メキシコにおけるドイツのスパイ活動

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メキシコにおけ
メキシコにおけるドイツの
ドイツのスパイ活動
スパイ活動
巡洋艦出雲の
巡洋艦出雲の将校が
将校がビヤに持
ヤに持ちかけたと同
ちかけたと同じように、
じように、ドイツのスパイは1915
ドイツのスパイは1915年以降
1915年以降
ビヤを利用
ヤを利用して
利用して米墨間
して米墨間の
米墨間の全面戦争を
全面戦争を挑発しようと
挑発しようと暗躍
しようと暗躍していた
暗躍していた。
していた。ビヤのコロンバス
ヤのコロンバス襲撃
コロンバス襲撃に
襲撃に
関して、
して、ドイツの影響
ドイツの影響があったかどうか
影響があったかどうか、
があったかどうか、確固とした
確固とした証拠
とした証拠はない
証拠はない。
はない。アメリカが懲罰軍
アメリカが懲罰軍をチ
懲罰軍をチ
ワワに送
ワワに送り込んだことで、
んだことで、ドイツは狂喜
ドイツは狂喜した
狂喜した。
した。ビヤのコロンバス襲撃
のコロンバス襲撃とアメリカの
襲撃とアメリカの懲罰軍
とアメリカの懲罰軍
は世界史にどのような
世界史にどのような影響
にどのような影響を
影響を及ぼしたのであろうか。
ぼしたのであろうか。勿論、
勿論、進行中のメキシコ
進行中のメキシコ革命
のメキシコ革命に
革命に重大
な影響を
影響を与えた事
えた事は言うまでもない。
うまでもない。アメリカが1915
アメリカが1915年
1915年、英国、
英国、フランス、
フランス、ロシアに
武器、
武器、弾薬、
弾薬、その他
その他の物資を
物資を供給するようになって
供給するようになって以来
するようになって以来、
以来、アメリカ船
アメリカ船をU-ボートの
U-ボートの標的
ボートの標的
にする、
にする、所謂「
所謂「無制限U-
無制限U-ボート
U-ボート戦争
ボート戦争」
戦争」の是非が
是非が、ドイツ政府内部
ドイツ政府内部で
政府内部で論議の
論議の的となってい
た。それにより英仏
それにより英仏軍
英仏軍を屈服させることが
屈服させることが出来
させることが出来る
出来る、と主張したのは
主張したのは軍部
したのは軍部であった
軍部であった。
であった。一方、
一方、
政府内の
政府内の文官は
文官は、その結果
その結果アメリカ
結果アメリカ軍
アメリカ軍が参戦すれば
参戦すれば、
すれば、軍事的なバランスが
軍事的なバランスが一挙
なバランスが一挙に
一挙に崩れるこ
れるこ
とを畏
とを畏れた。
れた。
メキシコへ侵入
メキシコへ侵入したアメリカ
侵入したアメリカ遠征軍
したアメリカ遠征軍が
遠征軍が目的達成に
目的達成に失敗したことで
失敗したことで、
したことで、ドイツ軍
ドイツ軍はアメリカ
軍が未だ戦闘能力に
戦闘能力に欠け、参戦しても
参戦しても取
しても取るに足
るに足らない、
らない、と見做すようになった
見做すようになった。
すようになった。このこと
がカイザーを初
カイザーを初めとする「
めとする「無制限U-
無制限U-ボート
U-ボート戦争
ボート戦争」
戦争」の反対派を
反対派を説き伏せる結果
せる結果になった
結果になった。
になった。
1916年
1916年3月、ドイツ軍広報部
ドイツ軍広報部は
軍広報部は、アメリカ軍
アメリカ軍はビヤ追討作戦において
追討作戦において、
において、その無能
その無能さを
無能さを
露呈した
露呈した、
した、と宣伝した
宣伝した。
した。アメリカは軍隊
アメリカは軍隊もなく
軍隊もなく、
もなく、重砲、
重砲、輸送手段、
輸送手段、航空機を
航空機を持たず、
たず、近代
戦争に
戦争に必要な
必要な兵器は
兵器は何もないと
もないと報道した
報道した。
した。その一方
その一方でドイツは
一方でドイツは、
でドイツは、米墨間の
米墨間の危機に
危機に乗じて、
じて、
カランサガアメリカを
カランサガアメリカを反撃
カを反撃し
反撃し、ウイルソンがメキシコを侵略
ウイルソンがメキシコを侵略することに
侵略することに過剰
することに過剰に
過剰に期待をかけ
期待をかけ
た。その結果
その結果、
結果、ドイツ政府内
ドイツ政府内で
政府内で、確実にアメリカの
確実にアメリカの参戦
にアメリカの参戦を
参戦を促すことになる「
すことになる「無制限U-
無制限U-ボ
U-ボ
ート戦争
ート戦争」
戦争」派が次第に
次第に勢力を
勢力を増していった。
していった。
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懲罰軍が
懲罰軍が送り込まれたにもかかわらず
まれたにもかかわらず一向
かかわらず一向に
一向に全面戦争になる
全面戦争になる気配
になる気配が
気配が見られないため、
られないため、ド
イツは新
イツは新たな手段
たな手段に
手段に出た。越境襲撃
越境襲撃による
襲撃による戦争
による戦争誘
戦争誘発に失敗したため
失敗したため、
したため、今度はメキシコ
今度はメキシコ油田
はメキシコ油田
の攻撃をビヤに持
ヤに持ちかけた。
ちかけた。既にビヤと面
ヤと面識のあったト
のあったトレオン
レオン駐在ドイツ
駐在ドイツ領
ドイツ領事は、191
6年12月、ビヤのトレオ
ヤのトレオン
レオン戦勝利のパーティ
のパーティーを
ティーを開
ーを開いて、
いて、ビヤにタ
ヤにタンピコ攻撃計画を
計画を持
ちかけた
ちかけた。
けた。トレオンから
レオンからタ
ンからタンピコの間
コの間はカランサ軍
はカランサ軍の守備が
守備が手薄であり、
であり、タンピコでは武
コでは武
器弾薬を
器弾薬を搭載したドイツ
搭載したドイツ船
したドイツ船が待っていると
っているといった。
いった。ビヤは最
ヤは最初その気
その気になったが思
になったが思いなお
してチワワへ向
してチワワへ向かった。
かった。ビヤはタ
ヤはタンピコ攻撃を自殺行
自殺行為と思ったからに違
ったからに違いない。
いない。ビヤに
はそれだけの力
はそれだけの力がないことを理解
がないことを理解したドイツは
理解したドイツは、
したドイツは、今度はカランサに
今度はカランサに矛先
はカランサに矛先を
矛先を変えた。
えた。
ドイツはメキシコで
ドイツはメキシコで少
メキシコで少なくとも二十三
なくとも二十三の
二十三の新聞に、しばしばフルペ
しばしばフルページの広告を載せ、ド
イツ支
イツ支持の報酬として商業上
として商業上の
商業上の特典や
特典や領土を
領土を与えると宣伝
えると宣伝した
宣伝した。
した。メキシコ国内
メキシコ国内では
国内では多
では多くの
ドイツ・
ドイツ・スパイが暗躍
スパイが暗躍し
暗躍し、1916
1916年
16年の暮れ、カランサは潜水
カランサは潜水艦
潜水艦基地建設をいったん
基地建設をいったん承認
をいったん承認
したが、
したが、基地を
基地を作るまでに至
るまでに至らなかった。
らなかった。こうして、
こうして、アメリカの参戦
アメリカの参戦を
参戦を決断させる
決断させる直接
させる直接の
直接の
原因となった
原因となった事
となった事件が発生した。
した。
259
1917
1917年1月、ドイツの外相
ドイツの外相アーサー
外相アーサー・
アーサー・ツィンメルマ
ンメルマンはカランサ宛
ンはカランサ宛に電報を送り、
テキサス、
キサス、アリゾナ
アリゾナ、
ゾナ、ニューメキシコの
ニューメキシコの返還
ーメキシコの返還を
返還を約束するかわりに
約束するかわりに、
するかわりに、アメリカがドイツの敵
アメリカがドイツの敵
として参戦
として参戦したら
参戦したら、
したら、アメリカを攻
アメリカを攻撃しないか、
しないか、と持ちかけた。
ちかけた。この中
この中でツィ
でツィンメルマ
ンメルマンは
メキシコが日本
メキシコが日本と
日本と正式に
正式に軍事同盟
軍事同盟を結べば、資金援助をすることを
金援助をすることを約束
をすることを約束した
約束した。
した。
これが後
これが後世に名を残す「ツィンメルマ
ンメルマン・テレグラ
・テレグラム」である。
である。この電
この電報はイギ
はイギリスの
諜報機関によって
報機関によって傍受
によって傍受され
傍受され、
され、アメリカの新
アメリカの新聞が公表し
公表した。これにより、
これにより、それまで不干渉
それまで不干渉主
不干渉主
義を通してきたアメリカの世論
してきたアメリカの世論が
世論が反独に一変した。
した。
カランサは四
カランサは四月、拒否の
拒否の回答を
回答を送ったが、
ったが、ツィンメルマ
ンメルマンはアメリカがメキシコと日本
ンはアメリカがメキシコと日本
に屈辱を与えているからであると弁明
えているからであると弁明し
弁明し、その四
その四ヵ月後再び
後再び催促した。
した。噂ではブ
ではブリティッ
シュ・ホン
ュ・ホンジュラスが
ジュラスが報
ラスが報酬として上
として上げられていたという。
られていたという。カランサが断
カランサが断ったの
ったのはメキシコが
とても持
とても持ちこたえられないと思
ちこたえられないと思ったし、
ったし、日本がメキシコ
日本がメキシコや
がメキシコやドイツと同
ドイツと同盟を結ぶとは考
とは考えら
れなかった
れなかった。
かった。日本はこのことを
日本はこのことを新
はこのことを新聞公表されるまで
公表されるまで知
されるまで知らなかった。
らなかった。
18
19
20
17. Friedrich Katz, “The Life and Times of Pancho Villa”
Villa”, Stanford University Press, 1998, P612
18. Douglas W. Richmond, “Venustiano Carranza’
Carranza’s National Struggle, 18931893-1920”
1920”, University of
Nebraska Press, 1983, P204
19. Friedrich Katz, “The Life and Times of Pancho Villa”
Villa”, Stanford University Press, 1998, P612
20.
Douglas W. Richmond, “Venustiano Carranza’
Carranza’s National Struggle, 18931893-1920”
1920”, University of
Nebraska Press, 1983, P209