黒子仮面

 叫ぶ男
黒子仮面
その晩、ギュリガラは夢を見た。叫ぶ男の夢だった。肉の塊みたいな、おぞましい赤い
色をして燃え盛り、鼻のあたりが溶けて柔らかい膿に似た黄色い汁が噴出し、鉄板で肉を
焼いた時の肉が縮こまる瞬間に発せられるキューといった案外可愛らしい音を全身から湧
き立てて、最高の希望の時に絶望したような矛盾した感情を、熱さで溶けかけた赤い眼球
の中で怨念がましくたぎらせ、男は夢の中でずっと叫んでいた。世の中の悪い感情を全て
含んで絞り上げ、完璧に整えたような声だった。苦痛なほどに長い夢の中で叫ぶ男はずっ
とそのままで、燃え尽きることもなく奇妙にも永遠のように燃え続け叫び続けていた。
ギュリガラは夢から目覚めても忘れられなかった。恐ろしい夢だったが、恐怖からでは
なくむしろ感動で心に強く残って、しばらく動くこともできなかった。盲目的な恋をする
ように、理由のない魅力で惹きつけられた。きっとこの叫ぶ男を再現して誰かに見せるこ
とができたなら、見せられた誰もは叫ぶ男のことを一生忘れることができないだろうと
思った。
ギュリガラは売れない画家だった。画風は至って繊細だったが印象が薄かった。白と青
が好きで、いつも白っぽい霞のような優しい色合いの、なんだかよくわからない美しい何
かを描いていた。これはなんだ、と訊かれるとギュリガラは不確定の象徴だ、と答えた。
しかし誰からも評価させず笑われるだけで、全くもって絵は売れなかった。だが自分でも
評価されないのは当然だと思っていた。この繊細で幻想的な何かは自分が表したい究極の
ものではない。こんなものではない。もっと崇高で表面的な理解の枠を超えたものなのだ。
とても抽象的で説明できない臨界を越えた素晴らしいものなのだ。そして確かに “ それ ”
は自分の中にあるのだが、今までその姿を見せてはくれなかった。
だがギュリガラは今、確信した。叫ぶ男こそが “ それ ” なのだと。
ギュリガラはベッドから起き上がった。
一番近くにあったキャンバスを取り、白と灰青色の荘厳な泡のようなものが描かれてい
るその上から、先ほど見た叫ぶ男の絵を描き始めた。
本当は新しいキャンバスに描きたかったのだが、売れない画家のギュリガラは満足に絵の
具を買うこともできない。いつも売れなかった絵を塗りつぶし、上から新しい絵を描いて
いた。
ギュリガラは土間から煤けた小さな鏡を持ってきて、横に置き、数ヶ月ぶりに自分の顔
を映した。
鏡に見えるのは冴えない痩せた男の顔だ。
飯を食う金すら惜しんで絵の具を買っ
ている。骨の上に申し訳ばかりの薄い皮膚を乗せた顔は筋張っていて、三十五歳だったが
ずっと老けて見えた。泥に似た色の瞳は暗く、いい印象をひとに与えず、卑しく憐れな低
級動物のようだった。風呂にも入れず皮膚は淀み金髪はフケまみれで油ぎって常に湿って
いる。遭難した冒険家のように髭は伸び放題でよく見るとパンくずが付いていた。ギュリ
ガラはパンくずを摘みとって口に入れたが全く味はしなかった。それから叫ぶ男の真似を
して顔を歪ませ、なんとか夢の中の叫ぶ男に似せようと試みた。自分でも目を背けたくな
るほどに醜悪なその面をしばらく鏡に映して叫ぶ男の絵を描いたが、これでは無理だとわ
かって筆を床に投げた。
こんな半端な表情では意味がない。現実味がないのだ。これではなにも伝わらない。心
の底から叫んでいるわけではない。
きっとそれがいけないのだろうとギュリガラは思った。
そこでギュリガラは街へ行こうと外に出た。寒い冬の日で木枯らしが吹いていたがコー
トは着なかった。穴だらけで着てもあまり意味がなかったし、今は感情がいきり立ってい
て身体中が興奮していたので寒さを感じる余裕がなかったからだ。
ギュリガラは街から少し離れた農村の一角に住んでいた。父が残してくれた土地だ。け
して裕福ではなかったが、父は小さな土地を点々と買ってわずかな資産を築き、息子達に
相続させた。ギュリガラと弟は土地を一つずつだけ残し、後の細々とした土地は売却して
金銭に換え、その金で大学へ行った。弟は数学科へ、ギュリガラは芸術科へ通い、弟は大
学を卒業して地方の銀行員になった。
ギュリガラも卒業したがどこにも就職できなかった。
ギュリガラは弟がお情けでくれている、小遣い程度の収入でなんとか暮らしていた。それ
はまだ幸せな方だ。
街へ行くと居場所のない浮浪者で溢れていた。土地すらもない者は街の中で物乞いした
り、廃棄物を拾ったりしなければ生きていけないのだ。特別景気が悪いとか不作が続いた
わけではない。ずっと昔から日常的に街の中はこうだった。街にはいつも嘆きと無気力と
悲しみが満ちている。叫び声と鳴き声と断末魔に似たような声。後悔や嫉妬や諦観が混ざ
り合う混沌臭があらゆる浮浪者から感じて取れる。
だがそんなことは今更誰も気にしない。
ひとびとは混沌に慣れていた。美味い飯を食べ続けるとその美味さに慣れてしまう。逆も
また然り。だが表現者は慣れてはいけない。野生の弱い動物のようにずっと神経を尖らせ
ていなくてはいけないのだ。
だからギュリガラは浮浪者の混沌の美しさを見逃さなかった。
きっと浮浪者ならば叫ぶ男のように叫ぶことができるだろう。柱に縛り付けてもっと不
条理な状況を与えてやったら、あの恐ろしい感動をきっと再現できることだろう。
ギュリガラは芋虫やだんご虫のように丸まってもぞもぞと動く浮浪者を一人一人丁寧に
見ていった。どれも素晴らしいと思ったが、大人はよくない。ギュリガラは非力で背が低
かった。死に物狂いで抵抗されたらおそらく女にも敵わない。できるだけ小さな子供がい
い。
しばらく歩いていると浮浪者の子供の集団に出くわした。子供達は日常的な数多の危険
を回避するために、たいてい集団行動をしているのだ。二十人くらいの子供達は、みんな
冬なのに、はぎれを繋ぎ合わせたような、かろうじて服のように見える布を着ていて、と
にかく汚らしかった。
アカだらけで少女なのか少年なのかもよくわからない。
子供達はギュ
リガラに注意を払うことはなく前を通り過ぎていく。コートを着ていないギュリガラは、
薄着でがくがく震えているその辺の浮浪者とたいして変わらずに見えたのだろう。
ギュリガラは集団の一番後の小さな子供がいいと思った。その小さな子が通り過ぎてい
く時、ギュリガラはできるだけ穏やかにその子の腕を掴んだ。その子は少し驚いた顔をし
たが声を上げなかった。四歳か五歳くらいの男の子で愛らしい顔立ちをして、髪は汚れて
何色なのかわからなかったが、真っ青で綺麗な眼をしている。瞳の美しさだけがその子が
持っている物質的な財産のように感じた。
「ぼくのうちに来ない? 温かいミルクをあげるよ」
ギュリガラは一応微笑んだ。ギュリガラは自分が微笑んでも意味がないことを知ってい
た。少しも和やかな印象を与えないからだ。ギュリガラの微笑みは嘲りと冷たさを含んで
いる。その子は微笑を返さず、かといって走り去るわけでもなく、ぼんやり黙ってギュリ
ガラの顔を見上げていた。その子は毎日が辛くて疲れていて、もう出来事をしっかり考え
るのを無意識にやめてしまっているのかもしれない。
「ベーコンもあるよ」
だがベーコンという言葉にその子は反応した。ベーコンという食べ物を頭の中で思い浮
かべ、匂いを想像し味を空想しているようだった。きっとベーコンを食べたことがないの
だろう。料理屋から漂ってくる美味しそうな肉の焼ける匂いを嗅いで、こっそり中を覗き
込み、大口を開けて肉を食う客を見ながら、一生に一度でいいから食べてみたいと思って
いたのだろう。そしてその子は微笑んだ。ギュリガラが名前を訊くとその子はサーベだと
答えた。
ギュリガラはサーベを家へ連れて帰り、約束どおりにミルクを温め、ベーコンを三枚も
焼いてやった。ベーコンは特別な食べ物でギュリガラもめったに食べることができなかっ
た。大切にとっておいたベーコンだったが、叫ぶ男を描くための犠牲ならなんてことはな
かった。ミルクとベーコンを差し出すと、サーベは宝物を目にしたように表情を明るくし
大事そうに口に中へ入れた。
「お願いがあるんだ」
たかだかベーコンを、まるで幸せの絶頂期のような顔で食べている可哀想なサーベに、
ギュリガラは言った。
なに? とでも言うようにサーベは首を傾げる。
「ぼくは画家で、叫んでいる男の絵を描きたいんだ。君が叫んでくれないか」
ギュリガラの言葉にサーベは頷くと顔を歪め、叫ぶ真似をした。しかしそれはお遊戯会
で子供が泣く演技をするような、無意味な愛らしさだった。
「違う、心から叫ぶんだ!」
ギュリガラが怒鳴るとサーベは怯えた表情をした。サーベは食べかけのベーコンを急い
で口の中へ運び逃げようとしたが、ギュリガラは自分さえ予想だにしなかった怪力でサー
ベの首を締め上げた。声帯を締め付けられサーベは声を出すこともできず、手や足をばた
つかせてギュリガラの手を引っ掻いたりもしたが無駄だった。サーベの顔はどんどん赤黒
く変色し始め、首の付け根部分の動脈が破裂しそうなほどにぱんぱんに膨れ上がって、踏
まれて潰れかけているヒキガエルのように原始的な、そして最後の生命の音を発し、サー
ベは可愛い顔を最高に歪ませながら口を開けて、愛しい空気を求め静かな叫びをあげた。
美しかった。恐ろしい感動だ。
そうだ、そうだ。これだ。これなら描けるかもしれない。
ギュリガラは手の力を緩め、顔を歪ませたままぐったりしているサーベを抱きかかえ、
柱の前に立たせて縄で縛った。酸素と思考を取り戻したサーベは、縛られると火がついた
ように泣き出した。耳が痛くなるほどの高音で大きく不快だったが、心に響くような叫び
で素敵でもあった。サーベははしきりに助けてと言ったが、農村地区は一軒一軒が離れて
建っているから声など届かない。それにもし、すぐ隣に家があり泣き声が聞こえたとして
も、この村のひとびとは自分のことが精一杯で、他人の悲劇を思いやる余裕はなかっただ
ろう。
ギュリガラは夢中になって叫ぶサーベの絵を描いた。感情の赴くまま、抒情の調べに筆
を任せてギュリガラは一週間、寝ずに絵を描き続けた。赤と紫と黒い絵の具を使った。繊
細は微塵もなく暴力的な筆遣いだった。サーベが泣くのを止めると靴で頭を殴った。サー
ベが寝ようとすると水をかけた。
そして『サーベの叫び』が完成した。清らかな印象のする少年が、絶望のどん底で死に
抵抗している絵だった。
ギュリガラはこれまで人物というものを描いたことがなかった。絵は表面ではないとい
うのが持論だったからだ。
ギュリガラは五百年ほど前にいた偉大な画家であるヴューネルデンのようになりたいと
思っていたが、ヴューネルデンの絵はあまり好きではなかった。ヴューネルデンは表面的
に美しい。人物の顔の表情と陰影の繊細さ、装飾の優美さ、構図の大胆さ、色使いの深さ、
その素晴らしさはわかったが、ヴューネルデンが何を伝えたくて絵を描いたのかがわから
なかった。最も評価の高いヴューネルデンが五十代の時に描いた完成された絵画より、死
ぬ二日前に描いたとされる不吉な黒い渦巻きの絵の方がずっとずっと好きだった。何かが
溢れてくるのだ。ヴューネルデンの頭の中の不均衡な強いざわめきが、五百年という時空
を超えて強烈に伝わってくるのだ。金持ちの貴族のために描いた五十代の頃の美しい絵に
はそれがない。だからギュリガラは基本的にヴューネルデンが嫌いで、黒い渦巻きの絵だ
けが例外的に好きなのだった。
完成した絵はその黒い渦巻きのざわめきによく似ていた。ギュリガラは人物の表面へ激
情を籠めることに成功したのだ。
しかし叫ぶ男には程遠い。だがそれでもサーベの叫びは偉大な一歩だった。絵を描いて
いて、初めて満ち足りた気分を味わった。
ギュリガラはまだ絵の具が渇ききっていないサーベの叫びを抱え、街の画廊へ走って
いった。
街の画廊へは何度も行った事がある。
今まで一枚も絵を買ってくれたことはなかっ
たが、今回ばかりは自信があった。
画廊の扉を開けると、いつもの店主がまたあんたか、というような表情で迎えてくれた。
「ぼくの絵を買ってくれ」
店主は面倒くさそうな顔をして「とりあえず見せてみろ」と言った。店主はサーベの叫
びを見た途端に顔色を変えた。
血の気が引き、
悪いものに魅入られたように固まり、言った。
「わかった。買う。もっと描いてくれ」
かくしてギュリガラは大金を手に入れた。大金といっても大した額でもないのだが、ひ
もじいギュリガラにとってはとてつもない大金だった。
ギュリガラはご馳走を買って帰った。ベーコンの巨大な塊と、ラム酒と新鮮な果物の
ジュースと、
チーズとチョコレートとキャラメルだ。ご馳走を両手一杯に抱え家に戻ると、
生きることを諦めた小動物のように縮退として寝ているサーベを抱きしめた。
「ごめんよ、サーベ。君にはすまないことをしたね。愛しているよ。どうか許しておくれ。
絵が売れたんだよ。君とぼくの絵だ。ありがとうありがとう。君が叫んでくれたおかげだ。
愛しているよ。ずっとずっとぼくの傍にいておくれ。ご馳走をたくさん買ってきたよ。君
のために買ってきたんだ」
サーベはギュリガラの手の中で震えていた。だが手を放してもサーベは逃げ出さなかっ
た。どこへ行っても結局のところ、苦痛からは逃れられないことを本能的に知っていたの
だろう。それよりも単にキャラメルやチョコレートが食べたかったのかもしれない。サー
ベを自由にしてやったが、とにかく逃げなかったのだ。
ギュリガラは嬉しくなってサーベの頬に口づけた。
ギュリガラはそんなことを知るわけもなかったが、ちょうどその頃、都市部では遥か西
のラルグイムという大国の文化が流行り出していて、ラルグイムで行われているらしい拷
問ショーの様子を画いた残酷な絵や書物が一部の階級層でもてはやされていたのだった。
悪趣味な恐怖が絶賛される時世に、
ギュリガラのサーベの叫びが閃光のように現れたのだ。
サーベの叫びは連作化され何枚も描かれたが、高額で、しかも飛ぶように売れた。ギュ
リガラはあれよあれよと言う間に有名画家の仲間入りを果たした。信じられないほどの大
金が転がり込んできて、ギュリガラは故郷を捨て、サーベだけを連れて都市部に移り住み、
上水道の通った立派な屋敷を手に入れた。ビロードの鮮やかな服を着て、寒さに凍えるこ
とも飢えることもなくなり、髪の毛も綺麗になって光沢のある金髪を伸ばして後ろで結ぶ
ようにした。泥色の瞳は相変わらず陰鬱な印象だったが、肉の乗りと血行がよくなって、
卑しい低級動物ではなくなった。サーベにも貴族が着るような服を買い与えた。自ら風呂
に入れてやり、
髪をとかしてやった。夜は抱きしめて寝ることもあった。子守唄も歌った。
サーベが喜びそうなものはなんでも買ってやった。
その一方でギュリガラはサーベを殴り続けた。
ひっきりなしに貴族から依頼がきて、ギュ
リガラは寝る間も惜しんで叫んでいるサーベを描かなくてはいけなくなったからだ。
サーベは殴られることにだんだん慣れてきて、演技をするようになった。しかしギュリ
ガラは即座に演技を見抜き、
さらに酷い仕打ちをしていった。最初は靴の底で殴るだけだっ
たのが、木の棒で殴るようになり、それが尖った角材になり、いつ間にか鞭になった。爪
を剥がし針で皮膚を突き刺し剣山を踏ませ、髪を燃やし背に火を当て、首吊りの真似事を
させ、素っ裸にして逆さに吊るし上げ水を張った桶に顔を押し込み、蛆虫を耳の穴に放り
込んで耳栓をした。時には尻の穴に生きた昆虫を入るだけ詰め込み、犬の糞を煮込んで食
わせたり全身に塗ってみたりもした。サーベを叫ばせるためには労力を惜しまなかった。
気付けば、
ギュリガラはサーベが叫んでくれなければ絵が描けないようになっていた。サー
ベがいなければなにもできなくなっていた。そして絵が完成する度にサーベを優しく抱い
て懺悔し、喜びの涙を流しつつ親愛の口づけをするのだった。
やがてギュリガラは同性愛者で小児性愛でとんでもないサディストだと噂になった。し
かし同性愛を禁じる法律はなかったし、小児性愛者という確たる証拠も持ち上がらず、芸
術家の性的倒錯はそれほど珍しくもなく、世論は芸術至上主義を謳い芸術家達の異常行動
を黙認していたために、ギュリガラの暴力行為が咎められることはなかった。それどころ
か、浮浪児が一人虐待されたくらいで大画家が創作欲を得られるのなら、そちらの方がよ
ほど世の中のためになるとさえ考えていた。
ギュリガラは狂ったように描き続けた。
だが、
描いても描いてもギュリガラは満足しなかった。空腹に苦しまない生活は幸せだっ
たが、大金を手に入れても少しも嬉しくはなかった。キャンバスと絵の具に不自由しなけ
れば、
あとはほとんど欲しいものなどなかったからだ。
貴族や世間の評価もどうでもよかっ
た。彼らが自分の目的や芸術の達観点など理解できると最初から思ってはいない。ヴュー
ネルデンの黒い渦巻きの良さにさえ、
気付かないような連中だ。認められても意味がない。
名声にも興味はない。それよりギュリガラは叫ぶ男を完成させたかった。だがどんなに描
いても叫ぶ男の、あの禍々しく血が沸騰するような感動を表すことはできなかった。
十年間でたくさんのサーベの叫びが作られた。
ギュリガラはヴューネルデンと肩を並べるほどの偉大な画家になっていた。ラルグイム
の残酷な流行はとっくに終焉を迎えていたが、ギュリガラの人気は衰えなかった。その頃
になるとサーベは驚くほどの美少年になった。可愛いとう表現は似合わなくなり、美しい
という言葉がふさわしくなった。日に当たることのない肌は死体のように白く、大きな青
い瞳は静かな頽廃を宿し、
長い睫毛が僅かに陰鬱な印象を隠していた。サーベが叫ぶとギュ
リガラは幼い時とはまた違った恍惚の震えを感じるのだった。
サーベはほとんど死んでいた。肉体は生きていたが意識はどこかを彷徨い、初めてギュリ
ガラがサーベの腕を掴んだ時と同じくして、考えることをやめてしまい、空中へ魂の大半
を流してぼんやりしていた。サーベは哀しいほどギュリガラに従順で、無気力で無感情で
無表情だったが、虐待がある一線を越えると精神が破綻したように ――
むしろ正気に返っ
たかのように叫び出した。
ギュリガラは暗い部屋で叫ぶサーベを描くのが好きだった。赤い炎が灯るランプで照ら
した方が叫ぶ男に似ている気がしたのだ。絵を描くために作った暗い部屋はもはや拷問部
屋と化していた。ギュリガラは感性が沸き立つと、突然にサーベを引きずってきてこの部
屋に閉じ込めた。
ある日のことだった。サーベは “ 生き返った ”。長い夢から覚めたのだった。死の淵か
ら蘇ったのだった。
ギュリガラがいつものようにサーベを縛り上げる前に、サーベは力の限り抵抗した。ギュ
リガラは四十五歳になり、サーベは十五歳になっていた。背も同じくらいになっていて、
その日その瞬間に、子が父を越えるようにサーベの力が逆転したのだった。そしてサーベ
の最後の最後に残ったわずかな、しかし圧倒的強さの生命力が逆転の瞬間を本能で感じ
取って、魂を、生への執着を取り戻した。
サーベは突然に叫び出し、のた打ち回り、とにかく強烈にうごめき回り、突然思考が破
滅したみたいに、どうしようもなく暴れ回った。
「どうしたというのだ。サーベ」
初めてのことにギュリガラは驚いて、サーベをなだめようとしたが、サーベは猛獣が威
嚇でもするように低く唸り、ギュリガラの顔面を思い切りぶん殴った。ギュリガラの鼻は
見事に打ち砕だかれて、大量の鼻血が流れ出したが、全く痛くなかった。
「なぜだ」
それよりもサーベに殴られたことが衝撃的で、まるで裏切られたような気すらした。
ギュリガラはサーベを愛していた。感謝していた。ここまでの名声を与えてくれたのは
サーベだ。意欲を与えてくれたのも、叫ぶ男にここまで近づけたのもサーベがいてくれた
からだ。それは自分勝手で独りよがりの愛し方だったかもしれない。でも確かに愛してい
た。愛情や友情とは違う。同性愛や小児性愛というカテゴリーにも属していない。神が世
界を愛するように、全能的に支配して愛した。そして偉大な表現の前では全てが特赦され
て、無条件に理解されると思っていた。
「ぼくは君の事をこんなに大事にしてきだじゃないか。わからない。わからない」
だがギュリガラの想いとは裏腹にサーベの瞳には生き返った憎悪しか浮かんではいな
い。ギュリガラは呆然とするしかなかった。ばかみたいに鼻血を垂らしたまま立ちすくん
でいた。しかしサーベは容赦も慈悲もなく何度も拳を振り上げ、奇声を上げ、ありったけ
の憤激をこめて、これまでの全ての生き方を否定して、ギュリガラを殴った。そして、サー
ベは止めのように燃える油ランプを手にとって、ギュリガラに投げつけた。油ランプは中
の油を大量にギュリガラにぶちまけ、まるで世界が始まるような閃光の瞬きでギュリガラ
を灯した。
「サーベ、どうか叫んでおくれ、ぼくのために。ぼくの素晴らしい目的のために。どうか
もう一度、叫んでおくれ」
ギュリガラは自分が燃えていくのがわかった。全身が火に包まれギュリガラを構築する
世界中が赤くなっていくのがわかった。絶望し、痛かった。皮膚も、指も、頭も、全身の
生きるものがぼろぼろ剥がれ落ちてきて、悲しかった。終ってしまうのが虚しかった。細
胞達が一つ一つ小さな苦しみをあげて、それが無限の束になって、痛覚を最高に懊悩させ
るように、酷くて、爪が上向きに丸まって段々と黒くなっていくのが見えて、こんな指じゃ
もう絵なんて描けないと思ったら、不思議と情念から解放されたように世界が啓け、神の
ような気持ちでサーベが愛しかった。
サーベの方に手を伸ばすと、サーベは獣に似た叫び声を吐き散らして、どこか遠くの手
の届かない世界へ行ってしまった。叫びの方向を道標にギュリガラは、無心になって歩い
た。そこには大きな鏡があった。
ギュリガラはついに “ それ ” を見つけたのだった。
肉の塊みたいな、おぞましい赤い色をして燃え盛り、鼻のあたりが溶けて柔らかい膿に
似た黄色い汁が噴出した自分の姿だった。感動で打ち震えた。これを伝えなければならな
いと思った。これを、この、恐ろしい感動を。崇高で表面的な理解の枠を超えたものを。
とても抽象的で説明できない臨界を越えた素晴らしいものを。
ああ、なんという恍惚だろう。
でも、もう無理だ。無理なのだ。
ギュリガラは最高の希望を感じたまま絶望した。
ギュリガラは叫んだ。怨念がましく世界中を呪うように。世の中の悪い感情を全て含ん
で絞り上げ、完璧に整えたような声で。
ずっとそのままで、燃え尽きることもなく奇妙にも永遠のようにギュリガラは燃え続け
叫び続けていた。
完