32 2014 アイヌの宝物とツクナイ 関 根 達 人 はじめに アイヌの宝物には、役に立つがゆえに価値あるもの(イヨクペ)と豪華で素晴らしいもの(イコ ロ)がある。美しい金属で飾られた刀や矢筒など多くのイコロを所持する者がニシパ(ニシは「空」、 パは「上の・長」を表す)と呼ばれるように、イコロは威信財であった。 一般に宝物のうち、シントコと呼ばれる行器・耳盥・柄杓・蓋付の大椀・オッチケと呼ばれる膳 の上に並べられた4組の杯・天目台・棒酒箸などの漆器類は、アイヌの家屋のソパ(上座)近くの 北側の壁に沿って並べられ、刀類や矢筒は、削り房とともに後ろの壁に吊り下げられる。マンロー の記録によれば、トンペ(光り輝くもの)と呼ばれる金属装飾の施されたイコロは何の霊力もない 手で触ると魔除けの霊力が薄れると考えられ、わざわざくすんだまま屋内に安置されていた(小松 訳2002) 。アイヌの人々は時に宝物を身内にも内緒で山中に深く秘蔵した。特に「ベラシトミカムイ」 (「箆のついた宝器」の意)や「キロウ」 ( 「角」の意)と呼ばれアイヌの宝物のなかで最も重要とさ れる鍬形は、病人の枕元において災いを払うなどの霊力があり、家に置いておくと祟りをなすため、 普段は「地室に蔵し」 (新井白石「蝦夷志」 )あるいは「深山巌窟に秘蔵し安ずる」 (松前広長「松前志」) という。 アイヌの人々が宝物とした漆器も武器・武具類も基本的には和製品であり、しかも古体を示すも のほど貴ばれる傾向にあった。アイヌに伝わった漆器や刀類には、鎌倉・南北朝・室町時代に製作 されたものや、それを真似たものが少なくない(金田一・杉山1943)1)。こうしたアイヌの嗜好に ついて、小林真人氏は、 「アイヌ民族が衛府の太刀、打掛け鎧、行器などに接するのは、それらが 実際に使われていた時代であって、おそらくはアイヌ民族が土器文化を捨てるという大転換の過程 と深くかかわっていたであろう」との見方を提示した(北海道開拓記念館2001)。 擦文文化・オホーツク文化・アイヌ文化にみられる「ikor的存在」について検討した宇田川洋氏 は「ikor的存在」をとおして交易拠点・交易ルートが明らかになるとした(宇田川2003)。 本稿では、史料と出土品からアイヌの宝物にみられる武器・武具の実態を明らかにするとともに、 それらの製作・流通に関する仮説を提示する。 1 ⑴ アイヌの宝物 ① 史料に見る宝物 史料に現れたアイヌの宝とその社会的機能については、岩崎奈緒子氏による先行研究がある(岩 崎1998) 。 元文4年(1739)成立とされる「蝦夷随筆」 (寺沢・和田・黒田編1979)のなかで筆者の坂倉源次郎は、 アイヌが和製の古い器物すなわち鍔・目貫・小柄などの刀装具や古い蒔絵のある漆器を宝物として 秘蔵し、親子兄弟にも内緒で山中へ隠し置くなどすると記した。 寛政3年(1791) 、菅江真澄が松前を出発し有珠岳の登頂を経て虻田まで旅した際の日記である 『蝦夷迺天布利(えぞのてぶり) 』では、シラリカコタン(北海道八雲町)のウセツベというアイヌ の家に泊まった際、 「やかのくまに財貨といひて、こがね、しろがねをちりばめたる具ども、匜盤(耳 盥) 、 角盥、 貝桶などを、 めもあやに積みかさね外器(行器)をケマウシシントコとて酒を入れり」、 「そ びらの壁には、タンネツフといふ、いとながやかなるつるぎたち、あるいはエモシポ、シヤモシポ などの平太刀、頭巾、鉢巻をもまぜ掛たり」と記し、様々な漆器や刀類が宝器としてアイヌの家屋 内に置かれている様が述べられている(内田・宮本編1971)。 「蝦夷島奇観」や享和元年(1801)に東蝦夷地のトンベツ(十勝郡浦幌町)を訪れた蝦夷地御用 掛松平忠明随行の磯谷則吉が記した「蝦夷道中記」によれば、トンベツの長人シリメキシュは、年 を経て破損が激しいが、本州から伝来した緋威の打掛け鎧である美しい「霊鎧」1領を含む10数領 の鎧、他にタンネップ(飾太刀) ・エモシ(太刀)・鎌倉時代の行器・古様の黒漆塗り、金蒔絵の耳 盥を保有していた。 松浦武四郎の「蝦夷訓蒙図彙」 (秋葉編1997)では「土人宝物をトミカモイと惣称し、内地の刀 剣の具、また甲冑の類、是をとうとむこと甚し。其に次て行器、貝桶、耳盥、其余漆器惣而古きを 貴びて新しきは不悦」とあり、宝物をトミカモイと総称すること、漆器よりも武器・武具の価値が 高いと考えられていること、古いものほど価値が高いことなどが確認される。 羽後八森出身で、ノツケ・シベツ場所にて通辞や支配人を務めた加賀伝蔵の遺した記録類(「加 賀家文書」 )にある「安政四年 黒白正調書」には、ニシベツ川2)留網並びに領境論争において、子 モロ場所請負人の藤野家が河口に設置した張切網(留網)により川上に鮭が遡上しないことに難 渋したクスリアイヌが、ニシベツ川は天明の頃先祖が宝を差し出して川口まで子モロアイヌから買 い取ったとの主張とともに、クスリアイヌが子モロアイヌに渡した宝が列記されている(秋葉編 1989) 。 タン子ブ 六 クスリ村 タサニシ イムシホ 六 ヘケレニシ イムシウンヘ 六 イカヨフ 六 〆 2 タン子ブ 三 ケウニ村 タラケソ イムシホ 三 イムシウンベ 三 イカヨフ 三 〆 タン子フ 弐 タツコツ トミチャ イムシホ 弐 ヱウンベ 弐 イカヨフ 弐 〆 イムシホ 四 トウロ村 ラホチ タン子フ 四 ヱウンベ 四 イカヨフ 四 この史料によれば、クスリアイヌはニシベツ川の漁業権を買い取るために子モロアイヌにタン子 フ(太刀) ・イムシホ(短刀) ・イムシウンヘ=ヱウンベ(刀の鞘)・イカヨフ(矢筒)各15点を支 払ったと主張している。この主張に対し、子モロアイヌは川売買の件はクスリ側の作り話であると してアツケシ役所に訴え出た。それに対して詰調役喜多野省吾が安政4年(1857)3月に下した裁 定は、川売買の件については証拠がないと退けたうえで、クスリ小使メンカクシの祖父ペケレニシ が昔、銀細工太刀鞘1本と銀盃6個を子モロの四郎左衛門祖父イカシュンテに贈り、ニシベツ川筋 通りの管理を頼んだ事実を認定し、川口の張切網漁を禁止するもので、事実上子モロ側(藤野家側) の敗訴が確定した。この一件は、アイヌの宝物の中でも刀類や矢筒が、アイヌの生業の根幹をなす 河川の漁業権と対価交換されうるものであったことを示している。 また、ニシベツ川留網並びに領境論争のなかで、文化10年(1813)~天保4年(1833)頃の話と して、子モロアイヌのタミシナイが秋のうちにポンベツへ来て梁を仕掛けたところ、クスリアイヌ のコリタ・メンカクシ・ムンケケら3人のほか多くの人が番人と一緒にやってきて、タミシナイが ポンベツへ梁を設置したことに訴訟をもちかけ、ほかの場所へ梁をかけるとのことなので、仕方な く対価(アシンベ)として、ヱムシ(太刀)3本・銀覆輪のセツバ(鍔)3枚・銀細工のヱムシニ ツ(刀の柄)3本を差し出したことや、それが必要以上に過分な宝物であったことなどが述べられ ている。 なお、同じく加賀家文書の「シベツ名主宅蔵申口」には、クナシリ島のセセキという村の村長ト ベブシがシベツの有力者の娘に求婚する際、 「金拵ひ網引形の太刀」という宝物を婚資として出し たとの伝承が記録されており、岩崎氏によって紹介されている(岩崎1998)。 3 ② 伝承に残る宝物 アイヌの伝承には宝物がしばしば登場するが、特に釧路地方には、カツラコイ(釧路市桂恋)の 酋長キリボイエカシの家に代々伝わる白金黄金を鏤めた鎧、ウライケチャシ(釧路市春採チャシ) や布伏内チャシ(阿寒町ポンタッコブチャシ)の宝物、金の角をつけた甲を持ったトオヤ(釧路市 遠矢)の酋長カネキラウコロエカシなど甲冑を宝物とする伝承が多くみられる(宇田川1981)。こ れらのなかには「生きた刀」 ( 「妊婦を切った刀」 )で奪われた宝物を取り返えす話や「人喰いの刀」 で宝物を守ろうとする話も伝わっている。なかでも興味を引くのは、「トイチャシには釧路地方で 一番の大将の乙名がいて、春と秋に桂恋・昆布森・遠矢などのコタンにいる家来の乙名に熊皮や鷲 の尾羽などを持ってこさせ、 多く献上した者にはシャモ地(和人地)から渡ってきたタンネップ(飾 太刀)やテコロパチ(角盥)などの宝物をやった」とする松浦武四郎の「東蝦夷日誌」にも記され た釧路市トイチャシに関する伝承である。この伝承は、和製の太刀や漆器などの宝物を数多く入手 しうる者が、対和人交易品集荷システムの要としてアイヌの首長層の頂点に立っていたことを物 語っている。 ③ 出土した宝物 出土したアイヌの宝物としては、岩陰や地中に隠したと伝えられる鍬形が宇田川洋氏と瀬川拓郎 氏によって、兜が宇田川氏と福士廣志氏によって、鏡が宇田川氏によって検討されている(福士 1985、宇田川2003、瀬川2009、留萌市海のふるさと館2005)。 ここでは、筆者が実測と材質調査を行った北海道余市町大浜中遺跡・栄町1遺跡と札幌市北1条 西8丁目から一括出土した埋納品を取り上げ、アイヌの宝物の実態を確認する。なお、金属製品の 材質分析は、弘前大学所蔵のエネルギー分散型ハンドヘルド蛍光X線分析装置(DELTA Premium 日本電子)を用い非破壊非接触で行った。測定条件はX線管:4WRhターゲット、管電圧:40kV、 管電流:200μA(最大) 、X線照射径:10㎜、測定時間:20秒である。 【大浜中遺跡出土品】 北海道余市町大川町字大浜中に位置する大浜中遺跡は、大川遺跡や入舟遺跡のある余市川の河口 から東へ約2.2㎞、海岸線から80mほど離れた標高4m前後の低い砂丘(大川砂丘)上に立地する。 昭和26年(1951) 、登川の流路切り替え工事に伴い、地表下約60㎝から遺物が不時発見されたもの であり、出土状況の詳細は不明である。発見された遺物には、陶磁器・内耳鉄鍋・漆器・刀・刀装 具・永楽通寶を含む銭・鎧などがあったとされるが(松下1984)、発見後、工事関係者に持ち去ら れたものもある。現在、余市水産博物館には余市警察署に届けられたものや後日工事関係者から余 市町教育委員会が回収したものが所蔵されており、その一部が松下亘氏や佐藤矩康氏によって紹介 されているが、一部の遺物については後述する栄町1遺跡の遺物と一緒に保管されていたため、出 3) 土遺跡の表記に混乱が生じている(松下1984・佐藤編1990) 。なお、大浜中遺跡の出土品のうち、 刀・刀装具については廣井雄一氏、鎧については鈴木友也氏、陶磁器については、吉岡康暢氏と石 井淳平氏により各々詳細な報告がなされているが(佐藤編1990、吉岡2001・石井2003)、実測図が 4 公表されているのは、兵庫鎖太刀の足金物と陶磁器だけであることから、今回、陶磁器以外の遺物 について実測し、図面を掲載することとした。 大浜中遺跡からは、胴丸鎧・太刀や腰刀の刀装具・ニンカリ・矢筒もしくは鍬形の装飾用円形金 属板・中国産青磁・古瀬戸天目碗・漆器・内耳鉄鍋・永楽通寶が出土している。 胴丸鎧は、胸冠板・背面押付の冠板・脇冠板・杏葉・小札・鞐が出土しており、1領分とみられ る(図1の全体復元図に残存部位を、 図2に部位ごとの実測図を図示した)。胸冠板(1)は鏡地で、 薄い鉄板の上に菊唐草文を銀摺付象嵌した銅板を重ね、鍍金した銅製覆輪を巡らしていたとみられ るが、鉄板は腐食して失われている。鉄板と銅板は、上部覆輪寄りに打たれた鍍金された小桜鋲に よってからくり留めされ、その下には菖蒲文を銀摺付象嵌した横長の銅板を重ね、左右と中央の3 か所を二個一対の鍍金した菊笠の八双鋲で固定している。左右の山形のやや内寄りの部分には綿噛 から紐を通すための二個一対の孔が穿たれ鍍金の小刻と玉縁の鵐目が付けられている。背面押付の 冠板⑵も胸冠板同様、鏡地で、鉄板の上に菊唐草文を銀摺付象嵌した銅板を重ね、鍍金した銅製覆 輪を巡らしており、横一列に打たれた鍍金された小桜鋲によって鉄板と銅板をからくり留めしてい る。脇冠板(3・4・5)も基本的に胸冠板や背面の押付板と同じ作りや装飾である。杏葉(6・ 7)は、折曲げの自由をきかせるため、上下に分かれており、鍍金の銅製蝶番で繋がっている。杏 葉も冠板同様、鏡地で、薄い鉄板の上に菊唐草文を銀摺付象嵌した銅板を重ね、鍍金した銅製覆輪 を巡らしている。杏葉の上半中央には鍍金の銅製菊座据金物が打たれているが、それは打ち出しの 菊座を2枚重ねた上に小刻を2枚置き、それらを笠鋲で留めた造りとなっている。小札(14 ~ 32) は鉄製で、頭に切付を入れ、左右が丸くなる碁石頭の伊予札である。鞐(33)は銅製鍍金で、大き さからみて立挙と脇冠板を連結する脇鞐と考えられる。鈴木友也氏は、この胴丸鎧は銀摺付象嵌を 施した銅製鏡板を鉄板の上に重ねている点など特異な造りがみられるとした上で、製作時期を鎌倉 から南北朝と推定している(佐藤編1990) 。 太刀の刀装具には、大切羽・目貫・足金物がみられる(図3)。 1は銅製の木瓜形大切羽で、表面にのみ毛彫りで青海波文を施す。 2は銀の覆輪がかかる銅製の木瓜形大切羽で、四方に猪目を透かし、表面は魚子地にして左右に 高肉象嵌で銀桐文を配し、鍍銀を施す。 3は銅製の木瓜形大切羽で、四方に猪目を透かし、表面は魚子地にして上下左右に毛彫りで竜胆 文を施す。 4は太刀用の目貫で、銀製花形の座金と頂部を鍍銀した銅製の目釘からなる。 5は太刀用目貫の銀製花形の座金で、唐草と剣を透かし彫りし、表に鍍金が施されている。 6は厳物造太刀に付く兵庫鎖と足金物で、いずれも銅製で鍍金が施されている。足金物は瓶子形 で両面上下に羽根を広げた鶴文が高肉彫りされている。永仁7年(1299)の針書銘を有する重要文 化財「金銅装鶴丸文兵庫鎖太刀」 (熱田神宮蔵)に酷似する。 7は6と組み合う帯執の紋金具と思われ、足金物同様、銅製で羽根を広げた鶴の意匠がみられ鍍 5 残存部位 図 1 北海道余市町大浜中遺跡出土胴丸鎧復元図 6 ( 筆者作成 ) 1c 1e 1b 1d 1a 2b 2a 2c 3 4 5 8 6a 7a 6b 9 11 7b 6c 0 10 cm (1 ~ 7) 12 10 13 14 16 15 17 19 18 24 20 21 25 33 23 22 28 27 30 31 32 29 26 図 2 北海道余市町大浜中遺跡出土胴丸鎧 0 10 cm (8 ~ 33) ( 筆者実測 ) 7 1 2 5 4 3 7 8 6 9a 0 図3 北海道余市町大浜中遺跡出土刀装具 8 9b 10 cm (1 ~ 5,7 ~ 9 は筆者実測 6 は吉岡 2001 より転載 ) 金が施されている。 8は太刀用の双脚式の銅製足金物で、鍍銀が施されている。甲羅金は花弁形で、櫓金の座には花 形座・小刻座・堅菊座を重ねている。 9は腰刀の兜金(9a)と鏢(9b)で、銅製である。どちらも中央に猪目透かしを施し、上下 の鍬形状の縁を一段高くし、そこに鍍銀を施している。廣井雄一氏は類例として至徳2年(1385) 正月、前参議葉室長宗により春日神社に奉納された「菱作打刀」(国宝)を挙げ、石突(鏢)の先 が春日神社奉納刀よりやや細くなっていることから、それよりやや時代が下るとの見方を示してい る(佐藤編1990) 。 図4-1~4はニンカリである。材質は、銀製もの(4)と銅・錫・鉛・亜鉛の合金製のもの (1~3)がある。このようなΩ形のニンカリは、恵庭市カリンバ2遺跡第Ⅵ地点AP-5墓壙(恵 庭市教育委員会2000) 、厚真町オニキシベ2遺跡1号土壙墓・同3号土壙墓(厚真町教育委員会 2011) 、恵庭市ユカンボシE 4遺跡7号土坑(恵庭市教育委員会1997)からも出土している。カリ ンバ例は中国産白磁皿D群が共伴しており、15世紀後半から16世紀前半の年代が与えられる。オニ キシベ例は1号土壙墓に共伴した鍔形のシトキに加工された山吹双鳥鏡(12世紀後葉~ 13世紀前 葉)やAMS年代測定値からみて14世紀代の所産とみられる。ユカンボシ例ではオニシキベ例と同 様の鍔形のシトキが出土しており、近い時期の所産とみられる。 5と6は円形の薄い金属板で、矢筒もしくは鍬形に象嵌されていたものと思われる。 大浜中遺跡から出土した陶磁器(図5)は、 中国産青磁無文端反碗1点(1) ・同雷文碗1点(2) ・ 同蓮弁文碗2点(3・4) ・同端反皿3点(5~7)・同稜花皿2点(8・9)、古瀬戸天目碗(後 Ⅳ新)1点(10)がある。中国産の青磁碗4点は全て内底面(見込み)に茶筅擦れと思われるリン グ状ないし線状痕が認められる。碗が5点、小皿が5点と数が一致しており、小皿を天目台の代わ りに碗の下に置き使用した可能性が考えられる。なお、千歳市美々8遺跡(北海道埋蔵文化財セン ター 1996a・1996b・1996c)では茶筅と茶筅擦れのある中国産青磁碗E類が共伴して出土しており、 15世紀代には道央部のアイヌに喫茶の風習が伝わっていた可能性がある(関根2011)。大浜中遺跡 の青磁碗や天目碗はアイヌの人々が茶碗を宝器として扱っていたことを示しているのではなかろう か。 大浜中遺跡の一括出土品には、胴丸鎧や兵庫鎖太刀の吊金具など鎌倉時代に遡るものも含まれて いるが、埋納時期は陶磁器や永楽通寶からみて15世末頃とみられる。和人とアイヌの交易拠点とし て栄え、和人の居住も想定されている余市川河口の大川遺跡は、15世紀中葉には断絶を迎えており、 大浜中遺跡とは時期がずれる。 大浜中遺跡の性格については、 「本州北部地域の武士団の抗争の結果、敗れた武将が難を逃れる ため、ごく少人数である程度の財宝的なものを持ち、落人として現在の大浜中の海岸にたどり着い た址」とする説(松下1984)や、大川遺跡と併存するか、大川遺跡に取って代わった北方交易の拠 点とする説(吉岡2001)が示されている。松下説も吉岡説も大浜中遺跡の出土品は和人が残したも 9 2 1 3 4 0 2 cm (1 ~ 4) 5 0 10 cm (5・6) 図4 北海道余市町大浜中遺跡出土金属製品 10 6 ( 筆者実測 ) 1 4 3 5 2 7 8 6 9 10 0 図5 北海道余市町大浜中遺跡出土陶磁器 10 cm ( 石井 2003より転載 ) 11 のである点では共通している。しかしこれまでみてきたように、大浜中遺跡の出土品の中には銀製 のニンカリや象嵌用円形金属板などアイヌ民族特有の遺物が含まれることから、筆者は余市アイヌ が宝物を埋納した場所の可能性が高いと考える。 【栄町1遺跡出土品】 余市町栄町155に位置する栄町1遺跡は、余市川の河口から東へ約4㎞、史跡フゴッペ洞窟から は東へ約200mの砂丘上に立地する。昭和33年(1958)、畑の拡張作業中に遺物が不時発見された。 昭和37年7月に名取武光氏の指導により余市町教育委員会と余市町郷土研究会による発掘調査が行 われたとされるが、報告書は刊行されておらず、詳細は不明である(小浜・峰山・藤本1963)。本 遺跡から出土した遺物は松下亘氏や佐藤矩康氏によって紹介されているが、前述の通り、大浜中遺 跡出土品とのあいだで混乱が生じている(松下1984、佐藤編1990)。栄町1遺跡の出土品のうち、刀・ 刀装具については廣井雄一氏、白磁については石井淳平氏により各々詳細な報告がなされているが (佐藤編1990、石井2003) 、実測図が公表されているのは白磁のみであることから、今回、白磁以外 の遺物について実測し、図面を掲載することとした。 栄町1遺跡からは、太刀と太刀に伴う刀装具・腰刀とそれに伴う刀装具・白磁碗が出土している (図6) 。 1と2は太刀で、1には銅製の泥障形鍔・銅製の大切羽2枚・小切羽2枚・銅製の鎺・鍍銀を施 した銅製の柄縁金具・縁に鍍銀を施した銅製の鞘口金具などの刀装具が、2には銅製の細長い銅製 の木瓜形鍔が伴い、1の柄縁金具には銀メッキがみられる。 3は上下に突起を有する太刀用の縁金具である。 4と5は太刀用の目貫の座金で、透かしで花文が施されている。 6は腰刀用の兜金(6a)と筒金(6b)で、銅製鍍銀もしくは銀製である。 7は腰刀用の筒金で、7aには栗形が付く。材質は銅製で一部に鍍銀がみられる。 8は腰刀の兜金で、目貫(9a・9b)と組む。兜金は銅製で、側面を猪目透かしと高彫りした 菊枝で飾り、加えて菊花に金・銀のメッキを施している。兜金の先端には2か所に孔がみられ、そ のまわりに草文が毛彫りされている。対の目貫は大振りで、菊枝が透かし彫りされ、肉厚な菊花に は金・銀のメッキが施されている。 10は銅製の鐺で、側面と先端に葉文が高彫りされており、猪目の部分に金が部分的に残っており、 鍍金されていた可能性がある。 11はいわゆる口禿の白磁碗で、見込みに花と思われるスタンプ文を有する。13世紀後半から14世 紀前半の中国製品である。 以上、栄町1遺跡から出土した遺物は、おおよそ14世紀代に収まるものである。複数の太刀や腰 刀が出土しており、アイヌ墓がいくつか存在した可能性も否定できない。しかし8の腰刀は、鎌倉 末期の代表的作品として知られる毛利家伝来の国宝「菊造腰刀」(毛利博物館蔵)に匹敵する優品 で、イコロと呼ぶにふさわしいものであり、砂地でありながら人骨が発見されていないことも考慮 12 1a 1b 4 3 2 0 10 cm 5 (1・2) 6b 6a 7a 9a 7b 9b 8 10 11 0 0 10 cm (11) 10 cm (3 ~ 10) 図6 北海道余市町栄町1遺跡出土遺物 (1 ~ 10 は筆者実測 11 は石井 2003 より転載 ) 13 し、アイヌの人々が宝物を埋納した場所と考えたい。 【札幌市北1条西8丁目出土品】 北海道大学植物園博物館には明治20年(1887)に現在の札幌市北1条西8丁目から出土した鍬形 (標本番号33188)星兜(同33189) ・大鎧の脇冠板と思われる破片(同33187)が所蔵されている(図 7)4)。 1と2はともに鍬形であり、同じ標本番号(33188)が付与されているが、別個体である。1は 北海道内出土の鍬形を集成した宇田川氏や瀬川氏も取り上げているが、2は全くの未公表資料であ る(宇田川2003・瀬川2009) 。1の本体は木胎鉄板貼で、飾金具・角の先端を覆う金具・覆輪は銀 である。胴の中央には長形10.8㎝・短径10.3㎝の縦長の銀製円板の左右を鋲留めし、その上の左右 に直径2.5㎝の銀製の小円板を象嵌する。左右とも角の付け根には直径3.5㎝の銀製円板が象嵌され、 その先には幅0.9㎝前後の帯状の銀板2条と直径2.5㎝の銀製小円板を交互に4組配置する。角の先 端の金具は、表は全面を覆うが裏側は縁の部分のみ覆っている。二股に分かれた角の先端には小さ な孔があり、角にソケット状に差し込んだ先端の金具は鋲留めされていたことが判る。2は1とは 違い厚みのある鉄を本体とし、銀製の覆輪がかけられている。表面には中央を鋲留めした直径2.5 ㎝と1.5㎝の銀製の小円板が残っている。なお、これらの銀製小円板とは別に2には直径7.5㎝の鉄 製の円板が付着しているが、この鉄製円板は偶然鉄錆により付いたもので、本来は別の製品の部材 であったと考えられる。2についても1と同じく鍬形と考えられるが、管見の限りではこのような 形状のものは類例を知らない。 3は矧板鋲留式の12間星兜の鉢で、長径約21㎝、短径約20㎝、高さ14.1㎝である。眉庇は失われ ているものの、全体の形状をとどめている。形状は膨らみの少ない大円山形で、腰巻の裾がわずか に開く。矧板を留める鋲は鉄の塊を削って作った無垢星で、星の数は1行6もしくは7点とみら れる。頂辺の座中央の孔は直径約4.5㎝である。本資料は、北海道留萌市エンドマッカ(現塩見町) から出土した星兜(福士1985)とよく似ており、ともにその特徴から平安時代後期から末期に製作 されたものとみられる。 4は大鎧の脇冠板の残欠と思われる。鉄地で内面に皮革が残存しており、銀の覆輪がかけられて いる。角に近い部分に紐通し用の孔があり、玉縁の銀製鵐目が付けられている。 以上、札幌市北1条西8丁目出土品は平安時代後期から末期に製作されたとみられる厳星兜と大 鎧の残欠、2点の鍬形からなり、アイヌの人々が宝器を埋納した場所と考えられる。鍬形の製作時 期は特定できないが、埋納時期は中世以前の可能性が高いように思われる5)。 アイヌの人々が土中に埋納したと考えられる宝物類が一括出土した事例としては、本稿で取り上 げた3ヶ所以外に、28間星兜をはじめ小札・蝦夷太刀3点・腰刀2点・日本刀1点・笄・ニンカリ などが出土した深川市納内遺跡例(葛西・皆川・越田1992)、12間厳星兜をはじめ胴丸の杏葉・青磁碗・ 「青龍刀の如き刀」が出土したと伝えられる留萌市エンドマッカ例(福士1985)、兜の眉庇・刀・鍔 が出土した足寄町トブシ例(宇田川校訂1983) 、鍬形7点が一括出土した栗山町桜山例(東京国立 14 2 0 10 cm (1・2) 4 1 3 0 図7 北海道札幌市北1条西8丁目出土遺物 10 cm (3・4) ( 筆者実測 ) 15 博物館1992、横田2002、瀬川2009) 、星兜・胴丸の残欠・太刀が出土した釧路町頓化鉄道院用地例(東 京国立博物館1992)がある。 ⑵ ツクナイ・手印としての宝刀 ツクナイとは日本語の「償い」に由来し、アイヌが他のアイヌや和人に与えた損害や犯した罪に 対し、宝物をもって賠償する行為と説明されることが多い。しかし差し出された宝物は必ずしも賠 償品として相手側に没収されるのではなく、一定期間相手側に留め置かれた後、事態が解決・回復 したと判断された段階で返されることを原則とする点が和人社会の「償い」と異なる。また、契約 の際、その証拠として相手に宝物を渡し、約束が果たされるまで預け置くことを「手印」という。 ツクナイも手印も差し出される宝物は一種の「担保」に近い。ツクナイや手印については菊池勇夫 氏や岩崎奈緒子氏による優れた先行研究があり、近年では渡部賢氏がシャクシャインの戦い終結に 際してのツクナイと起請文について論証を行っている(菊池1991、岩崎1998、渡部2007)。岩崎氏 はアイヌのツクナイに用いられる宝物の筆頭に挙げられるものが刀剣類であると指摘した。ここで は先行研究に学びつつ、ツクナイや手印として出された宝物の実態を中心に検討する。 ① シャクシャインの戦いに伴うツクナイ 永正12年(1515)のショヤ・コウジ兄弟の蜂起、享禄23年(1529)のタカサカシの蜂起、天文 5年(1536)のタリコナの蜂起などシャクシャインの戦い以前の和人対アイヌの抗争や、天文19 年(1550)の勢田内ハシタイン・志利内チコモタインとの和睦では、和人(蠣崎氏)側が宝物を用 意してアイヌに見せるか、償いを出すなどしており、アイヌの側が和人からツクナイを要求された のは、シャクシャインの戦いが初めてであるとした菊池勇夫氏の指摘は非常に注目される(菊池 1991) 。 「蝦夷蜂起」や「寛文拾年狄蜂起集書」 (高倉編1969)によれば、松前藩は、シャクシャインの戦 いの戦後処理として、東西蝦夷地のアイヌに、ツクナイを出さなければ商船を派遣しない旨通告し たうえで、 「自然ツクナイ出申間敷はふみつぶし可申候」と脅迫した。アイヌから提出されたツク ナイの詳細は不明だが、高値になるものとして、「ヱモシポ二腰、こまき作り壹腰、壹腰はさやし たん、壹腰はしんちうにてけほりに魚類ほり候由。めぬき雉子、下地銀、上金ながし、見事に見得 申候由」とあり、紫檀製の鞘に入った短刀や、魚の文様を毛彫りした真鍮製の鞘に入った短刀、銀 地に金メッキした雉子形の目貫など和製の上手の刀類が含まれていたことが判明する。なお、こま き作りは小柾作りであり、アイヌが製作する彫刻を施した木製の鞘に入った刀のことと思われる。 ② クナシリ・メナシの戦いに伴う手印 寛政元年(1789)5月飛騨屋久兵衛の請負場所で起きたクナシリ・メナシの戦い鎮圧のため松前 藩が派遣した新井田隊は、 「攻戦」のみでなく「潔白の理談」による鎮定を方針とし、手印を取り 交わしながら、道東・クナシリの乙名層の協力を取り付け、鎮圧後には彼ら松前藩に御味方したア イヌの乙名層に「徒党」アイヌが差し出した手印を預け、地域の平和秩序の回復を委ねたとされる 16 (菊池2010) 。 新井田隊が閏6月7日に十勝川河口のオホツナイ(豊頃町大津)に到着した際、メナシおよびト カチ地方のアイヌの首長層から、南部下北大畑湊村出身でアイヌの蜂起により負傷した大通丸水主 庄蔵を通して鎮圧隊に差し出された手印が、松前藩鎮圧隊番頭新井田孫三郎が著した「寛政蝦夷乱 取調日記」 (高倉編1969)に記載されている。 一、銀覆輪二枚鍔壹枚 のつかまふ ヲヒヌカル 一、銀覆輪貮枚鍔壹枚 同所 但し桐の模様 ニサフロ 一、銀覆輪貮枚鍔壹枚 同所しやもこたん 但し猪の獅子模様 ノチクサ 一、粕尾壹把 のつかまふ シツタフカ 一、ヱモシ壹振 同所 シヨンコ 一、金覆輪鍔壹枚 あつけし 但し菊のすかし リミシアイヌ 一、ヱモシポ壹振 とかち 但し竿添 シヤムクシテ 一、ヱモシ壹振 しらぬか 但し銀地にてともゑの模様 チヤラアイヌ 一、ヱモシ壹振 ちうるい 但し至て古物 セントキ 上記の手印のうち、ちうるいの首長で和人殺害の首謀者の一人とされたホロメキの息子セントキ だけは負傷した庄蔵を助けた「印」として差し出したものだが、他のアイヌは松前藩に御味方する ことの証として手印を提出している。手印の内訳は、鍔4枚、ヱモシ(太刀)3振、ヱモシポ(短 刀)1振、粕尾(矢羽根の素材であるオジロワシの当歳の尾羽根)1把(1把=10尻=120枚)で、 鍔が最も多い。銀覆輪二枚鍔とあるのは、 銀覆輪の銅製鍔と同じく銀覆輪の銅製大切羽のセット(本 論の図参照)であろう。手印として差し出されたこれらの鍔は、金や銀の覆輪や文様・透かしが施 されており、上手の和製品とみられる。なお、これらの手印は鎮圧後に返還されている。 一方、 「寛政蝦夷乱取調日記」と加賀家文書の「安政四年 黒白正調書」には、クナシリ・メナシ の戦い鎮圧後にお詫びのために手印を差し出したアツケシ7名・ノツカマブ6名・クナシリ6名、 計19名のアイヌの名前と差し出された品名が記されている(「安政四年 黒白正調書」にはニサフロ の記載がない) 。 17 一、タン子フ一振 アツケシ土人 エコトヰ 一、ニシヤハヤレヰモシホ一振 同人母ヲツケニ ウタヨハケ 一、同一振 シモチ 一、タン子フ一振 イニンカリ 一、カニウエヱモシホ一振 シウチヤシクル ウタヲハケ 一、タン子ブ一振 ニシコマツケ 一、エモシホ一振 エツトルカ 一、タン子ヱモシホ一振 ノツカマブ土人 シヨンコアヱノ 一、タン子フ一振 ノチクサ 一、エモシホ一振 ニサフロ 一、エモシホ一振 ホロヤ 一、シャヒシエモシホ一振 コヱカアヱノ 一、カテカ子エモシホ一振 ハシタアヱノ 一、タン子ヱモシホ一振 クナシリ土人 ツキノヱ 一、同一振 カンタク 一、エムシ一振 ウテクンテ 一、同一振 イコリカヤニ 一、同一振 シコシヤク 一、同一振 トヘウシ この史料から、クナシリ・メナシの戦い鎮圧後にアイヌから差し出された手印は全て刀類である こと、アツケシ乙名のイコトイとニシコマケ・ノツカマフ乙名のシヨンコ・クナシリ惣乙名のツキ ノエ・アツケシバラサン乙名のイニンカリ・シヤモコタン乙名のノチクサといった乙名層からはタ ン子フ、すなわち金物拵の太刀が、アツケシ脇乙名のシモチ・クナシリ脇乙名のイコリカヤニから はエムシ、すなわちアイヌ自製の木製の拵に入った刀が、それ以外の人々からはエモシモ(短刀) が差し出されており、刀類には価値の高いものからタン子フ・エムシ・エモシモの序列があること が確認できよう。 注目すべきは、前述した鎮圧隊が現地入りする前にアイヌから御味方の証として提出された手印 が鍔を主としていたのに対して、賠償の意味合いが強い鎮圧後の手印がすべて刀類となっている点 である。差し出された19振の刀類は松前藩に「永く御留」されたとあり、事実上没収されたとみら れることも、象徴的ではあるにせよ刀狩り(武装解除)的意味合いがあったことが読み取れよう。 ③ その他のツクナイ 寛政2年(1790)の「蝦夷国風俗人情の沙汰」 (高倉編1969)のなかで最上徳内は、ラッコ皮・鷹の羽・ 18 アシカ・アザラシ・熊皮・熊膽・ヱブリコ(万能薬となるサルノコシカケ科の多年生菌)等の課税 役人( 「上乗」 )として松前藩からアツケシに派遣されていた松井茂兵衛が、クナシリ産の偽の熊膽 を巡って通詞の林右衛門に入牢を命じ、林右衛門救出のため、アツケシの惣乙名イコトイをはじめ とする近郷近在の乙名達がツクナイとして差し出した「山中へ深く埋め或は古木の朽たる椌へ入れ 秘蔵せし陣太刀、鞘巻の太刀、合口、短刀、其他宝物」など「此處の善き宝物」を全て自分の物と し、松前に戻ったのち松井茂兵衛がそれらを売り払い大金を得たことを、批判的に記している。そ の中には1振30両にもなった陣太刀があったとも述べられている。 余市の場所請負人であった竹屋の「林家文書」にある天保14年(1843)の「詫一札之事」と題す る古文書(駒木根2009)は、運上屋以外の出稼和人と、自家用のニシン・ニシンの白子・数の子・ 笹目(ニシンの腸と鰓が混ざった乾燥品)の商取引をした下ヨイチアイヌが運上屋に出した詫び証 文で、謝罪の証拠として差し出された具体的な品々が判る貴重な史料である。史料によれば、科人 の乙名ヲシトンコツから銀拵イカエフ(矢筒)1・銀拵イムシ(太刀)2・イムシ(大小取合)4 の計7点、科人の母ケウシから銀フクリン(覆輪)の鍔?、脇乙名イコンリキ・小使ホフイ・産取 で科人の弟レフン・産取イヌヌケ・産取ヌケクル・平夷人チ子ヘカの5名からは各々鍔1枚、小使 カ子ヤからはイムシホ(短刀)1点、産取タサラからはイムシ(太刀)1点、産取ヒラトモからは イカイフ(矢筒)1点がツクナイとして問題解決までの間、運上屋に預け置かれている。ここでは、 ツクナイが科人本人のみならず、所属する共同体全体の連帯責任として役夷人を中心に提出されて いることと、家宝の中でも太刀・短刀・鍔・矢筒が選ばれている点、銀拵・銀装のものが一定量認 められる点を確認しておきたい。 以上、いくつかの史料からツクナイ・手印の対象となる宝物について検討した。史料的制約から アイヌの人々のなかで取り交わされるツクナイの中身については不明とせざるを得ないが、アイヌ から和人に対して差し出されるツクナイ・手印の大部分は刀類であり、鍔と矢筒がこれに次ぎ、漆 器は皆無に近いことが判明した。 和人を相手に行われたツクナイや手印は、賠償・弁償から忠誠・服従の証明、さらには約束手形 的なものまで多様だが、当事者に加え連帯責任としてその者が所属する共同体の指導者層が負担す るものであること、宝物の中でも刀類が特に選ばれることが特徴としてあげられる。 ⑶ アイヌの刀をめぐる習俗 アイヌの人々は刀類や刀装具を時に呪術的な力を持った道具と考えていた。メッカ打ちや、ニウ エンと呼ばれる呪術的な舞踏行進では刀が重要な役割を果たしている。 メッカ打ちとは、死者の近親者の額(地方によっては頭または背)をエムシ(太刀)の背で血の 出るまで打つ行事で、弔い客も同様に打たれるという(河野1951)。メッカは背(刀背)を意味す るアイヌ語のmekkaに由来し、その目的は、身体についた悪神を払うことという。享保5年(1720) 完成の新井白石の「蝦夷志」に登場し、 寛政11年(1799)成立とされる秦檍麿筆「蝦夷島奇観」(東 19 京国立博物館蔵)にはメッカウチの図(萱野編1995の18頁)がみられる。なお、松田傳十郎の『北 夷談』にはアツケシの惣乙名イコトイがあちこちでチヤアランケ(「公事喧嘩」)を仕掛け、メッカ 打ちをして負けた側から償いとして、刀・脇差・袴・塗ものの類などの宝物を差し出させたため、「東 地一番の宝持」と称するとの記載が見られる。これについては久保寺逸彦氏が指摘するように、和 人が太刀によるメッカ打ちとスッと呼ばれる棍棒による制裁を混同し、またスッ打ちが興行化され ていたことを物語る(佐々木編2001) 。 また、凶事における悪霊退散や遠くから帰ってくる舟を迎える場合などに行われる呪術的な舞踏 行進(ニウエン)では、 男たちが抜身の太刀を振りかざし力を込めて足を踏みしめながら行進する。 また、舟上でも太刀や鑓を抜き放ち掛け声激しく船を進める。ニウエンもまた、秦檍麿の「蝦夷島 奇観」に図(谷本2000の229頁)がみられ、メッカ打ち同様、和人の眼に奇異に映る風習であった。 ウケウェホムシュとも呼ばれるニウエンの起源は古く、正平11・延文元年(1356)成立の『諏訪大 明神絵詞』には蝦夷が千島に戦場に臨む際に甲冑に身を固めウケウェホムシュを行う人々が住んで いたと記されている。 ⑷ 蝦夷拵の太刀・腰刀の製作と流通 日本刀とは著しく異なる蝦夷刀について、18世紀に書かれた蝦夷地に関する紀行文などには、カ ラフト産とする見方がみられる。例えば、古いところでは、元文4年(1739)成立とされる「蝦夷 随筆」 (寺沢・和田・黒田編1979)のなかで筆者の坂倉源次郎は、「ヱグシ蝦夷細工にてはなし。カ ラフト渡りなり。銀の多き所か大方銀のがざりにて、獣草などの彫物あり。刀は八、九寸ばかりあ りて赤さびになりてあり。夷殺害の事なき故刀を磨くこともなく、宝物として秘し置故なり」と述 べ、銀拵の蝦夷太刀がアイヌ自製のものではなく、カラフト産との見方を示している。その一方で 俗に 「蝦夷後藤」 と呼ばれる手の込んだ刀装具については、昔、畿内の戦乱を避け近江から松前に渡っ た金工家の後藤一門がアイヌ向けに製作したもので、今では松前やその周辺からは姿を消し、山奥 のアイヌが稀に伝世品を所持していると述べている。天明8年(1783)に幕府巡見使に随行して松 前に渡った古川古松軒も、 「東遊雑記」 (大藤編1964)のなかで、「太刀も数多あることにて、何れ も北方の遠き島より前まえは渡りしものと見えて、制の違いあり」と述べ、多様な蝦夷太刀すべて がカラフト産との見方を示している。 確かに、ヴェリュの「世界図」 (1562年)やオルテリウスの「太平洋図」(1589年)では北海道島 がIsla de Plata(銀の島)と表記され、オランダ東インド会社の金・銀島探検計画により1643年に 北海道島太平洋・オホーツク海沿岸・南千島・樺太南部の東海岸を周航したフリース船隊の航海記 録(北構1983)には、カラフト(サハリン)島タライカ湾沿岸やウルップ島で、原住民が銀拵の刀 を所持しているとの記載がある。しかし、実際にはカラフト(サハリン)島はもちろん、沿海州に おいても金物装飾に富むタイプの蝦夷刀が製作された痕跡は全く確認できない。 一方、田沼意次政権による天明5・6年(1785・86)の蝦夷地探検隊の見聞記録である「蝦夷拾 20 遺」では、蝦夷太刀はみな本朝の衛府の太刀鞘巻あるいは山刀などの古物で、およそ刀身は失われ ており、 「蝦夷後藤」と呼ばれる金具は古代の江州彦根の柳川製のように見えるとし、さらに今エ ムシとしてアイヌの人々に渡しているのは「松前及秋田淳代等の麤鍛冶が作りたる鈍鍛ひなり」と 述べられている。琵琶湖の湖畔に位置する柳川は、松前に進出した近江商人の主要な出身地であり、 その意味では蝦夷地との繋がりは深いものの、柳川で「蝦夷後藤」と称されるような上手の刀装具 が生産されていた形跡は全く確認できず、その可能性は低いといわざるを得ない。それに対して18 世紀代に松前や日本海交易で栄えた秋田や能代でアイヌ向けに下手の刀や刀装具を製作している可 能性は高い。 結論から言えば、木製・樹皮巻の鞘や柄などの拵やそれに付く金属板を少し加工した程度ででき る金物類はアイヌの人々の手になるものだが、平造りを特徴とする刀身は勿論、鍔をはじめとする 金属製の刀装具の大部分は、和製と考えるべきである。しかし、問題はそれが和製だとしても、日 本国内のどこで作られ、どのようなルートでアイヌの人々の手に渡ったかである。その答えはウイ マムと呼ばれる藩主への御目見儀礼やオムシャと呼ばれる会所で行われた下賜・支給儀礼に求める ことができよう。 松前藩のウイマム(御目見)について検討した菊池勇夫氏は、「松前主水広時日記」にある事例 を挙げ、アイヌ乙名層の代替わりの際の御目見において行われる松前藩主とアイヌとの間に刀の献 上・下賜のやり取りが、アイヌの松前藩に対する忠誠と松前藩による乙名としての認知が相互に確 認されたと指摘する(菊池1991) 。菊池氏が例として挙げたのは元禄5年(1692)5月29日のアツ タ酋名(乙名)シモタカ犬と同年6月2日のナコタラヘのモネヅシ・オサルシモの御目見で、どち らもアイヌからは手印として小柾作り(アイヌが製作する彫刻を施した木製鞘に入った刀と思われ る)1振が献上され、藩主(松前矩廣)からはエモシポ(短刀)が下賜されている。 領内に住むアイヌのウイマム(御目見)の際、盛岡藩や弘前藩でも同様の蝦夷刀の下賜が行われ ていたことを筆者も指摘したことがある(関根2007a・2007b)。寛文5年(1665)7月に行われた 南部領下北アイヌの「御目見」では、盛岡藩主から「夷太刀」が下賜されており(盛岡藩雑書: 『青 森県史』資料編近世1の421頁所収) 、弘前藩でも享保9年(1724)2月17日、5代藩主津軽信寿が 弘前城の武具蔵より「犾刀二腰」を取り出させ手元に置いたとの記事が藩庁日記(国日記)に見ら れる( 『青森県史』資料編近世1の557頁) 。いずれも藩が領内の本州アイヌを支配する道具として、 「犾装束」の最も重要な要素である蝦夷拵の刀を管理し、時に下賜していたことを示している。 武家社会では主従関係を確認する御目見の際、刀剣類の下賜は一般的にみられる行為であり、藩 主からアイヌの乙名層への蝦夷刀の下賜もその延長線上に位置づけられよう。しかし、ウイマムは 本来、異なる社会集団や民族間での儀礼的要素を含んだ交易や贈答であったわけで、近世幕藩体制 成立以前、あるいは成立以後も、和人とアイヌの関係性が大きく変わるシャクシャインの戦いまで は、アイヌの人々は刀類(日本刀を含む)をそうした交易や贈答という形で和人から入手していた と想定できよう。シャクシャインの戦い以降、アイヌの人々が日本刀を入手する機会は失われた。 21 蝦夷刀の場合、時代を遡れば遡るほど交易に近く、時代が下るにつれ贈答儀礼的意味合いが強くな り、最終的にウイマムやオムシャの際の下賜という形が定着したのではなかろうか。実際、蝦夷地 交易品目のなかに刀類はほとんど確認できず、管見では松田傳十郎『北夷談』(大友1944)で山丹 交易における蝦夷刀の交換比率が、蝦夷刀1振=北蝦夷地産貂皮9枚=米18升と示されているのを 確認したにとどまる。シャクシャインの戦い以降は、基本的に蝦夷刀が純粋な商品(交易品)とし て一般流通することはなくなった可能性を指摘しておきたい。 一方で、藩主松前家や松前藩の重臣が蝦夷刀を保持していたことを示す資史料はウイマム(御目 見)に関する史料以外にも存在する。 伝世品としては、越後黒島の阿部家に伝わった蝦夷拵腰刀(新潟市指定文化財)が挙げられる。 この腰刀は、柄全体と鞘の両端を桐と鳳凰を高彫りした銀板で包んだ典型的な蝦夷拵の腰刀で、江 戸後期の阿部家の当主良伯の実弟が松前藩医を務めた際に下賜されたものという(新潟市2002)。 寛政10年(1798)に近藤重蔵・村上島之丞らとともに北方探検をおこなった水戸藩医師木村謙次 (1752-1811)の「北行日録」 (山崎編1983)には、「厚谷新下蝦夷後藤刻刀飾ノ器ヲ示ス、牡丹彫 金ノスリハゲ銀ノ色ヲアラハシタルモノナリ」との記述がみられ、松前藩の近侍番頭や奥用人を務 めた厚谷新下貞政が「蝦夷後藤」と称される牡丹文が高彫された上手の銀製刀装具を保持していた ことが判る。 江戸時代には、本州でそうした蝦夷刀や蝦夷拵を製作していた形跡は全く確認できていないこと から、それらの主たる生産地は松前城下と考えるのが妥当であろう。青森市浪岡城跡や青森県八戸 市根城跡からは蝦夷拵用と思われる質の劣る太刀鍔の鋳型が発見されており(関根2007a・2007b)、 戦国期には道南の松前・上之国・下之国周辺に加え、北奥の主要な中世城館やその城下でもアイヌ 向けの刀や刀装具が作られていたとみてよいだろう。一方、京で作られた上手の刀装具は、日本海 交易によって北海道島や北奥に運ばれた後、アイヌの人々によって蝦夷拵に組み立てられたとみら れる。 おわりに アイヌの人々が本州から渡来した古い武器・武具やそれを写したものを宝物として珍重し、時に それらの道具が社会の様々な問題を解決する術として機能する様は、アイヌ社会を観察する機会を 得た和人の眼には奇異に映ったようであり、紀行文などに記録された。 一方、中世の和人社会においても、中国産の倣古銅器や高級陶磁器類が座敷飾りや茶道具として 珍重され、大名物の茶道具に破格の値が付き、武功に対する恩賞となるなど、特別な扱いを受けた。 例えば、日本社会では、鎌倉時代以降ずっと中国産の天目茶碗に対する需要があり、中国で天目茶 碗の生産が衰退した明代以降も中国から宋や元代に作られた古物が輸入され、あるいは瀬戸窯など で古い唐物天目碗を模した製品が作られ続けた。それは本州で武器・武具としての太刀や大鎧・胴 丸が廃れた後も、アイヌの人々がそれらを求め続けた姿に重なる。日本の武家社会が宋風の宗教文 22 化に根差した唐物を良しとしたように、アイヌ社会では中世前期の和製武器・武具が好まれ続けた。 本稿では、和人によって書き留めた古記録類や出土資料を通してアイヌの宝物の頂点に和製の武 器・武具やそれを写したものがあり、それらはアイヌ社会の中で、あるいは和人との関わり合いの 中で、集団関係を円滑化する機能を持っていたことを確認した。そうした価値観は、出土品からみ てアイヌ文化成立期にまで遡る可能性が高く、古記録から19世紀に至るまで長く保持され続けたこ とが判明する。 本稿では、アイヌの刀類は、彼らの手になる木製あるいは金属板に簡単な加工を加えた刀装具を 除き、基本的に和製であり、古くは交易品であったが、時代が下るにつれ贈答儀礼品となり、最終 的にはウイマムやオムシャの際の下賜品になったとの見方を示した。また、京で作られた上手の製 品を除き、蝦夷刀・蝦夷拵の主たる生産地は、中世には上之国・下之国や津軽・南部といった津軽 海峡周辺域、近世には松前城下と推定した。今後、松前城下の発掘調査が進み、松前での金属加工 の実態が解明されることを期待したい。 【謝辞】 本研究は関根を研究代表者とするJSPS科研費22242024の助成を受けたものです。 大浜中遺跡・栄町1遺跡出土品の調査では乾芳宏氏(余市町教育委員会)に、札幌市北1条西8 丁目出土品の調査では加藤克氏(北海道大学北方生物圏フィールド科学センター)に、それぞれお 世話になった。史料の解読には小田桐睦弥さん(弘前大学特別研究員)からご教示を得た。図版作 成にあたっては舛谷顕一氏(弘前大学卒業生)と佐藤里穂さん(弘前大学大学院生)の協力を得た。 末筆ではありますが、記して感謝申し上げます。 【註】 1)例えば東北歴史博物館が所蔵する杉山寿栄男氏旧蔵の重要文化財「白長覆輪太刀」は北海道沙流郡で、 同じく「銀蛭巻太刀」は樺太の東多来加(現ロシア連邦サハリン州ポロナイスキー区プロムィスロヴォー エ)で収集されたものである(東北歴史博物館2001) 。 2)摩周湖南東の西別岳に源を発し根釧台地を経て別海でオホーツク海にそそぐ西別川はサケの名産地と して知られ、そこで獲れるサケは「西別鮭」として評価が高い。 3)栄町1遺跡で刀や鎧が出土したとの報を受けた名取武光氏が調査を行ったが、出土状態に不自然さを 感じた沢口清氏が第一発見者に確認したところ、正式な調査前に発見されたとされる「刀と鎖、鎧」は 実は大浜中遺跡から発見されたものであることが明らかになったという(佐藤1992) 。 4)星兜と鍬形の出土地については加藤克氏の詳細な検討により、札幌市北1条西8丁目であることが突 き止められた(加藤2001)。 5)アイヌの鍬形の編年を行った瀬川拓郎氏は、アイヌの鍬形は17世紀に成立したとし、札幌市北1条西 8丁目出土の鍬形(本論図7-1)の年代をⅢ群(19世紀前半)としている。瀬川氏の考えが正しいと 23 すると、この鍬形は作られてから明治20年(1887)に発見されるまで、50年前後しか土中になかったこ とになる。また、その場合、一緒に掘り出された12間厳星兜(図7-3)や大鎧の脇冠板(同4)とは 年代があまりにかけ離れ、到底一括埋納資料とはみなせなくなる。しかし同じ場所から同時にこれらの 宝器が出土している以上、一括埋納遺物とみるのが自然である。瀬川氏は材質について銅と亜鉛の合金 である真鍮から鉄へ変化したとし、真鍮の国内生産が始まる17世紀を上限としているが、筆者はこの考 え方に反対である。鍬形に限らず、17世紀以前のアイヌの金属製品には刀子にしても矢筒にしても鉄地 に銀で装飾したものが多くみられることから、鍬形に関しても札幌市北1条西8丁目出土の鍬形(本論 図7-1・2)のように鉄地や木胎鉄板貼りに銀象嵌のものが古く、真鍮製のものが新しいと考えるべ きである。 【引用文献】 青森県2001『青森県史』資料編近世1(近世北奥の成立と北方世界) 秋葉 実編1989『北方史史料集成』2(加賀家文書) 、北海道出版企画センター 厚真町教育委員会2011『オニシキベ2遺跡』 石井淳平2003「栄町遺跡・大浜中遺跡出土の中世陶器について」 『余市水産博物館研究報告』6、1〜6頁 岩崎奈緒子1998『日本近世のアイヌ社会』、校倉書房 宇田川洋1981『アイヌの伝承と砦』、北の教養選書3、北海道出版企画センター 宇田川洋校訂1983『河野常吉ノート』考古編2、北海道出版企画センター 宇田川洋2003「アイヌ文化の形成過程をめぐる一試論」 『国立歴史民俗博物館研究報告』107、217 〜 250頁 内田武志・宮本常一編1971『菅江真澄全集』2、未来社 恵庭市教育委員会1997『ユカンボシE4遺跡』 恵庭市教育委員会2000『カリンバ2遺跡第Ⅳ地点』 大友喜作1944『北夷談・北蝦夷図説・東蝦夷夜話』、北光書房 葛西智義・皆川洋一・越田賢一郎1992「深川市納内遺跡出土の遺物について」 『北海道考古学』28、北海道 考古学会19 〜 35頁 加藤 克2001「北海道大学農学部博物館所蔵考古学資料 ⑴」 『北大植物園研究紀要』1、北海道大学北方 生物圏フィールド科学センター植物園、19 〜 34頁 萱野 茂編1995『アイヌ民族写真・絵画集成』1(祭礼) 、日本図書センター 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ら,歷史學的に重要な情報を提供することを目的とする(なお,前稿との比較參照の便に鑑み,節 番號は前稿から連續させている) 。 5.莫高窟第409窟の「ウイグル王」供養人像の傍題 敦煌の歷史において,西曆11世紀初頭~中葉を,敦煌(沙州)がウイグル勢力に支配されていた 時期すなわち「沙州ウイグル期」として畫期することは,歷史學・美術史雙方の立場からほぼ承認 されている。しかし,この「沙州ウイグル」が,東部天山地方を據點とする西ウイグル王國の傘下 にあった集團であったか,それとも西ウイグルから獨立した一王國を形成していたのかという點に ついては,學界ではなお論爭が續いている。 「沙州ウイグル」という槪念をはじめて提唱した森安孝夫は, 現在までに中國の學界で優勢となっ ている「沙州ウイグル獨立王國説」を,多數の論據を擧げつつ批判し,沙州ウイグルは一貫して西 ウイグル王國の傘下にあったと主張している[森安 2000; 森安 2011, pp. 527-529]。その所論はおお むね肯綮にあたると考えられる。 ただし,森安の論據の一つは, 「沙州ウイグル期」に屬する敦煌諸石窟の供養人像の裝束が,トゥ ルファン地域の西ウイグル時代の佛教石窟に描かれたウイグル供養貴人像の裝束とほぼ一致する點 にある[森安 2000, p. 25; 森安 2011, pp. 527-529; cf. 謝靜・謝生保 2007, p. 82; 竺小恩 2012]。しかし, 西ウイグルから政治的に離反・獨立した集團が,文化要素としての西ウイグルの裝束をそのまま襲 27 用することはあり得るので,供養人像の裝束の一致は,沙州ウイグルが西ウイグル傘下にあったこ とを決定づける論據とはならない。現在の敦煌學界で「沙州ウイグル獨立王國説」を代表する楊富 學は,装束の一致に關する森安らの指摘を認めつつも, これらの肖像を西ウイグルから獨立した「沙 州ウイグル王國」の君主・貴人たちのものとみなしている[e.g., 楊富學 2013, p. 269] 。 このような問題を解決するためには,これらの「沙州ウイグル期」石窟のウイグル供養貴人像に 付された傍題から彼らの人名や稱號を讀み取り,西ウイグルの諸種文獻にみえるウイグル支配層中 の人物と同定することが,より直接的な手がかりを提供するはずである。森安による沙州ウイグル 期石窟(楡林窟第39窟前室甬道北壁,莫高窟第148窟甬道・第409窟,西千佛洞第13窟)の傍題銘文 の解讀は,そのような試みの一環であったが,殘念ながら,これらの供養貴人像の所屬を決定づけ る情報はなお得られなかった[森安 2011, pp. 523-529]。 これに對し,筆者は,森安の言及しなかった楡林窟第39窟前室甬道南壁のウイグル男性供養貴人 像の傍題を「イル=オゲシ(il ögäsi, 宰相)のサングン=オゲ=ビルゲ=ベグ(sangun ögä bilgä bäg)」 と解讀しつつ,そのうちの「サングン=オゲ(sangun ögä)」が西ウイグル王國の「沙州將軍」に相 當する稱號である可能性,および人名「ビルゲ=ベグ(bilgä bäg)」が西ウイグル時代のウイグル語 文書にみえる同名の宰相(il ögäsi)に同定される可能性を提示しておいた[松井 2013, pp. 30-33] 。 さらに筆者は,2013年12月24日に,莫高窟第409窟の主室東壁南側に描かれる「ウ イグル王」 1)像【圖版1】の傍題を再調査し,わずかではあるがこの問題の解明に つながる情報を得た。 この「ウイグル王」の前方(北側=向かって左側)には,上下約 132 cm, 幅約 10.5 cm の區畫がある。この區畫が,この「ウイグル王」像の人物同定のための傍 題に使用されていたことは確實である。そして,この傍題の上から約 52 ~ 65 cm の 部分には,右に模寫したような銘文2行を判讀することができた。その解読は以下 の通りである。 銘文5:莫高窟第409窟,主室東壁南側,先頭の「ウイグル王」供養人像の北側傍題。 01 il alsran xan イル=アルスラン=ハン 02 män sävg(i) ---- 私セヴギ‥‥ “(This portrait is of) İl-Arslan-qan. I, Sävgi (?) (wrote this?)” 1)この供養貴人像は長らく「西夏王」とみなされてきたが,やはりトゥルファン地域の西ウイグル供養 貴人像の裝束との一致から「沙州ウイグル期」に描かれた「ウイグル王」とみなす見解が,現在では ほぼ承認されている[森安 1982; 森安 2000, p. 22; Russel-Smith 2005, pp. 69-70, 231-232; 謝靜・謝生保 2007, p. 82; 森安 2011, p. 524; 竺小恩 2012]。 28 森安孝夫と筆者は, つとに2006年の現地調査において, 第1行冒頭のイル(il ~ el: 「くに, ひとびと, 部衆,國家」の語を判讀していた2) 。後續の alsran = ʼʼLSRʼN は,「獅子,ライオン」を意味する古 ウイグル語 arslan = ʼʼRSLʼN の語中の -L- 字のフックを添加する位置を誤ったものである。周知の通 り,ハン(xan ~ Mong. qan)は「君主,王」を意味する。第2行の män = MN は明瞭であるが,後 續語は不鮮明である。假に sävgi (~ sävigi < sävig, あるいは sävgü < sävüg) と轉寫して,題記の筆者 の人名とみなしておく。ただし,ŠʼČW = šaču「沙州(敦煌) 」と讀んで,題記の筆者の出身地を示 している可能性も否定はできない。これ以降は,墨書が摩滅していて判讀不可能である。 以上,この傍題銘文の「イル=アルスラン=ハン(il arslan xan) 」とは, 「(ウイグル)國の獅子王」 を意味する稱號となる。よく知られているように, 漢文資料では西ウイグル ( 「西州回鶻・亀茲回鶻」) の國王はしばしば「師子王」と稱される3)。西曆981年に北宋に遣使してきた西ウイグル王の稱號「西 ママ 州外生師子王阿廝蘭漢」のうち, 末尾の「阿廝蘭漢」は arslan xan の音寫であり,先行する「師子王」 はその漢譯と考えられる。これと同一の西ウイグル王は,トゥルファン出土ウイグル語文獻には ・ ・ arslan bilgä tängri ilig 「獅子(のごとく勇猛)にして賢明なる天王」として言及される。1020年に北 宋に朝貢した「亀茲王」すなわち西ウイグル王も「可汗師子王智海」と稱しており,そのウイグル 語による正式稱號は kün ay tngridä qut bulmïš uluγ qut ornanmïš alpïn ärdämin il tutmïš alp arslan qutluγ ・ köl bilgä tngri xan 「日神・月神より天寵を得て, 大いなる天寵を受け, 勇猛さと果敢さにより國を保つ, ・ ・ ・ ・ 勇猛なること獅子(のごとき) ,天寵もち,湖(のごとく)知恵深き,神聖なるハン」である。さ らに, 1067年のウイグル語譯『彌勒會見記(Maitrisimit) 』ハミ寫本にみえる西ウイグル王の稱號は, ・ ・ ・ tngri bögü il bilgä arslan tngri uyγur tärkänimiz「神聖にして賢明なる,國(の) ,知恵深く獅子(のご とき)聖なるウイグル王公」である[森安 1991, pp. 183-185]。また, 周知のように, キタイ帝國(契 丹, 遼)に入貢した西ウイグル王國はしばしば「阿薩蘭回鶻」すなわちアルスラン=ウイグル(Arslan Uyγur)と稱されている[安部 1955, pp. 359-360; 森安 2000, p. 27]。 以上の諸史料にみえる西ウイグル國の國號や王號を勘案すれば, この莫高窟第409窟の銘文の「イ ル=アルスラン=ハン(il arslan xan) 」も,西ウイグル國王をさすことはほぼ確實である。とすれば, 銘文の書き手であったウイグル人セヴギ(Sävgi)は,ここに描かれた「ウイグル王」像を西ウイ グル王のものと認識して, 「イル=アルスラン=ハン」の稱號を記したものと推定される。 ただし,銘文の書き手のこのような認識が正確であったか否かについては,一抹の疑問も殘る。 現地調査で確認したところ,この銘文は,傍題の區畫の上部に 50 cm 以上もの空白を殘して記され ており,その空白部分には銘文が記されていた形跡がほとんど殘っていない。これはいささか不自 2) 翌2007年に再調査した際にはこの il ~ el の語は判讀できなかったことが報告されているが[森安 2011, p. 524],これは確認が不十分であったためである。 3) 『宋會要輯稿』蕃夷4 ・亀茲(中華書局版,p. 7720)「龜茲,回鶻之別種也。其國主自稱師子王。‥‥ 或稱西州回鶻,或稱西州龜茲,又稱龜茲回鶻,其實一也」。『宋史』巻490 ・外國傳・亀茲(中華書局版, p. 14123)もほぼ同文。 29 然である。また,銘文の書體にも注意を要する。さきに森安は,この銘文の書體を西ウイグル時代 に特徴的な半楷書體とみなした[森安 2011, p. 524]。しかし,この銘文の書體は,例えば上述の楡 林窟第39窟の西ウイグル時代の傍題[松井 2013, pp. 30-33]のような典型的な半楷書體とは異なっ て若干肉細であり,むしろモンゴル時代の文獻にみられる 「丁寧な草書體」 とみなされるべきである。 そこで筆者は,この銘文が記されるに至った状況を,以下のように考えたい。まず,この莫高窟 第409窟に「ウイグル王」の供養人像が描かれた際には,彼の有していた(より長大な)稱號が題 額の全域に記された。しかし, それは何らかの理由で塗抹された。その後, モンゴル時代以降になっ て,あらためてこのウイグル王像を「イル=アルスラン=ハン(il arslan xan)」つまり西ウイグル王 と認識する舊西ウイグル國人により傍題銘文が再度記された。すなわち,この傍題銘文は,問題の ウイグル王像が西ウイグル王であったこと,また彼が沙州を直接的に支配下に置いていたことを立 證する同時代資料とはいえないこととなる。 とはいえ,モンゴル時代のウイグル人は,漠北のウイグル可汗國時代にまでさかのぼる「民族史」 叙述の傳統を有していた[森安 2002; 茨默 2009; Zhang / Zieme 2011; 森安 2013, pp. 140-139]。たとえ, この莫高窟第409窟の傍題銘文がモンゴル時代のウイグル人によって記されたものだとしても,彼 らがこのウイグル王像を「イル=アルスラン=ハン」つまり西ウイグル王と稱した背景には,それ なりの歷史的な知識があったことを想定してもよいと思われる。 いずれにせよ,このウイグル王像の最終的な同定については,この銘文5,あるいはその下に塗 抹されているはずの本來の傍題を,より嚴密に解讀することが必要である。中國側の諸研究機關が この傍題のX線撮影・赤外線撮影などを實施し,鮮明な状態で學界に提供することを期待したい。 6.ウイグル佛教徒の文殊信仰と敦煌石窟 佛教において悟りを得るための智慧を司る文殊師利菩薩(Skt. Mañjuśrī bodhisattva)に對する信 仰は,東アジア諸地域の佛教徒に廣くみられるものである。ウイグル人佛教徒のあいだにも文殊菩 薩信仰が存在したことは,いくつかの出土文獻から確認できる。 例えば,11世紀以前の敦煌藏經洞出土のウイグル語佛教文獻(Or. 8212-121)は,漢文佛典『佛 説無量壽經』 (Taisho, Vol. 12, No. 360)に對應する内容をもつ。漢文テキストは「十六大士(菩薩) 」 を列擧した後,それらが「皆,普賢大士の德に遵う」とするが,對應するウイグル文では「この 十六の菩薩たちは,みな普賢と文殊師利‥‥菩薩【後缺】 (bu altï ygrmi bodisvt-lar alqu tüzü tüzün mančuširi [...] bodisvt [...])」となっており,漢文にはない文殊師利(mančuširi < Skt. Mañjuśrī)が揷 入されている[MOTH, p. 26]。 モンゴル時代のウイグル人佛教徒の間で弘通した文殊菩薩關係の經典としては,『聖妙吉祥眞實 名經((Ārya-) Mañjuśrīnāmasamgīti) 』が特筆される。この經典のウイグル譯本の斷片はドイツ=トゥ ・ ルファン探檢隊將來ウイグル語資料中に多數確認されており,3ないし4系統の刊本があったと推 定される[BTT VIII, Text B; Kara 1981, p. 233; UBL, pp. 114-116]。その識語の斷片(U 4759)からは, 30 このウイグル語への飜譯事業が,大元ウルス宮廷に仕え國師パクパ(ʼPhags pa, 1235-1280, 國師在 位 1261-1270, 帝師在位 1270-1274)にも師事したウイグル人高僧カルナダス(Karunadas > Chin. 迦 魯納答思)により,西曆1302年に大都の「白塔寺」すなわち大聖壽萬安寺(現在の妙應寺)で完成 されたことが判明する[BT XIII, Nr. 50; BT XXVI, Nr. 48; 中村 2013, pp. 16-17]。 ウイグル語譯『聖妙吉祥眞實名經』がモンゴル時代のウイグル佛教徒の間で實際に流行してい た樣子は,敦煌莫高窟北區將來のウイグル語書簡(Pelliot Ouïgour 16 bis)の内容からうかがえる。 この書簡は「安藏博士の飜譯した『眞實名經』 (Antsang baxšï-nïng aqtarmïš namasanggid) 」などの 經典の授受に關係するものである。この書簡で, 『眞實名經(Uig. Namasanggid < Skt. (Mañjuśrī-) ・ nāmasamgīti)』の譯者として言及される「安藏(Antsang)」は,前述のカルナダスの師であったウ ・ イグル人高僧であった[森安 1983; Hamilton 1992] 。さらに,モンゴル時代に釋智によってチベッ ト語から漢語に飜譯された『聖妙吉祥眞實名經』 (Taisho, Vol. 20, No. 1190)の漢文テキストをウイ グル文字で音寫した斷片も數種が確認されており[Kara 1981; Zieme 1996; 庄垣内 2003, pp. 1-26], 漢語譯本もウイグル人佛教徒により廣く讀誦されたことが知られる。 これ以外にも,文殊信仰に關わるモンゴル時代のウイグル語佛典として,トゥルファン地域發 現の『文殊師利成就法(Mañjuśrī-sādhana) 』斷片[小田 1974]や,敦煌莫高窟北區發現の『文殊 師利所説不思議佛境界經(Acintyabuddhavisayanirdeśa) 』の識語斷片[Abdurishid 2006, pp. 24-27; BT ・ XXVI, Nr. 11]が知られる。前者はモンゴル時代にチベット語原典からウイグル語に飜譯されたも の,後者はトゥルファン地域の主要都市リュクチュン(Lükčüng)出身のチスン(Čisön < Chin. 智 全/智泉)都統によって14世紀後半に漢文原典からウイグル語譯されたものである。またドイツ 隊將來資料には,モンゴル時代に典型的な草書體ウイグル文で書かれた,文殊師利を讃美する頭 韻詩の斷簡(Ch/U 7118v)もある[BT XIII, Nr. 32]。さらに,泰定3年(1326)立石の漢文・ウイ グル文合璧『重修文殊寺碑』は,チャガタイ系豳王家當主ノムダシュ(Nomdaš)が「聖なる文殊 師利の僧院に兄弟王子たちとともに禮拜すべく(13ary-a mančuširi-ning sangram-ïnta 14aqa ini-lär birlä y küngäli) 」 ,肅州南方の文殊寺を訪れ,この寺院を重修して「聖なる文殊師利を請わせて(21ary-a mančuširi-ni čingladïp) 」鐘樓や碑石を建てたと傳える[耿世民・張寶璽 1986]。中央アジアから甘 ・ 肅河西地域に東來してきた「東方チャガタイ家」王族と,その配下のウイグル人佛教徒における文 殊信仰を反映するものとみることができよう[cf. 松井 2008a, p. 37]。 以上の例から,東部天山(高昌・トゥルファン)地域から甘肅河西(敦煌・肅州)さらには大都と, ウイグル人がモンゴル時代に政治的・經済的に活躍した地域と重なる形で,ウイグル佛教徒の文殊 信仰が看取できる[cf. 楊富學 2004]。筆者が前稿で紹介した,莫高窟第61窟甬道南壁のモンゴル時 代のウイグル語題記銘文は,高昌(Qočo)出身のウイグル人佛教徒が「西夏路(Tangut čölge)」つ まり寧夏府路(現在の銀川)からこの窟の本尊であった文殊菩薩(mančuširi bodistv)に參拜した 際に殘したものであり[松井 2013, 銘文4D, 4E],これも上述したようなウイグル佛教徒の文殊信 仰の擴がりと重なるものといえる。 31 筆者は,この間の敦煌諸石窟の現地調査を通じて,文殊菩薩信仰に關係するウイグル語銘文とし て,さらに以下の銘文6A ~ 6Eを確認することができた。いずれも草書體で書かれており,モンゴ ル帝國時代に屬するものとみられる。 銘文6A:莫高窟第138窟,主室北壁,先頭の女性供養人像の西側,草書體ウイグル文13行。第 13行の斜體表記部分は,いわゆるパクパ(ʼPhags-pa > 八思巴)字で記されている。從って, この銘文が,パクパ文字の制定された西曆1269年以降に屬することは確實である。 01 ----------------WX----- K kirtgünč (....)up 02 ---------------- taγ? buqar? T(...) ---- (....) 03 --------------- 04 ---------------- pala ök bulayïn tip män darm-a širi 05 ---------------- XY ʼʼS T(..)KY namasangid ögränip ・ 06 ---------------- -larïγ (..)L T(....) birlä sözläp 07 ----------------(...)Č yol qy-a-nïng? burxan? 08 --------------- (säv)inč-siz tälim toluy (ö)güz täg? (..)TYK 09 ----------------aldan tigin : yana ・ 10 qočo (....) biš (......) darm-a širi qač käsig ・ 11 ky-ä bitiyü tägintim kinki körgüči (....) (.....)M 12 uluγ adam könčüg (......)muz-nung ------------ (.)WNKWR? bar ärsär 13 ---------------------------[sa]tu satu bolzun b n di t n m s ŋ g[i](d)(. . . .) bu l su n ・ ・ 01 ……信心…… 02 ……山寺(?)…… 03 …………………… 04 ……を得よう,と,私ダルマシリ 05 ……『眞實名經』を學んで 06 ……たちを……ともに説いて, 07 …………ヨル=カヤの(?)佛(?) 08 ……歡喜無きものが多く海(?)のような(?)……… 09 アルタン=ティギン,さらに 10 高昌……五……私ダルマ=シリが幾行か 11 書き奉った。後世の見る者…… 12 我が祖父のコンチュグ……の…………があるならば, 32 13 …………善哉,善哉。博士(の) 『眞實名經』……を得ますように! “.... 1belief .... 2the mountain temple(?) ....... 3 ......... 4“I shall obtain ....-pāla”, thus saying, I, Darmaširi, .... 5learning Nāmasamgīti .... 6.... speaking together, 7.... Yol-Qyaʼs(?) Burxan(?) 8.... ・ (there are) a lot of unhappy (people?), like(?) ocean .... 9Altan-Tigin, and 10Qočo .... five .... I, Darmaširi, 11wrote (this inscription of) several lines. Posterities to see (this inscription) .... 12my great father Könčüg .... if there is ...., 13.... Sādhu, sādhu! Nāmasamgīti of Master .... shall obtain ....!” ・ 語註: 6A2, taγ? buqar? : 明瞭には判讀できなかったが,試案として「山寺」を推補してお く。なぜなら,敦煌諸石窟のウイグル語銘文には,莫高窟や楡林窟を「山寺(taγ buqar; taγ süm) 」と稱する例が頻見するからである[e.g., Hamilton / Niu 1998, Inscriptions D, E, P, Q] 。 莫高窟を「山寺」と稱する漢語の題記銘文の例も,モンゴル時代はもとより西夏時代にまで 遡って確認され4) ,西夏語の題記銘文でも「山寺廟(1shyan 2miqʼ 2ʼyen)」,モンゴル語銘文 でも楡林窟を「山寺(aγulan süme) 」と稱した例が発見されている[荒川 2010, p. 53; 敦煌研 究院考古研究所・内蒙古師範大學蒙文系 1990, p. 12] 。すなわち, 莫高窟や楡林窟に對する「山 寺」という通稱は,漢人・西夏人・ウイグル人・モンゴル人の間で共通していたこととなる。 敦煌地域における,言語を異にする佛教徒たちの文化的な交流を示唆するものといえる。 6A4a, --- pala : おそらく,語末に pāla “a guard, protector” をもつサンスクリット語の護法神名 (Lokapāla, Dharmapāla, etc.)の借用語であろう。例えば「[……]=パーラ(の佛像)を得よう」 というような文脈を想定できるかも知れない。 6a4b, darm-a širi : Skt. dharmaśrī に由來す る人名。第10行から,彼が本銘文の書き手であったことが知られる。 6A5, namasangid : ・ ~ namasanggid < Skt. (mañjuśrī-) nāmasamgīti. 6A8, toluy (ö)güz : ウイグル語佛教文獻には二 ・ ・ 詞一意(hendiadys)の taluy ögüz「海;海河」が頻出するが[e.g., ED, p. 502; 庄垣内 2008, p. 648] ,敦煌藏經洞出土のウイグル文『善惡二王子經』には taluy「海」の異形 toluy を用い た toluy ögüz という表記も在証される[CBBMP, p. 15; cf. ATG, p. 49]。 6A10, qočo (….) biš (……) : 銘文の筆者名ダルマシリ(darm-a širi < Skt. dharmaśrī)に先行するので,その出身地 を示す表記とみて「高昌[國の]ビシュ[バリク出身の] (qočo (uluš) biš (balïq-lïγ) ) 」など と再構できるかもしれないが,實見しても十分に判讀できなかった。 6A13, b n di t n m s ŋ g[i](d) (. . . .) bu l su n : このパクパ文は,ウイグル語で bandit namasaŋg[i](d) (. . . .) bulsun「博 ・ 4) ①莫高窟第61窟東壁,西夏期「上座□□姚/巡禮山寺到/天慶五年四月廿日」[DMGD, p. 25];②莫 高窟第464窟,西夏期「大宋閬州閬中縣錦屏見在西涼府賀 家寺 住坐/遊禮 道沙州山寺宋師父楊師父等」 [DMGD, pp. 174-175]③莫高窟第108窟主室東壁「大德拾年十月十三日趙德秀至山寺禮拜」[DMGD, p. (到) 53] ;④莫高窟第45窟東壁「僧人劉祖到? 山寺焚香禮拜;至順二年四月初一日道了山寺記耳筆」 [DMGD, p. 16];⑤莫高窟第98窟主室南壁「至正四年四月十五日雲/遊山寺聖□」焚香記耳」[DMGD, p. 48]。 33 士(bandit < Skt. pandita) (の) 『眞實名經』……を得ますように!」と再構できる5)。 ・ ・ この銘文は全體的に煙燻を被っているため,各行とも不鮮明な箇所があり,銘文全體の解釋は困 難である。とはいえ,第5行の「 『眞實名經』を學んで(namasangid ögränip)」という記載,また ・ 第13行のパクパ文「博士(の) 『眞實名經』……を得よ!(bandit namasaŋg[i](d) (. . . .) bulsun) 」は, 『眞 實名經(Nāmasamgīti) 』の經典が敦煌のウイグル人佛教徒の間で廣く流通していたことを示してい ・ る。前述した,敦煌出土のウイグル語書簡 Pelliot Ouïgour 16 bis でも『眞實名經』の授受が問題となっ ていることと軌を一にするものとみてよいであろう。 銘文6B:楡林窟第2窟,主室南壁,最も東側の説法圖の東端の白い枠線内,草書體ウイグル 文1行。 01 qudluγ luu yïl aram ay yiti yangï-da män čina išvari šabi ・ bu qudluγ mančuširi bodistv-ta y kündüm sa ・ 「幸いなる龍年正月初(旬の)七日に,私チナ=イシュヴァリ沙彌が, この幸いなる文殊菩薩に禮拜した。善[哉] 」 “On the 7th day, the 1st month, the fortunate Dragon year, I, Čina-İšvari-šabi, worshiped this heaven-favored Mañjuśrī Bodhisattva. Sā[dhu]!” 巡禮者名のチナ=イシュヴァリ(čina-išvari)は Skt. jina-īśvara “victorious lord” に由來する人名。 末尾の sa は sadu「善哉(< Skt. sādhu) 」を書こうとして中斷したものであろう。 銘文6C:楡林窟第2窟,主室北壁,中央淨土變相圖の右(=東)端の黑い枠線内,ウイグル 字刻文2行。 01 bu mančuširi 「この文殊師利 “This Mañjuśrī 02 bodisdw 菩薩」 Bodhisattva” 第2行の bodisdw = PWDYSDW は, 「菩薩(bodistv = PWDYSTV) 」の誤刻とみる。 さて,楡林窟第2窟は,西夏時代に開鑿され,モンゴル時代・清代に重修されたものである。正 面となる東壁の中央には文殊變相圖が描かれることから,その主尊は文殊菩薩であったと考えられ 5) 筆者は舊稿で,このパクパ字の箇所について,2006年9月の現地調査結果に基づき部分的に引用した[松 井 2008a, p. 37]。しかし,その時點では『眞實名經(namasaŋg[i](d))』の箇所は判讀できていなかった。 34 る[AXYLK 1990, p. 278] 。現在の中央基壇に据えられた塑造の文殊菩薩像は清代のものであるが, おそらくモンゴル時代にも文殊菩薩の塑像が据えられていたのであろう。すなわち,銘文6b, 6c は, 楡林窟第2窟の主尊としての文殊菩薩に禮拜した際の記念とみることができる。 銘文6D:楡林窟第16窟,主室甬道北壁,甘州ウイグル公主供養人像の西側,草書體ウイグル 文2行+パクパ字1行。 01 män yïγmïš 「私イグミシュが “I, Yïγmïš 02 y kündüm worshiped (here). 禮拜した。 03 m n u ši ri 文殊師利」 Mañjuśrī!” この銘文は既公刊のカラー圖版[段文傑 1990: pl. 115; AXYLK: pl. 57]でも確認できる【圖版2】 。 第3行で斜體表記したパクパ字の「文殊師利(m n u ši ri = man uširi)」は,第1-2行のウイグル字 銘文と字寸が近似するので,その筆者イグミシュ(yïγmïš)によって書かれたものであろう。この 楡林窟第16窟の主室西壁南側には,やはり文殊變相圖が描かれている[AXYLK 1990, p. 303] 。 銘文6D:楡林窟第15窟,前室西壁北側,パクパ字銘文1行。 01 m u ši [….] 「文殊師利」 “Ma(ñ)juś[rī]!” このパクパ字銘文も,おそらくは m n u ši [ri] = man uširi 「文殊師利」と書こうとしたものと推 測される。この銘文の書かれた壁面には,文殊變相圖が描かれているからである[AXYLK 1990, p. 302] 。第2字の n は書き忘れられたものであろう。また語末の ri の部分は壁面が剥落している。 銘文6E:楡林窟第33窟,主室甬道南壁,供養人像の右肩脇,草書體ウイグル文2行。 01 bu qudluγ qaču [...] taγ(?) ・ 「この幸いなる瓜州……山(?) 02 mančuširi taγ qïlïp(?) 文殊師利山を作って(?)」 “This fortunate [.....] mountain(?) of 瓜州 Guazhou. Making(?) the mountain of Mañjuśrī ....” この銘文は草書體で書かれており,やはりモンゴル時代に屬すると推定される。瓜州(Chin. > Uig. Qaču)が言及されるのは, 楡林窟の直近の城市だからである。第2行の文殊師利に後續する「山 を作って(taγ qïlïp) 」は,文殊の居所としての五臺山[次節參照]を描いたことを意味するものか。 あるいは -ta kälip 「 (文殊菩薩)に(禮拜に)來て」と讀むべきかもしれない。 35 注目すべきは,楡林窟第33窟の壁畫には,文殊菩薩に直接に關係するものはないことである [AXYLK 1990, p. 309] 。從って,この題記が文殊師利(mančuširi < Mañjuśrī)に言及するのは,壁 畫の内容とは無關係である。逆説的に,この題記を記したウイグル人佛教徒が,日常的に文殊菩薩 を深く信仰していたことを示すものと考えるべきであろう。 以上,文殊菩薩信仰に關係する銘文6B ~ 6Eは,筆者が現時點までに偶然に目睹し得たものに過 ぎない。しかし,管見の限り,例えば,敦煌諸石窟の佛教壁畫において文殊菩薩にしばしば對置さ れて描かれる普賢菩薩が,このような題記銘文で同樣に言及される例は見出せない。敦煌諸石窟の ウイグル語題記銘文において,特に文殊菩薩が頻繁に言及される歷史的な背景[この點については 次節も參照]をふまえつつ,銘文資料の悉皆調査を繼續していく必要がある。 7.ウイグル佛教徒と五臺山 前節で扱った文殊菩薩信仰と關係して,ウイグル人佛教徒における五臺山信仰についても言及し ておく。 周知のように,中國山西省東北の地方の五臺山(清涼山)は,文殊菩薩が化現する聖地として, 東アジア全域にわたって崇敬の對象とされてきた[頼富 1986]。敦煌でも五臺山を文殊菩薩の居所 とする信仰が盛んであったことは,莫高窟・楡林窟の壁畫にしばしば五臺山圖が描かれること[日 比野 1958; Wong 1993; 趙聲良 1993; 杜斗城 2004] ,あるいは藏經洞出土文獻に『五臺山讃』 ・『五臺 山曲子』や「往五臺山行記」類が出土していること[杜斗城 1991; Cartelli 2004; 高田 2012, p. 6]か ら示される。また,藏經洞出土のサンスクリット語・チベット語對譯佛教語彙集や,サンスクリッ ト語・コータン語對譯の會話練習帳からも,西曆10世紀頃においてインド・チベット・コータン人 佛教徒が盛んに五臺山に巡禮したこと,また彼らの巡禮にとって敦煌が重要な中繼地點となってい たことがうかがえる[Hackin 1924, p. 40; 熊本 1988; 高田 2002, pp. 3-4; 高田 2011, pp. 3-6]。11世紀 以降に河西を支配した西夏王國の佛教でも,五臺山信仰は重要な要素となっていた[公維章 2009; 楊富學 2010]。 一方,トゥルファン地域發現のウイグル文佛典のなかにも, ウイグル語譯『五臺山讃(Udayšanzan)』 の異なる2寫本の斷片(Ch/U 6956; U 5684a-c)や, 漢文『五臺山讃』のウイグル字音寫を含む冊子本(U 5335)6)が發見されている[Zieme 2002] 。さらに,エルミタージュ美術館に所藏される西ウイグル 期のベゼクリク石窟壁畫斷片には,文殊菩薩とともに五臺山が描かれている[プチェリナ 1999, pp. 325-326] 。これらは,ウイグル人佛教徒における五臺山信仰の存在を確證するものである。 6) この U 5335 は,複數のウイグル字音寫された漢語の佛教テキストを集成する冊子本であり,庄垣内正 弘による包括的な研究が近刊予定である。Masahiro Shōgaito, Chinese Text Written in Uighur Script U 5335: A Reconstruction of the Inherited Uighur Pronunciation of Chinese (Berliner Turfantexte XXXVI). Ed. by S. Fujishiro / N. Ohsaki / M. Sugahara / Abdurishid Yakup. Turnhout (in press). なお,本稿成稿中,庄垣内正弘先生の訃報に接 した。この場を借りて,長年にわたる御示教に深甚の謝意を表し,謹んで御冥福をお祈り申し上げる。 36 さらに筆者は,この間の調査において,わずか2条ではあるが,五臺山に關係するウイグル語題 記銘文を確認することができた。 銘文7:楡林窟第3窟,主室西壁南側,普賢菩薩像の下,縁取りの枠線内に合計8条のウイグ ル文題記がある。筆者はこれを南側から(a) ~ (h)と假に編號した。 (a) šakyapal uday-qa barïr-ta kinki-lär-kä ödig qïldïm 「私シャキャパルが,五臺に行く時に,後人たちへの記念をなした」 “I, Šakyapal, going to (= leaving for) Wudai (Mountain), made (this) record for posterities.” (c) täväči tudung uday-qa barïr-ta ödig qïldïm sadu bolzun ・ 「私テヴェチ都統が,五臺に行く時に,記念をなした。善哉」 “I, Täväči-tudung, going to (= leaving for) Wudai (Mountain), made (this) record. Sādhu!” ・ これらの銘文も草書體で書かれており,やはりモンゴル時代に屬すると推定される。銘文 7(a) の後には,モンゴル文で「幸福となりますように,と(qutuγ-tu boltuγai kemen)」という題記が續 けて記されているが,ウイグル文とは別筆と思われる。 これらの銘文7(a), 7(c) の筆者は,いずれも「 (楡林窟から)uday に行く」と記している。この uday は,明らかに「五臺」の音寫であり,五臺山を意味する7)。すなわち,これらの題記は,楡 林窟から五臺山への巡禮に向かうモンゴル時代のウイグル人佛教徒によって書き殘されたものであ る。これは,ウイグル人佛教徒の間で文殊信仰とともに五臺山信仰が流行していたことを傍證する とともに,彼らの佛教巡禮圏が,敦煌(莫高窟・楡林窟)から東方には,瓜州・肅州や寧夏(西夏 路)を越えて8) ,山西の五臺山にまで及んでいたことを示すものである。 さて,前掲のトゥルファン地域發現ウイグル語譯・ウイグル字音寫『五臺山讃』諸寫本を紹介し た Zieme は,これらの『五臺山讃』の流行を,敦煌佛教とトゥルファン=ウイグル佛教の強固な結 びつきを示すものと位置づけた[Zieme 2002, pp. 223-224]。10世紀以降のウイグル佛教に對して敦 7) Uig. uday の用例は,居庸關のサンスクリット語・チベット語・モンゴル語・ウイグル語・西夏語・ 漢文六體合璧碑文にも在證される。この Uig. uday が「五臺」の音寫であり,五臺山を意味することは, チベット語の對譯箇所に rtse lnga「五つの頂」すなわち「五臺山(ri bo rtse lnga)」の略稱がみえるこ とからも鐵案である[CYK, pp. 228, 238, 263, 276]。この用例に對し,Röhrborn / Sertkaya はあえて Skt. udaya “the eastern mountain (behind which the sun is supposed to rise)” と關連させる案を提示し,楊富學は これに反論してウイグル人佛教徒の文殊信仰・五臺山信仰の観點からあらためて「五臺」の音寫とみ なすことを主張したが[Röhrborn / Sertkaya 1980, pp. 320, 333; 楊富學 2003],いずれも,チベット語・ ウイグル語對譯に關する CYK の指摘に注意していない。 8) ウイグル人佛教徒の巡禮圏については,拙稿[Matsui 2008b, pp. 27-29; 松井 2013, pp. 38-44]も參照。 37 煌佛教が強い影響を與えたことは, 百濟康義[百濟 1983]の創唱以來, 學界でも廣く承認されており, もちろん筆者も同意するものである。 ただし,ウイグル語譯『五臺山讃』の1件(Ch/U 6956 = Zieme 2002, A)と,ウイグル字音寫『五 臺山讃』冊子本(U 5335)は,草書體で書かれたモンゴル時代の寫本である。また,銘文 7(a), 7(c) も,明らかにモンゴル時代の題記である。このような,モンゴル時代のウイグル佛教徒における五 臺山信仰の流行の要因としては,モンゴル帝國もまた五臺山を佛教聖地として尊崇したという歷史 的状況[日比野・小野 1942, pp. 85-91; 崔正森 2000, pp. 540-546]をも考慮すべきであろう。 さらに,モンゴル帝室の歸依を受けたチベット佛教においても,歷代帝師を輩出したサキャ(Sa skya)派は文殊菩薩を特に尊崇しており,1244年に涼州のモンゴル王族コデン(Köden > 闊端)の もとに赴いたサキャパンディタ(Sa skya Pandita)はその歸途に五臺山に巡禮している[陳慶英 ・ ・ 2007, p. 42; cf. 福田 1986, pp. 32, 42]。のちの初代帝師パクパも,クビライ登極以前の1257年5月から 7月にかけて五臺山に巡禮し,文殊菩薩を賞賛する詩頌を殘している[福田 1986, pp. 48, 64-65; 陳 慶英 2007, pp. 65-70] 。チベット佛教における五臺山信仰は,つとに古代チベット帝國(吐蕃)時 代から浸透していたようであるが9),このパクパの巡禮を契機としてモンゴル時代にさらなる流行 をみることとなり,五臺山そのものもモンゴル宮廷の庇護を受けたチベット佛教の一大據點とも なった。サキャパンディタの弟子タムパ(Dam pa)はクビライから五臺山壽寧寺の住持に任命され, また第4代帝師イェシェーリンチェン(Ye shes rin chen, 位 1286-1295)は五臺山で死去している[陳 慶英 2007, p. 70] 。また大德5年(1301)4月28日付の第5代帝師タクパオーセル(Grags pa ʼod zer, 位 1291-1303)發行の漢文法旨も,五臺山大壽寧寺の免税特權を確認するために五臺山で發令され たものであり,五臺山が帝師の活動據點の一つとなっていたことを示す[蔡美彪 1955, p. 49; 中村 1993, p. 59] 。 モンゴル時代,帝國支配層の庇護を受けたチベット佛教の影響が,甘肅河西・東トルキスタンさ らに東方ユーラシア各地で活動するウイグル佛教徒にも及んだことは,舊稿[松井 2008a, pp. 3741]で述べた通りである。とすれば,前節に示した文殊菩薩信仰に關するウイグル語銘文6B ~ 6E, また本節にみたウイグル人佛教徒の五臺山巡禮も,モンゴル時代のチベット佛教における文殊信仰・ 五臺山信仰の隆盛に影響・感化されたものであった可能性が高いように思われる。五臺山へ向かお うとする銘文 7(a) の筆者の名シャキャパル(Šakyapal)が,チベット語 Shākya dpal に由來するこ とも,彼がチベット佛教に接近していたことをうかがわせる。 なお,五臺山とウイグル佛教徒との關係からは,高昌出身のウイグル人比丘尼の舍藍藍(12691332)の事蹟が注目される。 『佛祖歷代通載』巻22所収の傳記によれば,彼女は成宗テムル時代(r. 9) 『舊唐書』巻196下・吐蕃傳,長慶4年(824)9月「(吐蕃)遣使求五臺山圖」[日比野・小野 1942, pp. 63-64]。 ₁₀) モンゴル時代における,非漢族の高位の宗教者に對する稱號としての baγsi(> Chin. 八合失~八合赤 ~八合識~八哈室~八哈石)については,中村・松川 1993, pp. 73-75 參照。 38 1294-1307) ,第5代帝師タクパオーセル(迦羅斯巴斡即兒 < Tib. Grags pa ʼod zer)を師として出家し, 武宗ハイシャン時代(r. 1307-1311)には皇太后ダギに仕えて「バクシ(八哈石 < Mong. baγsi < Uig. baxšï「師僧」 < Chin. 博士) 」と尊稱された10)。仁宗アユルバルワダ時代(r. 1311-1320)には,宮廷 からの賜與を原資に,大都の妙善寺だけでなく「臺山」すなわち五臺山にも普明寺を建立して,そ ウイ グル れぞれ佛經一藏を安置させた。さらに金泥を用いた「番字(おそらくチベット字) 」や「畏 兀字」 チベット の經典を作成させたり,また吐蕃の五大寺・高昌國の旃檀佛寺・大都の萬安寺などに多額の資産を 蓄えさせたという[cf. 楊富學 2004, p. 446; 中村 2013, p. 22]。すなわち,舎藍藍は,サキャ派出身 の帝師よりチベット佛教の教えを受けてモンゴル宮廷に仕えつつ,大都・五臺山・高昌・チベット の各處を結んで佛教的活動を展開していたことになる。あるいは,銘文 7(a), 7(b) で五臺山に向か おうとするウイグル人佛教徒は,モンゴル宮廷で榮達した同族の舎藍藍が五臺山に建立した普明寺 を目指していたのかもしれない。 また,至正7年(1347)に五臺山に立石された「五臺山大善法藏寺記」の所傳によれば,泰定元 年(1324)に五臺山で法會を實施し,ここに大善法藏寺を建立して,後に順帝トゴン= テムル(r. 1333-1370)から「灌頂國師」號を賜った高僧アマラシリ=パンディタ(*Amaraśrī Pandita > 阿麻剌 ・ ・ 室利板的答)は, 「西域諸國の僧俗部族を總治」したという[日比野 1973, pp. 652-654, 657-660; 松 井 2008a, p. 29] 。この「西域諸國」の具體的な地理範圍・疆域は不明であるが,あえて推測すれば, アマラシリの出身地「罽賓國」すなわちカシミールや,彼が崇敬を集めたというチベット西部のヤ ツェ(Ya tse > 雅積)國および中央チベットのサキャ(Sa skya > 撒思加瓦)だけでなく,甘肅河西 や東部天山地方などウイグル人佛教徒の居住地域も含まれていた──その意味では,前述の舎藍藍 の活動地域と重なる──のではなかろうか。そして,灌頂國師アマラシリ=パンディタが「西域諸 國の僧俗部族を總治した」という表現は,彼が五臺山に據點を置きつつ,文殊菩薩と五臺山を崇敬 する「西域」諸地域の──おそらく,多くのウイグル人をも含む──佛教徒に対して宗教的權威と して臨んでいたことを意味しているように思われる11)。 ₁₁) 11世紀以降,ウイグル佛教界における最高指導者はウイグル語で šazïn ayγučï (> Chin. 沙津愛忽赤/ 沙津愛護持, etc.)すなわち「教義總統」の稱號を與えられるようになり[森安 2007, pp. 16-19],モン ゴル時代においても帝國佛教界の中樞で活躍した者が複數知られている[中村 2013, p. 14]。1280年 のトゥルファン出土ウイグル語文書(SUK Em01, いわゆるピントゥング解放文書)でもウイグル佛 教の最高指導者として「教義總統(šazïn ayγučï)」が言及され,また『通制條格』巻4・戸令「女多渰 死」の条に漢譯されて引用される至元13年(1276)7月2日付クビライ聖旨は,カルシャ教義總統(*Qarša šazïn ayγučï > 哈兒沙沙津愛忽赤)が,高昌(=火州 < Qočo)・リュクチュン(呂中 < Lükčüng)・トゥ ルファン(禿兒班 < Turpan)などのウイグル王國領における事案について皇帝クビライに(おそらく は直接に)上奏していたことを示す[梅村 1977, pp. 04-06]。さらに,トゥルファン出土のチャガタイ =ウルス發行モンゴル語文書(BT XVI, Nr. 69)も, 「(この文書に)その名が記された教義總統(Mong. šas-in aiγuči < Uig. šazïn ayγučï)や師僧(baγsi)たち」を筆頭とする佛教寺院への安堵状であった。こ の文書は14世紀中葉以降に屬する可能性が高く,この時期のトゥルファン地域のウイグル佛教徒も, 39 以上,わずか2条のウイグル語題記銘文 7(a), 7(b) から,ウイグル佛教徒と五臺山との結びつき について,相當に推論を重ねてきた。今後,さらに諸史料を博捜するとともに,五臺山そのものに も,ウイグル人巡禮者に關係する題記銘文や佛典その他のウイグル語資料が殘されていないか,調 査していく必要があるかもしれない。 參考文獻 Abdurishid Yakup 2006: Uighurica from the Northern Grottoes of Dunhuang. 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Zieme, Peter 2002: Three Old Turkic 五臺山讃 Wutaishanzan Fragments.『内陸アジア言語の研究』17, pp. 223239. 茨默 (Zieme, Peter) 2009:「有關摩尼教開教回鶻的一件新史料」 『敦煌學輯刊』2009-3, pp. 1-7. 【付記】本稿は,JSPS科研費 26300023, 26580131, 26284112 および東京外國語大學アジア・アフリカ言 語文化研究所共同利用・共同研究課題「新出多言語資料からみた敦煌の社會」による研究成果の一部 である。 43 圖版1 莫高窟第409窟,主室東壁南側「ウイグル王」供養人像 (柳宗元・金岡照光『敦煌石窟寺院』 (世界の聖域・別巻2)講談社, 1982, pl. 43) 圖版2 楡林窟第16窟,主室甬道北壁,甘州ウイグル公主供養人像 (段文傑(編)『中國壁畫全集・敦煌9:五代・宋』遼寧人民出版社, 1990, pl. 115) 6D 44 研究活動報告 (2013年4月~ 2014年3月) 凡 例 ⑴ 現在の研究テーマ ⑵ 著書・論文、その他 ⑶ 研究発表・講演など ⑷ 学外集中講義など ⑸ 海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ⑹ 科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ⑺ 共同研究、受託研究など ⑻ 弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など 45 ○文化財論講座 諸 岡 道比古 ⑴現在の研究テーマ ・ドイツ観念論思想における宗教思想の研究 須 藤 弘 敏 ⑴現在の研究テーマ ・仏教絵画史、近世の地方彫刻、文化政策 ⑵著書・論文、その他 [その他] ・ 須 藤弘敏「平尾魯仙の絵画」青森県立郷土館編『平尾魯仙 青森のダ・ヴィンチ』pp.7- 8、青森県立郷土館、 2013年9月10日 ・ 須藤弘敏「鳳凰堂扉絵、阿弥陀聖衆来迎図、平家納経」ほか8点作品解説『日本美術全集第5巻』小学館、2014 年3月 ⑶研究発表・講演など ・つがる市公開講座「青森の仏像 つがる市の仏像」2013年10月5日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・ 2013年12月4日~ 9日、アメリカ合衆国、Metropolitan Museum of Art, New York、鎌倉時代仏画および近世仏像調 査のため ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など (研究代表者)2011 ~ 13年度 ・基盤研究(C)「知恩院蔵阿弥陀二十五菩薩来迎図の研究」 ・ 基盤研究(B)「在欧日本仏教美術の基礎的調査・研究とデータベース化による日本仏教美術の情報発信」(研究 分担者)2013 ~ 15年度 杉 山 祐 子 ⑴現在の研究テーマ ・ アフリカ地方農村の変化を農民によるイノベーション過程として見る、アフリカ農耕民社会におけるグローバル 化の進展と「現金の社会化」・ジェンダー、青森県における「近代化」、在来知の研究 ⑵著書・論文、その他 ・ Sugiyama, Yuko 2014 Agrarian Innovation Process and Moral Economy: Embedding Money into the Local Sharing System, Opening Accessibility to Resources、Sugimura (ed.) Proceedings of 6 th International Conference on African Moral Economy, Rural Development and Moral Economy in Globalizing Africa: from Comparative Perspectives, Fukui Prefectural University, 査読無 ・ Sugiyama, Yuko 2013 Local Innovation, Communal Resource Management and a Modern Aspect of “Moral Economy”, Sugimura (ed.) Proceedings of 5th International Conference on African Moral Economy:Endogenous Development and Moral Economy in Agro-pastoral Communities in Central Tanzania, Fukui Prefectural University pp.72-76, 査読無 ・ Sugiyama, Yuko 2013 "The Small Village of 'We, the Bemba':The reference Phase that Connects the Daily Life Practice in a Residential Group to the Chiefdom", Kaori Kawai(ed.) Groups, Kyoto University Press.pp.239-260, 査読有 ・杉山祐子「『感情』という制度」河合香吏編『制度』京都大学学術出版会、pp.349-370、査読有、2013年 ⑶研究発表・講演など ・ Sugiyama, Yuko 2013 “Wanna learn Gogo Music? Just do it”: Modern Sound Practices in the Gogo Villages, Tanzania. In the 44th Annual conference of Japan Music Education Society Symposium :Weaving Non-European Sound Practices into Music Education in Japan, 弘前大学(招待) ・ Sugiyama, Yuko 2013 Embedding / Re-embedding Cash into the Local Community: Cash economy as a default condition, livelihood strategies and moral economy in Rural Africa, in the 6th International Conference on African Moral Economy, Rural Development and Moral Economy in Globalizing Africa from Comparative Perspectives, ドドマ大 学 46 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・2013年8月 タンザニア ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(B)「グローバル化するアフリカ農村と現金をめぐる人類学的研究」(研究代表者) ・基盤研究(A)「アフリカ・モラル・エコノミーを基調とする農村発展に関する比較研究」(研究分担者) ⑺共同研究、受託研究など ・東京外国語大学 「人類社会の進化史的基盤研究⑶」 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・ 日本アフリカ学会創立50周年記念公開セミナー (弘前大学人文学部社会行動コースと共催) 。 講演者:亀井伸孝氏 (愛 知県立大学外国語学部・准教授)2014年2月12日(水)「コートジボワールにおけるろう者・手話言語研究の振興: JICA研修と文化人類学的フィールドワークのコラボレーション」 ・ 日本アフリカ学会創立50周年記念公開セミナー/東北支部会2013年度第1回例会(弘前大学人文学部共催)。2013 年6月21日(金) 講演者:Mark Auslander博士(セントラルワシントン大学)、 Associate Professor of Anthropology and Museum Studies and Director, Museum of Culture and Environment,Central Washington University 演 題: Remembering Slavery in the American South: Art, Architecture, and Contested Narratives 宮 坂 朋 ⑴現在の研究テーマ ・古代末期の地中海文化遺産、カタコンベ、初期キリスト教美術 ⑵著書・論文、その他 [著書] ・宮坂朋『イタリアの世界遺産を歩く』共著、2013年10月、同成社 [論文] ・宮坂朋「キリスト教考古学から古代末期考古学へ」『西洋中世研究』第5号、pp.5-28、単著、2013年12月 ⑷学外集中講義など ・2013年度面接授業「古代ローマの暮らしと美術」放送大学、10月26 ~ 27日 山 田 厳 子 ⑴現在の研究テーマ ・唱導文化、民俗信仰の再文脈化、潜在的な宗教者、オシラ神信仰の「現在」 ⑵著書・論文、その他 ・ 山田厳子「仏教唱導と〈口承〉文化」入間田憲夫・菊地和博編『講座東北の歴史 信仰と芸能』pp.131-154、単著、 2014年2月、清文堂 ・ 山田厳子監修、民俗学実習履修学生編『新郷村の民俗誌―青森県三戸郡新郷村―』弘前大学民俗学実習調査報告 書Ⅳ、全234頁、共著 2013年10月 弘前大学人文学部民俗学研究室 ・ 山田厳子編『弘前大学人文学部文化財論講座調査報告書Ⅱ 弘前市鬼沢 鬼神社の信仰と民俗』全98頁、共著、 2014年3月、弘前大学人文学部文化財論講座 ・山田厳子編『映像解説 オシラ神信仰の「現在」』全11頁、共著、2014年3月 ・ 山田厳子編『弘前大学人文学部民俗信仰資料叢書1オシラ神資料集1』全116頁、共著、2014年3月、弘前大学人 文学部民俗学研究室 ・ 山田厳子「交通・交易」青森県史編さん民俗部会編『青森県史 民俗編 資料 津軽』pp.88-99、 単著 青森県、 2014年3月 ・ 山田厳子「昔話研究のよき入門書 佐々木達司著「あおもりの風土と民話」」『東奥日報』第43892号、2013年9月 21日、11面(文化欄)書評 ⑶研究発表・講演など ・ 山田厳子「『授かるオシラサマ』と〈文脈〉―〈信仰〉が生起する〈場〉をめぐってー」日本民俗学会発表、新潟大学、 2013年10月13日 ・ 山田厳子「ことわざの『動き』を捉える-『新語』の発想から-」日本ことわざ文化学会招待講演、明治大学駿 河台校舎、2013年5月31日 47 ・ 山田厳子「授かる神々―津軽におけるオシラ神の奇瑞と霊験―」日本昔話学会大会招待講演、関西外国語大学、 2013年7月6日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「民俗信仰の再文脈化をめぐるダイナミズム」(研究代表者)2011 ~ 13年度 関 根 達 人 ⑴現在の研究テーマ ・日本考古学、物質文化研究、石造物研究 ⑵著書・論文、その他 [著書] ・関根達人ほか『岩木山を科学する』共著、2014年1月、北方新社 [論文] ・関根達人「近世石造物からみた蝦夷地の内国化」『日本考古学』36号、pp.59-84、単著、2013年10月、日本考古 学協会 ・関根達人「権力の象徴としての大名墓」『季刊考古学』(別冊)20号、pp.4-33、単著、2013年10月、雄山閣 ・関根達人「シベチャリから出土した遺物」『北海道考古学』50号、pp.167-174、単著、2014年3月、北海道考古学 会 ・О.А.Шубина, И.А.Самарин, Т.Сэкинэ, Предметы японского производства XVII - XIX вв.в археологических коллекциях Сахалинского oбластного краеведческого музея. Вестник Сахалинского Музея 20, pp. 99-118.共著、2013 年9月、サハリン州立郷土誌博物館 [研究ノート、報告書、その他] ・関根達人「松前藩主松前家墓所」『事典 墓の考古学』p.455、吉川弘文館、単著、2013年6月 ・関根達人編『函館・江差の近世墓標と石造物』平成22 ~ 25年度科学研究費補助金基盤研究A(課題番号 22242024)研究成果報告書、共著、2013年6月、弘前大学人文学部文化財論研究室 ・関根達人編『中近世北方交易と蝦夷地の内国化』平成22 ~ 25年度科学研究費補助金基盤研究A(課題番号 22242024)研究成果報告書、共著、2014年2月 ⑶研究発表・講演など ・関根達人「津軽の縄文時代-亀ヶ岡文化を中心に-」日本第四紀学会2013年度大会、単独、弘前大学、2013年8 月24日 ・柴正敏・関根達人「胎土分析から見た亀ヶ岡式土器の製作地-土器胎土に含まれる火山ガラスの帰属について-」 日本文化材科学会第30回大会、共同、弘前大学、2013年7月6日 ・ 関根達人「サハリン出土の日本製品」公開シンポジウム「中近世北方交易と蝦夷地の内国化」単独、北海道大学、 2013年10月6日 ・津軽新報社主催津軽情報文化懇話会講演「津軽・松前の飢饉」グリーンパレス松安閣、2013年6月24日 ・弘前大学公開講座「考古学からみた本州アイヌの生業と文化」むつ市立図書館、2013年6月30日 ・弘前市教育委員会主催堀越城跡歴史講座「考古学からみた堀越城」堀越児童館、2013年9月21日 ・日本放射線影響学会第56回大会ランチョンセミナー「縄文文化の実像」ホテルクラウンパレス青森、2013年10月 18日 ⑷学外集中講義など ・弘前大学シニアサマーカレッジ「北の縄文人」弘前大学、2013年9月8日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(A)一般「中近世北方交易と蝦夷地の内国化」(研究代表者)平成22 ~ 25年度 ・基盤研究(C)一般「近世日本国家領域境界域における物資流通の比較考古学的研究」(研究分担者)平成24 ~ 26年度 ・ 基盤研究(C)一般「北海道・東北を中心とする北方交易圏の理論的枠組み構築のための総合的研究」 (研究分担者) 平成25 ~ 27年度 ⑺共同研究、受託研究など ・弘前大学「冷温帯地域の遺跡資源の保存活用促進プロジェクト」平成23 ~ 27年度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など 48 ・ミニ特別展「八郎潟の縄文から弥生」弘前大学人文学部附属亀ヶ岡文化研究センター、2013年10月25日~ 11月 24日 足 達 薫 ⑴現在の研究テーマ ・イタリア美術史 ⑵著書・論文、その他 ・足達薫「記憶術師としての美術家 イタリア・ルネサンスにおける記憶・観念・手法」『西洋美術研究』No.13、 pp.50-66、2013年 ・足達薫「パルミジャニーノの《キリストの埋葬》 マニエリストの二つのヴィジョン」幸福輝責任編集、新藤淳、 保井亜弓、青野純子、渡辺晋輔、足達薫、廣川暁生、小針由紀隆『版画の写像学 デューラーからレンブラント へ』pp.151-218、共著、2013年12月15日、ありな書房 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・イタリアでの文献資料調査(2013年9月) ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「マニエリスムの「時代の眼」:ジュリオ・カミッロの美術論の再構成に基づく」(研究代表者) 2010 ~ 14年度 上 條 信 彦 ⑴現在の研究テーマ ・先史時代北日本における生業・流通・技術の研究 ⑵著書・論文、その他 ・上條信彦「使用痕観察、残存デンプン分析からみた根茎類敲砕用の台石」『物質文化』第93号、物質文化研究会、 pp.87-98、2013年 ・上條信彦「アイヌ民族の竪臼と竪杵、桶、手杵-形態・使用痕観察と残存デンプン粒分析から-」『東アジア古 文化論攷』pp.82-100、2014年 ・上條信彦「縄文時代石皿・台石類、磨石・敲石類の検討」『人文社会論叢―人文科学篇』31号、pp.15-39、2014 年 ・ 上條信彦「サハリン州立博物館所蔵およびサハリン大学考古学・民族誌研究所蔵の玉類(ガラス製品)について」 『中近世北方交易と蝦夷地の内国化に関する研究』、pp34-61、2014年 ⑶研究発表・講演など ・田中克典、石川隆二、上條信彦、杉野森淳子「青森県の遺跡で出土したイネ種子遺存体における形態および DNA分析」日本文化財科学会第30回大会、日本文化財科学会、2013年 ・片岡太郎、上條信彦、柴正敏他「青森県板柳町土井1号遺跡出土籃胎漆器の保存科学的研究と素材同定・技術研 究の試み」日本文化財科学会第30回大会、2013年 ・氏家良博、川村啓一郎、安田創、上條信彦「石油地質学からみた遺跡出土アスファルトの原産地」日本文化財科 学会第30回大会、2013年 ・堀内晶子、大木伽耶子、宮田佳樹、上條信彦「不備無遺跡から出土した土器はどのように使われたのか:科学の 視点から」日本文化財科学会第30回大会、2013年 ・Tanaka.K, Kamijo.N「The transition of agricultural crops in East Asia based on morpphological and DNA」 The 5th Wor ld Conference of the Society of East Asian Archaeology、2013年 ・上條信彦、田中克典「イネ種子遺存体の形態分析および史実に基づいたイネの北進の再検討」日本考古学協会 2013年度総会、2013年 ・上條信彦「脱穀・粉砕具の地域的受容」第3回中日韓朝言語文化比較研究国際シンポジウム、中国:延辺大学、 2013年 ・ 上條信彦「サハリン州立博物館所蔵およびサハリン大学考古学・民族誌研究所蔵の玉類(ガラス製品)について」 公開シンポジウム『中近世北方交易と蝦夷地の内国化』北海道大学 ・上條信彦「亀ヶ岡文化の生業」青森県考古学会大会、五所川原市市浦コミュニティホール、2013年 49 ・上條信彦・佐々木由香・バンダリスダルジャン・松田隆二・杉山真二「白神山地の自然環境の歴史的変遷」シン ポジウム『白神山地を学びなおす』弘前大学白神自然環境研究所、2013年 ・Kamijo Nobuhiko「Stone tools for removing Horse chestnuts (Aesculus turbinate) shells and pounding rhizomes: Usewear」 The 20th Congress of the Indo-Pacific Prehistory Association (IPPA) .Siem Reap, Kingdom of Cambodia、2014年 ・上條信彦「中山遺跡の発掘調査」第9回 九州古代種子研究会久留米大会、九州古代種子研究会、久留米市市民会館、 2014年 ・上條信彦「土偶研究事始」土偶研究会八戸大会、八戸市是川縄文館、2014年 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・中国延辺大学、カンボジアでの国際学会における研究発表 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・若手研究(B)「先史時代東日本における食料加工技術の研究」(研究代表者)2012 ~ 14年度 ・基盤研究(B)「北海道噴火湾沿岸の縄文文化の基礎的研究」(研究分担者)2014 ~ 16年度 ⑺共同研究、受託研究など ・古環境研究所・大阪府立弥生文化博物館 ・弘前大学「冷温帯地域の遺跡資源の保存活用促進プロジェクト」平成23 ~ 27年度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・第30回日本文化財科学会(センター) ・日本第四紀学会(センター) ・青森県考古学会(センター) ○思想文化講座 植 木 久 行 ⑴現在の研究テーマ ・中国古典文学、詩跡研究 ⑵著書・論文、その他 [論文] 『中国詩文論叢』32集、pp.77-104、単著、 ・ 植木久行「恵山寺と恵山泉―江蘇・無錫の詩跡考(南朝・唐代を中心に)―」 2013年12月 ・ 植木久行「唐都長安楽遊原詩考―楽遊原的位置及其意象―」 (羅珮瑄訳) 『生活園林‥中国園林書写与日常生活』 (劉 苑如主編、中央研究院中国文哲研究所)、pp.127-158、単著、2013年12月 ⑶研究発表・講演など ・植木久行「恵山寺と恵山泉―江蘇・無錫の詩跡考―」科学研究費研究会、弘前大学総合教育棟424教室、2013年9 月4日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(B)「中国文学研究における新たな可能性―詩跡の淵源・江南研究の構築―」(研究代表者)平成22 ~ 25年度 田 中 岩 男 ⑴現在の研究テーマ ・ゲーテ『ファウスト』研究 ⑵著書・論文、その他 [その他(エッセイ)] ・田中岩男「己が或る「刹那」に」「Laterne」111号、pp.2-5、単著、2014年2月 50 李 梁 ⑴現在の研究テーマ ・近世東アジアの新知識体系の研究、書院・詩跡研究、地域研究 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・李梁「前川國男とモダニズム建築」『人文社会論叢―人文科学篇』第30号、pp.51-69、単著、2013年8月 [その他(翻訳)] ・佐々木力著・李梁訳「恩格斯《自然弁証法》構思辯析」中国自然科学院『自然弁証法通訊』第35巻第4期、 pp.108-119、単訳、2013年10月 ⑶研究発表・講演など ・李梁「近世東アジアの伝統「知」とその変容について-比較文化史の視野から-」国立台湾大学人文社会高等研 究院主催国際シンポジウム「近代化における東アジアの伝統と新潮流への転換」単独、台湾大学、2013年4月12 日~ 14日 ・李梁「服部宇之吉:一位鮮為人知的中国近代教育的功労者」(中国語による発表)、北京大学哲学系、台湾中央研 究院近代史研究所共催「2013厳復:中国与世界国際会議」単独、北京大学、2013年10月11日~ 14日、 ・李梁「詩跡としての白鹿洞書院」基盤研究(B)「中国文学研究における新たな可能性―詩跡の淵源・江南研究 の構築―」研究会、弘前大学、2013年8月29日 ・李梁「洪大容の科学理解とその実践について」科研研究会「東アジアにおける科学思想の展開に関する思想史的 再検討」単独、弘前大学、2014年2月12日~ 14日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・台湾大学、国際学会参加、研究発表、2013年4月11日~ 16日 ・中国江西省景徳鎮、三清山三清宮、陶磁器、道観に関する調査(基盤研究(A)「東アジア域内100年間の紛争・ 協調の軌跡を非文字資料から読み解く」(代表貴志俊彦、京大地域研究統合情報センター教授)による研究協力 のための依頼出張、2013年9月9日~ 13日 ・大韓民国ソウル、慶尚北道安東市、研究調査及び文献資料蒐集、2013年9月22日~ 30日 ・中国北京大学、国際学会参加、研究発表、2013年10月10日~ 13日 ・中国北京、江西省、研究調査および文献資料蒐集、2013年10月14日~ 21日 ・中国江西省、江蘇省南京、陝西省西安、陶磁器など関係調査、2014年2月25日~ 3月8日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「近世東アジアにおける新知識体系とその構築に関する思想文化史的研究」(研究代表者)平成23 ~ 26年度 ・基盤研究(B)「中国文学研究における新たな可能性―詩跡の淵源・江南研究の構築―」(研究分担者)平成23 ~ 25年度 ⑺共同研究、受託研究など ・人間文化研究機構・国際日本文化研究センター共同研究会「「心身」/身心」と「環境」の哲学-東アジアの伝 統的概念の再検討とその普遍化の試み-」共同研究員、平成24 ~ 26年度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など [公開講演](主催、司会および通訳) ・戸川芳郎「漢学・シナ学の沿革とその問題点―漢文指導の基礎知識―」弘前大学、2013年6月20日 ・劉愛軍「20世紀の中国哲学とグローバル問題」、「儒学の伝統とその現代社会における位置づけ」弘前大学、2013 年11月27日~ 28日 今 井 正 浩 ⑴現在の研究テーマ ・西洋古典学、ヨーロッパ古典文化論、西洋古典古代の医学と同時代の哲学との間の影響関係の解明 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・Masahiro IMAI: Psychological Arguments in the Hippocratic Treatises On the Sacred Disease and Airs, Waters, Places, Japan Studies in Classical Antiquity [=JASCA], Vol.2, pp. 47-66, March 2014. 51 ⑶研究発表・講演 ・今井正浩「クリュシッポスと初期アレクサンドリアの医学者たち―人体の中枢器官をめぐる論争史の一端―」単 独、日本科学史学会・第60回年総会、日本大学商学部、2013年5月25日~ 26日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・イギリス ケンブリッジ大学古典学部 大英図書館(ロンドン)、文献資料調査・専門研究者との意見交換等、 2013年9月21日~ 28日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・ 基盤研究(C)「人体の中枢器官をめぐる論争史をとおしてみた西洋古典古代の人間観の展開に関する実証研究」 (研究代表者)平成25 ~ 27年度 木 村 純 二 ⑴現在の研究テーマ ・日本倫理思想史の通史的研究、伊藤仁斎の倫理思想、和辻哲郎の倫理思想 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・木村純二「恋の起源―『古事記』イザナミ神話の意味するもの」『人文社会論叢―人文科学篇』第30号、pp.123、2013年8月 ⑶研究発表・講演など ・「伊藤仁斎における「性」について ―「四端の心」を中心に―」基盤研究(A)「東アジアにおける朝鮮儒教に 位相に関する研究」研究報告会、都留文科大学、2013年8月30日 ・「伊藤仁斎の「愛」の思想 ―他者と共に生きる―」弘前大学人文学部国際公開講座「日本を知り、世界を知る」 弘前大学、2013年10月26日 ・「和辻哲郎の構想力をめぐって」基盤研究(C)「和辻哲郎による日本倫理思想史および日本文化史研究の総合的 再検討」研究報告会、東京大学、2014年3月26日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「和辻哲郎による日本倫理思想史および日本文化史研究の総合的再検討」(研究代表者) ・基盤研究(A)「東アジアにおける朝鮮儒教に位相に関する研究」(研究分担者、代表:島根県立大学・井上厚史) 泉 谷 安 規 ⑴現在の研究テーマ ・ジョルジュ・バタイユ、シュルレアリスム、19世紀から20世紀における精神医学とフランス文学との関係 ⑵著書・論文、その他 [翻訳] ・ニコラ・アブラハム、マリア・トローク『表皮と核』共訳、2014年3月、松籟社 ⑷学外集中講義など ・弘前大学ドリーム講座「フランス語を楽しもう」青森県立青森南高等学校、2013年11月8日 山 口 徹 ⑴現在の研究テーマ ・日本近現代文学、大正期ロマン主義文学についての修辞的研究、1910年代日欧文化情報伝達の調査研究 ⑵著書・論文、その他 [研究ノート、報告書、その他] ・日本近代文学会東北支部『東北近代文学事典』(「内田百閒」(p.72) 「森鷗外」(pp.506-507)の項を執筆)、共著、 勉誠書店、2013年6月 ・オンライン版『日本近代文学館所蔵太宰治自筆資料集』解題(旧制中学校・高等学校時代の資料を担当)、共著、 雄松堂書店、2014年4月 ⑶研究発表・講演など 52 ・山口徹「鴎外の伝えたアート・シーン ドキュメンテーションとしての「椋鳥通信」及び全人名索引」第80回研 究会アート・ドキュメンテーション学会、単独、文京区立森鴎外記念館、2013年10月27日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「森鴎外の訳業を媒体とした1910年代日欧文化情報伝達の調査と分析」(研究代表者)2013 ~ 15 年度 横 地 徳 廣 土 井 雅 之 ⑴現在の研究テーマ ・イギリス文学・文化、シェイクスピアとその時代 ⑶研究発表・講演など ・土井雅之「『エドワード三世』におけるドラマツルギー」第52回シェイクスピア学会、単独、鹿児島大学、2013 年10月5日 〇コミュニケーション講座 山 本 秀 樹 ⑴現在の研究テーマ ・地理情報システム(GIS)による世界諸言語の言語類型地理論的研究、世界諸言語の言語構造地図の作製および 分析、言語類型論と言語普遍性研究、人類と言語の系統に関する研究 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・山本秀樹「現生人類単一起源説と言語の系統について」http://www.l.chiba-u.ac.jp/download/1055/file.pdf、pp.1-14、 単著、2013年12月 ⑶研究発表・講演など ・山本秀樹「現生人類単一起源説と言語の系統について」千葉大学文学部講演会、千葉大学、2013年11月21日 ・山本秀樹「日本人にとっての外国語教育~言語学の立場から~」複言語・複文化教育プロジェクト、弘前大学み ちのくホール、2013年12月12日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「地理情報システムによる世界諸言語の格標示体系の言語類型地理論的研究」(研究代表者)平成 25 ~ 27年度 木 村 宣 美 ⑴現在の研究テーマ ・英語学・言語学(統語論・意味論) ・右方移動現象の分析に基づく併合と線形化のメカニズムの解明 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・木村宣美「右方転移と談話機能」『人文社会論叢―人文科学篇』第30号、pp.1-13、単著、平成25 (2013) 年8月 ・木村宣美「右方転移文の派生と情報構造」『人文社会論叢―人文科学篇』第31号、pp.1-13、単著、平成26 (2014) 年2月 ⑷学外集中講義など ・平成25年度(2013年度)第2学期面接授業「談話の文法で読み解く英語の語順」放送大学青森学習センター、平 成25(2013)年12月21日~ 22日 53 田 中 一 隆 ⑴現在の研究テーマ ・英国初期近代演劇研究、概念史研究、日英比較文学・文化研究 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・Kazutaka Tanaka, "The Multiple Plot Structure of Robert Greene's Friar Bacon and Friar Bungay: A New Perspective," Shakespeare Studies, 51号, pp.1-20, The Shakespeare Society of Japan, 単著, 2014年3月 ⑶研究発表・講演など ・ 田中一隆「Henry MedwallのFulgens and Lucres―劇構造の観点から」第85回日本英文学会全国大会、単独、東北大学、 2013年5月26日 ・田中一隆「Shakespeareにおけるastrology概念とその翻訳―演劇言語の翻訳について」日本比較文学会第3回北海 道支部東北支部共催比較文学研究会、単独、北海道大学、2015年3月29日 ・田中一隆、「Shakespeareにおけるastrology概念の概念史的意義について」第15回エリザベス朝研究会、単独、慶 應義塾大学、2015年3月8日 ⑷学外集中講義など ・「シェイクスピアと英語文化の伝統」旭川北高等学校、2013年8月27日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)一般「英国中世・初期近代・近代の文献に現れた占星術概念の歴史的変遷に関する概念史的研究」 (研究代表者)平成25 ~ 27年度 ・基盤研究(B)一般「デジタルアーカイヴズと英国初期近代演劇研究―劇場、役者、印刷所を繋ぐネットワーク」 (研究分担者)平成23 ~ 26年度 渡 辺 麻里子 ⑴現在の研究テーマ ・日本古典文学、中世仏教説話、文献資料学 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・渡辺麻里子「天台仏教と古典文学」『天台学探尋――日本の文化・思想の核心を探る――』単著、pp.273-305、 2014年3月 [その他] ・渡辺麻里子「伝忠尋撰『七百科條鈔』の研究」『天台宗報』296号、pp.56-92、2014年3月 ⑶ 研究発表・講演など ・ 渡辺麻里子「弘前藩の藩校資料――お殿様の学問と教養――」弘前大学人文学部国際公開講座2013「日本を知り、 世界を知る」単独、弘前大学、2013年10月26日 ⑷学外集中講義など ・放送大学集中講義、11月 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(B)「宮内庁書陵部所蔵道蔵を中心とする明版道蔵の研究」(研究分担者・東京大学)平成23 ~ 25年 度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・弘前大学人文学部国際公開講座2013「日本を知り、世界を知る」弘前大学、2013年10月26日 上 松 一 ⑴現在の研究テーマ ・SLA ⑶研究発表・講演など ・ʻApproach and Methods of Teaching English in Englishʼ青森教育のつどい2013、単独、プラザホテルむつ、2013年11 月3日 54 奈 蔵 正 之 熊 野 真規子 ⑴現在の研究テーマ ・フランス語教育、映像研究 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・ソウル大学(大韓民国ソウル市)COLLOQUE INTERNATIONAL CONJOINT、SCELLF-SDJF2013参加、2013年10 月17日~ 21日 ⑹科学研究費助成事業 ・ 基盤研究(B)「異文化間能力養成のための教材と評価基準の開発およびその有効性の検証」(連携研究者、代表: 大木充(京都大学名誉教授))平成25 ~ 27年度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・複言語・複文化教育プロジェクト・トークセッション:慶應義塾大学教授 國枝孝弘講演:弘前大学、2013年11 月22日 ・複言語・複文化教育プロジェクトシンポジウム: 「これでいいのか、大学の外国語教育!」森住衛(桜美林大学教授)、 大木充(京都大学名誉教授)、西山教行(京都大学大学院教授)、弘前大学、2013年12月12日 小野寺 進 ⑴現在の研究テーマ ・イギリス文学(小説、物語構造)、イギリス文化 ⑵著書・論文、その他 [その他] ・小野寺進「学問の行方を考える」『弘前』第415号、p.45、2014年2月 ⑷学外集中講義など ・北里大学獣医学部非常勤講師、放送大学客員准教授 ジャンソン・ミッシェル ⑷学外集中講義など ・「基本フランス語 I」秋田大学・教育文化部、2013年7月31日~ 8月3日 ・「フランス語会話・作文(上級)」山形大学・人文学部、2013年8月5日~ 8日 ・「基本フランス語 II」秋田大学・教育文化部、2014年2月12日~ 14日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・フランス国・ボルドー市、逝去した学生の遺灰を受け取るため、新しい協定書の内容の打ち合わせ、その他、 2013年12月4日~ 11日 楊 天 曦 川 瀬 卓 ⑴現在の研究テーマ ・日本語史(語彙史・文法史)、副詞の歴史的研究 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・ 川瀬卓「日本語副詞の歴史的研究」学位論文、全185頁、単著、2013年8月(2013年8月31日付で九州大学より博士(文 学)を授与。なお、同論文により2014年3月25日付で平成25年度九州大学大学院人文科学府長賞(大賞)を受賞。) ⑶研究発表・講演など 55 ・川瀬卓「副詞「どうも」の史的変遷」日本語文法学会第14回大会、単独、早稲田大学、2013年12月1日 ⑷学外集中講義など ・弘前大学ドリーム講座「方言にみることばの変化―東北方言サの謎―」青森県立八戸西高等学校、2013年10月9 日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・研究活動スタート支援「不定語と助詞によって構成される副詞の歴史的研究」(研究代表者)平成24 ~ 25年度 ・基盤研究(C)一般「地方議会議事録の社会言語学的研究―バリエーション研究の事例として―」(研究分担者) 平成25 ~ 27年度 堀 智 弘 ⑴現在の研究テーマ ・十九世紀アメリカ文学、奴隷制文学 ⑵著書・論文、その他 ・堀智弘『アメリカン・ヴァイオレンス-見える暴力・見えない暴力』共著、2013年05月、彩流社 ・堀智弘「フレデリック・ダグラスとジョサイア・ヘンソン―十九世紀中葉の「反抗的な奴隷」像に関する一考察 ―」『人文社会論叢―人文科学篇』30号、pp.15-27、単著、2013年8月 〇国際社会講座 CARPENTER, Victor Lee ⑵著書・論文,その他 [その他] ・神田健策・黄孝春・CARPENTER, Victor 「農産物の知財マネジメントとりんご生産販売システムの新動向:ピン クレディーの事例を中心に」『2013年度日本農業経済学会報告論文集』日本農業経済学会、pp. 118-124、共著、 2013年 PHILIPS, John Edward ⑵著書・論文,その他 [その他] ・John Edward PHILIPS, Japanʼs deficit in visionary thinking. The Japan Times, 8 Apr. 2013, 単著,2013年4月(http://www. japantimes.co.jp/opinion/2013/04/08/ commentary/japans-deficit-in-visionary-thinking/) 齋 藤 義 彦 ⑴現在の研究テーマ ・ドイツ論 ⑵著書・論文,その他 [その他] ・齋藤義彦「キプロス危機とドイツ政治」『青森法政論叢』第14号、pp. 134-146、単著、2013年8月 ・齋藤義彦(翻訳)「鉱業,化学,エネルギー産業労働組合第5回定期総会でのアンゲラ・メルケル連邦首相の講演 (ハノーファー、2013年10月16日)」『人文社会論叢―社会科学篇』第31号、pp. 131-142,単著、2014年2月 城 本 る み 56 荷 見 守 義 ⑴現在の研究テーマ ・中国明代史・東アジア地域史 ⑵著書・論文,その他 [論文] ・ 荷見守義 「明朝档案を通じて見た明末中朝辺界」『人文研紀要』第77号、中央大学人文科学研究所、pp.77-108、 単著、 2013年9月 ・荷見守義「「宗藩の海」と被虜人」弘末雅士(編)『越境者の歴史学:奴隷・移住者・混血者』春風社、pp.127144、単著、2013年12月 ⑶研究発表・講演など ・荷見守義「倭寇と海防:中華王朝にとって海とはなにか」弘前大学人文学部国際公開講座2013「日本を知り、世 界を知る:資料から読み解くアジアの人・心・歴史」 単独、2013年10月26日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「明朝遼東鎮をめぐる官僚人事・政策形成・朝鮮関係の解明」(研究代表者) ⑺共同研究,受託研究など ・中央大学人文科学研究所「档案の世界」研究チーム ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・⑶に同じ 松 井 太 ⑴現在の研究テーマ ・内陸アジア史、古代ウイグル語・モンゴル語文献の歴史学的研究 ⑵著書・論文,その他 [論文] ・Dai MATSUI, Uigur käzig and the Origin of Taxation Systems in the Uigur Kingdom of Qočo. In: M. Ölmez (ed.), Festschrift in Honor of Talat Tekin (Türk Dilleri Araştırmaları 18)[2008], İstanbul: Yıldız Teknik Üniversitesi, pp. 229242, 単著, 2013年 ・ 松井太「敦煌諸石窟のウイグル語題記銘文に関する箚記」『人文社会論叢―人文科学篇』第30号、pp. 29-50、単著、 2013年8月 ・Dai MATSUI, Ürümçi ve Eski Uygurca Yürüngçın üzerine. In: H. Şirin User & B. Gül (eds.), Yalım Kaya Bitigi: Osman Fikri Sertkaya Armağanı, Ankara: Türk Kültürünü Araştırma Enstitüsü, pp. 427-432, 単著,2013年12月 ・Dai MATSUI, Old Uigur Toponyms of the Turfan Oases. In: E. Ragagnin & J. Wilkens (eds.), Kutadgu Nom Bitig, Wiesbaden: Harrassowitz, 印刷中, 単著, 2014年 [その他] ・松井太「モンゴル時代の東西交易」岡本隆司(編)『中国経済史』名古屋大学出版会、pp. 175-176、単著、2013 年11月 ⑶研究発表・講演など ・ 松井太「敦煌諸石窟のウイグル語題記銘文」第50回日本アルタイ学会(野尻湖クリルタイ)、単独、野尻湖藤屋旅館、 2013年7月13日 ・松井太「古代ウイグル語の行政文書:税役関係文書を中心に」国際ワークショップ「ユーラシア東部地域におけ る公文書の史的展開:胡漢文書の相互関係を視野に入れて」(基盤研究(A)「シルクロード東部の文字資料と遺 跡の調査」研究班・中央ユーラシア学研究会)、単独、大阪大学、2013年9月22日 ・ Dai MATSUI, Dating of the Old Uigur Administrative Orders from Turfan. The 8th International Congress of Turcology, 単 独, Istanbul University (Turkey), 2013年10月1日 ・松井太「ウイグル文献とモンゴル文献」文理融合型東洋写本・版本学講習会「東洋のコディコロジー:非漢字文 献」単独、(財)東洋文庫、2013年10月19日 ・松井太「敦煌莫高窟・楡林窟的回鶻文・蒙古文題記銘文続考」蘭州大学敦煌文献講座、単独、蘭州大学(中華人 民共和国)、2013年12月21日 ⑷学外集中講義など 57 ・北東北三大学単位互換集中講義「歴史学の基礎(B)」岩手大学、2013年8月27日~ 8月30日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・トルコ共和国(イスタンブル)、研究発表・資料調査、2013年9月30日~ 10月12日 ・中華人民共和国(蘭州、敦煌)、講演・資料調査、2013年12月18日~ 12月25日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「中央アジア出土古代ウイグル語帳簿資料の基礎的研究」(研究代表者)平成22 ~ 25年度 ・三菱財団人文科学研究助成「敦煌石窟の供養人像と諸言語銘文の歴史学・文献学的総合研究」(研究代表者) 2011年10月~ 2013年8月 ・基盤研究(A)「シルクロード東部の文字資料と遺跡の調査:新たな歴史像と出土史料学の構築に向けて」(研究 分担者)平成22 ~ 25年度 ⑺共同研究、受託研究など ・(財)東洋文庫・内陸アジア研究部門・中央アジア研究班「サンクトペテルブルグ所蔵古文献の研究:ウイグル 文を中心として」研究班員(代表:梅村坦) ・(財)トヨタ財団アジア隣人プログラム研究助成プロジェクト「イラン・中国・日本共同によるアルダビール文 書を中心としたモンゴル帝国期多言語複合官文書の史料集成」共同研究者(代表:四日市康博、財団助成期間終 了、継続中) ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・松井太「シルクロードの仏教巡礼:敦煌の通行手形と落書きから」弘前大学人文学部国際公開講座2013「日本を 知り、世界を知る:資料から読み解くアジアの人・心・歴史」単独、弘前大学、2013年10月26日 林 明 ⑴現在の研究テーマ ・ガンディーの思想及び歴史的再評価、ガンディーの思想の継承、スリランカの民族問題 ⑵著書・論文、その他 [著書] ・林明・佐藤博美『インド人はなぜ頭が良いのか』colors BOOKS、共著、2014年1月 [論文] ・林明「【スリランカ】世界遺産がひしめく美しい島に静かに眠る人々の苦しみ」『地域研究』Vol. 13、 No. 2、京都 大学地域研究統合情報センター、pp. 368-374、単著、2013年 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・インド(デリー、アラーハーバード他)、資料調査、2013年8月20日~ 9月6日 ・スリランカ(コロンボ、ジャフナ他)、資料調査、2014年3月22日~ 4月6日 ⑺共同研究、受託研究など ・ガンディーと日本の関係についてのThomas Weber氏との共同研究 澤 田 真 一 ⑴現在の研究テーマ ・ニュージーランド文学、マオリ文学、ポストコロニアル文学 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・澤田真一「イヒマエラとマンスフィールドによる文学的対話:パール・ボタンの誘拐をめぐるふたつの物語」『南 半球評論』29号、pp. 33-45、単著、2013年12月 ⑶研究発表・講演など ・澤田真一「イヒマエラとマンスフィールドによる文学的対話」Katherine Mansfield没後90周年記念大会、単独、 日本女子大学、2013年11月9日 ・澤田真一「ニュージーランド文学におけるポストコロニアル・アイデンティティの形成」日本ニュージーランド 学会第68回研究会、単独、東京外国語大学、2014年3月1日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など 58 ・基盤研究(C)「ニュージーランド文学におけるポストコロニアル・アイデンティティの形成」(研究代表者)平 成23 ~ 25年度 FURHT, Volker Michael 中 村 武 司 ⑴現在の研究テーマ ・西洋史、イギリス史・イギリス帝国史、近代ヨーロッパ史 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・中村武司「18世紀のイギリス帝国と「旧き腐敗」:植民地利害の再検討」秋田茂・桃木至朗(編)『グローバルヒ ストリーと帝国』大阪大学出版会、pp. 135-157、単著、2013年4月 [その他] ・キース・ロビンズ(翻訳:中村武司)「イギリス的やり方と目的」、キース・ロビンズ(編)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史10: 20世紀 1901 ~ 1951年』(日本語版監修:鶴島博和;監訳:秋田茂)、慶應義塾大学出版会、 pp. 84-121、単著、2013年8月 ・ パトリック・カール・オブライエン(翻訳:中村武司) 「グローバル市民のためのグローバルヒストリー」秋田茂(編) 『アジアからみたグローバルヒストリー:「長期の18世紀」から「東アジアの経済的再興」へ』ミネルヴァ書房、 pp. 309-332、単著、2013年11月 ⑶研究発表・講演など ・中村武司「「近世」の世界システムをどう考えるのか」全国歴史教育研究協議会・第54回研究大会、単独、ワー クピア横浜、2013年7月31日 ⑷学外集中講義など ・出張講義「ヨーロッパとは何か」青森県立青森南高等学校、2013年9月27日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(A)「最新の研究成果にもとづく大学教養課程用世界史教科書の作成」(研究分担者)平成23 ~ 25年 度 武 井 紀 子 ⑴現在の研究テーマ ・古代日本地方制度研究、出土文字資料研究、日唐律令制比較研究 ⑵著書・論文、その他 [その他] ・平川南・武井紀子「古代出土文字の画像公開を目指して」『歴博』第180号、国立歴史民俗博物館、pp. 20-23、共 著、2013年9月 ・平川南(編)『古代日本と古代朝鮮の文字文化交流』大修館書店、編集協力、2014年3月 ⑷学外集中講義など ・2013年度前期非常勤講師「歴史学」国際医療福祉大学、2013年4月~ 9月 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・韓国慶州市・ソウル市、出土文字資料調査、2013年9月3日~ 9月7日 ・中国西安市・北京市、資料調査、2013年11月22日~ 11月27日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(B)「律令制的人民支配の総合的研究:日唐宋令の比較を中心に」(研究協力者)平成25 ~ 28年度 ・基盤研究(A)「古代における文字文化形成過程の総合的研究」(研究協力者)平成22 ~ 27年度 ⑺共同研究、受託研究など ・国立歴史民俗博物館・展示プロジェクト「文字がつなぐ:古代の日本列島と朝鮮半島」 ・国際日本文化研究センター・共同研究「日本的時空間の形成」(代表:吉川真司)、平成25年4月~ 26年3月、共 59 同研究員 ・国文学研究資料館・共同研究「藤原道長の総合的研究:王朝文化の展開を見据えて」(代表:大津透)、平成23年 4月~ 25年3月、共同研究員 〇 情報行動講座 奥 野 浩 子 ⑴現在の研究テーマ ・日本語、英語、韓国語の比較対照、小学校での外国語教育法/学習法の開発 ⑵著書・論文、その他 [その他] ・ 奥野浩子・青森グローバル教育研究会『青森県の小学生への韓国語学習導入の可能性をさぐる』科研費等報告書、 共著、2014年2月 ⑶研究発表・講演など ・多田恵実、奥野浩子「小学校児童の2 ヶ国語を使った英語教育 -ソウル日本人学校と東京韓国学校の児童アン ケート調査報告」第13回小学校英語教育学会沖縄大会、共同、琉球大学、2013年7月14日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・挑戦的萌芽研究「青森県の小学校に二つの外国語を導入するための予備的調査研究」(研究代表者)平成23 ~ 25 年度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・科研費公開研究会「小学生からの外国語学習を効果的にするには?」弘前大学創立50周年記念会館・岩木ホール、 2013年6月22日 佐 藤 和 之 ⑴現在の研究テーマ ・日本語方言の研究 ⑵著書・論文、その他 ・『社会言語科学会論文集「ことば」と「考え方」の変化研究:社会言語学の源流を追って』社会言語科学会 ⑶研究発表・講演など ・社会言語学がwelfare linguisticsであることの理由ー鶴岡調査の根拠と貢献」『社会言語科学会論文集「ことば」と 「考え方」の変化研究:社会言語学の源流を追って』 作 道 信 介 曽 我 亨 ⑴現在の研究テーマ ・東アフリカ牧畜社会の脆弱化する生業基盤と人々の対応 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・曽我亨「生業」松田素二編『アフリカ社会を学ぶ人のために』世界思想社、pp.56-69、2014年、査読無 ・曽我亨「制度が成立するとき」河合香吏編『制度』京都大学学術出版会、pp.1-18、2013年、査読有 ・Soga, T.,: Perceivable “Unity”: Between Visible “Group” and Invisible “Category.” In K. Kawai ed. Groups, Kyoto University Press, 2013, pp.219-238、査読無 ⑶研究発表・講演など ・Soga, T.,: Pastoral Identities in East Africa for Surviving Neoliberal Era. A paper presented at the 112th Annual Meeting of 60 the American Anthropological Association, November 20-24, 2013, Chicago, USA、査読有 ・曽我亨.「難民の生存を可能にする新たな経済活動⑵:南エチオピアにおけるラクダ交易の変化」日本アフリカ 学会第50回学術大会、東京大学、2013年5月25日~ 26日、査読有 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・2013年8月18日~ 9月19日 エチオピア民主連邦共和国(現地調査) ・2014年2月15日~ 23日 ケニア共和国(JICA「アフリカの角干ばつ対応事業現地視察」 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「難民となった牧畜民の生存にかかわる経済活動の人類学的研究」(研究代表者)2010 ~ 13年度 ・基盤研究(A)「アフリカ在来知の生成と共有の場における実践的地域研究」(研究分担者)2011 ~ 16年度 ⑺共同研究、受託研究など [共同研究] ・東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所共同研究「人類社会の進化史的基盤研究」 [受託研究] ・青森県(西北地域県民局)「津軽半島北西部における伝統技術の復元に関する調査研究」 内 海 淳 ⑴現在の研究テーマ ・ICT利用教育、文書処理 ⑶研究発表・講演など ・内海淳「全学統一オンライン試験の実施 その展望と課題」2013PCカンファレンス、単独、東京大学、2013年8月 5日 ・内海淳「コンピュータを用いたTOEIC模擬試験の実施」教育改革ICT戦略大会、単独、アルカディア市ヶ谷、 2013年9月5日 ⑷学外集中講義など ・弘前大学ドリーム講座「英語の単語のしくみ」青森県立弘前中央高等学校、2013年8月22日 大 橋 忠 宏 ⑴現在の研究テーマ ・空港や路線の特性を考慮した国内及び国際航空市場特性の検討、弘前市を含む津軽地方における持続可能な公共 交通サービスの設計 ⑶研究発表・講演など ・大橋忠宏、工藤亮磨「弘前市の公共交通の現状と市内の環状バス利用促進の可能性:城東環状100円バスの場合」 2013年度公益事業学会北海道・東北部会、弘前大学、青森県、2013年9月7日 ・大橋忠宏、工藤亮磨「弘前市の都市内公共交通サービスの現状とバスサービスの改善案:弘前市城東環状100円 バスの場合」日本都市学会第60回大会、サンポート高松、香川県、2013年10月26日~ 27日 ⑷学外集中講義など ・青森公立大学「地域と情報ネットワーク」 ・弘前大学ドリーム講座「都市の形成を経済学で考える」青森県立三本木高等学校、2013年7月3日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「空港・路線の特性を考慮した国内及び国際航空市場の政策評価に関する実証研究」(研究代表者) 平成24 ~ 27(2012 ~ 15)年度 羽 渕 一 代 ⑴現在の研究テーマ ・情報化にともなう親密性の変容 ⑵著書・論文、その他 ・ 羽渕一代「現代日本の若者の性的被害と恋人からの暴力」 『「若者の性」白書―第7回青少年の性行動全国調査報告』、 61 小学館 ・羽渕一代「メディア利用にみる恋愛・ネットワーク・家族形成」『ケータイの2000年代―成熟するモバイル社会』、 東京大学出版会 ⑶研究発表・講演など ・“Mobile Phone in Turkana, Kenya: Deepening Individualization or Reformulating Complexity of Human Relations?” In The 43rd annual conference of the Canadian Association of African Studies. ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・ボストン大学(米国:2013年5月) ・トゥルカナ調査(ケニア共和国:2014年2月~ 3月) ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・アクティブラーニング報告会「地域の祭や芸能を継承するとはどういうことか―新郷村と佐井村から学ぶ」2014 年2月8日 増 山 篤 日比野 愛 子 ⑴現在の研究テーマ ・科学知・テクノロジーのグループ・ダイナミックス ⑵著書・論文、その他 [論文] ・日比野愛子「心理学のアナロジーで見る数値評価の問題」『科学技術社会論研究』第10号、pp.41-51、単著、2013 年7月 [研究ノート、報告書、その他] ・日比野愛子、山口恵子、塩田朋陽「野田村の声を探る:自由回答分析より」『北リアスにおけるQOLを重視し た災害復興政策研究 野田村のみなさまの暮らしとお仕事に関するアンケート調査報告書』pp.103-122、共著、 2013年9月 ⑶研究発表・講演 ・Aiko Hibino, Masato Fukushima「Habitat Segregation of Research Technologies : A Case of Atomic Force Microscopy in Biology」、Asia-Pacific Science, Technology & Society Network Biennial Conference 2013、共同、National University of Singapore,(Singapore)、2013年7月15日 ・日比野愛子「プロトセルの「生命らしさ」知覚に影響を与える要因」細胞を創る研究会、単独(ポスター発表)、 慶應義塾大学鶴岡タウンキャンパス、2013年11月14日 ・ 日比野愛子「実験室の中で<象>と出会う」質的心理学会質的心理学フォーラム編集委員会企画シンポジウム「社 会のなかで〈社会〉と向き合う」単独、立命館大学、2013年9月 ⑷学外集中講義 ・弘前大学ドリーム講座「ゲームで体験する社会心理学」青森県立野辺地高等学校、2013年8月28日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動 ・シンガポール、Asia-Pacific Science, Technology & Society Network Biennial Conference 2013参加、2013年7月14日~ 17日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・若手研究(B)「生命観を彫刻する細胞デザインに関する研究」(研究代表者)平成25 ~ 26年度 ・ 基盤研究(A) 「北リアスにおけるQOLを重視した災害復興政策研究-社会・経済・法的アプローチ」 (研究分担者) 平成24 ~ 26年度 ⑺共同研究、受託研究など ・平成25年度弘前大学と弘前市との連携調査研究委託モデル事業「弘前市における若年層の地域移動」 (研究代表者) 平成25年度 ・平成25年度青森県西北地域県民局受託研究「津軽半島北西部における伝統技術の復元における調査研究」(研究 分担者)平成25年度 62 栗 原 由紀子 ⑴現在の研究テーマ ・統計的マッチングに関する研究、企業の判断情報に関する研究、政府統計ミクロデータの推定精度に関する研究 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・ 坂田幸繁・栗原由紀子「法人企業統計のデータ・リンケージとその有効性の検証」『中央大学経済研究所年報』 第44号、pp.271-306、共著、2013年9月 ・栗原由紀子「統計的マッチングにおける推定精度とキー変数選択の効果-法人企業統計調査ミクロデータを対象 として-」一橋大学ディスカッションペーパー、 Series A No.595、pp.1-20、単著、2013年10月 ・栗原由紀子・坂田幸繁「ミクロデータ分析における調査ウェイトの補正効果-社会生活基本調査・匿名データの 利用に向けて-」『人文社会論業―社会科学篇』第31号、pp.93-113、共著、2014年2月 ⑶研究発表・講演など ・栗原由紀子「Multiple Imputation による統計的マッチングの利用可能性について」平成25年度 一橋大学経済研究 所 共同利用共同研究拠点事業プロジェクト研究・研究集会、単独、一橋大学、2013年7月20日 ・栗原由紀子「法人企業統計調査による統計的マッチングの精度検証」2013年度統計関連学会連合大会、単独、大 阪大学、2013年9月9日 ・栗原由紀子「ミクロデータ分析における調査ウェイトの補正効果について」第57回経済統計学会全国研究大会、 単独、静岡市産学交流センター、2013年9月14日 ・栗原由紀子「企業の判断情報における予測パフォーマンスと予想誤差について」研究集会「ミクロデータから見 た我が国の社会・経済の実像」、単独、一橋大学、2014年3月8日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・一橋大学経済研究所共同利用共同研究拠点事業プロジェクト研究「景気変動を踏まえた就業行動と企業の生産性 および賃金構造の動態変化に関する計量分析」(共同研究者、代表:中央大学・坂田幸繁)平成25年度 〇ビジネスマネジメント講座 柴 田 英 樹 ⑴現在の研究テーマ ・粉飾決算研究、国際会計学、近代会計史 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・柴田英樹「粉飾経理発見の実証研究」『人文社会論叢―社会科学篇』第31号、pp.1-9、単著、2014年2月 ・柴田英樹「青柳会計学から見た粉飾」『人文社会論叢―社会科学篇』第30号、pp.75-91、単著、2013年8月 ・柴田英樹「統合報告の行方」『弘前大学経済研究』第36号、pp.74-85、単著、2013年12月 ・柴田英樹「統合報告に関する一考察」『産業経理』第73巻第4号、pp.4-15、単著、2014年1月 ⑶研究発表・講演など ・柴田英樹「粉飾の発見・防止を総括する」日本会計学研究学会第72回全国研究大会、単独、中部大学春日井キャ ンパス、2013年9月6日 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・弘前大学オープンキャンパス「ディズニーランドはなぜ成長し続けることができるのか」弘前大学総合教育棟キャ ンパス、2013年8月9日 保 田 宗 良 ⑴現在の研究テーマ ・健康マーケティングシステム、医薬品流通システム ⑵著書・論文、その他 [論文] 63 ・保田宗良「健康マーケティングと医薬品流通業の関わりについての若干の考察」『人文社会論叢―社会科学篇』 第30号、pp.127-136、単著、2013年8月 ・保田宗良「地域医療の質的向上と健康マーケティングに関する考察」『消費経済研究』第2号、pp.130-141、単著、 2013年10月 ・ 保田宗良「地域貢献を意図したアクティブ・ラーニングについての一考察 -顧客満足の追求-」『21世紀教育 フォーラム』第9号、pp.19-26、単著、2014年3月 [研究ノート、報告書、その他] ・保田宗良「課題解決型学習 -顧客満足の追求-」『公共交通を活用した中弘南黒地域活性化の研究』学部戦略 経費報告書、pp.53-61、単著、2014年3月 ⑶研究発表・講演など ・保田宗良「健康マーケティングと医薬品流通に関する考察」日本消費経済学会東日本大会、単独、日本大学、 2013年6月1日 ・保田宗良「一般用医薬品のインターネット通販についての考察」地域文化教育学会全国大会、単独、青森公立大 学、2013年10月19日 ・保田宗良「医療サービスの質的向上と医薬品流通体制」日本消費経済学会全国大会、単独、中央学院大学、2013 年10月27日 ・保田宗良「医療マーケティングと医薬分業」日本消費経済学会北海道・東北部会研究報告会、単独、北星学園大 学、2014年3月29日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)一般「地域医療の質的向上を意図した医薬品流通システムの構築」(研究代表者)平成23 ~ 25年 度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・シンポジウム「公共交通を活用した中弘南黒地域の活性化」弘前商工会議所会館、2014年2月11日 森 樹 男 ⑴現在の研究テーマ ・日系多国籍企業の地域統括本社制、北欧の地域活性化モデルと青森県、同人マンガの電子書籍化と海外展開 ⑵著書・論文、その他 [研究ノート、報告書、その他] ・森樹男編『若者の感性を活かした産学官連携ビジネスモデルの構築事業実施報告書』弘前大学人文学部・教育学 部、共著、2014年2月 ・森樹男編『課題解決型学習と学生の主体的な学び-大学生のチャレンジ2013-報告書』弘前大学人文学部・農学 生命科学部、共著、2014年2月 ・森樹男編『地域企業と実践する課題解決型学習による主体的な学びプログラムの構築 平成25年度事業実施報告 書』弘前大学、共著、2014年3月 ⑶研究発表・講演など ・ 森樹男「グローバル時代の企業経営について」ものづくり経営革新塾(ひろさき産学官連携フォーラム)、弘前市、 土手町コミュニケーションプラザ、2013年11月27日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・スウェーデン、インタビュー調査、2013年9月2日~ 8日 ・シンガポール、インタビュー調査、2014年3月3日~ 7日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・文部科学省GP「産業界のニーズに対応した教育改善・充実体制整備事業」(事業実施代表者)平成24 ~ 26年度 ⑺共同研究、受託研究など ・青森県産業技術センター弘前地域研究所「若者の感性を活かした産学官連携ビジネスモデルの構築事業」2013年 10月~ 2014年2月 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・弘前大学講演会「課題解決型学習の実践と課題」弘前大学、2013年10月18日 ・弘前大学フォーラム「課題解決型学習と学生の主体的な学びⅡ」ベストウェスタンホテルニューシティ弘前、 64 2013年12月6日 加 藤 惠 吉 ⑴現在の研究テーマ ・国際税務会計、無形資産会計、租税制度 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・ 加藤恵吉・齊籐孝平「試験研究への税額控除制度に対する資本市場の反応」 『人文社会論叢―社会科学編』第30号、 pp.29-51、共著、2013年8月 [研究ノート、報告書、その他] ・H.Ohnuma and K.Kato “Empirical Examination of Market Reaction to Transfer Pricing Taxation”Proceedings of 25th AsianPacific Conference on International Accounting Issuesʼ, p.22, Joint work, 2013(November) ⑶研究発表・講演など ・H.Ohnuma and K.Kato “Empirical Examination of Market Reaction to Transfer Pricing Taxation”TWENTY-FIFTH ASIANPACIFIC CONFERENCE ON INTERNATIONAL ACCOUNTINGʼ, Joint Work, GRAND HYATT BALI, INDONESIA, NOVEMBER 12, 2013 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)一般「多国籍企業における国際課税要因が資本市場に与える影響について」(研究分担者)平成 23 ~ 26年度 岩 田 一 哲 ⑴現在の研究テーマ ・過労死・過労自殺を導く心理的要因の考察、産業クラスターコーディネーターに必要な能力の考察 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・岩田一哲「過労自殺のプロセスに関する分析枠組みの提示-ストレス研究との関係から-」『人文社会論叢―社 会科学篇』第30号、pp.1-27、単著、2013年8月 ・岩田一哲「中間管理職における過労自殺の先行要因に関する実証的研究-ストレス研究との関係から-」『日本 労務学会誌』第14巻第2号、pp.52-70、単著、2013年8月 ・金藤正直・岩田一哲「食料産業クラスターを対象としたバランス・スコアカードの適用可能性」『企業会計』平 成25年10月号、pp.125-131、共著、2013年10月 ⑶研究発表・講演など ・岩田一哲「属性別にみた過労自殺とストレスの関係」2013年度日本経営学会第87回大会、単独、関西学院大学、 2013年9月5日 ⑷学外集中講義など ・平成25年度東北地区国立大学法人等補佐研修「職場におけるモチベージョンと管理」弘前大学、2013年10月7日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)一般「曖昧で突発的な仕事状況に置かれた従業員のストレス並びにその軽減についての解明」(研 究代表者)平成24 ~ 26年度 ・基盤研究(C)一般「職位間比較による起業家能力の解明」(研究分担者)平成23 ~ 25年度 ⑺共同研究、受託研究など ・地域経営政策研究会(産業クラスター研究) 高 島 克 史 ⑴現在の研究テーマ ・企業家の認識プロセス、実践としての経営戦略 ⑵著書・論文、その他 65 [論文] ・高島克史「企業家行動と新しさゆえの脆弱性」『人文社会論叢―社会科学篇』第31号、pp.11-25、単著、2014年2 月 ⑶研究発表・講演など ・高島克史「弘前大学の地域人材育成への取組」第2回インキュベーション・マネージャーネットワーク協議会、 弘前市、土手町コミュニティパーク、2013年11月22日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・ 若手研究(B)「企業家の認識・解釈プロセスをふまえたベンチャー企業事業化プロセスの体系化研究」(研究代 表者)平成25 ~ 27年度 内 藤 周 子 ⑴現在の研究テーマ ・会計学、財務会計論、国際財務報告論 ⑵著書・論文、その他 [著書] ・内藤周子『財務会計』共著、2014年2月、新世社 [論文] ・ 内藤周子「地域伝統食品の統制と保護~フランスにおけるAOC/AOPの取組み~」 『れぢおん青森』第35巻第419号、 pp.15-19、共著、2013年10月 ・内藤周子「Edwards & Bell学説における利益構成要素の分解」『弘前大学経済研究』第36号、pp.39-49、単著、 2013年12月 ⑶研究発表・講演など ・コメンテーター「会計主体論からみた新株予約権」(平野智久・福島大学)、日本会計研究学会第84回東北部会、 弘前大学、2013年7月27日 ⑷学外集中講義など ・弘前大学ドリーム講座「会計上のルールの国際的統一について考える-世界でひとつの会計ルールは正しいか? -」青森県立弘前中央高等学校、2013年8月22日 ・弘前大学ドリーム講座「企業の業績について考える」青森県立野辺地高等学校、2013年8月28日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・青森学術文化振興財団事業「青森県における六次産業化の取組に関する調査研究」(研究代表者)平成25年度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・日本会計研究学会第84回東北部会、弘前大学、2013年7月27日 大 倉 邦 夫 ⑴現在の研究テーマ ・企業の社会的責任、ソーシャル・ビジネス、戦略的提携 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・大倉邦夫「社会的協働に関する研究の動向」『人文社会論叢―社会科学篇』第31号、pp.27-49、単著、2014年2月 [研究ノート、報告書、その他] ・大倉邦夫「ソーシャル・ビジネスによる社会的課題の解決」『青い森しんきん経済レポート』No.420、p.1、単著、 2013年11月 ・森樹男編『若者の感性を活かした産学官連携ビジネスモデルの構築事業実施報告書』弘前大学人文学部・教育学 部、共著、2014年2月 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・研究活動スタート支援「社会的協働の創出プロセス-繊維産業におけるリサイクル事業を事例として-」(研究 代表者)平成24 ~ 25年度 66 恩 田 睦 ⑴現在の研究テーマ ・経営史、日本経済史、鉄道史 ⑵著書・論文、その他 [著書] ・ 篠崎尚夫編著『鉄道と地域の社会経済史』共著、2013年5月、日本経済評論社(第1章: 「国鉄明知線の第3セクター 転換:モータリゼーションの進展と住民の認識」(小緑一平との共著)、第3章: 「遊覧地・長瀞の形成と秩父鉄道」) [論文] ・恩田睦「戦前期弘南鉄道の経営展開と資金問題:昭和初期における鉄道経営」『弘前大学経済研究』第36号、 pp.16-38、単著、2013年12月 ・恩田睦「上武鉄道の設立活動と鉄道実務者」『人文社会論叢―社会科学篇』第31号、pp.115-129、単著、2014年2 月 [研究ノート、報告書、その他] ・小谷田文彦・恩田睦・ビクター・カーペンター「えちぜん鉄道に対する沿線自治体の支援」『人文社会論叢―社 会科学篇』第31号、pp.143-154、共著、2014年2月 ・恩田睦「調査報告」『2013年度 弘前大学人文学部 学部戦略経費チーム研究報告書』pp.62-67、単著、2014年3月 ・恩田睦「えちぜん鉄道と経営と地域社会」『2013年度 弘前大学人文学部 学部戦略経費チーム研究報告書』pp.6882、単著、2014年3月 ⑶研究発表・講演など ・恩田睦「戦前期秩父鉄道にみる乗合自動車問題」第7回経営史学会東北ワークショップ、東北学院大学、単独、 2013年9月14日 ・恩田睦「弘南鉄道の経営展開と菊池武憲」弘前大学経済学会第38回大会、弘前大学、単独、2013年10月25日 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・シンポジウム「公共交通を活用した中弘南黒地域の活性化」弘前商工会議所会館、2014年2月11日 〇経済システム講座 鈴 木 和 雄 ⑴現在の研究テーマ ・接客サービス労働過程の研究、大量生産体制成立期の資本蓄積様式と消費様式の変化 ⑵著書・論文、その他 [書評] ・鈴木和雄「武田信照著『近代経済思想再考―経済学史点描―』(ロゴス、2013年)」季報『唯物論研究』123号、 pp.142-145、単著、2013年5月 [その他] ・ 鈴木和雄「経済理論学会第60回大会(愛媛大学、2012年10月6日~ 7日) ・第2分科会「労働と搾取」報告」『季刊・ 経済理論』50巻1号、p.89、2013年4月 ⑶研究発表・講演など ・鈴木和雄「接客労働における3極関係と派生効果」「アジアの新興/成熟経済社会とジェンダー―金融・生産・再 生産領域のグローバル化―」プロジェクト、単独、お茶の水女子大学ジェンダー研究センター、2013年6月2日 ・鈴木和雄「ホックシールド以後の感情労働論」SGCIME夏季研究会、単独、東京八王子セミナーハウス、2013年 8月9日 ・鈴木和雄「労働過程研究と接客サービス労働研究」日本労働社会学会プレ・シンポジウム、単独、専修大学神田 キャンパス、2013年9月7日 ・ 鈴木和雄「サービス労働論の理論的課題―労働過程研究と接客労働研究―」シンポジウム「サービス労働の分析」 日本労働社会学会第25回大会、単独、東北福祉大学、2013年11月17日 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・第38回弘前大学経済学会大会、弘前大学、2013年10月25日 67 北 島 誓 子 池 田 憲 隆 ⑴現在の研究テーマ ・日本経済史 ⑵著書・論文、その他 [書評] ・池田憲隆「書評・横井勝彦・小野塚知二編著『軍拡と武器移転の世界史-兵器はなぜ容易に広まったのか』」『経 営史学』484号、pp.86-88、単著、2014年3月 細 矢 浩 志 ⑴現在の研究テーマ ・EU経済、産業発展論 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・細矢浩志「スペイン自動車産業の再編と欧州生産ネットワーク」 『東北経済学会誌2013年度版』67巻、pp.4-12、単著、 2013年12月 ⑶研究発表・講演など ・細矢浩志「スペイン自動車産業の再編と欧州生産ネットワーク」東北経済学会第67回大会、単独、東北大学、 2013年9月28日 ・細矢浩志「欧州自動車産業の生産ネットワークの進化とグローバル競争力の構築」経済理論学会第61回大会、単 独、専修大学、2013年10月6日 ⑷学外集中講義など ・2013年度前期集中講義「経済政策論(前期)」山形大学、2013年8月1日~ 6日 ・2013年度後期集中講義「経済政策論(後期)」山形大学、2013年12月24日~ 27日 ・弘前大学ドリーム講座「経済学でアベノミクスを考える」八戸西高等学校、2013年10月9日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・チェコ共和国、工場見学、企業・団体ヒアリング調査、2014年2月23日~ 26日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)一般「欧州自動車産業の生産ネットワークの形成と展開に関する実証的研究」(研究代表者)平 成23 ~ 25年度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・弘前大学経済学会第38回大会、弘前大学、2013年10月25日 黄 孝 春 ⑴現在の研究テーマ ・りんご産業、資源経済(レアアース、鉄鉱石など) ⑵著書・論文、その他 [報告書] ・神田健策・黄孝春・Carpenter, Victor「農産物の知財マネジメントとりんご生産販売システムの新動向-ピンクレ ディーの事例を中心に-」『2013年度日本農業経済学会報告論文集』pp.118-124、共著、2013年12月 ⑶研究発表・講演など ・黄孝春・田中彰・康上賢淑「中国レアアース輸出政策の推移とその帰結」中国経済学会全国大会、共同、京都大 学、2013年6月23日 ・黄孝春・田中彰・康上賢淑「日中レアアース会議の開催に至った経緯について」日本経営史学会全国大会、共同、 龍谷大学、2013年10月26日 68 ・ 康上賢淑・黄孝春・田中彰「アジアのレアアース問題と日中協力」国際アジア共同体学会第7回学術研究大会、共同、 福井県立大学、2013年11月2日 ・田中彰・黄孝春・康上賢淑「レアアース産業と総合商社」経営史学会中部ワークショップ、共同、愛知大学、 2013年12月14日 ・田中彰・黄孝春・康上賢淑「レアアースをめぐる中国の政策と日本の対策」政治経済学・経済史学会近畿部会例 会、共同、京都大学、2014年3月29日 ・黄孝春「中国の生活文化と経済」平成26年度公開講演会(放送大学青森学習センター)、平川市文化会館、2013 年9月21日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・中国包頭・かん州など、レアアース調査、2013年8月5日~ 21日 ・タイ・マレーシア、りんご市場調査、2013年11月24日~ 30日 ・中国北京・武漢・上海、鉄鉱石貿易調査、2014年2月10日~ 3月2日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(B)海外学術調査「中国レアアース産業の政策転換とその実施状況に関する調査研究」(研究代表者) 平成23 ~ 25年度 ・基盤研究(C)一般「資源争奪戦時代におけるトランスナショナル企業の比較経営史研究:鉄鉱石の事例」(研 究分担者)平成25 ~ 27年度 李 永 俊 ⑴現在の研究テーマ ・QOLを重視した災害復興政策、人口減少社会の中で持続可能な地域づくり ⑵著書・論文、その他 [著書] ・李永俊・渥美公秀(監修)、作道信介(編)『東日本大震災からの復興⑴想いを支えに-聴き書き、岩手県九戸郡 野田村の震災の記録』2014年2月、弘前大学出版会 ・李永俊他『チヨクチョンヨン、ウェトナヌンガ(地域の若者たち、なぜ移動するのか)(韓国語)』共著・翻訳、 2014年3月、パクヨンシャ [論文] ・Young-Jun Lee, ʻLocal Employment Development Policies and Practices; Case Studies from Aomori, Japanʼ, Strategy and Challenges of Regional Job Creation - Focused on the Advanced Countries, pp.39-53,2013年06月 [報告書] ・李永俊『野田村のみなさまの暮らしとお仕事に関するアンケート調査報告書』弘前大学人文学部、単著、2013年 9月 ⑶研究発表・講演など ・李永俊「チーム・オール弘前の原動力とその可能性:外部支援が移動性向に与える影響について」日本グループ ダイナミックス学会第60回年次大会、単独、北星学園大学、2013年7月14日 ・李永俊「小地域のQOLを重視した復興政策の課題:村民アンケート調査から」日本災害復興学会2013年度大阪大会、 単独、関西大学、2013年10月12日 ・Lee Young-Jun & Hiroaki Sugiura, ʻEmpirical research for the reconstruction plan that considers QOL from the Great East Japan Earthquake; A case study of “Team All Hirosaki”ʼ, Dealing with Disasters (DwD) with the 4th Conference of the Integrated Disaster Risk Management, Northumbria University, UK, 5 September 2013. ・Atsumi Tomohide & Young-Jun Lee, ʻSurvivors centered approach toward long-term recovery after the 3.11 earthquake and tsunami: A case of team North Riasʼ, California Sociological Association 24th Annual Meeting ʻSocial Change: Local and Globalʼ, Barkley Marina, California, USA, 8 November 2013. ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(A)一般「北リアスにおけるQOLを重視した災害復興政策研究-社会・経済・法的アプローチ」(研 究代表者)平成24 ~ 26年度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・「東日本大震災からの地域復興を考える-先行事例から考える地域復興」弘前市市民文化交流館ホール、2014年3 69 月10日 ・第11回雇用政策研究センター国際フォーラム「先行事例から持続可能な地域づくりを学ぶ」弘前大学、2014年2 月7日 ・「学生発未来への挑戦フォーラム」青森市アウガ、2013年12月25日 飯 島 裕 胤 ⑴現在の研究テーマ ・企業の経済学、とくに企業買収の経済分析 ⑶研究発表・講演など ・飯島裕胤「企業買収価格と法制度:幾何的理解とその利用」法と経済学研究会、単独、弘前大学、2014年3月17 日 山 本 康 裕 ⑴現在の研究テーマ ・長期性資金が経済成長に与える影響について、銀行の産業組織が金融政策及びマクロ経済に与える影響について ⑵著書・論文、その他 [その他] ・山本康裕「銀行業の寡占化が金融政策に与える影響」『季刊個人金融』8号⑵、pp.73-80、単著、2013年8月 小谷田 文 彦 ⑴現在の研究テーマ ・産業組織論 ⑵著書・論文、その他 [研究ノート] ・小谷田文彦・恩田睦・ビクター・カーペンター「えちぜん鉄道に対する沿線自治体の支援」『人文社会論叢―社 会科学篇』31号、pp.143-154、共著、2014年2月 ⑷学外集中講義など ・2013年度放送大学面接授業「初歩からの経済学」放送大学青森学習センター、2013年5月11日~ 12日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・フィンランド共和国、研究打合せ、2014年3月21日~ 30日 福 田 進 治 ⑴現在の研究テーマ ・リカードの経済理論 ⑵著書・論文、その他 [著書] ・大坪正一・宮永崇史(編)『環境・地域・エネルギーと原子力開発―青森県の未来を考える―』(第5章「青森県 の経済と核燃マネー」担当)、共著、2013年10月、弘前大学出版会 [論文] ・下平裕之・福田進治「古典派経済学の普及過程に関するテキストマイニング分析―リカード、ミル、マーティノー を中心に―」『人文社会論叢―社会科学篇』31号、pp.51-66、共著、2014年2月 ・福田進治「日本のリカード研究―労働価値理論を中心に―」『マルサス学会年報』23号、pp.1-33、単著、2014年 3月 [書評] ・福田進治「佐藤滋正『リカードウ価格論の展開』日本評論社、2012年」『経済学史研究』55巻2号、pp.128-129、 2014年1月 70 ⑶研究発表・講演など ・福田進治「日本のリカード研究―労働価値理論を中心に―」第23回マルサス学会大会、単独、北海学園大学、 2013年6月29日 ・Shinji Fukuda, ʻRicardo Studies in Japan: On the Labour Theory of Valueʼ, International Ricardo Conference - New Developments on Ricardo and the Ricardian Traditions, Centre Jean Bosco, Lyon, France, 11 September 2013. ・Hiroyuki Shimodaira & Shinji Fukuda, ʻPopularization of Classical Economics: A Text-mining Analysis on David Ricardo, James Mill and Harriet Martineauʼ, Sendai History of Economic Thought Workshop, Tohoku University, 30 March 2014. [討論] ・小峯敦「『雇用政策』白書(1944)の成立~経済助言の役割」第42回経済思想研究会、山形大学、2013年4月21日 ・久松太郎「マルサス『人口論』初版における人口動学メカニズム」経済学史学会第77回大会、関西大学、2013年 5月26日 ・ 中澤信彦「反革命思想と経済学―マルサス『食糧高価論』に関する一考察―」第43回経済思想研究会、東北大学、 2013年8月8日 ・Masatomi Fujimoto, ʻJ.S.Millʼs Demand-Analysis and International Tradeʼ, International Ricardo Conference, Meiji University, 18 September 2013. ・古谷豊「Steuart on Xenophonʼs Way and Means」第44回経済思想研究会、東北大学、2013年11月3日 ・Shunsuke Moroizumi, ʻJ.S.Millʼs Ideas on Minimum Rate of Wages and Standard of Confortʼ, International Ricardo Conference, Meiji University, 27 March 2014. ⑷学外集中講義など ・青森県消費者問題研究会2013年6月定例会「マクロ経済政策の課題―アベノミクスの考察―」県民福祉プラザ、 2013年6月22日 ・消費者教育モデル講座「消費者問題とマクロ経済政策」青森大学、2014年1月29日 ・消費者教育モデル講座「消費者市民社会の理論と実践」問屋町ビジネススクール、2014年2月12日 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・フランス・リヨン市、研究発表他、2013年9月5日~ 16日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(A)一般「リカードウが経済学に与えた影響とその現代的意義の総合的研究」(研究分担者)平成22 ~ 26年度 ・基盤研究(B)一般「経済思想の受容・浸透過程に関する実証研究:人々は経済学をどのように受け入れたか」(研 究分担者)平成22 ~ 26年度 ・基盤研究(C)一般「日本のリカード研究と欧米のリカード研究の比較検討」(研究代表者)平成22 ~ 26年度 金 目 哲 郎 ⑴現在の研究テーマ ・政府間財政関係、地方財源保障、財政民主主義とナショナルミニマム ⑶研究発表・講演など ・金目哲郎「公立小学校の教育条件整備の地域間格差と地方財政措置」日本財政学会第70回大会、単独、慶應義塾 大学、2013年10月5日 ・金目哲郎「公共施設の老朽化問題:財政面からみた論点提示」津軽地域づくり研究会、弘前大学八甲田ホール、 2014年1月17日 〇公共政策講座 児 山 正 史 ⑴現在の研究テーマ ・地方自治体の予算編成・行政評価・総合計画、公共サービスの市場(準市場)としての学校選択の効果・影響 ⑵著書・論文、その他 71 [論文] ・ 児山正史「愛知県4市のまちづくり指標と行政評価・予算編成(2・完) :自治体行政における社会指標型ベンチマー キングの活用」『人文社会論叢―社会科学篇』30号、pp.53-66、単著、2013年8月 ・児山正史「岡山県倉敷市のまちづくり指標と総合計画策定:自治体行政における社会指標型ベンチマーキングの 活用」『人文社会論叢―社会科学篇』30号、pp.67-73、単著、2013年8月 ・児山正史「準市場の優劣論とイギリスの学校選択の質・応答性への効果」『人文社会論叢―社会科学篇』31号、 pp.67-91、単著、2014年2月 平 野 潔 ⑴現在の研究テーマ ・刑事過失論、裁判員制度、法教育 ⑵著書・論文、その他 [研究ノート、報告書、その他] ・市民の裁判員制度めざす会『裁判員経験者の視点を取り入れた刑罰の再考』2013年 ⑶研究発表・講演など ・宮崎秀一・平野潔「裁判員教育の実践」2013年度日本法社会学会学術大会ミニシンポジウム②「裁判員裁判と市 民社会」共同、青山学院大学、2013年5月11日 ・ 平野潔・宮崎秀一・飯考行「弘前大学の裁判員制度に関する教育と活動」、シンポジウム「裁判員制度の市民的基盤」 共同、弘前大学、2013年4月6日 ・ 平野潔「企画趣旨と裁判員裁判後の(元)被告人」シンポジウム「受刑者の権利保障と社会復帰に向けて」単独、 弘前大学、2013年12月14日 ⑷学外集中講義など ・平成25年度放送大学面接授業「裁判員制度と刑事法」放送大学青森学習センター、2013年6月8日~ 9日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・挑戦的萌芽「市民・裁判員の視点から見た裁判員制度の検証」(研究分担者)平成23 ~ 25年度 ⑻弘前大学人文学部主催または共催の学会・研究会・講演会など ・シンポジウム「裁判員制度の市民的基盤」弘前大学、2013年4月6日 ・シンポジウム「裁判員裁判へのアクセス―より裁判員を務めやすい環境整備に向けて」弘前大学、2013年11月3 日 ・シンポジウム「受刑者の権利保障と社会復帰に向けて」弘前大学、2013年12月16日 長谷河 亜希子 ⑴現在の研究テーマ ・独占禁止法、フランチャイズ・システムの法規制 ⑵著書・論文、その他 ・長谷河亜希子「CPRC研究報告書 カルテル事件における立証手法の検討-状況証拠の活用について-」http:// www.jftc.go.jp/cprc/reports/index.files/cr-0213.pdf、共著、2013年6月 ・長谷河亜希子「韓国フランチャイズ調査報告と日本のあるべきフランチャイズ法制」消費者法ニュース96号、 pp.268-270、単著、2013年7月 ・長谷河亜希子意見書「米国セブン-イレブンの加盟者らによる労働法の適用を訴える訴訟について」https:// www.facebook.com/permalink.php?id=1397876703781536&story_fbid=1427027260866480、単著、2013年8月(12月に 修正版を提出) ・長谷河亜希子「米国のフランチャイズ規制とその課題」自由と正義65号、pp.54-58、単著、2014年3月 ⑶研究発表・講演など ・ 長谷河亜希子「TPP問題」民主主義科学者協会法律部会2013年度学術総会ミニシンポ「Constitutional Changeの 現在」単独、神奈川大学(横浜キャンパス)、2013年11月30日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(C)「日米におけるフランチャイズ契約規制に関する研究」(研究代表者)平成25 ~ 27年度 72 吉 村 顕 真 ⑴現在の研究テーマ ・日米不法行為法の研究、日米救済法の研究、日米相続法の研究 ⑵著書・論文、その他 ・「アメリカ不法行為法における親の民事責任の概況――過失責任原則と被害者救済の関係に着目して――」『青森 法政論叢』14号、pp.58-86、単著 ⑷学外集中講義など ・出張講義、秋田県立中央高校、2013年7月11日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・基盤研究(A)一般「北リアスにおけるQOLを重視した災害復興政策研究――社会・経済・法的アプローチ」(研 究分担者)平成24 ~ 26年度 成 田 史 子 ⑴現在の研究テーマ ・ドイツ労働法、日本労働法 ⑵著書・論文、その他 [論文] ・成田史子「ドイツにおける会社分割時の労働関係の承継ルール」山川隆一編『環境変化の中での労働政策の役割 と手法』(労働問題リサーチセンター)pp.59-75、単著、2013年5月 ・成田史子「企業組織再編 事業(営業)譲渡・会社分割時の労働契約の帰趨を中心に」季刊労働法242号pp.200216、単著、2013年9月 ・成田史子「企業組織再編と労働関係の帰趨」日本労働法学会誌122号pp.137-150、単著、2013年10月 ・成田史子「会社分割と労働契約の承継」土田道夫・山川隆一編Jurist増刊『労働法の争点〔第4版〕』有斐閣、 pp.148-149、単著、2014年3月 [書評] ・成田史子「毛塚勝利編『事業再構築における労働法の役割』を読んで」季刊労働法243号pp.1103-1105、単著、 2013年12月 ⑶研究発表・講演など ・成田史子「企業組織再編と労働関係の帰趨」東北大学社会法研究会、単独、東北大学、2013年4月20日 ・成田史子「学会事前報告―企業組織再編と労働関係の帰趨」東京大学労働判例研究会、単独、東京大学、2013年 5月10日 ・ 成田史子「企業組織再編と労働関係の帰趨-ドイツ法における実体規制・手続規制の分析-」日本労働法学会、単独、 鹿児島大学、2013年5月19日 ・成田史子「ドイツにおける事業譲渡時の労働関係自動移転ルールの形成過程(仮)」労働問題リサーチセンター 研究会、単独、東京大学、2013年10月13日 ・ 成田史子「ドイツにおける企業組織再編と雇用保障」青森中央学院大学地域マネジメント研究所ビジネスセミ ナー、単独、青森中央学院大学、2013年11月8日 ・成田史子「淀川海運事件・東京高判平成25・4・25(労経速2177号16頁)」東京大学労働判例研究会、単独、東京 大学、2014年1月10日 ⑷学外集中講義など ・弘前大学ドリーム講座「大学で学ぶ法律学-労働時間規制について」東奥義塾高校、8月2日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・若手研究(B)「企業組織再編時の労働者保護を目的とした法規範の構築方法」(研究代表者)平成25 ~ 27年度 ・基盤研究(A)一般「北リアスにおけるQOLを重視した災害復興政策研究」(研究分担者)平成24 ~ 26年度 ⑺共同研究、受託研究など ・労働問題リサーチセンター委託研究「企業行動の変化と労働法政策の課題」(東京大学(主査:山川隆一(東京 大学法学部教授)2013年7月~ 2014年3月) 73 河 合 正 雄 ⑴現在の研究テーマ ・受刑者の権利 ⑵著書・論文、その他 [著書] ・河合正雄「受刑者の社会復帰」宿谷晃弘・宇田川光弘・河合正雄編著『人権Q&Aシリーズ2 ケアと人権』 pp.97-102、共著、2013年10月10日、成文堂 ・河合正雄「受刑者の権利保障―国際人権の可能性」憲法理論研究会編『憲法理論叢書21 変動する社会と憲法』 pp.197-208、共著、2013年10月15日、敬文堂 [その他] ・河合正雄「日本における国際人権訴訟主要判例一覧⑾」国際人権24号、pp.167-175、単著、2013年10月30日 ⑶研究発表・講演など ・河合正雄「Dickson v UK」ヨーロッパ人権裁判所判例研究会、単独、2013年7月22日 ・河合正雄「受刑者選挙権訴訟について―ヨーロッパ人権裁判所の判例法理の視点を中心に」青森法学会、単独、 青森県立保健大学、2013年11月10日 ・河合正雄「「受刑者選挙権訴訟について」のコメント―ヨーロッパ人権裁判所の判例法理の視点から」国際人権 法学会、単独、名古屋大学、2013年11月24日 ・河合正雄「受刑者の権利保障の現状」シンポジウム「受刑者の権利保障と社会復帰に向けて」単独、弘前大学、 2013年12月14日 ・河合正雄「受刑者選挙権訴訟(大阪高判2013年9月27日判例集未搭載)」東北公法判例研究会、単独、東北大学、 2013年12月21日 ・河合正雄「Ezeh and Connors v UK」ヨーロッパ人権裁判所判例研究会、単独、中央大学、2014年3月3日 ⑷学外集中講義など ・2013年度夏季集中講義「教育と憲法(日本国憲法)」電気通信大学、2014年9月2 ~ 4日、17日 ・弘前大学ドリーム講座「あなた守る大切な権利―人身の自由」青森南高校、11月8日 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・若手研究(B)「国際人権法の視点を採り入れた受刑者の実効的な権利保障に向けて」(研究代表者)平成26 ~ 27年度 白 石 壮一郎 ⑴現在の研究テーマ ・ 農村の社会規範の変化、移住・移動者とホーム(故郷)、場所と共同性/公共性、地域社会の再想像、フィールドワー ク(社会調査)など ⑵著書・論文、その他 [その他] ・白石壮一郎 「学振ナイロビ近況 — 「存続の危機」以降の展開」『アフリカ研究』第82号、pp.35-39、2013年、査読 なし ⑷学外集中講義など ・神戸大学大学院国際協力研究科「開発社会文化論」、2014年2月 ⑸海外出張・研修、そのほかの海外での活動など ・日本学術振興会ナイロビ研究連絡センター(前職)業務;ケニア共和国、南アフリカ共和国など東部および南部 アフリカ地域各国における海外事業広報、Global Research Council年次会議(2015年5月、東京)の開催準備会合 など ・科研費(下記)による出張;ウガンダ共和国農村からケニア共和国開拓農村への移住者への聞き取り調査を実施 ⑹科学研究費補助金、そのほかの競争的研究資金など ・ 若手研究(B) 「東アフリカにおける非自発的移民のネットワークと新たな地域開発」 (研究協力者、代表:内藤直樹) 2013 ~ 15年度 74 執筆者紹介 関 根 達 人(文化財論講座/考古学) 松 井 太(国際社会講座/内陸アジア史) 李 梁(思想文芸講座/中国思想史) 編集委員 (五十音順) ◎委員長 足 達 薫 飯 島 裕 胤 大 倉 邦 夫 奥 野 浩 子 河 合 正 雄 須 藤 弘 敏 福 田 進 治 松 井 太 ◎保 田 宗 良 李 梁 渡 辺 麻里子 人文社会論叢(人文科学篇)第三十二号 二〇一四年八月二十九日 編 集 研究推進・評価委員会 3 発 行 弘前大学人文学部 弘前市文京町一番地 http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/ 印 刷 青森コロニー印刷 青森市幸畑字松元 62 - -036 8560 -030 0943 弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』の刊行及び編集要項 平成23年1月19日教授会承認 平成26年5月21日最終改正 この要項は,弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』(以下「紀要」という。)の刊行及び編集に 関して定めるものである。 1 紀要は,弘前大学人文学部(以下「本学部」という。)で行われた研究の成果を公表すること を目的に刊行する。 2 発行は原則として,各年度の8月及び2月の年2 回とする。 3 原稿の著者には,原則として,本学部の常勤教員が含まれていなければならない。 4 掲載順序など編集に関することは,すべて研究推進・評価委員会が決定する。 5 紀要本体の表紙,裏表紙,目次,奥付,別刷りの表紙,研究活動報告については,様式を研究 推進・評価委員会が決定する。また,これらの内容を研究推進・評価委員会が変更することがある。 6 投稿者は, 研究推進・評価委員会が告知する「原稿募集のお知らせ」に記された執筆要領に従っ て原稿を作成し,投稿しなければならない。 「原稿募集のお知らせ」の細目は研究推進・評価委 員会が決定する。 7 論文等の校正は著者が行い,3校までとし,誤字及び脱字の修正に留める。 8 別刷りを希望する場合は,投稿の際に必要部数を申し出なければならない。なお,経費は著者 の負担とする。 9 紀要に掲載された論文等の著作権はその著者に帰属する。ただし,研究推進・評価委員会は, 掲載された論文等を電子データ化し,本学部ホームページ等で公開することができるものとする。 10 紀要本体及び別刷りに関して,この要項に定められていない事項については,著者が原稿を投 稿する前に研究推進・評価委員会に申し出て,協議すること。 附 記 この要項は,平成23年1月19日から実施する。 附 記 この要項は,平成23年4月20日から実施し,改正後の規定は,平成23年4月1日から適用する。 附 記 この要項は,平成24年2月22日から実施する。 附 記 この要項は,平成26年5月21日から実施する。 年 月 2002 3。 同 氏「『白 鹿 洞 書 院 掲 示』 と 江 戸 儒 学」『中 村 璋 八 博 士 古 稀 記念東洋学論集』、汲古書院、 年;湯浅邦弘「懐徳堂と白鹿洞書院」、 1996 懐徳堂研究センター『懐徳堂研究』第 号 年 月 3、平成 24 2、張品端「朱熹『白 鹿洞書院掲示』の日本における流伝およびその影響」(井上克人ほか編『朱 子学と近世・近代の東アジア』、台湾大学出版中心、 2012 年 月 3)などが ある。 5 『宋 史』 巻 429 に「熹 幼 穎 悟。 甫 能 言、 父 指 天 示 之 曰「天 也」。 熹 問 曰 「天之上何物」?松異之。就傅、授以『孝経』。一閲、題其上曰「不若是、 非 人 也 」。 嘗 従 群 児 戯 沙 上、 独 端 坐 以 指 画 沙、 視 之、 八 卦 也 」 と あ る。 束景南『朱熹年譜長編』巻下「附録」収録。 年) 6 朱子の学問経歴について、陳鍾凡『両宋思想述評』(東方出版社、 1996 ~ 200 頁。 な お、 呉 展 良 「 実 践 與 知 識: 朱 熹 的 早 期 学 術 取 向 析 論 」 196 香 港 城 市 大 学 中 国 文 化 中 心『 九 州 学 林 』 2010 年 春 夏 号、 同 氏 「 朱 子 的 世界秩序観之構成方式」『東亜近世世界観的形成』、台湾大学出版中心、 年、 265 302 頁参照。 2007 頁。 62 陸九淵のこの講義が、 著名な 「白鹿洞書院講義」 であり、 後に理学家 にとっての重要な文献の一つとなる。 年) 667, 677 頁にみえる。 9 郭斎箋注『朱熹詩詞編年箋注』 (巴蜀書社、 2000 8 白鹿洞書院古志整理委員会整理『白鹿洞書院古志五種』(上・下)、中 華書局、 1995 年。白鹿洞書院新志巻之四・文志一第八、上、 45 頁。 7 鄧洪波『中国書院史』、前出、 - この五言古詩、鄒元標の次韻詩「独対亭書懐、…」、並びに湛若水の「甲 子初秋訪白鹿洞」 の読解は、 植木久行教授のご教示に負うところが非常 に大きい。 記して感謝の意を表する。 15 10 11 主な参考文献 の研究グループ(上述のほか、平成十七年度―平成十九年度、科 ご教示、また文献資料のご提供を頂き、記して感謝の意を表する。 8、莫礪峰『朱熹文学研究』 、南京大学出版社、 年。 2000 9、袁行霈ほか著『中国詩学通論』安徽教育出版社、 1994 年。 、 孫 家 驊 ほ か 編『 千 年 学 府 ― 白 鹿 洞 書 院 』 江 西 人 民 出 版 社、 年 2003 、李才棟編著『白鹿洞書院史略』教育科学出版社、 1989 年。 、宋元文学研究会編『朱子絶句全譯注』汲古書院、平成三年。 謝辞 科 研 費 2 2 3 2 0 0 6 7、 2 3 5 2 0 0 9 3 本 研 究 は、 JSPS の助成を受けたものです。 年 月9 日4、於弘前大学)で 本稿は、上述植木科研研究会( 2013 の口頭報告レジュメに対して大幅なデータを追加して再構成した 3 岡田武彦『宋明哲学の本質』、木耳社、昭和 年 59 月、 11 頁。 147 2 房徳隣「西学東漸与経学的終結」『明清論叢』第二輯、紫禁城出版社、 年 月 2001 4。 1 例えば、 吾妻重二編『泊園記念会 創立 50 週年記念論文集』(関西大 学東西学術研究所国際共同研究シリーズ 、 年 9 関西大学出版部、 平成 23 月)、 関西大学東西学術研究所編『東西学術研究所創立六十周年記念 10 論文集』(関西大学出版部、平成 23 年 10 月)、科学研究費補助金基盤研究 (A)「東アジアにおける伝統教養の形成と展開に関する学際的研究:書 院、私塾教育を中心に」(代表吾妻重二)、大阪大学懐徳堂研究センター 編 『懐徳堂研究』 シリーズなどに所載される一連の論考は、 それを表わ していよう。 註 を表したい。) 植木久行)に参加させていただいた植木久行教授に深甚なる謝意 研費基盤研究(B)「詩跡(歌枕)研究による中国文学史論再構 とりわけ、専門外の筆者を二度も科学研究費補助金基盤研究(B) 1、青木正児ほか編『漢詩大系』全 巻 24、集英社、昭和四十年。 2、吉川幸次郎、小川環樹編集・校閲、高橋和巳注『王士禛』中 )、四部叢刊三編、 13 築―詩跡の概念・機能・形成に関する研究」、いずれも代表者は 1 、 6 7 国詩人選集二集 、 13岩波書店、昭和三十七年。 3、岡田武彦解題、佐藤仁索引『校点朱子大全』上下、書光学術 資料社。 4、王雲五主編『晦庵先生文集』( 台湾商務印書館。 - 5、 『四書章句集注』新編諸子集成(第一輯)、中華書局、 1983 年。 6、 黎靖徳編、 王星賢点校『朱子語類』 ( 冊)、中華書局、 年。 1 8 1994 7、 王懋竑撰、 何忠禮点校『朱子年譜』年譜叢刊、中華書局、 1998 年。 - ものである。なお、口頭報告の際、植木久行教授をはじめ、松尾 4 代表的数点を挙げれば、大久保英子『明清時代書院の研究』、国書刊 行会、昭和 51 年 月 3、鄧洪波『中国書院史』、中国図書出版集団 東方出 版 中 心、 2004 年。 朝 鮮・ 日 本 へ の 影 響 に つ い て は、 347 363 頁、 516 頁;李弘祺『宋代官学教育与科挙』、台北聯経出版社、 1993 年;関山 535 邦宏「『白鹿洞書院掲示』の諸藩校への定着とその実態」青山学院大学 教 育 学 会『 教 育 研 究 』 第 21 号、 1997 年 月 3 ; 沖 田 行 司「 近 世 儒 学 教 育 理 念 の 形 成 ― 山 崎 闇 斎 と 白 鹿 洞 書 院 掲 示 」 同 志 社 大 学 文 化 学 会『 文 化 學 年報』 第二十六輯、 同氏『藩校・私塾の思想と教育』(日本武道館、 平 成 23 年) ; 柴 田 篤「『白 鹿 洞 書 院 掲 示』 と 李 退 渓」『哲 学 年 報』 第 61 号、 - - 幸忠教授(岐阜大学) 、許山秀樹教授(静岡大学)からご指摘と - 10 12 11 14 に封じられた張良(字は子房)に、兵書を与えたという伝説で名 廬山のそれ。○桂樹生山幽…『楚辞』に収める淮南小山の「招隠 備』 ちなみに、本詩が作成された前年(康煕二三年)、湯来賀は江 西巡撫の安世鼎に招かれて、白鹿洞書院の院主となっていた。 去朝廷而隠藏也」と注する。桂樹(香木)が山の奥深い処の生え 高い。『史記』留侯世家にみえる。○泉石…山水自然。ここでは 【 語 釈 】 ○ 城 市 … 大 き な 町。 こ こ で は 南 康 府 星 子 県 城 を 指 す。 ○浩浩…広大なさま。○忽忽…見る間に、すみやかに。○滄洲… るように、この山に隠棲したい希望を表白する。 巻 14など、数多くの著書を残した。 水に臨む地。しばしば名利の場を離れた隠者の住む場所を指し、 遁・読書した李渤兄弟をいう。○年運…年運…めぐり行く歳月。 の傍らに眠鹿場があった。○前修…昔の県人。ここでは当地に隠 という。○眠鹿…明の李夢陽「遊廬山記」によれば、白鹿洞書院 唐の楊衡「宿青牛谷」詩に「隨雲歩入青牛谷、青牛道士留我宿」 在五老峰下。九江錄、昔有道士洪志、乘青牛、得道于此」とある。 布。○石川…岩間の谷川。○騎牛…『方輿勝覽』一七に、「青牛谷、 ま。○潺潺…ここでは流れ落ちる水音の形容。○風瀑…風中の瀑 しい時節。○威紆…長々と曲がって続くさま。○窈窕…奥深いさ とある。○奇賞…非凡な風景を愛で楽しむこと。○良辰…すばら わる詩歌の詩跡化は、詩歌の精選、正確な読解と注解など、まだ 屈っぽさが際立つ。こうした事情を勘案して、白鹿洞書院にまつ ストレートに詠う唐詩に比べて、宋・明期の詩歌は、叙述的で理 しもみな名詩とは限らない。事実、朱熹をはじめ、奔放な感情を その詩が名詩であるという保証はない。たとえ朱熹の詩でも必ず に傾いている嫌いがないでもない。無論、名人であっても直ちに 限らない。あえていえば、ここでは、寧ろ名人と場所という要件 名詩と場所―この詩跡としての二大要件に照らしてみれば、以 上、試みに選んだ詩は、必ずしもそれにぴったり当てはまるとは 終わりに代えて 士」に、「桂樹叢生兮、山之幽」とあり、後漢の王逸は下の句に「遠 ここでは豊かな自然に富む地をいう。南朝斉の謝朓「之宣城、出 なお橋本循『王漁洋』(集英社、漢詩大系、一九六五年)には、 本詩の訳注を収める。 新林浦、向版橋」詩に、 「既歡懐禄情、復協滄洲趣」とある。唐 ○遒…過ぎ去る。尽きる。○忘春秋…歳月の推移を忘れて変化し 多大な作業を必要とする。なお時間的制限、とくに勉強不足のた の 杜 甫「 曲 江 対 酒 」 詩 に、 「 吏 情 更 覚 滄 洲 遠、 老 大 悲 傷 未 拂 衣 」 ない。○紫芝…霊芝、一種の仙草。秦末漢初、商山に隠棲した四 め、詩作の年代や背景資料なども含めて、まだまだ精査して解明 し 皓(東園公、夏黄公、甪里先生、綺里季)が、漢の高祖劉邦の招 すべき点が数多く残っている。これらはいずれも、さらなる研鑽 こう きに応ぜず、 かつて「曄曄たる紫芝、以て飢えを療やす可し」云々 と究明を行うべき今後の課題としておきたいと思う。 ようよう の「紫芝曲」 ( 「採芝操」 )を作った。唐の李商隠「四皓廟」詩に、「本 為留侯慕赤松、漢庭方識紫芝翁」とある。○黄石…秦の隠士、黄 石公のこと。生没年不詳。前漢初期の政治家・軍師で、後に留侯 13 薄」と同意。自己の謙称。○浩蕩…広々とした水面。○五峰…五 老峰。○雙劍…廬山の雙劍峰。○秋煙…秋のもや(煙霧)。 「初入五老峰、謁白鹿洞、呈湯佐平先生」(初めて五老峰に入 り、白鹿洞に謁して、湯佐平先生に呈す) 王士禛(清) 本詩の作者、王士禛( 1634 ~ 1711 )は、字は貽上、阮亭また は漁洋山人と号した。山東新城の人。順治 15 年( 1658 )の進士。 揚州司理から侍読に進み、刑部尚書に至った。 24 才の若さで詠ん だ「 秋 柳 」 詩 に よ っ て 一 躍 全 国 的 な 名 声 を 博 し、 朱 彜 尊( 1629 ~ 1709 ) と と も に、「 南 朱 北 王 」 と 併 称 さ れ た ほ ど で あ る。 「神 韻 説 」 を 唱 え て、 清 朝 の 詩 壇 に 多 大 な 影 響 を 及 ぼ し た だ け で な く、自身も数千首に上る膨大な数の詩歌を残した。著書に『帯経 こうこう 忽忽遠城市 忽忽として 城市に遠ざかり つ 『鹿洞邇言』、 『広陵敬慎録』 12 巻、 『広陵欽恤録』 12 巻、 『評点孟字』 巻 巻、 『内省斎文集』 32 巻、『広陵粤東政 7、『評校政治尽心録』 20 れた。南明滅亡の後、湯来賀は古里に隠居して著述に専念した。 られる一方、明末清初期における散文家、詩人としても広く知ら 斗先生」と称せられた。崇禎十三年( 1640 )の進士、揚州推官と なる。後に兵部侍郎兼広東巡撫に進み、為政は公正廉潔として知 江西南豊の人。「幼承家学、淹貫古今、 博文為豫章之冠」といい、「南 ~ 1688 )のこと、元の名は湯 詩題の湯佐平は、湯来賀( 1607 来肇で、字は佐平、またの字は念平、惕庵・主一山人と号した。 民文学出版社、二〇〇一年)参照。 堂で湯来賀と面会した後、 本詩を作る。蒋寅 『王漁洋事迹徴略』(人 を楽しみ、数首の詩歌を残した。この詩は、白鹿洞に遊び、文会 白鹿洞や棲賢寺に遊び、五老峰を望み、三峡、玉淵などの諸名勝 鹿洞書院山長の湯来賀、南康の太守周燦、それに孫枝蔚とともに、 その帰途、天候に阻まれて江西の南康に滞留したとき、当時、白 二十四年二月に、広州に着いて南海神廟で祭告の儀を済ませた。 堂集』 巻、『漁洋山人精華録』 12 巻などある。王士禛は、清の 92 康煕二三年(一六八四) 、南海神廟に祭告する命を受けてその翌 りょう おか 浩浩臨滄洲 浩浩として 滄洲に臨む しん たの 良辰愜奇賞 良辰 奇賞を愜しみ 始遂廬山遊 始めて廬山の遊を遂げり い う しばし めぐ 威紆屢轉壑 威紆として 屢ば壑を轉り はる 窈窕時經邱 窈窕として 時に邱を経たり せんせん そそ 潺潺風瀑瀉 潺潺として 風瀑瀉ぎ 蒼蒼石川流 蒼蒼として 石川流る たちま 騎牛緬往跡 騎牛 往跡緬かにして した 眠鹿欽前修 眠鹿 前修を欽う 風景宛猶昔 風景 宛も猶お昔のごとく 年運倏已遒 年運 倏ち已に遒く 惟有五老峰 惟だ五老峰有り 屹立忘春秋 屹立して 春秋を忘る 紫芝驚漢帝 紫芝 漢帝を驚かし 黄石招留侯 黄石 留侯を招く とお 泉石不我遐 泉石 我を遐ざけずんば 桂樹生山幽 桂樹 山幽に生ぜしめよ 12 なみだ 千巌萬壑堪流涕 千巌 萬壑は 涕を流すに堪えたり まど しの ○彭蠡湖…鄱陽湖の古名。○崢嶸…高峻なさま。○背殺…はずし そぐ。○三江…最も著名な用例は『尚書』禹貢篇の「三江既入、 震沢底定(三江がすでに海に流れ込み、震沢も安定するようになっ かん た)」である。これは古代における長江下流域の治水について記 漢江 岷江を指す(『初学記』に引く鄭玄の説など) 、②長江 したものと考えられるが、以下の諸説がある。①長江中流域の贛 こう 江 月 蟋蟀 我が牀の下に入る」とある。○鄱陽…鄱陽湖。○綣戀 …思慕して分かれがたい、 名残惜しむ。 ○涯滸…水辺。 ○謭薄…「浅 月」に「七月 野に在り、八月 宇に在り。九月 戸に在り、十 のき 在戸…こおろぎが戸口にいる。晩秋の情景である。 『詩経』豳風「七 窮嶂…険しい断崖と荒れはてた峰。○草行…草原を進む。○蟋蟀 い水。○芝草…瑞草の霊芝。○冠者…成年に達した若者。○峭崖 詩に、「丹霞蔽日、采虹垂天」とある。○石潭…岩に囲まれた深 は太陽の代称。○丹霞…紅い雲気。三国魏の曹丕「丹霞蔽日行」 寒山落桂林」とある。○扶桑…太陽の出るところと伝え、ここで も称された。唐の杜甫「哭李常侍嶧」二首其一に、「短日行梅嶺、 ある山で、古来、交通の要衝である。梅の樹が多いため、梅嶺と …永遠の根源。○梅嶺…大庾嶺を指す。江西省と広東省との境に 文采昔賢…輝かしい昔の賢者。○桂華…モクセイの花。○萬古源 九派理空存」とある。○於乎…感嘆詞。○琳宮…仙宮、道観。○ 二版)参照。南朝宋の謝霊運「入彭蠡湖口」詩に「三江事多往、 するもの(『国語』韋昭注など)。詳しくは『世界大百科事典』 (第 す(『呉地記』など)、④長江以外に銭塘江や浦陽江が含まれると ③江蘇省の太湖以東、長江デルタ先端部にあった主要な水流を指 の下流部が三つに分かれていたとするもの( 『漢書』地理志など)、 ・ 文采昔賢今尚存 文采の昔賢 今 尚お存するも むか 講堂寂寞對松門 講堂は寂寞として 松門に對う くるま 松門桂華秋月圓 松門の桂華 秋月圓かにして つ 拄杖高尋萬古源 杖を拄いて 高く万古の源を尋ぬ 梅嶺古色照石鏡 梅嶺の古色 石鏡を照らし 扶桑丹霞迎我軒 扶桑の丹霞 我が軒を迎う そぞ 絶頂坐歌霜月浄 絶頂にて坐ろに歌えば 霜月浄らかに せきたん しげ 石潭洗足芝草繁 石 潭にて足を洗えば 芝草繁し 更有冠者五六人 更に冠者有り 五六人 とも はんけん 峭崖窮嶂同攀搴 峭崖 窮嶂 同に攀搴す 草行有時聞過虎 草に行けば 時有りて過虎を聞き しゅつ 旦暮時復啼清猿 旦暮 時に復た 清猿啼く なん す 我今胡為公務牽 我 今 胡 為れぞ公務に牽かるるや しつ 蟋蟀在戸難久延 蟋蟀 戸に在れば 久しく延べ難し 出山車馬走相送 山を出づるに 車馬走って相送り りゅう 落日遂上鄱陽船 落日は 遂に鄱陽の船に上る けんれん がい こ 生徒綣戀集涯滸 生徒は綣戀して 涯滸に集まり れん 孤帆月照仍留連 孤帆 月照りて 仍お留連す う 情深過厚亦其禮 情深くして過厚なるも 亦た其の礼 せんぱく ひそ は 謭薄竊愧勞諸賢 謭薄 竊かに諸賢を労するを愧づ 明朝伐鼓凌浩蕩 明朝 鼓を伐ちて 浩蕩を凌げば 五峰雙劍生秋煙 五峰 雙劍に 秋煙生ぜん 【語釈】○匡廬山…廬山の別名。○藩衛…守り。○山根…山麓。 11 ・ つと がんがく かな 果諧夙所期 果たして夙に期する所に諧えり かん たん いた 仲秋巌壑清 仲秋 巌壑清らかにして ま ここ 宮館復在茲 宮館は 復た茲に在り あん 白石激寒湍 白石 寒湍に激し がん ら ゆら 巌蘿裊空基 巌蘿 空基に裊ぐ あら 黯傷逝者往 黯に逝く者の往くを傷み ひそ きた は 密慚来者追 密 かに来る者の追うに慚づ あ 性同道豈隔 性同じければ 道は豈に隔たんや みち 途異理空悲 途 異なれば 理は空しく悲しむ 興言懐昔賢 興言に 昔賢を懐い おわ 日竟眺前岐 日竟りて 前岐を眺む しんこう うつ う 榛荒徒鬱紆 榛荒 徒らに鬱紆たり りんえん 林崦一何深 林崦 一に何ぞ深き 著名な文学者・書道家として李夢陽は、白鹿洞書院に関して相 当数の文章、詩歌、筆跡を残した。ここで選んだ彼の二首の詩を も含めて、みな彼の別集『空同集』および前掲の志書に収録され ている。 【語釈】○曠…広大なさま。○緬邈…長く久しい間、はるかに 遠いさま。唐の張説「遊洞庭湖湘」詩に、「緬邈洞庭岫、葱蒙水 霧色」とある。○鬱壹…心が結ぼれる、憂悶する。○眷名跡…歴 史のある名高い場所を思慕する。○久注…長い間、関心を抱き続 けた。○匡山…廬山の別名。周の時、匡氏の七人兄弟がここに廬 を結んで隠棲し、後に登仙したという伝説により、匡山・匡廬と も呼ばれるようになった。○枉嘉命…かたじけなくもよき官職を 授けられる。○巌壑…山や谷。○宮館…ここでは白鹿洞書院を指 す。○空基…荒廃した建物の址。○寒湍…冷たい早瀬。○巌蘿… そうこう ため 遂與天地增藩衛 遂に天地の與に藩衛を増す ほうれい こ 山根插入彭蠡湖 山根は 彭蠡湖に挿入し あ 於乎萬物膸興廢 於乎 萬物は興廃に随う す 学館琳宮客不棲 学館 琳宮に 客棲まず あ 崢嶸背殺三江勢 崢嶸として 三江の勢いを背殺す 地因人勝古有語 地 人に因って勝るは 古え語有り 李夢陽 山に生えるツタ。○榛荒…雑草の生える地。○鬱紆…曲がりくね るさま。○林崦…林や山。 「白鹿洞別諸生」(白鹿洞にて諸生に別る) 感情匪哀歎 感情は 哀歎に匪ず あき た 聊詠昭言垂 聊か詠じ 言を昭らかにして垂れん ~ 1529 )は、別名献吉、 李夢陽( 1472 本詩(五言古詩)の作者、 字は恩賜、空同子と号した。甘粛慶陽の人。弘治六年( 1493 )の 東南自有匡廬山 東南に 自から匡廬山有り おのず 進士。正徳六年より同九年( 1511 ~ 1514 )まで、江西提学副使 となる。彼は在任中、白鹿洞書院を再三訪ねて、みずから講学を 行い、かつ書院の経営を立て直して、新たに『白鹿洞新志』を修 めた。いわば書院の整備充実のみならず、明の中期、江西の文教 事業の発展全般に多大な貢献を為したのである。後に「寧王の乱」 に連座して一時入獄されたが、八方からの救援のお蔭で、免官帰 郷を許された。 10 別する。 の生徒を率いて、再び白鹿洞書院を訪ね、「丙申再訪白鹿洞五首」 湛若水(明) かな 「始至白鹿洞」(始めて白鹿洞に至る) 李夢陽(明) 院の、ひさしの下にある前柱のこと。○後生…後進。 均因有朱熹手書漱石・流杯池石刻而得名」と。◯檐楹…白鹿洞書 且還有釣磯石・漱石・鹿眠場・流杯池諸勝迹。在漱石和流杯池上、 要建筑。…在欞星門西北隅、不僅有曲径通幽、山石林泉之美,而 有欞星門、泮池、礼聖門、礼聖殿、朱子祠、白鹿洞、御書閣等主 白鹿洞書院(百度百科)の条にいう、「白鹿洞書院坐落在貫道溪旁、 とわびしいさま。○俎豆…供物を盛る祭具。◯漱石…名勝の名。 んだという。◯靡靡…連なって切れないさま。◯荒荒…ひっそり 【語釈】◯十畝堂…白鹿洞書院を指す。○典型…守るべき法則。 ◯白鹿…唐の李渤は、ここに隠棲・読書し、白い鹿を飼って楽し している。 は道思、遵岩居士、南江と号す。 1509 ~ 1559 )の求めに応じて、『心 性総箴二図説』を書きあげ、それを石碑に刻んで白鹿洞書院に残 (甲子の初秋、白鹿洞を訪ぬ) 「甲子初秋訪白鹿洞」 ふる を残した。更に嘉靖十七年、江西参政、嘉靖八才子(李開先 1502 ~ 、趙時春 ~ 、唐順之 1507 ~ 1560 、陳束、熊過、 1568 1509 1567 任瀚 1502 ~ 1592 、呂高 1544 ~?など)のリーダー格の王慎中(字 じっ ぽ 本 詩 の 作 者 で、 明 の 代 表 的 理 学 家 の 一 人 で あ る 湛 若 水( 1466 十畝堂開旧典型 十畝の堂は 旧き典型を開き ま 當年白鹿也来迎 當年 白鹿も 也た来迎す び び い 群山靡靡水争出 群山靡靡として 水争い出で こうこう おのず 獨樹荒荒鳥自鳴 獨樹荒荒として 鳥自から鳴く そ とう 煙散香爐浮俎豆 煙は香爐より散じて 俎豆に浮かび そうせき えんえい 苔生漱石上檐楹 苔は漱石に生じて 檐楹に上る 廢興只有人心在 廢興は 只だ人心の在る有りて 五百年来拜後生 五百年来 後生拜せり ~ 1560 )は、 『明儒学案』や『明史』湛若水伝などによれば、 「字 は元明、甘泉と号す。広東増城の人、(陳)白沙に従い学ぶ」と あ り、 弘 治 十 八 年( 1505 ) に 進 士 及 第、 か つ て 王 陽 明 と と も に 講学を行って「相応和」し、また「『心性図説』を作って以て士 こう 曠哉超世志 曠なる哉 超世の志 を教え」 、 「 生 平 至 る 所、 必 ず 書 院 を 建 て て 以 て( 陳 ) 献 章 を 祀 る 」 と い う。 後 に 国 子 祭 酒( 国 子 監 の 長 官 ま た は 大 学 頭 ) と な めんばく る。生涯中に二度、白鹿洞書院を訪ねた。本詩「甲子(弘治十七 久注匡山陲 久しく匡山の陲に注ぐ 南渉枉嘉命 南に渉りて 嘉命を枉げ ほとり 緬邈平生思 緬邈たり 平生の思い うついつ かえり 鬱壹眷名跡 鬱壹として 名跡を眷みて 年〔一五〇四〕 )の初秋 白鹿洞を訪ぬ」は、進士に及第する一 年前に、初めて白鹿洞書院を訪ねた時の七言律詩。上掲の王守仁 の詩よりも十五年早く作られた。嘉靖十五年( 1536 )、湛は多く 9 ○青冥…青空。○尋常…いつも。○飛巘…高い峰。○巻…巻き上 げる。○面…容姿。○舊顔…昔のままの容姿。○乾坤…天地。○ 郵傳…宿屋、駅館。○餘眷…豊かな愛顧。○彭蠡…鄱陽湖。○酬 勸…酒を勧めあう。○萬古…永遠。○黙契…言葉を交わさずに心 が通じあう。○辨…区別。 王守仁の詩は、後に唐龍、朱節、陳洪模、舒芬、鄒守益、鄒元 標、翟鳳翥など、多くの詩人騒客たちの次韻詩を生んだ。その中 もっ 用為來者勸 用て來者の為に勸む 素琴本無絃 素琴は 本と絃無し さと 了心何足辯 心に了れば 何ぞ辯ずるに足らん 本詩の文字は、欽定四庫全書『願学集』巻一による。前掲の毛 徳琦編『白鹿書院志』には、単に「次陽明韻」(陽明の韻に次す) と題する。 で、明の鄒元標の詩を取りあげてみてみよう。 作 者 の 鄒 元 標( ~ ) は、 字 は 爾 瞻、 南 皋 と 号 し た。 1551 1624 江西吉水の人。萬暦 年 )の進士、明東林党の首領の一人 15( 1577 古人は 糟粕を棄て お 11 則撫而和之、曰「但識琴中趣、何勞絃上聲」 」とある。○辯…区 陶潜の条に、「性不解音、而畜素琴一張、絃徽不具。毎朋酒之會、 者…将来の人、後輩。○素琴本無絃…『晋書』巻九四、隠逸伝、 ○博文…広く文献を学ぶ。○傳…注釈。○聖衷…聖人の心。○來 【語釈】○危峰…高峻な峰。○蒙茸…草木の茂み。○崇巘…高 おもんぱかり い峰。○困衡…苦悩する。 『孟子』告子下に「心に苦しみ、 慮 よこた に衡わる(困於心、衡於慮) 」と見え、心が苦しみ考えがあまる意。 絶句 首1を収録する。 鄒元標は、たびたび星子に赴いて、白鹿洞書院を訪ねていた。 毛徳琦編『白鹿書院志』には、本詩以外に、五言絶句 首 3、七言 丈会語』 巻 『工書選要』 4、『礼記正議』 巻 6、『四書講義』 巻 2、 巻および『鄒南皋語義合編』 巻4などがある。 従吾( ~ )とともに講学を行い、数多くの弟子を教えた。 1557 1627 著書に『願学集』 巻8、『太平山居疏稿』 巻 『仁 4、『日新篇』 巻2、 であり、趙南星( 1550 ~ 1627 ) 、顧憲成( 1550 ~ 1612 )とともに、「三 君」と称せられる。かつて吉水書院、京師首善書院を開いて、馮 ひら ただ 獨對亭書懐、次王陽明先生韻」(獨對亭にて懐いを書し、王 「 陽明先生の韻に次す) 鄒元標(明) いく じょう 幾從江上過 幾たびか江上より過ぎ 危峰坐中見 危峰 坐中に見ゆ もう あつ 清秋披蒙茸 清秋 蒙茸を披き すう けん 始得陟崇巘 始めて崇巘に陟るを得たり 諸賢聚一堂 諸賢 一堂に聚まり し 圖書已識面 圖書にて 已に面を識れり 憶昔迷岐路 憶う昔 岐路に迷い よ 困衡不善變 困衡して 善く變ぜず ふた 博文并格物 文に博くして 并びに物を格し こころ 留情經與傳 情を 經と傳とに留めり 於今兩寘之 今に於いて 兩つながら之を寘き にな 深荷聖衷眷 深く聖衷の眷を荷う 古人棄糟粕 8 ま へん は 長風巻浮雲 長風 浮雲を巻き とばり かか 褰帷始窺面 帷を褰げて 始めて面を窺う な 一笑仍舊顔 仍お舊顔なるに一笑し ま 媿我鬢先變 我が鬢 先ず變ぜしを媿づ なんじ あるじ た 我来爾為主 我来れば 爾 主為り 乾坤亦郵傳 乾坤は 亦た郵傳なり 海燈照孤月 海燈 孤月に照り むか よ けん 静對有餘眷 静かに對えば 餘眷有り ほうれい 彭蠡浮一觴 彭 蠡に 一觴を浮かべ いささ 賓主 聊か酬勸せん 賓主聊酬勸 悠悠萬古心 悠悠たり 萬古の心 な べ 黙契可無辨 黙契して 辨無かる可し 巻一二、四庫全書本)に、「弘治辛酉〔一四年、一五〇一年〕夏六月、 〔邵〕寳奉詔視學、至南康白鹿書院。是院也、勝在五老、聞於四方、 乃負而弗郷。雖無大関繫、然亦若缺典者。故周覧之餘、欲為亭以 對之、屬時暑雨、未暇相度。蓋越一年而後再至、歩自南岡、歴於 東厓、得地丈餘。其平如砥、其崇如壇。仰而西望、五老當前、若 拱若揖、若陟若降、若在咫尺可延致與語者。竊意、亭宜於此。諸 生從者曰、此文公(朱熹)先生舊遊也。俯觀崖石、有風泉雲壑四字。 寳乃欣然喜曰、此先得吾意乎。不於此亭、烏乎為宜。雖然、五老 之勝、有目者共覩、而非公(朱熹)莫之能當。故以獨對名亭、重 公迹也…」とみえる。 な お、 李 夢 陽「 獨 對 亭 銘 」 に、「 獨 對 亭 者、 白 鹿 洞 書 院 亭 也。 亭在書院東枕流橋北崕上、朱子舊遊處也。其下則峻溪湍灘衝摐、 乃其崕下広而上砥、陟亭西向、適與五老峰對。又崕間劖風泉雲壑 字、大如斗、亦西向。故曰獨對。云獨對者、前副使提學無錫邵公 【 語 釈 】 ○ 五 老 … 廬 山 の 東 南 部 に 位 置 す る 名 峰 の 名。 海 抜 一 三 五 八 メ ー ト ル。 五 老 峰 の 名 は、 断 崖 が 切 り 立 ち、 五 人 の による。四部叢刊にも所収。 字は『王陽明全集』 (呉光ほか編校、上海古籍出版社、二〇一一年) に「求正」という碑文を作って残した。『陽明年譜』に「徘徊久 その後また、白鹿洞書院に足を運び、朱熹の古本『大学』 『中庸』 駐屯させ、さらに翌年の正月、開先寺(現在、秀峰寺と改名)に 王 守 仁( 陽 明 と 号 す、 1472 ~ 1529 ) は、 正 徳 十 四 年( 1519 ) 、 朱宸濠による「寧王の乱」を平定したのち、軍勢の一部を南康に (邵宝)所名也。詳見其所自記」とある。 老 人 が 連 れ だ っ て 並 ぶ よ う に 見 え る こ と に よ る(『 太 平 寰 宇 記 』 之、多所題識」とあるのは、当時の情景を伝えている。なお、正 欽定四庫全書 『江西通志』卷一四九には、「獨對亭望五老」 本詩は、 (獨對亭にて五老を望む)と題し、『白鹿洞書院古志五種』には、「登 一一一) 。白鹿洞書院はその南(東南)約四キロに位置する。 徳十六年( 1521 )六月、王守仁は、門人達に呼びかけて白鹿洞書 院で講学した。五言古詩「白鹿洞獨對亭」は、この時の作である。『王 獨對亭望五老」 (獨對亭に登りて五老を望む)と題する。詩の文 ( 『空同集』巻六十、四庫全書本)によれば、 李夢陽「獨對亭銘」 獨對亭は、白鹿洞書院の東、枕流橋の北の断崖上にあり、かつて 陽明全集』の目録によれば、正徳十四年の作である、という。 7 ある李璟読書台傍らの岩壁に、自らの軍事的功績を刻んで記した。 朱熹が遊んだ場所、という。明、邵寳「獨對亭記」(『容春堂前集』 11 名を題して 朱 熹 (白鹿の講会にて卜丈の韻に次す) 「白鹿講会次卜丈韻」 宮墻蕪没幾經年 宮墻蕪没して 幾たびか年を経たる た とざ 秖有寒煙鏁澗泉 秖だ寒煙有りて 澗泉を鏁す ゆる 結屋幸容追舊観 屋を結びて 幸いに舊観を追うのを容すも つ 未だ遺篇を續ぐを許さず 題名未許續遺篇 原注…請為洞主不報 青雲白石聊同趣 青雲 白石は 聊か趣を同じうするも 原注…謂西澗劉公 わか 霽月光風更別傳 霽月 光風は 更に傳を別つ 原注…謂濂渓夫子 こ ちゅう 珍重箇中無限楽 箇中の無限の楽しみを珍重す はなは とうけん うら なか 諸郎莫苦羨騰騫 諸郎 苦だ騰騫を羨やむ莫れ )の進士、筠州(江西 西澗居士と号した。仁宗の天聖八年( 1030 高安)の人。剛直清廉な性格で、たびたび上官に逆らい、五十歳 で致仕して、南康に隠居を余儀なくされた。劉渙の道徳人格を廬 )は、『三劉家集』 (劉渙、劉恕〈 1275? ~ 1032 山の高きに譬えた欧陽脩( 1007 ~ 1072 )の「廬山高、贈同年劉 中允帰南康」は、広く知られている。なお、南宋の劉元高( 1220? 〉、劉義仲 1078 ~ 〈 ~ 〉)の遺文を輯録して公刊した。現存する唯一の版 1059 1120 は『四庫全書』(上海古籍出版社影文淵閣本、 1987 年、 集 部 総 集 類第 1345 冊、 543 頁)に収録されている。周敦頤( 1017 ~ 1073 ) 、 字は茂叔、濂渓と号した。 『太極図説』 、『通書』を著わし、朱熹 によって理学の開山と見なされている。 【語釈】○講会…学術論弁の集会。○宮墻蕪没…白鹿洞書院の 塀が雑草の中に埋もれる。○寒煙…寒々としたモヤ。〇鏁澗泉… 鏁は「鎖」と同意。ここでは、包みおおう、深く立ちこめる意。 澗泉は澗水。〇西澗劉公…劉渙を指す。〇濂渓夫子…周敦頤を指 る周敦頤への賛辞である。○箇中…ここ。「此中」と同意。〇騰 す。「霽月光風、晴夜皓月、晴日和風」などは、みな黄庭堅によ 本詩は、上述の「次卜掌書落成白鹿佳句」に継いで作られた一 首である。詩の原注に見える「請為洞主不報」に関して、朱熹が きた の 五老隔青冥 五老は 青冥を隔てて やす 尋常不易見 尋常に 見易からず 我来騎白鹿 我来りて 白鹿に騎り しの ひ けん のぼ 凌空陟飛巘 空を凌いで 飛巘に陟る 王守仁(明) 騫…飛び上がる意。ここでは仕官して出世する意。 )、字は凝之、 1080 「白鹿洞獨對亭」(白鹿洞の獨對亭) 朝 廷 に 対 し て「 請 為 洞 主 」 (白鹿洞書院の山長を招聘すること) したのは淳熙七年の春のことであり、『文集』巻二六「與丞相別 紙」 、 「與丞相箚子」の中にみえる。この詩は、学徒衆に向かって 劉渙や周敦頤に見習って、山林に安住し、修身涵養を行い、ひた すら功名を追い求めないよう諭している。なお、『朱子可聞詩集』 巻四に、 「西澗・濂渓、皆白鹿書院近地、昔有周夫子・劉公在焉。 ~ 1000 一則正学可師、一則高風可仰。箇中有無限真楽、学者宜珍重自修、 莫徒羨功名以自苦也」とある。劉渙( 6 しか ひ じん ひんそう そな もと 要共群賢聴鹿鳴 群賢と共に 鹿鳴を聴くを要む まち 談する。 『左伝』襄公三十一年に「裨諶は能く謀る。野に謀れば え 則ち獲、邑に謀れば則ち否らず(裨諶能謀、謀於野則獲、謀於邑 かなら 莫問無窮庵外事 問う莫れ 無窮の 庵外の事を いささ ちか 此心聊與此山盟 此の心は 聊か此の山と盟わん 深源定自閑中得 深源は 定ず閑中より得 も 妙用元従楽處生 妙用は 元と楽處より生ず え 三爵何妨奠蘋藻 三爵 何ぞ蘋藻を奠うるを妨げん なん 一編詎敢議明誠 一編 詎ぞ敢えて明誠を議せん 則否) 」 とある。〇莘莘…数多いさま。〇衿佩…若き学徒。『詩経』 鄭風「子衿」に、 「青青子衿、悠悠我心。…青青子佩、悠悠我思」 とあり、毛伝に「青衿、青領也。学子之所服」「佩、佩玉也。士 佩瓀珉而青組綬」という。〇博約…即ち「博文約礼」、広く学問 に励み、礼法を守る意。 『論語』雍也篇に「子曰、君子博学於文、 約之以礼、亦可以弗畔矣夫」とある。○明恩…賢明な指導・恩恵。 〇涵濡…うるおう。 ここでは涵養の意か。○荒榛…草木が生い茂っ 作った七律詩に次韻したのである。 本詩は、白鹿洞書院が落成した後、朱熹がより一層読書と涵養 に励むことを詠んだ七言律詩。卜掌書は、朱熹によって書院の庶 な て荒廃する。○頽波…衰退する趨勢。○喟然…ため息をつくさま。 た 務担当者として招かれた南康(現・江西省星子県)の居士。彼の つか 〇靡它…他は無い。二心無きことをいう。『詩経』鄘風「柏舟」に、 いた 【語釈】〇聴鹿鳴…昔、白鹿が飼われていたところで読書講学 することを言う。〇三爵…三杯の酒。爵は古代の酒器。 酒杯。『詩経』 「死に之るまで矢いて它靡し」とある。○循陰岡…丘の北側に沿 告げる。〇碩人…有徳の賢人。 『詩経』邶風「簡兮」に、「碩人俁 大雅「行葦」に「或いは獻じ或いは酢い、爵を洗い斝を奠く」と う。○陽坡…日の当たる山の傾斜地。○謝塵濁…俗世間に別れを 俁、公庭萬舞」とあり、毛伝に「碩人、大徳也」という。〇薖… ある。〇蘋藻…二種の水草。古代の人々はよくそれを採って祭祀 お くつろぎ、ゆったりした様子、寛大なさま。『詩経』衛風「考槃」 に用いたことから、後に広く祭祀品を指すようになった。『詩経』 ○聊…ひとまず。とりあえず。 偕立」とある。○深源…深遠な根源。○妙用…絶妙な働き、 作用。 涵養体験のことを指す。 「白鹿洞賦」に「明誠其両進、抑敬義其 読書講学のことを指し、誠とは内面の工夫涵養、つまり正心誠意、 召南「采蘋」に「于以采蘋、南澗之濱。于以采蘋、于彼行潦」と さかずき に「考槃在阿、 碩人之薖」とあり、毛伝に「薖、寛大貌」とみえる。 みえる。○一編…一部の書。〇明誠…『大学』における「明明徳」 さかずき この詩は、目の当たりにした自然の情景に歴史の想いを重ね、 かつその対比を通じて、自ら白鹿洞書院の復興、将来隠遁する意 と「誠其意」のこと。明とは主として外事外功、つまり格物致知、 むく 向を鮮やかに描いている。 (卜掌書の「落成白鹿」の佳句に次 次卜掌書落成白鹿佳句」 「 す) 朱 熹 重営舊館喜初成 重ねて舊館を営みて 初めて成るを喜び 5 あやま あら 披図知匪訛 図を披きて 訛りに匪ざるを知る おも 永懐當年盛 永く懐う 当年の盛 たの 一朝謝塵濁 一朝 塵濁を謝して かな せきじん 帰哉碩人薖 帰らん哉 碩人の薖なるに じんだく 俯仰驚頽波 俯仰して 頽波に驚く おこ およ 発教逮綱紀 教えを発して 綱紀に逮び き ぜん た な 喟然心靡它 喟然として 心に它靡し き よ 伐木循陰岡 木を伐りて 陰岡に循り 結屋依陽坡 屋を結びて 陽坡に依る たい は 涵濡煕泰和 涵濡 泰和を煕しむ こう しん 淒涼忽荒榛 凄涼として 忽ち荒榛 かんじゅ きんぱい 言絶句 24 首、七言律詩 首 52、四言詩 首 2)の中から朱子をはじめ、 宋、明、清代の幾つかの代表的詩歌を精選して正確な読解と注解 ば さ しんしん に努める。賦、銘文、連詩および清以降の近現代の詩歌などは省 莘莘衿佩多 莘莘として 衿佩多かりしを 博約感明恩 博約 明恩に感じ いた。 なお注解にあたって、 主として郭斎箋注『朱熹詩詞編年箋注』 (上・下、巴蜀書社、 2000 年) 、王懋竑『朱子年譜』を参照し、諸 橋『大漢和辞典』および『漢語大詞典』などを随時利用した。詩 歌の文字は、主として『白鹿洞書院古志五種』によりつつも、時 に作者の別集をも参照した。 まず朱熹の詩をみてみよう。 よ のち 朱 熹(南宋) 「尋白鹿洞故址、愛其幽邃、議復興建、感歎有作」(白鹿洞の 故址を尋ねて、其の幽邃を愛し、復た興建するを議し、感歎し て作有り) ちょう かえ り 清冷寒澗水 清冷たり 寒澗の水 よう くま 窈窕青山阿 窈窕たり 青山の阿 昔賢有幽尚 昔賢 幽尚有りて きた 眷言此婆娑 眷言みて 此に婆娑たり いく とき 事往今幾時 事往きて 今 幾時ぞ たす 高軒絶来過 高軒 来り過ぎること絶ゆ 学館空廃址 学館 空しく廃址たり こと い か や 鳴弦息遺歌 弦を鳴らして 遺歌息む 我来勧相餘 我来りて 勧め相くるの餘 つえ つ つた と 杖策搴緑蘿 策を杖いて 緑の蘿を搴る や はか う よろこ 野 に謀りて 獲る有るを欣び 謀野欣有獲 たす を労い勧め相く(君子以労民勧相)」とある。〇謀野…野外で相 ねぎら まし助けあうようにさせる。『易』井卦の象伝に、「君子は以て民 車。一に「高賢」に作る。○学館…白鹿洞書院。〇勧相…勧め励 う。○婆娑…逗留する。悠々自適のさま。○高軒…貴顕者の乗る 【語釈】○寒澗…寒々とした谷川。○窈窕…奥深いさま。○昔 賢…昔の賢者。唐代、当地に隠棲・読書した李渤兄弟を指すだろ お、詩題の「尋」字は、『朱文公文集』巻七によって補った。 の「白鹿洞賦」、「白鹿洞成告先聖文」の中に詳述されている。な 本詩は、淳熙六年(一一七九)、白鹿洞書院を復興するために、 朱熹自ら白鹿洞書院の廃墟を踏査した時の作。このことは、朱熹 原注…時已疏上尚書、乞洞主矣 4 竣工を告ぐ(冬十月、復建白鹿洞書院、次年三月告成)」(『朱熹 をへて、同年「冬の十月、再び白鹿洞書院を建て、翌年の三月、 い。 よびそれによって派生した一連の洞規や教則に負うところが大き 『白鹿洞書院古誌五種』前出) 、 とみえる。朱子の「尋白鹿洞故址、 聖・先師之傳、用以答揚太宗皇帝之光訓)」(「白鹿洞成告先聖文」、 を発揚したいと思う(今幸訖功、将率同志講学其間、意庶幾乎先 講学し、先聖・先師の伝えを用いて太宗皇帝の垂訓に報い、それ 末頃に至るまでの数百年の間であった。ここで詩跡として取り上 鹿洞書院の復興以後、宋元交替期における一時の中断をへて、明 白鹿洞書院の歴史は、あしかけ千年以上の長きにわたるが、最 も影響力を誇った時期は、やはり南宋の淳熙六年、朱熹による白 3.白鹿洞書院と詩跡 年譜』 ) 、また「今日幸いにも竣工し、将に同志を率いてその中で 愛其幽邃、議復興建、感嘆有作」、 「次卜掌書落成白鹿洞佳句」は、 げる代表的な詩歌を、そうした時期に限定したのもこのためであ 9 る。 復興の経緯と落成後のその心情を如実に詠った詩句である。 淳熙八年三月、朱熹は、白鹿洞書院再興後の翌年に、南康軍の 任を解き、江州(九江) 、湖口を通って福建に戻った。こうして、 新志』(明正徳 、 年刊、収録詩歌はのべ 89 首、その中で五言 8 1513 白鹿洞書院に関連する詩歌は、主に前述した『白鹿洞書院古志 五種』に収録された各種の志書、たとえば、李夢陽『白鹿洞書院 かったが、 書院再興の企画、 再興後の開学儀式、そして教師の招聘、 朱熹が直接白鹿洞書院の再興に携わった時間はそれほど長くはな 生徒の募集、課程設置、とりわけ学則(白鹿洞書院掲示)の制定 社 会 の み な ら ず、 東 ア ジ ア 諸 国 の 書 院 設 立 と そ の 教 育 思 想 と 実 践に与えた影響の大きさは、王昶がすでに指摘したように、正に 「為天下書院之首」 ( 『天下書院総志序』)だったのである。これは 五言絶句 、 1720 年刊、収録詩歌はのべ 202 首、中で五言古風 46 首、 59 首、 五 言 律 詩 49 首、 五 言 排 律 首 首、 七 24 1、 七 言 古 風 15 首、七言律詩 24 (清康熙 首 首、 六 言 詩 首1、 七 言 古 風 首 13、 五 言 律 詩 27 10、 七 言 絶 句 首、五言排律 首1)、および毛徳琦『白鹿書院志』 36 首、七言絶句 首、七言律詩 首)、李応昇『白鹿書院志』 (明天 30 80 啓 、2 1622 年刊、収録詩歌はのべ 133 首、中で五言古風 26 首、五言 絶句 五言律詩 首 首、七言律詩 97 首) 、周 61、七言古風 首 6、七言絶句 67 偉『白鹿書 院志』(明萬暦 20 、 1592 年刊、収録 詩歌はのべ 230 首、 中で五言古風 首 首、 七 言 古 風 32 34、 五 言 絶 句 首 12、 五 言 律 詩 46 古風詩 首、五言絶 句 首、五言律 詩 首、七言古 風 首、七言絶 15 3 6 2 句 首、七言律詩 首)、鄭庭鵠『白鹿洞志』(明嘉靖 、 年 14 47 33 1554 刊、 収 録 詩 歌 は の べ 261 首、 中 で 五 言 古 詩 45 首、 五 言 絶 句 17 首、 に力を尽くした。なお朱熹は、 同じく理学者で老友の呂祖謙( 1137 )に「書院記」を書いてもらっただけでなく、また、思想 1181 的「論敵」でもある陸九淵(象山、 1139 1192 )を特に書院に招 いて、「君子小人喩義利章發論」と題する特別講義を行ってもらっ たのも特筆すべきことである。 - このように、白鹿洞書院は、歴史の長さにしても、規模の大き さにしても、必ずしも天下随一とは言えないものの、後世の中国 11 何よりも、朱子学の体系的思想を凝縮した『白鹿洞書院掲示』お 3 - ので、その学派は大いに栄え、宋末、元・明・清を通じて流行し 胡憲・二劉(劉勉之、劉子翬)に師事するまでを第一期とする。 教学の中心となった」のである。こうした歴史的事象は、とりわ たのを第二期とし、さらに四十歳の時、「 『中庸』未発已発之義」 二十四歳の時、父の同門であった李侗(延平先生、 1093 1163 ) と出会って「道学」の真髄を悟り、「逃禅帰儒」の契機をつくっ たばかりでなく、朝鮮・日本・東南アジアにも伝わって、国々の け『白鹿洞書院掲示』を見倣って制定された東アジア諸国の書院 が氷解した後を第三期とする。言い換えれば、朱熹は、幼い頃か 3 の学則からもみてとれる。例えば、江戸前期の朱子学者山崎闇斎 ら 父 お よ び 諸 名 師 の 教 え を 親 し く 受 け、 さ ら に 日 々 自 ら の 弛 ま ぬ努力のすえ、トマス・アクィナス( Thomas Aquinas 、 1225 6 )を祖とする崎門学派、朝鮮王朝時代の碩学大儒の 1619 1682 - 書院を詠む歴代の幾つかの代表的詩歌にスポットを当て、正確な 関係についての論考は別稿に譲るが、本稿では、主として白鹿洞 の向上(新興の地主階級の台頭)につれて、中国における書院設 化の発展、農工商業の繁栄、とりわけ文治主義による士大夫地位 両宋時代、対外的には遼、金、西夏、元といった北方民族との 緊張関係が最後まで続いたが、他方では、両宋社会における都会 )と比肩しうるほどの世界的大思想家の一人になったのであ 1274 る。 読解と解釈を通して、白鹿洞書院と詩跡の関係を検証してみたい 立の黄金期を築くことになった。例えば、両宋時代における各種 7 と思う。 書院の数は、延べ 515 か所の多きに達した。尤も後になると、書 院の多くは単に科挙受験のための予備校と成り下がり、いわば功 利主義の学風が国中を蔽っていたというのが実状である。そうし 翁などを用いた。南宋の高宗建炎四年( 1130 )九月十五日、南剣 5 尤渓(現・福建省尤渓県)に生まれる。『宋史』「朱熹伝」に描か 人 間 性 が と も に 優 れ た、 実 務 能 力 の あ る 人 材 を 養 成 す る こ と に 利主義の学風を退け、正統な儒学の修養と実践によって道徳性・ )は、字は元晦、または仲晦、号は晦翁、遯 1137 1200 れたその神童ぶりからみれば、朱熹は、幼い時から聡明で向学心 あった。 た中で、朱熹による白鹿洞書院復興の最大の狙いは、そうした功 の強い児童であったということが分かる。 )三月、「秘書郎権知南康軍州事」という肩書 淳熙六年( 1179 で南康軍(現・江西省星子県)に着任した朱熹は、直ちに「知南 朱熹( 朱熹の学問の経歴は、大体次のように三期に分けられる。すな わち、幼少の時から学識・人格ともに優れる詩人、官僚学者でも 康軍榜」(『白鹿洞書院古志五種』上、 頁)を頒布し、白鹿洞書 45 院再建の決意を正式に表明した。半年余りの調査と探訪の準備期 8 あ っ た 父 朱 松( 1097 1143 ) の 指 導 の も と、『 孟 子 』『 論 語 』 な どの経書を読破し、十四歳の時、父が病死すると、遺言によって、 - 2.朱熹の学問経歴と白鹿洞書院 わけ『白鹿洞書院掲示』と東アジア諸国における書院の展開との - ( - では、前述した伝統教養または伝統的学知と書院との関係、とり 李退渓( 1501 1570 )とその陶山書院は、みな門弟の教育に『掲示』 4 とその精神を高く掲げていることはよく知られている。ただここ - - 2 近年、東アジアの書院史に関する学際的研究は、相当の活況ぶ りを呈している。こうした一連の研究は、新たに掘り出された一 はじめに 当する。二つ目は、経書の理解に必須の補助的学科、例えば、言 ができる。一つ目は義理の探求のこと、現代の哲学、倫理学に相 歳月を経て、膨大な知識体系として確立されるようになった。近 白鹿洞書院と詩跡 次史料を駆使して、書院での教科内容、学則(学規)とその影響、 語文字学、文献学、歴史学、天文地理学、数学、などである。三 梁 ないし建築様式とその配置といった角度から、書院の史的実態に つ目は、経書に言及された各種の学問と技能のこと、などである。 迫り、示唆に富む新知見を数多く披瀝してみせた。これも、いわ 総じていえば、経学の知識体系は膨大で複雑なものの、その基本 李 ば伝統教養の角度から、東アジアの伝統的「知」の有り様を再検 的 構 造 は 案 外、 簡 単 明 瞭 で あ る。 そ れ は、 つ ま り、「 内 聖 外 王 」 修訂したといわれる『六経』 ( 『詩』、 『書』、 『礼』、 『楽』、 『易』、 『春 そうした伝統的学知の範囲を超えていないとみてよい。中国思想 近代まで、東アジア諸国の書院における主たる教学内容は、そ れぞれ独自色または差異性があったものの、その大枠からみて、 2 である。経学の知識全般は、そうした「内聖」と「外王」という 代風のカテゴリーで分類すれば、それを三つの側面に分けること 討する作業の一環にほかならない。 二つの側面に凝縮され、表象されているといえよう。 1 ちなみに、儒家の「経学」に代表される伝統教養、東アジアの 伝統的学知、その具体的な中身はどうであろうか。これについて 秋』 ) 、あるいは「六芸」 (礼、楽、射、御、書、数)は、その主 史家の岡田武彦がいうように、 「朱子は数多くの門弟を育成した は、まず房徳隣による簡明な整理をみてみよう。つまり、孔子が な内容である。とくに経学は、政治権力による庇護のもと、長い 1 ………………………………李 梁 1 目 次 【論 文】 白鹿洞書院と詩跡 ………………………………松井 太 敦 煌諸石窟のウイグル語題記銘文に關する箚記(二) ………………………………関根 達人 1 アイヌの宝物とツクナイ 27 Studies in the Humanities CULTURAL SCIENCES Number32 LI LIANG … ………………… The "Shuyuan" of Bailudong(白鹿洞書院)and the poetic site ����� 1 SEKINE Tatsuhito … ……… The Treasure of Ainu and Custom of Tsukunai ������������ 1 �� 27 MATSUI Dai… ……………… Notes on the Old Uigur Wall Inscriptions in the Dunhuang Caves(Ⅱ) Faculty of Humanities Hirosaki University Hirosaki,Japan ISSN 1344-6061
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