「足がよろめく」人の神

「足がよろめく」人の神
旧約単篇
詩篇の福音
「足がよろめく」人の神
詩篇 94:1-23
主題は 18 節から取ったものです。
「足がよろめく」とわたしが言ったとき
主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。
英訳は、こうなっています。
When I thought,“ My foot slips,”
thy steadfast love, O Lord, held me up.(RSV)
これは、詩篇の中でも最も美しい言葉の一つ、私の好きな聖句です。十八
年前に夕拝で読んだときは、口語訳に基づいて“「わたしの足がすべる」と
思った時”という標題にしています。これだと英訳に近いですね。「わたし
が言ったとき」が、どうして“When I thought”になるか気になる向きには、
ヘブライ語の「言う」rm;a' という動詞は、口に出して「言う」のと、心の中
で言う、つまり「思う」のと両方をカバーする、と申し上げましょう。つい
でですから、もとの口語訳はこうでした。
しかし、「わたしの足がすべる」と思ったとき、
主よ、あなたのいつくしみは
わたしを支えられました。
新改訳については、18 節の解説で触れることにします。
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「足がよろめく」人の神
1.裁き主である神に訴える :1-3.
1.主よ、報復の神として
報復の神として顕現し
2.全地の裁き手として立ち上がり
誇る者を罰してください。
3.主よ、逆らう者はいつまで
逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。
凄い言葉です。こんな、「報復の神よ」というような表現は、聖書の中で
もここだけです。「だから、宗教は血で血を洗う争いの原因になるのだ」と
いう人も現にいます。でも本当に、神への信仰が兄弟の血を流させるのか、
それとも人が同じ流儀で結束して造る宗教文化が殺意の根であるのか……と
いう問題は、すでに「宗教文化への哀歌」ほか二つのスピーチで私見を述べ
ましたので、今日は繰り返しません。
詩篇の研究家 Derek Kidner は、この冒頭の言葉について、“God of
vengeance”(復讐の神)というよりは、“God who punishes”(必ず処罰
をくだす神)つまり、正義の裁きを執行なさる生ける神への絶対信頼を告白
しているのだと説明します。逆らう者は「勝ち誇る」ようにみえても、神が
必ずその空しい誇りに終止符を打たれる。ただそれが「いつまで」のことな
のか……それが分からない苦痛だけが詩人の心を過ぎると。これは詩篇作者
に対して、とても好意的な読み方です。
もっとも、私には作者の怨念といいますか、憎しみも疎ましさも、この人
の信仰の中に一緒にブチ込まれているように見えます。それが人間です。し
かし、今は問わないことにいたしましょう。
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2.神を無視して驕る人の残酷さ
:4-7.
詩篇 14 篇の切り出しのところが、これと似ているのを思い出される方もい
らっしゃるでしょう。
4.彼らは驕った言葉を吐き続け
悪を行う者は皆、傲慢に語ります。
5.主よ、彼らはあなたの民を砕き
あなたの嗣業を苦しめています。
6.やもめや寄留の民を殺し
みなしごを虐殺します。
7.そして、彼らは言います
「主は見ていない。
ヤコブの神は気づくことがない」と。
異民族が侵入して残虐を欲しいままにしたと見る人もあります。反対に、
これは外敵ではなく、本来信仰の人であるべき人─たとえばこの国の王が、
冷酷と不道徳の限りを尽くしたのだと見る人もいます。Kidner はマナセ王の
例を暗示しています。イザヤ書にも、そういう権力者の横暴が(5:18f.)最
後の二行と似た言葉で描かれます。「イスラエルの聖なる方は何してる。何
にも起こらない。早くやりな。もし罰が起これば納得しよう。」(意訳)と
いうのですが、この詩篇ではストレートにズバリ、こうです。
「主は見てなんかいるものか。“ヤコブの神”だって……? ハハ、笑わせ
るな。所詮は“デクの棒”さ!」
信仰の詩人はそれに応えます。
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3.神を侮る人間の愚かさを衝く
:8-11.
8.民の愚かな者よ、気づくがよい。
無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。
9.耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。
目を造った方に見えないとでもいうのか。
10.人間に知識を与え、国々を諭す方に
論じることができないとでもいうのか。
11.主は知っておられる、人間のはからいを
それがいかに空しいかを。
これは、人を踏みにじって神を侮る者への「悔い改めよ、神に帰れ」とい
う、赦しへの呼びかけであると同時に、踏みにじられて訴えている人に対し
ては、「怒りと疎ましさを押えよ。神に委ねて、その疎ましさが憎しみとな
ってあなたを蝕むことのないよう、心せよ」という呼びかけでもあります。
イエス・キリストを知らなかった時代の人たちに、果してこれが通じたかど
うかですが……。恐らく、「踏みにじられている人」の側でも、「主はデク
の棒だ。私が報復しなければ……」と思い込んでしまう恐れが甚だ大きいと
いうことです―まるで、人間の計らいが、主の計らいより賢いように思え
てしまう悲しさです。ここに描かれるのは、私たちと関係のない世界ではな
いのです。
4.静かに待てる人の幸い
:12-15.
そんなの、「待て」という方が無理だ、とも言えます。それだけの大きな
神を知ることがなかったらです。十字架のイエス・キリストを見なかった詩
人にとっては、「静かに待ちます」のすぐ次の、「滅びの穴が」という言葉
などに、苦い思いが込められていなかったとは、とても言えないでしょう。
美しい信仰の詩を読む実感と同時に、悲しい人間の思いを読む実感も交じり
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ます。
12.いかに幸いなことでしょう
主よ、あなたに諭され
あなたの律法を教えていただく人は。
13.その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。
神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。
14.主は御自分の民を決しておろそかになさらず
御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。
15.正しい裁きは再び確立し
心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。
「心のまっすぐな人」というのは、憎しみや不信を全く持たない聖人みた
いな人をいうのではなかろうと思います。そういう人だけの宗教なら、私な
どはとっくに脱落しています。「心が(斜めじゃなく)真っすぐ立ってる」
(イィシュレー・レーヴ)ble-yrev.yI というのは、真っすぐに上を仰いで神に
帰る人でしょう。少なくとも私は、それでしかあり得ないかった。その苦い
思いを抱いたまま、「主よ、お赦しください」と天を仰ぐ「曲がった」人の
ことを、「心のまっすぐな人」というのです。その「まっすぐに上を仰ぐ人
は何に支えられているのか?
5.よろめく人を捕まえて立ち直らせる神 :16-19.
この詩篇の注解を書いている Derek Kidner という研究家は、この段落に、
“The only champion”という見出しを付けています。チャンピオンという
言葉の内容は日本語になりにくいですが、「私の命を守るために戦って必ず
勝ってくれる人」と言いましょうか。「私の冤を雪いでくれる人」、西洋式
に言うなら、「私に罪をなすりつけて告発している者を一撃の下に打ち倒す
騎士」です。ローエングリン Lohengrin みたいにです。次の最初の 4 行は、
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そんなイメージを使ってあります。
16.災いをもたらす者に対して
わたしのために立ち向かい
悪を行う者に対して
わたしに代わって立つ人があるでしょうか。
17.主がわたしの助けとなってくださらなければ
わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。
18.「足がよろめく」とわたしが言ったとき
主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。
19.わたしの胸が思い煩いに占められたとき
あなたの慰めが
わたしの魂の楽しみとなりました。
18 節の「足がよろめく」は、前の口語訳では「わたしの足がすべる」でし
た。しっかり立っているつもりだった「信仰の人」が、足をすべらせて「よ
ろめく」のです。自分が罪の中にすべり込む場合があります。反対に、不正
と虐待を受けて、人から傷つけられた傷で「足がすべる」ことがあります。
自分は一方的に被害者で、正しくて、しっかり立っている……と思っている
本人が、すべって、よろめいて、呪いの人になりかけることは、いくらもあ
ります。
そんな時に、神様の慈しみは必ず、「足がすべる」と私が言ったならもう
その時には、ちゃんと支えていてくださるのです。ここは、面白い構文にな
っていまして、When I thought,“My foot slips”のところがはっきりと過
去の表現で、その後の…… held me up. のところは未完了、つまり現在形と
も未来形とも願望とも取れる動詞
ynIde['sy. I
なのです。新共同訳は、ですから、
“もしも私が「私の足はよろけています。」と言ったとすれば、主よ、あな
たの恵みが、私をささえてくださいますように。と(願望形の)祈りのよう
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に訳しています。これに対して、古来の解釈の伝承は 口語訳や新共同訳のよ
うに、「支えてくれました」と過去か完了のように信仰の体験として訳して
あります。英訳も私の手元にあるものは“held me up”と過去に訳してあり
ます。「あっ、すべる!」と私が言った“said",または、思った“thought”
という過去形の断言の重みを考えて、ここは、「そう叫んだ瞬間にもう、支
えていただいていることに気づいた」という告白なんでしょう。願望じゃな
く。これはまっすぐ上を仰ぐかぎり、そうされるのです。
新改訳の注解(いのちのことば社「新聖書注解」の詩篇)を書いておられ
る小林和夫氏も、ここだけは新改訳の訳文よりも「古い訳の方が原意に近い
のではないか」と言われます。新共同訳はその古い伝統的な訳し方に従いま
した。
18.「足がよろめく」とわたしが言ったとき
主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。
これはきっと、本当に自分の足がすべるのを、何度も何度も経験した人の
経験から出た言葉です。一つの完成の境地に達して、人に教訓を垂れている
のではなかったのです。自分自身が、アッという間に罪の泥沼に落ちる。頭
の芯まで腐敗と汚辱が染み込む。時には、思い煩いに負けて 不安でイライラ
する。「やはりダメか! 俺は信仰 身に着かずか……」という、情けない、
みっともない状況の繰り返しだったが、それでも、その時に「主よ、あなた
の慈しみが支えてくださいました。だから、こうしてまだ潰れずにいます」
という、そんな人が書いた詩なのです。
この詩は、「私は絶対足がすべらない、よろけない」と自信を持つ人には、
恐らく、分からないでしょう。信仰というのは、この「足がすべる」悲しみ
が分かる人に芽生えるものですし、教会というのは、そういう「すべり人間」、
「よろけ人種」が砦の塔に集まっているのです─正確には教会が砦ではな
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く、イエス・キリストがその砦ですが─この後の 22 節の三行の言葉にある
ように。
6.再び、確かな裁きの主に委ねる :20-23.
本当は、今の 18 節か 19 節のところで終わっていた方が、詩としても証し
としても奇麗なのですが……。もう一度蒸し返すところは、ちょっとイヤで
すね。結びの 23 節などは、「この期に及んで なお執念深い!」という感じ
無きにしもあらずです。こんな批評は……でも、私みたいな者に許されるの
でしょうかね。
20.破滅をもたらすのみの王座
掟を悪用して労苦を作り出すような者が
あなたの味方となりえましょうか。
21.彼らは一団となって神に従う人の命をねらい
神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。
22.主は必ずわたしのために砦の塔となり
わたしの神は避けどころとなり
岩となってくださいます。
23.彼らの悪に報い
苦難をもたらす彼らを滅ぼし尽くしてください。
わたしたちの神、主よ
彼らを滅ぼし尽くしてください。
この詩の結尾部が、英語でいうと“anticlimax”とでも言いますか、せっ
かく美しい信頼の言葉でピークに達したのに、またまた初めの「主よ、報復
の神として……」という基調に戻って、「彼らを滅ぼし尽くしてください」
で結ばれるのは、あまり気持ち良くないと考えた人は、ユダヤのラビたちの
中にもいたのだと思います。それで、この詩の怨念について、次のような言
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い伝えが“タルムード"(Elahin,11a)の中に記録されています。B.C.586
年エルサレム神殿が潰滅した日、レビ人たちが神殿でこの 94 篇を歌っていた
ところへ、バビロン軍が怒涛のごとく侵入しました。ちょうど 23 節一行目の
「彼らの悪に報い」~n"Aa
~h,yle[] bv,Y"wE
まで読んだ時に、バビロン軍がレビ人
の聖歌隊に襲い掛かったため、その後の言葉を歌い切ることができなかった、
というのです。「なるほど、それなら無理はない」ということになります。
そういう説明で「滅ぼし尽くしてください」から注意をそらすのか……とは
“下司の勘ぐり”かも知れませんが、この言い伝えにはラビたちの、「そん
な残虐行為の中で詠まれたのだ」という、“弁明”の響きも聞こえないでは
ありません。
私自身はしかし、それとは違った意味で、この最も美しい詩の中に、敵に
対する恨みと殺意が流れているのは自然だと思うのです。それは、この詩の
18 節や 19 節にこめられているような、生ける神への全面的信頼が語られな
がら、人間というものは、そんなものだという思いがするからです。神を信
じて喜びながら、人間とはいかに悲しい存在であるかを、チラッと窺わせる
からです。“信仰する人間の最高の姿というものがせいぜい、これだ!”。
「それでいい」という意味では、決してありません。「主よ、憐れんでく
ださい」《》です。イエス・キリストの贖いを受けて、神
に愛される経験をして、兄弟への愛を注いでいただいて、感謝の祈りを捧げ
て、「主よ、『私の足がすべりました』と申し上げた瞬間にもう、あなたの
慈しみが支えてくださっています」と告白しながら、それでいて、私の中の
恨みと呪いはまだ整理されないままついて来る。憎い。赦せない。「主よ、
報復の神として顕現してください。彼らを滅ぼし尽くしてください!」―こ
れが信仰者の賛美と祈りと告白です。
第2テモテ書の中に、多分、初代教会で使った讃美歌の歌詞ではないかと
言われる五行の詩が引用されていますが、その 4 行目に、とても不思議な響
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「足がよろめく」人の神
きの言葉があります。前の行とあまり響きが違うので、解釈に戸惑う人もい
るくらいですが、その、パウロが引用する言葉はこうです。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。(2:13a,新改訳)
重ねて言いますが、「だからデタラメで良い。不道徳も不誠実も許される」
というのではありません。しかし、これは祈りを捧げながら、賛美を歌いな
がら、詩篇に感動しながら、なお呪いと憎しみの断片を噛み締める悲しい信
仰者にとっての希望の言葉です。
私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。その彼に信頼して委ねよ。
神は「足がよろめかない人」の神ではない。神は「足がよろめく人の神」で
あることを恥じない。あなたは、そんな神を本気で信じているのか……と、
これが詩篇 94 の中から聞こえるメッセージです。
(1993/01/10)
《研究者のための注》
1.「支えてくれました」(新共同訳)、「わたしをささえてくださいます
改訳)と訳される
ynIde['s.yI
ように」(新
は LXX では現在時称の直説法でと訳していま
す。
2.この詩篇 94 の朗読が 23a で中断されたと伝える“タルムード”伝説(Elahin,11a)
と、これが「週の第四日(水曜)に「ダビデの讃美」として(本文には標題はない)
歌われたとするミシュナ伝承については、Delitsch,p.79 を参考にしました。
3.当日の講述中、この詩が 23 節の第一行まで朗読して“後を読まない読み方の伝承があ
る”ことに触れましたが、手元の資料で確認できなかったため、文中では省きました。
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