芸備線の歴史 芸 備 鉄 道 の 時 代 [ 明 治 45 ( 1912) ~ 昭 和 12( 1937) 年 ] 吉田口駅に停車中の蒸気機関車 太田川沿いを走るガソリンカー 芸備鉄道は軽便鉄道法により免許された鉄道であったが、軌間(レールの幅) は 1 0 6 7 m m と 国 鉄 と 同 じ も の を 採 用 し た 。開 業 時 は 、主 と し て 国 鉄 か ら 購 入 し た 蒸 気 機 関 車 5 両 の ほ か 、 客 車 17 両 、 貨 車 50 両 で ス タ ー ト し 、 経 営 も 順 調 に 推 移 し た が 、 大 正 9 年 ( 1920) 以 降 の 不 況 に 加 え て 、 自 動 車 の 発 達 が 経 営 を 圧 迫 す る こ と と な る 。特 に 伯 備 線 が 全 通 し 、昭 和 5 年( 1 9 3 0 )三 神 線 が 東 城 ま で 開 通 す る と 、 県東北部、山陰の貨客の流れが変わり、芸備鉄道への影響は決定的となる。 また、昭和期に入ると乗合自動車の進出から競争が激しくなり、これに対抗す る た め 、 昭 和 4 年 ( 1929) フ ォ ー ド の 機 関 2 基 を 装 備 し た 日 本 車 両 製 の ガ ソ リ ン 客車 2 両を導入して運転を開始している。さらに、いずれも日本車両製のガソリ ン 客 車 を わ ず か 2 年 の 間 に 1 3 両 購 入 し 、専 用 の 簡 易 停 留 場 を 多 く 新 設 し て 旅 客 サ ー ビ ス の 向 上 に 努 め た 。 こ れ ら の 停 留 場 は 国 有 化 後 の 昭 和 1 6 年 ( 1 9 4 1 )、 燃 料 事 情の悪化によるガソリン客車の廃止によってすべて休止となり、その後一部は復 活 し た が 、そ の 他 に つ い て は 復 活 の 動 き が 時 々 新 聞 に 取 り 上 げ ら れ る こ と も あ る 。 昭 和 5 年 ( 1930) に は 旅 客 営 業 を 廃 止 し て い た 鉄 道 省 の 宇 品 線 に も ガ ソ リ ン 客 車 2 両 で 2 0 往 復 の 運 転 を 開 始 し て い る ほ か 、翌 6 年 に は 自 ら バ ス 事 業 に も 進 出 す るなど営業努力を続けてきたが、経営難は続き、ついに三次~備後庄原間の買収 を請願することとなる。 昭 和 8 年 ( 1 9 3 3 )、 十 日 市 ( 現 三 次 ) ~ 備 後 庄 原 間 が 国 有 化 ( 第 一 次 買 収 ) さ れ たが、広島~備後庄原間には双方の車両が乗り入れて、直通運転も実施された。 芸 備 鉄 道 に 在 籍 し た 蒸 気 機 関 車 1~ 11 号 機 は す べ て タ ン ク 機 関 車 ( 機 関 車 自 体 に 石 炭 ・ 水 を 積 載 ) で 、 そ の う ち 7~ 11 号 機 は メ ー カ ー に 直 接 発 注 し た 新 製 機 関 車 で あ っ た が 、 第 一 次 買 収 で う ち 7~ 9 号 の 3 両 が 国 鉄 に 移 籍 、 い っ た ん 「 C13」 という形式称号を付されたものの、買収車には新形式称号は使用しないこととな り 、従 前 の 方 式 に よ り 2 9 2 0 形 と な っ て 庄 原 線 で 活 躍 し た 。こ の 機 関 車 は 後 に 軍 の 要請で 1 メートル軌間用に改造されて中国に渡った。 蒸気機関車の時代 [ 昭 和 13 ( 1 93 8 ) ~ 4 0 ( 196 5 ) 年 代 〕 蒸気機関車の整備が行われて いた三次機関庫 芸備線最後の蒸気機関車 ( 1971.3.23 塩 町 -下 和 知 間 ) 昭 和 8 年 ( 1933) の 十 日 市 ~ 備 後 庄 原 間 の 第 一 次 国 有 化 に よ り 、 こ の 区 間 は 庄 原 線 と な り 、 鉄 道 省 に 所 属 す る 孤 立 し た 路 線 と な っ た 。 こ の 線 に は 新 た に 230 形 4 両 、 2900 形 2 両 、 3400 形 2 両 、 計 8 両 の 蒸 気 機 関 車 ( い ず れ も タ ン ク 機 ) が 配 置 さ れ 、福 塩 北 線 田 幸( 現 塩 町 )~ 吉 舎 間 が 開 通 し た 1 1 月 に は 広 島 機 関 庫 備 後 十 日市分庫も開設された。 昭 和 11 年 ( 1936) 10 月 10 日 、 最 後 の 区 間 小 奴 可 ~ 備 後 落 合 間 が 開 通 し 、 備 後 十日市~備中神代間が全通すると、庄原線は三神線に編入された。これを機に国 鉄は列車時刻改正を実施して、備後十日市発大阪行・姫路行など姫新線経由の直 通列車を新設、芸備鉄道線は広島だけでなく直接近畿圏とも結ばれることとなっ た 。一 方 で は 一 部 の ガ ソ リ ン 客 車 を 除 い て 、す べ て の 列 車 が 備 後 十 日 市 止 と な り 、 直通列車は廃止されている。また、三神線は備中神代から建設を開始したことか ら、起点 0 キロメートルの標のある備中神代方が上りとなり、この日から広島~ 備後落合間については従前の上りが下りに逆転するという現象が生じた。 なお、備後十日市で上下列車が直通運転を再開するのは、芸備鉄道国有化後の 昭 和 15 年 ( 1940) 8 月 10 日 の 時 刻 改 正 か ら で 、 こ の 日 か ら は 広 島 発 芸 備 ・ 姫 新 線経由の大阪・姫路行の列車が運転を開始している。 昭 和 1 2 年( 1 9 3 7 )、芸 備 鉄 道 広 島 ~ 備 後 十 日 市 間 が 国 有 化( 第 二 次 )さ れ る と 、 その区間には旧芸備鉄道の機関車と同様、軸重が軽く軌道への負担の少ない国鉄 形 の C 5 6 テ ン ダ ー ( 炭 水 車 連 結 )、 C 1 2 タ ン ク 機 が 、 一 方 、 備 後 十 日 市 以 東 は 備 後 八 幡 ~ 備 後 熊 野 ( 現 比 婆 山 ) 間 に 1000 分 の 25 の 急 勾 配 が 多 い こ と か ら 、 軸 重 の あ る 8620 形 機 関 車 が 使 用 さ れ た 。 備 後 十 日 市 機 関 区 に 多 数 配 置 さ れ て い た C56 形 機 関 車 は 、昭 和 1 6 ~ 1 7 年 供 出 に よ り そ の 多 く が 南 方 の タ イ・ビ ル マ に 送 ら れ た 。 そ の 後 継 機 と し て は 8620 形 が 配 置 と な り 、 昭 和 24 年 ( 1949) 頃 ま で 主 力 機 と な っ た 。 そ の 頃 か ら C58 形 の 配 置 が 始 ま り 、 快 速 「 ち ど り 」 を 牽 引 す る な ど 活 躍 し た が 、 昭 和 46 年 ( 1971) 完 全 無 煙 化 に よ り そ の 使 命 を 終 え た 。 陰陽連絡急行全盛時代 [ 昭 和 30( 1955) ~ 40( 1965) 年 代 ] 陰陽連絡急行の代表 「ちどり号」 広島-鳥取間を走っていた 急行「いなば」 芸 備 線 を 経 由 す る 陰 陽 連 絡 は 、昭 和 9 年( 1934)8 月 15 日 備 後 十 日 市 ~ 出 雲 今 市(現出雲市)間に省営バスが開通し、広島~出雲今市間がバス乗り継ぎにより 6 時 間 54 分 で 結 ば れ た 。 昭 和 12 年 ( 1937) に は 木 次 線 が 全 通 、 備 後 落 合 と 山 陰 本 線 が 直 接 結 ば れ た が 、 直 通 列 車 は 設 定 さ れ な か っ た 。戦 後 、昭 和 2 4 年( 1 9 4 9 )に 広 島 ~ 松 江 間 に 初 め て 客 車 の 直 通 運 転 が 開 始 さ れ た も の の 、 所 要 時 間 は 8 時 間 31 分 を 要 し た 。 翌 25 年 ( 1950) に は 一 畑 電 鉄 が 広 島 ~ 松 江 間 に 直 通 急 行 バ ス の 運 転 を 開 始 し 、 こ の 間 を 6 時 間 30 分 で 連 絡 し て い る 。 列 車 に よ る 陰 陽 連 絡 直 通 運 転 は 、昭 和 2 8 年( 1 9 5 3 )広 島 ~ 米 子 間 週 末 臨 時 列 車 と し て 誕 生 し た 快 速 「 ち ど り 」 に 始 ま り 、 広 島 ~ 松 江 間 を 6 時 間 30 分 で 結 ん だ 。 この列車は好評で、翌年秋には毎日運転となり、続いて「夜行ちどり」も誕生し た。 昭 和 3 7 年 ( 1 9 6 2 ) に は 芸 備 ・ 伯 備 線 経 由 の 準 急 「 し ら ぎ り 」、 広 島 ~ 岡 山 間 準 急 「 た い し ゃ く 」が 運 転 を 開 始 、 さ ら に 昭 和 3 9 年 ( 1 9 6 4 ) に は 木 次 線 経 由 の 広 島 ~鳥取間準急「いなば」を運転するなど、陰陽連絡準急列車は一日 4 往復に増加 し て 全 盛 期 を 迎 え た 。昭 和 4 1 年( 1 9 6 6 )に は 族 客 営 業 規 則 の 改 正 に よ り 区 間 1 0 0 k m 以上の準急はなくなり、芸備線の準急はすべて急行に格上げされる。 昭 和 47 年 ( 1972) 3 月 15 日 、 新 幹 線 が 岡 山 ま で 開 通 す る と 山 陰 地 区 に つ な が る伯備線の重要性が見直され、4 往復の特急「やくも」が新設された。それまで 伯備線急行「しんじ」に併結されていた芸備線の急行は新見打ち切りとなり、陰 陽連絡はすべて木次線経由に一本化される。また、この日から広島電鉄・一畑電 鉄 は バ ス の 時 刻 改 正 を 実 施 、一 般 国 道 経 由 で 広 島 ~ 松 江 間 を 4 時 間 3 0 分 で 結 ぶ 特 急バス 4 往復の運転を開始する。 一方、同日の時刻改正で、芸備線では陰陽連絡急行 1 往復を定期から臨時急行 に変更しており、運転区間の短縮とともに、芸備線の急行は大きく縮小の方向に 転じてゆくことになる。 デ ィ ー ゼ ル 機 関 車・気 動 車 の 時 代 蒸気機関車に替わって客車を 引くディーゼル機関車 [ 昭 和 40( 1965)~ 60( 1985)年 代 ] 芸備線の主力として長年活躍 した気動車(ディーゼルカー) 戦 時 体 制 時 、 燃 料 事 情 か ら ガ ソ リ ン 客 車 は 昭 和 16 年 ( 1941) に 廃 止 さ れ 、 以 来 動 力 は 蒸 気 機 関 車 に よ っ て き た が 、戦 後 の 昭 和 2 9 年( 1 9 5 4 )に 宇 品 線 に 気 動 車 が入り、その気動車を使って広島~志和口間に l 日 2 往復の運転が開始された。 また、快速「ちどり」は蒸気機関車の牽く客車列車としてスタートしたが、昭 和 34 年 ( 1959) 4 月 20 日 か ら 準 急 に 格 上 げ と と も に 気 動 車 化 さ れ 、 備 後 落 合 ま では気動車が走る光景が見られるようになる。 芸 備 線 に 普 通 列 車 も 含 め て 本 格 的 に 気 動 車 が 導 入 さ れ る の は 昭 和 37 年 ( 1962) 3 月 1 5 日 の 時 刻 改 正 か ら で 、広 島 ~ 備 中 神 代 間 の 全 線 で 気 動 車 の 運 転 が 開 始 さ れ る。それでも全線に多くの蒸気機関車牽引による客車列車が残っていたが、昭和 4 4 年( 1 9 6 9 )広 島 ~ 三 次 間 に 初 め て デ ィ ー ゼ ル 機 関 車 の 牽 く 客 車 列 車 が 登 場 し て か ら は 急 速 に 無 煙 化 が 進 み 、 2 年 後 の 46 年 ( 1971) 3 月 に は 、 客 貨 車 に つ い て は 全面的にディーゼル機関車化(無煙化)が実現した。 しかし、すでに客車は老朽化が進んでいたうえ、朝夕の通勤・通学の混雑にも 対 応 す る 必 要 か ら 新 型 の 50 系 客 車 が 導 入 さ れ 、 昭 和 53 年 ( 1978) か ら 使 用 さ れ た。特急の寝台列車がブルートレインと呼ばれたのに対して、この普通列車の赤 い新型客車はレッドトレインと呼ばれていた。 昭 和 50 年 代 は 中 国 自 動 車 道 の 整 備 が 進 み 、 58 年 ( 1983) に は 広 島 か ら 新 見 ま での区間についても通行が可能となり、芸備線にも大きな影響を与えることにな る。さらに高速道路だけでなく一般の道路網の整備、自家用車の普及から、競争 の激化と乗客の減少が顕著となってくる。 昭 和 5 5 年( 1 9 8 0 )に は 備 後 落 合 以 東 の 急 行 乗 り 入 れ 廃 止 に 続 き 、同 6 0 年( 1 9 8 5 ) には陰陽連絡急行を・往復に減少したほか、翌年には全線の貨物取り扱いの廃止 等 、 列 車 本 数 の 削 減 が 続 け ら れ た 。 一 方 、 昭 和 5 8 年 ( 1 9 8 3 ) に 全 線 C T C( 列 車 集 中制御装置)化が完成すると大幅な駅の無人化が進展するなど、人員削減が続く こととなる。 民営化以後の時代 [ 昭 和 62 年 ( 19 87 ) 以 降 ] 芸 備 線 の 急 行 は 2007 年 6 月 30 日 を も っ て 全 廃 さ れ た 三次以北で活躍するレールバ ス仕様の気動車 芸 備 鉄 道 が 国 有 化 さ れ て 以 来 、5 0 年 と な る 昭 和 6 2 年( 1 9 8 7 )4 月 1 日 、国 鉄 は 民営化への道を選び、芸備線は西日本旅客鉄道(株)の路線に生まれ変わる。し かし、鉄道を取り巻く環境は激変しており、引き続いて厳しい経営努力が求めら れることとなる。 民 営 化 前 の 昭 和 6 1 年( 1 9 8 6 )に は 広 島 ~ 松 江 間 に 高 速 道 経 由 の バ ス が 同 区 間 を 3 時 間 40 分 で 結 ん で い た こ と な ど 、乗 客 の 減 少 か ら 平 成 2 年( 1990)陰 陽 連 絡 急 行として 1 往復残っていた「ちどり」は、木次線乗り入れを廃止して備後落合止 となり、芸備線は実質的に陰陽連絡線としての機能を失う。路線バスとの競争だ け で な く 、自 家 用 車 の 普 及 は 地 方 路 線 に 深 刻 な 打 撃 を 与 え 、乗 客 の 減 少 を 加 速 し 、 省力化のため客車列車から完全気動車化、乗務員のワンマン化が進められた。一 方 で は 過 疎 路 線 に ふ さ わ し い 小 型 で ワ ン マ ン 仕 様 の 新 型 車 キ ハ 120 形 を 導 入 し て 高速化も図られた。 平 成 3 年 ( 1991) か ら 地 域 密 着 型 の 経 営 を 実 現 す る た め 、 芸 備 線 で も 備 中 ・ 三 次鉄道部が設置され、それなりの効果を発揮していることは認められるものの、 一方では列車の運転区間が地方ごとに短縮化して乗り継ぎが多く、かつ不便とな り、ローカル線での長距離旅行は極端に困難になっていることは否めない。 平 成 1 4 年 ( 2 0 0 2 ) に は 長 年 親 し ま れ た 急 行 「 ち ど り 」「 た い し ゃ く 」 が 廃 止 さ れ 、半 世 紀 近 く 走 り 続 け た「 ち ど り 」の 名 称 と と も に 、三 次 以 東 の 急 行 が 消 え た 。 三次~広島間は急行「みよし」が 4 往復となり、うち 1 往復は三次以東が普通列 車 に な る こ と で 広 島 ~ 備 後 落 合 間 の 直 通 列 車 は 残 さ れ た が 、 平 成 19 年 ( 2007) 7 月 の 改 正 で 急 行 「 み よ し 」も 廃 止 さ れ 、 芸 備 線 を 走 る 急 行 は 姿 を 消 し た 。 平 成 15 年 ( 2003) は 広 島 シ テ ィ ネ ッ ト ワ ー ク 充 実 の 一 環 と し て 快 速 「 み よ し ラ イ ナ ー 」 の 新 設 、 広 島 ~ 下 深 川 間 20 分 間 隔 運 転 な ど 、 都 市 型 ダ イ ヤ へ の 移 行 が 図 ら れ た 。 最近、山陰地域では地元自治体の負担も得て鉄道高速化工事等が図られている が 、芸 備 線 に つ い て も 、広 島 周 辺 は 都 市 圏 鉄 道 と し て 充 実 強 化 の 必 要 性 が あ る し 、 一方、地方路線についても広島県内唯一の山陰連絡幹線としての再生の道を探る ことも必要と考えられる。
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