「土に還る」

「土に還る」
林 美佐(ギャルリー・タイセイ学芸員)
「はじめに」
ル・コルビュジエを知るのに最も重要な文献資料といえば、8 巻からなる自選作品集
(ただし第 8 巻は没後編集)であろう。全巻を並べてみたとき、極端に薄いのが「第 3
巻 ル・コルビュジエ+ピエール・ジャンヌレ 1934−38」である。中を見ても、代表
作は見当たらず、そもそも実施作品自体が少なく、存在感の薄い巻である。この前後を
含めた 3 冊分が、今回取り上げようとしている時期を収録した作品集である。
このおよそ 15 年間は、1933 年にナチスが政権をとり、第二次世界大戦が始まり、そ
して終わるまでの悲劇的な戦争の年月であった。このため、創造的な仕事に携わってい
た人間にとっては厳しい時期となり、誰のもとにも仕事がぷっつりと来なくなってしま
った。しかし、戦後、爆発的に活動を始めるまでのこの時期がル・コルビュジエの不毛の
年であったかと言うと、そうではない。後期の活動を準備し、その素地を作った非常に
重要な時期だったのである。
国際連盟コンペでの敗北を逆手にとって自己アピールし、サヴォア邸を手がけ、セン
トロ・ソユースの実現に付随して招待されたソビエト・パレスでのコンペに挑戦し、北
アフリカや南米での講演旅行をし、
「CIAM(近代建築国際会議)
」を立ち上げ、その中心
的存在となった充実の数年が 1920 年代末から 30 年代初頭であったのに対して、その後
40 年代半ばまでの間、ル・コルビュジエが主に取り組んでいたのは、頼まれたわけでも
ないのに計画を提案しつづけたアルジェをはじめとするいくつかの都市計画や農村計画、
戦争で被災した人々のためのプレハブ建築などの諸計画であった。しかし、彼が実際に
手がけることができたのは、いくつかの住宅建築だけだったのである。
「20 年代からの変化」
1920 年代にル・コルビュジエが提唱した「近代建築の 5 原則」を振り返ってみると、
それは「自由な平面、自由な立面、屋上庭園、横長の窓、ピロティ」であり、そこでは
素材や色については触れられてはいない。しかし、この時期の作品を思い浮かべると、
必ず「白いコンクリートの住宅」というル・コルビュジエによって巧みに用意されたイ
メージが真っ先に浮かんでくる。ただ、可笑しなことに、この時期のル・コルビュジエ
の作品は決して、すべてが「真っ白」だったわけではなく、正確な意味では「コンクリ
ート」造りではなかったのだが。
ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸(1923 年)は、コンクリートの壁、柱、ピロティが、タ
イル、プラスター、ペンキによって仕上げられた。ペサックの集合住宅(1925 年)では、
事前に準備したコンクリートのスプレー・ガンの調子が悪く、結局、鉄筋コンクリート
でつくることはできず、地元の木材を構造材にしている。サッシュと開口部が合わなか
ったこともあり、壁の工法を変えたりもしている。ワイセンホーフ・ジートルングでの
二棟の住宅(1927 年)はいずれも鉄骨造である。スタイン邸(1926∼28 年)は、ピロテ
ィ、スラブ、梁のコンクリート構造に、壁、パーテーションは煉瓦積みで、セメントや
プラスター、塗装によって平滑さを表現するように仕上げられた。そして、最も有名な
サヴォア邸(1928∼31 年)でも煉瓦が用いられ、その外壁を白く塗っている。
つまり、20 年代の彼の住宅は、一部コンクリートを使用しているとはいえ、多くの部
分は煉瓦積みであり、部分的には木や石を用いている。そして、その表面を、機械の金
属質な表面を思い起こさせるかのようにきれいに塗り上げている。その平板な彩色は、
とくに真っ白く外壁を塗ったものは衛生陶器を思わせるものだし、ポリクロミーを施し
ている作品は、極力建築物の重さを消し、エッジを強調し、つややかな機械を想起させ
るものとなっている。
こうした 1920 年代の建築作品は明らかに
「機械」
を志向している。
それが彼のピュリスムの美学に通じるのはいうまでもない。
この傾向が微妙に変化し始めるのは、彼がガラスのカーテン・ウオールを手がける
1920 年代の末からのことである。横長窓によって万遍なく光を取り込もうという試みが
発展していけば、カーテン・ウオールになるのは自然の成り行きだろう。
ル・コルビュジエはファン・デル・フルフト&ブリンクマンの「ファン・ネレの工場」
(1928∼30 年、ロッテルダム)のガラスのカーテン・ウオールに非常に感激したが、同
様に、彼が興味をもったのがガラスブロック(ブリック・ド・ヴェール)である。あま
りにも有名なピエール・シャローの「ガラスの家」
(1930∼32 年)は多くの人々を魅了
したが、ル・コルビュジエも例外ではなく、工事中のその住宅を毎晩訪れスケッチをし
ていた姿が報告されている。その影響か、彼もこの時期やたらとガラスブロックを使用
している。
彼の建築の中で、ガラス建築の代表作といえるものは、パリの救世軍難民院(1929 年)
であろう。この作品は、30 年代の作品を準備する大きな転換点となる作品であることは
間違いない。また、ジュネーヴのクラルテ(1930 年)では、黒く重たげな外観のエント
ランスをガラスブロックが軽やかに見せている。唯一ロシアに残した作品である、モス
クワのセントロ・ソユース(1929 年)は鉄筋コンクリート造のガラスの箱に、厚さ 40
cmのコーカサスの凝灰岩を用いた外壁という非常に特徴的な作品である。
ガラス建築によって新しい技術を駆使し、彼は自分が提唱した新しい建築環境を実現
した。こうして横長の連続窓は消滅し、横長の窓の上下を挟んでいたファサードの帯状
の壁面は必要性を失った。材料の面でも、1929 年のルシャール法により安価に入手でき
るようになったスチールや、コンクリートパネルや石を用いるようになってきたこの時
期、ル・コルビュジエは次の方法を模索しているように思われた。
「30 年代の作品」
では、30 年代のル・コルビュジエの作品を、材料を中心に見ていこう。
まずエラズリス邸(1930 年)は、現代美術のパトロンのための週末住宅としてチリに
実現するはずだった。ル・コルビュジエは、
「十分な熟練労働が得られなかったので、そ
の土地にある要素で、簡単な組み立てでつくることにした。大きな石の塊の壁、木の幹
による木構造、土地産の瓦葺き、従って傾斜屋根とした。田舎っぽい材料は、明解な間
取りや近代的な造形の束縛にならない。
」
(『全作品集』vol.2)と語っている。この作品
は、レーモンドがそのアイデアを使い、「夏の家」として軽井沢において実現した。
スイス学生会館(1931∼33 年)の初期案では乱石積みの壁面は見られないが、実施さ
れた姿では、ガラスのカーテン・ウオールの南側と反対に、北側ではコンクリートパネ
ルと乱石積みの荒々しい壁面が非常に印象的である。
ド・マンドロー夫人邸(1930 年)は、CIAM を支えたパトロンのために草原の中に建て
られた週末住宅であり、鉄骨フレームと石壁がファサードの表情を作っている。外部か
ら持ち込まれた量産品とその地域で普通に用いられている材料とが並置されている。
パリ 16 区のサッカースタジアムの傍に建てられたアパート(1933 年)は、最上階と
屋上がル・コルビュジエの自宅兼アトリエとなっていて、アトリエの壁面は、石と煉瓦
がむき出しになっている。
大西洋に近い砂浜に建つマテの家(1935 年)は、雨、風が強い砂丘地帯にある。石積
みの壁に二次的システムとしての木造の柱、床、梁、窓、ベランダという構成である。
「予算はぎりぎりで、その建設のあとにも前にも建築家に現地へ行く費用がなかった。
地主からの正確な写真資料で砂丘に建物を設置する。現場監理のできないこと、村の小
さな業者を使う必要が、この案をつくらせた。
」
「土地産の粗石壁、木部も土地産材、屋
根はセメントスレート板大波、建物は森の中の砂地に建つ。人工的な庭は何もない。
」
(『全作品集』vol.3)と述べている。
パリ郊外に建てられた小さなウイークエンドハウス(1935 年)は、なるべく見えない
ものにしたいという意図があった。そして、伝統的な材料、乱石積みの石臼用硅石積み
が用いられ、屋根は鉄筋コンクリートのヴォールトとし、その上に土が敷かれ草が植え
られた。ガラス壁面はネヴァダ型ブロック、または透明ガラス、内部仕上げで天井は合
板、内壁は石積みの上に白い石灰のろ仕上げ、または合板張り、床は白タイル、暖炉と
煙突は通常の煉瓦積みとなっている。
「このような住宅の計画は入念になされなければ
ならない。構造の材料自体が建築を構成するからだ。」(『全作品集』vol.3)
このように、この時期に建てられた建築作品に共通するのは、石や煉瓦、木などとい
った素材を使用し、それらのもつ表情をそのままファサードの表現として見せているこ
とである。
「自然素材使用の外的要因」
30 年代の作品に石や煉瓦が多く用いられているのは、いくつかの理由による。
まず第一に、経済的、技術的な理由からである。予算が少ない、材料が手に入らない、
職人がいない、といった理由から、彼はやむなく地元で手に入れ易い材料を用いての建
築をつくらざるを得なかったということであり、至極当然の理由である。
さらに、
週末住宅という性格上、
建てられた場所の多くが海岸や草原であることから、
現場の環境を考えた結果、周囲から目立たないような建築にしようと考慮したと考えら
れる。
また、
楽天的に機械文明を賛美していた 1920 年代に対する失望と反動の機運といった
時代の気分から、そして、同様のことを敏感に感じとったル・コルビュジエ自身の意思表
明として、彼はこれら昔ながらの伝統的素材を選ぶに至ったともいえよう。
「機械」の後に人々の関心が向かったのは「人間」であり、この時期には文化人類学
が脚光を浴びていた。20 年代にはマリノフスキーらの業績が注目され、国際アフリカ言
語文化研究所などが設立された。エドガー・ライス・バローズによる「ターザン」が映
画化され、ロマン主義的な「高貴な野蛮人」への関心が高まったのもこの時期である。
芸術家たちはこうした動きを先導し、すでにピカソらは早い時期からアフリカの仮面や
彫刻などに強く関心を持ち、コレクションをしていたことは知られている。当時のシュ
ルレアリスムの雑誌(
『ミノトール』
)で、アフリカ美術を特集した記事がみられること
もその表れである。ル・コルビュジエが 1920 年代末から講演旅行をしに、繰り返し訪れ
た北アフリカ、南米などで目にした人々の貧しいながらも逞しい暮らしと、それを支え
る素朴な住宅に強烈な印象を受け、民俗学的形態に魅了されたのは、個人的な興味でも
あったと同時に、
エコロジカルなものを志向した時代の風潮でもあったのだろう。
「そこ
に住む人々と建物、ランドスケープが見事に調和しているのに彼は感動し、その地域固
有の材料と酷暑に対処するためのヴァナキュラーな工夫に惹きつけられた。
」
(カーティ
ス)そして、ル・コルビュジエはこうも言っている。
「私が原始的な人間を求めるのは、
彼らが野蛮だからではなく彼らが知恵を持っているからである。
」
(『輝く都市』)彼もや
はり「高貴な野蛮人」をそこに求めていたようである。
そもそも煉瓦という材料は、扱いやすさ、経済性、耐久性があり、
「まるで人間の遺伝
子に組み込まれ、人間の進化と共に影ながら歩んできたかのように私たちにとってごく
自然なものである。(略)人類にとっては『永遠』の材料なのである。
」
(アルノ・レデレ
ル『A+U』2001 年 10 月)近代建築は新しい素材(鉄、コンクリート)を使うことを
前提としていたのだが、実際には「古い」材料である煉瓦を使っている建築家は、ル・
コルビュジエ以外にも実に多いのである。しかし、30 年代の状況については、
「煉瓦に
なんの先入観も抱かずに呑気に構えていた近代主義をよそに、保守派や右翼の人間はこ
の材料を利用してイデオロギーに結び付けることに成功した。(略)事実、この時期の建
築家は好んで建物を煉瓦造にした。煉瓦造であることは伝統の表れであったし、またこ
の煉瓦という素材自体も、歴史そのもの、『国民の建築遺産』そのものをストレートに伝
えることができたからだ。」(アルノ・レデレル)という指摘もなされている。
「対比が生み出す強さ−シュルレアリスム」
ル・コルビュジエは、スイス時代のヴァナキュラーな住宅は当然の如く石や木で建設
しているし、シュウオッブ邸(1917 年)は明るい茶色の煉瓦積み住宅である。また既に
見たように、20 年代の作品でも木や煉瓦が用いられているので、こうした素材の使用は
30 年代に限定されるものではないが、20 年代と明らかに違うのは素材の表情を堂々と見
せているという点である。これは、消極的な理由や、当時の時代背景からみられる外的
要因の他に、彼は自分なりの積極的理由をもって、これらの素材に取り組んでいたと思
われる。
1920 年代半ばから、美術の世界は「シュルレアリスム」が席巻していた。
「シュルレ
アリスム宣言」を打ち上げたアンドレ・ブルトンは、その中でロートレアモンの詩句を
引用し、美とは「手術台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」であると述べている。
こうした異質のものの組み合わせ、無意識下での創造(オートマティスム)、アーティス
トの頭の中に存在するものの描出という刺激的なシュルレアリスムに、人々は心をとら
えられた。それはル・コルビュジエにしても例外ではなかった。1925 年にオザンファン
と訣別してからの彼の芸術活動にはあきらかにこの傾向が見られる。絵画作品で彼は摩
訶不思議な画面を作り出している。浮遊する貝殻や骨、突然開いたドアに驚く女性、机
の上の仮面と松ぼっくり、マネキン、ギターの取り合わせ。そして建築作品を見てみれ
ば、ベイステギ邸(1930∼31 年)はキリコの絵画に描かれる広場の孤独を感じさせる、
舞台装置のような不思議な空間であり、いかにも「超現実」的な場となっている。ベイ
ステギ邸を訪れた者をびっくりさせる仕掛けだけでなく、30 年代以降の建築作品のファ
サードに見られるような石や煉瓦を並置していく異質の素材の組み合わせによる表現を
見ると、この時期のル・コルビュジエの気分は単なる流行に影響されたという程度だけ
ではなく、かなりシュルレアリスムにどっぷり浸っていたと見て良いのではないだろう
か。
スイス学生会館ではガラスのカーテン・ウオールですっきりと構成された南側から北
側に回り込むと、規則的に窓が配された簡素なコンクリートパネルによる壁面と、その
手前に強烈にアピールしている湾曲したざわざわする感じの石壁が存在する。その、建
物をぐるっとまわったときに発見する場面の転換による驚きと、かけ離れた形と色が生
み出す驚きは、視覚的な緊張を強いる、この時期の彼の絵画に通じるものである。
大きさの揃わない石を選んだここでの壁面は、じっと見つづけていると、その目地の
広さのせいもあるだろうが、まるで細胞の顕微鏡写真のように見えてくる。すると、彼
が制作したスイス学生会館 1 階ホールのフォト・コラージュの壁面との関連性が浮かび
上がってくる。読書室の凹面をした乱石積みの外壁と、ちょうどその内側の凸面の壁と
ホールの凸面の柱に施されたフォト・コラージュのことである。戦後改修され、室内の
フォト・コラージュの部分はル・コルビュジエ自身が描いた別の壁画に変わっているが、
竣工当時の写真を見ると、
外壁と内部の写真壁画とは明らかに対応していると思われる。
フォト・コラージュには、石、砂丘や樹木、生物の何らかの細胞組織、鉄骨などといっ
たものを撮影し、大きく引き伸ばした 1 メートル四方ほどの写真が何枚も組み合わされ
て壁面を覆い、非常にシュールな表現である。だいたい、実物よりもあまりに巨大に複
製されたものは、生々しさからは遠ざかるが、そのぶん、スケールアウトが生む視覚的
なインパクトは強烈なものとなる。ル・コルビュジエはスイス学生会館の外壁(気持ち悪
いほどの網目模様)と内壁(細胞の拡大写真)とを呼応させ、表現の強さを堅固なもの
にすることを狙ったのだろう。さらに、彼がスイス学生会館の北側外観の写真を示し、
「適切な材料の使用による近代的美学。珪石、鉄筋コンクリート、振動コンクリート板
のパネル仕上げ」
(『全作品集』vol.2)と記すとき、彼が言う「美学」とは、平板な石
のようなコンクリートパネルと動き出しそうな石壁がもたらす、強烈な対比を指してい
るのだろう。
煉瓦造りの建築の名作といえば、ドイツ時代のミース・ファン・デル・ローエの住宅や、
アルヴァ・アールトの作品を思い出す。とくに、アールトは建築材料に対して明快で素
直であり、セイナッツァロ役場(1949∼52 年)
、ヘルシンキの文化の家(1952∼58 年)
など、特に 50 年代以降のフィンランドでの作品は非常に美しい。
アールトの煉瓦は、
「織
り上げられたものとして受け止められることが多い。
そのため、
表層相互のつながりは、
より強いものであるように見える。織り上げているという感覚はまた、重ね合わせ、深
み、そして触知性を示唆する。この効果は、アールトの明確な輪郭線、立面あるいは境
界線の特徴的な扱いによって、さらに強められている。
」
(ユハニ・パラスマ『A+U』2001
年 10 月)こうした一つの材料が紡ぎだす単一性の表現の強さは、ル・コルビュジエの扱
い方とは全く異なるものである。ル・コルビュジエはコンクリートの量塊によって単一素
材の強さを示したが、決して全面を煉瓦や石壁で覆うことはせず、他の材料との対比に
よって見せるという手法をとっている。
コンクリート、石壁や煉瓦壁など、ファサードにおけるヒエラルキーが消滅した素材
の混在は、やがて戦後におけるコラージュ作品へと展開していくのである。
「自然物に潜む強烈な模様」
彼は作品集の中で、マテの家やウイークエンドハウスをページを割いて紹介し、石や
木目の模様を描いたスケッチを掲載している。彼は壁や引戸の材質を明確にするために
木目を描いているが、引戸の材質が木であることを示すために、そこまで描き込む必要
があるのか、
実際にこんなに木目がはっきり見えていたら気持ちが悪いと思われるほど、
彼は大きくはっきりと、まるで指紋のような木目を描きこんでいる。おそらく彼はその
存在感、見た目のインパクトを表現したかっただけなのだろう。ここで思い出されるの
は、彼がスイスの壁紙メーカー、ザルブラ社から依頼されて手がけた「色見本帳」のこ
とである。
1932 年版のカラーチャートには「砂」
「石壁」
「空」といったタイトルが付けられてい
るし、1959 年版では、
「石壁」「大理石」という名前が付けられた大胆な柄物の壁紙が制
作されている。1932 年版のものは無地であり、色からそのイメージをふくらませるよう
な組み合わせで構成されてあり、1959 年版の派手な壁紙はル・コルビュジエ自身が「と
てもパワフルなので、空間と空間の境目のようなポイントに効果的に用いること」を勧
めている。マテの家やウイークエンドハウスの強烈な表情を持った石や木の壁面は、姿
を変えて「色見本帳」に発展していったのである。
壁面にごちゃごちゃした装飾壁紙やごてごてした絵画を飾るのを拒否したル・コルビ
ュジエが、部分的に用いるものとはいえ、このような壁紙をつくったことに矛盾を感じ
るが、このことを理解するには、それが自然物からインスピレーションを得、それを図
柄として単純化したものであったということ、そしてアール・ヌーヴォーの時代に装飾
模様を作る美術教育を受けたという彼の出自を思い出さずにはいられない。
同時に、彼が動物の皮をよく使っていたことが思い出される。ウイークエンドハウス
の室内写真を見ると、床には堂々と白黒まだらの牛の皮が敷かれている。彼の自宅アパ
ートの室内写真にも見られるし、1929 年のサロン・ドートンヌに家具を出品した折りの
インスタレーションもベッドカバーはトラのような派手なアニマル柄であった。
そして、
そもそもシャルロット・ペリアン、ピエール・ジャンヌレと共に制作し、現在でも製造
されている椅子(シェーズ・ロング、バスキュラン・シェーズ)は、テクスチャーにバ
リエーションをもたせているが、ベースは白黒茶まだらの仔牛革である。
ちなみに、計画だけで終わったものだが、1937 年のパリ万博でのバチャ社(スイスの
靴メーカー)のパビリオンは、
「外壁は大きな瓦のように見せるなめし皮を瓦状に覆う」
(
『全作品集』vol.3)としている。どの程度のものを考えていたのかは不明だが、かな
り奇抜なことを考えていたようである。
このように、ル・コルビュジエは自然のものが生み出した模様であれば、強烈なもの
でも受け入れている。この感覚は、ミース・ファン・デル・ローエがいくつかの建築作
品で使用した、派手な模様の石に通じるように思われる。ル・コルビュジエの嗜好として
は、石や木目などはアニマル柄とも共通するものであり、これら自然物が作り出す模様
をファサードに用いることには、違和感を覚えなかったのだろう。
「表面への彩色からの発展」
1935 年には「プリミティフ・アート」展という展覧会が画商ルイ・カレの企画で行わ
れている。この展覧会が開催されたのは、ル・コルビュジエの自宅アパートのアトリエ
である。ル・コルビュジエ夫妻が住んでいたのは、彼が 1934 年に手がけたアパートのペ
ントハウスであり、そこには彼が創作に励むアトリエも設けられていた。パリでは狭い
敷地を有効利用し、隣り合った建物が隙間を空けずに建っている。このため壁が共有さ
れることがあり、ル・コルビュジエのアパートも同様、ル・スピッツが設計した隣接す
るアパートの壁を使って建設されているため、彼のアトリエの壁となっているのは、実
は隣のアパートの壁でもある。その石と煉瓦の壁を、20 年代の彼であれば迷うことなく
きれいに塗ったことだろう。しかし、30 年代の彼はそのままの壁を現している。
そして、このアトリエを使って展覧会が開かれたのである。展示されたのは、ギリシ
ア時代の彫像のレプリカ、アンリ・ローランスの彫刻、レジェのつづれ織り、ル・コル
ビュジエの絵画作品の他、ベナンの青銅像、ブルターニュの花崗岩の玉石、ペルーの陶
器などである。ここで注目すべきは、ル・コルビュジエによって着色された彫像である。
彼は後に彩色を施した木彫の作品を制作するが、これはその先駆けと言ってよい。彩色
彫刻は古代から作られているが、そもそも彫刻に色をつけるという行為は、ル・コルビ
ュジエにとっては建築のポリクロミーに通じるものだろう。素材そのものをあらわすの
ではなく、そこに色を介在させることで、素材を変質させ、作品自体に別の意味をもた
らすのである。20 年代の煉瓦積み住宅がつややかな機械にさせられたように、彼が彩色
を施した彫像は、人体のかたちとは無関係に大きな帯状に彩色されることで、彫像の肉
体は明らかに変質させられている。彩色した彫刻、彩色しない壁面が、同じ空間の中に
存在しているのは面白い。色で新しい表情を作ってきた彼がこのアパートで石壁に彩色
しなかったことは大きな意味をもつ。
つまり、石壁を残したことは、壁面彩色によって空間を作るという手法を止めたと同
時に、石がもつ色合いや肌触りをポリクロミーの代わりとし、石に色と同じ役割をさせ
ているとはいえないだろうか。昔ながらの古くからある材料を使っているだけのように
見えるが、彼の中では新しい表現方法を獲得したと言えるのである。
ここで、
「インターナショナル・スタイル」と呼ばれた一つのスタイルについて確認し
ておこう。
この名称はもともと 1932 年にヒッチコックとジョンソンが企画し開催した有
名な展覧会のタイトルである。曲解されつつも、20 世紀の建築様式の代表的なものとし
て、インターナショナル・スタイルは世界中に広まった。この展覧会では、ミース・フ
ァン・デル・ローエやグロピウスのほかに、ル・コルビュジエの作品も取り上げられて
いる。ヒッチコックらは当時最先端の建築のスタイルを一つにまとめるために、ミース
やル・コルビュジエの作品を列記し、無理矢理に共通点を見つけようと苦労している。
その結果、構造=ファサードであることや材料に正直であることが、これからの建築の
特徴であると唱えたが、その流れに取り込まれたはずのル・コルビュジエは、しかし、
このときすでにド・マンドロー邸を手がけていた。ちっとも現代的ではない石や煉瓦と
いう伝統的な材料を使用し、しかも、それを見かけのために使用している。定義づけが
試みられた時点で、巨匠はすでに追随者たちの手の届かないところに居たということだ
ろうか。
「絵画との関連性」
ここで絵画との関連性を確認しておこう。
ピュリスム以後、シュルレアリスムの影響を受け、30 年代に入るとル・コルビュジエ
の絵画は女性のモチーフで埋められていく。北アフリカや南米を訪れた彼は、スケッチ
ブックに売春婦たちの大胆な姿態を描き、街の様子を記録していった。丘陵の斜面に沿
って建てられている、土を固めただけのような素材の住宅にも関心を示している。彼は
殆どタブローでは風景画は描かなかった代わりに、土着の生命感あふれる、その土地の
土の中から生まれ出てきたような逞しい女性を描いている。地元の女性と自然素材は、
「土着」というテーマへの興味として、セットになっている。彼は、女性たちや、彼女
たちを取り巻く家や樹木などをずっしりと重たげな曲線で表現しているが、そこに表れ
た曲線は、建築作品の中に徐々に見られるようになる曲線、乱石積みの壁や木目の中に
潜む奇妙な曲線との共通点を持っている。
また、彼が煉瓦を好んだのは、そのマチエールのもつ性格だけでなく、その色のもつ
魅力に惹かれていたからだったと思われる。
カラリストであった彼の絵画作品を見ると、年代によって好んで用いる色が変わって
いったが、赤茶色(=いわゆる煉瓦色)はどの時期でもよく用いられている。
ピュリスム期においても、オザンファンの透明な色彩とはやや異なり、すこしくすん
だ色彩がル・コルビュジエの特徴であり、繊細な画面の中に少し重たげな赤茶色が登場
する。ペサックの集合住宅でも日陰を強調する土の色として、シエナ土の色(=赤茶色)
が壁面に塗られているのである。さらに 30 年代に入り、
女性を多く描くようになっても、
その背景などに赤茶色の物体は欠かせないし、女性そのものが赤茶色の肌をもっている。
戦後の原色使いが主となる画面でも、原色を支えるかのように、赤茶色は相変わらず用
いられ続けている。このように赤茶色を好んで使っていた彼が、煉瓦を壁面に用いたの
は偶然ではないだろう。加えて、彼はグレーも非常に好んでいたことを思うと、その色
の取り合わせは煉瓦とコンクリートを連想させずにはいられないのである。
モースは
「形態の交響楽的な構成要素として建築材料がル・コルビュジエの建築に対し
てもつ意味は、
色が彼の絵に対してもつ意味にだんだん近づいてくる」
と述べているが、
その通りであり、さらに、その建築材料の色が彼の建築に対してもつ意味も、彼の絵画
において色がもつ意味と重なってくると言ってよいだろう。
「後期の作品」
ル・コルビュジエは以上のような積極的な理由から石や煉瓦などの表情を表したと考
えることもできるだろう。そして、戦後の作品においてさらに展開されていく。
戦後まもなくのデュヴァル織物工場(=サン・ディエの工場、1946∼51 年)は、ブリ
ーズ・ソレイユが作り出すリズミカルなファサードと、それを支える石と煉瓦積みの壁
面が静かな味わいの作品となっている。ここでは破壊された旧建物から回収されたヴォ
ージュの桃色の砂岩を使用している。
他に、後期作品で煉瓦を用いているのは、パリ郊外のジャウル邸(1951∼55 年)
、イ
ンドのサラバイ邸(1951∼55 年)、美術館などである。実現はしなかったが、コンスタ
ンス湖畔のフェター教授邸計画(1950 年)では、石垣、煉瓦壁、コンクリートのヴォー
ルト屋根と、その上を覆い尽くす草がスケッチに見られ、明らかに 1935 年のウイークエ
ンドハウスの延長線上にあるということが見受けられる。
これらの作品では、単に煉瓦を積んだだけでなく、コンクリートとの組み合わせで視
覚的に美しい効果をあげている。ジャウル邸は粗い打ち放しコンクリートの沈んだグレ
ーの色合いと、大きな目地で詰まれた煉瓦の赤茶色の色、窓枠などに用いられた木の茶
色、そして芝生の青々とした緑がコントラストを成していて、落ち着いた中にも明るい
印象である。屋内のヴォールト天井には赤茶色の平型瓦が使用されている。同様にサラ
バイ邸でも煉瓦とコンクリートとの対比が見られる。
現地産の材料を使用している美術館は、アーメダバード(1951∼57 年)もチャンディ
ガール(1964∼68 年)も非常にマッシブな作品で、煉瓦の塊が重い印象となっている。
美術館は外光が直接入る窓をもたないため、なおさらこうした表情になっている。
このころには、必要に迫られてという訳ではなく、コンクリートとの相性から選ばれ
た有効な材料として、より積極的に使用されている。ル・コルビュジエはサラバイ邸で
使用した材料についてこう書いている。
「建築に相応しい基本的な材料の選択である。人間の友である煉瓦、打ち放しコンク
リートも、白の塗装、これも人間の友、鮮やかな色の存在、よろこびの源泉等々といっ
たところである。」(『全作品集』vol.6)
そして、後期の作品を特徴付けているのは打ち放しコンクリートであり、これには
ル・コルビュジエらしさがあふれている。マルセイユのユニテ(1945∼52 年)しかり、
一連のチャンディガールの公共建築しかり、ラ・トゥーレットの修道院(1953∼59 年)
しかり、彼の打ち放しコンクリートはあまりにも汚い。現在好んで使われている打ち放
しコンクリートの肌合いはツルッとしている。当時の材料は現在のものとはかなり異な
るため安易に比較はできないが、それでもル・コルビュジエの場合は、わざと汚く仕上
げていると言ってもいいほどであり、実際、そうした部分もあったと思われる。
彼はマルセイユのユニテの竣工パーティーでの挨拶でこう述べている。
「打放しのコンクリートには型枠のあらゆる状況が表れます。板の継ぎ目、板の木理、
板の節等々。これらは眺めて素晴らしいし、観察して面白いし、少しでも想像力のある
人には豊かな材料を提供してくれるのです。」そして、コンクリート工事の不出来を指摘
する人に対して、
「あなた方は、大伽藍や城郭を見に行かれるでしょうが、石の荒い削り
方や、はっきりしたできそこないや、それを巧みに生かしているのを観察されないので
すか。」と、強引にもコンクリートの中に石壁のもつ味わいを見出している。
「見にくい
不出来を見て、私は<対比によって美しさを、その対極をつくって、粗さときめ細かさ
との、鈍いものと輝くものとの、精密さと偶然との間の対話をつくろう>と自らに言い
聞かせました。そうすることで人々に観察し、反省させる機会が与えられるだろう。
」
(『全作品集』vol.5)と語っている。
つまり、彼はコンクリートのひどい仕上がりに対して、この粗さが人間的であり、古
代建築の石壁のような味わいがあるではないか、と述べている。それがどこまで本心か
分からないが、この経験が契機となって、彼は粗いコンクリートを打つことを思い付い
たのではないだろうか。ラ・トゥーレットの修道院の外壁は粗く、中でもロジアの腰壁
部分はコンクリートとはいえ、ざらざらとした大きめの石を埋め込んだ、乱石積みと言
っていいほどの仕上がりとなっている。
「ル・コルビュジエにおける石、煉瓦」
ル・コルビュジエにとって、自然とはどういうものだったのだろうか。彼にとっては、
木や石だけでなく、土を焼き固めただけの素朴な材料である煉瓦も、当然のことながら
自然素材だっただろう。そして、打ち放しコンクリートまでもまた、その延長上にあっ
たと思われる。
粗いコンクリートは時間が経つとその表情は情けないほど汚くなっていく。古い石造
りの建築物が何百年もかけて古色を帯びてくるという落ち着いた風情とは異なり、それ
は数十年のうちに、あっという間に強制的なまでに廃墟への道を進んでいく。
なるほど、
ル・コルビュジエは竣工時の美しさのみで満足し、彼の作品は自選作品集の中に写真で
記録されることで完結したと言われるが、後期の作品においては必ずしもそうとは言い
切れないのではないか。彼が石や煉瓦を用い、汚いコンクリートを打ったとき、彼の頭
の中では、時間が経ち、古色がつく作品の肌合いを思い描いていたのではないか。ラ・
トゥーレットのコンクリートは、彼が愛したル・トロネの修道院の粗い石を想定してい
るのではないのか。
ル・コルビュジエはマルセイユのユニテで、
このユニテの
「実現によって、
現代建築に、
石や木や煉瓦と同等の素材として鉄筋コンクリートの素晴らしさに確信を与えたのです。
経験とは大切なことです。コンクリートは再生された石と考えてもいい位に、そのまま
の姿であらわにするに値する可能性を考えていいようです。」と語っているが、これは彼
の素材に対する見解として重要なコメントである。彼にとって自然物とは、工業製品の
冷ややかな滑らかさに対して、ぬくもりが感じられるものであり、時間と共に朽ちてい
くものであり、最終的に「土」に還るものが、みな「自然物」であったといえるのでは
ないか。つまり、ル・コルビュジエにあっては、「再生された石」コンクリートも自然素
材の一つだったのではないだろうか。
こうした素材を取り上げる場合、それが構造として用いられているのか、あるいは外
装なのか、ということが問題になる。「構造の誠実さ」とか「建築の真実性」という言葉
のもとで定型化された話題だが、ル・コルビュジエは、こうしたことはあまり問題にして
いなかったのではないか。20 年代には、構造としての煉瓦をプラスターで塗って隠し、
30 年代に入ってからは見せるようになったのも、
「建築の真実さ」を求めてのことでは
なかった。彼は、機械のように見せることを放棄したと同時に、
「色」だけでは得られな
かったさらなる視覚的効果を、素材の質感まで見せることによって獲得したのである。
彼は視覚的人間であると同時に、触覚を重視した人間であった。だからこそマチエール
の問題は非常に重要であった。ただ、それは構造体の材料は意味せず、彼がもっとも大
切にしたのは「見た目」に表れる姿であった。とにかく目に見えるものだけが真実であ
り、同時に手で触れることができるものだけが真実であった。対比によって美しさを表
現するというル・コルビュジエの手法は、色という視覚の領域だけでなく、素材の表情を
そのまま表に出すことにより、触覚の領域にまで広げられ、より複雑になっていったの
である。
30 年代は、20 年代から戦後を結ぶ、非常に重要な時期である。彼が石や煉瓦を用いた
ことを、単に消去法的な理由から、あるいは「地域主義」への関心の高まりという時代
の風潮を反映したからだと言ってしまうことは、
ル・コルビュジエのもっと積極的な側面
を見落とすことになってしまうだろう。
この時期はル・コルビュジエが新たな創作意欲を
掻き立てられ、新しい取り組みをスタートした時期である。そして、ル・コルビュジエの
中の「自然」というものの意味を考えさせられる時期なのである。