生物物理若手の会 特別講義録 大沢統計力学入門 大沢 文夫 著 生物物理若手の会有志 編 目次 まえがき 3 第 1 章 統計力学の基本を自らの手で体験する 7 1.1 基本:サイコロとチップ&すべてを書き出す . . . . . . . . . . . . . . . . . 7 1.1.1 サイコロとチップ:分子の世界は消費税 . . . . . . . . . . . . . . . . 7 1.1.2 サイコロとチップ:平均が 3, 4, 6 枚の時の例 . . . . . . . . . . . . . 15 1.1.3 互いにやり取りをすると差が強調される . . . . . . . . . . . . . . . 18 1.1.4 3 つの箱に 3 つのチップの分配の方法をすべて書き出す . . . . . . . 20 1.1.5 コンピュータシミュレーション . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 24 1.1.6 自分チップが少ないのは他人のせい . . . . . . . . . . . . . . . . . . 27 1.2 発展:様々なバリエーション . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 33 1.2.1 重合体の形成と平衡:破産者消滅型 . . . . . . . . . . . . . . . . . . 33 1.2.2 復元力がある場合:所得税型 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 36 1.2.3 複数の箱に注目 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 40 1.2.4 時間反転対象性と、いつでも今が最高 . . . . . . . . . . . . . . . . 49 1.2.5 反応はひゅっと進む . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 56 1.2.6 固体物性:磁化率についての考察 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 57 1.3 まとめ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 60 1.3.1 ボルツマン分布の成立と等重率の成立の順序 . . . . . . . . . . . . . 60 1.3.2 少数成分:箱の数やチップ数が少なくても統計力学が体験できる . 61 1.3.3 時間反転対称といつでも今が最高 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 62 i 第 2 章 生物物理の話題との関連 65 2.1 エネルギーの獲得と損失:緩和時間と到達時間 . . . . . . . . . . . . . . . . 65 2.1.1 低粘度(気体中)の運動 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 65 2.1.2 高粘度(液体中)の運動 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 69 2.1.3 低粘度と高粘度:シス・トランス変化 . . . . . . . . . . . . . . . . 70 2.1.4 ATP 加水分解の 1 分子計測 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 71 2.1.5 粘性一般 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 76 2.1.6 気体の中につるした鏡のねじれ運動 . . . . . . . . . . . . . . . . . . 77 2.1.7 コーヒーブレイク:パイを作る話ーカオスの例 . . . . . . . . . . . . 82 2.2 低自由度の局所温度という概念:アクチンの温度は 900 度 . . . . . . . . . . 84 2.2.1 F アクチンの”曲げ”運動 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 86 2.2.2 ファインマンの爪車(ラチェット) . . . . . . . . . . . . . . . . . . 89 2.2.3 F アクチンの”滑り”運動のラチェットモデル . . . . . . . . . . . . . 93 2.2.4 局所温度が測定できる . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 94 2.2.5 少数自由度にエネルギー蓄積:じっくり貯めて素早く動く . . . . . 100 2.2.6 遥動散逸定理:信念の強さと環境変化への応答 . . . . . . . . . . . 102 2.3 ブラウン運動 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 107 2.3.1 ブラウン運動を体験する:N 歩の 2 乗平均が N . . . . . . . . . . . . 107 2.3.2 海の魚を一網打尽に捕らえる方法 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 114 2.3.3 ブラウン運動とポテンシャルセオリー:ミクロとマクロの接点 . . . 118 2.3.4 朝倉・大沢の力(depletion 効果) :コロイド粒子間の引力 . . . . . . 120 あとがき 123 補遺 A 海の魚を一網打尽に捕らえる方法 125 補遺 B Weyl の撞球 127 ii 参考文献 i iii 編集部による序 この文章は、1996 年 7 月 21〜24 日に東京の八王子の財団法人大学セミナーハウスで開催 された日本生物物理学会若手の会主催の「夏の学校」における分科会 7 で大沢文夫先生が なさった「統計力学入門」の講義ビデオを元に、日本生物物理若手の会の有志が読み物と しての体裁を整えたものです。大沢先生は日本の生物物理学の父ともいうべき方です。先 生のお弟子さんには、大阪大学の柳田敏雄先生、お茶の水大学の学長の郷通子先生を始め、 現在日本の生物物理学会を支えていらっしゃる方々ばかりです。以下に簡単に先生の略歴 を挙げます。1944 年 に東大理学部をご卒業後に、名大の理学部の物理学科で高分子物理の 仕事を始められて、その後に筋肉の仕事を分子レベルの方で始められました。1961 年に名 古屋大学理学部の分子生物学研究施設の方も兼任なさり、1968 年からは大阪大学基礎工学 部の教授も併任されゾウリムシの研究などもなさいました。この講義をされた当時は愛知 工業大学で教鞭をとられていました。 生物を研究されている方の中には、物理はちょっと。。。と思われる方も多いかと思われ ますが、心配ありません。最初にサイコロを振りチップをやり取りするという簡単なゲー ムを行います。このゲームの結果は、我々の常識を覆す結果となります。このゲームを通 じて統計力学の基本的な原理を体験することから始まります。その後、世の中は何故少数 の金持ちと大勢の貧乏人で構成されるのか?などの身近な話題を通して、少しずつ統計力 学の世界に入っていき、最新の生物物理の話題にも言及していきます。 編集するにあたり、読み物として単独で読んで面白くて分かり易いように、文章起こし をした原稿に加筆、訂正、注釈を加えましたが、大沢先生特有の軽快な口調(一部の人は 大沢節と呼ぶ)を崩さず講義の臨場感が伝わるよう、手直しは最小限にとどめました。読 1 者層は、生物物理に興味を持つ生物や物理の大学院生を想定し、どちらか一方しか学んで こなかった学生にも解りやすいように注や解説を加えました。所々かなり専門的で難しい 話も出てきますが、算数パズルのような作業(演習問題)が随所にあり、それを実際に手 を動かして記入し、それをもとに話を進めて行きますので、中高生でも話の本質は十分理 解できると思います。分かりにくいと思われる部分は、我々編集者の未熟によるものです ので、あらかじめご了承ください。 それでは皆様、大沢先生による統計物理学の世界を我々と一緒に体験しましょう。 2 まえがき 以前に統計力学の連続セミナーを筑波でやりました1 。一般の方を対象にということでし たので、参加者は学生さんがほんのわずかで、後は会社の人たちなどが 40 人ぐらい集まっ てくれました。それで統計力学の演習と授業を、1 週おきに午前と午後で 4 時間ずつぐらい ずつ 4 回やりました。午後の最後の 1 時間は質問や、議論だったですけれども、全部で十 何時間やりまして、良かった、良かったということになりました。その後、けいはんな2 へ 行き宣伝しまして、是非やりたいと言って開催してもらいました。今度は普通の町の人を 呼んで、是非とも交ざってくださいと言ったら、町役場に動員を掛けまして、町役場の従 業員の方と、本当に近所のおばさんたちが 5〜6 人現れまして、松下の研究者の人や学生の 方も少しだけ混ざり、それで気分よくセミナーをやりました。それから名古屋大学へ行っ て、東京と大阪でやったから名古屋でもやったらどう、と言ったら、工学部の栗原さん3 が オーガナイズして下さって、そのときは夜学になりました。いろいろな大学から来てくれ たんですが、さすがに夜学だから近所のおばさんというわけにいきませんでした。この名 古屋でのセミナーを受けてくださった学生さんがオーガナイザーとなり、今回の生物物理 若手の会の夏の学校に呼んでいただきました。 このセミナーにおける私の趣旨は、学生さんたちに、ごく初等的なサイコロを振ってチッ プを受け渡しする、というようなことをやってもらうことです。ところが、皆照れてやら ない、やれない。おばさんたちは喜々としてやってくださる。テーブル 1 つに 6 人集まり サイコロを振るわけですが、これから本当にやっていただくんです。サイコロの面は 6 つ 1 2 1994 年 2 月 24〜4 月 7 日。於 筑波研究コンソーシアム 関西文化学術研究都市、愛称「けいはんな(学究)都市」。文化・学術・研究の新しい『拠点』づくりを めざしてスタートした関西文化学術研究都市。 3 現 東北大学反応化学研究所 栗原和枝 教授 3 だから 6 人 1 チームで、それでやりとりするんです。テーブルにおばさんがいると喜々と してやってくださり、結構盛り上がるので、ど素人の人とくろうと人と一緒に楽しんでも らうというのが私の趣旨であります。しかし、この生物物理若手の会夏の学校ではどうも そういうわけにいきません。だけど、皆さん、いろいろな知識は全部忘れて、初心に返っ て楽しんでください。 生物物理学というのは、生物学として面白くて、しかも物理学として面白い学問をつく るのが目標で、それは非常に高い目標であります。生物学と物理学というのは面白さが本 来は違うものだから、両方ともで面白くなければいけない、というのは非常に厳しい要求 でありまして、ともすると両方とも、生物学としても物理学としても面白くないものになっ ていきます。生物学と物理学は非常に違うんです。だから生物物理というのは非常に難し いんです。生物学の方はまさに現代社会そのものです。現代の情報社会、情報が地球の上 を 2 次元に巡っているのと同じように、細胞の中の生体高分子とそれらのつくる 2 次元の ネットワークを研究をしているわけです。現代生物学はまさに現代そのものなんです。そ れに対し、物理学はやはり古典ですから、約 100 年前にその多くが完成しております。統 計物理は 1903 年までにギブス4 がつくり上げてしまったものです。電磁気学は 1873 年にマ クスウェル5 がつくってしまった。量子力学は私が生まれたころにできてしまった。湯川さ ん6 は、これはもう最高に貢献した人です。このように、物理はどうしても古典ですから、 非常に新しくないことから勉強をやるわけです。そこで皆さんには、サイコロとチップで 新しくないことを進めていただきます。 4 ジョシュア・ウィラード・ギブズ(Josiah Willard Gibbs, 1839 年- 1903 年)。アメリカの数学者・物理 学者。熱力学の相律を発見。ギブズ自由エネルギーやギブズ-ヘルムホルツの式などにその名を残している。 5 ジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk Maxwell、1831 年- 1879 年)。イギリスの理論物理 学者。1864 年にはマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立し、また電磁波の存在を理論的に予想 した。 6 湯川秀樹(ゆかわひでき、1907 年- 1981 年)。日本の理論物理学者。京都大学・大阪大学名誉教授。1949 年、日本人として初めてのノーベル賞を受賞。中間子論の提唱などで原子核・素粒子物理学の発展に大きく 貢献した。 4 ¶ ³ • 非常に多くの分子の集まりの性質。その中の一つの分子の状況。 • わずかな個数(数個)の集まりでやってみて分かる。 µ • 手作業(サイコロとチップ)でできる。やり方はいろいろ。 ´ 表 1: 本セミナーで扱う統計力学とは 非常に多くの分子の集まった系を巨視的に扱うのが熱力学で、その中の 1 つ 1 つの分子 の状況を扱いながら、それらの集まった系の性質を理解しようとするのが統計力学なんで す。大学の一般の講義では「非常に多くの分子の集まりでは」とやっているんです。しか し、思い切り小さい、わずかな個数の、数個の集まりでやってみても、統計力学の本質は 分かるんです。それがわずかな個数なものだから、小人数でサイコロとチップを使い手作 業でできます。アボガドロ数7 の分子の集まりを、というと想像力の問題ですけれども、そ ういう想像力なしで、ここにあるチップとサイコロで目の前でやってもらう。すると、わ ずかな個数の分子、分子というか対象で、結構ちゃんと統計物理学の本質が分かってしま う、と私は思っています。 ただし、昔からこのわずかな個数で構成される小さな系の統計力学というのは、いろい ろと物理学でいわれていたんです。現在、やっと生物の分子機械、1 個の分子機械の 1 回の 動作で、自由エネルギー8 変換をするということが見つかりつつありますこれは当たり前の ようであって実は当たり前でない、非常に大変なことなんです。自由エネルギーという概 念はもともとたくさんの粒子の何とかかんとかから出てきた概念なのに、非常に少数の分 子でできた 1 個の分子機械 [1] が一回のイベントで自由エネルギー変換をする、エネルギー 7 8 物質 1 mol の構成要素の総数を意味する(炭素ならば 12g 中の炭素原子数)。約 6 × 1023 個。 通常、物質のもつエネルギーをすべて取り出すことは出来ない。ある条件化で(自由に)取り出す(仕事 に変換する)ことができるエネルギーを自由エネルギーと呼ぶ。ヘルムホルツの自由エネルギー F とギブス の自由エネルギー G が有名で、前者は等温条件下、後者は等温等圧条件下で取り出し可能なエネルギー量。 ちなみに、化学ポテンシャルは 1 モル(あるいは 1 分子)あたりのギブスの自由エネルギー。 5 変換ではなく自由エネルギー変換するというのは、実は大事件なんです。だから私自身も こういう少数のシステムが自由エネルギーの変換をどうやっているかという統計力学を改 めて作らなくてはいけないんです。というわけで、物理学は古典とは言いましたが、現代 の問題でもあるんです。 6 第 1 章 統計力学の基本を自らの手で体験 する 1.1 1.1.1 基本:サイコロとチップ&すべてを書き出す サイコロとチップ:分子の世界は消費税 皆さん 6 人で 1 組になってください。まじめな話ですよ。サイコロは十分な数を用意い たしましたので足りると思います。ただ、こんなに受講生がおられると思いませんでした。 本当はサイコロの癖がでないように、サイコロは 1 組について 50 個を用意して、順々につ かうようにするとよいのですが。チップもここにかなりの数用意いたしましたが、足りな いようでしたら財布からお金を出してください(笑)。それで 6 人でテーブルを囲み、1 人 あたり 5 枚ぐらいのチップにします。4 枚だとあまりに少ないので、5 枚にしましょう。だ から 1 テーブル 6 人で、30 枚のチップをもらってください。あまり難しく考えず、大学の ことは忘れて、大学院のことは忘れてやってください。まず 1 番から 6 番まで番号を決め てください。最初に 30 枚のチップを 6 人に分配します。サイコロを振って 1 が出たら 1 番 の人、2 が出たら 2 番の人がチップをとる、というふうに 30 回サイコロを振ってチップを 分配してください。その結果、6 人がそれぞれ何枚ずつチップを得たかをメモしてくださ い。これが第 1 段階。スタートラインにつきました。 用意ドンで、今度はサイコロを振って出た目の番号の人は、自分の持ちチップを 1 枚テー ブルの中央に出してください。その次にサイコロを振って出た目の番号人は、そのチップ をもらってください。だから今度はやりとりするわけです。途中は記録が面倒だから記録 しなくてもいいです。実は 1 テーブルにサイコロ 2 つある方がいいです。誰かが振ったサ 7 䊤䊮䉻䊛䈮ಽ㈩ 㪝䈘䉖 㪊㪇ᨎ 㪙䈘䉖 㪝䈘䉖 㪌ᨎ 㪙䈘䉖 㪌ᨎ 㪜䈘䉖 㪍ᨎ 㪚䈘䉖 㪋ᨎ ੱᢙ 㪘䈘䉖 䋴ᨎ 㪘䈘䉖 㪉 㪈 㪜䈘䉖 㪚䈘䉖 㪛䈘䉖 㪍ᨎ 㪘䈘䉖 㪋㪄㪈ᨎ 㪘䈘䉖 䋿ᨎ 㪝䈘䉖 㪌ᨎ 㪙䈘䉖 㪌ᨎ 㪝䈘䉖 䋿ᨎ 㪙䈘䉖 䋿ᨎ 㪜䈘䉖 㪍ᨎ 㪚䈘䉖 㪋㪂㪈ᨎ 㪜䈘䉖 䋿ᨎ 㪚䈘䉖 䋿ᨎ 㪇 ੱᢙ 㪛䈘䉖 㪇 䋿 㪉 㪈 㪛䈘䉖 㪍ᨎ 㪛䈘䉖 䋿ᨎ 䊤䊮䉻䊛䈮䉇䉍ข䉍 㪇 㪌 ᨎᢙ 㪇 㪌 ᨎᢙ 図 1.1: チップ(エネルギー)30 枚をサイコロを振ってランダムに 6 人(分子)へと分配する。す べて分配したら、サイコロを 2 回ずつ振ってチップをランダムにやりとり(相互作用)する。やり 取りを続けると、各人のもつチップの枚数のヒストグラムはどう変わるか? イコロの目は出す人の番号、誰かが振ったサイコロの目はそれをもらう人の番号、という ふうに決めると時間が短縮できて、1 回に 2 個振れば 1 回のやりとりが成立します。10 分 か 15 分やって 6 人がそれぞれ何枚ずつになったか記録して下さい。最後に答えを言っても らいます。 これがどう統計力学とつながっているかと言いますと、各人は分子に、チップの数はそ の分子が持つエネルギーの量に対応しています。つまり、このやり取りを通じて、分子の 持つエネルギー量がどう分布しているかがわかる。まずチップを一方的に分配しておいて、 ほぼ均一になる。これは大事な話。これはエネルギー(チップ)がどこかから流れてくる ことに相当する。どっと流れてきたエネルギーを受け取るわけです。さて、エネルギーを 受け取った分子同士がランダムにぶつかり合い(相互作用)を始めてエネルギーのやりと りをする1 、これからやっていただくのはそういうイメージです。 答えは知っている人は知っていますけど、そんなことは知っていると言わずに、知らな 1 やり取りしている間、チップの総数は一定 8
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