデンを事例に、EU懐疑主義の傾向を分析している。スウェーデ
ンは、加盟前後からEUへの支持率が高まり加盟時には六%弱の差で賛成派が上回ったものの、加盟後
において加盟反対が六〇%を超え、「EU脱退国民キャンペーン」などが活動を続けている。ユーロに
も否定的で導入はされなかった。反対理由は、民主主義、国家の独立、社会福祉、独自の金融政策など
である。EU懐疑主義の傾向は、スウェーデンにとどまらず、イギリス・オーストリアなど北欧諸国、
また中・東欧の世論にも見られる傾向で、原因の相互比較を行いながら今後検討していく余地がある重
要な問題である。
八谷まち子論文は、「トルコのEU加盟は実現するか」という二〇〇五年現在もっともホットなテー
マを扱っている。二〇〇五年一〇月から加盟交渉が開始される予定のトルコであるが、すでに八七年の
加盟申請から一七年がたっている。政教分離とはいえイスラム教が多数を占め、欧州と中東の狭間に位
14
置するトルコが加盟するかどうかは、今後ウクライナ、イスラエル、アルメニアなどにとってもひとつ
の大きなメルクマールとなる。筆者は、双方の期待と利益が収斂していく「フォーカルポイント」とい
う視点から分析をおこない、それが。コペンハーゲンクライテリアと ESDP であるとしている。実際に
は、この双方は十分に相互の期待を満たすものではなかったが、基本的にはとるこの規模はEUの存在
感を強化するとしている。EUにとって経済面と地政学的安全保障面はまさにトルコを加盟させる最大
のメリットであり、EUがアメリカとは異なる世界的パワーを実現する上でも、長期的には、トルコ、
ウクライナなど周辺の発展が予想されるエネルギッシュな大国を入れていくことは避けて通れない道
であろう。
六鹿茂夫論文は、EUの近隣諸国政策と黒海沿岸の西部新独立国家を扱う。より具体的には、EUと
ロシアの狭間にあるウクライナとモルドヴァに焦点を当て、EU・ロシア・新興独立国の関係を主にイ
ンタヴューを通じて構成した最新のロシア近隣諸国情勢分析である。ウクライナ、モルドヴァが今後E
Uにどのように接近しつつロシアとの安定的関係を作っていくかは、将来の中央アジアや b ゲラルーシ
のソフトランディングのあり方にも示唆を与えるものであろう。
小森宏美論文は、EUの中でイスラム系に次ぐマイノリティであるロシア系住民の動向を、エストニ
アのナルヴァという九五%以上がロシア系住民であるケースに見ている。そこでは地域においては、マ
イノリティでも移民でも不法移民でもないロシア系住民の民族問題のEU型解決法とその限界が描か
れている。分析の中での特徴としてロシア国籍者の増加、エストニア語教育を選択するロシア系住民の
増加、地域歴史教育への関心など、EUの多文化主義モデルとは異なる民族問題のあり方を示している。
(三)拡大EU
拡大EUの
EUの理論化:
理論化:国際政治上の
国際政治上の位置
鶴岡論文は、欧州安全保障戦略と米欧関係を中心に国際政治にパワーとして登場してきたEUの役割
を扱う。二〇〇三年のテッサロニキの欧州理事会での「欧州安全保障戦略(ESS)」を分析する中で、そ
れをイラク戦争で分裂した共通外交安全保障戦略(CFSP)への対応と位置づけ、グローバル・パワー
かつリージョナル・パワーとしての相乗作用を持つEUの国際的位置の増大について、検討している。
最後に、白鳥論文は、新たなローマ帝国から欧州合衆国へ?という仮説を立てつつ、枠組みの中で、
多様性を持ったEUが、経済面のみならず政治面・アイデンティティの面でも統合に成功して、国際的
「帝国」となりうるか、という観点から分析する。鶴岡論文と異なるのは、ロッカンの政治システムの福
祉スキームを使いながら、欧州の福祉レジームが統合を進化させていく側面があるという論を展開して
いるところである。両者とも、アメリカ型の「帝国」軍事パワーになることは否定しているものの、二五
カ国、こんご三〇カ国近い欧州の枠組みを踏まえ、中心と周辺による「帝国」を作っていく可能性があろ
うとし、むしろ「合衆国」にはなるまい、という結論である。地域を論じるものとしては、言葉の原語的
意味での Emperial よりも、United States(United Regions)of Europe の可能性(夢)は捨て去られては
いないと思われるがどうであろうか。
いずれも刺激的な九本がそろった。
ぜひ「ひとつの、多様な」「新しいヨーロッパ」、拡大EUの諸側面を吟味、精読していただきたい。
四.エピローグ:
エピローグ:拡大EU、
拡大EU、今後
EU、今後の
今後の課題
拡大EUの課題が大きいだけに、二〇〇七年に二七カ国、二〇一二-一五年には三〇カ国を超える欧州
が、今後内部の多様性と対立を克服しながら、いかなる役割を国際社会に及ぼしていくかは、きわめて
興味深い課題であろう。
一)現在進行中の最大の課題は、いかなるヨーロッパ、いかなるEUを確立していくか、という憲法条
約にかかわる問題であろう。
「強く統合されたヨーロッパ」か、「多様で民主的なヨーロッパ」か。これは、統合の進化と拡大
後も永遠に続く検討課題であろう。前者を強制すれば必ず反発グループが広範に出現する、後者を
強化すれば「国際関係における拡大EUの役割」は、形骸化し、アメリカに対抗できない、内部を結
束しきれない。まさに拡大EUのリーダーシップは正念場に来ているといえよう。故にこそ、二〇
〇四年一一月の欧州委員会委員長は、ポルトガルのバローゾという、一)小国、二)非元加盟国、三)
イラクへ派兵した国の三つの視点から選ばれ、仏独でない、小国、北欧・新加盟国、新米派への配
慮というきわめて EU 的な人選を行ったといえよう。
二速、二元のヨーロッパをいかに「補完性原則」による地域の重視、国別の上下関係のない水平な
国家間関係を作り上げるかが課題となろう。
15
二.どこまでがヨーロッパか。ヨーロッパの境界線をどうするか。
これは、ここ一〇年「西バルカン」と「トルコ」の加盟問題でひとつの決着を迎える。アキ・コミュノ
テールの遵守と〇五年四月末の加盟議定書への署名により、二〇〇七年(-八年)ルーマニア、ブル
ガリアの加盟はほぼ確実となった。
二〇〇五年は、むしろ「西バルカン」諸国の加盟準備がかまびすしい。
あわせてロシアを含むワイダー・ヨーロッパは、中東地中海一〇カ国ロシア近隣諸国四カ国に及ぶ。
ウクライナ。モルドヴァ、グルジアなどの加盟は、人口や文化の問題としては、トルコより先に解
決される可能性もいまだ不透明である。
三つ目は、地域統合の理論家と、アジアへの教訓である。時まさに AEAN, ASEM, に続き、東アジア
共同体の対話枠組みをどう具体的に作り出すかであり、アメリカとの距離を含むEUの教訓である。
アメリカの軍事的パワーとアジアの経済発展を踏まえつつ、EUが今後どのように地域協力・地域統合
の制度化・理論家を図っていくかも、今後多面的に検討される必要があろう。
(注)
1) ロマーノ・プロディ欧州委員会委員長「欧州連合、5 月 1 日に向けたメッセージ、
http://jpn.cec.eu.int/home/speech_jp_speechobj355.php
2) ibid.
新しい欧州と古い欧州との確執については、羽場久シ尾子『拡大ヨーロッパの挑戦 アメリカに並ぶ多
元的パワーとなるか』中央公論新社、2004 年、羽場「拡大EUの今日的意義―「世界秩序」の構築と
内なる相克の克服」拓殖大学『海外事情』2005 年 2 月。羽場久シ尾子「欧州拡大とイラク戦争:新旧ヨ
ーロッパの確執とアメリカの影」『世界の動き』山川出版社、2003.4.
羽場久シ尾子「羽場久シ尾子『グローバリゼーションと欧州拡大』御茶ノ水書房、2002 年、
3) (小倉欣 1 編『近世ヨーロッパーの東と西』山川出版社、2004 年)
4) 補完性の原則、地域からなるヨーロッパの英語本、
(補完性原則について、地域からなるヨーロッパの英文の本、羽場久シ尾子「拡大EUと境界線をめぐる
地域協力―地域からなるヨーロッパ再考―」
『歴史評論』2005 年 8 月号。)
5) Hans Kohn, Nationalism, Its Meaning and History, revised ed. Krieger, 1982.p.
6
)ロバート・シートン・ワトソンが発行した週刊誌「新しいヨーロッパ」については、School of Slavonic
and East European Studies (SSEES) Library, University College London, Catalogue of
Seton-Watson Collection - SEW/2/3/1-SEW/2/3/11 piece descriptions, Correspondence with
contributors/readers of "The New Europe" - M (1916-1920) Previous number: part of box 3 Contents:
correspondence with contributors/readers of "The New Europe", surnames "M" (Languages) English
& French, each 1 folder. 第 1 次世界大戦後の新中・東欧諸国家の再興とシートン・ワトソンの活動に
ついては、Hugh and Christopher Seton-Watson, The making of a New Europe: R W Seton-Watson
and the last years of Austria-Hungary, (London, 1918)
7) Joseph Rothschild, East Central Europe between the Two World Wars, Univ. of Washington Press,
Seattle and London, 1974 (大津留厚監訳『戦間期の東欧』刀水書房、1994), Antony Polonsky, The Little
Dictators; The History of Eastern Europe since 1918, London, Boston and Henley, 1975(rep.1980)(羽
場久シ尾子監訳『章独裁者たち 両大戦間期の東欧における民主主義体制の崩壊』法政大学出版局、1993)、
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War II, New York, Oxford, Oxford University Press, 1989(羽場久シ尾子・水谷驍訳『現代東欧史』共同
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羽場久シ尾子「『EUの壁』
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羽場久シ尾子・増田正人編『21 世紀 国際社会への招待』有斐閣ブックス、2003.
羽場久シ尾子「EUの拡大と中欧認識の揺らぎ」
『歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ』2003.羽
場久シ尾子『拡大ヨーロッパの挑戦 アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』中公新書、2004.
羽場久シ尾子「拡大EUの今日的意義」『海外事情』2005.2.
18
2. 拡大EU
拡大EUの
EUのインパクト―
インパクト―「世界秩序」
世界秩序」の構築と
構築と、内なる相克
なる相克の
相克の克服―
克服―
羽場久美子
1.拡大EU
拡大EUの
EUの今日的意義
二〇〇四年五月一日、二五か国拡大EUが実現した(地図)。ここには旧社会主義国の中・東欧のうち
バルカンを除く八カ国(ポーランド、ハンガリー、チェコ、スロヴァキア、スロヴェニア、ラトヴィア、エストニア、
リトアニア)と地中海の二カ国(キプロス・マルタ)が新たに加盟した(1)。第1次世界大戦後、クーデンホ
ーフ・カレルギーが「パン・ヨーロッパ」構想を掲げてからほぼ八〇年、戦後のヨーロッパの荒廃の中
にあって英国のチャーチルが「ヨーロッパ合衆国」構想を提唱してからほぼ六〇年、ロレーヌから立っ
た仏のロベール・シューマン外相が、資源の共同管理こそが戦争の原因を取り除く第1であるとして「欧
州石炭鉄鋼共同体(ECSC)」を提唱して五四年、ローマ帝国以来最大といわれる欧州全体の統合が(一
部バルカンを残し)ようやく実現したのである。
二〇〇七年にはルーマニア、ブルガリアが、一〇~一五年頃にはクロアチアを始め「西バルカン」五
カ国が加盟予定である。トルコは、〇五年一〇月より加盟交渉を開始するが、イスラムの問題や移民問
題、制度や習慣の差異など加盟にはいまだ多くの障害が存在する。
1)新体制への移行
〇四年六月一〇~一三日には、欧州議会選挙が行われ、各国の代表七三二名が選出されて拡大EUが
名実共に始動した。が、選挙では軒並み各国の野党が勝利し、保守派や右翼ナショナリストが成長して
(2)、新加盟国も含む「民主主義の赤字」を如実に示す形となった。また六月一七~一八日のEU首脳会
議では欧州憲法条約の最終折衝が行われ、
「二重多数決」やEUと国家の権限配分に異論が出たものの、
最終的に欧州憲法条約が採択された。(3)
同年秋、一一月一日からはプローディに変わりジョゼ・マヌエル・バローゾ(前ポルトガル首相)委員
長による新欧州委員会が発足し、ニース条約に基づき、二五か国すべての欧州委員が選出された(4)。バ
ローゾ選出の背景には、独仏からではなくまた元加盟国ベネルックスでもない小国の代表、さらにイラ
クに派兵した親米の国として、域外(米)にも域内の小国や新加盟国にも配慮するという側面があった。
新欧州委員会は、次の三点を掲げ、活動を開始した。1)二〇一〇年までに世界で最も競争力のある
経済圏となる(リスボン戦略の活性化)。2)CFSP(共通外交安全保障)に見られる外交政策の強化。欧州
憲法条約の批准・発効後を睨んだ欧州外相の実現。3)「民主主義の赤字」を意識しての市民への広報戦
略の活発化(5)。こうした中で二五か国EUは現在、積極的に新しい「世界秩序(World Orders)」への
関与を謳い、グローバルな「世界秩序」において、アメリカとは異なる価値を打ち出しつつある。
2)第五次拡大の特徴
「共同体の6カ国はより広範なヨーロッパ統合の先駆者であるということは、協調してもしすぎることはない。・・・それ
はヨーロッパの始まりなのである。」ジャン・モネ
戦後の欧州統合の拡大は、図に見るように五二年にジャン・モネ委員長下で ECSC 六カ国(西独仏、
ベネルックス、イタリア)が活動を開始し、EEC(欧州経済共同体)、EAEC(欧州原子力共同体)をへて、
67 年にこれらを統合して EC(欧州共同体)となってから、5 回の拡大を経験している。これを見ても、
今回中・東欧への一〇カ国の拡大が、旧来とは異なり、国数からも領土からも最大の拡大であることが
わかる。さらに拡大はこれで終わりではなく、ここ一〇年余りでまだ11カ国の加盟が控えている。そ
の外側には、「ワイダー・ヨーロッパ(広域欧州圏)」が存在する。今回の拡大が、冷戦の遺産である欧州
分断の終焉であると共に、欧州大陸が再び統合することにより、戦後のようにアメリカに全面的に依拠
することなく、むしろ対抗するパワーとして、国際経済、国際政治において世界をリードしていく転換
点となっていることが明らかであろう。
3)冷戦の終焉・イラク戦争と、拡大EUの独自政策
欧州の統合と拡大の成功をもたらした最大の原因は、一つは冷戦の終焉、今一つは 9.11.からイラク
戦争の衝撃であろう。半世紀続いた冷戦の二極体制終焉後、「米欧亜の三極構造」の時代が訪れたが、
九七年以降のアジアの経済危機と日本経済の長期停滞の中で、(中国の急成長を背景に)短期的には再
び米欧が世界 GDP の三割ずつを占める米欧主導の時代に入りつつある(表)。九〇年代、ポスト冷戦の
民主主義の拡大を図ってきた米欧の違いが明らかになっていくのが、九九年のコソヴォでのNATO空
爆に続く、9.11 とイラク戦争の過程である。アメリカの武力による民主化に、欧州の政治指導者と市民
層は疑義と反発を増大させていく。特に欧州にとっては、旧ユーゴ、後にアフガニスタン、イラクから
の大量の移民、難民の流入が、直接に紛争・戦争への脅威と反発を強めていった。9.11.からイラク戦争
への経緯の中で、ブッシュの戦争への批判が、独仏や EU 首脳とヨーロッパ市民層のアメリカ離れを促
19
進した。
こうした中で、九九年九月、コソヴォ空爆終了後に、EUは、共通外交安全保障政策(CFSP)の初
代上級代表ハビエル・ソラナを任命した。二〇〇一年のブッシュ・ドクトリン(テロ国家に対する核も含
む先制攻撃)に対抗する形で、EUは、多国協調主義、近隣諸国との共生と発展を掲げ、世界におけるグ
ローバル・プレイヤーを目指して、
「ワイダー・ヨーロッパ(広域ヨーロッパ圏)」、「欧州安全保障戦略(ソ
ラナ・ペーパー)」を打ち出していく(6)。さらに二〇〇四年秋以降は新しい「世界秩序(World Orders)」
の構築を目指して、アメリカに並び国際社会をリードする役割を担いつつあるのである(7)。
4)グローバリゼーションと拡大EU
今一つの問題は、グローバリゼーションと効率化の推進の中で、世界経済・貿易面でも、アメリカに
並ぶ橋頭堡を占めていることである。EUは拡大を続けてこそ、世界貿易・世界 GDP でほぼ三割の地
位を占め続けうる。九〇年代、東南アジアの急速な経済成長により、香港やシンガポールの一人当たり
GDP がイタリア、スペインを追い抜き、イギリスに迫る中で、欧州は、九六年、ユーロ・ペシミズム
と危機感を乗り越えるべく、東への拡大を事実上のアジェンダにのぼせた。このとき、世界貿易、世界
の GDP に占める割合は、西欧加盟国だけで世界 GDP の三割であった。現在、中・東欧のほとんどを取
り込むことにより、EUは世界経済の三割を維持し続けている(8)。このようにEUは、拡大によってこ
そアメリカに並ぶ経済力を保持し、安い労働力を確保し続けている。それ故いかにコストがかかろうと
も、EUは拡大を止めることはできないのである。
今後、トルコや西バルカンを組み込み、またロシアと密接なエネルギー協力関係を結ぶことにより、
短期的には総体として大幅な経済シェアは見られなくとも、質の高い多数の労働力人口を抱え込み安定
したエネルギーを確保することによって、西欧の少子高齢化と労働力不足を補強し、長期的に世界貿易
の中で重要な地位を占める、さらには台頭する中国・インドにも対抗する力を確保することとなる。欧
州は、世界経済で安定した地位を占め続けるためにもトルコ、ロシアを何らかの形で取り込まざるを得
ないのである。
拡大欧州は、二一世紀の世界秩序をリードすることができるか。統合し強力で多様性を維持した拡大
ヨーロッパはそもそも可能なのか。内なる相克をどう克服するのか。EUの境界線が拡大していく中で、
周辺地域ウクライナ、ロシアではEU拡大によっていかなる問題が起こっているのか、我々はEUから
何を学べるのか。以下、検討する。
2.新
新しい「
しい「世界秩序」
世界秩序」の構築
二〇〇四年九月に開かれたオランダ・ハーグのパン・ヨーロッパ国際会議のタイトルは、「世界秩序
の構築(Constructing World Orders)
」、12 月の第 7 回 EU 世界大会のタイトルも「EUと台頭する世
界秩序(The European Union and Emerging World Orders)
」であった。
「世界秩序」が複数であるこ
とにも注目する必要があろう。
欧州の「世界秩序」再構築にむけての戦略は、短期的には冷戦後のジョージ・ブッシュ(父)の新世
界秩序、および脱冷戦後のジョージ・ブッシュ(子)の国際秩序にみられるような、アメリカの軍事力主
導の秩序ではなく、多様性と寛容、対話に基づく「多国協調主義」を機軸とするものである。これは長期
的には、第 2 次世界大戦後の欧州統合から戦後六〇年を経て、域内で 2 度と戦争を起こさないという不
戦と平和に基づく理念であると共に、「複数の」世界秩序は、アメリカ、アフリカ、中東、アジアなどを
見据えて、何より国連と共に各国と共生を図りうる世界秩序構築を目指そうとするものである。
1)イラク戦争での米欧の分裂
戦後六〇年、冷戦終焉後一五年、欧州は常にアメリカと国際政治において行動を共にしてきた。現在、
なぜこうした政策的変容を欧州は取っているのか。この背景には、二〇〇三年のイラク戦争をめぐるア
メリカの単独行動主義に対する批判、より間接的にはコソヴォ紛争や京都議定書、国連との関係を含む
アメリカへの批判がある。これは 9.11 後のアメリカの対テロ強行策、とりわけ二〇〇二年九月のブッシ
ュ・ドクトリンに象徴されるような「悪の枢軸」に対する「核を含む先制攻撃」への国際社会の戸惑い
とも連動している。このようにアメリカの軍事に傾斜したユニラテラリズムに対し、EUは、国連と連
携し国際社会の市民層と連携したマルチラテラリズムを対峙したのである。これは、二五か国欧州さら
に早晩三〇カ国になろうとする拡大欧州の自信である。またそれは、世界秩序に関与するグローバル・
パワーとして、戦後アメリカの軍事力に依拠して高度な経済成長と安定した社会保障を誇ってきた欧州
の政策転換でもあった。
2)ワイダー・ヨーロッパとソラナ・ペーパー
二〇〇三年のイラク戦争以降、拡大EUは、二つの世界戦略を打ち出した。一つは「ワイダー・ヨー
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ロッパ」、今ひとつは、「欧州安全保障戦略(通称ソラナ・ペーパー)
」である(9)。
「ワイダー・ヨーロッパ」は、ロシアと近隣四か国と北アフリカ・中東一〇カ国の国からなるEUには
入らない広域欧州圏である(最初の地図)。これはEU境界線で分断するのでなく、境界線の外の国々と
も相互協力による友好と発展を目指そうとするもので、近隣諸国との貿易、資源の共同と拡大、人権の
擁護と経済的・社会的安定を説いている。
「欧州安全保障戦略(ソラナ・ペーパー)」は、ポスト冷戦一五年、戦後六〇年を目前にし、新しい多
元的な世界秩序の構築により、アメリカに並ぶパワーをめざそうとする拡大EUの世界戦略宣言である。
この二つの最大の強調点は、戦後冷戦下の六〇年間、アメリカの下にあった欧州が、アメリカとの差異
化と自立を宣言したことである。
ソラナ・ペーパー(欧州安全保障戦略)については、拙著『拡大ヨーロッパの挑戦』(2004)でも触
れているが、EUが新しい「世界秩序」構築のためにアメリカと差異化している重要な点を指摘してお
く。一つは、グローバリゼーションの時代にはいかなる国も一国だけでは今日の複雑な問題を解決でき
ないとして(米の一国主義を批判し)、二五か国、四億五千万人口のEUはグローバル・プレイヤーで
あり、世界の安定に責任を持つと位置づけている。
第 2 に、安全保障の脅威認識についても、アメリカとは異なりテロや無法国家に責任を負わせていな
い。即ち、世界の人口の半分が1日二ユーロ以下で生活し、四五〇〇万が毎年上と栄養失調で死んでい
く事実を指摘し、「多くの場合経済的失敗が、政治的問題、暴力的紛争と結びついている」として、安
全保障の前提が経済発展にあると位置づけている。
第 3 に、グローバリゼーション時代には防衛の最前線は外国であるとして、域内防衛のみに責任を限
定せず、近隣国との共同の安全保障の確立が重要であることを強調している。
第 4 に、国際平和と安全保障のために、EU は国連と結んで脅威に対応し、日本、中国、カナダ、イ
ンドと戦略的友好関係を結ぶとしている。中国、インドが上がっていることも注目に値する(10)。これ
らは、イラク戦争を巡って欧州が二つに分断された反省から来るものであった。
3)イラク戦争での欧州の分断
イラク戦争では、仏独のアメリカ批判に対して、イギリス、オランダなどEU内部でも幾つかの国が
アメリカの「有志同盟」としてイラクに軍を派兵した。その結果、一五ヵ国EU中、七カ国がアメリカ
を支持し、反対は仏独ベルギー四か国、中立四カ国で、仏独は EU 内部でも少数派となった(11)。さら
に問題は、冷戦終焉後、ドイツ統一に続いて「ヨーロッパ回帰」を目指し、二〇〇四年の加盟を目前に
控えた新加盟候補の中・東欧、ラムズフェルドのいう「新しいヨーロッパ」も、独仏の対アメリカ政策に
対抗してイラク戦争を支持し、アメリカとともにイラクに兵を送ったことである。中でもポーランドは、
米軍の有志連合として、欧州、アジア、中南米 21 カ国、9200 人(一時は 1 万 2000 人)の兵を率い、戦
闘地域に軍を展開した(12)。
また、これと平行して、EUの加盟交渉をめぐるコペンハーゲン基準の達成努力過程で、CAP(共通
農業政策)における農民への直接補助金をめぐって、また移民問題をめぐって、さらに欧州憲法条約草案
起草のための政府間協議(Inter Governmental Conference IGC)をめぐって、元加盟国と新加盟候
補国とは、EU内の交渉の場でも鋭く対立した。
この対立をいかに克服して国際社会に多様かつ新しいモラルを確立できるのか。それが第2の検討課
題となる。
3.内なる相克
なる相克は
相克は克服できるか
克服できるか:
できるか:新加盟国の
新加盟国の自己主張
九〇年代、PHARE(ポーランド・ハンガリー経済再建援助)や EBRD(欧州復興開発銀行)による中・東
欧各国への地域・国家支援を得る中で中・東欧のインフラは急速に整備されていったが、他方で、九八
年、二〇〇〇年からの一二カ国加盟交渉と基準達成をめぐってEUと加盟候補国との対立が起こった。
特に双方の国益が対立する場合には、必ずしもEU基準でない要請を元加盟国側が要求する場合もあり、
このことが相互の対立と不信を引き起こした。
その最大の問題は、移民問題及び CAP(共通農業政策)の直接農業補助金をめぐる問題である。
1)移民と失業問題:旧加盟国と新加盟国、受入国と送り出し国
移民問題は、十五カ国EUと新加盟国との間の最大の争点となった。なぜなら、EUそのものが、人、
モノ、金融、情報の自由移動を最大のメリットとして単一市場を形成しようとしているにもかかわらず、
元加盟国の側からは人の流入が労働賃金の低下と当該国国民の失業率を高める恐れがあるとしてこれ
を制限しようとし、新加盟国の側からは、賃金格差が 4,5 倍に上る中で、自由移動こそが加盟の最大の
メリットであると考えて移民制限はEUの基本原則に反していると強く反発したからである。実際には、
EU拡大によって、新加盟国からのみならず、新加盟国の外側にあるロシア、ウクライナ、中東、中央
アジアから合法・非合法を含む数十万から 100 万人に及ぶ移民が、新加盟国を通って元加盟国へ流入す
21
ると予想された。これに対し、拡大EUの最も東側にあるドイツ、オーストリア、イタリアは一様に強
い警戒を示し、二〇〇〇年ごろから移民反対を掲げてEU各国で右翼ナショナリスト(ドイツのネオナチ、
ハイダーの自由党、イタリアの北部同盟やフォルッツア・イタリア)が急成長した。これはグローバリゼ
ーションと欧州拡大の結果、地域格差が増大する中、既成政党ではなく右翼が社会的弱者を掬い取る言
動を始めたことによる(13)。こうした中で、EU十五カ国中、実に八カ国で極右が政権に入ったり、政
治に深刻な影響を及ぼすようになった(14)。 その結果、元加盟国は、当面の措置として、2+3+2 年、
全体で 7 年間、新加盟国の移民を制限できるとした。新加盟国にとっては、最長二〇一一年まで実質的
に自由移動ができないこととなったのである。これがEU構成国に対する大きな不信を呼んだ。
2)CAP の補助金をめぐる農業問題、:EU益と国益、(既得権益国と新受給国)
今一つは、CAP をめぐる農業補助金の問題である。これについては、第四次拡大の国々までは、加盟
すれば全額農業補助金が支給されていたが、今回は国数が多く、またかなりの国が農業国であることか
ら、EU内の補助金拠出国であるドイツや受給国であるフランスなど双方から疑義が出、CAP の農民向
け農業補助金については、加盟後一〇年間の移行期間を設けることとなり、一年目は元加盟国の25%
しか補助金を得られず、その後 5%ずつ上昇して二〇一三年にようやく元加盟国並みになる仕組みとな
った。これについて、民族主義的農民政党を持つポーランドから強い反発が出された。このように、拡
大が近づくにつれ、「国益」と「EU益」との対立が顕著になり、それぞれが国益擁護を主張してゼロサム
ゲームとなり、お互いの不信感を募らせていく状況が広がっていった。
これらが加盟直前に中・東欧各国でEUへの不信を募らせ、加盟しても経済は悪化するというような
不信感を新加盟国に抱かせた(15)。また加盟後も欧州議会選挙の得票数が新加盟国平均で 28%という低
得票につながったのである。しかしこれは加盟後、特に秋以降の新欧州委員会の活動の開始と、補助金
の前倒し交付により、不信は和らぎつつある。加盟後の一般市民の反応は、概して冷静であるが、経済
の安定と発言機会の保障が、長期的には発展を期待させ始めているといえよう。
4.拡大EU
拡大EUと
EUと東の境界線:
境界線:ロシア、
ロシア、ウクライナ、
ウクライナ、カリーニングラード
1).EU境界線の東への移動:ロシア、北アフリカとの共同
内なる対立以上に、現在重要なのは、拡大EUの東方拡大に伴う地政学的意味の変容である。中・東
欧8カ国の加盟をふまえ、現在焦点となっているのは、何よりも東の大国、ロシアおよび旧ソ連諸国と
の友好関係、また地中海を挟んで古くからの文明圏・商業圏である北アフリカと中東の国々である。こ
れらの国々は、EUの境界線の拡大に伴い、その境界線のすぐ外側に位置することになり、緊張を深め
ている。こうした国々、とりわけ、ロシア、北アフリカとの友好と共同による経済発展を求めようとす
る試みが、ワイダー・ヨーロッパである。
中・東欧の加盟により、
「旧東欧の民主化と経済的・社会的安定」は二つに分断された欧州の統合と安
定を保証した。しかしそのことは、逆に、EU拡大による、ロシア・ウクライナ・ベラルーシとの緊張
関係を強化することとなった。2002年、とりわけカリーニングラードやウクライナ、バルカンにビ
ザ導入の問題をめぐって、EUと近隣国との関係が悪化した。これに対して、EU は、まずロシアへの
対応を開始した。
EUは、二〇〇三年にはロシアとその周辺国とのパートナーシップ協力協定を締結、北アフリカ、中
東の一〇カ国とは、バルセロナ協定を締結した。これらを発展させる形で、
「ワイダー・ヨーロッパ(広
域欧州圏)」が提唱されたのである。これはEUの領域の拡大を踏まえ、EU内には入れないものの、
EUの内と外の間に差を設けるのではなく、境界線を含む地域の協力的発展を目指すものである。とり
わけ、ロシアとのエネルギー協力は、EUのインフラの安定化にとっても、またロシアの政治的・経済
的安定にとっても重要な意味を持つ。
2).西ウクライナ問題
西ウクライナは、20 世紀において、4 度その国名が変わったといわれる地域である。第一次世界大戦
までハプスブルグ帝国に属し、戦間期にはチェコスロヴァキアに入り、戦後はカルパチア山脈が西に突
き出した 5 カ国が交わる国境線という地政学的位置からソ連邦に編入、その後九一年にウクライナとし
て独立した。20 世紀初頭までハプスブルグ帝国に含まれていたこともあり、この地域は「東邦合同教会
uniate」と呼ばれるローマ教会に忠誠を誓うキリスト教からなり、基本的にカトリック圏であり、キエ
フ正教会を守ってきた東ウクライナとは異なる文化圏となる(16)。この地域は、〇四年の EU 拡大によ
って、国境を接するすべての国がEUまたはNATOに加盟したため、〇三年の秋からビザが導入され
た(17)。
以上のことが、〇四年の大統領選挙の対立の素地を作り上げていたといえよう。
22
九〇年代、ウクライナは、中・東欧とともにNATO加盟を目指し、一時はNATO拡大と絡んでア
メリカに接近し九九年のNATO50 周年祈念の時には特別パートナーシップ締結国として重視された
が、世紀転換期以降、特にロシアでプーチンが大統領となり、「強いロシア」と近隣諸国との同盟を強
化し始めると、改めてロシアとの同盟に回帰する傾向に移行した。
〇四年秋、クチマ大統領の後任としてヤヌシェヴィッチ首相が押され、プーチンの後ろ盾も受けなが
ら「ロシア語を公用語とする」という公約を掲げて、ロシアとの協調を目指した。これに反発した西ウ
クライナのユシチェンコ元首相は逆にEUやアメリカの後押しを受けた。EUとロシアの狭間にあって
大統領選挙がまさにその双方から両陣営に介入する形となったのである(18)。西ウクライナから立った
ユシチェンコがEU加盟を掲げたのは唐突ではなく、拡大EUの国際的影響力の増大の中で、文化的に
も地理的にも西側に開かれたウクライナそことの関係を分断するのでなく強化したいと考えたのは自
然な成り行きであったといえる。選挙戦の結果に疑義が生じ、一一月の決戦投票における大統領選挙の
不正が暴かれ、ユシチェンコへの毒物投薬疑惑が発覚した。その結果、一二月二七日の再投票で、最終
的に西ウクライナで西欧派のユシチェンコが勝利した。この過程の中で、西ウクライナと東ウクライナ
の分裂も危惧されたが、このような状況は、EUの東の境界線の他の地域でも潜在的に広がっていると
いうことができる。この事件は、EUの境界線の広がりが、統合と分断を巡ってその国の体制そのもの
に影響を与えること、大きな緊張関係をはらんで拡大が進行していることを明らかにした。
3).カリーニングラード問題とヨーロッパ・アイデンティティ
カリーニングラード(ケニヒスベルク)は、「ヨーロッパの北方領土」とも称されるロシアの西の飛
び地であり、第2次世界大戦まではドイツの領土であり、旧ハンザ同盟の中心地、東プロイセンの首都
であり、哲学者カントが教鞭をとった地であった。第二次世界大戦後のロシア領への搬入後、ドイツ人
はほとんど追い出されて、九〇%以上がロシア人であり、それもシベリアなど東部ロシアから移民が行
われ、他には、ウクライナ人、ベラルーシ人が居住する。ドイツは返還を希望していない。ロシアにと
っては冷戦期において最重要の西端の軍事的要所であり、二〇万人のバルチック艦隊が駐屯していた。
また自由経済ゾーンとして、「バルトの香港」「ロシアと西の間のゲートウェイ」とも呼ばれてきた(19)。
しかしここでも二〇〇四年以降、周りをEU加盟国に囲まれて、ドイツや北欧の国々から外資が投入さ
れ、既に北欧経済圏として機能している。そうした中で興味深い現象としてこの地域に住むロシア人の
間に「自分たちは何であるか」という意識に変化が生じている。
二〇〇二年にサンクト・ペテルブルグで開かれた国際会議で、
「カリーニングラードのアイデンティテ
ィ」が議論された際、当然ロシア人である、北欧経済圏である、などの議論をさえぎって「我々はカリ
ーニングラード人」である、といったカリーニングラード出身の若者の言葉に、議論は途絶えてしまっ
た(20)。明らかにEUに囲まれたカリーニングラードとしての新たなアイデンティティが育ちつつある。
プーチンは、カリーニングラードが「陸の孤島」になったとして、ロシアとの自由な交流を行えるよう、
EU委員長プローディとトップ会談を行いビザなしでリトアニアを経由してロシア・東欧学会にいける
よう、FTD(簡易トランジット文書)を勝ち取った(21)。が、カリーニングラードで事情聴取を行ってみ
ると、カリーニングラードとロシアの間の関係は、ロシア本土からの入超で、ロシアに行くカリーニン
グラード人はほとんどいない(22)。むしろリトアニア、ポーランド、北欧、ドイツなど、西側との交流
の方が圧倒的であった。
ここにも象徴されるように、西のロシア国境外に住むロシア人の間に、体制転換後15年の社会変
容の中で、アイデンティティの変容が起こっている。ロシア人でありつつ西の一員と意識する人々が増
えてきているのである。他方で、ロシア語を公用語からはずすバルトの「国民国家」の動きに対しては、
モスクワと結んだ言語権要求運動も存在する。このように、EUの国境線に接している地域において、
旧来考えられなかったさまざまな動きや社会変容、意識変容が起こっている。
拡大EUというマクロな地域が境界線に接近する中で、国家、民族というナショナリズムを超え新し
い「地域」の共有・共生概念が広がっている、ということであろう。
ヨーロッパ・アイデンティティという共通理念は、通常大国・元加盟国の一般の人々の間には現れに
くい。他方で、アルバニアやルーマニアでヨーロッパ人意識が高く、また今回加盟できなかった国の方
が加盟した国よりもEUの評価が高いことは、注目に値する。ヨーロッパ人意識はまさに「EUの境界
線の地域」において増大している。このことは、自己の位置を認識していくアイデンティティがまさに
「他者、異質者」との接触の中で現れることを示している。
おわりに:EU
おわりに:EUの
:EUの経験から
経験から学
から学ぶもの
以上のように、EC―EU は、戦争の荒廃から、隣国と資源とエネルギーを共有することによって安定・
平和と発展を勝ち得ようとして共同体を立ち上げた。また欧州において長期にわたり紛争と戦争が続い
23
てきたがゆえに多様性と信頼醸成、対話と寛容を掲げて 2 度とこの地で戦争を起こさない努力を形作っ
てきた。こうした中で、本論でも見たように、拡大EUは長期の欧州経済停滞を脱皮し、グローバリゼ
ーション下でアメリカ経済、アジア経済に対処するため、旧社会主義国を含む統合を進め、規制緩和を
行いながらも高度な社会保障を維持し、「民主主義の赤字」に悩まされながらも参加民主主義を追求して
いこうと努力している。〇二年には、国民国家にとっての機軸である通貨を単一通貨ユーロに改めるこ
とに成功し、イラク戦争下でのドルの不安定化の中で、強いユーロを作り上げることに成功した。さら
にアメリカの軍事的一国主義に対抗しつつも、紛争やテロ、危機の根源を、経済的な不安定と貧困に求
め、安定の実現、危機からの脱出、人権の保障を強調することにより、アメリカと差異化を図っている。
このような拡大ヨーロッパは、チャールズ・カプチャンも指摘するように、そのモラルとグランドスト
ラテジーにおいて、少なくとも現在のアメリカを超えて、国際社会の支持を集めている(22)。
統合ヨーロッパは、ヨーロッパを席巻した二つの世界大戦の荒廃と瓦礫の中から、不戦と共生を誓っ
て形成された。フランス・ソルボンヌ大学の国際関係史研究所の所長ロベール・フランクは、筆者が客
員研究員として滞在した〇四年夏、戦後六〇年を控えて活発化する戦争への反省を踏まえ、「日本人と
中国人はなぜ南京大虐殺が行われた場で日本と中国の首脳が抱き合い平和を誓えないのか」と問うた。
アウシュヴィッツで、ツィッタウで独仏ポーランドなどの首脳が抱き合うという行為は、まさに南京や
736 部隊があった場での謝罪と共生の誓いであるのである。欧州の平和と発展への執念を垣間見た思い
であった。
EUは、北朝鮮の KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)に見られるような核の平和利用への取り組み、
中国と台湾双方との関係の強化、中国・インドなどへの首脳と経済界を引き連れての訪問など、近年ア
ジアの政治外交にも積極的にかかわっている。危機や経済困難の中から常に新しい方法を見出し発展を
続ける欧州に学ぶ点は多い。
ヨーロッパの安全保障の変容とEUの緊急展開部隊の創設についても、今後注視していく必要がある
(24)。これに関しては、中・東欧小国は、軍事的な負担の拡大よりもアメリカに依拠した安全保障を強調
し、EUの親アメリカ派も欧州の財源を軍事費に使うことを危惧して、アメリカ軍の駐留を望み続けて
いる。
内部相克は、多様なヨーロッパの歴史の中で、連続的なものでもある。むしろ二五か国、早晩三〇ヵ
国EUが、今後多様な利害と相互対立をいかに調整して発展していくかが、試されている。ヨーロッパ
の「世界秩序」構築の呼びかけが、これまでアメリカ一極の枠組みの中に凍結されていたかに見える、
日本や東アジアの相互理解と発展に向けてどのように機能していくかを今後の課題としたい。
注
(1) 欧州統合と拡大EUについて、筆者は中・東欧の体制転換後、特に九四-九六年のイギリスとハン
ガリーでの客員研究以降、冷戦研究と平行して集中的に研究を進めてきた。『統合ヨーロッパの民族問
題』講談社 1994、『拡大するヨーロッパ 中欧の模索』岩波書店 1998、『グローバリゼーションと欧州拡大』
御茶ノ水書房 2002、『拡大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶパワーとなるか』中公新書 2004 など。直接に
触発を受けた書として、クシシトフ・ポミアン、松村剛訳『ヨーロッパとは何か』平凡社、1993、ノーマン・デイヴィス、
別宮貞徳訳、『ヨーロッパ』I-IV,共同通信社 2000、ロベール・フランク、廣田功訳『欧州統合氏のダイナミズム』
チャールズ・カプチャン、坪内淳訳『アメリカ時代の終わり』上下 NHK ブックス 2003 などがある。日本では坂井一成
編『ヨーロッパ統合の国際関係論』芦書房 2003、田中俊郎『EUの政治』岩波書店 1998 など。
(2)
欧 州 議 会 選 挙 の 票 配 分 に つ い て は 、 E U ホ ー ム ペ ー ジ 、
http://www.elections2004.eu.int/ep-election/sites/en/results1306/index.htm.
(3) これまでEUは原則として重要問題については全会一致で決定されていたが、25-27 カ国体制に
移行する過程でより効率的に政策を進めるために、「二重多数決」の制度が導入された。これはEU全体
の人口比と加盟国数の双方で決定するもので、当初は、人口の 60%、加盟国数の過半数で可決と提案さ
れたが、最終修正で、人口の 65%、加盟国数の 55%で法案可決となった。 EU憲法条約草案の全文
は、 Draft Treaty Establishing a Constitution for Europe, The European Convention, 18 July
2003.(冊子)および、EU のホームページでは、http://europa.eu.int/futurum/constitution/index_en.htm
さらに日本語では中村民雄訳、「国家統合、国際機関への加入およびそれに伴う国家主権の移譲」
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshio40.pdf
(4) 今回はニース条約の規定に従って、25 カ国 25 人の新欧州委員が選出されたが、欧州憲法条約発効
以降は、27 カ国でも、たとえ 30 カ国を超えても 15 人に固定されることとなる。
(5) Europe, Autumn 2004, New Barroso Commission, 2004, p.3.
(6) Wider Europe については、Fraser Cameron, The Wider Europe, The European Policy Centre,
24
EPC Issue Paper No.1, 10.6.2003. 欧州安全保障戦略については、“A Secure Europe in a Better
World”,
A
European
Security
Strategy,
Brussels,
12
December
2003,
http://ue.eu.int/solana/securityStrategy.asp
(7) 二〇〇四年秋から冬にEUが掲げたスローガンは「世界秩序の構築(Constructing a World
Orders)」
「世界秩序の確立(Establishment of a World Orders)
」である。筆者が参加し報告した
オランダ・ハーグのパン・ヨーロッパ国際会議、世界EU学会のいずれも上記のタイトルで、例年
になく、アフリカ、アジア、中・東欧、ロシア、中米、さらに国連から多くの参加者があり、多国間
協調が盛んに議論された。対照的にアメリカからの参加者はきわめて少数であり、対米 EU 政策の
指導を印象付けた。
(8) 表 1990 年 代 及 び 2002 年 の GDP お よ び 世 界 貿 易 比 較 。 Bank of Japan, International
Comparative Statistics, 1996, Asahi Shimbun, 3 March, 1996, London. 2002 年版、日本貿易
投資研究所、国際比較統計。
(9) (6)を参照。
(10)
これに対して、ASEAN 諸国からはもっとも EU との関係の長い ASEAN になぜ言明しなかっ
たのかという反発が出た。EUは ASEAN などの地域統合の重要性を軽視しているのではないかと
いう批判は、“Claims and Silences: An Asian Perspective on the European Union’s Security
Strategy”, Challenge Europe Issue10, The European Policy Centre, November 2003, pp. 39-40
(11)
Clés de l’Europe 2004, Histoire de l’UE ses institutions, les jeunes et l’Europe, Milan, 2004,
p. 8-9.
(12)
ポーランドの 21 カ国多国籍軍については、『中・東欧 Fax News』2003.8.31.
(13)
グローバリゼーション下と欧州拡大における右翼の成長については、羽場久シ尾子『グローバ
リゼーションと欧州統合』御茶ノ水書房、2002.
Clés de l’Europe 2004, Histoire de l’UE ses institutions, les jeunes et l’Europe, Milan, 2004,
(14)
p.12-13.
(15)
Candidate Countries Eurobarometer, 2003.4, First Results Autumn, 2003.European
Commission,
http://europa.eu.int/comm/public_opinion/archives/cceb/2003/cceb.2003.4_first_annexes.pdf
(16)
黒川祐次『物語ウクライナの歴史』中公新書、2002、74-76 頁。
(17)
『中・東欧 Fax news』, 2002.7-10.
(18)
筆者はちょうどこの時期、ブリュッセルの国際会議に出ていたが、欧州委員会の前には、オ
レンジの旗を立てた西ウクライナのグループが一〇人くらい集まり、独立の旗を掲げて歌を歌って
いた。現地での新聞も西ウクライナの選挙と分離の動きを報じていた。
Financial Times, Le Monde, 2004.12.1.
(19)
The EU and Kaliningrad: Kaliningrad and the impact of EU Enlargement, ed by James
Baxendale, Stephen Dewar, European Union, 2000, p.10-11. Richard J. Krickus, The
Kaliningrad Question, New York, 2002.p.1-2.
(20)
International Conference in St. Petersburg, September 2003.
(21)
ロシアとカリーニングラードを移動する際の簡易トランジット資料、FTD, FTD-RW について
は、 Kaliningrad Region of Russia and the EU Enlargement, Issues of the Pan European
Integration, Analytic report, Kaliningrad, 2003.
(22)
1991-2001 年の間におけるカリーニングラードの出稼ぎ労働者は 40 万人、全体で 103,000 人
の入超。これは人口の 11 パーセントに当たり、この移民は他のロシアおよび CIS 地域から入って
きている。Support to Transforming the Kaliningrad Oblast into a Pilot Region of Russian-EU
Cooperation, East West Institute, Kaliningrad, 2003.
(23)
The End of the American Era, US Foreign Policy and the Geopolitics of the Twenty-First
Century, Charles A. Kupchan, New York, 2002. p.132-147 チャールズ・カプチャン、坪内淳『ア
メリカ時代の終わり』(上)NHK ブックス、2003、243-273 頁。
(24)
これについては、羽場久シ尾子「NATOの拡大と欧州の安全保障」
『21 世紀の安全保障』ミネ
ルヴァ書房、二〇〇五年、近刊。
25
26
3. 拡大EU
拡大EUと
EUと中・東欧、
東欧、ワイダー・
ワイダー・ヨーロッパ
―「ヨーロッパ東半分
ヨーロッパ東半分」
東半分」の国際関係―
国際関係―
羽場久美子
1.はじめに:
はじめに:冷戦の
冷戦の終焉と
終焉と欧州拡大
2004 年 5 月 1 日、中・東欧および地中海諸国 10 カ国がEUに加盟し、25 カ国の拡大ヨーロッパが誕
生した。これにより、4 億 5 千万の人口、10 兆ドルの GNP、アメリカに並び人口においてはしのぐ大
経済圏が成立した。元加盟国にとっては、1989 年の冷戦体制終焉から 15 年、営々と積み重ねてきた歴
史的転換の結果による「ヨーロッパ統一」であり、新加盟国から見れば、悲願の「ヨーロッパ回帰」で
あった1)
。
拡大EUはさらに、2007 年にルーマニア、ブルガリア、2013-15 年(テッサロニキでの提案)に「西バ
ルカン」5 カ国(クロアチア、セルビア・モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア、
アルバニア)へとヨーロッパの領域を拡大する予定であり、さらに、ノルウェー、スイスに加えて、ウ
クライナ、グルジアなどが、NATOに続きEU加盟に名乗りを上げている。欧州委員長(元)プロー
ディも、「バルカンの安定なくしてヨーロッパの発展はない」として、西バルカンの安定化と加盟に意
欲を見せている。
トルコは 2004 年 12 月に、加盟交渉を始めるかどうかが決定される。ただし、今回の 10 カ国加盟が
基本的にはキリスト教(カトリック、プロテスタント)を基盤とした文化的共通性を持つ拡大であるこ
とからも、トルコの拡大には慎重を期すことが予想され、加盟交渉は開始されたとしても、将来的に「西
バルカン」に先を越される可能性も高い。
いずれにせよ拡大EUは、
21 世紀の最初の 15 年間をめどに、
ヨーロッパのキリスト教地域を中心に、
ロシアを除く 30 カ国余の欧州のほとんどを含みこむことを展望している。
25 カ国EUは、すでに拡大後 3 ヶ月の時点で、5 月の拡大セレモニー、6 月中旬の欧州議会選挙、6
月末のブリュッセル欧州首脳会議での欧州憲法採択、欧州委員会活動の開始、など矢継ぎ早にスケジュ
ールをこなしつつあり、リスボン・アジェンダによる経済の持続的な成長と雇用促進、タンペレ・プロ
グラムとして社会保障、健康と安全の保障、司法内務協力による不法移民と麻薬売買などの調査も進行
している。
12 月の欧州理事会では、トルコの加盟交渉の開始、2007 年の加盟をも射程に入れたクロアチアの加
盟交渉の進展、西バルカンの加盟問題が議論の訴状に上る。
さらに拡大EUは、国際的には、アメリカとの差異を意識したマルチラテラリズム(多国間協調)に基
づく国際関係を機軸に、欧州安全保障戦略(ソラナ・ペーパー)による近隣国との関係の強化と安全確
保、テロなど脅威との戦い、を打ち出すと共に、「ワイダー・ヨーロッパ(広域欧州圏)」として、拡大
欧州となってかつてなく広がったEUの境界線(とりわけ東と南の問題)への対処と新しい国際関係を打
ち出している 2)。これは、21 世紀の拡大欧州の世界戦略の一環ともみなせるもので、東のロシア、南
の北アフリカ、中東など、50 カ国におよぶ協力関係を基盤とした大ヨーロッパ圏を確立しようとしてい
るのである。
拡大欧州がこうした東の旧社会主義国、さらに南のアフリカ・中東の国々と共同で、冷戦後のアメリ
カに並ぶ多元的パワーとなるのか、あるいは拡大欧州は、内部における東と西、大国と小国の軋轢に苦
悩し続けるのか、はきわめて重要な分岐となろう。
ここでは、10 カ国の新加盟国を含めた 25 カ国EUの始動、ないし 10 年後の 30 カ国を超えるヨーロ
ッパ統合の展望を踏まえ、以下を検証する。
1.ヨーロッパ統合、EU拡大とは何だったのか。なぜ、EUは拡大するのか。
2.中・東欧は、EU内でどのような位置を占めているのか。それはEUをどう変えたか。
3.「ヨーロッパの東半分」を統合した 25 カ国EUの国際的課題、国内的課題は何か。
これらの問題を、EUの新加盟国(とりわけ中・東欧)の側から、分析することとしたい。
それによって、戦後 6 カ国でまとまっていたときの統合ヨーロッパと、現在 25 カ国で進もうとして
いるヨーロッパが質的変化を遂げている(6 カ国のときには考えられなかったような新たな課題と問題
点が現れてきている)こと、とりわけアメリカとの関係では、アメリカに完全に依拠して欧州分断を認
めざるを得なかった戦後と、アメリカに並ぶ力を持って欧州全体を統合している現在との違い(だから
こそアメリカは欧州に残るためにも欧州に親米勢力を保持せざるを得ない状況)を明らかにしたいと考
27
える。
なお、
「中・東欧 Central and Eastern Europe」という用語は、基本的には、ロシアとドイツの「は
ざま between」にある地域、歴史的に繰り返しこれら東西の大国の支配下に組み込まれてきた地域を指
し、冷戦期の間は「東欧 Eastern Europe」、それ以前の時期には、
「中欧 Central Europe」ないし「中・
東欧」
「東中欧 East Central Europe」などとさまざまに呼ばれてきた地域である。これはロシアを除く
「ヨーロッパの東半分 Eastern half of Europe」といってもよい。この地域は、ベレンドの「周辺から
の近代」あるいはウォーラーステインの「世界システム論」において、いずれも近代国民国家形成と産
業化の過程の中で、周辺大国によって国家を併合・消滅させられていった地域、周辺諸大国の農業後背
地として組み込まれていった地域である。
こうした大国の「はざま」の地域から見たとき、EUという組織は何のために必要なのか。また彼ら
のどのような問題を解決してくれるのか、否か。さらに、EU加盟によって新しく生み出される問題が、
あるのかないのか。などについて、検討していきたい。
ここでは「ヨーロッパ」を機構としてのEUのみではなく、より広い概念として捕らえる。とりわけ
大国でなく、大国の「はざま」にある小国が、ヨーロッパをどのように捕らえ、それを自国や自民族と
の関係でどう位置づけているのかを探ることとする。
2. ヨーロッパ:
ヨーロッパ:西の統合と
統合と東の分断:
分断:中・東欧からみた
東欧からみた「
からみた「ヨーロッパ」
ヨーロッパ」
EUの新加盟国は、冷戦後なぜ急速に「ヨーロッパ回帰」を目指したのか。これらはどのような地域
なのか。彼らはヨーロッパにおいていかなる位置を占めようとしているのか。これをまず見ておきたい。
1)中・東欧の
「ナショナル
東欧の「ヨーロッパ・
ヨーロッパ・アイデンティティ」
アイデンティティ」、
「ナショナル・
ナショナル・アイデンティティ」
アイデンティティ」
今回加盟した 10 カ国のうち、中欧諸国(ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロヴァキア、スロヴ
ェニアなど)は「ヨーロッパ・アイデンティティ」の高い国々である。
これらの地域の多くは、9-10 世紀ごろに相次いでキリスト教(カトリック)を受容して、首長・国王
が洗礼を受けてキリスト教世界の一員となった 3)
。また 15 世紀からのこれらの地域へのハプスブルグ
帝国の支配とトルコへの抵抗の継続は、彼らの出自にかかわらず、ヨーロッパの一員たることの自覚を
持たせることとなった。ハンガリーの歴史家バログは、ハンガリーでは多くの場合、民族アイデンティ
ティとヨーロッパ・アイデンティティが一致しており(とりわけモンゴルやトルコ、ロシアの侵略に対
して)、ハプスブルグ帝国に対してハンガリーの独立を要求するということでは対立的であったが、ほ
とんどの場合、バリエーションの違いこそあれ、民族的価値とヨーロッパ的価値は共存してきた、と述
べている。4)
「諸国民の春」と呼ばれた 1848 年革命期を境に、これらの地域で、オーストロ・スラヴ主義や連邦
制の概念が成長した。1848 年革命における多民族の対立と革命の挫折以降、コシュートの「ドナウ連
合」や、ルーマニア人指導者ポポヴィッチの「大オーストリア合衆国」という構想が次々と現れた。5)
これらは多民族地域かつ混住により近代国民国家を形成し得ない東欧の民族が、近代を乗り切っていく
際の一つの知恵であったとも言える。
第一次世界大戦後、ハプスブルグ帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国の崩壊によって、中・東欧の諸民族
は独立国家を形成することとなった(これを、セトン・ワトソンは、『New Europe』の形成と表現して
いる 6)が、現実には、2 次元上に引かれた境界線の中に多くの民族を取り込むこととなり、戦間期を通
じて、これらの民族・国家は国民国家形成と国境の内と外の民族問題に苦しむこととなった。こうした
中、クーデンホーフ・カレルギーの唱えるパン・ヨーロッパの考え方やバルカン連邦、ドナウ連邦の考
え方が、中・東欧の諸民族を魅了し続けたのである。7)この地域で連邦構想が現れたのは、こうした中
欧の諸民族の複雑な民族・地域問題の解決として、ヨーロッパの不安定化を避ける試みでもあったので
ある。
2) 第 2 次世界大戦後、
次世界大戦後、「ヨーロッパ
「ヨーロッパ」
分断による統合
ヨーロッパ」の分断による
による統合
戦後のヨーロッパ統合と中・東欧とのかかわりは、3 つの段階に分けられる。
その第 1 は、1945-47 年、第 2 次世界大戦の終焉とドイツからのソ連による解放から、マーシャル・
プランまでの、欧州再編への期待と挫折である。
イギリスの首相チャーチルは、1946 年 9 月、チューリッヒ大学で「ヨーロッパ合衆国」を提唱した
8)。彼は、あくまで荒廃したヨーロッパ大陸の統合を考え、大英帝国は構想の外にあったのであるが、
こうした呼びかけは欧州を揺さぶった。
同時期、ユーゴスラヴィアの指導者チトーは「バルカン連邦」案を提出、またポーランドとチェコス
ロヴァキアも、両国の連邦案を検討していた。これらはいずれも最終的には、ソ連の警戒と反対により
崩れていった。ナチス・ドイツ軍に国内を蹂躙された中・東欧の国々は、戦後の荒廃から立ち直るため
28
にも、当時アメリカのマーシャル国務長官によって提起された戦後復興計画、マーシャル・プランに期
待した。特に、戦間期の工業国で、ナチスの軍需工場もおかれていたチェコスロヴァキアは、マーシャ
ル・プランの「中央委員会」のメンバーとして共同委員会に参加する予定であった。9)
戦争で最大の被害をこうむった「連合国」ソ連が、マーシャル・プランを受け入れないよう入念に工
作される状況の中で、戦後復興計画による欧州再編に強く期待していた東欧諸国も最終的にマーシャ
ル・プランを拒否せざるをえず、ソ連の影響下に入っていくこととなる。
第 2 段階は、東西別々の欧州の再編と統合である。マーシャル・プランを拒否した中・東欧にとって
は、西側で創設された、OEEC(欧州経済協力機構)、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)、EEC(欧州経済共同
体)、EURATOM(欧州原子力共同体)の創設を、ソ連の枠組みの中から眺めるしかなかった。NATO の
創設ついで欧州防衛共同体(EDC)の構想に対して、ソ連・東欧はコミンフォルム、COMECON, WTO
(ワルシャワ条約機構)を形成して対峙し、独自の政治・経済圏、安全保障圏を創設したが、東欧の復
興の要求を満たすものではなく、その経済力格差、および統合内部の非民主制は歴然としていた。こう
して冷戦による 2 大ブロック圏が形成されることとなる。中・東欧にとってこれは意図しない分断され
た機構であり、何とか西との関係を作ろうとする努力が続いた 10)。しかし以後は凄まじい粛清の嵐が
吹き荒れることとなる。
3)5050-80 年代:
年代:繰り返しの改革
しの改革の
改革の試み
53 年 3 月にスターリンが死ぬと、中・東欧では 53 年すぐに改革と自由を求める動きが始まった。そ
の後、これらの地域では、56 年、東ドイツ、ハンガリーで、改革の動きが広がってゆく。ハンガリーで
は改革派ナジが首相となった後、急進的な民衆が「ソ連軍撤退」「中立」を主張する運動へと発展した
が、改革は最終的にソ連軍により制圧された 11)。
68 年には、チェコスロヴァキアでドプチェクらによる「人間の顔をした社会主義」、80 年には、ポー
ランドの連帯運動による「自主管理共和国」が要求された。これらは、通奏低音として、ソ連からの自
立、独立とヨーロッパ型社会主義を目指し、89 年の変革への原動力となった。
85 年にゴルバチョフによるペレストロイカが始まり、89 年に、ボゴモロフ、ついでゴルバチョフが
「体制選択の自由」を語り軍事介入しないことを約束すると、雪崩を打ったように東欧の変革のドミノ
現象が起こり、東欧の社会主義体制は崩壊に向かっていった。戦後 40 余年のソ連・東欧の社会主義体
制は、国内的にはさまざまの社会保障で支えられていたとはいえ、国際関係上は、ソ連軍の圧倒的軍事
力にタガをはめられた、中・東欧にとってはきわめてリラクタントな同盟関係であったといえよう。
3. 中・東欧における
東欧におけるEU
におけるEU・
EU・NATOへの
NATOへの加盟
への加盟の
加盟の試み
1)社会主義体制の
社会主義体制の崩壊と
崩壊と「ヨーロッパ回帰
ヨーロッパ回帰」
回帰」
1989 年、冷戦が終焉し、ソ連の軍事介入の脅威がなくなる中、東欧の社会主義体制が崩壊し、つい
で 1991 年には、バルト 3 国の独立とソ連邦の崩壊が起こる。こうして 40 数年間、中・東欧とバルトに
駐留していたソ連軍が撤退し、ヨーロッパの東半分がソ連から解放されていった。
1989 年に東欧の社会主義体制が崩れると、中・東欧諸国は、再びソ連の軍事的影響下に入らないため
にも、まだワルシャワ条約機構が解体していない 1990 年の 1 月から、積極的にNATO・EUに接近
していった(12)
。彼らは「ヨーロッパ回帰 Return to Europe」を旗頭とし、その主要政策は、ユーロ・
アトランティックの統合、近隣との友好政策、国益の擁護であった(13)
。
しかし、ソ連のペレストロイカとの友好協力関係の下で、東欧の自由化が遂行された以上、欧米諸国
はしばらくソ連ないしロシアを刺激する方策を採ることをためらい、90 年代初頭は、ソ連・旧東欧を含
む CSCE(全欧安保協力会議)の場で、欧州全体の安全保障が話し合われることとなった。ヨーロッパに
おける分断の終焉と新たな統合は、まず東西欧州の安全保障の共同の分野から、始まったのである。
ときあたかも西ヨーロッパでは、91 年 12 月にオランダのマーストリヒトで経済通貨同盟を基盤とす
るマーストリヒト条約が基本合意され、92 年 2 月には調印、93 年 11 月に発効して、3 つのピラー(EC,
共通外交安全保障政策(CFSP),司法内務協力(CJHA)
)が確立されていた時期である。しかしソ連が
崩壊し、バルトを含む中・東欧各国で民主化・市場化の波が広がってゆくと、欧州も、ソ連・旧東欧の民
主化のゆくえを見守りつつ、ゆっくりと拡大を志向し始める。
94 年のエッセン・サミット以降は、中・東欧の加盟を前提とした経済改革の要求が出され、95 年に筆
者が滞在していたロンドンでは、ハンガリーやポーランドの当局者は、加盟は政治的判断になったと述
べ始めた。これを踏まえて、94-96 年にかけて、中・東欧各国は、次々と EU 加盟申請を行い始める。
95 年 1 月には、オーストリア、フィンランド、スウェーデンがEUに加盟した。加盟の大晦日、1 月 1
日はウィーンで迎えたが、シャンパンと爆竹で盛大に祝われていた。95 年 3 月には、シェンゲン協定
が発効され、西側からの「新たなレースのカーテン、紙幣のカーテン」が敷かれたと、東の国々が警戒し
29
始めたのもこの頃である。
2)EU・
)EU・NATOへの
NATOへの加盟展望
への加盟展望
1996 年 10 月、米大統領クリントンは、中・東欧へのNATO拡大を 99 年までに行うことを宣言し、
また米議会も拡大に向けての財政補助を承認した 14)。
1997 年 5 月、NATOはロシアとの基本文書に調印すると共に東への拡大に了解をとりつけ、これ
を契機にNATOとEUの中・東欧への拡大が現実化していく。97 年 7 月には欧州委員会が「アジェン
ダ 2000」を発表し、拡大は議事日程に上り始める。97 年 12 月、ルクセンブルグ欧州理事会で、比較
的改革が進んでいる第 1 陣の 6 カ国ルクセンブルグ・グループ(ハンガリー、ポーランド、チェコ、スロヴェニア、エストニア、
キプロス)との加盟交渉が開始された。
他方、99 年 3 月には、中欧 3 国(ハンガリー、ポーランド、チェコ)が、コソヴォ空爆の直前にNATOに加盟した。
いずれの首脳も、「ついにヨーロッパに帰ってきた」「もう 2 度と外国侵略の犠牲にならない」と、歴史
の記憶を踏まえての安全保障を確認しあった 15)。NATOによるコソヴォ空爆はその 12 日後のことで
あった。
NATO によるコソヴォ空爆は、バルカンをアメリカが見捨てないということを意味した、とハンガリ
ーの政治学者アーグ・アッティラは述べている 16)。すなわち、これまでヨーロッパの外部と思われて
いたバルカンに対し、欧州安定のためのバルカンの秩序化について、欧州が本腰を入れて介入すること
を意味していた。
これを踏まえコソヴォ空爆の最中の 1999 年 4 月、NATO50 周年を祝う首脳会議では、NATO 拡大第
2 陣 9 カ国(ブルガリア、ルーマニア、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、スロヴェニア、スロヴァキア、マケドニア、アルバニア)+1(ウクライナ)の名前が、
2002 年の拡大に向けての検討地域として提案された 17)。以後NATO拡大は戦争(武器の使用と実践)
と平行して進行することになる。
2000 年 2 月には、EU第 2 陣加盟交渉国 6 カ国ヘルシンキ・グループ(スロヴァキア、リトアニア、ラトヴィア、ルーマニア、
ブルガリア、マルタ)が交渉を開始した。ここで 1 陣、2 陣の区別は事実上なくなり、基準を達成した国が先に
加盟できることとなる。こうして旧東欧、地中海諸国 12 カ国は、EU・NATO加盟に向けて、厳し
い基準達成競争に突入していった。
以上の結果、2002 年 10 月ブリュッセル、12 月コペンハーゲンの欧州理事会で、2004 年の中・東欧
8、地中海 2 ヶ国の加盟が承認され、また 2002 年 11 月、プラハの NATO 首脳会議で 2004 年に中・東
欧 7 カ国の NATO への加盟が承認されることとなった。
2003 年 4 月には、ギリシャのアテネで EU 加盟条約が調印され、2003 年中に、加盟候補各国の国民
投票と、現加盟各国の批准が行われることとなったのである。
4.欧州拡大と
欧州拡大とナショナリズムの
ナショナリズムの成長
しかし一方で拡大と平行して、1990 年代から、グローバリズムに対し、
「国益」擁護と、時に外国人
嫌い(Xenophobia)のヨーロッパ・ナショナリズムと結びついて、新しい右翼ナショナリズムの動きが
広がってきた 18)。西欧、中・東欧ともに、グローバリゼーションやEU拡大による、移民の流入や失
業の拡大、農業補助の削減などの危惧感などを背景に、民族主義、急進右翼が成長してきたのである。
西では、経済効率競争+社会保障の削減、東では、貧富の格差の広がり+社会的弱者の不満の増大が、
NATO・EUの拡大に利を見いだせない人々の間に、「国家」による弱者保護を期待する層を生み出
してきたといえる。
こうした動きを支持する社会層は、農業関係者、小・中企業の人々、社会的弱者(失業者、未熟練労
働者、高齢者、ロマ)など多岐にわたり、これらの階層の人々は、統合・拡大に利を見出せず、まず自
分たちの救済と保護を望んだ。彼らは、西欧側市民は「移民」の流入、東欧側市民は、経済強国ドイツ
との競争に対して、国境解放による打撃を恐れた。また農業支援基金(CAP)がどのように配分される
かについて、不安を抱いた。西では加盟国の既得権益の保護、東では新加盟国への配分を強く要求した
のである。
西欧では、すでに 2000 年頃より、オーストリアで、ハイダーの自由党が政権へ就き、イタリアでも
ベルルスコーニ右翼内閣が成立し、EUの東端の境界線となる国々で、反EU、反移民の機運が盛り上
がった。くわえて、2002 年 4 月から 5 月にかけてのフランス大統領選挙で、極右のルペンが移民・失
業問題を掲げて、政権党のジョスパンを抑えて第 2 位を占め、フランス左翼の肝を冷やした。同年 5 月
には、オランダの総選挙でも、労働党が敗北し、党首が殺された右翼フォルタイン党が第 2 党へ躍進す
るなど、むしろ伝統的に左派が力を持っていた西欧や北欧でも、移民への警戒の動きが高まっていった
といえる。
興味深いことにこうした右翼は時にヨーロッパ・ナショナリズムと結びつき、たとえばオーストリア
30
では、ハイダーを支える党内民族派の世界観に、反民主主義とともに、「西洋の伝統」の擁護があり、敵
は「南」と「東」からくる、と考えられていた 19)。
東側では、社会主義体制崩壊後の民主化、EU拡大が、基本的に生活する民衆の利益にかなっていな
いことに不満が拡大し、生活水準の悪化、貧困、失業が、左右のラディカリズムを助長した。
移民、言語、民族アイデンティティ、失業への不安、国境をめぐる対立などが、「他者」に対する不
寛容を生み、増大する「我々」対 「奴ら」意識を生むこととなる 20)
。
問題は、「他者」の排除が、非ヨーロッパ人やマイノリティなどのさらなる「弱者」に向かい、ゼノ
フォビア(外国人嫌い、排外主義)、ヨーロッパ・ナショナリズムやエスノ・セントリズム(自民族中心主
義)を生み出したことである。
ウイリアムズは、中・東欧の極右の成長の背景には、既成政党への幻滅と保守化、移民の増大と失業、
他者への不寛容、これらと経済的不景気や政治的混乱の拡大があると指摘している 21)。
右翼成長の教訓と解決の方向は、いかに社会的弱者層への社会保障を実現していくか、であると共に、
国境の意味の低下の中で、いかに移民と失業問題を、偏見と敵対を助長することなく、解決していくか
であろうが、これらはいずれもきわめて困難な課題である。
5.ヨーロッパ拡大
ヨーロッパ拡大と
拡大とイラク戦争
イラク戦争:「
戦争:「新
:「新しいヨーロッパ
しいヨーロッパ」
ヨーロッパ」とアメリカの
アメリカの影
今ひとつ、EUエリートと欧州指導国(独仏)を困惑させたのが、イラク戦争に対する「新しいヨーロッ
パ」、中・東欧の態度であった。
1)アメリカに
アメリカに対抗する
対抗するEU
するEUの
EUの登場
EU拡大とNATO拡大は、1999-2001 年頃までは平行して進んでいた。
しかし 1999 年のコソヴォ空爆、2001 年のアフガン空爆以降、国際政治・安全保障において、欧米の
間に齟齬がうまれ、アメリカとは安全保障観を異にする「欧州独自」の安全保障推進の経緯とも絡む対
立として発展することとなった。欧州は拡大により自信をつけ、アメリカに対して独自の国際的立場を
主張し始めたのである。
2003 年にアメリカのブッシュ大統領によって開始されたイラク戦争は、欧州内部をまっ二つに分け
た。独仏がリードする戦争反対派と、中・東欧やスペイン・イタリアによる戦争支持派である。
戦争開始直前の、2003 年 1 月 30 日および 2 月 4 日、欧州 8 カ国、およびヴィリニュス 10 カ国は、
アメリカのイラク攻撃を支持する声明を出した。EU 内部では 15 か国中 7 カ国が、04 年にEU・NA
TOに加盟する中・東欧諸国はほとんど総てが、アメリカのイラク攻撃を支持したのである 22)。 4 億
5 千万人となる統合欧州は、拡大の直前になって、実は統合しきれないことが判明した。
2) 中・東欧の
東欧のアメリカ支持
アメリカ支持
なぜ中・東欧は、EUに加盟する直前に、アメリカを支持したのだろうか。
ラムズフェルドのいう「新しいヨーロッパ」は、フランスのシラクが批判したように、ナイーブに、あ
るいはソ連という大国からアメリカという大国に、衛星国的な従順を示したわけではない。その行動は
きわめてプラグマティックな判断に基づいていた。
一つは、アメリカとの歴史的・政治的・社会的な関係である。アメリカには、数百万規模の中・東欧移
民(特にポーランド人)が存在し、歴史的に繰り返し多くの支援を得てきた。
また、欧州の近隣大国による侵略(ドイツ、ソ連)に対する歴史的な記憶もある。
さらにEU拡大に際して、厳しい達成基準や市民層への犠牲の転嫁のみならず、西欧のダブル・スタ
ンダード(二重基準)や保護主義への不信も出てきていた。
2004 年EUに加えて NATO 加盟を控え、安全保障面では(特にロシアの脅威への保障として)アメリ
カの要請を断れないという側面も存在した 23)。
加えて、アメリカを背後に置くことによって、EUとの交渉関係を有利にしようとする、ポーランド
のしたたかな目算もあった。
特にポーランドは、他の中・東欧諸国以上に、米支持によって圧倒的な地位を獲得した。
(1)つは、NATO事務総長補佐官(作業運用担当)をコビエラツキ、国際調整委員会の委員長を、前副首相、
現首相が獲得した。
(2)つめは、2003 年 9 月より、イラクでの(欧州、アジア、ラテンアメリカからなる)多国籍軍 21 カ国
9200 人(ポ:2400)を、ポ陸軍少将(ティシキェヴィッチ)が率いることとなった 24)。
(3)つめは、EUの中でも重要な地位と発言権を、すでに独仏ポーランドの首脳によって始められてい
た「ワイマール・トライアングル(独仏ポ)
」によって得ることとなった。
第(4)に、イラクの石油権益、アメリカによる派兵補助金をも得ることとなった。
こうしてポーランドは、基準達成競争における後発性を大きく挽回し、加盟 10 か国中最大の、EU
31
25 カ国全体でもスペイン並みの軍事大国であることを内外に示したのである。
他の国は、たとえばハンガリーもチェコも、イラクに軍を出しながらEUではドイツ、フランスおよ
び関係各国に歩調をそろえるなど、ポーランドのような独自のパーフォマンスをとることは無かった。
(むしろ EU・NATOともに協調的な姿勢をとった)
しかしポーランドのミレル政権は、国内においては、汚職、財政削減、高失業率(20%、青年層は 40%)
により支持率が 10%を切り、さらにイラクでのポーランド人兵士へのテロの影響も重なり、2004 年 5
月 1 日の加盟の翌日に、退陣することとなった 25)。
6.ヨーロッパの
ヨーロッパの新しい境界線
しい境界線と
境界線とワイダー・
ワイダー・ヨーロッパ
今ひとつの大きな問題は、EUの拡大により、ヨーロッパの新しい境界線をめぐって緊張と問題が起
こってきたことである。
中・東欧は、歴史的な多民族国家であり、その民族・地域状況が極めて複雑であるがゆえに、民族問
題は、EU加盟と国境の低下によって解決できると考えてきた。域内における、境界線を越えた自由な
移動が、マイノリティの差別や格差を縮小すると考えられたのである。また、EUの少数民族保護と人
権政策も、歴史的な言語・文化差別や階層・就職差別を縮小すると期待された。ところが、現実の問題は
別のかたちで出てきた。
「国境を越える自由な移動」を保障する、95 年に発効されたシェンゲン協定は、国内の自由移動を保障
するため「協定に加盟しない第 3 国との間に厳しいビザ規定」が敷かれた。加えて、コソヴォ・アフガ
ンの紛争に伴う移民・難民の増大、マフィアの流入、武器や NBC 兵器の取引、麻薬の密売などの増加が、
境界線地域に生活する人々に、新たな「壁」の制約をもたらすこととなった。その典型的な例としての、
国境外のハンガリー人マイノリティの地位法をめぐる問題については、すでに別のところで分析した
26)。
ここでは、紙面の制約もあるが、EUの境界線上の地域として、西ウクライナ、カリーニングラード
について触れておこう。
1)西ウクライナ問題
ウクライナ問題(
問題(西側国境の
西側国境の国すべてが、EU
すべてが、EUに
、EUに加盟)
加盟)
ウクライナ西部の西ウクライナ(カルパチア・ウクライナ)は、住民が移動せずして 20 世紀に 4 度国籍
が変わった、といわれる地域である。歴史的には、旧ハンガリー王国およびハプスブルク帝国領、カト
リック圏に属し、狭く短い国境線に隣国 4 カ国の国境が交わっている(ポーランド、スロヴァキア、ハ
ンガリー、ルーマニア)地域である。
この地は旧ハプスブルグ帝国領でカトリック権に属し、さまざまの民族からなる多民族地域であった
が、ハプスブルグ帝国の崩壊後はチェコスロヴァキアに割譲され、第 2 次世界大戦後は、帰属を国民投
票で決定してほしいという要請がハンガリー人マイノリティから出たにもかかわらず中・東欧 4 カ国に
にらみを利かせられる地政学上の重要地域として、ソ連邦に割譲された。91 年のソ連邦崩壊後ウクライ
ナの独立によって、91 年以降はウクライナに属している。
体制転換後、この 5 カ国の国境が交わる地域では「カルパチア・ユーロリージョン」という CBC(国
境を越える地域協力)プログラムが策定され、国境間の地域協力、環境保全などに取り組んできた 27)。
ただ現実には資金不足・産業不足から、なかなか西側の投資を呼び込めず、未だウクライナ本国よりも
貧しい状態が続いている。
この 5 カ国が交わる境界線において、2004 年にはウクライナを除く総ての国が EU か NATO に加盟
することとなり、03 年 10 月からEU外の国に対してビザが導入されることとなった。このままでは西
ウクライナの人たちは、これまでの共同文化圏・生活圏である西の 4 カ国にいけなくなり、
「陸の孤島化」
する、という状況の中で、周辺国とEUは、分断を避けるため、方策を検討した。ハンガリーとウクラ
イナ政府は 03 年 10 月、ビザ会談を持ち、交渉の末、相互のビザなしの旅行が保障されることとなり、
ビザ取得の際にも特別の招待状を必要とはされないこととなった。28)
同様に、セルビア・モンテネグロとハンガリーの国境を巡っても、政府間会談を持ち、民族の 2 重国
籍が認められること、ハンガリー人はビザなしでセルビアにいけること、セルビアからは 5 年間の無料
ビザを取得できることが決められた 29)。このように、EUの境界をめぐる分断と緊張を緩和するため、
さまざまな措置が関係各国でとられたのである。
2)カリーニングラード問題
カリーニングラード問題:
ロシアの飛び地
問題:ロシアの
EUの新しい境界線とロシアをめぐる今一つの問題は、カリーニングラード問題である。
ここは、14 世紀にハンザ同盟、15 世紀に東プロイセンの主都であり、ロシアの 89 番目の最西端の州
である。ロシア本土の境界線から 400Km 離れているロシアの飛び地、2004 年からはポーランドとリト
アニアに挟まれた「EUの中のロシア」となった。
32
ここには冷戦期にはソ連のバルチック艦隊・空軍部隊 20 万人が駐留、西に対する海軍・空軍の重要基
地であった。現在は軍が 2、3 万に減少したものの、最西端の軍事基地、北欧・ドイツ経済の投資先(現
在フォルクスワーゲンの工場が進出)、マフィアの麻薬や闇取引地、と多機能を持つ重要都市である 30)。
1990 から 2001 年までのこの地の労働移動は 40 万人で、10 万 3000 人が「入超」であった 31)。しか
しカリーニングラード市民の 7 割は移動していないとされ 32)、本国との交通の問題は、基本的にロシ
ア政府の要請であることが明らかである。
EUは、司法内務協力の観点からも、カリーニングラードをめぐる境界線の問題には、神経を尖らせ
てきた。しかしポーランド、リトアニアとロシアの 2 国間関係では問題は容易に進展しなかった。
最終的に、2002 年 11 月、プーチン大統領とプローディ委員長とのトップ会談で、リトアニアとの間
に、簡易トランジット書類(FTD, FTD-RW)が認められた。これにより 2003 年 7 月より、電車に乗
りトランジット書類を書けば、電車の中で手続きが完了し、そのままリトアニアを通ってロシア本国へ
移動できるようになった 33)。あわせて一年間の仕事用マルチビザも取得可能となった。現在、ロシア
はノンストップ列車と、ビザなし特別地域としてのカリーニングラードを要求しているが、これについ
ては治安の観点からも未だ承認は得ていない。
これらの地域に象徴されるように、今後、EUの東の境界線問題の解決に向け、いかなる近隣政策を
とるかが、きわめて重要な課題となってきている。
3) ワイダー・
ワイダー・ヨーロッパ(
ヨーロッパ(広域欧州圏
広域欧州圏):EUの
:EUの世界戦略の
世界戦略の展望
こうした中で、境界線の外の問題をより広域近隣国との友好によって解決しようとして出されてきた
のが、ワイダー・ヨーロッパ構想である。
これは、南は、
「バルセロナ・プロセス」に参加してきた 10 カ国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、エジプ
ト、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン、レバノン、シリア)東は、「PPC(パートナーシップ協力協定)」に参加する 4 カ国(ロシア、
ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァ)との協力関係である。34)
ロシアとは、天然ガス・石油を中心とした経済友好関係の強化が急速に進んでいる。また、南は、人
権と平和をかかげ、アメリカの政策とは異なる中東政策を打ち出そうとしている。ワイダー・ヨーロッ
パは、EUの今後の世界戦略の一環として、アジアをもにらんだ構想なのである。 安全保障、経済・
エネルギー、中東、さらに中国問題とも絡み、ワイダー・ヨーロッパは、今後のEUの重要な国際戦略
の一環になるといえよう。
7.EU加盟
.EU加盟と
加盟と欧州議会選挙、
欧州議会選挙、欧州憲法
2004 年 5 月 1 日、ダブリンで華麗なる 25 カ国拡大EUの加盟式典が行われた。
中・東欧、地中海から 10 カ国の新加盟国が集い、4 億 5 千万の市場、アメリカに並ぶ 10 兆ドルの GDP
とユーロの成功、マルチラテラリズムを鼓舞した。
しかし、中・東欧から見た場合、加盟の祭典はその日だけで、必ずしも 90 年代のような熱狂はなかっ
たように見受けられる。5 月 2 日にはポーランドでミレル政権が総辞職し、その後も新体制がなかなか
決まらない状況が続いた。加盟前年の国民投票での得票率の低さや、加盟前のユーロバロメーターで西
の市民の無関心、東の市民の経済的悪化に対する危惧などが尾を引いており 35)、また 2003 年 7 月、
12 月における欧州憲法草案がなかなかまとまらないことにも懸念があった。そうした中で、04 年 6 月
半ば、欧州議会選挙が行われたのである。
1)欧州議会選挙:
欧州議会選挙:なぜ市民
なぜ市民は
市民は政権党を
政権党を支持しなかったか
支持しなかったか
10 カ国の加盟に引き続き、2004 年 6 月 10―13 日、
25 カ国のEU初めての欧州議会選挙が行われた。
全体で、25 カ国、732 議席をめぐって、各国で投票が行われた。
しかし結果的に、投票率は非常に低く、欧州連合加盟国平均で、45%。とりわけ新加盟国は、ようや
く悲願のEU加盟が行われたにもかかわらず、平均、28%(有権者の 4 人に一人しか参加せず)という
きわめて低い数字であった。結果は、キリスト教民主党系(保守系)
;276、社会民主党系(左翼系)
:
200 となり、全体として、政権党の多くが各国で敗北する厳しい状況となった 36)。
15 年前の 1989 年に、中・東欧が社会主義体制を次々放棄し、民主化、市場化と「ヨーロッパ回帰」の
ユーフォリア(熱狂)を引き起こした地域であることを考えると、大きな変化である。何がこのような
結果を招いたのだろうか。なぜ、一般市民は、政権党を支持しなかったのだろうか。
<欧州議会選挙の結果>
33
<ポーランド>(投票率 20.87%)
市民綱領(PO:野党)
24,10%
ポーランド家族同盟(野党、反EU) 15,92%
法と正義(野党)
12,67%
自衛(野党、反EU)
10,78%
民主左翼連合(与党、政権党)
9.35%
自由同盟(野党)
7.33%
ポーランド農民党(野党)
6,34%
ポーランド社会民主党
5,33%
計 54 議席
15 議席
10 議席
7 議席
6 議席
5 議席☆
4 議席
4 議席
3 議席
<ハンガリー>(投票率 38,47%)
FIDESZ/民主党(野党)
47,41%
ハンガリー社会党(与党)
34.31%
自由民主連合
7,72%
ハンガリー民主フォーラム
5,33%
*前・元 2 首相、イラク駐留軍の撤退呼びかけ。
計 24 議席
12 議席
9 議席☆
2 議席☆
1 議席
<チェコ>
計 24 議席
市民民主党(野党)
30%
9 議席
ボヘミア・モラビア共産党
20,3% 6 議席
無所属連合、欧州の民主主義者 11,0%
3 議席
キリスト教民主同盟・チェコスロヴァキア人民党(与党)9.6%2 議席☆
チェコ社会民主党
8.8%
2 議席
その他
8,2%
2 議席
<スロヴァキア>
スロヴァキア民主キリスト教同盟(与党)17,1%
人民党、民主スロヴァキア運動(野党)17.0%
スミェル(方向)
16.9%
キリスト教民主運動(与党)
16,2%
ハンガリー人連合(与党)
13,2%
14 議席
3 議席☆
3 議席
3 議席
3 議席☆
2 議席☆
<スロヴェニア>(投票率 28,25%)
計 7 議席
新スロヴェニア(野党)
28,25%
2 議席
自由民主党、年金生活者民主党(与党)
21,94%
2 議席☆
スロヴェニア民主党(野党)
17,67%
2 議席
社会民主主義者(与党)
14,17%
1 議席☆
<セルビア大統領選挙>(投票率 47,63)
(与党は 4 位) 決選投票
1.ニコリッチ急進党副党首(野党、極右民族主義) 30.44%
2.タディッチ民主党(野党)
27,6%
(以上、出典、中・東欧 Fax news)
なぜ、一般市民は、政権党を支持しなかったのか。
これについては、以下の点が指摘できよう。
1)(東西双方)拡大によるEU益のメリットが見えない。生活基盤の不安定。
2) 戦争と、イラク派兵(兵士殺害)、経済状況などについて、自国の政権不信。
3) 拡大が近づくにつれ、国益との相克(農業問題、移民問題、財政問題)
4) 選挙疲れ
5)(新加盟国)西側との地域格差、雇用の困難性、社会保障の削減、加盟コストの増大
6) 移民、農業問題:加盟後も欧州の「二級国家」に留まるのではという危惧など。
EUの元・新加盟国双方の市民層が、EUの遠さ、政府への不信を感じていることは深刻であり、参
加民主主義の問題を改めて検討する必要があろう。
34
2002 年、2003 秋の、ユーロ・バロメータの調査結果は、今回の結果を暗示している。
それによれば、元加盟国(15 カ国)は、拡大に無関心であり、拡大に伴う負担を危惧している。他方、
新加盟国は、加盟することによって経済状況は悪化すると考える人が、48%に上っている。政党・政府
への不信が増し、頼れるものはメディアと軍、という状況であり、EUエリートと市民の乖離が拡大し
ている 37)。
8.欧州憲法条約草案をめぐる
欧州憲法条約草案をめぐる相克
をめぐる相克
欧州憲法については、2002 年 2 月末より 2003 年 6 月、憲法条約をめぐるコンヴェンションが開かれ、
2003 年 6-7 月、ジスカールデスタンが欧州憲法条約草案を提出した。この憲法条約草案自体は、旧来
複雑で市民に分かりにくかった法令を、より簡素化し、効率化、民主化、分権化することを目指したと
される。38)
しかし現実には、この草案を巡って、中・東欧の加盟国を含む何カ国かが強く反発し、2003 年末に
も妥協が成立せず、決裂した。
とりわけポーランド、スペインが、欧州理事会における各国の持ち表の配分、および「効率化」をめ
ぐって批判を強めた。不満の対象となったのは、人口比に基づく新しい持ち票数をめぐる対立を筆頭に、
大国への権限集中、欧州委員会数の削減による新加盟国の権限の制限、小国の発言機会の縮小、2 重多
数決による大国と小国の格差の拡大であった。
ポーランドなどは、具体的に次の点に懸念と警戒感を表明した。
1)常任議長・外務大臣の創設と、半年ごとの議長国の輪番制の廃止。これにより、権限が個人および
大国に集中、新加盟国の議長輪番の可能性が著しく減少することを危惧した。
2)2 重多数決(加盟国の過半数+人口の 60%)による決定(表参照)。これによりドイツ以外の票数
は一律に削減され、とりわけ、ポーランド・スペインは半減、イタリアが 3 割減となる。最小国には一
定の票数が保障されるため、かえって大きな批判は出なかった。
3)欧州委員会の定数削減。これまで 1 カ国 1 名、15 カ国 15 名であり、ニース条約では 25 カ国 25
名となったが、憲法条約では 27 カ国でも 15 名で固定となる。(委員会の権限拡大とあわせると、委員
会に選出されなかった国は、発言機会、決定への参与機会が大幅に縮小する。)
すなわち、ニース条約で比較的保障されていた小国の権利が、「外部に対して、強いEU」をめざす合
理化と効率化を重視する新憲法草案の採択によって、かなり縮小されることとなり、多様性と対等な権
利に基づくEUを期待した中・東欧小国にとっては、不満が増大する結果となった。新加盟国の多くは、
これまで大国と小国の間の格差がより小さな形で保障されていた権限が、憲法条約で縮小されることを
危惧したのである。
他方イギリスは、外交・防衛や税制で拒否権が行使できないことに反発した。
しかし最終的には、2004 年 6 月 17,18 日のブリュッセルでの首脳会議で、欧州憲法が修正の上、全
会一致で採択されることとなった。修正点は、キリスト教への言及を求めたポーランドやイタリアの要
求について、欧州の文化的・宗教的遺産の継承として、宗教性を示唆したこと、欧州議会への各国議員
数を最低 6 名とし、「多様性の中の統一」を強調するなど、小国の権利を確保したことである。また、最
大の争点となった 2 重多数決については、「加盟国の少なくとも55%が賛成し、賛成国の人口がEU
人口の 65%以上となる」ことが可決の条件とされ、いずれも5%ずつ引き上げられ、大国だけでまとま
ることによって可決するという可能性を弱めた。39)
また 100 万人の市民の要求で、欧州委員会に法案作成を求められるなど、市民の参加権も保障した。
さらに欧州議会が、欧州委員長の選出権を持つなど、議会の権限も拡大した。今ひとつの議論の対象で
あった、欧州委員の 15 人への固定化については、2014 年までは各国 1 名ずつとし、以後総数を 18 人
に絞り込むこととなった。40)
この欧州憲法は、09 年には発効予定となる。
あわせて、ブリュッセルの欧州理事会では、クロアチアが05 年から加盟交渉を始め、2007 年に加盟
することもありうることを再確認したが、戦争犯罪者の処罰などの問題もあり、加盟時期についてはい
まだ流動的である。
7.EU拡大
.EU拡大:
拡大:今後の
今後の課題
拡大EUは、今後どのような欧州作りに向かうのだろうか。また中・東欧はそこでどのような役割を
担うのだろうか。
1.以上見てきたように、2004 年に加盟した 10 カ国はポーランドを除けばそれぞれ 1000 万以下、バ
ルト諸国は 2-300 万、キプロス、マルタにいたってはそれぞれ 75 万、40 万の小国であるが、いずれも、
35
小国の権限を保持し、EUの中では大国と同等の発言権を示そうという気概に満ちた国々である。とり
わけ、中欧諸国については、旧ハプスブルクの伝統も含めて、ヨーロッパ・アイデンティティとナショナル・ア
イデンティティを強く持ったヨーロッパ意識の高い国々であり、今後もルーマニアやバルカンなど加盟
候補国のゆくえについて、対ロシア政策について、Visegrad としてまとまって行動することが予想され
る。
中でもポーランドは、人口 4000 万の大国として、またドイツとロシアの狭間にあるプロ・アメリカの
国家として、今後EUの政策において無視できない役割を果たすといえよう。
拡大ヨーロッパが、「ヨーロッパの東半分」の国際関係を考えずして政策化できなくなってきているゆえ
んである。
2.今後の最大の課題は、内部においては、農業問題、財政問題など、内部での財政予算配分をめぐる
利害対立の調整であろう。ただ、こうした内部対立と調整については、あえて言えば、6 カ国の統合の
とき以来、相互調整は不可避であったのであり、新しい課題としては、これからは、EU 内の先進国と
後発国との差を可能な限り縮小していくこと、まさに「多様性の中の統一」を現実のものとしてどう保証
していくかであろう、ということである。
EU憲法条約草案に示されているように、戦後 50 年を経、またポスト冷戦後 15 年を経て、大国の意
のままになるヨーロッパ小国はもはや存在しまい。とりわけ、ヨーロッパに影響力をとどめようとする
アメリカが、ヨーロッパ東半分の中小国を揺さぶっている点を、認識しなければなるまい。
3.EU の国際関係において重要なのは、ワイダー・ヨーロッパに象徴される近隣政策、EUの新たな境
界線と接する国々との協力関係の進展であろう。とりわけ、アジア・極東にまでつながり中国と最大最
長の境界線を持つ、ロシアの境界線に対する政策は、きわめて重要であろう。EUの境界線については、
委員長プローディ・上級顧問ソラナを含め、この間、EU側も問題の重要性を認識し、改善策を検討に
尽力した。それがカリーニングラードの FTD,FTD―RW や 1 年間のマルチプルビザ、無料ビザの発行
に現れている。
ロシアとの石油・天然ガスを中心とするエネルギー共同開発も、中東からの代替エネルギー開発の問
題としてきわめて重要である。
4・欧州が、真にアメリカに並ぶ国際的なパワーとなるためには、ヨーロッパの東半分、さらにその外
にあるロシアや中東、さらにはアジア諸国とどのように協力しつつ、新しい国際規範を打ち出していけ
るかにかかっている。北欧や中・東欧諸国の加盟が、民主主義や多様性の議論を発展させる多様なヨー
ロッパ連合の基礎として機能していくことこそが、求められているのではないだろうか。
<<注>>
1)拡大欧州と中・東欧については、筆者はこの 10 年間の研究の中で、いくつかの著書や論文を書いて
きた。それぞれの項目については、
『統合ヨーロッパの民族問題』
(講談社現代新書)、
『拡大するヨーロ
ッパ 中欧の模索』
(岩波書店)、
『グローバリゼーションと欧州拡大』
(お茶の水書房)
、The Enlargement
of the EU toward Central Europe and the Role of Japanese Economy, Budapest, 2002.『拡大ヨーロ
ッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』(中公新書)などを参照されたい。本稿は、書下
ろしではあるが、最後の著書に一部重なっているところがあることをお断りしておく。
2)Dr. Fraser Cameron, The Wider Europe, The European Policy Centre Issue Paper, No.1,
Brussels, 2003.p.2-4.
3)南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999、p.034-038.
4)National and European Identities in EU Enlargement, Views from Central and Eastern Europe,
Ed. by Petr Drulak, Prague, 2001, p.69-70.
5)Mérei Gyula, Federációs tervek Délkelet Europában és a Habsburg monarchia(南東ヨーロッパ
の連邦構想とハプスブルグ帝国), 1848-1918, Budapest, 1965, Niederhauser Emil, The Rise of
Nationalism in Eastern Europe, Budapest, 1981. 羽場久シ尾子『統合ヨーロッパの民族問題』講談社
現代新書、1994(7 版、2004)。80-93.
6)Seton-Watson, Hugh and Christopher, The Making New Europe, Seattle, Univ.of Washington
Press, 1981.
7)クーデンホーフ・カレルギー鹿島守之助訳『パン・ヨーロッパ』鹿島研究所、1927, “Pan European
Union Movement: Count Richard Coudenhove-Kalergi on the aim and the method of
Pan-European Union, Documents of European Union, Ed. by A.G.Harryvan et al., Macmillan
Press, 1997, p. 33-38.
8)Churchill’s Speech at Zurich University, Documents, op.cit., p. 38-42.
9)The Marshall Plan: Speech by the US Secretary of State General George Marshall, at Harvard
36
University, Documents..p.43-45. Cseskoslovensko a Marshaluv plan, Sgornik dokumentu(チェコ
スロヴァキアとマーシャル・プラン), Svazak 1, 1992, Chronological Summary, p. 119-124. 羽場久シ
尾子「東欧と冷戦の起源再考―ハンガリーの転機、1945-1949」、
『社会労働研究』第 45 巻第 2 号、1998
年 12 月、p。42-43.
10) 永田実『マーシャル・プラン』中公新書、1990.p.183-186.Documents, p.4-8.
11) 1956, A Forradalom Kronologiája és Bobliografiája(1956:革命年表と文献), Századveg Kiadó,
1956-os Intézet, 1990. Rainer M.János, Nagy Imre, 1953-1958, 1956-0s Intézet, Budapest, 1999.
近年は、Döntés a Kremlben(クレムリンの決定), 1956 など機密重要資料も刊行されている。
12)A NÁTO Tag Magyarország:Hungary A Member of NATO, Budapest, 1999, p.89.
13)ibid, p.14.
14)クリントンの演説。佐瀬昌盛『NATO』新潮文庫、1999、174-175 頁。米上院での、NATOの
中欧への拡大に向けての 6000 万ドルの補助金の承認は、 Hungary: A Member of NATO, p.108.
(October 1, 1996)
15) 『朝日新聞』2000.3.11-13.また、ハンガリー人のハーバード大学ケネディスクールのフェロー、ゴ
ルカは、中欧 3 国はアメリカの慈悲で入れてもらったのではなく、対ボスニアヘルツェゴヴィナや前ユ
ーゴスラヴィアの紛争への対処に、中欧 3 国 35 万人の軍隊はきわめて役に立つことを強調している。
Web-edition, Vol.47-No.3., autumn 1999.
NATO homepage: http://www.nato.int/docu/review/1999/9903-10.htm
16)アーグ・アッティラへのインタヴュー、1999.7.
17)Népszabadság, 1999 április 26.
18)山口定・高橋進編『ヨーロッパ新右翼』朝日新聞社、1998 年、The Radical Right in
Central and Eastern Europe since 1989, Ed. By Sabrina P. Ramet, The Pennsylvania State
University Press, 1999, 羽場久シ尾子『グローバリゼーションと欧州拡大 ナショナリズム・地域の成長
か』御茶ノ水書房、2002.
19) 『ヨーロッパ新右翼』前掲書、198 頁。
20) The Radical Right, op. cit. p. 3-4.
21) Christopher Willams, „Problems of Transition and The Rise of the Radical Right”, The Radical
Right, op.cit., p.34-35.
22) Les clés de l’UE ses institutions Les jeunes et l’Europe, Milan, 2003; p.8-9.
中・東欧ファックスニュース、2003.1.30, 2.4.
23) ルーマニア外務省当局者の言。2003.3.
24) NATOのホーム頁:http://www.nato.int/docu/pr/2003/p03-093e.htm。21 カ国の多国籍軍を率い
るティシキェヴィッチに対し、ラムズフェルド米国防長官が歓迎の挨拶を寄せている。イタリアのアメ
リカ大使館のプレスリリース。http://www.usembassy.it/file2003_09/alia/a3090804.htm
25)World Socialist Website:Polish prime minister resigns amid mass opposition to social
devastation http://www.wsws.org/articles/2004/apr2004/pol-a01.shtml
Marek Belka is new Polish head of government,
http://www.wsws.org/articles/2004/may2004/pola-m06.shtml
26)羽場久シ尾子「『EUの壁』・『シェンゲンの壁』
」
『国際政治』2002.No.129. 77-91.
羽場久シ尾子『拡大ヨーロッパの挑戦』前掲書。
27) Carpathian Foundation, Fund for the Development of the Carpathian Euroregion, Report
1995-97, 1998. Закарпаття Transcarpathia, 2001. Products of the Transcarpathian Companies,
2001.
28)
Rusyn news homepage: Visa Agreement Between Ukraine and Hungary Signed
http://www.legacyrus.com/NewsReel/RusynNews/2003/RusynNewsServiceOct2003.htm
29) Rusyn news homepage: ibid., Hungarians and Serbs Discuss Visas and Citizenships.
30) The EU and Kaliningrad, Ed. by James Baxendale et al., Printed in the EU, 2000, p.9-14.
31) Support to Transforming the Kaliningrad Oblast into a Pilot Region of Russian-EU Cooperation,
East West Institute, Kaliningrad, 2003, p.15-16.
32) カ リ ー ニ ン グ ラ ー ド 大 学 経 済 副 学 長 Valentin Korneevets, リ ト ア ニ ア EU Delegation
Ambassador, Michael Graham へのインタヴュー。2003.2.9.、2003.2.11.
33) Kaliningrad Region of Russia and the EU Enlargement. Issues of the Pan European
Integration, Analytic report, Kaliningrad, 2003, p.5. カリーニングラード大学副学長 Вера И.
Запоткина へのインタヴュー。2003.2.9.
34) ワ イ ダ ー ・ ヨ ー ロ ッ パ の 戦 略 に つ い て は 、 E U の ホ ー ム 頁 ;
37
http://europa.eu.int/comm/external_relations/we/doc/com03_104_en.pdf
35) 加盟を巡る国民投票の投票率の低さや、2002 年の西の市民、2003 年末の東の市民に行われた拡大
を巡るユーロバロメータの結果は、羽場久シ尾子『拡大ヨーロッパの挑戦』前掲書、57-67 頁を参照のこ
と 。 そ れ ぞ れ の ユ ー ロ バ ロ メ ー タ ー に つ い て は 、
http://europa.eu.int/comm/public_opinion/archives/eb/eb57/eb57_en.pdf
http://europa.eu.int/comm/public_opinion/archives/cceb/2003/cceb2003.4_first_annexes.pdf
36)
欧 州 議 会 選 挙 の 勢 力 配 分 表 は 、 E U ホ ー ム 頁 、
http://www.elections2004.eu.int/ep-election/sites/en/results1306/index.html
37) 注 35 のユーロバロメーターの出典と同様。
38) 欧州憲法条約草案全文は、Draft Treaty Establishing a Constitution for Europe, The European
Convention, 18 July 2003. (冊子)およびEUのホーム頁では、
http://europa.eu.int/futurum/constitution/index_en.htm 資料については、ブリュッセルの欧州連合日
本代表部の橋田力氏にご教示を受けた。欧州憲法条約草案の分析については、庄司克宏「欧州憲法条約
草案の概要と評価」
『海外事情』2003.10.を参照。
39)2004 年 6 月 18 日 の 欧 州 憲 法 の 修 正 版 ( 英 語 版 ) に つ い て は 、
http://www/euabc.com/upload/rfConstitution_en.pdf
40) 上記修正版、および『朝日新聞』、2004 年 6 月 19 日。
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羽場久シ尾子「『EUの壁』
・『シェンゲンの壁』」『国際政治』129.2002.2.
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羽場久シ尾子・増田正人編『21 世紀 国際社会への招待』有斐閣ブックス、2003.
羽場「EUの拡大と中欧認識のゆらぎ」
『歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ』山川出版、2003.
羽場『拡大ヨーロッパの挑戦 アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』中公新書、2004.
39
40
4. NATO
NATOの
の東方拡大と
東方拡大と欧州の
欧州の安全保障
―コソヴォ空爆
コソヴォ空爆、
空爆、アフガン空爆
アフガン空爆、
空爆、イラク戦争
イラク戦争―
戦争―
羽場久美子
問題設定
2002 年 11 月 21 日、NATO(北大西洋条約機構)は、プラハでの首脳会議で、中・東欧 7 ヶ国(エ
ストニア、ラトヴィア、リトアニア、スロヴェニア、スロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア)の加盟
を承認した。これを踏まえ、各国で批准が行われ、2004 年には、NATOは 26 ヶ国となる予定である。
同様に EU は 02 年 12 月にコペンハーゲン欧州理事会で 10 ヶ国の加盟を決定し、国民投票と批准を経て
04 年には 25 カ国EUが実現される。このように冷戦期に東西に分断された欧州は、組織的にも再統合
され「拡大」される(1)。NATOは、今回EUに入れなかったルーマニア、ブルガリアをも迎え入れ、
欧州の領域を超えた、対テロの安全保障に備えることとなる。
1) 今なぜ、NATOの東方拡大か?
NATO、EU がこのように東方に拡大しつつある要因は何であろうか。
最大の要因は何よりも、1989 年における冷戦の終焉と東欧・ソ連の社会主義体制の崩壊の結果である。
冷戦によって分断されていた欧州が、政治的・経済的・軍事的に、西の圧倒的勝利の下に再統合され
つつあるのである。
第 2 は、80 年代以降のグローバリゼーションの広がりとアメリカの役割の増大である。市場化・民主
化と発展が世界的なテーマとなる中、欧州統合の推進役EUとならんで、欧州再編を強化し欧州の安全
を保障するNATOの拡大が、当初は軍事的意図というよりも政治目的としてめざされたのである。
第 3 は、米・欧・亜の 3 極体制の到来の中で、ユーロ・アトランティックの結合による欧米の再編強化
である。これはハンチントンの『文明の衝突』が象徴するように、イスラムないし潜在的には中国とい
う異質文明の拡大の脅威に対抗するという問題を含んでいる。アメリカでネオ・コンと呼ばれるグルー
プが権力の中枢に進出している所以である。ここには冷戦後の新たな「敵」と、それに向けての軍事的
再編強化という目的も存在する(イラク戦争前後から、米国に対する挑戦は、実は統合の進む欧州から
もたらされる、という主張も表れてきている)(2)
。
2)NATO拡大によって、欧州の安全保障はどう変化するか?
こうした中、冷戦期には、核の均衡政策の下でその軍事力を行使することがなかったNATOは、冷
戦終焉後のバルカンで最初の空爆を実行する。1995 年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナ、99 年にはコ
ソヴォへの空爆によって、NATOは、必要かつ緊急の場合には、域外戦争と「人道的介入」が、時に
国際機関の承認なしにあり得ることを、欧州諸国の反対ないし留保にもかかわらず実行したのである(3)。
ソ連・東欧における社会主義体制の崩壊以降、欧州の安全保障は、基本的には、内外の不安定要素や
地域紛争への対応、テロ、難民、リスクへの対応、民主主義、自由主義の導入が課題となった(4)
。こ
の過程の中で冷戦終焉後 90 年代前半に基調となったのは、NATO そのもの以上に、CSCE(欧州安全保障
協力会議)のように「地域の危機管理」や「信頼醸成」を基盤とし、アメリカと欧州が共同で、軍事面よ
りむしろ政治面で安全保障を模索するという作業であった(5)。
3) NATOの中・東欧への拡大と空爆
1999 年 3 月 12 日のNATOの中欧への拡大後、3 月 24 日に、コソヴォへの空爆が開始された。それ
は中欧 3 国の加盟直後に行われ、中欧の欧州への取り込みと、バルカン・ロシアの孤立化を際だたせる
こととなった。
しかしコソヴォ空爆以降は、米・欧の対立が目立ち始めた。よりグローバルな地域紛争への対応と、
中東にまでその管理領域を広げようとする米英に対し、原則としてその安全保障領域を欧州に限定しよ
うとする独仏の動きがある。そうした中で欧州は、NATOとは別に、EU軍、EU緊急対応軍など欧
州がイニシアチブをとれる機関の模索を始めていく。
2001 年 9 月 11 日のテロとアフガン空爆は、NATO・ロシア関係のドラスティックな変化と、バル
カンから、黒海・中東への安全保障領域の重点の移動をもたらした。このことは、不確かであったルー
マニア、ブルガリアへの拡大が、アメリカの軍事戦略的観点からの後押しの下に実現していくことを意
味する。
テロ後、アメリカに急接近したロシアは、02 年 5 月 28 日におけるロシア・NATO理事会の設置と
チェチェン攻撃の正当化の権利を得、結果的にアメリカとNATOに取り込まれていくこととなった。
こうした中、02 年 11 月 21―22 日のNATO7 カ国拡大決定は、欧州各国の危惧にもかかわらず、対テ
I.
41
ロ・対イラク戦争準備の色彩を強く持つこととなった。しかし、その後の経緯は、仏独欧州大国の反対
と国連決議を迂回しての 03 年 3 月 20 日の米英単独イラク戦争と「新しいヨーロッパ」中・東欧のアメリ
カ支持に象徴されるように、アメリカの単独主義と欧州の分断を強く印象付ける展開となった(6)。米欧
大国の対立をはらんだままの NATO 拡大は、どこに向かうのだろうか。
以下、NATOの東方拡大と欧州の安全保障の問題について、冷戦終焉後 14 年、2 つの空爆とイラク
戦争を契機としてのNATOの役割変容を軸に分析していく(7)
。
II.
NATOの
NATOの役割変容
1)冷戦終焉とNATO
冷戦期、NATOは、周知の如く、対ソ社会主義陣営に対する欧米資本主義陣営の集団防衛機構とし
て、1949 年に創設された。それは、東側における 1955 年のワルシャワ条約機構の設立を生み、冷戦期
を通じて、東西の軍事的同盟関係として対峙した。
1989 年の冷戦の終焉、ベルリンの壁崩壊に象徴される東欧の社会主義体制の崩壊とソ連軍の撤退、お
よび 91 年のワルシャワ条約機構の解体、さらに 91 年末のソ連邦の内側からの瓦解という一連の流れの
中で、NATOは、その社会主義体制に対抗する軍事同盟という役割を喪失し、新たな役割を自己規定
しなおさざるを得なくなった。ドイツ統一に象徴される、「ヨーロッパは一つ」というユーフォリア(熱狂)、
急速に盛り上がった相互対話・信頼醸成の拡大が、全欧安保協力会議(CSCE)の役割の増大を生み出
した。この時期、世界全体の安全保障に対する考え方が、軍事力による防衛から相互協調による安定の
確保の方向へとシフトしつつあった。
そうした中、NATOが、新たな方向性として提示したのは、91 年 11 月のローマにおけるNATO
首脳会議で採択された「新戦略概念(New Strategic Concept)」であった。それは、ソ連やユーゴスラヴィア
の不安定化を背景に、「危機管理型の紛争対応機構」へとその性格を変えようとするものであった(8)。
翌年採択されたローマ宣言は、「域外防衛」を提起していた。
2)バルカン民族紛争の勃発と中欧のNATO加盟要求
NATOの役割の再規定の現実的要因は、バルカン民族紛争の勃発とその泥沼化であった。1991 年か
ら始まったユーゴスラヴィアの解体(スロヴェニア、クロアチア、マケドニアの独立)と、92 年からの
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの内戦、さらに国連の調停と介入の中で、95 年 7 月にはクロアチア軍が介
入、8 月にはNATO軍がボスニア・ヘルツェゴヴィナに空爆を実行した。このとき、NATOは国連・
EC の外交調停が効を奏せなかったと判断し、冷戦後世界各地に広がる民族・地域紛争に対処するために、
「危機管理対応型」の集団安全保障機構として再出発しようとしたのである。
NATOの役割を再確認させ拡大へと向かわせることとなった今ひとつの契機は、「外から」の働き
かけであった。ワルシャワ条約機構がまだ解体していない 1990 年から既に、中欧各国(ハンガリー、
ポーランド、チェコ、スロヴァキア)の首脳は次々にNATOに接近し、加盟を訴えた。こうした中欧
諸国のNATO接近は、91 年 8 月、ソ連の軍部・保守派のクーデタ直後から急速に強まった。このこと
は、中・東欧諸国が冷戦後のヨーロッパの権力空白と、ロシアの再編強化をいかに恐れているかという
実態をNATO首脳に示すこととなった(9)。
3)コソヴォ空爆とNATOの役割変容
1991 年、ユーゴスラヴィアのミロシェヴィッチ政権下で、新たな紛争が南東欧のコソヴォで勃発する。
80 年代から紛争の火種を抱えていたアルバニア人とセルビア政府との対立は、ミロシェヴィッチ政権下
で激化し、98 年にコソヴォは独立を宣言した。コソヴォの KLA(アルバニア人解放軍)とセルビア軍の戦
闘が拡大する中、国連及びEUが調停を行う。交渉が膠着状態に陥ると、NATOは 99 年 3 月 24 日に、
セルビアに対して空爆を開始した。中欧 3 国がNATOに加盟して 12 日後の空爆開始であった。
このコソヴォ空爆の最中、99 年 4 月に開かれたNATO創設 50 周年を記念する式典と首脳会議では、
NATOの新しい役割が表明された。コソヴォへの空爆は、まさにNATO半世紀を経て、21 世紀に向
けてのNATOの役割変容を、現実世界において承認する契機となったのである。
50 周年を機に確認された新しいNATOの役割とは、
「新戦略概念」の実体化である。すなわち、第
1 に、安全保障のグローバル化に伴い、領域内の安全のみならず、外部の地域・民族紛争に対して、「域
外派兵」を行いうること、第 2 に、旧来「国家主権」と「内政不干渉」によって阻まれてきた当該国の「人権
侵害」に対しても、その侵害が著しい場合には、外部からの軍事進入は、「人道的介入」として国際的に
容認されうること、第 3 に、そうした「人権侵害」が著しく緊急の対応を要されると判断された場合、一
部の国の「拒否権」でそれを行使できず膠着状態に陥ることを避けるため、「国際機関の承認を回避」して、
緊急に軍事派兵をすることもありうると解釈された(10)。
こうしたNATOの役割の大幅な変容は、歴史的に複雑な民族・領土関係を軍事力以外の手段で解決
42
を目指そうとするヨーロッパ諸国の疑念と反発を引き起こすこととなった。
4)9.11.テロ・アフガン空爆とNATO
ヨーロッパ諸国の多くは、NATOのコソヴォ介入を、例外的なものに押しとどめようとしたが、ア
メリカは逆にコソヴォ空爆を機に、NATOの解釈を押し広げようとした。
米欧の認識の差をさらに拡大させる景気となったのが、9.11 のアメリカへのテロである。 この事
件の経緯の中で、アメリカに対して最初に哀悼の辞とテロへの断固たる協力を表明したのは、ロシアの
プーチン大統領であった。さらにイギリスのブレア首相を筆頭とするヨーロッパ諸国の首相、WTO 加
盟を急ぐ中国など、「大国」の多くが、テロに対して迅速な支持を表明した。ただし、ヨーロッパには、
アメリカの軍事力行使による解決への懐疑が存在し続けた。
(とりわけドイツ、フランス)
こうした中で、ロシアの役割が急速に拡大する。ロシアにとって、このテロは願ってもない転機への
チャンスであった。ロシアは、NATOの拡大でヨーロッパからの孤立を感じており、また国内チェチ
ェンにおけるイスラム過激派の独立要求に対して、「人権擁護」の立場から、欧米の批判を受けていた。
そうした状況を変えるには、このテロを契機に、中東への「戦略的重要性」を鼓舞しながらロシアの国
際的・軍事的役割をアメリカに理解させ、NATO拡大によるロシアの孤立化を脱し、さらにチェチェ
ン攻撃を「対テロ国際協力」として正当化するという点で、これ以上の好機はなかったといっても過言で
はない。
ロシアのアメリカへの接近は、イギリスのブレアにより、NATO・ロシア理事会の設置を提案させ
ることとなった。2002 年 5 月 28 日、NATO首脳会議がローマで開かれた。そこではNATO・ロシア
理事会の創設が承認され、ユーロアトランティック地域の広範な安全保障に関する協議、統一見解の確
立、協力、共同決定、共同行動がとられることになった。ただこのNATO・ロシア理事会は、実質的
には 97 年 5 月のNATO・ロシア基本条約で承認された常設理事会と必ずしも大きな違いがないとする
見方も存在する(11)。
いずれにせよ、アメリカでのテロを契機にして、NATOは、國際テロ、核不拡散、生物化学兵器へ
の対応を新たな課題としていくこととなる。
しかしこのようなアメリカ主導によるNATOの、紛争解決に対する軍事力優先の考え方は、何より
も安定と信頼醸成を基本とし、OSCE(欧州安全保障機構)、EAPC(欧州大西洋パートナーシップ理事会)
などの国際協議機関の対話と交渉によって、問題解決を促進しようとしたEU諸国との間に軋みを生み、
コソヴォの教訓から、応酬独自の判断による決定と行動を阻むEU諸国により、EU緊急対応部隊の設
置(03 年)を検討させることとなっていく。
2002 年 11 月 21 日、NATO拡大を決定したチェコ・プラハでの首脳会議において、国連の査察への
イラクの対応次第では、イラク攻撃もありうることが宣言された。しかし「主権への干渉」に対して「正
義」を掲げて軍事介入することに慎重であるべきことを説いた、「プラハの春」を体験したハベル大統領
の発言(12)に象徴されるように、欧州の姿勢は依然慎重である。
以下、冷戦終焉後、紛争とテロの拡大の中で、NATOの役割変容におけるアメリカ、ヨーロッパ、
ロシア、中・東欧の安全保障観を相互に比較・検討する。
III.
NATOを
NATOを巡る安全保障観の
安全保障観の相互比較:
相互比較:西欧、
西欧、中・東欧、
東欧、ロシア
1)アメリカの安全保障とNATOの位置づけ
NATOは言うまでもなく、冷戦期にはアメリカ主導の対ソ連・東欧社会主義体制封じ込めのための
ヨーロッパ機構であったが、冷戦後、アメリカの安全保障の場は、中東及びアジアへ移行し、ヨーロッ
パではむしろ成長しつつあった欧州安全保障協力会議(CSCE)に肩代わりし対話と信頼醸成の場に移
行しようとした。結果的にアメリカ軍がヨーロッパに残ることとなったのは、バルカンでの民族地域紛
争の勃発とヨーロッパ諸国がアメリカ軍の撤退を欲しなかったこと、及びアメリカの戦略としても、単
独の安全保障(ユニラテラリズム)は高くつく、冷戦後の新たな敵に対抗するには共同する必要がある、
という観点と結びついていた。ただしアメリカはNATOの軍事的貢献に期待したわけではなかった。
2)西欧にとっての安全保障
欧州は、冷戦後、CSCE のような全欧州の対話と共同の安全保障へと移行しつつ、アメリカの軍事力
を欧州にとどめることで、安定化を図ろうとした。冷戦終焉後の安全保障の脅威として、西欧では、3
つの点をあげている。
まず第 1 に、ヨーロッパでは、アメリカとは異なり、欧州の安定と発展を保障するために「内部の」
不安定要素を取り除くことが、安全保障の基本命題である。
すなわち、「ヨーロッパの庭」であるバルカン地域で、冷戦後 10 年間続いた民族・宗教戦争、領土紛争
に終止符を打ち、これらの地域の安定的発展を保障すること、および東ヨーロッパにおいて、社会主義
43
体制から資本主義体制に「移行」する過程において、さまざまの改革の失敗、とくに経済格差の拡大や、
国民への犠牲の転化による社会的困難、一部東部地域における人権侵害や、国家解体の危機などの不安
定要素に対して、これを可能な限り早期に問題発見し解決していく予防外交、信頼醸成が基本である。
第 2 に、ヨーロッパの安定を脅かす東の脅威として、主にロシアやウクライナの核戦力の存在と、核
弾頭など核拡散の脅威、NBC 兵器(生物化学兵器)の拡散の脅威、さらには兵器生産に使用可能なテク
ノロジーの拡散の問題が挙げられる。NATO東方拡大の初期の目的は、特にこのような危険な兵器類
の拡散やマフィアの流入に対する「国境警備」の問題が重視されていた。とりわけ、ソ連社会主義体制の
崩壊後、ロシアの核管理がアナーキーかする中で、「核弾頭がアタッシュケースに入れられて持ち出さ
れる」という機器への管理が早急に必要とされた事実がある。
第 3 は、より広域への対応として、國際テロ、組織犯罪、大量難民の流入、重要資源の崩壊、など幅
広いリスクの可能性に対応するという問題がある。
これは、新たな危機管理としてのNATOの位置づけと重なる。しかし欧州は、歴史的に大量の移民・
難民を受け入れ融合してきた歴史があり、さらに国内に大量のイスラム住民を抱えている。ゆえにイス
ラムの問題は、欧州にとっては、アメリカのように「世界戦略」の一環として捉えるだけでなく、既に国
内問題への対応の一部となっている。それゆえこの問題については、アメリカに比べてより慎重に対処
せざるを得ないという事情がある。
3)中・東欧にとっての安全保障
中・東欧にとっての脅威認識は、これとは若干異なる。
中・東欧の最大の「歴史的」かつ「潜在的」脅威は、皮肉なことに 89 年まで「社会主義共同体制」を形成
していたロシアである。このロシアに対する安全保障観が、彼らのNATO加盟要求の第一の根拠とな
っている。
中・東欧は歴史的に、東西のドイツ・ロシアいずれかの大国の拡大・膨張によって蹂躙されてきた。
現在、ドイツの脅威は、EU・NATOという機構にドイツが包摂されている限り、現実的ではない。
(ドイツ経済圏に組み込まれるという危機感はあるが、基本的脅威とは異なる)これに対してロシアの
軍事的・政治的脅威は、いまだ明確に存在する。
冷戦終焉後、NATOの役割喪失の中で、最初にNATOに急速に接近していったのは中欧諸国であ
り、それを促したのはソ連のアナーキー化であった。コソヴォ危機の際にも同様に、中欧諸国には、バ
ルカンへのロシアの関心の再燃に対する危惧が存在した。
そのため、9.11 後、ロシアがアメリカ・NATOに急接近したことを最も困惑して迎えたのは、中・
東欧諸国であった。国により温度差はあったが、ハンガリー、ポーランド、チェコの当局代表は、ロシ
アとNATOの理事会の設置に失望を隠さなかった。チェコのハベル大統領は繰り返し、ロシアをNA
TOに入れるべきではないと、NATO諸国に訴えている(13)。
中・東欧にとっての第 2 の安全保障上の脅威は、バルカンの民族・地域紛争である。冷戦終焉と「ヨ
ーロッパは一つ」のユーフォリアを早期に崩したのは、ユーゴスラヴィアの解体に始まる 10 年間続いた
バルカンの民族紛争であった。ユーゴの紛争は、1991 年から 2000 年まで、社会主義から資本主義への「移
行」に苦悩する中欧諸国のすぐ南の境界線で泥沼化して継続し、多くの難民が流入した。コソヴォのN
ATO空爆の際にはハンガリーの首都と南部ではNATO軍攻撃に向かう戦闘機の爆音が聞かれた。彼
らにとって生活圏でもあるヨーロッパ南部の安定は、豊かさ・発展の要求と共に、悲願に近いものであ
った。
安全保障の第 3 は、独・ロに挟まれた中・東欧という多民族地域、民族混住地域の安定と発展をユー
ロ・アトランティック(民主主義、人権、市場経済、アメリカの関与)の下に実現していくことである
(14)。
しかし現実には、1999 年の中欧 3 国のNATO拡大は、その直前のNATOとロシアの基本条約及び
常設理事会の設置を生むことによって認められ、直後にはコソヴォ空爆が実行された。同様に 2002 年
11 月、プラハでNATOの第二次世界大戦二次拡大が決定された際には、その直前にNATO・ロシア
理事会が創設され、会議では対イラク戦争への呼びかけがなされた。このように、現実のNATOの拡
大は、中・東欧の意向とは逆に、周辺への軍事力の行使とロシアの引き込みへと働いている面がある。
中・東欧諸国は、NATO加盟によっても結局ロシアの影から逃げられず、紛争の軍事的解決のコマ
となることを余儀なくされている皮肉な現状がある。ルーマニア、ブルガリアは、イラクへの攻撃協力
を最大の条件として加盟承認された。そのため、NATOの中でも緊急派遣部隊への参加に積極的意欲
を示している。アメリカのイラク攻撃に独仏が慎重な中で、NATO加盟により忠誠を示そうとする第
2 陣加盟 7 カ国がより戦争準備に積極的姿勢をとっている現状がある。
4)ロシアにとっての安全保障
44
対して、ロシアにとっての安全保障は何であろうか。膨大な領土を持つロシアにとって、東西南の境
界線を防衛することは、社会主義時代も含めて死活の課題であり続けた。
ロシアにとっての安全保障領域は、1)ヨーロッパ、2)中国・極東、3)中央アジアに大別される。
社会主義体制崩壊後は、エリツィン、プーチン共にユーロ・アトランティックとの共同を最重要の外交
政策として掲げてきた。しかしEU・NATOなど欧米機関からの閉め出しの中で、1998 年以降は日本・
中国など東に接近し、2000 年 1 月には中国との軍事協力の覚書、3 月には改めて協力関係を確立した。
(15)
しかしプーチンが常に協調するように、ロシアは「ヨーロッパの一部」であろうと試み続けてきた。
その意味で、「ロシアを除外した」EU・NATOの東方拡大は、ロシアの脅威であるのみならず、ロシ
アのプライドを大きく傷つけてきた。
2000 年以降のプーチンの外交は、欧米との協調(中・東欧に対しては、ロシアとの有効政権の確立と
存続)を基盤としている。ロシアにとっての安全保障の脅威は、何よりもヨーロッパ及びアメリカが、
ロシアを除く安全保障機構をロシアのすぐ隣の境界線まで拡大することであり、ゆえにその反ロシア性
を取り除くこと、願わくばその機構にロシア自らが参加することを期待してきた。
第 2 は、チェチェンに象徴される中央アジアの諸民族の分離・独立の脅威への対抗と、国内外の(イ
スラム)反対派勢力であり、第 3 は、中国を中心とする東の大国との安定的関係の樹立である。これら
の懸案事項全てに総合的に対応しうる事件・契機として、9.11 のテロが作用し、アメリカにとってロ
シアの軍事的・戦略的位置を大いに高めた。しかしそれは同時に、中・東欧のロシアに対する危惧を改
めて強めることにもなった。
しかし 2003 年 3 月 20 日から始まった米英によるイラク空爆は、再びロシアの位置をアメリカの埒外
に置くこととなる。
IV. NATOの
NATOの東方拡大
以上のような冷戦終焉後のNATOの役割変容と、それぞれの地域・国家におけるNATOをめぐる
安全保障観の違いを踏まえた上で、冷戦終焉後、とくに世紀転換期に急速に進展したNATOの東方拡
大の意味を考えてみたい。
1)冷戦期のNATO拡大
冷戦が深刻化し始めた 1949 年にソ連・東欧に対する西側の軍事同盟としてNATOが成立して以降、
NATOは、52 年にギリシャとトルコ、55 年に西ドイツ、82 年にはスペインが加盟し、その領域を拡
大してきた。90 年には統一ドイツが西ドイツに変わって加盟した。52 年のギリシャ、トルコの加盟は、
まさにソ連の東方拡大を牽制する冷戦の論理であった。しかしその後 1982 年のフランコから解放され
たスペインの加盟、東の社会主義崩壊と西への統合による東西ドイツの加盟は、むしろ新しく台頭して
きた「人権」と「民主主義」の論理に基づく拡大であったといえる。冷戦終焉、ワルシャワ条約機構の解体
の中で、NATOという機構を存続させたのは、辛くもこうした 80 年代から 90 年代にかけてのNAT
Oの人権と民主主義の防衛という「価値概念」への転換であった。
2)中欧諸国のNATO加盟要求と多角的な安全保障
今一つ、NATO解体の危機を救ったのは、中欧諸国のNATO加盟要求であった。中欧諸国は、90
-91 年に積極的にNATO首脳に接近し、NATOはむしろ「旧社会主義諸国を旧ソ連から守る」組織と
して、その拡大が期待されることとなった。
このような予期しなかった外部からの役割要請に対して、当初、NATOはロシアを意識してむしろ
慎重であった。アメリカは冷戦終焉後、ヨーロッパ大陸の防衛から可能な限り手を引き、「欧州の欧州
による防衛」を期待していた。また西欧の側は、東の解体のユーフォリアの中で、軍事力によるよりも
むしろ「多角的な安全保障」を望んでいた。
冷戦崩壊当初は、むしろ 1975 年に設立された CSCE(欧州安全保障協力会議:後 95 年には OSCE:欧
州安全保障協力機構)に依拠した、欧州全体の信頼醸成の確立が目指された。そして対話に基づく「予
防外交」実現の協議体として、ロシアを含む東西欧州全体に網をかける NACC(北大西洋協力評議会)
が 91 年に設置され、94 年には、NATOとの共同行動を行う PfP(平和のためのパートナーシップ)
が設けられたのである。
しかしこれには、中・東欧諸国がロシアとの一括に強い不満を示し、結局十分な成果を挙げないまま、
別の選択肢、すなわちNATOの拡大が要請されていくこととなる。
3)アメリカのNATO拡大決定:1995 年
こうした中で、戦略転換を図ったのは、欧州ではなくアメリカであった。
1995 年 10 月、第 2 回目の大統領選挙のさなかに、クリントン大統領は、東欧系移民のアメリカ人が
45
多いデトロイトで、NATOの東方拡大を推し進めること、1999 年のNATO50 周年までにその何カ
国かの加盟を実現することを表明した(16)。これは、大統領選挙を勝利に導くために、東欧移民票を獲
得する公約であったと共に、社会主義体制崩壊後、経済・政治改革が進まず、エリツィンの指導力も低
下しているロシアを見限り、ロシア影響下にあった旧東欧諸国を欧州の側に取り込んだことをも意味し
ていた。
4)コソヴォ空爆と新たなNATOの拡大方針
1999 年 3 月の中欧 3 国のNATO加盟にコソヴォ空爆が始まり、4 月の NATO 創立 50 周年の大会が
コソヴォ空爆のさなかに開催されたことは、NATO 拡大が、欧州ないし中欧が期待したような政治的役
割へと変容したのではなく、逆に欧州の安定化が軍事力によって実現するということを示した。99 年 4
月のNATO首脳会議では、冷戦の終結後の NATO の役割が「連合の戦略概念」として明示され、これ
と平行して「加盟のための行動計画 Membership Action Plan(MAP)」として新たな 9 カ国(リトアニア、エストニア、ラ
トヴィア、スロヴェニア、スロヴァキア、ルーマニア及びマケドニア、アルバニア)が 2002 年までに招聘されることを示した(17)。拡大
は、東西欧州の統一と、パンヨーロッパの安全保障の実現として、域外への派兵、人道的介入、EU の
共通外交と安全保障の拡大など EU の軍事面での拡大、ヨーロッパにおけるアメリカの役割などが確認
されることとなった。
(17)ウクライナは、ロシアと並んで、特別の友好関係に入るとされた。これは、
NATOのユーゴへの空爆を、自国の多民族政策と絡めて危惧していたバルカンの諸国に、将来の加盟
目標を設定することにより、NATOの軍事行動に協力させる意味合いも持っていた。
5)9.11 テロ後のNATO第二次拡大
9.11.テロ後、NATO加盟諸国は基本的にアメリカを支持したものの、対テロ国際協力において
ロシアの軍事的積極性と対照的に、アフガン空爆にはイギリス以外、積極的参加はなかった。欧州とア
メリカの軍事力行使に関する考え方の差異は、コソヴォ以降徐々に広がっていった。
2002 年 5 月には、NATO・ロシア理事会の設置と共に、NATOの東方拡大が、5+2 の 7 カ国(上
記 9 か国中、マケドニア・アルバニアを除く)に対して行われることが示された。ただし、スロヴァキアは、9 月
22 日の総選挙で、反NATOのナショナリスト、メチアルの民主スロヴァキア運動が勝てば加盟不可能
とし、ルーマニア、ブルガリアは、マイノリティの人権に関し注視が必要であった。02 年 9 月、懸案の
スロヴァキア総選挙では、メチアルの党は分裂して多数派を取れず、再び民主派連合が勝利し、加盟は
確実となった。またイラク攻撃の可能性が高まったことから、ルーマニアなど黒海沿岸の諸地域の地政
学的重要性が高まり、結局 02 年 11 月のプラハ首脳会議では、予定通り、7 カ国への加盟が承認された。
しかしこのNATO拡大も、イラクに対するNATOの共同行動など、軍事的結束を確認するものと
なった。会議では、独仏の懸念にもかかわらず、想定されるイラク戦争を意識し、イラクに対して国連
決議の「完全かつ即時の遵守」を要求すると共に、「違反が続けば深刻な結果を招くとした安保理決議の
警告を確認する」という、国連安保理決議 1441 に見られるようなアメリカの対イラク強硬姿勢を補完す
るものとなったのである(18)。
6)イラク戦争と欧州の分断:
「新しいヨーロッパ」のアメリカ支持
NATOが、「必要とされるあらゆる場所への部隊派遣をする」ことを明確にし、ラムズフェルド米国
防長官が、テロに機動的に対応する「NATO即応部隊」の創設を宣言したことに対し、ヨーロッパの仏
独は、「域外への部隊派遣に抵抗感を持つ国は少なくない」とし、国連決議や国会承認などの歯止めを提
案した(19)。NATO拡大の中で、むしろアメリカの域外への軍事力強化と即決行動と、ヨーロッパの
国連重視と脱軍事化・多国間主義の姿勢の違いが顕著になってきたのである。
こうした中で、加盟を希望する中・東欧諸国(特にルーマニア、ブルガリア)は、NATO加盟の見返りに、
イラク攻撃への積極的協力、ルーマニアなどは 280 人近い兵力の拠出を約束するなど、イラク攻撃支持
が加盟のためのカードとなってきている。またポーランドも 200 名の兵士を派遣し、欧州大国よりアメ
リカへの支持を強めている。(20)。
ロシアの
ロシアの位置とその
位置とその国際的役割
とその国際的役割の
国際的役割の変容
NATOの役割の変容と同様に、ロシアの位置とその国際的役割も、冷戦後、大きく変化している。
1) 1989 から 90 年代前半のロシアの位置
1917 年のロシア革命以降、両大戦間期喚起、第二次世界大戦後の冷戦期など 20 世紀を通じて、対立
関係にあった、欧米とソ連の関係は、冷戦終焉後変化し、ゴルバチョフが「欧州共通の家」を語り、ミッ
テランがそれに呼応したように、90 年代前半は、
「旧ソ連・東欧一括取り込み」による全ヨーロッパ安
全保障計画が目指されてきた。
こうした中、1993 年 8 月には、エリツィンがポーランド・チェコを訪問し、中欧のNATO加盟を容
V.
46
認する発言を行ってセンセーションを巻き起こす。ただしその後ロシア国内で軍部が一斉反発し、エリ
ツィンは前言を取り消すこととなった(21)。この事件により、中欧は、逆にロシアを警戒してNATO
加盟要請をさらに推進することとなった。
2) ロシアの孤立化、緊張の激化
1997 年 5 月、NATO・ロシア基本文書が取り交わされ、NATOとロシア常設合同理事会が創設さ
れた。これを踏まえて、97 年NATOのマドリッド宣言が出され、中欧への拡大が決定された。ただし、
この拡大は通常兵器のみの展開で、核配備はしないことが決定された。ハンガリー、ポーランドなどの
政府の一部は、この決定に不満を表明し、ハンガリー首相オルバーンは、自国への核配備を要求して波
紋を呼んだ。
1999 年 3 月のコソヴォ空爆と、国連安保理決議の回避は、ロシアの孤立化を促した。以後ロシアは、
一時アジアに向かい、98 年には日本に接近して、北方領土問題と引き換えに有効と支援を画策し、それ
が失敗すると 2000 年には中国に接近して、軍事協力関係を締結した。また新軍事ドクトリンを発表し
て、ロシアとその同盟国が危機におかれた場合には核の先制攻撃も辞さないことをも表明した(22)。
3) アメリカのテロ・アフガン空爆と、NATO・ロシア関係の強化
2001 年の 9 月 27 日、ロバートソン事務総長は、NATOとロシアの関係の歴史において、「テロリズ
ムとの戦い」に対する共同の歴史が始まりつつあると述べた。
同年 11 月 19 日に、イギリスのブレア首相が、NATO・ロシア理事会を提案し、これは早期に承認
されることとなった。チェコのハベル大統領は、「ロシアをNATOに入れるべきではない」として中
欧の危惧を表明したが、もとよりその決定権は中欧の側にはなかった。ロシアは、アフガンへの協力か
ら、WTO(世界貿易機関)加盟の可能性も取り付け一時は 03 年の加盟見通しもあったが、資源価格取
り決めの問題で交渉は頓挫している。
以上を踏まえ、02 年 5 月 15-16 日のレイキャビク、5 月 28 日のローマでの会合の結果、NATO・
ロシア理事会の創設が決まった。これによってロシアはNATOの諮問機関から対等な共同意思決定機
関へと昇格した、とロシア側からは解釈される。しかしNATO事務総長ロバートソンは、ロシアとの
理事会 19+1 は基本的に 20 カ国方式ではあるが、ロシアは NAC(NATOの理事会)には招かれるが、
NATO の重要な決定権について拒否することはできない、と加盟候補国との違いを強調している。これ
は現実には、ロシアと関係しない問題については参加権を持たないこと、決定を拒否する権利を行使で
きないなど、NATO加盟国とは明確に一線を画している。
02 年 6 月に、プーチンは、中国の江沢民との会見で、「中国、ロシア、西欧諸国と米国は、
『安定の円
弧』を形成する」と語った。こうしてロシアは、アメリカの対抗勢力、対抗的価値であることを辞めた。
以後、世界のグローバル化の中で、アメリカという国際的一極パワーへの対抗勢力は、テロや各国の散
発的な右翼以外なくなっていく。国際関係におけるユニラテラリズムは、軍事・経済・政治のパワーを
集中するアメリカへの対抗勢力がなくなった時点で、必然的に現れたとも言える。
VI.
EUと
EUとNATOの
NATOの拡大:
拡大:相互関係
以下、EUとNATOの拡大の技術的な違いの問題について踏まえておく。
1)拡大領域
冷戦終焉後のEUとNATOの拡大の違いは、EU拡大に際しては、政治・経済・社会面で厳しい加
盟規準が存在したこと、他方でNATOは、そうした詳細な構成規準にこだわらずに、政治的・地政学
的に加盟国を選択することが可能であったということである。そのためEUには経済・社会的に未だ加
盟できそうもないバルカン諸国は、NATO加盟を第一義的目標として拡大を準備することとなった。
とりわけ、9.11 のテロ以降は、安全保障の重点領域が、バルカンから中央アジア・黒海沿岸に移動し
ていったため、黒海・中央アジアに隣接するルーマニア、ブルガリアは、拡大に強い意欲を示すことと
なった。拡大領域の決定は、基本的にアメリカ主導によって行われた。その結果、02 年 11 月のプラハ
のNATO首脳会議では、人権面でEUが難色を示す部分もあったものの、ルーマニア、ブルガリアの
加盟が決定されていったのである。
2)軍事機能の分担
1999 年のコソヴォ空爆以降、NATOにおけるアメリカの発言権が強化されたことから、ヨーロッパ
諸国は、欧州の問題に関しては、欧州が独自の責任を持つという観点から、EU独自の緊急部隊設置の
動きが急速に浮上した。
NATOは、欧州安全保障防衛アイデンティティ(ESDI)の推進として、事務総長ロバートソンは、
3I 政策(Improvement, Inclusive, Indivisibility:能力改善、同盟国の包含、同盟国の安全保障の不可分性)
を謳い、アメリカは、3D 政策(no Decoupling, no Duplication, no Discrimination: 切り離さない、重複しな
47
い、差別しない)というスローガンを打ち出した(24)。
ただし、2001 年後半以降は、アメリカの軍事的単独行動(Unilateralism)に対する欧州の意見の食い
違いも表面化している。とりわけ、2002 年 9 月のドイツ総選挙で、シュレーダー首相が、対トルコ戦に
加わらないことを表明したこと、フランスのシラク大統領が、EUの自立性を謳ったことで、アメリカ
もイラク攻撃に関して単独行動を辞さないとする路線に、軌道修正を余儀なくされつつある。
他方、EUの危機管理能力の向上としての緊急対応軍の創設については、アメリカはむしろNATO
の強化につながるとして、歓迎している。
VII. まとめ:
まとめ:イラク戦争後
イラク戦争後の
戦争後の NATO 拡大の
拡大の課題と
課題と展望
NATOの拡大と欧州の安全保障に関する課題と展望は次のようにまとめられよう。
1)NATO拡大と欧州の安定と民主化
欧州にとっては、NATO拡大の第一義的な課題は、ヨーロッパ全体の安定と民主化である。欧州と
しては、NATOを欧州以外の安全保障を維持するために拡大しようとする意図は、きわめて弱いと考
えられる。逆にヨーロッパ首脳の側には、アメリカの戦略主導による急速な拡大への危惧が存在する。
他方でロシアは、プーチン大統領が言うように、「機械的拡大は加盟国の安全を高めない」として、
拡大自体が安全保障には直接つながっていないことを示唆している。
ここには世界の紛争への目付け役としてのNATO(米単独ではなく burden sharing)を望む米英及
びロシアと、欧州の発展のために、最小限の安全保障の決定権を自分たちの手に確保しておこうとする
欧州の世界観の違いを見て取ることができる。
2)軍事予算の増加と軍改革の方向
NATO拡大はNATO加盟各国に軍事予算の増大と財政の圧迫をもたらしている。
EU加盟国の多くは、基本的に既存の軍事力を利用することで間に合うとされるが、拡大対象国につ
いては、旧社会主義国の戦闘機など、軍関係の装備を全面的に西側の装備に改めばならないことから、
多額の予算が必要とされている。
現在、加盟後あるいは加盟承認された国々の軍事費は、それぞれ GDP の 2%を超え、負担にあえいで
いる。ハンガリーは、ポーランドやチェコのように、軍事費が2%を越えていなかったことから、free rider
であり義務を果たしていないとして、Foreign Affairs
誌上で批判を受け、軍備の購入は、軍内部の改革などの努力を促された(25)。
拡大に関するコストは、社会保障削減など、国民の生活を圧迫し、民衆の負担をより高める方向に進ん
でいる。
3)グローバル化の下での社会問題と安全保障
EU・NATOの拡大によって引き起こされる様々な問題(移民、失業、犯罪)は、各国の民衆の閉
塞状況と不満の鬱積を生み、それをすくい取る形で各地で右翼が成長している。2000 年のオーストリア
でのハイダー自由党の政権参加に始まり、02 年のフランスの大統領選挙、オランダの総選挙に見られる
ように、移民・失業・社会問題、農業問題などを中心に、各国でナショナル・インタレストの擁護、民
衆生活擁護の要求が広がっている。
他方で、2002 年秋のドイツやスウェーデンの選挙では、かろうじて社会民主党の巻き返しが起こって
おり、またオーストリア総選挙での自由党の敗北など右翼の退潮も見られる。こうした流れは、欧州の
安全保障と無縁ではない。これら、内部からの対立・軋轢を抑えるためには、各国及び欧州内部の貧富
の格差・地域格差の是正努力はもとより、欧州の外の民族・地域格差への配慮と対応も不可欠になって
くるのではないか。
4)アメリカのユニラテラリズムと「國際対テロ協力」
9.11 およびイラク戦争に顕著に見られるアメリカの単独主義の進行とブッシュドクトリンは、アメリ
カと周辺国との間に軋みを生んだ。アメリカの単独主義に対する対抗勢力、対抗的価値が、国際政治上
殆どなくなってしまう状況を危惧し、こうした状況を克服するため、2002 年秋以降、欧州はEU、仏独
を中心に、国際社会における多元主義(マルチラテラリズム)、対話と寛容の構築を強調している。欧
州の統合(あるいはアジアの再編)が、アメリカの一元化への歯止めとなる力を持ちうる形で成長する
かどうかが、今後の国際関係において主要な課題といえるのではないだろうか。
(注)
(1)「民主主義国同士は戦争をしない」という論説で有名なブルース・ラセットは、その著書『パクス・
デモクラティアー冷戦後世界への原理』(鴨武彦訳、東京大学出版会、1996 年)の序文で、冷戦期の『封
じ込め』に変わる政策として、民主制と自由経済の「拡大」の追及があることを、アンソニー・レイク
48
米国家安全保障担当大統領補佐官の言(93 年)を引いて述べている。i, iv 頁。
(2)ハンチントン著、鈴木主税訳『文明の衝突』 頁。米国の挑戦は欧州から来るという主張は、米
ジョージタウン大学カプチャン教授の言、『朝日新聞』2003 年 4 月 13 日 1 面。
(3)コソヴォと「人道的介入」の問題を多面的に検討した論文集として、Kosovo and the Challenge of
Humanitarian Intervention: Selective Indignation, Collective Action, and International Citizenship, Ed. by
Albrecht Schnabel and Ramesh Thakur, United Nation University Press, Tokyo, New York, Paris, 2000.を参照。
(4) NATO 関係者へのインタヴュー、資料聴取。2002.8. A NATO-tag Magyarorszag/ Hungary: A Member of
NATO, Editor Rudolf Joo, Budapest, 1999.
(5) 渡邊啓貴編『ヨーロッパ国際関係史』有斐閣、2002 年、264-266 頁。
(6)2003 年 3 月の欧米対立を報じる各新聞。「一つになれない欧州:イラク戦争の影響と今後」佐瀬昌盛・
羽場久シ尾子『毎日新聞』夕刊、2003 年 4 月 11 日。
(7)NATOの東方拡大および拡大と関連しての欧州安保に関する文献としては、以下を参照。NATO の
homepage: http://www.nato/int/, The European Security and Defense Policy: NATO’s Companion – or
Competitor ?, Rand, 2002. Wilson Forum, European Defense Cooperation, Asset or Threat to NATO, Michael
Quinlan, Washington D.C., 2001. A NATO-tag Magyarorszag, Hungary: A Member of NATO, op. cit.,
“Kelet-Kozep Europa es a NATO bovites, Integracio es nemzeti erdek(中・東欧と NATO 拡大:統合と国益),
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Oleg Bogomolov, “Interrelations between political and economic change in Russia and the CIS countries, A
comparative analysis”, in The Democratic Process and the Market’ Challenges of the Transition, ed. by Mihaly
Simai, University Nations University Press, Toyo, New York, 1999. 佐瀬昌盛『NATO:21 世紀からの世界
戦略』文芸春秋新書、1999.谷口長世『NATO―変貌する地域安全保障』岩波新書、2000.広瀬佳一
「NATOの東方拡大」『ヨーロッパ国際関係史』渡邊啓貴編、有斐閣、2002.筆者もこの間、『拡大す
るヨーロッパ 中欧の模索』岩波書店、1998.
『グローバリゼーションと欧州拡大』御茶ノ水書房、2002.
「EU・NATOの拡大と中欧」『ヨーロッパ統合のゆくえ』宮島喬・羽場久シ尾子編、2001.9.などで、
NATO の拡大について検討してきた。
(8)The Alliance’s New Strategic Concept, NATO homepage:
http://www.nato.int/docu/comm/49-95/c911107a.htm
(9) 中欧 3 カ国(ハンガリー、ポーランド、チェコスロヴァキア:当時)首脳は 90 年から定期的に集まり、
国家連合を構想したがならず、91 年 2 月の 2 度目の会合、
ハンガリーの古都ヴィシェグラードにおいて、
国家連合ではなく地域協力関係を築いて、共同で NATO 加盟・EU 加盟を目指すこととなった。Visegradi
cooperatio, Nepszabadsag, 1991 februar.
(10)50 周 年 式 典 で の コ ソ ヴ ォ 評 価 と 人 道 的 介 入 に つ い て は 、
http://www.nato.int/docu/comm/1999/9904-wsh/9904-wsh.htm 、 Kosovo and the Challenge of Humanitarian
Intervention, Selective Indignation, Collective Action, and International Citizenship, Ed. by Albrecht Schnabel
and Ramesh Thakur, United Nations University Press, 2000.
(11) NATO ロシア理事会の homepage, http://www.nato.int/docu/handbook/2001/hb130202.htmwo を参照。
NATO におけるロシアの位置に関しては、Brussels, NATO 関係担当者の見解。2002.8.7.
(12)NATOのプラハサミットでの、チェコ大統領ハベルの発言、『朝日新聞』2002.11.23. 天声人語。
ラヂオプレス、中・東欧 Fax News, 2002.11.23.
(13) チェコ大統領ハベルの NATO ロシア理事会設置に関する言『朝日新聞』2001.11.19.
(14) Joo Rudolf, “NATO and Hungarian Policy”, 憲政会館での講演会、2000 年 3 月 3 日、および Hungary:
A member of NATO, Ed. By Joo Rudolf, Budapest, 1999.
(15) 「中国、ロシアと協力強化」『朝日新聞』
、2000 年 4 月 1 日。
(16) 米クリントン大統領のデトロイトでの発言。佐瀬昌盛『NATO:21 世紀からの世界戦略』文春新
書、1999 年、174-175 頁。
(17) 1999 年 4 月の NATO40 周年の会議における、NATO の戦略概念および加盟のめの行動計画 MAP
は、http://www.nato.int/docu/comm/1999/comm99en.pdf、
NATO の 拡 大 と 欧 州 安 保 は http://www.nato.int/acad/fellow/98-00/spinant.pdf を 参 照 。 ま た
http://www.nato.int/docu/handbook/2001/index.htm には、加盟のための行動計画と第 2 陣 9 カ国+1(クロ
アチア)が表記されている。ハンガリーの新聞では、1999 年 4 月 26 日、米クリントン大統領と握手す
るハンガリーの首相オルバーンの写真と共に第 2 陣の加盟候補国 9 カ国と特別パートナーシップを確立
したウクライナが明記されている。Nepszabadsag, 1999.Aprilis 26.
(18) 国連安保理決議 1441.和文訳全文は、http://www.unic.or.jp/new/pr02-104.htm
(19) 2003 年 1-3 月、イラクへの国連の査察継続か対イラク戦争かをめぐっての、仏独と米英の対立。
2003 年 1-3 月の諸新聞。
49
(20) Nepszabadsag, januar - marcius, 2003., 中・東欧 FAX News, 2003.1-3.
(21) ポーランド、チェコ歴訪に際して、ロシア大統領エリツィンは、中欧諸国の加盟容認発言をし、
その後撤回する。1993 年
(22) ロシア連邦新軍事ドクトリン。全文は、Rossiiskaja gazeta, 25 aprelja 2000.
(23) 2002 年 6 月、プーチンの発言。
(24)
欧 州 安 全 保 障 防 衛 ア イ デ ン テ ィ テ ィ ( ESDI ) に つ い て は 、
http://www.nato.int/docu/handbook/2001/hb0401.htm、2001 年 1 月 29 日におけるロバートソン事務総長のチ
ャタムハウスでの ESDI に関する演説の全文は、http://www.nato.int/docu/speech/2001/s010129a.htm
(25) Celeste Wallander, “NATO’s Price: Shape Up or Ship Our”, Foreign Affairs, November/December 2002.
<参考・
参考・関連文献>
関連文献>
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51
52
5.拡大EU
拡大EUとその
EUとその境界線
とその境界線をめぐ
境界線をめぐる
をめぐる地域協力
――地域
――地域からな
地域からなる
からなるヨーロッパ再考
ヨーロッパ再考――
再考――
羽場久美子
1.<はじめに:問題の所在と分析枠組み>
第二次世界大戦後、冷戦の始まりと共に 1947,8 年から社会主義体制に移行した東欧において、56 年
のハンガリー、68 年のチェコスロヴァキア、80 年のポーランドと続く改革と自主独立、連帯の動きは、
89 年大きなうねりとなって東欧全体に広がった。89 年 5 月ハンガリーで欧州の東西の鉄条網が切断さ
れ、11 月ベルリンの壁が崩壊する中、12 月に冷戦の終結が宣言されると、旧東欧の人々は「欧州への
回帰」を掲げて次々と社会主義体制を放棄していくのである。その後 1990 年 10 月に東西ドイツが統一
すると、
「一つのドイツ」を契機・象徴として、ヨーロッパは半世紀を経て、再び東と西の共存、
「一つ
のヨーロッパ」の時代に入ることとなった。
そうした中で、東西ドイツを統合し、社会主義体制崩壊後の中・東欧を迎え入れる基盤として、
「地域
からなるヨーロッパ」(1)が唱道されることとなった。すなわち東西ドイツ統一を控えた西ドイツから、
欧州共同体(EC)は、超国家(ヨーロッパ)、国家、地域の三層からなる統合体であること、「地域」がそ
の基軸にあることが提起された。おりしもヨーロッパ議会において「補完性原則」規定され、「地域」
が欧州連合の基礎的なレベルであることが確認された。(2)
他方で、冷戦の終焉と平行して旧ユーゴスラヴィアを中心として、民族・地域紛争が顕在化すること
となった。
民族・地域紛争は、当時「社会主義のタガが外れた」と説明されたが、より直接的には、東西ドイツ
の統一が、戦後不変とされていた欧州の「国境線の再考と改編」を刺激し、それが欧州東半分の民族問
題を再燃させ、多民族国家における連邦制の解体や新たな「民族・地域再編による国民国家形成の動き」
を誘発した点を付け加えることができよう。こうして 91 年にはユーゴスラヴィアが解体しボスニア、
コソヴォに続く民族紛争の泥沼化が引き起こされ、同年チェコ・スロヴァキアは分裂し、8 月にはソ連
保守派と軍部の最後のクーデタの後、ソ連邦自体がウクライナ、中央アジアの独立の中で解体していっ
たのである。(3)
(1)境界線をめぐる地域協力(Cross Border Cooperation)
このような、冷戦の終焉以降の欧州の再編と再統合の流れの中で、これまで閉じられた空間であった
境界線が、再び共同空間、共存領域として意味を持ち始める。欧州におけるそれぞれの境界線において、
国境の意味の低下により、地域交流の活発化と国境を越えた協力関係が展開されるようになった。それ
が、CBC(国境を越えた地域協力)とよばれる、国境間関係の進展である。これは、まず西欧から始ま
り、その後社会主義体制崩壊後の旧東欧に急速に広がり、国境線を巡るさまざまな「ユーロリージョン」
による地域の共同関係を生み出すようになった(4)。中でもカルパチア・ユーロリージョンは、中・東欧
5 カ国の地域間協力で作られたユニークな試みであった。(5)これは、90 年代前半における EC/EU
から中・東欧に対する地域補助 PHARE(6)に支えられ、また CSCE(欧州安全保障協力会議)の平和的
共同活動と平行して、紛争の起こりやすい境界線地域の紛争予防としても広がっていった。
こうした地域の協力・共同関係がうまく機能するかどうかは、市場経済・民主化の遂行と並んで、そ
の後、同じ多民族国家でありながら、中・東欧とバルカンを二分する決定的な要因となった。すなわち、
一方は、その後 1993 年に EU 加盟のためのコペンハーゲン基準や、政治、経済、法律面でのアキ・コ
ミュノテールに基づき 97 年には加盟交渉を開始し、2004 年には EU 加盟を遂げて言ったのに対して、
他方は、民族・地域紛争の収拾がつかず、99 年にはNATOのコソヴォ空爆を迎え、中・東欧に比べて
10 年以上の遅れと荒廃を強いられることとなったのである。ここからも、
「地域」の安定が民主化と発
展にとって要となったことが明らかであろう。
(2)EU とロシアの境界線:カリーニングラード問題
上に見た中・東欧とバルカンの「地域・民族再編」をめぐる差異化の問題に加え、今ひとつの大きな
問題として、EU 諸国と(当面 EU に加盟できない)旧ソ連・CIS 諸国の間における、
「境界線をめぐる対
立関係」がある。
その象徴が、カリーニングラード問題であろう(7)。バルト三国の独立によって、ロシアの飛び地、カ
リーニングラード(第 2 次世界大戦まではドイツ・ケニヒスベルク)がポーランドとリトアニアの間に残
され、また NATO・EU の拡大により新たな境界線がロシアの西の境界にまで及び新しい分断を生み出
すとして、ロシアが警戒心を高めたのである。(8)
53
ロシアの動きに対して、周辺国ポーランド、リトアニアも緊張を高めた。こうした中で、2002 年 11
月、境界線を巡る 2 国間関係では問題は解決しないとして開かれたのが、ロシア・プーチンと EU 委員
長プローディのトップ会談であった。その結果、カリーニングラードとロシア本土の輸送・移動問題に
ついては、EU とロシア、具体的にはリトアニアとロシアの間で「簡易トランジット・ドキュメント
(Facilitated Transit Document)」と呼ばれる、ビザに変わる資料を作成して提出することが決定され
た。(9)
またこれらを踏まえ、境界線を緊張の場にしてはならないという配慮から、EUで打ち出されたのが、
2003 年秋の「ワイダー・ヨーロッパ(広域欧州圏)
」の構想である。(10)これにより、EUは、東はロ
シア、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァ、南は中東 10 カ国という二つの境界線に対して、ヨーロ
ッパの統合と拡大の境界線が、「域外」を差別し除外する緊張と対立の領域ではなく、経済的・文化的
な共存の領域となるべく、理論化・政策化していくこととなる。
(3)コンフリクト・ゾーンからコンタクト・ゾーンへ
同様に、紛争と抗争の民族・地域境界線を、出会いと共存の場へと「転換」しようとする学術的試み
が、2004 年 8 月、EU 加盟国となった中・東欧の 1 国ハンガリーで開催された周辺地域マイノリティの
国際会議で、表明された。
ここでは、冷戦終結後の 15 年間、抗争と殺戮の象徴となっていた旧ユーゴスラヴィアのセルビア、
クロアチア、スロヴェニアの研究者、また格差と貧困の象徴でもあるカルパチア・ウクライナや、チェ
コのロマなど、幾多の問題を抱えている最前線の地域の研究者から、境界線は、抗争地域(コンフリク
ト・ゾーン)ではなく、
「出会いの場(コンタクト・ゾーン)
」であることが、アンソロポロジーの領域で、
次々に明らかにされていったのである。(11)
コンフリクト・ゾーンから、コンタクト・ゾーンへ。これは、東と南へ拡大しつつあるEUの境界線を
めぐって、加盟の是非を問わず、民族・地域の問題をより歴史的な長いスパンで捕らえ、解決の新たな
糸口と方向性を見出してゆく、新しい地域協力・共存研究の動きと見なすことができよう。
本稿では、以下、1)多民族地域たる中・東欧における 19-20 世紀の初頭における地域・民族の共存の
動きの歴史的概観、2)冷戦終焉後のヨーロッパにおける中欧地域協力とユーロリージョンの動き、3)
拡大EUとロシア、カリーニングラード問題、4)コンフリクト・ゾーンからコンタクト・ゾーンへ、と
いう枠組みで拡大EUと地域の問題を分析する。
1. 中・東欧の地域協力関係。歴史的背景。
地理的にロシアとドイツに国境を挟まれた中・東欧の民族と地域、
「はざまの領域(Region Between)」
の最大の問題点は、「民族意識が形成されたとき、独自の国境線を持たなかった」ことである、とシュ
ガーは『東欧のナショナリズム』で述べている。ちょうど民族意識が形成される 18 世紀末から 19 世紀
にかけては、ロスチャイルドやシュガーが言うように、東欧の民族のほとんどが、4 大帝国の支配下に
あった。であるからこそ、彼らは「既存の(大国の)国家」に対抗して、自民族の境界線にしたがって、
国境線を引きなおそうとしたのである。(12)
1848 年革命の際、ハプスブルグ帝国内部のパン・スラヴ主義者(シュトゥール)やオーストロ・スラ
ヴ主義者が、スラヴ諸民族の共存と発展を訴えながら統合がならず挫折した経緯を踏まえ、1848 年革
命の失敗以降、ハプスブルグ帝国を連邦制ないし国家連合に改変する構想が数多く出された。中でもハ
ンガリー革命の指導者、小貴族コシュートは周辺諸民族と連携しながらドナウ連合構想を打ち出し、
「連
合がなければ二流、三流の国家であるが、連合により一気にヨーロッパの大国に成長」することを目指
した。
「ドナウ連合(Dunai Konfederacio)
」は、一八六二年の時点で、既に防衛、外交、通商、度量衡、
通貨を共通とする国家連合を構想していた(13)。これは、現実には、ハンガリーのデアークにより、周
辺民族とでなくハプスブルグ帝国と国家連合化を行い、オーストリア=ハンガリー2重王国とするとい
う歴史的「妥協(アウスグライヒ)」に向うこととなる。が、19世紀に既に中・東欧でも、革命の教訓を踏まえて
諸民族による地域意連合が試みられていたことは重要であろう。その後ハプスブルグ帝国末期には、帝
国再編構想としてポポヴィッチの「大オーストリア合衆国」、ヤーシの「東のスイス」構想(14)、帝国崩
壊後戦間期は、クーデンホーフ・カレルギーによる『パン・ヨーロッパ』計画、ブリアンによるヨーロ
ッパ統合計画があり、また戦後はチトーの「ヨーロッパ合衆国」
、ディミトロフの「バルカン連邦」、チ
ェコとポーランドの連邦構想へのソ連の反対と挫折を経て、シューマンの石炭鉄鋼共同体、ジャン・モ
ネの欧州共同体の創設につながっていく。19 世紀後半から 20 世紀にかけ欧州東半分でも、多民族の対
立を共存に変える多様な連合、連邦、地域統合構想が摸索されていたのである。
第二次世界大戦後の社会主義時代は、むしろ地域の連帯と共存を恐れたソ連により、ソ連との2国間
関係を基軸とした機構となり、中・東欧域内の相互協力関係は分断された。それでも社会主義時代の 40
54
数年間は、ソ連を除きビザが不要であったこともあり、中・東欧における「地域間交流」は政治・機構
レベルでは監視されていたものの、物資の欠乏を補うような日常的モノ・人の移動レベルにおいて、底
流において継続し続けていたといえる。
2.冷戦後の中欧地域協力とユーロリージョンの動き。
1989年の冷戦の終焉と、ハンガリー・オーストリア間の鉄条網の解放、鉄のカーテンの撤去とベ
ルリンの壁の崩壊により、またその後ソ連軍の中・東欧からの撤退に伴い、中・東欧の地域間交流は飛躍
的に高まっていった。
その後、すでに西欧では30近くに広がっていた、国境周辺の紛争・対立地域における,地域協力関係、
「ユーロリージョン Euroregion」(15)が、急速に中・東欧でも広がる。
中・東欧では、ドイツとポーランド、チェコとポーランドなどの先進境界線地域でのユーロリージョ
ン、またスロヴァキアとハンガリー、ルーマニアとハンガリー、ユーゴスラヴィアとハンガリーのよう
にマイノリティを抱える地域でのユーロリージョン、さらに中・東欧 5 カ国が境界線を接する地政学的
な重要地域としてのカルパチア・ユーロリージョンなどが、つぎつぎと立ち上げられ、経済発展と相互
交流を目指して活動が行われた(16)。
これと並行する形で、国家レベルでも中欧の協力関係が進んだ。1991 年 2 月、ハンガリーの旧首都
ヴィシェグラードにポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーの大統領(ワレサ、ハヴェル、ゲンツ)
が集まり、「ヴィシェグラード地域協力」として今後経済、政治、EC,NATO 加盟に向けて協力し合う
ことを誓った。(17)ヴィシェグラード中欧地域協力は、もともとは国家連合形成を目指す構想もあった
のであるが、3 カ国で国家連合を組むよりは協力して EC,NATO に加盟する方がより現実的であると認
識された。加えて、この 3 カ国を核に、CEFTA(中欧自由貿易協定)も締結され、経済市場化と発展を統
合的に推し進めてゆくこととなった。これらが結果的に功を奏した。90 年代、中・東欧の多くは、旧ユ
ーゴスラヴィアとは異なり、国民国家形成で分裂し、民族・地域紛争の泥沼化に陥ることなく、史上最
初の試みである「社会主義」から「資本主義」への移行(Transition)を乗り切り、共同で行動し共に
成功して 2004 年の EU・NATO加盟を迎えたのである。
3. EU 境界線とロシア、カリーニングラード問題
こうした中で、丁度 20 世紀から 21 世紀への世紀転換期に新たな問題が起こってきた。
それは、EU の拡大に伴い、その境界線上で、そこに入れない国々、とりわけ東のロシア、南の中東、
アフリカとの間の交流の分断の問題として浮上したのである。
より直接には、1999 年3月の中欧三国(ハンガリー、ポーランド、チェコ)のNATO加盟によりNA
TO軍がロシアの境界線まで接近したことに加え、NATOのコソヴォ空爆と同年 4 月のNATO創設
50 周年の首脳会議で、新戦略概念の導入と共に、MAP9(加盟のための行動計画)として、ユーゴを除く
中・東欧全土をNATO加盟の対象国としたことから、ロシアが孤立感と脅威感を極度に高めたのであ
る。
99 年の中欧のNATO加盟に加え、EU 加盟の日程が近づいたことは、将来の「シェンゲン協定」の
枠組みと共に、境界線の外の国々にビザ制度の導入、司法・内務協力に基づく国境警備の強化(違法労働
者、マフィア、武器・弾薬や NBC 兵器導入への厳しい警戒)と絡んで、世紀転換期のロシアに、「西側か
らの分断」を強く意識させる結果となった。
その一つの象徴がカリーニングラード問題であった。
カリーニングラード(ケニヒスベルク)は、もと東プロイセンの首都、ポーランドとリトアニアにはさ
まれたロシアの飛び地で、1946 年のポツダム会議の結果、ドイツからソ連に移譲された地域である。
名は当時の共産党幹部カリーニンの名をとってつけられた。
カリーニングラード問題とは、EU が拡大することによって EU 領域の中に入ったロシアの飛び地を
どう処遇するか、という問題である。第二次世界大戦後にソ連に組み入れられた領土であるが、日本の
北方領土問題とは違ってドイツは返還を要求しておらず、EU もこの地がロシアの主権の下にあること
は疑問の余地がないと確認している(18)。
この地は、ロシアにとって冷戦期は重要な最西端の軍事的拠点(かつてバルチック艦隊 20 万が駐屯)
であった。現在軍人は 1,6-3 万に減少したがその地政学的重要性は衰えてはいない。一方西欧・北欧にと
っては経済的投資地域、自由経済ゾーンであり、ロシアはこの地を、
「バルトの香港」
「ロシア・東欧学
会と西のゲートウェイ」としても重視してきた。(現実には未だ十分な経済成長は達成できていな
い。)(19)また司法・治安面ではブラックマーケットやマフィアの溜まり場である。ロシアとしては、地
55
政学的利点を生かし、軍事拠点は維持しながら西との経済交流地とすることに吝かではないが西からの
干渉は避けたい。
問題は拡大EUにより EU 領内に取り込まれてしまったことによる、ビザの導入である。人の移動、
それ以上に資源、軍事物資の移動に、EU 基準によるリトアニアのチェック、なかんずくNATOや EU
のチェックが入ることに、ロシアは強い警戒を示し、「なぜ国内の一地域に行くのにビザやチェックが
必要か。」とクレームを呈したのである。
その結果、2002 年 11 月、ロシアと EU との話し合いにより、カリーニングラードとロシア本土の通
行の問題は、翌年 7 月より FTD(Facilitated Transit Document)および FTD-RW(Facilitated Travel
Document for Railways)が導入され,ロシア市民はパスポートデータを持ってこれらを記入すれば、ロ
シア本土とカリーニングラード間を往復できることとなった。しかし 2005 年からは、外国パスポート
がなければこれを利用することができず、カリーニングラードは実質的にロシアにとって外国の領土と
なることとなる。
これを基礎に、ロシアと EU との間のパートナーシップ関係が強化され、カリーニングラードを基点
に、経済関係を強化し、バルト地域の安全と発展、しいてはヨーロッパとロシアの関係の発展に貢献す
る。ロシアはこうしてプーチン大統領第 2 期には、ヨーロッパとの強い協力関係を打ち出すこととなっ
た。(ロシアはさらにバルト海のロシア艦隊の自由航行、リトアニアをノンストップで通る封印列車を
要求したが、これについてはいまだ許可は得られていない。
)
こうした中で、2003 年の秋に EU 欧州委員会によって打ち出されたのが、
「ワイダー・ヨーロッパ:
東と西の近隣諸国との新しい関係(Wider Europe:広域欧州圏)」である。(20)
ここでは、EU を取り巻く東と南の近隣諸国が、3 億 85 百万の人口を持ち、市民の安全保障、安定、
持続的発展にとって欠くことのできない相互依存関係にある領域であることが述べられる。それにした
がって、自由貿易協定を結んでいる南地中海諸国とバルセロナ・プロセスを締結している10か国(チ
ュニジア、イスラエル、モロッコ、パレスチナ、ヨルダン、リビア、エジプト、レバノン、アルジェリ
ア、シリア)、および東の 4 カ国(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドヴァ)と、隣接、貧困の解消、
繁栄に関して、EU が積極的関与を行うこと、とりわけこれらの地域の多くが GDP2000 ユーロ/年以下
で生活していることから、それらへの支援と発展が緊急の課題であると位置づけたのである。
EU は、まず貿易と投資など、経済面での関係強化を重視し、輸送、エネルギー、情報ネットワーク
や投資の促進、とりわけロシアや近隣国との経済協力関係を強化すると共に、南に対しては人の移動、
共通の安全保障の脅威の除去、人権、文化協力、相互理解の強化など「人間の安全保障」と予防外交に
努めようとしている。(21)
EU にとって周辺諸国の不安定は否定要因であり、周囲の安定と繁栄こそが EU の発展にとっても望
ましいととらえている。こうした考えに則り、EU は、ユーゴ紛争でも回復に 200 億ユーロを投入し、
ロシア・ウクライナ、トルコとの経済関係を強化していくのである。(22)
4. コンフリクトゾーンからコンタクトゾーンへ
拡大EUの境界線領域で「ワイダー・ヨーロッパ」の新しい試みが始まる中、理念のレベルでも、
「境
界線」というものを新たな形で捕らえ返そうとする動きが現れる。それが、「コンタクト・ゾーン」と
いう境界線をめぐる概念である。
これは、EU 域内で、特に EU の拡大後の内部および外部の「異質者」との共存に関して、ハンチン
トンの言うような「文明の衝突」としてのフォルトライン(分断境界線)認識から、「出会いの場」として
の境界線認識の変容でもある。これが出てきた背景には、25ヵ国欧州の実現により生み出された従来
にない「多様性」に対していかに対処するか、という問いかけがあろう。
25ヵ国拡大EUが提起することになった「東西欧州の統合」の問題は以下の点にある。
1.互いに必ずしも同質でない、とりわけ西に対してネガティヴな「歴史的記憶」を持つ、中・東欧の
国々を統合して、25-27カ国(07 年のルーマニアとブルガリアの加盟)による統合をいかにうまく機
能させるか。とりわけ、EU拡大により大きく東に移動した境界線の緊張と共存にどのように対処して
いけばよいのか。
2.多国共存的(マルチラテラルな)国家連合による統合体の実現と、大国の主導によるスーパーパワ
ーの夢は両立するか。仏独英は、中・東欧の合意の下に、EU のリーダーシップを取ることができるのか。
EU 内の小国は、EUにおける三大国のリーダーシップをどのようにとらえるのか。
これらに対するより長期的な、歴史的記憶も踏まえた現実社会からの解決の方向性が、「コンタクト・
ゾーン」なのである。
1)EU の拡大とマイノリティの「境界線」認識の変容
56
2004年8月25-27日、ハンガリー、ブダペシュト近郊のアソードで、コンタクト・ゾーンを
テーマに掲げたマイノリティの国際会議が開かれた。
ここには、ハンガリー・科学アカデミーのマイノリティ研究所および民俗学研究所、アソード民族博
物館の共催により、スロヴァキア、ルーマニア、セルビア・モンテネグロ、クロアチア、スロヴェニア、
オーストリア、ウクライナのマイノリティ研究者が参加し、各地域のマイノリティ研究の動向と、最後
にラウンド・テーブルでのコンタクト・ゾーンをめぐる議論が交わされた(23)。日本からの参加者
は筆者のみであった。
その機軸は、現在の民族問題があまりにも政治的に扱われてきたことを反省しつつ、それをより長期
的な時間軸と共存の流れの中で捉え返そうとする、アンソロポロジー研究であった。
民族問題研究者は、実は紛争地域こそより長期的には「歴史的共存」を行っていた地域であること、
紛争はその時々の国内・国際情勢や政治指導者の思惑により旧来の共存関係の奥にある対立関係があお
られ、それが表面化させられたに過ぎないことを語る。紛争地域は、実は歴史的な流れで見た場合は、
平和的共存地域のモデルでもあるのである。
3日間のそれぞれの地域からの報告の中で、9-10世紀におけるキリスト教の受容、15世紀にお
ける新教(カルビン派、ルター派)の受容、正教会の習慣が提示され、有史以来のカルパチア盆地の諸
民族共存において、変わっていくもの、変わらないもの、共存する風習、社会、宗教生活が明らかにさ
れた。それは、長期的な文化人類学的考察や生活面で納得できる、目の覚めるような新たな発見でもあ
った。
これらの中で強調された、キーワードが、「コンタクト・ゾーン」である。
それは、異なる民族や文化、習慣の「境界線」は存在するが、その境界線は、異なるもの同士を区切
り対立させる「分断線」ではなく、様々の異なる文化や風習、人々が出会い、交わり、新たに融合し、
許容し、共存する場としての「境界領域」の再認識であった。その際、旧来はそれぞれのマジョリティ、
マイノリティの民族性が強調されたが、この「出会いの場」としてのコンタクト・ゾーンでは、異民族
間結婚(vegyes hazasag)による諸習慣の融合と共存の意義が強調されたのである。
1)一つは、宗教からのまなざしである。ルーマニアでは、ルーマニア正教会、カトリック、新教が実
は同居していた。異民族間あるいは異宗教間結婚の場合、夫婦連れ立って、まずカトリック教会へ、次
いで正教の教会へ(あるいは逆の順序で)、双方の教会へ出かけることが容認された。また、ジメシ・チ
ャーンゴー(というハンガリーの境界線から遠く離れたハンガリー語が話せないハンガリー人マイノリ
ティ)においては、正教会の場合、説教はルーマニア語で、聖歌はハンガリー語で歌われることもあっ
た。
2)二つ目は、生活習慣、結婚、葬式などに見る共存である。
葬式の場合、夫婦が異なる場合は、それぞれの風習それぞれの宗教で行われ、共に墓に入る。女性が
死んだら、男はひげを伸ばし、女性は黒い衣装を着て嘆き悲しむ。それらは習慣の混合であり共存で
あり、日常生活においては互いを慈しむが故の行為であった。
3)三つ目は、都市と地域に住むロマの集団や、境界線地域(ウクライナ)のマイノリティの変容であ
り、同一民族の中でもひとつの空間の中に縦の階層差が現れ、異なる民族でもさまざまな文化と民族が
融合して地域文化となることが明らかにされる。(24)
2)同化・移民流出から、コンタクト・ゾーンへ
こうした研究において共通するのは、ここ2,3年で中・東欧のマイノリティ研究に大きな研究動向の
変化が現れつつある、ということである。むしろ政治状況において、民族主義が強化されてきた 99 年
から世紀転換期の時期であるからこそ、逆にNATOのコソヴォ空爆などを踏まえ、多民族共存地域が
どう生きていくべきなのかがより長期的なスパンで問い直されようとしているといえるのかもしれな
い。
冷戦終焉後、90 年代における中・東欧の国民国家再編過程と紛争の高まりの研究の中で、常に警告さ
れた課題は、国民国家へのマイノリティの同化の危機感であった。
これまでのマイノリティ研究では、多民族地域における同化政策が批判され、マジョリティの国家主
義的政策が批判・攻撃され、マイノリティの独自性を維持する運動が鼓舞されてきた。異民族間結婚や、
同化していく人々はむしろ「裏切り者」「出世主義者」として否定的に認識され、たとえ遠くであって
もマイノリティの小学校に子供を通わせることが「民族保持」として評価されてきた。
それが、近年は、複数ないし3つ以上の文化の共存、コンタクト・ゾーンの認識へと向かい、二つの
文化が交わる場としての共存の研究に進みつつある。もちろん、19世紀にも20世紀にも、共存を目
指す研究はないわけではなかったし、それらを唱導する運動家や研究者も繰り返し出てきた。しかし今
57
回のアンソロポロジー研究は、
「あるべき」ものの理論化ではなく、中世、近代、現代を通じて、
「あた
りまえ」な日常生活の知恵として、共存、融合しつつ、マイノリティ文化を守ってきた一般の人々の実
態を明らかにしたものとして、大きな意義を持っているといえよう。
ルーマニアで、チャウシェスク政権末期、ハンガリー人マイノリティへの最も激しい対立があった
1980 年代でさえ、国家や政党は互いに民族的に対立しあっていたものの、当時民族運動にかかわって
いたマイノリティの研究者が、「それでも外出するときには、同士のハンガリー人ではなく、隣のルー
マニア人に鍵を預ける。われわれは日常生活では政治的に行動していない。」と述べたのが印象的であ
った。かれらは紛争のさなかでさえ、現実には「共存」してきたのである。
質疑の中で、筆者は次のように問うた。「これまでのマイノリティ研究は、同化を批判し、移民流出
と過疎化を憂うものであった。しかし現在は、境界線領域の共存と融合を(説くのではなく)「発見」
し、評価しようとしている。これは、グローバリゼーションとEU拡大により、民主化や市民化が進ん
だからなのか。EU加盟の中で、もはや少数民族をかたくなに守り通す必要がなくなったからなのか。
マイノリティ社会が、こうした国際関係の変容を契機として、現実の中で、自由に様々の文化を認め合
いながら共存していたことを明らかにすることができるようになったのか。
」
これに対し、オーストリアのブルゲンラントの研究者やロマの研究者から、民主化やEU拡大による
環境の変化は共存を見直す上で大きい。しかしいかなる抑圧の中でも、地域的出会いの場としての境界
線、様々の文化の融合としての混住都市は存在してきた、という意見を得た。また他方で、自分はずっ
と西側にいたが、自由社会の中で、自分がハンガリー人であるというアイデンティティは忘れたことが
なかった、自分はどのような社会状況にあっても逆にハンガリー人という枠組みから自由になることは
考えられない、という老ジャーナリストの見解もあった。
拡大EUに加盟した後、境界線の意味の低下の中で、多民族地域、境界線地域をどのように捉える
か、中世から近代の多民族地域社会の中からマイノリティの 21 世紀を展望するという点でも、コンフ
リクト・ゾーンからコンタクト・ゾーンへの「転換」は大きな意味を持つものと思われる。
現在、拡大EUの境界線をめぐる地域協力のあり方として、1.ユーロリージョン、2.EU の包摂
地としてのロシア・カリーニングラード、3.コンタクト・ゾーンという文化人類学的概念の捉え返し
など、まさに「国民国家」を超えた新しい試みが境界線上で進みつつある。境界線領域から生み出され
る新しい動向をさらに客観的に注視・分析していく必要があろう。
注
( 1 ) 自 治 体 国 際 化 協 会 「 ド イ ツ 地 方 行 政 の 概 要 」 March 13, 2000.
( http://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/html/cr193/)では、
「地域からなるヨーロッパ」を次のように規
定している。
「東西再統一直前の 1990 年 6 月に開催された、旧西ドイツ州首相会議において、各州は『諸
地域からなるヨーロッパ』という提言を採択した。この提言に基づき、再統一直前の同年 11 月、連邦
参議院は、超国家(ヨーロッパ)レベル、国家レベル及び地域レベルの 3 層構造による連邦制からなるヨ
ーロッパ連合の形成を求めるに至った。
」
(2)
「1990 年 11 月、ヨーロッパ議会は、補完性の原理を以下のように規定し、これを EC の諸条約に
加えるように提案した。
『EC は諸条約によって委任された課題の実現を目指し、また条約で定められた
目的を実現するために活動する。この目的のために、EC に一定の権限が独占的または十分に付与され
ていない場合、その目的達成に際して、EC はその関与が必要な限りにおいて活動する。
』さらにヨーロ
ッパ議会は、地域がヨーロッパ連合における最も基礎的なレベルであり、それらは自治権を持ち、EC
の 意 思 決 定 過 程 に 参 加 す る 資 格 を 持 つ も の と し た 。」 ( 同 、 P. 4 6 )
( http://www.clair.or.jp/j/forum/c_report/html/cr193/)
(3)中井、林、柴宜弘『連邦国家の解体:ソ連、チェコ、ユーゴスラヴィア』多賀出版、1998 年。
なお民族・地域紛争と国境線の再編の問題については、羽場久シ尾子『統合ヨーロッパの民族問題』講
談社現代新書、1994(2004)、pp.4-5 を参照。
(4)CBC Program は、1994 年に欧州委員会で策定され、98 年に中・東欧への EU 拡大を前提とした
に お け る よ り 広 範 な PHARE 地 域 援 助 と 結 ん だ 計 画 と し て 発 展 し た 。
http://europa.eu.int/scadplus/leg/en/lvb/e50001.htm
(5)Carpathian Foundation, Fund for the Development of the Carpathian Euroregion, Report
1995-97, Hungary, Poland, Romania, Slovakia, Ukraine, Budapest, 1998.
(6)もともとは、PHARE は、Poland と Hungary の移行経済の援助を行うために設立された組織
であるが、その後、中・東欧加盟候補国全体の支援を行う組織:Community assistance programme for
the Central European Candidate countries
と な っ た 。 EU ホ ー ム ペ イ ジ 、
58
http://europa.eu.int/comm/enlargement/pas/phare/
、
http://europa.eu.int/comm/enlargement/pas/phare/working_with_phares.htm を参照。
(7)カリーニングラード問題についての文献としては、Richard J. Krickus, The Kaliningrad
Question, Oxford, 2002, Kaliningrad Region of Russia and the EU Enlargement, Issues of the Pan
European Integration, Analytic report, Russia and Europe; Past, Present and Future, Kaliningrad,
2003, Support to Transforming the Kaliningrad Oblast into a Pilot Region of Russian-EU
Cooperation, East-West Institute, Kaliningrad, 2003, The EU & Kaliningrad; Kaliningrad and the
Impact of EU Enlargement, ed. by James Baxendale, Stephen Dewar and David Gowan, Printed in
the EU, 2000.などを参照。
(8) ロシアの警戒については、2002 年に開かれたモスクワでの MGIMO(国際関係研究所)主催の
RISA(ロシア国際関係学会)がその緊張を端的にあらわしている。大会は、「ヨーロッパにおける分断の
再燃:Managing the (Re)creation of Divisions in Europe」と題し、EU 拡大と共に、新しい「周辺」の
形成、民族紛争、境界線、カリーニングラードやウクライナ問題が論じられた。3rd Convention of
CEEISA, NISA, RISA, Managing the (Re)creation of Divisions in Europe, 20-22 June 2002.
(9) Kaliningrad Region of Russia and the EU Enlargement, Issues of the Pan European Integration,
Analytic report, Kaliningrad, 2003. p.5.
(10)ワイダー・ヨーロッパの文書は、EUのホームペイジ、
http://europa.eu.int/comm/world/enp/pdf/com03_104_en.pdf で読むことができる。COMMISSION
OF THE EUROPEAN COMMUNITIES, Brussels, 11.3.2003, COM(2003) 104 final,
COMMUNICATION FROM THE COMMISSION TO THE COUNCIL AND THE EUROPEAN
PARLIAMENT, Wider Europe— Neighborhood: A New Framework for Relations with our Eastern
and Southern Neighbors., pp.1-26. および、EPCの報告書、Fraser Cameron, The Wider Europe,
EPC Issue Paper No. 1., 10.6.2003.を参照。
(11) Etnikai Kontaktzonak a Karpat-medenceben a 20. szazad masodik feleben, Nemzetkozi
tudomanyos konferencia(20世紀後半のカルパチア盆地における民族のコンタクト・ゾーン、国際会
議), Aszod, 2004. augusztus 26-28.
(12) Joseph Rothschild, Return to Diversity: A Political History of East Central Europe since
World War II(
『現代東欧史―多様性への回帰』羽場久シ尾子・水谷驍訳、共同通信社、1999年) New York,
Oxford, 1989、pp。3-5.. シュガー=レデラー、『東欧のナショナリズム』刀水書房、pp。
(13) コシューとのドナウ連邦構想の全文は、Kossuth Lajos iratai, Hatodik kotet, Tortenelmi Tanulmanyok,
Elso resz, 1863-1866 vegig, sajto ala rendezte Kossuth Ferencz, Budapest, 1868, 9-12. 羽場久シ尾子「ハプスブ
ルグ帝国末期のハンガリーにおける民族と国家―『ドナウ連邦』構想による中・東欧再編の試みー」
『史
学雑誌』、1984年、93編、11号。羽場久シ尾子「ハプスブルグ帝国の再編とスラヴ民族問題」『社会労働研
究』32-2、1986年1月、pp.62-65. 羽場久シ尾子『統合ヨーロッパの民族問題』講談社現代新書、1994(2004.7
刷)、p。77-85.
(14)ポポヴィッチ、ヤーシの連邦構想については、Aurel Popovic, Die Vereinigten Staaten von
Gross-Osterreich, Jaszi Oszkar, Magyarorszag jovoje es a Dunai egyesult Allamok, Budapest, 1918. 羽場久シ尾
子、前傾論文、pp。72-76.、羽場久シ尾子、前掲書、pp。92-100.
(15) ユーロ・リージョンとは、「2カ国以上にまたがり国境を越えて自発的な商業と文化の交流を行
うための地域的結合を目指す」、
「民族間の隔たりを埋める手段、政府国家間の友好を促進する」ものと
して、組織された。最初のリージョン(Regio)として、仏のアルザス、独のバーデン=ヴルテンベル
ク、スイスのバーゼル間の地域交流を目指した協力関係がある。以後、EC・EUに強く支持されて発展
した。ヤン・B・デヴェイデンタール/訳 篠崎誠一「ポーランドとユーロリージョン」『QUOソ連・
東欧はどこへ』No.8。「特集:ユーロリージョン:国境を越えて」1993.Summer, p.62-63.)
(16) Carpathian Foundation, Fund for the Development of the Carpathian Euroregion, Report,
1995-97, Budapest, 1998. Gergely Attila, Integracio, Globalizacio, Regionalis Fejlodes—A Karpatok
es Duna-Koros-Maros-Tisza euroregiok, macro-politikai osszefugesek, Budapest, 2001. 吉田康寿「ユ
ーロリージョンの役割と展望―カルパチア山脈周辺を事例としてー」
『外務省調査月報』2003.no.4.
(17) 羽場久シ尾子前掲書, pp.161-163.
(18) Kaliningrad Region of Russia and the EU Enlargement, Issues of the Pan European
Integration, Analytic Report, p.7.
(19) The EU & Kaliningrad:Kaliningrad and the Impact of EU Enlargement, Ed. by James
Baxendale, Stephen Dewar and David Gowan, Printed in the EU,2000,p.11.
(20) Communication from the Commission to the Council and the European Parliament, Wider
59
Europe , Brussels, 11.3. 2003.
(21) Ibid, pp.6-9.
(22) Fraser Cameron, The Wider Europe, EPC Issue Paper, No.1, 10.6.2003. p.6.
(23) Etnikai kontaktzonak a Karpat-medenceben a 20 szazad masodik feleben, Aszod, 2004.
augusztus 26-28,
(24) Kisebbseg es kultura, Antropologiai Tanulmanyok 1(少数民族と文化、アンソロポロジー研究),
Szerkesztette: A Gergely Andras- Papp Richard, MTA Etnikai- nemzeti Kisebbsegkutato Intezet(ハ
ンガリー科学アカデミー少数民族研究所, Budapest, 2004. ここでは、ハンガリーから遠くはなれた地
のハンガリー民族の一つに数えられるチャーンゴー研究、農民とロマの研究、正教徒とカトリック教徒
の共存・融合の日常が描かれている。
60
International Workshop
Conflict and Settlement in Europe
Session II: Clash of Globalism?: European Integration and American Hegemony
6.
.The EU and NATO Enlargement and the Iraq War
---Central and Eastern Europe
under the Influence of the US--Kumiko Haba, Professor
Hosei University, Tokyo
[email protected]
23-24 September 2005
International Workshop
Conflict and Settlement in Europe
Hitotsubashi University
Tokyo, Japan
7.
Part I:
The EU and NATO Enlargement and the Iraq War
---Central and East Europe under the Shadow of the US--Kumiko Haba, Professor
Hosei University, Tokyo
Prologue
1) Difference between Europe and the US
2) Difference between East and West in Europe
3) Why CEE countries supported the US, and will it continue?
4) Influence to EU/NATO further Enlargement
1.
NATO Eastern Enlargement and Kosovo, Afghanistan Bombing and Iraqi War
2.
Difference of Security Ideas among the US, Europe, Central Europe, and Russia
61
3.
Differentiation and Conflict between so called “Old” and “New” Europe under the
shadow of the US
4.
The Change of the Russian position relating to Europe and the US
Epilogue
Prologue
On 20 March 2003, the Iraq War was begun by the US and U.K. although both the
French and German Government were against it. The Baghdad Government collapsed
quickly on 10 April, but the Post War transaction and reconstruction for peace has not
been easy.
The French and German governments criticized the US Iraq Policy, because they
didn’t get the agreement of the United Nations, and the evidence is still not clear that the
Iraq Government is hiding weapons of mass destruction (WMD) and further asserted that
multilateral cooperation and United Nations’ leadership are important.
However, Central and East European countries (CEE countries), which will join the
EU and NATO on the 1st of May 2004, declared that they support the US Iraq Policy on 30
January with other European countries, and again on 4 February as Vilnius 10 countries,
and it aroused much controversy. They sent several hundreds of soldiers to Iraq, and
newly stated their support for the US in this new year as well.
So under this situation I would like to investigate the following questions in this
presentation.
1) Is there difference between the EU and the US
Will this Difference remain in the future or not?
2) An issue that might be more serious, the difference between East and West in Europe.
Will the new integrated Europe work well under the CFSP (Common Foreign and Security
Policy), or not?
3) The CEE. Why did CEE countries support the U.S, although they will join the EU this
May? Will CEE countries continue to support the US in the future, or not?
4) Is the Influence of the war to the EU/NATO Enlargement? Will the conflict of the
Iraq War influence EU/NATO further enlargement?
I would like to investigate these questions from the view point of CEE countries,
and wish to show the perspectives.
1. NATO Eastern Enlargement and Kosovo-, Afghanistan Bombing and Iraq War
NATO Enlargement toward CEE looks like “a set” with actual fighting after the
Kosovo Bombing in 1999, and continuing to the Afghanistan Bombing, the Iraq War, and
ongoing.
It means that NATO not only protects participant countries, but also
participants have to join the actual fighting: It means that new comers do not remain as
free rider of NATO, but have to share the common burden as members.
“After the Cold War”, Broos Lasette wrote in his book, Pax Democratia,
“Enlargement of Democracy and Market Economy is a new strategy of the US instead of
the Containment Policy under the Cold War.” (1)
Under Globalization and the Post Cold War in 1990s, the EU and NATO were two
wheels of a locomotive, one is enlarging economic regional cooperation and the other is
enlarging security. In the early 1990s, NATO especially tried to organize a new cooperative
security system which contains all ex-Socialist Countries, Russia and CEE. It was the
CSCE, NACC, and PfP.
But after the ethnic and regional conflicts broke out in Bosnia in 1991 and
continued and widened there and in Kosovo, the NATO role changed, not against
62
imaginary (hypothetical) enemies, but against real and concrete regional conflicts. That is
why NATO regulated newly, the dispatch outside the defense territory, humanitarian
intervention without the approval of the international organizations in urgent cases like
Kosovo. Here started the difference between the US and the EU, and especially France
and Germany.
After September 11th and the Afghanistan Bombing in October 2001, international
cooperation against terrorism was organized, but in Europe, some countries were
suspicious of the Afghanistan bombing, that is why the US Bush Government didn’t ask
NATO to help.
When the Iraq War began on the 20th of March 2003, the conflict between Germany,
France and the US became severest. As a result of this situation, the EU established ESDP
in 2003, and started to make their own decisions.
But under the Kosovo Bombing, another line started. It might say “the set” of
enlargement and the actual fighting. Just 12 days after the three CEE countries joined
NATO on 12 March, the Kosovo Bombing started on 24 March 1999.
Under this situation Hungary, Poland, and the Czech Republic had to support this
bombing, otherwise they could not join to NATO. Havel changed his opinion, before that
he said that ethnic conflicts had to be treated more carefully, but after the joining NATO,
he spoke against Milosevic more strictly. Hungary was under the more serious position,
because in Yugoslavia there are Hungarian Minorities, and they declared not to bomb
Yugoslavia. So the Orban Hungarian government asserted not to send a ground army
through Hungary. In the NATO’s 50th anniversary Conference, the new enlarging countries
(MAP) were pointed out, so they also didn’t speak against the Yugoslavia Bombing.
2. Difference of Security Ideas Among the US, Europe, Central Europe, and Russia
In the background there is the differences of the security idea among the US.
Europe, CEE and Russia, and it is different toward the Bombing and War.
1. The US Security Idea: It is more global and the elimination of threat applies to
wider territory. Until September 11th, the US and the European security idea was not so
different. But after that, the threat of terror became more serious for the US that is why in
the Bush doctrine in September 2002, was written that the first strike against the terrorist
threat, and disorganization of the evil axis. The US military power is the biggest in the
world. And he wishes to use for the world consolidation by the US.
2.The European Union’s security Idea: Its a more regional one than the US 1)The
EU wishes to stabilize the ethnic and regional conflicts, consolidation of ex. Socialist
countries, 2)establish border control from immigrants, mafia, nuclear weapons, NBC
armament, and information of technology to product armaments, 3) the terror, organized
criminals, collapse of important resources.
3.The CEE Security Idea: it is something geographical and historical.
1) is historical distrust toward neighbor big countries, and from this point of view, they
eagerly wish to join NATO. (It means that they wish to depend on the US which is not their
neighbor) 2) is threat of neighbor national and ethnic conflict, 3) is historical distrust
toward neighboring big countries, and so from this point of view, they eagerly wish to join
NATO.
4. The Russian Security Idea: It might be the following. 1) Most essential security
idea of Russia is a defense of a long border especially toward Europe and China. For that
reason, making a buffer zone is very important. So NATO Enlargement toward Russia is a
very sensitive issue for her. 2) Reconstruction of big power in Russia. Equivalent relations
with the worlds big powers, 3) Liquidation of Muslim factions who demand independence
like Chechen. 4) For all these reasons, the Iraq issue is very sensitive for her.
3. Differentiation and Conflict between so called “Old” and “New” Europe
the shadow of the US
63
under
At the beginning of the Iraq War, many countries in Europe, not only the people,
but also governments didn’t support it so much.
However, the CEE countries’
government declared support to the US
Why the CEE countries supported the US, beside “the set” of NATO enlargement?
It was their peculiar pragmatism. 1) is historical experience. Who can protect them from
Russia or Germany? It is not France, but the US, because it is not a neighbor. 2) is
severer situation about the EU. Under the latest years of the negotiation of CAP and
agrarian issues, many CEE countries became suspicious of the EU, and if they join to it,
they remain in the secondary or peripheral position. So they are suspicious of
French/German leadership. 3) is direct interest and oppression for NATO Enlargement.
The US gave money to send soldiers, distributed rights and interests of oil companies, and
gave military high position to Poland. Furthermore Bush, the US President, gave generous
compliments to CEE countries, although Chirac attacked them as childish and shallow.
It was decisive. 4) Lastly, they aimed to get wider remarks by support to the US, and it
was somewhat successful.
Concerning the European Constitutional Treaty, CEE countries do not support a
strong and integrated Europe which is lead by France, but rather the Niece Treaty in which
each country has equal rights, equal proportional representatives, and rotational chair.
That is why they and the EU small countries began to cooperate with each other. So just
before the integration of Enlarging Europe, it becomes clear that Europe cannot integrate
as the European Big Powers considered. New applicants for the EU are under the
influence of the US militarily, but if the EU will reject them, it cannot have a big influence
comparing to the US. It is a very big dilemma for Europe.
Among CEE countries, especially Poland got the big position and interest by
supporting the US. Poland has big enough territory, population, and military, pinched by
Russia and Germany, and historical good connection with the U.K. and the US, moreover
several million immigrants are in the US. So it might be the best friend of the US. Poland
got the following. 1) the NATO’s General Secretary’s Deputy, Adam Kovielatski, 2)
Commander in Chief in Iraq Security Army, Lieutenant Andzej Tisikievic, 3) (Oil?)
Companies for Iraq reconstruction. By these backgrounds, Poland got greater influence
in the Weimar Triangle (Germany, France, and Poland).
Compared with Poland, Hungary’s position is another situation. Hungary is more
sympathetic with the EU, and not willing to militarize. She didn’t militarize well and didn’t
send her army to Iraq at first compared with Poland and Romania, so she was criticized
from the US because she didn’t buy the F16, didn’t put military budget at 2% of GDP, and
didn’t send her army to Iraq. After the oppression by the US she sent her army at last.
Romania was willingly to send many soldiers to Iraq, and accept the US army from
Germany. Bulgarian government didn’t coincide about the dispatch at first, but by the
strong demand of the US they sent army. So it is very complicated. It is not official
obligation of NATO, however, they had to send army for some obligation, and they gave
interests.
4. The Change of the Russian position relating with Europe and the US Security
Here I’d like to investigate Russian position relating to the Security Policy of NATO
chronologically.
1. The first several years are peaceful cooperation era in early 1990s. The
relations among the US, the EU and Russia were very good. Gorbachev mentioned
“European Common House”, Mitterrand supported it, so the European Security
Organizations started under the CSCE, NACC, PfP system containing all ex-Soviet Union
and CEE countries.
2. NATO Enlargement and Russian honorable isolation from 1995-1999.
US President Clinton’ declared the NATO Enlargement to CEE countries in Detroit in
October 1995. Then he gave up the leadership of Yeltsin, who could not oppress the Army
64
and conservatives. In May 1997, the NATO and Russia Basic Treaty was signed, and
NATO and Russian Committee was established, but it wasn’t substantial, it was only a
substitution for NATO enlargement to Visegrad three countries. NATO Enlargement to CEE
3 countries decided in Madrid in 1997. In March 1999, H-P-Cz joined NATO and the
Kosovo Bombing started, and the Russian army was neglected. During these days,
Russia began to find some solution in East Asia. Yeltsin and Japanese Prime Minister
Hashimoto negotiated about Northern 4 islands exchange for economic assistance in
1998-1999 in vain.
3. Putin new era, Strong Russia from 2000:
Under these circumstances, Yeltsin resigned and Putin started as the proxy of President
from 1 January 2000. Putin took a more aggressive policy. He declared new military
doctrine and military cooperation Treaty with China in April 2000, just after the victory of
the Presidential election. But in these days, Russia and the EU economic cooperation was
continuing especially in the energy sphere.
September 11th, was a good chance for Russia to come back to the global sphere.
Putin became the first substantial supporter of the Bush Government, and by offer of Blair,
the U.K. Prime Minister, the NATO and Russia Council was established, as real substantial
cooperation against terrorism. It was helpful for the liquidation of Chechen terrorist, too.
4. In the Iraq war, Russia cooperated with France and Germany but continues the
good relation with the US. For the US needs Russian power and information about
terrorism, so the Russian Position is good with both the EU and the US.
Epilogue
After my investigation, it is possible to summarize as following.
1. The EU and US Relations. Can the friction between the US and the EU be
repaired or not? It might be difficult to repair the situation while the Bush Government
continues. Although the EU wishes to repair the relations, because it is in the European
interest for the US Army to stay in Europe as a balance of power of Germany, Russia,
France and others. But the EU also wishes to get new independent army and
independent policy. So it will be very difficult to cooperate with two organizations like in
early 1990s.
2. Do the West and East of Europe have a Common Foreign Security Policy or not?
This is a more important issue for Europe. Europe has to enlarge; otherwise her influence
in the world will became smaller. No European country can fight by itself except the U.K.
and the united Germany (or France). But the new comers to the EU are not under their
influence, but under the US. It is the biggest dilemma of the EU. If the EU does not
enlarge, they cannot have enough power compared with the US. As the EU is enlarging,
the US influence will be bigger inside the EU.
3. Will the CEE countries continue to support the US, or come back to Europe? It
might be easier than the second question. CEE countries have a European identity and
are geographically in Europe, but geographically they are pinched by Germany and Russia.
So they will continue to cooperate with both the EU economically and the US militarily. So
the CEE countries are really able to become a bridge of the EU and the US.
4. The Iraq War and the Influence to the further EU/NATO Enlargement.
The Iraq war and the European Constitutional Treaty is a bitter lesson for the EU leaders,
France and Germany. There is a difference between the enlargement of the EU and NATO
for CEE countries. The EU enlargement imposes severe criteria economic, political and
socially. The NATO enlargement does not, and can chose by political and geographical
importance. There is also the difference of importance. For the EU, Poland, Romania,
and Bulgaria are rather periphery. But for the US, these countries are geographically a
very important stronghold for the world statistics (more important role than Germany and
France after the Cold War).
In a Post Cold War era, European East and South borders became seriously
important strategically. Therefore people need to investigate more strictly these new
65
eastern borders and geopolitical roles of CEE, esp. Poland and Romania, Ukrajna and
Russia after the Iraq War.
66
Part II:
The EU and NATO enlargement and Central Eastern European’s EU
Policy under the Influence of the US
---The Role of Poland in the EU and the Iraq War---Kumiko Haba, Professor
Hosei University, Tokyo
Introduction
The great celebration of the Enlarged EU of 25 countries was held in Dublin,
Ireland at the first of May 2004. Two divided Europe was integrated at last after the 59
years of the end of Second World War. European integration was limited among the
influence of the Christianity countries (Catholic and Protestant) in this time, however,
Bulgaria, Romania (and Croatia) will wish to join in 2007, moreover the “Western Balkan”
countries will aim to join about 2015.
In these 60 years, “New Europe”, namely Eastern Europe stayed under the other
System of the Soviet Union in the Cold War, but joined to the European System, the EU
and NATO at last. These countries developed quickly in these 10 years after the setback
of the transition period, and top group of these countries are surpassing Korea, Portugal,
and Greece in GDP per capita in the statistics 2002.
Many of new members are relatively small countries, but the exception is Poland
(38 million population), which compares with Spain.
How is the characteristics of the EU changing by the affiliation of 10 countries of
Central and Eastern Europe (CEE) and Mediterranean’s? And especially what role does
Poland take, which stands out among Central and Eastern Europe after the Iraq War,
between the US and the EU?
In this presentation, I would like to investigate and analyze the relation between
the Enlarged EU and new members, especially focusing to Poland.
1.
The Confidence of Poland
There held the International symposium of the Enlarging EU in Waseda University
in Tokyo in September 2003, one year after 9.11, and Verheugen, the Chair of the
European Commission and the Danuta Hubner, the Polish EU Enlargement Minister were
invited. Hubner had a lecture on the title, “How can the 10 new countries’ joining change
the EU? ”, and show her confidence and aggressiveness.
After the lecture a question was asked from the floor to Hubner, “Why does Poland
support the US in the Iraq War, although you are just before the affiliation to the EU?”. To
this question, Verheugen interrupted and said, “The EU has to appreciate Poland, because
she built a bridge between the EU and the US”. Hubner answered, “He said the best
answer, which I really wanted to say.”(2) Many audiences were surprised to Verheugen
answer, and felt that Poland got high position by supporting the US.
During these several years Poland became a storm center in the relation between
the US and the EU, although until then she was enough low position in candidate
countries, because of difficult achievement of the 31 criteria of the EU. When I joined to
the International Conference for Peace in St. Petersburg in early September 2003 just after
the Iraq War, many scholars discussed about Poland as the Trojan Horse. One Russian
Scholar criticized that Poland became an American poodle, however, I and Swedish
Scholar said that Poland rather wishes to use the US power, and tries to shake out the
European Big Power, so many people agreed us.(3) After the conference I went around
Kaliningrad, Lithuania, Belarus, Poland, and visited the European Commission in
Brussels last. When I went to the European Commission, I noticed that there was a big
panel in the Lobby, and written about Poland, Big country, 38 million population, and so
67
on. In European Commission and the European Policy Center(EPC), many experts
indicated how do they have to treat Poland and Turkey in the following years.
Thus, the behaviors of Poland attract people’s attention all over the world after the
Iraq War.
2.
The Iraq War and the Change of relations between the US and the EU ----The Role
of Poland---
The Enlargement of the EU and NATO worked together like the two wheel of
locomotive until 1999-2001. But just after 9.11, and the Bombing of Afghanistan to the
Iraq War, Bush government of the US changed his position of Security Policy to aggressive
military campaign which contains first strike against international terrorism in the Bush
Doctrine in September 2002(4). After that, the security policy between the US and the EU
opposed each other in the international politics. The most of the EU countries were more
precautious to use military power outside of the guarding territory
However, just at that time when international public opinion strongly supported
France and Germany’s anti-war policy and hoped the UN’ s sanction against Iraq, 8
countries in Europe(the UK, Italy, Spain, Denmark, Portugal, Poland, Hungary and Czech
Republic)on 30 January 2003, and 10 countries, so called “Vilnius 10” (East and South
European countries) on 4 February declared that they support the US decision to attack
Iraq.(5)
By this declaration, Europe divided the two between support or not support of Iraq
War. Affirmatives to the Iraq War were 7 countries, negatives were 4, and neutrals were 4
among the 15 EU countries. So French and German leaders became minority. On the
other hand, the future member countries including Romania, Bulgaria and Turkey
supported the US. Only Marta and Cyprus were neutral, so, 11 applicants for the EU
supported the US. The Enlarging Europe, which population are 450 million and 10
milliard dollars GDP, found itself didn’t integrate any more and didn’t work the CFSP.
Why Poland and CEE support the US? There were particular pragmatism and
historical and social connection.
One reason is the historical memory. The US always helped CEE, when they were
in crisis historically, so they cannot deny the US demand. It has no connection with
President Bush’s policy. Second is that they could not reject the US’s ask, because they
are ready to join to NATO in 2004.( “not the EU, because it is enough far”, said Romanian
authority).(6) Third is the million of the East European emigrants in the US, and they
makes a big Lobby there. Fourth is so called “Euro skepticism” toward the EU, because of
the severe criteria joining to the EU, which I analyze in Chapter 6. The fifth and the last is
another historical memory of occupation and devastation of Nazis Germany and the Soviet
Army, which invaded to and ruled their countries in nearest past. So their security
defense is not connected to the EU, but the US and the NATO. Each of them are not
directly contacted to Iraq Attack but such a special consideration to the US made them to
put signature the declaration.
But after the declaration, each countries behaviors were different each other.
Poland became more Americophile, on the other hand, Hungary and Czech Republic
visited to Germany and France, and explained that their support to the US is not criticism
to the EU, but they wanted to avoid the rupture between the US and the EU.
Chirac, the President of France criticized CEE government, “ their behavior was
childish!”, and it caused bad influence to CEE countries. So he and Schröder had to
apologize to these countries that there is no serious connection between supporting to the
US and the EU Enlargement, so people need not be afraid of it”. So CEE countries
admitted their justification and their superiority to European Big power by supporting the
US. But this behavior brought the conflict inside between CEE government and people in
each countries. Because public opinion didn’t want to dispatch soldiers such a
dangerous places.
3. The national interest of Poland by supporting the US
68
Among CEE countries especially Poland got a very high position and great interest.
1)
They got the position of the assistant to the Secretary-General of NATO,
and Chairman of International Regulation Committee.
2)
They got the commander position to lead the 21 countries 9200 soldiers
(from Europe, Asia, and Latin America) in Iraq from September 2003.
3)
They got the strong negotiation power in the “Weimar Triangle”, which is
constituted by German, French and Polish prime ministers and foreign ministers by using
a pressure of the US in a background.
4)
They got the oil interests by their companies in Iraq, dispatched
unemployed officers and soldiers getting the subsidies for dispatch by the US.(7)
So they could get really a big merit.
On the other hand, the US also got a great merit to be influenced to CEE. They got
a foothold in Europe, and gave a pressure to the European Big countries. The new
members of NATO have to fulfill the obligation to the Military cooperation, Armament
modernization and purchases, and the Military budget has to raise until 2 % of GDP.
These things gave the US a really great merit.
One more characteristics is relation between NATO Enlargement and the War.
The NATO enlargement toward CEE 3 countries in 1999 was strongly connected with
Kosovo Bombing.
Enlargement decision always connected the US demand to
cooperation with the real Military operation in Kosovo, Afghanistan Bombing and Iraq
War.
At the last decision of NATO Enlargement toward 7 countries in November 2002,
the US strongly demanded to these countries the dispatch and cooperation to the Iraq War,
even though many of these countries reluctant to join. But the violence of the combat
began to bring the murder of soldiers by terror and casualties in each countries, the
national public opinion began to demand to withdraw very strongly.
4.
The Draft Treaty Establishing Constitution for Europe ----Conflict inside
Europe---One more important Conflict between European Big power and new members are
Draft Treaty Establishing Constitution for Europe.
It was held the European Convention on the Treaty of Constitution from February
2002 to June 2003, and the Draft Treaty was due to adopted in the Convention by the
leadership of Valéry Giscard d'Estaing, Chairman of the Convention in June- July 2003.
But the consultation has broken down, and didn’t adopt even in December 2003.
That is why the Draft Treaty was prepared, because after the Maastricht the EC
changed over the EU, and through revision of the Amsterdam and Niece Treaty, it becomes
very complicated and incomprehensible to citizens, and tried to make treaty more simple,
efficient, and understandable for citizens, under the 25-30 countries’ EU.(8)
Therefore as to integrate the Enlarged EU, the Draft Treaty offers simplicity,
decentralization, democratization and efficiency. However, the biggest problem occurred
in efficiency. It aimed to put a permanent Chair (President) and Foreign Minister in the
EU, double majority decision, and fixation of quorum of Commission members, even if the
country numbers increase. To doing this, they tried to make a united, strong and
intelligible EU, so as not to perplex proceeding by the difference of many opinions over 30
countries’ EU in the future.
However, many small and new countries strongly opposed to this proposal.
Especially Poland and Spain manifested repetitiously their concern and precaution to this
Draft Treaty. The biggest apprehension of these two countries were double majority
decision, and decrease of their own vote. But other countries like Northern Europe and
CEE countries are also anxious this Draft Treaty might be neglect the small countries
opinion than the Niece treaty. (I would like to explain more, but in another panel, it was
already discussed about the Draft Treaty, so it is better that I leave this theme any more)
So the question is the efficient and strongly integrated EU or the diversified and
69
democratic EU. This is very difficult question. Gerhard Schröder said, if we failed to
adopt the Constitution for Europe, it will be born the two different speed Europe. I cannot
understand what does it mean. On the other hand, new members including Northern
Europe have misgivings that Europe divides the two by this Constitution, big and old
countries and small and new countries. Because the rights and interest which
guaranteed under the small difference by the Niece Treaty, but the Draft Treaty makes
these rights and interests smaller.
New members demanded the New EU, which is strong toward outside, and
guarantee the rights and diversities inside. Lastly both intension was adjusted in the EU
summit on 17,18 June 2004. Poland asserted that she continue to oppose it, if the offer is
not acceptable in the middle of June. However, the division of the EU was evaded and the
Constitution for Europe was adopted successfully at last.
5.
The Election of European Parliament----Conflict of Government and Citizen
On 10-13 June 2003, the first election of European Parliament was held in 25
countries Enlarged EU competing all 732 seats in Europe. And it brought a big change.
Christian Democrats won 276 seats, Social Democrats 201, Liberals 66, Green 42, Left 39,
Right and Nationalists 27, various parties and nonpartisan 81. The percentage of poll
was low, average of all member countries was 45%, and that of new members’ was only
28%. The Government party defeated in many countries, and Conservatives, nationalists,
and Liberal parties won, and Radical Right got votes. This trend was more distinguished
in CEE. Citizens of new members didn’t go to the poll, only one third of voters, and many
of them voted to the opposition parties.(9)
Poland were distinguished. Polish government party (SLD) got only 5 seats in
54seats. The two agrarian parties, Self-Defense and Family Alliance against the EU got
16 seats. Opposition got totally 46 seats (See Table). The Support of Miller government
was only 5 %, when they joined to the EU on 1 May 2004, and resigned next day. But
Belka new government also couldn’t recover their popularity. In other countries,
opposition parties got majority, except Slovakia (See Table).
Why people in CEE didn’t go to the election, or voted the opposition party and
anti-EU party, even though they could affiliate the EU?
As the trend of both EU citizens between East and West, one reason is that it was
difficult for general people to know the merit of the Enlargement. Generally the cost of
Enlargement burdened them. Second reason is strong distrust to the government,
especially on the Iraq war and people’s dispatch to Iraq. Third is the conflict between the
EU interest and national interest, like agrarian subsidies, emigrants policy and financial
problem. Because the characteristic trend of CEE in recent days are increasing economic
differences from West, difficulty of employment, diminishing the social security, and
sacrifice to citizen. These things brought from the most of the cost of affiliation countries
by the EU enlargement.
Therefore these problems are strong criticism from CEE, because even though they
joined to the EU, they can not feel to get real European citizenship. On the other hand,
Western citizens were afraid that cheap eastern workers make increase their
unemployment and security deterioration. So both of citizens of West and East, in
present and new member countries feel the distance of the Enlarged EU, distrust their own
government, and mistrust other side people each other.
6.
Problems of EU Enlargement----National Interest and EU interest----
On the background of mutual distrusts, there exist the differences between
national interest and EU interest. It means the problems of CAP(especially direct
payment to farmers) and immigrants policy.
About the agrarian subsidies, it is the most important and long term conflict issue,
70
because it is completely different interest among vested interests like France and Spain,
contributor like Germany, and new demander of subsidies, like CEE. Especially in
Poland, agrarian farmers occupy 30% of the population, so they eagerly hoped agrarian
subsidies from the EU. But the direct payment for farmers, which offered from the EU
was only a quarter of normal payment for the first year. That payment increases 5% each
year, and they can get 100% of payment only in 10 years later, in 2013. The author had
comments in the TV in the day of the Celebration of Enlarged EU on 1 May 2004, and just
at that time the BBC Video was showed, in which Polish young farmers tear up the EU’s
subsidies offer documents, and said, “Don’t mock us!”.
So against this offer of the EU, strict criticism came out one after another from new
member countries, so new offer added 30%, from their own government and regional
subsidies at the last negotiation in December 2003. Nevertheless, it is yet only 55% of
normal subsidies, even though it added by their own government help. Polish farmers
urged the EU, “Austrian farmers got 100% subsidies, when they joined to the EU. Why do
you give us only a quarter or half? Because we are poor?!”.
In new member countries there are many farmers, who borrow heavily from a bank
because they have to fit the EU’s plenty of criteria and standard of the EU, so it is said that
proximately one third farmers might be go bankrupt after joining to the EU. Under these
situations, Self-Guard and Family Alliance, which constitute by young and radical farmers
got many seats in new European Parliament. It was very severe situation for polish
people.
One more big problem is immigrants policy. German and Austrian Governments
are very much cautious of and guard against the immigrants from the East, Poland and
other Slavic countries.
It is said that already approximately 1 million irregular
immigrants come into the EU countries, which have borders on east countries. Therefore
even though these countries come into the EU, the immigrants have restricted until 2+3+2
years, namely 7 years longest by present members.
Against such a measure, some new member countries say that they also wish to
shut out the western companies and moneys, if western countries shut out their eastern
immigration, because “free movement” does not completely work in the EU side. For new
members, Western behavior which wishes to defend their vested interests and working
market, looks like the EU protectionism and double standard comparing when neutral
countries joined to the EU in 1995. And they were anxious about the “Fixation of
difference between developed West and undeveloped East”. The Enlarged EU have to
solve these mutual distrusts, and have to make not only a strongly integrated EU, but also
multiple and diverse EU, even it is so much difficult to establish.
7.
The perspective of the Enlarged EU
How will the Enlarged EU be able to work cooperating new member countries?
One and most important thing is mitigation of conflicts and searching the
compromise and real middle ground between east and west on the CAP and immigrants
problems. Just about these problems, the opposition parties and radical parties occupied
many seats in the European Parliament. These opinions can not overlook both west and
east side, especially the stronger authority of the European Parliament will be held in the
future. It is very difficult to find the compromise, because each demand looks like really
zero-sum games for CAP subsidies and immigrants-emigrants problems. But if not
mutual regulation, the European Parliament might fall into confusion between EU interest
and each government’s national interests. Therefore old countries and new comers in the
EU has to decrease the difference, and has to dissolve the mutual feeling of injustice in a
long term.
The second thing is conflict of the Draft Treaty making Constitution for Europe,
Strong Europe, or/and Democratic Europe. It is also so much complicated issue. On
17-18 June 2004, it adopted to concede to smaller and middle countries, as revise the
percentage of the majority decision by the effort of the European Chair country. To do so,
71
German and France leadership was limited a little, but seeing from a long term, the
multilateral EU which is different from the US, will be highly estimated from all over the
world. How can the Enlarged EU, which is constituted by more than 30 countries,
manage and organize efficiently and cooperatively? The coexistence between strong,
integrated system and diversified and democratic system will be completely important
theme not only the EU, but also International Relations in Post Cold War era.
The third thing is relation with the US. The Enlarged EU power is comparing to
the US power in Economics, International remarks, and especially in the international
moral, which Charles Kupchan wrote in his book, The End of the American Era. CEE, the
new members have a strong national identity, but also a strong European identity too.
They love democracy, equality, social security (and Christianity), too: so they might be a
litmus paper, whether the Enlarged EU is really defending these European values, not only
for their country, but also for all the European countries. As not to make a Trojan Horse
these small and European identity countries, making a integrated, multilateral,
democratic, and diversified New Europe is one of the most important subject for the
Enlarged EU, from seeing Non-European Perspective by Japanese scholar.
72
<<The effect of the election of European Parliament in June 2004>>
Percentage of vote: average of all EU countries 45%
%, new member countries 28%
%
<Poland>(percentage of vote 20.87%)
54 seats
Citizen Charter(PO:opposition)
24,10% 15 seats
Family Alliance(opposition againstEU)
15,92%
10 seats
Law and Justice(opposition)
12,67%
7 seats
Self-Defense (opposition, againstEU) 10,78%
6 seats
Democratic Leftist Alliance(government)
9.34%
5seats☆
Democratic Alliance(opposition)
7.33%
4 seats
Polish Agrarian Party(opposition )
6,34%
4 seats
Polish Social Democrats
5,33%
3 seats
<Hungary>(% of vote 38,47%)
24
FIDESZ/Citizen(opposition)
47,41%
Hungarian Socialist Party(government)
34.31%
Liberal Democrat Alliance(government)
7,72%
Hungarian Democratic Forum(opposition) 5,33%
seats
12 seats
9 seats☆
2 seats☆
1 seats
<Czech Republic>
24 seats
Civil democratic Party (opposition)
30%
9 seats
Bohemian & Moravian Communists
20,3%
6 seats
Nonpartisan alliance, European Democrats, 11,0%
3 seats
Christian Democrat/Czech-slovakian. people’s party(govern)9.6%, 2seats☆
Czech Social Democrats(government))
8.8%
2 seats☆
Others
8,2%
2 seats
<Slovakia>
14 seats
Slovakian Democratic Christian Alliance(govern)17,1%
3 seats☆
People’s Party/Democratic Slovakian Movement(oppos).17.0% 3seats
Smel(Direction)
16.9%
3 seats
Christian Democratic Movement(govern))
16,2%
3 seats☆
Hungarian Alliance (government)
13,2%
2 seats☆
<Slovenia>(% of vote 28,25%)
7 seats
New Slovenia (opposition)
23,48%
2 seats
Liberal Democratic, Pensioner Democrat (govern) 21,94%
2 seats☆
Slovenian Democratic Party (opposition)
17,67%
2 seats
Social Democratic Party (government)
14,17%
1 seat☆
<Serbian President Election>First time(% of vote: 47,63%)
1.Nicolic: Radical Party, Vice President(opposition, Radical Right)30.44%
2.Tadic: Democratic Party (opposition)
27,6%
(Source, Central and Eastern European Fax news, 15-17 June, 2004)
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Haba, Kumiko, The Challenge of Enlarging Europe, Will it become a multilateral Power
comparing the US?, Tokyo, 2004.
76
7.
総論 ヨーロッパの
ヨーロッパの東方拡大―
東方拡大―グローバル化
グローバル化とナショナリズムの
ナショナリズムの相克
羽場久美子
1989 年に冷戦が終結してから、既に 17 年、2004 年に中・東欧 8 カ国と地中海 2 カ国が加盟してか
ら 2 年がたつ。本書は、冷戦終焉後、ヨーロッパ共同体が、それまで社会主義体制を取っていたヨーロ
ッパ東半分の国々にどのように拡大していくこととなったか、とりわけ次々と社会主義体制を放棄して、
「自由化、民主化、市場化」と「ヨーロッパ回帰」を目指しつつ最終的にEUに加盟していくこととなった
国々が、この間の経緯を、どのように認識しているか、さらに今後拡大予定の「西バルカン」、トルコな
どの国々と、その東に広がるロシアやウクライナが、EUとの関係をどう作っていこうとしているのか、
を検討する書である。
本書は、全体が3部19章から構成され「ヨーロッパの東方拡大」とそれへの各地域の対応を扱ってい
る。編者は、拡大EUと国際政治、国際経済、欧州憲法条約の問題から拡大の問題に切り込み、各部の
総括を行なっている。
総論、
総論、ヨーロッパの
ヨーロッパの拡大―
拡大―グローバリズムと
グローバリズムとナショナリズムの
ナショナリズムの相克―
相克―では、欧州の統合と拡大の歴史
的意義を、「戦争の非制度化」と敵対の終焉・経済発展に見ながら、社会主義から資本主義へと転換を
遂げたヨーロッパ東半分の統合の17年間を、グローバル化とナショナリズムの観点から検討する。
本論は I. グローバル化
グローバル化の中の欧州統合、
欧州統合、II. 新加盟国から
新加盟国から見
から見た新しい欧州
しい欧州、
欧州、III.EU
III.EU拡大
EU拡大と
拡大と周
辺地域、
辺地域、の3部からなる。
第1部は、グローバリゼーションの下で経済発展、機構改革、シチズンシップ、金融改革、およびE
U・NATOの拡大政策の観点から、なぜ冷戦終焉後、欧州が東への拡大を余儀なくされたのか、そこ
にどのような問題が起こっているかを総合的に検討する。
第 2 部は、冷戦終焉によって、社会主義的国家システムから投げ出された、旧東欧諸国が、グローバ
ルなヨーロッパ再編の枠組みの中で、いかなる形で、民族、地域、国家、社会や制度を再構築していこ
うとしたかを、それぞれの国から検討する。
第 3 部は、現在、拡大EUの境界線の外にある地域が、拡大EUをどのように認識し、それとどうか
かわろうとしているのかを探る。
全体を通して、ヨーロッパがローマ帝国の版図を越えてかつてないほど東方に広がる中、それを余儀
なくさせるメカニズムはどのように動いているのか、そうした中で、ソ連東欧の社会主義体制から資本
主義体制へと転換し、民主化・市場化・ヨーロッパ化を選択した国々・人々が、変化する国際システムを
どのように利用し適合しようとしてきたのか、あるいはそれと対峙することにより、いかなる対立と紛
争の構図を生み出してきたのか。
更に、拡大し続けるヨーロッパは、何を目指し、どこへ行くのか。人々はこれにどうかかわりどのよ
うに自己の利害とアイデンティティを守ろうとしているのか。をできるだけそれぞれの地域に即して検
討する。
第 1 部 グローバル化
グローバル化の中の欧州統合は、以下の6章からなる。
欧州統合
「東方拡大と
東方拡大とEU経済
EU経済」
経済」(田中素香)は、グローバル化と経済発展の面から極めてメリットの大きい拡大が
なぜ相互に強い被害者意識を生むのかという観点から、2 重の指導体制、海外直接投資の流入、経済実
績の乖離、垂直的経済統合の問題性などから総合的に考察する。
「欧州憲法と
欧州憲法と東西欧州」
東西欧州」(庄司克宏)では、拡大に対応する制度機構改革として出された憲法条約に凝
集される「民主主義の安全保障」と「多様性の中の統合」という理念と実態の齟齬を、統合の非対称性から
分析する。
「シチズンシップの
シチズンシップの確立を
確立を求めて」
めて」(宮島喬)では、統合ヨーロッパのシチズンシップの問題を、定住外
国人やナショナル・マイノリティ、ロマ、また新加盟国の移動の自由の制限などから分析し、その制度
化と現実の相克を緻密に追求している。
「アメリカン・
アメリカン・グローバリゼーションと
グローバリゼーションとユーロ」
ユーロ」(増田正人)は、グローバル経済と地域主義化の同時
進行と、ドルの国際通貨システムの中でのユーロの導入が2極通貨体制に向かう可能性と将来の高い評
価をユーロに与えている。ただイタリアやスペインなどユーロ圏から離脱期待の言辞もある中、強いユ
ーロの持つ国内的意味も考える必要があろう。
「EUの
EUの東方拡大政策」
東方拡大政策」(東野篤子)は、欧州委員会と旧加盟国の拡大政策に視点を定めて加盟交渉の過程
77
を論じ、それが不確実でコストがかかるが欧州の安定化という観点から不人気な政策を遂行したことを
論証するが、一括して負担であったかは議論の余地があろう。
「NATO
NATO拡大
NATO拡大と
拡大と中・東欧」
東欧」(広瀬佳一)は、ソ連崩壊による「力の真空」の回避としての東欧諸国の加盟
要請と新しい脅威への対処と機能変容としての米国の拡大要請とが結合して、軍の近代化と域外への展
開が実行されたとする。欧・米・中東欧 3 者の安全保障観の調整が課題となる。
第Ⅱ部 新加盟国から
新加盟国から見
から見た「新しい欧州
しい欧州」
欧州」は、EUに加盟した中・東欧の新加盟国と早晩加盟するル
ーマニアに焦点を当て、社会主義体制崩壊後、各国が新しい政治・経済・社会状況の中でいかに進むべ
き道を模索しているかを、憲法条約、ジェンダー、民族、マイノリティ、国際関係から、その苦悩を論
じている。
「欧州憲法条約と
欧州憲法条約とポーランド」
ポーランド」(小森田秋夫)は、憲法条約という国家理念を問う問題を通じて、ポーラ
ンドが他の中・東欧諸小国から抜け出、米欧大国との力関係の中でいかにポーランドの国家利害を実現
するかを、各政党階層の指導者の分析により炙り出そうとする。
「チェコにおける
(中田瑞穂)は、社会主義時代の女性の社会進出と低い地位、体
チェコにおける新
における新しい社会像
しい社会像の
社会像の模索」
模索」
制転換後の失業と売春増加の後、市民社会形成としてジェンダー組織が成長したこと、その中でのEU
への期待と違和感や、進まない一般社会を扱い、興味深い。
「スロヴァキア共和国
(長與進)は、他の中欧から出遅れたナショナル左派メチ
スロヴァキア共和国の
共和国のEU・
EU・NATO加盟
NATO加盟」
加盟」
アル政権からズリンダ民主派政権へと移行する中、EUNATOへの支持が高まらずアイデンティティ
の根幹が定まらない不透明な国民意識を分析している。
「拡大EU
拡大EUと
EUとバルト」
バルト」(志摩園子、小森宏美)は、前者が「バルト」地域の安全保障と地域協力の観点
から、主体性を持ったレアルポリティクとしてのEUNATO加盟を扱い、後者は、エストニアのロシ
ア語系住民及び不確定な国境問題に焦点を当て EU とロシアとの大国間外交・共同行動に警戒を示し、2
国間関係と CFSP で実質利益を構築しようとする。
「ルーマニアの
ルーマニアの東方外交」
東方外交」(六鹿茂夫)は、ロシアと欧州大国のはざまにあり、米との軍事同盟、モルド
ヴァとの関係、黒海地域安全保障の 3 点により、NATOに依拠する「米英ルーマニア枢軸」と、EU
加盟により欧州内の発言力の強化を狙うルーマニア外交を描く。
第Ⅲ部、EU 拡大と
拡大と周辺地域は、拡大EUと境界線を接し、今後の動向が最も注目される国々が論
じられる。新加盟候補国トルコ、紛争とNATO空爆を引きずりつつ「西バルカン」としてEU加盟準備
を始めた旧ユーゴスラヴィア諸国、オレンジ革命を達成してEU加盟を目指すウクライナ、更にアジア
と欧州にまたがる大国ロシアとEUの関係が扱われる。
「トルコーしたたかな
トルコーしたたかな加盟戦略
したたかな加盟戦略」
加盟戦略」(夏目美詠子)は、イスラムという宗教をもち冷戦期に対ソ防衛の前線だった
トルコが、冷戦後は「テロとの闘い」において評価され地域の安定と経済発展を期待され、EU加盟を手段として
民主化と繁栄へと脱皮していく姿を描く。
「多民族紛争への
多民族紛争への予感
への予感」
予感」(岩田昌征)は、冷戦期、非同盟のリーダーとして世界的威信を持っていたユーゴが、
冷戦終焉後、バチカンと米・独の後ろ盾の下、諸国家の分裂、独立、崩壊へと戦争の連鎖が進み、それを周辺
国も冷ややかに観戦していた分断戦略が描かれる。
「『西
2 極分解がユーゴス
「『西バルカン』
バルカン』とEU・
EU・NATO」(定形衛)は、ソ連崩壊後に「ヨーロッパ化」と「バルカン化」の
NATO」
ラヴィアでは国を切り裂く形で同時進行した事実を踏まえつつ、ミロシェヴィッチの退場によりEU主導の南東欧
安定化と連合プロセス、地域協力が進展しつつある展望を示す。
「クロアチア―
民族と国家の
国家の相克」
相克」(石田信一氏)は、「西バルカン」で最初にEU加盟交渉に入ったクロア
ロアチア―民族と
チアが、現実には、少数民族自治区の崩壊やマイノリティの制限、地方自治の困難さを持ちつつも、徐々
に多元化と地域主義の芽を生み出つつある過程を分析している。
「欧州拡大と
欧州拡大とウクライナ」
ウクライナ」(藤森信吉)は、当初ロシア崩壊により独立し EC 加盟と軍事的中立を目指し
たが、次いでNATO接近と CIS 経済同盟に関与し、さらに 9.11後は欧州選択と民主化に大きく舵を
きり、「オレンジ革命」後、ロシアの経済協力と共に欧州化に向かう姿勢が描かれる。
「EUの
「EUの東方拡大と
東方拡大とロシア」
ロシア」(下斗米伸夫)は、ヨーロッパへの楽観主義と懐疑主義を持つプーチン政
権が、9.11以降は対テロでNATOと、経済面ではEUとの協同関係を強めつつ、ウクライナの内
部分裂など、悩ましい国際関係も制御していく現実を論じている。
以上を全体として眺めたとき、ヨーロッパの東方拡大は、既にグローバリゼーションと国家再編の双
方から、既に止めることが出来ないプロセスになりつつあること、またそれは制度や機構面の動きにと
どまらず、各国各地域における社会変容、文化・政治変容の動きとも重なって進行しつつあることが理
解できよう。
78
ただし、丁度 2004 年のEU加盟前後に問題となった、移民問題、農業補助金問題、マイノリティ問
題、国境線問題、欧州憲法条約の問題をめぐって、旧加盟国と新加盟国あるいは加盟候補国との間に、
まさに期待と幻滅が繰り返されていったことも事実であり、またその過程で強烈なユーロスケプティシ
ズム(欧州懐疑主義)や拭い難い元加盟国への不信、あるいはEU側から新加盟国への負担感が相互に助
長されていったことも事実である。
拡大EUの新加盟国や近隣諸国の多くは、経済的な格差のみならず、西欧諸国とは異なった国家制度、
政治体制、価値観、地域評価を持っており、それが往々にして、互いの不信と齟齬を生んできた側面も
ある。現在EU内で起こっている、欧州憲法条約を巡る議論、機構改革の相克、安全保障をめぐる齟齬、
移民問題、農業予算の配分や財政問題、雇用と社会保障問題、境界線と民族、司法内務協力など、ほと
んどの問題は現在こうした新加盟国及び加盟候補国の問題と拘っている。
本書は「多様性」や「異質性」の中の統合が、具体的にどのような問題として現れているかを、経済、
憲法条約、シチズンシップ、加盟交渉などの政策と、各国の政治・民族・社会状況と社会変革の苦悩とを
つき合わせる中で、立体的に拡大EUの現状と問題点が明らかにすることを目指している。
近年 25 カ国に拡大したEU理解の困難さから、旧来、国民国家を超えてブリュッセルからEUを考
えてきた研究動向に対し、欧州憲法条約策定以降の過程でむしろ安易に、英仏独など欧州大国の主導権
からのみ拡大EUを論じようとする傾向も出始めているように思える。
それは現実の欧州にもいえることで、国際的に自信を深めてきた独仏が、ヨーロッパ東半分の加盟国
の多様な政治・経済・社会状況の実態を無視して主導権を握ろうとする姿勢も見受けられる。加盟最終
段階での農業・移民問題をめぐる確執や、イラク戦争での中・東欧のアメリカ支持、欧州憲法条約の批
准拒否と延期などは、各国市民の声に注意を怠ったことに加え、各国それぞれの状況への無理解に対す
る反発から出てきていると言えるかもしれない。
*
*
*
*
本研究会は、2002 年に「拡大EU・NATOと中・東欧」として中・東欧の拡大候補国を網羅した1
2名からなる研究会として出発した。2ヶ月に1度ずつ、それぞれの国の政治状況を報告し討論し知識
を共有しあう刺激的な場であった。10カ国の加盟が現実化していく中で、著書作成が日程に上り、E
U学会や他の研究会で共同研究をさせていただいていた友人・知人の方々にもご参加いただく形で、執
筆活動に入った。
この 4 年間の研究会および著書作成の過程で、本当に多くを学ばせていただいた。研究会に参加しな
がら執筆していただけなかった方々にも、心よりご教授を感謝する。
編者に加わってくださり、お忙しい中、貴重な経済統計を含め、EU全般にわたる豊富な知識で全体
を統括してくださった田中素香先生、優れた知力とすばらしい忍耐力で著書全体を読み込み詳細にご指
示をくださった小森田秋夫先生、研究段階から執筆に関する多くのご教示をいただき、企画の最初から
最後まで支え励ましてくださった馬場公彦さん、お忙しい中、編者の無理な注文を快く聞いて下さり、
優れた論文を多数寄せてくださったそれぞれの領域の第 1 人者の執筆者の方々、心より感謝申し上げま
す。本当にありがとうございました。
今回、法政大学からも貴重な研究助成を受けた。あわせて深く感謝致したい。
ヨーロッパ東方拡大は、どこまで広がるか未だ不確実な、極めて不確かな実験場である。25 カ国、さ
らに 10-20 年内に 30 カ国を超えようとし、他方で内的キャッチアップに 20-30 年を要するといわれる
拡大EUは、日本人にはなかなか理解しがたい、それを率い加わる当人たちにも未踏の創造体である。
東方拡大を続けるEUと新加盟国の多様で多面的な実態分析を行なう日本初の総合的研究書として、本
書が、ささやかな貢献となれば、幸いである。
EU25 カ国拡大 2 周年を踏まえ、更なる拡大と問題克服を展望しつつ
編者を代表して
羽場 久美子
79
80
8. 拡大EU
拡大EUと
EUとナショナリズム ―グローバル化
グローバル化と「民主化」
民主化」の一帰結―
一帰結―
羽場久美子
はじめに
21世紀に入り、EU拡大の過程で、ヨーロッパの各地でナショナリズムが再び成長してきている。
なぜだろうか。
その原因を先取りして特定することは出来ないが、冷戦終焉以降のグローバル化や「民主化」さらに市
民や社会政策との関連を指摘する多くの研究が、既に冷戦後いくつも出されてきた(1)。
ミヒャエル・マンは、近年のその著書「民主主義の暗部―The Dark side of Democracy
—Explaining Ethnic Cleansing」で、ナチス・ドイツから共産党の粛清、ユーゴ、ルワンダ、エスニッ
ク・クレンジングまでを民主主義の負の側面として分析した(2)。
1989 年の冷戦の終焉以降、グローバル化と地域統合の広がりの中で、まさに民主主義の「暗部」とし
て、バルカンで、民族紛争・地域紛争が拡大した。他方中欧では、1990-2004 年にかけて、「ヨーロッ
パ回帰」と「民主化」を命題とした経緯を経てEUに成功裏に加盟したにもかかわらず、既に 1990 年代半
ばには「民主化」への懐疑が広がった。それはリベラル・ナショナリズムとして、ハンガリー、チェコ、
ポーランド、スロヴァキアなど、中欧各国を覆っていった(3)。
(Loberal Nationalism)
さらに西ヨーロッパでも、EUの拡大とグローバリゼーションの広がりの中、移民の流入、農産物価
格競争、農村への補助金配分など、欧州東部の低コスト、低賃金との競争と負担の増大が、ゆっくりと
元加盟国をも侵食し、「国民投票」という最も参加民主主義的な手段を行使して、「欧州憲法条約」、拡大
欧州への懐疑とプロテクショニズムが市民の側から広がっている。まさに民主主義の暗部、矛盾、問題
点が、拡大欧州の各国・各地域をそれぞれのレベルで席巻しつつあるように見える。
「EUは減速しつつある(declining)
。」2006 年 3 月、元ハンガリー政府EU代表ペーテル・バラー
ジは、イタリア・パドゥアでの欧州連合主催の国際会議でそのように述べて周りを驚かせた(4)。彼は続
けて、ナショナリズム、移民、マイノリティ、境界線の問題が、現在EUにとって、死活の、最も重大
な難問である。それらはいずれも拡大とグローバリゼーションの帰結である格差、対立の温床となって
いる、と述べた。
21世紀、グローバル化の広がりによって、労働力の自由移動、移民の増大、EUそのものの境界線
の拡大と、民族問題が、ヨーロッパ全体を覆っている。拡大EUのナショナリズムはまさに、そうした
グローバル化する世界と「民主化」の波という、世界全体が避けて通れない問題の一つの帰結として、現
れているのである。
しかしこうした見方に、『ツァイト』の編集主幹、テオ・ゾンマーは異議を唱える。彼は「欧州衰亡
論にくみするな」として、ヨーロッパ懐疑主義の広がりを戒めている。彼は、欧州憲法条約、統合の制
度や枠組みへの新加盟国の不適応、フランスに見られる「経済的愛国主義」の広がりがありつつも、欧
州統合は同様の危機を繰り返し乗り越えてきたとする。そしてソフト・パワーとしての欧州の底力を評
価し、そうしたナショナリズムとヨーロッパ懐疑主義をいかに克服するかが、重要な課題である、と述
べている(5)。拡大欧州の最大の課題が、ナショナリズムへの対応であるといっても過言ではないだろう。
ナショナリズムとは何か。なぜ今、グローバリゼーションとリージョナリズムが進む中、ナショナリ
ズムなのか。
アーネスト・ゲルナーによれば、
「ナショナリズムとは、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなけ
ればならないと主張する一つの政治的原理」である。他方アンソニー・スミスによれば、ネイションは「諸
理念や進行の中で最も人間の忠誠心を獲得し、政治的な行動に駆り立て、祖国という連帯意識を形成す
る」。(いずれも国際政治事典)(6)
1980 年代以降のみに限定しても、新たに現れてきたナショナリズムは、いくつかのバリエーション
がある。
1.「自己と他者」「敵と見方」の図式を作り、自分たちのアイデンティティを擁護するために、「他者」
を攻撃することによって「自己」の結束を図るラディカル・ナショナリズム。
(民族紛争)
2.グローバリゼーションと地域主義の広がりが、国民・市民の利害と対立を生む、反グローバリゼー
ションと国益・市民益擁護のナショナリズム。
(市民運動)
3.国家に対して、自民族の利害を擁護しようとする、社会的弱者及びマイノリティのナショナリズム。
(農民、移民、少数民族)(7)
81
第1から第3のナショナリズムの波は、いずれもグローバル化と冷戦の終焉、拡大EU
の「自由な国境移動」の結果、出てきたといえる。21 世紀、拡大EUの中で、民主化の波が広がって
いる。ヨーロッパ統合と、拡大EUのナショナリズムの様々な層のスペクタクルを、グローバル化、冷
戦の終焉、「民主化の挫折」の 3 点に焦点を当て、その一つの帰結として出てきている諸問題を分析・検
討する。
1.欧州拡大とナショナリズムの成長
21 世紀に入り、グローバリズムに対する「国益」保持への関心が、広がっている。
2000 年?、EUをどのような形態にするかについて提案がなされたとき、最初、ハンガリー出身の
外相 Joska Fischer が、ドイツ型の連邦 Federation 構想を出したのに対して、フランスは中央集権的
な国家連合を提唱し、これに対してイギリスはより緩やかで国家主権を重視した Commonwealth 型国
家連合案を主唱した。しかし歴史的にはこれに加えて、小国のより民主的な連邦が、隠れた役割を持つ。
「ヨーロッパ合衆国」これを最初に唱えたのはヴィクトール・ユゴーであるが、中欧ハプスブルク帝
国内の諸民族は、18 世紀末から 19 世紀に至る民族覚醒の時期から繰り返し国家連合ないし連邦国家を
掲げて立ち上がった(8)。フランツ・ヨーゼフの皇位継承者がいずれも次々となくなって以降、帝国を「合
衆国」にする夢は費え去ったが、それは、多民族帝国ハプスブルクの元外交官の息子、日本人の青山ミ
ツコを母に持つクーデンホーフ・カレルギーの『パン・ヨーロッパ』構想によってよみがえった。
他方で、国家主権支持派:北欧、英仏
2.西欧・中・東欧共に、民族主義、右翼急進主義の成長
西:経済効率競争+社会保障削減
東: 貧富の格差の広がり:社会的弱者の不満の拡大
弱者も、NATO・EUの拡大に、利益を見出せない:「国家による弱者保護を期待」
農業関係者、小・中企業の人々、社会的弱者(失業者、未熟練労働者、高齢者、ロマ)
これらの改装の人々、統合・拡大よりまず自分たちの救済を望む
国境が開かれることによる打撃を恐れる。(中欧の西の国境:最強国ドイツとの競争)
農業支援基金(CAP)への期待と会議。新加盟国ではなく、既存加盟国の保護が先決。
弱者の救済としての、右翼ラディカリズム
<西側>
2000 年前後
中南欧:オーストリアのハイダー現象、イタリアのベルルスコーニ人気
西側のEU境界線上で反EU(移民)機運高まる
右翼のナショナル・アイデンティティ、「敵は東から来る」(大量の移民)
アイルランド、デンマークでも、生活水準の悪化、社会保障の削減を警戒して、反EU
ヨーロッパ各国の国益重視と拡大とのバランスを以下に創出するか。
社会民主党のほとんどは、グローバリゼーション、欧州拡大支持。どう対応するか。
ついにフランス(2005-6)
ルペンから:2004、
<東側でも>
ポスト共産主義の市民、EU拡大が基本的に民衆の利益にかなっていないことに不満。(年金、失業者、
の所得格差への不満。地域格差拡大への不満。)
生活水準の悪化、欠乏、貧困、失業が、左右のラディカリズムを助長
移民、言語、民族アイデンティティ、失業、多様化への不安、国境をめぐる対立などが、
「他者」に対する不寛容を生む
増大する「我々」対「やつら」意識
ここでも社民はヨーロッパ回帰を下支え、反EUの右翼が不満を掬い取る。
なぜヨーロッパの社会主義者は問題を解決できないか。
ヨーロッパ 2010
ベルトラン、ミシャルスキ、ペンク編
82
1.市場の勝利、グローバリゼーションと社会格差の拡大
2.衰退するEU、活性化する地域社会、EU統合の停滞と各国離脱
3.第 3 の道のヨーロッパ:社会改革の実現
4.社会不安の増大と、ラディカリズムの拡大
5.地域紛争の拡大と大国主導軍事態勢の確立
中東欧
Agh Attila, 1994 論文
中・東欧、いかなるヨーロッパか。
1.ドイツ化(ドイツの経済植民地化)、2.トルコ化(NATOには入れても、EUは据え置き)
3.ユーゴスラヴィア化(民族、地域紛争の泥沼化)
4.ヨーロッパ化(ヨーロッパへの回帰と多地域、多民族共存)の間で揺れる。
4.を達成したが、1.の危険は去っていない。格差は是正されていない。民族地域紛争の可能性はなくな
る。
ナショナリズムを払拭するために、解決すべき問題群:
1.格差の是正、不平等感、主権の制限感を是正
(地域補助、年金、失業など社会的弱者への手当て、西側との制度的格差は、すぐには是正できない。
長期的な発展課題と、西側の discrimination の払拭は重要。
ただし、むしろ西側市民の否定感は増大。
人の移動とEU域内のシェンゲン協定は、冷戦の終焉に伴い、内においては国境線の意味を弱め、自
由移動を促進してきた。しかし他方でEUの境界線が東に拡大し確定していく中、その境界線のうちと
外を巡って、ヨーロッパ・アイデンティティ、ナショナル・アイデンティティの再検討が始まった「我々
はヨーロッパか、どこまでがヨーロッパか、ヨーロッパとは何か、我々は何者であるか。」境界線の東
への移動と共に、冷戦期に「ヨーロッパの外」に置かれていた国々から、アイデンティティの再編とアイ
デンティティ・クライシスが起こっている。各地域のアイデンティティは重層化し混迷しつつある。こ
れまで社会主義体制下にあった中・東欧の国々は、その領域内部では比較的自由に移動できていた。し
かし、中・東欧の一部が「境界線」の内側、一部(ウクライナ、ベラルーシ、ロシア、中央アジア)が境界
線の外側に残ることにより、 (これまで国家間の移動は身分証明書の提示だけでよかった国と国の間で、
数十万の人々が、ビザの導入に苦しむことになる。
「EUの内か、外か」が決定的な意味を持つようになる。境界線の内側で、ヨーロッパ・
アイデンティティとは異なるナショナリズムが成長する一方で、EU境界線の外では、逆に「自分た
ちは、ヨーロッパ人なのだ」という意識が強まる。
(ウクライナ、グルジア、ロシアの西の境界で)
典型的なのは、ウクライナであろう。2004年末のウクライナの「オレンジ革命」は、ポーランド・
バルト3カ国まで広がったEU境界線のプレッシャーを受けつつ、「ヨーロッパ」との共同を意識した西
ウクライナ(もとハプスブルク帝国領内、東方カトリック圏)を基盤として遂行された。この過程でユ
ーシチェンコが辛くも大統領に就任した。彼らのナショナリズムは、EUの境界線の前で、「我々もヨ
ーロッパなのだ」
、という自己主張として現われたのである。しかし1年余の2006年の総選挙では、
ヨーロッパ派は力を失い、再びロシア派が席巻してきている。EU加盟は遠く、経済改革は進まず、汚
職は払拭できなかった。「ヨーロッパ」と「ロシア」のはざまで揺れる境界線地域のナショナリズムを象徴
している」
1.拡大EUとナショナリズム
2.拡大EUにおける「民主化」と民意の相克
2005 年 5 月末―6月の欧州憲法条約に対する、フランス、オランダの国民投票での拒否にも象徴さ
れるように、現在EUとの関係で、EUエリートをリーダーとする「民主化」が、どれほど民意を反映
しているかが、深刻に問われてきている。背景には、欧州憲法条約そのものの問題以上に、日常生活に
広がる東からの移民、失業と経済不安、「ヨーロッパ」のすぐ外側での、パレスチナ、中東における戦
83
争状況とEUの軍事化に対する政府への不信感などの問題がある。
冷戦終焉後の中・東欧において、
「民主化」がどのように広がり、それがどのようにナショナリズムの
成長に影響を与えていったのかを検討する。
<民主主義とは?>
『社会学事典』
(高畠通敏氏)によれば、民主主義とは、ラテン語の demos+kratos(民衆の支配)に由
来し、本来、民衆の運動、民衆の参加をその語源とする。近代民主主義の理念としては、「治者と被治
者の同一、成員の同質化・平等化」(シュミット)、議会制民主主義、多数決と少数者の尊重、自治と地
方分権を原則とする。(7)
EU拡大過程における中・東欧の民主化の研究は、冷戦終焉後、文末の参考文献にあるように、少な
くない著作が出されてきた。
ハンガリーの政治学者バログは、ヨーロッパ統合と「国益」について、98 年に警鐘を鳴らしている。
ハンガリーの政治学者アーグ・アッティラを中心とした中欧研究叢書も、社会主義体制から資本主義へ、
民主化・市場化への過程を、ハンガリーのみならず、中・東欧全域にわたり、同時代における 200 を越え
る時々刻々の論文の刊行を通して、精力的に分析し続けてきた。また、チェコの Drulak らは、中・東欧
地域の民主化過程を、民族的・ヨーロッパ的なアイデンティティの特徴を通して追求してきた(8)
。
サセックス大学のメアリー・カルドアらを編者とした中・東欧の民主化の本は、欧州委員会とも直接
関係を持ちながら、中・東欧各国の研究者により 90 年代前半の民主化過程を総合的に分析したものであ
る(9)。しかし著者らの意図とは関係なく、基準としての民主化の尺度が、まさに制度的枠組みとし
ての民主化にそれぞれの状態を当てはめて整理がなされているために、結果として、西欧の「民主化」
基準に対して、どの程度中・東欧がそれを達成しているかの達成度評価として作用している(表2,3)
。
ゆえにこの書の相互比較表を分析する際には、少なくとも現実の中・東欧の具体的政治過程と対照させ
つつ、検討する必要があろう。
筆者も、冷戦終焉以降の15年間、中・東欧の「民主化」をめぐる諸矛盾を拡大EUとの関係の中で
分析してきた。
本論文では、冷戦終焉後の15年間を、①「社会主義から資本主義へ」という史上初の、( 経済的、
政治的、社会的改革の)試み、②「EU基準をめぐる民主化」と「国益」ないし「市民益」との確執(と
くに農業補助金と、移民をめぐる問題)、③「戦争の中での民主化」として、コソヴォ空爆からイラク
戦争に至る中・東欧の民主主義の変容、④さらに EU 加盟後 1 年の民主主義のありようについて、分析
したい。
その際、上記の定義を踏まえ、制度的民主主義の達成度に加え、どの程度「民衆の運動」「民衆の参
加」、
「治者と被治者の同一、成員の同質化・平等化」、少数者の尊重、自治と分権が図られているのかな
どにも留意しながら、中・東欧の「民主化」について、検討を行っていくこととする。
3.中・東欧の「民主化」の歴史的試みと挫折
中・東欧は、19-20世紀にかけ、実に歴史的に4度にわたり、民主主義の導入を繰り返し試みてき
た。しかしその試みは、3 度までが失敗してきた。
第1は、1848 年革命、民族の解放とハプスブルクからの独立戦争、第2は、第 1 次世界大戦後、ハプ
スブルグ帝国からの独立と国民国家形成による第3共和政の導入、第3は、第 2 次世界大戦後、ナチス・
ドイツからの解放後の(人民)民主主義の導入、第4は、冷戦の終焉後、社会主義体制の崩壊とソ連か
らの解放、
「ヨーロッパ回帰」による民主化である。
それは一つには内部的要因によるものであり、今ひとつは、外部要因によるものである。内部的要因
とは、多民族地域ゆえの少数民族対立、諸利害集団の調整の困難さや、経済の脆弱性、あるいは政党と
一般民衆の結びつきの弱さなどの弱点であり、外部要因とは、国境地域を通しての周辺諸大国からの絶
えざる脅威などである。これらの相互作用の結果、いずれも決定的には周辺大国の介入が、この地域の
不安定化と民主化の失敗ないし中断を決定付けたのである。
その後この地域は三たびの周辺大国の翻弄、すなわちソ連の介入と「アメリカの無策」(11)によ
って、東野体制に組み込まれていった。中・東欧は、まさに大国に挟まれたはざまの地域
(Zwisenschaft :Region Between)ゆえに、内的な要因のみならず外部要因にも、民主化の挫折の多く
を起因してきた地域なのである。EU、NATOの拡大は、中・東欧にとって、4 度目の民主化を完遂さ
せるのであろうか。それとも「新たな周辺大国(体制)」の下に、ついに「主体的に」組み入れられて
いく過程なのだろうか。
2005 年 5 月末から 6 月欧州憲法条約の国民による拒否にも見られるように、西欧の民主主義そのも
のが、現在、「民主主義の赤字」として問い直されていることを喚起しつつ、西欧各国各地域の民主化
84
のそれぞれの「経路依存性」が、中・東欧の民主化を規定してきた点についても言及したい。
4.冷戦終焉後の「民主化」と、拡大EUの課題
冷戦後におけるこの地域の「民主化」と市場化の達成は、ヨーロッパへの2つの段階での制度的回帰
とかさなっている。
第1段階は、<冷戦の終焉と体制転換による心情的・制度的なヨーロッパ回帰>である。90年代前
半、中・東欧の人々は口々に「自由と豊かさ」を唱えてヨーロッパ回帰を訴えた。奇しくも1989年
はフランス革命の200周年と重なり、自由・平等・博愛と、自国の民主化・市場化を唱えての社会主義
体制の放棄が、「民主フォーラム」「市民フォーラム」という市民のフォーラム的な動きを象徴として、
遂行されたのである。(12)
現実には、欧米理論家によるネオ・リベラルなショック療法を導入する国(ポーランドなど)と漸進
的改革を唱えるハンガリーやチェコなどの違いがあり、またいずれも程度の差や時間的スパンの違いは
あったにせよ、国営企業の解体と民営化、外資の導入、多党制と自由選挙による議会制民主主義、マイ
ノリティへの人権保障、環境や経済・政治・社会レベルにおける欧米基準値の達成、ヨーロピアン・スタ
ンダードの導入、などが行われていった。この過程では、
「暴力的な」制度化があり、多数の労働者・農
民とその家庭が巷に放り出された。たとえば農業協同組合は解体され、土地は元の所有者に返還され、
深刻な不況・不作が輸出を激減させた。(13)
第2段階は、<EUによる「民主化の達成基準値」の設定とそれに向けての競争>である。
EUは拡大に際して、第 4 次までは、中・東欧に見られるような厳しい拡大条件をつけていない。冷
戦期に加盟したスペイン、ポルトガルやギリシャ、95年に加盟した元中立国、オーストリア、フィン
ランド、スウェーデンに対しては、加盟基準をとくに設けずに加盟させている。
しかし旧社会主義国を加盟させるに当たって、EUは「民主国家」に加盟させるための基準を設けた
のである。すなわち、政治、経済、法律における民主化、制度化を要求するものとして、「コペンハー
ゲン・クライテリア」と31項目、8 万ページに及ぶアキ・コミュノテールを実行していく過程が設け
られたのである。以後、中・東欧にとって、1996-2004年まで実に9年近く継続する「加盟基準
達成過程」となった。こうしたEUの達成基準の設定と詳細な加盟交渉は、その時々の基準達成交渉の
際における西欧側の保護主義(たとえば農業補助金における既得権益の保護)や、ダブルスタンダード
(たとえば候補国に対するマイノリティへの人権要求と、加盟国における人権侵害の放置)などとあい
まって、西側への不信と批判を徐々に強めていくことになる。
以下、第1段階<冷戦の終焉と体制転換による心情的・制度的なヨーロッパ回帰>、
第2段階<EUによる「民主化の達成基準値」の設定とその達成>について、より具体的に概観する。
<冷戦の終焉と体制転換によるヨーロッパ回帰>
1)1989 年体制転換:
1989年、冷戦の終焉とゴルバチョフの「体制選択の自由」(どのような体制を取ろうとソ連は介
入しない)というスローガンに伴い、社会主義末期の東欧ではドミノ式に「東欧革命」と体制転換が起
こった。しかしその現れ方は各国によって異なっていた。
ハンガリーでは、社会主義か、資本主義かを問う選択の中で、社会主義改革により民主化を訴えた社
会党と、
「第3の道」を唱える民主フォーラムとの間で、指導権が争われた。最初は、中・東欧全体の改
革をリードする社会党が、民衆の声を先取りして、多元化、多党制、党名の変更、歴史の見直し(たと
えば、56年事件は反革命ではなく、民族民衆革命だったという評価、市場化への移行などを矢継ぎ早
に掲げて、改革が進行した。その後、
「伝統と改革」
「第3の道」を掲げる民主フォーラムと、自由と民
主主義、西欧化を掲げる自由民主連合が対峙したあと、フォーラム系の民族民主派が勝利し、農業協同
組合の解体、国有企業の解体、国有の土地や建物の旧所有者への返却、民営化、様々の自由化を遂行す
ることとなる。しかし、その後旧共産党体制を弱体化するための政治的・法的な訴追(秘密警察とその
協力者の摘発)や、旧共産党が強力であった分野の国有機関について優先的に解体する(たとえば農業
協同組合や社会保障関係)などに見られるように、政治判断を優先させた政策を実行したため、急速な
改革の犠牲が主に農業労働者や一般労働者に転化されて、深刻な不作や経済停滞、不況や長引く失業を
生み出すこととなった。
(14)
ポーランドでは、自主労組「連帯」による 80 年以来の動きが円卓会議を基礎とした中・東欧最初の政権
参与と政治的多元化を生み出したが、その後連帯のポピュリズム化と分裂を生んでいく。
チェコでは、当初ポーランドやハンガリーに比べ保守的な硬直した政権党に対して民衆が街頭に出、
「ビロード革命」が達成された。しかしここでも運動をリードした市民フォーラムの知識人グループは程
85
なく分裂していった。
ルーマニアでは、中・東欧の中でもっとも遅く 89 年の 12 月に圧制に対抗する民衆革命が勃発した。
チャウシェスクの逃亡と殺害という急展開を見た。しかしこれも程なく、旧共産党主流派の救国戦線
によって権力が再建された。民衆革命は『盗まれた』のである。
(15)
結果的に、共産党 1 党体制は自壊あるいは倒壊したものの、変革のユーフォリアは、1 年もたたない
うちに沈静化し、「革命」を遂行したフォーラム系のグループや連帯組織は 4,5 年で勢力を失いばらば
らになり、後には、民営企業を受け継ぎ私有化に成功した一握りのエリート、土地を買収して豊かに
なった富農層と、国営企業や農業協同組合の解体により路頭に迷う失業者大衆や一握りの土地を得て
収入と収穫を大幅に減らしてしまった農民層とに分解していった。各国ではインフレは 20 数パーセン
トに及び、社会主義時代に蓄えられたたんす預金は瞬く間に紙切れと化していった。また中高年層の
失業は長期に及び、年金生活者も合わせてそれのみでは生活できない人口の 30%を超える「貧困ライ
ン以下の人々」を、東野境界線地域に生み出していった。貧富の格差とともに国内の地域格差も拡大
したのである。
社会主義体制の解体による、初期の「民主化」と市場化は、極めて暴力的な形で、社会的弱者の犠
牲の上に、遂行されていったのである。
2)総選挙:ナショナリズムの成長
こうした中で、多党による「自由選挙」が、総選挙、地方選挙において制度化されていった。
① 90 年の選挙では、ハンガリーでは民主フォーラム、ポーランドでは「連帯」、チェコでは市民フォ
ーラムを主軸とする連合政権が、政権の主導権を握った。他方、ルーマニアでは「救国戦線評議会」、
ユーゴスラヴィアでは「共産主義者同盟」、ブルガリアでは「共産党」など、バルカンでは旧共産党の
改組派が、体制転換は不十分なまま、名称を変えてとりあえずの「移行」を図った。
② 93-5 年の 2 度目の自由選挙では、上記のような混乱と、フォーラム系の諸党派の分裂や中産層の
解体と大量の社会的弱者の創出の中、中欧では軒並み、「社会主義ノスタルジー」により、旧共産党系(改
革派)が政権に復帰する。これは、通常 100 年以上をかけて緩やかに進行する資本主義化を、ジリ貧に
なっていた社会主義国有制度を一挙に解体することによって実行するという、急速で乱暴なネオ・リベ
ラルな「西欧型民主化」の導入に対する、一般民衆からの異議申し立てであった。
しかし、急速な資本主義化と失業・生活難から「社会主義的ノスタルジー」を求めた大衆によって政権
に就いた社会主義改革派政党は、現実には「EU拡大への加盟基準として」、国営企業の更なる民営化
や社会保障制度の削減、合理化、効率化などが、先の政権時代以上に、外から要請された。その結果、
ハンガリーの社会党や、ポーランドの左翼民主同盟は、積極的に自由化と社会保障解体を推し進めて、
彼らに投票した社会的弱者層の期待を裏切ることとなり、民衆の離反を招いた。たとえばハンガリーで
は、ボクロシュ大蔵大臣による「ボクロシュ・パッケージ」と呼ばれる一連の社会保障削減政策が民衆
の強い反発を招き、大蔵大臣は更迭され、社会党は次の総選挙で敗北した。
この事件は、民衆参加による、治者と被治者同一化による「民主化の発露」の象徴であるともいえよ
う。
しかし、社会保障削減をも含む市場化・民営化をセットとした「EU基準の達成」は、それこそが「西
欧化」
「民主化」として要請され、中・東欧の民衆の間に、EU への不満と、それを遂行する政府に「売
国奴」の汚名を着せていくこととなる。
これは、「経路依存性」から来る中・東欧の「民主化の限界」ではなく、「西が要請する民主化(グロ
ーバルスタンダード)」と「西欧基準適用への民衆の率直な反発」の最初のぶつかり合いであったとい
うことができる。
③左右のナショナリズムの成長:中・東欧の「民主主義」
97-2000 年には、左派の「民主化」と「自由化」政策の不評と失敗を受ける形で、中道右派政権が
「民衆の支持を受けて」政権に就いた。中道右派は、当初、民衆の支持を背景に、積極的に「国益」
「民
族益」を打ち出すが、現実には強力な「EU加盟達成基準」の要請が足かせとなり、政権党として独自
の政策を打ち出しえず、右派と左派の政策を均質化させざるをえなかった。
こうした急速な EU 加盟基準達成の要請に基づくネオ・リベラルな市場化改革の波の中で、
「自由選挙」
で選ばれた左右の既成政党が、現実には西側の「民主化・市場化」要請に適わない限り、EUに加盟で
きない状況の中で、各国の社会的弱者層の要求を掬い取る形で、すでに 90 年代初めから、民族益を掲
げて、右翼急進主義が成長してきた。たとえば、ハンガリーではチュルカの「MIEP:ハンガリー正義と
生活党」、ポーランドのレッペルの「自衛」、ルーマニアのトドルの「大ルーマニア党」、あるいは政権
党としては、スロヴァキアのメチアルの民主スロヴァキア運動、クロアチアのツジマンの民主党、セル
86
ビアのミロシェヴィッチの社会党、などである。彼らは積極的に、民族の擁護を掲げ、自由化や民営化
をユダヤ資本の流入、ないしグローバリゼーション、アメリカニゼーション批判として、西欧基準の「外
からの」民主主義の押し付けに反対し、反 EU、反民主主義、反ユダヤ、反マイノリティなどを掲げて
支持を獲得してゆく。(16)(ヨーロッパの右翼、ラメ)
これらは、2000 年のオーストリアにおけるハイダー自由党や、イタリアのベルルスコーニのフォル
ッツア・イタリアなど反移民の右翼政党の成長と時を同じくしつつ、片や東からの移民や安い農産物あ
るいは安全保障の脅威に対抗し、方や西の基準の押し付けに対抗して、それぞれ「民族益」「国益」を
民衆に訴えながら、国民のかなり広範な層をひきつける運動として、支持を広げていったのである。
(1
7)
4.EU内部のナショナリズムの拡大と、拡大EUの境界線での「民主化」の波
90 年代には、西欧の要請にしたがって、31 項目のクライテリアを満たすこと、「民主主義」をどこま
で達成するか、進んだ西欧に遅れた中・東欧が「追いつく」かが目標であった。しかしイラク戦争におけ
る中・東欧のアメリカへの支持が、逆にEU内部で発言権を増大させることとなった。EU大国から見
れば、EUが軍事・安全保障面でもアメリカから自立しようとするまさにそのとき、EUに加盟直前の
中・東欧が、アメリカの側につき、いわゆる「トロイの木馬」として、欧州内部でアメリカの影響力を
行使するように見えた。
これをもたらした背景には、31 項目の加盟条件のうち最も調整困難な課題の最終交渉の問題があった。
すなわち、1.農業問題、2.移民問題、3.財政問題である。
1) 農業補助金の是正:
いわゆる CAP(共通農業政策)の農業補助金は、EU予算の半分を閉める大きな予算である。中・東欧
の新加盟国、特に大国ポーランドに農業補助金を配分すれば、旧来の配分額に大変動が生じる可能性が
高かった。ゆえに中・東欧加盟後の CAP の配分をめぐって、予算拠出国(ドイツ)は予算の拡大による負
担の増大に反対し、予算受給国(フランス、スペイン)は補助金のこれまでの既得権益を主張した。新加
盟候補国は、現加盟国並みの予算配分を要求した。3 者は、ゼロサムゲームであり、折衝は最終段階ま
でもつれ込んだ。
その結果、最終的には、現加盟国である 2 者の主張が通る形となった。すなわち、新加盟国は、賃金
の価格差を考慮して、CAP 補助金は 1 年目は本来もらえる予算の25%から始まり、その後毎年5%
ずつ上昇して、10年後 2013 年にようやく100%がもらえることとなる、という計画である。これ
に対して、中・東欧はEU委員に対し、
「95年に加盟した国々は、最初から全額もらえた。馬鹿にして
いる。われわれが貧しいからか。」と迫った。新加盟国から批判が続出したため、最終調整で、各国政
府は+30%まで、地域補助と政府の補助金を上乗せしてよい、とされることとなった。しかしこのよう
な状況の中、ポーランドでは、家族同盟や自衛など、急進的な反EUの農民組織が成長し、加盟後は、
欧州議会で、それぞれ第2党と第4党を占めて圧力団体となっていった。
(23)
2) 移民問題の修正:人、もの、サービス、資本の自由移動は、EUの21 項目のクライ
テリア中、第 1 義的な達成条件であった。
しかし、EU加盟国は、旧東欧の貧しい地域から、安い労働力が流入することにより、失業率や雇用
条件が悪化することを危惧した。
その結果、最終交渉では、やはり元加盟国の不安を解消する形で、新加盟国の人の移動を、2+3+
2年、最長7年まで、各国ごとに制限しうることとなった。中・東欧はこれに対しても、不信を表明し
た。ポーランドの野党は、EUは、移動の自由が原則であるにもかかわらず、西が制限をつけるのであ
れば、東も西の外資導入に制限をつけるべきであると提案したが可決されなかった。
3)財政問題の修正:CAP の農業補助金は、25%からに制限されたにもかかわらず、新加盟国は一律
に EU 加盟分担金 GDP の1,27%は最初から100%支出することになった。これに対しても新加
盟国は批判の声を上げた。ハンガリーでも、これでは加盟により支出の方が上回ると批判した。最終的
に、CAP の削減に対して、地域予算の補助額を増額で対応することとなった。
<EUの保護主義的ナショナリズム、ダブルスタンダード>
以上のように、EUは新加盟国との加盟交渉をめぐって、とりわけ、農業補助金、移民、財政予算、
といった、直接それぞれの利害とかかわる問題において、互いに譲れず、結局、現加盟国に有利な形で
最終調整する結果となり、それは、新加盟国に強い不審を引き起こすこととなった。
とりわけ、EUが、受給国の既得権益を守るため、新加盟国に対して、農業補助金を、1 年目は本来
の 25%しか配分せず、全額支給は 10 年後の 2013 年、移動の自由も最長 7 年間(2+3+2年間)制限
したことは、厳しい31か条を課される加盟候補国の反発を招いた。イタリアとオーストリアの隣国で
87
ある、中・東欧の加盟候補国中最も GDP の高いスロヴェニアが、95 年に無条件で加盟したオーストリ
アや、EU の議長国イタリアで、移民やマイノリティに差別的な言辞を述べる人々が政権に入っている
ことは極めて不本意に映った。こうした中、加盟候補国からは、EUは、ダブルスタンダードである、
保護主義(protection)であると言う批判が続出した。(24)
確かに、厳しいクライテリアが儲けられたのは、
「社会主義体制」を体験した中・東欧からである。中
欧と同規模の隣国であり類似した歴史を体験してきたオーストリアやフィンランドは、冷戦終焉後、こ
うした基準はないまま95年に加盟したこと、またとりわけそれらの中で右翼ナショナリズムが成長し
て新たな加盟候補国への人種差別的な政策が取られたにもかかわらず、一時のハイダー自由党への強攻
策を除いては、そうした政策が放置されたことは、中・東欧の人々の心情を傷つけた。冷戦開始の時期
を見る限り、オーストリア、フィンランドが社会主義体制の枠内にはいらなかったのは、偶然の結果で
あった。(25)
こうした中で、中・東欧は、EU 加盟の基準は、
「民主化」の達成度よりも、GDP に象徴される経済発
展の度合いの方がより重要な要素であると認識させられることとなる。ポーランドの農民は、EU はな
ぜオーストリアに与えた農業補助金を自分たちには10年間延期するのか、自分たちは貧しいからか、
と批判している。
<拡大EUの境界線での「民主化」の波>
2003 年秋の興味深いユーロバロメーターがある。2004年5月に加盟予定の中・東欧、地中海10
カ国のEUへの支持が50%をきっているのに対して、04 年に加盟できない3カ国(ブルガリア、ルー
マニア、トルコ)の方が、EUへの支持が 70%台と、はるかに高い。中・東欧についても、加盟交渉を始
める時期は、加盟への期待でEUへの支持が極めて高く、重要な案件を詰めていくに従って、相互交渉
の過程で、期待が諦念や挫折感に変わっていくことを示している。しかしそれでも 2 人に 1 人は、EU
に期待を寄せているということは、どのような形にせよ、ロシアとドイツのはざまに位置する限り、E
Uの中で生きていくことが、国民にとって最善であると考えるからであろう。
他方で、2004 年秋から 2005 年春にかけてウクライナ、キルギス、ウズベキスタンなどで、民主化の
波が起こっている。EUとバルセロナ・プロセス(北アフリカ、中東)、EUと旧ソ連・パートナーシップ
協定の国々が、境界線を越えて共存を求めるワイダー・ヨーロッパ政策(2003)の中で、EUの境界線の
外にある国々が、EUと連携しようとする動きが強まっているのである。このようにEUの民主化政策
は、次々に周辺地域に拡大しつつある。
「ヨーロッパ」の従来の領域を超えて「民主化」を旗頭に外に広がるEUと、拡大の内側で民衆との間に
「民主主義の赤字」という軋轢を抱え始めている拡大EUと。「民主化」の課題は、経済力の全般的成長
だけでは解決できない、悩ましい問題を内包している。
5. 拡大 1 年の動きと、フランス、オランダでのEU憲法条約の拒否
<拡大 1 年の動き>
中・東欧へのEUの拡大後 1 年たち、これらの国は急速にEU機構の一部になりつつある。しかし
国内には、ハンガリー、チェコ、ポーランド、いずれも不安定な政権を抱えて、民意との調整を必ずし
も取りかねており、他方、スロヴァキア、ルーマニア、スロヴェニアの民主化も、民族問題や経済問題、
国境問題を含め、いまだ安定的ではない。
2004 年秋には、中・東欧に対し、最初の農業補助金が支給された。その額の予想外の多さに、ポー
ランドの農民らの批判は影を潜め、家族同盟や自衛などの支持率は、大幅に減少した、とされる。(2
6)
境界線の自由移動も活発化し、欧州は、国家の単位と平行して、地域の役割も強まりつつある。近年
の統計では興味深いデータがある。25ヵ国EUを 254 地域に割った上での、2002 年の購買力平価
(PPS)で算出した一人当たり GDP である。(表)
EU平均値の125%以上にある、上位 37 地域には、イギリス、ベルギーなどとともに、中・東欧で
唯一チェコのプラハが入っている。また、下位 59 地域(平均値の 75%未満)では、最下位から 5 地域
はすべてポーランドであるが、そのほかに西欧からも、ドイツ(6)、ギリシャ(5)、ポルトガル(4)
、
イタリア(4)、スペイン(2)ベルギー、(1)、イギリス(1)、が入っている。ポーランドが最下位、
ハンガリーの一部が最下位に近いのは、東のウクライナやベラルーシに近い貧困地域を抱えているから
であろう。
以上の状況を見ると、すでに EU 内での地域間競争と格差が始まっていると見るべきであろう。(2
88
7)
<EU憲法条約の延期> (記事)
こうした中で、2005年5月29日のフランスの国民投票において、EU憲法条約が拒否された。
国民投票は、反対 54.87%、賛成45.13%で、フランス市民は10%の大差で、EU憲法条約を拒
否したのである。ついで 6 月 1 日、オランダでも、さらに反対 61,6%、賛成 38.4%の大差で、否決され
た。
これを受け、6月の欧州理事会では、最終的に、デンマークを初めとするほとんどの国が延期に言及
し、既に批准を終えたドイツでも、大統領が署名を延期する旨を声明した。
(28)
このことは、一つには、欧州憲法条約の精神たる、合理的、効率的で「統一された強いヨーロッパ」、
統一された外交安全保障政策 CFSP が、時期尚早と感じる国が多いことを示した。また第二に、西の市
民の間にも、この間、「市民の民主主義」がおざなりにされたこと、いわゆる「民主主義の赤字」の問
題を露呈している。
ハンガリーの元外務大臣,コヴァーチ・ラースローにインタヴューした折、欧州憲法条約が拙速に可決
されるよりも、可能なら漸進的に進み、ニース条約がしばらく続くことがベターであろうと表明してい
た。また EU 代表部のイギリス人大使(リトアニアの EU 大使)やバルト平和学会のフィンランド代表知
識人も、欧州憲法条約を拙速に決めてしまうことに、懐疑の意を表明していた。
(29)
多様で緩やかな民主主義か、大国の主導権の下強力で統合された民主主義か。市民に配慮した各国市
民益を調整する民主主義か。今後25ヵ国から30カ国に拡大しつつあるEUは、域外への安全保障の
課題も踏まえつつ、古くて新しい根本問題に直面している。
6. 中・東欧のナショナリズムと「民主化」、残された課題
この間の改革は、東西ともに、あまりにも一般民衆の声や社会状況をネグレクトし、あるいは底辺の
犠牲の上に進められてこなかっただろうか。しかし「各国の民衆の声」は、まさに両刃の刃でもある。
この間の「民衆の声」は1つは、国益とナショナリズムのぶつかり合いであり、時としてポピュリズムを
生み、改革にブレーキをかける。「民衆軽視の民主主義」は、EU加盟基準を満たすことが優先順位で
あった新加盟国でより強かったといえようが、実は、ヨーロッパの西半分でも同様である。
グローバリゼーションの下での、先進国を含めてのリストラ、失業、雇用不安と社会保障の圧迫の波
は、旧来会社主義・終身雇用制を取っていた日本のシステムまで破壊し始めている。
1989 年の冷戦の終焉・体制転換から、2004 年の EU 拡大に至る 15 年間は、社会主義的パターナリズ
ム(温情主義)を破壊しつつ推進された、ネオ・リベラルな「民主化」の達成過程であった。だからこそ、
失業者、年金生活者、女性、マイノリティなどからなる「社会的弱者」の不満が、この過程で、新しく
生み出されてきたのである。
さらに、外からの「武力による民主化」が進行中のイラクには、中・東欧の兵士が「1 日 60 ドル」の、
本国の 6 倍から 10 倍の賃金で、命の犠牲を伴いながら残留している。国民の間には、兵士の撤退を要
求する声が根強いが、中・東欧政府は現在のところ、アメリカとの安全保障における同盟関係の紐帯の
中で、まだ撤退する気配はない。中・東欧の小国が、自国が参与していない戦争に、かつ自国からはる
かはなれた遠方に、占領者として軍を派兵するのは、「史上初」の作業である。これへの国民の不信は
強い。
グローバル時代の「民主化」の課題として、その直接の犠牲者でもある、国内の下層の民衆の声を
掬い取る「民衆の運動、民衆の参加、治者と被治者の同一、成員の平等」を根本とする「民主化」に、われ
われは今一度まっすぐ向き合う必要があるのではないか。
また国際社会の紛争地域に積極的に介入することによる「武力による民主化」、それを基盤とした「脅
威に対する安全」には、どのように対処すべきか。いずれも、重い課題を突きつけられている。
注
(1)ナショナリズムとグローバル化、民主化、地域化と直接関連する研究所として、例えば、以下を参照。The Radical
Right in Central and Eastern Europe since 1989, Ed by Sabrina P. Ramet, The Pennsylvania State University Press,
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Ed. By Bernard Funck, Lodovico Pizzati, The Warld Bank, Washington D.C., 2001. Gábor Zsolt Pataki, Le devenir
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etnicitás és az identitás kérdéskörébıl, Akadémiai Kiadó, Budapest, 2OO2, マルコム・アンダーソン著土倉莞爾・古田
Canavero, Edizioni Unicopli, Deakin University, 2005.
雅雄訳『戦後ヨーロッパの国家とナショナリズム』ナカニシヤ出版、2004 年。 筆者も冷戦終焉後の 17 年間、EU・N
ATOの拡大と中・東欧のヨーロッパ化、民主化とナショナリズムについて、研究を進めてきた。主なものとして、羽場
久シ尾子『統合ヨーロッパの民族問題』講談社、1994、
『拡大するヨーロッパ 中欧の摸索』岩波書店、1998、
『ヨーロッ
パ統合のゆくえー民族、地域、国家』宮島喬氏と共編、人文書院、2001、
『グローバリゼーションと欧州拡大―ナショナ
リズム・地域の成長か』御茶ノ水書房、2002、
『拡大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』中央公
論社、2004. 羽場・小森田・田中編著『ヨーロッパの東方拡大』岩波書店、2006、報告として、羽場久シ尾子、日本EU
学会報告「EUの拡大と中・東欧の課題―国家、民族、安全保障―」2003.11、羽場久シ尾子、比較政治学会報告「拡大
EUからイラク戦争にみる、中・東欧の『民主化』
」2005.6. 中・東欧の「民主化」については、羽場「1989 年の『民主化』
とは何だったのか」
『窓』特集:東欧革命とは何だったのか、1991.など。
(2)
Mann, Michael, The Dark Side of Democracy, Explaning Ethni Cleansing, Cambridge University Press,
Cambridge, 2005.
(3) Stefan Auer, Liberal Nationalism in Central Europe, Routledge Curzon, 2004.
(4) 『拡大するヨーロッパ 中欧の摸索』岩波書店、1998.4)「東欧の変革10年と『中欧』社会―民主化の功罪―」『神
奈川大学評論』1999、5)「ソ連・東欧―社会主義の崩壊と現在:崩壊した社会主義(4 鼎談)」『情況』2000.12.6)「ヨー
ロッパ拡大とハンガリーおよび周辺地域マイノリティの民主化(原題は、
「ヨーロッパ拡大と中・東欧の民主化」)『EUの
中の国民国家 デモクラシーの変容』早稲田大学出版部、2003.などがある。
(5) テオ・ゾンマー「欧州衰亡論にくみするな」『朝日新聞』オピニオン、2006 年 4 月 5 日。
(6)国際政治事典、
「ナショナリズム」弘文堂、2005.
(7)1 については、Balogh Andras, Integracio es Nemzetierdek, Budapest, 2 については、The Radical Right in
Central and Eastern Europe since 1989, Ed by Sabrina P. Ramet, The Pennsylvania State University Press,
Pennsylvania, 1999.
(8) 羽場久シ尾子『統合ヨーロッパの民族問題』講談社現代新書、2005(7 刷)。
(7)
「民主主義」
(高畠通敏)
『社会学事典』弘文堂、1988年。
(8)Balogh Andras, Integracio es nemzeti erdek, Budapest, 1998.Agh Attila, (一連の研究書)、National and
European Identities in EU Enlargement, Views from Ce4ntral and Eatern Europe, Ed. by Petr Drulak, Prague,
2001.
(9)Democratization in Central and Eastern Europe, Ed. by Mary Kaldor and Ivan Vejvoda, London and New York,
1999.
(10)Istvan Bibo, Democratization in Central and Eastern Europe, Ed. by Mary Kaldor and Ivan Vejvoda, Pinter,
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(11)Geir Lundestad, The American Non-Policy toward Eastern Europe, Oslo, 1978.
(12)加藤哲郎『東欧革命と社会主義』花伝社、1990年。
(13)Sustaining the Transitions: The Social Safety Net in Post Communist Europe, Ethan B. Kapstein,、A Council
on Foreign Relations Book, 1997.
(14)前掲羽場論文「1989 年の『民主化』とは何だったのか」
『窓』特集:東欧革命とは何だったのか、1991.
「体制
転換後10年の中・東欧社会」
『拡大するヨーロッパ 中欧の摸索』岩波書店、1998.「東欧の変革10年と『中欧』社会―
民主化の功罪―」『神奈川大学評論』1999. Nepszabadsag, Magyar Hirlap, 1989-1992.、Sustaining the Transition: The
Social Safety Net in Postcommunist Europe, Ethan B. Kapstein, Michael Mandelbaum, Editors, A Council on
Foreign Relations Book, 1997.
(15)Joseph Rothschild, Return to Diversity, A Political History of East Central Europe Since World War II, Oxford,
1989. (羽場久シ尾子・水谷驍訳『現代東欧史―多様性への回帰』共同通信社、1999)、水谷驍「変質する『連帯』」萩原
直「盗まれた革命」長與進「過去に呪縛される小さな民族」
『窓』特集『東欧革命とは何だったのか』Haerpfer, Christian
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Central and Eastern European countries, 1991-1998, Routledge, London & New York, 2002.
(16)The Radical Right in Central and Eastern Europe since 1989, Ed. by Sabrina P. Ramet, Pennsylvania State
Univfersity Press, 1999. 山口定・高橋進編『ヨーロッパ新右翼』朝日選書、1998.
(17)小森田秋夫「ヨーロッパ統合とポーランド」柴宜弘「ヨーロッパ統合とバルカン」志摩園子「ヨーロッパ統合と
バルト三国」宮島喬・羽場久シ尾子編『ヨーロッパ統合のゆくえ』人文書院、2001.
(18)Eastern Enlargement of the European Union, BBC, 2004.
(19)佐瀬昌盛『NATO―21 世紀からの世界戦略』文春新書、1999.
(23)欧州議会選挙結果、表4)
、中・東欧ファックスニュース速報より、2004.6.
(24)Bujko Bucar, University of Ljubljana, “The Issue of Double Standards in
the EU Enlargement Process”, Managing the (Re)creation of Divisions in Europe, 3rd Convention of CEEISA, NISA,
and RISA, Moscow, 20-22 June 2002.
(25)Geir Lundestad, The American Non-Policy towards Eastern Europe, Oslo, 1978. M.Max, The United States,
Great Britain, and the Sovietization of Hungary, 1945-48, East European Monographs, New York, 1985.
(26)News Week, May, 2005.
( 2 7 ) 「 E U 25 カ 国 の 地 域 別 一 人 当 た り GDP の 格 差 は 10 倍 」 『 europe 』 spring 2005,
90
http://europa.eu.int/comm/eurostat/
(28)欧州憲法条約の国民投票否決については、『朝日新聞』『讀賣新聞』2005年5月30日、31日、6月1日、
2日。羽場久シ尾子「欧州憲法延期、強い EU より国益・市民益」
『讀賣新聞』2005年6月20日。
(29)ハンガリー外務大臣 Kovacs Laszlo、リトアニア欧州代表部大使 Michael Graham, Interview, 2003年 3 月、
2004年2月11日。
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91
92
9. イラク
イラク戦争後
戦争後の
戦争後のヨーロッパの
ヨーロッパの外交と
外交と安全保障
イラク戦争後
イラク戦争後の
戦争後の EU・
EU・NATO の拡大と
拡大と、中・東欧の
東欧の国際関係(1)
羽場久美子
はじめに
(1)イラク戦争と米欧関係
2003 年 3 月 20 日、アメリカは「有志連合」と共に、イラク戦争に突入した。その1年後に、欧州の最大
の変化として、NATO・EU の拡大があった。2004 年 3 月、NATO は中・東欧 7 カ国が加盟して計 26
カ国となり、同5月、EU は中・東欧 8 カ国と地中海 2 カ国計 10 カ国が加盟して 25 カ国となった。こ
れによって東はロシア・ベラルーシの境界線、南はバルカン諸国を除くヨーロッパ大陸のほとんどが
EU・NATO の枠組みに入ったのである。
しかし 90 年代とは異なり、EU と NATO の関係は、コソヴォ空爆、9.11 とアフガン空爆、イラク戦
争を経て、次第に変化していた。その変化を促したのは、一つはイラク戦争の開戦か大量破壊兵器の査
察継続かをめぐる、アメリカとフランス・ドイツの対立であった(2)が、いま一つは、中・東欧のいわゆ
る「親米派」政権による「新しいヨーロッパ」の登場であった。現実には、フランス・ドイツ、ギリシャ・
ベルギーの反対派と、中立 4 カ国を除く、他の EU 諸国7カ国と中・東欧 10 カ国が、アメリカのイラ
ク戦争開戦を支持したのである。(3)
アメリカのブッシュ政権 2 期目に入り、再び米仏接近があり、また EU・NATO の住み分けが始まっ
て米欧の軋轢は収まったかに見えた。それはアメリカ・仏独ともに、自領域内での孤立と批判を避ける
ために必要な措置でもあった。
しかし中・東欧においては、イラク戦争時に表面化した EU 大国(仏独)への不信は今や経済面も含め
て継続しており、それが 2006 年の総選挙での、EU 推進派政府の敗北や、民族派ないし EU 懐疑派の
勝利につながっている。また安全保障面では、中・東欧政府は NATO・アメリカに依拠せざるを得ない
側面があるが、イラク戦争の長期化と自国兵士の犠牲の増大や米の国際的評価の低下の中、市民レベル
では NATO への批判は根強い。
本稿では、こうした最近の変化や選挙での民意の選択をも踏まえ、イラク戦争と拡大 EU・NATO 後
の中・東欧の外交と安全保障を、東西欧州の思惑の違い、アメリカとの関係、政府と市民のずれなどに
焦点を当てつつ、検討していきたい。
(2) 冷戦の終焉と EU・NATO の拡大:戦後秩序構築の問題。
冷戦終焉と東欧・ソ連の社会主義体制の崩壊の後、90 年代は、米欧は一致して「民主化、自由化、市
場化」によるグローバル化を、とりわけ旧社会主義国に対して推進してきた。
しかし 21 世紀に入ると、米の「文明の衝突」に対する反発が中東や中国を中心として世界各地で強ま
った。9.11の多極同時多発テロは、そうした中、大統領選挙におけるブッシュの選挙疑惑が高まっ
ていた最中に起こった。9.11.の事件後、チェチェンへの対応に苦しんでいたロシアのプーチン大統領
によるすばやい対応もあり、「国際対テロ協力網」がしかれ、米・欧・ロシアという共同の国際秩序作り
が始まったかに見えたが、現実には、その後のアフガン空爆、イラク戦争に至る経緯で、アメリカのブ
ッシュ・ドクトリンに象徴される、「悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)」への(核をも辞さない)先制攻撃」
という好戦的態度のゆえに、世界でアメリカのユニラテラリズムに対する危惧が広がった。フランスの
アメリカ批判は、現実にはフランスの国家戦略に基づいた外交戦略でもあったが、アメリカの行動を危
惧する世界世論の代弁者と映り、フランスは、アメリカに対抗する新国際秩序の代弁者としてその国際
的評価は一挙に高まった。
しかし問題は、実は仏独は EU を代表しておらず、仏独についたのはギリシャとベルギーの 2 カ国の
みで、EU の多くの国(7 カ国)と中・東欧(10 カ国。EU・NATO の加盟候補国)が、アメリカのイラク攻
撃を支持する声明を出したことであった。(3) これはブレア英首相の働きかけによる「有志連合」形成の
戦略として行なわれたが、その結果、表面化した中・東欧の「親米性」は世界を驚かせた。
第 2 期ブッシュ政権は、2005 年 2 月、ライス国務長官の訪仏に続いて最初の訪問先にヨーロッパを
選び、EU、仏独との関係の修復を試みた(4)。ブッシュと仏独が再び手を結んだのは、「有志連合」に基
づくユニラテラリズムから脱し、世界における米欧共同による戦略的優位性を維持する戦略の故であっ
た。しかしアメリカを支持した中・東欧を強く批判した、フランスのシラク政権と中・東欧の対立は、
その後もフランスに対する不信感を中・東欧の政府および市民層に刻印することとなった。
2004 年 5 月の25カ国拡大 EU 後も、その不信感は継続し、現在に至っているように見える。イラ
ク戦争を契機とし、加盟直前の移民・農業政策問題や欧州憲法条約をめぐる対立を要因として、仏独の
93
主導権は中・東欧に浸透しておらず、今後ルーマニア、ブルガリア、バルカン諸国の加盟に際しても、
西と東の相互不信は容易に解消しそうにない。
近年の各国におけるナショナリズムの高まりと「市民への配慮」の必要性の結果、西欧の加盟国の間に
は、移民・農業問題において、新加盟の小国の「新しい声」よりも自国の権益を重視せざるを得ず、新加
盟国の側は、そうした EU 大国が全体の利益よりも自国の利益を優先させることに対して、更なる不信
感を強めている。
イラク戦争後のアメリカ・ブッシュ政権も、国外・国内においてその影響力を弱めつつある。アメリ
カの国際規範の担い手としての評価は低下し、ブッシュ政権は、国内でも支持を低落させている。21
世紀のこうした国際関係の変容の下では、日本も、日米 2 国間関係を超えて、アジア・欧州・アメリカ
という広い枠組みの中での国際関係の再構築を検討していく必要があろう。
近年特に、「東アジア共同体」構想が、政治的思惑やナショナリズムの対立により、十分進展を見な
い中、旧社会主義体制の2大国、中国とロシアが主導する「上海協力機構」(6 カ国)が、急速に影響力を
拡大し機構を整えつつある。インド・イラクなどオブザーバー諸国を合わせると、実に世界人口の半分
を覆い、軍事力(核兵器を含む)、経済力、国際秩序にも大きな影響を及ぼす勢力が、アメリカの武力に
よる民主化への反発と、それに対抗しえずむしろ迎合してしまった欧州を乗り越える形で、旧ソ連に変
わる新たな世界秩序の一翼として登場しつつあるかに見える。(5)
こうした中、拡大 EU は、ブッシュのアメリカとは異なるより世界に通用する新機軸を、中・東欧を
も巻き込み打ち出すことができるか否かが問われている。現在、世界の富の 5 割が GDP 上位 5 カ国に
よって占められており、上位 10 カ国で世界の GDP の 75%を握るGDP先進国 10 カ国から零れ落ちた
190 の世界の豊かとはいえない国々は、期待と不安をこめて「上海協力機構」ないしは世界のテロ勢力に
依拠せざるを得ないのではないか。EU は東・南へ拡大しロシアや中東・アフリカとも提携・協力する
ことにより、戦略的には「多国協調路線」をとらざるを得ない。アメリカと提携して世界の「帝国」の一
翼となるのか、アメリカとは異なり、世界の貧者にも配慮した、グローバリゼーション下の格差社会の
結果としてのテロの脅威を克服する「新世界秩序」のリーダーとして新たな多極共存型の国際秩序を打
ち出すことに成功するのか、それはヨーロッパ内部の小国・貧国の多様な意図を反映するによってこそ、
実現できるワイダー・ヨーロッパ構想の具現化でもある。
以上を踏まえ、イラク戦争後の拡大 EU の東西欧州関係、米欧・米中・東欧関係、ロシアとの関係、
およびそれぞれの政府と市民との相互関係を分析し、現拡大 EU の成果と問題点を明らかにしたい。
2.コソヴォ空爆
コソヴォ空爆、
空爆、9.11 からイラク
からイラク戦争
イラク戦争へ
戦争へ:欧州の
欧州の安全保障と
安全保障と中・東欧の
東欧の役割
(1) コソヴォ空爆
冷戦終焉後、欧州は当初は、CSCE(全欧安全保障協力会議)という 1975 年に発足したヨーロッパ
の東西全体を包摂する緩やかな枠組みによる安定化を意図した。これに対して、一つには 91 年のソ連
での軍部と保守派のクーデタが中・東欧諸国にソ連のアナーキー化の脅威への危惧を強く感じさせ、
Visegrad 地域協力と NATO 加盟を強く要求することとなった。これに対して NATO 側は、NACC 次
いで PfP(平和のためのパートナーシップ)という参加諸国との軍の相互協力・合同演習などにより対応
していたが、96 年、米大統領クリントンは 2 期目の大統領選挙の際に、中欧諸国を NATO に加盟させ
ることによって、欧州の東半分(ロシア、バルカン半島、中東)に対する安全保障への影響の拡大を試み
た。
当初、EU と NATO の拡大はいずれも、冷戦後の米欧による「民主化、市場化、近代化」と結び付いて
いた。しかし 99 年のコソヴォ空爆は、民族紛争と世界戦略に対する、第 2 期クリントン政権の戦略の
変化であった。
その第 1 は、「武力による民主化」という路線を、バルカンに対してとり始めたこと、第 2 は、民主
化と市場化の遅れる「ロシアを見限り」オルブライト国務大臣の起用に象徴されるように、ヨーロッパ
に積極的に介入し始めたこと。第 3 は、「中欧諸国を NATO に取り込み」、短期的には中欧とバルカン
の分断、長期的には旧東欧全体にアメリカの影響を強めようとしたことである。
しかし 1999 年のコソヴォ空爆を踏まえ、NATO50 周年の首脳会議で確認された「新戦略概念」であ
る域外派兵、人道的介入、緊急の際の国際機関の回避による介入に対して、ヨーロッパはその介入の是
非に関して社会が二つに分断される状況を呈した。
(6)
またクリントンのいう「きれいな戦争」が、現実には中国大使館への誤爆、アルバニア人の列車や難民
への誤爆、100 万人に及ぶ大量の難民の創出、橋やテレビ局、マスメディアビルへの攻撃など、戦争の
長期化と共に多くの誤算と、問題を生んだこと、劣化ウランを使用していたことからイタリアを始め欧
州各国で批判が高まり、モニカ事件への食傷ともあいまって、アメリカの紛争への介入のあり方に批判
94
を強めることとなった。
最終的に 2000 年 12 月の大統領選挙、総選挙でミロシェヴィッチの敗北、コシュトゥーニッツァの勝
利により、民主派が影響力を拡大することになり、バルカンの「民主化」は道筋がつけられることとなっ
たが、コソヴォ紛争へのNATO介入については、多くの疑念を欧州の加盟国に与え、その後の地域紛
争にNATOとしてかかわることを困難にした。
(2) 9.11.からイラク戦争へ
9.11 からイラク戦争の過程は、1) 「対テロ」を掲げたアメリカが、中東の反米政権に対し、戦争によ
る介入と政権の転覆を目指したこと、2) NATO の東方拡大による欧州東半分への米の影響力の拡大、
3) ロシア・ウクライナを取り込む過程とがすべて重なっていた。
9.11 後、ロシアのプーチン大統領は他の国に先駆けてブッシュに対テロ国際協力を提唱した。そうす
ることによりロシアは、国際的孤立状況から脱出すると共に、欧州から非難を浴びていたチェチェン問
題を「対テロ闘争」として正当化することが出来た。また英国ブレアの提案により、2002 年 5 月には、
NATO・ロシア理事会が設置されることとなった。(7)こうした状況は、NATO 加盟をロシアの脅威への
安全保障としていた中・東欧に緊張を強いたが、逆に NATO 側にとってはロシアの承認の下に拡大を
遂行する保障となった。
2002 年 11 月には、プラハでの NATO 首脳会議で、中・東欧7カ国への拡大が決定され、MAP 諸国
への拡大の展望も承認されたが、平行してイラク戦争の可能性が示唆され(8)、それへの参加は、中・東
欧にとっては踏み絵となった。
9.11とアフガン戦争への過程で、紛争への参加は NATO の義務ではなく、
「有志連合」とされた
が、NATO 加盟候補国にとっては争う余地のないものでもあった。それでも 2002 年 12 月頃までは、
中・東欧諸国の政府・市民は、国連による査察継続を基本的に支持し、イラクへの武力介入には慎重な
いし否定的であったのである。
3.イラク戦争
イラク戦争と
戦争と「新しいヨーロッパ
しいヨーロッパ」:
ヨーロッパ」:ポーランド
」:ポーランドの
ポーランドの役割
こうした中、介入の是非が国連の場を中心に世界的に議論されることとなり、アメリカの戦争による
介入は孤立の方向に向かっていた。そうした矢先、2003 年 1 月 30 日に、欧州8カ国によるアメリカ支
持の声明が出された。次いで2月4日にも、中・東欧の NATO 加盟国および MAP 加盟候補国、ヴィル
ニュス 10 と呼ばれる国々が、アメリカ支持声明を打ち出したのである。(9)これはイギリス・ブレアによ
るアメリカの孤立化回避し、欧州のアメリカへの支持を復するための試みであった。結果的にはこれに
より仏独の面目がつぶれる形となり、またフランスのシラク大統領が、アメリカを支持する(英ではな
く)中・東欧に強い批判を行ったことにより、中・東欧は強く反発することとなり、その亀裂は、後々
まで修復されず、仏の主導権に対する拒否につながることとなった。
現実には仏独を支持する国が、EU 内ではギリシャとベルギーのみと言う状況の中で、米ラムズフェ
ルド国防長官はアメリカを支持する中・東欧諸国を「新しいヨーロッパ」と呼び、仏独を「古いヨーロ
ッパ」と揶揄した(10)。そのうち特にポーランドは、イラク戦争に参加する「有志連合」21 カ国の軍 9000
から 1 万 2000 人を率いて、危険な戦線に従軍した。その結果、中・東欧は、アメリカの評価を得た見
返りに、仏独からは EU 内の「トロイの木馬」(油断ならない身内の他者)と称されることになり、他
方、中・東欧の国内では、政府の戦争参加に異を唱える野党や市民のデモが政権を揺るがすこととなっ
た。
しかし国連で孤立していたアメリカ支持の見返りとして、中・東欧中でもポーランドは多くの貴重な
国際的地位を獲得した。一つは、NATO 事務総長安全保障担当補佐官の地位、第2は、イラク国際調停
委員会委員長への(ベルカ元首相)が就任した。また 2006 年には、クワシニェフスキ元大統領に国連事
務総長のポストが示唆された。さらも EU 内で唯一、仏独ポーランドの首相・外相からなる会合「ワイ
マール・トライアングル」においても、アメリカの後ろ盾をえて独自の発言権を維持することとなった。
その結果、ポーランドはイラク戦争後、一時ヴィシェグラード諸国の地域協力関係からは手を引いた
ように見えたが、2004 年の EU 加盟後は、EU の財政予算配分などから再び中欧の地域協力を基礎に、
域内での利害に結束して当たるようになった。
ポーランドを初め中・東欧が、「親米政策」を取り、イラク戦争を支持し実際に派兵を行なったこと
は、周辺国の疑問と驚きを呼び起こした。以後日本も、アメリカを支持しイラクに派兵を行なった中・
東欧諸国に急速に接近することとなる。
中・東欧のイラク戦争支持の原因は、補助金や石油権益など物質的なメリットも含め様々な要因があ
るが、根本的な問題として安全保障面で考えたとき、1)NATO 加盟を目前にして、アメリカに依拠し
た安全保障を放棄するわけにはいかなかったこと、2)東のロシアに対する脅威感と警戒の継続という
95
事実が、決定的なものとして存在する。EU 加盟も目前ではあったが、歴史的なナチス・ドイツの侵略と、
ミュンヘンのトラウマ(*1938 年にナチス・ドイツに対して英仏はドイツを融和するためにチェコのズデーテン地方をドイツに
割譲した)などの歴史的記憶の深さにより、安全保障を独仏にゆだねることには未だ警戒感が強かったの
である。
4.イラク戦争後
イラク戦争後の
戦争後の中・東欧の
東欧の安全保障
(1)軍の近代化と
近代化と戦争への
戦争への参加
への参加
NATO の拡大は、中・東欧にとっては、2 度と自国が戦争に巻き込まれないための保障であり、ロシ
アの影響下から「ヨーロッパに回帰」する保障であった。だからこそ、1999 年 NATO に加盟した中欧
3 カ国は口々に、
「我々はヨーロッパに返ってきた」
「もはや自由の防衛に一人で立ち向かうことはない」
と語ったのである。しかし NATO の加盟が、アメリカによる防衛と戦争の終焉による、「不戦共同体」
への参加と期待した中・東欧諸国に対し、新しい状況下で NATO を生き残らせた要因として、
「地域紛
争やテロの新しい脅威」に対抗する域外での平和支援(戦争終焉)活動に活路を見出した新 NATO に
とっては、新加盟国に対して、域外の紛争・戦争防止への不断の実践参加を要請することとなった。(11)
それは、まずコソヴォ空爆への参加から始まり、アフガニスタン、イラク戦争へと続き、中・東欧の
兵士たちに「なぜ自国から遠くはなれた地域で戦争に参加し殺されなければならないのか」という根本
的な疑問を起こさせ、国内での反 NATO 機運を上昇させることとなった。他方、国内においては、NATO
加盟国と加盟候補国は、ワルシャワ条約機構軍の戦車や装甲車を中心とする旧式の軍装備の解体と再編
が求められた。すなわち軍の近代化、軍の民主的統制、徴兵制から志願制へ、機動力を目標とした軍事
費の増大(GDP 比 2%)が目指され、それによって、NATO の他の軍隊との相互運用能力を高めようと
した。
(12)
加盟後の国防戦略として、中・東欧各国は、自然災害からテロリストによる攻撃などの広範囲の脅威
やリスクに対応するよう、GDP 比2%の防衛費の堅持、NATO との相互運用能力の向上、徴兵制の廃
止、軍の近代化と職業軍人の育成、さらにコソヴォからイラク戦争にまで、域外の広範な地域への派兵
が要請された。また、ポーランドやチェコは、(西欧の多くが懸念している)アメリカの弾道ミサイル防
衛に参加することを決め(2006 年)
、ルーマニアやブルガリアは,在欧米軍のドイツから自国への移動
を積極的に受け入れた。またルーマニアは、2004 年、黒海の安定化のために、アメリカ・イギリスと結
んで、ロシア・中央アジア・中東に対する NATO の東方外交に積極的に関与する姿勢を示したが、それ
は東のモルドヴァに対する自国の利害とも重なっていた。(13)
以上のように、中・東欧とりわけロシアと国境線を共有するポーランド、バルト諸国、ルーマニアの
政府にとっては、自国の安全保障は密接に NATO・アメリカとの同盟にかかわっているという前提の下、
NATO の要請に積極的にこたえてきた。そのため逆に、EUの ESDP(欧州安全保障防衛政策)という、
サンマロ以降に EU が進めている独自の危機管理には、NATO に抵触しない限りで関わる、という消極
性を示してきた。
しかし、そうした政府の NATO への積極性に対して、市民の反応は対照的であった。イラクへの派
兵の長期化と、兵士の安全確保の困難さは、国内で(NATO批判以上に)、市民の政府批判を高めた。
国民レベルでは、アメリカとの同盟の結果、遠くイラクに兵を送り命を危険にさらす状況を是とするも
のは多くなく、繰り返し議会で兵の帰還要求が出された。長期化に伴い、兵士の殺害や、派兵の財政が
かさむにつれ、また政権の中に石油権益の疑惑が暴露されたケースも起こり、これらの結果、撤退を求
める声が強まった。
以上のように、中・東欧政府の NATO 加盟と親米政策は、国内では必ずしも支持されていたわけで
はない。国民の間では、EU と NATO では、相対的に EU 評価の方が高かったが、他方で、EU の厳し
い達成基準と加盟後を含む移民・農業補助金の制限など、EU の対中・東欧政策に不満を持った国民層
は、結果的に、国益を代表せずに EU・NATO に対応する政府への批判に向けられ、EUNATO加盟後
に急速なナショナリズムの高揚がおこり、2005 年秋から 2006 年にかけての、社会主義体制崩壊後 5 度
目の総選挙で、いくつかの国における政権党の転覆に帰結することとなった。
5.2005-
2005-6年総選挙:
年総選挙:ナショナリズムの
ナショナリズムの成長(14)
成長
1)総選挙から見る国民の NATO・EU 観
中・東欧では、2004 年の NATO・EU 加盟直前の、ユーロバロメータで、とりわけ経済面で、貧富
の格差が固定化されるのではないか、加盟により更に格差が拡大し経済的に困難になるのではないか、
など加盟への危惧を表明する声が強まっていた(15)が、それを反映するように、2004 年 5 月 2 日、
加盟の翌日にポーランドの政権が倒れ、政局の混乱が続いた。
96
またEU拡大後初の欧州議会選挙では、中・東欧各国の得票率は、これまで欧州議会選挙にはありえ
なかった 20-28%という低い率となり、政権党でなく、野党、EU 懐疑派が上位を占めた(16)が、そ
れは 05-06 年の国政選挙にもそのまま反映する形となった。議会では、対外関係を重視して国内改革と
りわけ雇用対策や財政対策が進まない政権に対する不満が野党の間に強まり、それは国民の生活面での
不満を掬い取る形となった。EUNATOの外からの要請に振り回される政権党への批判が相次いだ。
既加盟国では、欧州憲法条約の批准がフランス・オランダの国民投票で否決され、移民やさらなる拡大
への警戒感・嫌悪感が高まる中、中・東欧各国でも国益、市民益の擁護が声高に聞かれるようになった。
(17)
ポーランド、スロヴァキア、チェコで軒並み、政権党が敗北し、EU に懐疑的な勢力が成長した。ハ
ンガリー社会党のみが例外的に二期目の政権運営に入ったが、ユーロ加盟基準整備のため、財政赤字の
克服と規制緩和を断行して、秋の地方選挙では敗北が見込まれている。ポーランドでは、左翼民主同盟
の政権が下野し、「法と正義(PiS)」を中心とする右派の連合政権となった。連合には、家族同盟、自
衛など急進的農民政党が入閣した。法と正義は、双子の兄弟カチンスキが大統領と首相を占め、急進農
民政党「自衛」の顧問を務めるレッペルが副首相となる、異例の右派政権となった。スロヴァキアでも、
民主派連合が敗北し、これまで野党であった左派のスメル、メチアルの民主スロヴァキア運動など右派
の諸党が連合政権を組んだ。チェコでは、最大野党クラウスの市民連盟が多数を占め議会と大統領の対
立が収束した()
。中欧諸国は、財政赤字もなかなか抜けず、2007 年のユーロ加盟は、現状では、スロ
ヴェニアのみで、バルト諸国は、2008 年の予定、中欧 3 国もまだ 2010 年にユーロを採用する見通しは
立っていない。
NATO・EU加盟後も、中・東欧諸国は、NATO・EU の課題要求達成に精一杯で、それに対する市
民の不満が鬱積している。安全保障対策は、国民の意識としては、生活や経済の建て直しすらできてい
ない状況の中で、最優先課題とは言いがたい状況である。しかし他方で、アメリカとの同盟関係を誇示
することで、経済的には不安定な EU 内での地歩を強化しようとする動きもポーランドやルーマニアな
どにはある。
2)西バルカンの NATO・EU加盟交渉の始まり
今年に入り、NATO のデ・ホープ・スケッフェル事務総長が、コソヴォを訪れ、ルゴヴァ大統領死後
のコソヴォの不安定化を懸念して、コソヴォはモンテネグロのように独立の国民投票は行なわないと述
べて、国連暫定統治下のコソヴォにおいて、KFOR(コソヴォ中・東欧国際平和維持部隊)が、コソヴォ
の治安を強化し、地位確定をめぐる歩み寄りを強化するよう呼びかけた。クロアチアは、2005 年 10 月
に、トルコと共に EU との加盟交渉を開始し、同年 12 月には、マケドニアが加盟交渉に入った。また
NATO に関して言えば、MAP 諸国、とりわけウクライナやアルバニア、マケドニアが加盟に向けて準
備を進めている。
★ESDP,CSDP,中東欧の位置(広瀬、藤森?)
EUの CFSP における東の境界線の問題やバルトの核配備の可能性などについては、2006 年にはい
り、ウクライナの東へのゆり戻しや、ベラルーシの警戒、ロシアの経済面での協力と軍事面での棚上げ
など、解決すべき課題は多い。
6.「上海協力機構
「上海協力機構:
上海協力機構:Shanghai Cooperative organization 」:米欧
:米欧の
米欧の国際規範への
国際規範への挑戦
への挑戦?
挑戦?
冷戦終焉後の世界秩序として、米欧亜の三極構造、ないし米欧 2 極構造と中国の台頭などが指摘され
てきたが、現在なかなか進まない東アジア共同体の動きを大きく乗り越える形で急速に頭角を現してい
るものに、
「上海協力機構」がある。とくに中国の目覚しい経済発展とロシアの石油・天然ガス資源に基
づく協力関係に加え、近年 GDP 世界第 12 位となったインドが、オブザーバーとなっている。
これらの国々はアメリカのユニラテラリズム・グローバリゼーションへの対抗概念として、近年自民
族優位のナショナリズムが顕著である。
上海協力機構は、元々上海ファイブとして、1996 年に中国、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、
タジキスタンの 5 カ国によって設立された。その後ウズベキスタンが加盟し、オブザーバーとしてイン
ド、パキスタン、イラン、アフガニスタン、モンゴルが名を連ねている。加盟国全体で人口 15 億、オ
ブザーバーを合わせると 28,5 億、かつ中国・インドは 2005 年の GDP でそれぞれ 3 位、12 位のトップ
グループに入った。29 億のメガ地域機構が、アメリカ・EU の米欧 2 極の対抗勢力として成長しつつあ
る。
彼らの強みは、それぞれ多くが巨大な拡大を含む軍事力を持ち、またこの間、経済・ハイテクにおい
ても急速な発展を遂げて、世界の半分の人口を持って、米型「民主化」に対抗できる唯一の機構として存
在していることであろうが、権威主義的で反民主主義的な要素もないわけではなく、世界秩序にとって
97
驚異的な存在ともいえる。
欧米の規範とは異なる価値を持つ、世界の半分を占めるグループが、「数の力」と経済力・軍事力を
持ちながら、リージョナルな要求を掲げて、国際社会に参入してきたとき、NATO や EU の安全保障は
どのように機能するのであろうか。これらの地域機構が相互に対立しないためにも、アメリカ一極の軍
事力に保障された、武力による民主主義では限界があり、EU の提唱する「欧州安全保障戦略」にあるよ
うな、人間の安全保障の理念に基づいた、経済的安定と発展に依拠し、国連を基軸とした新たな共存型
国際秩序の創出が早期に望まれる。
まとめ
以上を踏まえ、イラク戦争後の拡大 EU・NATO と中・東欧の国際関係については、次のことが言え
よう。
一つには、冷戦後からイラク戦争に至る経緯で、EU と NATO の齟齬が拡大し、その後再び収斂と住
み分けの方向に進みつつあるが、この経緯の中で、欧州の東西不信が進み、現時点では、修復しがたい
不信が相互に根付いていることである。
1 つには、イラク戦争をめぐるアメリカ批判とアメリカ支持であるが、イギリスに対しては行なわなか
った批判をシラクが中・東欧に対して厳しく批判したこともあり、その結果として中・東欧の仏独への
信頼は大きく損なわれた。
それは、欧州憲法条約の仏蘭での国民投票による批准拒否、その背景に移民問題や拡大への否定的感
情が市民の間に見られたこととあいまって、さらに東西市民の相互不信を強めたといえる。
第 2 に、欧米関係における、中・東欧の位置である。イラク戦争から欧州憲法条約の批准期限の延期
という過程において、イラク戦争では、仏独のイラク戦争批判に対して、アメリカを支持しイラクに派
兵して「新しいヨーロッパ」の異名を取った。拡大 EU 最初の欧州議会選挙では、中・東欧では軒並み、
低い得票率と EU 懐疑派、民族派が多数を占め、西欧を幻滅させた。冷戦終焉後 15 年後に達成された
EU・NATO への加盟は、「ヨーロッパ回帰」による「自由と豊かさ」を当初予想されたほどには実現しな
かった。またロシアの脅威やバルカンの紛争からの安全保障を期待して入った NATO は、新戦略概念
の下で、テロや戦争に対するイラクやアフガニスタンへの派兵やバルカンの平和維持、GDP2%の軍事
予算を義務付けられることになった。しかし期待された急速な発展は、中欧でまだ実現されていないに
せよ、中欧諸国の多くは既に、PPC では、西側諸国の 6-7 割に近づいており、あと 10 年程度でキャッ
チアップすると期待されている。
最後に国際関係における地域統合の意義と限界について、一言触れておきたい。
EU は、カプチャンやリードも指摘するように、国際規範やモラルにおいては、アメリカと比較して常
に、より民主主義的で多元的な国際秩序形成の方向を、イラク戦争から欧州憲法条約の議論の中で、示
そうとした。理論的な国際規範の提示として世界政治に与えた影響は大きかったが、問題はそれが、基
本的に理論面のみにとどまり、現実の国際規範の模範となることはできなかった点である。欧州大国の
指導者たちは、むしろ既得権益の保護やダブルスタンダードによって、自らが持ちうる影響力を適切に
評価される機会を逸してしまった。また、EU は、かつてドイツの影響圏にあった中・東欧に対し、政
治的・経済的影響力を新たに行使することによって、過去を克服し信頼を醸成することに失敗し、相互
不信を高めてしまった。イラク戦争後の 3 年間、NATO・EU 拡大後 2 年間の欧州の国際関係の現状は、
東西不信、中・東欧のアメリカ依存の強まり、自国での平和を維持するために他国に戦争に行くことの
矛盾、などに収斂できるといえよう。
小国が大量に加盟した 25 カ国 EU、26 カ国 NATO の現状を鑑み、むしろ拙速を避け、多様性の保持、
小国・マイノリティ、市民の意見の反映などが求められている。
注
(1)イラク戦争後の拡大欧州、欧米関係、および世界秩序の変容に関しては、以下を参照。G.ジョン・ア
イケンベリー、鈴木康雄訳『アフター・ヴィクトリー:戦後構築の論理と行動』NTT出版、2004 年。
「イラク戦争後の世界秩序」『アソシエ』ポスト・イラクの自由と民主主義、no.15, 2005.羽場久美子『拡
大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』中央公論新社、2004 年。羽場久美子「N
ATOの東方拡大と欧州の安全保障」『21 世紀の安全保障と日米安保体制』菅英輝・石田正治編、ミネ
ルヴァ書房、2005 年。 広瀬佳一「NATO拡大と中東欧」六鹿茂夫「ルーマニアの東方外交」岩田
98
昌征「旧ユーゴスラヴィア―多民族共存戦争の欧米的諸要因」いずれも、羽場久美子・小森田秋夫・田中
素香編『ヨーロッパの東方拡大』岩波書店、2006 年。Allies at War; America, Europe and the Crisis over
Iraq, Philip H. Gordon & Jeremy Shapiro, A Brookings institution, McGraw-Hill, New York,
Chicago, et al., 2004. The Atlantic Alliance under Stress: US-European Relations after Iraq, ed. by
David M. Andrews, Cambridge University Press, 2005. Europe in Change: Two tiers or two
speeds? The European security order and the enlargement of the European Union and NATO, Ed.
by James Sperling, Manchester University Press, 1999. Foreign Policy Review, Budapest, Volume 2,
no.1, 2004. “Europe in the Global System”, Martonyi Janos, “EU-Russia Policies and the Visegrad
Group”, “Strategic Partnership between the European Union and the Russian federation”, Foreign
Policy Review, Budapest, Vol 3, Nos. 1-2, 2005. “The Iraq War and it’s imploications”, A.
Bessmertnykh, “In America, after the War in Iraq”, A. Iurin, ”Russia’s National Identity”, S.
Kortunov, International Affairs, East View, Moscow, Vol 49, num. 4, 2003. The Limits of Alliance:
The United States, NATO, and the EU in North and Central Europe, Andrew A. Michta, Rowman &
Littlefield Publishers, INC, Lanham, 2006. The Vital Partnership :Power and Order America and
Europe Beyond Iraq, Foreword by Brent R. Scowcroft, Lanham, Boulder, New York, 2005.
(2) Allies at War, America, Europe, and the Crisis over Iraq, Philip H. Gordon &
Jeremy Shapiro, 2004. The Atlantic Alliance under Stress; US-European Relations after
Iraq, ed. by David M. Andrews, Simon Serfaty, 2005, The Vital Partnership; Power and
Order America and Europe beyond Iraq, 2005.
(3) 「一つになれない欧州」佐瀬昌盛・羽場久美子、『毎日新聞』、2003 年 3 月。羽場久美子
「イラク戦争とは欧州にとってなんだったのか」『拡大ヨーロッパの挑戦』2004. および羽
場久美子「NATOの東方拡大と欧州の安全保障」『21 世紀の安全保障と日米安保体制』
2005.The Limits of Alliance: The United States, NATO, and the EU in North and
Central Europe, Andrew A. Michta, Rowman & Littlefield Publishers, INC, Lanham,
2006.
(4)
ホ ワ イ ト ハ ウ ス に お け る ブ ッ シ ュ 訪 欧 の 資 料 は 、
http://www.whitehouse.gov/news/releases/2004/12/20041209-1.html。
(5)東アジア共同体についてはかなり多くの著書が出されたが、代表的なものとして、谷口誠『東アジア
共同体』岩波新書、2004、『東アジア共同体と日本の進路』NHK2005、『東アジア共同体―強大化する
中 国 と 日 本 の 戦 略 』 日 本 経 済 新 聞 社 、 2005 な ど 。 上 海 協 力 機 構 に 関 す る 説 明 と し て 、
http://www.panda-mag.net/keyword/sa/kyouryoku.htm、『朝日新聞』2005 年などを参照。
(6)Kosovo and the Challenge of Humanitarian Intervention, ed. by Albrechit Schnabel and Ramesh
Thakur, United Nations University Press, 2000.
(7) Summit Meeting of NATO and Russia, at the level of Heads of State and Government, Rome,
Italy,
28,
May
2002,
NATO
homepage;
http://www.nato.int/docu/comm/2002/0205-rome/0205-rome.htm
(8)プラハのサミットについては、http://www.nato.int/docu/comm/2002/0211-prague/index.htm
(9)Vilnius
10
カ
国
の
ア
メ
リ
カ
支
持
に
つ
い
て
は
、
http://www.rferl.org/features/2003/02/07022003192525.asp
(10)ラムズフェルドの、「新しいヨーロッパ」と「古いヨーロッパ」の発言については、
http://www.heritage.org/Research/Europe/wm200.cfm を参照。
(11)NATO の中・東欧への拡大とコソヴォ紛争については、Kosovo and the Challenge of Humanitarian
Intervention, のほか、“NATO Enlargement and the Iraq War―Central and Eastern Europe under
the shadow of the US―“, Working Paper in the International Conference Russia and NATO: New
areas for partnership in St. Petersburg, 7 February, 2004.、羽場久美子「NATO の拡大と欧州の安全保
障」『21 世紀の安全保障と日米安保体制』ミネルヴァ書房、2005.
(12) 広瀬佳一「NATO 拡大と中・東欧」羽場・小森田・田中編『ヨーロッパの東方拡大』岩波書店、2006.
(13) 広瀬、前掲論文、六鹿「ルーマニアの東方外交『ヨーロッパ東方拡大』岩波書店、2006.
(14) 羽場久美子「EU 統合下のナショナリズムーグローバル化と「民主化」の帰結」
『EU 統合の軌跡とベ
クトル』慶応大学出版会、2006 年。を参照。
(15) Candidate Countries Eurobarometer, 2003.4.First Result Autumn, 2003, European
Commission,
http://europa.eu.int/comm/public_opinion/archives/cceb/2003/cceb2003.4_first_annexes.pdf 羽場久
美子『拡大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』中央公論新社、2004.62 頁。
(16)2004
年
6
月
の
欧
州
議
会
選
挙
結
果
は
、
99
http://www.elections2004.eu.int/ep-election/sites/en/results1306/turnout_ep/index.html
(17) 羽場久美子「EU 益より市民益、欧州憲法条約否決」『読売新聞』2005 年 6 月。羽場久美子「EU
統合下のナショナリズムーグローバル化と「民主化」の帰結」
『EU 統合の軌跡とベクトル』慶応大学出版
会、2006 年。
(18) それぞれの選挙結果は、インターネット Wikipedia に自由選挙 5 階に渡る、各国語との政党・票
の分布が記されている。http://en.wikipedia.org/wiki/Politics_of_Poland
http://en.wikipedia.org/wiki/Czech_legislative_election,_2006
http://en.wikipedia.org/wiki/Hungarian_parliamentary_election%2C_2006 など。
(19) ウクライナや MAP 諸国の加盟と相互協力の発展に向けてのアクション・プランは、
http://www.jamestown.org/edm/article.php?article_id=2371183
(20)上海協力機構については、www.kyoiku-shuppan.co.jp/kousha/wadai.pdf/wadai22.pdf を参照。
文献
G.ジョン・アイケンベリー、鈴木康雄訳『アフター・ヴィクトリー:戦後構築の論理と行動』NTT出
版、2004 年。
「イラク戦争後の世界秩序」『アソシエ』ポスト・イラクの自由と民主主義
ゲア・ルンデスタッド、河田潤一『ヨーロッパの統合とアメリカの戦略:統合による「帝国」への道』NTT
出版、2005 年。
「一つになれない欧州」佐瀬昌盛、羽場久美子、毎日新聞、2003 年 3 月。
羽場久美子『拡大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』中央公論新社、2004 年。
羽場久美子「NATO の拡大と欧州の安全保障」『21 世紀の日米安保』ミネルヴァ書房、2005 年。
羽場久美子・小森田秋夫・田中素香編『ヨーロッパの東方拡大』岩波書店、2006 年。
Allies at War; America, EUrope and the Crisis over Iraq, Philip H. Gordon & Jeremy Shapiro, A
Brookings institution Book, McGraw-Hill, New York, Chicago, et al., 2004.
The Atlantic AlliancEUnder Stress: US-EUropean Relations after Iraq, ed. by David M. Andrews,
CambridgEUniversity Press, 2005.
EUrope in Change: Two tiers or two speeds? The EUropean security order and the enlargement of
the EUropean Union and NATO, Ed. by James Sperling, Manchester University Press, 1999.
Foreign Policy Review, Budapest, Volume 2, no.1, 2004.
“EUrope in the Global System”, Martonyi Janos, “EU-Russia Policies and the Visegrad Group”,
“Strategic Partnership between the EUropean Union and the Russian federation”, Foreign Policy
Review, Budapest, Vol 3, Nos. 1-2, 2005.
“The Iraq War and it’s imploications”, A. Bessmertnykh, “In America, after the War in Iraq”, A.
Iurin, ”Russia’s National Identity”, S. Kortunov, International Affairs, East View, Moscow, Vol 49,
num. 4, 2003.
The Limits of Alliance: ThEUnited States, NATO, and the EU in North and Central EUrope,
Andrew A. Michta, Rowman & Littlefield Publishers, INC, Lanham, 2006.
The Vital Partnership :Power and Order America and EUrope Beyond Iraq, Foreword by Brent R.
Scowcroft, Lanham, Boulder, New York, 2005.
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Jean Monnet Project at Padua University
2007.1.16.
10.
.Democracy, Nationalism and Citizenship under the Enlarged EU
-------The Effect of the Globalization and Democratization---Kumiko Haba, Hosei University
Abstract
The author investigates the relationship between nationalism and democratization
of citizenship from the end of Cold War until the enlargement of the EU into the 25
countries of the EU.
Generally, nationalism in Eastern Europe has been written about or discussed as
immature democracy. However, recent neo-nationalism cannot be explained by this
connotation. Furthermore, it might be explained by the effect of the introduction of
democracy, or more precisely of the introduction of democratic procedure, to the
multinational states, or heterogeneous value’s society. So the democratic system worked
another style, as dark side of democracy, ethnic cleansing, which Michael Mann
investigates. Or such “countries between” Germany and Russia, always had to have a
strong spirit for freedom and liberal nationalism historically and traditionally, because
only liberalism against oppression by large autocratic powers saved their nations and
allowed them to continue.
Moreover, nowadays even in democratic societies in Western Europe, when wide
gaps have emerged between the national elite interest and citizens interest. Citizens
decry the government or politics, and populism or strong xenophobia (not only against
their government but even stronger antagonism against foreigners, especially immigrants)
grows quickly, as does radical nationalism.
This has been explained as the deficit of democracy. It is true if we investigate it
in one country’s framework, as perpendicular relations. But comparing other countries, if
we investigate laterally, it is not only the deficit of democracy, but rather “participating
democracy”. Participating democracy complicates issues, because countries’ “civic
interests” oppose and interfere each other. From the western point of view, immigration
needs to be prohibited or limited in order to save their own counties unemployed, or to
protect security and order. But seen from eastern point of view, it looks like western
countries are following a double standard and interfere with their own rules, because the
free movement of people, goods, money, services, and information is the very first subject
for achieving membership in the EU. Eastern citizens also complain about the CAP
agrarian subsidies, in which the vested interest protects. The effect is that governmental
parties have been defeated in many countries and populist parties have gotten a high
percentage vote, not only among former members of the EU but also among the 10 new
member countries, too.
Why now is nationalism, populism or antagonism rising among citizens in Enlarged
Europe? This is the theme of this article.
I. Democracy and Nationalism under the Enlarged EU
1
1
About the Democracy and Nationalism under the Enlarging the EU, see the following : The Radical Right in
Central and Eastern Europe since 1989, ed by Sabrina P. Ramet, Pennsylvania State University Press,
Pennsylvania, 1999. Stefan Auer, Liberal Nationalism in Central Europe, Routledge Curzon, London and New
York, 2004. Christian W. Haerpfer, Democracy and Enlargement in Post-Communist Europe, 1991-1998,
Routledge, London and New York, 2004. Europeanization and Regionalization in the EU’s Enlargement to
Central and Eastern Europe, James Hughes, Gwendolyn Sasse and Claire Gordon, Palgrave, Macmillan,
Hampshire, 2004. Europeanisation and Democratisation, Institutional Adaptation, ed. by Roberto Di Quirico,
European Press Academic Publishing, Florence, 2005, Globalization, Regionalization and the History of
International Relations, Eds. By Joan Beaumont and Alfredo Canavero, Edizioni Unicopli, Deakin University,
2005. Sabrina Petra Ramet, Social Currents in Eastern Europe, The Sources and Consequences of the Great
Transformation, Duke University Press, Durham and London, 1995, The author also research about the
Enlargement of the EU and NATO and Europeanization ofCentral and Eastern Europe, and Democratization
and Nationalism 17 years after the Cold War. My main books and article on Enlarging EU, is : Kumiko Haba,
Integration Europe and Nationalist Questions,(Kodansya, Tokyo, 1994, Enlarginb Europe and Gloping Central
119
Nowadays, one of the most important subjects of the enlarged EU is
nationalism---one is the protection of the national Interests of citizens, and the other is
neo-nationalism of minorities and immigrants.
The reflection of the citizen’s voice is also relevant to nationalism and chauvinism
in boycotting of “Others”---strangers to one’s own countries. Under the process of the
enlargement of the EU and democratization, and in spite of supra-nationalism or
trans-nationalism, why is nationalism recovering its spirits all over the world now? The
rise of nationalism is not only a European issue, but also a subject in the US, Japan, China,
and the world. In this chapter, the author wishes to investigate and analyze nationalism’s
new prosperity in the 21st Century through the enlarging EU.
After the End of the Cold War and the Collapse of the Socialist System in Eastern
Europe in 1989, the euphoria of liberty and independence covered all of Eastern and
Western Europe, “There is one integrated Europe, and we return to (that one ) Europe!”. 18
years later, the EU has enlarged to 27 countries, including Romania, Bulgaria from 1
January 2007. Almost all of Europe has integrated, except the former Yugoslavia and
others.
The EU declared it would play an important role in the New World Orders at the
end of 20032, criticizing the US unilateralist policy toward the Iraq War under globalization.
After the Iraq War, the EU started to actively participate in the International Questions
cooperating with the United Nations, as well as the East Asian issue, and North Korean
issue. The role of the enlarged EU is to lead the international norm in areas like
citizenship, human rights and democratization through economic development and
peaceful ways, taking a significant position in the International society.
On the other hand, the end of the Cold War brought the era of democracy. After
the collapse of the socialist system, liberalization and democratization was enjoyed, and
the CIS and former Eastern Europe started to contest for democratization. As Anthony
Lake, an American presidential aide has noted, through the enlargement policy of
democratization, rather than the containment policy against Soviet Union under the Cold
War, “The Pax Democratia” is penetrating all over the world3. It comes from the universal
idea of the post Cold War, making peace by the US power, and making some provocative
debate.
However, Francis Fukuyama’s prediction of The End of History through the victory
of democracy didn’t happen, and regional and national conflicts occurred in the real
international society during the 1990s. Samuel Hantington analyzed them as The Clash
of Civilizations, and induced the European-American cohesion policy against these
situations4. During the Central Europe’s democratization, Balkan countries collapsed
their federalist systems, formed nation states, and started the national-regional conflicts.
Transformation for democratization after the end of the Cold War brought the rise of
nationalism all over the world. Nationalism started to assert itself under democratization
and globalization.
<Three types of Nationalism>
The rise of nationalism under globalization and European integration can be
divided into three types: 1) radical nationalism, 2) liberal nationalism and 3) xenophobic
nationalism.
Europe, Iwanami, Tokyo, 1998, Perspective of European Integration,Jinbunshoin, Tokyo, 2001, Globalization
and European Enlargement, Ochyanomizushobo, Tokyo, 2002, The Challenge of the Enlarging Europe---Will it
become a Multilateral Power besides the USA?, Chuo Koronsinsya, Tokyo, 2004, Easterrn Enlargement of
Europe, ed. by Kumiko Haba, Akio Komorida, and Soko Tanaka, Iwanami, Shoten, Tokyo, 2006.
2 Constructing World Orders, Pan European International Conference, The Hague, Sept 2004, Establishing New
World Orders, ECSA World, Brussels, December, 20004.T.R. Reid, The United States of Europe, The New
Superpower and the End of American Supremacy, Penguin Books, New York, 2004. Charles Kupchan, the End
of the American Era, New York, 2002.
3 Bruce Russett, Pax Democratia, translate, Takehiko Kamo, Tokyo Daigaku Shuppankai, Tokyo, 1990, p. 2.
4 Francis Fukuyama, translated Shoichi Watanabe, The End of the History, Mikasa shobo, Tokyo, 1992,
Samuel Huntington, Translate Shuzei, The Clash of Civilization Shueisya, Tokyo 1998.
120
1) Radical Nationalism and Ethnic Cleansing
Sabrina P. Ramet, Professor of International Relations at Washington University,
analyzed the rapid growth of the radical right in the process of democratization in former
Eastern Europe. Michael Mann, Professor of Sociology at UCLA, indicates in his famous
book “Dark side of Democracy” that “democracy has always carried with it the possibility
that the majority might tyrannize minorities, and this possibility carries more ominous
consequences in certain types of multiethnic environments.”5
However the examination of the concrete issue of the relationship between
democratization and nationalism was avoided deliberately, and conventionally expression
of radical nationalism was assumed to be the effect of the immaturity of democracy. But
seeing the Nazis’ Germany, Stalin’s Soviet Union, Yugoslavia, Rwanda, Northern Ireland
and the US, we can understand that democracy and massacre of minorities can be
concomitant, so we have to investigate why democracy brought such “ethnic cleansing”.
He stressed that “there is always the possibility and peril of the autocracy against
minorities by majorities under the democratic nation states”6.
2) Liberal Nationalism and Democratization
On the other hand, “liberal nationalism” widened under the democratizing Central
and Eastern Europe in 1990s. Stefan Aurel, Professor of Dublin University writes in his
book, “Nationalism is negative connotations in Central Europe. Michnik, and Havel, who
are fierce opponents of nationalism could be labeled ‘Liberal nationalists’. The bias
favouring patriotism against nationalism is shared by Western republican tradition,
concerning with political solidarity, citizenship as a desirable alternative7.
It was considered conventionally by many researchers that nationalism in Eastern
and Central Europe was backward nationalism and it was impossible to form democracy of
the Western type like that of France and the UK, and that such democracy would change to
Eastern type nationalism. But Auel writes that there was such nationalism in Central
Europe, patriotic but not chauvinistic, and not xenophobic but friendly to foreign countries
nationalism. That means proto-liberal nationalism combining a European identity and
European system 8.
3) Deficit of Democracy and Xenophobic Nationalism
However, from the middle of the 1990s, mainly from 2000-2001 turn of the century,
the radical right and neo-nationalism was growing quickly in almost all European
countries. North Alliance and Forza-Italia by Silvio Berlusconi in Italy, Joerg Heider’s
Freie Democratiche Partei in Austria, Jean-Marie LePen’s Front National in France, and
the Pim Fortein Party in Netherlands, were all insisted and declared to defend their
national interests and citizen’s interests, and criticized government and attacked
immigrants. They advocated the protection of liberal farmers from unemployment,
Euro-Skepticism, anti-immigration, anti-EU policy, and agitating national rights and
interests9.
Many organized violent attacks against “Others” (that is, against immigrants and
foreign companies) began not only in the Balkans and Central and Eastern Europe, but
also in the EU Eastern Borders at first, and even in the middle of Western Europe in France,
5 The Radical Right, ed. by Sabrina P. Ramet 1999, Michael Mann, The Dark Side of Democracy, Explaning
Ethnic Cleansing, Cambridge University Press, Cambridge, 2005. European Neo Right, ed., by Yamaguchi
Yasushi and Takahashi Susumu, Asahi Shimbunsya, 1998, Kumiko Haba, Globalization and European
Enkargement, Ochanomizu Shyobo, 2002.
6 Michael Mann, ibid., p.2. At first, the term of „ethnic cleasing” was made by advertisement agensy in the US,
and widened all over the world. Takagi Toru, War advertising agency, Kodansya, 2002.
7 Stefan Auer, Liberal Nationalism, 2004, p.19
8 Stefan Auer, ibid., pp.58-59. The example was Polish Aristocracy’s Republic like Sirafta’s Republic.
West
and East in Modern Europe, ed. by Kinnichi Ogura, Yamakawa shuppansha, 2004.
9 About European Radical Nationalism and Skeptisism, see : Herbert Kitschelt et al, The Radical Right in
Western Europe, University of Michigan Press, 1997. Robert Hammsen et al, Eurosceptisism, European Studies,
2005. Nationalism Reframed Nationhood and the National Question in the New Europe, Cambridge Univ. Press,
1996. Kumiko Haba, Globalization and European Enlargement, 2002.
121
the Netherlands and the United Kingdom.
Moreover, the referendum on the ratification of the European constitutional treaty
was rejected on 30 May in France and 3 June in Netherlands in succession, and further
ratification was interrupted.
In France, demonstrations by labor and the unemployed broke out, and in response, riots
by immigrants against anti-immigrants and discriminatory policies10.
Seeing from these issues, recent trends toward nationalism are not from the
“immaturity of democracy”, but occur in the process of overcoming the deficits of
democracy, and of introducing the “people’s participation in democracy”.
It means
among “the people”, who are composed of inhabitants in towns, farmers, minorities,
unemployed or unskilled workers, widening xenophobic nationalism and antagonism
against “Others” while their national and European identity grows. How is it connected
with the enlarging EU?
II. The Discussion of the EU
1). Is the EU declining under Globalization and Nationalism?
“The EU is declining”, stated Péter Balázs, the former EU Ambassador of Hungary,
former EU Commissioner, and now Professor of Central European University, at the
International Conference by the EU’s Jean Monnet Project by Professor Antonio Papisca in
Padua in March 2006. “The questions of immigrants, minorities and border are those of
the most significant issues. However these issues cause the discrimination and
opposition under the globalization and enlargement of the EU11.
Under the globalization from the 1980s to the 21st century, free movement of labor,
increasing immigrants, and the widening of the EU’s Eastern borders, nationalism
questions are widening all over Europe. Nationalism in the enlarging EU is just the
expression of the effects of globalization and the wave of democratization which cannot be
avoided in this era.
On the other hand, Teo Zommer, the Zeit main-editor protests these opinions. He
writes “Don’t cooperate with the EU decline” and cautions against widening
Euro-skepticism. He insists that Europe always overcame these difficulties historically;
even now there are many problems like interruption of European Constitutional Treaty or
economic nationalism and newcomers’ problems of adjustment. He estimates European
potential soft power, and the main subject is the surmounting of nationalism and
Euro-skepticism12.
Jose Manuel Barroso, the President of the European Committee of enlarged 25
countries, criticized the economic nationalism of France and Italy, saying “integration
priority” but stumbling on the priority. He also insists on the social security based on the
idea of a social Europe, besides the economic development and competitiveness13.
Hungarian political scientist Ágh Attila notes that participatory democracy
progressed in Eastern Europe historically. In Western Europe, elite democracy, structural
democracy, and such representative councils were developed, but in Eastern Europe
independence and national movements developed under and against the rule of the
Habsburg Monarchy, Ottoman Empire, and the Soviet Union14. However, their movements
also often changed to the boycott of Others, other nations, and minorities.
Why did the democratization of Central and Eastern Europe divide into liberal
nationalism and radical nationalism? What was the turning point? And why are
10
Emanuel Todd, French riot is Social revolt,<< Nikkei News Paper>>, 12 November, 2005.
Péter Balázs, Enlargement of the EU and the Human Rights, Jean Monnet International Project, Padua, Italy,
24-26 March, 2006.
12 Teo Zommer, Don’t take sides with European declining, <<Asahi News paper>>, 4 April, 2006.
13 President of European Commission, Jose Balosso, Economic Nationalism in France and Spain; stressed a
severe management, Asahi News Paper, 20 April, 2006. Jose Barosso, President of European Commission,
For further Development of Japan-EU Relations, A Chamber of Commerce in Tokyo, Lecture, 21 Aprilm 2006.
14 Ágh Attila, Institutional Design and Regional Capacity-Building in the Post-Accession Period, Hungarian
Center for Democracy Studies, 2005.
11
122
nationalism and xenophobia in Western and Eastern Europe erupting as mutual distrust,
antagonism, or economic protectionism in the process of correcting the deficits of
democracy and participatory democracy? Where do democracy and nationalism coincide
and where do they revert to national interest and boycott of Others (minorities)?
2). What is Democracy?
What is Nationalism?
What is democracy? According to the Encyclopedia of Sociology15, it comes from
Greek demos + kratos, and started from the directed democracy and adhocracy, republic
and liberal democracy, and recent representative parliamentalism of Western Europe and
the USA. Recent subjects are equality of ruler and ruled, homogeneity and equality of
members, as well as self-autonomy, participation, and detachment, subsidiarity.
What is nationalism, on the other hand? Arnest Gerner indicates “Nationalism is a
political principle which political and national unit harmonizes each other, and it
progresses under the modernization and industrialization. According to Anthony Smith,
“Nationalism lays on the human loyalty above all, over the religions and philosophy. It
advocates political behavior and solidarity for their motherlands” (Encyclopedia of
International Politics)16.
Both democracy and nationalism have diversity, instability and complexities which
depend on each region and nation (people), and which cannot be defined precisely even by
hundreds of encyclopedias or libraries. Both has peoples rule and participation as part of
their etymology, but where do they go past the investigation of rational self- and othersinterests, and turn into loyalty and solidarity for the motherland and the boycott or attack
against others? After all, people (citizen, folk, farmer, mass, nation) themselves are very
variable and diverse. Even within the 17 years after the Cold War, there are some
variations of nationalism under the democratization.
(1) Liberal nationalism protecting citizens’ interests, widening the regional and class gap
after the collapse of Socialism and globalization.
(2) Radical nationalism which protects national (people’s) interests, and when damaged
by others, attacks violently, destroys “others”, and protects their own unity17.
(3) Xenophobic nationalism which evades foreign people and companies when they spoil
national interests, and excludes immigrants and aliens even if they are social losers and
the poor.
I will investigate these three nationalisms which are emerging under the enlarging
EU.
III. Democratization and Liberal Nationalism in Central Europe in the1990s
Proto-liberal nationalism in Central Europe which exists “between” historical and
geographical Big Powers (Germany and Russia), always insisted on liberty and
independence from the rule of these big powers, and established their own republic and
democracy, which Stefan Auer or Ogura wrote about in their books18.
There are not a few books about nationalism and democracy in Central Europe in
the process of enlarging the EU.
15
Democracy, by Michitoshi Takabatake, Encyclopedia of Sociology, Kobundo, 1988.
Ernest Garner, Translated Kato Setsu, Nation and Nationalism, Iwanami System, 2000. Anthony Smith,
translated by Yasushi Susana, Nationalism in the 20th Century, Horsts Bunkashya, 1995、Nationalism, by Jun
Osawa, Encyclopedia of International Politics, 2005.
17 About Liberal Nationalism, see:、Stefan Auer, Liberal Nationalism, 2004, and Views from Central and
Eastern Europe, Balogh András, Integráció és Nemzetiérdek, Budapest, About Radical Nationalism, see; The
Radical Right, 1999, Kumiko Haba, Integrating Europe and Nationality Questions, Kodansha Gendaishinsho,
1994.
18 Stefan Auer, Liberal Nationalism, 2004, p.58. Kinichi Ogura, West and East in Modern Europe, Yamakawa,
2004. National and European Identities in EU Enlargement, ed. by Petr Drulak, Prague, 2001.Democratization
in Central and Eastern Europe, Ed. by Mary Kaldor and Ivan Vejvoda, London and New York, 1999.
16
123
Liberal nationalism generally has its roots in the historical tradition of Central
Europe, and indicates that their liberalization, democratizing and freedom cohesion to the
Europeanization of their countries, like “Return to Europe”. Concretely, they protect
their own rights and interests coexisting with Europeanization,
In Poland, for example, the historical and traditional republican system like
Respublica-Rzeczpospolita by the Polish aristocracy (Szlachta) consists of the relation
between religion and nation state, religious education, and criticism of abortion. It is
strongly connected with Western European culture, especially Christianity and
conservative democracy. This might be the basis of Polish liberal democracy and it
sometimes has a similarity with American neo (religious) conservatism. Polish patriotism
is essentially liberal, and is completely different from national chauvinism or xenophobia,
respecting diversity and pluralism like Adam Michnik, based on Solidarity, write Auer19.
Their nationalism for liberty and independence always combines strongly with the support
of liberal democracy of Europe and the USA like Frederic Chopin and Adam Mickiewicz,
and Tadeusz Kosciuszko historically.
Czech people also have their own traditional liberal nationalism. And it mainly
puts their confidence in democracy against the German autocracy’s rule. So Czech
nationalism has an exclusion of the German influence from modernization and
industrialization, and it finally led to expulsion of German people from the Sudetenland.
Czech nationalism is based on the democracy under the 19th century Slavic idea of peace
and equality. Tomas Masaryk’s idea of liberty and independence also followed such
historical and traditional Czech nationalism.
Vaclav Havel, president of the Czech
Republic after the Cold War, was the symbol of such Czech nationalism which integrates
traditional liberal democracy with morals and norms.
The new Czech Republic started again to cooperate with Germany, and apologized
to German people for the German exile after the Second World War. However, it
sometimes has superiority complex towards neighbor countries and has been especially
negative against the Balkan national conflicts and their deadlocks 20.
On the other hand, Hungarian nationalism is a more pragmatic one which
cooperates with democratization and Europeanization. Hungary has moved to introduce
foreign investment and foreign companies actively, and promoted the rapid economic
development.
In their background, there are foreign Jewish companies and assistance
from monetary capitalists like Gorgy Soros and others. Hungary organized “Visegrad
regional cooperation” after the failure of a coup d’etat by Soviet military and conservatives
and collapse of the Soviet Union in 1991, aggressively organized security with their
neighbors and accessed the top of NATO. Under the framework of the Europeanization,
they enjoyed the most political and economic stability and development among Central
European countries.
<Neo-Nationalism Rising from the Right and Left>
However, under just such a wave of neo-liberal marketization and democratization,
based on the achievement of the Copenhagen criteria to join to the EU, neo-nationalism,
especially the right radical movement, developed in Central Europe from the early 1990s.
For example, Istvan Csurka’s MIEP(Justice and Life Party) in Hungary, Andrzej
Lepper’s Self-Defense in Poland, Daniela Todor’s Great Romanian Party in Romania, or
Vladimir Meciar’s Democratic Slovakian Movement in Slovakia. They actively advocate
the protection of nations, and regard liberalization and privatization as the introduction of
Jewish capital which spoils their national capital, criticize Europeanization and foster
Euro-skepticism, are against globalization and Americanization, foster anti-Semitism, and
are against national minorities. At first these forces didn’t get much peoples support.
But just after the general election joining the EU in 2004, reflecting before and
after the difficulties of the negotiation of immigrants, CAP agrarian questions and budget
issues, there neo-nationalists grew in power again, and many nationalists and radical
19
20
Auer, Liberal Nationalism, pp.77-80. p. 84.
Auer, op. cit, pp. 101-121, pp.127-129.
124
rights got new parliament power just after joining the EU21.
The difficulty of domestic policy of each country after the enlargement of the EU
makes radical nationalism grow in Central European countries in which liberal
nationalism is strong historically.
IV. Radical Democracy and Radical Nationalism in Balkan in 1990s
On the other hand, the case of Balkan countries is quite different from Central
Europe. In Central Europe, government and citizens could adjust their interests with the
European one by democratization and Europeanization at least until the joining the EU.
But Balkan countries, especially the former Yugoslavia, were completely different.
Yugoslavia was a champion of so-called non-alliance and self-management socialism in
Josie Brow Tito’s era, and strongly pulled together such heterogeneous nationalities, and
went a self independent way against Soviet rule.
But after the Cold War and under the process of making independent nation states,
each heterogeneous nationality conflicted with and excluded “other” nationalities violently
and militarily. Therefore in 1991, the former Yugoslavian Federation was destroyed by
the independence of Slovenia and Croatia, and quick approval by Germany and Vatican.
Furthermore, national and regional conflict aggravated historically such regions of
multinational coexistence, like Bosnia and Kosovo, and brought the Bosnian and Kosovo
bombing 22. Why did such things happen there?
1). Radical Democracy and Radical Nationalism
The national conflict of former Yugoslavia is an example of a combination of radical
nationalism and radical democracy23. After the collapse of the Socialist system, formation
of nation states, as the direct reflection of the majorities changed, to the majority’s
autocracy.
In the Socialist era, Yugoslavia, Czechoslovakia and the Soviet Union functioned by
the pyramid structure of democratic centralism of the communist system and each
nation’s regional autonomy under the socialist federal states based on multi-national
coexistence. It worked as a combination of the absolute centralized ruling system and
regional autonomy, and made possible many nationalities regions to include one federal
state, and formed stabilized and structural framework which prevented the national
conflicts for 40 years!
However, the enlargement of democratization and of the majority’s value by free
election collapsed that multinational and stabilized order under the communist system.
The spokesman of democracy in former Yugoslavia became majority’s Serbia’s
insistence, which stripped out the communists autocratic but paternalistic norms. The
spokesman of the rich “regional” majority in Croatia and Slovenia insisted on their own
interests, and could not compromise with the first majority nation, and declared
independence one after another. Therefore the introduction of democracy caused not
integration and stability, but disruption and collapse of federalism.
According to radical nationalism, Slobodan Milosevic in Serbia and Nevjeste
Lugova in Kosovo are spokesmen of their own countries and their own majority as
populists, and excluded and oppressed minorities according to majorities interests, as
21
About
the
Polish
new
Government
in
May
2005,
http://www.plemb-japan.go.jp/relations/j_jousei060509.htm
About
Slovakia,
http://www.jetro.go.jp/biz/world/europe/middle_east/pdf/slovakia2006.pdf
Kumiko Haba, Globalization and European Enlargement, Ochanomizusyobo, 2002, 04.
22 From Balkan national conflict until Kosovo Bombing, Process and accounting, Beyond EU Enlargement,
Vol 2. The Agenda of Stabilisation for Southeastern Europe, Bertelsmann Foundation Publishers, 2001.
Kosovo and the Challenge of Humanitarian Internvention, ed. by Albrechit Schnabel and Ramesh Thakur,
United Nations University Press, 2000.
23 About Radical Democracy, Akira Kawahara, Radical Democracy and Global Democracy, <<Political Science in
the 20th century>>, Japan Political Science Association, Iwanami syoten, 1999, pp167-180.
125
democracy by majority.
Thus, the radical democratic system by majority in a multinational country
legitimized thorough radical exclusion---ethnic cleansing and massacre24.
In Central and Eastern Europe also exist many multinational states. However
there are few such cases as the former Yugoslavia in which radical nationalism bursts out.
Why did the brutal national conflicts continue a longtime only in the former Yugoslavia and
not in other regions? What separated Yugoslavia from other countries like Romania and
Bulgaria?
2). The Cause of Widening the Radical Nationalism
What caused radical nationalism in Yugoslavia? Many multinational
countries like the Soviet Union, China, and India have also suffered from regional and
national conflicts, but didn’t widen like the former Yugoslavia.
A first and most important reason might be regional and ethnic autonomy and
federalism in the former Yugoslavia. It was centralized by a communist system, but not
by ethnic structure; generally each region was an independent autonomous structure in
Tito’s Yugoslavia. Each region was autonomous to each majority nationality, and they
were not centralized and Serbian, but communist system. So when the communist
centralized system collapsed, it was very easy for the multinational federalism to collapse.
Other countries was not so federalized and regionally independent, but rather more
concentrated one-party system countries, even they were multinational states.
Yugoslavia was more a regional-national federal socialist republic. That made it
very easy to achieve independence when the communist centralized system collapsed.
Other reasons are:
1) the aid and approval of big neighbor countries, like Germany and the Vatican. The
quick collapse of the former Yugoslavia and independence of Croatia and Slovenia were
caused with these countries’ help, and these countries independence gave legitimacy to
further division and independence.
2) the inflow of armaments. Enormous armament flow into the former Yugoslavia from
neighbor countries because of the lack of need of armament after the cold war.
3) the lack of the so called ”EU effect”. Other multinational countries like Romania and
Slovakia also suffered nationality conflicts, but they had an aim to join to the EU, and it is
said that EU criteria prevented these countries from making conflicts 25.
After the Kosovo bombing in 1999, the presidential election, and general election at
the end of 2000, the former Yugoslavia changed slowly to a representative parliamentary
democracy by the intervention of the US and Western Europe. Therefore after a ten year
setback, the Stability Pact for South Eastern Europe was offered by the EU, for the aim of
peace, democratization, human rights and economic development in 1999, and the
negotiation with neighbor countries started in 2000. Erhard Buzek, former Austrian vice
president became the special representative, and regional stabilization started in 2001.
Croatia concluded at first this treaty, and started the negotiation for joining the EU in 2005.
CEFTA (Central European Free Trade Agreement) was also extended to Balkan countries in
200626. Radical democracy in the Balkans is now slowly changing and is starting to go
toward Europeanization.]
V. Xenophobic Nationalism and Conflict of National Interests (West-East Europe in the
24
Iwata Masayoshi, Premonition of Multinational conflict, ed by Haba, Komorida, Tanaka, Eastern Enlargement
of Europe, Iwanami System, 2006. Western Balkan’s Peace stabilization and Economic development ministers
meeting, http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/europe/w_balkans/gh.html
25 Shigeo Mutsushika, Effect of NATO and EU Enlargement and its limit, Annual Journal of JARREES, no.28,
1999
26 About the CEFTA (Central European Free Trade Association) reform and Enlargement is,
http://www.jetro.be/jp/business/eutopics/EUJP83.pdf#search=%22cefta%E3%80%812006%E5%B9%B4%
22
126
2000s)
At present, xenophobic nationalism, which is more difficult than the previous two
examples, is widening in all European countries.
After the Maastricht treaty (in 1993), the “Deficit of Democracy” was indicated in
Western Europe. When the community’s supranational authority becomes wider and
that supranational structure decides the issues relevant to citizens, the question is raised
about whether or not the profit of the enlargement of the EU can come down to general
citizens, and whether or not the decision making of the EU is relevant to the people 27.
However under globalization and deepening the regional integration, people call for
a system that reflects the opinions of each country and nation, and the interest of each
citizen does not always fit or deepen the mutual understanding; rather they conflict with
each other.
The friction of national Interests between Western Europe and new comers;
Central and Eastern Europe is the archetype example, like the immigrant question,
agrarian CAP subsidizes question, and constitutional law. Because of these questions,
the budget zero-sum game might be started between old affiliated countries and newly
affiliated countries, and/or between budget donation countries and budget vested interest
countries.
The author will show very briefly these three problems.
1) Immigrant Questions
Concerning the immigrant questions, there are two borders: One is the enlarged
EU’s border, and the second is the old border between old and new comer counties.
This question includes the Schengen treaty, too.
The Schengen treaty, which took effect in 1995, secured the free movement of
people, goods, services and capital.
The countries which concluded this treaty can go freely across the borders.
However, raising the number of immigrants in Germany, France, the UK and other
countries, and with unemployment still remaining, it might be very difficult to admit
immigrants from newcomer countries.
That is why just before the enlarged EU by 25 countries, the limits of immigrants were set
at 2+3+2 years (longest 7 years) by each country.
This was not good enough for newcomers, because the free movement of four
things (People, goods, services, capital) is the first 4 criteria of 31 by the Copenhagen
criteria, and candidate countries had to have severely cleared these conditions. The
Polish government said that the immigrants from Poland are not all are Polish, but many
are Russian, Belarus, Ukrainian, and others who are outside of the European border, and
due to a big wage difference and unemployment are obliged to go into Western Europe 28.
So newcomer countries criticized the older countries, saying that it is double
standard or Protectionism 29.
2)
CAP Agrarian Subsidies and Citizen’s Conflict
27
About EU and citizens, see EU and Citizen, ed. by Toshiro Tanaka & Katsuhiro Shoji, Keio Gijuku Univ.
Shuppankai, 2005, Deleck Heater, translated by Tanaka and Sekine, What is the citizen right, Iwanami shoten,
2002.
28 In this article it was impossible to indicate concrete border questions, but about the Kaliningrad border and
Minority, see: Richard J. Cricks, The Kaliningrad Question, New York, 2002. The EU & Kaliningrad, ed. by
James Baxendale et al., European Union, 2000. Kumiko Haba, Challenge of the European Enlargement,
2004-06.Kumiko Haba, Enlarging Europe and Groping Central Europe, Iwanami system, 20004, and about the
Hungarian minority policy, see: Peter Kovacs, “Co-operation in the Spirit of the Schengen Agreement, The
Hungarian beyond the Borders”, <<Minorities Research>>, Budapest, 1998, pp.124-131., Ethnic Geography of
the Hungarian Minorities in the Carpathian Basin, by Karolyn Kopsas and Eszter Kocsis-Hodosi, Budapest,
1998, 17. Kumiko Haba, EU border, and the Schengen Wall, <<Journal of International Politics>>, no 129,
February, 2000.
29 Bujko Bucar, University of Ljubljana, “The Issue of Double Standards in the EU Enlargement Process”,
<<Managing the (Re)creation of Divisions in Europe>>, 3rd Convention of CEEISA, NISA, and RISA, Moscow,
20-22 June 2002.
127
The CAP subsidies account for 40- almost 50% of the EU budget. There are three
different interests: donors (Germany, the UK), vested interests, (France, Spain), and
newcomers.
As an effect of agrarian farmers’ wider dissatisfaction with CAP subsidies, the
radical rights and conservatives grew in the general or presidential elections in France and
other countries. For example, LePen’s success in the French first presidential election, or
growing populism, in which many farmers and unskilled workers vote not for the socialist
party, but the more radical and EU-Skeptical party.
Under such a situation, the EU was obliged to decide to start to pay their CAP
subsidies from a quarter of all possible subsidies, and in 10 years, they can get 100%.
From such a situation, Leppel’s Self Defense and Pies (Law and Justice Party) grew their
power, and the Left Democrat Alliance was defeated in the general election in 2005.
3)
Rejection of European Constitutional Treaty by Referendum in France.
------Strengthening of Chauvinistic Nationalism----On 29 May in France and 1 June in the Netherlands, the ratification of the
European Constitutional Treaty was rejected by the referendum 30.
Seeing this situation, the European summit in June 2005 decided to postpone the
ratification indefinitely, and adopted the Plan D of Democracy, Dialogue and Debate 31.
It was said that this shows “the fatigue of the Enlarging EU”, but in my opinion it
rather comes from the “participating in democracy”, not only the “Deficit of Democracy”.
This means that:
1) as the result of “participating in democracy”, like a referendum, citizen’s antagonism is
burned out against “others”, who undermine their interests;
2) citizens declared that the EU interests do not directly connect with their own interest;
rather, it binds or restricts their behavior;
3) to that effect, the civic claim for their interests emerged not as solidarity with neighbor
countries, but as xenophobia which hates immigrants and enlargement of the EU.
As to the Constitutional Law itself, the Ambassador of the EU Delegation in
Lithuania in 2003 expressed his personal skepticism about a fast and sloppy way of
ratification.31)
It seems that diverse and gradual democracy by 25 countries weakens the EU
Integration and slows down its development process by the European elite, but the new
type of efficient, strong and integrated EU by 25 countries introduces the apprehension of
the participating countries of the EU and hesitation of the citizens. And ironically,
widening “participating democracy” as the reflection of “the Deficit of Democracy”
realistically promotes xenophobic nationalism, not cooperation with neighbor citizen’s
solidarity, but deepening the antagonism of their interests. Citizen’s interests in both old
and new member countries are economic stability, prosperity, promotion of employment
and solid social security. Citizens of new member countries thought that their interests
can be realized by joining the EU, but citizens of Western Europe thought that they will be
damaged by the enlargement of the EU and inflow of immigrants. So the Plan D
(Democracy, Dialogue, and Debate) is very important, but not succeeded until now from
seeing mutual understanding.
Considering the rejection of the Constitutional Law by referendum, now the
enlargement of the EU is facing the difficult moment of dual duplicating dimension of
conflict among nationalism and democracy, and elite and citizens.
VI. Epilogue ---The Remaining Subject of Nationalism and Democracy
30
About the European Constitutional Treaty, see; Asahi Shinbun, Sankei Shinbun, 30-31, May 2006, 1-2,June,
2006. Kumiko Haba, Postponed European Constitutional Treaty, National and Citizen Interest than Stronger
EU, Yomiuri News Paper, 20 June, 2005.
31 Lithuanian EU Delegation, Ambassador, Michael Graham, Interview, 11 February, 2004.
128
As we saw, democratization and emerging nationalism after the end of the Cold
War brought liberal nationalism, radical nationalism, and xenophobic nationalism in each
region, and all of them emerged as an effect of each region’s style of democratization.
Especially under globalization and regionalism, the “protection of the national interest”
occurs widely, including developed countries in the 21st century. And by the significance of
the citizen’s voice and “participating democracy”, each national interest is a mutual
confrontation, as in an ironic zero-sum game which protects each national interest against
global mutual interests.
Radical nationalism, especially ethnic cleansing, might be the darkest part of
politics which killed “others” by violence or military force, but it is also one of the effects of
democratization as populism which represent the majority’s voice. In the early 21st
century, an amalgam of democratization, national interest and citizen’s interest, itself a
positive claim, transforms to xenophobia toward “others” under the enlargement of the EU.
That is, under globalization and regionalization, democratization in each region brings
liberal nationalism which surpasses Western Europe, and sometimes brings radical
nationalism which shows the dark side of democracy.
The problem is that
democratization by citizen participation is not always successful, but sometimes brings
xenophobia by the antagonism of each citizen.
How is it possible to cope with such liberal, radical, and xenophobic nationalism,
each of which emerged from each citizen’s (farmer and unemployed) actual conditions and
urgent demands? It completely depends on the successful execution of the Lisbon
Strategy: employment, social security, and economic development. At the start and
interruption of the negotiation for Western Balkan and Turkey’s joining the EU,
immigration and agrarian questions could possibly bring more severe conflicts.
The
subject of how to manage and adjust the conflict of each interest between the EU
“unification priority” centripetal force and citizen participation and nationalism, and how
to develop these interests together is vitally significant for the future of the enlarging EU.
<<Bibliography>>
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129
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Minoru Tanigawa, European Identity in History, Yamakawa Shuppan, 2003.
Perspective in European Integration, ed. by Takashi Miyajima, Kumiko Haba, Jinbun shoin, 2001.
**This article is the one part of my recent research for the Jean Monnet Chair grant, Japanese Educational
Ministry’s Science Research fund, under the research theme, the Enlarging EU borders and Nation and
Region security (American influence), from 2005.-
130
11.拡大
11.拡大EU
拡大EUの
EUの教訓と
教訓と東アジア共同体
アジア共同体
― 欧州の
欧州の経験からわれわれは
経験からわれわれは何
からわれわれは何を学ぶか?
ぶか?(1)
羽場久美子
はじめに
冷戦の終焉と平行して、世界における地域協力関係の成長が、アジアにも波及している。
EU,NAFTA,MERCOSUR に続き、APEC,AFTA, ARF, EAEC (ASEAN7+5) , CER およびこの間、
ASEAN10+3、ASEAN+6、さらに上海協力機構(SCO)などが急速に伸張してきている。こうした中
で EU と ASEAN+3 諸国による「アジア・ヨーロッパ対話(ASEM)」が経済、実務、環境、文化など
のレベルで東西の対話を積み重ね、これまで地域協力に慎重であったアジアでも、日本を巻き込み地域
統合の始動が始まっている。(表1)
他方、こうした中で、グローバル化と地域化と並行するように、リベラル・ナショナリズムの興隆が、
各地で見られる。近年のネオ・ナショナリズムの新しい特徴は、グローバル化に反対するのでなく、そ
れをむしろ促進しながら、国益を守ろうとする動きが出てきていることである。
二〇〇七年五月七日、フランスの大統領選挙でニコラ・サルコジが勝利し、一六日の大統領就任直後
にドイツを訪問、
「過去からの決別と強いフランス」
、欧州憲法条約の建て直しを独メルケル首相に誓っ
た。これに象徴されるように、アメリカやアジアのナショナリズムの興隆にやや遅れる形で、社会と市
民の重視を標榜するヨーロッパで、2004 年のEU拡大前後から、保守および国権への回帰現象が続い
ている。サルコジは、エトニとしては、ハンガリー系小貴族の移民(Sarkozy de Nagy Bocsa)で母方
はギリシャ・サロニカ系のユダヤ人であるが、移民出自故にか、これまでになく強いフランス・アイデ
ンティティとネオ・リベラルな政策を強調し、他を圧倒している。
冷戦終焉後、社会主義的パターナリズムの下にあった中・東欧の移行経済に導入されたのがリベラル
な市場経済であった。グローバル化の進展の下で、EUはその後「リスボン戦略」として競争、雇用・失
業対策、市民参加をEU各国に適用、旧来の「社会福祉の欧州」を越え、北欧、西欧でもナショナル、
リベラル、親米の方向に向かいつつある。
21 世紀のアジアの地域協力・地域統合が本格始動し始めたとき、一歩先を進む欧州の苦悩の現実から、
われわれは何を教訓とすることができるだろうか。その際、重要なのは、冷戦期に分断されていた、二
つの欧州双方から、問題を考える必要がある。グローバリゼーションの下でいやおうなく進む、地域統
合、旧社会主義国と地域・市場経済の行方、政治統合たる憲法条約や、移民・アイデンティティ問題、貧
困と格差の問題など、21 世紀的な深刻な課題は、すべて歴史的な、かつ国際関係的な、欧州東西の対立
と相克の問題が絡んでいるからである。
一.なぜ東
なぜ東アジアで
アジアでも共同体か
共同体か?
なぜ今東アジアで地域統合なのか。そこには三つの側面がある。
1)第一は、グローバリゼーション下での世界的競争(Competitiveness)である。その仕掛け人はア
ジアである。グローバル化の下で、地域レベルの経済圏が同時並行的に拡大している。 米二億九千万
人、EU四億六千万人が共に GDP 一二兆ドルの経済圏を形作っており、そうした中で日本経済も一億
三千万、四兆ドル、世界第二位の GDP の国家枠組みを超え、現実には東アジアの経済圏という地域で
展開している(表2)。ASEAN+3 では現在、七兆二千万、ASEAN+6 では、八兆五千万である。グロー
バル化と地域化の避けがたい波の中で、それに乗りリードするのか、栄誉ある孤立を保つかの選択が迫
られている。右か左か、保守か革新かを問わず、グローバル化と地域主義化に対応せざるを得ない状況
が進行している。
2)東アジアの地域統合促進要因のもう一つの決定的な要因は、中国
中国の
中国の急成長である。中国は、二〇〇
急成長
五年末の世界 GDP 総額で、ドイツに次いで第四位となった。二〇〇六年上半期の統計分析でも、二〇
〇六から一五年に三位のドイツを抜くか?と言われており(2)
(GDP 比較)米国のあるシンクタンク
では二〇二〇年の世界 GDP はトップは中国、二位アメリカ、三位インド、日本は四位、という分析も
現れたとされる。(3)
3)中国はそれ自体、一三億のメガリージョンであるが、それを凌ぐメガリージョンとして、上海協力
上海協力
機構(
機構(SCO: Shanghai Cooperation Organization )がある。
一九九六年に設立された上海ファイブ(中国、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン)
は、 二〇〇一年に、これにウズベキスタンが加わり上海協力機構(SCO)を確立し、それによって中
ロ中央アジア六カ国による人口一五億人、オブザーバーのインド・モンゴル、イラン他を加えると人口
二八、五億、世界の半分近くを占めるメガリージョンが成立した。(4)
131
SCO は同床異夢とも言われるが、果たしてそうだろうか。
① SCO の中核は、冷戦期の中ソ同盟+第三世界(中東、モンゴル、中央アジア)であり、共通の安全保
障、対テロ協力、独自のリーダーシップを持っている。
② また米の武力による「民主化」、ユニラテラリズム(Unilateralism)に不満を抱いており、独自の主
導権を確立しようとしている。
③ さらに、ともに軍事大国、核大国である。
以上の点から考えて、対立は孕むものの。かなり実質的な機構であると見做せる。ある中国の研究者
は、「上海協力機構」は実質的(substantial)である、東アジア共同体は好ましい(preferable)であ
ると述べていた。(5)
近年EUでも政治統合が難航していることを考えれば、ナショナリズムや、対立点があることは地域
統合の妨げにはならない。ナショナリズムや歴史問題で逡巡しているうちに、日本を除いた「実質的」協
力が進展する可能性もありうる。グローバル化、地域化、さらにナショナル化の三つ巴の中で、アメリ
カのみとの関係を超えて、欧州との関係、アジアとの関係、国益との関係をどうとっていくのか。東ア
ジア共同体、上海協力機構(SCO)、APEC/ARF の並立状況の下で、各々とどのようなスタンスを実現
するのか。アジアはどのような形で最も効果的に共同できるのか。これはきわめて危急の課題となって
きている。
以上を考える上での示唆として、東西欧州を踏まえた視点から、拡大EUの教訓を提示しておきたい。
二.比較に
比較に際しての基本認識
しての基本認識
1)欧州統合の
欧州統合の理念と
理念と構想 欧州は、つかの間の統合と長期にわたる分裂の歴史とされる(6)。数世紀に
わたる抗争と殺戮、荒廃の歴史の海の上に、統一「帝国」と啓蒙・ルネッサンス、近代欧州の輝きがある。
欧州にとってつかの間の統合の時代が、繁栄と安定の時代であった。だからこそ、欧州は抗争と後輩を
避ける欧州統合の構想を二〇〇年余にわたって夢見、数十年にわたる統合の試みと挫折の末、第二次世
界大戦後、冷戦による欧州分断の開始の足元で統合構想を確立し、ローマ条約締結後五〇年を経た現在、
その機構的枠組みをほぼヨーロッパ全土に完遂させることとなった。数百年の試行錯誤は、強靭な統合
思想を培うこととなった。欧州統合を見る際は、戦後六〇年、統合構想一〇〇年の思惑に加え、数百年
の抗争、殺戮、荒廃、挫折のプロセスを踏まえる必要があるのである。
2)地域統合とは
地域の共存や統合とは、国家間、地域間の「境界線」を開放し共有する作
地域統合とは何
とは何か?
業である。それは大陸においては、「分断し」「つなぎ」「超えるもの」として日常的・一般的な作業でもあ
る(7)。こうした営みに対して島国は、間接的とならざるを得ない。海に向かう島嶼国家は、
「近代帝国」
の主導権を担い、領域は海洋を越えて拡大した。イギリスの連邦制(Common Wealth)は近代帝国の
産物であり、地域連合とは異なる。島嶼国家は大陸のいわば「新しい中世」的な、国境を越えて交わる地
域統合には第三者的な立場とならざるを得ないのである。
3)統合の
第二次世界大戦後の統合の担い手は、戦勝国、
統合の政治的リーダーシップ
政治的リーダーシップは
リーダーシップは、誰がとる
がとるか?
仏、ベネルックス三国であった。ドイツは、戦後経済復興を牽引する役割を果たしたが、現実には統合
の「柔らかい封じ込め」の下でのみ、堅実な発展を許されてきた。戦後ドイツによる経済面でのリード、
冷戦終焉後のドイツ統一、EU拡大による「ドイツ圏」の拡大とマルクの底力は、統合の中でこそ許され
てきた。ドイツ単独の影響圏の強化は、今でさえヨーロッパ全土が警戒しているからである。ナチスド
イツの「歴史の記憶」は、ヨーロッパにおいても消えてはいない。
4)アジアの
アジアのリーダーシップは
リーダーシップは、誰が取るのか?
るのか? 以上の経緯から、アジアの地域協力を考えるならば、
欧州と比較してみても、日本が、アジアの地域協力でリーダーシップをとることはかなり困難であるこ
とが理解できよう。英独でさえ、欧州統合の主導権は取れていない。イギリスはEUではユーロ、欧州
憲法条約を見ても外部者であり、ドイツは欧州経済・欧州金融の中核を担いつつ、EC(EU)という機構
の中でのみ、しかるべき位置を確保しているのである。日本はアジア「大陸」の歴史・文化の一歩外に
ある。日本が主導権をとるには、機構とそれを承認する共同国が必要である。それは欧州でも同様なの
である。
・また歴史的・政治的にも、戦勝国ではなく「敗戦国」が、ヘゲモニーをとることへの警戒感は、ヨーロ
ッパにおいてすら長期にわたり「歴史の記憶」として残った。今回統合された東欧諸国はそうした「歴史
の記憶」がことのほか強い。ナチスドイツ、ついでソ連に祖国を蹂躙された現代史をまだ忘れるにはあ
まりにも生々しい。だからこそ彼らはプロアメリカなのである。
・但し民主主義、発展・繁栄、アメリカとの共同という三点において、日本の役割はある。
① 戦後ヨーロッパ統合型の、アメリカと結ぶ地域統合の模索。
② 民主化、経済発展、世界経済の中での安定と繁栄のモデルを提供。
③アメリカと対立しないアジアの地域統合。以上は欧州統合の経験から見て認められうる。
132
5)問題は
問題は、地域統合において
地域統合において、
において、体制や
体制や文化の
文化の異なる領域
なる領域といかにに
領域といかにに平和的
といかにに平和的に
平和的に共存するか
共存するか、
するか、
という「
(対ロシア、中国、北朝鮮など)。
という「体制の
体制の多様性」
多様性」の問題である。
問題
これについては「六者協議」の枠組みがあり、この点ではアジアの方が先進的であるともいえよう。(8)
ヨーロッパでは、近隣諸国との協力関係について既定した「近隣諸国政策(ワイダー・ヨーロッパ戦略)」
があり、東のロシアや旧 CIS 諸国、南の中東・アフリカ諸国との経済関係、人権・開発・発展面での援助
政策、文化交流などが積極的にとられている。(9)
6)小国、
小国、下位地域協力の
下位地域協力の重要性。
重要性
基本認識として、地域協力における小国および下位地域の役割の重要性を指摘しておく。地域統合と
は、そもそも地域における特定の大国の対立関係を緩和することにより、共存と安定、繁栄を導くもの
で、明確な目的を持った「国家同盟」ではない。その意味で地域統合の本来的な主役は、地味ではある
が堅実に「つなぎ」「相互調整するもの」としての小国および下位地域協力なのである(10)。欧州のベネル
ックス、アジアの ASEAN が重視されるゆえんである。
三.欧州統合の
欧州統合の四つの時期区分
つの時期区分
欧州統合の実現に至る過程においては、19 世紀後半以降の四つの時期区分が存在する。
1)(一九世紀
(一九世紀)
一九世紀)国民国家か
国民国家か、地域連合か
地域連合か?
①地域連合
地域連合の
地域連合の試み 欧州統合の最初の現実的試みは、国民国家を超えた、広域の多民族帝国再編におけ
る連邦、国家連合の構想として一九世紀にさまざまな形で現れた。(ハプスブルク帝国やバルカンの多民
族連合再編の試みなど)。(11)
帝国内の諸民族は、国民国家と異なる連邦制ないし地域連合の概念を導入し、統合することによって、
「超一流の国家」となることをめざした(12)。旧来の帝国の枠組みを利用して地域連合を確立しよう
としたのである。
②ロシア
ロシア(
ロシア(のちソ
のちソ連)への対抗概念
への対抗概念。
対抗概念。(統合には
統合には、
には、「敵」がいた)
がいた)
二つ目は、ロシアへの対抗である。欧州は、勢力均衡や戦略・安全保障上、同盟関係を変化させて大国
の成長に対して均衡を保っていく要素が強かった。それゆえそのつど同盟上の相手が変化することにな
った。しかしドイツに対する東からの封殺としてロシアとの同盟が利用される以外、むしろ東欧の諸民
族との関係では、「ヨーロッパの東の境界線」たるロシアと差異化して扱われる場合が多く、「ヨーロッ
パの平和」は時にロシアへの対抗として存在した。(クーデンホーフ・カレルギー『汎ヨーロッパ』など)。
欧州のロシアへの対抗は、歴史的に繰り返し現れる。(13)
以上の「
「地域連合
「ロシア
地域連合によ
連合により
により大国となる
大国となる」
となる」、
「ロシアへの
ロシアへの対抗
への対抗」
対抗」という理念
という理念は、そもそも東部の欧州統合の
理念
機軸にあったのである。
2)(戦後
(戦後)
戦争の反省・
反省・和解と
和解と、繁栄
戦後)戦争の
①「
「不戦共同体」
不戦共同体」の誓い。 欧州統合は、戦後と言う時代の反映として、自地域内部では」戦争を生み出
さない、という大量殺戮の歴史への強い反省として創出された。フランスは、首都をドイツに四度蹂
躙された苦い教訓から、自国が二度とこのような運命に遭遇しないように、石炭と鉄鋼を共同管理す
ることに決めたのである。
②歴史的
歴史的な
との共存。
「主権の
主権の治療」
治療」。こうして歴史的な敵と戦争の原因となる資源を共有すると
歴史的な「敵」との共存
共存。
いう決断が欧州統合の基礎となった。真意は、欧州の繁栄の継続と、統合による敵の柔らかな「封じ
込め」であった。歴史的な敵を封じ込めることによる、安定と発展であったが、さらに大きな新たな
「敵」ソ連邦は、戦争でナチス・ドイツを駆逐する中で二〇〇〇万人の犠牲を出しながら、戦後復興
計画のマーシャル・プランに参与することも許されなかった。なぜ戦後欧州は、戦勝国ソ連とではな
くナチス・ドイツと結んだか。それは社会主義というイデオロギーへの警戒以上に、二〇〇〇万の犠
牲を出しながら、西欧が押さえきれなかったナチス・ドイツを駆逐し中・東欧全域をほぼ単独で解放
したソ連軍の底力に対する米欧の脅威でなかったか。ソ連は、独ソ戦によって双方を疲弊崩壊させよ
うとする試みに耐え、戦後復興の援助の手も切られてなお生き延びたのである。歴史的な「敵」ドイツ
との「和解」は、さらに大きな敵の封じ込めのために、なされたのであるる。
③「
「エネルギーの
エネルギーの共同管理」そうした中でなされたのが、戦争の原因たる「エネルギーの共同管理」(石
共同管理
炭、鉄鋼、原子力)であった。現在の石油であろう。
④ただしこれは、冷戦期の「欧州の分断」の下で遂行された片肺的統合
片肺的統合(
片肺的統合(分断と
分断と統合)
統合)だった。
3)
(ポスト冷戦
ポスト冷戦)
冷戦)「深化
「深化と
深化と拡大」
拡大」
①なぜ
なぜ、
なぜ、「深化
「深化」?
深化」? 一九八九年、東欧では社会主義体制が次々と崩れ、ベルリンの壁が崩壊してドイ
ツが統一する中、EC では八五年末に単一欧州議定書が採択され、八八年に EMU(経済通貨同盟)の計画
準備が進み、九二年にはマーストリヒト条約が調印された。EC, CFSP(共通外交安全保障)、CJHA(司
法内務協力)の三つの柱からなるEUが創設された。また統一通貨ユーロが九九年に為替市場で、二〇
133
〇二年から現実の欧州通貨として導入され、熱狂を呼んだ。グローバル化と冷戦終焉という歴史の大転
換の中、欧州統合は、機構、司法内務・外交、通貨、また域内の自由移動を保証するシェンゲン協定、
さらに欧州憲法条約草案準備と、矢継ぎ早に改革を進めていった。
②なぜ
なぜ、
「拡大
なぜ、
「拡大」?
拡大」? 他方、冷戦の終焉と中・東欧諸国の「ヨーロッパ回帰(Return to Europe)」の掛
け声の中、当初拡大に消極的だったEUも、世界経済とりわけアジア NIES 諸国の成長の中で、中・東
欧各国と欧州協定を締結し、九八年-九九年にかけ次々と加盟交渉を開始し、二〇〇四-七年に一二カ国
がEUに入り、いまや二七カ国、四億六〇〇〇万の統合体へと成長した。多くの不安材料を抱えながら
も、世界経済への競争と内部経済の拡大と活性化という方向に歩を進めたのである。
③「
「基準」
基準」設定。
設定。EUは、旧社会主義国の加盟に際し、それまでなかった三一項目の基準(コペンハーゲ
ン・クライテリア)を設け、政治・経済・さらに八万頁のEU法に適応するよう求めた。結果EUは以後ト
ルコ・クロアチアに対しても、
「ヨーロッパ・スタンダード」への加盟国の適合を求めていくこととなる。
4)(二
(二〇〇〇~
〇〇〇~ )新たなセットバック
たなセットバック。
セットバック。 ネオ・
ネオ・ナショナリズムの
ナショナリズムの台頭
しかし 21 世紀にはいると、セット・バックが始まる。一つには、グローバル化の過程での格差の拡
大と、人の移動の増大の結果、新加盟国やイスラム系移民と各国市民との軋轢が、社会に蔓延し始めた
ことである。安い労働力の流入は、失業や最低賃金の低下などEU加盟国の底辺層と競合することとな
った。治安の悪化も一般市民の脅威感を誘った。今一つは、庶民の生活面での不満が、競争社会の進行
の中で、社会のより弱い部分への攻撃として、移民や、更なる拡大への 忌避感として現れてきたこと
である。それは世紀転換期には、欧州各国での右翼勢力の成長(選挙のたびに 10%の得票)、さらに 2004
年拡大前後からは、総選挙でのナショナリスト派政権の誕生が、欧州東西双方で見られるようになった
のである(14) 。
ナショナリズム、敵対、政治統合の困難さ。これは実はアジアだけの課題ではない。
冷戦終焉後 18 年の拡大欧州は、まさに同様の問題を抱え、苦悩している。にもかかわらず、機構的、
社会的、市民的改革が、進展している背景には何があるのだろうか。
以下、欧州統合の現実的教訓について、考えてみたい。
教訓1
教訓1.グローバリゼーション下
グローバリゼーション下での統合
での統合の
統合の重要性
<ローマ条約
ローマ条約・
条約・東西分断と
東西分断と欧州統合>
欧州統合>
東側でスターリン批判と、ポーランド・ハンガリー五六年事件が起こり、ソ連の戦車がブダペシュト
を制圧した翌年の五七年三月二五日、ローマで条約が結ばれ、西ヨーロッパでは、六カ国による欧州統
合(ECSC,EEC,ユーラトム)がスタートした。(図)
このような経済・安全保障、議会、閣僚機構すべてが実現できた背景には、戦争の経験と共に、五六年
の東欧における一連の蜂起とその鎮圧に対する強い脅威と警戒があったことは否めない。
戦争と経済双方に結びつく経済統合(石炭・鉄鋼共同体、原子力共同体)、現在であればさしずめ石油
や天然ガス、核の共同管理と、欧州議会、欧州審議会の存在、その機能の早期の実践化は、ソ連の東欧
支配の強化抜きに考えられない状況であった。ローマ条約に対する、新加盟国の目が醒めているのはそ
うした点にもあろう。アジアにとっての一つの教訓は、この最初の統合がかくも組織的・総合的な機構
を持って実現された背景には、ソ連と言う巨大な敵とヨーロッパの分断、ハンガリー動乱のソ連軍によ
る鎮圧と多くの亡命者という緊迫した情勢を踏まえて行われたと言うことである。(15)
ほぼ五〇年後、冷戦の終焉というまったく新しい状況の下で、ローマ条約時には壁の外にあった中・
東欧10カ国はヨーロッパに戻ってきた。これはグローバリゼーションの進展と言う情勢の中で、より
経済的要請に従って発展したものであった。
拡大は西欧側のモラル(東をソ連に追いやったと言う負い目)から始まったといわれるが現実を見る
限りはそうではない。八九-九〇年に社会主義体制を放棄し[欧州回帰]を掲げてソ連の「くびき」から
「革命」を遂行して戻ってきた東欧諸国に対し、アメリカと西欧諸国が行った行為は、当面機構への編入
は考えず、ソ連と共に CSCE や NACC など、共通の安全保障の枠組みを欧州の西と東で共同で行うと
いう、ソ連・ロシアに配慮したものであった。旧東欧への拡大が九四年のエッセン・サミット以降、九〇
年代半ばから急速に進展していった背景には、国際経済におけるグローバリゼーションへの対応、ユー
ロペシミズムからの脱却、アジア NIES 諸国の急成長への対抗など、主に経済的要因が契機となって改
革を促進したのである。
その後九七年のアジア経済危機、九八年のロシア経済危機、二〇〇一年九.一一からアフガン戦争、イ
ラク戦争の過程で、アメリカが長引く戦争のなかドルを下落させ、ユーロが予想外の成長を見せ、世界
経済で、再び欧米集中の時代へ移行して行ったのは、たとえ総 GDP では五%の増大のみとされながら
も、中・東欧への拡大の影響による経済の活性化の要素が大きい。EU内で投資が、南(ギリシャ、スペイン)
134
から東へ移行し、東の周辺諸国との経済圏も拡大し、一人当たり GDP も、新加盟一〇カ国は上位二八
位から四九位と、既加盟国一-三〇位に続いており、特に中・東欧はその後年々急速に格差を縮小させて
いった。(16)
中国、インド、ロシアが追い上げてきている以上、EUはもはやドイツ、フランス単独では動けず、
四億六千万市場と安く質のいい労働力、かつ[キリスト教文明]として独自の文明圏に歴史的に存在し
てきた国々を手放して競争に勝つことはできない状況にある。
しかし今一つ重要なのは、二〇〇四年以降の東の諸国の取り込みによって、
「ヨーロッパ」概念の多
様化が始まっていることである。対立と求心力の弱まりは、多様性の拡大の象徴でもある。
ヨーロッパの統合は、戦争と分断、ソ連の東欧に対する軍事制圧の脅威の中で形を整えて五〇年前に
開始され、そして冷戦の終焉とグローバリゼーションの中で、再び、
「多様なヨーロッパ」が開始され
ている。多様なヨーロッパをまとめたのは、政治的合意ではなく、経済的要請である。内部の求心力は
いまだ弱い。これが逆説的な、第一の教訓である。
「ヨーロッパは均質である、アジアは歴史的対立もあり、地域の統合はありえない」と言う一般論を越
えたところで、欧州統合は始まり、現在も苦悩の中、統合を模索している。それはヨーロッパの東を排
除して統合するか、含みこんで統合するかの選択肢でもあった。冷戦終焉後 90 年代は、グローバル化
と経済的要請に基づいた、多様な社会を飲み込んでいくような統合であった。その付けは、21 世紀初頭
の現在、国益と市民の反逆として現れ始めているのである。
教訓2
教訓2、歴史の
歴史の記憶.
記憶. 教訓の二つ目も、矛盾を含んだ、パラドキシカルなものである。
一)歴史の
歴史の記憶と
記憶と「不戦共同体」
不戦共同体」
戦後の欧州統合における[不戦共同体]と[主権の治療](チャーチル)は、数世紀にわたる殺戮の
歴史を踏まえた、反省の上にあった。
クシシトフ・ポミアン『ヨーロッパとは何か』や山内進著『北の十字軍』に見られるように、ヨーロ
ッパの境界線は常に書き換えられ、征服され統合され翻弄された。敵対、殺戮はアジアに増して凄まじ
いものがあった。欧州は多くの時代において『正しい戦争』の名の下に、強国は文明と正義の名の下に
大量の殺戮を行い、欧州の「境界線」を拡大する使命感を持って、対立が続いた。(17)第二次大戦だけ
でも、ソ連二〇〇〇万人を超える犠牲者、ポーランドのアウシュヴィッツでは六五〇万がなくなった。
中国では千数百万人、日本は三一〇万人が死亡したとされる。(18)
二〇〇四年春、中国と日本の間にナショナリズムによる対立がかまびすしかった折、ソルボンヌ大学
国際関係史研究所所長 ロベール・フランク(ポーランド・ユダヤ系フランス人)が、日中のナショナ
リズム対立に際して、「なぜ日中首脳は、南京で抱き合わないのか。われわれはそれを毎年やってきて
いる」
「それは相手を完全に許すことではない」
(がそれによって何らかの進歩がある)と述べた(19)が、
まさにEUはその象徴であったと言えよう。歴史の記憶は費えていないし、相互に許してはいない。そ
れでも結ぶことのメリットが彼らを結び付けているのである。
戦後の仏独協力は、歴史的な敵との統合による、戦争の資源の共同だった。
彼らが戦後、プライオリティをおいたのは、①平和の希求、②経済的繁栄、③国際社会における社会
規範・秩序の担い手であった。執念としての、「世界政治経済の牽引車であり続ける」姿勢が、統合を進
展させたのである。統合は、殺戮と荒廃と相互不信の果てにおける、不戦と資源確保、共存と繁栄の決
意から作られたのである。
教訓3
教訓3.内部対立をどう
内部対立をどう克服
をどう克服するか
克服するか。
するか。ナショナリズム
ナショナリズム、
ョナリズム、市民の
市民の不満への
不満への対応
への対応。
対応。
二〇〇六年五-六月に欧州憲法条約がフランス・オランダにおいて国民投票で批准拒否されて以来、欧
州内部の深刻なアンタゴニズム(敵対)について、語られるようになった。しかしヨーロッパの東西の
対立関係を見る限り、実は東西欧州の間には、歴史的に常にすれ違いと認識の格差があり、1989-90 年
に見られたような、統合の熱狂、ユーフォリアの時期の方が圧倒的に例外であったように思われる。
二〇〇四年五月に、EU拡大二五ヵ国への移行が祝われた一月後の、欧州議会選挙(.六月.)におい
て、投票率は史上最低、新加盟国は、平均三人に一人しか欧州議会の投票 b に行かず、また軒並み政権
政党は敗北し、EU批判派の野党が勝利し、反EU政党が議席の上位を占めた。
欧州憲法条約草案のコンヴェンションにおいても草案をめぐって紛糾した。
EUが二五から二七カ国に拡大する中で、強く統合されたEUを望む独仏と、ニース条約における議
席配分や権限の縮小を危惧する中国・小国の不満、とりわけ議席を大幅に減らされることになったポー
ランドやスペインの抵抗が見られた。
皮肉なことに拡大欧州の対立は、二〇〇四年の拡大後まず東側の市民から、ついで二〇〇六年頃から
135
既加盟国側の市民の不満へと広がっていった。これは「民主主義の赤字(Deficit of Democracy)
」と呼
ばれ、エリートと市民の格差が指摘され、参加民主主義が呼びかけられたが、むしろ状況は、市民参加
によって、相互の国や階層の敵対関係が増すポピュリズム的な結果となり、これらの帰結として、二〇
〇四年の二五カ国拡大以降、まず東の新加盟国の間で、政権党が次々と政権を失って下野し、保守政党
あるいはEU批判政党が政権に就いた。
こうした欧州市民相互の不満は、1)拡大EUの利益が市民に還元されず、むしろ雇用機会の縮小や
失業の拡大など、生活基盤の不安定を招いたこと、2)新加盟国においては、西側との地域格差、雇用
の困難性、社会保障の削減、加盟コストの増大、移民、農業問題で加盟後も欧州の「二級国家」に留ま
るのではという危惧、3)さらに既加盟国民衆の間に、拡大疲れ]、新加盟国に対する負担感、トルコ
やバルカンへの更なる拡大の危惧、政府への不信として広がっていった。(20)
このように、現在のEU内部では、九.一一後のアメリカや、二〇〇四年頃の拉致問題や日中対立に並
ぶほどの、深刻なナショナリズムの対立関係に覆われている。そこには、一)失業、移民問題、二)農
業補助金問題、三)イスラム系マイノリティをめぐる問題、四)更なる拡大への忌避、と言う、日常生
活面での深刻な課題を秘めている。
教訓4
教訓4. ユーロ圏
ユーロ圏の拡大
現在の地域統合において、ユーロ圏の拡大の問題を触れないわけには行かないであろう。何よりアジ
アの統合自体が、金融経済圏の拡大として急速にクローズアップされているからである。 増田氏は「ア
メリカン・グローバリゼーションとユーロ」において一九八〇年代以降世界経済のグローバル化が進展
し、世界貿易の伸び、対外投資の伸び、国際分業関係の深化が拡大し、中でも先進国より発展途上国の
ほうが伸びが高いこと、さらに世界貿易量の半分が地域経済協定の下での貿易として、多角的グローバ
ル化と、地域主義的な対応が同時に進んでいることを示している。EUのみならず、
NAFTA,MERCOSUR, 東アジアの FTA などが、アメリカン・グローバリゼーションと同時平衡で進行
しているのである。
(21)
そうした中で、これまで単独の国際基軸通貨として存在していたドルに対してユーロの導入(九九.
一一一カ国、二〇〇二.三.一二カ国)は、欧州圏の単一通貨の枠組みを越えて、予想を超えた拡大をし
アジアにも大きな影響を及ぼしている。特にイラク戦争以降、ドルの通貨不安の中で、ユーロの保有が
価値保全としての意味を持つことから、変動相場制やデリバティブ取引の中でのユーロの位置が高まっ
ている。(22)
グローバリゼーションと二極通貨体制の中では、まだ圧倒的にヨーロッパ・ロシア・アフリカの地域通
貨であるユーロであるが、それでも地域主義に未来はある、と田中は指摘している。ロシア・東欧の三
億人以上を西欧生活圏に巻き込み、西欧なしではやっていけない地域を作り、「新結合」によりイノヴ
ェーションによる発展の原動力を作り出した。生産、輸送、市場、産業組織に垂直的に結合された「新
統合」を作り出すことにより、西欧・東欧共に産業の再編と活性化を引き起こし、さらなるユーロ経済
圏の拡大と将来の発展を保障しているのである。(23)現在起こっている「ひずみ」
、格差も短期的なもの
で、長期的にはキャッチアップの過程の中で解決されていくとみる。今はセットバックでも輝かしい未
来が待っていると言うことであろうか。確かに中東欧は、加盟後 3 年程度で、既に西欧の六-七分の一の
給与平均から、四分の一程度に縮小してきているとされる。金融統合の問題は、アジアにとってもきわ
めて魅力的な視座を提供していると言えよう。
教訓5
教訓5.アメリカとの
アメリカとの関係
との関係―
関係―イラク問題
イラク問題
イラク問題については、この間、欧州とアメリカの関係は、多様で不安定なジグザグな関係を示して
きた。二〇〇三年二-三月、欧州 vs 米の対立軸と見えた対抗関係は、その後、欧州内での仏独の孤立化
により、EU 全体は、米国防長官ラムズフェルドの言う「新しいヨーロッパ」と「古いヨーロッパ」に
分断されたかに見えた。しかし、大統領第二期に入ったブッシュは、最初にブリュッセルと仏独首脳を
訪問し、欧州との関係を修復した。戦争での対立も、安全保障政策を含めて、長期的には対米関係を悪
化させなかった。さらに、その後ポーランドのカチンスキ、ドイツのメルケル、フランスのサルコジが
いずれも、国益重視など、それぞれ農業問題、移民問題、失業・雇用対策に強い姿勢を示しながら(ナ
ショナル)、グローバリゼーションと市場化を促進しアメリカと結ぶリベラルな政策を取っていること
もあり、イラク戦争後四年を経た安全保障と国際政治において、アメリカとの関係は際修復されたと考
えることができよう。
ここではポスト冷戦後の欧米関係のジグザグと、とりわけ旧社会主義国のアメリカへのスタンスにつ
いて、指摘しておこう。
136
EUとNATOの戦略は、ポスト冷戦後九九-二〇〇一頃までは平行して進んでいた。
一九九九年のコソヴォ空爆、二〇〇一年のアフガン空爆以降、国際政治・安保において、欧米の間に
齟齬が現れた。なかでもイラク戦争介入をめぐって、欧州では、アメリカとは安全保障観を異にする独
自の安全保障観を公共圏や規範と結び付け、国際的影響力を推進するばねとして利用し、それはアメリ
カの政策関与者(たとえばカプチャンやアイケンベリー)などの政策修正提案をも生みださせた。(24)
<欧州内部の反乱:中東欧のアメリカ支持>
イラク戦争は、欧州内部を二つに分けた。二〇〇三年一月三〇日:欧州八カ国首脳(イギリス、スペ
イン、ポーランドなど)
、二月四日:ヴィリニュス一〇(中・東欧 NATO 加盟国及び加盟候補国)が、
アメリカ支持声明をし、軍をイラクに派兵した。結果的には一五か国中、フランス、ドイツの側につい
たのは、議長国ギリシャとベルギーの二カ国だけであり、この点では、仏独はモラル的な支持を勝ち得
たものの、CFSP(共通外交安保政策)では、完全な敗退を喫したのである。
中でも中・東欧諸国が、経済的にはEUに全面的に依拠しながら、安全保障面でEU(特に独仏軍)
を信頼する歴史的現実的基盤を書いていたことが明らかとなる。中・東欧は、安全保障においては、
「反
ロシアおよびドイツの軍事力に懐疑的」という二点から、戦略的には親米的であることを明示した。 こ
のことは、中・東欧諸国が一時的には拡大EU域内に潜伏する新米の「トロイの木馬」として相互の信
頼性に傷をつけることとなったが、交渉材料としての経済と安全保障を使い分け、長期的には独自の発
言権の拡大に寄与した。それは西欧各国の間にもグローバリゼーションの下でのネオ・リベラリズムの
必要性、現実主義としての欧州独自の安全保障のコストとパーフォーマンス双方の限界認識という根本
的変化をもたらし、結果的に欧州内の親米派拡大に役割を果たしたように思える(25)。
このことは、また、戦略的な対立関係は必ずしも欧米対立を固定化させない、あるいは、地域統合と
国益の重視が、アメリカとの関係を悪化させるわけではない、という日本にとっては死活問題に属する
日米関係に、一つの回答を与えているように思える。
イラク戦争をめぐるヨーロッパとアメリカの、安全保障戦略や社会規範にも及ぶ鋭い対立とアメリカ
の「ソフト・パワーの低下」は、結局その後ブッシュのヨーロッパ訪問により、「和解」にいたった(26)。
このことが長期的には、ドイツのメルケル、フランスのサルコジ、ポーランドのカチンスキなどナショ
ナリスト政権が、親米であり、なおかつ、欧州憲法条約もまとめようとする、本来ありえない、グロー
バルと、ナショナルと、親米の三つのベクトルを結びつけることとなった。その真意はグローバリゼー
ションの下での指導力、生き残り、統合の継続と繁栄、であろう。
教訓6
教訓6.ロシアと
ロシアとEU。
EU。エネルギー、
エネルギー、経済協力の
経済協力の強化と
強化と、人権問題での
人権問題での対立
での対立
ロシアとEU、アメリカとの関係も、冷戦の終焉後、激しい政策変容が続いているが、その本質的な
ところは、ロシアは異質であり、協力するが、取り込まない、と言うことであろう。このことは、ロシ
アと上海協力機構を組む中国でさえ、ロシアに対して共通するスタンスである。すなわち、旧社会主義
というイデオロギーは同じでも、よりプラグマティックな東欧・中国と、ロシアとの間に差が存在する
と言うことである。
①統合の
欧州統合が、基本的には常に潜在的なロシアの脅威に対抗し、また内在的にはドイツ
統合の「敵」
単独の拡大を抑えるために形成されたという、内外の歴史的な「敵」に対する統合の側面が存在するこ
とは既に述べた。
②欧米との
れに対して冷戦の終焉後短期間は、例外的にロシアと欧米の蜜月が続いた。ペレス
欧米との蜜月
との蜜月
トロイカから冷戦終焉にいたるゴルバチョフ個人の資質と、「新思考外交」と「欧州共通の家」の提唱
が、ロシアを取り込んだ緩やかな安全保障 CSCE、NACC を実現させた側面が大きい。
③孤立
しかしこれは逆に、ロシアの脅威から完全に切り離されない東欧諸国の間に不満を呼んだ。
その結果、オルブライト国務長官と共に親中欧外交を繰り広げたクリントンの下で、政策転換としてN
ATOの中・東欧への拡大が決定され、一九九九年の中欧三カ国へのNATO拡大とと共にコソヴォ空
爆が断行された。ロシアは孤立化し、エリツィン政権は崩壊、「強いロシア」を掲げるプーチン政権の
登場となる。
④対テロ協力網
その後、九.一一を経てプーチンは対テロ国際協力を提唱してアメリカとの蜜月に
テロ協力網
入る。その結果、〇二年五月には「NATO・ロシア理事会」が設立されて念願のNATOとの協力関
係に入ることとなった。また二〇〇三年からプーチン大統領二期にはいると、全方位外交を提唱しなが
らも「欧州」へ大きく政策転換をおこない、
「ワイダー・ヨーロッパ戦略」をとるEUの近隣諸国政策と結
び、経済関係(エネルギー:石油、天然ガス)をめぐる関係を強化することとなった。(27)
⑤人権問題
しかし、モスクワの劇場占拠や北オセチアの学校占拠に対する対テロ行動や、チェチェ
ン問題、ジャーナリストの言論封殺などを始めとする人権問題については常に欧州との間に摩擦があり、
137
今年〇七年五月一九日のEUロシア首脳会談では、エネルギー問題では合意に達したものの、ロシアの
WTO 加盟や反対派の言論封殺問題、ポーランドとの食肉輸入禁止問題やコソヴォ独立問題については、
いずれも平行線をたどり、対立の深さを浮き彫りにした。
ロシアとの関係については、エネルギー面では、EUは七割近い石油と天然ガスをロシアに依存して
いるものの、EUがとりわけ重視する人権・言論の自由、民主主義、環境、社会規範など問題について
は、ロシアとの共同はいまだに難しいといえよう。
教訓7
教訓7.EUの
.EUの「境界線」
境界線」―フォルト・
フォルト・ラインから
ラインから、
から、コンタクト・
コンタクト・ゾーンへ
ゾーンへ。
欧州の「境界線」の問題は、そもそも「ヨーロッパとは何か」「誰がヨーロッパ人か」「どこまでがヨー
ロッパか」をめぐるやっかいかつ壮大なテーマである(28)。
欧州は、歴史的にもヨーロッパの境界線に対する地域補助政策や、緩やかな民主化支援、援助、移動
の保障と治安の保持を行ってきた。近年そうした欧州委員会からの政策以外に、文化人類学者(アンソ
ロポロジスト)の間で、多民族が交わる境界線地域を、ネガティヴな対立地域と捉えるのではなく、コ
ンタクト・ゾーン(混合宗教、異民族結婚、多価値共存の共有領域)として捕らえる動きが広がってきた
(29)。これは、そもそもヨーロッパが、地域からなる共同体の集合体であり、紛争地域は、実は長期的
には、多民族共存地域であることが、文化、宗教、慣習などの共存として丁寧に分析されるようになっ
たのである。
こうした事実は、アジアの大陸でも経験しうる事実ではないだろうか。
ヨーロッパには、こうした歴史的な境界線を跨ぐ地域関係が各地で豊かに深く根付いており、そうし
た作業の掘り起こしと新しいEU内関係としての相互発展が望まれる。
新加盟国を巡る境界の問題としては、1)地域協力としてのカルパチア・ユーロリージョンの活動が、
2)カリーニングラード問題、3)トランシルヴァニアのマイノリティ、4)バルトのロシア人マイノ
リティ、5)ヴォイヴォディナのマイノリティ、などが挙げられ、これらについてそれぞれの地域に調
査に入った後、は別のところで検討している。(30)
これらの地域の最大の問題は、それぞれの「境界線」地域の財政問題である。経済的に比較的誘引要
因がある工業地帯などであればよいが、境界線地域は、通常資源もなく貧しく多数のマイノリティが混
住し、企業の誘致や投資の拡大など経済発展を推進することが困難な地域である。その結果、EUの地
域政策、国家機関、地域機関、企業、マイノリティの連携が必要であるが、なかなか思惑通りには動か
ない、むしろ賃金格差価格差によるシャトルトレーダーや出稼ぎ労働者に対して、如何にそれを制度的
にも社会的にも保証していくかと言うきめ細かいフォローアップの作業が必要であると言えよう。
また、文化人類学の成果による境界線地域のコンタクト・ゾーンとしての役割など、旧来の紛争地域
としての境界線の視点を覆す重要な成果を、長期的・継続的な対応として構築していく視点が不可欠で
あろう。
他方で、近年、境界線地域に住む知識人などから、マイノリティの言語や文化を細々と引き継いでい
くことは、若年労働者は、頭脳労働者の流出の問題とも絡んで、実際にそこに住む人たちの生活の安定
化とは必ずしも繋がっていない。むしろIT化やFDIの導入を如何に図っていくべきかが先決課題で
ある、と言う批判なども出ており、過疎化するマイノリティ地域の貧困と格差をどう解決していくか、
という民族としての立場と個人としての生き方のギャップも存在し、難しい課題となっている。
教訓 8.拡大による
拡大による、
による、「民主化
「民主化」
民主化」とキャッチアップ
地域統合により、民主化が遅れている地域、あるいはもと共産主義の機構の下にあった地域をどの余
に「民主化」し持続的発展につなげていくかは、EU、および各国政権の最大の課題の一つである。
全体として、一九八九から〇七年まで一八年間の「民主化」の変遷と経済転換については、さまざま
の形での分析がなされてきた。
中・東欧については、グローバル・デモクラシーとラディカル・デモクラシーの相克(川原)、社会主
義体制からの経路依存性(岩崎、羽場)、移行経済を巡るキャッチ・アップとその問題点(小山、堀林)
などの分析があるが、最近の状況について、経済社会学者のチャバ・マコーが、経路依存性と「新経路
の創造」について詳細に論じている(31)。彼は、冷戦の終焉とEUの拡大による、中・東欧諸国のグロ
ーバル経済への参与と、労働のデ・ローカリゼーション、イノベーションの急速な進展の中で、旧来の
領域別先進地域の枠組みが次々に崩れ、イノヴェーションや改革にうまく乗れた国や地域が、小国であ
れ、またもともとの発展の度合いとは異なって、上位に食い込み、発展していくこと、格差の是正や改
革においては、教育が発展への重要な役割を果たしていることを明らかにしている。こうした堪えざる
イノヴェーションの促進要因として、マコーは、世界経済の枠組みの中で、中・東欧の「相対的に安い
138
労働力と生産物」はすでに中国、インドからの挑戦を受けており、それにいかに対応していくかが求め
られている、と語っている。
問題はむしろ、「民主化」の進展の中で、自由化や市場化がますます進んでいくだけでなく、教訓3
でも述べたように、各国におけるゆり戻しが、
「参加民主主義の欠如」や政府・あるいはマイノリティ、
移民への不満ないしはその結果としての保守派への回帰となってむしろこの間、経済発展と共にナショ
ナリズムが平行して拡大していることであろう。
西欧でも、当初EUの東の境界線で反移民ナショナリズムが成長し、その後中心部でも右翼政党の伸
長を生んだ。また中・東欧では、冷戦終焉直後に広がったユーフォリアの後、九〇年代には左右の民族
主義・農民政党が成長し、加盟への危惧とあきらめが西欧の保護主義、ダブルスタンダードへの反発、
雇用と社会保障重視。バルカンでは、コソヴォ以降、民主化の機運が高まり、二〇〇〇年の一二月にミ
ロシェヴィッチ体制の崩壊があったが、制度の転換と政権の転覆が、参加民主主義を誘い、またその中
で、自民族の利益だけでなく、少数者の保護を保証するメカニズムの構築にはなかなか至らないものの、
旧ユーゴスラヴィアでも徐々に、ツジマン体制の崩壊、南東欧安定化協定の整備、バルカンの安定と自
由貿易地域にEUが積極的に関与するなどの改革が進みつつある。
しかしそうした拡大の中で、逆に欧州憲法条約の仏・蘭国民投票での頓挫、改革と調整が、
西欧では、 経済ナショナリズムの伸長、拡大へのコストへの警戒、被害者意識の成長を生み、中・東
欧では、経済の不安定、物価高への市民の反発、競争と社会保障削減への不満、失業、年金改革の困難
性、バルカンにおける、NATO・国連軍の撤退と、欧州軍への移管、コソヴォの安定化。南東欧安定
化協定の進行と安定・発展の兆しなどの傾向が現れている。二〇〇七年にスロヴェニアがユーロに加盟
し、二〇一〇年前後に中・東欧諸国はシェンゲン協定の枠組みに組み込まれていく中、ヨーロッパの格
差が水平・垂直の双方で拡大するのでなく、雇用、教育、マイノリティ、市民権の拡大などから対立を
是正していく、さまざまな層における対応が必要とされている。
教訓9
教訓9.上海協力機構(
上海協力機構(SCO)
SCO)、メガリージョン
、メガリージョンへの
メガリージョンへの対応
への対応
冒頭に述べたように、SCO は一五億人の構成メンバーを持つメガリージョンである。ここにおける中
国の主導権の実質的な枠組みは、特に中ロの戦略的パートナーシップと、権威主義・強権政治に反対す
ることによる、対米牽制、対台湾牽制の基盤ともなっている。中国・ロシア・中央アジアの国々は、グ
ローバリゼーションの中にありつつ、軍事面、エネルギー面、安全保障面で、独自の立場を保持してお
きたいと言う思惑がある。とりわけオブザーバーとしてインド、イランなど中東が入ったことで、中ロ
印の安全保障上の同盟は、アメリカや国際社会の懸念を呼ぶものであり、これらに対する慎重な対応と、
中国の役割分析(上海協力機構、東アジア共同体、双方への思惑分析)がきわめて重要となっている。
(32)
EUはこの間、周辺国との近隣諸国政策、欧州安全保障戦略(ソラナ・ペーパー)にも力を注ぎとり
わけ中国との経済関係を発展させてきており、お互いに脅威感を与える地域ブロックの対立枠組みでは
なく、周辺国との共存関係の安定と強化、持続的発展や人間の安全訴訟など、市民社会にも配慮した戦
略の具体化が望まれる。
おわりに:EU
おわりに:EUと
:EUと東アジアの
アジアの、地域共存と
地域共存と相互の
相互の発展のために
発展のために。
のために。
以上を見てきたときの解決すべき課題をまとめて終わりとしたい。
一つは、地域統合の究極の課題が、グローバリゼーションの広がりの中で、地域としての国際競争力
(competitiveness)を如何につけつつ、格差のひずみを最小限に抑えるかであろう。
リスボン戦略の柱であり、またフランスの大統領選挙で、サルコジ・ロワイヤル共に語っていたよう
に、一)競争、二)雇用と社会保障、三)市民参加の三つの柱は、格差の創出を最小限に抑え是正を保
証する基本であろうし、それをバランスよく実行するものとして、教育とイノベーションに対応する技
術、さらに社会的ケアは不可欠である。ヨーロッパ社会にとって、アメリカ型競争と社会的弱者の創出
は、欧亜ともなじまない。グローバリゼーションに対応しながらも、失業者への雇用、年金生活者、弱
者への負担を教育と参加により最小限に抑えていくこと、セイフティネットをととのえていくことを如
何にロー・コストで行うかが鍵であろう。
第二は、近年欧州憲法条約と移民問題をめぐって現れてきた、地域益、国益、市民益のトリレンマを
どう調整するか、と言う問題である。国権の復権ともいえるネオ・ナショナリズムの波が、ポピュリズ
ムとしてより社会的な敗者(Social Looser)を巻き込み成長するのを阻止するためには、
「プラン D」の
ような、市民重視の(多様性、対話、議論:Diversity, Dialogue, Debate) に加え、東西市民間の利害
の対立と双方の被害者意識のズレの是正(西の市民の過剰負担感、東の市民の西の保護主義への怒りや
139
懐疑)が不可欠である。未だ相互に偏見と誤解を内包している東西欧州であるが二七カ国の実質的統合
が拡大EUを西側も含めて活性化させているという根幹を東西欧州が認識することにより、アメリカ・
アジアに並び立つ経済圏と市民にとっての持続的発展と市民参加の装置を実現していくことが必要と
なろう。
第三に、対外関係、とりわけアメリカ、中国、ロシアとの関係である。
アメリカとの共存に問題はない。戦後欧州の地域統合、あるいは ASEAN の地域統合は、常にアメリ
カとの共同歩調で行われてきた。むしろEUとしては、独自の社会規範や公共圏の正当性を掲げ、アメ
リカから自立的枠組みを明示することによって、いかにアメリカを引き込むかという姿勢こそ重要では
ないか。
長期的に見た場合、中国・インドあわせて二八億人を超える市場を上海協力機構が組織するか、東ア
ジア共同体我組織するかで、国際情勢は大きく変化しよう。
中国、ロシアとの経済共存、「民主化」の側面補助、エネルギー共存は不可避である。二〇〇七年 5 月
の時点で、EU・ロシア首脳会議は合意形成に苦慮しているものの、今後の地域統合は、潜在的「敵」を
容認するものではなく、いかに近隣諸国と共同し、かつ国益、市民益を満たすものとしていくかが問わ
れることとなろう。
<注>
(1)本論文の原稿は、2006 年 4 月3日にブリュッセルの日EUプレ・サミットで行った英文報告”The Lesson of
the Enlarged EU and the East Asian Community”および 2007 年 3 月25日にボストンの AAS
(Association
for Asian Studies)国際会議での報告を基礎としたものである。
(2) 「 2006-2007 年 中 国 経 済 見 通 し 分 析 編 」 三 菱 総 合 研 究 所 、 5 頁 、
http://www.mri.co.jp/REPORT/ECONOMY/2006/er060606.pdf
(3)天児慧 「アジアの知的リーダーたれ」
『朝日新聞』2007.2.21.
(4)上海協力機構については、
「存在感増す上海協力機構―中露間に思惑の違いがあるかー」
『選択』2006 年 5
月。、玉木一徳「中央アジア諸国の体制移行と上海協力機構」「上海協力機構と中央アジア・新疆ウイグル自
治区」http://www.h3.dion.ne.jp/~asiaway/special/sp-news/nwh01-6a.htm
(5) Win Thye Woo, “The Asian Regional Integration and the Role of the US and China”, Senior Fellow,
John L. Thornton Center, The Brooking Institution, Keidanren International Meeting, 16 March, 2007.
(6) - Pomian Krzysztof、 L'Europe et ses nations. Paris : Gallimard, 1990. クシシトフ・ポミアン著、松村,
剛訳『ヨーロッパとは何か : 分裂と統合の一五年』 平凡社、2002 年。
(7) 「 境 界 線 」 に つ い て は 、 分 断 線 ・ 紛 争 線 と し て の 、 ハ ン チ ン ト ン の フ ォ ル ト ラ イ ン ( 要 塞 ) 認 識
SamuelP.Huntington,The Clash Of Civilizations And The Remaking Of World Order (鈴木主税訳『文
明の衝突』集英社、1998.)、出会いの場・コンタクト・ゾーンとしての、文化人類学的観点からの報告集
Kisebbség és kultúra, Antropológiai Tanulmányok, (少数民族と文化、アンソロポロジー研究)、Szerkesztette;
A Gergely András Papp Richard, MTA Etnikai-nemzeti Kisebbségkutató Intézet(ハンガリー科学アカデミー少
数民族研究所)、Budapest, 2004.
(8) 六者協議については、姜 尚中、日朝関係の克服―最後の冷戦地帯と六者協議、集英社、2007.
日朝
国交促進国民協会 (編集) 日朝関係と六者協議―東アジア共同体をめざす日本外交とは 、彩流社、2005.、
東アジア共同体との関係については、小原 雅博、東アジア共同体―強大化する中国と日本の戦略 、日本経
済新聞社、2005.などを参照。
(9) Wider Europeの原文については、COMMUNICATION FROM THE COMMISSION TO THE COUNCIL AND
THE EUROPEAN PARLIAMENT, Wider Europe— Neighbourhood: A New Framework for Relations with our Eastern
and Southern Neighbours, COMMISSION OF THE EUROPEAN COMMUNITIES, Brussels, 11.3.2003.
(10) 小国、下位地域協力の重要性については、百瀬宏『小国―歴史に見る理念と現実』岩波書店、1988 年、
百瀬宏編『下位地域協力と転換期の国際関係』、有信堂高文社、1996 年、百瀬 宏、大島 美穂、志摩 園子、
『環バルト海―地域協力のゆくえ』
、岩波新書 1995 年などを参照。
(11) L.S. Stavrianos, Balkan Federation, New York, 1942. Mérei Gyula, Federációs tervek Délkelet
Európában és a Habsburg Monarchia, 1848-1918, Budapest, 1965..
(12) Kossuth Lajos iratai, Dunai Konfıderáció terve, 1905.
(13) 歴史的なロシア・ヨーロッパ関係は、経済、安全保障、文化、外交・社会関係、などにおいて、たぶん
にアンヴィヴァレントな関係であり続けた。それは冷戦後のEUロシア関係においても、そうした相互依存
と不信の不安定な関係は、国境周辺の地域と民族関係に未だに投影されている Россия и Европа. Наука.
Москва. 2004., The Two-Level Game: Russia's Britain, Finland and the European Union, Aleksanteri Series
2/2006, Grummer Kirjapaino, 2006. EU Expansion to the East, Prospects and Problems, Ed. by Hilary Ingham
and Mike Ingham, Edward Elgar, Cheltenham, UK, 2002.
(14) 近年の西欧諸国の移民とマイノリティのシチズンシップを巡る対応の危機については、宮島喬「西欧に
140
おける移民受け入れ・統合政策の三つのパターンおよび収斂?-統合型、多文化型、コーポラティズム型―」
法政大学大学大学院ヨーロッパ研究所研究報告 2006.4.23. 宮島喬「シティズンシップの確立を求めて」羽
場久美子・小森田秋夫・田中素香『ヨーロッパの東方拡大』岩波書店、2006. 宮島喬『移民社会フランスの危
機』岩波書店、2006 年。
(15) EU の起源を、統合と分裂、ヨーロッパの分断と冷戦の開始、ドイツ問題から自由化の過程の中で論じ
ているものに、Origins and Evolution of the European Union, ed. by Desmond Dinan, Oxford University Press,
2006.を参照。
(16) 1995-6 年、EUが中・東欧に対する姿勢を加盟を前提とした交渉へと転換させていく契機の一つとな
った、世界の GDP(アジア諸国を含む) および一人当たり GDP の比較については、羽場久美子『拡大するヨ
ーロッパ 中欧の模索』岩波書店、1998 年、35、64 頁。および、羽場久美子『拡大ヨーロッパの挑戦 ア
メリカに並ぶ多元的パワーとなるか』中央公論新社、2004.
(17)チャーチルの「主権の治療」については、井野瀬久美恵「『イギリス』を作り変えるーブリテン、帝国、
ヨーロッパ」京都大学 COE 研究会報告、鴨武彦『ヨーロッパ統合』に本放送出版協会、1992 年。W.ウォー
レス、鴨武彦・中村英俊訳『西ヨーロッパの変容』岩波書店、1993 年。歴史的境界線を巡るヨーロッパの分
断と統合を、文化、宗教、価値、使命観などから分析したものに、クシシトフ・ポミアン、松村剛訳『ヨーロ
ッパとは何かー分裂と統合の 1500 年』平凡社、2002 年、山内進『北の十字軍―ヨーロッパの北方拡大』講
談社、1997 年。
(18) 第二次世界大戦死者数、概算 The Times Atlas of the Second World War, ed. by John Keegan, Times
Books, London。1989.
(19) Robert Frank, Director of the Institute of History of International Relations, Discussion, March 2004.
(20)EU拡大の経緯と、拡大後 2 年たった各国に見られる、拡大疲れや移民の忌避など社会における不満の
蔓延とネオ・ナショナリズムについては、羽場久美子「EU統合とナショナリズムーグローバル化と「民主化」
の帰結」田中俊郎・庄司克宏『EU統合の軌跡とベクトルートランスナショナルな政治社会秩序形成への模索』
慶応大学出版会、2006 年。
(21) 増田正人「アメリカン・グローバリゼーションとユーロ」
『ヨーロッパの東方拡大』岩波書店、2006 年、
97-98 頁。
(22) 増田正人、同、106-108 頁。
(23) 田中素香『拡大するユーロ経済圏―その強さとひずみを検証する』日本経済新聞出版社、2007 年、
318-319 頁。
(24) この時期アメリカの政策決定に関与する知識人が次々に欧州を引いてその国際規範と公共圏の重視を
訴えたことが特徴的である。The End of the American era: U.S. foreign policy and the geopolitics of the
twenty-first century, Charles A. Kupchan, Knopf. New York, 2002,(チャールズ・カプチャン坪内淳訳『アメリ
カ時代の終わり』に本放送出版協会、2003 年。G. John Ikenberry. After victory : institutions, strategic
restraint, and the rebuilding of order after major wars , Princeton University Press, 2001. G・ジョン・
アイケンベリー著 ; 鈴木康雄訳.『アフター・ヴィクトリー : 戦後構築の論理と行動 』 NTT 出版, 2004.8 (叢
書「世界認識の最前線」).
(25) アウエルは、ポーランド、チェコなど中欧は、ドイツとソ連の狭間で翻弄された歴史的経緯とプラグ
マティックな現状打開の政策から、この地域がリベラルとナショナリズムが結びついた独特の領域となって
いることを論じている。Stefan Auer, Liberal Nationalism in Central Europe, Routledge Curzon, London and
New York, 2004.
(26)ソフト・パワーを巡るアメリカの世界的影響力の低下とソフト・パワーの重要性については、Joseph S.
Nye, Jr. Soft Power, The Means to Success in World Politics, The Sagalyn Literary Agency, Bethesda,
2004.(ジョセフ・ナイ、山岡洋一訳『ソフト・パワーー21 世紀国際政治を制する見えざる力』日本経済新聞社、
2004 年。ブッシュ第二期政権の行動分析については、「ブッシュ第二期政権の安全保障と世界」『防衛研究所
所報』2005 年 2 月。http://www.nids.go.jp/dissemination/nids_news/2005/pdf/200502sp.pdf
(27)ロシアとEU、ロシアとNATOの関係については、St. Petersburg の国際間研究所で恒常的に国際会議
とその成果の出版が積み重ねられてきている。たとえば、Россиия и Европейский Союз в болышой Европе.
Новые Возможности и старые баръеры. Санкт Петербургского Университета. 2003. Россия и НАТО .
Новые Сферы партнерства. Санкт Петербургского Университета. 2004.等を参照。
(28)一橋 EUIJ 羽場久美子「ヨーロッパの境界線と秩序の再編」山内進編『ヨーロッパのフロンティア』2007
年(予定)参照。
(29)先にも触れたような、出会いの場・コンタクト・ゾーンとしての、文化人類学的観点からの報告集
Kisebbség és kultúra, Antropológiai Tanulmányok, (少数民族と文化、アンソロポロジー研究)、Szerkesztette;
A Gergely András Papp Richard, MTA Etnikai-nemzeti Kisebbségkutató Intézet(ハンガリー科学アカデミー少
数民族研究所)、Budapest, 2004.
(30) 羽場久美子「ヨーロッパの新たな境界線と民族」『拡大ヨーロッパの挑戦』中央公論新社、2004.
141
(31) 川原彰「重層化する民主主義の問題領域」内山秀夫・薬師寺泰蔵編『グローバル・デモクラシーの政治世
界―変貌する民主主義の形』有信堂、1997 年。岩崎一郎「体制移行期におけるロシア・中央アジア諸国間分業
関係の経路依存性:試論」2005 年、羽場久美子「拡大EUの波及効果と中・東欧の「民主化」比較政治学会大会:
分科会「中東欧の民主化・市場化と経路依存性」2005 年、小山洋司『EUの東方拡大と南東欧』ミネルヴァ
書房、 2003 年 。 Csaba Makó-Miklós Illéssy, “Economic Modernisation in Hungary: The Role of Path
Dependency and Path Creation”, Institute of Sociology Hungarian Academy of Sciences, Research Group of
Sociology of Organisation and Work, Budapest, March 2007.、一橋大学経済研究所での講演、2007.5.11.
(32)きわめて重要な潜在的パワーを秘めているにもかかわらず、その相互信頼性の弱さからか、分析の難し
さからか、これを詳細に分析した著書はまだ見出せていない。当面、東アジア共同体との関係で、ユスフ・
ワナンディ「東アジア共同体への米国の関与」『外交フォーラム』2005.10
石井明「中露戦略パートナーシップと上海協力機構」木村汎・石井明編『中央アジアの行方』勉誠出版、2003.
岩下明弘「中央アジアを巡る中ロ関係」「中央アジアを巡る新たな国際情勢の展開研究会、政策提言・報告書」
『日本国際問題研究所』2003.沼尻勉「中国北西部の安定に寄与する『上海協力機構』を創設―ロシア、中央
アジア諸国ら 6 カ国が参加」『軍務問題資料』2001.9.
凌星光「中国『国際協調主導型市場経済』構築の試みー『上海協力機構』メカニズムの始動」『世界経済評論』
2001、8 月号などがある。なお上海協力機構については、2006 年度の羽場サブゼミで検討を重ねた。サブゼ
ミ活動で資料を収集し分析・検討してくれた石川大介君、石田峰雪君、小島直也君始めサブゼミメンバーの研
究活動に感謝します。
142
欧州拡大と
欧州拡大と人間の
人間の安全保障
12. EU・
EU・NATOの
NATOの拡大と
拡大とイラク戦争
イラク戦争 1)
-中・東欧の
東欧のNATO加盟
NATO加盟と
加盟とアメリカの
アメリカの影響-
影響-
羽場久美子
1. 欧州拡大と
欧州拡大とイラク戦争
イラク戦争
イラクへの派兵と撤退の問題は、日本も含む世界的な課題となっている。ヨーロッパでは、それをめ
ぐって政権交代や政権転覆が起こった。ヨーロッパ拡大にとって、イラク戦争はどのような意味を持つ
のだろうか。またそこに常に存在するアメリカの影響は?
本章では、アメリカによって開始されたイラク戦争をめぐる、米欧の確執、かつ「新旧」ヨーロッパの
確執と、ヨーロッパ拡大に至る道のりを、中・東欧を軸に考察するものである。
2003 年 3 月 20 日、アメリカとその友軍によるイラク戦争は、国際機関やNATO同盟国を迂回して
遂行された。有志連合によるイラク戦争は、欧州首脳により、ユニラテラリズム(単独行動主義)と批
判され、仏独を初めとする国々は、大量破壊兵器(MDA)の査察継続、国連主導によるイラクの民主
化、マルチラテラリズム(多国協調主義)を訴えた。こうした中で、NATO同盟国内部での軋轢が表面
化した。2003 年の 1 月から 2 月にかけて、欧州 8 カ国の首脳、新EU・NATO加盟候補国(旧東欧諸
国)が、相次いでアメリカ支持を声明し、米欧の軋轢は明白となった。中・東欧のアメリカ支持声明に
対して、仏シラク大統領が中・東欧の首脳を批判すると、米のラムズフェルド国防長官は、アメリカ支
持を表明した中・東欧の新加盟候補国を「新しいヨーロッパ」と持ち上げ、反対する独仏を「古いヨー
ロッパ」と非難した 2)が、これはその後の国際社会にしこりを残すこととなった。
2003 年 9 月 24 日、国連アナン事務総長はアメリカの単独行動を批判し、多国協調による国連主導の
改革を訴えた 3)。2003 年 12 月 14 日に、フセイン大統領の逮捕により、事実上イラク戦争は終了した
が、その後もテロは国際的に散発し、各国のイラク派兵の兵士の多くは帰還できないまま、イラク戦争
をめぐる米欧の軋轢は世界に大きな波紋を残し続けている。
イラク戦争勃発 3 周年を迎え、1)ヨーロッパの拡大と統合にとって、イラク戦争はどのような意味
を持ったのか、2)欧州とアメリカの関係の変化はどのように捕らえられるのか、今後の世界秩序に欧
州とアメリカはどのように関与していくのか。両者は、今後共同政策にしこりが残るのか否か。3)ま
た「新しいヨーロッパ」と呼ばれた中・東欧諸国は、今後アメリカとヨーロッパ大国のはざまでどのよ
うな安全保障上の行動を取っていくのか。統合ヨーロッパ(新旧ヨーロッパ)は、外交・安全保障にお
いて、統一的戦略をもてるのかどうか。など、問題は多い。
以下、欧州拡大とイラク戦争を軸に、中・東欧からみたヨーロッパの衝突と和解の問題を、欧州の安
全保障におけるアメリカの影響を踏まえつつ、検討する。
2. 冷戦の
冷戦の終焉と
終焉とヨーロッパ機構
ヨーロッパ機構の
機構の再編
1989 年にマルタ島でソ連のゴルバチョフとアメリカの大統領ブッシュが冷戦の終結宣言を行なって
以来、
「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)
「民主主義による平和(パックス・デモクラツィア)
」
(ブルース・ラセット)が唱えられ、冷戦後の「封じ込め(コンテインメント)」に代わる戦略概念として、
(民主
主義、市場主義の)
「拡大(エンラージメント)」が語られた 4)。「拡大」は、
「封じ込め」に変わる、資本主義世
界の新たな形での世界戦略であったのである。
冷戦期に 2 極構造を支えるものとして軍事的に対峙しあったワルシャワ条約機構とNATOは、当初
は「冷戦の終焉」によって共に、開かれた鉄のカーテンと壁の両側から撤退を開始したかに見えたが、
現実には 91 年にワルシャワ条約機構が解体を宣言した後も、NATOは解散することはなく、生き残
ったばかりか、東側に組みしていた中・東欧諸国は雪崩を打ってNATOに接近した。こうした流れを
受けて、NATOは 91 年の「ローマ宣言」により、冷戦期の対ソ軍事同盟から、民族紛争時代の「危
機管理」にむけての再編を唱えてより広範な領域に照準を定めて生き延び、拡大を始めることになるの
である 5)。
それでも 90 年代には、CSCE(全欧安保協力会議:のち 94 年 12 月より OSCE(全欧安保協力機構)
という、2 極対立なき後の欧州全域について安全保障を協議・調整する場が組織され、機能したのであ
る。
143
冷戦期には、二極対立、核の均衡の下で、欧州は米ソの 2 極に分断されてきた。
①冷戦体制終焉後、1990 年代には、欧州とアメリカは、内外の不安定要素が拡大し、地域紛争が各地
で多発する中、紛争・危機の拡散や、テロ、難民、リスクへの対応に対して、
民主主義、自由主義の導入に向け、欧米共同で戦ってきた。
②こうした米欧協力の安全保障体制が崩れたのは、コソヴォ空爆前後からである。
コソヴォ紛争の際に主張された、「人道的介入」「域外派兵」「国際機関の承認なき介入」は、欧州の
歴史的安全保障観のルールに疑念を呼び起こした6)。こうした中で欧州とアメリカの間に、安全保障
に対する考え方が徐々に軋轢を生じてくる。
③2001.9.11 からアフガン空爆までは、対テロ国際協力、国境防衛を共同で掲げてきた。
④しかし、アフガン後からイラク戦争にいたる流れの中で、欧米の格差は拡大した。とくに、米大統領
ブッシュが、9.11.一周年を踏まえて、ブッシュ・ドクトリンを打ち出し、核を含む先制攻撃を主張する
と、欧州ではイラク戦争への批判を掲げ、マルチラテラリズム、多様性、対話と協調、を対置して国際
的な動きが広がって行くのである。
3. 欧州の
欧州の東方拡大と
東方拡大と、コソヴォ紛争
コソヴォ紛争、
紛争、アフガン空爆
アフガン空爆、
空爆、イラク戦争
イラク戦争
欧州の東方拡大は、「冷たい戦争」の終焉であり、当初は、平和と密接につながっているように見え
た。しかし現実には、冷戦の終焉は、欧州の安全保障体制の再編を促し、その結果バルカンに現れた民
族・地域紛争への介入が冷戦期以上に常套化することとなった。ギャディスが冷戦を「長い平和(Long
Peace)」
(冷戦期半世紀にはほとんど世界戦争が起こらなかった)と形容した所以でもある7)
。
1)1989 冷戦の終焉:北欧、中欧の取り込み
1991-93 年、マーストリヒト条約締結、発効と平行して、欧州統合の深化と拡大が始動した。冷戦
終焉後、95 年 1 月 1 日には、旧中立諸国オーストリア、スウェーデン、フィンランドがEUに加わっ
た8)
。これら中立国には加盟のための条件は特につけられることはなかった。
他方、1997 年、ルクセンブルグ欧州理事会で「アジェンダ 2000」が採択されると、中・東欧の先進
6 カ国で、加盟交渉が開始された。第 2 陣ヘルシンキ・グループの 6 カ国が交渉を始めたのは、2000
年であった9)
。
2)バルカンの不安定化、民族紛争の泥沼化進行
しかしこうした欧州再編の作業が、北欧・中欧で始まりつつあるとき、既に、1991 年からバルカン
では、ユーゴスラヴィアの解体と、民族紛争、虐殺と難民の流出が始まっていた。
こうしたバルカンでの民族・地域紛争に対して、1995 年にはローマ宣言に基づき、NATOが初の
ボスニア空爆を行い、さらに 1999 年 3 月 24 日にはNATOはコソヴォを空爆した。すなわち、米クリ
ントン大統領・オルブライト国務長官は、ユーゴスラヴィアにおける「エスニック・クレンジング(民
族浄化)」に対する強い使命感の下、NATOの「域外派兵」、「人道的介入」、緊急の場合の「国際機関
の承認の回避」が実践の中で規定化された。
これらに対して、フランス、ドイツの首脳の間には、直接の対抗国ではない地域に対する派兵、およ
び国際機関承認の回避に対して、強い危惧と前例としないことが要請され、欧州とアメリカの間の最初
の安全保障上のきしみが顕在化されることになる。
また、同年 3 月 12 日に中欧 3 カ国がNATOに加盟し、他方その 12 日後にコソヴォが空爆されたこ
とは、中・東欧の周辺多民族国家に、双方の選択肢を明示することとなった。
すなわち、米欧の提示する資格と条件を満たせば、NATO加盟、民族対立をあおり紛争を長期化さ
せればNATO空爆、という極めて明快な図をバルカンの民族紛争地域に示すことになる。実際、これ
以後各国は、自らを規制して民主化・安定化を達成し、NATO・EU加盟を狙う、という動きが、ク
ロアチアやマケドニア、ウクライナなどで高まっていくこととなる。
また、ユーゴスラヴィアでも 2000 年 12 月の大統領選挙、その後の総選挙で、コシュトゥーニッツァ、
および民主党がそれぞれ勝利し、遅ればせながら民主化への道をたどり始めることとなる。その意味で、
クリントンのコソヴォ空爆は、以後イラク戦争へと続く「武力による民主化」を冷戦後に成功させた最
初の例といえよう。
3)2001.9.11.アメリカでのテロ、10.7.アフガン空爆
1999 年のコソヴォ空爆は、中欧 3 カ国をNATOに加盟させることと平行して、戦争を開始した例
であった。2001.9.11.のテロおよび同年 10 月からのアフガン空爆は、国際政治学会対テロ包囲網として、
144
大国ロシアを取り込み、戦争に向かわせた例である。
9.11.後、アメリカへのテロの打撃に最も早く対処したのは、ロシアのプーチン大統領であった。チェ
チェンを初めとしてイスラム過激派に多くの経験と情報を持つロシアがテロ対策への協力を打ち出し
たことで、NATOとロシアの距離は一気に縮まった。
2002 年 5 月には、イギリスのブレア首相の提唱で、NATO・ロシア理事会が設置され、ロシアの
テロ情報と基地とを共有する試みが進んだ。これによりロシアにとっても、コソヴォ以降の国際戦略か
らの孤立から、アメリカとの提携により、国際的役割が再度増大する、米ロ蜜月時代に入っていった。
9.11.以降は、冷戦の終焉とテロにより、安全保障の重心が、欧州中部から南へ、黒海・中東へと移動、
変容した時期でもある。
2002 年 11 月 21 日、プラハでのNATO首脳会議で中・東欧7ヶ国のNATOへの加盟が決定する
と、合わせて対イラク攻撃準備が協議された。冷戦期ソ連の衛星国であった中・東欧が、冷戦の終焉後、
21 世紀に入り、一つの欧州としてのEUの枠組みの中に入っただけでなく、安全保障面では米の影響下
へ入ったことは歴史の皮肉といえるかもしれない。しかし歴史的には中・東欧には様々の政治潮流が存
在し、むしろ第 2 次世界大戦後から冷戦の直前まで、ソ連派コミュニストの政治潮流は少数派であり、
冷戦の進行は、国内の主流派の政治潮流と「国内派」の共産主義者をもいかに孤立化させ解体させていっ
たかの経緯でもあった。その意味では、冷戦の終焉と社会主義の崩壊を「自己統治機能の回復」であり、
それが「ヨーロッパへの回帰」(近代以降目指した自民族のあるべき位置への回帰)であると捕らえられた
のである。11)
4)2003.3.20. しかしコソヴォ以降の欧州とアメリカの「民主化」の実践に対する対応の違いが表面化
するに及んで、中・東欧は、安全保障面では、アメリカに依拠することになった。米英のイラク攻撃で、
独仏とアメリカとのきしみが、頂点に達した。独仏間には、アメリカのイラク攻撃への意図の懐疑が広
がり、連日、イラク戦争を批判するデモがヨーロッパ全土に広がった。
こうした流れが、アメリカと欧州の共通の安全保障のあり方に疑問を呈すこととなり、コソヴォ空爆
後(1999.12)、「独自の軍隊、独自の決定」という方向性が提示され、2003 年 月、EU緊急対応部隊が
設置されたのである。
4. イラク戦争
「旧
イラク戦争をめぐる
戦争をめぐる「
をめぐる「新」
「旧」ヨーロッパの
ヨーロッパの確執:
確執:アメリカの
アメリカの影
このように、イラク戦争以降、欧州各国でアメリカの行動への批判が広がったが、その芽は、既にN
ATOのコソヴォ空爆の頃から存在していた。とくにフランス、ドイツは、NATOの「域外派兵」
「人
道的介入」
「国際機関回避」という新しい読み替えに、危惧を表明していた。
EU・NATOの新加盟候補国である中・東欧も、当初、02 年 12 月頃までは、各国は比較的自由な
主張を行なっていた。多くの国は、概ね、イラク戦争を時期尚早とみなし、国連による査察の継続を支
持していた。
ところが、2003 年の 1 月から 2 月にかけ、こうした状況に変更が起こる。1 月 30 日には、イギリス
のブレアが組織し、ブレア、ハベル、アスナール、バローゾ、ベルルスコーニ、メジェシ、ミレル、ラ
スムセンなど欧州 8 カ国の首脳が声明を出した。そこでは、
「アメリカとヨーロッパの真の絆は、民主
主義や個人の自由、人権、法治主義という共通の価値観である」とし、「イラクのフセイン大統領と大
量破壊兵器は世界の安全保障に対する明らかな脅威」として、「フセイン体制の武装解除を主張し団結
する」と述べていた。ついで 2 月 5 日には、バルカンと 3 カ国と中・東欧 7 カ国による「ヴィルニュス・
グループ」が、アメリカの対イラク政策を指示する宣言を採択した。10 カ国は、パウエル国務長官が国
連安保理に対してイラクが国連決議に違反した俊、イラクの武装解除に向けて国際的連合に参加する意
思を表明した 12)。この時点でハンガリー、ポーランド、チェコなどNATOに加盟していた中欧3国
は、2 度、アメリカ支持の声明を出したことになる。
これら中・東欧の国々は、当初、国連の査察を支持していたにもかかわらず、なぜアメリカを支持し
たのであろうか。これについて、特にポーランドの動向と、それとは異なるハンガリー、チェコの動向
(いずれも「政府」であり、国民の動向とはまた異なる)を比較検討することは有用であろう。
3 カ国が 2 度にわたってアメリカのイラク攻撃を支持し、仏独の国連主導、ないし戦争慎重論をあえ
て拒否した背景には、いくつかの要因が考えられる。
より直接的・優先的には、アメリカにつくことによる利益、たとえば(退役あるいは失業中の)兵士
と派兵への金銭援助、企業への石油権益、NATO加盟直前における参加義務(半強制)、アメリカとフ
ランスの対応の違いがあげられる。
いくつかの国々は、それまであるいはその直前まで、国連の査察継続を一義的とすることを支持して
145
いた。にもかかわらず、アメリカの強い要請や派兵の支援金、経済的支援や石油権益が提供される中、
イラク戦争支持と派兵へと転換していった。13)
それに加えて、つぎのようなよりマクロな背景もあった。1)安全保障上、アメリカを背後につける
ことによる、欧州内の発言権の拡大(ex ポーランド。欧州との関係で、移民や農業問題などより対立的
状況にある国)
。2)歴史的経緯:東の大国ロシアから自国を守ってくれるものとしてのアメリカの軍
事力への信頼。3)独仏への「歴史的記憶(Historical Memory)
」から来る不信感(ナチス・ドイツの
侵略・支配、ミュンヘン協定において英仏に裏切られたトラウマ)、さらに4)加盟に至る経緯におい
て、EUから受けた厳しい評価が、安全保障面では、排他的にアメリカに依拠したいという認識を生ん
だことは否めない。
EU加盟のための 31 項目の基準達成や、とりわけ移民問題での制限は、新加盟国の国民の間に、E
U元加盟国に対する不信を生んだ。
さらに、2003 年から 2004 年?にかけて開かれた政府間協議における、欧州憲法条約草案に示された
「強く統一された」欧州も、歴史的に中・東欧の多民族地域においては、より小さなレベルでの国民国家、
あるいは地域的国家連合、あるいは連邦的ヨーロッパ、各国平等、輪番制のヨーロッパ(マーストリヒ
ト、ニース条約に基づくヨーロッパがより親和的であった。
その結果、2002 年 12 月頃まではイラク戦争への派兵に反対し国連による解決を期待していたブル
ガリア、ハンガリーでも、反対する野党も含めて、アメリカに基地を提供し、 派兵を承認していった
のである。
さらに独仏にとって衝撃であったのは、新加盟候補国のみならず、EU15 カ国内部においても、最終
的に独仏に同調したのは 2 カ国のみ(ベルギーと議長国ギリシャ)で後は 7 カ国がアメリカに賛成して
イラク派兵、4 カ国が中立を取ったことである。
このiように、イラク戦争をめぐる米英と独仏の対立を契機に、4億5千万の統合欧州は、経済面を超
えて、政治・安全保障面での統合を目指す矢先に、実は共通外交・安全保障政策(CFSP)において、
統合しきれないこと、とりわけ仏独のリーダーシップを超える影響力を持つものとして、アメリカの外
交戦略への支持の存在が明らかになったのである。以上は政府レベルであるが、政党間の対立、市民層
の対立はさらに深刻であった。
中・東欧諸国においても、政府レベルの外交決定と、市民レベルでの齟齬は大きかった。
最も親アメリカ的な態度をとったポーランドの左翼民主同盟については、アメリカを支持することに
よって、国際社会においても、旧来想像もできなかったような、大きな地位を獲得した。
1)NATO事務総長補佐官の地位、2)欧州内部での位置の上昇、いわゆる「ワイマール・トライアン
グル」
(独仏ポ3カ国の定期的な首脳・外相会議)
、3)戦後イラク派兵の多国籍部隊 20 カ国 9200 人(21
カ国 12000 人)を、ポーランドの指揮官(陸軍少将)が取り仕切った。さらにポーランド企業に対して
はイラクの石油権益が優先的に保障された疑惑も指摘された。しかしポーランド国内では、このような
ポーランド政府の露骨な親米的態度に批判が強まり、2004 年 5 月 1 日の加盟直後の、5 月 3 日、内閣
は不信任案により解散し長く新内閣が組閣できない、という失態を招いた 14)。
2005 年秋の総選挙では、EU・NATO加盟を促進したポーランドの左翼民主同盟は大敗し、中道
右派の法と正義、カチンスキ大統領が政権を取ることとなった 15)。
他方、ハンガリー、チェコでは、ポーランドほど明快ではない。ハンガリーでは、12 月まで国連の平
和的解決を支持していたが、政権党の社会党は、1 月と 2 月のアメリカ支持の声明に署名した。合わせ
て独仏にも接近して、アメリカとヨーロッパ機構の双方を重視する方向をとった。またイラク戦争への
参加に反対し続けた青年自由同盟(FIDESZ)市民党も、補助金により参加と派兵を承認したものの、
アメリカ・仏独など外部への追従をやめ、国益を重視する姿勢から政権を批判し続けた。
またチェコ政府は、政権党の社民党内閣は首相・外相ともに当初、アメリカを積極的に支持したが、
2003 年 2 月 28 日の大統領選挙で辛くも勝利したクラウスは、当初からアメリカのイラク戦争戦略を批
判し、特にハベル大統領が任期切れ間際に首相や外相にも相談なく署名したことを非難した 16)。
また中・東欧各国では、12 月には、EUの農業政策への批判から、CAP(共通農業政策)の補助金を元
加盟国と同等の比率で新加盟国にも提供するよう、EUに要求するデモが広がり、他方、1-3 月には、
自国政府がアメリカと共にイラク戦争に参加することを非難するデモが高まった 17)。これに象徴され
るように、少なくとも市民レベルでは、EUの新加盟国への補助金の少なさにもアメリカのイラク攻撃
にも憤る、批判的な意識が存在していたのである。
3)中・東欧の安全保障観(西欧との差異)
中・東欧の政府が、当初の政策を翻し、また国民の不満をも超えて、不承不承なりともアメリカを支
146
持した背景には、中・東欧の独特の安全保障観も影を落としていた。
中・東欧は、東のロシア、西のドイツにはさまれ歴史的に繰り返し併合や難民、さらには戦争の脅威
を経験してきた「はざまの地域」であり、その安全保障観は、周辺大国の脅威にいかに対処するかが、優
先課題であった。最大のものは、ロシアへの潜在的脅威であり、ついで冷戦後 10 年間、ヨーロッパの
安定を脅かしてきた、バルカンの地域・民族紛争が自国に飛び火することへの警戒であった。このよう
に、隣国や周辺地域からの脅威感や不安定に常に脅かされてきた、マイノリティや複数の民族を抱える
多民族地域としては、そうした中でいかに自国の安定的に発展を勝ちうることを保障するかは最大の課
題であった。これらへの対処方法が、経済的にはEU、安全保障ではNATOであり、とりわけ「近隣
でない」強力な大国アメリカに依拠した安保であったのである。
5. ロシアと
ロシアとイラク戦争
イラク戦争
冷戦終焉後のロシアの動向も、欧州・アメリカとの関係において、繰り返しその立場を変容させる不
安定要因であった。
1)1989-90 年代初頭:欧米との友好
冷戦終結宣言直後の時期においては、ゴルバチョフと欧米の信頼関係から、欧米とロシアは短期の蜜
月時代を形作った。この時期は、EU・NATOにとって、CSCE に依拠した全欧安保協力会議に基づ
く時代であったが、中・東欧はこの枠組みに強い不信を抱き、ロシアを排除したヨーロッパ機構、およ
びNATOに加盟することを望み続けた。これに対してロシアはNATO拡大を旧領域の侵害と安全保
障の脅威と受け止め(冷戦期の対抗軍事力が、旧ロシア、バルト 3 国まで侵食する)、強い不信を表明し
続けた。
1993 年 8 月、エリツィンはポーランド、チェコを訪問した際、中欧のNATO加盟容認する発言を
行なったが、帰国後ロシア国内で軍部・保守派が一斉反発し、取り消す経緯があった。大統領が国内の
軍部・保守派を統制できなかったことは、さらに中欧諸国のロシアへの不信の増大・危惧と、自国の安
全のための、NATO加盟推進を呼び起こした。
2)1996-2000 年:欧米からの孤立化
こうした経緯を経て、1996 年 10 月、米クリントン大統領は、中東欧へNATO拡大することを公約
した。その背景には、ロシアの民主化が進まないことへの幻滅があったことは否めない。
1997 年 5 月には、NATO・ロシア基本文書が締結され、NATO・ロシア常設合同理事会が創設
されたが、これは同年から始まるNATOの東方拡大にロシアが反対しないための措置でもあった。
1997 年、NATO のマドリッド宣言で、中欧へ拡大すること、ただし、核配備は行なわないことが明記
された。これに対してむしろ中欧諸国からは、核配備を行なってほしいという発言がハンガリーの
FIDESZ(青年民主同盟)首相や、ポーランドのワレサ大統領など首脳レベルから飛び出した。
1999 年 3 月の中欧 3 国のNATO加盟と、ロシア・中国の拒否権を排除したコソヴォ空爆で、ロシ
アの孤立化は決定的となった。
この時期、興味深いことに、欧米から拒否されたロシアは、アジアに向かう。1998-2000 年にかけ、
ロシアは日本に接近して領土交渉と引き換えに経済支援を要求し、その後、99 年コソヴォ空爆でのロシ
ア・中国の回避に対して、2004 年、中国と軍事協力関係を締結するのである。2004 年 4 月のプーチン
の新軍事ドクトリンでは、ロシアが国家安全保障にとって危機的な状況下での・・・大規模な侵略への
対応として、核兵器を使用する権利を留保する、と宣言した 18)。
3)9.11.テロと米ロ蜜月時代
99 年 12 月 31 日、エリツィンはプーチン代行に大統領権限を移行し、プーチンは、3 月の大統領選挙
での勝利後「強いロシア」再建をめざした。その過程での 9.11.同時多発テロは、チェチェン問題の打開
とイスラム過激派の一掃というロシアの課題とも一致して米欧接近し、2002 年 5 月には、ロシアNA
TO理事会が創設される。97 年のロシアNATO常設理事会とは異なり、この組織は国際対テロ協力網
として重要な情報や共同行動を実践することとなる。
4)2003 年―:プーチン第 2 期の「全方位外交」
イラク戦争では、イラクと中東への権益もあり、攻撃に反対して権益対立するが、米・欧との提携は
国策と判断し、全方位外交を継続した。ただし 2003 年末のEUのワイダー・ヨーロッパ政策以降は、
エネルギー供給の面で、EUと協力関係を強め、2004 年でEUエネルギーの 7 割をEUに供給する 18)
など、急速にEUとの関係を強化している。
147
5.EUと
EUとアメリカとの
アメリカとの関係
との関係
今後、拡大EUとアメリカとの関係は、どうなるのか。欧州内の軋轢は克服できるだろうか?イラク
戦争後は、EUは原則的には、アメリカとの同盟に回帰している。また中・東欧が、アメリカを支持し
たことは不問に付しEUに加盟させた。EU軍についてもサンマロ以降、独自性の強化は行なっている
が、合わせて、コソヴォやマケドニアなどへの展開を除いて、NATOとの同盟・住み分けを再編して
いる。なぜか?
一つには、EUにとって、アメリカ軍をヨーロッパに止めておくことがきわめて重要であるからであ
る。東のワルシャワ条約機構が解体したのに対して、西のNATOは、拡大し続けている。2004 年 3
月の 7 カ国加盟により、26 カ国となり、NATO軍とEU軍の住み分けによる北大西洋同盟の一方的
勝利は、欧州全体の戦略ともいえよう。
EUにとってのNATOは、ロシアに対抗し、ドイツを潜在的に押さえ、かつ国際テロに対抗し、軍
事コストを軽減し、欧州の高い経済・社会保障水準を維持する上でも、(極東にとっての米軍と同様)な
くてはならないものである。
その上で、EUは、アメリカをしのぐ人口、アメリカに並ぶ経済力に続き、国際的規範の優位性を持
った政治力を持つことにより、ヨーロッパ拡大の威信を着実に拡大している。
中・東欧のイラク戦争でのアメリカ支持も、その後ポーランドを除いては、明白なアメリカ一辺倒はな
く、EU・NATOのバランスをとったものとなっている。
<EU・NATO拡大の差異>
問題は、EU側からの厳しい課題達成要請である。中・東欧は、法整備、経済、政治、社会、金融、
情報などあらゆる分野において、厳しい舵取りを迫られている。拡大は、法律、経済・政治面で厳しい
加盟基準を達成しなければならなかったが、加盟以後も財政赤字やインフレ率の削減など、グローバリ
ゼーションに対応する厳しい基準達成要求にさらされている。他方、NATO拡大でも、国際テロ協力
網と地域紛争への政治的・地政学的保障に加えて、軍の近代化や、旧型兵器の更新、戦闘機の購入、さ
らには軍事負担や実践への参加など、多くの課題を抱えている。旧社会主義圏にとって、社会保障と社
会水準をある程度維持しつつ安全を強化するためにも、米軍の駐留が欠かせない。ルーマニア、ポーラ
ンドなど、在独米軍撤退に際して、自国へのの積極的誘致を繰り広げている。
もう一つは、領域認識の差異である。
EUにとっては、ルーマニア・ブルガリア、中央アジアは、経済発展度も低く、規模の大きいルーマ
ニア以外は欧州のぺリフェリーである。しかし、アメリカにとって、ウクライナ、マケドニア、アルバ
ニアなどは、新たな世界戦略、中東に向けての重要拠点でもあり、時期NATO拡大の戦略地点である。
これらの国に対する優遇措置が、結果的にその国とアメリカの靱帯を強める結果となっている。
6.
EU・
EU・NATO拡大
NATO拡大と
拡大とイラク戦争
イラク戦争:
戦争: 課題と
課題と問題点
最後に、EU・NATOの拡大とイラク戦争をめぐるいくつかの点についてまとめておきたい。
1) 拡大欧州におけるNATOの位置はどうなるのか。
イラク戦争での米欧対立にもかかわらず、欧州でのNATOの地位に揺るぎは見られない。米欧同盟
はこれからも拡大せざるを得ない。2008 年にはウクライナ、マケドニア、アルバニアの加盟が日程に
上っており、EUの拡大を大きく先まわる勢いである。欧州は、現在の軍事力で、欧州以外の安定化に
積極的に関わることは事実上困難である。プーチンは、イラク戦争直後にアメリカの空港に降り立った
とき、「NATOの機械的拡大は、加盟国の安全を高めない」、「エストニアの加盟よりロシアの協力の
方が世界平和に貢献する」
、と述べている(2001.11).
アメリカは、今後も大西洋同盟を継続することにより、ヨーロッパへの足がかりをつけるとともに、
規範や価値(民主主義、自由主義、市場経済)において世界戦略の拠点としていく可能性は高い。また
NATOにより、アメリカに対抗しようとするEU(とくに仏独)に、内側から中・東欧とくにポーラ
ンドをつかって揺さぶりをかける可能性もある。
2) EU軍は今後どのような役割を持って発展するのか?
EU軍・NATO軍の近代化により、コスト面、軍装備の改革はある程度始まっている。しかし社会
保障水準の維持の問題もあり、民衆の負担をより高める方向には、行きがたい。
当面、南東欧安定化協定のイニシアチブを含む、バルカンの安定、北アフリカの安定に展開能力を実行
して行く。
3)中・東欧諸国と、EU・NATOとの関係であるが、自国アイデンティティとしての「欧州の一員か」
、
148
「アメリカの核の傘の下か」は、片方でなく、双方の実現を目指す可能性がある。いずれも国により濃
淡があり、ルーマニア、ポーランド、さらに今後加盟する可能性を持つウクライナなど、人口も多く軍
事的重要性の高い国々は、アメリカの役割に期待するとともに軍事的貢献度も期待される。特にーマニ
ア、ポーランドは、将来中東に向けて、在独米軍の駐留地になる可能性も高い。
他方、バルト諸国やハンガリー、チェコ、クロアチアなど新加盟国の多くは、EU・NATOの双方
に軸足を置いている。彼らは、バルカン(南東欧)における民族紛争の解決、EUの南東欧安定化政策に
も強い期待をかけている。
冷戦時代の欧州の衝突と分断を越えて、「一つの欧州」となって 17 年目に入ろうとしている。EU・
NATOの東方への拡大により、欧州は、様々な問題を抱えながらも、内なる和解を推し進めつつある。
国際テロへの対処、何より欧州の 1 千万人のイスラム系難民、百万規模のスラヴ人移民、ロマを初めと
する中・東欧の大量なマイノリティの存在、はときに新たな対立の芽を内包しつつも、「多様な欧州」の
共存の可能性をも、象徴している。2003 年のワイダー・ヨーロッパ戦略、欧州安全保障戦略にも謳わ
れているように、EUは、境界線を巡る周辺諸国との共存、アメリカを超える「新世界秩序」を掲げて、
ロシア、中国、インド、日本、国連などとも共同しながら発展する素地を築きつつあるといえよう。
注
1) 欧州拡大とイラク戦争の相克については、ハバーマスやエーコ、ティモシー・ガルトン・アッ
シュやゾンタークなどの鋭い評価を集めた論文集、Old Europe New Europe Core
Europe,Transatlantic Relations after the Iraq War, Ed.by Daniel Levy,Max Pensky, John
Torpey, Verso, USA, 2005, Gordon & Shapiro による America, Europe, and the Crisis over
Iraq, Brookings institution Books, Sydney, Toronto,2004, David M. Andrews による The
Atlan tic Alliance Under Stress: US- European Relations after Iraq, Cambridge University
Press, 2005.などがある。日本では広瀬佳一氏がNATOとの関連でイラク問題を扱っている。 筆
者もこの間、
「一つになれない欧州―イラク戦争と影響と今後」
『毎日新聞』2003.4.11.「イラク戦
争とは欧州にとって何だったのか」
『拡大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなる
かー』中央公論新社、2004(20062 刷)、「EU・NATOの拡大と欧州の安全保障」『21世紀の
安全保障と日米安保体制』ミネルヴァ書房、2005、などイラク戦争による米欧亀裂とりわけ中・
東欧のアメリカ接近と拡大欧州の安全保障の軋轢について研究を進めてきた。
2)2003 年 1 月末の欧州首脳 8 カ国によるアメリカ支持、及び 2 月初めの中・東欧 10 カ国(ヴ
ィルニュス)10 のアメリカ支持。2,003.1.30, 2,003.2.4. これへの知識人の反応は Old Europe,
New Europe, Core Europe, ibid. を参照。
3) 国連のアナン事務総長が、アメリカの単独行動主義を非難、国連主導の改革を訴えた。
2003.9.23.
4)フランシス・フクヤマ、渡辺昇一訳『歴史の終わり』三笠書房、1992、ブルース・ラセット、
鴨武彦訳『パクス・デモクラティア』東京大学出版会、1996。
5)渡邊啓貴編『ヨーロッパ国際関係史』有斐閣、2002。
6)定形衛「コソヴォ危機と人道的介入論」菅英輝編(2005)。
7)John Lewis Gaddis, Long Peace, 1987(五味俊樹他訳『ロング・ピース』芦書房、2002)。
8)中・東欧へのEU・NATOの拡大と加盟交渉については、この 10 年間で、多くの研究が出さ
れ始めたが、筆者も冷戦終焉と中・東欧の社会主義体制崩壊後、ほぼ17年に亙り、拡大EUの調
査・研究を継続してきた。以下を参照。羽場久シ尾子『統合ヨーロッパの民族問題』講談社、1994
(7 刷 2005)、羽場『拡大するヨーロッパ、中欧の模索』岩波書店、1998 年(4 刷 2005)
、羽場(2004)、
羽場久美子・小森田秋夫・田中素香編『ヨーロッパの東方拡大―新加盟国からの視点』岩波書店、
2006(近刊)。
9)「民族浄化(ethnic cleansing)」という用語のキャッチコピーを使うことにより、ルーダー・
フィン社という情報戦請負会社が、米国民の前にヨーロッパ小国の民族紛争の現実から悪玉を仕立
てあげて行く経路については、高木徹『戦争広告代理店』講談社、2002 を参照。
10)羽場久シ尾子「中・東欧とユーゴスラヴィア―民族、国家、地域」特集、旧ユーゴスラヴィ
アの 10 年『国際問題』日本国際問題研究所、2001.7.
11)2003 年 1 月 30 日、欧州 8 カ国の声明、2 月4日、中・東欧の声明。
149
12) 2002 年 12 月から 2003 年春にかけての新聞。Népszabadság, Magyar Nemzet.
13)ポーランドがアメリカを支持した諸要因。2004 年 5 月初めのポーランド組閣。『中・東欧
ファックスニュース』2003-4 年。
14)Népszabadság, Magyar Nemzet, Magyar Hirlap, 2003.
15)羽場久シ尾子「ロシアと東欧の国際関係」『ユーラシア研究』19 号、1998.9.
16)Росийская газета, 25 апреля, 2000.
17)9.11 以降のアメリカの共和党が、プラグマチックな現実主義者(パウエル派)、単独行動的ナ
ショナリスト(ラムズフェルド)、理想主義的ナショナリスト(ウォルフヴィッツ)に分裂した利害
対立や、他方で、アメリカとロシアがお互いの国益保持のため接近し、中・東欧が新たなヨーロッ
パの周辺となりアメリカに依拠せざるを得ないこと、ロシアの経済エリートが石油・天然ガスによ
って、これまで以上にEUと結び、ロシアの西欧志向が強まっているなどの事実については、Lynch
A.”Russia and NATO; Expansion and Coexistence?”, Россия и Нато: Новые сферы
партнерства, Ст- Петербургского университета, 2004, EUとロシアとの関係については、
Россия и основные институты безопасности в Европе:вступая в ХХ1 век, Москва,
2000, Россия и Европейский союз в Большой Европе, новые возможности и старые
барьеры, Ст-Пеиепрсвуршского университета, 2003.
150
<参考:NATO
参考:NATOと
:NATOと中・東欧 年表:
年表:ハンガリーを
ハンガリーを中心に
中心に>
(Chronology of Hungary's accession to NATO)
一部のみ抜粋:A NATO-tag Magyarország, Budapest, 1999)
(1990 年以降、ほぼ毎月、会合、技術的話し合い、軍事共同演習など)
ワルシャワ条約機構の国から、ハンガリー、 NATO Headquarter 訪問
Manfred Wörner 事務総長、中欧諸国との関係発展を希望
7.3.
ワルシャワ条約機構からの脱退の交渉開始
7.5-6.
London 宣言:同盟の見直し、中・東欧諸国との共同発展
11.19-21.
NATO とワルシャワ条約機構の国々との CFE 条約調印。
16NATO国と、6 ワルシャワ条約機構国が、互いに敵と見なさない
宣言に調印。
11.22-23.
Manfred Wörner 事務総長ハンガリー訪問。
11.28-29.
NATO 議会(NAA)で、中欧諸国は associate delegation(連合国)。
1991.2.25.
ワルシャワ条約機構6カ国国の代表がブダペシュトで、ワルシャワ条約
機構の解体を宣言。
6.19.
ソ連軍がハンガリーから撤退。
6.28.
コメコンの解体
7.18.
ハンガリー議会、ワルシャワ条約機構の解体を批准
7.22-25.
NATO との技術協力開始についての話し合い
10.6.
Visegrád 3国(ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド)の外務
大臣、クラクフにて、NATOの活動への参加を望む共同宣言採択。
NAA 会合(Madrid)。Manfred Wörner は、次回 1995 年の会合が
Budapest で開かれることを述べる。
10.28-29.
ハンガリー首相と Manfred Wörner との会談。
ハンガリーはNATOとより緊密な共同関係にはいることを表明。
11.7-8.
NAC ローマサミット. 平和と協力に関するローマ宣言。NACC 創設。
12.20.
NACC 開会。16NATO諸国、9 中・東欧諸国参加。
1992.3.10.
NACC 会議。
3.18-20.
NATO新戦略概念を含むNATOの新構想。
4.10.
NATOと中東欧の共同軍事委員会の最初の会合。
7.17.
CFE(欧州通常兵器条約:1990.11.19.調印)発効。
1990.6.28-29.
10.20-21.
1993.3.24.
「NATOの安全は、他のヨーロッパ諸国の安全と密接に結びつく。
」
(Manfred Wörner より、ハンガリー首相 József Antal への手紙)
9.6-7.
Visegrád 諸国の防衛次官、Cracow で会合。
10.19.
Visegrád 諸国とNATOとの関係強化要請(Antal から Wörner へ)
1994.1.10-11.
NATO の Brussels サミット。Partnership for Peace (PfP)開始。
2.8.
ハンガリー、PfP に調印。
4.27-29.
NACC セミナー、Budapest にて。国防計画の企画と運営について。
8.13.
Manfred Wörner 事務総長逝去。Sergio Balanzino が事務総長代行
(9.29. Willy Claes 事務総長)
10.19.
NATO と東欧諸国との最初の共同訓練、オランダにて
12.5.
CSCE サミット、Budaptest にて。CSCE は、OSCE(Organization for Security and
Co-operation in Europe)となる。
1995.3.23-24.
NATO 技術委員会の Budapest での会合。旧ワルシャワ条約軍の軍事
機構をいかに市場経済下の文民組織に変えるか。
(最初の旧ワルシャワ
条約機構国との会合)
5.8.
NATO と PfP 諸国との会談。26 カ国の参加。Budapest にて。
5.26-29.
NAA 本会議。Budapest にて。
(非 NATO 国初)
NATO の拡大とその time schedule について。
6.30.
NATO の軍事演習ハンガリーにて。
(PfP の枠内)
9.20-21.
U.S.国防長官 Willian J.Perry ハンガリーを訪れ、ハンガリーの NATO
151
加盟政策について話。
9.28.
NACC の会合で、NATO拡大問題に関する検討、解禁。
10.25.
ハンガリーのNATO加盟に関する国民投票要請の署名、国会へ。
12.9.
ボスニアに、NATO の平和履行軍(IFOR)
1996.1.14.
NATOの IFOR への支援に関する覚え書き調印(Hungary)
5.6.
ハンガリー、NATOと WEU との安全保障条約に調印
6.4.
アメリカ、6千万ドルの支援金を、中欧3カ国(H.P.C)のNATO
加盟準備金として提供。→10.1.に各国に渡される。
6.13.
ブリュッセルのNATOの核計画委員会において、NATOの拡大の際
にも、新メンバー国の間には核配備の必要はないことを確認。
6.14.
ブリュッセルにて、NACC の国防大臣会議。NATOと PfP26 カ国の
国防大臣が参加。
10.22.
米大統領クリントンがNATO東方拡大推進演説(デトロイト)
1997.5.
NATO・ロシア基本文書
6.13.
アメリカの国防長官、米は中欧3カ国を第1ラウンドの話し合いのために
公式にNATOに招待することを提案。
7.8.
マドリッドにてNATOサミット。中欧3カ国(H.P.C)のNATO加盟提案。
9.10.
第1ラウンドの話し合いのため、代表がブリュッセルへ。
10.29.
ハンガリー、NATOの加盟分担金として、NATOの年度予算の 0.65%を負担。他
方で、NATOは、ハンガリーの防衛予算を、
毎年 GDP の 0.1%まで上げていくことを確認。
11.16.
NATO加盟の是非を問う国民投票(ハンガリー)
。
有権者の 49,24%が投票に参加、85,33%が賛成、14,67%が反対。
11.27.
拡大コストの見積もり、ブリュッセルで。
中欧3国、追加のコストとして続く10年間に 15 億ドルを要求。
1998.1.1.
中欧3カ国、NATOの様々の会合に諮問権をもって参加する権利を
与えられる。
5.28-29.
NAC の Luxembourg の会合に中欧3カ国の外務大臣招聘。
11.13.
NAA 本会議、Edinburgh にて。NATO16 カ国、中・東欧 16 カ国の
代表が参加。
1999.1.29.
ソラナから中欧3カ国に正式加盟の通知。3月初めにワシントンで批准。
3.12.
中欧3国(ハンガリー、ポーランド、チェコ)、NATOに加盟。ミズーリ
3.24.
NATOのコソヴォ空爆開始。19 ヶ国。
4.
NATO のワシントン首脳会議で中欧3国正式メンバーとなる。
4.24-25. NATO50周年記念式典。
21 世紀の新戦略概念、政治宣言採択、NATO と WEU の共同、PfP 強化
NATO拡大第2陣グループの実質的指名
6.10
コソヴォ空爆終結、NATO軍入城。
NATO・ロシア関係悪化。
2001.9.27.
ロバートソン事務総長:NATOとロシアの関係の歴史において、
「テロリズムとの闘い」に対する協同の歴史が始まりつつある。
11.19.
英ブレア首相、
「NATO・ロシア理事会」提案。パートナーへ。
(チェコの反発:ハベル「ロシアをNATOに入れるべきではない」
12.
ロシアの WTO(世界貿易機関)加盟の可能性
2002.3.
ロバートソン、20 ヶ国方式だが、NAC(NATO 理事会)には招かず、拒否権はない。
5.
レイキャビク、ローマにて、NATO・ロシア理事会の創設。
(諮問機関から、対等な協同意志決定機関へ)
6.
プーチン「中国、ロシア、西欧諸国と米国は、『安定の円弧』を形成」
。
(江沢民との会見で)
11.
プラハでのNATO首脳会議、7 カ国への加盟決定。イラク攻撃示唆。
2003.1.30
欧州 8 カ国首脳、アメリカのイラク攻撃支持声明
(ア)
中・東欧 10 カ国(ヴィリニュス10)、アメリカの政策支持声明。
3.20.
アメリカ、国連安保理を経ずして、イラク攻撃、フセイン政権崩壊(4.10)
152
ポーランド軍、9400 名 21 カ国の多国籍軍を率い、2400 名イラクへ。
フセインの逮捕、大量破壊兵器見つからず。
2004.3.29(?)NATOの拡大、中・東欧 7 カ国加盟、NATO26カ国
5.1
EU、中・東欧8・地中海2、計 10 カ国加盟、EU25 カ国となる。
2006.6.?
ポーランド、チェコに、テロに対するミサイル、レーダー基地設置計画。
ロシア反発、ロシア・中央アジアへのミサイル基地提案。
計画を続行するなら、カリーニングラードへのミサイル配備も辞さず、
とプーチン大統領。
2006.
ウクライナ、オデッサ周辺で、NATO加盟の是非を問う国民投票。
各都市で、過半数以上が、NATO加盟反対。ユーシチェンコ大統領の権威
揺らぐ。
9.―
<参考・
参考・関連文献>
関連文献>
参考:
参考:(2003.5 月-9 月) 東京大学テーマ
東京大学テーマ講義
テーマ講義、
講義、朝日カルチャーセンター
朝日カルチャーセンター緊急特
カルチャーセンター緊急特別講座
緊急特別講座、
別講座、
外務省ブリーフィング
外務省ブリーフィング、
ブリーフィング、ロシア平和
ロシア平和リサーチ
平和リサーチ国際会議
リサーチ国際会議の
国際会議の報告などよりまとめ
報告などよりまとめ。
などよりまとめ。
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羽場 『拡大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』中公新書、2004 年。
羽場久美子、小森田秋夫、田中素香編『ヨーロッパの東方拡大』岩波書店、2006 年。
154
13. 拡大
拡大EU
EUの
EUのフロンティア
―ポスト冷戦
ポスト冷戦の
冷戦の国際規範と
国際規範と、欧州公共圏の
欧州公共圏の再編―
再編―
羽場久美子
はじめに
1989 年の冷戦終焉と鉄のカーテン・ベルリンの壁の崩壊によって、欧州は、1990 年代、アメリカ
と共に、「民主化・自由化・市場化」という、近代西欧型の規範理念を、あらたに提示することとなっ
た。時まさにフランス革命の 200 周年と重なる中、ヨーロッパ的価値と秩序が、民主化・自由化・市場
化という理念に体現されて、マーストリヒト以降のEU拡大、さらにソ連邦崩壊後の民族地域紛争に対
抗する「危機管理」の概念としても機能することになり、「民主化と自由化」は NATO の存続と拡大の基盤
ともなったのである。
ところが、1999 年のNATOのコソヴォ空爆から、911 以降のアフガン空爆、イラク戦争に至る過
程で、欧州とアメリカの安全保障観ないし国際規範認識の違いが表面化した。それはポスト冷戦の国際
秩序における、アメリカの単独行動主義 Unilateralism、国連など国際機関の回避、「民主化」の拡大解
釈たる「武力による民主化」(とりわけ、ブッシュ Jr.米大統領の「War for Democracy」)に警鐘を鳴
らすものとして、2003 年 12 月、欧州安全保障戦略(European Security Strategy)が提示された。
そこでは、新しい冷戦後の世界の危機の根底には経済的失敗、貧困があること、世界の半分が 1 日 2 ユ
ーロ以下で生活し、毎年 4500 万人が上と栄養失調で死んでいくこと、人々の経済の安定と発展を作っ
ていくべきこと、グローバル化する世界の下では 1 国の力では解決できず、EU はグローバル・プレイ
ヤーとして、諸国家・諸地域と連携しつつ、新しい国際秩序を構築すること、を高らかに宣言した。
(European Security Strategy, Brussels, 12 December 2003)
他方で欧州では、内に向けては、この間「民主主義の赤字(Deficit of Democracy)」と称されるEU
エリートと市民との格差、EUの拡大が市民の日常生活に恩恵を与えないばかりかコストを市民層に還
元しながら拡大と深化を進めてきたという問題が表面化した。その結果、Plan D(Democracy,
Dialogue、Debate)を基礎とした欧州市民権の要請が語られることになり、それは国益と結びついて、
時に新加盟国や移民を組み入れるというより排除する方向で機能する側面が現れた。ネオ・リベラル政
策の拡大である。新加盟国の民衆や「拡大EU」の境界の外に取り残された地域や民族にとっては、地域
統合の恩恵は必ずしも体感できるものでなく、拡大が逆に、西と東、内と外の格差を拡大させる方向に
働きつつある。
ここでは、拡大EUの「フロンティア」という問題に焦点を当て、EUの境界線が、「自由化・民主
化・市場化」という mission (使命観)を掲げ、それを押し広げていく側と、それらを「外からの価値」の
受容として、巻き込まれる(あるいは排除される)側との認識のズレ、そこでフロンティアを巡って起
こる軋轢を、冷戦終焉後の国際規範・公共圏認識の変容、包摂と排除、人の移動と対立などの問題を検
討しようとするものである。「民主化・自由化」の進展の中で、国家庇護からはじき出された諸集団の
公共圏の再獲得の模索や、地域。・民族格差を巡る問題については、別稿で論じている。(1)
1.拡大
拡大ヨーロッパ
拡大ヨーロッパの
ヨーロッパのフロンティア・
フロンティア・境界線
1)
フロンティアとは
フロンティアとは?
とは?
「フロンティア」とは、辞書で引くと、辺境、国境、限界、最先端、未開拓の分野を意味する。英語
ではフロンティアは、「境界 border」と類似であり、未知の世界との境界にある辺境地帯、あるいは未
知の世界にチャレンジする精神を示す。フロンティアは、二次元的な地理上の「最端」に加え、価値、体
制・秩序の「境界」、最端、最前線をも意味している。
興味深いことに、大国のフロンティアと、小国あるいはマイノリティ(小民族)のフロンティアとは、
同じ最端、最前線でも、その内容が丁度裏返しのように異なる。
大国のフロンティアは、
「正しい戦争」
(グロティウス)に代表されるように、自らが正しいと信じる
価値に基づいて、辺境の異分子・非文明を征服していく、アグレッシヴなものであり、山内進著『北の
155
十字軍―ヨーロッパの東方拡大―』に見られるように、キリスト教の強い mission(使命観)に基づいて、
無知や野蛮を感化する役割を持って遂行されるものである。マルスであれ、ヴィーナスであれ、「公正
と正義」を掲げて Pegan(異教)、異分子を感化・教化していく(2)。欧米先進国の「キリスト教精神」は、
基本的に、無知・非文明に対して、教育と感化により「文明化」していくことを、神に近づく正義とした
のである。それは時に現地の「未開の」文明を破壊し、キリスト教化していくことによって行われた。阿
片も原住民の根絶も開拓も、「文明化」という使命感に基づいて正当化されていった。
その経緯はきわめて詳細に、『北の十字軍』『「正しい戦争」という思想』に画かれている(3)。
それに対し、同じ大国でもロシアのフロンティアは、近代から現代にかけて西欧・アメリカと常に領
土・価値・体制でぶつかり合っており、その性格が少し異なる。
ロシアにとって、「境界」ないし「フロンティア」は、ハレーが『歴史としての冷戦』で言うように、自
国の安全保障であり、不凍港の確保、資源の確保、平野の続くヨーロッパ東部から攻め込まれる際の「防
波堤」の形成であった(4)。西からの使命感を持った「文明」の拡大に対して常に憧れと違和感の双方を
持ちつつ、受容か拒否かに逡巡し、かつ拒否した際には異なる価値を対置する能力も持ち合わせていた。
それが、近代においては農村共同体に基づく共産主義思想と「ロシア革命」であり、欧米資本主義体制に
対するソ連社会主義体制の確立であった。ロシアはヨーロッパのフロンティアの攻勢に苦しみつつ、独
自のアイデンティティに基づく価値を少なくとも、1989 年までは、対峙しえたのである。スラヴとヨ
ーロッパの相克・親和・緊張は、ロシアの支配エリートたちにとって永遠の深刻なテーマであり、少なく
とも 20 世紀においては「現存社会主義」と言う形で、ヨーロッパのフロンティアに対する砦を形成した
のであった(5)。
他方、欧州とロシアにはさまれる小国群、マイノリティといういわば「はざまの地域」にとっては、
「フロンティア」は、自らが作り出すものではなく、そのつど「外からやってくる」価値の「境界の最前
線」で、常にそれを「受け入れるか拒否するか」の瀬戸際に立たされていた。受け入れるか否か、はもっ
ぱら、彼らがそれを納得して受容するかというよりは、国際情勢と戦争あるいは革命の中で、常に「外
から」降ってきた。国民的抵抗や蜂起も、最終的に「フロンティア」の帰趨を変えることはなかったので
ある。
こうした中で、彼らは、「フロンティア」に対し、受動的、不可知論的、懐疑主義的(Skepticism)立
場をとることになる。そこでは価値が時代の変化のたびにめまぐるしく変わる結果、アイデンティティ
の重層性、可変性が起こる。価値は常に相対化され、次の支配者の価値によって否定され、粉砕され、
置き換えられていく。その結果、自己が「ヨーロッパである」という価値認識は強くとも(6)、その自己ア
イデンティティは批判的であれ無批判であれ、体制が変わるたびに修正を余儀なくされる可変的なもの、
あるいは公共空間と私的空間との二重アイデンティティとなった(7)。いずれにせよ、価値の限りない
変容と相対化を受け入れることが、大国の境界線上で「支配される側」の行動様式となる。
ユダヤ人映画監督サボー・イシュトヴァーン(Szabó István)の「太陽の雫(Napfény Sunshine)」
(ハンガリー、1999 年)という映画は、
「フロンティア」の中で生き延びていく中・東欧のエリートの
生き様を画いている。それは 20 世紀初頭から末に亘る激動の時代を生きたユダヤ人醸造主の家系、息
子から曾孫に至る四世代を画いたものである(8)。
醸造主の成功後、2 代目はハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー)の裁判所の裁判官となって帝
政の秩序を体現し「同化ユダヤ」となって帝政に仕える。が帝国は崩壊し、3 代目はナチズムのユダヤ
人狩りの中、国家を代表し知育・体育を発展させるというナチスの公共的価値に基づきオリンピックの
優勝者となって体制を生き延びるが最後に出自を問われ、ユダヤ人たることを拒否し愛国者のまま殺害
されてしまう。4 代目は、第二次世界大戦後の共産主義体制で、父殺害のトラウマから共産主義体制を
守る国家防衛機構(ÁVO:秘密警察)のメンバーとなって旧体制支持者を摘発することに生きがいを見
出しつつ、体制の腐敗に苦悶する。まさに帝国から独裁、独裁から共産主義へ、さらに共産主義から民
主主義へと、次々に父の世代の価値を全否定し、その都度の新体制の価値に忠誠を誓いトップにのし上
がりつつ、そうした価値変容、体制変容そのものに、常に懐疑と、嘔吐するような忌避感を持ち続ける。
帝国、ナチズム、共産主義体制を、さらなる「フロンティア」に広げていく体制エリートの一翼となり
つつ、限りない深遠を覗き込むような不可知論、体制への懐疑主義 Skepticism が、彼らを支配してい
る。それは、大国が中枢から自信を持って文明の「使命 mission」として、アグレッシヴに拡大してい
く「正義の戦い」とは異なり、常に巻き込まれ自己の土台としての前世代を全否定し新体制の公共的価
値を体現しながらも、敗者としての挫折感を免れ得ない、「フロンティア」の受託者であるからであろ
う。
1989 年の冷戦終焉以降、晴れて民主主義体制の下、自由の身になった現在の中・東欧諸国において
も、未だ拡大 EU の普遍主義との摩擦に見られるような、強すぎた期待への挫折感が存在する。歴史と
156
現実の中の「フロンティア」は、このように「感化され、変えられていく小国、マイノリティの側」からも、
見る必要があろう。本稿は、そうした「境界線上」に生きる人々の公共領域への順応と私的価値の抹殺を
繰り返してきた、負の側からのフロンティアの見直しである。
2)ヨーロッパの
ヨーロッパのフロンティア、
フロンティア、境界線はどこか
境界線はどこか
ヨーロッパとは何か。またその境界線とはどこか。ノーマン・デイヴィスは、ベストセラーとなった
その著書『ヨーロッパ:一つの歴史』
(Oxford, 1996)の中で、「多様なヨーロッパの境界線」として、
文明としての境界線(5 つの文明の円の重なり合い)、地理上の境界線(歴史と時代によって変化する 6
本の線)を示している。
(図)またソルボンヌ大学のポーランド人教授クシシトフ・ポミアンは、ヨーロ
ッパの歴史は境界線の歴史であり、境界線を巡る分裂と統合の歴史である、と語っている(9)。ヨーロッ
パのフロンティアは、時に「東への憧憬」、多くは「東の野蛮」に対する「西の防衛と拡大」の戦いの歴史で
あった。そのめくるめく境界線・フロンティアで繰り広げられる「ヨーロッパ・アイデンティティ」拡
大の戦いは、その境界を変化させ、ローマ帝国以来、ビザンツから、オスマン、東中欧、ヨーロッパ・
ロシアを席巻しつつ、拡大 EU へと受け継がれてきた(10)。
ここでは、ヨーロッパ史における「東と西」をめぐる決定的に重要なフロンティアとして、1)ヨーロ
ッパの東と西。冷戦の分断、拡大によるうちなる分断、2)拡大 EU の境界線と、内なる分断、3)東西
ウクライナの分断、4)拡大 EU とカリーニングラード問題の 4 点に焦点をあて、検討する。
拡大 EU の今一つのフロンティア、「西バルカン」については、多くの研究が日本でも出ており、それ
らを参照されたい。近世におけるヨーロッパの東と西の優れた共同研究として小倉編の研究がある(11)。
ヨーロッパの文化史・精神史の転機は、カトリック受容、ルネサンス、啓蒙主義とされる(12)。そ
れらすべての洗礼を受けた中欧(ポーランド、チェコ、ハンガリー)諸国は、基本的に「キリスト教
(Christianity)のヨーロッパ」の影響下に入り、「ヨーロッパ」的価値を体現してきた。1990 年、ヤ
ルタの鉄のカーテンを破って、
「ヨーロッパの中心 Center of EUrope、ヨーロッパの心臓部 Heart of
EUrope」を自負した「中欧(Central EUrope)」は、ノーマン・デイヴィスが図に示したように、西、
東、南の文明の「フロンティア」が重なる、幾多の価値をそのつど受容してきた、多様な「混合文化」
であった。
他方で、地域によっては、モンゴル、タタールの襲撃や、トルコ、ロシア、ハプスブルク帝国の支配
を受けつつ、価値と文化、慣習自体が時代により変化する「多様な価値のはざま」に位置してきた。そ
の結果、この地域の考え方は大変アンビバレントで、一方の軸足はヨーロッパに置き、他方の軸は支配
への抵抗におくことにより、ヨーロッパ精神への憧憬と平行して、ある意味でポスト・コロニアリズム
のような、支配者の普遍的価値の欺瞞性への批判と懐疑主義を常に内包してきた。その最前線がヨーロ
ッパ東半分の地域、中・東欧であった。
ノーマン・ディヴィスは、ヨーロッパの多様な境界線、地理・文化(価値、アイデンティティ)・民族
の超えることのできない壁について、キプリングの詩を引用して、次のように謳っている。「ああ 東
は東、西は西、二つは決して出会うことはない。大地と空が、神の裁きの座に会するときまで。」(東
と西の歌。インドを念頭に)(13)
他方、革命によってヨーロッパから締め出されたロシアでは、アジアの地から不実な西欧を圧倒しよ
うとして、次のような詩が書かれた。
「お前たちは大勢、だが俺たちは、大群、大群、また大群。
一戦交えて、俺たちの素性を思い知るがいい!
俺たちはスキタイ人、辺境のアジア人、強欲のしるし、すがめの子孫を産み殖やす。
」(14)
以下、こうした西欧とロシアの価値がぶつかり合うフロンティア、異文化衝突の最前線の問題を、検
討していきたい。
2・
・ 冷戦の
冷戦の起源と
起源と終焉―
終焉―冷戦の
冷戦のフロンティア
1)冷戦の
冷戦の起源
戦後ヨーロッパの統合は、西欧の統合と、ソ連・
「東欧」の分断と結びついていた。(この地は「境界線」
にふさわしく、その支配と体制の形態が変わるたびに名称が変わった。帝国から各国が独立して以降、
当初は、「中欧」(欧州中部、ハプスブルク帝国の継承国)、その後、「東中欧」(中欧ドイツの東部、ドイ
ツの影響圏)、「東欧」(冷戦期)、「中欧」(ヤルタ体制からの解放)、「中・東欧」(欧州の中欧と東欧)な
どである。)(15)
戦後の独仏の「平和的和解」は、一方では戦乱の続いた欧州の平和を希求するものであった。しかし
157
他方で明らかに、統合はソ連共産主義の拡大に対する戦後の国際秩序の再編と密接に結びついていた。
「独仏和解」は、東アジアにおける中華人民共和国の樹立と朝鮮戦争に対する「日米同盟」の成立と同様、
より大きな国際関係の枠組みの下では、共産主義の拡大に対する欧州の防波堤形成というアメリカの意
図と密接に結びついており(16)、それと切り離して論じることできない。「不戦共同体」の統合には、「敵」
がいたのである。
戦後の 6 カ国による欧州統合は、欧州の 2 つの大戦への反省による和解と石炭鉄鋼共同体と核の共同
管理であるとともに、ソ連のヨーロッパ中央部への拡大(ドイツの分断)という事態に対する「共産主義へ
の防波堤」「自由主義陣営の再編」の役割を強く持っていた(17)。
冷戦後の自由主義と共産主義のせめぎ合いの「フロンティア」は、まさに「シチェチンからトリエステ」
に至る「鉄のカーテン」として始まった。そこで人為的に切り裂かれた人々の苦悩は、ベルリンの壁博
物館などで十二分に感得することができる。これは、1989 年の転換のときに明るみに出された、二つ
のフロンティアのぶつかり合いのはざまで切り裂かれた人々の歴史の記憶であり、こうした分断が、欧
州の真ん中を北から南に貫く境界線上の各地で存在したのである(18)。欧州の戦後復興に基づく、平和
的共存の準備段階では、ソ連が含まれていた。しかし 1947 年のマーシャル・プランは、ソ連を締め出
し、東欧をソ連側に追いやることによって、完成した(19)。
戦後ヨーロッパの独仏和解と統合は、「連合国」ソ連と東欧を、「東」に追いやり、旧「枢軸国」ドイツ
を取り込むことにより「再軍備」させるという「ねじれ」の平和統合によって始まった。仏独の「歴史的
な敵との和解」は、更なる現実の国際政治における「敵」創出に対する連合であった。西側は、高まるソ
連との軋轢の中で、スターリンの提唱する「スターリン・ノート」による東西ドイツの中立と統一を退
け、西ドイツを統合した(20)。
当初、西欧へのアメリカの援助計画による戦後復興を望んでいた、ハンガリー、ポーランド、チェコ
では、49 年から 51 年にかけ、西欧派、中欧派を体現していた政権党の多くの政策転換と粛清によって、
「ソ連化」が実現されていった。戦間期、フランスとドイツの「はざま」にあった中・東欧諸国は、40 年
代末からは、ソ連の「フロンティア」となり、新たな価値・理念の導入の下、西側理念やナショナルな価
値を持つものは、亡命を余儀なくされるか、実際に粛清されていった。
2007 年は、ローマ条約締結 50 年であるが、1957 年の統合は、1956 年のスエズ動乱、ハンガリー
動乱を経て、スエズは西、挫折した「中欧」小国は東に押いやられ、西と東の「境界線」が再度確定され
たあと、機構・条約として完成されたのであった(21)。
2)
)冷戦の
冷戦の進行:
進行:東西の
東西のフロンティア。
フロンティア。
勢力圏、境界線、価値規範の、「互いの認識のずれ」が、相互不信と、相手の意図への懐疑心を呼ん
だ。ノルウェーの国際関係史研究者ルンデスタッド(Geir Lundestad)によれば、戦後ソ連にとって
絶対的死活地域(absolute, inner)であったカレリア、ポーランド東部は、地域的には、強い反共産主
義・ナショナリズムが存在したが、ソ連の安全保障の観点から強制的に統合せざるを得なかった(22)。
他方で、勢力範囲外(outer)の場合には、ソ連は、ギリシャ、ユーゴなど、きわめてパルチザンの運
動が強い地域においても、イギリスの影響圏として見守る姿勢を見せた。しかしこうした地域でパルチ
ザンが強かったことは、ソ連が西欧の領域に、戦後強引に勢力圏を拡大していく脅威と映った。その結
果、イギリスの要請によって、アメリカの大統領トルーマンが、共産主義からギリシャ・トルコを守る
という大義名分を掲げた、トルーマン・ドクトリンを打ち出したのである。
以上のように、互いの重要なフロンティアで相手の勢力の価値の影響が強かったことが、相互不信と
脅威を生み、冷戦へと向かう素地を作った。カルドアが、冷戦を「想像上の戦争(Imaginary War)」と
呼んだ所以である(23)。こうした中でスターリンは、40 年代後半、ユーゴスラヴィアがパルチザンの圧
倒的強さの下、総選挙で圧勝し、独自に共産化を進めたことで、西側はそれをソ連のてこ入れの結果と
見做しソ連への警戒が強まることとなる。
冷戦体制は、47、8 年から89 年まで 40 年余続いた、20 世紀最後の欧州分断であった。西と東の、
価値とイデオロギーを巡る東西欧州の「フロンティア」の戦いは、「辺境」ではなく、欧州の中心、ベルリ
ンを含む「中欧」地域で、
「デモクラシー」を巡って行われた。デモクラシーの維持か否定かではなく、「民
主主義」か「人民民主主義」かを巡って、争われた。但し「人民民主主義」の解釈はさまざまな段階を経て
最終的発展形態は「社会主義から共産主義」とされ、現実としては反体制派(旧体制支持者や教会)のみな
らず、社会民主党や民族共産主義を含む大量の粛清として行われた。最終的に二つの「フロンティア」の
戦いは、「自由主義・民主主義の擁護」と、「ソ連圏」という「社会主義的」価値の擁護という、2 つの公
共規範を巡って争われたのである。
158
3)
)勢力圏の
ハンガリー、
勢力圏の駆け引きと独立要求
きと独立要求 (ハンガリー
ハンガリー、ユーゴスラヴィア)
ユーゴスラヴィア
それでも、当初 45-47 年の段階では、スターリンは、いまだ西欧との同盟にも関心を持ち、最低限の
領域しか社会主義の友好国とすることはなかった。ユーゴスラヴィア、ハンガリーは、戦後の「人民民
主主義」の緩やかな体制に組み込まれ、ソ連にとっての影響圏には入っていなかった(24)。逆に 1947 年
4 月 21 日のアメリカ参謀本部の会合で、ハンガリーやチェコ・ポーランドは、アメリカにとって、韓国、
フランス、オーストリア,ギリシャと並び高い国家利益を持つ国として、緊急に対応が必要と見做され
る地域であった(25)。
しかしその後、中・東欧地域は、粛清の始まりの中で、ソ連側に傾斜して行き、その後、ソ連軍は、
パリ講和会議が締結されても、「オーストリアの国家条約が締結されるまで」と言う条件付で、その通過
点として、ハンガリーとルーマニアにはソ連軍を撤退させず残留させることとなった(26)。こうして中・
東欧のソ連圏への取り込みが完成したのであった。
4)
).冷戦
.冷戦の
冷戦の終焉
しかしスターリン死後、56 年ハンガリー動乱、68年チェコスロヴァキアの春、80 年連帯運動の
ように、東西欧州の境界線地域は、繰り返し、「民族独立」、「人間の顔をした社会主義」、「連帯労組の
蜂起」と言う形で、「ソ連型」社会主義に異議申し立てを行い、議会制民主主義、法秩序、人権、労働者
の権利の獲得など、根源的な要求を掲げて、ソ連に対抗していく。こうした地域・民衆ぐるみの変革要
求が、最終的に、1989 年の「ソ連からの離脱」と「ヨーロッパ回帰」に繋がった。これらの動きは、東
と西との価値の対立から生み出されるものとして、自由主義とは、社会主義とは、独立とは何か、を根
源から問い直すものとなり、最終的にソ連型社会主義体制そのものを内側から崩壊させることとなった。
彼らの根源的要求は、体制としての社会主義に存在しなかった、独自の公共圏認識であり、それは、
「人間の顔をした社会主義」、
「民族の主権と独立」
「憲章 77」「労働者の自主管理」などの思想に結実さ
れていった。
1979 年、米ソ冷戦の終焉がマルタ島で話し合われ、冷戦期のそれぞれの「フロンティア」から、数十
万の軍隊が撤退することとなった。ロシアのワルシャワ条約機構軍が撤退を開始する中、中・東欧諸国
は、次々と社会主義体制を放棄し、歴史的悲願である「ヨーロッパに回帰」していった。冷戦期、ソ連圏
の社会主義体制に組み込まれた欧州中部の 50 年は、自己の欧州アイデンティティと法・政治・文化の再
確認の歴史でもあった。
1979 年から 15 年を経た 2004 年 5 月 1 日、中・東欧の8カ国と地中海の 2 カ国が、拡大 EU に加
盟した。「中欧」は再びヨーロッパへ、ヨーロッパの中心部へ帰ってきた。
2007 年、ルーマニアとブルガリアの加盟を経て、拡大 EU の新しい「フロンティア」は、今や、東
はロシア、ウクライナ、南は、アフリカ・中東へと向かい始めたのである。
3・
・ 拡大 EU のフロンティア
1)
)拡大 EU の境界線
1989 年から 2007 年、拡大 EC/EU は、冷戦終焉後の 18年間で、12 カ国から 27 カ国まで広がっ
た。EU の統計機関、ユーロスタットによると、拡大 EU27 カ国は、現在、総人口は約 4 億 9270 万人
(06 年)、2005 年の国内総生産(GDP)の合計は約 10 兆 9470 億ユーロ(約 1700 兆円)となって
いる。これは基本的にグローバル化に対応した政策で、それは、世界の GDP の 27.9% を占める。
(米
国は 27.1%)(27)。拡大 EU は、人口においても経済規模においてもアメリカを上回った。現在、クロ
アチア、マケドニア、トルコが加盟交渉中であり、その後テッサロニキの欧州理事会で提案された「西
バルカン諸国が続いている。コソヴォもアメリカの後ろ盾を得て、2007 年末には独立を達成しそうな
勢いである。「ヨーロッパ」は、何を基準とし、どこまで広がるのだろうか。
拡大 EU の境界線は、現在、大きく 3 段階に分けられる。
:これらの国は、加盟後も未だ、移民問題、財政問
① 内なる境界線
なる境界線(
境界線(既加盟国と
既加盟国と新加盟国との
新加盟国との差異
との差異)
差異)
題、農業問題(CAP の配分問題)、欧州憲法条約の問題、先行統合と二元化の問題、汚職や経済問題、
安全保障の問題など、現在の欧州統合を揺るがし分断化を招くナショナリズムや欧州懐疑主義の基盤と
159
なる多くの問題を、内部に「断層」として抱えている。90 年に「欧州回帰」と「中欧」を高らかに宣言し
た人々は、加盟後再び「欧州の東と西」の格差と差別・対立に苦しんでいる。(28) 自由、平等、友愛を
体現すると見られた欧州に「回帰」して最初に直面したのは、「遅れて異質、基準に達しない」とされ、
アキ・コミュノテールに象徴される 8 万ページの法令への刷り合わせ、31 項目のコペンハーゲン・ク
ライテリア(経済、政治、法律にわたる加盟条件)への適応過程であった。50 年の社会主義体制の公共規
範を解体していく、アングロサクソン型(サッチャー型)リベラリズムと市民社会という「ショック療法」
をへてヨーロッパ・スタンダードへの適応過程に適応していくのにほぼ 10 年掛かり、その間、国営企
業の解体・民営化、組合・農業労働組合の解体、欧米からの外国投資の拡大、あらたな公共圏を再編し
ていく過程の中で大量の失業者、貧困ライン以下で生活する年金生活者や下層労働者、乳児死亡率や平
均余命の下落、外国資本・商品の流入と賃金の据え置きによる購買力の著しい低下、などが問題となっ
ていくのである。
年テッサロニキの欧州理事会では、「西バルカン諸国」5 カ国を
②加盟交渉国・
加盟交渉国・候補国との
候補国との境界線
との境界線:2003
境界線
加盟させることが承認され、対外コミッショナー、クリス・パッテンは、「バルカンが加盟しなければ統
合は修了しない」と言いきった(29)。クロアチアは、最短では 2009 年、チェコが議長国のときに加盟す
ることで欧州議会の合意も得ており、2010 年前後には加盟できるといわれている。マケドニアも、早
晩それに続く。「西バルカン」諸国は、南東欧安定化協定と CEFTA(中欧自由貿易協定)を結び、戦犯
引渡し協力などを経て、加盟準備に向かいつつある。なおセルビアのコソヴォはアメリカの後押しもあ
り、2007 年中に独立を表明する機運もあり、セルビアとの間に緊張を孕んでいる。問題はトルコで、
現状では、人権問題、宗教問題、移民や労働力移動の問題、価値やアイデンティティの問題を抱え、②
の国々の中では加盟は最も遅いとされる。またトルコが加盟すれば、中東や中央アジアとの距離を EU
がどう持つかが直ぐに問われることとなる。
加盟決定が国内要因に依拠するスイス、ノルウェー、アイスランドは、国内で加盟の決定が下されれ
ば、無条件で加盟に至る国々であり経済・生活水準も EU 平均を上回るが、現状では国家統一や社会保
障などさまざまな理由から、加盟の決定は下されていない(30)。これらの地域との分断線は余り問題と
ならない。
③ EU と外部との
外部との境界線
との境界線:
境界線:現在の拡大 EU の「外部」境界線、分断と格差の境界線は、バルト 3 国を除
くソ連と中東・アフリカとの境界線である。2003 年EUはワイダーヨーロッパ政策を掲げ、東は、ロシ
ア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドヴァ、および中央アジアなど旧 CIS 地域機構の国々、南は、欧
州地中海パートナーシップ、「バルセロナ・プロセス」を締結している地中海 11 カ国+1 自治区が入り、
拡大 EU の「外延」を形成している。
その外側には、グローバルな世界との関係がある。2003 年のイラク戦争以降、拡大 EU は、2003.12
月に、欧州安全保障戦略(通称ソラナ・ペーパーSolana Paper)を打ち出した(31)。これにより EU は
グローバルな国際機関の一員たることを目指し、新しい国際秩序(複数)
、国際規範の担い手として、
アメリカに並ぶ 21 世紀の国際秩序作りをめざす。現在、中東との友好、アフリカとの関係強化、中国・
インドとの協力、南アメリカとの関係、日 EU 関係の再構築など、拡大 EU は、世界各国と関係を拡大
している(31)。
この経済圏により、拡大 EU はアメリカとそれぞれ世界の富のおよそ 3 分の一ずつを所有しながら、
覇権を争い、来るべき「アジア(中国、インド)の時代」への対抗を準備しつつある。対するアジアも現在 3
つの極の一翼を形成しつつあり飛躍的な成長を見せている。拡大 EU5 億人の経済圏は、実は人口にお
いてはアジアの ASEAN に劣り、
(ASEAN:人口 5 億 9 千万人(世界総人口
総人口の約
11%)
、GDP の合計は、
総人口
4 兆 9000 億米ドル(世界総
総 GDP の約 17%)
)人口規模、GDP 規模でも、中国・インドはいずれ早晩、
拡大欧州に並びさらに凌ぐ可能性もある。
欧州のしたたかさは、欧州各国レベルでの衰退と米・中・印の成長に対抗し、地域統合を拡大させて
いくことで、国際社会の中でアメリカに並ぶリーダーシップを確立し、国際秩序の規範のレベルで力を
掌握し、新世界秩序の構築を図ろうとしていることである。辺境に挑み、それを教化・変革し「欧州化」
していく。そこに「フロンティアとしてのヨーロッパ」の真髄が示されている。
ではその拡大 EU の最前線のフロンティアで、現在いかなる問題が存在するであろうか。とりわけ拡
大 EU の境界線①内なる境界線と③外部との境界線に焦点を当て、検討したい。
2)
)内なる境界線
なる境界線(
境界線(既加盟国と
既加盟国と新加盟国との
新加盟国との相克
との相克)
相克)
160
2004-7 年に中・東欧へと拡大した「内なる境界線」は未だに様々な問題を孕んでいる。その一つは、
「価値」の再構築、と言う問題である。
20 世紀の短期間にハプスブルク帝国、独裁体制、ソ連型共産主義体制と翻弄された中・東欧の国々
は、1990 年 「ヨーロッパへの回帰」で沸いた。ソ連の影響下で、「自立・独立」を望み続けた人々は、今
こそ自己存在のまま、ヨーロッパ回帰ができると考えていたし、自分たちを受け入れてもらえると考え
ていた。事実は異なる。
当初 EU は、これを「遅れてきた民主主義革命」と捉え、冷戦期に自らが東に追いやり戦車の下に見殺
しにした罪悪感も含め、東への償いを行おうとした。周辺地域に、PHARE(ハンガリー・ポーランド経済
再建支援プログラム、のち中・東欧開発支援プログラム)や TACIS(CIS 諸国技術援助)、INTERREG(越
境地域協力計画)など、地域振興補助金を支援した(32)。しかし中・東欧諸国の EU 加盟については、当
初、ロシアへの配慮もあり否定的であった。95-98 年に国際的な経済競争の中で拡大が必然のものと
なっても、半世紀、社会主義体制の下にあった国々を適応させていく過程は社会的には負担の大きい作
業であった。体制転換は、西にとってはお荷物、東においては庶民の多大な犠牲であった。
1990 年に西独に統合された「東の優等生」東ドイツは、統合の初の「実験台」となったが、社会主義の
価値観を捨て、180 度異なる資本主義化(市場化)、民主化、自由化を行動様式や価値のレベルで慣れて
いくのに 10 年以上を要した。
(その間、国営工場の閉鎖、50%近い失業、自主的労働意欲の喪失、自由
な創意工夫の難しさ等があった)
転換の難しさは、比較的早期に資本主義化を達成した中欧諸国でも然りであった。
ハンガリー、ポーランド、
チェコスロヴァキアの 3 カ国は、90 年代初めから早期に結束して EU・NATO
の門戸をたたきながら、NATO 加盟に 9 年、EU 加盟に 14 年要した。
1995 年、中立諸国(スウェーデン、フィンランド、オーストリア)が、何の条件もなく加盟したのに対
して、97 年のコペンハーゲンでは、
(東ドイツの教訓としても)法律・経済・社会の 31 項目の加盟条件
が課せられた。東ドイツの教訓を踏まえ、社会主義から資本主義への価値転換を、政治・経済・法律・文
化等、すべての分野で条件を満たし、80000 頁に及ぶ法令に自国の法令を適応させることができたら加
盟、ということになった。
それから 7 年の適応過程を経て、2004 年、ようやく加盟達成の頃に、移民、農業、地域、財政問題
等で、既加盟国との間に対立が生じ、移動の自由に 2+3+2、計 7 年の制限が加えられた。また東西の
格差から、
「先行統合、2 速 2 元のヨーロッパ」が唱えられ、キャッチアップよりも格差の固定化、さ
らに欧州憲法条約の改正により、特定 2 重多数決、常任議長・上級代表制度、欧州委員会の権限強化と
大国の主導権の教化が図られることとなった。
中・東欧の多くは多民族国家であり、EU 加盟による民族問題解決を期待した。現実には、95 年に発
効されたシェンゲン協定は、国内の自由移動を保障するため、「協定に加盟しない第 3 国との間に厳し
いビザ既定」が導入されることとなり、またコソヴォ・アフガンの紛争に伴う移民・難民の増加、マフィ
アの流入、武器や NBC へ行きの取引、麻薬の密売などの増加、テロの危険性により、外部の境界線の
防衛は、ユーロポルなどにより、より強化される結果を引き起こすこととなったのである。
こうした中で、「内なる境界線」の問題は、以下の点に要約できる。
①EU 益、国益、
国益、市民益 の相克 グローバリゼーションの過程で、EU の地域の補助金は、十分立
ち行かなくなり始めており、そうした中で、EU 益、国益、市民益の三つ巴の対立と、
「ナショナリズム
への回帰」が起こり始めている。拡大 EU の西も東も、現在、[守り]の時代に入りつつある。市民の
具体的な不満は、1)失業と移民制限、2)農業問題である。各国の失業率の高さの結果、東西双方に、
失業問題の解決としての移民問題がネックとなる状況が起こっている。西は、東からの安い労働力の流
入におびえる。東は、労働力移動は、グローバル化の本質、妨げるのは保護主義、拡大の本質に反する
と、加盟の「普遍主義」の原則を用いて、西欧の保護主義とダブルスタンダード批判を行っている(33)。
いずれにせよ、グローバリゼーション下でのナショナリズムの高揚、格差、移民問題、農業問題は、
世界的な課題ともなっており、調整に予断を許さない。
2)
拡大 EU の新たな「
たな「フロンティア」:
フロンティア」:ウクライナー
」:ウクライナー東西
ウクライナー東西の
東西の相克
① 東西ウクライナ
東西ウクライナの
ウクライナの対立
1991 年にソ連から独立したウクライナは、西ウクライナと東ウクライナからなり、西ウクライナ(東
ハリチナ)は、長期にわたって旧ハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー)領で、帝国崩壊後はポ
ーランド、チェコスロヴァキア、39 年以降ソ連が併合し 45 年には編入、ソ連邦崩壊後、91 年にウク
161
ライナとして独立した。東ウクライナは 1919 年にボリシェヴィキ革命に合流し、以後ソ連邦に含まれ
てロシアの影響が強い。東ウクライナが東方正教会であるのに対し、西ウクライナ市民の多くは、東方
典礼カトリック教会に属している(34)。
2004 年、ウクライナの西の国境をはさんで、隣国 4 カ国(ポーランド、スロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア)全てが
EU か NATO に加盟した。2007 年にはすべてが EU 国境となった。その結果、03 年 10 月からビザが
導入されることになり、西ウクライナは、ロシアの影響が強い東ウクライナと異なって、生活圏として
は孤立することになった。地域住民、マイノリティの多くはカトリックないしプロテスタントで、生活
空間としても歴史的ハプスブルク帝国の領域であることもあり、西の隣国との交流が深い。
体制転換後、この 5 カ国の国境が交わる地域では「カルパチア・ユーロリージョン」と呼ばれる地域協
力が機能してきた(35)。しかし現実には資金不足・産業不足などで、西側の投資を呼び込めないまま、ウ
クライナ本国よりも貧しい状態が続いていた。故に、西ウクライナ国境地域への EU5 カ国の共同援助
が、開発への力となってきた。
② 親 EU 政権の
政権の樹立
こうした中、ウクライナでは、新ロシアの権威主義的なクチマが大統領として政権を握ってきた。し
かし 2004 年 11 月、ウクライナの大統領選挙で、不正が発覚し、EU の介入により大統領選挙のやり
直し選挙が行われてから、事態が一変した。クチマ大統領とプーチン・ロシア大統領が推すヴィクトル・
ヤヌコヴィッチ候補と、西ウクライナの民衆が支え、欧州の一員を掲げる「我らのウクライナ」が推すヴ
ィクトル・ユーシチェンコ候補のうち、最終的にユーシチェンコ大統領が 12 月 26 日の再投票で勝利
したのである。こうして「我らのウクライナ」による「オレンジ革命」が実現した(36)。以後ウクライナ
は、EU と NATO への申請と加盟準備を進め、2007 年からユーロにも連動することとなった。
しかし逆に、オレンジ革命後、EU は、ロシアとの関係を意識して、ウクライナの加盟にはより慎重
になった。また東の境界線における治安とビザ検査を強化、2006 年春にはバローゾ欧州委員長は、「EU
は、ウクライナとの加盟交渉を開始する意向はない」と明言した(37)ため、ウクライナ民衆の、EU への
幻滅を生んだ。他方アメリカは、安全保障の観点からウクライナの NATO 加盟を積極化したため、ウク
ライナの東部諸地域からは、NATO 加盟反対とロシア語を公用語とする動きが再び高まった。2006 年
7 月末のユーシチェンコ大統領に対する政府危機の中、大統領と各党の円卓会議が続けられると、話し
合いの末、7 月 4 日夜、ヴィクトル・ヤヌコヴィッチを首相とする内閣が成立した(38)。
これをロシアは歓迎し、以後、ウクライナは、EU・NATO への加盟を積極的に推進する大統領ユーシ
チェンコ(西ウクライナ)と、NATO 加盟に批判的でロシア語公用語化を推進するヤヌコヴィッチ首相(東
ウクライナ)に 2 分され、不安定化することになる。
政府危機の際の「国民団結の布告」において各政党は、NATO 加盟を国民投票に付すことに合意したが、
現時点では、国民の多数は NATO 加盟反対とされる。(世論調査では、回答者の 54%は NATO 加盟に反
対、賛成は 17%)(39) 2006 年 12 月 16 日にクリミアで、NATO 加盟の住民投票を行った結果、有権
者の 59%に当たる 90 万人が参加し、内 97%が、NATO 加盟に反対投票を投じた。(人口 150 万人中
90 万人)(40) 住民投票は法的効力を持たないものの、住民投票の結果はその権利の実現を自治共和国
に要求する根拠となり、この法的判断を求める要請が、ウクライナ法務省に出された。
③ 米ロのフロンティアのはざまで
フロンティアのはざまで
2007 年 3 月 7 日、アメリカ上院外交委員会は、ウクライナとグルジアの NATO 加盟指示に関する法
案を承認した。また 4 月 10 日には、ジョージ・ブッシュ Jr.米大統領は、ウクライナとグルジアの NATO
加盟を支持する法律に署名した。これにより、米議会は、軍事協力資金の支出を次期会計年度で行うこ
とが可能となった(41)。
ロシアは、2007 年 4 月 9 日、これに対し、ウクライナ国内の世論調査の NATO 加盟反対を受け、ア
メリカのミサイル防衛(MD)システムをチェコ・ポーランドに配備することは軍拡競争を促進するとし、
ウクライナの NATO 加盟に反対を表明した。
こうした状況の下で、ウクライナ最高会議は、2007 年 4 月末、本年 12 月 9 日までに、議会選挙、
大統領選挙、ウクライナの NATO 加盟の国民投票を同時実施することを決定した(42)。これに対しロシ
アは、6 月 6 日、下院議員で外交・国防政策評議会のコンスタンチン・ザトゥーリンが、もしウクライ
ナが NATO に加盟するならば、ロシアとの友好関係を破棄する、ウクライナはロシアとの友好か、NATO
への早期加盟か、態度を明確にする必要がある、と圧力をかけた(43)。まさにウクライナを巡って米ロ
の体制と価値のフロンティアが、激突している。
こうした中、2007 年末に行われる大統領選挙の同時選挙、NATO 加盟の国民投票をかけた同時選挙
162
は、大統領選の同時選挙と NATO 加盟の国民投票の結果は、どちらに転んでも、
「東西のフロンティア」
の構図を大きく変化させることになる。
この間の議会での交渉や NATO の国民投票を見る限りにおいては、東ウクライナのロシア派に有利に
振れているように見える。ロシア派が勝てば、東のフロンティア、西が勝てば西のフロンティアとして
いずれの場合も、ウクライナは、ロシア・NATO の重要基地になろう。とりわけ、アメリカの中・東欧
への MD 配備計画により、ウクライナは、単なる「西側の一員」としての NATO 加盟ではなく、ロシア
に対抗してアメリカにつくか、ロシア側につくのかの 2 者択一を迫られている。2007 年 7 月中旬に、
オデッサで行われた NATO とウクライナとの合同演習に対しては、オデッサで抗議行動が行われ、7 月
末にはロシアの「統一ロシア」とウクライナの(ヤヌコヴィッチの)「地域党」が、モスクワで会合を持ち、
アメリカのミサイル防衛施設の東欧配備と、ウクライナの NATO 加盟について話し合いを行った。ミサ
イル防衛を含め、ウクライナは、
「米とロシアのフロンティア」双方の安全保障地域として重い課題を背
負わされている。
3)
)EU とロシアの
ロシアのフロンティアーカリーニングラード
フロンティアーカリーニングラード問題
ィアーカリーニングラード問題(44)
問題
① ロシアの
ロシアの飛び地、EU の包領
EU・NATO とロシアのもう一つのフロンティアは、カリーニングラード問題である。
1945 年までドイツ領のケーニヒスベルクと呼ばれたこの都市は、14 世紀ハンザ同盟、15 世紀にプロ
イセンの主都で、第二次世界大戦後にドイツからロシアに割譲されて 1945 年にこの地を占領した将軍
カリーニンに因み、カリーニングラードと命名された、ロシアの 79 番目の最西端の州で、欧州に突出
した安全保障上も、経済的にも最重要地域である。
ポーランドとリトアニアに挟まれたロシアの「飛び地」は、ロシア本土から最短で 400Km、ベルリ
ンから 600Km、ダンチッヒ(グダンスク)から 200Km、リトアニアのヴィルニュスから 350km の
距離にある。面積は 15100Km2(ベルギーの半分)、人口 93 万人(90 年代半ば)で、冷戦期にはソ連のバ
ルチック艦隊・空軍部隊 20 万人が駐留、西に対する海軍・空軍の最重要基地である。軍隊は現在 2,3 万
に減じたが、現在もヨーロッパに突出した、重要な軍事基地である(45)。またこの地域は、ノーザン・
ダイメンション Northern Dimension として、フィンランドがリードするロシア北欧地域協力に入っ
ているとともに、パイロット地域として、経済的には EU・北欧・ドイツの積極的投資を受けている(46)。
ポーランド・リトアニアの EU 加盟で、EU 内の「包領」となり、「自国に行くにもビザが必要」と言う
状況の中で、2002 年ロシア国際関係学会の国際会議では「ヨーロッパの新たな分断」というテーマがつ
けられて欧州各国の研究者を呼んで議論がなされた(47)。
また 2002 年 11 月には、近隣諸国との交渉が暗礁に乗り上げる中で、プーチン大統領と EU 委員長
プローディとのトップ会談が、開催された。その結果、ロシアとリトアニアとの間に、簡易トランジッ
ト書類(FTD)、または鉄道簡易トランジット書類(RFTD)が導入されることとなった。当面国家レベ
ルでの軍事・行政・商業輸送の措置優先、で、一般市民には程遠い、とされたが、その後 2003-4 年には、
一般市民もこの FTD、RFTD を使えるようになった(48)。他方で、2005 年 1 月からロシア人は、国外
用パスポートとビザの提携が必要となり、国内用パスポートを使用できなくなった。飛行機とフェリー
を使う場合のみ、ロシア国民は旅券なしでカリーニングラードとの間を行き来できる(49)。
この地域は、第 2 次世界大戦まで、ドイツに属していたことからも、北欧・ドイツとの経済・商業関係
が歴史的に強く、ほとんどのドイツ人が強制退去させられた現在も、経済活動の 7 割以上を北欧・ドイ
ツに負う状況となっている。そうした中、2005 年 4 月には、ロシア政府はカリーニングラード州に機
関 25 年間の特別経済区を創設する法案を承認した。その結果、06 年 4 月には新法が発効され、地域の
住民の生活水準を近隣諸外国の水準に向こう 5 年間で引き上げることが提起された(50)。
② EU の対応
EU は、域内に包摂されたロシア領という、「外部境界線の飛び地」問題の解決に向け、いかなる措置
をとるかについて、軍事的要所と世界的犯罪と闇市の中枢であるだけに、きわめて困難かつ重要な課題
を抱えている。2007 年のバルト・中欧地域へのシェンゲン協定の導入、「外部境界線の壁」問題の解決に
向け、いかなる措置をとるかが問題となっている。
こうした中で、ロシアの飛び地、EU の包領としてのカリーニングラード(軍事的要所・犯罪中枢、西
欧・北欧との経済投資や協力地域)を、ベラルーシ(政治的独裁)ウクライナ(東西内部対立)、モルドヴ
ァ(最貧地域)と共に、どう処遇するかは、①ロシア、旧 CIS 諸国、アフリカ、地中海地域、中東との
共存たる「ワイダー・ヨーロッパ」の成功のショーウインドー、②司法内務協力、移民の取締りとシャ
163
ットアウト、CFSP、境界線防衛強化の 2 点の成功にとっても EU の試金石であるといえる。
シェンゲン協定については、2004 年 EU 加盟の中・東欧・地中海 10 ケ国中、キプロスを除く 9 カ国
が、陸路・海路については 2007 年 12 月 31 日、空路については 2008 年 3 月 29 日に発効予定であり、
最終的には、2008 年の 10 月に決定される。
シェンゲン協定が施行されると、一旦協定締結国に入った市民は欧州全体を自由に移動できることと
なるため、ロシアに対しては治安の面からも厳しい措置が予測されていた。これに伴い、2007 年 3 月
カリーニングラードのリトアニア、ポーランドの領事館は、現在行われているカリーニングラード州住
民への入国ビザの無料交付制度は廃止され、ビザは 35 ユーロ、資産状況や銀行口座、居住証明など、
16 種類の書類の提出が必要とされることになり、カリーニングラードから隣国への入国はきわめて困
難になる予定である(51)。
③ アメリカと
アメリカとロシアのはざまで
ロシアのはざまで
安全保障に関していえば、2007 年 6 月 7 日アメリカの MD 迎撃ミサイルをポーランドとチェコに配
備する計画(52)に対して、プーチン大統領は、改めて遺憾の意を示し、代替として、アゼルバイジャ
ン領内のカバラ・レーダー基地の利用について提案した。彼は、
「これにより、チェコやポーランドにレ
ーダー基地やミサイルを配備する必要はなくなる。またテロに対抗するには、トルコなど NATO 同盟国
の南方の国に配備するだけでよい。そうすれば、ロシアのミサイルの照準を欧州または米国に向けて合
わせる必要はなくなり、わが軍の攻撃ミサイル部隊をカリーニングラード州に配備することはないしロ
シアの西部国境に移動させることはないだろう」と指摘した。(53)
プーチンの提案に続き、
セルゲイ・イワノフ第 1 副首相も、
全世界的な MD(ミサイル防衛)システムと、
全参加者がこれを共有しその管理に対等にアクセスすることを提案し、それに対してもしアメリカがロ
シアの利益を考慮に入れなければ、対抗策を講じ、特に作戦戦術システム「イスカンデル」をカリーニ
ングラードを含むロシア欧州部に展開すると牽制している(54)。セルゲイ・ラブロフロシア外相も、7
月 9 日、上海協力機構(SCO)の外相会議の記者会見で、コンドリーザ・ライス米国務長官が、MD シ
ステムの中・東欧への配備と、プーチン大統領の集団 MD システム提案の公式拒否を確認し、対抗措置
として、作戦戦術ミサイルコンプレクス「イスカンデル」を、カリーニングラードを含むロシア欧州部に
展開する可能性を強調し、ロシアと米国の国防相、外相の会合を提案した。(55)
アメリカの MD 防衛に触発されたロシアの、カリーニングラードへのミサイル配備という威嚇発言や、
ポーランド・リトアニアのシェンゲン協定加盟によるカリーニングラード住民の西への旅行の極度の困
難性は、カリーニングラード市民に多くの不安と不便を抱かせる結果を招くであろう。近年の調査では、
カリーニングラードの若者(30 歳以下)の 70%がロシアに行ったことがなく、他方 70%がリトアニアや
ポーランドを月 1 回程度訪れているという現状からも、ロシアの行動が、カリーニングラード市民のロ
シア離れを加速させる可能性もある。経済特区とロシアの西の窓として、若い市民の国際交流の活発化
を促進していたカリーニングラードで、NATO とロシアの相互のミサイル威嚇という冷戦的状況を生み
出し安全保障の「フロンティア」の対立状況に落ち込む危険性を避ける必要があろう。
4)
)南のフロンティア:
フロンティア:トルコの
トルコの加盟問題
現在、拡大 EU の際に最も問題となるのが、トルコの加盟問題であろう。
2007 年 1 月 14 日にフランスの大統領候補サルコジは、
「ヨーロッパの境界をはっきりさせるべきで
ある。全ての国が ヨーロッパの一員になる資格を有しているわけではない。これらの国の筆頭に来る
のが EU に居場所の無いトルコである。
」と述べた(56)。
この間、ともに加盟交渉を始めたクロアチアに対し欧州理事会が、2009 年の加盟を推奨決議が準備
し始めている(57)のに対して、トルコの加盟の時期は未だ明確ではない。エルドアン外相は、EU は「キ
リスト教クラブ」と言う批判が出ており、トルコの EU 支持が 70%台から下がってしまうのではないか
という危惧を表明している。
欧州委員会拡大担当のオッリ・レーンは、同年 3 月、キプロス問題の解決などについて「トルコは、
加盟にあたり疑義を挟む余地がないほどにヨーロッパの一国である。問題を抱える地域での安定にむけ
努力し、ムスリム世界にとっての民主主義への入口としての役割を果たした」と評価し、また「EU が
さらなる拡大を拒絶し、トルコとバルカン諸国に対し容易に背を向けうる」可能性もあるが、それは「大
きなチャンスを逃し、EU が世界秩序内で役割を縮小することにもつながる」との見解を示した(58) 。
トルコの加盟は、グローバル化の下での EU の経済発展たる、競争力ある労働力、安価な商品、大きな
市場としてはきわめて重要であり、安全保障面でも NATO の一員として対中東政策に大きな効果を期待
164
できる。ただし、(政治)民主化、人権などで問題が残っており、
加盟のためのコンディショナ
リティ達成について、大国トルコのプライドが、中・東欧のように一つ一つの条件を飲んでいく過程を
受け入れるのかという懸念もある。
こうした中で、最近、2007 年 07 月 20 日 Hurriyet 紙に、欧州議会ハンス‐ゲルト・ポッテリン
グ議長は「欧州議会の大多数は、トルコが加盟基準を満たすことを条件にトルコの正式加盟を支持して
いる。しかし私自身は、トルコが EU にとって特別なパートナーになるほうが良いと考える。さらに我々
は、ウクライナやアラブ諸国とも特権的パートナーシップの問題を考えるときにきている。EU 拡大の
問題について大げさな行動は避けるべきで、そうでないと、ローマ帝国の崩壊に似た結末を避けられな
い可能性がある」と語った。ポッテリング議長は、また「どんな場合でも交渉の継続を保証するものは、
トルコが EU の価値観を受け入れ、エルドアン政権が始めた改革を続行することだけだ」として、トル
コが EU 的価値観に対応することを求めた。さらに彼は、EU 憲法がキリスト教的価値観について明確
に言及していないことを遺憾と表現している(59)。
拡大 EU のフロンティアは、東南それぞれの場で、異なる価値の対立を招いており、「フロンティア
最前線」のはざまの地域に、いやおうなく、どの価値を受け入れるのかの選択を迫り、自己アイデンテ
ィティの変容を要求しているのである。
まとめ:
まとめ:フロンティア拡大
フロンティア拡大を
国際規範の再建と
再建と公共圏の
公共圏の現実―
現実―ナショナリズムの
ナショナリズムの成長
拡大を巡る国際規範の
拡大 EU は、2004 年から 2007 年に中・東欧地域のほとんどを包摂し、「西バルカン」諸国を除い
て、実質的に欧州の冷戦体制を終焉させた。しかしそれと並行する形で、アメリカの MD(ミサイル防衛)
の東欧への配備計画を示したため、米ロ関係は新たに緊張しており、ウクライナ・カリーニングラード
など欧米とロシア相互のフロンティアを巡る、新たな対立、さらにヨーロッパとイスラムを巡る新たな
対立を生み出しつつある。そうした中で、それぞれのフロンティアが推進する最前線の住民に緊張を強
いている。これらの地域では、米ロの安全保障対立により、現地の市民の意向が軽視され、民主主義や
自由主義など「普遍的価値」は導入するものの EU には加盟させない、という問題も孕んでいる。
EU 型グローバル・スタンダードへの懐疑は、EU 中心部の大国でも始まり、ドイツで、欧州憲法条
約を国民投票で拒否したフランスで、フランスの大統領選挙で、ポーランドの双子の大統領と首相の政
権下で、グローバリゼーションの拡大とともに、ネオ・ナショナリズム、ポピュリズムが進行している。
移民の流入、安い労働力、物資の流入による「国際競争力の拡大」と、境界線での異質者・不審者のシャ
ット・アウトの必要性、と言う矛盾。
欧州国民に負担を強いた冷戦の東西分断が終焉した後、グローバリゼーションと拡大 EU は新たな規
範への統合と経済格差を、拡大のフロンティアで、さらに欧州内部で生み出している。それは新たな公
共圏的秩序の創出となるだろうか。
Agh Attila は、拡大 EU の未来に向けて次の 4 つのシナリオを提示している。
1)キャッチアップと EU 統合の進行[ヨーロッパ化]
、2)統合力の弱まり、分裂・離脱「ナショナ
リズム化」、3)内部分裂、先行統合、キャッチアップの遅れ[再分断]、4) 中心と周辺、地域単位の
並存、
[地域主義](60)。この 4 つのシナリオにおいて、興味深いことに、彼は、EU テクノクラートが
推し進める 1)ではなく、それぞれの多元性が保障されつつ緩やかに発展していく 4)の地域主義を推
奨している。現在進行している、各国のナショナリズムの要求を掬い取り利害の分裂を避けるためにも、
拡大 EU のフロンティア地域を含む、価値の共存という新たな課題が求められているのではないだろう
か。
*本論文は、文部科学省学術研究費 基盤研究(B)(海外学術調査)羽場久美子「拡大EUの境界線をめぐ
る民族・地域格差とヨーロッパの安全保障―アメリカの影響―」(2005-2008 年度)の助成金と、公共圏と規範
研究の研究活動からの知的刺激を受けつつ執筆筆したものである。記して双方の研究プロジェクトに感謝の
意を表したい。
注
(internet は、2007.7-8 月対応のものである)
1)筆者はこの間、「拡大EUからイラク戦争に見る中・東欧の『民主化』」比較政治学会大会報告、2006 年
5 月、拡大EU下のナショナリズムと民主主義」慶応大学 COE『EU統合の軌跡とベクトル』慶応大学出版
会、2006 年、またイタリア・パドゥア大学での EU の COE メンバーとして、著書 Intercultural Dialogue and
Citizenship, Translating Values into Actions, A Common Project for Europeans and their Prtners, (ed.by
Leonce Bekemans, Maria Karasinska-Fendler, Anotnio Papisca), への論文”Democracy,, Nationalism,
165
and Citizenship in he Enlarged EU, Effect of Globalization and Democratization”の論文などを上梓してき
た。他方、EUの拡大と民族・境界線の問題については、ここ 10 年間近く研究を進めており、以下のような
論文を書き溜めてきている。羽場久美子「EU・NATOの拡大と中欧―「境界線上」の民族―」宮島喬・羽場久
美子編『ヨーロッパ統合のゆくえー民族・地域・国家』人文書院、2001 年、羽場久美子「『EUの壁』
・『シェ
ンゲンの壁』―統合の外に住む民族の問題―」日本国際政治学会編『国際政治』第 129 号 2002 年 2 月.羽
場久美子「拡大EUとその境界線を巡る地域協力―「地域からなるヨーロッパ」再考―」『歴史評論』特集:20
世紀ヨーロッパ史の中の<境界>、no.665.2005 年 9 月. Kumiko Haba, “EU Enlargement, Border
Question and Wider Europe: Wall of the EU, Wall of the Schengen”, Central European Conference in
Budapest, 2003, Kumiko Haba, “The EU’s Wider Europe Policy towards Russia”, ICCEES World
Conference, Berlin, July 2005. Enlarged EU and Border Questions, World International Studies
Committee(WISC) Conference in Istanbul, Turkey, August, 2005.
2)山内進『北の十字軍―「ヨーロッパ」の北方拡大』講談社選書メチエ、1997. 山内進編『「正しい戦争」
という思想』勁草書房、2006.
3)山内進『「正しい戦争」と言う思想』勁草書房書房、2006.
4)ルイス・ハレー、太田博訳『歴史としての冷戦』サイマル出版、1970.
5)藤本和貴夫「ロシアとヨーロッパ」谷川稔『歴史といてのヨーロッパ・アイデンティティ』山川出版社、
2003. 森安達也編, スラヴ民族と東欧ロシア, 山川出版社, 1986.6.
6)National and European Identities in EU Enlargement, ed. by Petr Drulak, Prague, 2001.
7)
ユルゲン・ハバーマス『公共性の構造転換』未来社、1994. エドワード・サイード今沢紀子訳『オリエ
ンタリズム』平凡社、1986 年。
8)
Szabo Istvan, Napfeny, Sunshine, 2003.
9)Norman Davis, Europe; A History, Oxford University Press, 1996. Krzysztof Pomian, L'Europe et
ses nations. Paris : Gallimard, 1990.
10) 谷川稔編『歴史としてのヨーロッパ・アイデンティティ』山川出版社、2003 年。
11) Steven Blockmans & Adam Lazowski(editors), The European Union and Its Neighbours, A legal
appraisal of the EU’s policies of stabilization, partnership and integration, T.M.C. Asser Press, The
Hague, 2006. States, Nations, and Borders, The Ethics of Making Boundaries, Ed. by Allen Buchanan,
Margaret Moore, Campridge University Press, 2003. Beyond EU Enlargement, Volume 2, The Agenda of
Stabilisation for Southeastern Europe, Bertelsmann Foundation Publishers, 2001.Wim van Meurs(Ed.),
Prospects and Risks Beyond EU Enlargement, Southeastern Europe: Weak States and Strong
International Support, Leske+Budrich, Opladen, 2003.
12) クシシトフ・ポミアン、松村剛訳『ヨーロッパとは何かー分裂と統合の 1500 年―』平凡社、2002.
13)
ノーマン・デイヴィス、別宮貞徳訳『ヨーロッパ』1、古代、共同通信社、1996. p.56.
14)
同、デイヴィス『ヨーロッパ』古代、p.47.
15)この地域の名称の代表的な分析として、Oscar Halecki, The Limits and Divisions of European History,
London. and New York, 1950(鶴島博和監訳『ヨーロッパ史の時間と空間』慶應. 義塾大学出版会、2002 年)
16) Geir Lundestad, The American Non Policy towards Eastern Europe, 1943-1947, Oslo, 1978. ゲア
ルンデスタッド、河田 潤一訳、『ヨーロッパの統合とアメリカの戦略―統合による「帝国」への道』、叢書
『世界認識の最前線』 、NTT 出版、 2005 年。
17)
Document of the European Union, これらについては既に多くの書籍が出されているが、代表的なも
のとして、ヨーロッパの統合と分断、ソ連(,ロシア)への対抗と統合については、Michael Welsh, Europe
United? The European Union and the Retreat from Federalism, Michael Welsh, St. Martin’s Press, N.Y.
1996, The Idea of A United Europe, Political, Economic and Cultural Integration since the Fall of the
Berlin Wall, ed. by Jamal Shahin and Michael Wintle, St. Martin’s Press, N.Y. 2000. NATO 1948, The
Birth of the Transatlantic Alliance, Lawrence S. Kaplan, Rowman& Li55lefield Publishers, Inc., Lanham,
Maryland, 2007.
18)壁博物館 in Berlin, 2007. Hugh Seton-Watson, The East European Revolution, Westview Pr ,1983.
Charles Gati, Hungary and the Soviet Block, Duke Univ Press, 1986.
19)NATO 1948, The Birth of the Transatlantic Alliance, Lawrence S. Kaplan,Rowman, Lanham, 2007.
永田実『マーシャル・プラン』中公新書、1990 年。ヴォイチェフ・マストニー、秋野豊・広瀬佳一訳『冷戦とは何だった
のか』柏書房、2000 年。羽場久美子「東欧と冷戦の起源再考―ハンガリーの転機:1945~1949ー」
『社会労
働研究』45 巻 2 号、1998 年 12 月。羽場久美子「ハンガリーの占領と改革」
『占領改革の国際比較:日本・ア
ジア・ヨーロッパ』中村・油井・豊下編、三省堂、1994 年など。
20) スターリン・ノート提案とその経緯については、清水聡「『スターリン・ノート』とドイツ統一問題」
『政治学研究論集』明治大学大学院政治経済学研究科、第 10 号、1999 年 9 月参照。
21) 経緯は、L.S. Kaplan, op.cit, 2007. 及びバンジャマン・アンジェル&ジャ k ック・ラフィット、田中俊郎監訳『ヨーロッパ
統合』2005.
166
22) G. Lundestad, op.cit, 1978.
23)Mary Kardor, The Imaginary War, Understanding the East-West Conflict, Oxford, Blackwell, 1990.
24) Gati, Hugary and the Soviet Block, op.cit, 1986.を参照。
25)
FRUS 1947.4.21.
26)
この経緯については、羽場久美子「東欧と冷戦の起源再考」、前掲、1998.12.
27)ユーロスタットのEU統計。
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20061218AT2M1801X18122006.html
28) 象徴的なものとして、ポーランドとドイツの歴史教科書共同作成問題がある。冷戦の終焉後始められた
ドイツとポーランドの歴史教科書作りでは、ポーランド側は合意できずに何度も席を立ち、両者が合意でき
たことは唯一「共同の歴史的事実は書くことができない、それぞれの歴史的事実を併記するだけ」ということ
であったとされる。他方、ポーランドはウクライナに対して同様の加害を行った、という事実も指摘された。
Jadviga Rodovic(Charge d'Affaires, Polish Embassy), 歴史の見直し:戦争を考える「ポーランドとドイツ
の歴史教科書作り」、”Reconsideration of History; Rethinking of the War, Making the Text of History
between Poland, Germany and Ukraine―2006.7.16.法政大学大学院付置ヨーロッパ研究所報告会。
29)テッサロニキ・サミットと西バルカンへの拡大に関するパッテンの発言については、
http://www.europa-eu-un.org/articles/en/article_2444_en.htm
30)コソヴォ問題については、アハティサーリ国連事務総長特使が、[監督下の独立]を提案し、国連安保理で
決議の採択が行われる可能性(タンユグ・ニューヨーク国連本部情報。2007.6.21.)RP に対し、EUはコソヴォ
に対し一方的な独立宣言は控えるべきだと諭した(タンユグ通信・共同 RP 2007.6.21.RP)。他方、NATOの
デホプスヘッフェル事務総長は、コソヴォの独立を認めるべきことをプーチン大統領に伝えた(タンユグ通
信・共同 RP.2007.6.26.)。これに対し、プーチン・ロシア大統領と、セルビアのタディッチ大統領は、コソヴ
ォ独立に否定的であり、それはバルカン半島の安定と地域の経済発展を阻害することで合意している。(タン
ユグ通信・共同。2007.6.24.RP) しかしその後の展開では、独立もやむなしという状況へと移行している。
31) 欧州安全保障戦略については、http://www.consilium.europa.eu/uedocs/cmsUpload/78367.pdf ワイダ
ー・ヨーロッパ、近隣諸国政策については、http://ec.europa.eu/world/enp/pdf/com03_104_en.pdf、および羽
場久美子「ワイダー・ヨーロッパ」森井裕一編『国際関係の中の拡大EU』信山社、2005、羽場久美子「拡
大EUの現状と課題」
『海外事情』
、羽場久美子『拡大ヨーロッパの挑戦』を参照。
32) PHARE,TACIS についてはそれぞれ、EU のホーム頁、
http://ec.europa.eu/enlargement/financial_assistance/phare/index_en.htm
http://ec.europa.eu/external_relations/ceeca/tacis/ より、各項目を参照。
33)羽場久美子「EUNATOの拡大と中・東欧」『国際政治』
、羽場久美子「『EUの壁』
・『シェンゲンの壁』
―統合の外にいる民族の問題?」『国際政治』
、羽場久美子『統合ヨーロッパの民族問題』羽場久美子『拡大
するヨーロッパ 中欧の模索』岩波書店 1998 年、羽場久美子『グローバリゼーションと欧州拡大―地域・ナ
ショナリズムの成長かー』御茶ノ水書房、2002 年。羽場久美子『拡大ヨーロッパの挑戦』中公新書、2004.
などを参照。
34)34)ウクライナに関する文献については、Ann Lewis 、The Eu and Ukraine: Neighbours, Friends,
Partners? (Europe's Eastern Borders) Kogan Page Ltd (2003、Ukraine, the EU and Russia: History, Culture
and International Relations (Studies in Central and Eastern Europe), Steven Velychenko (ed.), Palgrave
Macmillan , 2007, Poland and Ukraine: A Strategic Partnership in a Changing Europe, Kasia Wolczuk
Roman Wolczuk、Royal Inst of Intl Affairs, 2003, Ukraine and Europe: A Difficult Reunion (European
Dossier Series), Marko Bojcun, Kogan Page Lt, 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後
の大国』中公新書、2002 年。
35)カルパチア・ユーロリージョンについては、Carpatian Euroregion, Budapest, 1998?
36) ウ ク ラ イ ナ の オ レ ン ジ 革 命 に つ い て は An Orange Revolution:A Personal Journey Through
Ukrainian History, Askold Krushelnycky, Random House UK Ltd, 2007 を参照。
37)バローゾ欧州委員長のウクライナ評価については、◎「ウクライナとEU加盟交渉開始せぬ」─バローゾ
欧州委員長、Moscow Broadcast.2006. 4.11. RP.
38)2006 年 8 月のヤヌコビッチ政権樹立については、
モスクワ放送 2006 年 8 月 5 日、8 月 22 日、Radio Press.
39) 世論調査によるウクライナのNATO加盟評価については、「NATO加盟に揺らぎ」『世界日報』、
2006.3.25. http://www.worldtimes.co.jp/special2/orange/main.html
40)クリミアにおける 2006 年末のNATO加盟に関する住民投票については、Moscow Broadcast,
2006.12.17.RP.
41)アメリカのウクライナ・グルジアに関する軍事協力資金の支出については、Moscow Broadcast, 2007.3.8.
3.17.RP. ブッシュ政権のスポークスマンらは以前、例えばグルジアは1000万ドルを受け取ることがで
きると言明した。
42)ウクライナの大統領選挙とNATO加盟の国民投票の同時選挙の決定については、
167
Radio Russia, 2007.4. 30.RP.
43) ロシアの友好関係破棄に関する圧力については、Russian Voice, 2007.6.5.
44)カリーニングラードについては、EU 最新資料 Report from the Commission , The facilitated transit for
persons between Kaliningrad region and the rest of the Russian Federation, Brussels, 22, 12, 2006.
Kaliningrad Oblast as a Region of Co0operation, Andrey Klemeshev et al., Kaliningrad, 2004. The EU
& Kaliningrad, ed. by James Baxendale et al. Printed inEuropean Union, 2000. Rihard J. Krickus, The
Kaliningrad Question, Oxford, 2002..を参照。
45)カリーニングラードの最近の基礎資料、Sergio Vecchi, Kaliningrad, A Russian Window on Europe,
Brussels, September, 2006.
46)Northern Dimension やパイロット地域としての協力関係については、Support to Transforming the
Kaliningrad Oblast into a Pilot Region of Russian –EU Cooperation, East West Institute, Kaliningrad,
2003. Kaliningrad Region of Russia and the EU Enlargement, Issues of the Pan European Integration,
Analytic report, Kaliningrad, 2003.
を参照。
47)Russian International Studies Association(RISA)における「ヨーロッパの新たな分断」に関する国際
会議については、資料 The 3rd Convention of the CEEISA, NISA, RISA, Managing the Recreation of
Divisions in Europe, 20-22 June 2002. in MGIMO, Moscow, Russia.
48)FTD, RFTD に関する、パンフレットや資料については、Report from the Comission, the facilitated
transit for persons, op. cit, 2006,12, 及び Kaliningrad Region of Russia and the EU Enlargement,
Analytic report, op.cit, 2003. 尚、筆者は、2003 年の夏および、2004 年の冬にかけて、2 度、カリーニング
ラード及び大学を訪問し資料を蒐集した。2 度目は、FTD,FRTD の施行に伴い、実際に、カリーニングラー
ドから、リトアニアのヴィルニュスーベラルーシのミンスクまで、FTD,FRTD に基づく旅行を行う人々を調
査した。ほとんどはロシアに帰る労働者が多く、東に出るカリーニングラードの人々は見かけなかった。
49)Moscow Broadcast, 2005.1.1.RP
50)Moscow Broadcast, 2005.4.1.RP
51)Radio Russia, 2007.3.3.RP
52)Missile shield in Poland, Czech Republic, 21 February 2007,
http://cndyorks.gn.apc.org/yspace/articles/bmd/europe_shield_rice.htm
Putin Attacks U.S. Missile Defense Plans, 15 February 2007.
http://cndyorks.gn.apc.org/yspace/articles/bmd/putin_attacks_md_plans.htm
53)Radio Russia、2007.6.11RP
54)Moscow Broadcast、2007.7.8.RP
55)Moscow Broadcast、2007.7.9. RP
56) 2007 年 1 月の、サルコジのトルコ批判については、
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News2007115_4354.html
57) クロアチアの加盟交渉進行と、トルコの遅延に関しては、2007.3.4 Zeman;
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20070315_045719.html)
58) 拡大担当委員オッリ・レーンのトルコ評価と、それがEUの世界秩序に果たす役割とについて述べてい
る文面は、2007.3.21.Millet :
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20070321_221210.html )
59) EUとトルコの特権的パートナーシップに関しては、欧州議会ポッテリング議長の
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20070820_105241.html を参照。
60) Agh Attila, Institutional Design and Regional Capacity-Building in the Post-Accession Period,
Hungarian Centre for Democracy Studies, Budapest, 2005.
* 論文脱稿後、藤本和貴夫教授の組織する日露歴史学研究国際交流の国際会議に参加する機会があり、ウ
ラジオストックの国際会議に出かけた。そこにおける多民族、多言語研究、移民研究などから、極東におけ
るフロンティアの重要性、フロンティア・境界における軍事的、社会学的、移民・地域統合研究の重要性が、
中欧以上に実質的に存在することを、改めて認識させられた。またロシアの東と西の境界線の問題意識や共
通性にも刺激を受けた。今後もさらに国際規範と公共圏意識の変容を巡るフロンティア研究の発展に注目し
たい。
168
14.
14.The EU Enlargement, Border Question and Wider Europe
Dr.
Dr. Kumiko Haba
Professor of Hosei University
1. Introduction :Border Question(1) and Wider Europe
The author wishes to investigate that border-nationality question under the Enlargement
of the EU and Wider Europe.
The “Wider Europe”-an Policy of the EU was introduced at the end of 2003, because first,
economic globalization and Energy Policy with Russia, second, Security reason and Poverty, and
bankrupt states surrounding the EU, and menace of terror, which are already analyzed in detail in
this other articles, and moreover there is a third reason, nationality and border question, as
cohesion – coexistence policy of several nations and minorities, cultures, religions among national
borders.
The EU Enlargement towards Central European 10 countries lastly accomplished in
Dublin, Ireland in May 2004. The NATO is also enlarged to 7 Central and Eastern European
(CEE) countries at the end of March 2004.
By these two enlargements, most of former Eastern Europe affiliated the European
organizations, and the integrated New Europe was realized. Most of the Russia/CIS and Eastern
Europe are already joined to the OSCE and EAPC.
However, integrated and enlarging Europe seemed to be a “Division of Europe” by Russia
and other border countries especially outside of borders. (Managing the (Re)creation of Divisions
in Europe, 20-22 June 2002, of the CEEISA(Central and East European International Studies
Association), NISA(Nordic International Studies Association, and RISA(Russian International
Studies Association) International Convention at MGIMO, Moscow 2002. )
My article is concentrating on that problematic issues during this period.
Integrated and Enlarged Europe under the free movement of people, goods, service and
money is really effective to do economic community, however, if one is outside of the EU border,
especially seeing from the Eastern part and Southern part, it looks as if it makes new economic wall
or protectionism or double standard of Western Europe(2).
That is one of the reason why the Wider European policy was adopted and declared the
trans-border economic, regional and autonomous cooperation in the late 2003.
Why occurred the border question of Europe?. And What was the problem of them? This
is rudimentary, but very fundamental question.
First, it is the question of European notion, so called European Identity.
It means, “What is Europe, and what is not Europe, and until where is it Europe, from where is it
not Europe?”. It is not only the border, territorial question, it might be caused sometimes
geopolitical, cultural, religious question, or psychological question, or modernization’s,
democratization’s criteria.
Second, it is the legal question, the question of the Schengen border.
Under the Schengen Treaty(3), the citizen of the EU, can go freely everywhere until the end of the
EU border without any passport control. But if one is not the citizen of the member country of the
EU, it is very difficult to come into the border and there is a severe passport control.
So it makes not only legal distinction, but some psychological discrimination, we are not
Europeans, especially for just outside of the border citizens, it made new differentiation, or so
called “New Division” of the EU in the new border, especially in the turning century in 2000-2002(1).
Because they think why they are not included into Europe, why they are outside of Europe, and
felt the Europe was not integrated for us, Europe was divided and shut out, just in front of us.
The Enlargement of the EU and NATO caused the appearance of the psychological obstacle
for the people outside of the new border countries, so called “the Wall of the Schengen”, especially on
2003. it means the Enlarged EU brought differentiation in the border like invisible lace curtain.
According to the enlargement of the EU, the border of the EU moved to East: first it was
from the east border of Western Germany, second it became eastern border of Poland, then to
Baltic Countries, that means to break into the former Soviet Union and to the eastern border of
169
Romania, Moldova, and Bulgaria in 2007. Russia and former Soviet Union (Ukraine, Belarus) was
surrounded by the new EU border.
That influenced to “the Orange Revolution” in Western Ukraine which broke out in
December of 2004, as they insisted “We are Europeans” between the Enlarged EU and influence of
Russia. Besides, in the Eastern Ukraine, the Influence of Russia and Economic strong tie with
Russia was continued. So the Relation between Russia and the EU was very complicated in
East-West Ukraine. It makes not only the differences to outside of the border, but gave many
influences to people’s lives and oppressed feelings in outside countries.
The people who live in ‘outside’ of the European Integration, feels the new border of the EU
very severely. The citizens of the countries which did not nominate to the enlargement group, are
very much dissatisfied to the Border.
Moreover after the Maastricht and Schengen Treaty came into effect, the management of
the border control of the EU becomes severer to defend and guarantee of the free movement of
people, things, money, services and information, against immigrants inflow, dangerous armaments
and Mafias from outside, energy and economics like Russian and Ukrainian Mafia and the Russian
armament, flowing into through the EU borders. It might be contradictory, the EU has to defend
the free movement inside the border, so it has to control or shut out severely the free movement
outside the border.
According to the enlargement of the EU, the border of the EU moves to East until the
Eastern border of Poland, Baltic Countries, Romania, and Bulgaria. It makes big differences
between inside and outside countries, and gives many influences to people’s life in Central
European countries.
After the Maastricht Treaty came into effect, the management of the border of the EU
becomes severer for the guarantee of the free movement of people, things, money, and information,
and against Russian and Ukrainian Mafia and the Russian armament flowing into through the EU
borders. It has to cope with the ethnic conflicts and the large quantity of emigrants, either.
So the border of the EU and NATO became the legal wall or a paper curtain, which shut
out the cheep labors, immigrants, and the dangerous armament. And these border policy of the
EU seemed to the Economic protectionism and blocked economies, and criticizes from Russia and
EU outside countries started the cheep agricultural good.
So in this article, the author wishes to investigate three things.
First, Border question and minority questions between Hungarian Border of Romania,
Second the Kaliningrad Question, which is the enclave territory in the EU. and not only economic
cooperation but also cohesion coexistence policy between Russian and EU border citizens. third,
Wider Europe, EU’s Cohesion Policy, from the view point of not only energy and economic policy, but
also co-development and international coexistence policy.
In the process of the EU Enlargement, there are three borders of the EU (See Map 1).
First border is the recent EU and the first 10 applicant’s countries borders, which will
disappear in May 2004. There are already no big problems. People who pass it need no visa and no
passport control. But it remains some concrete problems passing through cheep agrarian goods,
cheep labor, and some security things (powder and shot ammunition, drugs, and mafias) actively
of CFSP and immigrant limitation from Western Europe.
Second border lays Romania, Bulgaria and Croatia. Here also starts the remission of the
visa. Romania and Bulgaria joined to the NATO in the may 2004, and they will be able to join to
the EU in 2007-8.
The third one is biggest and more severe Problems. It lies in Ukraine, Belarus, and Russia.
These countries can not find the possibility to join to the EU and NATO until now, and
some of them are instable situation by ethnic conflicts, autocratic government, and unconsolidated
borders. Here people feel real but invisible pressure from the EU.
So the border policy, especially CFSP and Judiciary Home affaires Policy of the EU bore
complex problems about habitant daily labor and security policy.
Chapter 1: The Schengen Treaty and the minorities outside of the EU Integration.
First, we would like to investigate the nationalities outside the EU Integration.
The Schengen treaty is concluded in Schengen village, Luxemburg in June 1985.
170
It
regulated about the free movement of the goods, and the immigrant policy in 1990 and executed
legally in March 1995.
After the Maastricht in 1993, it stipulated that the nations which conclude this treaty,
need not to show the passport or identification card to pass the border. This Schengen treaty was
incorporated in the Amsterdam Treaty. But on account of guarantee on the free movement inside
of the EU, they have to simultaneously guarantee the security inside the region, so they need much
more severe to control the border. Already in the Maastricht Treaty, it is regulated that “the Third
country’s Nation, which has to carry visa”.(4)
So due to making a system which guarantees the free movement for the EU participants,
on the contradictory, it restricts severely the movement of outside emigrants.
It is concretely control of visa, border severe control, and the exclusion of the Third Nations.
It looks like the division of Europe, not integration of Europe, especially to Central and East
European people.
Until then, Central and Eastern Europe existed as comparatively a large sum of common
history and experiences, so they went in and out relatively freely. But after the collapse of the Cold
War, although the significance of the national border faded out, goods, information, people and
weapons flew into and out freely from the EU border under the globalization, it needed the severe
security among borders as the CFSP policy. It gave a difficult and complex influence toward
Central and East European minorities.
1) The minority’s situation after the System transformation
After the System Transformation in 1989, the characteristics of the minorities drastically
changed.
One is the increasing of the immigrants to the West.
It started from 1980s, when the border is comparatively free.
Especially young men, intelligentsia, skilled labors went out from the minority villages to
over the border legally or illegally. According to this, the minority regions loosed population
especially in Romanian Transylvania.
Emigrants were very much increased after the collapse of the Cold War. The Emigrants
number from minority villages in only one year 1990 was four or five times more than the sum of 32
years during from 1958 to 1990. Especially skilled labors from 14 to 49 years old moved out from
their countries of Romania, Yugoslavia, or Carpathian Ukraine (5).
By the effect of the great number of emigrants, proportion of the Minorities in Central and
Eastern Europe is decreasing rapidly. The symbolic case is the example of the Transylvanian case
in Romania.
2) The Hungarian Minority outside of the Integration.
The one of the big problems in 2002 was the Hungarian Minorities in Central and Eastern
Europe.
After the break up of the Austria-Hungarian Monarchy and the Trianon Treaty of First
World War in 1920, the new territorial border was drawn, and by the result of that, 3 million
Hungarian minorities remained outside of Hungarian state until now. The Hungarian minorities
outside of the country are: 1,624 thousand in Romania, 567 thousand in Slovakia, 341 thousand in
Yugoslavia, 156 thousand in Ukraine, 22 thousand in Croatia, 8,5 thousand in Slovenia, and 3,5
thousand in Austria(6). It is the third or fourth Minorities in Europe, the first is Muslims 15
million, and Russians 10 million, and Albanians 3 million.
Between the Two World Wars, there were many problems, for example, the oppression of
minorities, demand of territorial modification and instability of the nation states.
For these Hungarian Minorities, they strongly wish to move freely after the collapse of the
Socialist system, however, the Schengen border limited their movement severely again.
There is one typical example of the decreasing of minority in Romanian Transylvania.
First, the drastic emigration and the effect of that, depopulation and mental labors and young
generation’s outflow.
At the Medical Science and Pharmaceutical college in Tirgmures (Marosvasarhely) in the
central region of Transylvania, which is one of the Hungarian Minorities villages, it was almost all
professors, pharmacists, and students were Hungarians in statistics in 1948, but under the
171
Ceausescu era, the percentage decreased drastically to 55,15 % were Romanians and 43,46% were
Hungarians. Although after the System Transformation, the Hungarian number decreased only
18,49%,and 80,5% were Romanians in 1995(7).
Main reasons of it, most of professors, pharmacists and students of Hungarian Minorities
went out to Hungary or other foreign countries, because of more free and high grade research, or
high wage. And they did not come back again. Such situation made frustration to remainders
and makes to feel minority problems more hopeless.
Second problem is reorganization and strengthening of the Nation State in multinational
states.
After the Collapse of the Cold War Democratization, ‘Nation State’ and ‘National language’
were emphasized and forced to majorities and minorities in Yugoslavia, Romania, Slovakia and
Ukraine in 1990s. Under this slogan, the cultures and languages of Minorities are oppressed, and
financial aid was cut off.
Zoltan Tibori Szabo, Hungarian minority and a correspondent of Nepszabadsag in
Romania, stressed that among 40 Hungarian classmates in his high school, only 2 persons
remained there, almost of all others went out to foreign countries or had dead.(8)
It was said that ‘Nation State’ was a reaction against weakening of the national centripetal
force under the Globalization, system transformation, and free movement of emigrant over the
border, and division of the Federal states as Yugoslavia and Czech-Slovakia.
It is a little contradictory, however, nation states divided from the federal state, minority
became more difficult to live, because the ‘new nation state’ forced their new language and culture.
After the independence of Slovakia and Ukraine,
minority has to learn “new” national language, Slovakian or Ukrainian.
The leaders of Hungarian minority in Slovakia insisted that they were easy to live and to
fight for their minority in the “multinational” and federation state not in the new “nation state” (9).
Third is severe poverty in the minority regions.
The collapse of the socialist system and the euphoria of “One Europe” made illusion of
“freedom and wealth” in Central and Eastern Europe, but several years later it makes more big
difficulties among minorities regions.
For example, the GDP of Hungary is 5962 in 1996, but that of Ukraine, 3310 dollar in the
same year(10). In the international conference of Hungarian Minority in West Ukraine, they could
not get even 20 dollar in a month, and complained that it was impossible to give educations for
children because of poverty (11).
Chapter 2: Minority problems under the EU Integration outside of Hungary
1)
1) The Status Law of Hungarian Minorities outside of Hungary
0n 19 June, 2001, Act XII of 2001 the Status Law of Hungarian Minorities in neighbor
countries was adopted in Hungarian Parliament under FIDESZ Central Right Government (12).
At that time 92, 4% of representatives in Hungarian parliament supported this law. But only two
years later, it had to change in the new Central Left (MSZP) Government by the opposition of
Romania, Slovakia and the advice of the European Commission (13).
Why Hungarian government presented this status law, notwithstanding that Hungary was
the one of the top runners toward the EU applicants and estimated highly liberal until then? And
what type of the law is it?
Nemeth Zsolt, Hungarian Foreign Secretary, expressed that the Status Law defends the
Identity of Hungarian minorities who live in neighbor country(14) especially under the
strengthening of the Nation State reorganization in Central Europe.
It was provided that the Hungarian status law guarantees Hungarian Minorities in the
following points.
(1) To give Hungarian identity card to who explains himself/herself Hungarian.
(2) To give free travel tickets to children under 6 years and persons over 65 years. For other
Hungarians, give aid until 90% discount travel ticket 4 times in a year.
(3) To give employment: 3 months limit or a little longer inside the new EU border.
(4) To give social security rights: Medical treatment, pension system by paying the insurance
premium.
(5) To give education and cultural right, fund of education and culture, scholarship(15).
172
Hungarian minorities, especially old people were glad to adopt this law in Hungary,
because they can guarantee their life or small visit to Hungary.
But this law raised up serious objections from Romania and Slovakia.
Romanian government protested by the official documents, and accused to the EU and the
European parliament. The government of Romania and Slovakia condemned that this law was
the symbol of the Hungarian irredentism and intervention (16).
Romanian Hungarian minority leader, Marko Bela noticed that the Romanian behavior
can understand enough, because it was impossible to regulate foreign minorities by the domestic
law (17).
2) The problems of the status law
This law had basic problems from the beginning.
First one is the Identity problem. Who is Hungarians? And who can decide he or she is
Hungarians under the situation that there are many mixed marriage and complex nationality?
When Hungarian government admits one mixed minority as Hungarian, who says and
identifies themselves “I am Hungarian”, many persons wish to say “I am Hungarian”, because they
can get employment and free cheap ticket and social security. So the statistic number of
Hungarians grows much, even if it is not reflect the true number.
If Romanians say they are Hungarians, is it all right or not? Or why only Hungarians can
guarantee in Hungary? Why Hungarian government does not help neighbors: Romanians,
Slovakians, and Ukrainians? If some of them from the EU border, wish to work in Hungary, why
they can not go into? About these problems, there are much opposition in Romania and Slovakia.
Second is also the problem of Hungarian identification problem. Hungarian minority
wasn’t accepted in Hungary, and sometimes boycotted from Hungarian society, because of poverty,
cheap workers, or security difficulties.
It is rather regretful that Hungarian minority is not always welcomed in their own country.
In Hungary under the socialist system, Hungarian minorities from Romania were welcomed
against Ceausescu government’s oppressed policy. But after the collapse of the Socialist System,
many Hungarian minorities came into Hungary over border, and raised immigration problems.
Hungarian minorities were isolated from majorities in Romania and Slovakia, however,
when they go through to Hungary they are not welcomed enough.
It was believed misunderstanding that immigrants make problems to their own countries
for example, deterioration of social security, unemployment, cheep wages, disorder.
So Hungarian minorities alienated even by the Hungarian majority in Hungary, as using such
words, “Go back to your countries”. (18) These minorities have Identity crisis that they do not
belong anywhere.
EU itself didn’t regard that this law interferes the EU criteria at first, but it advised to find
the friendly solution or compromise by mutual negotiations and revision.
On the other hand, the Research of the Spiegel in Germany showed the questionnaire on
which country they approve or opposite to the EU Enlargement? Germans answer is favor of
Hungary, Czech, Slovakia to join to the EU Enlargement, skeptical and precautious to Poland, and
against to Romania and Turkey. It shows a little historical or cultural prejudice.
Especially the Germany’s precaution owes to the 7; 2 million immigrants come to Germany
in the future. It makes serious unemployment of their own countries (19).
Considering it, it is very difficult to open the eastern border. So the immigrants and
emigrants problems in the border are very much important subject.
Finally it was revised not only Hungarian Minority, but also Romanians who wishes to go
across the borders, and can go freely across the borders showing with their identity card, and it was
not so much effective to use.
Hungarian Government tried to introduce the double nationality law in 2005, but it didn’t
succeed in the people’s referendum.
After the EU Enlargement and the perspective of the joining to the EU of Romania and
Bulgaria, not only minorities but also Romanians go freely to the EU border. So the situation
revised much after 2004.
3)
3) Minorities and communication among national border.
I wish to investigate the communication over borders.
173
One is Slovakia, Second is
Burgenlant, third in Vojvodina, and firth is in Kaliningrad.
(1) Danube bridge and Minority question
The Question of Danubian River causes big influence in Central and Eastern Europe
historically. The Danubian River had a highly important role in Communication, Economics and
Military.
The Danube Bridge between Hungarian and Slovakian border (Maria Valeria Bridge) was
neglected to reconstruct after the blast of the Nazis Germany during the Second World War in 1944.
However it reconstructed from summer to autumn in 2001, and the opening ceremony were held in
October 2001 by the help of the EU Regional Policy. Victor Orvan, Hungarian prime minister,
Zlinda, Slovakian Prime minister, and Verheugen, EU Enlargement Commissioner were
participated in that ceremony (20). This bridge between Hungarian Estergom and Slovakian
Strovo (Parkany), where 73, 5% of population is Hungarian minority in 1991(21).
For this reason of the Hungarian minority, Slovakian Government was rejected to
reconstruct the bridge, but by the EU Enlargement, the importance of the River, bridge, the
maintenance of infrastructure, and the importance of the regional communication was stressed by
the EU commission side, Slovakian government also agreed it for the sake of preparing conditions
of the EU affiliation.
By the reconstruction of the bridge, the communication between Hungarian minority’s
villages and Hungarian villages became very easily. It makes good news not only to Hungarian
Minorities but also Slovakian people to develop their regions in both sides.
Now between Hungary and Slovakia, cooperation of the Euro-Region of Miskolc-Komarno,
and the Euro-Region of Vienna-Bratislava-Gyor are progressing, and these Western border regions
are swiftly developing. This regional cooperation over the borders (CBC: Cross border cooperation)
has important role for the minorities. In this program, under the aid and fund of EU and Regional
NGO and Companies, mutual citizen communication, economic cooperation, and mutual voluntary
language education, music/songs/national dance communication is progressing gradually.
There is also interesting data about the Slovakian Hungarian statistics. There are some
questions about homeland, national affiliation, and information. First question is, What do you
feel about your homeland?: More than 50% (50,6-60.2%) answer was birthplace is homeland not
Hungary. But question about: What decides your national affiliation? The answer was culture and
mother tongue 82,2%. And question: what information do you get most? The answer is from
Hungarian TV is 92%, Hungarian newspaper is 77,8%(22).
Language is such an important element for minorities.
(2) Vojvodina, Yugoslavian Minority before and after the NATO’s Kosovo Bombing
The Policy of the Hungarian Minorities was very important criteria of “Democratization” in
neighbor countries. When the “Democratic Government” built up in Romania and Slovakia, both
of their government made Hungarian minority parties participate in the government for the sake of
EU Enlargement. It was highly estimated by the EU.
In Vojvodina of Yugoslavia, the situation was completely contradictory in 1990s period. The
wide autonomy under the Tito Government was abolished and the Serbian emigrants went out to
Vojvodina. Kasza József, the Mayer of Svotica (Szabatka) informed that fertile region of Vojvodina
was exploited by Socialist government and Milosevic government historically. There was limited
regional law and autonomy in this historical multinational cooperating region. And the Minority
right in Vojvodina was deprived.
The Vojvodina’s political claim is the cultural autonomy and the personal autonomy (it
means the right of mother tongue use, the educational right to learn by mother tongue, the right of
expression of culture and art and so on). More long term perspective, their demand will be
regional autonomy or wide autonomy of Vojvodina
Várady Tibor, the ex. Minister of Law of Pasic government and Professor of Central
European University, suggested the Vojvodina regional autonomy, and their model is the South
Tyrol German communication, and the Catalonian or Belgian Germans. He demanded the
personal autonomy (and the use of national tongue).(23) After the EU Tessaloniki Summit in
2003, “Western Balkan” countries nominated as the future Enlargement, until 2013-2015.
But from 2004, new national conflict between Serbian and Hungarian minority started in
Vojvodina, and many Hungarian minorities was oppressed again in new situation.
174
The EU and the Schengen treaty are regarded generally most progressive guarantees of
free movement and citizen right, when seeing the insider of the EU or nearly inside applicant
countries.
But under the EU Enlargement, when we see them outside of the new EU border, we could
know the contradiction from the free movement. There grew the high and strong “Wall” for
guarantee the ‘inside’ free movement, security, employment and convenience
The biggest influence of the Wall is given not the government of outside, but the people and
minorities outside of the border.
The EU integration, multinational coexistence, and mutual co-development are not only to
defend ‘inside’ of the system, but also the coexistence with ‘outside’ people and nations. To think
minority’s life over the border is the important key point to correct the problems of globalization
from people’s side.
Chapter 3: The
The Kaliningrad Question(24)
Last, but not least, the author investigates the case of Russian Kaliningrad (German
Konigsberg).
What is the Kaliningrad Question? It was one of the most serious problems in 2001-2002.
Moreover it was the symbol about the European Integration and the Division of Europe, the
European Identity, Border Question) and the Border Economy .
Kaliningrad is the Russian exclave, and now the EU enclave surrounded by Poland and
Lithuanian territory. Historically it belonged to Germany until 1945, but after the Potsdam peace
conference, it transferred to the Soviet Union. Now the 78% of population is Russian, only 0.8% is
German, others are 10% Belarus, 6% Ukraine, and 4% Lithuanian (25). Under the Second World
War Germans were force to or voluntarily emigrated from this area, so there is almost any German
population remained there.
Kaliningrad is militarily and geopolitically very important region for Russia. On the other
hand, it has strong economic connection with the EU and Northern Europe. Pursak, Novgorod
county governor and vice chairman of the European Council General Assembly, stated that it is
possible that Kaliningrad join to the EU as county, staying in Russia (26).
So the Kaliningrad Problem has many aspects.
The first problem is the visa and border question: According to Poland and Lithuania
joining to the EU, visa system had to introduce to Kaliningrad Russia, so Russian people need visa
to go to Kaliningrad, their own country through Lithuania and Belarus. It caused many problems,
because there were many shuttle traders who work over the mutual borders.
The Second is Security policy: Armament, Mafias are coming into the EU. These are
really serious problems.
That is why discussions of Foreign Minister and President started among Russia, Poland
and Lithuania, but it did not progress in vain. During these times, the terror on 9.11 2001
occurred, and the Afghanistan bomb by the U.S. and the U.K., Russian Putin helped so much them
against terrorism. The US and Russian Relation turned better drastically. So by the proposal of
Tony Blaire, the NATO-Russian Council (NRC) was built up in May 2002.
Under this situation, Putin, the Russian President decided the top negotiation with Prodi,
the President of the European Commission about Kaliningrad Question, and reached an agreement
with them as FTD (Facilitated Transit Document) and FTD RW in November 2002(27).
It was the transitional measure until 2005, but it helped Russia, that they could trust the
EU and the US cooperate with Russia, not be isolated.
Third is economy. It was the Free Economic Zone (Yantar) from 1991, and Special
Economic Zone in 1996.(28) Because the lack of capacity, it did not got positive effect in 1990s,
however it developed <the Pilot Region of Russia and the EU from 1999> and became <the
Common European Economic Space> from the 21st century. –It started to develop with the EU
eagerly and swiftly.
Third is economy.
But from Russian side, if the Kaliningrad position is admitted as special region
economically for the EU, they can admit Kaliningrad to join to the EU. But they strongly wish to
stay in the Russian Federation, so they are precautious against the separation from Russia, because
175
it has so important role geopolitically and militarily. Kasijanov, Prime minister also highly
motivated the economic development by German investment.
Belarus government opposes against such friendship relation between Kaliningrad,
Ukraine and EU or NATO brains, because they are suspicious about the EU Enlargement, and
strongly cooperated with Russia. But the intelligence of Belarus already began to speak that how
much different the Belarus culture from Russian one, and how much useful the democratization of
Belarus politics and joining to the EU (29).
Fourth characteristics of this area are immigrants from Russia main land to Kaliningrad,
but not going out, coming into Kaliningrad. After the collapse of the socialist system, migrants
number from 1990 to 2001 was 400, 000. And the balance was positive 103,000. So it means that
from outside of Russia, people come into Kaliningrad(30).
Chapter 6.
6. The Wider Europe
In these circumstances, the “Wider European” Policy, a part of the World Strategy of the
EU started in November 2003 by commission of the EU (31).
The Wider European policy manages to make that the EU border does not means the
division of Europe and doesn’t make conflict and antagonism in the border, but the border is the
symbol of cooperation, coexistence and co-development.
The Wider European policy cooperates with the countries of Middle East and North Africa
(that is the Barcelona Process countries) in South, and Russia, Ukraine, Belarus, Moldavia (the
Partnership and Cooperation Agreement) in East.
With Russia and the former CIS countries, they mainly cooperate with Economic level. To
supply high quality’s natural gas and oil to Europe, which avoid the risks of the supply from Middle
East by war and terror. And with Middle East and the Northern Africa, EU shows the human rights,
stability, and sustainable development as Human security policy with the UN. It is a
differentiation policy from Bush, the President of the US, “the War for Democracy” in Iraq and
Middle East.
The EU’s policy combined with the Wider Europe and the European Security Strategy
(Solana Paper) managed to develop together with neighbor countries by cooperation and mutual
development, not to make conflict, or force to make democratization.
The important massage of Wider Europe is not to make division between the borders, but
to cooperate with inside and outside of the borders, like Contact zone, in which different culture,
religion and customs meet between the borders and cooperate and amalgamate each other or
coexistence together which demonstrated by the research of Anthropology, : The border area is the
Contact zone of different cultures and nations.
Under these circumstances the second wave of Democratization occurs in Georgia, Western
Ukraine, and Uzbekistan by themselves that they declare they wish to be included in Europe, they
have European Identity, wish to cooperate with the EU. Are the problems solved, which occurred
in Kaliningrad or other border regions? It is not solved completely institutionally, but it is helpful
to promote their own development, not oppressed by antagonism or discrimination, using the
Euro-region, regional cooperation, or EU’s Neighbor Economic policy, like Pan-European Economic
Space, which Samson, French economist investigates.
4. Conclusion
As for the Conclusion, we can summarize the following things.
The EU policy and the Schengen treaty was regarded generally most progressive
guarantees of free movement and citizen right, when seeing the insider of the EU. But under the
EU Enlargement, when we see them outside of the new EU border, we could know the contradiction
from the free movement. They became the high and strong “Wall” for guarantee the ‘inside’ free
movement, security, employment and convenience. It is very contradictory.
Wider European Policy and the European Security Strategy is the EU’s important offer to
solve the Border conflict and Division of Europe to make economic, cultural and human cooperation
and sustainable development policy differentiated from the US Bush’s Policy, “War for democracy”.
They insist the “Cooperation for democracy”, or “Cooperation for development”.
Wider Europe and the border Question of the Enlarged EU give big suggestion and lesson
176
to mitigate the border conflict of minorities and people not only in Europe, but also Middle East,
East Asia and all over the world.
Notes
1) About the Relation between the EU Enlargement and the minorities over the EU border, Solana,
the EU Superior Adviser, had a lecture in the Institution of the International Association of
Japan, and admitted that it might become one of the most important subjects according to the
EU Enlargement. At the Lecture in IIAJ on 24 October, 2000. About the General
Characteristics of the EU and NATO Eastern Enlargement and the Nationality Problem, see
following: Kumiko Haba, “The Eastern Enlargement of the EU & NATO and Central
Europe—Nationality problems over the EU border—“, European Integration and its perspective,
ed. by Takashi Miyajima and Kumiko Haba, Jinbunshoin, 2001.
2) About, so called, “protectionism” or “Double standard” of Western Europe, see: Bojko
Bucar(University of Ljubljana, “The issue of Double Standard in the EU Enlargement Process”,
EU Enlargement III, in 3rd Convention of CEEISA, NISA, RISA: Managing the (Re)creation of
Divisions in Europe, Moscow Congress, 20-22 June, 2002.
3) About the Schengen Treaty and the Nationality Problems, see the Minorities Research which
was offered to the European Council : Peter Kovacs, “Co-operation in the Spirit of the
Schengen Agreement, The Hungarian beyond the Borders”, Minorities Research, Budapest,
1998, pp. 124-131.
4) Peter Kovacs, ibid., pp. 124-127.
5) Pal Peter Toth, “Contributions to the Forming Hungarian Political Strategy Concerning the
Emigrants”, Minorities Research, Budapest, 1998, pp. 121-122.
6) Ethnic Geography of the Hungarian Minorities in the Carpathian Basin, by Karoly Kocsis and
Eszter Kocsis-Hodosi, Budapest, 1998, 17.
7) A Marosvasarhelyi Magyar nyelvu orvos es gyogyszereszkepzes 50 eve (50 years’ History of
Hungarian speaking doctors and Pharmacist in Marosvasarhely: Tirgmures), Budapest, 1996,
pp.474-476, and Kumiko Haba, Enlarging Europe: Challenge of Central Europe, Iwanami
Shoten, 1998, pp.108-114, 118-121.About the “Nationalization” and “Depopulalization”, of
Minorities, the author tried some fact-finding investigation travel and the International
Conference in Transylvania: Cluj-Napoca (Koloszvar), Timisoara (Temesvar), and Szekely
regions: Tirgmures (Marosvasarhely), Sfintu George (Sepsi St. Gyorgy), Miercreatiucu
(Csikszereda) of Transylvania, in May and July, 1996, 2000, 2002.
8) Interview to Zoltan Tibori Szabo, 12 August 2002.
9) About these Minorities speaking, the author interviewed and gathered from the representatives
of Carpathian-Ukraine and Slovakia in the International Conference of Hungarians over the
border, which was held in the monastery, Pannonhalma, Hatarontuli Magyar kisebbsegi
nemzetkozi konferenciaja, Pannonhalma, 2000 augusztus 3-4.
10) Nepszabadsag, 1996. februar 2. Kumiko Haba, Enlarging Europe, ibid., p. 31. Hungarian
GNP par capita was 6,410 dollar in1996. RSC Policy Paper, no. 98/2. Florence: European
University Institute, March, 1998. But I could not find the GNP of Ukraine at that time.
11) Hataron tuli Magyar kisebbsegi nemzetkozi konferenciaja, Pannonhalma, 2000 augusztus 3-4.
12) Act LXII of 2001 on Hungarians living in Neighboring countries, Hataron tuli magyarokrol
szolo status torveny, 2001. junius. 19. This Act constituted 4 chapters and 29 articles. It
arranged to guarantee many interests(Identification, travel, employment, social security, and
education) to Hungarian Minorities who live in neighbor six countries(Croatia, Yugoslavia,
Romania, Slovenia, Slovakia, and Ukraine, except Austria) by Hungarian Government.
13) Nepszabadsag, 2001. junius 20.
14) Nepszabadsag, 2001.junius 14.
15) About the interests which are offered in the Status Law of Hungarian Minorities in neighbor
countries, Nepszabadsag, 2001. junius 28.
16) Nepszabadsag, 2001. juniustol szeptemberig. Dokumentumok a Magyar177
orszagi kulugyministerium.
17) Nepszabadsag, 2001. Julius 15.
18) Words of the Romanian taxi driver, from Szekelyfold. May 1996.
19) By Hungarian Daily News, Nepszabadsag, 21 June 2001. There are 35 million immigrants in
all over the world: among them, 7,2 million in Europe, 7,3 million in Asia, 6,25 million in
Africa. These immigrants will go to the following countries: 1. Germany, 2. the U.K., 3. the U.S.,
4. France, 5. Netherlands. During only first three months in 2001, 1, 45 million immigrants
were repelled from Afghanistan, Iraq, Turkey, and old-Yugoslavia, by wars, ethnic conflicts, and
religious persecution. Nepszabadsag, 2001. junius 21. After the Afghanistan Bomb in October
2001, the number of emigrants are raising swiftly.
20) Central and East European Fax News, 2001.l0.12. Nepszabadsag, 2001. junius 1. es October
12.
21) “Change in the number and percentage of ethnic Hungarians in selected cities and towns of
South Slovakia(1880-1991), K. Kocsis and E.Kocsis-Hodosi, Hungarian Minorities in the
Carpathian Basin, op.cit., p.32. NHK(Japanese Broadcast Office) Film: “Danubian Bridge,
—Hungary/ Slovakia—“, NHK, BS -1, 2001. May 21.
22) Lampl Zsuzsanna, A Sajat utjat jaro gyermek (Children who go their own way),
Madach-Posonium, 1999, pp. 12,13,15,16,17.
23) Interview to Kasza Jozsef, Szabadka Mayer, Leader of VMK(Vajdasag Magyar koalicio), and
Varady Tibor, Professor fo CEU and the ex. Minister of Law of Pasic Government, Szabadka, 1999
augusztus 20-dikan.
24) About the Kaliningrad Question, I owed the documents and information to Prof. Zapototskina,
the vice President of Kaliningrad University, and Prof. Fodrov, Rector of the department of
University of Kaliningrad. My main theme is the EU and NATO Enlargement and in these 3, 4
years concentrating the Enlarged EU’s border question, security-and identity policy, because it
caused very serious problems, and it became the one of most serious subject of the EU in these
years.
Books and Pamphlet of the Kaliningrad Question, The Kaliningrad Question, Richard J. Krickus,
Rowman & Littlefield Publishers, Lanham, New York, 2002. The EU & Kaliningrad, Kaliningrad
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2000. Kaliningrad Region of Russia and the EU Enlargement, Analytic report, Kaliningrad, 2003.
Support Transforming the Kaliningrad Oblast into a Pilot Region of Russian EU Cooperation, East
West Institute, Kaliningrad, 2003.
25) The EU and Kaliningrad, ed. by J.Baxendale, S. Dewar & D. Gowan, Federal Trust, 2000. p.
269. Kumiko Haba, The Challenge of the Enlarged EU, Pp.130-137.
26) The speech of Mr. Pursak. Russian News, 11 May, 2001. The speech of Prime Minister,
Kasijanov, 26 April, 2001.
27) The lecture and information of Peter Tempel, Head of Cabinet of Commissioner Gunter
Verheugen, Seminar of Japan Business Federation, Tokyo, 12 March, 2003. Interview, 12 March,
2003.
28) Support Transforming the Kaliningrad Oblast into a Pilot Region of Russian EU Cooperation,
p.17.
29) The lecture of Belarus man of literature in the IV ICCEES (International Council for Central
and East European Studies) World Congress, Tampere, 29 July- 3 August, 2000. and the
presentation of Belarus Political Scientist, “Go toward Europe or go back to the Soviet Union”,
Japanese Institution of International Affairs (JIIA), 28 September, 2000.
30) Support Transforming the Kaliningrad Oblast, p.15.
31) Wider Europe—Neighborhood: A New Framework for Relations with our Eastern and Southern
Neighbors, Communication from the Commission to the Council and the European Parliament,
2003.
178
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from Hungary, Magyar Radio, Zsuzsanna Roka
The EU Japan Delegation
<In Hungary>
Hungarian Academy of Sciences, Institute of Minority, Director, Dr. Szarka Laszlo, Romanian
section: Dr. Blenesi Eva
Hungarian Ministry of Foreign Affairs, State Secretary for Integration, Economic Policy and
Harmonization Department, Dr. Árpád Gordos, Director General
Habsburg György, Ambassador of the Enlargement of the European Union, grandson of the
Habsburg Karl IV, son of Habsburg Otto.
Budapest University of Economics, ex-Dean, Palankai Tibor
Budapest University of Economics, Dean, Chikan Attila
<In Romania: Oradea, Cluj-Napoca, Timisoara>
Hungarian Academy of Sciences, Veszprem University, Dr. Major Istvan
Institute of Minorities, Teleki Laszlo Foundation: Bardi Nandor
Diaspora-Szorvany Foundation, President: Bodo Barna,
President of Association of Muzeum in Transylvania:Egyed Akos
RMDSZ Kolozsvar szekhely parlament kepviselo: Konya-Hamar Sandor
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Magyar Pulitzer dijas ujsagiro
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Beregszasz Tanarkepzo Foiskola, Foigazgatoja: Orosz Ildiko
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http://europa.eu.int/comm/world/enp/pdf/com03_104_en.pdf
181
182
TB38 Thursday 10:30 am - 12:15 pm
Comparative Analyses of Integration in Asia and in Europe:
Can East Asian Community be Possible?
Sponsors: International Political Economy
“The Arc of Freedom and Prosperity”
Prosperity”
and Prospects of JapanJapan-Wider Black Sea Area Cooperation
Dr. Kumiko Haba
(Professor of Aoyama Gakuin University)
183
“The Arc of Freedom and Prosperity”
Prosperity”
and Prospects of JapanJapan-Wider Black Sea Area Cooperation
Cooperation
Kumiko Haba (Professor of Aoyama Gakuin University)
My specialty is the EU and NATO Enlargement and International Relations, and
Comparative study between the EU and Asian Regional Cooperation.
“The Arc of Freedom and Prosperity Policy”
Policy” by Asou Foreign Minister of Japan covers
a huge framework in the International Politics, from Northern Europe, Baltic Countries,
Central Eu
Europe, Central Asia, ASEAN, and Korean peninsula to Japan.
It is such a wide Belt Aria, which didn’
didn’t belong any regional cooperation
cooperation as a vacuum
area after the Cold War.
That is why it is the very important area for the international
power game.
It was often said that this “Arc of Freedom and Prosperity Policy”
Policy” means the
new containment policy against China or Russia, but it makes misunderstanding of the
essential idea of this policy.
If one pays attention to these diverse and rich resourced countries, and builds a close
relation carrying freedom, development, and prosperity,
prosperity, it is deeply waited and accord to the
claim of these countries and it is also new international
international norms’
norms’ policy of the Enlarged EU.
EU.
Therefore, it is completely understandable that this AFP policy is highly estimated and
welcomed all over the world especially in these Black Sea countries and post CIS countries,
countries,
even after the Foreign Ministry of PostPost- Abe--Abe---Fukuda
---Fukuda Government easily gave up this policy.
policy.
The AFP policy is also important considering the quick development of the Shanghai
Cooperative Organization (SCO) by China, and South Asian Association for
for Regional
Cooperation (SAARC) by India.
India.
These two organizations contain more than 2,
2, 8 billion populations together,
together, half of the
globe one, and it is the very substantial antianti-Terrorism, military, and recently economic
developing alliance. These BRICs
BRICs countries except Brazil have strong connection each other
historically and politically as the TopTop-Leaders of the former Socialist System and the Third
World.
World.
Especially SCO is the huge, global cooperation by China, Russia,
Russia, and central Asian
countries, it is based the Soviet UnionUnion-China alliance during the early Cold War era.
era.
Now India is the observer of the SCO,
SCO, so if India joins to it,
it, the hugest organization in
the world about 2,
2, 88 billion and half of the world population joins to this huge, global
organization.
East
fast,, because it is not yet substantial
East Asian Community does not develop so fast
function,, and not realized
On
n
function
realized until now, even though ASEAN put the Constitutional Treaty. O
the other hand, SCO and SAARC is developing and working substantially
substantially as the biggest Asian
Alliances
Alliances.
Therefore, under these new Asian situation, Japan need to widen and develop the
various cooperative networks in Asia and in the world.
At that time, one of the important cooperation for Japan is AFP Policy--Policy---Central
---Central Asia,
Asia,
184
GUAM countries, CLV countries, Turkey, and so called “New Europe”
Europe”, former Socialist
countries.
countries.
Especially Romania, Bulgaria, Poland, Hungary and other Central European
countries
countries, which lies in the new EU’
EU’s eastern borders on Russia and Ukraine.
Ukraine. These
These countries
have propro-Japanese and propro-America feelings historically, have original worldviews,
worldviews, and
especially all of them are now inside in the EU and NATO.
NATO.
Turkey is also the leader of the Middle East, and very important partner and
propro-Japanese people
people by the Japanese Middle East Policy.
Considering Japan and Black Sea relations, the Black Sea Economic Regional
Cooperation (BSEC) in 1992 by 11 countries, declared the Regional Economic Development,
Solution of the Ethnic Conflicts by the Eu
European Security
Security Organization rules, and
maintenance of the correspondence and communication network.
Japan started to collaborate with the Black Sea area especially through the economic
aid, human rights,
rights, democratization and regional stability.
If seeing
seeing the map,
map, the AFP regions lies just among the Big Regional Integration as the
buffer zone,
zone, now
now democratizing and developing so quickly and have important resources.
resources.
Therefore, if they develop as the region of the democracy
democracy and prosperity, it helps the world
stability.
stability.
However, it might have a possibility as ‘the soft containment’
containment’ region against China and
Russia. Therefore, it is very important that AFP policy must not used against these two
countries, but it is used as the coexistence and cooperation with these
these two, by economic
development, prosperity, stability and freedom. It might show the important role for Japan to
help economic development and stability in the conflict region.
1. The AFP and Shanghai Cooperative Organization(SCO)
Organization(SCO)--(SCO)---Lesson
---Lesson of the EU
What and how we can learn from the Eu
European Integration?
Integration?
Recently the Regional Cooperation developed
veloped so fast and its wave reach to the Asian
region. Continuing to the EU Enlargement, NAFTA, Asian Regional Cooperation, like APEC,
AFTA, ARF, EAEC (ASEAN
(ASEAN + 3),
3), CER,
CER, developed very quickly (see the MAP), and during these
years, ASEAN+ six and SCO also rose swiftly. Under these circumstances,
circumstances, ASEM (Asia and
Europe Meeting)
Meeting) also started.
started.
Why the Regional Cooperation is so important?
There are three reasons.
1) “Competitiveness”
ompetitiveness” under the Globalization,
Globalization,
2) swift economic development of China.
China. It is almost 1,3 million population’
population’s real
Mega Region.
Region.
3) the SCO and SAARC.
For East Asia, especially 2) and 3) is very important.
Before ten years ago, big population means the poverty and undeveloped symbol. But now
these countries,
countries, so called BRICs, are the symbol of swift economic development, and sum of
GDP by BRICs already overtook Japanese
Japanese one.
one.
It is generally
generally said that this SCO is in the same bed and different dreams,
dreams, but from
185
following four points, it is rather stronger and substantial
substantial regional cooperation,
cooperation, than the East
Asian Community.
1) This is the SovietSoviet-Chinese Alliance by the Communist countries during the Cold War
era.
2) All of them have complaint against
against the USA leadership, especially military compulsory
“democratization”
democratization”, and Unilateralism.
3) They have the common security, especially against terrorist by Muslims and wish to
their own leadership.
4) All are military Big Power, and have energy--energy---N
---Nuclear
clear weapon,
weapon, oil, natural gas, and so
on.
Therefore, this is realistic
realistic and substantial
substantial mega region, than idealistic East Asian
Asian
cooperation.
So if we consider about the swift development of China, India, and Russia, and
MegaMega-Rigion of SCO, it is very important
important and emergent subject, how and what figure will Asia
be integrated or collaborated. Optimism and delay might bring the big change of the
International power relations.
2. Lesson from the European Union
1) What means the Regional Integration?
The Regional
Regional Integration means the liberation of the state borders. So essentially,
essentially,
regional integration means the continental subject, not isles. Isles countries are more indirect
on opening the border because there is no big border conflict, which has to be solved.
solved.
It is said, that the isles countries for the ocean had the leadership of the Modern
Empire, like the Great Britain, Spain, and Holland. Ills countries territory expanded over the
sea, like common Wealth of the Great Britain. It is completely different
different the Regional
Cooperation,
Cooperation, the collaboration and coexistence of the border.
2) Who will grasp the political leadership?
The winners of the Second World War, never the looser. The EU leadership was
Germany
belonging to French and Benelux, not German.
Germany was included inside the EC and
the EU, as it looks like soft containment at that time…
time… German development was admitted
only the inside the European Community
Community then,
then, not their own leadership.
Now the Germany leads the EU by economy, but all of the participants
participants wish to avoid
the German strengthening
strengthening itself.
itself.
Therefore, when we think about East Asian Region through
through the European Union
lessons are the following:
1) It might be difficult for Japan to have a leadership in the East Asian Regional Cooperation.
Because Japan is somehow outside of the East Asian Continental history,
history, like the Great
Britain in Europe. Even it is so strong economically, it will not have a leadership from the
186
outside of the continent.
2) Historically, it is very difficult that the “looser
looser country“
country“ of the World War has hegemony in
the regions. The precaution is so strong by the side
side of winners, especially against so
called historical “invader”.
Optimism has to be eliminated.
“invader”.
3) However, Japan can have a leadership by the Democratization, Development and
prosperity by the cooperation with the USA, like Great Britain and Germany.
At that time, the leadership of Integration means the value of democratization, freedom,
stability and development. These are really just like the EU’
EU’s Wider European
European Policy and
the AFP policy.
4) The importance of the small countries. Regional Integration is the relaxation of the
conflicts among Big Powers and coexistence.
coexistence. Integration is not alliance, but harmony and
adjustment are important, like Benelux in Europe,
Europe, or ASEAN or South Korea in Asia.
5) How we treat Russia and North Korea?
We must not be isolated or to make “soft containment”
containment” policy toward
Russia and North Korea, or even China. Globalization makes very close connection
among all neighbor countries.
countries. No one wish to collapse of North Korea or China. The collapse
of East Germany and the Soviet Union brought long pain and suffer not only Western Germany
but all Eu
European Alliance. Therefore, we need to make AFP region to real democratic and
developed region, and it is our interest, too.
As for the conclusion I would like to point out the lessons from the Eu
European Union to
Asia are---are---(1)(1)-not the allied Power Politics, but “the Reconciliation with Enemies for Peace and
Prosperity”” is important; Thai is the point which the Arc of Freedom and prosperity proposed.
Prosperity
(2) Energy Cooperation with various States, and the Constitutional Treaty like ASEAN
Charter is important, which now Asia also started.
AFP
These are the most important role of the EU and the AF
P policy to the substantial
cooperation, competitiveness, and development all of Asian, and other AsianAsian-European regions.
Thank you for your very kind concentration.
187
188
16.
16.拡大 EU、
EU、東アジア共同体
アジア共同体への
共同体への示唆
への示唆
―対立から
対立から繁栄
から繁栄へ
繁栄へ:地域統合の
地域統合の比較研究
羽場久美子
(日本学術会議連携会員、青山学院大学教授、日本 EU 学会理事、日本政治学会理事)
専門:国際政治学、拡大 EU・NATO
1.
はじめに
危機の
危機の時代と
時代と地域統合
今年は冷戦終焉 20 年だが、世界経済危機を背景に、新たな困難の時代に向かいつつある。
1989 年の冷戦の終焉によって、ヨーロッパの東西の分断は最終的に終焉し、グローバリゼーション
の広がりと、統合の深化と拡大の時代が始まった。ここ 20 年間で 12 カ国 EC は 27 カ国 EU へと 2 倍
を超える規模となり、今後バルカンへの拡大が終了すれば 30 カ国を超える。この間、南北アメリカ、
アジア、アフリカなど各地域でも地域統合の動きが進む。
2008 年の世界金融危機の中でも、国家経済の不安定化の下、金融統合や地域統合は、ユーロ圏の拡
大など、さらに進む様相を見せている。
拡大 EU を基軸とする地域統合の進展の中で、アジアではどの程度、どのレベルまで地域統合が進む
のか、その際、先んじる欧州統合から何を取り入れ、何が異なるのか。以下、「対立から繁栄へ」とい
う観点から検討を行いたい。
統合の最大の目的は、地域の対立の克服と、信頼醸成による繁栄である。世界の多様な地域で進行す
る地域統合を比較する際の指標としては、経済統合/政治統合、国家連合/連邦主義、緩やかな地域協
力/法制化を含んだ統合など、それぞれの主権をめぐる統合の質的推移によって比較する方法が考えら
れる。
ヨーロッパの地域統合は、そもそも「石炭鉄鋼共同体」という、エネルギー資源の経済統合から現実
化した。冷戦の終焉後、中・東欧を統合しさらに東へ拡大しているEUは、2008 年上半期で、27 カ国、
5億人人口、GDP10,9 兆ユーロ:14 兆1千億ドル(ドル費 1,3 で計算)となり、アメリカ(3 億人、GDP13
兆 2 千億ドル)に並び、しのぐ経済圏として成長した。その基盤は基本的に経済統合である。
2008 年秋のサブプライムローンに端を発するその直後の世界金融危機では、ドルに連動してユーロ
も一時は大きく下がったものの、09年春に入って持ち直し始め、逆に各国通貨への打撃に対するユー
ロの安定性から、スロヴァキア、北欧などでは、「ユーロ圏」への加盟に拍車がかかり始めた。世界経
済危機が今後どのような影響を与えていくかは予断を許さないものの、現状ではタイのバーツ危機の時
と同様、金融危機が地域の統合を促している側面が窺える。
他方、政治統合に目を向ければ「国家連合か、連邦制か」という歴史的課題は、2000 年に独フィッ
シャー外相も、
「クオ・ヴァディス、ヨーロッパ(ヨーロッパよ、汝はどこに行くのか)」と
問うたが、国民国家の主権を基礎とした「国家連合」の方向で、一定の決着を見つつある。
しかし一つにはイラク戦争における「共通外交安全保障政策(CFSP)」の頓挫、第2に欧州憲法条約に
対するフランス・オランダの国民投票での批准拒否、改正条約たるリスボン条約もアイルランドの国民
投票で否決、第3に移民問題をめぐるナショナリズムの成長とゼノフォビア(外国人嫌い)の拡大から、
地域統合半世紀を超えた欧州ですら、政治統合はいまだ実現にはほど遠い様相にある。しかしそもそも
「対立の克服」をもとめた統合の目的は経済発展であって政治統合ではない。
グローバル化と世界経済危機は、各地での「経済統合」推進を不可避の流れとして進行させていると
はいえ、それを政治統合まで推し進めるべきかは、議論の余地が残る。
ここではむしろ地域の対立の克服による共同の発展と繁栄、地域内部で二度と戦争は行わないという
「不戦共同体」が地域統合の究極の目的であり、憲法や共同の大統領などの実現は拙速である、という
事実を確認した上で論を進めたい。
3.東アジアでの地域統合の進展
冷戦の終焉後、東アジアでも経済協力関係の確立が、2000 年 5 月のチェンマイ・イニシアチブ以降
急速に進んだ。これは未曾有の被害をもたらしたアジア通貨危機を受け、アジア各国が経済協力の制度
化を模索した結果でもあった。
189
2000 年の経団連奥田会長の奥田レポート、2002 年の小泉首相のシンガポールでの「東アジア共同体」
の提言を受けて、当初は夢物語であった東アジアの地域協力・地域統合の具体的検討と様々な視点から
の試みが、本格化しつつある。アジアでも目標は経済発展と繁栄である。
東アジアの経済圏の成長は 21 世紀に入り目覚しいものがあり、ASEAN+3(日韓中)で人口 20,8 億、
GDP9,6 兆ドル、ASEAN+6(東アジアサミット 16 カ国)で人口 32 億、GDP10,3 兆ドル)と、人口・
GDP 共に世界的パワーとしてのアジアの経済統合が、進展しつつある。その中枢としての中国に対し、
EU・アメリカともに熱い、かつ驚異の視線を注いでいる。
こうした中でアジア各国でも、東アジアの地域協力・地域統合の要請が、具体性を帯びて、議論され
るようになった。しかし積極的な中国・韓国に比べ、日本は財界や政府の提言があって久しいにもかか
わらず、民間、とりわけアカデミズムにおいて、一部を除いて関心が薄いように思われる。
また現実に東アジアでは、地域統合への障害も多く、1)国の規模の違い、2)体制・国際政治枠組
みの違い、3)歴史の負の記憶、強いナショナリズム、4)アメリカの同盟関係との齟齬、などの問題
が山積みであり、様々な形で進行する経済統合に比べ、政治的・制度的な関係の構築はなかなか進展す
る見通しが見えずまさに「政冷経熱」の様相である。
それでも、経済関係を基礎とした関係構築の拡大、2008 年の北京オリンピックによる民間レベルで
の飛躍的交流の拡大を通じて、現在、
移民、テロ対策、環境、食の安全など様々なレベルでの課題が提起されており、東アジアにおける地域
協力・地域統合の多元的な形での制度構築への現実的関心が高まり始めている。
こうした中で日米関係、日中関係などバイの関係を越えて、多元的ネットワーク型の地域の共存の試
みとして、制度、法整備、越境地域協力、教育交流など、EU に学んだ「東アジア地域統合」への試み
が始まりつつある。
3.
「ポスト冷戦終焉」以降の、
欧州統合からの示唆
上にも述べたように、欧州とアジアは、違いが大きすぎるため、比較はしづらく、欧州のシステムに
学びうるところは少ないとされる。
また上記の4点に加え、さらに東アジアでは共産主義体制や権威主義体制が残り冷戦が終わっていな
い、とされる。
確かに、13 億の中国、10 億のインドの規模を抱える地域統合はほかには存在しない。格差も、ヨー
ロッパの平均的格差を大きく超えるであろう。しかし「対立と敵対」についていえば、欧州ではアジア
をしのぐ数千万人もの戦争による殺りくと紛争が繰り返されてきたし、21 世紀においてすらバルカンで
の民族紛争が継続されてきた。だからこそ地域統合なのだ、と反論できよう。
統合の本質は、第 1 に、エネルギーと資源の共同、第 2 に、不戦共同体としての安全保障の構築、第
3 に、歴史的和解、である。まさにこれが対立を繁栄に代える手段なのである。
この 3 点は、EC/EU にとってその成立と存続・拡大の根源にあるものである。他方、アジアにおい
ては、この 3 点こそがこの地域の共同と統合を妨げている 。
戦後の「独仏和解」「欧州不戦共同体」
「石炭鉄鋼共同体」は周知の事実である。
ここでは欧州が、この 3 点を、
「ポスト冷戦」以降も繰り返すことによって、旧共産圏を取り込み、
紛争地域を「安定化」させてきた経緯を明らかにする。なぜそのようなことが可能になったのか。
冷戦終焉後の旧共産圏やバルカン、パレスチナ、中東を取り込んでの紛争解決と統合・拡大にこそ、
東アジアの発展と繁栄の教訓がある。
以下、①「ポスト冷戦」以降の旧共産圏との「異体制間和解」、②旧共産圏やバルカン、パレスチナ
など、紛争地域との「不戦共同体」、③戦争と抗争を生むエネルギー資源たる石油・天然ガスの共同の
管理発展から、冷戦終焉後の拡大欧州がそれをいかに成し遂げたかについて検討する。
4-1)ポスト冷戦の 3 つの和解―
「異体制間和解」「階層間和解」
「異民族間和解」
戦後の「独仏和解」は、規模、価値、宗教、経済発展の度合いがほぼ同じで、アジアとは異なり比較
にならないとされてきた。
しかし 1989 年のソ連・東欧体制の崩壊後、EU は、拡大を最も嫌ってきたロシアとの共同・対話、
190
旧社会主義国、中・東欧諸国の取り込みによる拡大を実行してきた。
この「ポスト冷戦」の「異体制間和解」は、東アジアにとって意義深い。
中・東欧への拡大と統合は、市場化・民主化・自由化に象徴される。具体的には、コペンハーゲン・
クライテリアトアキ・コミュノテール(EU 法の集大成)の遵守により実行された。さらに安全保障で
は、OSCE(全欧安保協力機構)の場における異体制間の話し合いの場が継続された。これらの実行に向
け、中・東欧は、1996 年、1999 年に加盟交渉を始め、ほぼ 8 年後、2004 年には加盟を実現したので
ある。
こうしたクライテリア(基準)の実行の作業を中国や北朝鮮が行えるかといえば、極めて心もとない。
しかし 1989 年の「ベルリンの壁」の崩壊後、シュタージ(秘密警察)に抑圧されていた中・東欧の中
産階級は、それらの「基準」「規制」に合わせることを甘んじて受けた。
これは 40 年代前半まで、曲りなりにも民主主義国家体制を実行していた中欧と、45 年まで植民地体
制下にあった中国との違いといえるかもしれない。他に、ポスト冷戦の拡大 EU は、エリート・市民間
の「階層間和解」、イスラム系移民などとの「異民族間和解」も実行している。
4-2)紛争地域の「安定化」に関与する、
「不戦共同体」
数 100 年にわたって紛争・殺戮を広げてきた欧州が、第 2 次世界大戦後、敵同士が統合し欧州では 2
度と戦争を起こさないシステムを形成したことは大きい。
同様に、1989 年の冷戦の終焉後、欧州周辺では、バルカンの地域紛争の勃発、ソ連邦の崩壊、湾岸
戦争、旧 CIS の独立と革命などの混乱が継続した。
こうした中で、EU は、OSCE、ロシア・旧 CIS 諸国の安定化のためのパートナーシップ協定、バル
カンに対する南東欧安定化協定、中東・アフリカ諸国に対するバルセロナ協定という、安定と共同の協
定を締結し、さらにエネルギーの共存と経済支援、さらにバルト海、黒海沿岸、地中海など、各領域に
対し、共同経済圏など多層にわたる法、経済、政治的枠組みの形成の中で、安定と発展を維持しようと
してきた。このような、政治、安全保障の協力関係は、ナショナリズムと敵対の成長の中でこそ、「安
定化」をめざす統合の試みとして位置付けられてきたのである。
4-3)石油・天然ガス資源エネルギーの共同と、紛争予防
ロシアとのパートナーシップ協定や、中東とのバルセロナ協定、また黒海沿岸地域協力への EU の関
与は、それ自体、エネルギー資源の共同ともつながる。域内に十分なエネルギーをもたない欧州は、ロ
シアや中東との安定的関係を形作ることで、経済の持続的発展の基礎とし、また紛争・貧困地域に「人
道支援」としてかかわることで、アメリカと異なる、国際規範も提示した。特にイラク戦争以降は、
「欧
州安全保障戦略」、多国協調主義(マルチラテラリズム)、近隣諸国政策(ワイダー・ヨーロッパ)を掲げ、
世界の不安定化や抗争に対し、経済発展と繁栄を旗頭に、規範に基づく国際社会へのかかわりを強めて
きた。
4-4)内なるナショナリズムへの対処
しかし他方で、世紀転換期以降ナショナリズムの波が強まり、欧州憲法条約、改革条約たるリスボン
条約は、前者はフランス・オランダ、後者はアイルランドの国民投票の否決によって、頓挫している。
「政
冷経熱」は東アジアだけの課題ではなく、欧州も含み、政治統合の困難性が露呈しているといえよう。
そもそも、「地域統合」とは、多元的な多国間協調であり、政治レベルでの中央集権的大国主導自体、
統合の趣旨にそぐわない側面があるからである。
5.
今後の課題
地域統合とは、究極のところ、対立の中から共同の発展を試みようとするシステムである。であれば
こそ、ポスト冷戦 20 年の現代における地域統合は、何よりもまず、西側システムに限定されない「異
体制間和解」、旧社会主義圏たる中・東欧や旧ソ連邦との共存共栄によってこそ、アメリカと並び発展
することができた。プラグマティックな拡大EUの理念は、中国・北朝鮮・ロシアといかに共存すべき
かという東アジアの地域協力・地域統合にも適用できよう。
ナショナリズムやゼノフォビアの成長、リスボン条約の頓挫、経済危機による欧州経済発展の先行き
不透明感など、拡大 EU も、現在さまざまの課題を抱えている。しかし直面する課題と敵対・紛争の調
停こそ、地域統合や地域協力による相互調整、共同利益と持続的発展へと転化する、EC/EU の底力で
191
もある。
これらはまさに、東アジアにおいても、歴史的対立、資源エネルギー問題、中国・インドの経済発展・
移民の増大とそれを警戒する日本の軋轢を相互調整し、ともに発展する重要な契機となりうるのではな
いだろうか。
*上記の問題については、以下の著書・論文で論じている。
羽場久美子『拡大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』中央公論新社、2004 年。
羽場久美子「拡大 EU の教訓と東アジア共同体」
『海外事情』2007 年 6 月。
羽場久美子「拡大 EU と東アジア共同体の比較研究―『4 つの和解』」国際アジア共同体学会編、2008
年創刊号。
“The Lesson of the EU Enlargement and the East Asian Community and Shanghai Cooperative
Organization, What and How we can learn from the European Integration”, 50 Years Rome Treaty and
EU-Asia Relations, ed. by Chong-ko Peter Tzou, Tamkang University, 2008.
192
人の移動―東西比較―
17.
「トラフィッキング
17. 冷戦の
冷戦の終焉と
終焉と、
「トラフィッキング(
トラフィッキング(人身売買)
人身売買)」
―東から西
から西への女性
への女性の
女性の移動と
移動と「奴隷化」
奴隷化」―
羽場久美子
1.
グローバリゼーション、
グローバリゼーション、冷戦の
冷戦の終焉、
終焉、人の移動
一九八〇年代から世紀転換期にかけての二〇から三〇年間で、人・もの・金・資本の流動化が急
速に進んだ。それは通常グローバリゼーションによる資源・経済・情報が国家の枠組みを超えて広
がる現象として語られる。が、現代を特徴づける変化が現れたのは、直接的には、冷戦の終焉と、
ソ連・東欧圏の崩壊の影響が決定的であろう。
ゴルバチョフによるソ連のペレストロイカの波は、中・東欧におけるソ連に対する警戒を緩め、八九
年にソ連のゴルバチョフとボゴモロフが保証した「体制選択の自由」の結果、中・東欧の国々は雪崩を
打って社会主義を放棄し、以後境界線が解放されていく。(1)
「人の移動」が鉄のカーテンを揺るがすきっかけとなったのは、東独の市民が集団でハンガリー経由
での西側への逃亡を企て、それをハプスブルク・オットー(旧ハプスブルク帝位継承者)とハンガリー
の市民団体(民主フォーラム)が支え、さらにハンガリー政府が解放を決断した、いわゆる「ヨーロッ
パ・ピクニック計画」であった。その結果、すでに八九年五月にハンガリー人には開放されていたハン
ガリーとオーストリアを隔てた鉄条網は、八月一九日には東ドイツ市民にも開放され、東独の民衆は雪
崩を打って「西」に大量脱出した。その後東独市民は続々とハンガリー国境に詰めかけた。これがその
後、歴史的な「ベルリンの壁の崩壊」を現実化させたのである。
(2)
ハンガリー国境で東ドイツ市民の西への移動が風穴を開けた鉄のカーテンの解放とベルリンの壁の
崩壊後、ルーマニア人、ユーゴスラビア人、ロマ、さらにはポーランド人、ベラルーシ人、ウクライナ
人など、東から西への人の大量脱出ないし大量移動が始まった。それは、社会主義体制崩壊のドミノ現
象、自由と豊かさを求めての「ヨーロッパ回帰」のうねりと並行して起こったのである。
(3)
< 冷戦終焉後の
冷戦終焉後の、東西双方からの
東西双方からの人
からの人とモノの
モノの移動 >
しかし一九八九年に始まった東からの「人の移動」の波は、その後思わぬ進展を遂げる。
(改行)鉄のカーテン崩壊後の「開かれた境界線」をまたいで、今度は西側先進国から、東側・旧社
会主義国に向けて、商品、投資、金融、企業などのモノ・カネの流れが開始された。他方で、東からは、
市民層の大量脱出に次いで、労働力の移動が起こる。労働力の移動は、当初はマイノリティや失業者、
未熟練労働者だったが、ほどなく、自分たちの人生の転換を求める若者、熟練・頭脳労働者の流出とな
った。脱工業化、グローバル化と相まった国境開放の結果、東で国家が育んだエリート層が、西に大量
流出し始めるのである。
(4)
冷戦の終焉と社会主義体制の解体の後、凄まじい勢いで東に進出した西側の企業による資本、商品、
情報、金の流入の結果、社会主義体制の時代遅れの重厚長大な国営企業の多くが次々に倒産し、大量の
失業者が路上にあふれた。
(5)
そもそも物価が安く魅力的な商品が少ない社会主義体制下で、中・東欧の市民層は、使えない自国通
貨を「箪笥(直していただいた形で結構です)預金」として大量に保存していた。ところがそれは、西
側からの魅力的で高額な商品の流入により、瞬く間に使い尽くされ、貨幣の流通と急激なインフレの中
で、賃金や年金は、余生を送るに不十分な紙屑へと変わっていった。
< 冷戦後における
冷戦後における移民
における移民の
移民の質の変化 >
そうした中、市民間の分断と格差が急速に進み、冷戦後の移民の質に大きな転換が起こる。当初、未
熟練の出稼ぎ労働者やマイノリティが多数を占めていた東からの移民は、やがて知識人・若者など「頭
脳労働者」へ、さらに世紀転換期には、サービス業の増大と相まって、女性及び児童の非合法の移動へ
と変化していく。(6)
一九九〇年代以降、旧社会主義国たる東欧から西欧への移民は、マイノリティ、ロマから、若者、知
識人(医者や大学教授)や技術者など、その国の頭脳と将来を担う人々、いわゆる「頭脳労働者」、
「若
年労働者」の流出を形作ることとなる。彼らの多くは、鉄のカーテンの崩壊と、国境の自由移動の始ま
193
りにより、自分たちの後半生を、祖国ではなく、チャンスと豊かさのある西側世界に求めたのである。
これらの移民は、ヨーロッパを越え、さらにアメリカ、オーストラリアに広がっていった。
これら若年労働者、頭脳労働者、さらには女性労働者の流出は、移民の送り出し国と受け入れ国との
間に、ぬぐいがたいトラウマを残すこととなる。
社会主義体制の崩壊と国境の開放とは、以上のような多大な問題をはらみつつ、東の人々を西に運ん
だ。それは、「東欧後発国のお荷物」を倫理的に抱え込んだという西側の一般的な理解とは異なり、結
果的には、東の安い労働力・安い商品の流入が、西の企業の「競争力」をつけさせ、ユーロ・ペシミズ
ムの下にあった西欧諸国の経済の息を吹き返させた。
逆に「自由と豊かさ」を求めて体制転換を行った東の旧社会主義国においては、一九九〇年の一〇年
間は、軒並み経済停滞と社会主義ノスタルジーが国を覆った。一九九〇年の GDP を一〇〇とすると、
多くの旧社会主義国は、当初五〇~四〇という GDP の急落に苦しんだ。
(7)中欧諸国はそれでも九〇
年代後半には持ちこたえて、世紀転換期から発展に転じるが、バルカン諸国は長期の停滞と紛争に苦し
むこととなる。また、冷戦終焉以降の豊かさへの憧れと脱工業化による女性移民の増加は、新しい状況、
つまり東からのトラフィッキングの波を広げていくこととなる。
(このページの 1 頁に、図)(別紙)
2. 「トラフィッキング
トラフィッキング(
ング(人身売買)
人身売買)」
―東から西
から西への女性
への女性の
女性の移動
冷戦の終焉後二〇年間で、最も特徴的な動きは、頭脳労働者・若者と合わせて、女性および児童の東
から西への移動である(図1)
。それは、最初はサービス業、後には売春(買春)
、性の解放と、トラフ
ィッキング(人身売買)を現出させた。
近年急速に問題視されるようになったトラフィッキングは、次のように記されている。
「国際組織犯罪条約」の「人の密輸に関する議定書」
(8)では、トラフィッキングとは、
「搾取を目
的として、暴行・脅迫その他の態様の威嚇、略奪、欺瞞・・・または、他人に支配力を有する者の同意を
得るために支払いもしくは利益を提供」する。そうした手段によって、「人を募集、移送、蔵匿または
収受する」
「搾取は・・・売春、その他の性的搾取、強制労働、奴隷、またはこれに類する行為、隷属また
は臓器摘出を含む」と記されている。
すなわちトラフィッキングとは、女性や児童を騙して連れてくるだけでなく、監禁して売春や強制労
働を強要し、その利益を搾取し、また非合法な臓器摘出や薬物生産などに従事させる、あるいは意に反
して妻や養子を強要するなどの行為である。これが、冷戦後から世紀転換期にかけて新たに激増してい
るのである。
トラフィッキングは、送り出し国、中継国、受け入れ国に分けられる(図1)。1)送り出し国は、
アジアでは、タイ、中国、カンボジア、ベトナム、ミャンマー、ラオス。ヨーロッパでは、ウクライナ、
モルドヴァ、ベラルーシ、ロシア、ブルガリア、ルーマニアなど、2)中継国は、タイ、アルバニア、
ポーランド、ハンガリー、3)受け入れ国は、アメリカ、イタリア、ドイツ、イスラエルなど。アジア
では、日本、タイ、韓国などである。さらに送り出し国・受け入れ国双方の温床となっているのが、旧
ソ連・中国である(9)
こうした動きが一九九〇年代に急速に現出した背景には、社会主義国が、体制崩壊後、禁欲から一挙
に西側の「欲望の解放」
、拝金主義と性的解放の波を受けた経緯がある。
社会主義時代は、ハンガリーの社会学者フェヘールやヘラーらが『欲求に対する独裁』(10)と指
摘したように、一般市民の購買欲を始めとするあらゆる私的な「欲望」は、抑えられ管理されていた。
ところが社会主義体制の崩壊と相まって、西側からの、資本や大量のきらびやかな商品の流入により「購
買欲」が刺激され、さらに購買欲と並行して「情報の自由化」に象徴される大量の際限のない欲望の刺
激が始まった。とりわけ性の解放は、社会主義時代、真夜中に女性が一人で道を歩いていても何の心配
もなかった安全な社会を、情報の自由化と性の氾濫の中で、不安定な刺激の強い世界へと変貌させてい
った。
そうした中で、賃金格差と物質的刺激、性の解放などが、破綻国家、貧困地域、紛争地域などの国を
送り出し国とし、マフィアや犯罪組織、斡旋組織を仲介者とする、女性・児童のトラフィッキング(人
身売買)を現出させたのである。旧社会主義国からは、特にEU新加盟国の「境界線」の外に存在する、
旧ソ連邦とそこから分離独立した、ウクライナ、ベラルーシ、モルドヴァなどから、マフィアの斡旋に
より、大量の若年女性や児童が国外に流出した。これが二一世紀における「白人奴隷(White Slave)」
194
を現出させることとなった。(11)
受け入れ国は主にEU、アメリカに加え、日本が、アジアの筆頭に挙げられている。日本では、かつ
ての東南アジアからの「ジャパゆきさん」に代わる形で、(スラヴ系)白人女性の非合法・不法の性的
労働者と、その搾取により利益を得る層を激増させたのである。
3.
破綻国家と
破綻国家と、トラフィッキング
トラフィッキング(人身売買)の歴史は非常に古い。すでに古代のローマ帝国の時代において、女性
の奴隷売買が存在していたとされる。日本でも、『日本書紀』に凶作のため百姓の子供の売買許可願が
出され、(公式には)拒否されている。物語でも「山椒大夫」の安寿と厨子王が知られている。ここに
も表れているように、女性の売買は、国家や社会の破綻の中で生まれてくる。女性の人身売買の八割を
占めるとされる売春(買春)のためのトラフィッキングは、人の歴史で最も古い交易の一つとも言われ
るが、その背景には、国家破綻、貧困、格差が色濃く存在する。
売春を目的としたトラフィッキングは、多くの中間搾取業者が絡んでおり、およそ4から5段階に分
けられ、1)送り出し国の勧誘者、2)旅券やビザを用意する運び屋、3)中継国運び屋、4)受け入
れ国、暴力団関係、5)風俗店経営者などである。
(12)
問題は、二一世紀にトラフィッキングが、爆発的に広がった背景である。国連の統計では、2005 年
の移民総数は、1 億 9000 万人、そのうち 49,6%、すなわち半数が女性であり、また先進国に入国する
外国人総数の 3 分の 1 から 2 分の 1 は、不法移民とされる。
(13)
その最大の原因が、グローバリゼーション以上に、冷戦の終焉と社会主義体制の崩壊がある。なぜなら、
西側世界でのグローバリゼーションの広がりは、たとえば、ドイツやフランスと、スペイン、ギリシャ
においても、賃金格差はそれほど大きなものではなく、せいぜい四から六倍であった。(改行せず続け
る)しかし、社会主義体制の崩壊と中東欧における鉄のカーテンの解体の結果、ヨーロッパの東西間に
は、一挙に労働賃金格差が八倍から一〇倍の世界が現出したのである。すなわち、西側企業にとっては、
東側世界は、一〇分の一で労働力を確保できる、あるいは二足三文で使い捨ての低賃金労働者を雇用で
きる、旧社会主義企業の資産を解体・吸収合併できるという企業買収の最大のチャンスを手に入れた。
また旧社会主義国の中でも、その後「破綻国家」といわれることになる、旧ソ連から分離・独立した、
世界の GDP の中でも最貧国が、西欧のすぐ隣に誕生し、このことが移民の増大を生んだのである。
ヨーロッパでのトラフィッキングの波は、第 1 の波が、一九七〇年代、東南アジア、特にタイとフィ
リピン、第 2 の波が、ナイジェリア、ガーナなどアフリカ諸国、第 3 の波が、一九八〇年代のコロンビ
ア、ブラジル、ドミニカ共和国など、ラテンアメリカ諸国、そして第 4 の波が、一九九〇年代前半から
の中・東欧から旧ソ連邦の女性たちであった。(14)
旧 CIS 最貧国のモルドヴァなどでは、人々は平均一日二ユーロ、一か月六〇ユーロ(月一万円)で生
活し、時に何カ月も給与未払いに苦しんでいた。そうした地域から、西の豊かさに憧れと幻想をもつ旧
社会主義国の女性たちの西への出稼ぎが始まり、それは多くのマフィアや斡旋業者の下請け業と絡んで、
組織的トラフィッキングへと成長していくことになる。
社会主義国の崩壊は、西側の労働者にとっても、自分たちの豊かさの夢をかなえる好機ともなった。
週末ごとに西欧の労働者は東に足を運び、賃金格差を背景に、購買欲を満たした。
旧社会主義国と西側資本主義国との格差を利用した、女性移民のトラフィッキング産業の拡大の結果、
非合法に流出する多くの女性たちは、移動のたびに大量の借金を加算され、先進受け入れ国に到着した
ときには数百万規模の借金を背負う形で、パスポートを取り上げられ、部屋に監禁され、毎晩性産業に
従事しつつ、その報酬は借金の型として取り上げられ、暴力をふるわれ、生命の危険を掛けて警察に駆
け込めば逮捕されるという悪循環をたどることになる。
こうして、旧社会主義国からのスラブ系白人女性の売買春が、九〇年代から二一世紀初頭にかけての
世紀転換期に、無視できない程の広がりを見せることとなったのである。
4. 送り出し国のインセンティブと
インセンティブと
トラフィッキングの
トラフィッキングのメカニズム
以上のように、おもに旧ソ連邦から独立した、
「破綻国家」
、紛争国家の女性たちにとっては、自国を
出て西側でサービス産業(ウエートレスや飲食店)に従事することによって、貧しさや危険な生活状況
から抜け出し、「金と自由」を手に入れ豊かな生活を実現できることは「夢」であった。国外に出てサ
ービス産業につくことにより、家族に送金し、豊かな人生を享受できる、という「幻想」と「欲望」を
表出させることになった。
195
ソ連邦が崩壊して以降の「欧州」における破綻国家・紛争国家の存在とそこからの移民たちの脱出の
決意、賃金格差を利用した先進国の移民需要、とりわけセックスワーカーの需要が、トラフィッキング
を生み出す最大のメカニズムである。
一般の移民労働者と同様、グローバリゼーション下での競争力(competitiveness)拡大のための企業・
国家のプル要因・送り出し国の出稼ぎによる送金を望むプッシュ要因双方が機能した結果でもある。
トラフィッキングの悲劇は、彼女たちの先進国の豊かさに対する憧れや夢を、マフィアや仲介業者が
食いつくしながら、犯罪摘発がむしろ被害者の女性たちにとどまってしまうことであろう。
ちなみに、2000年から08年におけるモルドヴァの年間一人当たり GDP は、354ドル、88
3ドル、1809ドル、ウクライナの一人当たり GDP は、642ドル、1843ドル、3920ドル、
である。他方、中国の一人当たり GDP は、946ドル、1710ドル、3315ドルである。ウクラ
イナと中国がおおよそ同等の発展を遂げている。
(15)
(モルドヴァは、2000年の段階で、1日1
ドルないほどの貧困で、バングラデシュやカンボジア、東ティモールに並んでおり、西欧から数時間の
ところにこのような貧富の格差が存在すること自体が、21世紀のトラフィッキングの流行を生み出し
たといえよう。
< ウクライナ、
ウクライナ、モルドヴァからの
モルドヴァからの女性
からの女性の
女性の流出 >
一九九一年のソ連邦の崩壊、ウクライナ、ベラルーシ、モルドヴァなど旧ソ連邦からの独立と国家破
綻の中で、まず、国の若者たちが、知識人であるか否かを問わす、自国を捨て、西側に出て行った。次
いで、多くの旧ロシア系諸民族の女性や児童が、先進国に流れて行った。これらは、当初は、労働力移
動としての東から西への移住であり、次第に、マフィアなどが絡んでの、組織犯罪としての「トラフィ
ッキング(人身売買)」が定着していった。
その基本的なメカニズムは、賃金格差、社会格差からくる、西側への憧れと、自由・豊かさへの期待、
さらにきらびやかな世界という幻想を利用したものであり、実際には到着した途端に始まる、膨大な旅
費・経費を債権としての、強制労働、パスポートを取り上げられ監禁されての売春強要、売上のほとん
どが斡旋業者とマフィアに流れる無償労働と暴力の連鎖である。命の危険を冒して逃れれば、逮捕と刑
罰が待ち受ける、という究極の詐欺と人身売買・買春である。
これらについて、当初は、女性の側からの自由意思(西側への憧れと賃金格差を利用しての労働移動
という点で)、社会主義体制崩壊の闇の部分として、放置されてきた。EUが遅ればせながら問題に取
り組み始めたのは、二一世紀に入ってからであった。
十分な統計は存在しないものの、冷戦終焉と国家破綻、巷に放りだされた大量の失業者と移民、とい
う構造の中での旧破綻国家から流入する性産業に従事する女性労働者の実態は、ほぼ一〇年間、先進国
の非合法な闇システムの下にあった。
冷戦終焉後、社会主義体制の崩壊と「資本主義の勝利」の下で、旧社会主義国の女性たちは、冷戦終
焉後の二〇年間、先進国の経済的「欲望」
(投資、競争力、買収)
、社会的欲望(企業買収、合併、資本
投下)、性的欲望(人身売買、売春、児童買春)の下に置かれ、国際機関もようやく近年になって、こ
れへの対処が始まることになる。
5.EUの
.EUのトラフィッキング対策
トラフィッキング対策
国連と移民の国際機関は、二一世紀に入り、トラフィッキング調査に重い腰を上げた。毎年四〇〇万人
が世界で人身売買され、そのうち五〇万人の犠牲者がEUの中で生まれている。
(16)
またその犠牲者は、旧社会主義国たる中・東欧、および旧ソ連の国々の女性が激増し、加えてアフリ
カ、ラテンアメリカ、カリブ、アジアから女性が収奪され、その額は、年間数一〇億ドルにものぼると
される。(17)
トラフィッキングの傾向は、すでに一九七〇年代ごろから指摘されてきたにもかかわらず、EUにお
ける検討は、なぜ一九九五年以降まで引き延ばされてきたのだろうか。
その背景には、まずEUの存在理由自体が、人・モノ・資本の自由移動にあること、また1985年
のシェンゲン協定の導入、91年のマーストリヒト条約、さらに2008年のシェンゲン協定の拡大な
どが、基本的に域内・域外の人の移動をむしろ促進する方向で努力してきたことがある。国境の壁を低
くし、人の移動を自由にすることこそ、EUの目的であったからである。
これについて、ボグダニ、ルイスは、次のように論じている。1)シェンゲン協定の国境が事実上廃
196
止になったことで、トラフィッキングの被害者と性産業の顧客の両者が容易にシェンゲン領域内を移動
できるようになった。2)移住に関する制限は、合法的居住者と非合法的居住者との間に「内部辺境」
を生み、そのため多くの被害者にとって当局に助けを求めることが今まで以上に困難になった。
(18)
しかしトラフィッキングの被害と厳しい実態が、放置しがたい状況になった。トラフィッキングに対
し、2002 年にEUは、
「人身売買と戦うための協議会枠組み決定」を採択し、そこで[18 歳未満]の子
供を含む人身売買に対し、厳しい措置を講じている。これは 2000 年の国連での「女性と子供の人身売
買や人の密輸に対する議定書」に準じるものである。(19)
これらが遅まきながらも出てきた背景として、ブリジット・ロシェールらは、国際関係において、フ
ェミニスト理論、社会コンストラクティヴィズム、EUにおける社会運動研究、政策研究などが、規範
や語りを重視し始め、現実のトラフィッキングの被害にそれらの手法により接近し、解決を促したこと
を挙げている。(20)しかしそうした、コンストラクティヴィストの研究の拡大以上に、トラフィッ
キングの被害が、EU内で無視できないほど拡大してきたことの方が大きい。
そうした中で、反トラフィッキングにむけ、1)人権・女性の権利、2)反暴力、3)ジェンダーの
平等性、4)反奴隷など、規範概念が、EUの枠組みの中で、明示され、強調されるようになった。
(2
1)それでも未だEU内部においては、人の移動の自由と性産業の自由に阻まれ、なかなか問題化し得
ないところがある。
6.
問題解決の
問題解決の方向 < どうすればよいのか >
トラフィッキングを論じる際に必ず、「女性も望んでやってきた」という意見がある。
しかし何を望んでやってきたのか、と問うとき、たとえ性産業に従事することを相互の合意として了解
したとしても、その目的が、彼女たちにとって「自由・豊かさ」
・高額賃金を目指してきたのであれば、
その正反対の状態である、監禁、パスポートの取り上げ、債務と称しての賃金の取り上げ、挙句の果て
はそれを実行したマフィアや斡旋業者が逮捕されず、逮捕されるのは実際には被害者・犠牲者であった
女性たち、という状況がある限り、人の自由移動、人の自由意思を越えて、
「人権擁護」がまず第 1 義
的に、検討されなければならない。
性産業斡旋者やマフィアたちは、「合意の下」という犯罪者たちに都合のよい理念の下、だまして連
れて来、女性の体を使って儲け、搾取し尽くし、放り出してきた。人権侵害の極致である。にもかかわ
らず「性の自由と要請」の下で、先進国においてさらに第二、第三の犠牲者を生みだす素地にも、なか
なかメスが入れられない。
最大の問題は、1)人権・女性の権利、2)反暴力、3)ジェンダーの平等性、4)反奴隷、という
価値を掲げ、規範を率先して代表してきたかに見える、EU、アメリカ、日本などの先進国がそれらの
温床の現場となっていることである。
法規範に基礎をおいた、マフィア犯罪グループの組織的摘発も、急務の課題であろう。
ユーロポル(ヨーロッパ警察)も、国際テロに対しては、治安のレベルを最大限にあげながら、売春
(明らかに買春)組織の根絶に対しては、極めて及び腰の部分がある。まして外国人観光客に対する売
春や性自由化のビデオは野放し状態にある。
今や1億数千万人の人の移動、人口35人に一人が移民(22)という時代にあり、とりわけ女性の
移民から表出する、五〇万人とも言われる「人身売買」の実態は、冷戦の崩壊と、先進国と破綻国家の
圧倒的賃金格差を利用し、性の欲望に則った弱者に対する先進国の恥ずべき現代の「奴隷制」を現出し
ている。これらへの対策、何より若年層の女性・児童の被害者に対する迅速な対応が急務である。
トラフィッキングのアジア最大の受け入れ国であり、取り組みが世界で最も遅れている日本において
も、まず問題の正確な認識、次いで彼女たちの多くが、自由意思でやってきて、稼いでいるわけでは決
してない「同零労働」の現実を直視し、人権侵害、暴力、奴隷制の容認に対して法制化と摘発に努める
時期に来ている。
< 注 >
(1) 羽場久美子「ペレストロイカ下の東欧―『多様性への
回帰』―」『外交時報』、一九八九年七月号。
(2) ヨーロッパ・ピクニック計画、汎ヨーロッパ・ピク
ニック計画については、Pan European Picnic and the Opning the border, September 11, 1989,
197
Nagy Lasulo, http://www.berliner-mauer.de/laszlo-nagy/lazslonagy-en.htm
及び Oplatka Andras, Egy dontes tortenete, Magyar Hatarnyitas 1989 szeptenber 11, nulla ora,
Helikon, 2008.参照。
(3) これに関しては大量の資料があるが、三浦元博・山崎博康『東欧革命』岩波新書、1992年、
南塚信吾・宮島直機『’89、東欧革命』講談社現代新書、1990年、を参照。なお「ヨー
ロッパ回帰」について、筆者は九五年にロンドン大学で数名の中・東欧研究者からなる Spring
Seminar を開催した、その成果は、Kumiko Haba, "The Co-operation and Competition for
Return to 'Europe'", Division and Integration of "Another Europe", Spring Seminar in
University of London, Occasional Papers, No. 13. Ed. by The London Office of Hosei
University, 1996.4.を参照.]
(4) 羽場久美子『拡大するヨーロッパ 中央の模索』岩波書店、一九九八年、 頁。
( 5 ) Labor, Employment, and Social Policies in the EUEnlargement Process, Changing
Perspectives and Policy Options, ed. By Bernard Funck, Lodovico Pizzati, The World Bank,
Washington D.C., 2001.
(6)Trust beyond borders, Immigration, the Welfare
State, and Identity in Modern Societies, Markus M. L. Crepaz, foreword by Arend Lijphart, ThEU
niversity of Michigan Press, Ann Arbor, 2008..
(7)羽場久美子『拡大するヨーロッパ、中欧の模索』岩波書店、一九九八年.
(8)「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」の「人の密輸に関する議定書」内閣府男女共
同参画局、平成一四年七月一七日
http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/boryoku/siryo/bo14-1.pdf
(9)
(図)UNODC, Trafficking in Persons, April 2006, p.18-20.
http://www.unodc.org/pdf/traffickinginpersons_report_2006ver2.pdf
(10)F・フェヘール
フェヘール/A・ヘラー
ヘラー/G・マールクシュ『欲求に対する独裁
独裁』富田武訳岩波現代選書
フェヘール
ヘラー
独裁
1984 年。
(11)Human Trafficking, Human security, and the Balkans, ed. by H. Richard
Friman and Simon Reich, University of Pittsburgh Press, 2007. p.7.
(12)United Nations, Trends in Total Migrant Stock: The 2005 Revision, 『人間の安全保障とヒ
ューマン・トラフィキング』大久保史郎編、日本評論社、2007 年、p.16.
( 1 3 ) 女 性 の ト ラ フ ィ ッ キ ン グ に つ い て 」 内 閣 府 共 同 参 画 局 、
http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/boryoku/siryo/bo14-1.pdf
(14)アレクサンドラ・ボグダニ、ジョナサン・ルイス「EUの辺境とトラフィッキング」山内進編
『フロンティアのヨーロッパ』国際書院、2008 年、238 頁。
(15)国民一人当たりの国内総生産[GDP],世界ランキング(2000年、2005年、2008
年)[為替レート換算]。Economic and Social Data Ranking:
http://dataranking.com/table.egi?LG=j&TP=ne03-1
( 1 6 ) Birgit Locher, Trafficking in Women in the E U ropean Union, Norms, AdvocacyNetworks and Policy Change, Vs Verlag fur Sozialwissenschaften, 2002.pp. 22.
(17)op.cit, p.22.
(18)ボグダニ、ルイス「EUの辺境とトラフィッキング」
『フロンティアのヨーロッパ』p。233-234.
(19)2002/629/JHA: Council Framework Decision of 19 July 2002 on combating trafficking in
human beings
OJ L 203, 1.8.2002, p. 1–4、
http://eur-lex.europa.eu/smartapi/cgi/sga_doc?smartapi!celexapi!prod!CELEXnumdoc&lg=EN&numdoc=32002
F0629&model=guichett、
Protocol to Prevent, Suppress and Punish Trafficking in Persons, Especially Women, and Children, Supplementing the
United Nations Convention Against Transnational Organized Crime, United Nations, 2000.
http://www.osce.org/documents/odihr/2000/11/1718_en.pdf
ボグダニ、ルイス、p.235-236.
(20)Birgit Locher, Trafficking, p.44-55.
(21)Birgit Locher, Trafficking, p.85.
(22)谷村頼男「国際的な人の移動とトラフィキング」『人間の安全保障とヒューマン・トラフィキン
198
グ』2007.、p.12.
Trends in Total Migration Stock, United Nations, the 2005 Revision.
http://www.un.org/esa/population/publications/migration/UN_Migrant_Stock_Documentation_2005
.pdf
< 欧州のトラフィッキング関係の文献
>
Birgit Locher,
Trafficking
in
Women
in
the
E U ropean
Union;
Norms,
Advocacy-Networks and Policy-Change, Vs Verlag Fur Sozialwissenschaften, 2007.
Human Trafficking, Human Security, and the Balkans, ed. by H. Richard Friman
and Simon Reich, University of Pittsburgh Press, 2007.
Human Security, no. 11, 2006/7, 東海大学平和戦略国際研究所。
『人間の安全保障とヒューマン・トラフィキング』
、
大久保史郎編、日本評論社、二〇〇七年一〇月。
アレクサンドラ・ボグダニ、ジョナサン・ルイス「EUの辺境
とトラフィッキング」山内進編『フロンティアのヨーロッ
パ』国際書院、二〇〇八年。
<
インターネット・トラフィッキング資料(二〇〇九.六.現在)
>
1.United Nations, Office on Drugs and Crimes(UNODC), Trafficking in Persons: Global Patterns,
April, 2006.
http://www.unodc.org/pdf/traffickinginpersons_report_2006ver2.pdf
2. http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/boryoku/siryo/bo14-1.pdf
女性のトラフィッキングについて、内閣府男女共同参画局
3.http://www.mofa.go.jp/Mofaj/gaiko/jido/pdf/jido_t.pdf
外務省資料
プレス・キット テーマ・ペーパー六 (仮訳)性的搾取を目的とした児童のトラフィッキング
4.人身売買禁止条約 http://www.pure.ne.jp/~jinken/jyooyaku25.htm
人身売買および他人の売春からの搾取の禁止に関する条約、一九四九署名、一九五〇国連第四総会、一
九五八年国会承認、七月公布、効力発生
5.人身売買禁止議定書
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty1621.html
ニューヨークで署名、発効
人身売買禁止議定書キーワード
二〇〇〇年、国際組織犯罪防止条約を補完する議定書として
人身売買禁止議定書キーワード:
キーワード:人身売買
国際連合国連総会で採択、二〇〇三年に発行された条約。日本は二〇〇五年(平成一七年)六月八日、国会
で承認した。現在日本国内では、外国人労働者の観光ビザでの不法就労や、人身売買もどきや差別などが横
行している。
http://www.r22.jp/b/wp/a/wp/n/%90l%90g%94%84%94%83/i/%90l%90g%94%84%94%83%8B%D6%8E~%8Bc%92%
E8%8F%91
図の出典:United Nations Office on Drugs and Crime(UNODC), Trafficking in Persons、Global Patterns,
April 2006, p.17.
http://www.unodc.org/pdf/traffickinginpersons_report_2006ver2.pdf
199
200
18.
18. 冷戦終焉20
冷戦終焉20年
20年と中・東欧1)
羽場久美子
1.
冷戦の
冷戦の崩壊はなぜ
崩壊はなぜ起
はなぜ起こったか。
こったか。2)
冷戦(Cold War)は、通常、米ソの対立、敵対しているが熱戦(Hot War)のない状態として語られ
る。
しかし、東欧のように冷戦期に軍事支配下におかれた国にとって冷戦とは、「自己統治機能の喪失」、
すなわち、主権の喪失の時代だった。3)
それゆえ、東欧の人々にとって、冷戦の終焉とは、「喪失した主権や自治権を回復する」過程と考え
ることができる。つまり、「自分で自分の国のあり方を決めることができる」権利を奪い返すというこ
とである。
冷戦の原因は、資本主義と社会主義を代弁する米ソ 2 大国が、それぞれの影響圏を拡大していく過程
であった。
しかし冷戦崩壊の主役は、米ソではない、と筆者は考える。冷戦の崩壊は、主権を制限されていたソ
連支配下の諸国家、諸国民が、主権を自分たちの手で回復していく過程であった。冷戦崩壊の主役は、
ソ連ではなく、ソ連の軍事支配から素手で飛び出していった中・東欧の国民たちであった。
冷戦の崩壊は、ヨーロッパにおいては、米ソ超大国の対立と融和の「結果」としてではなく、中・東
欧の市民や労働者による、歴史的に繰り返された、
「自立と主権回復の継続的な試み」の結果であった。
それが各国各地でソ連の戦後の軍事支配からの解放をもたらし、最終的に1989年12月のマルタ
における米ソ階段を「導いた」のである。また中・東欧各国の「自立の動き」は、ソ連の諸地域にも飛
び火して、最終的には91年のソ連邦の崩壊さえももたらした。これはゴルバチョフのペレストロイカ
の成果ではなく、ソ連の影響下に置かれて以来 40 年続いてきた、中・東欧市民の「自立へのあくなき
試み」の成果である。
冷戦終焉は、米ソがもたらしたものではない。むしろ米ソは、冷戦の崩壊とソ連邦の解体を予測でき
なかった。4)
中・東欧諸国の市民層は、戦後ソ連圏に抗いながら組み込まれていった当初から、指導者の亡命や解
党・粛清による「自己統治機能の喪失」に対して、継続的に、
「主権の回復」
「独自の道」を、40数年
の間、追求し続けた。その結果、各国・各地の市民の手による、89年の冷戦の終焉に結実したのであ
る。
それは歴史的には、56年のハンガリー事件、68年のプラハの春、80年の連帯運動といういわゆ
る「12年おきの反乱」に象徴される。これらが89年の中・東欧全域における変革につながった。
資本主義・社会主義経済の収斂の試みは挫折し5)、80 年代の中・東欧の自由化は、最終的にソ連邦か
らの離反を結論付けた。米ソの軍拡競争の結果による相互の経済疲弊とゴルバチョフのペレストロイカ
の導入、ゴルバチョフの中・東欧への寛容は、中・東欧の歴史的改革を「促進」させたが、ソ連が中・
東欧の改革を生み出したわけではない。
80 年代に続く 89 年の一連の変化は、よく知られているように、6 月のポーランドにおける複数政党
制の選挙と連帯の圧勝であり、6月のハンガリー・オーストリア国境における鉄条網の撤廃であり(こ
の時は自国民のみ)、それに続く東ドイツ市民のハンガリーへの「ヨーロッパ・ピクニック計画」6)で
あった。東独市民がハンガリーの鉄のカーテンから西に大量に逃れ始めると、その結果としてベルリン
の壁は用をなさなくなり、崩壊した。 それが最終的に、12月の冷戦の終焉、91年のソ連の解体に
つながることとなる。
鉄のカーテンはなぜ開かれたか。ベルリンの壁はなぜ崩壊したか。冷戦体制はいかにして崩壊したの
か。
これらを実行した歴史的政策決定者、改革当事者が、今年11月末に来日し講演を行う7)。鉄のカー
テンを開いたネーメト元ハンガリー首相、オーストリア首相、変革と解放を導いたポーランドの連帯知
識人、東ドイツの民主化運動家ら、歴史を動かした立役者、政策決定者・運動家たちである。連帯運動、
ヨーロッパ・ピクニック計画と鉄のカーテン解放、ベルリンの壁の崩壊、そして各国の民主化と解放。
自由選挙による政権交代。
以下、軍事力でも外交交渉でもなく、歴史的な市民の平和的な行動の結果として、冷戦終焉が導かれ
た経緯を再確認する。また冷戦終焉後 20 年間、生命を賭して再獲得した市民の「自己決定権」は、そ
201
の後も維持・行使できているのか、それとも重大な障害に直面しているのか、何が問題なのかを検証す
る。冷戦終焉時の解放目的たる「市民主権」は、この 20 年間、成功裏に維持・遂行され続けているだ
ろうか。
その上で、冷戦とは何だったのか、また冷戦終焉20年を迎え、人々は本当に解放されたのか、冷戦
終焉を牽引した中・東欧の市民層にとって、今何が課題であるのかを考える。
2.
冷戦終焉
冷戦終焉の
終焉のドラマ
1989 年の冷戦の終焉時に重要だったのは、それが、権力対権力、国対国でその主権の奪い返しをや
るのではなく、普通の人が、「自分で、自国のあり方を決める」ということを、素手で実行したことだ。
それが、6 月のポーランドでの複数政党制の選挙での圧勝、8 月の汎ヨーロッパ・ピクニック、人間
の鎖であった。バルトで人々は、手をつないで、「ここは自分の国だ、誰にも侵されない自分たちの領
域だ」
、ということを、武力でなく平和的に示そうとした。
また、東ドイツの人々は、ハンガリーとオーストリアの国境が、ハンガリー人に開かれたことを耳に
し、家族でハンガリーにピクニックに出かけ、そこから西に出ようとした。ベルリンの壁という軍事的・
物理的権力に対して、日常の手段で、壁を破ろうとしたのだ。
大国の思い通りにはならない、自分の道は、自分たちが決める、政治家が頼りにならないのであれば、
市民の手で決める。こうした思想は、連帯も、ビロード革命も同じであった。
天安門との
天安門との明暗
との明暗
他方中国では、1989 年 6 月、天安門事件があり、学たちの民主化の動きを徹底的に弾圧した。天安
門で学生たちが政権の軍事的弾圧によって血を流して倒れているその時、ポーランドの連帯運動は、自
由選挙で圧勝し、民主化へと大きく進んだ。欧州と中国は、民主主義をめぐって、ここではっきりと明
暗を分けた。
しかし中国は、その後経済発展によって、民衆の不満を解消する方向を選択した。
さいおうがうま
歴史というのは、塞翁が馬。どちらが良かったかどうかは、後になってみないとわからない。必然と
偶然が重なり合って、歴史がおこる。重要なのは、歴史の選択に際しては無数の「if」があるが、選択
した過去にはもはや「if」はなく決定の必然として存在する、ということだ。
中国は、ヨーロッパと違う冷戦の終わり方を選択した。あるいは、89 年で冷戦が終わり、民主化が達
成されることを拒否した。その代わり、理念としての共産主義を捨て、グローバル化の中で世界経済競
争に参入し、経済発展を選択することで生き延びた。今日の中国の発展は、天安門を弾圧することで、
始まったのである。
ゴルバチョフの
ゴルバチョフの失敗
その後、ソ連では、ウクライナ・中央アジアをはじめとする国々の独立と混乱が長期に続いた。ソ連
は崩壊し、ゴルバチョフは更迭された。他方、中国経済は、民主化運動を弾圧しながら、総 GDP では、
日本を抜く底力を持つ経済発展を 20 年で作り上げた。一方で、国民の不満は、内部でくすぶっている。
ソ連と中国、どちらが歴史を深く読み込んでいたか、未だに判断は難しい。
しかし中・東欧ではこれ以外の選択肢はなかった。ここでは市民が自らの選択によって、鉄のカーテ
ン解放、ベルリンの壁の解体、社会主義体制の放棄へと進んでいったのである。
3.
鉄のカーテンの
カーテンの解放の
解放の意義
ここでは簡単に、鉄のカーテン解放からベルリンの壁崩壊への意義を確認しておきたい。
89 年 2 月、ソ連科学アカデミー会員ボゴモロフは、
「たとえハンガリーがワルシャワ条約機構から脱
退しても、中立ハンガリーは、ソ連の安全に危険を及ぼすことにはならない」と発言した8)。6月には、
民主化運動を弾圧した中国の天安門事件を背景に、西ドイツで、ゴルバチョフ・ソ連邦書記長は、中・
東欧がいかなる体制をとってもソ連はそれに介入しないという「体制選択の自由」を表明した。この 2
人の発言は、56年や68年のようにソ連軍が戦車により各国の内政に干渉することを行わないという
保障となった。その結果、中・東欧は、最初は注意深く自国の自由化を図り、その後 8 月以降は加速度
的に、ソ連支配から離脱していくこととなる。
まずハンガリー政府(ネーメト・ミクローシュ首相)は、オーストリアとの国境の鉄のカーテンは現
代世界に見合わないとして、6月 11 日、国境の開放を決定、6月 27 日には、ハンガリーの外務大臣ホ
202
ルン・ジュラとオーストリアの外務大臣アロイス・モックが、両国の鉄条網を開放した。これを聞いた
東ドイツ市民が、ハンガリーを通れば西に逃れられると考え、次々とハンガリーに旅行申請を始めた。
8 月には、東独の人々がハンガリーの西部国境ショプロンに集まった。その数は、600~700人に
膨れ上がった。
しかしハンガリー国境は、自国民に解放されたものの他国の社会主義国の人々には認められなかった。
それは西側世界と断絶している各国の体制、さらには社会主義体制全体を脅かすことになり、これを容
認することは内政干渉、さらにはその国の体制転換を促すことにつながったからである。
これに対し、当時多党制承認の結果、政党を結成していた NGO、民主フォーラム、自由民主同盟が、
東独市民解放の動きを支援した。さらに国際汎ヨーロッパ連合(会長は、ハプスブルク帝国の皇位継承
者オットー・フォン・ハプスブルク)、当時の政治改革をリードしたポジュガイ・イムレ国務次官、当
時の汎ヨーロッパ連合運動の事務局長 Walburga Habsburg Douglas もこれを支持し、最終的に鉄のカ
ーテン切断を助けた。
こうして8月19日、3時から6時までの3時間、東独市民に対して国境の鉄条網が開かれた。「鉄
のカーテン解放」に際し、東ドイツ市民は信じがたい思いで、我先に国境線を走って渡った。兵士たち
は発砲しなかった。むしろ、親から手が離れて転んだ子供を抱き起こし、親に渡した。ハンガリー政府
と軍は、西への逃亡を支持したのである 9)。
ハンガリーの国境線が開かれたニュースが伝わると、東ドイツからさらに次々と人々がハンガリー西
側国境に押し寄せた。
4.ドイツとの
ドイツとの折衝
との折衝
その後、ハンガリーの首相ネーメトは、ボンに飛び、西ドイツ宰相コールと直談判を行った。これに
ついては、1994年に NHK のドキュメンタリー番組でも紹介されている10)。ハンガリーが、鉄の
カーテンを最終的に開く決断を西ドイツの宰相コールに伝えた時、コールは感動のあまり涙した。それ
は、東西ドイツのみの問題ではなく、冷戦を象徴する鉄のカーテン・ベルリンの壁が無意味となる大事
件であった。
当時防衛大教授の佐瀬氏は、西独宰相コールからハンガリーに多数の金が渡されたと指摘して西側の
安保研究者を納得させた。これに対し、ハンガリー政府はあくまでハンガリー主導の決断であり、金が
流れたという噂は正しくないと反論している 11)。
こうして89年9月11日 0 時、ハンガリー政府の決定により鉄のカーテンが開かれ、東独市民が第
3 国に行くことは何の妨げもなくなった12)。国連の(ジュネーブ)難民協定により、10月1日に、ハ
ンガリーに集まった東ドイツ人はすべて西側に引き渡された。
5.ベルリンの
ベルリンの壁崩壊と
壁崩壊と東欧革命の
東欧革命のドミノ
89 年 11 月 9 日夜半、ベルリンの壁が、突然開かれる。これは 10 日から旅行の自由の規制緩和を打
ち出した東独政府と広報官の理解の行き違いに端を発した突然のベルリンの壁の解放であった。当初東
独政府は、11 月 10 日以降、出国検問所における「旅行の自由の規制緩和」を執行するつもりであった。
しかし広報官が、前日夕方に会見し、記者の質問に対し、「本日すぐに」(11 月 9 日)と答えたために、
東独市民がベルリンの壁の検問所に詰めかけ、指令を受けていない検問兵ともみ合いになり、最終的に
壁の検問所が開かれた。壁には東西ベルリンからの市民が詰めかけ、夜半には壁の解体が始まった。こ
の出来事は東西ドイツの市民の大きな共感を呼び、翌 90 年 10 月 3 日の東西ドイツ統一に発展したので
ある13)。
ベルリンの壁の崩壊は、ここで対峙していた米ソの軍事的対立を無に帰すこととなり、冷戦の終焉を
促した。しかし実際には既に、ハンガリーでの鉄のカーテンの解放が、ベルリンの壁の意味を消失させ
たのである。
東ドイツ市民の汎ヨーロッパ・ピクニックは、ポーランドの連帯運動とともに、東欧革命における一
連の変革の誘因となり、ベルリンの壁崩壊をももたらしたのである。
以後、12 月にはチェコのビロード革命、ルーマニアのチャウシェスク政権の転覆に至り、東欧革命の
ドミノ現象が傑出する。
ここに見られる各国各地域の市民の(ルーマニアを例外とした)流血なき「自らの手による自分たち
の解放」こそ、社会主義体制に風穴を開け、最終的にソ連を含む社会主義体制を地滑り的に崩壊させた、
重要な事件であったといえよう。
東欧ドミノ革命を推進したのは、一つはそれぞれの国の市民の協力の動きであり、今一つは、情報革
命の影響であった。グローバリゼーション、衛星放送が、西側の自由と豊かさを余すところなく伝え、
203
さらに中・東欧各国での民主化運動や改革が伝えられる中、各地の市民運動が盛り上がっていった。
また特に、アジアの経済成長が、社会主義国の経済学者に社会主義の優位性を放棄させた。「資本主義
体制下では豊かさと貧しさは、コインの裏表、貧しいものはさらに搾取されて決して先進国に追いつけ
ない」という従属理論が世界の社会主義国の教科書で描かれてきたが、今やアジアの元植民地の国々が
急成長し、一人当たり GDP で欧州各国を追い越し、イギリスやフランスに迫りつつあるという事実が、
「社会主義と市場主義の収斂理論によって経済発展を遂げようとしてきた経済学者に、社会主義経済を
放棄させたとされる。
こうして「連帯10年、ハンガリー10カ月、チェコ10日」という、加速的に広がる「東欧革命」が
遂行されたのである。
その後ルーマニアでは、ハンガリー人マイノリティの宗教弾圧に端を発する民主化運動の高まりとチ
ャウシェスク追い落としの結果、チャウシェスクは射殺され、「救国戦線」たる共産党改革派が権力を握
った。
12月3日、マルタ島で、米ソ首脳のゴルバチョフとブッシュ Sr.が冷戦の終焉を告げた。しかし最
初にも述べたように、冷戦の終焉を導いたのは米ソ 2 大国というより、「制限主権」から主権を奪還した、
中・東欧の市民層であった。ソ連占領以来 40 年にわたる中・東欧の歴史的な政治・社会運動が生み出
した市民による変革の結果であった14)。
6.冷戦終焉 20 年:何が変わったのか
90年春から、中・東欧各国で自由選挙が始まり、市民・民主フォーラム系の文化人グループが次々
と政権に就いた。文学者ハベルやミラン・クンデラによるチェコの市民フォーラム、ハンガリーのコン
ラードの自由民主連合やアンタルの民主フォーラム、ポーランドの連帯労組や連帯知識人が政権に就く
中、東ドイツでも最初で最後の民主政権が実現した。が、ベルリンの壁崩壊1年後、90 年 10 月 3 日に
は、西独コール宰相による「一つのドイツ、一つのマルク、一つのヨーロッパ」の掛け声の下、東西ド
イツは統合され、統一ドイツが復活した。これは事実上西ドイツによる東ドイツの吸収合併であった。
その後 20 年にわたる5回の自由選挙を経て、バルカンを除く中・東欧諸国は、2004-07 年、EU・NATO
に統合され、「ヨーロッパ回帰」が制度的にも実現された15)。
1)
新体制 90 年代の
年代の優先課題:
優先課題:EU・
EU・NATO 加盟
中・東欧の国々にとって、冷戦とは何よりも「ソ連支配」「主権の制限」であり、冷戦の終焉とはソ
連からの解放と主権の奪還であった。
それ故中・東欧の国々は、「自由、民主主義、市場、ヨーロッパ回帰」を掲げて、自国解放後、まず
NATO の門をたたいた。冷戦終焉後の最大の課題は、「ソ連の支配下に2度と入らない」ための制度的
保証であったからである。
新体制がまず着手したのは、「ヨーロッパ回帰」、EU・NATO への加盟であった。「ソ連からの決別」
を達成するや否や「ソ連に対抗する安全保障」を第一義的に求めたのである。
だからこそ、旧東欧諸国は「平和主義」ではなく、まず NATO、アメリカ主導の軍事体制に積極的に
加担した。その結果、イラク戦争勃発後は、アメリカのブッシュ Jr.政権における「軍事力による民主
化」路線に積極的に加担し、米国防長官ラムズフェルドに、「古いヨーロッパ(独仏)に対する「新し
いヨーロッパ(中・東欧 軍事行使賛成派)
」と称賛されることになる16)」
。
2).「社会主義
「社会主義ノスタルジー
社会主義ノスタルジー」
ノスタルジー」への回帰
への回帰
他方で、中・東欧は、社会主義政党に対しては、生活と社会保障の充実として、一定の評価を与えて
いた。社会主義に対する忌避は、90 年直後の民主派には見られたものの、90 年代半ばには、体制転換
後の生活・社会保障の悪化故に、市民の間に「社会主義ノスタルジー」が現れた。
それ故、西欧のように、社会主義=全体主義とするような乱暴な議論は、東側には存在しにくかったと
言える。
ソ連型共産主義は、もはや欧州では政治的正当性を失ったものの、改革派社会主義や社会民主主義は
大手を振って、自由選挙以降の 2 大政党制の一翼となった。民主・市民フォーラム系が強かった中欧で
すら、第 2 回選挙では社会主義政党が政権を奪還し、小選挙区制と比例代表制の導入の中で、確実に2
大政党の一翼を担うこととなった。他方、バルカン地域では、最初から名前を変えた元共産党が長く生
204
き残った。
筆者が欧州に滞在していた90年代後半には、イギリス・フランスなど西欧諸国でも、社会主義政党
復活の時代であり、ブレアの労働党、ジョスパンの社会党、シュレーダーの社会民主党が其々力を盛り
返していた時代であった。
90 年に始まる「自由選挙」は 20 年目を迎えるが、各国では、社会主義政党(改革派)は、ハンガリ
ーでもポーランドでも 2 大政党の一翼として繰り返し政権に返り咲いた。チェコでは、共産党も 2 割の
得票率を確保していた。
冷戦の遺産として、中・東欧の人々は、ソ連支配のもとには 2 度と入りたくないが、人々の生活と社
会保障、年金を守ってきた 社会主義システムは、政権の選択肢として残してきたことが明らかである。
ただ現実にはグローバルな競争社会に投げ出された中・東欧にとって、政権が社会主義政党になっても、
旧体制のように労働者の社会保障を充実させるわけにはいかなかったが。
3)
17)
転機―
転機―1999 年、NATO 加盟と
加盟とコソヴォ空爆
コソヴォ空爆17)
体制転換後しばらくは、社会主義体制を崩壊させた中・東欧の国々は、フォーラム系、社会主義ノス
タルジー、
など選挙のたびに政権を交代させ、
徐々に 2 大政党制と連立内閣に収斂する傾向がみられた。
転機は、99 年のコソヴォ空爆であった。
この頃まで、「ヨーロッパ回帰」という用語は、平和と安定を意味していた。しかしアメリカのフリ
ー・ライダーの批判とバードンシェアリング、軍の近代化要求と相まって、自国を守るには、NATO 加
盟だけではなく、現実の戦争に積極的に参加すべきという姿勢が問われる。
その最初の踏み絵が、NATO 加盟とコソヴォ空爆であった。99 年 3 月 12 日に NATO に加盟したハ
ンガリー・ポーランド・チェコの 3 国は、その 12 日後に勃発したコソヴォ空爆への参加を余儀なくさ
れた。
ポーランド、チェコなど積極的参戦派(ハベル、ワレサを含む)は、民主主義防衛のため、「非民主
主義勢力を一掃」することが平和につながると解釈し、空爆に参与していった。
NATO 自体も冷戦終焉後、大規模な政策転換に直面した。
ワルシャワ条約機構が解体を宣言する中、NATO も一時その役割を喪失したため、対ソ軍事同盟から、
「危機管理」の同盟に転換し存続を図った。それは軍事戦略上極めて重大な意味を持つ。
すなわち旧来の米ソ対立に基づく同盟関係は、敵と同盟国との領域が明確であり、同盟国のいずれか
が敵の攻撃の危機に直面すれば、第 5 条任務に基づき出動できた。
これに対し、「危機管理」の同盟は、相手がこちらを攻撃対象としないばかりか敵意を持っていなくと
も、一定の規模の紛争があり、それが「人道的に無視できない状況」にある場合、非 5 条任務が新たに
加わることとなった。つまり攻撃される可能性がなくともどこでも必要な場に出動できる態勢が「人道
的介入」によって実現できることとなった。
これによってワルシャワ条約機構が解体したにもかかわらず、冷戦時代よりより広範に、必要な時に
どこでも必要な領域に、
「内政不干渉」の原則なしに介入することが可能になることになる。
こうしてコソヴォ空爆の 3 原則(人道的介入、域外派兵、必要な場合には国際機関の承認を受けずと
も介入できる)により、NATO は、危機管理の軍隊として、世界の民族地域紛争に介入する正当性を持
つこととなり、国際機関(例えば国連軍)との整合性が問われることとなる18)。
加えて NATO 加盟は、アメリカのバードンシェアリングと実戦参加要求と重なっていた。アメリカ
の軍事的庇護を求めて NATO に加盟した中欧 3 カ国は、加盟と同時に軍事力の近代化とアメリカ兵器
の購入を求められ当惑することとなる。
特にコソヴォ空爆の際、チェコのハベル大統領、ポーランドのワレサ大統領はともに積極的にコソヴ
ォ空爆を支持した。が、セルビア地域にハンガリー人マイノリティを擁していたハンガリーは、チェコ
やポーランドとは異なる現実的対応を余儀なくされた。
4.9.11.
11.からイラク
からイラク戦争
イラク戦争へ
戦争へ
アメリカの同時多発テロ、9.11以降、ロシアのプーチン大統領は即座に米に接近し、積極的に対
テロ国際協力網を提起し、以後ブッシュとプーチンの蜜月が実現した。これも中・東欧を困惑させた。
プーチンは「バルトの NATO 加盟よりロシアが協力するほうが何倍も役に立つ」と豪語し19)、中東欧
を幻滅させた。
その後 03 年 3 月に始まったイラク戦争への中・東欧の参与も。国際社会に対する規範を問われるこ
205
ととなった。EU の独仏は、イラク戦争には反対し、国連の査察を継続することを要請したが、アメリ
カは、大量破壊兵器疑惑を打ち出し、査察は無意味とし、有志連合とともにイラク戦争に突入すること
となる。こうした中、中・東欧諸国は独仏対アメリカの対立構造において、アメリカを選択せざるをえ
なかった。
独仏の査察継続による国連とのマルチラテラル(多国間協調的)な連携についても、決して平和主義
ではなく国内の諸問題により、イラク戦争に反対せざるを得なかったという論もある。ただし独仏はそ
れにより国際社会で面目を保った。
しかし中・東欧は、イラク戦争への有志連合の参加の中で、安全保障上は EU より NATO、アメリカ
の核の傘の下で自国を守ることを選択したのである。「これでヨーロッパに戻ってきた、2度と大国の
支配を受けない」と宣言して NATO に加盟した中欧諸国は、自国の平和を守る名目で遠い中東に軍を
送ることを選択せざるを得なかった。こうした矛盾に対し国民の間には不満がたかまり、戦争反対のデ
モなど政府との温度差を示した。が、体制としては安全保障はアメリカと NATO、経済は EU という路
線を変えることはできなかった。
その後、チェコ・ポーランドは、2007 年、アメリカの対テロ・レーダー、ミサイルの配備計画にも
積極的に協力した(国民は反対した)。その背景には、対抗措置としてのソ連のカリーニングラードへの
核配備威嚇や、チェチェン、中央アジアでのテロリストへの軍事力強化など、「新冷戦」とも呼ばれる
ような新たな対立構造の芽生えがあった。
しかし、米オバマ政権になってから、イラク戦争からも撤退を決め、またポーランド・チェコのレー
ダーと迎撃ミサイルも取りやめようとしている。この地域で迎撃ミサイルを撃つ可能性が極めて低いこ
と、またこの計画がロシアを過度に刺激することが、取りやめ考察の理由となっている19)。
以上、冷戦終焉後、中・東欧は、「ヨーロッパ回帰」による平和と安定を望みながら、コソヴォ空爆
からイラク戦争まで、NATO とアメリカに有志連合として最後まで付き合わざるを得なかった。その背
景には、冷戦後 20 年、最大の課題として、ロシアの軍事的支配下に2度と入らない、バルカンの民族
内戦の泥沼には陥らないという安全保障上の問題が深く影を落としていることが明らかである。
5.極右ナショナリズム
極右ナショナリズムの
ナショナリズムの成長
中・東欧は、内政においては、保守か革新かの軸は、むしろ 2 大政党制の枠内で機能することとなり、
ソ連の脅威と異なって、社会主義政党やその政策が障害となることはなかった。むしろ逆に、経済や政
治における急速なリベラリズム、ネオリベラリズムへの反動として、社会主義政党は繰り返し政権に登
場している。それは、2009年の現在でも東ドイツの若者における「東独ノスタルジー」に現れてい
る。
しかし21世紀により特徴的なのは、他方で、リベラリズム・グローバル化(普遍的利害への合流)
への反発が、極右民族主義(民族的権益の防衛)に現れていることである。
90年代初期の段階では、ハンガリーでは、チュルカの「正義と生活党」、クロアチアのツジマン、
セルビアのミロシェヴィッチなど、領土回復主義や自民族中心主義が台頭し周辺国との軋轢を生んだ。
スロヴァキアでは、90 年代長期にわたり、メチアルの民主スロヴァキア運動が民族社会主義への高い支
持を誇った。ポーランドでは EU の農業補助金の既得権益保持に対して、レッペル率いる家族同盟など
ポーランド農民の利害を強力に代弁する右翼政党が成長した20)。
これらはそれぞれの国における国民の利害を代弁する形で存在し、多様な民族主義を形成し、あらた
な形で欧米の普遍主義、規制主義に対応しようとしており、一律に、独裁、反動的ナショナリズムで切
り捨てることはできない。
冷戦終焉20年の中東欧からわかることは、冷戦期 45 年間軍事支配を行ったソ連の脅威に対し、
「自
国、自民族の利害」を掲げて解放された後も、NATO・EU の要請に対し、時に社会主義ノスタルジー、
時に民族主義で自己利害を守ろうとしていることである。
しかし EU 加盟後は、比較的社会主義改革派的な色彩を持つ EU が、全体の EU 益のために国益・民
族益を侵害する傾向が見え始めたことから、
「国益」
「自己利害」を守る民族主義へと、ベクトルが変化
してきている。
まとめ
冷戦とは何だったのか、冷戦の終焉とは何だったのか。20年後に振り返って、どのようにまとめるこ
206
とができるであろうか。
1つは、冷戦終焉と新たな制度への加盟である。見てきたように、冷戦とは、ソ連の軍事力支配によ
る、「主権の侵害、自己統治機能の侵害」であり、冷戦の終焉とは、そこからの「主権の奪還過程であ
った」21)。それゆえにこそ、冷戦終焉後は、2 度とソ連圏に編入されないために、NATO・EU 加盟な
ど、さまざまな国際制度上の枠組みへの参入が始まったのである。
第2に、社会主義政党の健闘である。中・東欧の市民は自己の利害を守るために、社会主義政党への
信頼と自由選挙での選択肢は現在まで保持し続けている。
90年に最初の自由選挙で選択された、連帯運動やチェコの市民フォーラム、ハンガリーの民主フォ
ーラムは短期で急速に力を失った。第2回の自由選挙では早くも、中欧でもバルカンでも、多くの地域
で社会主義者(ハンガリーでは社会党、ポーランドでは民主左派連合、スロヴァキアではメチアルの民主社
会運動、ユーゴではミロシェヴィッチの社会党、ルーマニアでは救国戦線(元共産党))が政権に回帰した。
これは、単に社会主義政党が単にマヌーバーで生き延びたというだけでなく、国民自体が、自己の生
活と社会保障を守るために、国内の社会主義政党に一定の信頼を置いていたということだ。あるいは自
由主義経済が、平均以下の民衆には何の恩恵も与えないばかりか、自分たちが犠牲になることを身をも
って知った結果であった。
以来、多民族国家の多様性を持ちながらも当然のように、保守と改革派の 2 大政党制 に近い形で収
斂していく。またどちらも市民利害を代弁しない時、極右民族主義という形で、自分たちの利益を守ろ
うとするしたたかさも持っている。
第3には、そうした中での EU への不信の高まりである。もはや中・東欧が、2 度とソ連の影響下に
入ることは考えられない。
しかし西側 EU の官僚主義と既得権益保持、ダブルスタンダードや差別的言辞に幻滅していることも
事実である(とりわけ、国益との関係では、農業問題、移民問題、財政問題)。
2003年、中・東欧が、アメリカ・ブッシュ Jr.の武力による戦争に参加した理由は、主権国家の
プライドの問題でもある。EU 加盟交渉をめぐる EU 首脳国の冷たい眼差しとロシアの強大な軍事力の
狭間で、唯一積極的に「(軍事行使に対する)感謝と権益提供」を行うアメリカの態度に共感し、有志
連合として武力介入を選択したともいえる。しかしその結果、ブッシュのユニラテラリズムとともに、
国際規範からの批判、国内世論の批判を受け、混迷することとなった。この時期、中・東欧各国の政権
は、民族保守派ではなく、
『国際派』たる左派政権が、イラク戦争に積極的に関与したことは興味深い。
第4は、中・東欧におけるドイツとの関係の変容である。90 年代はドイツ経済の影響力の拡大から、
中・東欧はドイツ経済圏、とみられることが多かった。しかし EU 加盟以降はむしろ独仏間の連合が強
まり、ドイツは、親米の中・東欧よりも、政治的には西のフランス、経済的には東のロシアと提携し、
金融や企業の拡大、エネルギー関係の強化を行っている。今や中・東欧の盟主より、フランス・ロシア
と結んで中・東欧を差別化する傾向が強い。これはイラク戦争に際し、中・東欧と独仏間で、相互に対
立と不信が高まった結果ともいえよう。
最後に、世
世界経済危機以降の
界経済危機以降の格差の
格差の拡大について
拡大について触
について触れておきたい。
れておきたい。
21世紀に入って以降、西欧でも中・東欧でも移民排斥、極右の成長が広がっている。
極右の成長と並行して、
「グッバイ・レーニン」
「善き人のためのソナタ」に見られるように、社会主
義体制を批判しつつ自分たちの生きた社会主義の時代を胸の痛身とともに懐古するような傾向が特に
国を失った東独で起きている。何がそうさせているのか。
何よりも、
「ヨーロッパ回帰」の夢と、EU・NATO 加盟の現実への幻滅との落差である。
東西格差は歴然として存在し、世界金融危機以降、東の経済の落ち込みによってますます拡大した。
差別もなくなっていない。
ドイツ統一により、「ひとつのドイツ、一つのマルク、一つのヨーロッパ」が実現されたが、その代
償としての失業、破綻、格差が東独を覆い、西の忌避と軽蔑が、残存していることである。
冷戦の時に作られた東西分断は、鉄のカーテン解放と、ベルリンの壁崩壊によって、物理的には開か
れた。しかし経済危機を経て、都市の垂直格差とともに東西格差が広がる今、東西の経済的・心理的分
断は、未だ解消されていないばかりかますます深まりつつある。
しかし、89年の冷戦の終焉はそれでも各国にとって歴史的重要性を持つ。
各国市民は、巨大な軍事・権威主義的機構に対し、市民が「自分のあり方を自分で決める」、それを
平和裏に成し遂げる、という歴史的な偉業を達成したのであるから。
207
<<注>>
1) 冷戦と中・東欧の研究について筆者はこれまで、ハンガリーの国立史料館外務省史料、ソ連関
係極秘文書、イギリス外交史料館史料を使って描いた、羽場久美子「東欧と冷戦の起源再考―
ハンガリーの転機:1945-1949-」『社会労働研究』法政大学、45‐2.1998.冷戦終
焉期の変化を描いた羽場久美子「ペレストロイカ下の東欧―多様性への回帰」『外交時報:米
ソデタントの余波』no.1260.1989.占領期の日本・アジア・ヨーロッパの比較共同研究を行った、
羽場久美子「ハンガリーの占領と改革」油井大三郎・中村政則・豊下楢彦編『占領改革の国際
比較』三省堂、1994、歴史の中で社会主義をとらえなおした、「歴史の中の社会主義、座談」、
羽場久美子「冷戦期のソ連・東欧関係の再検討」『歴史評論』2002.7 月号、冷戦の起源論を検
討した、Kumiko Haba, “Hungary and the Origin of the Cold War”『冷戦史の再検討』研究代表者
毛利和子、2004.3.ポスト冷戦を描いた、羽場久美子「拡大 EU のフロンティア―ポスト冷戦秩
序の再構築・規範と現実」山内進編『フロンティアのヨーロッパ』国際書院、2008.などの論
考がある。
2) 冷戦に関する研究書は大量に存在するが、本稿とかかわる、冷戦の起源と終焉、ヨーロッパと
アジアにおける分断、ヨーロッパピクニックなどに関する文献として、Geir Lundestad, The
American Non-Policy toward Eastern Europe, Oslo, 1978.Vojtech Mastny, Russia’s Road to the
Cold War, Columbia University Press, 1979. Origins of the Cold War, An International History, ed.
by Melvyn P. Leffler and David S. Painter, Routledge, New York, 1994, 2007.
Cold War Cold Peace, The United States and Russia since 1945, Bernard A. Weisberger,
American Heritage, New York, 1984. John Lewis Gaddis, We Now Know:Rethinking Cold War
History, 1997 (赤城寛治・斉藤祐介訳『歴史としての冷戦:力と平和の追求』、慶應義塾大学出
版会、2004.)、ラルフ・ダ―レンドルフ、岡田俊平訳『ヨーロッパ革命の考察―「社会主義」
から「開かれた社会」へ』時事通信社、1991. Oplatka Andras, Egy dontes tortenete(ある決定
の歴史), Helikon, 2008.などを参照。
3) 冷戦が東欧の小国にとって、「自己統治期の喪失」過程であったという経緯については、羽場
久美子「東欧と冷戦の起源再考」前掲、『社会労働研究』55 頁。
4) アメリカはソ連を意識的に過大評価していた。ソ連邦崩壊後、「ソビエトの国内状態が、外部
の専門家が考える以上に、ひどい状態であった」ことを発見したのである。J.L. Gaddis, Now We
Know, op.cit.,ギャディス、『冷戦史の悲劇』『中央公論』1994.2 月号。
5) 資本主義と社会主義経済の収斂の試みは、1968 年のハンガリーにおける NEM(新経済メカニズ
ム)に始まり、89 年の社会主義経済体制放棄によって終焉した。日本の高度成長に始まり NICs
NIES の旧植民地国が一人当たり GDP において西欧をしのぐ成長を遂げ始めたことが、社会主
義経済を放棄する大きなインセンティブとなったとされる。当時の OECD の諸論文など。
6) ヨーロッパ・ピクニック計画については、Oplatka, Egy dontes tortenete, op.cit.,
お よ び 、 Nagy
Laszlo,
“Pan-European
Picnic”,
September
1989,
http://www.berliner-mauer.de/laszlo-nagy/lazslonagy-en.htm
7) 2009 年 11 月 22 日、青山学院大学総研ビル国際会議場にて、鉄のカーテンを解放した Nemeth
Miklos 元ハンガリー首相らの講演が行われる。
8) ボゴモロフの発言は、ハンガリーNepszabadsag, 1989 februar 9.
羽場久美子「ペレストロ
イカ下の東欧」『外交時報』no. 1260. 1989nen 7/8.. 27-29p.
9) Oplatka Andras, Egy dontes tortenete(ある決定の歴史), Helikon, Wien, 2008. 166-182p. ここ
ではヨーロッパ・ピクニック計画をめぐる東独・ハンガリー市民と政府改革派の動きを詳細に
追 っ て い る 。 Nagy Laszlo, “The Pan European Picnic, and the opening of the Borde”r,
11thWeptember, 1989.これも直接鉄のカーテンから東ドイツ人を逃す運動にかかわった人物の
手記で、ピクニック計画を克明に描いている。pp.13-17.
10) ヨーロッパ・ピクニック計画、NHK,1993 年。ネーメト、コールの交渉の内幕。
11) ハンガリー外務省高官の発言。2009.8.20.
12) Oplatka Andras, Egy dontes tortenete, 245-246 old.
13)ベルリンの壁の崩壊、The Fall of the Berlin Wall, Berlin Wall online:
http://www.dailysoft.com/berlinwall/history/fall-of-berlinwall.htm
14)東欧の市民による変革については、羽場久美子「1989 年の民主化とは何だったのか」特集「東
欧革命とは何だったのか」『窓』1991 Summer, no.8. 東欧革命全体については、三浦元博・
山崎博康『東欧革命』岩波書店、1992 年。および南塚信吾・宮島直樹『’89 東欧改革』講談社
現代新書、1990 年等を参照。
208
15) EU の拡大については、ここでは扱わない。羽場久美子『統合ヨーロッパの民族問題』講談社
現代新書、1994 年(7 刷、2007 年)、同『拡大するヨーロッパ 中欧の模索』岩波書店、1998
年(4 刷、2005 年)、羽場久美子『拡大ヨーロッパの挑戦』中公新書(2 刷、2006 年)などを
参照。
16)ラムズフェルドのイラク戦争への参戦を支持する「新しいヨーロッパ」の論については、”New
Europe proves Rumsfeld Right Over Iraq”, 31 Januarly 2003.
http://www.heritage.org/Research/Europe/wm200.cfm
17)中・東欧の NATO 加盟とコソヴォ空爆については、羽場久美子『拡大ヨーロッパの挑戦』中公
新書、2004 年、羽場久美子「EU・NATOの拡大とイラク戦争―中・東欧の加盟とアメリカ
の影響」
『衝突と和解のヨーロッパーユーロ・グローバリズムの挑戦』ミネルヴァ書房、2006 年、
135-166p.
18)Nato の拡大とコソヴォ空爆の議論については、Alexandra Gheciu, NATOin the“New Europe”,
Stanford University Press, Stanford, 2005. 定形衛「コソヴォ危 機 と人道的介入論」、羽場久美
子「NATO の東方拡大と欧州の安全保障―コソヴォ空爆から イラク戦争へ、アメリカの影」菅英
輝・石田正治編著『21 世紀の安全保障と日米
安保体制』ミネルヴァ書房、2005.参照。
19)アメリカはオバマ政権に代わって以来、2009年4月に核保有国の責任と将来的な核廃絶を目
指す発言を行った。中・東欧においても、多大な迎撃ミサイルをあえて同盟国に配備しロシアを
刺激するを避けようとする
る中での選択
での選択であろう
選択であろう。
であろう。
http://presseurop.eu/content/news-brief-cover/85251-us-drop-czech-and-polish-missile-shield
20)中・東欧における右翼急進主義の成長に関する研究については、既に 90 年代の分析を行ってい
るものとして、Ed. by Sabrina P. Ramet, The Radical Right in Central and Eastern Europe
since 1989, The Pennsylvania State University Press, Pennsylvania, 1999.および羽場久美
子『グローバリゼーションと欧州拡大』お茶の水書房、2002(2 刷 2005)、21 世紀に入ってからの
ゼノフォビアの成長として、羽場久美子「EU 統合とナショナリズム」田中俊郎・庄司克宏編『EU 統
合の軌跡とベクトル』慶應義塾大学出版会、2007.
*本稿は、文部科学省科学研究費補助金
基盤研究(B)
「拡大 EU の境界線をめぐる民族・地域格差とヨーロッパの安全保障(アメリカの影響)」
(平成17年度から19年度)研究代表者 羽場久美子
基盤研究(A)「国際政治に見る欧州と東アジアの地域統合の比較研究」
(平成20年度から24年度)研究代表者 羽場久美子
の研究成果の一部である。記して感謝したい。
209
210
211
212
20.
20.拡大EU
拡大EUにおける
EUにおける境界線
における境界線と
境界線とシティズンシップ
― ヨーロッパ・
ヨーロッパ・アイデンティティと
アイデンティティと、ゼノフォビア(
ゼノフォビア(よそ者嫌
よそ者嫌い
者嫌い)の相克―
相克―
羽場久美子
1.はじめに.
はじめに.内と外をわける境界線
をわける境界線1と「欧州シティズンシップ
欧州シティズンシップ」
シティズンシップ」
2003 年末に、EUは「ワイダ―・ヨーロッパ:近隣諸国政策」2 により、EUの境界線の外の諸国家・
諸地域との共同を打ち出した。しかし現実には、EUの境界線は、
「外」の諸国家との関係においても、
あるいは、2004―7 年の第 5 次拡大以降におけるEUの「内」との関係においても、未だに物理的・経
済的な格差を残存させている。
またグローバル化と冷戦の終焉以降の、移民の増大・定着と、各国失業率の拡大、さらに 2008 年の
世界経済危機という状況の中で、「内と外」の境界線をめぐる市民間の物理的・心理的な壁はむしろ拡
大している。
EUはそれに対して「欧州市民権 European Citizenship3」という枠組みで問題の解決を図ろうと
試みているが、少なくとも現段階において、多様な国民に開かれた「欧州市民権」は、各国の「市民」
のゼノフォビア(よそ者嫌い)の成長によって、制限ないし排除される傾向にある。
本稿では、EUの「規範」としてヨーロッパの開かれた境界線を打ち出し、また「欧州市民権」の創
設という前衛的試みを評価しつつ、他方でそうした統合と共存の試みと平行して表れている、西欧にお
けるゼノフォビアやトラフィッキング(人身売買)など逆説的な市民社会の「現実」をも対置する。そ
れによって、EU理念と市民社会のズレが、境界の内と外をめぐる格差と差別を現実に引き起こしてい
る問題について検討し、その解決方法を明示したい。
1).ヨーロッパ
.ヨーロッパの
ヨーロッパの境界線
「ヨーロッパは、境界線の歴史である」とは、ソルボンヌ大学のクシシトフ・ポミアン(ポーランド
出身の歴史学者)の言である。4
そもそも「ヨーロッパはどこまでか」、という問い自体が未だ大きな論争の対象である。ヨーロッパ
「半島」の境界は、西部については問題はないにしても、東部(ロシア・中央アジア、東欧)と、南部
(トルコ、中東、アフリカ)については、それぞれ今なお「ヨーロッパの境界はどこか」、と問い続け
ている。ヨーロッパは歴史的にその境界線を引きなおすために、2000 年間、対立と抗争を繰り返して
きた。
EUの拡大は、この古くて新しい問題に再び火をつけることとなった。「EUはどこまで拡大するの
か」、という問題である。当面拡大EUは 27 カ国、これに問題のクロアチアからセルビア、コソヴォま
での西バルカンの 7 カ国、いつ承認されるか不明のトルコが続く。
拡大EUの境界線には、物理的な境界線と、社会的・心理的な境界線の二つがある。
EUの物理的境界線は、現在EUが27カ国となって、なおバルカンに拡大している。
他方、心理的な境界線は、未だにEU内部の東西を分けており、すでに冷戦終焉 20 年、2004 年のE
U拡大からも5年が過ぎたにもかかわらず、西ヨーロッパにおけるネオ・ナショナリズムとゼノフォビ
ア(よそ者嫌い)の成長があり5、さらに 2008 年 9 月の経済危機以降、その垣根はかえって高くなっ
ているように見える。EUは、27 カ国に拡大したにもかかわらず、EU内部においてすら、未だ西と東
の間に見えない境界線が引かれており、EUの外側との格差はさらに大きい。
中世以降、欧州は、外部の敵から、都市や城を城壁で守ってきた。内部の安定と治安の維持のために、
城壁により、外部者(よそ者)を排除してきた歴史を持つ。EC/EUは、そのような「ブロック化」
を超えることができるだろうか。
グローバリゼーションと冷戦の終焉は、ボーダレスの時代を現出した。確かに、冷戦終焉20年、旧
社会主義国の人々は、かつての鉄のカーテンを越えて、自由に移動できるようになった。
グローバル化の波はアジアをも覆い、その価格競争は、先進国と開発途上国の関係を抜本的に変えた。
今や「豊かな北と貧しい南」の図式は変わり、「安い労働力、安い産品、広範な市場と労働力」の 3 拍
子がそろった勢いを持つ南が、北に挑戦状を突きつけている。
アメリカのジャーナリスト、ロビン・メレディスは、その著書『インドと中国―世界経済を激変させ
る超大国』で、すでに中国の携帯人口が 4 億4300万人(2007 年で 5 億人。インターネット調べ)、
2 億人の中産階級がいるとし、欧米にとってコスト削減と収入書く打を 1 か所で実現できる理想郷とし
213
ている。また経済史学者アンガス・マディソンの分析に触れ、中国とインドは 19 世紀まで世界の 2 大
経済大国、2030 年までにアメリカに並ぶか凌ぐとして、20 世紀は単なる歴史上の変調にすぎなかった
と書いている6。
これらに対し EU はより拡大し結束し、境界の外に備える意義は十分にある。
2)拡大EU
拡大EUの
EUの 3 つの境界線
つの境界線 (図 1)
かつて筆者は、雑誌『国際政治』(2002)の論文「「EUの壁」、「シェンゲンの壁」の中で、「ヨーロ
ッパには3つの境界線がある。それは、①加盟国と加盟候補国の境界線、②加盟候補国と加盟予定国の
境界線、③それらと非加盟国の境界線である」、と書いた7。
それは現在、①既加盟国と新規加盟国との境界線、②加盟国と加盟候補国(バルカン、トルコ)との境
界線、③加盟国と非加盟国との境界線として依然存在する。
(図1)
1985 年にルクセンブルグのシェンゲンで最初に制定された、商品と人に関する出入国管理を取り決
めたシェンゲン協定は、EC/EU境界線の域内における自由移動を保障するために、域外、第3国から
の人・商品の流入の厳格な管理を義務付けられた8。
マーストリヒト条約に盛り込まれたシェンゲン協定は、シェンゲンの境界線の外におかれた欧州の民
族からみた場合、鉄のカーテン、ベルリンの壁は崩れたが、EUの境界線、およびシェンゲン協定の境
界線は、越え難い「壁」と映った。
これを現実に表明したのは、2002 年 6 月にロシアのモスクワ MGIMO で開かれた RISA の「ヨーロ
ッパの分断の(再)創設」と題する国際会議であった9。ロシア側の報告者からは、EUの境界線、カ
リーニングラード問題やウクライナをめぐってのEUとロシアの緊張関係、ヨーロッパの分断の再開に
ついて語られた。また2年後にはEUに加盟しようとしているスロヴェニアの研究者からさえ、EU基
準は「ダブルスタンダード」という報告がなされた。報告は、スロヴェニアでは、数千人のマイノリテ
ィですら言語圏や自治権が保障されているにもかかわらず、EU加盟のために厳しい少数民族基準と人
権、マイノリティ基準が課されている。他方 95 年にEUに加盟したオーストリアは、加盟基準もなく
容易に加盟したが、自由党のハイダー党首などは、移民排斥やマイノリティへの攻撃など、人権無視を
行っている、と批判している。10
2003年、アメリカのイラク戦争を受けて、EUは、ワイダ―・ヨーロッパ、近隣諸国政策を出し、
EUの境界線の外にある国々、とりわけ東のロシアや旧 CIS 諸国、中央アジアと、南の地中海諸国(バ
ルセロナ・プロセス)と、境界線を越えた強い共同関係を構築しようとした。11
また、イラク戦争の過程において、近隣諸国は、アメリカのユニラテラリズム(単独行動と有志連合)
に対抗するマルチラテラリズム、複数の極、複数の秩序をもつ新たなポスト・モダンの国際規範を謳い、
長期的には国際社会のアメリカ批判と国際社会の成長を支え、オバマ政権の誕生を準備した側面もあっ
た。しかし、これらの超国家的(Supra-national)な「国際規範」は、皮肉なことに、2005年ころ
から、欧州憲法条約への国民投票の批准拒否に見られるように、国家利益(National Interest)に基づ
く欧州嫌い(anti-Europeanism)とゼノフォビアを生み出している 12。
3)欧州はどこへ
欧州はどこへ行
はどこへ行くのか
くのか? 「クオ・
クオ・ヴァ・
ヴァ・ディス・
ディス・ヨーロッパ?
ヨーロッパ?」13
Quo va dis, Europe? これは、2000 年にドイツ外務大臣ヨシュカ・フィッシャーが、フンボルト大学
で講演したときに立てた命題である。ここで彼は連邦制に基づくヨーロッパの将来を訴え、フランス・
イギリスとの間に大論争を巻き起こした。これについては、その後フランスやイギリスの強い反対の下
で、連邦に基づくヨーロッパではなく、国家主権を基礎とする国家間連合の方向で「ひとまずの」決着
がついた。
しかし国家でなくより小さな自治機関である地域により大きな基礎をおく(補完性原則 subsidiarity)
地域の連合なのか、国家主権と政府間会議を原則とする国家の連合なのか、さらに欧州全体(上位の地
域)の決定権を国家の上に置くのか、それとも国家に最終的決定権を置くのかについても、現状では、
「国家」主権を大前提にするとしつつも、それぞれの国家の思惑は異なる。現在のEUが、「国家連合
以上、連邦以下(more than Confederation, less than Federation)
」と言われる所以である。
2003年2-3月、ブッシュ政権のイラク戦争に対する欧州の批判は、国際社会において高く評価
された。しかしランケ流にいえば、欧州の理念ではなく、欧州市民社会の「事実はどのようなものであ
ったのだろうか」。EUの「多様性の中の統合」や「境界線を越えた共同」さらにグローバリゼーショ
ンと人の移動に対する「欧州市民権」、「民主主義の赤字」に対する「プラン D」に象徴される多様性・
対話・討議の強調に対して、欧州各国の「市民」の側から、ナショナルな反乱がはじまる。
「欧州においては、すべてのメンバー国の市民は、二つの市民権を持つ。自国の市民権と、欧州の市
214
民権である。」欧州市民権は、自国でない欧州の国においても、欧州の一員として選挙権・被選挙権や
社会的権利を持ちうる。このような排他的な権利をEU市民は与えられている 14。
しかし他方で、「EUメンバー国」でない人々は、欧州に住みながら「非市民」として排除されるこ
とになる。フランスでは、サン・パピエ(居住証明書を持たない人々:不法居住者)が実際に市民権を
勝ちえないことに対する抗議行動が始まり、さらにその反動として「市民」の側から移民への否定的な
感情とゼノフォビアが高まってくる。また「境界線を巡る共同、地域協力」が語られた 90 年代に対し
て、境界線での排除と地域協力の頓挫(特に TASIS など旧ソ連国境との地域協力における貧困・資金
不足)が、各国「市民」レベルで始まっている。
「規範」と「現実」のギャップの大きさが、2009年6月の欧州議会選挙でも、西欧・東欧・とも
に、保守政党、極右政党を多数進出させることとなった。
現在も各地に存在する「境界線」とアイデンティティをめぐる問題、内と外を区別しないと高らかに
謳う脇で、内を守り、外を排除するダブルスタンダードがある。
2. ヨーロッパ・
ヨーロッパ・アイデンティティ、
アイデンティティ、「欧州市民権
「欧州市民権」
欧州市民権」とゼノフォビア
境界線は、社会的には、エリートとマス、支配と被支配、マジョリティとマイノリティ、階層、階級
を分ける区切りである。時には敵と味方、
「われわれ」と「かれら」
。境界線は、人々の集団の間に、乗
り越えられない壁を設け、分断する。
物理的境界線が、東西の格差を象徴するのに対して、社会的境界線は、各国における上下の格差、グ
ローバリゼーションの下での貧富の格差を表象する。
心理的には、境界線は、自己(われ)と他者(ひと)を分ける区切りであり、自己と他者、我々とか
れらの間に、帰属意識の共通領域、アイデンティティを設け、区別しようとする。境界線は、それを挟
んで、自分が何者であるか。あるいは、
「われわれ」が何者であるかを示すことにより、他者、
「彼ら」
「やつら」と自分たちを分ける。
これ以上は理解不能であろう区切り、これ以上入ってきてほしくない領域、が境界線である。しかし
「われわれ」の境界線も不安定である。共同の理念規律に従わない場合は常に疎外し得る。境界線は、
内に入るには越えがたく、排除されるには超えやすい。
ここにも象徴されるように、21世紀に入り、
「欧州市民権」、
「多様性」
「協調」が叫ばれる中、欧州
の東西で、
「われわれ」と「やつら」を分けようとするゼノフォビア、
(Xenophobia)
、超国家的なヨー
ロッパに対する「国益」擁護の動きが急成長している。
「ネオリベラルな時代における反リベラルな政治」にも示されているように、世紀転換期にはフランス
やイタリアで、ルペンの国民戦線やベルルスコーニのフォルッツァ・イタリアが広範な人気を獲得し急
成長した。15
『最底辺の10億人』で、ポール・コリアーは、かつては10億人の豊かな世界と50億人の貧困世
界のかかわりだったが、2015年には、世界の80%の50億人は豊かで、世界の10億人が最底辺
にある。」と述べている16。世界の人々の多くは豊かになった。しかし依然として最底辺の 10 億人がお
り、その多くがヨーロッパの周辺に位置している。
ジェフリー・サックスの『貧困の終焉』では、「極度の貧困」が東アジア、南アジアでは、減少して
いるのに対して、驚くべきことに、2004年(EU拡大時)の統計では、サハラ以南のアフリカと、
中央アジア・東欧(この場合はウクライナやベラルーシ)で「増えている」ことを指摘している17。E
Uは、拡大によって世界金融危機の直前に「アメリカを凌ぐ経済成長」を謳歌した。しかし一方で、ヨ
ーロッパの境界線のすぐ外、欧州の東と南、東欧・中央アジアとアフリカは、世界最底辺の「極度の貧
困」が増加したのである。
「社会主義から資本主義へ」という史上初の経済転換 Transition の失敗、拡大EUの外の国家と民族
が、EUの「近隣諸国政策」における共同の枠組みの提示にもかかわらず、現実の問題としては、経済
停滞を余儀なくされている。
さらに、比較的安定した経済発展を遂げていた、ハンガリー・チェコ・ポーランドなどが2008年
の世界金融危機以降、深刻な打撃を被った。特にハンガリーが著しく、その結果、欧州議会選挙では軒
並み保守党が成長、とりわけハンガリーでは領土修正主義的な右翼の Jobbik が議席を獲得して欧州議
会へ乗り込んだ。18
グローバリゼーションの時代、
「物理的境界線」の垣根は低くなり特に情報や金融の
世界では境界はいとも簡単に越えられるようになったが、それが心理的境界線の垣根を低くするには
いたっていない。むしろ逆に、グローバル時代の境界線の低下は、心理的にはネオ・ナショナリズムや
ゼノフォビアなどの再興と繋がっている。
215
なぜなのだろうか。それを考える前に、冷戦終焉後のヨーロッパにおける、境界線の対立を緩和する
試みについて検討したい。
3.境界線の
境界線の対立を
対立を緩和する
緩和する試
する試み
ーユーロリージョンと
ーユーロリージョンと、コンタクト・
コンタクト・ゾーン(
ゾーン(出会いの
出会いの場
いの場)―
1)境界線を
境界線を巡る人の移動と
移動と抗争の
抗争の歴史
人の移動は、ヨーロッパではすでにローマ帝国以前から、東から西への大きなうねりがあった。そう
した中で、諸民族の混住形態が作り上げられた。国家形成においても、奴隷は、異民族であった。ロー
マ、オスマン、ハプスブルク、それぞれの帝国のうちに、様々の「ゲンス gens」
「ナティオ natio」
、そ
こから「populus」Romanus(ローマ人)が形成された。その後数世紀にわたる、諸民族の東から西への
移動により、ヨーロッパの重層的民族性が形作られた19。
「ヨーロッパの均質性、国民国家の核」とは、
近代に作り上げられた「神話」である。
境界線で民族を区切ることは、不可能であった。旧来、境界線は、国家の区切り、主権の限界領域と
して存在していたが、それは民族の区切りとは異なるものであった20。中世の境界線は、近代国民国家
ほど明確でない。王権領土、マイノリティの領域、階層間格差は、重なり合い、対抗しあっていた。中
世の境界線は、きわめて複雑で曖昧であった。こうした点で、EU は、近代ウエストファリア・モデル
より、新しい中世型モデルにより類似しているように見える21。
それが人為的・暴力的に一元化したのが、近代であり、また冷戦期であった。近代から冷戦の終わり
までは、国民国家の境界線と近代ネイションの区切りを一元化することで「国民国家」とした。近代初
期は、この国民国家の境界線とネイションの境界線を一致させるために戦争が行われ、第 2 次世界大戦
以降は、ヘルシンキ協定において、原則的には「国境線は変更しない」、という前提で平和が保たれる
こととなった。
冷戦終焉後、グローバル化と地域統合の広がりの中で、「東を組み込む」ことにより、「民族・国家」
の概念が、改めて複雑化、流動化し、再考が促されることとなった。
「境界線」は、既存のものではなくなる。西の国民国家に東の多民族国家が組み込まれ、
統合によるヨーロッパの地域概念が、西欧から東欧にひろがり、加えて、限りなく入れ子状に縦横に重
なる東の「民族境界線」と「国家再編」はじまる(バルカン)
、さらに国境の自由化による人の移動が、
ネイション概念を錯綜させたのである。
2)ユーロリージョン:
ユーロリージョン:境界線を
境界線を跨ぐ地域協力
これらの対立を緩和する試みとして、冷戦終焉後のヨーロッパでは、国境線を跨ぐ数十のユーロリー
ジョン(Euroregion)の動きが展開された。
ユーロリージョンは、そもそもは、レギオ(Regio)の共同の試みとして、1963 年にフランスの上ア
ルザス地方、バーデン=ヴュルテンベルク州のドイツ領、スイスのバーゼル地方を取り巻く地域社会の
交流を促進するために設立された22。ヨーロッパ国境地域協会によると、冷戦終焉後の 1992 年末で、
西ヨーロッパには 30 団体ほどのユーロリージョンがあった。これを最初に特集で紹介したのは、冷戦
終焉後の中・東欧の激動を資料で紡ぐ雑誌『Quo』であった23。そこでは、社会主義体制崩壊後の混乱
の中で、旧東欧諸国が、EC/EUの財政支援の下で、地域の共存と「民族的和解」の試み24として、ポ
ーランド、カルパチア、チェコなど諸地域のユーロリージョンの動きを開始し、それが旧東欧諸民族に
共感を持って広がっていったことが、多くの資料により示されている。
歴史的な地域協力や地域自治の流れと結びつく形で広がった、冷戦終焉後の中欧イニシアチブなど下
位地域協力や、ウクライナ・ハンガリー・ポーランド・スロヴァキアなど 4 カ国の境界線からなる「カ
ルパチア・ユーロリージョン」の動きは象徴的であり、筆者も紹介してきた25。
さらに 21 世紀に入ってからは、歴史学者ではなくアンソロポロジストの研究から、実際の歴史の中
で、多民族地域においていかにそれぞれの民族的な個人が他の民族との共存共生を「生活の知恵」とし
て行ってきたかを示す「カルパチア盆地における民族のコンタクト・ゾーン(出会いの場)」と題する
国際会議が 2004 年のハンガリーで開かれた。それはバルカン紛争が 10 年以上続き、民族・文明の境界
線を「文明の衝突」の「要塞(fortress)
」とみなす国際関係上の考え方に対する、数世紀にわたる現実
の「生活世界」からの回答であった。
すなわち、民族学者によれば、実は紛争地域こそ、長期的には「歴史的共存」を行っていた地域であ
ること、紛争はその時々の国内・国際情勢や政治指導者の思惑により、旧来の共存関係の奥にある対立
関係があおられ、それが表面化させられたにすぎないことを、数世紀の歴史的な生活面から、明らかに
したのである。紛争地域は、実は歴史的な流れでみた場合は、平和的共存地域のモデルでもあった。そ
216
れらが、1.宗教からのまなざし(異民族間結婚の場合、夫婦連れだって、まずカトリック教会へ、次
いで成功の教会へ双方の教会へ出かけて行ったこと)、2.生活習慣・結婚・葬式のまなざし(葬式は
それぞれの宗教と風習に従って行われ、異なった宗教で埋葬した墓に 2 種類の宗教の墓碑を立てる、な
ど)、3.諸民族の文化と習慣の融合のまなざし(地域に住むロマの集団や境界線領域のマイノリティ
においては、同一民族の空間の中に縦の階層差が表れ、異なる民族でも様々な文化と民族習慣が融合し
て地域文化となったこと)などが明らかにされた26。
これは、当時、コソヴォ空爆からイラク戦争の過程の中で、対立と憎悪に揺れる中・東欧において、
決定的な問題提起であった。
しかし、21 世紀に入り、今度は、グローバル化の中で、移民の流入と失業に揺れる西ヨーロッパの「市
民」の側から、ゆっくりとゼノフォビアが広がってくることとなる。
4.シティズンシップ、
シティズンシップ、人の移動、
移動、失業の
失業の増大と
増大と、欧州の
欧州のゼノフォビア
1)欧州
欧州・
欧州・シティズンシップ
シティズンシップ(
シップ(市民権)
市民権)とゼノフォビア
「シティズンシップ」とは何か?シティズンシップとは、新しい欧州連合加盟国の市民、「ヨーロッ
パ市民」を指す。この用語は、社会的集団の中における、民族的差異や民族的境界を越えようとする試
みとも受け取れる。しかし「シティズンシップ」とは、全体の融和を生む概念のように見えつつ、「シ
ティズンシップ」には、公共領域における秩序と価値を守りうる資格を持つ層として、多民族社会のマ
イノリティや、社会的な弱者・秩序を乱すものとしての敗者(パリア:下層民)にはこれが適用されな
いかのように見える。
ヨーロッパの「シティズンシップ」要請は、人の自由移動と市場主義、国家形成の過程で起こってき
た市民権の概念は、政府間主義(inter-governmentalism)と、新機能主義(neo-functionalism)の間
の議論では説明できない、と、ウイレム・マースは、「ヨーロッパ市民の形成」で述べている27。また
EU新加盟国の「市民権」についても、ギリシャ、スペイン、ポルトガルなど地中海諸国についてすら
まだ十分ではないのに、95 年に加盟したスウェーデン、オーストリア、フィンランドなどは加盟とほぼ
同時に「市民権」を享受し、他方 2004 年の加盟国 10 カ国については、ヒト・モノ・カネの自由移動の
原則すら、加盟後も延期されたとしている。28
その点では、EUは、様々なレベルでダブルスタンダードであり、
「欧州市民権」の運用は、基本的に
は西欧諸国の主権にゆだねられ、また第一義的優先順位として、その国の市民の意識に依拠しているも
のであり、マイノリティに対して十分適応可能な概念とは言い難い。
銃を持ち、社会を撹乱させるテロリストや、独立を要求して紛争を繰り返すマイノリティには、実質
的「市民権」は与えられているのだろうか。ホームレス、ワーキングプアは、シティズンシップを保障
されているのだろうか。トラフィッキング(人身売買)の結果、先進国における性的欲望を金と代替で
支えさせられている女性や子供たちは、シティズンシップが保障されているか? シティズンシップの
ネットワークは、社会的弱者や outsider を組み込むことができるのだろうか?
ここに 21 世紀最初の 10 年の後半になって、西欧諸国で急速に広がりつつある、ゼノフォビア
(Xenophobia)、反共同体主義(anti-communautarism), 反人種主義(anti-racism)がある。西欧の
移民が、定住化し、移民の 2 世、3 世世代が増えつつある中、欧州では、移民の2世3世が「市民権」
をえようと、その国の言語と文化を受け入れる方向に進んでいる(同化、収斂)中、逆にルペンやサル
コジ、フォルタイン(オランダ)に象徴されるような、反移民、反マイノリティ、反ヨーロッパがあら
われている。
グローバリゼーションによって越えられつつある国家の境界線から、境界線を共有する「地域」の再
編に向かっているとき、地域と地域の物理的、地理的境界線を越え、人と人との間にある心理的境界線
をどのように打ち破って、「共有領域」を形成していくのか。境界線を越えての自由移動が、人身売買
など人と人との格差と蹂躙を生み出している問題をいかに解決していくのかが問われている。
2)人の移動、
移動、失業と
失業とゼノフォビア
グローバリゼーションは人の移動を確かに促したが、ヨーロッパにおいては、冷戦の終焉が、決定的
に各地の移民の増大を促した。
また通常、右翼政治家のプロパガンダと異なり、移民の流入と失業の増大は直接の相関関係にないと
いわれる。が、ドイツとスウェーデンの失業率の表を見る限りにおいては、少なくとも、移民の失業率
と全労働者の失業率は相関関係にあり、また冷戦後の移民の流入に伴い、失業も飛躍的に増えているこ
とがうかがえる。(表1)29
また、冷戦終焉後、ヨーロッパの東および南からの人の流入に伴い、移民により治安が悪化し犯罪が
217
増大している、移民は減らすべきだ、と「考えている」人々が、ヨーロッパでは軒並み高い比率にあり、
かつ「増えている」ことが分かる。
(表2)30
これは、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドで、移民が犯罪を増加させると「考
え」、移民を減らすべきだと考える層がヨーロッパの半分以下で、また 21 世紀に入り「減少」すらして
いる(同表2)、ということを見ると、
「イラク戦争」と「文明の衝突」を推進した単独行動主義のアメ
リカ(マルス)と「欧州市民権」や市民のプラン D を主張しているヨーロッパ(ビーナス)という、ロ
バート・ケーガンの比喩31を引くまでもなく、欧州の移民政策で語られる通常のヨーロッパ理解とは、
大きく異なっている。
表を見る限り、少なくとも、EUの理念・規範と、現在西ヨーロッパ市民を覆っているゼノフォビア
は、明らかに真逆の状態にある。
他方で、移民は仕事を奪う、移民は国にとって良くない、と考える層は、欧州と北米でそれほど違い
があるわけではない。オーストリア、東ドイツ、イギリス、カナダ、アメリカは、移民は仕事を奪うと
2 人に 1 人が考えており、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドを除き、西ヨーロッパのほとん
どの国は、移民は自国にとって良くないと考えている。
(表3)32
さらに興味深いのは、マイノリティが失業を増加させ、社会システムを悪用する、と極めて否定的に
考えている層がすべての西ヨーロッパで 4 割を超え、ベルギー、フランス、ドイツ(東)では、一部 6
割をも上回っていることである。(表4)33
EU本部があるベルギー、およびEUの中心国と見られがちなフランス・ドイツで、明らかに、「市
民」層における移民嫌い、ゼノフォビアが広がっているのである。
こうしたEUと市民のダブルスタンダードを分析することなく、「シティズンシップ」を理念的に分
析することは、実態を誤らせてしまうであろう。
5.EUと
EUとトラフィッキング(
トラフィッキング(人身売買)
人身売買)
もう一つの問題として、近年非常に増出しているといわれるトラフィッキング(人身売買)の問題が
ある34。
21 世紀に入り毎年 400 万人がトラフィッキングの犠牲者となっており、そのうち 50 万人が、EUの
域内でトラフィッキングの被害にあっている35。アジアでのトラフィッキングの最大の受け入れ国は日
本と中国である。中国とロシア、現旧社会主義国は、トラフィッキングの送り出し国・受け入れ国とし
ても高い数字を有している。
グローバリゼーションと冷戦終焉後における第 3 次産業の拡大の中で、移民の女性化が言われるが、
2005 年の国連の統計によれば、世界で 1 億 9 千万人の移民のうち、半数の49,6%が女性移民であ
る36。
冷戦終焉後、破綻国家となったアルバニア、ベラルーシ、ウクライナ、ロシアなどから、白人若年女
性や児童の人身売買が激増している。その多くが、だまして連れてこられ、パスポートを取り上げられ、
監禁されて、性的産業などに従事させられ、暴力を受け、挙句の果ては臓器売買や強制的な養子・婚姻
などを強いられている。
これまで問題になりがたかった背景に、中間搾取者としてマフィアややくざなど不法集団の存在があ
り、通常 4,5 か所の不法集団を売買されるうち、目的地に着いた時には多少の差はあれ、数万ユーロ
の借金を背負っている。
当初は、社会主義体制の破綻と賃金格差、さらには華やかな西へのあこがれから豊かさを求めて国外
脱出を試みた若年の女性や児童は、目的地に着いた時には、払いきれないほどの借金を抱えて、監禁・
暴力・パスポートの取り上げを受けつつ性産業に従事させられることになる。これらの受け入れ国の筆
頭にも、EUの指導国、ベルギー、ドイツ、イタリア、オランダ、フランス、欧州外では、日本、アメ
リカ、イスラエルなどの先進国が名を連ねている37。(図2)
性産業、臓器移植、中間搾取、非合法、という人権無視の頂点に、10 代の女性たち、子供たちが置か
れ、それらをEU、日本、アメリカが率先して受け入れている、という問題は、「人間の安全保障」に
とって、避けて通れない問題である。
国連やEUも 90 年代後半に重い腰を上げ、
ようやく 21 世紀に入って制度化・法制化を始めている。
国連では、2000 年に「女性と子供の人身売買や人の密輸に関する議定書」が出され、EUでは、2002
年に「人身売買と戦うための協議会枠組み協定」が採択された38。またEUでは、NGO の献身的な活
動と並行して、EU法の集大成としてのアキ・コミュノテールにもトラフィッキングの項目が設けられ
るようになった。2005 年には、OSCE, UN, UNOHCHR, UNICEF などが共同して、西バルカンにお
218
けるトラフィッキングの現状を分析することとなった。警察、政府、反トラフィッキングの NGO 団体
が共同して肥後シェルターを設けたりして一時的に被害は下がったものの、むしろ数は増え続けており、
また地下に戻りつつある39。
人権・市民権に関するEUの「ダブルスタンダード」を是正にむけ、EUエリートの理念・規範と、
EU域内に住む「市民」のゼノフォビアや差別意識の是正、性産業従事者の摘発など、早期に共同で、
解決にむけ努力していくべき課題であろう。
これらへの対策としては、人権保護と、中間搾取の機関への組織犯罪対策がある。日本でも、2005
年の法改正で、人身取引規制が打ち出されたが、被害者保護はいまだ不十分とされる。社会主義体制崩
壊後の破綻国家からもたらされるこのようなトラフィッキングの被害者たちに対する保護と非合法中
間組織に対する早期の摘発は、最大の受け入れ国たるEU・日本・アメリカの早急な課題である。
まとめ
境界線の内外に広がる格差と対立、ゼノフォビア、さらには、トラフィッキングに関する問題は、き
わめて構造的なものであり、早急な解決は不可能に近い。
こうした中で、欧州における市民重視と民主主義導入の政策は、長期的には極めて重要な課題である
が、短期的には見てきたように、相互の市民の対立、とりわけ西欧側のゼノフォビアと格差や蔑視、さ
らにはそれにもつながる、東の破綻国家からの女性の人身売買の温床になっているという問題をはらん
でいる。
2009 年秋には、アイルランドの国民投票で、リスボン条約が承認され、EUは新しく統合への深化
に進んでいくとも言われる。世界金融危機は、アメリカ、日本、EUに大きな経済的打撃を与えたもの
の、現状では、地域統合やユーロの優位性をも示しており、経済恐慌後、ハンガリーや北欧をはじめ、
ユーロ加盟を検討し始めている国が増加しているといわれる。日本でもタイのバーツ危機、昨年の金融
危機に鑑み、金融面での東アジアの為替・通貨レベルでの金融統合の動きも始まっている。
冷戦終焉 20 年を経て、近代・ポスト冷戦という一つの節目が終わり、新しい時代に迎え王とする現
在、われわれは、勢力圏・パワーの区切りとしての境界線、階層や自己と他者を分ける社会的・心理的
な境界線の問題、さらにはこれらを巡る格差と差別、ダブルスタンダードの問題を改めて、現在の国際
社会の中で、問い直す必要があろう。
注
1
内と外に引かれた境界線と、ワイダ―・ヨーロッパ、近隣諸国政策に見られる共同関係、および
ユーロリージョンの試みについては、EU Enlargement, Region Building and Shifting Borders of
Inclusion and Exclusion, ed. By James Wesley Scott, Ashgate, 2006.を参照。ここでは、ドイツとロシ
アのはざまの地域における、国境をまたいだ地域協力とユーロリージョンについて論じている。
2
. ワイダー・ヨーロッパと欧州近隣諸国政策については、Wider Europe, Neighbourhood : A New
Framework for Relations with our Eastern and Sothern Neighbours, Brussels, 11.3. 2003, 26p. お
よび European Neighbourhood Policy,
http://ec.europa.eu/world/enp/pdf/com03_104_en.pdf
http://ec.europa.eu/world/enp/pdf/strategy/strategy_paper_en.pdf
さらに現在にいたるまでのEUの境界線の外に対する近隣諸国政策については、
http://ec.europa.eu/world/enp/policy_en.htm を参照。
3
.
「EU市民権」は、マーストリヒト条約で明記されたように、国民としての市民権とともに、欧州連
合の加盟国の一員であることにより、欧州連合(シェンゲン協定)のどの地域に住んでいても、その市
民権―教育権、医療権、社会保障権などが保証されるものである。ただし、EU加盟国以外の「第 3 国
国民」には、その権利が十分保障されず、また「EU市民権」の付与は専らその国の主権や国家の判断
に委ねられるということから、逆に国ごとに異なる政策や「第 3 国の国民」にとっては差別を助長する
ものとなり、多くの議論を引き起こしている。
4
.クシシトフ・ポミアン著松村剛訳『ヨーロッパとは何かー分裂と統合の 1500 年』平凡社、1993 年。
5
.世紀転換期以降の欧州におけるネオ・ナショナリズムとゼノフォビアについては、多くの書籍が出
されているが、比較的最近のものとしては、Paul Taylor, The End of European Integration: Anti
Europeanism, Examined, Routledge, 2008. Mabel Berezin, Illiberal Politics in Neoliberal Times,
Culture, Security and Populism in the New Europe, Cambridge University Press, 2009.を参照。また
2004 年から 3 年間行われた、Padua 大学におけるEUの COE 研究の成果として出された「文化間交
219
流と市民」およびナショナリズムについては、Kumiko Haba, “Democracy, Nationalism and Citizenship
in the Enlarged EU, The Effects of Globalisation and Democratisation、"Intercultural Dialogue and
Citizenship, Translating Values into Actions, A Common Project for Europeans and Their Partners, Ed.
by Leonce Bekemans et al., Venice, 2007.を参照。pp. 601-620.を参照。
6
.ロビン・メレディス、
『インドと中国―世界経済を激変させる超大国』ウェッジ、2007
年、75,
72, 216-217 頁。
.羽場久シ尾子「『EUの壁』・『シェンゲンの壁』-統合の「外」にすむ民族の問題」
『国際政治』200
年2月。
8
.シェンゲン協定現協定については、既にマーストリヒト条約100c条で「第 3 国国民」が規定さ
れ、その移動については、域外国境の管理を行うこと、さらにアムステルダム条約では、
「第 3 国国民
のビザ規定」について詳細に定めている。Peter Kovacs, “Cooperation in the Spirit of the Schengen
Agreement, The Hungarian beyond the Borders”, Minorities Research, Budapest, 1998, pp.124-131.
9.The 3rd Convention of the Central and East European International Studies Association(CEEISA),
Nordic International Studies Association(NISA), and Russian International Studies
Association(RISA), Managing the (Re)creation of Division in Europe, Moscow, Russia, 20-22 June
2002.
10.Bojko Bucar, “The Issue of Double Standards in the EU Enlargement Process”, Managing the
(Re)creation of Division in Europe, Moscow, Russia, 20-22 June 2002.
11.すでに 2 でも示したように、2003 年に出されたワイダー・ヨーロッパ:近隣諸国政策は、東と南の
EUの近隣諸国と、エネルギー、経済関係、人道支援など広範にわたって協力共同関係を築こうとする
ものであった。Wider Europe, Neighbourhood : A New Framework for Relations with our Eastern
Brussels,
11.3.
2003,
26p.
and
Sothern
Neighbours,
http://ec.europa.eu/world/enp/pdf/com03_104_en.pdf
12
.Mabel Berezin, Illiberal Politics in Neoliberal Times, Culture, Security and Populism in the
New Europe, Cambridge, 2009.
13
.”From Confederacy to Federation-Thoughts on the finality of European Integration”, Speech by
Joschka
Fischer
at
the
Humboldt
University
in
Berlin,
12
May
2000,
http://www.auswaertiges-amt.de/ これについて、田中友義氏が、論文「欧州はどこへ行くのか」で詳
細に論じている。季刊『国際貿易と投資』Autumn 2003, no. 53.
14
.Willem Maas, Creating European Citizens, Rowman & Littlefield Publishers, INC, 2007, p. 1-3.
15
.Mabel Berezin, Illiberal Politics in Neoliberal Times,Culture, Security and Popylism in the New
7
Europe, Cambridge University Press, 2009.
16
.ポール・コリアー『最底辺の10億人』日経 BP 社、2008.p。14.
.ジェフリー・サックスの『貧困の終焉』早川書房、2006.p。61-62.
18
.領土修正や、ハンガリーの Jobbik のサイトは、http://www.jobbik.com/
19
.パトリック・ギアリ『ネイションという神話』白水社、2009.72-73、85 頁。
20
.パトリック・ギアリ『ネイションという神話』同。
21
.Jan Zielonka, Europe as Empire, The Nature of the Enlarged European Union, Oxford, 2006、
pp. 12-14、15
22
.ヤン・B・デヴェイデンタール/訳篠崎誠一「ポーランドとユーロリージョン」
『QUO』no. 8.ユー
ロリージョン:国境を越えて、1993 Summer, p.63.
23
. 『QUO:ソ連・東欧はどこへ』は、まさに Quo va dis ソ連・東欧?という問いを込めて、1991
年秋の 1 号から、1994 年夏の 12 号まで、水谷驍・湯川順夫氏らのリードによるソ連・東欧資料センタ
ーによって刊行されたものである。筆者もいくつかの資料の翻訳にかかわった。
24
.「オイロレギオンとチェコ:民族的和解の試み?」ペトル・プシーホダ、ルドルフ・ヒルフ、マチ
ェイ・シマノフスキ、訳と解題:篠原琢、QUO,no8, 46-60 頁。
25
.羽場久シ尾子『統合ヨーロッパの民族問題』講談社現代新書、1994 年、156-170 頁。
26
.Etnikai kontaktzonak a Karpat-medenceben a 20szazad masodik feleben(20 世紀後半のカルパ
チア盆地における民族のコンタクト・ゾーン), Aszod, 2004. Augusztus 26-28., Kisebbseg es kultúra,
Antropologiai Tanulmanyok (少数民族と文化、アンソロポロジー研究), 1, Szerkesztette:a Gergely
Andras-Papp Richard, MTA Etnikai-nemzeti Kisebbsegkutato intezete., 羽場久美子「拡大EUとそ
の境界線を巡る地域協力」
『歴史評論』
「特集:20 世紀ヨーロッパ史のなかの<境界>」歴史科学協議会
編集、校倉書房、No. 665, 2005 年 9 月号、10-16 頁。
27
.Willem Maas, Creating European Citizens, Rowman & Littlefield Publishers, INC, 2007, p.7,
17
220
28
.Ibid., p.78-79.
. “The Politivs of Immigration and the Welfare State in Germany, Sweden, and the United
States”, Markus M.L. Crepaz, Trust Beyond Borders, Immigration, The Welfare State, and Identity
in Modern Societies, pp. 218-228.
30
.”The Politics of Resentment, Xenophobia and the Welfare State”, Trust Beyond Borders, ibid.,
pp.68-71.
31
.ロバート・ケーガン『ネオコンの論理』光文社、2003 年。
32
.Trust Beyond Borders, op.cit., p.69.
33
.Ibid.., p.71.
34
. トラフィッキングに関する資料・文献については、 United Nations Office on Drugs and
Crime(UNODC), Trafficking in Persons, Global Patterns, April 2006.
http://www.unodc.org/pdf/traffickinginpersons_report_2006ver2.pdf
および UNODC のホーム頁の一連の資料。
http://www.unodc.org/unodc/en/human-trafficking/index.html
書籍としては、Birgit Locher, Trafficking in Women in the European Union, Norms,
Advocacy-Networks and Policy-Change, Vs Verlag fur Sozialwissenschaften, 2002,
Human Trafficking, Human Security, and the Balkans, ed. by H.Richard Friman
and Simon Reich, Univrsity of Pittsburgh Press, 2007. 大久保史郎編『人間の安全保障とヒューマ
ン・トラフィキング』日本評論社、2007. などがある。
35
.Birgit Locher, Trafficking in Women in the European Union, p. 22.
36
.United Nations, Trends in Total Migrant Stock: the 2005 Revision, 『人間の安全保障とヒュー
マン・トラフィッキング』16頁。
37
.United Nations Office on Drugs and Crime(UNODC), Trafficking in Persons, Global Patterns,
April 2006, p.18, 20.
38
.Birgit Locher, Trafficking in Women in the European Union, p.312, 320, 326.
39
.Human Trafficking, Human Security, and the Balkans, University of Pittsburgh Press, 2007.p.
29
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* 本論文は、科学研究費基盤研究 B「境界線とマイノリティ」
(代表:羽場久美子)2004―7年、及び
基盤研究 A「国際政治に見る欧州とアジアの地域統合の比較研究―規範、安全保障、境界線、人の移動」
(代表:羽場久美子)2008―12年の研究成果の一つである。
記して感謝したい。
222
21.
21.拡大 EU・
EU・NATO との折
との折り合いー中・東欧の
東欧の政治
羽場久美子
要約
冷戦終焉20年を経て、旧東欧諸国は、1989年時の課題であった、自由化・民主化・市場化をほぼ
10-15年かけて達成し、2004-7年にはバルカンを除くすべての国が、EU・NATOに加盟す
る。これらの国は、国内的には民主主義的政治システムの導入に成功し、対外的には、ヨーロッパない
しアメリカと結んで、ロシアとは異なりまたロシアに対抗する諸国家を形成すると同時に、その結果、
コソヴォ・アフガン・イラクにつながる国際的な対テロ防衛機構に組み込まれていく。
他方、冷戦期にも冷戦終焉後も独自行動をとり、他の中・東欧諸国と切り離されていたバルカン諸国
についても、2003年のテッサロニキの欧州理事会以降、「欧州の安全にとってバルカンの安定が必
要」という認識の下、クロアチアを筆頭としてほぼ2015年ころをめどにEU・NATOの体制に組
み込まれていく予定である。
そうした中で、早期に民主化と市場化を達成した中欧・バルト諸国は、国内諸層の利害対立故に安定
化に苦しむこととなり、また 9.11 からイラク戦争以降、対ロシアおよびEUの規制への反発故に、アメ
リカの安全保障に過度に依拠し、グローバル化と自由主義経済を押し進めていた中・東欧にとって、2
008年の世界経済危機は、深刻な影響を及ぼし、そこからの脱却のためより統合の方向へと、方向転
換を迫られることとなる。
第 5 章 EU・NATOの拡大と、中・東欧の「民主化」
羽場久美子
要約
ポスト冷戦後 20 年の中・東欧の動向は、EU・NATOの拡大による、ヨーロッパ地図の再編と大き
く重なっている。
本章では、冷戦終焉 1989 年以降、自由化・民主化・市場化を掲げて転換を遂げ、また 1999-2004 年に
成功裏にNATO・EUに加盟し、その後 2008 年秋の世界経済危機に至る中・東欧の動向を、
「民主化」
を中心に検討する。
それは基本的には 3 つの段階からなり、
①1990 年代における自由選挙の導入と内政の民主化・自由化・
市場化、アキコミュノテールとコペンハーゲン・クライテリアによる、EU基準の達成努力、②1999
年NATOのコソヴォ空爆以降、21 世紀に入り、9.11、イラク戦争へと、NATO拡大の加盟候補国と
して否応なく「民主主義のための戦争」に巻き込まれていく過程、③2004 年のEU加盟以降の課題と、
2008 年の経済危機まで、を検討する。これらを通し、EU・NATOの拡大とそれに基づく中・東欧の
「民主化」の制度化、これに対する国内民衆意識のずれが、ナショナリズムやゼノフォビアを高めてい
く世紀転換期以降、他方で、グローバル化と世界経済危機への対応の中で、さらに統合へと進まざるを
得ない経緯をも描く。
ミネルヴァ
第2部 拡大 EU・NATO との折り合いー中・東欧の政治
第 5 章 EU・NATOの拡大と、中・東欧の「民主化」
羽場久美子
1.はじめに:EU・NATOの拡大と、
「民主化」
・市場化の波
冷戦終焉と社会主義体制の崩壊後20年、EC/EU の拡大の流れの中で、中・東欧の「民主化」・市場化
が進んできた。1989年以降、「民主化」・市場化、「ヨーロッパ回帰」と、EU加盟は一体となって進
行してきたといえる。1999 年 3 月、ハンガリー・チェコ・ポーランドは、先陣を切ってNATOに加盟
し、2004 年には中・東欧8カ国がEU加盟、中・東欧 7 カ国がNATO加盟、07 年にはルーマニア・ブ
ルガリアがEUに加盟した。
また 2010 年のクロアチアのEU・NATO加盟予定を皮切りに、
「西バルカン」のEUNATO加盟
交渉が 2015 年をめどに進行する。他方で 2005 年 10 月に始まったトルコの加盟交渉は進展が思わしく
ない。EUは明白に「ヨーロッパの境界」のラインを引きつつあるようにみえる。
方や2004年11-12月以降、ウクライナ、グルジア、ウズベキスタンなど、拡大EUの東側国境
で、オレンジ革命、薔薇革命など、拡大EUが周辺地域に与える「民主化効果」が広まったが、200
223
7年のルーマニア、ブルガリアの加盟以降、EUは拡大に一線を引きつつあり、これらの地域において
は、ロシア回帰ないし独裁への反動への振り子の波が作用している。
他方、2005 年 5 月末―6月の欧州憲法条約に対するフランス、オランダの国民投票での批准拒否や、
2008 年 6 月のリスボン条約(改革基本条約)に対するアイルランドの国民投票での批准拒否など、世
紀転換期以降、「西欧諸大国」の「市民」における、EU拡大に対する忌避感、それに伴う政治改革の
レ ーム ダッ クが 現れ てき てい る。 これ に対 して EU エリ ート は、「民主 主義 の赤 字( Deficit of
Democracy)」を問題とし、市民がいかに欧州の問題にかかわるかという市民権の拡大、また他方で欧
州連合に加盟する市民の国境を越えての「市民権」の拡大に力を注ぎ始めたが、皮肉なことにそれが、
欧州市民の埒外にいる「移民」問題をあぶりだしてきた。(国籍を持たない移民と、国籍を持つ移民と
の格差、さらに国籍を持っているにもかかわらずもともとの国民とカラードの現実的格差など)背景に
は、欧州憲法条約・リスボン条約そのものの問題点(EUの拡大と多様性の増大に対応する意思決定権
の簡素化、その結果としての中央集権化や大国の指導力の強化への危惧)がある。また他方で、日常生
活に広がる東からの移民、失業と経済不安、「ヨーロッパ」のすぐ外側での、パレスチナ・中東におけ
る戦争状況や、EU・政府への不信感、さらにはグローバル化により野放しにされた経済の自由競争で
すでに痛手を被っている中・東欧への世界経済危機の直撃による深刻な経済・社会危機などがある。
これらの状況を踏まえ、この章では、EU・NATOの拡大の中で、中・東欧において「民主化」がど
のように広がり、また如何なる課題を抱えているのかを、①1989年の冷戦終焉・体制転換後の、E
Uの拡大と「民主化」の制度化の試み、②コソヴォ空爆から 9.11、アフガニスタン・イラク戦争に至る
過程での、NATOの拡大とアメリカの安全保障への依拠、③EU・NATO拡大の下での、ネオ・ナ
ショナリズムの成長、民主化のセットバック、という 3 つの流れの中で検討する。
問題を先取りして言えば、ここでは何らかの民主主義のモデルに基づいて「中・東欧の民主化の段階」
を推し量ったり、そのジグザグの民主化過程や国内状況の遅れを「経路依存性」と読み替えてそれを説
明するのではない。そのジグザグとみえる民主化過程自体が、時の国内的要因に加えて、周辺地域から
の歴史的・国際的要因にも影響を受けていること、すなわち、ドイツとロシアに挟まれた「狭間の地域」
が、EUとアメリカの経済・安全保障の影響を受けながら、冷戦終焉後の20年で、どのような政治的
変容過程を遂げたか、を、その地域の問題として率直にとらえることにある。
すなわち「EUモデルとしての民主化」を普遍的尺度として、そこからの距離と問題点を各国各民族
の「経路依存性」による「遅れ」や「特殊性」として説明するのではなく、むしろ、西欧の「民主主義」自
体の現実的問題点をも含んだ、「民主主義」の表れ方とその変容を、その国際的、国内的要因をつき合
わせて、検討したい。
ここでは、「西の先進」と「東の後進」を説明するようなステレオタイプの分析ではなく、冷戦終焉
後、西欧に散見される非合理な判断や行動(既得権益保持やダブルスタンダード、近年の強力なゼノフ
ォビア(外国人嫌い)
)が、中・東欧の「民主化」過程においてどのような影響を与えたかも含めて、分析
していきたい。
2.中・東欧の「民主化」
1)民主主義の定義と、中・東欧
「民主主義」とは、ラテン語の demos+kratos(民衆の支配)に由来し、本来、民衆の運動、民衆の参加
をその語源とする。近代民主主義の理念としては、「治者と被治者の同一、成員の同質化・平等化」(シ
ュミット)
、議会制民主主義、多数決と少数者の尊重、自治と地方分権を原則とする。
(高畠通敏「民主
主義」
『社会学事典』
中・東欧の「民主化」の研究は、冷戦終焉後、中・東欧各国で、少なくない著作が出されてきた。ハ
ンガリーの政治学者バログは、ヨーロッパ統合と「国益」について、98 年に警鐘を鳴らしている。ハン
ガリーの政治学者アーグ・アッティラを中心としたグループは、200を超える同時代の中欧研究叢書
で、社会主義体制から資本主義、民主化・市場化への過程を、中・東欧全域にわたり、時々刻々の論文・
著書を刊行し継続的に分析してきた。
また、チェコのドゥルラークら若手グループは、中・東欧地域の民主化過程を、民族的・ヨーロッパ
的なアイデンティティの特徴を通して検討し国際学会で発表してきた。
サセックス大学のメアリー・カルドアらを編者とした中・東欧の民主化の本は、欧州委員会とも直接
関係を持ちながら、中・東欧各国の研究者により 90 年代前半の民主化過程を総合的に分析した。ここで
は基準としての民主化の尺度が、制度的枠組みの確立に焦点を当て整理されているため、結果として、
西欧の「民主化」基準に対して、どの程度中・東欧がそれを達成しているかの達成度評価として作用し
ている。実際にはそれがEU加盟の条件となり、それに従って加盟の時期が決定された。EUを主体と
224
する場合そうした分析は避けられないであろう。
であればこそ、本章では、「民主化」を検討する際、そうしたあるべき基準や指標から民主主義の達
成度を分析する形ではなく、現実の中・東欧の具体的政治過程と対照させつつ、検討すること、また周
辺地域からの「反作用」や国際情勢の変化も含めて、民主化過程とそのセットバックを検討する必要が
あると考える。
ここでは、冷戦終焉後の「民主化」過程を、以下の 4 点を念頭に置きつつ分析する。
① 「社会主義から資本主義へ」という体制移行期の、政治・社会改革の過程、
」
② 「EU加盟基準」をめぐる「民主化」と「国益」との確執(特に農業問題、移民問題)
③ 「戦争の中での民主化」――コソヴォ空爆から 9.11、イラク戦争期の民主化過程、
④ 2004年の加盟後の状況―EU益、国益、市民益の対立と国内状況。
その際、上記の「民主主義」の定義を踏まえ、民主主義の制度化の達成度のみならず、どの程度「市
民参加」
「民衆参加」
「治者と被治者の同一」、
「成員の同質化・平等化」
、
「少数者の尊重」、
「自治と分権」
が図られているのかなどにも留意しながら、中・東欧の「民主化」について、検討を行っていくことと
する。
2)中・東欧の「民主化」の歴史的試みと挫折
中・東欧は、19-20世紀にかけ、実に歴史的に4度にわたり、民主主義の導入を繰り返し試みてき
た。第1は、1848 年革命、民族の解放とハプスブルクからの独立戦争、第2は、第 1 次世界大戦後、
ハプスブルグ帝国からの独立と国民国家形成による第3共和政の導入、第3は、第 2 次世界大戦後、ナ
チス・ドイツからの解放後の(人民)民主主義の導入、第4は、冷戦の終焉後、社会主義体制の崩壊と
ソ連からの解放、「ヨーロッパ回帰」による民主化である。
しかしこの地域の民主化は、3度まで失敗してきた。それは一つには内部要因によるものであり、今
一つは、外部要因によるものである。内部的要因とは、多民族地域ゆえの民族対立、諸利害集団の調整
の困難さや、経済の脆弱性、あるいは政党と一般民衆の結びつきの弱さなどである。他方、外部要因と
は、国境地域を通しての周辺諸大国からの絶えざる脅威や威嚇・服従・併合などである。これらの相互
作用の結果、いずれも決定的には、国内の諸階層の利害の統合に失敗、あるいは周辺大国の支配とそれ
への従属が、この地域の不安定化と民主化の失敗を促したのである。
「東欧の小民族の悲惨さ。それは西欧の観察者たちに多くの疑いや苛立ちをもたらしてきた。・・・だ
がこの地域が不安定なのは、固有の野蛮な性格によるのではない。そうではなくヨーロッパの安定の本
流から締め出された不幸な歴史的過程によるのである。われわれは、この地域の安定の理想を放棄して
はならない。30年にわたる大混乱の後に、相互の憎み合いと占領、市民内戦、皆殺し戦争(ジェノサ
イド)の後に、われわれははっきりと安定の道筋を見ることができる。・・・(略)この地域の安定化は可能
なのだと強調すべきなのだ。
」(東欧の第3の道主唱者、ビボー・イシュトヴァーン, 1946 年(1991 年版))
1度目はハプスブルク帝国、2度目はナチス・ドイツの支配によって挫折させられた「民主化」は、
ビボーの意に反し、3度目もソ連の影響下に、東側体制に組み込まれることにより挫折する。しかしこ
の民主化と解放への執念がまた、鉄のカーテンを開かせソ連からの解放と「ヨーロッパへの回帰」を勝
ち取っていったことも事実なのである。
4度目の挫折として、EU・NATOへの制度的組み込みと国益との対立を主張する動きもあるが、
グーバリゼーションの下、もはや何らかの制度から外れた「第3の道」はありえない。現実の中でいか
によりよく生きていくかを選択したとき、経済面ではEU、安全保障面ではNATOに軸足を置くこと
以外、この地域の安定は得られないことは事実であろう。その成果と代償は何であるのか。
冷戦終焉後2004年までのEU・NATOの拡大、2005年以降の欧州憲法条約やリスボン条約
をめぐる西欧の諸国民の巻き返し、「欧州市民」が語られる中での東西間、南北間格差、そうした中で
の中・東欧の「民主化」の現段階を明らかにしたい。
3. 中・東欧の
東欧の「民主化」
民主化」と、拡大EU
拡大EUの
EUの課題達成要求
課題達成要求
冷戦終焉後におけるこの地域の「民主化」と市場化の達成は、2つの段階での、ヨーロッパへの制度
的回帰とかさなっている。
第1段階は、<冷戦
冷戦の
冷戦の終焉と
終焉と体制転換による
体制転換による心情的
による心情的な
心情的な「解放意識」
解放意識」と、制度的な
制度的な「ヨーロッパ回帰
ヨーロッパ回帰」
回帰」
>である。
90年代前半、中・東欧の人々は口々に「自由と豊かさ」を唱えてヨーロッパ回帰を目指した。奇し
くも1989年はフランス革命の200周年と重なり、社会主義制度の放棄と併せ、自由・平等・博愛、
民主化・市場化が、「民主フォーラム」「市民フォーラム」「連帯」など、市民の内発的な「解放」の動
225
きが、体制転換を支えた。
現実には、ジェフリー・サックスの唱える「ショック療法」を導入し社会主義からの早期脱皮をめざ
すネオ・リベラルなポーランドや統一によって否応なく全面転換を迫られた東ドイツと、旧体制からの
漸進的改革を唱えゆるやかに改革を実行したハンガリーやチェコなどとの違いがあったものの、長期的
には大きな差はなく、国営企業の解体と民営化、外資の導入、多党制と自由選挙による議会制民主主義、
マイノリティへの人権保障、環境や経済・政治・社会レベルにおける欧米基準値の達成、ヨーロピアン・
スタンダードの導入、などが行われていった。どちらの手法をとっても長期的な射程で見れば経済的に
は10-15年後の回復に向け大きな差はなかったが、政治的・社会的には前者がより大きな犠牲を伴
った。この過程では、前者・後者ともに結局のところ強制的な制度変更の結果、多数の労働者・農民と
その家庭が巷に放り出され、農業協同組合の解体と土地の民営化の過程で、深刻な不況・不作が輸出を
激減させた。
第2段階は、<EU
<EUの
<EUの「加盟基準達成」
加盟基準達成」要請と
要請と、ナショナリズムの
ナショナリズムの成長>
成長>である。
EUは拡大に際して、中・東欧の第5次拡大までは、厳しい拡大条件をつけていない。冷戦期に加盟
したスペイン、ポルトガルやギリシャ、あるいは冷戦終焉後95年に加盟した元中立国、オーストリア、
フィンランド、スウェーデンでさえ、加盟基準をとくに設けずに加盟させてきた。
にもかかわらず、中・東欧諸国を加盟させるに当たって、EUは厳しい「加盟基準達成」要求を行っ
たのである。すなわち、旧社会主義国が欧州の一員となるために、EUは、政治、経済、法律面での3
1項目に及ぶ「コペンハーゲン・クライテリア」
、8 万ページに及ぶアキ・コミュノテール(EU法の国
内法への適用)を義務付けるのである。
以後、中・東欧は、1996-2004年まで実に9年近く「加盟基準達成」にむけての改革を行うこ
ととなる。こうしたEUの加盟基準の設定とその後の厳しい加盟交渉は、ほどなく現れたオーストリア
での移民排斥・ネオナチ的な言動、さらに加盟基準達成交渉時に見られた西欧側の「保護主義」(たと
えばCAP農業補助金の配分に関する既得権益の主張)や、
「ダブルスタンダード」
(たとえば候補国に
対するマイノリティへの人権要求と、加盟国における人権侵害の放置)とあいまって、西側への不信と
批判を徐々に強めていくこととなる。
以下、そうした変化を、体制転換と自由選挙の分析により、概観してみよう。
1) 冷戦の
冷戦の終焉と
終焉と1989年
1989年の体制転換
体制転換
1989年、マルタでの米ソの冷戦の終焉宣言とゴルバチョフの「体制選択の自由」(どのような体
制を取ろうとソ連は介入しない)表明の中で、現体制への恒常的不満が80年代に極めて高まっていた
中・東欧では、1989年6月のポーランドでの体制側と連帯との円卓会議、8月におけるハンガリー
での鉄のカーテンの解放などを皮切りに、チェコでのビロード革命、10月におけるベルリンの壁の崩
壊、12月のルーマニアでのチャウシェスク体制の崩壊など、ドミノ式に「東欧革命」が遂行され、閉
口して社会主義体制の放棄と体制転換が起こった。しかしその現れ方は各国によって異なっていた。
ハンガリーでは、社会主義か資本主義かを問う選択の中で、社会主義改革により民主化を訴えた社会
党と「第3の道」を唱える民主フォーラムとの間で、指導権が争われた。最初は、中・東欧全体の改革
をリードする社会党が、民衆の声を先取りして、多元化、多党制、党名の変更、歴史の見直し(たとえ
ば、56年事件は反革命ではなく、民族民衆革命だったという評価、市場化への移行などを矢継ぎ早に
掲げて、改革が進行した。その後、
「伝統と改革」
「第3の道」を掲げる民主フォーラムと、自由と民主
主義、西欧化を掲げる自由民主連合が対峙したあと、フォーラム系の民族民主派が勝利し、農業協同組
合の解体、国有企業の解体、国有の土地や建物の旧所有者への返却、民営化、様々の自由化を遂行する
こととなる。しかし、その後旧共産党体制を弱体化するための政治的・法的な訴追(秘密警察とその協
力者の摘発)や、旧共産党が強力であった分野の国有機関について優先的に解体する(たとえば農業協
同組合や社会保障関係)などに見られるように、政治判断を優先させた政策を実行したため、急速な改
革の犠牲が主に農業労働者や一般労働者に転化されて、深刻な不作や経済停滞、不況や長引く失業を生
み出すこととなった。(14)
ポーランドでは、自主労組「連帯」による 80 年以来の動きが円卓会議を基礎とした中・東欧最初の政権
参与と政治的多元化を生み出したが、その後連帯のポピュリズム化と分裂を生んでいく。
チェコでは、当初ポーランドやハンガリーに比べ保守的な硬直した政権党に対して民衆が街頭に出、
「ビロード革命」が達成された。しかしここでも運動をリードした市民フォーラムの知識人グループは程
なく分裂していった。
ルーマニアでは、中・東欧の中でもっとも遅く 89 年の 12 月に圧制に対抗する民衆革命が勃発した。
チャウシェスクの逃亡と殺害という急展開を見た。しかしこれも程なく、旧共産党主流派の救国戦線
によって権力が再建された。民衆革命は『盗まれた』のである。
226
結果的に、共産党 1 党体制は自壊あるいは倒壊したものの、変革のユーフォリアは、1 年もたたない
うちに沈静化し、「革命」を遂行したフォーラム系のグループや連帯組織は 4,5 年で勢力を失いばらば
らになり、後には、民営企業を受け継ぎ私有化に成功した一握りのエリート、土地を買収して豊かに
なった富農層と、国営企業や農業協同組合の解体により路頭に迷う失業者大衆や一握りの土地を得て
収入と収穫を大幅に減らしてしまった農民層とに分解していった。各国ではインフレは 20 数パーセン
トに及び、社会主義時代に蓄えられたたんす預金は瞬く間に紙切れと化していった。
中高年層の失業は長期に及び、年金生活者も合わせてそれのみでは生活できない人口の 30%を超え
る「貧困ライン以下の人々」を、東野境界線地域に生み出していった。貧富の格差とともに国内の地
域格差も拡大した。社会主義体制の解体による、初期の「民主化」と市場化は、極めて暴力的な形で、
社会的弱者の犠牲の上に、遂行されていったのである。
② 自由選挙、
自由選挙、振り子のゆれ現象
のゆれ現象」
現象」と、2党化への
党化への収斂
への収斂
こうした中で、多党による「自由選挙」が、総選挙、地方選挙において実施された。
<90 年、第1回自由選挙――
、「連帯
回自由選挙――「
――「フォーラム系
フォーラム系」
「連帯」
連帯」系政党の
系政党の成長>
成長>
この選挙では、ハンガリーでは民主フォーラム、ポーランドでは「連帯」、チェコでは市民フォーラム
を主軸とする連合政権が、政権の主導権を握った。他方、ルーマニアでは「救国戦線評議会」、ユーゴ
スラヴィアでは「共産主義者同盟」、ブルガリアでは「共産党」など、バルカンでは旧共産党の改組派
が、体制転換は不十分なまま、名称を変えてとりあえずの「移行」を図った。
<9393-5 年、2 度目の
度目の自由選挙――
自由選挙――揺
――揺り戻し:「社会主義
「社会主義ノスタルジー
社会主義ノスタルジー>
ノスタルジー>
ここでは、上記のような混乱と、フォーラム系の諸党派の分裂や中産層の解体と大量の社会的弱者
の創出の中、中欧では軒並み、「社会主義ノスタルジー」により、旧共産党系(改革派)が政権に復帰する。
これは、通常 100 年以上をかけて緩やかに進行する資本主義化を、ジリ貧になっていた社会主義国有制
度を一挙に解体することによって実行するという、急速で乱暴なネオ・リベラルな「西欧型民主化」の
導入に対する、一般民衆からの異議申し立てであった。
しかし、急速な資本主義化と失業・生活難から「社会主義的ノスタルジー」を求めた大衆によって政権
に就いた社会主義改革派政党は、現実には「EU拡大への加盟基準として」、国営企業の更なる民営化
や社会保障制度の削減、合理化、効率化などが、先の政権時代以上に、外から要請された。その結果、
ハンガリーの社会党や、ポーランドの左翼民主同盟は、積極的に自由化と社会保障解体を推し進めて、
彼らに投票した社会的弱者層の期待を裏切ることとなり、民衆の離反を招いた。たとえばハンガリーで
は、ボクロシュ大蔵大臣による「ボクロシュ・パッケージ」と呼ばれる一連の社会保障削減政策が民衆
の強い反発を招き、大蔵大臣は更迭され、社会党は次の総選挙で敗北した。この事件は、民衆参加によ
る、治者と被治者同一化による「民主化の発露」の象徴でもあった。
しかし、社会保障削減をも含む市場化・民営化をセットとした「EU基準の達成」は、それこそが「西
欧化」
「民主化」として要請され、中・東欧の民衆の間に、EU への不満と、それを遂行する政府に「売
国奴」の汚名を着せていくこととなる。
これは、「経路依存性」から来る中・東欧の「民主化の限界」ではなく、「西が要請する民主化(グロ
ーバルスタンダード)」と「西欧基準適用への民衆の率直な反発」の最初のぶつかり合いであったとい
うことができる。
2)自由選挙と
自由選挙と2党制への
党制への収斂
への収斂、
収斂、ナショナリズムの
ナショナリズムの成長
社会主義ノスタルジーと、西欧社会民主主義政党の、EU加盟に向けての経済競争の加速化以降、E
UNATOへの加盟は大前提としつつ、それを国益擁護(ナショナリズム)の方向で行うのか、リベラ
ルデモクラシーの方向で行うのかの2大分裂が起こる。
① <世紀転換期、
世紀転換期、第3回自由選挙――
回自由選挙――安定政党
――安定政党の
安定政党の形成―
形成―2党化と
党化と、少数政党の
少数政党のキャスティングボー
キャスティングボー
ド化>
1997-2000 年には、左派の「民主化」と「自由化」政策の不評と失敗を受ける形で、中道右派政権
が「民衆の支持を受けて」政権に就いた。中道右派は、当初、民衆の支持を背景に、積極的に「国益」
「民族益」を打ち出すが、現実には強力な「EU加盟達成基準」の要請が足かせとなり、政権党として
独自の政策を打ち出しえず、右派と左派の政策を均質化させざるをえなかった。
こうした急速な EU 加盟基準達成の要請に基づくネオ・リベラルな市場化改革の波の中で、
「自由選挙」
で選ばれた左右の既成政党が、現実には西側の「民主化・市場化」要請に適わない限り、EUに加盟で
きない状況の中で、各国の社会的弱者層の要求を掬い取る形で、すでに 90 年代初めから、民族益を掲
げて、右翼急進主義が成長してきた。たとえば、ハンガリーではチュルカの「MIEP:ハンガリー正義と
生活党」、ポーランドのレッペルの「自衛」、ルーマニアのトドルの「大ルーマニア党」、あるいは政権
227
党としては、スロヴァキアのメチアルの民主スロヴァキア運動、クロアチアのツジマンの民主党、セル
ビアのミロシェヴィッチの社会党、などである。彼らは積極的に、民族の擁護を掲げ、自由化や民営化
をユダヤ資本の流入、ないしグローバリゼーション、アメリカニゼーション批判として、西欧基準の「外
からの」民主主義の押し付けに反対し、反 EU、反民主主義、反ユダヤ、反マイノリティなどを掲げて
支持を獲得してゆく。(ヨーロッパの右翼、ラメ)
これらは、2000 年のオーストリアにおけるハイダー自由党や、イタリアのベルルスコーニのフォル
ッツア・イタリア、さらにはフランスのルペン、オランダのフォルタイン党など反移民の右翼政党の成
長と時を同じくしつつ、片や東からの移民や安い農産物あるいは安全保障の脅威に対抗し、方や西の基
準の押し付けに対抗して、それぞれ「民族益」「国益」を民衆に訴えながら、国民のかなり広範な層を
ひきつける運動として、支持を広げていったのである。
3)<EUによる
)<EUによる「
による「民主化の
民主化の達成基準値」
達成基準値」の設定と
設定と達成要請>
達成要請>
このように、加盟のためにEUから課された達成基準は、中・東欧で「民主化」を早期に達成させる
基礎となるが、逆に国家と政府から民衆が離反していく。31 項目のうち、最後まで残された課題は、移
民問題、農業補助金問題、財政問題であり、それらはいずれも難航を極めた。(5.EU内部の相克)
最終的に、農業問題、移民問題など、最大の課題に対して、いずれも元加盟国の既得権益を維持し、
新加盟国に犠牲を転化する形で決着したことから、EUの保護主義、ダブルスタンダードへの不満が、
新加盟国の間に鬱積することとなった。この経緯の中で、フランスやドイツに対する不信感が浮き彫り
になったのである。
農業問題でポーランド農民にインタヴューした BBC のビデオによれば、農業補助金の段階的交付と
10 年目にようやく 100%となることを通知されたポーランド農民は、「EUはスターリンより嘘つき」
と罵倒し、EUの決定を破り捨てている。(BBC)
また移民問題についても、ポーランド国境から非合法を含め 50 万を超えるスラブ系住民が流入して
くることを危惧したドイツ、オーストリアなどは、2+3+2.最長 7 年の移民制約期間を設けた。こ
うして最後までもめた農業問題、移民問題、財政予算問題でのこじれの結果、EU加盟直前になって加
盟国と新加盟国との間に不信感が広がっていった。
4.コソヴォ空爆
コソヴォ空爆、
空爆、9.11、
9.11、イラク戦争
イラク戦争に
戦争に見る、中・東欧への
東欧への拡大
への拡大NATO
拡大NATO
1999年以降の、空爆・戦争への、当事者としての関与は、中・東欧の「民主化」の方向性に、大きな
意味をもった。これらの空爆と戦争を通じて、中・東欧は、経済的・政治的にはEUの枠組みに依拠する
ものの、安全保障の面ではアメリカに依拠することにより、アメリカの世界戦略の枠組みに組み込まれ
ていく。それは、コソヴォ空爆やイラク戦争など、
「武力による民主化」への関与を含めて、中・東欧各
国の「民主主義」のあり方を決定付けた。
<NATOの拡大と中・東欧>
1)CSCE(
CSCE(全欧安保協力会議)
全欧安保協力会議)時代:
時代:
90 年代前半は、中欧 3 国(ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、のち分裂して 4 カ国)
はヴィシェグラード地域協力を組み、EUとNATO加盟を要請した。それは 91 年 8 月のソ連軍部の
クーデターにみられるような、ソ連の反動的な巻き返しに対して、中欧諸国は強い危惧を覚えたからで
ある。以後、ヴィシェグラード諸国は結束して、ロシアから自国の自立を守り、また南のユーゴスラヴ
ィアの民族・地域紛争から自国を守るために、NATO加盟を要請していく。
これに対しNATO側は、当初は中欧への拡大に極めて慎重であった。なぜなら、冷戦の終焉と、ワ
ルシャワ条約機構という「敵」側軍事機構の解体を受け、新たな役割を付与せねばNATOの存在意義そ
のものが問われる情況にあったからである。
こうした中、米欧は、欧州全体に網を掛けて話し合いの場を設ける CSCE(全欧安保協力会議)の「予防
外交」に活路を見出していく。冷戦の終焉に伴い、全欧州の協議によって問題を解決する場を、提供し
ようとしたのである。これは、欧州の安全保障の場における「民主化」の進展と位置づけられた。
ところが、40数年間ソ連のくびきの下に置かれてきた中欧の指導者(当時は民主派)は、このように
ソ連と東欧が「旧社会主義国」として一括して扱われることに極めて不満であった。かれらは、安全保
障の枠組みをソ連・ロシアと共同で行うことは考えられなかった。こうした中で、中欧諸国は、ソ連と
は別の枠組みを繰り返し要求したが、得られなかった。その結果、1994年には、NATOと「平和
のためのパートナーシップ(PfP)」が実現して加盟への 1 歩が築かれた。95年にはロシアもこれを締
結したため、中欧諸国はNATO加盟にむけて、活動を強化した。
2)中欧の
中欧のNATO拡大
NATO拡大と
拡大とコソヴォ空爆
コソヴォ空爆:
空爆 「民主化」選択の鍵
228
1996 年 10 月、アメリカのクリントン大統領は、第 2 期大統領選挙の遊説先、デトロイトで、99 年
NATOの 50 周年までに、中欧諸国をNATOに入れることを宣言した。
(19)これは大統領選勝利
と、中・東欧への影響力拡大をにらんだ発言であり、以後アメリカ議会ではNATO加盟準備金として
6000 万ドル、以後 10 年間で 15 億ドルを中欧 3 カ国に提供することを採択した。
(20)
こうして、99 年 3 月 12 日、ハンガリー、ポーランド、チェコ 3 カ国はNATOに加盟した。しかし
中欧のNATO加盟の 12 日後に、NATOのコソヴォ空爆が始まった。中欧のNATO加盟とユーゴ
スラヴィアへの空爆は、セットとなったのである。これは、中欧と、バルカンを切り離して、周辺の中・
東欧の国々に、「民主化・市場化を達成すれば加盟、民族・地域紛争を拗らせれば空爆も辞さない」、と
して、
「平和的・自発的民主化か、武力による民主化か」という選択を迫ったのである。以後、多民族地
域の再編とマイノリティの異議申し立てに悩む中・東欧諸国にとって、コソヴォ空爆は「民主化」選択の
鍵となった。その意味では、ブッシュの「民主化のための戦争」の布石は既にクリントンのコソヴォ空
爆でも遂行されたのである。
事実、同年 4 月に開かれたNATO50 周年記念の会合では、旧ソ連のバルト3国を含む9カ国(リ
トアニア、ラトヴィア、エストニア、スロヴェニア、スロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア、アルバ
ニア、マケドニア)が、MAP9(加盟のための行動計画)として第2陣の加盟候補国として指名されるこ
とになり、ユーゴの孤立化のみならず、ロシアの分断と孤立化が図られた。
99 年のコソヴォ空爆が、①人道的介入、②域外派兵、③緊急の場合、国際機関の承認も回避できる、
という「新戦略概念」の履行として断行される中で、欧州の知識人、中・東欧の旧社会主義者は、賛否
両論で真っ二つに割れた。
ハンガリーの反体制知識人であったヘラーは、セルビア軍のマイノリティに対する虐殺に対して、空
爆を人道的介入として支持し、政治学者アーグ・アッティラは、「今度はマーシャル・プランとは異な
り、アメリカは東ヨーロッパを見捨てなかった」と評した。他方、同じ反体制派知識人であったコンラ
ードは、ドイツのツァイト紙でNATOのコソヴォ空爆を批判した。チェコ大統領ハヴェルや、ポーラ
ンド大統領ワレサは、いずれも空爆を支持した。しかしハンガリーのオルヴァーン首相は、セルビアと
の境界線地域のヴォイヴォディナに数十万のハンガリー人マイノリティがおり、彼らが「セルビアを空
爆するな」
、と声明したこともあり、慎重を期し、医療・後方支援を中心とした。当時 89 年の 10 年の
インタヴューを行ったゲンツは、セルビアはわれわれの歴史的な友人であり、逃れてくる移民は手厚く
保護しなければならないと語った。
(21)
このコソヴォ空爆を契機に、NATOの拡大は、
「民主化」の達成とともに、戦争・実戦への参加をよ
り重要な課題として、進むこととなる。
<中・東欧の、ロシア・バルカンに対する脅威認識と、西欧とのずれ。>
中・東欧が、アメリカに対し、NATO加盟要請を行った背景には、中・東欧にとって、ロシア・バ
ルカンから自国を守ってくれる軍はアメリカ以外にない、と考えられたためである。(EUは、ロシア
に対抗しうる軍事力を持たない上に、そもそも中・東欧を守ってくれた歴史的事実もなかった。むしろ、
「隣国」ナチス・ドイツとソ連はいずれも歴史の「もっとも新しい記憶」において、侵略者、支配者で
あった。しかしアメリカの軍事力への過度の依存が、中・東欧の「民主化」の足かせとなる。)
3)9.11.テロ
9.11.テロ:
テロ:「国際対
「国際対テロ
国際対テロ包囲網
テロ包囲網」
包囲網」と中・東欧
2001.9.11.のテロは、中・東欧にとっても転機であった。NATO拡大の折には、中・東欧への拡大を
約束し実行したのは、中欧通のクリントンであり、国務大臣はチェコ系ユダヤ人オルブライトであった。
他方、9.11のテロ後、最初にアメリカのブッシュ大統領に連絡し、対テロ国際包囲網を提案したの
は、ロシアのプーチン大統領であった。以後、2002 年早春からのアフガニスタン空爆に際し、ロシア
は情報や基地提供も含み、積極的に協力した。これを契機に、英ブレアの後ろ盾もあって、2002 年 5
月には、
「NATO・ロシア理事会」が成立したのである。クリントン第 2 期のロシア孤立化時代とは逆
に、再びアメリカとロシアの蜜月時代に入ったのである。
これに対し中・東欧諸国は、不安を持って見守る。中・東欧にとっては「民主化」を達成することがN
ATO・EU加盟の課題であった。しかし、「強いロシア」復活をめざす独裁者と見える、KGV 出身の
プーチンが、まず英米との、ついでEUとの協力関係を再開させたことは、中・東欧を困惑させた。N
ATO加盟の最大の眼目であるロシアからの安全保障が形骸化する事実に、中・東欧小国は対処すべき
すべを持たなかった。
また、中欧は、NATO加盟によって、アメリカからの軍の近代化要請、武器(ミサイル、戦闘機)販
売攻勢、GDP2%軍事費のノルマなど、予期していなかった多くの軍事的課題を課されることとなった。
NATO加盟により中欧の安保の防衛を期待したことは、「安保ただ乗り(Free Rider)」と批判され、
軍事同盟としてノルマを果たす必要性、軍事共同演習などが、積極的にNATOの側から提示された。
229
EU加盟基準達成のための財政逼迫にもかかわらず、軍事費の増大やミサイル購入も含む軍事化が、ノ
ルマとして並行して要請されたのである。
4)イラク戦争
イラク戦争:
戦争:欧州の
欧州の共通外交から
共通外交から、
から、アメリカの
アメリカの安全保障戦略へ
安全保障戦略へ
NATO加盟により中・東欧は、アメリカに軍事行動で貢献する必要性が出てきていた。
2002 年 11月、中・東欧 7 カ国へのNATO拡大が決定された折、イラクに対する対応として、アメ
リカと独仏の間に齟齬が現れた。欧州は、大量破壊兵器疑惑に対して国連による査察を継続することを
要請したが、他方、アメリカは、大量破壊兵器の所在を証明し、攻撃を決定したのである。(証明そのも
のは、後に工作がなされたことが明らかとなり、ブレア政権に打撃を与えた。) フランス・ドイツ政府
が、アメリカのイラク戦争を批判する中、戦争を批判する声が、未曾有の世界規模で沸き起こる。
しかしこうした中、2003 年 1 月 30 日に、欧州 8 カ国(イギリス、イタリア、スペイン、デンマーク、
ポルトガル、ハンガリー、ポーランド、チェコ)が、2 月 4 日には、ヴィルニュス10カ国(リトアニ
ア、エストニア、ラトヴィア、ルーマニア、ブルガリア、スロヴァキア、スロヴェニア、クロアチア、
マケドニア、アルバニア)が、アメリカのイラク戦争支持を声明した。
これに対し、フランスのシラク大統領は、
「中・東欧の行動は子供じみている!」と強く批判した。こ
れに対して、逆に中・東欧から、フランス・シラクの高圧的な態度に批判が巻き起こった。その結果、仏
独の反イラク戦争の表明は、EUの中でも少数派(4 カ国)となり、共通安保外交政策(CFSP)は失敗し
た。中・東欧は、EU加盟の直前になって、経済面ではEUに依拠するものの、軍事面ではアメリカに
ついて進むことを表明したのである。
5). NATO・
NATO・アメリカ支持
アメリカ支持による
支持による中
による中・東欧の
東欧のメリット
2003 年 3 月、イラク戦争直前の段階では、中・東欧各国はかなり複雑に割れていた。
ブルガリアやクロアチアは、当初は、コソヴォ空爆やアメリカの政策を批判していた。ハンガリーで
も野党の青年民主連合は、イラクへの派兵を強く批判した。問題を解決したのは、各国1500-2000 万
ドルに及ぶ派兵の支援金であった。最終的にアメリカの要請に応じたのは、皮肉にも、シラクの中・東
欧批判と、対照的なアメリカ・ブッシュの友好的態度であった。(ブッシュは、各国の首脳にホットライ
ンで連絡をとり、派兵に金銭援助、石油権益、多くの実質的支援を約束した。逆にフランスは、中・東
欧へは何もせずして、EUの政策遵守を期待したのである。)
アメリカ支持とイラクへの派兵により、中・東欧、とりわけポーランドは最大の成果を得た。ポーラ
ンド軍は、20-21 カ国軍隊、9800-12000 人を率いて、イギリス軍とともに最重要の前線に配備され、
またNATO事務総長補佐官、21 カ国軍総指揮官、(イラク)国際調停委員会委員長の地位を得た。これ
によりポーランドは、EU加盟のクライテリアをなかなか満たせない「遅れた農業国」から、一転、アメ
リカの世界戦略を補佐する軍事大国となり、EUの中での発言権が拡大した。
コソヴォ空爆からイラク戦争に至る過程で、中・東欧は、仏独のリードするEUに安全保障面では距離
を置き、アメリカの影響下に入っていった。その意味はきわめて大きい。それによりアメリカの国防長
官ラムズフェルドのいう「新しいヨーロッパ」となり、独仏からはアメリカの「トロイの木馬」と揶揄
されつつも、改めてEU大国にもその存在が認識されることとなった。
5.拡大EU
拡大EUにおける
EUにおけるネオ
におけるネオ・
ネオ・ナショナリズムと
ナショナリズムと、セットバック
1)EUの
)EUの保護主義、
保護主義、ダブルスタンダードへの
ダブルスタンダードへの不満
への不満
EUは新加盟国との加盟交渉をめぐって、とりわけ、農業補助金、移民、財政予算、といった、直接
それぞれの利害とかかわる問題において、互いに譲れず、結局、現加盟国に有利な形で最終調整する結
果となり、それは、新加盟国に強い不審を引き起こすこととなった。とりわけ、EUが、受給国の既得
権益を守るため、新加盟国に対して、農業補助金を、1 年目は本来の 25%しか配分せず、全額支給は
10 年後の 2013 年、移動の自由も最長 7 年間(2+3+2年間)制限したことは、厳しい31か条を課
される加盟候補国の反発を招いた。イタリアとオーストリアの隣国である、中・東欧の加盟候補国中最
も GDP の高いスロヴェニアが、95 年に無条件で加盟したオーストリアや、EU の議長国イタリアで、
移民やマイノリティに差別的な言辞を述べる人々が政権に入っていることは極めて不本意に映った。こ
うした中、加盟候補国からは、EUは、ダブルスタンダードである、保護主義(protection)であると
言う批判が続出した。
確かに、厳しいクライテリアが儲けられたのは、
「社会主義体制」を体験した中・東欧からである。中
欧と同規模の隣国であり類似した歴史を体験してきたオーストリアやフィンランドは、冷戦終焉後、こ
うした基準はないまま95年に加盟したこと、またとりわけそれらの中で右翼ナショナリズムが成長し
て新たな加盟候補国への人種差別的な政策が取られたにもかかわらず、一時のハイダー自由党への強攻
策を除いては、そうした政策が放置されたことは、中・東欧の人々の心情を傷つけた。冷戦開始の時期
230
を見る限り、オーストリア、フィンランドが社会主義体制の枠内にはいらなかったのは、偶然の結果で
あった。
こうした中で、中・東欧は、EU 加盟の基準は、
「民主化」の達成度よりも、GDP に象徴される経済発
展の度合いの方がより重要な要素であると認識させられることとなる。ポーランドの農民は、EU はな
ぜオーストリアに与えた農業補助金を自分たちには10年間延期するのか、自分たちは貧しいからか、
と批判した。
2)拡大EU
拡大EUの
EUの境界線での
境界線での「
での「民主化」
民主化」の波と、内での国益擁護
での国益擁護
2003 年秋の興味深いユーロバロメーターがある。2004年5月に加盟予定の中・東欧、地中海10
カ国のEUへの支持が50%をきっているのに対して、04 年に加盟できない3カ国(ブルガリア、ルー
マニア、トルコ)の方が、EUへの支持が 70%台と、はるかに高い。中・東欧についても、加盟交渉を始
める時期は、加盟への期待でEUへの支持が極めて高く、重要な案件を詰めていくに従って、相互交渉
の過程で、期待が諦念や挫折感に変わっていくことを示している。しかしそれでも 2 人に 1 人は、EU
に期待を寄せているということは、どのような形にせよ、ロシアとドイツのはざまに位置する限り、E
Uの中で生きていくことが、国民にとって最善であると考えるからであろう。
他方で、2004 年秋から 2005 年春にかけてウクライナ、キルギス、ウズベキスタンなどで、いわゆる
カラー革命と呼ばれる、オレンジ革命、チューリップ革命、バラ革命など、民主化の波が起こっている。
EUとバルセロナ・プロセス(北アフリカ、中東)、EUと旧ソ連・パートナーシップ協定の国々が、境界
線を越えて共存を求める「ワイダー・ヨーロッパ、近隣諸国政策」(2003)の中で、EUの境界線の外に
ある国々が、EUと連携しようとする動きが強まっているのである。このようにEUの民主化政策は、
次々に周辺地域に拡大しつつある。
「ヨーロッパ」の従来の領域を超えて「民主化」を旗頭に外に広がるEUと、拡大の内側で民衆との間に
「民主主義の赤字」という軋轢を抱え始めている拡大EUと「民主化」の課題は、経済力の全般的成長だ
けでは解決できない、悩ましい問題を内包している。
3) 加盟後の
加盟後の動きと、
きと、欧州憲法条約の
欧州憲法条約の拒否、
拒否、リスボン条約
リスボン条約の
条約の延期
中・東欧へのEUの拡大後5年を迎え、これらの国は急速にEU機構の一部になりつつある。しか
し国内には、ハンガリー、チェコ、ポーランド、いずれも不安定な政権を抱えて、民意との調整を諮り
かねており、他方、加盟後2年を迎えるルーマニア、ブルガリアの民主化も、経済問題、汚職や国境問
題を含め、いまだ安定的ではない。
2004 年秋に中・東欧に支給された農業補助金については、その額の予想外の多さに、ポーランドの
農民らの批判は影を潜め、家族同盟や自衛などの支持率は、大幅に減少した。
境界線をこえての自由移動も活発化し、2007 年末には、シェンゲン協定は、トルコ人問題を抱える
キプロス、ルーマニア・ブルガリアを除く新加盟 9 カ国まで内包することとなった。
国家の単位と平行して、欧州では「地域」の役割も強まりつつある。25ヵ国EUを 254 地域に割っ
た上での、2002 年の購買力平価(PPS)で算出した一人当たり GDP では、EU平均値の125%以上
にある上位 37 地域には、イギリス、ベルギーなどとともに、中・東欧で唯一チェコのプラハが入った。
(しかし
また、下位 59 地域(平均値の 75%未満)では、最下位から 5 地域はすべてポーランドである。
西欧からも、ドイツ(6)、ギリシャ(5)、ポルトガル(4)、イタリア(4)、スペイン(2)、ベルギー(1)
、
イギリス(1)の地域が入っている。
)ポーランドの諸地域が最下位にあるのは、東のウクライナやベラル
ーシに近い貧困地域を抱えているためである。以上の状況を見る限り、すでに EU 内でも地域間競争と
格差が始まっていると見るべきであろう。
①<EU憲法条約拒否
<EU憲法条約拒否、
リスボン条約の
延期>
憲法条約拒否、リスボン条約
条約の延期>
こうした中で、2005年5月29日のフランスの国民投票において、EU憲法条約が拒否された。フ
ランスの国民投票は、反対 54.87%、賛成 45,13%と、10%の大差で、憲法条約を拒否した。6 月 1
日、オランダでも、反対 61,6%、賛成 38.4%の大差で、否決された。さらに2008年には、憲法条約
を大幅に縮小して再提出されたリスボン条約も、唯一国民投票が行われたアイルランドで否決された。
憲法条約、基本条約は西欧の国民投票で拒否された形となったが、現実には、ポーランドのように「ニ
ースか、死か」で欧州憲法条約を拒否して国益を護ろうとする動きもあり(小森田秋夫「ポーランドと
憲法条約」『ヨーロッパの東方拡大』)、仏独がリードする憲法条約への反発は、実はポーランドを初め
とする「新しいヨーロッパ」でより強かったが、それをストレートに表明できない弱みも新加盟国は有
していた。
欧州憲法条約、リスボン条約が立て続けに国民投票で否決された背景には、一つには、この間ユーロ
クラット(EU官僚)によって「市民の民主主義」がおざなりにされたという、いわゆる「民主主義の
231
赤字」の問題を露呈しているが、今一つにより重要な問題として、欧州憲法条約の精神としての合理化、
効率化、「統合された強いヨーロッパ」、共通外交安全保障政策(CFSP)の導入は、現在の(より多元
性を尊重する)ニース条約に比べ、結果的に各国の国益を損なうのではないか、そもそも多元的・平等
な関係である27カ国が現実には独仏の主導権の拡大により変質していくのではないか、という危惧を
中小国が持っていたことも否めない。
多様で緩やかな域内民主主義の重視か、大国の主導権の下強力で統合されアメリカに並ぶ国際規範を
持ったグローバルパワーか、市民に配慮した市民益を調整する民主主義か。
これらを巡って「政治レベルでの統合」に対し、未だ国家レベル、市民レベルで躊躇する国や市民が多い
ことを、憲法条約、リスボン条約の拒否は示している。ここでは論じる紙面がもはやないが、21世紀に
入り、欧州でナショナリズム、ゼノフォビア(よそ者嫌い)が各地で増大していることもその証左である。(羽
場久美子「EUのナショナリズム」)
今後30カ国に拡大しつつあるEUは、域外への安全保障の課題も踏まえつつ、古くて新しい根本問
題に直面している。
6. 拡大EUNATO
拡大EUNATOと
EUNATOと中・東欧の
東欧の「民主化」
民主化」―残された課題
された課題
2008年には、いくつかの新しい状況が拡大EUと中・東欧に起こった。
一つは、2007年12月末のシェンゲン協定の拡大、新加盟9カ国の参加であり、今一つは、200
8年2月22日のコソヴォの独立、EUの国家承認である。いずれも欧州憲法条約の拒否、リスボン条約の拒
否とも重なる、ベクトルの違う形での、国民の声にいかに対応するか、ということに対する、一つの解法
である。2009-10年に掛けても、クロアチアから始まる西バルカン諸国のEUNATO加盟が継続する。
今後、拡大EUの諸国の「民主化」にとって最大の課題は、それぞれの地域(とりわけ西と東)で異な
る「国民の声」をいかに政策に反映させるかであろう。
「各国の民衆の声」は、まさに国益とナショナリズムのぶつかり合いであり、時としてポピュリズム
を生み、改革にブレーキをかける。民衆の声軽視による形式的民主主義の制度化は、EU加盟基準を満
たすことが最優先であった90年代の中・東欧でより強かった。しかし21世紀に入り、同様に西欧の
民主主義も危機に瀕している。グローバリゼーションの下での、先進国を含めてのリストラ、失業、雇
用不安と社会保障の圧迫の波は、旧来会社主義・終身雇用制を取っていた日本のシステムまで破壊し始
めている。
1989 年の冷戦の終焉・体制転換から、EU 拡大後 5 年に至る 20 年間は、中・東欧の社会主義的パタ
ーナリズム(温情主義)を破壊しつつ推進された、EU 型ネオ・リベラルな「民主化」の達成過程であった。
だからこそ、失業者、年金生活者、女性、マイノリティなどからなる「社会的弱者」の不満が、この過
程で、新しく生み出されてきたのである。
グローバル時代の拡大EUの「民主化」の課題として、国内の下層の民衆の声を掬い取る「治者と被
治者の同一、成員の平等」を基礎とする「民主化」を、改めて検討する必要があるのではないか。
また国際社会の紛争地域に介入する「武力による民主化」、それを基盤とした「脅威に対する安全」
には、どのように対処すべきか。いずれも、重い課題を突きつけられている。
参考文献
羽場久美子・小森田秋夫・田中素香『ヨーロッパの東方拡大』岩波書店、2006 年。
羽場久美子『拡大ヨーロッパの挑戦―アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』中央公論新社、2004 年。
羽場久美子『拡大するヨーロッパ 中欧の模索』岩波書店、1998 年。
羽場久美子『統合ヨーロッパの民族問題』講談社現代新書、1994 年。
National and European Identities in EU Enlargement, Ed. by Petr Drulak, Institute of
International Relations, Prague, 2001.
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