新潟県中越地震 体験記 - 長岡工業高等専門学校

新 潟 県中 越 地 震
体験記
長岡高専
はじめに
平成 16 年 10 月 23(土)午後 5 時 56 分ころに川口町を震源とするマグニチュード 6.8 の新潟県中越地震が
起こりました。川口町の震度は 7、長岡市内の震度は 6 弱と発表され、長岡高専付近は 6 強と推定されています。
本震後1時間以内に6弱の地震が 2 回、5弱以上が 6 回も起こりました。その後も、長い余震が数ヶ月続き、
震源の魚沼丘陵から連なる東山丘陵にある本校の土地、建物も大きなダメージを受けました。
1カ月以上の休学のあと、平成 16 年 12 月 6 日に専攻科生と5年生は長岡技大で、平成 17 年 1 月4日に1
年から 4 年生は使える教室で授業再開、土曜日も返上し 3 月末ぎりぎりに卒業式も済ませることができました。
その後、災害復旧が精力的に行われ、平成 18 年 5 月には建物関係が、10 月には全ての復旧工事が終了しました。
地震から 2 年弱の間、多くの苦労がありました。
地震後、授業が再開され、私は環境都市工学科の本科 1 年から 5 年まで各学年に授業があり、専攻科の授業
は他科の学生も受けていました。授業内容とは関係なく、再開後の授業で今回の地震について、体験したことを
書いてもらうことにしました。場所、時間、環境が違う所で、どんなことが起こっていたのだろう、そして私自
身の経験したことと同じなのか、違うのかと興味もありました。学生諸君にも改めて地震について考えてほしい
と思いました。軽い気持ちでレポートしてもらいましたが、いざ、多くのレポートを見せてもらい、貴重なすば
らしい記録の内容を、私だけが持っているのはもったいない気持ちが昂じてきました。
「現在を正確に記録する
のは今生きている人の責任であり、義務である」ということを思い出し、ひとつにまとめて他の方にも見てもら
おうと思い立ち、校長先生始め、教職員の一部の方にも声をかけ、貴重な文を寄稿していただくことができました。
以下のような内容になっています。
教職員 1:高田校長、地震当時の学生主事の近藤先生、寮務主事の緒方先生、図書館の久保田さん、高橋さんか
らの寄稿。そして地震で脱線したあの新幹線に乗車されていた国語の今野先生、そして本校卒で長岡
技大の高橋先生から、生々しい体験を書いていただきました。
教職員 2:当時、教務主事で苦労された塩野先生はじめ、特に被害が大きく建物が壊れた 3 号館の環境都市工
学科の教職員の皆様からの寄稿です。
学 生 1:地震当時は中学生で、本校に入学し、地震から 1 年後の平成 17 年 11 月にテーマ「新潟県中越地震」
で提出してもらいました。
学 生 2:地震当時、本科 1 年で、授業再開後の平成 17 年 1 月にテーマ「新潟県中越地震について」で提出し
てもらいました。
学 生 3:地震当時、本科 3 年で、授業再開後の平成 17 年 1 月にテーマ「新潟県中越地震について」提出して
もらいました。
学 生 4:地震当時、本科 4 年で、授業再開後の平成 17 年 1 月にテーマ「新潟県中越地震について」提出して
もらいました。
学 生 5:地震当時、専攻科 1 ∼ 2 年で、授業再開後の平成 17 年 1 月に提出してもらいました。
長岡工業高等専門学校 環境都市工学科 佐 藤 和 秀 目 次
はじめに
教職員1 ……………………………………………………… 3
教職員2 ……………………………………………………… 18
学生 1 ……………………………………………………… 35
学生 2 ……………………………………………………… 55
学生 3 ……………………………………………………… 77
学生 4 ……………………………………………………… 98
学生 5 ………………………………………………………118
おわりに
と
き
教職員
その 瞬間
教 職 員 1
新潟県中越地震を振り返って
―長岡高専の体験―
高 田 孝 次
1.はじめに
弱以上が 18 回)、もう一つは、阪神淡路大震災に見
佐藤和秀先生から「中越地震の被災体験文集を纏
られた都市型災害と異なり、山地被害と自然の地形
めるので原稿を」との依頼を受けたのは随分前のこ
に人工の手を加えた場所や地盤の境界部分で被害が
とです。原稿提出が大幅に遅れて、先生には大変な
多く見られたことを挙げています。長岡高専は震源
ご迷惑をかけてしまいました。
お詫び申し上げます。
となった断層に連なる丘陵地に立地しており、この
文集の完成を心待ちにしていた卒業生や在校生も多
特徴が如実に現れました。すなわち、本校の敷地は
いと思いますが、
皆さんにも心からお詫びいたします。
丘の頂部を削りその土砂で周囲を埋め立てて造成さ
本校では被災から復旧完了まで丸 2 年を要したわ
れており、周囲はのり面ないしは擁壁で囲まれてい
けですが、いまも私の心に強く残っていることは、
る上に盛り土部分が地面の 40%強を占めています。
学生諸君が長期にわたった極めて困難な学園生活を
このため、のり面や擁壁と、盛り土部分に建てられ
見事に耐え抜いたという事実です。去る 5 月に、本
た施設に特に大きな損傷を受けたのです(写真 1)。
校の被災記録として「震災を乗り越えてー教育研究
の正常化・復興への歩みー」が刊行されております
3.不幸中の幸い
ので、詳細はそちらに譲るとして、本稿では、この
地震発生が土曜日の夕刻であったことは我々に
ような高専生を誇りに思う気持ちと、非常時に一致
とって誠に不幸中の幸いでした。当時、校内には寮
結束して事に当たった教職員諸氏に対する感謝の気
生を中心に 200 名ほどが居ましたが、駆けつけた教
持ちを含めて、今一度、復旧までの道のりを振り返っ
職員により程なく全員の安否が確認されました。人
てみたいと思います。
的被害は、負傷した学生 2 名(軽傷)、教員 1 名(3 ヶ
人間の記憶の風化は意外と速いものです。しかし、
月の負傷)であり人命にかかわる負傷はなかったの
これを放置し備えを怠ることは次の災害時には人災
です。
に繋がるとも言え、その対策の一つとして、さまざ
高専は学生寮、教室ともに収容人員の密度が比較
まな切り口で体験を記録に残すことが大切と云われ
的高いことから、もし、就寝中や授業中の地震であっ
ております。このような意味で、この文集も貴重な
たならどのような事態になったか、寮の居室や校舎
記録として意義深いものになると思います。
内部の被害状況を見て戦慄を覚えざるを得ませんで
した(写真 2、写真 3)。
2.新潟県中越地震の特徴と本校施設の被害
また、地震後の数日間、天候が良かったことも幸
平成 16 年 10 月 23 日(土)午後 5 時 56 分頃に発
いの一つでした。このため、体育館に避難していた
生した新潟県中越地震は本振で最大震度 7(長岡市
学生の健康に大きな問題が生じることなく、帰宅も
役所での計測値は震度 6 弱)を記録し、その後も強
比較的順調に進み、10 月 25 日(月)には全員の帰
い余震が何度も繰り返して襲ってきました。専門家
宅が完了しました。初めての地震体験に動転してい
はこの地震の特徴として、一つに、長期間にわたっ
た留学生 12 名についても同日中に、余震が無い新
て強い余震が続いたこと(12 月 28 日までに震度 5
潟大学国際交流会館(新潟市)に収容していただく
新潟県中越地震体験記­ 3
写真 1 地面、建物の損壊
ことが出来ました。
とは特筆すべきことと思います。学生および保護者
この年の冬、人々の願いも空しく中越地方は 20
とクラス担任の信頼関係に助けられて、混乱の中に
年ぶりといわれる豪雪に見舞われ、復旧事業や避難
あっても電話等による連絡がスムーズに運び、
「同
生活に大きな困難を強いられたわけですが、本震そ
級の誰々君も大丈夫です」などという情報も多く得
のものが降雪期でなかったことも不幸中の幸いでし
られました。この後もクラスという一種のコミュニ
た。国土の広い範囲が豪雪地に指定されている日本
ティが様々な場面で力を発揮することになりまし
で、降雪期の地震に対する防災・減災についての研
た。安否確認の主要な手段は携帯電話でしたが、学
究の必要性が改めて指摘され、現在、幾つかの機関
校のホームページや地元 FM 放送なども大きな力と
で研究が行われていると聞きます。
なりました。また、情報処理センターと豊橋技術科
学大学の連携により、いち早く本校のミラーサーバ
4.全学生の安否確認
が立ち上げられことにより、本校停電期間中にも外
被災後、直ちに臨時休校の処置を取り、その周知
部関係者に一定の情報を流すことが出来ました。
と全学生の安否確認に入ったのですが、作業は困難
写真 4 は寮の整理に力を合わせる学生諸君の様子
を極めました。特に、家族と共に避難所など自宅か
です。寮生はこの後も寮の復旧工事に伴って多くの
ら離れて移動している学生の把握に時間を要しまし
困難に遭遇することになるのですが、寮友会役員を
たが、高専機構本部からの応援を得て、10 月 29 日
中心に見事に乗り切ってくれました。寮務委員会の
にこれも完了しました。結果は、前記の寮生 2 名以
先生方のご苦労にも感謝しなければなりません。
外に負傷者は無く、教職員一同、安堵の胸をなでお
これ等の初期対応の最中にも、校舎の応急危険度
ろしたのです。
調査が余震によりゼロからやり直しになったり、本
ここで、高専のクラス担任制度が良く機能したこ
校を含む地域に避難勧告が発せられて、事務部門全
4 ­新潟県中越地震体験記
復旧と恒久復旧の 2 段階方式を採れば全ての学年の
授業を年度内に終了し、かつ、新年度の学生受け入
れも可能との見通しが立ち、これにより臨時学年暦
を編成し、入学試験も予定通り実施することになり
ました。これらが可能となったのは、上記の 2 段階
復旧方式が認められたことに併せて、長岡技術科学
大学が応急復旧期間中の授業・実験施設の使用を快
諾してくれたこと、および、新潟大学が長岡市内に
所有する学生寮「和光寮」の使用の便宜を図ってく
れたことによります。
11 月 12 日には長岡技術科学大学において専攻科
写真 2 学生寮の室内(ドアーはこじ開けた)
の授業と特別研究を一部再開し(写真 5)、程なく、
新潟大学国際交流会館にお世話になっていた留学生
も長岡市内の「和光寮」に戻りました。新年 1 月 4
日には応急復旧が成った本校校舎の一部、および学
生寮の一部と「和光寮」を使用して全学年の授業を
再開することができました。
写真 3 転倒し廊下を塞いだロッカー
部を長岡技術科学大学に移転するなど、予期せぬ事
態が続発しました。
写真 4 学生寮の整理に力を合わせる寮生達
5.応急復旧と授業再開
学生の安否確認、構内の安全確保など、被災の初
期対応が一段落した後、校舎の応急復旧と授業再開
の検討に入りました。卒業・修了を控えた学科 5 年
生と専攻科 2 年生への対応が先ず急務であり、次い
で、残る学年の年度内修了を可能とするにはどのよ
うな方策が有りうるのか、高専機構本部の施設担当
者との綿密な協議と平行して臨時学年暦の検討が始
まりました。全学生の 3 割強が寮生である本校では、
学生寮の確保が授業再開の大前提でしたが、全ての
寮施設が損傷を受けており、特に 120 名収容の高志
寮 3 号館が全く使用不可の状態にありました。
結局、施設・設備については学生寮も含めて応急
写真 5 長岡技術科学大学での専攻科授業再開
新潟県中越地震体験記­ 5
学科の学生にとっては 74 日目の学校再開でした。
を求める作業は難しいことこの上ないものでした。
この後、土曜日も繰り入れたタイトなスケジュール
殊に、高専では実験・実習を疎かにすることは許さ
で授業が行われましたが、学生・教職員ともに頑張
れません。教務委員会を中心に懸命の努力が続けら
り、まさに年度末ぎりぎりの 3 月 29 日に無事、卒
れました。大型の装置を使用する実験・研究は不可
業・修了式を迎えることが出来ました。この間、学
能であったため、先生方は卒業研究や特別研究の課
生諸君の元気で頼もしい姿にむしろ教職員が勇気付
題設定に苦心し、通常の学生実験についても一部内
けられました。
容を変更するとともに工事計画との兼合いで実施時
期を組み替える必要がありました。実験・研究室と
6.学生および保護者への対応
してはプレハブ 6 棟(写真 6、延べ床面積約 2500㎡)
上述したように長期にわたる休校を余儀なくされ
を構内に建設して対応することになりました。
ましたが、この期間中、学生ならびに保護者の皆様
また、体育科目についても、グラウンドやテニス
に対しては以下のような対応が行われました。
コートなどの屋外運動施設は全て損壊して使用不能
(1)ホームページによる情報提供
となっている上、2 棟ある体育館も修復工事のため
(2)学科またはクラスごとに登校日を決め、生
使用期間を大幅に限定せざるを得ませんでした。
活上ならびに学習上の指導
数々の制約条件のもとで、何とか通常の学年暦の
(3)自宅学習用の課題提示とレポート提出
(4)長岡技術科学大学体育保健センターの支援
を得て生活・健康等の相談
(5)クラス担任からのメール等による学生の個
別ケア
(6)保護者面談会を実施するとともに寮生保護
者には別途懇談会
(7)後援会臨時支部懇談会を全支部において実施
また、学校再開後は、厚生補導委員会と学生相談
室の連携のもと、学生のメンタルヘルスケアを目的
とする相談室が設けられ、学生相談員(教員)と学
校カウンセラーが対応に当りました。時にお茶やお
菓子も出るくつろいだ雰囲気が好評で、被災学生に
写真 6 プレハブ実験室(同様の実験室を 6 棟、
延べ床面積約 2500㎡を設置。使用後撤去)
対する授業料減免制度などについての相談も含めて
訪れる学生も多く、成功であったと思っています。
これなどは、阪神淡路大震災の教訓が具体的に活か
された 1 例と言えるでしょう。
7.恒久復旧工事の中での授業
全面再開後の教職員はタイトな授業実施に加え
て、恒久復旧に向けた作業に忙殺されることになり
ましたが、このような中で、文科省ならびに高専機
構本部の尽力により平成 16 年度の災害復旧補正予
算において本校復旧関係が手厚く処置されたことは
大きな励みとなりました。
雪解けを待って開始される大規模な復旧工事とそ
の中で実施する教育研究を両立させるための最適解
6 ­新潟県中越地震体験記
写真 7 聳え立つ新 3 号館
研究の維持等に活用させていただきました。
このほか、紙面には書ききれない物心両面にわた
る多くの支援のお陰があって丸 2 年にわたる復旧事
業を乗り切ることが出来たのです。ここに改めて、
ご支援とお励ましを頂いた全ての皆様に、心からの
御礼を申し上げます。
9.むすび
平 成 16 年、2004 年 は 新 潟 地 震(1964 年 6 月、
M7.5)から 40 年目にあたり、6 月以降、新潟県を
写真 8 復旧したキャンパスで 5 年ぶりの高志祭
はじめとする関係機関や団体等によって震災の経験
を改めて検証し、防災の意識を喚起する諸行事が開
中で実施可能な年間授業計画を策定し、平成 17 年
催されました。私も招かれて幾つかに参加しました
4 月に新入生を迎えることが出来たのは、まさに教
が、そこでは阪神淡路大震災の教訓とその後の復興
職員の一致団結の賜物でした。以後、工事現場の中
活動についても貴重な報告がありました。また、新
での教育研究という状態が 1 年半にわたって続いた
潟県中越地方は地震の空白地帯で、今後 30 年以内
わけですが、この間、無事に 17 年度卒業・修了生
に大きな地震が発生する確率は 2%程度であるとの
を送り出し、18 年度の新入生を迎えることも出来
話もありました。しかし、かねてから東海地震の発
ました。
生確率は 30 年間で 30%といわれている中で 2%と
18 年 5 月には建物関係の復旧が完了し(写真 7)、
いう数値はむしろ安心感を与え、よもや数ヶ月を待
グラウンドや外構の整備についても同年 10 月に全
たずに、最大震度 7 の大地震に襲われるなどとは誰
て出来上がり、2 年にわたった復旧工事が終了しま
もが予想しなかったでしょう。これが地震災害の怖
した。そして 11 月には 5 年ぶりに「高志祭」が開
さです。そして、本稿を書きながら自戒とともに恐
催され、訪れた多くの市民の皆さんで賑わいました
ろしいと感ずるもう一点は、被災後 3 年を経過しよ
(写真 8)。遠くから団体で見に来てくれた後援会支
うとしている現在、はやくも震災の記憶が薄れかか
部の方々もおられました。
り、ともすれば安全・防災対応が後回しになる傾向
が見えることです。
8.高専、大学等からの支援
設備類の転倒防止や廊下等の整理・整頓はかなり
本校の被災に際して、全国の高専、大学をはじめ
進みましたが、将来に向けた防災・減災の具体策に
として実に多くの機関・団体や個人から支援ならび
ついては、残念ながら未だ充分には手が回っており
に励ましを頂きました。長岡技術科学大学、新潟大
ません。予算の問題もありますが、いっぽう、多額
学からの支援についてはその一部をすでに述べまし
の経費をかけずとも少しの注意と配慮で可能な安全
た。被災当初は、上越教育大学ほかの近隣大学から
対策が数々あることに気付いたことも事実で、今後、
届けられた救援物資によって学生・教職員家族の避
一つひとつ、着実に実行してゆかなければならない
難生活が支えられました。会計事務が集中した時期
と思っております。
には関東信越地区高専から多数の事務職員の応援が
さて、長岡高専は 2011 年に創設 50 周年を迎え
あり、図書館の蔵書類整理や業務再開では大学・高
ますが、図らずも一足先に校舎の全面改装が成りま
専の図書係員の支援を得ました。
した。或る意味で、長岡高専の次の半世紀に向けた
また、長岡市、新潟県等の公設機関には実験研究
発展の礎が築かれたとも云えます。「人類の未来を
施設の使用に特別の便宜をはかっていただきまし
きりひらく、感性ゆたかで実践力のある創造的技術
た。さらに、本校同窓会や技術協力会から寄せられ
者の育成」を掲げてたゆまぬ前進を続けてまいりま
た義援金は学生の課外活動や運動施設の借用、実験
しょう。
新潟県中越地震体験記­ 7
震災復旧記念製作について
―完成までの経緯―
機械工学科 近 藤 俊 美
発案
を募集する。
平成 17 年 1 月、高田孝次 学校長から呼び出し
・原画の募集は、全学生に呼びかけて行う。
を受けた。内容は 学生全員参加型で、震災復旧の
・採用作品には、表彰状と記念品を贈呈する。
記念になる何か作れないか ?(それを厚生補導委員
・希望者を募って製作活動を行う。
会で、まず音頭を取ってほしい) との要請であっ
などの内容であった。
た。当時、学生主事であった私(近藤)は、校舎の
その後 6 月、
「震災復旧記念製作委員会」が学生
ほとんどが使用できない状態で(4 号館と 6 号館の
会に設置され、前記の佐藤翔君が委員長となって企
み使用可能)、プレハブで学生実験、卒業研究をやり、
画・推進して行くこととなった。メンバーは学生会
しかもクラブ活動がほとんど出来ない状態で、学生
の役員である。6 月中旬、実行委員会から全学生向
が主体的にしかも全員が参加した形で出来るであろ
けに震災復旧記念製作のアンケートを実施した。内
うか ? ということだった。
容は、製作の参加希望について、設置場所について、
作品の内容について、などであった。アンケートの
経緯
結果を受け、6 月下旬、学生会の震災復旧記念製作
平成 17 年 2 月 12 日(金)の厚生補導委員会で、
委員会が開催され、4 月の内容の再確認と修正を含
「震災復旧記念製作(仮称)」として提案し、委員会
め、以下の内容が決まった。
の了解を得た。当時、主事補で学生会担当であった
・設置場所は、新福利棟あるいは新 3 号館とする。
山岸真幸先生が中心になって担当してもらうことに
・サイズは 300㎝ 275㎝
お願いしたのは、1 ヶ月遅れの 3 月だった。そして、
・原画の募集を行い、締め切りは 9 月 5 日とする。
3 月の校長連絡会、企画会議に提案した。また、施
・注文する会社は、玉川窯業株式会社(岐阜県土
設係の片桐正幸係長に震災復旧記念製作についての
岐郡笠原町 4377 番地)。
趣旨を説明し、3 号館入り口か食堂で 2m 2m 程度
などの内容であった。この時点でタイルアートの話
の壁があるかどうか相談したところ、それぞれ 1 ∼
題が出たが決定はしなかった。上記会社名はタイル
2 箇所あるとのことだった(この時点では、まだ 3
アートに決まった場合である。学生会の調査による
号館、食堂に設置することは決まっていないが)。
と、この大きさのタイルの製作費は約 29 万円のこ
また、壁に工事をする必要があるため、その最終期
とであった。この内容を、7 月 4 日の学生会で提案
限は来年 2 月中であれば間に合うとのことだった。
し、7 月 5 日に全学生に公表した。
平成 17 年 4 月上旬、当時の学生会長だった物質
その頃、高田学校長の取り計らいで、 長岡造形
工学科 5 年の青木翔吾君、副会長の電子制御工学科
大学からアドバイスをお願いしたらどうか ? という
4 年の佐藤翔君、副会長の環境都市工学科 5 年の田
ことで、7 月 8 日、私(近藤)と佐藤君の二人で造
邊麻由子さんにその趣旨を正式に説明した(山岸主
形大学の鎌田学長を訪ね、震災復旧記念製作の趣旨
事補、猪平主事補が、すでに 2 月頃学生会に話を持
説明と協力をお願いした(当時の鎌田学長、赤沼教
ちかけていたが)。4 月下旬、学生会の役員会で議
授、境野助教授が同席)
。造形大学で出来ることは
題として取り上げられ、計画案が決まった。その概
是非協力したいとの返事をいただいた。ありがたい
略は
話ではあったが、その後学生会で協議した結果、製
・学生会役員会で案を検討し、夏休みまでに原画
作内容はタイルアートに正式決定し、独力で完成さ
8 ­新潟県中越地震体験記
せることとなった。
旧記念製作と学生会・同窓会の文字および原画の題
原画の締め切りは 9 月上旬であったが、応募数が
目(原画の作者により prosperity (繁栄)と決まっ
少なかったため、10 日位延長した。最終的に応募
た)と原画製作者の氏名を記入することとした。全
数は 5 点であった。10 月下旬から 5 点の作品を展示
製作費の合計は、タイルの製作を含め 208 万円程度
し、学園祭で投票した。その結果、採用原画として
である。高田学校長の判断で、震災の義援金を当て
電子制御工学科 4 年の赤坂絢子さんの作品に決まっ
ることになった。義援金を寄せられた同窓会および
た。その後、専攻科を含めた全学生の署名を各クラ
一般の方々に厚くお礼申し上げる。
スごとにお願いすることとし、そのステンレスの
最終的に作品が完成し、食堂に設置されたのは、
エッチングとしてタイルアートの両脇に取り付ける
平成 18 年 3 月 25 日であった。また、新学期が始まっ
案が出されたのは、12 月上旬だった。全体の枠の
てまもなく、新緑の候 5 月 17 日、高田学校長、原
製作と設置および各クラス学生の署名のエッチング
画製作者の赤坂さん、学生会役員、教職員の参加の
は、燕市の「株式会社 新興」にお願いした。この
下、除幕式がタイルアートの設置場所である学生食
会社との連絡調整は当時の加藤敏明学生課長があ
堂で行われ、一連の作業はここに完全に終了した。
たった。業者との最終的な打ち合わせは、1 月中旬、
お世話になった関係者各位に重ねて御礼申し上げた
プレハブの F 棟の 2 階で行い、ここに記念製作の全
い。
容が決定した。大きさは、縦 2000㎜
以下に、原画と完成したタイルアートを添付して
横 2300㎜で
あり、その両脇にクラスごとの署名、下部に震災復
赤坂絢子さんの原画
おく。
食堂に設置されたタイルアート
新潟県中越地震体験記­ 9
長岡工業高等専門学校学生寮における
中越地震発生以降の対応と推移
前寮務主事 緒 方 和 男
平成 16 年 10 月 23 日(土)に発生した中越地震
避難者名簿(寮生分)を照合
発生直後の学生寮の状況・対応の推移について簡単
長岡市に食料・水・毛布の支援要請(な
に述べてみたいと思う。
かなか繋がらない)
10 月 23 日(土)
寮事務室に教員が常駐し寮生の安否確認
17:00
当日の寮生 354 名中残寮生は 164 名。宿
と外部との対応を行う
直体制は補導宿直(教員)1 名・管理宿
地震情報の収集並びに近隣の状況確認
直(事務職員)1 名。大会・行事等が続
寮長外出先より帰寮できない為、副寮長
き大半の寮生が帰省していた。補導宿直
を中心とする学生統率体制の確立
はたまたま寮務主事補であった。
負傷者 1 名応急処置、その後病院に移送
17:56
震度 6 弱の地震発生、直ちに学生寮正面
21:30
構内状況確認後、全員をより安全な第 2
前に集合させ点呼、残寮生の確認をする。
体育館に移動(第 1 体育館は照明器具落
随時、携帯電話で家族に連絡するよう指
下飛散し危険の為)
示(ほとんど通じなかった)
22:00 ∼ 第 2 体育館・避難宿泊者確認 196 名(内
18:03
震度 5 弱余震
訳 ; 当日の残寮生 152 名 + 留学生 12 名 +
18:11
震度 5 弱余震 度重なる余震の為寮内確
近隣のアパート入居学生 + 他宿舎入居教
認作業を中止し、全員を学生寮に隣接す
職員及び家族)
るテニスコートに移動
構内の危険状況を確認の上、各所の入構
呼終了し負傷者 1 名を確認、病院に移送
及び利用制限を全員に通達
する
22:30 ∼ 寝具の確保、貴重品持ち出しの為、入室
寮食堂業者に夕食を「炊き出し」に変更
館ごとに時間を限って学寮への入館を許
するよう依頼
可
寮務主事自身も自宅で被災した
が補導直の主事補、外出先の寮
長と連絡が取れ、道路寸断のた
め動きが取れないことを伝え、
状況の確認と寮生の安全確保を
依頼
随時外出から帰寮する学生あり。
避難者名簿の作成
18:34
震度 5 強余震 校長が到着し直
ちに対策本部が設置される
19:00 ∼ 環境都市工学科教授により学生
寮の危険状況が確認される
炊き出し配食
10 月 23 日分の残寮生点呼表と
10 ­新潟県中越地震体験記
1号館屋上 棟屋 柱のコンクリートが崩れている
長岡市より毛布 100 枚配給される
その後、学校全体の被害状況の確認と授業再開に
向けての対応をする中で、360 余名の寮生の宿舎を
10 月 24 日 (日)
確保するため当初は、野球場にプレハブ寮の建設、
8:30 ∼ ミーティング(メンバー:校長、学生主
他大学・高専寮の借用、公共宿泊施設(赤城青年の
事、事務部長、庶務 ・ 会計 ・ 学生課長、
家・妙高少年自然の家等)の利用等さまざまな方向
宿泊した教職員、学校の状況確認に来た
から検討されたが、最終的には食堂と 3 号館を建て
教職員)
替え、その他は改修、補強をして年明け部分入居を
・学寮への入構制限
目途とすることとなった。収容可能数の減に対して
・校舎内への入構制限
は自宅通学への変更、共有スペースや空き部屋の活
・保護者が迎えに来られる学生は随時引
用で対応することとした。
き取らせる。同じ方面に自宅があり、
11 月 14 日に学校長以下 15 名の教員を 5 班に編成
保護者との連絡が取れた学生について
し、9 支部において、現時点における災害普及状況
も、なるべく同乗させていただけるよ
及び授業再開に向けた取り組み等の状況説明会(特
う依頼
に寮の状況、今後の対応)を行った。特に被害が甚
・朝食、昼食は学寮食堂に保管されてい
たパン、牛乳を配る
9:00
大な為開催が困難な小千谷支部と説明会に参加でき
なかった保護者には説明資料を送付した。
寮務主事、迂回路を探しながらようやく
寮内居室への一時立ち入り、荷物の搬出に先立
学校到着
ち、教職員が余震の続くなか 「安全確保」 を最優先
対策本部を 4 号館 1 階の教育実践室に移
にしつつ、まず進入路、退出路を確保し、倒れたロッ
設
カー・本棚等を起こし、危険物を取り除く作業を
避難宿泊者確認・学生 33 名(通学生 4
行った。その後プログラムを作成し、各グループに
名、留学生 12 名を含む)、教職員
複数の教職員が付き安全確保のため時間を制限する
22:30
長岡市より夕食配給
などして 11 月 18 日∼ 19 日に全寮生の一時立ち入
23:00
学生 1 名保護者引き取り帰宅
りを開始し、11 月 21 日∼ 23 日に 5 年生・専攻科
12:00
生の全荷物を搬出し、11 月 27 日∼ 12 月 5 日には 1
10 月 25 日(月)
∼ 4 年生の全荷物の搬出が終了した。
∼ 8:00 8 名帰宅(保護者引き取り、同乗、自転
5 年生・専攻科生は長岡技術科学大学で 12 月 6 日
車など)
8:00
(月)から授業再開されることになり、宿舎は新潟
残校学生数確認 25 名 第 2 体育館での
大学教育人間科学部教育実習宿泊施設「和光寮」を
待機を指示
借用し、とりあえず 63 名の 5 年生・専攻科生の寮
10:00 ∼ 残校学生の保護者への連絡と帰宅・引き
生活が 12 月 3 日にスタートした。
取り
1 ∼ 4 年生の 1 月 4 日(火)からの自校での授業
留学生受け入れ先を新潟大学に依頼、国
再開に向けては、12 月 6 日に寮の総点検を実施し、
際交流会館に 3 月末まで受け入れてもら
寮生の保護者には 12 月 12、
13 日に説明会を行った。
う
以上寮の状況を簡単に述べたが、今振り返ってみ
15:00
留学生以外の学生の帰宅・引き取り完了
ると、大した怪我人(寮生 1 名頭部裂傷の軽症)も
15:30
留学生全員を車 3 台で迂回路を探しなが
出ず度重なる余震の中でも冷静さを失わず心を一つ
ら新潟大学国際交流会館に移送 にして未曾有の災害を乗り切り、平常の寮生活に戻
れたのは、教職員、寮生(特に寮友会役員の献身的
10 月 29 日(金)
本校に避難勧告発令・30 日事務局を長
な手伝い)
、保護者、地域住民の協力、関係大学、
長岡市他のバックアップのおかげと感謝している。
岡技術科学大学に移転
新潟県中越地震体験記­ 11
長岡高専図書館の地震発生から復興まで+α
学生課図書グループ 久保田 昌 代
文集に掲載していただける機会をいただき、図書
一部図書、雑誌等を配架し、学習図書館的機能
館復興までの記録を残させていただきます。けが人
で開館。校内に学生の利用施設が少ないため、
がでなかったこと、そして図書館の再開に際し、学
不十分な機能でも利用者多数あり。
生をはじめ県内大学図書館、高専職員の皆さんの大
きな支援の力に感謝あるのみです。
【2005.2.14】図書館休館
・閲覧室復旧工事のため。
【2005.4.4】図書館復旧工事終了/開館準備
【2004.10.23 17 時 56 分】
新潟県中越地震発生/図書館休館
・17 時に閉館したため、利用者及び職員にけが
人なし。
・貸倉庫から図書戻し入れ。
・スチール書架組み立て。
・修理済み木製書架搬入、耐震施工。
・図書配架作業
・建物:小破。修理すれば使用可能。
県内大学図書館職員支援(2 日間延べ 33 人)
・書架:書庫内のスチール製・単柱複式・天つ
学生ボランティア(延べ 200 人)
なぎ・床固定のものは倒壊、新たに設置する
ことに。
・書架:閲覧室内の木製・背合わせで設置・固定
なしのものは転倒、修理して使用。背合わせ・
頭つなぎのものは転倒せず。
・集密書架:基礎部分被害なし。移動棚部分がず
れ、図書をいったん全部だし修理する。
本校職員・作業員(業者)
【2005.4.20】図書館開館
・図書館 2 階閲覧室部分開館。
【2005.8】
・図書館 1 階部分及び 2 階玄関ホール復旧工事開始。
【2005.12.22】
・上記工事終了
*修理期間中、図書は一部を残し貸倉庫に預ける。
【2006.1】図書館全館オープン
・図書:裂けたもの、歪んだもの、水浸しになっ
・図書館 1 階部分使用開始。
たもの、避難所で紛失、倒壊した家の中にある
ブラウジングコーナー
等の連絡を受けたものがあった。
図書館情報検索室
・この間、一時事務部が長岡技科大へ仮移転。5
グループ学習室(3 部屋)
年生・専攻科生の授業も長岡技科大で再開。
学習コーナー
・県内大学図書館関連(新潟県大学図書館協議会)
第 4 保存書庫
長岡技科大図書館:本校利用者データを登録、
校史編纂資料室
貸出可能。他の大学図書館においても、「災害
時における図書館協力マニュアル」により利用
蛇足ですが地震当日、私は東京に遊びに行ってい
者の受け入れ協力。
ました。いざ帰ろうとして新幹線に乗り込んだので
センター館の新潟大学が中越地区の被害状況を
すが、地震のため発車できないとアナウンス、お弁
調査し、状況を加盟館に知らせると共に、必要
当でも食べながら待っていようとお弁当を買い込み
な支援のとりまとめを行う。
また乗車。しばらくすると運行できないので降りて
【2005.1.4】図書館開館(仮)
・4 年生以下高専で授業再開。
12 ­新潟県中越地震体験記
くださいと追い立てられました。新潟で地震が発生
したのはわかったのですが、詳しい情報はありませ
ん。長岡の家族に連絡をとろう
としても繋がらない。群馬に娘
がいるためそちらに連絡が入っ
ているかもしれないと電話をか
けるが繋がらない。やっと娘と
連絡がとれたが、長岡とは連絡
がとれないとのこと。
「テレビ
でもつければニュースでやって
いるかも」と言うと、
「どの局
も地震のことだけ、でも同じこ
としか言ってない」との返事。
え!そんなに大変なの……
普通電車を乗り継ぎ、夜の 12
時前にどうにか群馬の家に到着。
翌朝早く娘と車で新潟へ。で
も詳しい情報もないため、旧国
道 17 号で堀之内まで行き、通
4号館3階東側の教員室(本棚が全て倒れ、本、資料が散乱している。
スチール製本棚も歪み、机の上のモニターも下に落ちている。)
行止め。山古志方面がひどい被
害とは知らず、どこか山越えで長岡に入ろうとしま
は落ちそう。家そのものは大きな被害はなし、玄関
した。途中駐在所に立ち寄ったりしましたが、何も
のガラスが割れている、壁紙には亀裂あり、本箱は
情報はなし(留守番の人しかいません)。結局、只
倒れている、食器は散乱。でも家族は(犬も含め)
見を抜け、磐越自動車道経由で新潟にたどり着きま
市外にいたり、戸外にいたりしてあまり怖い思いを
した。時間は午後 2 時半ごろ。
しないですみました。
我が家は長岡東バイパスと国道 352 号(栖吉方面
これくらいの被害ですんだことに、またまた感謝
へ行く道)が交差する付近、電柱は傾き、トランス
です。
中 越 地 震
図書館 高 橋 愛 美
同じ長岡市内でも被害の大きさには違いがありま
棚から一部食器がわれた。揺れの方向が家具が倒れ
したが、被害の大きかった長岡高専周辺にくらべ私
る方向でなかったのか、幸いに大きく倒れた棚など
の自宅付近は比較的被害はなかったほうだと思いま
はなかった。
す。
揺れ始めたときに父が「新潟地震だ!」と言って、
地震発生時は自宅の 1 階にいて、カタカタとゆれ
かなり大きな揺れが来たという状況だったと思うの
る感じが少しあったと思うと押し寄せてくるような
ですが、父から新潟地震の時に長岡も揺れたという
感じがあり、ドーンと大きく揺れが来たような気が
話を聞いていたので、「新潟地震」という言葉と、
する。
自宅の被害が少なかったことから地震直後は震源が
我が家では 1 階のテレビが床へ落ち、台所の食器
中越ではないと思ってしまっていた。
新潟県中越地震体験記­ 13
大揺れの後に自宅付近は停電したため、テレビな
とのなかった我が家では地震後も家の中ですごして
どの情報が入らず停電もすぐに回復すると楽観視し
いた。そうしている間も絶えず余震が来ていた。
ていた。その後なかなか回復しない停電のため、ラ
それほどの寒さはなかった。晴れていたので夜
ジオを聞いて、震源が中越と知る。震度もかなり大
10 時ごろ外にでてみると星が良く見えた。周囲の
きかったことや頻繁に来る余震から、一時間を過ぎ
明かりが消えていたせいだろう。
たあたりから停電の回復がいつになるかわからない
翌日、近くのスーパーをのぞいてみる。店内は停
と思うようになる。
電のため、店の外で販売できるものが並んで売られ
ガスも止まり、しばらくして水道もとまる。水道
ていた。パン・電池など。生ものはなかったと思う。
が止まるまでに少し時間があったため飲用等のため
少し離れた店に行くと、停電はなかったようで電
少し水をためて置くことができた。夕食前の地震、
気もついていて通常のように販売が行われていた。
その後に停電だったが、カセットコンロがあったた
カセットコンロが大量に目立つところにおかれ、電
め準備のできていたものをあたためて食べることが
池、携帯電話の充電グッズが売れていた。懐中電灯
できた。
用に単一電池を購入したかったが、売り切れていた。
懐中電灯もあったが停電の回復がいつになるかわ
市の広報車なのか「給水所」についての案内が聞
からないため、仏壇用のろうそくを灯りに使用。こ
こえた。水道も止まり回復がいつになるかわからな
れでもなかなかあかるい。
いため、近くの公園とのことで行って見ることに。
家の前に人が集まっているようだったので(話し
給水車が来ているのかと思って行ったのだが、以前
声がきこえる)、外へ出て様子を見る。近所の人が
には気がつかなかったが給水施設(井戸水を汲みあ
集まっていた。家の下が車庫である高床の住宅は
げているようだった)があったようだ。大勢の人が
けっこう揺れたようだ。家の外へでて、車にいる人
いるのでは思っていたが予想に反し 8 人ほどの人。
もいる。高床住宅ではなく、家具が大きく倒れるこ
声をかけられ、自宅より持参の容器に水を入れても
らう。
水をもって帰ったものの、水道はそれから割りと
すぐに回復。電気は3日目くらいに回復、ガスは電
気がつく少し前に回復。
水がないというのは本当に困ることで、電気がな
いと大変不便(ガスはカセットコンロが使えたので
さほど不便を感じず)と感じました。日頃何気なく
していることが、少しの間とはいえ出来ないことが
とても大変だったことは、通常の生活に戻ったとは
いえこの地震発生から 3 日間ほどのことは、地震の
3号館と第2体育館の間に南側にできた地割れ
揺れとともに忘れないだろうと思います。
あまり思い出したくもないのだが
今 野 哲
あまり思い出したくもないのだが…、その日は日
越新幹線下り「とき 325 号」に飛び乗った。よせば
帰りの東京出張だった。用務を済ませ、東京駅で上
いいのに駆け込み乗車である。車内は乗車率 100%
14 ­新潟県中越地震体験記
ほどの込み具合だった。が、運のいい乗客たちは高
取り出して、かける。つながるわけがない。ただい
崎あたりでぞろぞろ降りてゆき、その時には座席の
ま大変つながりにくい状態になっております。15
3 割ほども埋まっていただろうか。長岡が近づいて、
分に 1 回くらいの割合で、車内のどこかで着信音が
読みかけの本を鞄にしまった時である。列車が最後
鳴る。着メロはトッカータとフーガだ。車内爆笑。
のトンネルを抜けようとしていた時である。
何度もかけてようやく呼び出し音が鳴る。出ない。
まず、車両が跳ねた。熊か何かを轢いたような感
しばらく経って、またかける。出ない。みんな死ん
じ。次の瞬間には、脱線していることがわかった。
だか ? しかたがないので、仙台の親にかける。出
車輪は明らかにレールではないものの上を走行して
る。とりあえず、避難場所の中学校への連絡を頼む。
いる。それでも、まだ半信半疑なのだ。新幹線の脱
あの、このケータイ、充電がかなり怪しくなってい
線事故は聞いたことがなかったから。だが、照明が
るので、近況報告してる余裕はないから、すまんす
消え、揺れがますますひどくなり、車輪はレールで
まん、はいはい自分は無事です生きてます、よろし
ないものの上を豪快な音たてて…、これは 100%脱
く頼みます、ではでは皆さんごきげんよう。
線である。時速 200 キロで脱線 ! って、それはちょっ
脱線車内に監禁中である旨を災害緊急サイトに登
と困ります。私の脳裏には 10 年ほど前のドイツの
録し、さてニュースサイトにつなぐと「新潟県で大
鉄道事故のテレビ映像が浮かんでいた。すべての連
きな地震」って、知っとるわい、その程度のことは、
結部がぐしゃぐしゃに折れ曲がって、車両があっち
知りたいのはその先じゃ、この際長岡高専はどうで
こっちに…。
あんなふうになったら、
痛いだろうなあ。
もよか、わしのウチはどうなっとるんじゃい ! と
いやな感じに傾いたまま、列車は止まった。傾い
いうあたりで、ついにチャージ切れ。ケータイは死
てはいたが、どうやら転覆せずに止まった。しばら
んだ。
く経って、「どうも地震らしい」という声が暗い車
チャージ切れになりそうなことは、朝から気づい
内を伝わってくる。しかし、地震で新幹線が脱線し
ていたのである。が、マァいっか、てな調子で出掛
たりするものだろうか。半信半疑である。が、一難
けてしまったのである。災害に出くわしそうなとき
去ってまた一難、すぐに余震だか本震だか分からな
は、しっかり充電しておきましょう。
い大揺れが…、これは 100%地震である。地震で脱
* * *
線したのである。それにしても、高架の上というの
乗務員や車内販売員は終始冷静である。乗客の質
が、いかにも気持ち悪い。がしゃがしゃ揺られなが
問にも落ち着いて応じている。さすがプロである。
ら、私の脳裏に浮かんでたのは、阪神淡路大震災の
もっとも、事の詳細については、彼らもわかってい
名神高速のテレビ映像である。橋脚が次々に折れ、
ない。乗客も文句を言わない。さすが我慢強さを持
横倒しに崩れた高速道路…。あんなふうになったら、
ち前とする越後人である。越後人ではない乗客もい
さぞかし痛いことだろうなあ。
ると思うが、事情が事情なので文句を言わない。車
高架橋は倒壊することなく、どうやら揺れは収
内、だんだん暑くなるが、誰も文句を言わない。だ
まった。子どもたちの泣き声、それを慰め元気付け
が、軽薄軽躁を持ち前とする仙台人は、さすがに退
る大人たちの声。「もうだいじょうぶだよ」と、言っ
屈してくる。真っ暗なので本も読めない。携帯電話
てる矢先にまたまた余震だか本震だか分からない大
は仮死状態である。窓の外を見ると、おや川西地域
揺れが、私の脳裏には阪神淡路大震災の名神高速が
とおぼしきあたりは電気が点いてますねえ、右側の
…。
窓に目を転じると、村松町と思われるあたり、こち
* * *
らは真っ暗ですねえ、あ、緊急車両が走っています。
さて、地震であることがはっきりすると、気になっ
それにしても、暑いなあ。 てくるのは家族の動向である。走行中の新幹線が脱
車内巡回中の乗務員いわく、「あれれ、この車両
線するような地震である。長岡は壊滅しているので
は暑いですねえ。」「えっ、ほかの車両は涼しいんで
は ? 長岡高専もぶっ壊れて長い長い秋休みになっ
すかい。」というわけで隣の車両へぞろぞろ移動。あ、
たりして。
(そうなった !)
。おもむろに携帯電話を
涼しい。
新潟県中越地震体験記­ 15
車内放送が逐一はいる。長岡駅から救援隊が向
…、なんという不謹慎な想念 ! 電車が動かなくなっ
かっています。脱出経路の安全確認を行っていま
たので歩いて帰っているだけだろう、オレは。べつ
す。1 号車に取り残されていたお客様が救出されま
に生命の危険があるわけじゃなし、空爆されるわけ
した。おー、よかったよかった。どうやら乗客乗員
じゃなし、空を飛んでいるのは、あれは爆撃機では
全員、大きな怪我もなく無事だったらしい。
ありません。空を飛んでいるのは…、あれはヘリば
* * *
かり。うわっ、たくさん飛んでますねえ、ヘリコプ
脱線からほぼ 4 時間後、車外へ出た。長岡駅まで
ター。バリバリバリと轟音響かせ、勇ましいこと。
約 6km、新幹線高架の上を歩く。高架の犬走り、
ときどきライトで一列縦隊を照らしたりして、空撮
英語で言うならキャットウォーク、いずれにしても
でもしているのでしょうか。ヘリコプターうるさい
犬猫が歩くのにちょうどよい幅の通路である。長い
ぞ、ばかやろう撮るんじゃねえ、墜ちやがれ。
長い一列縦隊で歩く。コンクリートの壁にさえぎら
被災しなかった人は、今ごろ空撮された映像をテ
れて何も見えない。何となくきな臭い匂いが漂って
レビで見ているのかもしれない。テレビの映像を見
くるような…。街の様子が気になる。ところどころ
て、事態をわかったつもりでいるのかもしれない。
にある壁のスリットから覗いて見たいのだが、なに
けれども、わかったつもりでいるだけで、本当は何
せ一列縦隊である。歩を止めるわけにはいかないの
もわかってやしないのさ。実際の状況などテレビで
である。月明かりに照らされた自分の影を眺めなが
わかるわけがない。で、一方、被災者である私はと
らひたすら歩く。
いうと、コンクリの壁に沿って黙々と歩き続けるだ
いつだったかテレビで見た難民の映像が脳裏をよ
け、こっちはこっちで、もう何がなんだか、事態は
ぎる。あれはコソボだったか、ボスニアだったか
まるでわからない。
155 分の6
― もう宝くじは当たらないなぁ ―
高 橋 一 義・正 子
その日は、親戚の結婚式の帰り、家族そろってあ
族も無事で、乗車していた 5 号車も進行方向右側に
の とき 325 号 に乗車していた。小千谷のトンネ
やや傾きた状態ではあったが、水平状態に近かった
ルを抜けると間もなく長岡駅に着く。家内と下車に
ので、しばらく待てば、長岡駅に帰れるとその時は、
手間取りそうな当時 1 歳と 4 歳の子供 2 人は、既に
楽観していた。
デッキで準備をしていた。私も長女とともに下車の
座席にもどり、状況が進展するのを待っている
準備をと、座席を立ち上がった瞬間、ガツンという
と、急に新幹線自体が、今にも高架から転落するの
音と同時に、ものすごい横揺れに襲われた。その瞬
ではと感じるほど大きく揺れだした(後に、最初の
間、室内の照明は非常灯に変わり、荷台の小型スー
余震による揺れとわかった)。この時はじめて、恐
ツケースは、手裏剣のように床に飛んでいった。そ
怖を感じた。周りの乗客は、みな床に座りこんでい
の後、ゴーという音が響く中、ガッツンガッツンと
た。この時点では、揺れの原因が地震であることは
いう音ともに小さい震動が断続的に続いた。脱線し
想像すら出来なかった。揺れがおさまった後、状況
たと直感した。
を確認するため、他の人同様、携帯電話をかけた
新幹線が停車した後、直ちに「何かに当たったか、
り、Web へアクセスを試みたりしたが接続状況は
跳ねたようです。」というアナウンスが流れたが、
思わしくなかった。停車後しばらく経ってからだっ
脱線という言葉はなかった。幸い、デッキに居た家
た Web 経由で、地震が発生したことを知った。
16 ­新潟県中越地震体験記
救出されるまでの間、余震による車両の強い横揺
た。子供を背負ったり、抱いたりすると両手が塞がっ
れが何度も何度も断続的に続いた。高架であるため
てしまうため、手荷物の一部を車両内に残した。ま
か、後から知った余震の強さよりも車両の揺れは大
た、どうしても手放すことができない手荷物につい
きく感じた(地上で感じる揺れにくらべて)。
ては、一緒に移動する乗客の方が親切にも持って頂
脱出までの車内(おもに 5 号車)の状況は次の通
いた(ありがとうございました)。
りであった
長岡駅への移動は、高架上の線路わきの通路状の
・停車後、しばらくは非常灯により室内は照明され
スペースを歩き始めた。幸いなことに、天気はよく
ていた(おそらく非常用電源)。
・客車を結ぶ通路は、今まで見たことない遮蔽扉に
月明かりが照らす中、歩き始めたが、市街地方面を
みると、
異様に真っ暗だったのは、
記憶に残っている。
より塞がれていた。いつも目にする扉の他に、非
道中、金属の焼けるような匂いがところどころ
常扉が新幹線に備わっていることに感心した。た
漂っていたり、小さい余震があったものの、大きな
だし、この遮蔽扉を開けることは容易ではなかっ
問題もなく順調に移動できた。しかし、あれほどお
た。
しゃべりしていた背中の息子は、途中から熟睡して
・空調が機能しないため、室内はだんだん暑くな
しまい、自分で私の背中につかまらなくなったため、
り、外気を取り入れるため、車掌の指示により乗
息子を落下させないよう、腰をまげて姿勢を低く移
降口を開けた。
動しなければならなくなったのは、大変つらかった。
・新幹線のトイレは水洗トイレであったので、停車
後、用足しに困った。
・デッキで平然と煙草を吸っている乗客がいた(注
意した)。
・途中何回か、車掌からアナウンスで状況がある程
度わかった。
・最後尾の 1 号車に乗客がいること、1 号車が大き
く傾いていること
このような体制での移動のためか、停電のため周
囲の景色が何も見えず道のりの目安がないせいか、
長岡駅までの道のりは、非常に長く感じた。
移動を開始してから 2 時間ほど後、長岡駅の東京
方面プラットホームに着いた(移動の際、高架の右
側を歩いていたため)。しかし、速やかに駅建物か
ら出るよう指示された(地震により駅の建物自体が
危険な状態であるため)。駅構内を移動中、ところ
・脱線した地点が震源地の直ぐ近くであること
どころであるが水が滴り落ちている個所があり被害
・脱線地点周辺までのバス等は手配できず、長岡駅
の一端を伺うことができた。
までは徒歩でしか移動できないこと
駅の大手口に出ると、報道陣に囲まれている乗客
・救援隊は、長岡駅から徒歩で来ること
の一団を目にした。我々は、その一団を回避し、駅
また、脱出に向けて以下のような指示があった。
構内駐車場に駐車していた自動車に乗り込み家路に
・新幹線からの脱出に備え、1 ∼ 4 号車の乗客は、
ついた(この時、丁度、日付がかわった)
。駅駐車
5 ∼ 9 号車に移動する
場を出発してからしばらくは、別段、街の様子に地
・脱出は、9 号車の乗客から順次行う
震の被害を感じることはなかった。しかし、信濃川
わたしの家族の脱出は、当日、脱出組の最後尾で
を渡った直後から、街灯が点灯せず、信号機が機能
あった。しかし、9 号車には、駅まで徒歩で向かう
していない状況に出くわした。また、移動途中、道
ことが難しい、主にご高齢の方が残った。脱出の
路に大きな段差が発生している箇所にも遭遇し、地
際、9 号車の前方扉から簡易バシゴのようなものを
震の被害が広範囲かつ被災状況が継続していること
使って高架におりた(この時の時刻は、およそ午後
を感じた。
10 時近くと記憶している)
。3 人の子供のうち、一
自宅に到着以降は、他の被災者同様、自動車内で
番大きい小学校 2 年生の長女は自力、二番目の保育
朝を迎えることになった。
園児の息子は、さっきまで車中ペラペラしゃべって
いた筈なのに、下車寸前にウトウトしてしまい私が
背負ことになった。三番目の娘は妻が抱いて移動し
新潟県中越地震体験記­ 17
教 職 員 2
あの日、あの時…
吉 田 茂
平成 16 年の後半は、災害にあけくれた年といっ
横切った。このままだと天井が落ちてきて、したじ
て良い。よく『災害は忘れた頃にやってくる』と言
きになるのではないかという恐怖にかられた。強い
われているが、集中豪雨水害といい、中越地震とい
揺れはなかなかおさまらず、その間じぃーっと祈る
い、災害をまのあたりにし、しかも被災者となった
ような気持ちで、机の脚を握りしめていた。揺れが
のは、勿論初めてのことである。私が災害のことを
おさまるまもなく、次の地震が起こってきたので、
忘れた頃に、もう一回経験すれば、この諺は正しい
机の下でじっとしているほかはなかった。
ことになる。
たが、
正直いってもう経験したくはない。
だんだんに地震の間隔があらくなったので、廊下
集中豪雨の惨状を見て、これは大変な事態になっ
に逃げ出そうと思った。しかし、あたりは真っ暗で、
たと思った。刈谷田川の水位を決定する主要な雨量
机の周りは書棚でふさがれてしまったようだった。
観測所は栃尾観測所であるが、平成 15 年までの過
また、ガラスを破って噴出した本も机の周りを埋め
去 80 年間の年最大日雨量の記録を見ると、1961 年
るように山になり、机の下にもなだれ込んできたよ
の 342㎜ / 日となっている。そしてこの頃、刈谷田
うだった。自分の前にある本を掴んでは、股の下を
川の計画降雨量 360㎜ / 日が定められ、これは 150
通して後ろに追いやり、これを根気よく繰り返して、
年に一度起こる程度の豪雨であるとされた。しかし
少しずつ前へ進もうとした。本にはガラスの破片が
それから約 40 年後の昨年、421㎜ / 日の豪雨が起っ
刺さっていて、暗すまで、それを摑かんだので、手
てしまったのである。確率を考える場合の母集団が
にはかなりの傷を負い血がふき出していた。
小さ過ぎるという問題があるにしても、今回のよう
やっと廊下へ逃げ出したものの、さてこれから一
な異常気象による降雨の予測は、確率的なものでは
体何をしたらよいのだろう。家族の安否が気になっ
説明できないものがあると考えられ、それが異常気
た。あっそうだ、確かガスストーブをつけていたは
象というものなのかもしれない。
ずだ。このままでは火災になってしまう。ガススト
中越地震以前に、私が教官室にいるとき、デツン
ーブには本がかぶり、その上に重いスチールの書棚
と突き上げるような地震(?)が何回かあり、3 号
がかぶさっているらしいことが、容易に想像できた
館の下の地盤が異常な状態になっているのではない
からである。本と本の隙間から赤々と反射した炎が
かと感じたことがあった。近々、大変なことが起こ
見えた。しかし点火スイッチには手はまったく届か
るのではないかという思いがあった。
ない。じゃあガスの元栓を止めるしかない。元栓の
10 月 23 日の地震が発生する頃は、教官室でコン
上には瀬戸物の洗面台が捻じ曲がってかぶさり、そ
ピューターに向かって仕事をしていた。この時、最
の下に本が山になって詰まっており、隙間から手を
初の揺れでどぎもを抜かれた。余りの揺れの強さで、
伸ばしても、もう少しのところでとどかないらしい。
ただならぬことと直感し、とっさに机の下にもぐり、
洗面台の給水管は破れて水がしゅうしゅうと噴き出
机の脚をしっかりと握っていた。揺れはますます強
しているようだ。元栓の周りの本を少しずつ引っ張
くなり、3 段積みの最上段の書棚が次々と降ってき
りだして、体が入り込めるような場所をせっせとつ
て、ものすごい衝撃とガラスの破れる音が、背中を
くった。ようやく元栓に手が届いた。
18 ­新潟県中越地震体験記
再び廊下へ出ると、向かいの部屋から卒研生が出
いたようだが、家族は誰もいないようだった。被害
てきた。一刻も早く、ガス、水道や電気を止めない
の程度を確認する心のゆとりはまったくなかった。
と大変なことになると思い、守衛室へ卒研生から携
近くの公園には大勢、人が非難していた。まだ大き
帯で電話をしてもらったが、守衛室は誰も出なかっ
な余震がたびたびあり、あたりの建物がきしんだ。
た。何回電話しても出なかった。こんなことでは建
避難民の中から、家族を探した。
物の管理はできないのではないかと疑問を感じた。
やっと家内と娘が無事であることがわかりとりあ
次に家のほうに電話を入れてもらった。しかし、こ
えずほっとした。その夜は自分の車に寝ることにし
れは通信不能のようだった。ここまでひどい地震に
た。しかし、足を伸ばすことができず、また興奮し
なると、電話も役に立たないとわかった。
ていることもあって睡眠をとることができなかっ
家へ帰ることにしたが、道路は多分、陥没してい
た。翌日は、我が家のライフラインを点検したが、
て、自動車で帰るのは無理ではないかと思った。悠
電気・電話・水道・ガス・下水道すべてのライフラ
久山の成田屋まで歩いていった。長倉方面から自動
インが不通になっていたため、市内の中学校で避難
車がきたので、通行できるのかとたずねた。車は通
生活をすることにした。ただし、飼い猫のジュピタ
れるとのことだった。そこで再び学校へ戻り、自動
ー(=^・^=)君は、避難生活に適応できないため
車で家へ向った。暗闇の中で、我が家は一応立って
留守番をさせた。 平成 17 年 3 月 20 日
蓬平温泉の露天風呂に浸かっていました
佐 藤 國 雄
その日は、土木工学科 2 期生の同級会が蓬平温泉
この温泉近くの橋が落ちたので長岡へは通行不能」
蓬莱館であった。総勢 17 人、宴会まで 30 分ほど間
ギョッとしたが「明日は、山古志をまわって帰れば
があるのでみんなで風呂に入っていて、私は 5、6
いい」などとのんきなことを言っていたら、ヘリが
人と露天風呂で歓談していた。そこへガーンと来た
何機もやってきた。さすがにまずいことになったと
のです。ものすごい衝撃音がしたので、瞬間、直ぐ
思ったが、とにかく正確な情報が入らない。東京か
そばに飛行機でも墜落したかと思った。湯に浸かっ
ら来た一人が自宅に携帯がつながり、ようやくテレ
ていたため、揺れはほとんど感じなかった。とにか
ビ報道を聞くことができた。自宅に携帯がつながっ
く、裸で逃げるわけにもゆかないので脱衣場へ走り、
たのは翌朝だった。
パンツを探した。脱衣場は、非常灯がついていたが、
炊き出しの朝食をいただき、旅館から追い出され
蛍光灯の傘が落ちていたり、服が散乱したりでかな
たわれわれは、徒歩で帰ることにした。全員現役の
り混乱していた。
「皆さん大丈夫ですか !」と旅館の
土木技術者で、選ばれた 2 人が 2 キロほど先まで偵
仲居が駆けつけて来たが、スッポンポンのわれわれ
察した結論だった。途中、がけ崩れの上を越えたり、
を見て「どうも失礼しました」と、あわてて戻って
火災で全焼した家、ほとんど崩れた石垣、大きく傾
行った。
いた家、強烈な匂いの酒屋、新幹線が横倒しになっ
その後は部屋に戻ることが許されず、宿泊客全員
ている下も通った。見たこともない光景ばかりだっ
1 階のロビーで浴衣、丹前で過ごした。第 1 回目の
た。村松で皆さんと別れた私は、幸運にも越路橋の
情報は、夜 8 時頃「震源は津南町」という。私の家
手前で車に拾っていただくことができた。東京をは
は小千谷、だいぶ離れているので、少し安心したの
じめ遠くから来ていた人たちは、帰宅するまで大変
もつかの間、第 2 報は「震源は小千谷、壊滅状態。
な苦労をしたことを後で聞いた。
新潟県中越地震体験記­ 19
中越地震と調査研究活動
尾 上 篤 生
10 月 23 日土曜は、新発田市勤労福祉会館に集ま
った中学生達とそのご父兄達と共に、ペットボトル
を使った砂の液状化実験を行って夕方学校に帰って
きた。この実験のテーマが「ワッ ! 地震だ !」であ
ったことは、偶然であった。学校帰着後、自分の研
究室で論文査読を始めて暫くして、突然の地鳴りと
それに続く経験したことのない激しい揺れに、もし
や校舎が潰れるかと、咄嗟に机の下に潜り込みまし
た。
その直後机上のものは全て飛び、壁にネジ止めし
てある書棚が倒れ書類等に埋もれましたが、ストー
ブの周りに山となった書類を見て、 ガスを止めら
れるのが先か、書類が燃え上がるのが先か と、咄
嗟に書類の上を滑りながらもストーブまで這って辿
3 号館 1 階 コンクリート実験室天井 建屋長手方向
への引張破壊、亀裂が天井で約 20cm。梁も引張破壊。
り着き、ストーブを止めた直後に 2 回目の地震。再
び這って机の下に逃げました。それが収まって、
「逃
響と共に全て崩れていましたので、揺れのみならず、
げねば…」と閃き、履物も見付けている時間は無い
その音の凄まじさに、犬ながらやや心身症になって
ので靴下で書類の上を何とか渡り、廊下に出まし
しまったようでした。その後、テニスコートに集ま
た。防火扉が閉まっていましたが、押したら開いた
った寮生 200 名を食堂、次に体育館に避難させ、
ので一階に降りたら水道管から水が噴出し、水浸し
土曜・日曜は体育館で夜を明かしました。月曜に寮
のタタキを走って玄関の扉を開けて校舎の外に出ま
生達を帰省させ当分臨時休校とし、教職員で校内被
した。玄関のガラスは割れていました。
害調査を行ったところ、全ての研究室・実験室は書
図書館と二号館を結ぶ渡り廊下の下に居たら 3 度
棚・PC など倒壊率 50 ∼ 80%、実験装置・計測器・
目の地震が起こり、 ここも危ない ! と、校舎間(一
データの損壊・消失甚大でした。
号館・二号館・中央棟に囲まれた)の駐車場に逃げ
建物診断を外注しましたが、耐震診断結果がでる
たら、渡り廊下のサッシ窓が落ちて来ました。次い
までに時間が掛かり、それまでは校舎(旧 3 号館))
で、一号館前に飛び出してきた教職員達と雑談する
が二つに千切れて 1m 弱水平変位した土木棟には立
中で、経験も想像もしたことの無い激しい揺れだっ
入り禁止となってしまい、研究室、実験室の片付け
たので、「震度 6 プラスだろう」とやや適当なこと
すら出来ません。26 日からはなす術が無いので教
を申しましたが、後になってやはり高専は震度 6 強
職員は交代出勤となりましたが、小生は安全な校舎
だったことが分かり、 自分のセンスはまあまあか
で寝泊りし、常時キャンパス暮らしを始めました。
なッ ? 等と感じました。多分最初で最後の大地震
27 日は、営業の噂を聞いて地震後初めて 15 キロほ
の経験でしょう。
ど離れたスーパー銭湯に行って垢を落としたのです
官舎に帰ったら、犬のラビは落ち着かず、余震の
が、上がって服を着ている最中に物凄い余震が発生
たびにクルクル回るばかりでした。家財道具が大音
し、衣装ボックスに頭を突っ込みました。
20 ­新潟県中越地震体験記
学校に詰めていると、全国からバックパック姿の
究や議論は実を結んで、論文が 10 編ほど出来まし
知人達が被害調査でキャンパスを訪れて来るので、
た。持つべきものは、スポンサーと友人であると改
案内したり談笑したりしていましたが、自分の専門
めて感謝しています。
も地盤と振動ですから、いつまでも学校に詰めてい
阪神淡路大震災の直後は、会社の調査団が組織さ
ては仕事にならないので、27 日にキャンパス周り
れるかどうかの結論がなかなか出なかったので、金
の被害調査を皮切りに学外に出るようにしました。
曜日の勤務後に東京駅から夜行高速バスで大阪に行
一旦ラビを直江津・長野経由で東京に帰して、やが
き、そこから神戸に移動して土日に調査してまた夜
て校務の合間に研究者仲間や友人の技術者達ととも
行高速バスで東京駅に月曜の朝帰り。東京駅の東京
に、中越全体の本格的調査を始めました。30 代で
温泉に入って会社に出勤すること 3 週間でした。そ
日本海中部地震、千葉県東方沖地震、40 代で阪神
の後は会社の調査団に加わって平日の調査が会社経
淡路大地震の調査を行なってきた会社員時代の経験
費で出来たり、海外の研究者などを案内したりしま
が活きました。調査にはお金も掛かるので、文部科
したが、地震調査は早期が命。時間が経過したら事
学省振興調整費を申請して、そこそこの資金の手当
実が分からなくなります。そして、事実の見聞・把
てを受けましたが、調査のための交通費は出ないの
握はお金では代えられません。普段貯金して、いざ
でポケットマネーは湯水のように無くなっていきま
というときに貯金をはたいて自分に投資する。変な
す。しかし、他大学や企業の友人達と進めた調査研
自己満足ですが。
地震体験・震災体験
塩 野 計 司
たしかに地震には遭ったのだけれど、私の家の中
で、いまの私は、もう(少なくとも、もう少しのあ
で壊れたものはといえば急須の「ふた」が 1 枚だけ
いだは)あまり余分なことはしたくない、と思って
だったから、被害に遭ったという気はしていない。
いるのかも知れない(でも、余分なことって、何だ
だから、震災の体験記を書きなさいと言われても、
ろう ?)。もし、そういうことなら、これが私の「震
書くことなんてないよと思って、ずっと手を付けな
災」だろうということになる。
いでいた。
その一方で、地震からは 2 年以上もたって、その
それに、このごろの私は、何時からなのかも、何
分だけ自分が年をとって、「あれにも、これにも」
故なのかも分からないけれど、何かにつけて調子が
と関心を持ち、「あれも、これも」とやってゆく力
よくない(決定的にわるいかというと、そうでもな
をなくしているせいなのだとしたら、それは地震に
いから、よけいに始末がわるい)。そんな状態がずっ
は関係がなく、震災とはまったく別ものだというこ
と続いていて、あまり余分なことはしたくない、と
とになる。
いう気持ちになっている(でも、余分なことって、
いまの私の不調は、震災体験なのか、加齢体験な
何だろう ?)。だから、書きなさいと勧めてもらい、
のか分からない。どちらともつかないのが苦しいけ
そんな声が掛かることなんて、めったにないことな
れど、この苦しさまでを「地震のせい」や「震災」
のだからと、心のどこかでは思っても、書き始める
にすることは、できそうもない。
エネルギーが貯まらずに、ほったらかしにしてあっ
2007 年 3 月 7 日(地震から 865 日目)
た。
地震のあとは、私も人並みに忙しくて、その反動
新潟県中越地震体験記­ 21
中越地震雑感
宮 腰 和 弘
中越地震(2004)は、新潟地震(1964)に比較
情報(テレビ、ラジオ、ETC 等)、電気いろんな機
して余震が大きく長期にわたったのが不安な状況を
能が付いており、そのうえ地方部で大型化したワン
作り出した一因だと思う。ただ、阪神淡路大震災に
ボックスタイプの車が多く普及していたのも要因の
比較して分散のメリットが各所にあったと思われ
一つであろう。
る。建物が大幅に壊れていない限り、トイレが使用
地震の専門の人の話では、災害発生後、2、3 日
できた。食料や水も市街地を除いて周辺の集落部で
持てば救援物資が来る、という話であるが、多分ガ
は、確保されていた割合が多い。また、阪神大震災
ソリンスタンド再開直後に、多くの自家用車が給油
では危険とされた自家用車の使用が非常に多かっ
に行ったことは、これまでなかったことであろう。
た。避難時の居住用に多くの人が使用してエコノ
集落の場合、孤立して困ったのは、「老人の薬と
ミークラス症候群が心配されるほどであった。
赤ちゃんのミルク」だという。極めて自立性が高い
自家用車については、建物の火災が少なかったこ
ことはが確認された。燃料も水も食料も何らかの形
とが、その使用を可能にしたと考えられる。特に避
で数日は、確保できたようである。例えば、ガス、
難時、道路等が混雑しなかったことが、避難所や農
新潟県では都市ガスが県内での多量の算出により当
道、公園などいろんな所に停めて余震を避けること
たり前になっているが、他の地方都市の場合は、プ
に使用するのを可能にした。自家用車には、暖房、
ロパンガスがその役割を担っているところも少なく
テニスコート脇の崩れ落ちたブロック塀
22 ­新潟県中越地震体験記
ない。市街地でガス管が敷設されている地区より、
れていた。これにより余震の震度、停電の状況、被
周辺部でガスが来て居らずプロパンガスを使用して
害の問い合わせ、避難所の設置連絡などが行われ
いる地区では、燃料は特に問題はなかったはずであ
た。通常、朝、昼、夕方の時間を告げる音楽が流れ
る。
るだけ、という行政放送だったが、この時ばかりは、
家が壊れない限り、田舎の集落に住む方が震災に
役に立つものだと思った(防災用だから当たり前だ
は、強いのではないか。
が)。夜間に震度 3 以上の余震があると直ちに放送
逆に復旧の場合には、農地を含めた広範囲な地域
が入る。これで、揺れの状況と震度が想像できるよ
が対象となるため時間がかかる。特に今回の震災
うになった。
は、地盤面での被害が大きかったことも影響してい
長岡市では、FM 放送の有効性が確認された。手
るが、旧山古志村では、避難指示がすべて解除にな
軽なメディアによる小回りの利く連絡体制の整備
るのに、平成 19 年 4 月までかかった。農山村では
は、重要なことと思われた。ただ、双方向の情報の
コミュニティの維持が高齢化に伴い難しくなってき
やりとりは、時間がたたないと難しいようである。
ていたところに震災でその状況が加速した。
中越地震では、多様な避難形態がみられた。分散
自分が住んでいる集落にも老人だけの世帯はかな
型の居住地域では、避難時には使用できない自家用
りある。震災時は、周囲の人が確認していたし、消
車が、
路上以外のところで異なった役割を果たした。
防団も安否確認をしていた。とにかく震災による状
道路網が寸断されない場所では、その他の物資の入
況把握が問題だった。近所の人たちは、田圃近くの
手にも利用が可能であった。また、行政無線や地域
路上に集まり、集団で余震を心配していた。停電に
FM の様な小回りの利くメディアの整備も必要であ
よりテレビは使用が不可能(ワンセグはなかった)
ろう。しかし、長岡市では、現在も周辺部の集落で
車のエンジンをかけてカーラジオをならしていた。
は、その放送を聞くことができない。
情報の入手先は、それだけであった。他には、長
その他、電気の問題、携帯電話の使用についてな
岡や柏崎から帰宅してきた人たちの話しかなかっ
ど他にもいくつか問題がみられた。今回の災害の場
た。ただ、他の地域と異なっていたのは、防災用の
合、地盤災害が多く、集落とコミュニティの回復に
行政無線が、各戸および屋外のスピーカで流された
は、時間とお金だけでは解決できない問題が多く含
ことである。
まれている。その集落、その集落で固有の状況があ
集落がある柏崎市周辺は、柏崎刈羽原子力発電所
り、それぞれが特殊解になっている。これについて
がある関係で十数年前に全戸に個別受信機が設置さ
は、
その集落の住民しか理解できないかもしれない。
中越地震を経験して
田 中 一 浩
地震当日、新潟の実家にいた。新潟も大きく揺れ
土台となる地盤が地滑りを起こしていた。しばらく
た。見附の自宅ではいくつか食器が割れ、倒れた家
避難勧告がでて、立ち入ることができなかった。中
具により壁に傷がついた程度であった。ただし、近
越地震を経験して、学んだことは多い。その中から、
くの国道 8 号は大きな段差ができ、しばらく通行止
3 つ。一つ目は、実家に避難できたこと。少し離れ
めであった。電気水道は 2 日ほど止まり、ガスは 1
たところに頼ることができる親戚や知人がいること
週間ほど経ってやっと復旧した。
は本当に助かる。見附のライフラインが回復するま
高専の状況は壊滅的であった。建物にひびが入り、
で、実家で生活することができた。同じ年に起きた
新潟県中越地震体験記­ 23
水害のときも、数日避難することができた。
は学生寮担当委員の一人であった。学校再開のため
二つ目は、家具転倒防止措置は必要。自宅の転倒
には、学生寮の再開が必要であった。大きな被害を
防止措置をした家具や家財は無事であった。後日、
受けた寮の建物に長時間立ち入ることはできなかっ
神戸の震災で家具の下敷きになった死亡例が少なく
た。そんな中で、決められた時間内に各自の荷物を
ないことがテレビ番組で紹介されていた。中越地震
まとめ搬出する作業が数日続いた。連日の作業に、
は夕方であり、寝ている人もほとんどいなかっただ
寮長をはじめ役員は、遠い自宅から駆けつけてくれ
ろう。もし、睡眠中であったとすれば、被害はもっ
た。不平・不満等もらすこともなく、積極的に協力
と大きくなっていたに違いない。寝室に重い家具を
してもらった。その後、復旧工事の進展に伴い、何
置く気にはなれない。
度も引っ越しが行われた。その際も、寮生は一丸と
最後は、頼りになる学生(寮生)たち。当時、私
なって作業にあたり、大変頼もしかった。
中 越 地 震
― 平成16年10月23日 土曜日 午後5:56∼ ―
土 田 勝 範
1 回目
電話口に出て、
「へぇーそうなの。こっちは、なん
ガスコンロの元栓を締め、TVを見ながらイン
ともないよ。地震なんだ。ふぅーん。
」という感じ
スタントラーメン(通称 袋麺)を食べていると大
だった。とにかく、TVで状況を見ておいてとだけ
きな衝撃に襲われる。なんとなく近くで大きな音が
伝え、電話を切った。
した。トラックが家に突っ込んだぐらいはあるぞ !
次に、水が出るか確認した。ライフラインの確認
という状況でした。幸いにもラーメンはほとんど食
である。残念ながら、一滴も出なかった。配管がど
べ終わっていたので火傷はなかった。とにかく、外
こかでダメになったんだと考えた。
に出て実状を把握することにした。
次は、職場の三号館に向かう。地面の地割れが酷
外に出て気づいたことは、駅の方向の明かりが
く、とても入れそうになかった。「学生寮の学生は、
ついてないことだった。これは、長岡市全体の出来
どうしてんだ。」と頭が仕事モードに切り替わる。
事なんだ。とにかく、水が出るか確認しようと思い、
学生寮に全力で走った。
家に戻った。
学生食堂に全員揃っていた。点呼がすんだところ
2 回目
家に戻り、ふと気づいたことは、自分の家の電気
はついていることだった。TVのチャンネルを変え
ようとした。そのとき、とてつもない縦揺れが襲っ
てきて、私は、近くの柱と壁にしがみつき身を委ね
るしかなかった。
その後、横揺れが襲う。この横揺れは、1 回目の
時より衝撃は少なかった気がした。しかし、縦揺れ
が非常に長く感じた後の横揺れだったので、心は落
ち着かなくなっていた。
実家の両親に報告しようと電話を掛ける。母親が
24 ­新潟県中越地震体験記
校舎が停電し、
暗やみの中で届けられる支援物資を運ぶ教職員
と聞き、ほっとした。食事のことを気にしてくれた
体育館の中で片桐施設係長が暖房設備を用意して
人がいて、むしろ皆さんでと答えた。尾上先生と一
くれて、その周囲で暖をとることができた。毛布な
緒にこれだけの人数が一晩過ごせる場所を探しに、
どがないのと最小限の荷物を取りに行きたいと寮生
懐中電灯を借り探した。とにかく物が少ない場所と
から連絡があったので、私も人数確認要員として手
第一体育館に行く。蛍光灯などが落ちてガラスの破
伝う。長岡市から救援の毛布が届くが、人数分はな
片があったのですぐに諦めた。第二体育館はどうだ
かったが学生同士仲良く分け合い眠れぬ一晩が過ぎ
ろうと、ごく自然に会話もなく向かった。床にガラ
ていった。(私は宿舎に戻り、落ち着ける場所で布
ス片がなかったことを伝え、ここで一晩過ごすこと
団に包まった。)
に決定された。
積雪寒冷地域で起きた新潟県中越地震
猪 爪 高 見
1.はじめに
も達する事が、倒壊の要因の一つとして挙げられる。
2004 年新潟県中越地震は、豪雪地帯の山間地域
を震源として発生したため、特徴的な被害をもたら
表1 新潟県内の主な地震
した。新潟県は、日本列島有数の活構造地帯である
1762 年
佐渡付近の地震(M7.0)
事が専門家の中では広く知られており、表 1 に示す
1802 年
小木地震(M6.8)
様に多くの地震が発生している。
1828 年
三条地震(M6.8)
阪神淡路大震災の様な都市型の被害とは異なり、
1927 年
関原の地震(M5.2)
元々地すべりが多い地域であった為に斜面災害が
1933 年
小千谷地震(M6.1)
多発した。国土交通省によると斜面崩壊箇所数は
1961 年
長岡付近の地震(M5.2)
3,800ヶ所以上と言われている。幸いにも積雪時の
1964 年
新潟地震(M7.5)
地震ではなかったが、積雪寒冷地域で発生した地震
1992 年
津南の地震(M4.5)
であると云う事が、大きな問題であると危惧され
1995 年
新潟県北部地震(M6.0)
た。本地震による被害総額は約 3 兆円と言われてお
り(新潟県調べ)、人的被害、住家にも被害を多数
2.被害状況
もたらした(図 1 参照)。
地すべり被害が多かったが、大部分は表層土砂す
2004-2005 年冬期は 19 年ぶりの豪雪であり 3m
べりが多い。具体的な事例として高町団地では、山
以上の積雪が見られた。さらに、2005­2006 年冬
砂で盛土した部分で斜面崩壊を起こし家屋や道路に
期は、
「平成 18 年豪雪」と命名される程の大雪となっ
被害をもたらした。また、山古志村を流れる芋川流
た。これらの豪雪は、地震との複合災害の様相を呈
域では、斜面崩壊のため 5 ヵ所で天然ダムが形成さ
し、地震被害を拡大するとともに、復興を遅らせる
れた事や高速道路等の盛土の崩壊や盛土と橋梁部分
要因となった。具体的には、旧山古志村等において
など構造物との境での沈下被害、さらに、山や地盤
地震で仮設住宅への居住を余儀無くされ、避難勧告
の至る所で大きなクラックが目立って多かった。
が解除されずに豪雪となり屋根雪の除雪が行なえな
相次ぐ大きな余震によって復旧作業が遅れ被害が
い状況から、家屋の倒壊を招いた例が見られた。ま
拡大した事も特徴的である。大きな余震が長く続い
た、この中越地方の雪の密度は重く 2 ∼ 5kN/㎥に
た為、人々のストレスが更に増しエコノミークラス
新潟県中越地震体験記­ 25
図1 新潟県中越地震による被害状況(新潟県内)
症候群(深部静脈血栓症)を引き起こしてしまった
原因の一つであると考えられる。しかし、長岡警察
では、このエコノミークラス症候群に対して、注意
を呼びかける等の措置が取られおり 1)、被害は多少
軽減したのではないかと考えられる。
3.応急復旧に関して
関越自動車道を始めとして道路盛土や宅地の盛土
が至る所で崩壊した。新幹線については、車両が脱
線した事も大きいが、予想もしなかったトンネル内
のコンクリートが剥離した事や、また倒壊する危険
図 2 入広瀬(新潟県)の日最深積雪量
が有る程に高架橋の柱が地盤の液状化現象で根元の
部分でせん段破壊している。このようなコンクリー
5.おわりに
ト構造物は、壊れないように造る事は勿論の事であ
筆者の体験談として、新潟県中越地震時は自宅で
るが、復旧に時間がかかってしまうという大きな問
くつろいでいる状態であったが、本震直後は電話の
題がある。関越自動車道は、盛土が崩れ一時的に通
繋がりが悪く、家族と連絡を取るまでに 1 時間以上
行不能になったが、盛土によって作られていた為、
かかった。余震が頻繁に続き、その都度停電する状
復旧が早かった。また、救急搬送、救援物資輸送を
況であったが、電話以外の通信手段として電気さえ
目的とする緊急車両のみの通行であったが、地震の
来ていれば、インターネットが使用できる事は確認
翌日 24 日には約 800 台が通行した事は、被害を軽
した。本震直後は、身の危険を感じながらもガスの
減したといえる。
元栓を閉める等の措置を取り、屋外から自宅および
周辺の住家、自宅の柱・梁・壁等の被害状況を確認
4.地震後の豪雪
した。幸いにも個人的な被害はそれほど酷く無く、
例えば、図 2 は、入広瀬における日最深積雪量の
書棚が 1 つ倒れパソコン部品等が多少壊れ、皿が数
グラフである。2004-2005 年冬期(19 年ぶりの大雪)
枚食器棚の中で落ちてその棚のガラスを割る程度で
および 2005-2006 年冬季(平成 18 年豪雪)共に、
済んだ。
平年値と比較して最大で 1.5 倍程度である。2004-
夕食の準備は地震前に整っており、その日の食事
2005 年冬期は、12 月に雪が殆ど無く、応急復旧の
に困る事は無かったが、周辺の状況確認を含めて数
猶予が与えられた事が幸いしている。
時間後余震の頻度が少なくなり食料品店等に立ち寄
26 ­新潟県中越地震体験記
るが、酒類・飴等を除く飲料・食料品等の殆どが無
興を望んでいる。
い状況であり、この震災により住民の混乱を招いて
̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶̶
いたと考えられる。
1)新潟県警察本部 : 護光 , 特集 新潟県中越大震
地震から 2 年 4 ヶ月程度経過したが、今尚仮設住
災警備 , 平成 16 年 12 月平成 17 年 1 月合併号 .
宅を住家としている人々の心身は勿論一日も早い復
地 震 体 験 記
佐 藤 和 秀
地震発生
人、人でとても妻を見つけられそうもないと思いな
長岡駅の裏、日本精機ビルの交差点で信号待ちし
がらも、十分ほどで幸いにも会うことができた。さ
ていたらグラッときた。突風かと思ったがすぐ地震
すがに橋を引き返すのは止めて、殿町の方を遠回り
とわかった。10 月 23 日夕方5時 56 分。
して、母の待つ車に到着。妻の車はダイエーの駐車
徳山高専の認証評価の訪問調査を終えて、前日夜、
場に止めたままという(数日後にとりに行くことに
大阪空港から新潟そして長岡に帰ってきた。10 月
なる)。
19 日の母の 90 歳誕生日祝いをできなかったので土
駅より4km の悠久山の我が家に母と妻を乗せて
曜日のこの日、長岡駅近くでお祝いの夕食をするつ
ゆっくり車を走らせる。町は停電で真っ暗だ。前を
もりだった。小千谷市片貝町にいる母を自分が車で
行くバスが時々地震で左右にゆらゆら揺れる。中沢
迎えに行き、長岡駅前で妻と落ち合う予定だった。
三叉路までくると通りが明るくなる。なぜかこの辺
交差点の信号も変わったのでたいしたことないと
は運良く停電していない。ホッとするのもつかの間、
思い、駅裏のダイエービル屋上の駐車場へ入ったと
道路が波打ち、亀裂が走り、車がまっすぐ進めない。
ころ、また大きな揺れが来た。建物がミシミシ鳴り、
電柱が傾き、マンホールが飛び出ていてぶつかりそ
コンクリート壁にむき出しになっている配管類が揺
うになる。がなんとか家にたどり着く。
れ、水が噴き出している。電気系統がダメになり駐
留守にするので鍵をかけ戸締まりしたはずの玄関
車場から出れなくなったら大変と、す
ぐ1階に下りた。幸いにシャッターが
あがり道路に出られた。揺れが続くの
で夕食どころではない。
母を車に残し、妻に連絡に行こうと
歩き出す。駅東口から跨線橋から行く
べきか迷ってしまう。もし途中でまた
地震が来て落下しないか?遠回りして
殿町の方を回って行くべきか・・・。
しかし突っ走って跨線橋を渡る数秒
間、地震の確率は少ないだろうと勝手
に判断し、一目散に誰もいない跨線橋
を突っ走る。
駅前は人々でごった返していた。人、
飛び出したマンホール
新潟県中越地震体験記­ 27
の戸が、そしてあちこちの窓も開いている。おまけ
の道路に 30cm ほどの段差の亀裂ができ、隣の家と
にほとんどの部屋の明かりがついている。泥棒が
の境界を貫いている。我が家の下を通ったらと思う
入ったと思ったほどだ。その後長く続いた地震でわ
とゾッとした。反対隣の家はコンクリート車庫が傾
かったことだが、地震で家が揺れ始めるとロック式
き、家の土台基礎もやられていた。家の左正面の家
の鍵は変形して外れてしまい、窓が開いてしまう。
は傾いている。屋根瓦が壊れている家が多い。近所
すごい力である。各部屋の蛍光灯がついていたのは
の家々は 2 ∼ 3 割が「全壊」と判断された。近くの
今でも原因不明だ。近所の長岡技大の電気の先生の
中学校体育館に避難した家も多かったが、体育館の
家も灯りがついたが、電気の先生もわからないとの
方が危険かもしれないと思い、家に留まり車と車庫
ことだった。
生活となった。
幸いなことに電気が止まったのは数日間だけで、
被災状況と生活
電気釜でご飯が炊けた。水道は断水していたが、家
家の中は家具が散乱し、テレビが転がり、棚から
に東山からの清水をいれたペットボトルが 30 本ほ
全ての本が落ち、コップ・皿が飛び散り、足の踏み
どあり大助かり。電話は通じたり通じなかったり、
場もない。時々続く地震が不安にする。毛布を引っ
思いもしない方から、励ましの電話はありがたかっ
張り出し車に眠る。その日から妻と母と数日間は車
た。
での寝泊まり、その後、車庫生活が始まった。寝袋
家の中の整理を始めたが、ガラス破片が飛び散っ
を家で使うようになるとは思いもしなかった。
ていて軍手が血で赤くなり、皮手袋に変えた。整理
明朝、周りの実態がさらに分かってきた。家の前
してもグラッと来て本や食器が、また落ちてしまう。
その後は本などは紐で縛ったまま床に置いた。東京
から子供や姪達が、上越線は湯沢 - 長岡間が不通な
ので福島、新潟回りで応援に駆けつけてくれた。ま
た上越の友人が沢山の料理と食器、寒いだろうと暖
房機器具を持ってきてくれた。気がついてみれば、
ずーっと着込んでいたセータは汚れが目立ち始めて
いた。
南極観測隊での友人が新鮮な魚を送ってくれた。
不思議なことに宅急便は届いた。4 ∼ 5 日して車を
動かし、なんとか駅方面に行ってわかったのは我が
我が家前の断層
家のある地域が長岡でも特に被害がひどかったこと
であった。最初のころ、携帯テレビで駅近くの避難
所が映り、どうですかとアナウンサーが尋ねたら「ぜ
んぜんたいしたことありません」と答えていた市民
がいたが、ようやく納得した。レストランも普通通
りに営業していた。
その後、マスコミはより被害のひどい「山古志」
に移り、次に被害の大きい東山地区は忘れられて?
いく。中学校の体育館に避難していた方の事情はわ
からないが、車や車庫生活していた私達の所に給水
車がきたのは4日後の 27 日の朝だった。バケツや
ポリタンをぶら下げて近所の人と給水車の所で並ん
でいると、グラッときて思わず腰を屈めた。と「バ
車庫生活
28 ­新潟県中越地震体験記
キッ」!?「バシッ」と鋭い音と共に目の前の地面に
蒼柴神社石橋
悠久山泉翠池
学校裏の道路
亀裂が走った。映画のシーンに自分が居るような感
じであった。見たら 5mm 巾の割れ目が 15m ほど道
路表面にできていた。「5強」の地震だった。食事
も苦労しているその頃、近くの児童館前で月潟村の
消防隊が豚汁を振る舞ってくれた。暖かくて美味し
くてありがたかった。始めての「公」からの援助で
傾く電柱
あった。会津からの給水車もやってきた。30 日夜、
8日ぶりに市内の銭湯に入りに行ってきた。あっと
トイレが使えるようになった。顔も洗える。たまっ
いう間に1週間が経っていた。
た洗濯物をさっそく洗う。11 月3日、ガスが使え
トイレには参った。水洗トイレもバケツで水を
るようになる。水、火のありがたさをしみじみと知
注ぎ込めば流れるが,そんなに水がない。24 日,
る。南極でもそうであったが。
家の後ろの庭一角に 30cm 辺の穴をスコップで掘っ
震度もテレビ画面のテロップに出る前に「震度 5
て,当面使用することにした。スコップを地面に差
弱」「4 強」と当たるようになった。またテレビに
し込んで穴を開けたら,みるみる水がしみ込んでき
でる震度に 0.5 位プラスすると、自分の居る悠久山
て水で満たされた。水道の配管がやられたと思った,
地区の震度に相当すると思った。余震が 1 ヶ月以上
がそうではなかった。いわゆる液状化の水だ。庭の
も続き、私はだんだんに鈍感に、妻は鋭敏になって
あちこちに液状化現象を示す小さな円形の噴水跡が
いった。母に怖くないかと聞くと、長岡の空襲の時
見られた。31 日、水道から水が出るようになる。
に比べればたいしたことはないという(1945 年 8
新潟県中越地震体験記­ 29
月 2 日の米軍の空襲で長岡市学校町にあった父母が
か。2 階の廊下の亀裂からは一階の廊下が見える。
住んでいた家は焼失してしまった)。地震もいつか
校内のあちこちでぱっくり地面が割れていた。ガス
止むと頭の中では理解できるが、このように長く続
爆発のあった部屋の廊下側の壁は吹っ飛び、外側の
くとどうしていいかわからなくなる。
窓という窓はガラスのない窓枠のみ、隣の機械工場
家の中の整理も今ひとつ力が入らなかったが、倒
の窓ガラスもなくなっていた。人身事故が無く、幸
れたタンスを起こし、壊れた戸をはずし、本を束ね、
いであった。図書館の本棚は倒れ、本の散乱は見事
割れ物を袋に入れる整理が毎日、毎日続いた。寒く
という形容にふさわしい。校舎の太いコンクリート
なり、セータが欠かせなくなっていた。足の踏み場
柱には教科書通りの座屈による 45 度のひび割れが
のないほど散らばった所を歩けるようにしながら、
多くの場所で見られた。小高い丘を平にして建てら
広くもない我が家の 2 階の奥の部屋まで行けるよう
れた校舎の内、盛土の上の建物は地面共々、多くの
になるまで 2 週間も経っていた。あちこちの部屋の
被害が発生し、切土の上の建物は軽傷であった。長
壁のひび割れは、妻が調べたところ 200 以上もあ
い時間をかけた自然と短い時間の人工物の差異を思
ると言う。浴室のタイルにも亀裂が入っているが、
い知らせてくれた。
水漏れもしないのでそのままにしてい
た。水、ガスが復旧しても町内の電柱
はあちこちに傾いたまま、平衡感覚が
おかしくなりそうだった。
学校の様子
自分の家がままならず、5日ほどし
てやっと学校に行ってみた。その後も、
学校へ行くのはとぎれとぎれしか行け
なかった。学校までは歩いて 15 分ほ
どだが、近所の家々のダメージや道路
の亀裂、陥没が想像以上であった。
教職員が4号館 1 階の被害のない教室
に 10 時に集まり、校長、事務部長等
が中心にその日、その日の行動計画が
発表されていた。学生への連絡などの
項目が中心でないのが気がかりであっ
た。多くの支援物質が隣の教室に集
まっていた。
私の教員室のある 3 号館はひどくや
られ、壁に多くの亀裂が入り、廊下と
建物の間の亀裂からは中が覗けた。割
れたガラスの合間から見えた私の部屋
の中は本箱などが倒れ、入り口ドアは
開かなかった。あの時、部屋に居たら
圧死していたかもしれないと思った。
隣室の先生は部屋に居て、かろうじて
机の下に身を隠し難を免れたが、部屋
から出るのに 20 分以上もかかったと
30 ­新潟県中越地震体験記
私の教員研究室
時頃、何処に、どの程度の地震が起こることがわか
り、それを電報で地震前に知らせるということを題
材にしたものである。実際に昭和初期、京都府北部
の天橋立近くに住んでいた椋平廣吉と言う人をモデ
ルにした小説である。地震予知の 3 要素「時期、場
所、規模」を備え、気象庁長官であった藤原咲平も
椋平虹の研究を行っている。私が学生時代、三木晴
夫先生や狐崎長琅先生なども椋平虹に興味を示して
おられた。10 月 23 日、夕方、長岡駅前の混乱の中
3 号館の 1 階から 2 階が見える
にいたが、西方面の空が若干明るいように感じてい
た。その後、学生などいろいろな人に聞いてみた。
学生や保護者から、授業の見通し、家庭での勉学
空が明るく感じたと言う人もいたが、詳しいことは
の指示をと多く聞かれたが、混乱時の情報の把握、
わからない。魚沼出身の学生から、その地域で地震
収集について、大学紛争時を思い出した。5年生、
前にネズミの異常行動が見られたという。
専攻科の授業は長岡技大で、4年生以下の授業は破
私の母が小千谷に住んでいて、毎年、介護認定の
壊を免れた本校の教室で再開され、3月末の卒業式
面接がある。地震から 1 年後であるが、市の面接の
にこぎつけるという正に自然の、社会の激動の中の
方が片貝の母の家に見えられ、私も同席した。面接
生きた教育活動がなされた。
がすんでから地震の話題になった。その方は、10
月 23 日の夕方、来迎寺から片貝の田んぼの中の4
出張
km ほどまっすぐな道路を通って、小千谷に車で帰
11 月初め、行くべきか迷ったが、近畿大学付属
宅するとき、自分の車のライトの光が道路脇にある
高専の認証評価の訪問調査に行くことになった。長
数十メートル置きの反射板から目に入ってきて、運
岡 - 湯沢間の新幹線はじめ鉄道は不通なので、長岡
転が出来ないくらいで、徐行して走ったとのこと。
駅から湯沢駅までバスが運行するようになってい
反射光が曲がって目に飛び込んでくる感じで、普段
た。始めての経験である。途中震源に近い川口など
はそんなことがないのに、不思議に思ったが、30
を通る。道路があちこちデコボコや陥没している所
分後に小千谷に入って 5 時 56 分の地震が起こった
は徐行して通過する。山の斜面がばっさりそげ落ち
と言う話であった。
たりしていて生々しい光景が続く。多くの墓石が倒
地震雲の話が巷に飛び交っているようであるが、
れている。家々の屋根にはブルーシートが掛けられ
今のところ科学的根拠は不明であると言うのが真相
ている。
であろう。
出張中、ソファーなどで隣に人が座った少しの振
1964 年(昭和 39 年)、高校の時、
「新潟地震」を
動でもソレッ地震と感じることが何度かあった。湯
やはり長岡で経験した。地球の歴史では普通のイベ
沢駅から新幹線が出る。東京へ、そして名古屋。乗
ントも、人間にとってはいろいろなことを教えてく
り換えて紀勢本線ではるばる熊野市へ。朝、8時す
れた、そして、地球の 自然の中の人間 というこ
ぎ長岡をでて、乗り換え時間もあったが、夜の8時
とを、改めて気付かせてくれた「新潟県中越地震」
過ぎに到着でほぼ半日もかかってしまった。出張中、
であった。
長岡は余震の続く中、妻は一人で家に居るのは耐え
られないので、新潟市のホテル泊とした。
余話
新田次郎の小説「虹の人」は,ある市井の研究者
が、地震前に虹が現れ、その虹の形や色などで、何
新潟県中越地震体験記­ 31
震災直後、かろうじて無事な講義室で行われた教職員ミーティング
と
き
学生
その 瞬間
学
生
1
が床に倒れ、みんながパニックになりました。少し
H. A.
おちついても、建物がこわれるんじゃないかと思い
とても不安でした。外に出て見た光景は、とてもす
昨年の 10 月に新潟県中越地震は起こった。日本
ごいものでした。地面が凹凸になっていて、電線は
では阪神淡路大震災以来の大きな地震であった。し
切れ、バチッという音がきこえていました。しばら
かし、新潟では 1964 年 6 月 16 日にも大きな地震が
くしてから見たテレビでこの地震のすごさをしりま
起こっている。震源は、新潟県の北部沖でマグニ
した。
チュード 7.5 だった。新潟県では 20 人以上が亡く
なった。家屋の被害は 24 戸以上だった。
特に山古志村を見た時はおどろきました。連絡が
遮断され、しばらく、救援物資がとどかず、寒い中、
ところで、なぜ地震は起こるのだろうか。日本は
すごしている。何人かは精神的な病気になったとも
世界一の地震大国である。日本列島はプレートの沈
報道されていました。土砂崩れもあちこちでおき、
みこみ帯で強く押す力がはたらいている。地層は横
中には車が、土砂にうもれるということもありまし
から押されると変形し、そのような力に耐えきれな
た。
くなると岩石が破壊される。これが地震の原因であ
この地震を通して僕が思ったことは、今まで以上
る。過去の地震で地層が割れ目が生じ、これに沿っ
に災害対策や建築、道路の舗装に力を入れなければ
て両側が互いにずれているものが断層である。過去
いけないということです。それらを万全にすればこ
百年間にずれたことのある断層で、将来もずれる可
れから先に、大きな地震が起きたとしても、それほ
能性のあるものを活断層とよぶ。新潟県中越地震は
ど混乱せずにすむと思います。
この活断層がずれたことによって発生した。地震が
起こり、震源の近くでは道路が遮断されたり、電気、
水道、電話、ガスなどのライフラインが使えなかっ
たりした。土砂崩れや、河川が堰とめられるという
被害もたくさんあった。
T. A.
今回の中越地震は震度 7 と 10 年前の阪神淡路大
震災と同じレベルの震度だった。10 年前に比べる
山古志村では住民が仮設住宅に住むことを余儀無
と防災意識は高まっており、火の元を消す、高架橋
くされ、もう戻らないという人もいる。中越地震は
の耐震化工事など 10 年前の教訓によって、ある程
大きな被害を出し、今でも余震が続いている。ぼく
が、この地震で感じたのは防災が大事だということ
です。新幹線の線路のコンクリートは、あらかじめ
対策をとっていたらしいので、ひび割れくらいです
んだ。防災や防災計画をしっかりすれば被害が小さ
くなると思うし、これからぼくも少し勉強してみた
いと思っている。
K . A.
10 月 23 日に起きた地震で中越地区は大きな被害
を受けました。僕はその時、塾で勉強をしていまし
たが、その時のことは、鮮明に覚えています。大き
なゆれとともに、電気が消え、机の上の物や、本棚
食堂と課外活動教育センターの間にできた地割れ
(沈下量 約1m、巾1m)
新潟県中越地震体験記­ 35
度の被害をくい止めることができた。火の元を消す
人間の敵はこの地球の自然の猛威である。
という動作は阪神淡路大震災でかなりの火事が起き
たことによる。高架橋の耐震化は高速道路の高架橋
がなぎ倒されたことによるものである。この耐震化
R . I.
の工事は上越新幹線でも行われていて、幸い新幹線
昨年の 10 月 23 日新潟県では、中越地震という大
が営業中に脱線したものの、高架橋は倒れずに、乗
きな地震が起こりました。私はそのとき車の中にい
務員、乗客は無事助かったというのは奇跡に等しい。
てラジオで地震があったことを知りました。ラジオ
10 年前の教訓が今回に生き、また今後の来るべ
では長岡地方で大きな地震が起きたと聞いたので私
きに備えなければならない。また、今回と 10 年前
の地元(加茂)は大丈夫だと思って安心していまし
の違いは中山間地と大都市という大きな違いであ
たが、家の方に近づくにつれて外に避難している人
る。大都市部では比較的早く復旧するが、中山間地
達がいたり、近所の家の塀が全壊したりしていて、
での復旧は難しい。また土砂崩れダムや土砂崩れと
だんだん不安になりました。
いった山間地特有の被害も出た。日本の多くは山間
家に着くと祖母が割れた食器のかたづけをしてい
地であり、平野部は少ない。日本の地理的条件の違
て、加茂もだいぶゆれたんだなと思いました。私が
いが今回と 10 年前にある。数少ない人々に多額な
自分の部屋を見に行くと、棚の上においていた本な
お金をかけて、復興させるのはどうかと言われてい
どが落ちたくらいで、たいした被害がなく安心しま
る。しかし、そこは自分の住んでいる地域であり、
した。しかし、安心していたら 2 度目の地震があり
ふるさとであるからではないだろうか ? そのふる
ました。私は初めての地震に驚き動くこともできま
さとを復興するのが大事なのである。あの風景をよ
せんでした。
みがえさせるために今プロジェクトが進んでいるの
である。
その後は特に大きな揺れもなく落ち着いたよう
だったのでテレビを見ました。テレビを見るとどこ
例えば山古志に大きなテーマパークを造って町を
のテレビ局も地震のニュースをやっていました。そ
盛り上げようとしても、他からの非難をかうだろう。
れを見ていたら各地方の震度がでていて、それを見
しかし、そこに日本の原風景があったらどうか ? たら加茂市の震度は 5 弱、震源の小千谷市の震度は
棚田があり、ニシキゴイがいたり、闘牛がいたりと、
6 強と表示されていました。震度が 1 ちょっと違う
そして鳥インフルエンザによって、トキの全滅を防
だけではあまり揺れの差はないと思っていたけど、
ぐため他の地域にも放鳥する計画で山古志が名をあ
テレビで震源地近くの映像を見て本当に驚きまし
げた。山古志に求められるのは日本を忘れない地域
た。道路が陥没していたり家が壊れていたりしてい
である。時々山に行くと、素晴らしいと思うことが
ました。
たくさんある。都市の忙しい世界を抜け、そこに入
次の日は、加茂はあまり被害がなかったので普通
るとゆっくりと時間が流れているように感じる。そ
に学校に登校しました。学校は避難所になっていて
ういったいやされるような地域、魅力のある町こそ
20 人ぐらいの人が避難していました。その中には
が、他の人々を共感させるのである。
同級生もいてとてもかわいそうだと思いました。そ
地震とはいつ来るかわからないために常日頃の防
れからしばらくたって私は受験のため長岡に来まし
災意識が大切である。行政に頼らず、自らの力で解
た。地震の日から 3 ヶ月たっていたのでだいぶ復興
決していくことが大切なのである。次に来るのは
が進んでいると思っていましたが、高専の校舎はひ
ざっと 50 年ぐらい先かもしれない。しかし地球の
びが入っていたりしていてとても驚きました。私が
中で 50 年と言うと本当に一瞬にしか過ぎないが、
生まれて初めて経験した地震にとても驚かせられま
その一瞬の間に、常日頃からの意識を持つことが自
した。そして私はこれからこの環境都市工学科で地
らを守るのである。人間がどんなに富を蓄えても、
震に強い土木技術を身につけたいと思いました。
自然の猛威には勝てないのである。人間は地球と暮
らしながら地球と闘わなければならない時がある。
36 ­新潟県中越地震体験記
山同士がずれて、反発したことによ
る地震のようでした。
今回の地震では、50 人位の人が
亡くなりましたが、比較的早い時刻
におきたので、深夜におこるよりは
被害は少なかっただろうと思います
が、寒さも厳しくなり始める季節に
おこり、被災した方々は本当に大変
だったと思いました。直後は混乱
だったと思います。交通機関もスッ
トプしていましたし、大変そうでし
た。こういったことから、いつおこ
るか分からないのだけれども、常に
地震に備え、最悪の場合を想定して、
第二体育館に避難している学生(避難していた学生はほとんど自宅に戻った)
それを乗り越えれるくらいの準備は
必要だなと思いました。被害をふや
K . O.
さないためにも、建物に耐震策をしておかなければ
ならないだろう。地震の被害をもっと県外などにも
平成 16 年 10 月 23 日中越地震がありました。震
訴えて、国民全員が地震に興味をもち、それぞれが
源は新潟県中越地方(川口町)で、大きな揺れが何
地震に対する意識をもつことが被害を最小にくいと
度も起こりました。長岡市を中心に、大きな被害が
める方法だと私は思う。
でました。地震当時、自分は下越にいたので、震源
最近、地球では異常気象や地震などさまざまな天
地の方に比べれば、小さな地震でしたが、あとから
災が起こっているが、これも地球温暖化のように人
ニュースを見て震源を確認すると震源から 60㎞以
間たちが二酸化炭素を多く排出したのが原因だし、
上も、離れている場所でも、今までに体験したこと
自分たちの自業自得だと思うし、自分達自身がそれ
のないくらいの大きさで、本当に大きな地震だった
を食い止めるためにも、考えていかなければならな
んだなと実感させられました。現在でも家屋の倒壊
いと思います。
などで、仮設住宅に住んでいる人もいたり、多々問
題が残っています。最大で震度 7 を記録したところ
もありました。
S. O.
これから私たちが問題解決のため、これからの教
昨年の 10 月 23 日の夕方、新潟中越地区を中心と
訓にすべきだと思うのは、耐震に関する建策技術の
する大きな地震が起きました。僕は新潟市に住んで
向上や、大災害に備えての食糧や避難場所の確保。
いたので大きな被害はありませんでした。ちょうど
とにかく、自分自身で災害発生時に備え、なんらか
地震が起きた夕方頃、僕はクラブの大会から新潟に
の準備をしておかなければならないだろうと思いま
帰って来るバスの中で、市内のみなとトンネルとい
す。この学校で学んでいることから地震に対して、
うトンネルを通っていたようでした。というのも、
どんな対策が必要か、どうすれば、どのような建物
車だったので揺れに対して全く疑問を抱かなかった
の構造にすれば、地震に強い建物が作れるのか。地
し、そこまで大きな揺れを感じなかったのだ。しか
震発生時はどうするべきなのか、地震のメカニズム
し実際、中越では震度は最大 7 も出ていたし、新潟
などを学んで、中越地震を教訓にし、これからの地
だって、4 ∼ 5 弱ぐらいまででていた。しかもトン
震に備えたいと思います。授業で聞いていると、よ
ネルの中というのが本当に危なかった。帰りはまた
く分らないけれど、海のプレートの反発ではなく、
同じトンネルを自転車で通ったのだが、トンネル内
新潟県中越地震体験記­ 37
に整備員みたいな人が真剣な面持ちでトンネルの内
壁を調べているので、初めて不信感を抱いた。
家に着くと母親と姉が家のドアを全て開けてい
た。忙しそうな二人をよそに僕は道具を置いてすぐ
に友人の家に遊びに行ったのだが、友人宅で初めて
事の真相を知り、すぐに家に戻った。家に戻ると、
貴重品と衣類、食物がまとまった衣類ケースが玄関
の外に置いてあった。母親はあまりつながらない電
話で何回も実家へ電話をしていた。僕たちはもはや、
どうすることも出来なかったので、避難する必要も
なさそうだし、飯を食って、いつもの通りの生活に
戻っていった。
テレビを見れば長岡を中心に被害の様子などが報
図書館の南側にできた地割れ(深さ 1.0m、巾約 2.5m)
道されており、僕達は、しばらくはただただ可哀想
と感じるだけであった。しばらくすると被災地へ救
体を動かせる場所がなくなり、運動不足やストレス
援活動が始まり、自分の家からも、うちのクラブの
にも悩まされた。学校が始まっても以前に増して地
チームからも毛布が送られた。今では、だいぶ地震
震が起こった時の指導などがしっかりしてきたと思
も落ちついて、安心した暮らしを取り戻しつつある
う。
のだろうが、今長岡に住んでみて、まだ地震の傷跡
はいたる所に見られる。
自分は地震を軽くみていたところがあり、この地
震を実感したことにより本当の恐さがよくわかった
高専であっても今校舎を新しくしているし、裏に
し、別の地震で被害にあった人たちの気持もわかっ
ある神社なんかはボロボロであった。まだ完全に元
た気がする。また、ライフラインや食糧がとても大
の長岡に戻るには時間がかかると思うけど、住む
事だということを再認識する経験でもあり、これら
人々が元気だし、その元気があれば長岡は地震の体
をもっと大切にしようという気持ちにもなった。こ
験も踏まえて、よりよい長岡になって戻ってくると
れからは、災害が起きた時に食糧の心配がないよう
思う。
にあらかじめ用意しおくようにする。別の場所に起
きた地震でも何か自分にできることもあると思うか
Y. O .
ら、それができるようになれたらいい。
中越地震はプレートがもぐって発生するのではな
地震が起きて 1、2 時間のうちは地面が揺れてい
く、断層がずれて発生したということをしばらくし
ないのに揺れている感じがしたり、足が震えて止ま
て知った。地震というものは、プレート同志による
らなかったなどと、とても恐かった。最初の夜は、
ものだけだと思っていたから、このようなタイプも
車の中で寝るしかなくて、全然寝つけなかった。朝
あることを知って驚いた。
になって家の中に入ってみると、家具は倒れ、食器
やガラスは割れて、壁には亀裂が入っていて、め
ちゃくちゃな状態だった。1 日で片づけられるにも
限度があって、完璧に片づくまでには何日か時間が
M. K .
2004 年(平成 16 年)10 月 23 日 p.m. 5:56。ガ
かかった。電気が使えなくて、夜はろうそくを使い、
ンダムファンなら「そろそろデスティニー始まっ
なんとか残っていた食糧を食べて過ごした。
ちゃうー」と思っていた頃だろう。私もその一人
電気がない生活がこんなにも不便で大変なものと
で あ る。 が、 一 瞬 に し て そ の 思 考 は 途 切 れ た。
はわからなくて、電気などのライフラインの必要性
M6.8、最大震度 7 の日本でも最大クラスの地震が
を改めて実感した。学校もしばらく休みになって、
起きた。長かった。たった 10 秒そこらだったはず
38 ­新潟県中越地震体験記
なのに、それが永遠にも思えた。しかしこうも思え
てから、地震だと気がつきました。その後は、窓を
た。宇宙にある無量大数の星の中で、太陽系の第 3
開けたり、TVをつけて、地震情報を待っていまし
惑星の、日本という国の、新潟県中越というちっぽ
た。自分は新潟市だったので、震度 3 くらいですみ
けなところが、ただ揺れているだけなのだとも思っ
ましたが、それでも窓の外を見たら、家の外に出で
た。そして、揺れはおさまった(ように見えた)
。
いる人が多くいました。物も全然落ちてこなかった
ちなみに当初、川口でも震度 6 強を計測していたと
のでケガもしなくてすみました。
いうのは、あまりにも有名な話で、その後、雪が降っ
てから訂正されたのだという。
しかし、新潟市は震度 3 ぐらいですみましたが、
震源地近くは震度 6 強くらいあったみたいで、とて
ちなみにこの地震は、活断層直下型で深さは 20
も大変な事だと思いました。地震がおこった日から
∼ 10㎞位のごく浅いもので、たまっていたエネル
TVでは、ずっと被害状況を放送していて、山古志
ギーがそのまま伝わってしまった。さらに地層のエ
村の人達は、家にも帰れなくて、とても大変だと思
ネルギーに呼応して他の近くの断層までも地震を起
いました。10 月は、もう寒くなっていく季節なのに、
こしてしまった。そしてそんなことを考えているう
家が崩れてしまったら、家もなく、すごさなくては
ちに、思考回路がパンクし、風邪をひいてしまった。
いけないのは、とても辛いことだと思いました。新
ものすごく不本意だった。プレート地震と、活断層
潟は特に雪が降るので充分な暖かさもとれず冬を過
の違いはまず深さにある。プレート 200 ∼ 40㎞に
ごすのはとても大変なことだと思いましたす。
対し、活断層は先程表記通り 20 ∼ 10㎞くらいであ
私は前に、消防署で地震や火事などを人工的につ
る。そしてもう一つは震度の範囲である。プレート
くって体験できる施設に行ったことがあります。
型は深く、M も強いため遠くまで地震計が反応す
そこで、地震を震度 7 弱くらまで体験しましたが、
る。しかし断層は、浅いため、ある程度の距離まで
立っていられないほど揺れていました。机などにつ
行くとガクッと震度が落ちるという。実際、震源か
かまってもすごく揺れていて、こんなものが実際に
ら 70㎞ほど行くと軟弱地盤以外は 3 から 1 くらいだ
おこったら、どれだけの被害がでるのかと考えまし
という。
た。とても大きな被害がでることはとても簡単に想
しかし中越ははっきり言って山だ。その上、高町
像できました。その時に、聞いた話なのですが(多
団地のような山を削って造った土地も多い。そのた
分)地震の被害もたくさんあるが、その後の火事な
めに被害が多くなってしまった。しかも高町団地を
どででも死者がたくさんでるそうです。とても恐い
造った業者は、地震のことなどこれっぽちも考えて
ことだと思いました。
なく、そのせいで白い車が落っこっちゃってるよう
地震は、プレート 1 が、プレート 2 にどんどんも
なことになったのである。そして必ず地震を起こす
ぐりこんでいき、プレート 2 が元に戻ろうとする時
月岡断層が北にある。あと 50 年で地震を起こす確
におこるものだったと思います。こういった自然の
率は 3 ∼ 25%未満だという。中越地震で「かわい
中の動きはとても不思議なものだと私は思います。
そうだなぁ」と思った下越のあなた、今からでも遅
私は自然災害もとてもこわいと思いますが、それ
くはないですよ。
によって人工的な災害がおこることもこわいです。
※東京を襲う南海大地震は必ず起こると思いま
例えば、地震がおこってその後に火事などがおこる
す。まさに今の日本はまな板の上の鯉ということを
こと。自然災害は防げないことかもしれないけれ
忘れてはいけません。
ど、その後の人工的な災害は防げると良いと思いま
した。中越地震では、改めて自然災害はとてもこわ
Y. K.
去年の 10 月 23 日「新潟中越地震」がおこった時、
自分は自室にいました。最初は、全然気づかなく自
分の気分が悪いだけだと思いました。でも、少したっ
いと思いました。
G. K .
去年の 10 月 23 日の午後 5 時 56 分に中越地震が
新潟県中越地震体験記­ 39
おきました。そのころ自分はリビングでテレビを見
小多数の余震がありました。家はほとんど被害がな
ていたところでした。5 時 56 分に大きなゆれとと
くても電気・ガス・水道が止まり、数多くの余震の
もに、電気が消え、とてもこわかった。ゆれが、お
中、車中にて夜を過ごしました。2 日目からは大き
さまる前にまずガスを止めた。その後で、家の外に
な余震が少なくなり家で生活できるようになりまし
出た。外はけっこう寒かった。近所の人たちと助け
たが、震源に近い小千谷の人たちなどはずい分長い
合って食べ物や飲み物を調達した。その時思ったこ
間車中泊が続き、その中で亡くなった人もいると、
とは、「近所の人との関わりって大切なんだな」と
その後のニュースで知りました。
思いました。
翌日、おどろくことに、新聞がとどいていました。
電気・ガス・水道が直っても余震はつづきました。
私の通っていた今町中学校でも地震後、初登校日に
これはとてもすごいことだと思います。少しでも多
大きな余震がきて当分の間休校になりました。小千
くの人々に地震の情報を伝えようとがんばって新聞
谷や山古志の人たちは私達よりもかなり長い間、学
を配達してくれた人にとても感謝しなければいけな
校に行けず、たった一週間あまりの休みでも大変
いと思いました。その新聞を見ると信じられない光
だったのに、それとは比べられないぐらい大変なん
景がのっていました。土砂崩れや道路の崩壊さらに
だなと身をもって感じました。
は、家の倒壊してることなどものっていました。カー
2004 年という 1 年は新潟県、とくに中越で様々
ナビのテレビを見てみると、小千谷市内で家が倒壊
な被害がありました。中越地震、大雪、水害など自
している映像がとても記憶に残っています。
然災害ばかりが半年あまりの間に集中しておこりま
4、5 日後にライフラインがすべて回復し、電気
した。見附市も水害の被害はひどく、私の住んでい
が使えることがどんなに幸せなことか、あたたかい
るすぐ近くの川で堤防が決壊しました。また大雪は
ご飯が食べられることがどんなに幸せかということ
地震の復興に大きな歯止めをかけました。家をなく
を、この中越地震で身をもって体験できたと思いま
した被災者の人々は、結露がひどい仮設住宅に住み、
す。自分たちには、この中越地震のことを絶対に忘
震源付近では、雪の重みで倒壊した家もありました。
れてはいけないと思いました。そしてこのことを後
また、自然災害は県内だけではなく日本全国、世
世に語りつがなければいけないと思います。
界各国でも起こっています。地震では 2004 年 12 月
のスマトラ沖地震、2005 年インド・パキスタン地
R. S.
震があり、ヨーロッパでは、夏の猛烈な気温上昇、
アメリカでは史上最大級のハリケーン「カトリーナ」
新潟中越地震は 2004 年 10 月 23 日 17 時 56 分に
が猛威をふるいました。日本でも年間の台風上陸数
起こりました。新潟県では新潟地震以来 40 年ぶり
が更新され、多くの被害が発生したり、福岡、仙台
の大地震でした。新潟地震は粟島沖で起きた地震で、
でも大規模な地震が起こりました。
主な被害は津波による低地の市内中心部への被害が
このように多数の自然災害がおこっているのは地
主でした。中越地震は新潟地震とは大きく異なり県
球の環境と少なからず関係があると思います。特に、
内中心部の山間地での直下型地震でお年寄りの多い
地球温暖化による影響が大きいとTVで見たことが
地域での家の倒壊、ライフラインの切断が主な被害
あります。人間というのは自立しているけれども、
でした。
やはり地球に生かさせてもらっているという部分も
特に山古志村は、村内に通じる道が全て遮断され
かなり大きいと思います。これからは今までのよう
全村民が避難しました。また県内でも貴重な棚田の
に自然を傷つけながら発展するのではなく、自然と
崩壊や、ニシキゴイの養殖所の崩壊など村の財産と
共存しながら生活していくことが人間にとって、
もいえるようなものの多くがこわれました。川口町
とっても重要なことだと思います。
でも震度 7 を観測し、多くの家や田畑が被害を受け
ました。私の住んでいる見附市でも大きなたて揺れ
が 3 回たて続けにあり、その後もかなり長い間、大
40 ­新潟県中越地震体験記
ですが、高速道路はすでに通行止めになっていて、
A. S.
大きな揺れを感じた途端、安全対策をとった。幸
い被害は無かったが、後日の状況を目にして驚きを
一般道で帰ることになりました。しかし、道路のひ
び割れ、今にも崩れてきそうな崖、祖父母の家に電
話しても全く通じず、自宅に帰る間もずっと恐怖心
のままでした。
感じた。自宅は燕だが、少し離れた中越地方の変貌
そして柏崎に着くと、今まで見たことがない光景
に壮絶した。一瞬の揺れで、あれほどまでに壊れて
が次々に目に飛び込んできました。道路は真っ暗だ
しまうとは凄まじいものだ。その後も余震が続き、
し、電灯が割れて地面にガラスが散らばっているし、
何時被害を受けるのかと思うと恐怖を覚えた。
信号が消えているため、事故に遭いそうな車や人が
以降、テレビやラジオでは、ひっきりなしに中越
たくさんいました。ようやく家に着くと、近所の人
地震のことばかり報道されていた。なかでも、被害
たちが家を留守にしていた私たち家族のことを心配
を受けた人々の生活状況が何度も映しだされていた
してくれ、恐がっている私にも優しく声をかけてく
ことは、今でも覚えている。災害は忘れた頃にやっ
れました。家の中は私の部屋の本棚から教科書など
てくるというように、何の前ぶれもなく起きたあの
が落ちる以外、大きな被害はありませんでしたが、
頃の衝撃は、とても大きかった。
日ごろから地震に備えていなかったため、家には食
現在、何もなかったかのように日常は流れている
が、被害で苦しんでいる人々もいる。
料があまり置いてありませんでした。
日本は、世界でも地震大国と言われているほど、
とても胸が痛むようなことだった。今、寮で生活
地震が発生しやすく、いつ大きな地震がおそってき
している為、長岡の街並みを見ていると、今に至っ
てもおかしくない所です。そんな地域に住んでいる
ても地震の爪痕が残っているのをよく目にすること
からには、再び地震が起こってもあわてずに行動で
がある。とても痛ましい光景であった。
きるよう、日ごろから準備をしておき、必需品や食
先月の 23 日、中越地震から 1 年経ち、記録とし
料の準備だけでなく、落ち着いて行動するための心
て著書に残されたりしているが、あの日のことは、
の準備もしておかなければならないと思います。ま
忘れてはならないと私は思う。というのは、東海地
た自宅だけでなく、避難所の確認、安全なルートを
震発生が囁かれている今、中越地震で起きた被害を
いくつか確認して、より安全な場所に避難できるよ
元に対策をとるべきだと考えている。
うにしておきたいと思います。
自分は環境都市工学科の一学生なので、地震につ
今最も地震が起こる可能性があるといわれている
いて見過ごす訳にはいかない。自分は今は何にも出
東京ですが、東京は人口が集中しているほか、土地
来ないが、将来、地震が起きたときには中越地震で
も埋立地が多いので、土地の良しあしがとても大切
起きた事を教訓として、何かしら仕事を手掛けてみ
だそうです。もし、東京で大地震が起こったとした
たいと思っているのであった。
ら、住民たちは近くの避難所に集まりますが、あれ
だけ多くの人々が入れる広さがないだろうし、建物
M. S.
も多くあるので、仮設住宅を建てるのもとても難し
いことだと思います。東京で大地震が起こった場合、
去年の 10 月 23 日に発生した新潟県中越地震で、
被害は、阪神淡路大震災よりも大きくなると予測さ
私たちの住む地域に莫大な被害をもたらしました。
れています。そう考えると、今回の中越地震という
そして、
その傷あとは、
今でも痛々しく残っています。
のは、場所的には、良い場所だったと言えるところ
私は地震発生当時、新潟の家具屋にいました。店
もあると思います。このような言い方は良くないで
内の小物が次々に落ちてきて、とても恐い思いをし
すが、今はどこに住んでいても地震から逃れること
ました。幸いにもその日は家族全員で外出しており、
はできないはずです。どこに住んでいても最小限の
家族が離れ離れになることがなくて本当に良かった
被害になるように気を付けつることが重要だと思い
です。そのあとすぐに自宅のある柏崎に向かったの
ます。
新潟県中越地震体験記­ 41
震が起きた。地震の多い日本では普通のことであっ
R. S.
たが、この時の地震は普通ではなかった。震源地は
震度 7 にもおよび、とても大きな地震だった。建築
昨年の 10 月 23 日に、私は高校受験の年だったた
物は崩壊し、土砂崩れは起き、地割れなどが多く起
め、塾で勉強していた。急に大きな揺れが起こり、
こった。そしてこの地震で、何人もの犠牲者が出て
同じ塾の友達や先生がざわめいていた。私は、長岡
多くの命が失われた。また、家に住めなくなった人
に住んでおり、家に帰ったら家族は車の中や外に避
達は避難所で生活するはめとなった。多くの人の自
難していた。ガス・水道・電気は全て使えなく、懐
由がなくなった。
中電灯を使って家の中に入ってみると、床の上には
テレビでは一番被害の大きかった山古志村のこと
割れたガラスが散らばっていて危ない状況だった。
を取り挙げていた。山古志は震度 6 強でほとんどの
その夜は車の中で寝た。次の日の朝、明るくなった
家が崩れ、住民全員が避難することになった。あと
ところで、家の中に入ると、食器棚からは多くの
僕が、テレビで見たのは被害にあった地域にボラン
カップや皿が落ちて割れていた。他にも壁にはひび
ティアで人が集まり、復興を援助するというもの
が入っていたり、魚を飼っている水槽までもが落ち
だった。その内容は被災した人に食料など生活物資
ていた。
を与えたり、話などをして慰めたりすることだ。ま
地震発生から約 1 週間近くがたち、ようやく、ガ
ス・水道・電気の供給が復旧した。復旧する間は、
三条に住む親戚が水や食べ物を買ってきてくれ、
キャンプで使うコンロで何とかやりくりしていた。
私の住む地域のガス・水道・電気が復旧した時に、
た 24 時間テレビでも取りあげられた。僕はそれら
の様子を見て人の心はあったかいなぁと思った。
僕は地震が起きた時、家の中でテレビを見ていた。
初めはじっとしていたが何度も地震が起きたので家
の外へ出た。そしてすぐに建物の近くから離れた。
テレビを見てとても驚いた。どのチャンネルを見て
しばらくして揺れがおちつくと公報が流れ、柏崎市
も中越地震のことばかりあつかっていた。山古志村
は震度 5 弱だということを知った。それからもずっ
の多くの家がつぶれて、山古志の特徴である、稲作
と予震が続いた。電気が復旧したのは翌日となった。
や、牛の角突きや鯉の養殖の危機が危ぶまれてい
翌日になって家の被害を見てみることにした。する
た。その中で一番感銘を受けたのが、皆川優太ちゃ
と家はあちこちにひびができ、一部の壁が崩れてい
んの救出劇である。妙見の崖崩れで車の中にいた優
た。そしてテレビで状況を確認した。幸い家族はケ
太ちゃんとその母がとり残された。母は残念ながら
ガがなかったのでよかった。
亡くなったが、当時 2 歳の優太ちゃんは必死に生き
ていたのである。
私は、中越地震で、自然災害での命の尊さを知り、
1 年たった今でも充分に崩壊した所が直っていな
い。実際この長岡高専もずっと工事が行なわれてい
る。
辛いときこそお互いが力を合わせるという協力する
ことの大事さ、必死で命を守ろうとする人間の真の
強さを、私は身をもって体験することができたと思
う。もちろんこのようなことは起きないことが一番
なのだが、この数少ない大きな地震を体験した 1 人
の人間として、決して忘れてはならないことだし、
その思いを未来に伝え、将来の土木関係の仕事で発
揮できたらいいと思う。
M. S.
去年の 10 月 23 日 5 時 56 分に新潟県の中越で地
42 ­新潟県中越地震体験記
「和光寮」に入寮する本科5年生及び専攻科生のガイダンス
どをあまり関わりのない僕らに分けてくれました。
I . S.
10 月 23 日に新潟地震というとても大きな地震が
泣きたい気持ちでした。
地震発生から何日か経ってようやくライフライン
が回復して、テレビなどが使えるようになりました。
おきました。僕の住んでいる所は上越でだいぶ距離
そこでテレビをみてみると、番組のほどんどが「中
が離れていましたが、震度 4 という大きなゆれを感
越地震」の文字でいっぱいでした。詳しく見てみる
じました。僕はそのとき家の中にいてイスにすわっ
と家が全壊した人や、車に閉じこめられたまま亡く
ていたので、揺れていることがものすごく感じられ
なった方々のことが書いてあって、とても悲しい気
ました。地震は、自分が思っている以上にすごく震
持ちになりました。自分はこんなにつらいのに、もっ
源地付近では震度 7 という、阪神大震災にも匹敵す
とつらい人がいるなんてとびっくりしました。この
るぐらいの震度でした。そのせいで沢山の家や建物
地震を通して学んだことは人の優しさと、人間はだ
などがこわれたり、水が出なくなったり、食べもの
れとでも助け合えるすばらしい生き物なんだと思い
を手に入れることも困難になりました。
ました。
その年の冬は異常気象で大雪が降りもっと大変な
ことになりました。そして、復旧の活動は、全国に
募金をよびかけたり、ボランティアを求めたりして、
K .T.
すばらしいものとなりました。これからいつ大きな
新潟県中越地震では大きな損害がでました。さい
地震がおきるかわからないので、対策などをしっか
わい僕の家やその周辺地域には被害がなく、何不自
り立てたほうがいいと思います。
由なく生活できました。しかし、山古志村などの被
害はすさまじいものでした。地震の被害もすさまじ
T. S .
いものでしたが、その後の二次災害の土砂崩れなど
の被害もすさまじいものでした。ですが、僕はいま
僕は中越地震を通していろいろなことを学びまし
いち大災害が起きたという実感はありませんでし
た。地震当日、僕は友達と遊んでいました。そして
た。しかし、被害の大きさはテレビで見るとすさま
5 時 56 分ちょうどラーメン屋でラーメンを食べて
じいものでした。
いました。そしていきなり店が揺れはじめて、とて
そして、中越地震発生から 1 年が経ちました。し
もびっくりしました。揺れがおさまった後も余震が
かし、その地震から 1 年たったというのにまだ仮設
何回か来てビクビクしてました。その日は、ちょう
住宅に住んでいる人がいます。なぜ、そのような人
ど親が両方いなくて兄達三人だけでした。とても困
がまだいるのでしょうか。いくら深いキズあとが
りました。自分達だけでは何にもできず困っていた
残ったなどと言っても時間がかかりすぎの気もしま
ら、近所の大人の人達がいろんなアドバイスや食べ
す。なぜなら国がもっと効率よく作業をし、民間の
物などをくれました。とてもありがたかったです。
人に業者などを紹介し、国が手助けをすれば、もっ
人の優しさを感じました。
と早く復旧作業が始められたと思います。でも、し
地震の次の日、家の中を見たらとんでもない光景
かたのないことなのかもしれません。
が目に入ってきました。食器は散乱しているは、棚
まず、誰もがあんなところで、あんな大きな被害
は倒れてるはで目の前にある現状を受けとめられま
のでる地震が起きることを予測できなかったからで
せんでした。だけど何かしないと何にも始まらな
す。しかし予測できなかったのも仕方のなかったこ
かったので、部屋の中をきれいにしたり、救援物資
となのだと思います。なぜなら、あんなところに活
などをとりに行きました。だけど、なかなかタイミ
断層があるなんて気づかないと思ったからです。確
ングが合わず救援物資をもらえませんでした。お腹
かに日本中くまなく探せばほとんど全ての活断層が
も減って何もする気がおきませんでした。だけど、
見つかると思います。しかし、それにはかなりの労
ここでも近所の人がとってきた自分達の救援物資な
力と時間がいります。だから、今の国にできるわけ
新潟県中越地震体験記­ 43
がないのです。なぜなら、今の国にはそんな余力が
残っていないからです。だから、一人一人が地震の
R . T.
起きた時どうすればいいかということを明確に覚え
て、知識として身につけておく必要があるのです。
日本はプレートがたくさんあって、日本にいるか
そして、その知識をいつ地震が起きたときでも使え
ぎり地震にあわないことはないと言われてました。
るようにしておく必要もあるのです。
自分は今まで生きていて、中越地震のような地震に
あうとは思っていませんでした。今回の地震で私た
R . T.
ちの家は半壊でした。でも半壊より一部損壊くらい
だと思います。同じ中越でも地層が違うと震度も
5 時 56 分、なんの前触れもなく新潟県中越地震
違って、悠久山方面は被害がすごいと聞きました。
は起こりました。かなり強い縦揺れでテレビが落ち
話はかわりますが私は何年か前にテレビで東海大
たり本棚の本が床に散らばったりしました。自分は
地震がおきる。また、新潟県もそのプレートがと思っ
その時、居間にいて、テーブルの下にかくれました。
ていました。そのころは本当に地震なんて来るのか
1 回目の地震は長く続きました。1 度目の揺れの後、
と思っていました。今回地震が来た時、東海地震か
テーブルの下から顔を出した自分に醤油がたれまし
と思いました。でも今回のプレートはそのプレート
た。そしてすぐに 2 度目の地震がきました。この様
ではなかったので、また将来、地震がくる可能性が
子だとしばらく続くようなので外にでました。その
あるのだなぁと思ってます。
日の夜は公園に車を入れて寝てました。次の日には
今回の地震が来て一部の人は、「もう来たから来
ほとんど普通の生活にもどれました。ただガスが使
ないだろう」と思っていたり、別の一部の人は「ま
えませんでした。しばらくテレビは地震のことでも
たくるかもしれないから、対策をしておこう」と思っ
ちきりです。すごく暇にしてたことを今でも覚えて
ていると思います。私はまたこんなことが来るのか
います。
なぁと思っています。でも今回の中越地震で日本の
この新潟県中越地震について:震度 7、マグニ
人は地震への意識が出たと思います。その証拠にテ
チュード 6.8 の大型の直下型地震ですごい縦揺れで
レビでは地震対策の番組がいっぱい流れたりしまし
した。P 波と S 波の差はないに等しいと思います。
た。だから地震を体験したことのない地域の人々も
震度 6 以上の揺れが 3 回、全部の揺れた回数を合わ
地震への意識がでてきたと思います。
せると 100 回以上になると思います。発生した時
話をもどします。悠久山や私の町でも地震後は道
間が 6 時前でしたが火災は思ったより少なかったで
路が陥没していました。不確かですが陥没は土が液
す。また、新潟のほとんどの建築物が雪に強くない
状化してくぼみができると聞きました。陥没を直し
といけないと言う理由で頑丈につくられていたの
て平らな道路にしてもまた、一週間後くらいにはま
で、地震でこわれるというものも少なかったと思い
た道路は陥没していました。また平らな道路にして、
ます。また死者もこれだけの地震だというのに約
今は平らですが、なぜ平らの状態なのか不思議です。
50 人というのもすごいと思います。
まだまだ知らないことがいっぱいです。これは高専
もうあの地震から 1 年もたってほとんど影響も感
の先生に聞いた話ですが、陥没や山くずれのあった
じないように思っている人もいると思いますが、山
高町団地は、その山の上に町をつくる時、土の水ぬ
古志村や仮設住宅に住んでいる方、そしてこの長岡
きがされていなかったと聞きました。だから陥没な
高専もまだまだ地震のあとがなくなりません。それ
どに遭いやすかったと。この水抜きの作業も土木屋
ほどこの中越地震はすごい影響を新潟の人々に与え
がやる仕事なのなら、とても大事な仕事だと思いま
たと思います。しかし、悪い影響だけではなく、い
した。
い影響もありました。その中でも自分は、遠い県か
私の家の隣の人の家の 2 階建ての作業小屋がこの
らも応援メッセージなどが来たことです。まだまだ
地震で全壊しました。たぶん県で一番初めにくずれ
日本もいい国だと思いました。
た立てものだと思ってます。私の家も小屋がありま
44 ­新潟県中越地震体験記
すが被害がまったくありませんでした。別にとても
時は経ち、長岡高専に入学し、その地震の被害に
頑丈にできているとかではなくむしろ、私の家の小
あった人とも友達になりました。すごく元気に生活
屋の方がボロいです。それに隣さんももう一つ小屋
しているし、被害を受けたことを僕におしえてくれ
があり、くずれた小屋より古いです。でもそっちの
ました。被害を受けても元気でいられる事にびっく
小屋は地震でくずれませんでした。やはり崩れた小
りし、そして圧倒されました。本当に今まで何も考
屋の下の地層に関係があるのかなぁと思いました。
えずに生活してきた自分がすごく小さく思えてなり
地面は一つしかないけれど、その地面の中には色ん
ませんでした。そしてこれからでも、困っている人
な地層がたくさんあるのだなぁと思い知らされまし
を助けたり、ちゃんと考えたりできる様になろうと
た。
決めました。
この地震には色々な事を教わりました。不幸な出
S . T.
来事だけど、ある意味感謝しています。でももう 2
度と起きて欲しくないです。
僕は中越地震が起きた時、勉強をしていました。
僕の地元は糸魚川市(旧能生町)という所で震度は
約震度 2 ∼ 3 ぐらいでした。ただ部屋が揺れただけ
S. T.
でこれといって被害は無く、少しわくわくしている
地震の直前にドンという大きな音を聞いたのを今
くらいでした。まだ、地震を経験したことが無かっ
も覚えています。やはり、電気と水道、ガスのライ
た頃の僕は地震はどんなんだろう ? 1 度経験して
フラインが使えなかったことが一番大変でした。た
みたいな、ぐらいに軽くとらえていて、昔あった阪
よりのケータイも回線の混雑で使えませんでした。
神淡路大震災や関東大震災は死者も何人も出たし、
余震のため家の中に入られないので、ほとんどを外
大変な被害だったと知っていても、いまいちピンと
で過ごしました。そうなると食事とトイレの問題が
こない感じでした。それは経験後もあまり変わらず、
出て来ました。実際、食事はおかしやパンなどで、
すごいな地面が揺れたよ‼ と思っていました。
トイレはそこら辺でしました。
地震がおさまり、とりあえずTVをつけると全部
新潟で今回のような地震は 50 ∼ 100 年、来ない
のチャンネルが地震の事で、長岡の方が震源で、震
と言われていますが、その日のため、もう一度、防
度は 6 強だと知りました。MAX で震度 7 のうち 6 強
災の見直しが必要なのだと強く感じました。その具
はすごい事だと思いました。次の日、朝起きてニュー
体例としては、やはり活断層の調査が最も大切だと
スを見ると、一瞬にして被害がものすごい事を知り
思います。それにより地震の規模や大きさ、日時が
ました。昨日の夜にわくわくなんかしていた自分が
わかれば被害を最小限にくいとめることができるで
バカに思え、何考えていたんだろうと、そう思いま
しょう。そのためにも地震を経験した新潟の協力が
した。家は崩壊し、山古志ではダムが決壊し、家々
必要不可欠だと思いました。さらに、もっと身近な
のライフラインが絶え死者や行方不明が何人もいま
ところで言えば、災害時だけでなく、日頃から地域
した。僕と同じ県の同じ年の人も被害を受けている
の人との関わりを持つようにして、お互い協力する
と知り、どうしようもない気持ちになった事を覚え
ことが大切だと思います。
ています。もし自分の家族が一人でも死んでしまっ
たら…家が崩壊したら…色々考えました。
それから何日もたって、全国各地から沢山の応援
A. T.
物資が長岡に届いている事や、自衛隊やボランティ
新潟県中越地震が起きたとき、私は叔母と 2 人で
アの人が被災地に行き、人々の手助けをしている事
自宅にいた。その大きな揺れは、木造の家をゆっさ
などを知り、わくわくしていた自分とはまったく違
ゆっさと大きく揺らして数分後に大きな揺れはおさ
いちゃんと人の為に働いている人達をすごく頼もし
まったが、家はまだ揺れていた。私の家は新発田に
く感じました。
あり、震度 4 を観測したようだが実際、揺れはもっ
新潟県中越地震体験記­ 45
と大きく感じた。幸い新発田にたいした被害はな
かったようだ。
テレビをつけると、続々と臨時ニュースが伝えら
れてくる。被害状況、ケガ人、交通情報、安否確認。
A. D.
昨年の 10 月 23 日の午後 5 時 56 分、新潟県中越
実際、家にも「そっちは大丈夫か」といった電話が
地方で大地震が起きた。最大震度は川口町で震度 7
数本かかってきた。ニュースによると震源に近い川
を記録し、現在発表されている死者は関連死も含め
口町では最終的に震度 7 を記録したようだ。私が生
51 人。不幸中の幸いと言うべきか、夕飯の準備前
まれて 15 年。震度 7 という揺れは初めて聞いた。
だったため、火災による被害はなかった。
当時の最新ニュースの内容は情報が混乱していたせ
ちょうど、東海沖地震の警戒がされていた中だっ
いか、局によって違いがあったり、後々判明する実
た。このように、地震はいつ起きるかが全く分から
際の情報とは、けっこうな差があったと思う。次の
ない。こんな中どのように地震に備えればよいのだ
日、朝になったおかげで次々と被害の状況が明らか
ろうか。
になってくる。中越地方は、山があるため、土砂崩
今回の地震で、多くの市町村地区のライフライン
れが多かったようだ。車ごと土砂の中に埋まり、母
が断たれ、多くの人は避難所で何日も過ごした。避
親と子供一人が死亡したが、奇跡的に一人の幼い子
難所は初日は何にも無い状態だったが、1 夜明ける
供が救出された災害は全国的に有名である。そして
と全国各地から救援物資が送られ、自衛隊も次々と
新幹線の脱線。震源が近く、初期微動と本震の時差
派遣されていった。
がほとんどなかったため、止まることができなかっ
たのが原因らしい。
中越地震の被害は、私が考えていたものよりもだ
いぶ大きなものだったようだ。私が地震後初めて長
当時は自分の地域はすごい被害だと思っていた
が、電気が回復し、テレビを見てみると、自分たち
の町はたいしたことがなかった。集落で孤立したり、
避難所にも入れない人達もいた。
岡にやってきたのは、その数ヶ月後長岡高専に合格
何日か経ち、予震が治まってから、自分の町のボ
し、入学手続きをしにやってきたときである。その
ランティアに参加した。その時、東京から来た人達
ときまだ長岡は、銀世界で、新発田ではほとんど積
に出会った。彼らは神戸出身の人達で、阪神淡路大
もっていなかった雪がここでは、スネのあたりまで
震災の被害を受けていた。だが東京にいたため、ずっ
あったことが印象的だった。たまたま乗ったタク
と後悔していた。その 1 人が脚本家として、「阪神
シーの運転手の人と話したのだが、降り積もった雪
淡路大震災」という舞台を手掛けていた。
と震災の復旧工事で通れる所は限られているよう
つい最近その舞台が新潟に来ていため、観に行っ
だった。あの時、いたる所で行われていた工事の様
た。衝撃的だった。中越地震では、阪神淡路での経
子も今の私もはっきりと思い出すことができる。
験が生かされていた。地震のことで何かをしたいと
こんな長岡で、これから先大丈夫なのだろうかと
思う人がいたら、この舞台を観に行ってほしい。た
考えたこともあったが、逆に地震がなかったら長岡
だ、観に行ったからといって、エライというわけで
に来てはいなかったのではないか、という考えもあ
はないということを分かってほしい。
る。佐藤先生の初めての授業で「なぜあなたは高専
この地震で学んだことはたくさんあるが、教訓と
に来たのですか ?」と問われたとき、とくに理由が
いうものはない。被災後、学校に行ったときに地震
なかったその答は、たぶん地震によって、心の中に
の写真集が置いてあった。当時は、すごく嫌いだっ
何かが生まれたからなんだろう…と思う。
た。早く忘れたかったが、今思うと今回のことは忘
震災から 1 年がたったがまだところどころで、復
れてはいけないことだと思う。それが被災した自分
旧工事の様子を見ることができる。テレビで間接的
達のするべきことであり、亡くなった 51 名の方々
にしか知ることの出来なかった地震を肌で感じられ
に対する、気持ちの表れではないかと思う。
たことは、自分にとって大きな経験になったし、こ
れからの勉強に少なからず役に立っていくと思う。
46 ­新潟県中越地震体験記
阪神淡路大震災をひきおこした地震のほうは残念
T. N.
ながらわからないが、中越地震はプレートが引きお
こしたのではなく、活断層が引きおこした地震であ
2004 年 10 月 23 日 18 時 56 分 に 新 潟 県 中 越 地 区
る。活断層とは過去百万年間にずれたことのある断
を震源とする地震がありました。この地震で死者は
層のことで、将来もずれる可能性があり、活動中と
約 50 人で、1995 年にあった兵庫南部地震と比べる
みなされている断層のことである。この活断層は数
と、中越地震の死者数は 1/126 と、かなり少なくなっ
多く存在している。ではプレートが引きおこす地震
ています。ということは、この 9 年間で日本は、救
とは、どうゆうことをいうのか。それはプレートの
出活動が早くなった事や地震対策がしっかりとなっ
動きが引きおこすものである。海洋プレートが大陸
てきた事になります。
プレートの下にもぐりこもうとするときに大陸プ
中越地震は活断層型地震です。活断層とは、過去
レートも引きこまれる。それが続いて大陸プレート
百年の間にずれたことのある断層のことで、将来も
が耐えられなくなり、元に戻るときにおこるのがプ
ずれる可能性があり、活動中とみなされる断層のこ
レート型の地震である。このプレート型の地震がお
とです。この活断層の活動で、今回の地震が起きま
こる可能性も日本は持っている。
した。
これから日本の地震は活動期に入ると聞く。中越
中越地震で一番被害が大きかった所は、旧山古志
村で、当時は地震で道が寸断され、旧山古志の人達
地震、兵庫県南部地震、などのような被害を出さな
いように気をつけるのが大切だと思う。
は、旧山古志村から、何日間、出れませんでした。
それに、旧山古志村名産で外国にも輸入される錦鯉
Y. N.
や、牛の角突きで有名な闘牛が、地震の影響でたく
さん死んでしまいました。その被害額は億を超える
去年新潟県は水害におそわれ、すごい被害がでま
ほどでした。しかし、先生の言わく、旧山古志村が
した。それで終わればよかったものの、すぐに中越
TVや新聞に取り上げられなかったら、この長岡高
地震が来てしまいました。中越全体を不安と恐怖が
専が取り上げられる位だと言ってました。高専の被
覆っていました。外は電信柱がゆれ、地面がゆがみ、
害は、グラウンドの陥没、3 号館の半壊などでした。
ニュースをラジオで聞いていると少しずつ死亡者が
ちなみに、
中越地震の余震は、
約 2 ヶ月つづきました。
増えていきます。あらゆる学校などの建物は STOP
しました。ある学校では地震がおこった時刻に時計
N . N.
がそのまま止まっている学校もありました。自分の
地元は揺れただけで、あまり、被害という被害はな
新潟県中越地震は昨年 10 月 23 日 5 時 56 分に起
かったのですが、山古志や長岡の方はすごい揺れで
こった。テレビで東京大地震がうわさされていたこ
多くの犠牲者を出しているとラジオで聞いたり、テ
ろだったと思う。突然弱い揺れがきたと思ったら激
レビではいろんなチャンネルが報道していました。
しい揺れがきた。自宅の被害は震度 5 弱だったもの
新潟の地下の地殻またはマントル内に自然に起こる
の奇跡的に被害はなかったが、友人の家はひびが
急激な変動と、これによって生じた地殻の弾性波動
入ったり棚が倒れたりかなりの被害をうけた。
により地面が動揺することで起きたということなの
この新潟県中越地震はマグニチュード 7 以上、最
です。
大震度 7 を記録した。この新潟県中越地震が最新の
やはり、これだけ大きな災害になると、いろいろ
大きな地震であるが、その前にはもっと大きな地震
なことをしなければなりません。情報確保のための
があった。阪神淡路大震災である。1995 年 1 月 17
ラジオ、携帯食品、電話、懐中電灯など最低限必要
日兵庫県南部地震による災害で兵庫・大阪・京都の
なものをもって逃げなければなりません。この中で
1 県 2 府が被災、死者 6300 人負傷者 4 万 3 千人、全
も、便利なのは携帯だと思いますが、携帯電話はみ
半壊家屋 20 万 9 千という大きな被害が出た。
んながいっせいに電話をかけると電波が多すぎて混
新潟県中越地震体験記­ 47
雑し、相手に通じないときがあるそうです。しかし、
ければいけません。そうすると住む場所を考えなけ
今回の地震は新潟という田舎で起こったからまだ良
ればいけないのですけど、地震の被害により、お金
かったのかもしれませんが、東京という大都会でこ
もそうたくさん残っておらず、年金による収入も多
れが起こったらもっとすごい被害が生まれます。社
くありません。地震の被害者がもらえる保障金も良
会問題にまで発展するかもしれません。かといって
くて、80 万円程度、地震保険に入っている人はま
新潟でも大きい被害にあった人もいます。学校がく
ずいません。この状況ではアパートに住むはおろか、
ずれて、学校に行けない学生もいれば、お出かけを
家の新築することは不可能です。しかし、このよう
していて、崖から車が転倒して何日間も穴埋めに
な人達に対し、保障などはあまりありません。これ
なったりした人もいました。
をどうにかしないと、数年後、住む場所のない老人
しかし、この新潟はずっと落ちこんでいないで
が出てきてしまいます。
人々が助け合い、今も復興を続けています。まだ完
地震から一年たった今でも、旧山古志村は被害が
全に治っていない施設もありますが、着々と直って
多く残っています。その原因は主に、山に囲まれて
いきます。これからはいつ地震がおきても、おかし
いるので、道路を直さないと工事車両が入れない。
くない日本の島。この新潟県中越地震で多くのこと
その年の大雪により、復旧工事が大幅に遅れ、さら
が学べたと思います。これらがこれからの環境の課
に全ての家が全壊し、誰も住んで居ないなどです。
題になると思うので関心をもってすごしていきたい
こうした状況に長岡市などから復興援助金などが送
と思います。
られ、雪が消えてから工事が再開されたのですが、
状況は思わしくなく、完全に復旧するのには、数年
S. N.
平成 16 年 10 月 23 日、震度 6 強を観測した新潟
かかると言われています。今、山古志村の人々は協
力して、村おこしをしようと努力を重ねています。
数年後には、旧山古志村には活気が戻るでしょう。
県中越大地震がありました。震源地は新潟県小千谷
市で新潟県広域にわたり、大きな被害をもたらしま
した。
私の住んでいる長岡市の被害は、震源地である小
S. H.
中越地震が起こったのはちょうど一年前、その時
千谷から近いこともあり、甚大な被害がありました。
はちょうど自分の部屋で勉強していた。なんの前触
道路が割れ、車がとても通れるようなものでなく、
れもなく突然揺れが来たので慌てて机の下にかくれ
さらに電車のレールも壊れたりと交通は最悪な状態
た。後でわかったが、震度 5 の揺れだったらしい。
になりました。また、家が半壊や全壊になり、仮設
中越のほうでは、最大で震度 7 と聞きとても驚いた。
住宅での生活を余儀なくされた人が何百人にものぼ
被害状況をTVなどで見て、いきなり発生して防ぎ
りました。その年の冬の大雪には、仮設住宅の人達
ようもない地震が最も恐ろしいと思った。家屋が倒
のために、中高生や自衛隊の人達が雪かきをしたり
壊し、水や電気などのライフラインも止まり、被災
と、地震の被害者を助けていました。
地の人々は仮設住宅での生活を余議なくされてい
しかし、この地震で一番被害を受けたのは高齢者
る。発生当初は車の中で生活していた人もいた。さ
の人達です。老人の夫婦が暮らしていた家が全壊し
らに季節柄、徐々に冷えこんで来る冬の寒さにも対
た場合を例にすると、近くに子供夫婦が居ない場合、
処しなくてはならなかった。幸い、寒さに対しては
仮設住宅に入るため、少ないであろう貯金の中から
早いうちから解決したが、もし地震が真冬に起こっ
お金を出さなければいけません。また、壊れた家の
ていたら、被害はさらに深刻になっていただろうと
片付けもしなければなりません。しかし、老人の力
推測される。
だけでするのは無理があります。そうした場合、お
金を払って業者に来てもらうしかありません。さら
に、仮設住宅は数年契約なので、いつか出ていかな
48 ­新潟県中越地震体験記
R . H.
私は、見附に住んでいます。だから、
地震の被害は大きかったです。私の住
んでいる所には、山があるのですが、
山は土砂くずれがひどく、地震前と同
じ場所とは思えないほどでした。今ま
で地震というと、ちょっとゆれるくら
いだと思っていました。しかし、中越
地震で本当の地震のこわさを知ったと
思います。
中越地震では、まず一瞬にして電気
が止まりました。今まで味わったこと
のない暗さです。そして、ガスも水も
止まりました。ライフラインがなくな
寄宿舎内で倒れた本棚の整理をする教職員
り、今までのような生活ができなくな
りました。電気・水道・ガスがあって、当たり前の
まに震源からほぼ同じ距離に位置するのに、震度に
ような生活をしてきた人たちにとって、全て止まっ
差があるときがある。これは、いろんなことがある
てしまうというのは、とても大変なことでした。地
と思うが、私は、地盤が大きく関係があると思う。
震発生から数日後、救援物資などが届き始めました
同じ揺れを与えてもやわらかい地盤は固い地盤に比
が、本当に被害を受けてしまった人たちは、もらう
べてとても揺れる。だから、その上にある建て物な
ことができませんでした。だから、これからもっと、
んかは、すぐに破壊されてしまう。
地震対策について考えなければいけないと思いまし
た。
地震とは何なのか、考えてみました。地震とは字
の通り、地が震えるということ。その原因は何か。
中越地震は、私のとっていろんなことを考えさせ
た、いいキッカケにもなりました。これからも地震
は起こると思うので、そのときは、しっかりと対処
できるように勉強していきたいです。
私が生活をしている地面の下にはプレートがある。
そのプレートは日々少しづづ移動している。そして、
プレート同士が、ぶつかりあい下の方へと、どんど
W. H.
んもぐってゆく。その際に生じる揺れも、地震であ
地震が起きた時ぼくは、家に入ろうとしていまし
る。プレートは下敷きに似ていると考える。どんど
たが、その時に地震がきたので入れませんでした。
んと、下の方へもぐっていけば、いつかは耐えきれ
ぼくの家は小千谷市のとなりの越路町に住んでいた
なくなり、もとの形へと戻る。その際に生じるのが、
のでとても揺れました。震度 6 弱あると聞いてビッ
大きな地震へつながる(と思う)。日本は、いくつ
クリした事をよく覚えています。
ものプレートの上に存在する。従って、地震からま
その日は、朝日山という会社の駐車場に集まり、
ぬがれることはできないと言われている。しかし、
車の中で寝るコトになりました。次の日からは、食
まさにそうであって、他の国と比較してみると、ほ
料や水の調達をするために地元のスーパーやコンビ
んとうに多くのプレートがぶつかりあっている。
ニに行っていろいろ貰ってきました。結局その日は
また、地震には震度というものがある。震度とい
家に入ることすらできませんでした。
うのは、揺れの大きさを示すものである。震源に近
次の日になると、町に自衛隊の給水車やヘリが来
いほど、震度が大きく、揺れも大きい。しかし、た
て水や食料を配ってもらいました。3 日目にもなる
新潟県中越地震体験記­ 49
と地震にもなれてしまったため、学校や友達のコト
加茂市では、被害は、そんなにありませんでした
が心配になってきたので、学校に行ってみました。
が、高専に入って、長岡の人に話を聞いたときは、
学校は鉄筋が飛び出していて、立ち入り禁止となっ
改めてこの地震はすごい地震だったんだと思いまし
ていました。
た。長岡では、震度 6 ∼ 7 くらいの地震があって、
3 週間後、学校は始まりましたが、今まで使って
家の食器とかたくさん割れて、数日の間、外で生活
いた校舎ではなく、駐車場にプレハブ小屋を置いた
したって聞きました。寝てる時も不安だったそうで
だけのショボイ物でした。それでも、3 年生なので
す。私も、寝てた時に何度か、ゆれて、目を覚まし
受験に向けて勉強しなくてはいけなくて大変でした。
ことを覚えています。長岡ならもっとゆれたと思う
震度 7 に近い地震を今の年で体験でき、将来もし
ので、本当に怖かったんだろうな…。と思いました。
もの時の行動の取り方を知ることができたコトは、
今回の地震は、プレート型と活断層型のうち、活
この地震から学んだイイ事だと思います。あと、自
断層型で魚沼丘陵と越後山脈が押し合って、断層が
衛隊の人達や、遠く離れた人達からの救援物資や復
ずれたために起こったらしいです。地震のように、
旧作業の手伝いをしてくれたボランティアの人達の
自然災害は、とても恐ろしいものです。予知できな
優しさを感じるコトが出来ました。次の大地震の時
いものもあります。だから、普段から、何が起きて
には、今度は自分がおかえしにボランティアや救援
も心配しないように準備をしておくということは、
物資を届けたりしたいと思っています。
大事だと思いました。今回の地震の教訓を生かし日
ごろから注意して生活していきたいと思います。
T. H .
中越地震があったとき自分は新潟市で外食してい
K . M.
ました。大きな揺れだったので驚きたました。家に
西暦 2004 年 10 月 23 日午後 5 時 56 分、新潟県中
いるときも地震があり、棚が揺れたりしました。地
越地域を震源とする大地震が起きた。地震発生時、
震が何日も続いたので、地球は大丈夫なのだろうか
自分は新潟市内の友人宅で揺れを体感した。最初は
と心配になりました。
小さな揺れがきた。何事かと思った瞬間、突然大き
地震は太平プレートが大陸プレートの下にもぐり
な揺れがきた。自宅に電話しようとしたが、全くつ
こみ、大陸プレートがひきずられて、はね上がった
ながらない。テレビをつけると、早くもニュースで
ときに起こると習いました。中越地震もこのしくみ
その地震のことをやっていた。震源は中越地方で、
で起こったんだろうか ?
震度は 6 強だった。新潟地域は 6 弱だった。その後
家に帰ったが、
余震が続き、
なかなか寝つけなかった。
K. M.
朝になり、ニュースを見ると、とんでもない映像
が流れていた。旧山古志村の映像で、がけが崩れ、
去年の 10 月 23 日 5 時 56 分、新潟県中越地震が
道路は遮断、つぶれていた家もたくさんあった。日
起きました。地震の種類は直下型地震というもので
がたつにつれて被害の大きさは大きくなっていた。
激しい縦ゆれが起こったらしいです。私は、そのと
土砂によって川がせきとめられ天然のダムのように
き、地元の加茂市にいたのですが、長岡からかなり
なり、多くの家が水没していた。長岡地域ではライ
の距離があるのに、震度 4 もありました。私の家は
フラインがなかなか復旧せず、夜も地震への恐怖か
たいした被害はありませんでしたが、テレビ等で見
ら寝るに寝られない日々がつづいていた。そして、
た長岡地区の被害を見て、「これは大変なことだ」
残念なことに、その時点での死者が 30 人を超えた。
と思いました。特に、山古志村の映像を見た時は、
やっとのことで復興作業が始まったころ、こんど
ビックリしました。死者も約 50 人と、とても多く
は大雪が被害者を苦しめた。地震にどうにか耐えた
の人々がこの地震で亡くなりました(関連死も含め
家も、雪が降ると、雪の重みでつぶれる、というケー
て)。
スもたくさんあり、仮設住宅で生活している人も、
50 ­新潟県中越地震体験記
毎日ストレスが溜まる中、雪かきの作業もしなけれ
この新潟県中越地震で学んだことがあります。ま
ばならず、大変な思いをしていた。ライフラインが
ず一つは、電気やガスや水道が無い生活の大変さが、
ようやく戻るころ、今回の地震で、震度 7 を計側し
身に沁みて、わかったような気がします。電気がな
ていた地震計もあったことが分かり、改めてこの地
いと、テレビがつかなくて、外の情報が入ってこな
震の被害の大きさを知った。それでも中越の人たち
いし、夜に何もできないし、お湯が出ないからお風
は諦めず、復興への強い意志を示し、努力を続けた。
呂にも入れないなど。ガスがないと、料理ができな
地震から一年が経った 2005 年 10 月 23 日、新潟
いし、水道が使えないと、飲み水が確保できないし、
県中越地震の死者は、関連死を含めて 50 人を超え
お風呂にも入れないし、歯もみがけないなど色々な
た。現在の中越地域では、まだまだ被害のおもかげ
問題が出てきます。普段の生活がどれだけいいのか、
が残る中も、確実に復興へと近づいていると思う。
改めて感じました。
これは、何より、被害を受けた人達の強い意志、諦
めない強さがあったからにちがいない。
もう一つ学んだことは、近所の人がいるという事
です。近所の人がいると少し安心します。時には、
今回の地震で問題になったのは、被害を受けた人
助けられることもあります。近所の人がいるという
たちが、日頃から警戒していることができなかった
ことは、とても良い事だと思いました。地震につい
ことだと思う。実際、自分はそうだった。地震は日
て思った事があります。生まれて、初めて大きな地
本中、どこで起こるか分からない。そんなことを、
震を体験して、地震は、とてつもないエネルギーを
日本中の人が知り、備えておくことは重要だと思う。
もっているんだなと思いました。震源から何十キロ
その他、地震が起きたときのネットワークも問題だ
も離れているのに、すごい揺れを感じました。地震
と思う。今回に限らず、少しの地震でも、外との連
はとても恐いものだということが良く分かりました。
絡は途絶えてしまう。難しいことかもしれないが、
その辺の問題は解決していった方がよいと思う。
今回、地震後一年くらいは、防災グッズなどがよ
K . M.
く売れているが、地震は、忘れたころにやってく
平成 16 年 10 月 23 日、新潟県中越地震が発生し
る。地震予知という方法もあるが、それはまだまだ
た。私の住んでいる所は震度 4 でした。中越での最
難しく、決して 100%とはいえない。そのことを忘
大震度は震度 7。これにより死者は数十人、住宅も、
れずに、万が一に備えておくという事が、やはり一
かなりの数が被害を受け、一部の地域では陸の孤島
番必要になってくる。そうしておくことが、地震だ
となり、食料と水を求める文字が道路に書かれてい
けではなく、あらゆる自然災害の被害を最小限に抑
るのを覚えています。この長岡高専も被害を受け、
えることができる、最も良い策になるだろうと自分
現在復旧工事が行われています。
は思った。
この間でちょうど一年がたちましたが、未だその
傷跡は消えず、仮設住宅で暮らしている家庭も大勢
O. M.
います。震災後も中越の人々は不自由な暮らしをし
て、そのせいで亡くなった人もいます。しかし、こ
新潟県中越地震は、平成 16 年 10 月 23 日、17 時
の震災の被害への支援もとても多かったです。最初
56 分に起こりました。新潟県中越地震は、プレー
は衣類や布団、食料などが現地に集まり、そのう
トが沈みこんで反発して起こる地震ではなく、断層
ち、物だけでなく人も、現地に集まってきました。
による地震です。この地震による死者は 50 人にも
復旧活動をするためにボランティアの人々、炊き出
なります。自分の家はこの地震でひびがはいり、少
しを行うために集まってくれ人々や公衆浴場を作っ
し不安になりました。電気とガスと水道が止まって、
たり、水や食料の配給を行った自衛隊など、様々な
2 日後くらいにガスが復旧して、3 日後くらいに電
人々が中越の人々のために集まってくれました。
気が復旧しました。自分の部屋の MD コンポが落っ
こちていました。幸いケガはありませんでした。
この中越地震では、死者が数十人も出てしまいま
したが、それ以前の大地震に比べると被害は少な
新潟県中越地震体験記­ 51
かったといえます。1995 年 1 月 17 日の兵庫県南部
で起こった阪神淡路大震災では、死者 6300 人、負
傷者 4 万 3 千人、全半壊家屋 20 万 9 千という甚大な
被害が出ました。
それに比べて新潟県中越地震では、
S. Y.
2004 年 10 月 23 日午後 5 時 56 分、新潟県中越地
震度が弱かったと言ってもやはり被害は格段に違い
震が起こりました。ぼくは見附市に住んでいます。
ます。それはやはり、阪神淡路大震災の教訓があっ
午後 6 時近く、買い物から帰ってきて夕飯にしょう
たからだと思います。阪神淡路大震災では大規模な
かと話していたときでした。一瞬家が倒れたんじゃ
火災が発生して、それにより被害が増えました。中
ないかと思いました。今まで小さな地震なら何回も
越地震ではそんな事はなく、やはり、教訓があった
体験したことはありましたが、ここまで大きな地震
からこそ、被害を少なくできたのだと思います。
を体験したことは初めてでした。おそらく今後体験
しかし、これからも、またこのような大震災がお
することもないでしょう。最初は何が起こったかよ
こらないとはかぎりません。これからも今までの災
くわかりませんでしたが、とりあえず外に出ました。
害を教訓にして、個人一人一人が災害に対してしっ
家の中は危険だと思ったからです。ある程度落ちつ
かりと理解していかなければならないと思います。
いてからラジオを聞いてみました。自分の住んで
いる地域の震度は 6 弱ほどでした。今まで自分の住
D. M .
昨年 10 月 23 日 5 時 56 分、新潟県中越地震が起
りました。最大震度 7 と言うとても大きな地震でし
んでいる地域に震度 6 の地震がくるなんて、これっ
ぽっちも考えたことはありませんでした。その時は
頭がけっこうまっ白になって、あまり考えることが
できませんでした。
た。自分が生まれてから一番大きな地震でした。自
その後テレビを通じて、他の地域の被害状況を知
分は、燕市に住んでいます。震源地から離れていま
りました。本当に悲惨なものでした。自分の今いる
すが、震度 5 強というとても強い揺れを感じました。
状況がどんなに幸せな方かをわかりさせられまし
自分はその日、学校の合唱コンクールでした。コ
た。何十人という死者が出たことも知りました。こ
ンクールが終わって、友達と集まりテニスをしよう
の新潟県中越地震がどんなに多くの被害を生んだか
という話でした。その日はたまたま現地集合という
をこの時初めて知りました。
話になり、集合時間の 6 時半ギリギリに行こうと思
そして大変なのは、この大きな爪痕の修復でした。
い、地震発生当時は、まだ家にいることができまし
日常生活にもどることの難しさとその日常がどんな
た。普段なら 6 時には友達の家に集まってから行く
に幸せだったかを心の底から感じました。しかし、
ので、本当ならば、地震発生当時は外にいる可能性
人の強さも同時に強く感じました。この強さが復興
がとても高かったです。
の一番の鍵だとぼくは思っています。あの地震から
今こうして思うと不思議に思います。地元の友達
ちょうど一年が過ぎました。今でも、地震の爪痕は
の思いつきで現地集合になり、安全な家にいること
残っています。しかし確かな復興も感じることもで
ができました。現地集合は今のところ、あの地震か
きます。この新潟中越地震は今後ずっと歴史に残っ
ら一回もありません。これは偶然なのか今でも不思
ていきます。この悲惨な災害は決して忘れることの
議に思う事があります。もし、普段通りに自転車を
できないことです。忘れてはならない出来事だとぼ
漕いでいたら…ブロック塀が倒れて大ケガをしてい
くは思っています。
たかもしれません。今思いだしても、あの地震は恐
いと思います。このめったにできない経験を教訓に
して、これからの生活に役立てたいと思います。
Y. Y.
去年 10 月 23 日 5 時 56 分に新潟県中越地震が起
きました。私は旧西山町に住んでいて、震度は 5 弱
でした。今回の地震の最大震度は 7 なのに、5 弱の
52 ­新潟県中越地震体験記
ゆれで、恐怖すら感じていたのに、震度 7 なんて想
寝ました。うちはその日以外は家の中で寝ることが
像もできない。今まで、地震なんてたいしたことな
できました。水も少しは出ていたし、食べ物にもそ
いものだと思っていたけど、初めての地震で、地震
んなに困らず、電気も一週間でつくようになりまし
の恐ろしさを知った。
た。なにより家自体にあまり被害がなくて、一週間
新潟中越地震は直下型地震で、少し離れていた旧
ほどでもと通りの生活ができるようになりました。
西山町でも縦揺れを感じて、また、余震もとても規
しかし、中越地震によって、何ヵ月も体育館で避
模が大きく、震度 5 以上が何度も繰り返し起きまし
難生活をしていた人や、今でももとの家に住めなく
た。西山町では本震の影響で、停電とガスが止まり、
て仮の家に住んでいる人が沢山います。そういう人
辛うじて、水道の断水だけは、まぬがれた。明朝に
は本当に大変だなあと思います。自分は避難生活も
は、停電もガスもなおって、少しは安心できたけど、
していないし、一週間で、ほぼもと通りの生活に戻
まだまだ余震が続いていて、完全に安心することは
れたけれど、いまだに地震の影響でいつも通りの生
できなかった。
活ができるのかまったくわからないという人もいる
それに、日をおうごとに、地震の被害状況が明ら
かになっていき、西山町は、比較的被害の軽い方だ
と思います。自分がその立場だったらと思うとほん
と大変です。
と知った。家屋にも被害はなく、外に出ても、大き
僕が今回の地震で少し興味をもったのが地盤につ
な被害があるように見える家は数えるほどだった。
いてです。僕の家の周辺は地盤が強いらしく、近所
西山町は本当に被害が少なかったが、テレビなどで
でも大きな被害を受けた家はありませんでした。し
見る山古志村などは、テレビで見ているのに、それ
かし、家のすぐ近くなのに被害の大きさが全然ちが
にたった数十キロしか離れていないのに、まるで違
うというのがびっくりしました。近所でも古くて地
う世界のようだった。また、長岡と西山は小さな山
震でつぶれるんじゃないかと思うような建物がちゃ
が間に一つあるだけなのに、高専や悠久山周辺は、
んと建っているのに、ちょっとはなれた場所では新
とてつもない地震の傷あとが残されていて、ここに
しい家がボロボロになっているという状態でした。
きて本当に驚いた。
地盤の違いはかなり影響するんだなあということを
中越地震では驚くことばかりではなく、学ぶ事も
感じました。山の方は道もひどくて車では通れない
たくさんあった。また大きな地震が起きたとしても、
ほどでした。友達でも半壊とかになって、今も仮住
慣れとは、おそろしいものだけれど、少なくとも、
まいに住んでいる人がいます。
こわがることなく、冷静に次にどうすればいいか、
対処ができるようになったと思う。
ちょうど地震から 1 年たって、今ではずいぶん前
のことというふうに感じてる人もいるだろうし、自
分もそう感じることがありますが、このように今で
Y. Y.
も地震によって、満足な生活できていない人がいる
という事を忘れないようにしたいです。
僕は中越地震が起きた時、車の中にいました。ちょ
あと、1 つすごいと思ったことは、人の助け合い
うど買い物帰りで家に向かっているところでした。
です。地震の起きたあとの周りの人たちの援助はす
最初は何が起きたかわからなかったけれど、外を見
ごかったと思います。救援物資がたくさん県外から
たら電線とかがけっこう揺れてて地震だとわかりま
送られてきたり、ボランティアで遠くから来ている
した。でも、その時は車の中だったので、あまり強
人もいました。うちも親戚から水とか食べ物が沢山
い揺れとは思いませんでした。けれど、びっくりし
きました。遠く北海道からも食べ物が届きました。
たのが建物もそうだけど、信号の明かりが全部消え
おかげでとても助かったし、感謝したいです。
ていたことです。
家に着いたら家族や近所の人がみんな外に出てて、
さっきあった地震がとても大きかったことを知りま
した。その後も何回も地震があって、その日は車で
T. Y.
昨年の 10 月 23 日土曜日の夕方、家庭ではちょう
新潟県中越地震体験記­ 53
ど夕飯の仕度の真っ最中の時間帯であろうそんなと
私たちが想像している以上に深刻で厳しいものだけ
き、新潟中越地震は起きました。震源は中越地方で、
ど、そんな中でも地域とのつながりや近隣同士の助
川口町では震度 7 をも記録しました。建物がくずれ、
け合い、家族の協力でお互いに手を取りあって、災
水道は止まり、電気も停電、道路はでこぼこになり、
害をのりこえようとしています。その姿は決して悲
おまけに死者までもがでてしまいました。
観的なものではなく、復興に向けての前向きな姿勢
そして被災者の方々は避難所生活をよぎなくされ
なのだと僕は感じます。
ました。食事も満足にとれず、地震の恐怖で夜眠れ
ない人が何人もいたそうです。おまけに、たびたび
おそってくる余震のおかげで、被災者の方々はいつ
なんどきでも気を休めることができなかったでしょ
う。
J. W.
地震が起きた瞬間、家にいました。一階にいまし
たが、すごい揺れがきました。まず、少しづつ揺れ
しかし、地震後すぐに復旧作業は始められ、寸断
始めて、だんだん強くなってきて、食器棚も倒れか
されていた道路の応急的な復旧で、不足していた物
けて、玄関もふっとんでしまいました。最初の地震
資も少しずつではあるけど手に入るようになって、
の後も、何回も震度 5 強、弱くらいのが数回きまし
水や電気などのライフラインの復旧に伴い自宅を片
た。そのせいか、揺れてもいないのに、揺れている
づけることも可能になったことで、日常の生活を取
感じがしました。周りの家を見ると、みんな外に避
り戻すべく頑張っている住民の姿がとても多く見受
難していて、よっぽどすいごい地震だったんだなと
けられました。
思いました。そのままだと危険なので、車の中に入
また、新潟県中越地震は季節柄、現在の寒さをし
りました。4 ∼ 5 日間くらいずっと車で寝ていまし
のぐ方法があったけど、もしこの震災が真夏や雪深
た。風呂も入れませんでした。食べ物が必要なので、
い真冬に起きていたら、きっと今以上に様々な問題
近くのスーパーに行こうとしたら、途中のガソリン
が起こっていたんじゃないかと思います。
スタンドに車の列ができていたり、自衛隊がいたり、
新潟県中越地震は多くの方々がチャリティー募金
電気がついていなかったりと、めちゃくちゃでした。
に参加してくれています。それは被災者にとっても
家に入れるようになったのは、1 週間後くらいでし
とてもうれしくてたまらない事だと思います。震災
た。でも電気はついていましたが、ガスはでないし、
で元気をなくしていた小さな子供や老人の方々もそ
水もでませんでした。
のおかげで少しずつ元気を取り戻してきました。
未だに、大きな余震が続くなかで住民の方々の不
安は大きく、被災された方々の直面している問題は
水が出ないし、風呂も入れないので、与板の温泉
に行きました。震源地から遠いので、被害も少なく、
電気もついているし、ガスも水道もでました。完全
に家で生活できるまでは、水を近くの小学校まで取
りに行ったり、食べ物の配給がきたりしました。家
に入っても、二階に行くのは危ないので、一階で食
べたり、寝たり、テレビを見ていました。
地震から何週間かたった後、市役所の人がきまし
た。家の被害状況を見にきたみたいで、僕の家は半
壊の紙がはられました。自分の家の周りも半壊とい
う所もあったし、異常がないと言われたところもあ
りました。地震が起こる前には、地震雲が出たり、
動物が異常な行動をしたりするそうです。去年は中
学 3 年生で、受験の時期だったので、毎日夜、地震
4号館から図書館への渡り廊下接続部 (つなぎ目に設置されていた防火扉が倒壊した)
54 ­新潟県中越地震体験記
がきても勉強していました。
学
生
2
良かったですが、墓はメチャクチャになっていたの
A . J.
10 月 23 日の中越地震発生当時、自分は震源地の
で、地震のおそろしさを見せつけられた様な気がし
ました。この地震は阪神・淡路大震災の様に火災な
どがおきず、死者は少ないのが救いだと思いますが、
川口町からかなり離れた小須戸町にいて、自分の部
被害者達の中には、帰る場所をなくしたり、職をな
屋でテレビを見ていました。自分は最初、ガラスが
くしたりと色んなものをなくしたと思います。それ
激しくガタガタと揺れたので、突風でも吹いたのか
を取りもどすことがこれからの課題になってくるの
なぁと思ったのですが、その後すぐに突き上げる縦
ではないのかなぁと思います。
揺れを感じ、その後、十秒位の横揺れを体感しまし
こんな大きな地震はもう自分が生きているうちに
た。テレビで速報がでるまでは、いままでに体験し
は起きないと思っていたのですが、スマトラ島の沖
たことのない揺れの大きさだったので、震源地は自
で中越地震のエネルギーをはるかに超えた地震があ
分の家に近いのではと考えていたのですが、速報を
り、その地震による津波で 15 万人以上の人が死ん
見たら震源地が川口町とでていたので更にびっくり
で、まだたくさんの人が行方不明になっています。
しました。
この地震による被害は正確な情報があれば犠牲者は
その後大きな余震がおさまった後、川口町の隣町
もっと少なかったと思います。この 2 つの地震を中
の小千谷市片貝町に母親の実家があるので、安否確
心にたくさんの災害が地球のあちらこちらで起こっ
認のために電話をかけたのですが、家の電話も携帯
ています。こんな時だからこそ人間が皆で協力して
電話にも出なかったので、その日のうちに小千谷に
生きぬいていくことが大切だと思います。
向かいました。小千谷に向かう途中、見附を超える
と、道路の地割れ、液状化現象を起こした地面、倒
れ電柱、避難する人々といった悲惨な風景を見まし
Y. I.
た。母親の実家に着いたら、もうすでに車の中に避
自分は、10 月 23 日地震が起きたとき、市内の体
難をしていて無事でした。話を聞いてみると最初は
育館にいました。最初、窓が割れるような音がした
ドーンと突き上がったので何かが爆発したのかと思
ので、風かと思いました。そして、その数秒後地震
い、その後、激しい揺れを感じたので何も持たずに
がきました。天井のライトが落ちてきそうなくらい
一目散に逃げたそうです。この話を聞いた時、やっ
揺れ、女の人の悲鳴が聞こえました。体育館は隠れ
ぱりこれだけ大きい地震が起きると非常用袋を持っ
る場所がないので危ないと思い、走って外へ逃げま
ていく余裕すらないことが感じられました。その日
した。外に出ても揺れは続き、立っていられないほ
は話をしてから、危ないのですぐに帰りました。
どでした。それからも地震が続いたので、一緒にい
日曜の朝、目が覚めてテレビの電源をいれると、
た友達と駐車場で 2 時間くらい待機していました。
どこの局でも新潟の中越地震の情報が伝えられてい
その後、家族が避難している公民館に行ってみる
ました。自分が 5 歳の時にテレビで見た阪神・淡路
と、すごく沢山の人がいてビックリしました。毛布
大震災の様でした。テレビを見ていて、地震による
をもらい、その日は公民館に沢山の人がいたので、
死者の情報がはいるたびに、自分は同じ新潟県人と
車の中で寝なければいけなくなりました。車の中で
してすごく胸が痛みました。地震発生から 2 日目は
ラジオをつけ、地震情報を聞いて震度 6 だと知らさ
家で地震のテレビを見てすごし、3 日目にまた片貝
れ驚きました。歩いて町の様子を見に行ってみると、
に行くことになりました。その日初めて地震後の家
コンビニ以外の全ての電気が消え、真っ暗でした。
に入りましたが、家の壁はところどころはがれたり、
学校の石の門がくずれていたり、信号機が落下した
亀裂が入っていたけれども、テレビで見たものより
りしていました。悲惨な状況でした。自分の住んで
新潟県中越地震体験記­ 55
いる見附市は水害でも大変な被害を受けて、やっと
ず、車の中で夜を過ごした。この時に、二度と車内
落ち着き始めたというのに…。その日の夜は、当然
生活はしたくないと思った。
風呂にも入れず、まともに食事をすることもできな
夜が明けて、電気が復旧したのは、午前 9 時頃だっ
くて、みかん 1 個とバナナ 1 本だけでした。その日
た。24 日には部活の大会がある予定だったが、こ
は夜中になっても余震はおさまらず、不安でまった
の地震のせいで中止になってしまった。余震はその
く寝ることができませんでした。何度も強い余震が
後もたびたび起こり、家族全員、家が壊れないかと
あり、車のなかでもすごく揺れを感じました。
心配していた。家の被害は思ったより少なく、物が
次の日になると、被害の大きさがさらにはっきり
とわかりました。塀のある家は、ほとんど塀がくず
倒れただけですみ、一日で片付けが終わった。今後
このような大きな地震は起きないでほしいと思った。
れたり、窓が割れている家があったりして、道路に
石やガラスが飛び散っていました。さらに道路のあ
ちこちで、ひび割れが起き、大きな穴のあいている
T. U.
所もありました。それから家に帰ってみるとメチャ
僕は、10 月 23 日の中越地震のとき、ハンドボー
クチャでした。最初に信じることができませんでし
ルの試合で長岡の北部体育館にいました。その日は
た。たんすが倒れ、TVが落ち、パソコンが落ち、
ハンドボールの試合を 5 試合中 5 試合とも出ていて
コンポが落ち、…。最悪でした。余審がまだ続いて
体がへとへとでした。試合が終わりハンドボールの
いたけど、1 日かかってやっと家の中をかたずけま
ボールやユニフォームを片付けていたら地震がおき
した。それから何日も苦しい日が続きました。電気
ました。最初は何が起こったか混乱していて何もで
は使えるものの水は出ず、ガスは使えず大変でした。
きませんでした。その時、体育の壁のコンクリート
今まで最も最悪な 1 週間でした。
がはがれたり、電球が落ちたりしてすごく怖かった
日々快適に生活できることがどれほど幸せな事か
よくわかりました。もうこんな経験はしたくないで
です。あと友達が通路に出ててコンクリートの下敷
きにならなくてよかったです。
す。でも、この地震の経験はすごく貴重なものなの
ハンドボール部のメンバーで外に出て安否を取
で、しっかり心にとどめておきたいと思います。そ
り、いったん学校に戻りました。学校に戻る途中も
して毎日、快適に生活できることに感謝していきた
大きな地震がきてびっくりしました。電柱は 10 秒
いです。
以上揺れたり、前の車がひっくり返るんじゃないか
というほど揺れました。やっとのことで、高専坂の
K. I.
前についた。その時、自分は高専が大丈夫かどうか
心配でした。途中まで坂は大丈夫だったので良かっ
10 月 23 日に起こった中越地震は、今でもハッキ
たと思ったのもつかの間、寮に行く道は人が通るの
リと覚えている。その日は、午前中に部活に行って、
もやっとくらいの道になっていたのでびっくりしま
午後地元に戻ってきてから散髪に出かけた。散髪が
した。雪を溶かす水が出る所から半分に分かれてて
終わり家に帰ってからすぐに中越地震が起きた。本
すごい光景だった。
当にそれは突然の出来事だった。一度大きな揺れを
寮に行くのは危険という事で、ハンドボールのメ
感じたと思ったら停電になった。この時は、普段起
ンバーや他の人達も駐車場で一時間 30 分ほど待機
こる様な地震で心配することはないと思った。しか
していました。自分はその日ジャンバーやいろいろ
し、その考えはすぐに打ち消された。再度大きな地
防寒着を持ってきたので、あまり寒くなかったけど
震が襲った。それも一度や二度で収まらず何度も起
だいぶ寒かったです。待っている時も大きい地震が
きた。さすがにこの時とても驚いて、家の外に出た。
2 回くらい起こったりしました。1 回目には機械工
ラジオで地震の規模などについて聞いて、さらに驚
場が爆発したりと休む暇がないほど恐ろしかったで
いた。中越地方を中心に震度 5 ∼ 6 の地震。それも
す。その後、第 2 体育館で 1 日過ごしました。自分
断続的に続くために、その日は心配で家の中に入れ
は 5 試合も試合に出っぱなしだったので、すぐに寝
56 ­新潟県中越地震体験記
たけど、他の友達は寒いとか怖さで寝れなかったそ
に避難しました。余震がおさまりかけたのを見計
うです。
らって、布団を持ってこいという指示が出て、みん
この地震について思ったことは、やっぱり避難訓
練とかはちゃんとしないといけないなあと思った。
今後このようなことがないように日常も気をつけて
生活したいと思います。
なで布団とお菓子などを持ち出して、1 夜を過ごし
ました。
次の日は西山の友達の家に泊めてもらい 3 日目に
家に帰れました。帰ってくるときも長岡市内は信号
が消えていたり、先生が言ってたようにマンホール
Y. O .
僕は 10 月 23 日は土曜日だったのですが寮に残っ
ていました。早めに風呂に入り、3 号館の 2 階の自
が浮いていたりと、すごかったです。いい経験がで
き、できれば自分の子にも(自分が大人になったら)
伝えたいです。もう生きている間に地震には遭いた
くないですね。
分の部屋に戻って頭をふき、壁側にある自分のベッ
トに座り、そのまま壁によりかかっていました。そ
T. K .
してベットの隣にある僕の机に置いてあるスピーカ
を同室の F 君がかまっていた(あの日の事は凄い覚
地震が起きたとき、自分は部活の大会で体育館に
えています。)そのときでした…。一度グラッと揺
いました。何が起きたのか分からなく、最初は強い
れてその友達と一緒に「お !?」といった顔をした瞬
風が吹いたと思い、地震と分かるまでにかなり時間
間 グラグラァ‼ときました。もの凄いゆれでベッ
がかかりました。自転車で体育館に行ったので、余
トの手すりにしがみついていました。自分が見えて
震の中、自転車で帰ることになり、本当に死ぬかと
いる景色はまるでSF映画(まるで「ゴジラ」の世
思いました。帰っている間は、家が壊れていないか
界にいるようでした。)かと思えるほどでした。何
が心配で急いで家に帰りました。家に帰ると、近所
度も何度も本棚とロッカーが平行に右、左と見事に
の人がガスコンロを出してくれてカップラーメンを
滑っていました。そしてバチバチッという音がして
作ってくれました。普段話したこともなく、あまり
電気が消え、まだ揺れは続いています。するとロッ
付き合いのない人も親切に接してくれ、自分の近所
カーが僕の方に倒れてきて、ベットの手すりに摑み
にはいい人達がいると思いました。本当に助かりま
ながら右足で押さえていました。そのとき友達も本
した。
棚を押さえていてくれました。
次の日、明るくなってから家をみてみると、壁紙
長く感じた揺れもおさまり、みんなで外に出て、
がはげ、そこらじゅうの壁にヒビが入ってボロボロ
宿直の先生の「全員女子寮前集合‼」という声を聞
落ちていたりと、大変なことになっていました。電
いて、全員が女子寮に集まったところで 2 回目のゆ
気がついたのはその日の夜中で、テレビをみてみる
れが来て、本当にほぼ同時に全員が座り込んでしま
と家が崩れて避難している人がいたり、道路が崩れ
いました。そしてテニスコートに避難して、みんな
ていたり、ひどい事になっている町が多く映ってい
で喜びを分かち合っていました。そしてエコーライ
て、自分の家の被害なんてたいしたことないように
フ ( 寮の飯を作っている会社です ) が残っていたパ
思いました。家が崩れてしまった人もテレビで「避
ンやみそ汁をみんなで分けて ( 土曜日だったので帰
難所で食料がもらえるだけでもありがたい」のよう
省した人もかなりいたので不幸中の幸いでした。)、
な事を言っていたので、自分の家がなくなってし
食べ終わったときに、3 回目の揺れがきてテニス
まったのに文句も言わず、そういった事にありがた
コートが起伏してしまいました。そして揺れがおさ
いと思えるのは立派なことだと思いました。見習い
まったとたんドゴーン‼ という爆発音がしてビッ
たいと思います。
クリしました。(後にあれは薬品が混ざって爆発が
次の日、自分の部屋を片づけようとしたら、机の
起こったそうです。)そして、栖吉中学校や小学校
上の物は全部落ちているし、ベットはすごい所まで
の体育館は空いていないということで、第 2 体育館
動いているし、テレビは落ちて底がへこんでいるし、
新潟県中越地震体験記­ 57
大変なことになっていました。部屋中グチャグチャ
も、がんばって外に出た。みんながあわてて出てい
ですごく落ち込みました。そして一生懸命部屋を片
た。外に出た後、ケータイを見てみた。予想通りみ
づけ、やっときれいになった次の日大きい余震がき
んなが使っていたため、まったく電話もできなかっ
ました。その余震で、また部屋がグチャグチャにな
た。
り、地震がおきてから何にもいいことがないと思い
ました。
ぼくは地震が来る前に電話していたので、親がす
ぐに迎えに来てくれた。そして、家に帰る途中も何
大きな余震がおさまっても、小さな余震が起きる
度か地震があった。そのとき、高速道路の下にいた
だけで驚き、本当に地震に敏感になっていると思い
ので、とてもこわかった。もしかしたら落ちてくる
ました。いつ地震が起きるか分からない中で、緊張
かもしれないという怖さがあった。でも、国道 8 号
しているような生活がいつまで続くのか不安でし
線の橋が切れたため渋滞していた。なかなか進めず、
た。やっぱりこの地震は普通の事ではないので、ずっ
とてもこわかったけど、何とか行って家に帰ること
と忘れないようにしたいと思います。
ができた。
そして、この地震で本当にすごいと思ったのは、
家ではみんなが外にいた。でも、ぼくは自分の部
他の県からボランティアや募金などの応援です。自
屋に行ってみた。机がもとの位置とぜんぜん違った
分には何の利益もないのに、被災者のために必死に
所にあって、テレビが落ちていた。その他にもいろ
援助をしてくれるボランティアの人達は、本当に立
んなものが倒れていてクローゼットもあいていた。
派だと思いました。他にも道路の工事なども、他県
壁には 2 ヶ所に横の亀裂があった。当日の日は 2 階
の人達が多く修理してくれたような気がしました。
では寝ずに 1 階で家族といっしょに寝ていた。それ
自分の家の前にも大きな穴があいてしまったけど、
からは、ときどき地震がくるたびに、テレビを見て
埼玉の人達が、直してくれていました。自分も逆の
震度などを見ていた。僕の住んでいる中之島が最も
立場になったら今回の経験を生かし、自分のできる
強い震度になったときが一度あった。そのときは家
ことをしたいと思います。
がギシギシ言って、ひさびさに外に避難した。家に
この地震では、普段当たり前にやっていることが
全然できませんでした。電気もつかず、風呂にもは
戻ってテレビを見ると、震度がとてもすごかった。
こわかった。
いれず、普段の生活がとてもありがたいもののよう
それから徐々に地震の回数や強さも減少して、今
に感じました。このありがたさを忘れないようにし
はほとんど地震が起こらないようになった。しかし、
たいです。学校もそうでした。最初の一週間ぐらい
こんどは日本全国で地震が起こるようになった。あ
は正直、休みになってうれしかったけど、さすがに
ちこちでいろんなことが起こっている。外国でも大
何ヵ月も休みになると喜んでいるような場合ではな
津波や異常気象が起きている。今の地球はどうなっ
いような気がします。そして、やっぱり怖いのは自
ているんだろう。怒っているのかもしれない。とに
然災害だと思いました。地震には何をしてもかなう
かく、人間は生活を見直す必要があると思った。
気がしません。今回の地震は一生忘れないようにし、
多くのことに生かしていきたいと思います。
A. K.
K. K.
10 月 23 日午後 6:00 になる少し前、ちょうど僕
が家の自分の部屋で漫画を読んでいた時でした。昨
地震の時は部活の大会で北長岡の体育館にいた。
年は、何回か小さな揺れが起こっていました。当日
大会が終わって、後片付をし、玄関に行こうとした
も揺れ始めは、そこまで大きくなかったため「どう
時に、いきなり体育館の窓ガラスがガタガタと揺れ
せ、すぐ収まるだろう」と心の片隅で思っていまし
た。初めはとてもビックリして何がなんだかさっぱ
た。揺れは序々に激しくなり、周囲の物は次々と転
りわからなかった。揺れよりも、音が怖かった。一
落し、本棚も倒れました。本棚は大工が部屋を作る
回目の揺れがおさまった後、ひざが震えていた。で
ときに一緒に作ったものでした。「地震が起きても
58 ­新潟県中越地震体験記
倒れないように天井にくっつけておきます。」そう
も分からないし、たとえ火事場の馬鹿力で持ち上げ
言って作ったそびえ立つ本棚は、工夫も生かされる
たとしても、両手は塞がりドアを開けることは不可
ことなく僕の頭に直撃しました。眼鏡は吹き飛ばさ
能でしたし、ましてや漆黒の闇の中で飛び降りる事
れ、ガラスは割れました。電気は消え、痛みで悶絶
はリスクがあまりに大きすぎました。結局、仕切り
し何がなんだかわかりませんでした。
を越え、脱出することにして成功しました。
家がいつ倒れてもおかしくない状態だったため、
家の外に出て地震のすごさにただただ驚いていま
急いで脱出しなくてはいけないと思い、ガラスの破
した。この頃は、この山奥の村は、町に行くための
片の中から手探りで眼鏡を探り当て、飛び出そうと
通路が全て土砂崩れや亀裂で塞がれ、完全に孤立し、
しました。しかし、ドアが倒れた本棚が邪魔で開け
援助物資が届くのはまだまだ先になるという事は知
ることができませんでした。部屋の外や家の外から
るよしもありませんでした。
は兄や親が叫んでいるのが聞こえていましたが、ど
うすることもできませんでした。「本棚を持ち上げ
て出るか」「窓から飛び降りるか」「仕切りを越えて
T. K .
隣の部屋から出るか」「助けを待つか」地震がまだ
中越地震が起きた時間帯は午後 6 時頃、普通なら
続くなか、脱出のための四択に迫られていました。
高専からの帰りの電車の中にいた時なのですが、運
本棚が倒れ部屋の外からは内部の状況さえ分から
がいいのか悪いのか、その日は土曜日だったので、
ない、ましてやいつ家が壊れるかもわからないなか
地震が起きた時、震央から少し離れた場所の、自分
で待つことはできませんでした。本棚は同じ物を背
の家の近くにある店の中に僕はいました。特に予定
中合わせにして辞書やら文庫などを詰め込んでい
もなく、ただ店の中を歩いていると、かすかにです
て、恐らく 200㎏以上。持つことができるかどうか
が、店が揺れていることに気がつきました。初めは
寄宿舎内立入の際に、受付をする寮友会の学生
新潟県中越地震体験記­ 59
気づかなかったのですが、揺れている時間が長かっ
そこで部活のハンドールの試合を中越高校としてい
たため揺れていることに気づいたのです。しかし、
た。試合が終わり、後片付けも済ませ、階段を降り
最初は揺れが小さかったし、揺れが長かったためそ
ていると、体が浮く感じがして、その後から「ゴゴ
れが本震だと思い、それならすぐおさまると考え安
ゴー」という音が激しい揺れが来た。私はその時、
心していたのですが、それが起こったのは僕が安心
階段にいたので死ぬかと思った。二階にも人がいた
していたまさにその時でした。
ので様子を見に行ったら、天井が「バラバラ」と落
急に店が揺れ始め、店の商品は床にほとんど落ち、
ちてきた。そしてみんなで避難して、車に乗り学校
落ちた商品はもとの位置から数メートルも離れ、そ
へ向かった。車で移動している間も大きな揺れを感
して天井から垂れさがっている非常口の看板は大き
じた。ゆっくり走っていたので町の様子がよくわ
く揺れるくらいの大きな地震でした。僕も最初は何
かった。ガラスが割れ、電柱が傾き、壁が崩れてい
がおきているかも理解できず、理解した時にはもう
た。学校に着くと駐車場に人がたくさん集まってい
地震の揺れに耐えていることしかできないくらいで
た。しばらく、待機していると、また大きな揺れが
した。長かったようで短かった地震がおさまると、
起こり、爆発音が聞こえてきた。またしばらく待っ
店は散乱した状態、地震は連続して起こることを考
ていると、今度は寮からの差し入れのおにぎりなど
えるとその店にいるのは危険だと瞬時に判断できる
が出てきた。
ほどの荒れ方でした。その後すぐさま今だに揺れて
寮に避難すると、けがをした人や、靴を履いてい
いる非常口の看板の下を通って店の外には出たので
ない人がたくさんいた。寒い人用の布団や白衣が配
すが、そこから帰るまでに 2 度も地震が起きるほど
られ、けが人は避難所に避難した。テレビで中継を
大変な地震なのでした。
見る人や、この後どうなるか話す人でガヤガヤして
結局、自分の家の被害状況は数個の物が落ちてい
いた。そして、安否確認のための点呼が取られた。
たとかそんな程度だったので、そんなに強い地震で
そして、第二体育館に移動した。そして、また点呼
はなかったのかと思っていました。しかし、次の日
を取り、布団や貴重品を寮に取りに行った。4 号館
の朝のニュースがとても衝撃的な内容だったことは
の人は立ち入り禁止だったので、余っている布団も
今でも覚えています。そして、その時になって僕は
持ち帰った。その日は余震が続く中で寝た。
初めて、地震の恐ろしさというのを理解しました。
次の日は、あまり寝れないまま、7 時前に起こさ
たまにニュースでは外国で地震があったところを見
れた。そして、朝食のパンが配給された。その後、
たりするのですけど、これほどの衝撃をうけたのは
布団などの後片付けをして、どうやって帰るか家に
初めてでした。おそらく、その理由としては、震源
電話した。話していると新潟方面に車で送ってくれ
が外国のため興味がいかなかった程度の理由なのだ
るという上級生がいるというので、その人に頼んで、
が、それでも自分の身近で起きていることに関して
新潟駅まで送ってもらった。そして電車で内野まで
は、衝撃が何割増しかになっているような気がする
行き、家に帰った。
くらいです。
この地震で私は、自然の力の恐ろしさと、世の中
そして僕はそれを見て、自分の家の近くでなかっ
にまだ親切な人がいるんだと感じた。そして、その
た安心感と同時に、被災地の人々に対する同情する
人の力が中越の人たちを支え、ここまで復興ができ
思いを感じていました。まあ、その地震のせいで、
たんだと思った。
その後当分は学校が休みにはなったのだけれど、で
きるならこの位の規模の地震はもう起きてほしくな
いと思っています。
Y. K .
10 月 23 日、僕は普通に休日を過ごしていた。ま
Y. K .
私は中越地震の時、長岡市の北部体育館にいた。
60 ­新潟県中越地震体験記
さか、こんな大災害になるとは思ってもみなかっ
た。僕は、地震があるまでぐっすり寝ていた。夕食
の時間が近づき、少し早目の目覚まし時計で起き、
ベッドから降りようとしたその時、いきなり、すべ
自分がやり残したことはやってしまおうと思った。
てが揺れた。急いで全部の毛布を上にかぶって防御
いつ何が起こるかわからない世の中だから、やり残
した。僕はいきなりの出来事でなにがなんだか分か
したことを残したくない。地震のせいで、多くのも
らなかったけど、指導寮生たちが呼びかけて外まで
のが苦労し、多くのものを無くした。そいうニュー
導いてくれた。その間にも、何回も余震があって大
スを被害のほとんどなかった土地から見てるのは、
変だったが、なんとかテニスコートまできて、一応、
とても胸が苦しくなった。自分にできることなら、
助かったのでよかった。
いろいろしたかった。なのに今回に限って何もでき
見るも無惨だった。地面は、いたる所で地割れが
なかった自分はくやしかった。今度は何か人のため、
起きており、コンクリートは盛り上がっていたり、
いや、みんなのためにいろいろサポートしたい。こ
割れていたりなど。僕はこの光景を見て言葉を失っ
の貴重な体験を胸に、強く生きたい。
た。あの、初めて見た高専の姿が、今ではもうこん
な姿になるなんて夢にも思わなかった。今後学校は
どうなるのか。まだ一年も経ってないのにここで学
H. K .
校生活が終わってしまうのか、そんなのいやだ。い
10 月 23 日私は、長岡駅で家に帰るためのバスを
や、その前にこんなに甚大な被害だから世界はどう
待っていました。いつも通りに東口のバス停に座っ
なってしまったかすごく心配になった。当分そんな
てバスを待っているときでした。突然ものすごい音
ことをいろいろ考えたが、思考は止まった。なぜな
と揺れにおそわれました。始めは何が起きたのか
ら今は秋の夜空の下。しんまで寒くなっていくこの
まったく理解できませんでした。とにかく頭上に何
状況では、さすがにきつい。でも夕食の方は頑張っ
にもない駐車場へ走って避難しました。しばらくす
て作ってくれたのがあったので良かった。
ると、また大きい音と揺れがきました。目の前をみ
その後は、ところどころ壊れた食堂に集まって指
たらバスがひっくり返りそうになっていました。そ
示を仰ぎ、第二体育館を避難所として、寮生はそこ
れを見てやっと大きい地震がきたんだと理解できま
で泊まることとなった。布団をとりに行くために、
した。長岡駅では火災報知機が鳴りひびき、避難し
寮に入って取ってきたはいいけれど、いつ壊れるか
ていた駅前の駐車場に多くの人が集まってきました。
分からない状況で取りに行ったのでとても怖かっ
地震が発生してから 15 分ほどたった時にバスが
た。それから寝る前も寝ている間も、ひんぱんに余
発車しました。バスの窓からの風景は今までに見た
震が続き、恐くてたまらなかった。
ことのないモノでした。街灯は全て消えていて、信
地震があって次の日、僕は先輩が車に乗せてあげ
号すらついていませんでした。歩道には民家から
ると言ったので、午後、福島に無事帰ることができ
やってきた多くの人々がいました。道路は地割れが
た。福島も地震はあったけど、あまり影響はなかっ
多く、バスも進むのが困難でした。バスに乗ってい
たみたいだった。僕は嬉しかった。自分より家族が
る時も何回か大きい揺れを感じました。バスは揺れ
無事でいればそれだけでよかった。自分はこの地震
るたび停車しました。普段の 2 倍くらいの時間をか
で 1 番大切なのは家族なんだと知った。ここまで自
けて目的地まで行こうとしていましたが、途中で土
然災害というのは、みんなを巻き込む恐ろしいもの
砂崩れがあってバスが通ることができませんでし
だと分かった。
た。そこでバスを降り、歩いて家に帰ることにしま
あれから 2 ヶ月弱の長い休みになるとは思いもし
した。歩いていると被害の大きさがとてもよくわか
なかった。すぐ始まるだろうと希望をもっていたけ
りました。道路の半分が大きく落ちている所があり
ど、この地震は予想以外に被害が大きかったらしく、
ました。家に近づくにつれ、被害が大きくなってい
当分かかるというのだから、改めて地震はこわいと
ました。
思った。でも、この休みの期間は自分を見つめる時
家につくと近所の人が全員、家から出て道に避難
間となった。いままで自分が何をしてきたか、それ
していました。壊れた玄関のすき間から家の中をの
で良かったのかいろいろ考えた。学校が始まったら、
ぞくと、壁が崩れて家具も全て倒れていました。そ
新潟県中越地震体験記­ 61
の日から車内での避難生活が始まりました。車内で
地震がきて、家の中がメチャクチャになった。一人
生活を始めて数日した日、家の裏山に亀裂が発見さ
では、どうすることもできないのでボランティアセ
れたらしく避難勧告が出されました。その日から 3
ンターに電話して、若い人を派遣して欲しいと言お
日くらい家がある地区には立ち入ることができませ
うと思ったが、どんな人が来るかわからない。他人
んでした。結局、住んでいた家は雪の重さの心配と
が家の中に入る事は不安だった。最初は少し恐かっ
山崩れの心配があるため生活することをあきらめま
たが、あんた達みたいな人が来てくれて楽しいし、
した。
助かるよ」と言って下さいました。私はとてもうれ
今回の、中越地震で自然災害の恐ろしさを感じま
しく感じました。
した。今までは毎日平凡な生活でつまらないと思っ
ボランティアを必要とする人の「ニーズ」は一人
ていましたが、今回の地震で平凡な生活をすること
ひとり違い、求めているものは、仕事を通じて人の
が一番幸せなんだと思いました。
気持ちに寄り添うことだと思いました。つまり、相
手の立場に立ち、望んでいる事を望んでいる方法で
Y. K .
行うということや、要請があっても、自分は「させ
ていただく」という立場を認識するということが大
私は最初の地震が来たとき、スーパーの立体駐車
切であると感じました。今回の訪問宅のおばあさん
場にいました。家族と買い物をすませ、車に乗り帰
は、独居でさびしかったのかも知れません。また、
宅しようとエンジンをかけて、すぐ大きく揺れたの
私達が派遣された事で少しでも良い時を過ごせたな
です。はじめは、車がパンクしたのかと思いました。
ら…と思います。私も、家族は仕事で学校は休講で、
しかし駐車場を出てすぐに地震がきたということ
余震もある中、ボランティアを通じ、おばあさんと
と、規模の大きさに驚きました。信号のライトが消
一緒で心強かった部分もあります。この仕事は、人
えて、町の灯りも消えていたのです。家に帰ると、
のためだけでなく、実は自分のためだったのかもし
水槽の水は、半分こぼれ、ピアノは動き、壁には何ヶ
れない。人間は、人を支え、人に支えられて、生き
所にもヒビが入っていました。しかし、1 週間ほど
ているものだと思いました。
すぎて、テレビや新聞、その他のメディアから自分
その後、避難所などで現地活動をして、11 月に
の家は、まだ被害が少なかった方だという事を知り
入ってしばらくした頃、ボラセンのチーフから、
「今
ました。そして、長岡の福祉協議会の災害ボランティ
度は、センターのスタッフとしてボランティアしな
アセンターへ行き、ボランティア活動に参加する事
いかと誘われて、センターのスタッフとして働く事
にしました。
にしました。そこでは、電話確認班アンド マッチ
私は、今回の災害で初めてボランティア活動に参
ング班としてボランティアしました。自分以外のス
加しました。活動を通じ、ボランティアに対する考
タッフの人は、ほとんど社会人の人で最初は緊張し
えが変わりました。それは、ボランティア活動に「た
ましたが、目のまわるような忙しさに、次第に緊張
だ参加する」という気持ちから「させていただく」
しなくなりなりました。センターのマッチング班で
という気持ちに変わったということです。10 月 28
ボランティアしていると長岡市内の被災情報がわか
日、私は、友達と災害ボランティアセンター(以後
り、中でも多かった被害情報は、家の庭のブロック
ボラセン)へ行き、登録をし現地へ派遣されました。
塀が地震で倒れてしまったというケースでした。
私達の仕事は、独居のおばあさん宅の部屋清掃で
「ニーズ」が多く、ボランティアさんの人数が足り
した。寡黙なおばあさんでした。私は、コミュニ
ない時は、スタッフの私も現地に行き、活動しまし
ケーションをとりながら作業した方が良いと思い、
た。その時、業者の方が家の前の道路を改修してい
私から自分自身の事や、おばあさんに長岡の昔の事
る様子などを、すごい近くで見る事ができました。
を質問したりすると、次第におばあさんからも声を
今回の地震は、一生忘れる事はないとおもます。
かけて下さいました。しばらく会話をしていたら、
しかし、私なりに良い体験をたくさんする事ができ
おばあさんが次のような事を言いました。
「大きい
たので、今回の災害や体験を将来に生かしていきた
62 ­新潟県中越地震体験記
いと思います。
ちだけでした。懐中電灯やラジオ、ヘルメットまで
持ち出していました。今思えば、用心しすぎだと思
N . K.
います。
その日の午前、僕は部活で長岡にいました。地震
10 月 23 日の夕方、突然地面が揺れました。僕は
が数時間早く起きていれば、私も震度 6 の大きな地
地震が起きた直後は何がおこったのか全然わかりま
震を目の当たりにするところでした。後に人の話で
せんでした。やがて少し時間が立ってから、それが
聞いたのですが、地震が起きた際、地面が波うった
地震だということに気がつきました。それに気付い
り、建物が曲がったりと、私の頭では想像できず、
たときには、2 度の大きな余震があり、僕は 一体
地震の力はすごいものだと思いました。環境都市工
この地震はいつまで続くんだろう と不安と恐怖で
学科で学んでいる以上、地震に対する知識は、しっ
いっぱいになり、生きた心地がしませんでした。
かりとしたものでなければいけないと思いました。
あとでテレビを見たら、地震の震度は震度 6 弱、
いずれ、自分が大きい地震で被害にあったとき、そ
この時、僕は初めてこんな大きな地震を体験しまし
の知識を生かし、地域に貢献できれば、こんなにい
た。とても恐い経験になりました。なにしろ地震が
いことはないと思います。
きている間は食器棚が倒れ、中の食器が全部床にお
さて、今回の地震で被災して、大きな損害が生じ
ちて割れ、テレビや電気は付いたり消えたりと、そ
ましたが、徐々に復興しています。復興できるのは、
れはもうひどいありさまでした。
やはり多くの人々の支援があることにほかなりませ
僕はこの地震で防災の大切さを知りました。この
ん。日本全国からボランティアがかけつけ、多くの
新潟県中越地震で家はなんの防災対策をしていませ
義援金が集まり、その他、様々な形で、はかり知れ
んでした。例えば、家具が倒れてこないための固定
ない援助を受けています。今、東海地震などの地震
器具を付けていなかったり、緊急避難用の持ち物も
をはじめ、様々な災害が危惧されていますが、それ
用意していませんでした。
らが発生して、大きな被害が生じたとき、新潟が援
これからは、防災対策をきちんとして、起きて
助を受け復興しつつあるように、その土地を何らか
ほしくないけど、また地震が起きてしまっても、
の形で援助し、復興の手助けを恩返しとしてできれ
すぐにきちんと対応できるように努力していきた
ば、いいことなのだと思います。日本が災害に強い
いです。
国となるには、防災の技術が進歩することと同じく
らい、日本が助け合い、支援しあうことも大切だと
T. K.
最初、地震が起きた時、私は田上の自宅にいまし
た。田上は三条よりの新潟よりで、新津の手前です。
田上の震度は、震度 4 くらいで、それほど大きくは
思いました。
Y. K .
10 月 23 日に僕は、近くのスーパーで、お惣菜売
ありませんでしたが、大きい地震の経験の無い私は、
り場でバイトをしていたら、午後 5 時 30 分頃にとて
とても大きく感じました。地震が起きて、おさまっ
も大きな地震があった。そして、その大きな地震が
てすぐにテレビの電源をいれて、地震についての情
起きた時、僕はカツのパン粉づけをしている最中で、
報を得ようとしました。テレビの情報で、震源が意
周りにあったフライヤー(家庭で使う鍋の業務用み
外と近くで驚きました。震源が小千谷市付近という
たいなもの)の中にある高温の油がゆれて、沢山こ
ことで、長岡高専の寮にいる友人や、小千谷にいる
ぼれて、チーフがそのフライヤーの電源を切ろうと
友人の身を案じました。窓を開けていつでもとび出
したら、油がかかりやけどをしていた。売り場の方
せるように、靴をはいたまま生活していました。余
を見たら、棚にある商品が落ちたりして、お酒コー
震が起きる度に、とび出していました。でも近所の
ナーの場所ではお酒が落ちて割れていた。そして、
人達は全く動じていなくて、家から出てくるのはう
そういう事が起きているうちに、また大きなゆれが
新潟県中越地震体験記­ 63
おき、少しおさまったと思ったら、またすぐに 3 回
目の大きな地震があった。その日、そのスーパーは
通常、夜の 12 時まで開店しているが、地震の後にす
ぐ閉店した。僕は、いつものめんどくさい後片づけ
A. S.
10 月 23 日土曜日、17 時 56 分に新潟中越地震が
をする予定だったが、その日は洗い物だけですんだ。
起こりました。多くの被災された方々、早い復興を
そして帰りの準備をして、すぐに家に帰ってテレ
願っています。わたしは寮生なのですが、この地震
ビを見たら、地震の震源が小千谷で震度は 6 強で、
の時ちょうど地元の燕市に戻っていました。うちで
とってもびっくりした。そして、それからも、何度
は家族で夕ご飯を食べ始めたときに大きな本震がき
かやや大きいゆれがあり、寝る時は、とても心配で
ました。燕市は震度 5 程度でしたが、すごく大きな
あんまりよく眠れなかった。
揺れでとても驚きました。揺れが落ちつたかと思う
次の日は寝不足で、しかもバイトがあった。その
と、またすぐに大きな余震が度々続きました。テレ
日、開店は平常通り 9 時からだったが、お客様が沢
ビをつけても、どこも地震の情報が放送されていま
山いたせいか 9 時前に開店した。僕のお惣菜売場で
した。夜遅くになってもずっと余震が続き、怖くて、
は、地震のせいか、もう何でもかんでも売れて、天
その日はあまり寝つけませんでした。
ぷらや揚げ物を作っても作っても間に合わなく、冷
次の日、24 日の朝、わたしは寮の様子が心配だっ
蔵庫や冷凍庫の食品をあるだけ作り、てんてこまい
たので、父と一緒に高専まで車で来てみました。や
だった。そして、何よりもビックリしたのが、カッ
はり長岡に入るとひどく、道路の隆起、沈下、マン
プラーメンの売れ行きだった。地震のせいで保存食
ホールがとび出たりしていました。高専に着いたら
がとても売れ、カップラーメンは、その日のうちの
本当にひどい状況でした。言葉も出ません。道が
午前中だけで、棚にあるものと、ストックしてある
パックリ割れていたり、校舎の 5 号館のガラスが飛
のも全部売れてしまい、文字通り、完売だった。そ
び散っていました。とりあえず寮の自分の居室の様
して、お昼すぎて、勢いが衰えるかと思ったら全然
子を見に行きました。ドアを開けてみると棚やロッ
衰えなく、もっと混んでいった。休憩の時間は、も
カー、机の位置がすべて変っており、床には物が散
うぐったりしていた。
乱していました。見たとき、わたしは呆然としてし
そして、家に帰ったら父親の実家が小千谷だった
まいました。そしてしばらく居室にいたら、友人か
ので、その小千谷の家の子供 2 人が避難をかねて、
ら携帯に電話がかかってきて、「残寮してた人、全
長い間、僕の家で暮らす事になりました。そして、
員 2 体にいるから」と連絡がきました。わたしは父
家の中は 2 人、人が増えたせいか、家の中がにぎや
と 2 体に行きました。その途中も道が割れていて歩
かになり、とても楽しかった。2、3 週間たつと大
きにくく大変でした。2 体に着くと男子も女子も全
体地震もおさまってきて、地震の震源が小千谷でな
員いてとりあえず、家に帰るという感じになってお
く、川口町付近だという事が分かり震度も 6 強では
り、うちの車で弥彦の人を 2 人乗せて帰ることにな
なく、7 という事が分かった。これにはとてもおど
りました。その 2 人は男子寮生で、ちょうど寮内に
ろいた。そして、小千谷の子供が帰る事になり、こ
いたらしく、すごい揺れで危なかったといろいろ話
れから大変そうだと思った。
をしていました。話を聞いていると、本当に地元に
こんなに大きな地震は初めてで、とてもびっくり
戻っていて良かったと思いました。残っていたら、
した。そして何よりもびっくりしたのが、山古志村
わたしはきっとパニックになっていたと思います。
に行く道路が、もう道路と言えないほど、波打って
本当に恐しい体験をしました。
いて、もうぼう然としてテレビを見ていた。そして、
もうこんな事が起きないでほしいと思った。
現在、年が明けても余震が続いています。以前よ
りは多少揺れは小さくなりましたが、まだ油断はで
きません。こんなに多くの被害を受けた高専の校舎、
寮がまた再開されて本当に良かったです。まだまだ
完全に戻ることはできませんが、学校でちゃんと学
64 ­新潟県中越地震体験記
べて、寮もなんとか入れるようになったのは嬉しい
られる。人と接することが怖くなる。この時程、携
ことです。2 ヶ月のあいだ、なんだかすっきりしな
帯電話の存在を憎んだことはない。着信音すら聞き
い気持ちで過ごしていました。まだ傷跡の残ってい
たくなくて電源を切った。
る高専ですが、やっぱり前のように過ごせているの
「自分は無力で…」とか「自分なんか…」そんな
でうれしいです。幸い Ci1 年のクラスには、地震の
事ばかりが頭の中を巡る。「死にたい」とは思わな
せいでケガをした人もいなかったようなので安心し
かった。でもそう思っていた人もいるだろう。自分
ました。これからどうやって前のように快適に生活
のことを知っている人たちの中から消えたかった。
を送れるかは、学校全体の努力が必要だと思います。
過去の自分を消してしまいたかった。地震に対する
めげずにがんばっていきたいです。
恐怖があらゆる恐怖に変わり、人間を「死」まで追
いつめる。人間が弱すぎるのか。自然の恐怖が大き
A. S.
すぎるのか。人間は一人でなんて生きていけないけ
ど、「一人で生きていける。」そう思いたいこともあ
今回の地震は被害の大きかった人、少なかった人
る。家族は受け入れることはできても、友達は受け
にかかわらずに多くの傷跡を残した。家が壊れて仮
入れられなかったり、支えてもらいたい人を選んだ
設住宅で生活する人、大切な人を失った人。今もま
り。人間とは弱くて、わがままで、自分勝手でいつ
だ地震の恐怖に怯えている人は少なくない。テレビ
でも自分が一番。でもそれで良いのかもしれない。
などでも「いつ、どこに、どの位の地震が来る。」
下手な優しさは時に人を追い詰める。そうやって、
などいろいろなことを言っているが、それがさらに
悩んだり、怒ったり、笑ったり、泣いたり、けんか
人々の恐怖をかり立てる。だからと言って怯えてば
したりして生きて行けるのも、人間という存在が自
かりもいられない。やらなきゃいけないことは山ほ
分だけでないから。大きな自然があるからこそ、そ
どある。
んな人間が存在して、生きて行ける。広大な大地を、
2 ヶ月の臨時休業、これだけの長い休みにいろん
広大な海原を、森の木々や動物たち。地球全体をもっ
な事が起きた。家や生活の事を考えなきゃいけない
と大切にしていかなければならない。私たちは自然
人もいる。でも一番大変なのは「精神面」
。いつ、
によっていかされているのだから。
どこで地震が起こるかわからないのに、わざわざ外
今回の地震で自然の恐ろしさを知った。それは自
に出る人はいなかっただろう。私もその一人だった。
然を大切にしていなかった人間たちへの仕打ちだっ
学校がいつ始まるかもわからず、何にもできずにい
たのではないかと、今では思う。「良い経験」とは
た。大きな余震が起こる。昼間の家は自分一人。何
言えないけれど、新たに考えさせられることが増え
ともないと思っていたはずなのに、思ったよりも恐
たのではないだろうか。
怖感は心に多く残り、地震に怯える日々は続いた。
棚がきしむ音にも、自分が揺れてるような感覚も、
すべてが体にまとわりつく。ヘリコプターの音でさ
T. S.
えも、耳障りで耳をふさぐ毎日。誰とも会わずに家
私は、新潟中越地震の起こった当日、部活があっ
に閉じこもらなければならない毎日。気が狂いそう
たため寮に残っていました。地震の少し前に、私は
だった。それでも自分は休みを喜んでいると思って
廊下でふと窓の外を見た時夕やけがやけに明るいの
た。しばらく眠れない日々が続く。朝起きるのが遅
を見て、なんだか気味が悪くなり、さっさと部屋へ
いからだろうと思ってた。だんだんと一人でいるこ
と戻りました。
とに恐怖を感じ始めた。眠れないことへの不安も募
そして 5 時 56 分ごろ、突然「ドーン」という音
る。何をすることもなく 1 日中テレビに張りつく。
が聞こえ、その瞬間から激しい揺れが襲い、本棚の
そんな事をしているといろいろなことを思い出す。
物が落ち、ロッカーが動き、私は立ってもいられず
そのほとんどが自分を卑下する出来事ばかりで、自
に、部屋のまん中で小さくなっていました。この時、
分の存在理由なんてことを考え始める。劣等感にか
私はまさかこんな時、こんな所で地震が起こるとは
新潟県中越地震体験記­ 65
思ってもいなかったので、第 1 波が終わった後、急
にこれは地震だ。早く逃げないと、と思い出したか
のように思いました。しかし、ショートにより火災
がおきてはいけないと思い、あわてて部屋のコンセ
ントを抜いた直後、第 2 波がきました。第 2 波は第
1 波よりも激しく揺れ、ロッカーが倒れてきそうな
くらいに動いていました。私はロッカーが倒れてこ
ないよう祈りながらじっとたえていました。さいわ
い、ロッカーは倒れなくて、ホッとしたのもつかの
間、今度は寮から出なくてはいけません。私は、廊
下に飛び出した後、同じ階でまだ残っていた人達と
全速力で寮から脱出しました。
機械工場 爆発により窓ガラス、窓枠全壊
寮の外では、先生や上級生さん達が所在の確認を
していました。その様子はとてもあわただしく、や
ということを学んだと思います。
はり、とんでもないほどの地震が起こったんだなと
実感しました。自分の所在を伝えて、少し安心した
時に、第 3 波が起こりました。今回は、さっきより
Y. S.
も広い場所にいたため、その場でしゃがみ、やりす
10 月 23 日、あの日ぼくは新潟市の自宅にいまし
ごしました。第 3 波後、所在の確認がとれたら全員
た。最初は「あれ揺れているかな ?」と思っていた
でテニスコートへ向かいました。外は寒く、体が冷
けど、すぐにはっきり感じるほどになりました。新
えてきた時に、食堂から夕飯がみんなに配られまし
潟はあまり大きい震度ではなかったので、被害はな
た。私はその時ご飯のありがたさというのが分かり
かったので良かったです。しかし震源地に近い見附
ました。テニスコートにいる間も余震は続きました
の祖父と祖母の家に電話すると相当な被害だったの
が、少しずつ余震が少なくなってきているのが分か
で、親と車で毎日行って、後片付けの手伝いをして
りました。
いました。その被害はすごいもので、家の中は棚や
そして、食堂へと避難した後、最終的に 2 体へと
仏壇などがめちゃくちゃで、家にひびが入ったり、
避難することになりました。2 体へ移動した後、寮
壁が落ちたりとすごかったです。そして、その後は、
に布団を取りに行けることになりました。さっそく
テレビのニュースでは毎日のように中越地方の情報
寮に布団を取りに行くと、中はメチャクチャでした。
ばかりで、ぼくは地元の被災者の映像を見て、人ご
柱にヒビが入り、壁ははがれ落ち、床は足のふみ場
とだとは思えなくて心が痛みました。
がないほどの状態でした。もちろん部屋の中は悲惨
それから全国各地の人からの寄付金や支援物資な
な光景で、さっきまでこの部屋にいたのか ? と疑問
ど、たくさんの人々から新潟へと色々な物が送られ
に思うほど、すさまじい感じでした。それでも一通
てきました。今はもう大分落ち着きましたが、まだ
り荷物や布団を持ち出し、まだ余震が続き、壁がギ
多くの被災者が自分達の家を離れ、仮設住宅などで
シギシ音をたてるような 2 体で寝ることになりまし
不自由な生活を送っています。ぼくはこの経験を生
た。私はすぐに体をねかせ、目をつぶりました。す
かし、全国の人々に防災対策の大切さなどをわかっ
ると、疲れていたのかすぐ寝ることができました。
てもらい、またいつ地震が来るともわからないので、
こうして私の人生の中で悪夢のような 1 日がようや
次は被害を最小限におさえて欲しいと思います。
くその幕を閉じました。
…これは後で聞いた話ですが地震の前には朝やけ
や夕やけがやけに明るくなることがあるらしいで
す。だからそうゆう空を見たら気を付けた方がいい
66 ­新潟県中越地震体験記
最後に全国の新潟の事を心配してくださって、寄
付などをしてくださった人々に感謝します。そして、
がんばろう中越 。
故 ? 雷 ? いやこれは地震だ。さて、この後どう
Y. S.
2005 年 1 月 4 日、2 ヶ月半という長い期間をえて、
しようかと考えました。近くにもぐれる机やテーブ
ルもない。とてもじゃないけど揺れが強く、歩いて
外へは出られそうにありません。しょうがなく、自
長岡高専は授業を再開することができた。完璧な状
分は壁にしがみついているしかありませんでした。
態とは言いがたいが、授業ができる形までこぎつけ
揺れがおさまりホッとしたあと、すぐさまテレビを
ることができた。それは高専で働かれている方々の
つけました。幸いにも停電は一瞬だけで、電力が回
苦労があったからこそできたのだと思う。
復していてよかったです。すると、予想どうり、ど
その被害はあまりにも大きく、実際に見たわけで
のチャンネルでも地震のことをとりあげていまし
はないが、山古志村の状態はTVで見ただけでもす
た。えーっと震源は…中越地方、言葉を失いました。
さまじい。被災地に行って実際の状況を見たなら、
その直後またさらに大きい地震がきました。夕食
更に、地震の大きさを現実味を帯びてくるのだと思
をまだ食べてないのと、揺れによる気持ち悪さで、
う。自分は被災地の手助けに行ったわけではないの
自分はフラフラでした。よしメシを食べよう。地震
だが、こういう時にこそ、人と人が助けあうべき時
がこようが何がこようがおれは食う。そう決心しま
なのではないかと思った。
した。そして、自家製のサーモン丼にかぶりつきま
この中越地震が起きたとき、自分は何をするでも
した。そしてその後、またかよ !! と思わんばかりの
なく、その日に買った小説を読んでいた。自分は震
地震が…3 回目ですぜ、地震さん。おれに満足にメ
源から近いでもなく、遠いでもなく、三条に住んで
シも食わせてくせんのですか ?
いたため震度も 5 ∼ 6 ぐらいで、ガラスが割れた程
今回で自分は地震を恐いと思ったとともに、すご
度のものだった。その後も余震がつづき、一時は避
くいじわるだと思いました。朝になると、被害がこ
難も考えたが、実際に行動に移すまでもなかった。
んなにも深刻なものだと感じました。山崩れの山古
しかし、三条市は 7・13 集中強雨に見舞われたこと
志村や、ところどころの家屋倒壊、道路の崩壊など、
もあり、不安なことも少なからずあったのだが、市
自分の予想をはるかに超えていました。そういえば
としては大きい被害もなかった。ケータイもなかな
高専はどうなったんだろうと思い、友達に電話する
か通じず、連絡がとれなかった時は、相手の身の心
と壊滅状態ときき、当分休みだと分かりました。こ
配ばかりもしたりした。
のときはまだわかりませんでした。ここまで長い長
これからも中越地方にいるかぎり、このような規
い休みになるとは…・そして自分は自分のできるこ
模の地震を、もう受けることもないとは思うが、集
とをやろうと思い、建設会社(土木会社)に行き、
中強雨、地震とつづいて被災したこともあり、ある
災害の復興活動を手伝いました。道路の陥没や橋の
程度のことにおいては、落ちついて対応していける
修理などをやり、この地震がどれだけすごかったか
と思う。
実感しました。できればもうこのような災害は、新
多くの被災した方々のより早い復興を心より願い
申し上げるとともに、この文をしめくりくります。
T. S .
潟にはこないことを願いたいです。人の涙や悲しさ
をもう見たくないです。
A. S.
中越地震、それは私が去年一番印象に残った出来
私は、10 月 23 日新潟中越地震の起こったとき、
事です。地震直後の 10 月 23 日、私は、中之島町の
ちょうど帰省していて、三条に親と一緒に買い物に
自宅でゲームをしていて、そろそろ夕飯でも食べよ
行っていました。店内で普通に買い物していたら、
うかなぁと思っていたときでした。6 時頃、地震発
いきなりゆれ出して、始めは何が何だか分からなく
生…当然、強い揺れが私を襲いました。何が何だか
てカナリ動揺していました。あまりのゆれで、よう
最初わからず、パニックになりました。強風 ? 事
やく、地震だと気づきました。店内では、コップや
新潟県中越地震体験記­ 67
お皿などが落ちて、ガシャーンという音がしたのを
覚えています。私は、店内にいては、危険だと思い、
K . S.
とっさに外に出ました。本当に恐かったです。
家に帰ってテレビを見て、ようやく、だいたいの
僕はあの新潟地震が起こったとき、新潟で映画を
事を把握し、さっきの地震は本当にすごい瞬間だっ
見ていました。そのとき見ていた映画は、銃を撃ち
たのだなぁと思いました。しかし、それからも、余
まくる映画で、最初は音がすごく激しいので、その
震が続き、テレビでは、ずっと地震のニュースが流
せいで席が揺れてるのかなと思っていました。2 回
され、その日は、ほとんど寝られませんでした。
目の揺れのときは、実は、この揺れは銃を撃つ音に
その日から、学校もなく、毎日不安な日々を過ご
合わせて、席を揺らす新しいシステムなんじゃない
していました。テレビでは、長岡や山古志など被害
かと思いながら、その映画を見ていました。3 回目
の大きい所や、避難所がたくさん映しだされていま
の揺れで違うということに気づきました。その場面
した。被災された人たちはみな不安そうで、とても
は全然銃を撃ったりする場面じゃなかったからで
疲れている表情でした。しかし、そんな状況の中で
す。そして、その映画館の店員がきて、地震の規模
「負けずにがんばろう」としている人々もたくさん
や避難勧告が出て営業中止になったという知らせを
いました。
教えてくれました。
この地震を通して、私が一番感じたことは、
「助
そして、映画館を出てみると、外は避難勧告が出
け合い」の大切さです。何よりもまず、ボランティ
るほどの騒ぎもなく、いつもと同じ感じでした。し
アの多さにびっくりしました。県外からも、いろん
かし、駅に行ってみると人がごった返していまし
な専門的な技術者が集まってきたり、普通の一般の
た。電光掲示板をよく見てみると、すべての電車が
人達も、多く、被災地に訪れ、被災者と一体になっ
止まっていました。駅で、地震の話をしていたら、
て、復旧作業に取り組んだり、みんなを励ましたり
通りがかりのおじさんが、震源地などをいきなり教
している姿を見て、改めて、助け合いの大切さが分
えてくれて、詳しい情報を手に入れることができま
かりました。
した。
10 月 23 日から約 2 ヶ月。道路の整備や、仮設住
その後、だんだんと家のことが心配になり、電話
宅の設置が迅速に行われてきたのも、多くの人々の
をかけましたが、回線が混み合ってて電話やメール
助け合いによって成し遂げられてきたのだと思いま
もできませんでした。それも、家から電話やメール
す。今回、新潟の人々は、他県の多くの人々に助け
が全然来なかったので、さらに不安になりました。
られてきました。なので、もしいつか、他県で大き
そして、運がよかったことに友達の電話がつながっ
な災害などがあったときは、今回助けてもらったお
て、友達の親に送ってもらうことになりました。電
礼のような感じで、ボランティアをしに行きたいと
話がつながらなかったら、家に帰ることができな
思いました。そのように、お互いが困った時に助け
かったかもしれません。
合えば、どんなに辛くても乗り越えていけるような
気がしました。
帰ってみると家は無事でよかったです。そして、
親に僕にメールをしたかと聞いてみると「していな
私は今、高専でいろんな事を学んでいる途中で、
い」といわれました。何故かというと、知らないう
専門的な技術もなくて、普通に手伝いをすることし
ちにテレビカメラで撮られていたらしく、その映像
か出来ないけど、これからは、もっともっと勉強し
が全国で流れたらしく、東京のいとこがその映像を
て、地震などの災害の時はもちろん、普段の生活の
見て、僕の家に電話して、大丈夫だということを伝
中でも、皆さんのためになるような事が出来るよう
えたそうです。
に、がんばらなくちゃいけないと思いました。
翌日高専の寮にいる友達に長岡の今の状況につい
て聞いてみると、道路やテニスコートの地面が割れ
ている写真や、ドアが壊れている写真が送られてき
たので驚きました。話を聞いてみるとロッカーや本
68 ­新潟県中越地震体験記
棚が倒れそうになり、まともに立っていられないほ
が半壊や全壊になってしまったら、絶対生きて行け
どの揺れだったらしいのでさらに驚きました。
なくなると思った。天災とは、ここまで恐ろしいも
家をも壊すほどの地震なのに、火災が起きなかっ
のなんだなと確信した。天災はいつ起こるか分から
たのが不幸中の幸いだと思います。火災が起きてた
ないし、防ぐこともなかなか難しい。天災に対して
ら、被害がさらに大きくなり大変なことになってい
人間の力は無力になってしまう。人間の天敵は天災
たと思うのです。
なのかなと思う。
K . T.
H. T.
地震が起きた日、自分は、髪の毛を切りに美容院
あの地震は驚いた。5 時 45 分位にそれは起きた。
に行っていた。いつもどおり髪を切りシヤンプーを
ものすごい揺れに襲われ、一瞬なにが起こったかわ
して、仕上げに顔剃りをしてもらっていた。その時
からなくなった。すぐに外に出ようとしたがそれは
いきなりグラッと揺れ、最初は店員がわざと揺らし
やめた。実際に外に出た人の一人が、この地震の最
ているのかと思ったが、大きく揺れ始め、ビックリ
初の犠牲となった。その後すぐに食料を集め、すぐ
した。刃物を向けられているし、顔を切られるかと
にどこにでも、逃げれる態勢をととのえた。しかし
思った。
幸いにも、その後すぐに大きな揺れがこなかったの
そのあと、停電になり、一度、店の外に出た。少
で、遠くに逃げる必要はなかった。
しして、また大きな地震が来た。外の情景を見て、
しかしライフラインは断たれ、厳しい生活を余儀
目を疑った。周りの家や電信柱、道路などが有り得
なくされた。それでも電気が使えたことはありがた
ない動きをしていたのだ。家はすごい勢いでグラグ
く、とても幸いであった。しかし越路町の人達それ
ラしているし、電信柱は今にも折れそうだし、道路
に川口町の人達は、長岡市の長岡高校や大手高校に
はグシャングシャンに波打っていた。自分も平行感
避難したりと、いろいろな人達が僕達よりつらい思
覚を失っていて、すごい世界だった。停電もすぐ直
いをしているはずだ。そして余震。これはかなり長
るだろうと思っていたが、全然直る気配がなく、と
い間続いた。時には震度 5 を超える余震もあった。
りあえず、家に帰った。家も心配だったし、家にい
しばらく地震の恐怖にさらされたあと、大きな余震
る人たちも心配だった。正直、何よりもバイクが倒
はやっとおさまった。
れていないかがものすごく心配だった。しかも、地
そして地震休みが始まり、そして部活が始まった。
震が起きて、わくわくしている自分がいた。馬鹿だっ
部活は体育館が使えなかったため、いろいろな体育
たなぁと思った。
館を回った。大変な時だからこそと言って、体育館
家は全然被害を受けず、ただ、ガラス物が落ちた
を貸してくれた人達に本当に感謝したい。本当に大
りして、割れた程度だった。一番大変だったのが、
変な時だったから、そんな中で部活ができることが
停電が一向に直らなかったことだ。テレビなどで情
とても幸せに思えた。
報も入らないし、状況が全くわからなかった。町は
この地震を通していろんな事を学んだ。非常時に
すごい騒ぎになっていた。そんな中でもウチは、普
落ち着くことや、ライフラインが止まって不自由に
通に夕食を作り、笑いながら食べていたのを覚えて
なっても我慢すること。そして助け合う心が大切だ
いる。ロウソクで過ごした夜は、とっても変な感じ
ということだ。今スマトラ沖地震で多くの人々が犠
だった。その日、暗い中、風呂に入り、普通にベッ
牲になり、今も困難な日々を送っていることだろう。
ドで寝た。結局、1 日中停電だった。
それを心痛く思う。それでも彼等には頑張って生き
次の日、テレビを見てビックリした。高専の友達
てほしい。同じ災害を経験した僕等はそう思う。僕
もたくさん被害を受けていた。自分がすごい楽にし
らも頑張って生きたい。そしてこの災害で体験した
ていたことが、とても申し訳なく思った。高専もす
ことを大切に、日々を送りたい。
ごい被害を受けたし、結構信じられなかった。ウチ
新潟県中越地震体験記­ 69
T. T.
昨年 10 月 23 日午後 5 時 56 分、新潟県中越地方
ムの映像が送られてくるのですが、住民の方々の姿
は不思議と見えませんでした。とても心配になりま
したが、リポーターが住民は避難所に避難した、と
いうことを言ったので少し安心しました。
を震源とする最大震度 7 の大地震が起こりました。
またしばらくして、寮にいる友達と連絡がとれ、
この地震による死者は 40 人にのぼり、避難者は一
ものすごく大変だったけど、今はだいぶ落ち着いた
時、10 万人を超え、日本国内はもちろん、海外の
とのことでした。ケガ人もいないらしく、心底ほっ
メディアもこの地震をとりあげ、多くの人々を悲し
としました。
ませました。
数日後、地震の被害がしだいに明らかになってき
地震が起きた時、僕は新潟市の自宅にいました。
ました。僕の家は全くといっていいほど、被害はな
ちょうど、夕食の時間で食卓について、さあ食べよ
かったのですが、僕の心は確実に被災していまし
う、という時に、「ドーン」という聞いたことのな
た。余震がある度に「もう勘弁してください」と祈
い音と共に、下から突き上げられ、一体、何が起こっ
りますし、もし、自分が死んだら、被災した方々が
たのかと思ったら、次に左右に大きく揺さぶられて、
救われるなら、死んでもいいとも思えました。僕の
そこで初めて、地震だとわかりました。
中の公式では、一人が亡くなると一万人が悲しむの
すぐにテレビをつけて、NHK にチャンネルを合
で、計算上は 40 万人が悲しんだことになりますが、
わせました。すると、新潟県中越地方で、震度 6 強
今回はそんな程度ではないと思います。100 万、
の地震があったと言っていました。まだ、現地映像
1000 万、もしくは 1 億以上の人が悲しんだことで
などはなくて、アナウンサーが焦りながらしゃべっ
しよう。
ているだけでした。僕は、寮生の友達に電話をかけ
ましたが、まったくつながらず、通話中の状態でし
た。何人かにかけていると、一人、つながりました
H. N.
が、向こうは相当大変な状況らしく、後からさけび
僕の家は長岡にあります。地震が起きた時、僕は
声が聞こえたり、物が倒れるような音が聞こえたり
家に帰る途中で自転車に乗っていて、今まで体験し
して、急に電話が切れてしまいました。今考えると
たことのない強く大きなゆれを感じました。家に帰
片っぱしから電話をかけることは、良くないことで、
ると中は、物が倒れていたり、食器が割れていたり
とても反省しています。
して、めちゃくちゃになっていました。電気やガス、
しばらくして、NHK が長岡市の映像を配信して
水道が使えなくて大変でした。だけど、家族のだれ
きました。それは駅前の固定カメラの映像で、カメ
一人もケガをしなくてすんだので本当によかったで
ラが大きく揺れて、人が地面に倒れ込む場面が映っ
す。3 ∼ 4 日、余震がくると、家の中では危ないの
ていました。その映像では、地震がどれほどのもの
で車の中で寝ました。車で寝るのはすごく疲れまし
だったのか分からず、とても不安でした。寮にいる
た。この地震でたくさんの人が亡くなり、家が倒れ、
友達はもちろんのこと、中越地方のすべての人の事
道路にびびが入ったりして、とても多くの被害が出
が心配でした。学校はどんななんだろうか。電車は
てしまってすごく悲しいです。だけど、ボランティ
動いているのだろうか。色々なことを考えました。
アに来てくれた人や、中越のことを心配してくれて
食卓の上の夕食がすっかり冷めてしまっているのに
いる人に本当に感謝しています。
も気付かず、ずっとテレビに見入っていました。
テレビが配信してきた新たな映像と文字は驚くべ
1 日でも早く地震があった前の生活に戻れるとい
いと思います。
きものでした。小千谷市では電信柱が何本も倒れ、
ほとんどの家が傾いて、地面に大きなひびがいくつ
も入っていて、電気が止まったらしく、真っ暗でし
た。すでにリポーターが現地に入って、リアルタイ
70 ­新潟県中越地震体験記
Y. H.
地震が起きた時、私はテレビを見ていました。急
に大きな揺れが起こり、それが長く続いて停電が起
住民全員が長岡市内に避難して、慣れない生活をし
こりました。それから三日間くらい、電気・ガス・
ていて様々な困難があります。村に戻れば雪がたく
水道の使えない生活を送りました。自分の家は大丈
さん積もっていて、屋根の雪下ろしとかをしなきゃ
夫でしたが、祖父母の家の中がめちゃくちゃになっ
だし、壊れた家も雪に埋もっています。国がもう少
ていました。食器棚が倒れ、食器の大半が割れてし
し援助してあげたらいいと思います。いろんなこと
まいました。壁には無数のひびが入り、外にあった
があるけど、がんばっていってほしいです。
灯油タンクも倒れてしまいました。祖父母だけじゃ
また、今回の地震で家をなくし、仮設住宅に入っ
片付けられないので、私、父母などが手伝いました。
た人が多勢います。仮設住宅はとても厳しい生活だ
もともと、家の中には物がいっぱいあったので、片
と思いました。僕は三条市に住んでいて 7・13 水
付けるのに 1 ∼ 2 週間くらいかかりました。片付け
害のときに自分の家の近くに仮設住宅が建てられま
ている時に、ゴミステーションに行きましたが、家
した。そこに住んでいた人がこう言っていました。
具が山のように積まれていて、とってもびっくりし
「家が隣同士だとプライバシーがあまり守られない
ました。
テレビを見ていたら山古志村がひどい状態になっ
ていました。道にひびが入っていたり、家が壊れた
なぁ」と言うのを聞きました。それを聞いて、やっ
ぱり仮設住宅は大変なんだなと思いました。
そして今回の地震で、また新たに作ることになり、
り、山が崩れていたりしていました。また車内生活
避難した人が、仮設住宅に入る申し込みをしていま
をしていた人でエコノミー症候群で死んでしまった
した。そしたら、中には仮設住宅に入れない人がい
人もいて驚きました。
るというのをTVで見ました。僕はそのとき、避難
今回の地震を体験して自然の強さを感じました。
して困っている人がこんなにも沢山いるのかと思う
でも今回の地震で火事などの二次災害が無くて良
のと同時に、もっと作れないものかとも思いました。
かったと思います。新潟が早く元通りの姿になる事
そして、仮設住宅に入れるだけでも幸せに思わない
を願っています。自分自身、出来ることを見つけて、
といけないと感じました。このように中越地震でい
したいと思います。
ろいろなことを学びました。困っている人を見たら、
自分のできる範囲で助けてあげることや、今何をす
R . H.
この地震があったのは土曜日でした。僕は地震が
起こったときベッドで寝ていました。そしたら急に
るのが一番大事なのかをよく考えて、実行に移せる
ようにすることです。またこれからは地震がもし起
きたら、どう対処すればいいのかを考えることも大
切だと思いました。
ゆれ始めました。僕は寝ていたので最初夢かと思い
ました。しかし、本当にゆれているとわかり、起き
て廊下に向かいました。歩いているときは家全体が
S. H.
ゆれていて、ゆらゆらと動いて見えました。最初の
地震発生当時、僕は寮にいました。6 時過ぎに、
地震は長くすごかったです。このとき地震の怖さを
疲れて寝てしまった僕は、同室の友人に、片付けの
感じました。ゆれが収まり外に出てみると電線がま
物音で叩き起こされ、むすっとしていました。寝惚
だゆれていました。また、しばらくすると地震が何
け眼で立ち上がろうとした時、いきなり部屋の床に
度もきました。
持ち上げられ、ころんでしまい吃驚しました。部屋
僕は生れて初めてこんな大きな地震を体験しまし
の形が平行四辺形に変形し数秒間揺れ続け、咄嗟に
た。地震は体験してみないと本当の怖さは分からな
地震だと思い、敷布団を被りこみ、落下物を防ごう
いと思いました。中越地震は何ヵ月も続いているの
と思いました。揺れが止んだら直ぐに窓を開け、逃
で、早く起こらなくなってほしいです。それに今回、
げ道を確保して、余震に備え、暫く布団を被ってじっ
多大な被害を受けた山古志村はとってもかわいそう
としていました。
だと思います。ほとんどの家が壊れて住めなくなり、
本震、余震の 2 度の揺れが止んだら部屋を出て、
新潟県中越地震体験記­ 71
まだ各自室にいた友人を急いで呼び出し、その日、
を持つことが必要となります。そこで僕は、地震の
自分がいた階の友人がいることを確認し、玄関前に
メカニズムについて休みを利用して調べました。
走って逃げました。逃げる途中には、倒れた掃除ロッ
地球の表面はおよそ十∼二十枚ほどのプレート
カー、地震によって曲がった 3 号館の支柱、開閉不
(岩盤)に覆われており、日本は太平洋プレート、
能になったドアから見える散乱した無惨な室内など
北米プレート、ユーラシアプレート、フィリピン海
が目につきました。
プレートの四つのプレートが折り重なる場所に位置
玄関に出ると、既に避難した人が列を作っていて、
しています。地震には海溝型地震と直下型地震があ
すぐ別の場所へ避難するために備えていました。最
ります。前者は太平洋沿岸の海溝沿いに起こる地震
後に数人が玄関を出たのを待っていたかのように、
であり、海洋性プレート(太平洋プレートとフィリ
当時最大の余震が全員の足元を揺らしました。寄宿
ピン海プレート)が大陸性プレート(ユーラシアプ
用の寮は見てもすぐにわかる程に左右へ揺らされ
レート)の下へ潜り込もうとする力と、大陸性プレー
て、ものすごい恐怖を覚えました。
ト(ユーラシアプレート)が引きずり込まれないと
その余震が止み、先生方がテニスコートへ避難す
耐えようとする力が限界に達したときに、引きずり
るように促し、ガヤガヤしながらテニスコートに移
込まれた大陸性プレートが跳ね返り発生します。後
る。途中には割れたアスファルト、飛び出したマン
者は、内陸あるいは陸地に近い海底のプレートとプ
ホール、崩れた石垣、土砂崩れ寸前の学校と寮を結
レートがぶつかり合い、その力により活断層(約
ぶ道があり、背筋が硬直しました。その光景はテニ
二百万年前以降に活動したことのある断層)がずれ
スコートにも見られました。ずれた人工芝、傾いた
て起こる地震と、南関東地域の地層のように、複雑
ナイター、破れたネット、ぐにゅっと曲がったフェ
に潜り込んでいる海洋性プレートの境界やプレート
ンス。そこで 3 時間程小さく続く余震が止むのを凍
内での地震断層の発生による地震のことを言いま
えながら待っていました。
す。断層はずれる方向によって、縦ずれ断層(正断
友人の中には、携帯で親に連絡を取る者、地震状
層、逆断層)と横ずれ断層(左ずれ断層、右ずれ断
況を確認するもの、寄り集まってさっき起こったこ
層)に分けられます。地震全体の規模を示す数値が
とに興奮し、語り合う者など様々で、僕も話し合っ
「マグニチュード(M)」で、一つ大きくなると、エ
て冷えきった体を寄せ合って、僅かばかりの暖を
ネルギーの量は約三十倍にもなります。震度は各地
とっていた。点呼を取り、当時寮に残っていた全員
点での地震動の強さを表し、人体感覚や家屋の揺れ
が存在していることを確認し、しばらくして寂しい
方、被害の程度、または地盤の状態などから推定さ
夕食を取った。冷めた体を暖かくしてくれる唯一の
れます。
ものだった。
震度階級は 0 ∼ 7 まであり、次の通りです。震度
2 体に移り、点呼を取り直そうとした時に、先輩
0 は無感で、地震計にだけ観測され、人体には揺れ
の一人に父親が心配して迎えに来たことの連絡を受
を感じられない。震度 1 は微震で、静止している人
け、すぐに玄関に戻る。副寮長と話をつけて、部屋
や地震に敏感な人が感じる。震度 2 は軽震で、戸や
の特に貴重な物を持ち出し、布団を貸し、僕は自宅
障子がわずかに揺れ、静止している人の多くが感じ
へ避難した。2 体に残っていた友人を気に掛けなが
る。震度 3 は弱震で、家屋や樹木、器の水などが揺
ら、帰路についていた車を余震が何度も襲った。
れ、歩行中の少数の人も感じる。震度 4 は中震で、
でも、今は余震こそあるものの、普通に授業を受
花瓶などが倒れ、寝ている人や歩行中の人のほとん
け、友人の元気そうな顔を見れてとても幸せである。
どが感じる。震度 5 弱は強震で、書棚や食器類など
が落ち、瓦がずれたりする。震度 5 強も強震で壁に
R. H.
亀裂が入ったり、重い家具や自動販売機が倒れる。
震度 6 弱は烈震で、窓ガラスや壁のタイルなどが破
今回の大地震のように、いつ発生するか分からな
損し落下する。震度 6 強も烈震で、立っていること
い地震だからこそ、しくみや特徴など、正しい知識
が出来なくなり、山崩れや建物の倒壊が起きる。震
72 ­新潟県中越地震体験記
度 7 は激震であり、かなりの建物が傾いたり、倒壊
が僕がこの休みに行った一番いいことだと思いま
し、断層などが生じる。
す。沢山友達ができました。ギョーザを沢山食べま
これらのことを調べてみて、今回の地震の規模が
した。これで、12 月 15 日まで単車の勉強をがんば
本当に大きかった事がわかりました。日本に住む以
りました。この時は本当に楽しかったです。でも今
上、地震がいつ起こってもいいように、防災対策を
はバイクがないので乗れません。このあとは普通に
事前にしておく必要があるなあと思いました。
休みを満喫しました。そして、やっと普通高校が休
みになりました。なので、僕は沢山遊びました。彼
T. H .
女と遊びました。この休みのおかげで相手との距離
が、だいぶ縮まった気がします。そこと、バイクを
僕は、当時家族でご飯を食べている最中でした。
とるというとこだけが、この休みの唯一の良かった
とつぜん部屋がゆれて全員であたふたしていまし
ところです。でもやはり、悪い所も多すぎます。ま
た。そしたらすぐにテレビがニュースにかわり、規
ず今のこの状況です。ありえないです。週六日制と
模の大きな地震であることを僕らに伝えました。僕
家に、地元に帰れないのは、ほんとうにつらいです。
はすぐに、ケイタイを取って、すぐにみんなに連絡
でもがんばります。先生もがんばってください。
を取ろうとしたのですが、もう回線がパンク状態で
全然連絡がつきませんでした。その日はもう、ガス
も使えない状態だったので、フロにも入らず、余震
にジャマをされながら眠りました。
A. H.
自分は地震の時、高専の寮から自宅に帰ってきて
次の日、友達からのメールを軽くあしらいなが
おり、地元の友達と遊んでいました。自分の家で遊
ら、親のすすめで寮に荷物を取りに行きました。学
んでいた最中に、ものすごいゆれが来て 3 人とも、
校に着く前に道が割れていたりして、大変でした。
かなりビビってました。あんな大きなゆれは生れて
着いてからは、とりあえずひどい光景が広がってい
初めてでした。でもパニックにはなりませんでした。
ました。そして僕はこんなこと、もう生きている間
二階で遊んでいましたが、壊れるかと思いました。
に会うことはないだろうと思い、沢山の写真を撮り
友達は親と連絡がとれず、ずっとケイタイがつなが
ました。寮はずっと警報機がなりっぱなしで少しう
らなくて困っていたが、無事に家に帰ることができ
るさかったのを覚えています。部屋の中もひどいあ
ました。その日は自分達の地域では停電はありませ
りさまで、同室の子のマグカップが割れて破片が飛
んでしたが、停電して大変なとこもあったらしいで
び散っていました。しばらくして、やっと荷物をす
す。その夜はまた地震がくるのではないかと不安で
べてだし、また来た道を戻りました。
眠れませんでした。
その後しばらくは、何をすればいいのかさっぱり
翌日、やっぱり自分たちのところではそんなに被
わからず、勉強やランニングをだらだらと行なって
害がなく、いつもと同じような生活ができましたが、
いました。そして働こうかと考えるほど暇でした。
長岡の一部や小千谷、山古志村などでは地割れや家
でも学校が日程提示してくれないので僕は、何も具
の倒壊などで、避難所生活をしなければならないと
体的な計画を立てることができませんでした。です
聞きました。その時、僕は学校はどうなる ? と思い
がやっと学校から連絡がきて、僕はすぐに計画をた
ました。そして、そのうちメールなどで学校は当分
てました。とりあえず、宿題が提示されたので、ま
休みだということを知りました。でもその時は当分
ず宿題を全て終わらせるところから始めました。ま
といっても 1 週間や 2 週間程度だろうと思っていま
ず中学校に行って、校長先生に頼んで部屋をかして
した。僕はメールなどで友達と連絡をとり、学校の
もらうことができました。そこで僕は、ずっと勉強
ことや今の自分たちの状況などについて話したりし
を毎日通ってしていました。なので、宿題はすぐに
ていました。
終わりました。
つぎに、免許を取りに栃木県に行きました。これ
何日かたって高専生によって作られたサイトがあ
ると知り、見てみました。そこには「学校にヒビが
新潟県中越地震体験記­ 73
入っている、地割れがある、爆発した。
」などいろ
りも、周りの店の電気も全て消えていて、とても怖
いろなことが書かれていました。いつの間にか、そ
くなりました。
のサイトを見るのが毎日の習慣になっていました。
とりあえず家に帰ろうと思い、真暗闇の中、1.5
そして書き込みが増えていき「寮の 3 号館には入れ
㎞ほど離れた自分の家に向かって、猛スピードで坂
ない、学校は当分ない。」ということを知りました。
を上がっていきました。その途中で、家の中から出
自分はこの時、
「結構休みが続いてしまうな」と思い、
てきたおじいさんとおばあさんに出会い、そこで
どんな状況や情報でもなんでもいいから知りたいと
やっと「地震が起きた」ということがわかりました。
思いました。
急いで家に帰る途中で、家の中にいた人がみんな外
そしてまた数日がたち、そのサイトには高専の被
害がひどいところの写真が貼ってありました。その
に出て、ラジオを聞いたり、他の家の人と話合って
いる様子が見られました。
写真をみて、やっと被害状況がわかりました。それ
家に着くと、車の中に自分の家族が避難していま
は、寮食堂に地割れ。学校の食堂前に地割れ。学校
した。僕は親父といっしょに、家の中に食料をとり
にヒビ。などいたるところにヒビや地割れがおこる
に行きました。余震が何度もきていて、大変危険
という悲惨な写真が貼ってあり、書かれていました。
だったのですが、時を見計らって家の中に入りまし
自分は「こんなんで学校始めることができるのか ?
た。僕はそこで初めて地震のすさまじさが分かりま
寮生はどうなるんだ ?」と不安でいっぱいになって
した。家の中はめちゃくちゃになっていて、テレビ
きました。そしてなにより、その地震の日、寮にい
も蛍光灯も壁もすべて落ちていました。
た生徒や友達が心配でしかたがありませんでした。
夕飯時だったため、作りかけのスープやハンバー
でもまた何日かたって、全員の無事が確認された時
グが床に落ちたりしていました。真っ暗な中、僕と
は、本当にうれしかったです。しかしその反面、こ
親父は、その鍋に残ったスープと、炊飯がまの中の
の地震によって 40 人もの人々が亡くなったことを
ご飯を持ち出しました。ついでに、ラジオと布団も
知り、すごく悲しく言葉も出ませんでした。
持っていきました。運よく、その間は余震がこなかっ
自分にとってこの 2 ヶ月は本当に大変でつらい
たのです。しかし、車に戻った後の余震が激しかっ
2 ヶ月でした。でも今こうして友達と話ができ学校
たのです。最初は 10 分おきぐらいに余震がきてい
に通うことができるということをうれしく思い、こ
ました。しかも、くる余震はすべて震度 5 以上で、
れからもがんばっていきたいと思います。
震度 6 強が来ることもありました。そして、それか
らしばらくは車の中で生活しました。
Y. M.
僕は新潟中越地震が発生した時、外でチャリをこ
T. Y.
いでいました。その日は土曜日で、学校が休みだっ
11/23(土)この日は特に何かをするでもなく、
たので、僕は午後から友達と遊んでいました。夕方
部活が休みということで、朝はゆっくりとしていま
になり、TSUTAYA に行こうということになったの
した。起きるのも遅かったと思います。午後から髪
で、チャリに乗って行きました。いつも通りに CD
を切りに美容院へ行って、買い物へ行ったりしまし
をレンタルして、店を出て友達と別れて、家に帰る
た。帰ってきてから、のんびりしていたら、地震が
ところでした。信号が青になり、横断歩道を渡りきっ
きました。最初はガタガタという音がしたので、
「強
た瞬間、自分の真上にあった GLO ホンポの看板が、
い風だな」程度に思っていたのですが、すぐに家が
バタバタと音をたて始めました。僕は突風かなと
大きくゆれて地震だと気がつきました。停電になっ
思ったのですが、風は全く感じなかったので、何が
たので、部屋から出るのも大変でした。
起きたのか分かりませんでした。不思議に思ったま
家族はみんな下にいたので、私も下に行こうとし
ま、目線を頭上の看板から前方に戻すと、驚いたこ
ました。でも、真っ暗だったので、手でどこに何が
とに真っ暗でした。今までついていた住宅街の明か
あるか確かめながら進んで行きました。そうやって
74 ­新潟県中越地震体験記
何とか下へ行って外に出たら、近所の人もみんな外
り笑いでした。机はぐちゃぐちゃ、電気は消える、
に出てました。余震もたくさんあって、家に入れな
一階からは叫び声が聞こえ、僕の頭の中も真っ暗で
いのでお隣さんといろいろ話をしました。他の地域
した。ひとまず、外へ避難。既に近所の方々は今起
はどうなったのかは、車のラジオを使って知ること
こったできごとを外で話していました。こうなって
ができました。夜になって、上着などを取りにいき
みないとわからなかったのは、電気がなければ、何
ました。うちは水は止まってなかったので、トイレ
の情報も得られないこと。携帯もつながりにくく、
は使えるということがわかりました。そして夕飯に
世の中から見離された気がしました。その日は安全
ドーナッツを食べてとりあえず寝ました。
のため車で一夜を明かしました。
11/24(日)髪を切ってから風呂に入れてないの
次の日は、地震後の家へ戻ってみました。すると、
で首とかちくちくしました。この日も外で寝たりす
周りはヒビが入り、いろんな物が落ちていました。
ることになりました。食事は家にあったカップ麺で
中でもタンスが倒れていたのには、地震のすさまじ
すませました。
さを感じさせられました。電気はまだ復旧していな
本震から、何日かしてから家の中で寝たり起きた
かったので、トイレはバケツの水で流さなければな
りするようになりました。最初はみんな 1 か所にか
らないこともありました。やはり、自動でトイレを
たまって寝ました。電気が通って、最初に風呂に入
流す装置はすばらしい発明だなと改めて思いました。
りました。そして、学校に自転車があったので、そ
だんだん日がたつにつれ、余震はまだ続くものの、
れを取りに行きました。学校に着いて学生課へ行き、
まともな生活を送れるようになってきました。この
安全報告(?)をして帰りました。学校に行ったとき、
頃から、親戚の方達から安否の確認の電話が来るよ
先生 2 人がやってきて、渡り廊下が落ちそうだから
うになりました。その確認の電話から、母方の実家
気をつけろと言いました。それを聞いて、とてもビッ
が半壊し、避難していることを知りました。うちは、
クリしました。帰る途中、ヘリが何機も飛んでいま
大した被害がなかっただけに、驚きました。
した。
祖父母一家を家へ呼ぶことにしました。風呂・食
ラジオを聞きながら、すごい被害があったところ
事等助け合っていきました。祖父母は、長く生きて
の状況などを聞いていたら、本当にすごかったよう
いると怖いこともあるものだと言っていましたし、
なので大変だと思いました。後からテレビを見て、
10 歳以上年の離れた、まだ小さいいとこは、精神
ひどい所はすごくひどかったので驚きました。少し
的ダメージがあったらしく、避難所に設けられた相
落ちついたかと思うとまた余震がきて、避難所の人
談所の様な所で診療してもらっていました。やはり
もリポーターの人もあわてていました。土砂の中に
地震は目に見える被害だけではなかった様に思えま
車ごと埋まってしまったというニュースを聞いたと
す。
きは、乗っていた人はダメだったんだろうなと思い
2 ヶ月たった今も、面影はいたる所に残っていま
ました。でも結果は、子供が 1 人無事だったという
す。僕の住んでいるニュータウンには、特に被害の
ことで、本当によかったです。男の子が救出された
大きかった山古志村の方達の仮設住宅が建ってお
時は、みんなでテレビに釘づけでした。
り、多くの人達がそこで生活をしています。さきほ
これでもう大きな地震がこないといいなと思って
います。
どの祖父母一家も今は仮設住宅に住んでいて、お正
月に行ったのですが、意外と造りはしっかりしてい
て、なかなか、いいんじゃないかなと思いました。
K . Y.
土曜日、6 時前のこと、僕は一人で 2 階の部屋に、
ですが、祖母の話を聞くと、コンロが一つしかなく
て不便だとか、窓が結露するだとか、いろいろ悩み
はあるようです。高専も他に負けず劣らず、すごい
母と妹は出かけてちょうど帰ってきて、父は会社で
被害を受けたと思います。学校の地震の日から去年
仕事をしていました。その時、ヤツはやってきまし
いっぱい休みになったのでとても驚きました。
た。いきなりで、怖いというより、うっすらひきつ
今までの僕は、大きな災害というのは遠くで起
新潟県中越地震体験記­ 75
こって、それをTVで知り、かわいそうだなぁと同
レビを見たりすると、地震の事が大きく取り扱われ、
情するようなものだと考えていた部分があったのか
沢山のところから義援金や生活必需品などが送られ
も知れません。ですが今は、自分の身近で起こって、
ていることがわかり、とてもうれしかったです。僕
実際に体感し、かわいそうだと考える余裕もなく、
はこの地震で、物取りや詐欺はあったものの、人の
これからどうなるのかという不安で頭がいっぱいで
つながりややさしさ、普段はあって当たり前だった
した。この地震で命が多く奪われました。巻き込ま
ライフラインの重要性を感じました。
れて亡くなった人や、避難所や車での生活が原因で
亡くなった人もいます。これから各地で復興の働き
Y. W.
が活発になってくるでしょう。その勢いで、以前よ
りももっと新潟を盛り上げていってほしいと思いま
す。
僕はその時、北部体育館で中越高校とハンドボー
ルの練習試合をしていました。全ての試合が終わっ
て帰ろうとしていたら、突風が来たように窓が大き
Y. Y.
く揺れて、そのあとに一気に揺れました。まだ、体
育館の中にいたので天井が落ちてきそうで、とても
僕は地震のとき、自分の部屋で座椅子に座って、
恐かったです。その時、客席にいた友達の話だと、
本を読んでいました。最初に軽く揺れたので、地震
いろいろ物が上から降ってきて、本当に危なかった
かな ? と思ったら、突然激しく揺れ始め、座椅子が
と言っていました。あとから、新聞を見て知ったの
部屋の中をスライドしていきました。机やタンスも
ですが、北部体育館から少し離れた所にある市民体
動いていき、次の瞬間、電気がぶつっと消えました。
育館の被害がひどく、市民体育館でしていたら、た
下へ行き、懐中電灯で照らしてみると食器棚が倒れ、
ぶん、今ここに居なかっただろうと思いました。
中の食器がそこら中に飛び散っていました。他の所
地震のゆれがおさまってから、すぐ外に出て、家
でも棚にのっていた物はだいたい下に落ちていまし
に連絡をとりたかったのですが、全然どこにも通じ
た。
ず、かなり家が心配でした。そのあとにまた、大き
家の近くに大きな空地があるので、そこに母と弟
い地震がくるなか、友達と自転車で家に帰りました。
と一緒に避難しました。すると他の人も集まってき
帰りながら驚いたのが、信号が機能していなかった
ました。その後も何度も大きな余震があったので家
ことです。すごく危なくて、見ている方も怖くなり
に入れず、その夜は皆がそれぞれ自分の家から車を
ました。あと、橋を渡っている時に地震がおきて、
もってきて、その中で寝ました。本震はもちろんの
橋が壊れるんじゃないかとすごく心配でした。家に
こと、余震でさえ今まで感じたことのない大きなも
着くまでにまた、大きい地震があって、その時は電
のだったのでびっくりしました。
柱や木の近くを走ってたんですけど、電柱や木が倒
次の日の朝は、各家から食材やバーベキューセッ
れるんじゃないかってぐらいに激しく揺れてまし
トのようなものを持ってきて、皆で食べました。特
た。あの時は本当に死ぬんじゃないかって思いまし
に生ものは傷まないうちに早めに食べました。次の
た。
日くらいに、この地区一帯が、山が崩れる危険があ
そのあと帰ってみると、家はいたって無事で、水
るということで、避難勧告が出て、立入禁止になっ
がでないってこともない、ガスもでる、電気もつく、
たので、河原の方に場所を移しました。
と日常の生活と何も変わっていませんでした。でも、
そのころには他の地域から人が入ってきて、食べ
他の地域は本当にひどい被害を受けているのをテレ
物なども少しながら配給されるようになりました。
ビで見て、本当に自分達だけこんないい思いをして
また、他県の警察の人がきて見回りや交通整理をし
いていいのかと、ちょっと考えるくらいでした。そ
てくれたり、自衛隊の人が炊き出しをしてくれたり
れから、高専の被害を知りました。高専がこんなに
したおかげで、だんだん生活はよくなっていきまし
も被害をうけているなんて思いもしませんでした。
た。新聞を読んだり、電気が使えるようになってテ
その日から数日の間は、携帯があまり使えなくて
76 ­新潟県中越地震体験記
すごく不便でした。でも、休みのおかげで、違う高
まっていないかな ? などいろんなことが頭の中をグ
校に行った友達とも遊ぶことができたので、そうい
ルグル回り、気持ち悪くなったのも覚えています。
うことではとてもいい休みでした。それに、休み中
玄関から外や近所を見てみると、瓦が落ちていたり
に家の手伝いなど家の役に立つことができてよかっ
電線がブラブラしていたりしていました。揺れが小
たです。でも、宿題が多くて、そこらへんがいやで
さくなり回数もしだいに少なくなってきたので、ま
した。しなければ、どんどん忘れてしまうのでとに
ず友人を帰らせ、自分は近所を探索してみよと思い、
かくがんばりました。そのおかげで、早く終わらせ
ヘルメットをかぶり家を出ました。すると家の近く
ることができてとてもよかったです。今回の地震で
の交差点の光は消えてるし、道路はヒビができてい
かなりの被害がでたけど、これにめげずがんばりた
て、あらためて地震の恐怖を知りました。
いです。
家に戻ると家族は居間などにいて、電気がつかな
くて暗い中、片付けをがんばっていました。ふと携
帯が無くなっていることに気が付き、探してみると
H . W.
見事に本棚の下敷きになっていて、ぶっ壊れていま
地震がおきた日は、自分は家にいました。友人が
した。悲しすぎて涙もでませんでした。夜 10 時に
遊びにきていて帰る時間になり、2 階から 1 階へ階
なっても、まだ電気がつかなかったので家族皆で、
段を降りようとした瞬間、
「ズダダダダーン‼」と
一階で寝ることになりました。
大きな音がした後、しばらく大きな揺れが続きまし
翌朝、起きてみると電気がつくようになっていた
た。最初は、雪崩か !? と思ったのですが、家の柱が、
のでテレビを見てみると、どの番組も地震のことを
ぐねぐね曲がっているのを見て、地震だと分かりま
やっていて驚きました。その後、寮に電話をして
した。自分たちは階段の上にいたので、必死に手す
みました。すると寮の 3 号館は全部ダメになってし
りにしがみついて、振り落とされないようにしてい
まった。とか、食堂も使えない。など寮も大損害を
ました。最初の揺れがおさまったので、1 階におり
受けたという事をその時知りました。その時は寮も
てみると、本棚は倒れてるわ、食器はわれているわ
使えなくなってしまったのなら、学校はどうなるの
で大変な事になっていました。倒れている本棚や絵
だろう。進級はできるのだろうか ? などいろいろ不
画を元に戻している途中でまた、大きな揺れがきて、
安がありましたが、今は普通に寮で生活して、学校
せっかく戻した本棚もまた倒れてしまいました。な
に通っているので良かったです。
ので今は危険だし、余震がくるから玄関で待機して
今回の地震で僕はいろいろな事を学びました。テ
いた方が良いと判断して、家族全員、座布団を頭に
レビで地震についての番組を見ては、「たとえきて
かぶって玄関に座っている事にしました。
も、そんなにあわてないし、大丈夫だろう。」と思っ
自分は大きな地震を体験するのは初めてだったの
ていましたが、実際そうではありませんでした。な
で、すごく怖かったというのを今でもしっかり覚え
ので、今回経験したことを絶対忘れないで、将来地
ています。学校のみんなは大丈夫か ? 寮は壊れてし
震がおきた時、役立てたいです。
学
生
3
ある物は落ちた。幸い、家族全員無傷だった。夕食
M. A.
後で、全員 1 階に居たのがよかったのだと思う。後
日見に行ったとき、2 階はめちゃくちゃになってい
揺れ始めたのは、ちょうど夕食がおわった頃だっ
て、もし揺れ始めた時そこにいたら、とても無事で
た。最初はいつもと変わらないくらいの地震だと
は済まなかっただろうと思った。家族で一ヵ所に集
思っていた。しかしその予測は大いに外れ、体験し
まり、ガラスが落ちてきても大丈夫なように毛布を
たことのない程の揺れは続き、停電し、棚に置いて
かぶって座っていた。家がくずれるのではないか、
新潟県中越地震体験記­ 77
と思うくらいの余震が続き、外から近所の方の声が
りも色々な想いが頭に浮かんできて、なかなか眠れ
聞こえた。避難場所に指定されている公園集合との
なかった。
ことだった。消防団の人だったと思うが、あの中を
近所中走り回れたのは凄いと思う。
テレビという少ない情報源だけを頼りにしている
と、どうしても被害の甚大さを過剰に認識してしま
懐中電灯と毛布だけを持って、公園に走った。財
う感覚があった。現地の状況、揺れを目の当たりに
布や鍵のことを考える余裕はなかった。公園に着く
していない分、どう考えても悪い方向に進んでし
と、もう近所の人が集まっていた。木が倒れてきて
まった。自宅のこと、友人のこと、様々な想いが
も大丈夫なように公園の中心に集まり、ラジオを聞
あったと思うのだが、正直、頭の中が正常な状態で
いた。丁度新幹線のことをやっていたように記憶し
はなかったので、薄ぼんやりとしか覚えていないと
ている。震度 6 強、その時初めて知った。
いう方が正しいかもしれない…。情報の不足が招く
携帯電話は通じなかった。メールは何とか出来た
恐怖を身をもって体験した、今回の地震だった。今
ので、それで父と連絡をとった。その他にも、県外
回、長岡いる知り合いから、ライフライン復旧の見
の友人から何通かメールがあったので、無事を伝え
通しが立っていないとのことを聞き、しっかりとし
た。市内の友人とは連絡がとれなく、すごく不安だっ
た準備を整えて帰途についた。これも情報がなけれ
た。後で聞くと、携帯を持って逃げなかったらしい。
ば(ニュース等ではそのような情報は全くといって
ライト代りになるし、携帯は携帯しておくべきだと
なかったのも驚いた)なにを持っていけばいいかも
思う。
分からず、動けなかったと思う。
近所の人が持ってきてくれた大きなブルーシート
加えて長岡への道のりがとんでもなく長かった。
に座り、持ってきた毛布に包まり、そこで 2 時間程
上越新幹線、関越道と、ともに使えなく、長野経由
過ごした。少し落ちついてから車に乗り、停電して
で上越、長岡と帰ってきたが、朝早く東京を出発し、
いない所まで走って水を買った。その日は公園に車
自宅に着いたのが、夜中だった。そこまで時間がか
で乗り入れ、そこで寝た。
かったのは、主要幹線の寸断が原因だと思うのだが、
かなりの日数を車の中で過ごしたと思う。もうそ
県外から見れば、大げさに言って「陸の孤島」になっ
んなに強い余震はなくても、不安だったのだと思う。
ていた。雪のない時期で助かったが、雪崩等が重なっ
今回の地震で、緊急時は冷静な判断ができなくなる
た場合を考えるとゾッとする。難しいが、他の雪の
こと、近所同士での助け合いの精神を学んだ。
多い地方でも対策が必要だと感じた。
長岡に帰ってからは、自宅も無事で、避難所に行
G. A.
揺れを感じたのは 6 時を少し過ぎたころだった。
く必要もなく、比較的普段どおりの生活ができたと
いうことは運がよかったと思う。もう経験したくは
ないが、ある意味、特別な経験になったと思う。
その時 自分は長岡ではなく、東京にいた。自分
は本震を経験していない、数少ない高専生だと思う。
S. I.
銀座で、家族、親戚を交えての、夕食の最中であっ
たのだが、はっきりとわかるぐらいの揺れを感じた。
10 月 23 日 17 時 56 分。新潟県中越地方にマグニ
それから 2、30 分はまるで、人事のように過ごして
チュード 6.8 の地震が発生。川口市では震度 7 強を
いたのだが、間をおいて震源が中越地方だというこ
観測した。その地震は今までに死者 40 人、負傷者
とを知った。はじめ実感がわかなかったのだが、い
4522 人、全壊 2801 棟、大規模半壊 1534 棟、半壊
つもとは違った、妙な汗が出たのを覚えている。
8063 棟、一部損壊 86845 棟という被害結果を出し
見ていたニュースでは、真っ暗でどこの場所かも
た。
わからない長岡市が映し出され、テロップにはみる
地震の時、自分は家でいつものようにテレビを見
みるケガ人、死者数が増えていった。その日の夜中
ながらゴロゴロしていた。何も変わらぬ毎日の生活
は、2 時、3 時頃まで考えごとをした。と、いうよ
が、今まで経験したことの無い大きな揺れによって
78 ­新潟県中越地震体験記
ているということをすごく実感したこの二ヶ
月間だった。
S. I.
地震発生から 2 ヶ月ほどの時が過ぎまし
た。2 ヶ月たった今でも壊れたままの新校舎、
食堂…そして、仮設住宅に住む人。今回の地
震の凄まじさを語っているかのようです。
校舎の外壁には大きなひびができて、食堂
前の地面は凹凸になっていて、校舎の中に
入っても、あちこちにひびがあり、ロッカー
雨水滲入防止のため、地割れをシートで覆うための作業をする教職員
の扉のほとんどが開いている状態で、中には
修復不能なものまでありました。ほかにも、
その日を変えた。地震の時はテーブルの下 ! と前か
3 号館・5 号館・実験棟のあたりが立入禁止となっ
ら言われていたけれど、やはりその状況にいきなり
ていました。少し中を覗いてみました。あれでも片
身を投じられると、冷静な判断というものができな
づけた後なのでしょうが、かなり散らかっていまし
くなってしまうということがわかった。幸い、自分
た。
自身の周りには倒れてくるものも無く、無事に済ん
グランドやテニスコートも使用不能になっていま
だのだが、これが物の多い部屋だとどうなっていた
した。今、グラウンドには、土が山盛り(?)になっ
だろうか…。そう考えると今でもゾッとする。
て積んであって、いつになったら使えるのやら…と
地震が収まり、みなで外に避難すると、もう他の
家の家族の方々が避難していた。それぞれが家の被
いうような感じでした。テニスコートはまだ見てい
ませんが、大きな地割れができていたそうです。
害状況を話し合い、怪我人がいないか確かめる。怪
あと、職員宿舎の方も使えなくなったらしく、今
我人がいない事を確かめると、あたりが暗い中でも
は、高専の坂を下ったところに宿舎(?)があるら
ちゃんと、少なからずではあるが、緊張がほぐれた
しいです。先生方も災難でしたね。
ような安堵の息が皆から出た。その後みなが毛布を
寮も大変らしいです。? 号館がメチャクチャに
集めてきて、一人一人に配り、一人一人に温かい缶
なって使えないのでしょうか ? 被害の少なかった館
コーヒーも配られた。それはとても暖かいものだっ
の談話室なども使って人数を詰めこんでいるらしい
た。
です(友人談)。それに 2 人部屋を 3 人で使ってい
幸い自宅は一部損壊程度で済み、翌日にはバイト
の応援に行けた。やはり地震の被害は自分のバイト
るとかいないとか…。これはまだ自分で確認してい
ないのではっきりとは言えないです…はい。
先にも広がっていた。冷凍食品は全て台無し。散乱
5 年生と専攻科生は技大へ行っているそうです。
するワインなどの飲み物、余ってしまった肉類や魚
高専の研究室が使えなくて場所が無いからでしょう
類、野菜類などの生鮮食品。そのようなものはほぼ
か ? 器材が壊れてしまったからでしょうか ? どち
全てと言っていいものがだめになっていた。それで
らにせよ、あんな遠くまで御苦労さまです。あ、で
も店側は外での営業をすることにして、非常食、水、
も、食堂の食べ物が高専よりも良いそうで、それが
ガスコンロなどの生活必需品の販売をして、人々の
せめてもの救いだそうです(友人談)。
生活を助けた。他に、小学校は避難場所として体育
学校も、校舎の修復、実験器材…などで、お金が
館などを提供してくれたし、ボランティアや自衛隊
かかるでしょうが、早めに元通りになるようにして
は救助活動や支援活動に励んでくれた。近所や地域
ほしいと思います。
という狭いものではなく、日本が新潟を助けてくれ
新潟県中越地震体験記­ 79
てない友人 2 ∼ 3 人から携帯電話に着信があり、そ
N. I.
地震当日、自分は父親と一緒に十日町、小千谷、
長岡に出かけていた。その日はいつもより父が早く
ちらの方の安否が確認できた。それからしばらくし
て、寮の友人からメールが来て自宅待機や、高専の
Web Pase で連絡事項をチェック、などの情報を教
わった。
帰ろう、と言ったので自分も特に用事のある店も寄
そして、ここから二ヶ月の休校に突入した。これ
り終わっていたから同意した。帰りは、国道 17 号
が、自分の地震体験の記憶を出来るだけ引っ張り出
線を通り、和南津トンネルも通った。途中、南魚沼
したものだ。今回の地震体験で一番不安だと痛感し
市、六日町の書店に寄った時、地震が来た。いきな
た。ラジオを点けるまで目が鋭えていたが、ラジオ
り地面が落ちたかと思うとゴゴゴゴゴゴゴゴと音が
を聞いた途端、凄く安心したのを覚えている。でき
して(当時は地鳴りだとは全く思わなかった)地面
ればもう二度とこんな地震には襲われたくない、と
が縦に揺れ始めた。グニャグニャと地面が波打って
切に思うばかりだ。
いるのがまず最初に目に入った。とてもじゃないが
信じられなかった。見しらぬ人と「でかいですね」
などと会話をした。地震が収まったかと思うと、即
停電した。店員が店内で避難指示を出してから、自
分と父は車で真っ暗な道を帰った。
K . O.
地震が起こった時、私は母と長岡の家にいました。
起こった瞬間、私は母にかけ寄り、揺れがおさまっ
家に着くと、母が避難の準備をしていた。通帳、
た後、2 人で外に出ました。近所の人も続々と外に
保険証など必要最低限の物を鞄に詰め終わると、懐
出てきました。うちの近所一帯が停電し、月明かり
中電灯を各自一人一つずつ持ち、エンジンを点けた
だけを頼りに、隣の家の人達と前のアパートに避難
ままだった車に乗り込み、近所の祖父の家に向かっ
しました。10 分おきくらいに揺れがくるのと、停
た。
電も重なって、私と母は近所の人達と近くの学校の
祖父の家では、祖父は落ち着いていた。祖母は落
体育館に避難することにしました。しかし、その体
ち着いていられないのか、よく地震が来た時の状況
育館は、揺れが来る度に天井のカケラが落ちてくる
を何度もしゃべっていた。その時父はラジオを探し
ほどのものでした。それから長岡市役所、近くの体
に部屋を出て行った。そして、ラジオを点けると今
育館と転々と避難生活を続けました。
日通った道路が悉く陥没、和南津トンネル崩落など、
避難生活は、朝食・昼食・夕飯が配布されました。
様々な情報が入ってきた。父があと一時間遅かった
最初は 1 食おにぎり 1 つなどでしたが、だんだん多
ら無事帰って来れなかったな、と言ったら祖父母は
くなっていって後半は食べ切れない程の量でした。
とても驚いていた。
これもいろんなところからボランティアで送ってく
自分は、ラジオをある程度聞いたら眠くなったの
れた人たちのおかげです。日中はあまり揺れが来な
で、地震がまた来てもすぐ家を出れる姿勢のまま、
かったので、昼に家に戻り、部屋の片付けをしたり、
仮眠を取った。目が覚めたのは、突然点いたテレビ
お風呂に入ったりしました。5 日間程避難生活をし
だった。すでに外は明るく、5 時くらいだったと記
た後、新潟市に住んでいる姉の家に三泊、息抜きを
憶している。朝は皆でニュースを見て朝食を済ませ
させてもらってきました。家に戻ってくると、ほぼ
た後、自分の家に戻った。
通常の生活に戻っていました。
自分の家に戻り、自分の部屋が一番被害が大き
この地震を通して一番考えた事は、ボランティア
かった。本棚から本がほとんど落ちており、その片
や義援金のことについてです。景気が回復しつつも、
付けに追われて午前中は終わった。午後は、パソコ
まだ不景気と言えるこの時代に、たくさんのボラン
ンをつけてネットにつなげるか試して、無事につな
ティアの人や義援金が集まったことにとても驚きま
がった事を確認した。MSN メッセンジャーで友人
した。それにとても感謝しています。私も他の県な
の安否を確かめたところで、メッセンジャーをやっ
どで災害が起こった時には何かしたいなぁと思いま
80 ­新潟県中越地震体験記
した。
入った。手探りで懐中電灯を探し、足元を灯らした。
あと、近所付合いは大切なことだと思いました。
ひどい状態だった。まるで、廃墟のようだった。割
避難した時に知っている人がいるだけで安心できた
れた皿の破片を踏まないように、慎重に歩いている
し、必要なものを貸し合って助け合うこともできた
と、2 回目の地震がきた。動くと危ないと思い、そ
ので、避難生活も心強かったです。逆に知っている
の場でじっとしていた。揺れがおさまると、すぐに
人がいなければ、不安でさびしい思いをしていたと
服を持って外へ出た。その後、何度か家の中に入り、
思います。
毛布、食料、ラジオなどを持ち出した。ラジオを聞
地震が起こった時、困ったことがありました。そ
れは、うちにラジオがなかったことと、懐中電灯が
いて初めて震源地や震度を知った。その日は車の中
で寝た。車中はとても寒く、寝苦しかった。
どこにあるかわからなかったことです。後になって
朝起きると、手や足先が少しシビれていた。 エ
災害用グッズを買い集めたのは言うまでもありませ
コノミー症候群 になったのではと、少し心配に
ん。
なった。夜は気付かなかったが、家の周りには瓦が
私の家は一部損壊で、屋根の瓦がずれたのと、壁
何枚も落ちていた。地震の時は、頭上に注意して避
が変形したのと、壁に小さなひびが入った程度でし
難しなければと感じた。水道はすぐに使えるように
た。友達の家は半壊で工事が大変そうでした。仮設
なったが、電気とガスは当分使えなかった。なので、
住宅で暮らしてる人達を思うと気の毒です。被害が
冷凍庫の中の物は全てダメになった。電子レンジも
少ない私の家でも大切なものが壊れたりして、精神
使えず、ガスコンロ 1 個で食事を作った。トイレの
的被害も少なくありません。まだ時々夜中に余震が
換気扇が回らず、臭いがトイレの中にこもった。電
来ます。一日も早く余震がおさまり、また地震に
気が直ったのは 6 日後、ガスが直ったのは 2 週間後
よって傷ついた人たちの心が早く癒えるように願い
だった。現在の生活は、電気やガスによって支えら
つつ、この貴重な体験を一生忘れずに胸にしまって
れていることを、身をもって感じた。
おこうと思います。
今回で学んだことは、常に災害に対して備えてお
くこと、逃げる時はあわてず、周りの安全を確認し
J. O.
ながら逃げる事、そして、近所の人達との助け合い
である。2 度と地震は起きてほしくはない。しかし、
2004 年 10 月 23 日午後 5 時 56 分。いつものよう
日本にいる限り、必ずまた地震にあうと思う。その
に部屋でテレビを見ていると、部屋が少し揺れた。
時は、今回学んだことを生かし、冷静に行動しよう
「地震だ」と思っていると揺れはだんだん激しくなっ
と思う。
ていった。そして今までに体験したことのない、大
きな揺れになった。部屋の電気が消え、色々なもの
が落ちる音がした。部屋の壁にヒビが入り、破片が
K. K.
頭にあたった。揺れがおさまると、「早く家から出
今回の地震で、私は生れて初めて電気・ガスのな
ろ」という声がした。急いで部屋から出て、階段を
い生活をしました。電気がなくて困ったことは、寒
下り、玄関から外へ出た。まるで夢を見ているよう
くてもストーブが使えなかったり、テレビも見れな
な気分だった。しかし、周りの家から次々に人が出
かったり、暗くて足元が見えず、歩くこともままな
てくるのを見て、
「やっぱり地震だったんだ」と思っ
らなかったことなどです。また、ガスを使えないこ
た。そして自分が案外冷静だったので驚いた。
とで、ゴハンも作れない、お風呂にも入れないなど
近所の人達の中には、大きな、袋のような物を持っ
たくさんのことがありました。
て出てきた人もいた。おそらく、緊急避難袋だった
これらの体験で、私たち人間というのは電気・ガ
のだろう。自分の家族は、何も持たずに出てきてし
スがないと(水も使えない所もあったが)本当に何
まった。災害に対しての備えの大切さを改めて感じ
もできないものなんだな、と実感しました。もしも、
た。外はとても寒かったので、服を取りに家の中に
人が地球の資源を使いきってしまって、また電気も
新潟県中越地震体験記­ 81
ガスも何もない生活になってしまったら、と考える
住んでいる近くで大地震が起こるとは夢にも思って
ととても恐いと思いました。環境問題について考え
いませんでした。とにかく逃げるにしても、携帯電
るいい機会でもあったと思います。
話は持っていかなくてはならないと思い、2 階に上
今まで書いたのは困ったことばかりでしたが、い
がりました。無事に携帯電話を持って下に降りると、
いこともありました。それは、まわりの人(家族・
父親が帰ってきました。その時に 2 回目の揺れを感
親せき・近所の人など)助け合いながら生活してい
じました。その揺れも大きなもので、立っていられ
ると実感できたことです。地震での恐怖感が家族と
なかったことを覚えています。
いることで、やわらいだし、お風呂に入れなかった
その後、外に避難する時、母親に「コンロの上の
ので親せきの家に入りに行ったり、近所の人たちと
おつゆが入っている鍋を流し台に置いてきて」と頼
温かいゴハンを分け合って食べたりしました。それ
まれ、台所に行きました。しかしその時私は気が動
で、本当に自分 1 人だけでは生きていけないんだな、
転していて、何を思ったのか鍋を持って外に出てし
と思ったし、みんなの優しさに感動することもでき
まいました。冷静を取り戻すと、自分のしているこ
ました。
とに気付き、鍋を流し台に置きに行きました。こん
なことは初めてで、不思議な気持ちでした。外に避
M. K.
私はその時、家の居間に母親と一緒にテレビを見
難して、1 時間程で家の中に入りました。テレビを
付け、情報を得ながら遅い夕飯をとりました。
この日は何をしようとしても怯えながらしまし
ていました。母親は夕食の支度を終えてくつろいで
た。眠ることさえ恐く、眠っている間に地震がきて、
いました。テレビの CM が始まって間もなくすると、
家が壊れたらどうしようという想いが頭の中をずっ
一度「ドンッ」という音がしました。
「何だろう」
とよぎっていました。結局はいつの間にか眠ってい
と思う暇もなく揺れを感じて、地震だと分かった瞬
ました。翌朝、テレビを見ると小千谷市街が映って
間、一気に大きな揺れがきました。座ってもいられ
いて、あまりにも悲惨な光景に驚きました。今振り
ないような揺れで、母親は混乱したように叫んでい
返ってみると、自分はものすごい体験をしたのだと
ました。台所からは皿の割れる音が響き、私のいる
思います。あの日受けた衝撃は恐らく一生忘れえぬ
居間では花びんがころがり割れる音がしました。私
ことになろうと思います。
はとっさにテーブルの下にもぐりましたが、その間、
家が倒壊して死んでしまうのではないかという、と
てつもない恐怖感に襲われていました。
J. K .
そのうちに揺れが治まり、落ちつきましたが、停
僕は、最初の 6 ぐらいの地震のとき、K 亭でお茶
電になってしまい家の中は真っ暗になりました。ろ
とおしぼりと箸をトレンチにのせて、2 番テーブル
うそくを探そうと思いましたが、周りに割れた花び
のお客さんに運んでいる途中で、
「オットットットッ
んの破片があると、足を切るので動くに動けない状
トー」ってなりました。各テーブルでは、お茶やみ
態でした。なので目が慣れるまで持ちました。数分
そ汁がこぼれてたので、ふきんを持ってテーブルを
後、電気が付き安心しましたが、辺りの惨劇に目を
回っていたら、もう 1 回 6 ぐらいのが来て、皿やど
奪われました。自分の周りにはガラスが飛び散って
んぶりが割れほうだいで、店長がお客さんに「逃げ
いて、動かなくて正解だったと思いました。しかし、
て下さい !」とさけんで、お客さんが店の外に出て、
何が起こるか分からないのでろうそくは持ち出しま
その後に従業員も逃げました。みんな外に出た後に、
した。その後台所に行ってみると信じられないほど
また 6 ぐらいのがきて相当びびりました。隣りのガ
の量の皿が割れていました。
ソリンスタンドからは、変な匂いはするし、K の看
片付けをする気はその時無かったので、テレビを
板はゆれてるし、近くの家の塀は倒れてるし、向か
付けました。どの局も地震のニュースでもちきりで、
いのガラスばりの建物のガラスは割れてるし、こわ
その時初めて震源地が新潟の中越だと知り、自分の
かったです。
82 ­新潟県中越地震体験記
それから、ちょっとして家に帰ったら、家族が外
が怖かったです。
に出てて、家は停電してたので川崎小学校に行きま
家に戻ると、食器棚の中の食器や、額などが床に
した。川崎小学校で一晩寝て、次の日の午後日曜
ちらばっていました。幸い家にいた母と犬は無事で
だったので、K に行きました。店の中は、とにかく
した。兄は東京、父は市役所に勤めていていなかっ
グチャグチャでした。副店長のKさんがかたづけて
たので、母と犬を避難させて、自分が家の中にある
たので、手伝ってだいたいキレイになったところで、
貴重品やガスの元栓を閉めに行ったりと、自分がや
コーヒーゼリーパフェを食べて帰りました。次の日
らないといけなかったので、余震もあってとても怖
も店に行きました。その日は、洗ってない皿やなべ
かったです。
がたくさんあったので、洗おうと思ったらガスがま
今回の地震で家は一部損壊になりましたが、思っ
だ来てなくて、洗浄機が動かないので、手洗いで洗
たよりも被害もなくてよかったです。うちからは山
いました。
古志から避難している人が住んでいる仮設住宅に比
次の日はそろっと自分の部屋でもキレイにするか
較的近くて、どんなものか見に行きました。TVで
と思って掃除してから、また店に行って残りの洗い
見ていたけど、実際に見て、こんな小さなプレハブ
物をしました。次の日は、ガスが 11 時ぐらいに来
みたいなのには、自分は犬もいるし、とても住めな
たので、社長がオープンしろとか、わけのわからん
いなと思いました。山古志や他の避難者の皆さん、
ことを言って 12 時にオープンしました。オープン
少しでも早く地震前の生活に戻ってほしいと思って
したとたんすごい量のお客さんが来て 30 分ぐらい
います。
で満席になり、どうにもこうにもならない状態でし
た。アンケートを見ると「ひさしぶりに肉が食べれ
た」など書いてあって、みんな暖かい肉が食べたかっ
たんだなと思いました。
K. K.
地震が起こった時、自分は新発田にいた。17:
地震が起こってから K には、平日にもかかわらず
56 地鳴りが聞こえてきて、家がゆれて、家具がギ
毎日たくさんの人が来て、11 月の売上は、昨年の
シギシと鳴った。その後テレビを見て、びっくりし
11 月を上回り、目標達成したので、次のバイト代
た。最大震度 6 強…ではなく、後日分かった話で、
に+ 3000 してあって、ちょっとうれしかったです。
川口の震度 7…。自分自身は無事で何事もなく、心
K は、地震発生から 4 日でオープンしましたが、A
配だったのは長岡の人たちや、家などだった。また、
は従業員のことを考え、1 週間店を閉めてたそうで
時間が時間だったので、現地の情報が入ってこなく、
す。このことを知って、K の社長は、まだまだ器が
ボーゼンとしている間に、さらに 2 発、3 発目とた
小さいなと思いました。この 2 ヶ月間ほとんどバイ
て続けに震度 6 強クラス…。寮においてある道具に
トして過ごしてました。腹がへってる被災者やボラ
関してはその 3 発目で、あきらめがつき、開き直っ
ンティアで頑張ってる人達においしいトンカツを提
てしまった。プライバシーに関する問題はこの程度
供できてホントによかったです。
で済んだが、あらゆる地震に関する現地情報が入っ
てこない…。入ってくる地震の情報は「地震が起こっ
S . K.
一番最初の地震が起きたのは、美容院で散髪をし
ている時でした。初めは少し揺れて、「あ、地震だ」
た、各地の震度は次のとおり…」くらいで、23 日
中にはどれだけの被害だったのか全く見当もつかな
かった…。
24 日はニュース番組を見た時に当分寮に戻れな
と思った程度でしたがすぐ大きい揺れがきて、柵が
いと確信してしまった。この日から数日後デモやら
倒れさすがに驚きました。すぐに店にいる人全員、
何やらで高専生同志(特に寮生同志)の情報が混乱
散髪の途中でも気にせずに店の外に出て行きまし
し…。寮に戻れる戻れないで、どちらが本当か分か
た。外に出ると、すでに停電していて町中真っ暗で
らない状態になった時は少し困った。結果的に 11
した。信号機も止まっていて、すごく、道を渡るの
月下旬に寮の現実を見ながら、荷物も回収できた。
新潟県中越地震体験記­ 83
ただ、現実はインターネットより強烈に感じた。こ
れが震度 6、7 クラスの地震なんだと知った。
K . S.
最後にマスコミは全地域をしっかり見て欲しかっ
た。山古志や小千谷の被害の大きさも分かるが、大
地震の起きた午後 5 時 56 分は、某食料店でバイ
きく報道されなかった地域の情報が知りたかった。
トをしていました。地震直後は、ぐらぐらゆれるの
で、目まいかと思ったんですが、物が棚からどんど
M. K.
10 月 23 日、私は久しぶりに恐怖を味わいました。
ん落ちていくので地震だと気付きました。ゆれてい
る途中で電気も消えて、真っ暗になって何も見えな
い中、手探りで外に出ました。外に出ても町全体が
地震が発生しました。私はその日朝友達と遊びに白
真っ暗で、わずかな月明かりと車のライトのみが頼
根のほうに出かけました。自転車で行ったため帰り
りでした。
が遅くなってしまいました。もうすぐ家に着くぞ、
取りあえず、家に帰ったほうがいいと思い、急い
と思ったとたん、ドーンという音がしました。
「え、
で帰りました。信号も全部消えていてちょっと危な
今のなんの音 ?」と思った瞬間、電柱が激しく揺れ
かったです。家には母と妹の 2 人がいました。家に
ました。自転車を道にとめたら、次に道路が横に激
着いてすぐまた地震がありました。外にいたけど、
しく揺れました。地面が本当に水に浮いているよう
立て掛けてあった脚立が倒れたり、車庫の中で物が
に動いたのです。何かにしがみつかなければ立って
たくさん落ちる音がしました。これ以上、車庫の中
いられないくらいの揺れが 10 数秒続き、やっと揺
に車を入れておくと、傷だらけになるので、車庫の
れがおさまりました。もう本当に怖くて涙がでそう
物を端にどかして、車を外に出しました。
になりました。電話はかからないので、さらに不安
になりました。
私は三条市に住んでいますが、三条でもものすご
もう 1 人の妹がまだ近くの駅にいて遠回りをしな
いと帰ってこれない、と言ったので迎えに行きまし
た。あまり遅くなると、また、余震がくる可能性が
い揺れたので、川口町、小千谷市、長岡市などの人
高かったのでバイクをとばしました。地震のせいで、
達は、もっと恐い体験をしたんだと思います。その
道が悪かったり、電線が切れて垂れ下がっていたり
後の余震もすごくて、くつ下のまま外に出ました。
しました。妹のいる駅に着いたころに、また余震が
次の日の朝のニュースを見て心が痛みました。すご
あって、走っている時に揺れなくてよかったです。
く悲しかったのを覚えています。山古志村の人たち、
とりあえず妹を回収して大急ぎで家に帰りました。
脱線した新幹線、避難生活を続ける人たち。避難し
ている友達もいて、心配でした。
家にもどると親父も帰ってきていて、一緒に家の
中に入って、防寒具や毛糸、ごはんやお菓子、飲み
この前の水害もそうでしたが、災害は一瞬にして
物を持って、車の中に持ってきました。あと親に危
人々の生活を奪ってしまいます。しかし、それはい
ないから二階に行くなと言われたけど、ケータイ電
つ来るかわからないし、全部防げるとは限りません。
話を部屋に忘れてきたし、パソコンが地震で壊れて
だから、もしそれがきたときに対応できるように日
いないか心配だったので、部屋に行きました。いざ
頃から準備したり、災害に負けない強い心をもてる
部屋に入ってみたら、多少、棚や机とかが横にずれ
ように自分はしていきたいです。それから、ボラン
ているくらいで、他は何ともなかったです。
ティアの人たちや自衛隊の人達には本当に感謝しな
ければなりません。
結局、ライフラインがガス、水道、電気と全て死
んでいたので、水は風呂の中に入れてあった分と、
まだ避難生活を続けている人もいます。みんなで
2 リットルのペットボトルに入ったミネラルウォー
協力し、助け合って、今回の地震をのりきって、も
ターが 2 本だけしかなかったので、実質飲み水は 4
とのきれいで豊かな新潟県に戻れるよう、これから
リットルしかないことになるので、かなり危険でし
も頑張っていきましょう。 地震に負けず、がんば
た。
ろう です‼
84 ­新潟県中越地震体験記
テレビは車の中のカーナビで見れたので、ずっと
停電は 2 日後の夜に終わりました。
やっとテレビを通じて地震の情報を聞い
て、大変おどろきました。停電により、
情報が遮断されるおそろしさを教わりま
した。地方の地震は見ることができます
が、その被害者になると、情報がなくな
り大変でした。
また宮本の観音山が崩れそうで、その
下の友達の家が立入禁止になりました。
友達は僕の家に泊まりました。大きな地
震のたび山の途中の小屋が傾き、いつく
ずれてもおかしくない状態でした。とく
に宮本地区は被害が大きかったです。
平成 17 年 1 月 4 日、74 日ぶりに高専キャンパスで行われた授業再開式
所々で道路が陥没し、マンホールが浮き
でて、液状化によりドロがふき出してい
ニュースを見てました。ラジオも聞けたけど、やっ
ました。1 ヵ月程度で復旧作業が始まりました。未
ぱりテレビのほうがわかりやすいし、字もでるから
だ、マンホールが浮きだしたままの所もあります。
テレビをつけっぱなしにしてました。夕ご飯は、釜
ボクの家は半壊でした。
の中に残っていたご飯と梅干し、ふりかけ、あと缶
バイトでの復興作業は楽でした。もともとスタン
詰のさばの味噌煮でした。その日は 9 時に寝ようと
ドは頑丈に作られており、店内の物が散らかるくら
したけど、車の中じゃ硬くて結局一睡もできません
いの被害でしたが、強化ガラスにびびが入っていま
でした。
した。やはり大きくゆれてたみたいです。私のスタ
ンドでは、他の同じ会社のスタンドからたくさんの
T. S .
地震のときは家にいました。僕の家は長岡市宮本
物資が届きました。ポリ缶が多く届き、お客様にあ
げました。お客様の中には小千谷からの人もいまし
た。話を聞くだけで地震のおそろしさを知りました。
町です。震度は 6 強でした。起きたらすぐ停電して
大変多くの人に助けてもらいました。スタンドの
しまいました。家族みんなは無事で、その日は停電
みなさんや宮本の人々ありがとうごじゃりました。
したため車内で泊まりました。次の日に、家を見た
ら瓦が落ち、壁にひびが入り、棚やタンスが倒れて
いました。そして地震の情報は分からず、テレビも
見れません。
J. S.
10 月 23 日、私は家族とともに新潟にある大型の
僕は、バイト先から TEL があって行ってみまし
家具屋にいました。何気なくソファを見ていたら突
た。南七日町にあるガソリンスタンドなのですが、
然大きな揺れがきて、隣にいた妹がとても恐がって
お客様があふれていました。しかし復興のメドは立
いたのをまだ覚えています。店の構造は天井が高く、
たずにいました。スタンドも停電でガソリンをくみ
長方形だったので、壁が大きく傾いてひし形のよう
上げることが出来ないためです。また営業している
になっていました。停電はしなかったものの、棚か
スタンドは手動で地下タンクからくみ上げていまし
ら商品が落ちてきたりして店内にいた客は落ち着き
た。しかし、油量を正確に計ることができないため、
のない様子でした。一度目の揺れの後、私たちは店
10L に制限されているのです。そのため最大 10L 限
を後にして帰路につきました。高速道路を利用しよ
定なのです。うわさによると 150 円 / Lで売ってる
うとしましたがすぐに通行止めになってしまい、仕
所もあったと聞きます…。
方なく下道で帰りました。車内にいたときも明らか
新潟県中越地震体験記­ 85
に揺れを感じることがありました。ラジオを聞いて
れてきている気がしました。私はその隔てている障
いてもかなり緊張感が走っていました。途中、何度
害こそが、今回私たち自身に大きな影響を及ぼした
か公衆電話から電話をかけようとしましたがなかな
のだと思います。この地球上に確実ともいえるもの
か通じず、携帯電話も使い物になりませんでした。
は数多くはありません。その不確かな現実の上に、
ようやく家に着いたのは夜遅くなってからのことで
自分たちの便利さや快適さを求めるために様々な事
した。
をしてきました。
今回の地震を経験して、いかに地球(自然)の力
事実、先日の授業で先生の話にもあったように、
が偉大か、いかに人間が小さく儚いかということが
恐竜が平穏な日々を送っているときに突然、巨大隕
身をもってわかりました。地球が誕生してから 46
石が墜落して、今までの彼らの生活が跡形もなく消
億年。この長い歴史からしてみれば、今回の地震な
え去ってしまうことも歴史上あったわけです。先日
どは何でもないものだったのだと思います。確かに
のインド洋沖の地震にしても同じ事が言えると思い
私たちは多くの被害、犠牲、苦しみを受けました。
ます。そもそもあの辺りは地震が少ないところと言
被害や犠牲が起きた理由として、もちろん地震が第
われていたそうですが、今回の大惨事は実際に起き、
一に挙げられます。大半はこれによるものでしょう。
そして莫大な被害をもたらせていったのです。地球
しかし、よく考えてみると、私たち人間にも原因
に逆らうことはできないのだと痛感しました。
があるように思えてきました。なぜ、あんなにも小
今回、被災した皆様の中に 地震 そのものに対
さい命が土砂に埋もれた車の中で失われてしまった
して恐怖や怒りを感じた人もいると思います。しか
のでしょうか ? たいていの人は地震が起きたからと
し、私たち人間はこの地球上に生まれ、今日も生活
答えるでしょう。あたり前の話ですし、僕もそう思
を続けている限り、自然災害は避けて通れないもの
います。しかし、あの崖を切り開き、そこに道を走
ですし、地球にもたらされている運命に従わない他
らせたのは誰でしょう ? そう、私たちなのです。私
ありません。ですからすべての原因を 地震 だけ
が第三者の立場だから、このような事が言えるのか
に押しつける人がもしいたのなら、もう一度考え直
もしれません。ただ、今から一万年前にあそこに道
すことも必要なのではないかと思います。不確かな
が走っていたかと言えば、それはないでしょう。大
地球の上に築き上げた今日の社会。それらは紛れも
胆すぎる例え話ではありますが、その時代には道も
なく私たちの手によるものです。果たして我々は今
なければその上を走る車もありません。必然的に命
に至るまで賢明な道を辿ってきたのでしょうか ? そ
が失われることはなくなります。
の答の一部が今回我々にもたらされたものだと思い
地震によって電気や水道、ガスの使用ができなく
ました。
なり、とても不便な生活を強いられた方々も大勢い
られたと思います。例えとして些細なことではあり
ますが、私も電話が不通で苛々しました。ただ一千
A. S.
年前に同じような地震が来て、電話が不通で苛々す
私は、地震があった 10 月 23 日、具合がわるくて
ることは間違いなくないでしょう。電気が使えなく
2 階のベッドに寝ていました。最初、小さくゆれは
て不便な思いをすることもないと思います。原発に
じめた時、私の家はトラックが通っただけでも、そ
地震の影響があるのかなどと心配する必要もなくな
れくらいはゆれるので、気にしないで寝てました。
ります。長い歳月をかけて私たちが身の回りの便利
しかし、ゆれはすぐに大きなゆれとなったので、め
さとひき替えに失ったもの、それは人間と自然との
ちゃめちゃこわくなり、ジャンプしてベッドからお
間の距離ではないでしょうか ? 大昔の人々と自然と
りて、階段へかけおりて、家族のいる居間にやって
の距離はほとんどなかったように思えます。
きました。すでにテレビで緊急ニュースが放送され
さかのぼれば私たち地球から生れ、長い歳月をか
ており、真っ暗な新潟が映っていました。つづいて、
けて進化を遂げ、今を生きているのです。それに対
何回もゆれがきて、そのたびにだんだんテンション
して、今日の私たちと自然との距離は大きく隔てら
が上がり、とうとう、いつでもヒナンできるように
86 ­新潟県中越地震体験記
荷づくりまでしちゃいました。
T. S .
T. T.
私は、今回の地震に遭うまで地震を恐いと思って
今回、震災を体験して自然災害がもたらす力の強
いなかった。しかし、今回は今まで経験したことが
さを初めて感じました。見附・三条の水害のときは、
ないくらい大きな地震で、しかもそれが何度も起き
被害を受けていなかったので、自分も天災の被害者
たのでものすごく恐かった。目の前で部屋が揺れ、
になるとは思っていませんでした。自分は、被害の
食器が飛んでくるのも初めて見た。そのときは本当
大きかった小千谷市の隣にある越路町に住んでいま
に死ぬかと思った。今考えてみると、大げさだがそ
す。
のときは悪いことしか頭にうかばなかった。
10 月 23 日の最初のゆれがあったとき、家の近く
混乱するというのは、何ごとも鵜呑みにしてしま
をランニングしている途中でした。今まで感じた揺
いがちだ。自分でどうするべきかがわからないので
れに比べると、規模がとても大きく、立っているの
ある。そんな中、テレビやインターネットを見てい
も困難でした。何が起こったのか理解できず、自分
ると、悪意のあるなしに関わらず誤った情報もある。
がいた場所から家を確認できなかったので急いで帰
例えば、日にちを指定して、マグニチュード 8 クラ
りました。震度 6 強の激しい揺れでしたが、幸い家
スの大地震が起きてたくさんの人が死ぬ。というよ
はまだ建っていて家族も無事で安心しました。しか
うな書き込みがインターネットにあった。私は、そ
し、それからも数回にわたり強い余震があり、その
れが何を根拠に言えるのかどうかも考えずに、嘘だ
度に家が崩れてしまいそうで心配でした。強い地震
と思いながらも、「もしや」と思い、その夜は眠れ
により棚やタンスは倒れ、壁も落ちてしまい、ライ
なかった。
フラインはとだえ、復旧までには長い間かかり、元
の生活に戻るのは容易ではありませんでした。
あの地震による混乱と恐怖感がいつまでも心に
残っていた。今でも小さな揺れがきただけで驚いて
それから、4 日間、車の生活をしました。まだ家
しまう。地震のような危険な状況であるからこそ、
の中は落ちた壁や割れた食器が散乱していたからで
冷静にならなければならないのだと実感した。冷静
す。車での生活は、夜中はとても寒く、体が固定さ
になれば、じっくり考えることができるだけでなく
れていて自由にならず苦痛でした。まだ配給をほと
前向きに考えることができる。
んどもらえませんでした。しかし、町内の人達で集
今では、地震もだいぶ落ち着いて、普段の生活へ
まり、作る炊き出しを頂きました。いつもあたりま
と戻っている。しかし、そんな中、仮設住宅に住ん
えのように住んでいる家や、食べていた食事のあり
でいる人もいる。私は、そんな人を励ましたり、少
がたさを初めて感じました。その他にも、家に復旧
しだけでも支えてあげることができると思う。それ
に来てくれた人、物資を送ってくれた人、多くの人
が、私が地震を経験したからこそできることだ。
達の温かい支援があって、今こうして復興している
ので感謝したいと思います。
地震の被害、恐怖から一人一人では立ち直るのは
M. T.
難しいので、みんな協力し元の生活を徐々に取り戻
地震は何の前触れもなく発生した。平成 16 年 10
して行かなければならないと思いました。これから
月 23 日、私は高志寮の部屋で、製図の課題を書き
冬に向かい、大きな被害を受けた地域は、大変です。
上げていた。もうすぐ夕食の時間である。そろそろ
中越の被害者すべてが早く復旧し、元の生活に戻る
食堂に行こうかと椅子から立ち上がろうとしたとき
ことができることを願いたいです。今回受けたよう
だった。
な支援を、もし自分ができるならば還していきたい
です。
突然下から突き上げられるような衝撃が起こっ
た。そして間髪を容れずに横揺れが襲ってきた。私
を含め、部屋全体が二次元に揺さぶられた。私は机
新潟県中越地震体験記­ 87
の下に入ろうと必死だった。どうにか机の下に潜り
込み、その下で地震が治まるのをじっと耐えた。
平成 16 年 10 月 23 日以降、長岡高専の授業はずっ
と中断されていた。今年 1 月 4 日からやっと授業が
ようやく地震が治まった。私は着の身着の儘で外
再開されたが、やはり 2 ヶ月以上のブランクは大き
に飛び出した。外には他の寮生達が何十人もいた。
い。今はこのブランクを埋めるため、前よりももっ
皆ひどく落着きがなかった。家は大丈夫だろうか ?
と勉強に励みたいと思う。地震を、運が悪かったと
学校はどうなるのか ? 誰か怪我をした人はいないの
考えず、むしろこの出来事を一つのきっかけとして
か ? そんな話し声か聞こえた。私は、これから避難
とらえ、平成 17 年を飛躍の年として、立派な技術
所に行くのだろうかと考えていた。そのときだっ
者になりたいと思う。
た。再び強い地震が襲ってきた。辺りに悲鳴のよう
な声が響きわたった。私は地面に這い蹲るようにし
てじっと耐えた。やっと地震が治まった。「頼むか
らもうやめてくれ」そんな気持ちで一杯だった。
M. N.
一生に一度あるかないかの貴重な体験ができてよ
それから、寮の当直の教官の指示で、テニスコー
かった。地震はすごいと思った。地震がおきた直後
トに一時避難することになった。寮の食堂側からテ
は、ほんと何があったのかまったく理解できず、た
ニスコートに向かった。その途中、やや下り坂になっ
だ、ぼうぜんとしていた。その後、ラジオで地震だ
ている場所に大きな亀裂ができていた。テニスコー
ということがわかってやばいと思った。街中の明か
トも罅割れ、盛り上がりが見られた。全員がテニス
りが一瞬に消えていくのを見て、やっぱり、所詮、
コートに避難したのを確認し、そこで仮の点呼が行
人は無力なんだなぁと痛感した。
われた。その間、幾度も揺れが感じられた。
何時頃かは分からないが、テニスコートで夕食を
とることになった。私は御握りを 3 個程食べた。や
最初のころ、届いた物資はとても乏しかった。カ
ンパンと水…信じられなくて、この後、家族はどう
なるんだろうと心配でたまらなかった。
はりその間も揺れが感じられた。「いつになったら
地震で家が半壊してしまったので、とりあえず、
完全に治まるのか」。思わず溜息が漏れた。恐らく
余震がおさまるまでは、自宅前にある車庫で暮らす
9 時以降だと思うが、避難所として第二体育館へ移
ことにした。想像以上に寒く、大変だった。けど、
動することになった。テニスコートのフェンスから
今年作ったばかりの鉄筋コンクリートで作った車庫
一旦外へ出て、駐輪場から体育館へと向かった。そ
だったので、くずれることはないので安心できた。
こでもう一度、号、階ごとに点呼をとった。
あと、避難所にいく必要もないのでよかった。地震
しばらくして各部屋の一時入室が認められた。私
2 日目くらいから物資が豊富になってきた。自分が
は、また大きな揺れが来ないかと心配しつつ、自分
越路町だからなのかわからないけれど、みんなで食
の部屋に向かった。自分の部屋は廃虚のような有様
べきれないくらいの量が配給された。まあなんとか
だった。私は、貴重品、毛布、ペットボトルの水、
しのげてよかった。
携帯電話、厚めのジャージ、これらを袋に入れて体
余震もおさまりはじめたころ、妙見の土砂くずれ
育館へ戻った。体育館へ戻ると、真っ先に携帯電話
現場をみてきた。想像をはるかにこえていた。TV
で家族に無事を知らせた。そして、24 日の朝 7 時
で見るよりも、衝撃的だった。しかも越路から意外
頃に父親に車で迎えに来てもらうことになった。そ
に近く、さらに驚いた。その後、小千谷に向かい、
の後は只只大きな揺れが来ないことを祈って眠りに
街をみてきた。いたるところ交通規制され、陥没し
ついた。
た道もあった。あらためて、今回の地震は強烈だっ
10 月 24 日、午前 7 時 20 分頃、父が体育館に到着
たんだなぁと思った。
した。私は荷物を纏め、車に乗り、地元の新潟へと
移動した。道路は大分混雑していたが、午前 10 時
頃に実家に帰ることができた。
感想
88 ­新潟県中越地震体験記
H. N.
二階でサッカーを見ていて、いつのまにか寝てい
たんだと思う。はじめの地震はよく覚えていない。
くの辛いんだよ !」「いや規則だから」
「このぼけ !」
テレビがバチッと消えた。電気も消えた。家がペシャ
というような会話が聞こえた。たしかにボケだと
ンとなると思った。すぐに親が大声で呼ぶ声が聞こ
思った。年寄りはただでさえ弱っているのに、この
えた。ただごとじゃないとそこで初めて気づいた。
ような状況になって余計辛いはずだ。それをこない
しかたがないから降りようと思った。でも何か重た
と、あげれない規則だからといって、あげないのは
くて体が動かない。そのへんからはっきり目覚めた。
人殺しだ。
押し入れの戸が外れ、自分の体の上にのしかかって
ボランティアで沢山の方がきてくれたのはとても
いた。押入れに詰まっていた荷物までとびでて、痛
ありがたかったが、みんな心が冷たくて悲しかった。
かった。よくここまで詰め込めたなと少し感心した。
五日間も避難生活した。さすがにストレスがたまっ
頑張って押入れを持ち上げて、部屋の外に出ようと
た。その間風呂も入れず顔も洗えず。それが一番辛
した。ドアが開かなかった。早く出てこいやと怒鳴
かった。家はすさまじかった。いつも以上に汚かっ
られて、頭にきたので、出れねーンダょこのボケ !
た。冷蔵庫は開いてしまって、中の物がでていた。
と怒鳴り返した。しばらく置いてきぼりだった。外
それが臭いのなんのって。食器は割れまくり。熱帯
に向かって、ドアが開かないの、といった。そした
魚死亡。壁紙がわれた。二階は、全ての部屋の押入
ら母があけてくれた。本棚ごときに閉じ込められて
れの戸が吹っ飛んでいた。ゆれの凄さを物語ってい
悔しかった。みんな外にいるから来なさい。といわ
た。
れ出てみた。ここは地獄かな ? とおもった。
でもそのような生活のおかげで久しぶりに家族と
家の前のアパートの一部が倒壊していた。地面は
たくさん話をした。それだけよかった。もう、この
地割れと陥没で、車は通れないほどだ。高専は建っ
ような地震はこりごりだ。あんまりうまい文じゃな
ているかなと思って見てみたら平気そうだった。6
いが、あまり思い出したくないので勘弁してくださ
人家族なはずなのに、4 人しかいなかった。父は会
い。
社とわかっていたのだが、弟は行方不明だった。電
話はつながらないし、軽く焦った。でも少し経って
帰ってきたので、ぶん殴った。父がまだ帰ってきて
なかったので、自分が頑張るしかないと思った。す
ごく心細かった。
K . N.
自分は、10 月 23 日 17 時 56 分ごろ、ちょうど家
の中でサッカーをしていました。そして、いきなり
近所の家族が集まってきて、自分の家に大集合し
の揺れでパニック状態になってしまったのを、今で
た。そして、避難に必要になりそうな物を持ち寄っ
も覚えています。すると自分はわけもわからず、家
た。近所が仲良しでよかったと痛感した。こうやっ
の中に入ってしまいました。そして体育座りをして
ていろいろなできごとが起こってる中でも余震は続
揺れがおさまるのを待っていました。今考えると、
いている。バイクの音で賑やかになった。こんなと
あのまま外にいた方が安全だったと気づきました。
きにアホだなぁと思った。一台自分の家にきた。友
でも今の中にいても怪我はしませんでした。家も壊
達だった。大丈夫 ? と聞かれたので平気だよ言った。
れずよかったです。また、その時一緒にいた、お母
友達は乗れと言ったが、まだ父が帰ってきてなかっ
も怪我とかをしなかったのでよかったです。自分は
たのでやめといた。
三回目の大きな揺れが終った後、外に出ました。す
それから父も合流して中学校へ向かった。そこに
は、すでにものすごい数の人が避難していた。そこ
ると近所の人たちも集まっていました。だから、自
分たちもそこに行きました。
でJ先生に会った。相変わらず普通でよかった。夜
秋の夜は、少し寒かったです。だから自分は、家
飯は支給されなかった気がする。まぁ食べる気もお
の中に戻り、ふとんなどを持ってきました。その時、
きなかったが。次の朝くらいからパンひとつもらえ
家の中の変わりように衝撃を受けました。タンスは
た。そこで頭にきたことがあった。「ちんと支給場
すべて倒れ、コップやお皿は、半分以上割れてしまっ
所にこないとあげないよ」「だから年寄りだから歩
たのです。また、自分の部屋は教科書やプリント類
新潟県中越地震体験記­ 89
がバラバラになっていました。しかも、自分は教科
話かけてきてくれました。その時は本当に安心しま
書を学校に置いておかないので、かなりの痛手でし
した。やっぱりこういう災害の時に必要なのは周り
た。でも、友達に聞くと、学校に置いていた方がひ
の協力だと思いました。周りの協力がなければ結局
どいと聞きました。それに教科書を失った人も出た
1 人では何にもできないからです。こういう近所の
みたいです。自分はこれからも教科書は、学校には
助け合いがあったからこそ、今も今まで通り普通に
置きません。
生活できているのだと思います。本当にすごい経験
この間、自分は越路町の役場で寝ました。人がた
をしたんだなと思いました。
くさんいて、すごくいやでした。それに、電気はつ
いてるし、話声が聞こえてまったく眠れませんでし
た。かなりストレスがたまりました。それに支給の
ゴハンもあまりおいしくありませんでした。温かい
お汁が飲みたかったです。
N. N.
自分は中越地震発生当時、寮にいました。本震の
後、落ち着いたときを見計らって寮を出てみたとこ
ろ、学校敷地内は地割れ、崩落によって別世界になっ
N. N.
10 月 23 日午後 5 時 56 分に中越地方を強い地震が
ていました。一時的にテニスコートに避難しました
が、その時、テニスコート脇の道がくずれる場面を
みました。
おそった。震源は川口町付近で川口町の震度が 7 で
周囲の状況を把握するため、栖吉中学校までJ先
あった。小千谷市では震度 6 強、長岡市では震度 5
生と歩いていったところ、道は裂けて水道管から水
強であった。この地震の範囲は広く、東京にまで揺
が噴出し、いたるところのマンホールが隆起し、道
れが伝わったといいます。予震がものすごく続き、
に段差ができていました。学校周辺にまともな道は
あちこちで停電や土砂くずれ、道路の陥没、水道管
ひとつとしてなく、栖吉中学校へたどりつくのはと
の破裂など、ものすごい被害が出た。特産物も膨大
ても大変でした。中学校の体育館は付近の住民で溢
なダメージを受けた。特に小千谷市の錦鯉や、山古
れかえっており、みなさん不安そうでした。
志村の闘牛の被害は残酷と言っていいほどの被害で
翌日、学校から車で家に帰りましたが、自分の地
した。闘牛はヘリコプターの空送でなんとか大丈夫
元は小千谷だったので、被害は長岡とは比較になら
だったものの、鯉の被害はどうしようもありません
ないほどでした。幸いにも自分の家の家族は無事で
でした。被害額は何億にも上るといいます。あと地
したが、自分の町内の家のほとんどが半壊、一部損
震で家が倒壊したり、何度も続く予震で家にいられ
壊の被害を受け、中には全壊した家のいくつかあり
ないで、避難所で生活する人の数が一時期何万人に
ました。小千谷は地震発生当時、電気が消え住民は
もなったことがありました。
パニックになったそうです。
僕は避難場所には行かなかったけど、車の中で過
その後、数日にわり過酷な被災生活を送りました。
ごす日が多かったです。近所の人達も車の中で過ご
特に不自由したのは水がでないことです。飲料水は
している人が多くいました。この地震で多くの犠牲
十分だったのですが、風呂に入れないということが
者が出ましたが、心より震災のお見舞いを申し上げ
衛生的、精神的につらかったです。小千谷で電気が
ます。この地震はこの先、生きていく上で一生忘れ
通ったのが五日後、水が十日後、ガスが約一ヶ月後
られないと思うことでしょう。この地震で僕の家は
でした。現在は復旧作業も一段落して何不自由ない
全然大丈夫でしたが、水道、電気、ガスが 3 日間く
生活を送っています。
らいとまってしまいました。
この震災で自分が感じたことは、事前の災害対策
その時に色々と近所の助け合いがあったと思いま
をしっかりしておいたほうがいいということです。
した。夜、車の中で寝ていると、近所の人が自転車
さきほどの体験でも書きましたが、まず水の確保が
で見回りをしていました。そして、その人が車に寄っ
一番重要だと思いました。最低でも三日分の食料と
てきて「大丈夫ですか。よく眠れますか。」などと、
水を、事前に準備しておくことが賢明だと思います。
90 ­新潟県中越地震体験記
また、周りの人との情報交換も、とっても重要だと
潟県がそうなることを願い、そして、そうなるため
感じました。災害時に携帯電話はほとんど役に立た
に努力します。
なかったため、とても不便でした。
今回の震災で改めて自然災害の恐ろしさを知りま
T. H.
した。
この現実を受け止めて、
頑張っていきたいです。
僕は、地震が起きた時は自宅にいました。テレビ
Y. N .
私は新潟県中越地震が発生した時、自宅にいまし
を見ていたら、急に激しい揺れが起こって何がなん
だか分からなかったです。しばらくして、揺れがお
さまってから、地震が起こったんだなと思いました。
た。突然、どーんと下から突き上げられるようなゆ
幸い、僕の自宅は、新潟なので揺れはあまり大きな
れが来たあと、ぐらぐらぐら、と激しい横ゆれが長
ものではありませんでしたが、怖いなと思いました。
い間続きました。地震の後すぐにテレビの速報を見
大きな余震がおさまってから、親戚や友達に連絡を
ました。震度 6 強、初めてその数字を見たとき、今
しようと電話してみましたが、回線が混んでいて、
回の地震の規模がいかに大きいか、想像も出来ませ
しばらく連絡がとれませんでした。電話がつながり、
んでした。その後、強い予震が何度も起こり、非常
長岡の友達に被害状況を聞いてみると、道路が凹凸
に驚いていました。私は今まで大きな地震どころ
になったとか、通行止めになったなどと言っていま
か、地震というものを経験したことがありませんで
した。やはり、中越地区は被害がひどいなと思いま
した。なので、今回の地震で大変なショックを受け
した。
たのです。それでも、地震の震度は、私達の地域は
中越地震が発生してしばらく後に、高専の友達の
5…あんなに大きな地震よりも、6 強は強いのです。
家に泊まりに行った時に、友達の家に緑の紙が貼っ
その中にいた人は大変だっただろうと思っていまし
てありました。友達に聞くと、家が安全だという紙
た。その日の夜は地震がいつ来るかと思いびくびく
と言っていました。地震の被害の大きい地区は、こ
していました。
のような紙が貼られるんだなと思いました。友達の
次の日、ニュースや新聞でも今回の地震の状況が
家もところどころヒビがあったり、タイルがはがれ
続々とながされ、私は被害の大きさを確認し、やは
ているなどの小さな被害がありました。友達の母親
り大変なことになっているなーと思いました。長岡
も食器が結構割れたと言っていました。地震の被害
に住んでいる親戚も相当な被害にあったらしく、地
はこんなにもひどいものだなと思いました。
震が起こった後、二週間程、私の家の方で避難して
次に僕は今回の中越地震の支援体制はなかなか良
いました。親戚のおばさんは、予震が起こる度にひ
かったと思います。始めは急な出来事ということで、
どく動揺していました。私は、大きな予震がおこっ
一部の避難所では、食べ物が届かないということが
てもある程度平気になってましたが、それでも恐い
ありました。しかし、多くの企業や団体から支援物
ときがありました。長い間、予震がおさまった後も、
資を送られたり、仮設住宅の設置も早かったと思い
強い予震が起こったときがあり、その度に私はいつ、
ます。全壊や半壊の人にも補助金が最高 200 万円ま
この地震は終わるんだ、と内心、とても憂いていま
で支給されたりと、7・13 新潟水害よりも良い対応
した。
ができていると思いました。しかし、あまりにも支
しかし、今では地震も完全におさまり、各地でも
援物資が多すぎて、置き場所に困るなどという問題
復興が始まっています。今回の地震で、新潟県は大
も発生しました。みなさんの気持ちは嬉しいですが、
変大きな被害を受けました。地震で住む所や職、あ
ほどほどにと思いました。長岡の幼稚園では、クリ
るいは両方とも失った人も数多くいます。命を失っ
スマスの近くに、サンタがケーキを贈るなどと心温
た人も多くいました。しかし、無事な人達も多勢い
まることをテレビで見て感動しました。
ます。その人たちが、今後の新潟県を震災前より素
今回の中越地震で多大なる被害をこうむったと思
晴らしい場所に変えてくれると思います。私も、新
います。家だけでなく、新幹線や道路などの公共の
新潟県中越地震体験記­ 91
物を破壊しました。40 年くらい前に起こった新潟
テレビのニュースは、ずっと災害の事ばかりを放送
地震に劣らないくらいの地震だったのではないかと
しづづけ、道路はとっても渋滞した事です。さらに
思いました。今回の地震で、40 人もの尊い命が奪
その後、何日かたったあと、学校が休校になったと
われました。一部損壊を含めた家の被害は約 6 万棟
か、友達の家が被害にあったとかの噂を聞きました。
にも及びました。全壊した人は今、仮設住宅に住ん
他にも、長岡に住んでいる知り合いの老夫婦は二
でいますが、実家を離れるのがつらく、仮設住宅に
人で暮らしていました。その夫婦二人で住んでいた
行かない人も中にはいるそうです。山古志村の人は
家は被害が大きく、外壁が欠けていたり、棚の物が
村を離れなければいけない状態です。また山古志村
落ちていたので二人は引っ越しました。越路に住ん
の小学生は長岡の小学校で授業を受けています。み
でいる友達の家は、避難勧告が出ていたけど、被害
んな早く家に帰りたいと思っていることでしょう。
はほとんど無かったでした。この二つの事から見て、
早く帰れることを願っています。
地震は震源地からちょっと離れていても、地盤が弱
今回の地震は対応が早かったこともあり、食べ物
くて被害の大きな所と、近くても、地盤がよくて被
に困ることはありませんでしたが、避難場所や避難
害はあまり大きくない所に分かれていると思いまし
生活の状況はあまりよくなかったと思います。体育
た。
館の生活はたくさん人がいるため、風邪などがうつ
ニュースで聞いた話は、新潟で今回の被害が大き
りやすく、お風呂などにも困ったらしいです。車内
くなった原因はいくつかあるらしいです。地盤問
の中で避難する人が多数いて、お年寄りの人々が長
題、台風、地震などが重なって、今回の被害になり
期間、車内で避難したために死に至ったということ
ましたが、この対策をたてるのは現状では無理だっ
もありました。このようなことで命を失うことはと
たそうです。情報伝達の手段もうまくいかずに被害
ても悲しいことです。
は拡大する一方だったようです。自分としては、日
僕は今回の地震で改めて、地震の怖さを実感しま
本全国どの地域もお金が無いのは分かるけど、せめ
した。地震は滅多に起こらないので保険に加入する
て、情報を伝える手段や訓練などはしておいた方が
人も少なく、備えもしっかりしていない家が多いと
よかったと思います。これからはしっかりとした災
思います。これからは、初心に戻り、
「備えあれば
害に対する対策をしてほしいです。
うれいなし」と心がけたいと思います。最後に被害
にあった地域や人々の 1 日も早い復興を願っていま
す。
T. H.
自分は地震が起こったとき自宅にいなかったのだ
T. H .
が、激しい揺れに驚き、すぐさま自宅に連絡を入れ、
家族の無事を確認しようとしたのだが、電話が通じ
新潟の中越地震が起きた時間に、僕は新潟市のデ
ず、急いで帰宅し、家族が無事なのを聞いてホッと
パートの二階にいました。一番初めの地震はちょっ
した。地元では、地震による被害は全くと言ってい
と長く感じました。けれど、その揺れた瞬間はそん
いほどなかった。
なに大きな地震だとは思いませんでした。しかし、
山古志村や小千谷市では、地震によるゆれで地盤
その直後にデパートに流れた放送と、聞いていたラ
が崩れ、道路が陥没し、住宅が倒れるなど被害は甚
ジオで震源地は中越方面、震度はかなり大きいとい
大。自分も親に同乗して、小千谷市の様子を見に行っ
う事だけ分かりました。その日のニュースなどで見
てきたのだが、一部地域では、普通の生活を送って
る風景は、凄い災害の様子を映していたのを覚えて
いる人たちもいるが、やはり多くの住宅に「入居禁
います。
止」などの張り紙がしてあり、今回の地震の規模の
しかし、自分の家は新潟の下の方にあるので震度
は小さく、まったく被害はありませんでした。大変
だったのは、その日中ずっと携帯電話はつながらず、
92 ­新潟県中越地震体験記
大きさを窺わせている。
隣の見附市は、先の水害に続く災害ということも
あり、住民もそういったものに敏感になっている。
自分は地震後に、見附市内の書店に足を運んだのだ
日は避難することなく、家で予震が続く中ふて寝し
が、店に入ろうとした瞬間、またもや震度 6 の地震
た。次の日、朝からバイトをしていた。ものすごい
に見舞われた。お陰で書店は、その日の営業を終了
客の入りだった。スタンドの前に車の行列がずーと
してしまい、わざわざ見附市まで出向いてきた苦労
続いていた。昨夜の車で夜を過ごした人達がガソリ
が徒労に終わったわけだが、この時起きた地震によ
ンを求めてやってきたのだった。オイルショック状
る被害はほとんどなかったそうなので良かったと言
態だった。昼ごろまでには地下タンクがカラッポに
えよう。
なり閉店。スタンド始まって以来の大盛況だったら
気象庁によると、地震の規模を示すマグニチュー
ド(M)は推定 6.8。阪神大震災の M7.3 は下回っ
しい。これが地震当時の僕の行動と印象に残ったこ
とです。大変だった。
たが、震源が約 20 キロと浅かったため、大規模な
土砂崩れや走行中の上越新幹線が脱線するなど、大
きな被害につながった。
T. M.
地震は地下の断層が動く事で発生する。国土地理
地震発生時、自分は車の中にいました。最初は、
院は地殻変動のデータをもとに、今回の地震の震源
道が波打っているのかと思っていましたが、カーナ
断層モデルを計算した。それによると、動いた断層
ビゲーションシステムの地震速報で現状を理解しま
は長さ約 22 キロ、幅約 17 キロ、深さ約 3.2 キロ、
した。寺泊にコンサートに行く所だったので、とり
これが上下方向に約 1.4 メートルずれた逆断層型の
あえず安全なうちに橋を渡りましたが、すぐさま予
地震と推定している。
震がきました。会場の駐車場までたどりつきました
が、そこで 2 段目の地震がおきて、ホールから人が
T. H .
大量に出てくるのがみえました。渋滞に巻き込まれ
ないうちに、駐車場から出て、車中から何度も自宅
僕は一度目の地震があったとき友達の家で遊んで
に電話をかけましたがつながりませんでした。途中
いた。初めは何がなんだかわからなかった。友達の
で、コンビニエンスストアに寄り、水、チョコレー
部屋のでかいタンスやパソコン、テレビが揺れに
ト、パン等を買い、公衆電話から自宅にかけたとこ
よって動き回っていた。友達の親父さんが「とりあ
ろ、祖母の無事が確認できました。しかし、妹がま
えず家から出るぞ」と、家から避難を促したので友
だ長岡から帰ってきていなかったため、早く家に帰
達の家の外に出た。外に出るとまた地震が起きた。
ることになりました。
もう驚くばかりだった。すぐに親に電話をした。回
家にたどり着くと、家はしっかりと建っており、
線が混んでいて、繋がるまで何度も電話した。自分
ひとまず安心しました。すぐさま懐中電灯、軍手、
の家族は全員無事とのことだった。とりあえず安心
ヘルメットを装備して最悪の状態にそなえました。
した。地震の揺れがおちついたと自分で勝手に判断
妹は数時間後、長岡で一緒にいた友人の知り合いに
をして、バイクにまたがり、家に帰ることにした。
拾ってもらい、なんとか帰ってきました。その日の
今、考えるとあの時バイクに乗ったオレの行動はな
夜は、車中泊でした。幸いにも自宅には、キャンピ
んてバカで危険だったと思う。それなりに混乱して
ングカーと、バンの車があったため、エコノミーク
いたようだった。
ラス症候群にもならずにすごせました。
帰り道の途中、自分のバイト先であるガソリンス
翌日は父と一緒に方々の偵察にいきました。猿橋
タンドに寄ってみた。ひどいあり様だった。カー用
川沿いの土手は陥没しており、その時の写真はホー
品やら工具が散乱していて、時計が地震の起きた時
ムページにアップされています。その後、昼にはパ
間で止まっていた。店長が「お∼H。助けにきたの
ジェロに乗り換えて、長岡方面の偵察に向かいまし
か。片付けを手つだってくれ」と半強制的に片付け
た。密かに高専にも行きました。予想以上の惨状に
を手伝わされた。その後、家に帰宅。家ではガスが
息をのみましたが、その時の状況もしっかりと写真
使えない状態だったので風呂も飯もなかった。その
におさめ、ホームページにアップされています。
新潟県中越地震体験記­ 93
た、近所の団結力に加えて必要だと思ったのがもう
T. M .
僕は、今回の地震で近所の団結力の強さを改めて
一つある。それは災害に対する対策である。いつ地
震がきてもよい心がまえをしておくことが重要だと
思った。
知った。地震があって数日は、うちの家族も、近所
の人達も家に入れる状態ではなかった。本棚などあ
りとあらゆる物が、散乱し、とても家で生活できる
M. M.
状態ではなかった。家では食事の準備も出来なかっ
私は、新潟中越地震でたくさんの経験ができまし
た。そこで近所の数家族で集まって野外で炊事をし
た。10 月 23 日(土)の PM17:56 にすっごく大き
た。各自、石油ストーブやカセットコンロ、冷蔵庫
な地震がきました。私はその時家にいて、今まで経
にあった食材を持ち寄って、鍋やカレーを作った。
験したことのない大きな揺れに、立つこともできず
地震があってから 5、6 時間したら、うちの近所
に、ただ驚いていました。一回目の地震がおさまり、
は停電してしまった。炊飯器でご飯を炊くことも、
家の中はグチャグチャで、危険だと思い、みんなで
携帯電話の充電もできなくなってしまった。でも、
外へ出ました。窓から出たので靴をはく余裕もあり
電気の通っている人が、僕達によかったら電気を
ませんでした。外へ出た瞬間、2 回目の一番大きな
使って下さいと言ってくれた。そして僕らはお言葉
揺れがきました。私たちは、その場にしゃがんで揺
にあまえて、ご飯を炊かせてもらったおかげで、食
れがおさまるのを待ちました。
料に困ることはなかった。
食べ物の次に困ったことは、風呂だった。食べ物
そして、外へ出てまわりを見るとみんな外へ避難
していました。その後も、たくさんの大きな余震は
と違い、入らなかったら死んでしまう ! と言うこと
続きました。幸い、電気と水はとまりませんでした。
はないが、さすがに 2、3 日入らないと気持ちが悪
そして、あっとゆう間に、外にいたまま 3 時間くら
いものだ。1 週間ほどガスは通らなかったし、浴槽
いすぎました。とっても早く感じました。その日は、
自体がずれてしまい、しばらく入ることができな
1 部屋キレイにして、家族全員、同じ所で眠りまし
かった。しかし、近くに住んでいた知り合いの人の
た。でも、私は良く寝れませんでした。とってもこ
家が石油で沸かす風呂だったので、近所の人達を招
れが現実とは思えなかったからです。あの日のこと
待してくれて入浴ができた。
は一生忘れません。
家の近くに大手高校がある。この間まで、山古志
次の日、テレビを見て、昨日わからなかった被害
の避難所であった。地震直後は昼夜問わず、ものす
の大きさが明らかになりました。特に山ぞいの所が
ごいヘリコプターが一日に何機も離着陸を繰り返し
すごかった気がします。山古志や長岡では中沢や高
た。最初は、村民の人達も体育館にこもっていたが、
町のあたりです。今はもう、仮設住宅もでき、道路
落ち着くにつれて、子供たちは外で遊んだり、散歩
も直ってきたけど、余震はまだ続いています。怖い
する村民をみえたので少し安心した。一日も早く、
けど、イイ経験になりました。
地震以前の生活をすべての人ができるようになれば
いいと思う。
今回の中越地震を体験して地震の「怖ろしさ」と
N. M.
いうものを初めて知った。いつも地震などの自然災
僕は普段は寮に住んでいるのだが、地震当時は週
害などは、テレビの中での話だと思っていた。まさ
末だったので、地元の新井に帰省していた。もし地
か、自分の住んでいる地域を直撃するなんて夢にも
震が週末でなかったら、僕も例外にもれず、被災し
思わなかった。
ていたと思う。
やはりこのような非常事態は近所の人達との助け
地震があった時、僕はバイクで上越で友達と遊ん
合いや協力が不可欠だと思った。もし、周りに頼れ
でいた。バイクで移動している時に、1 回目の地震
る人達がいなかったと思うと心細かったと思う。ま
が来たのだが、気付かなかった。二回目の地震の時
94 ­新潟県中越地震体験記
は信号待ちをしていて、急に信号機が大きく揺れた。
最後に、将来に地震や豪雨などの被害が身近で発
近くのコンビニにバイクを止め、様子を見ていた時
生したら、後悔しないためにも、積極的に、ボラン
に三回目の地震が来た。辺りは異様な雰囲気。鳴り
ティアなどに参加したいと思う。そして今回の地震
響く消防車のサイレン、下がったまま一向に上がる
から学んだ経験を生かしたいと思う。
気配のない踏切、電車は近くの駅で止まったまま、
動かなかった。踏切の前には、長蛇の車の列。これ
はとりあえず家に帰ろうと、友達をバイクで家まで
K . M.
送り、家に帰ってテレビをつけて驚いた。震源地は
地震がおきた時、私は家の自分の部屋にいた。家
中越地方だった。続々と届く被災地の状況。外出着
は三条市だが、ゆれはけっこう大きく、今までの中
のジャケットも脱がずに、家族とテレビにかじりつ
で一番大きなものだった。それで、最初グラッと来
いていた。高専の友達は無事だろうか、不安と心配
た時すぐに地震だとわかって、すぐにリビングに
でイッパイのなか、その日の夜は家族全員で居間で
いった。そして、家族みんなで机やテーブルの下に
寝た。床につくまでも、夢の中にいるような不思議
隠れた。妹はその時昼寝をしていて、母があわてて
な気分だった。
起こしに行って出てきたときにはわけもわからず半
次の朝、テレビをつけても現実は変わっていな
泣き状態だった。すぐテレビのニュースをみた。大
かった。日に何回か、地元の友達から無事を確認す
きいゆれは全部で 3 回あったが、家は平屋だから他
るメールが届く、そして僕も高専の友達へ無事を確
の家よりゆれず、倒れたりしたものも少ししかな
認するメールを送る。返ってくる返事は、「車で生
かった。夕食はまだだったのでガスコンロでナベを
活している」や、「ライフラインはなんとか大丈夫」
つくって食べた。父は危ないと言っていたが、母は
とか、
「学校休みだからこっち来んな」などなど。
平気な顔をしていた。それから地震がまた来た時の
とてもこっちでは考えられないような、テレビで放
ために、食器棚を毛布でおおったり、本棚の前にソ
送されている通りの内容だった。
ファーを置いたりした。
後日、友達からボランティアの誘いのメールが届
三条市は震度 4 位だったので、まわりの家の被害
く、しかし、車が無く、泊まる場所もないので断っ
もそうなかった。中之島町にいるばあちゃんの家は、
た。だが後日、被災地で活躍するバイク隊の映像を
石の灯籠が倒れたくらいだった。でも地震のあとし
見て、僕もボランティアに行けば良かったと後悔し
ばらく、おじいちゃんは恐がっていて、一人になる
た。やはり、いざという時は、傍観を決めこまず、
のがいやで、一人のときは車の中にいるようになっ
行動することが大切なんだと思った。今後は積極的
た。具合も悪そうになってかわいそうだった。
に自分の出来ることを考えたいと思う。
自然の力のすごさというのが初めて身にしみてわ
今回の地震でまず思うのは、災害はいつ起こるか
かった。自分たちには殆どどうすることもできなく
わからない。と言うことだ。今回は運良くと言った
て、災害の怖さが分かった。私は大変な地域に親戚
ら言葉は悪いかもしれないが、被災することはな
もいなかったし、ボランティアに行ったわけでもな
かった。しかし、天災はいつ起こってもおかしくは
かったけど、大きな経験をしたと思う。将来に少し
ない。もしかしたら被災していたかもしれないのだ。
でもこの経験を役立てられたら、と思う。
日頃からの最悪の事態を見こした備えが必要だと痛
感した。
やはり人間は痛い目を見ないと、備えを怠ってし
T. M.
まうのかもしれない。しかし、それでは意味が無い
地震が起きる前に空の色が赤く、雲の様子も変で
のだ。時間が経つことで、この地震の記憶は風化し
した。これは地震が起きると思っていたら、数時間
てしまうかもしれない。そうならないためにも、定
後にでかい揺れがあってビックリしました。
期的な訓練対策が必要になると思う。誰も被災する
とわかっていて被災する人はいない。
地震がおきたとき、僕は、自宅に帰っていたので
すが、新潟市内で一番強いと思ったのですが、長岡
新潟県中越地震体験記­ 95
方面が震源だったのでビックリしました。新潟で、
在、借家を借りて住んでいるので、これからまだま
あんな大きな揺れだったので長岡はもっとすごかっ
だ問題が山積みな様に思える。
たと思うと、ちょっと恐ろしいです。
父も、土木の仕事をしているため、復興のため早
テレビで中越の状況を見ると、地面がすごかった
朝から深夜まで働きづめで、疲労が溜まっている様
ので、ビックリしました。みんな、テントや体育館
だ。バイト先の酒屋でも大きな被害を受けた。家の
で暮らしているのを聞いて、大変だと思いました。
被害が小さかったため、バイト先へ、手伝いに行っ
翌日のニュースで、救援物資の募集もしていたので、
ていた。地面がワインの海になり、とてつもない数
子供用のパンパースをおくりました。あと食料も少
の酒がダメになってしまった。酒蔵の被害も大きく、
しですが、送りました。一か月くらいたち、家が全
思うような発注ができず、通常な営業にもどるまで
滅の人たちが、仮設住宅に住み始めました。早くみ
多くの時間と、人手を要していた。
んなが元の生活ができればと思います。
地震は突然くるものです。もし再び大きな地震が
まだ余震が多少あり、仮設住宅に住んでいる人も
いる。復興にはまだまだかかることには間違いない。
きても、みんなの被害が地震対策で最小におさまれ
復興に協力できることなどたかがしれているけど、
ば良いと思います。そのためにも、一刻も早く災害
できる限りの協力をして、少しでも元の生活にもど
から立ち直り、義援金などで対震構造の家ができれ
れる様にしたい。
ば良いと思っています。
I . Y.
T. Y.
僕は地震のとき長岡にいました。テレビが落ちて
地震による直接的被害は、お皿が割れた程度で済
壊れたので、ミニ被害者になってしまいました。実
んだことは幸いであった。しかし、地震による影響
家の柏崎はぜんぜん無害だったので、長岡の被害の
は、人生の中でも、とてつもなく大きいものだと思
大きさに驚きです。高専の近くに親戚の家があるの
われる。
ですが、はちゃめちゃでした。はり紙をされていて、
まず、一番衝撃的な出来事として、母親の親友が
すごいなと思いました。手伝いに行ったのに、なん
亡くなったことが、最も心に残るものだった。40
か、そこの家の人があきらめかけてたからです。友
代中ばにして、エコノミー症候群によるものでした。
達の家はそんなでもなかったから安心です。地震で
その方の家自体は、それほどの被害はなかったが、
亡くなった方もそんなに多くなかったと思います。
実母の被害が大きく、その世話や、田んぼの被害に
新潟は人口少ないし。ライフラインがないと、悲し
よって、多大なストレスや疲労が蓄積したことに、
いと思いました。
車内生活が響いて、最悪な結果になったのだと思い
マンションにいると、危険だと思ったので、すぐ
ます。ぼくらと違って、抱えているものが多ければ
近くの友達の家に行かせてもらったのですが、水と
多いほど、被害による苦痛は大きなものになるのだ
かなくて、ぜんぜんダメで、ガスもなくて、おなか
と思います。もう少しで、ぼくらも成人になるが、
がへりました。テレビで見る新潟中越地震はすごい
大人の抱えているものの大きさを思い知らされた様
被害でしたが、僕はそんな被害が大きくなかったの
な気がする。
で実感がありません。
他にも、両親の実家の被害は、大きなものだっ
ただ、学校が壊れたのがショックでした。ずっ
た。父方の実家は、父の兄弟と共に、東京で暮らし
と、休みだったのはうれしかったけど、淋しいとき
ているため人身的な被害はなかった。しかし、避難
もあったし、どうせ春休みとか、つぶす気だから、
指示が出て、付近の住民がヘリコプターで避難した
やんなりました。でも地震後の高専の教室は便利で
ほど、実家周辺の被害は膨大なものであった。母方
す。なによりみんな怪我がなくてよかった。
は、家が大規模半壊と修復が不可能なほどの損壊で
あった。人身被害がなかったものが幸いなもの、現
96 ­新潟県中越地震体験記
く感謝して涙が出そうになりました。この助けがな
かったら、ホントにどうなっていたかわかりません
T. W.
でした。
私は地震のとき吉田町というとこで友達と遊んで
私は、この思いは一生忘れないと思います。あと
いました。2 人で夕食を食べているとき、始めは、
この地震も忘れられない出来事の 1 つとなりました。
「あ、地震だ」と思う程度で、そう思っている矢先に、
いきなりすごい揺れを感じ、一瞬電気が消え、2 人
H. W.
でビックリしました。私はそのとき、こんなすごい
地震だと思わなくて、友達とまた夕食を食べはじめ
中越地震当日、自分は学校にいました。なぜ学校
たら、また地震が起こり、とても恐くなって、早く
にいたかというと、寮の友人と長岡市街で遊んで、
帰ろうと友達と決めました。そして吉田駅に向かい
その後、友人を寮に送り、自分はテニスコートでテ
ましたが、向かう途中もゆれていました。
ニスをしていたからです。地震がおこった時は、家
吉田駅に着いたとき、地震の影響で電車が止まっ
に帰ろうとして車に荷物をのせ、車に乗ろうとして
ていました。2 人とも帰えられませんでした。なの
いるときでした。
で家に電話をしようと思ってもつながりませんでし
1 度目の地震の時に、学校にいた人たちが、第一
た。その時メールが来て、栃尾は震度 6 弱と聞いて、
体育館のわきにあるロータリーの所に集まっていた
家族や友達のことが心配でたまりませんでした。そ
ので、自分もそこに移動しました。それから数分後
んな中、1 時間くらい駅で待っていたら、公衆電話
に、2 度目、3 度目と短い間隔で地震がありました。
からかけてみようと思い、家に電話をかけてやっと
その直後に、A先生が教官室にいるのが見えたので、
つながり、家族の無事が確認できました。ですが、
『大丈夫かなぁー』と思って見ていました。それで、
迎えにはこれないと言われ、どうやって帰ろうか悩
2 度目、3 度目の地震があってA先生の教官室の本
んでいました。友達も同じ状況でした。
棚が「グラン ! グラン‼」と横にゆれ、本がどんど
その後 3 時間くらい待ったときに、駅員から今日
は電車が動かないと言われ、ホントに帰る方法を考
ん落ちました。でも、A先生は、ゆれがおさまった
ら、外に出てきて大丈夫そうでした。
えていたら、駅員さんが声をかけてきてくれて、タ
その後、何度もゆれ、その度にみんなでくっつい
クシー代が JR がだすからタクシーで近くまで送っ
てしゃがんでいました。地震発生から、1 時間近く
てくれると言ってくれました。もうそのときはすご
たったら、寮の方からおにぎりなどの食糧をもって
きてくれました。その時は、かなり落
ち付けました。それらの食べ物を、食
べ終わったら全員で寮の食堂に集ま
り、30 分くらいたった後で、先生達
からの話がありました。一段落したら、
先生達が見回った結果、第二体育館が
安全だということで、寮生や先生達の
家族の人達と一緒に、移動しました。
学校は、学生課のあたりがガス臭
かったり、道路が沈下や隆起したり、
グランドやテニスコートに亀裂がは
いったり、…とかなり被害があったよ
うです。
実家は、栃尾の中心部に住んでいる
寄宿舎 4 号館食堂側 2 つの柱が激しく破壊された
ので、かなりゆれたらしいのですが、
新潟県中越地震体験記­ 97
テレビが落ちたり、皿やコップなどが割れるだけで
しました。そこで自分は、本部の指示でボランティ
すみました。
アの存在、在り方、活動内容を知ってもらうための
その翌日からは、長岡にある親戚の家が、ガスも
ビラを避難所に配りました。その活動を通して、自
水も止まった状態だと聞いたので、水や食べ物を
分もボランティアについて学びました。避難所を回
持って片付けに行ったりしていました。行く途中の
る際に、被災したたくさんの方と話をしました。ど
道路や家がめちゃくちゃになっていて、今回の地震
の方も例外なく、自分の家や地域が傷ついたことに
の激しさをあらためて感じさせられました。
ショックだったようです。
自分と同じようにボランティアに参加した方とも
話をしました。中には県外から中越復旧の為に来て
N . Y.
くれた方もいて、力を合わせて作業しました。自分
自分は寮生ですが、新潟県中越大震災があった
と同じ班だった埼玉から来た方とよく話をしまし
10 月 23 日は帰省していて、実家で入浴中でした。
た。自分が「遠いところから来ていただいてありが
揺れに気付きすぐガス栓を閉めて、体の泡を流して
とうございます」と言うとその方は「遠いところで
部屋に行きました。実家は燕なので被害はありませ
も日本全国にいる人は皆新潟に来て力になりたいと
んでしたが、今まで体験したことのない激しい揺れ
思ってるよ。俺もその中の一人で、ただ新潟にくる
に恐怖を感じました。すぐニュースを見ると、そこ
ことができたってだけだから、日本全国の人にも感
には自分が入学して 2 年半生活してきた長岡、多く
謝しなきゃ。」と、スマしてカッコイイ一言を言い、
の仲間たちが生活している小千谷、越路など、震源
黙々と作業していました。自分の中で忘れられない
に近い被災地の無惨な様子が報道されていました。
一言と喜びでした。
今回のボランティアで、自分は貴重な体験をした
よく知っている地方であるだけに最初は信じられま
と共に、学んだことも多々あったと思います。そし
せんでした。
てまたこのような災害が起きてしまった時は、多少
そんな多くの被害を出した震災の復旧に少しでも
離れた地域でもボランティアにいきたいと思います。
力になれたらと、何度か長岡のボランティアに参加
学
生
4
を見わたし、何が起きたのか考える間もなく、ゴゴ
T. I .
ゴゴという地鳴りと、家中の柱が折れるような、す
さまじい横揺れが起き、自分の座っているベッドや、
僕は地震の当日、寮から帰省して家にいました。
机が揺れに合わせて大きく左右に振られ、家具は倒
テスト明けで久々に自分の部屋でくつろいでいたと
れ、鏡は割れ、床一面に散らばり、そこでやっと地
きに、震度 6 強の本震が起こりました。兄は大学に
震だということに気づきました。木が強くこすられ
通っていて新潟市のアパートにいて、父は市内の病
るような音と、大きな揺れは長時間続き、揺れにお
院で入院していたので、避難や震災後の片づけがと
びえているうちにいつの間にか家中が真っ暗になっ
ても大変だったことが一番記憶に残っています。
ていました。早く家から出ないと一緒に潰されてし
10 月 23 日、午後 5 時頃。祖母の家から帰宅し、
まうと思い、まず逃げようと考えました。その時、
自分の部屋のベッドに座って本を読んでいました。
母のさけび声に気付き、大きな揺れの中、鏡の破片
母は下の階の居間でテレビを見ていたそうです。夕
や倒れた家具を踏み越えて急いで下に降り、母の手
飯の支度はまだで、風呂もわかしていませんでした。
を引っ張ってスリッパのまま外にとび出しました。
午後 5 時 56 分、とても静かだった自分の家にドン
小学校のグラウンドには、近所の人達が 30 人く
ドンドンという大きな音と共に、部屋全体が上下か
らい避難していて、みんな心配そうに自分の家を見
らなぐられているような衝撃が起こりました。周り
ていました。そこへ、震度 6 弱と観測された余震が
98 ­新潟県中越地震体験記
発生しました。自分も含めそこにいる全員が、あま
て 3 日くらい、ボーっとしていた。その後 2 ヵ月近
りの揺れに立っていられずその場にしゃがみこみ、
く、学校が休みということを知り、何かしたくなっ
身内同士で体を支え合っていました。
たのだが、金はない、車はない、連れがいないで、
その日の夜から 4 日間、車中で寝泊まりし、水道
が止まってしまったために、中里村にあるミオン中
結局、家でちょっと勉強したり、遊んだりしている
だけだった。
里に行って風呂に入るという生活を余議なくされま
この地震をきっかけに進路などを決定できるか
した。しかし、小千谷や川口の被害状況をニュース
な、などと思っていたのだが、よけい迷ってしまい、
で見たときは、自分ばかり何でこんな目に合わなけ
いまだに地震を経験した、ということを生かせてい
ればならないのか、などとは言えないと思いました。
ない。被災したことをポジティブに考えたいのだが、
自分よりもっと苛酷な生活をしている人達は大勢い
どう前向きに考えてもプラスの事は少なく、やはり
て、しかも今だにその暮らしを続けていかなければ
災害は災害だな、と思った。
ならないのです。洪水や地震のために、今までの生
活を失った人達の事を考えると、もう二度と災害は
起きてほしくないと思います。
K . U.
平成 16 年 10 月 23 日土曜日午後 5:56 に新潟県
K . I.
中越地方で大きな地震がありました。寮生である私
はその日の昼に帰省して、地震発生時には家にいま
私は初震の時に、寮の自室で友人といたのだが、
した。家は、三島群和島村です。もし寮にいたら…
最初弱いゆれを友人が感じ、
「なんか揺れてない ?」
と思うだけでゾッとします。和島より長岡の方が揺
と聞かれ、私は初めて感じた。その後、ケツが浮く
れが強かったからです。それに、両親が私の心配も
くらいの音と、揺れがきて、ロッカーの上から扇風
して、パニックになっていたと思います。本当に寮
機が落ちてくるわ、パソコン倒れるわ、友人がしが
にいなくてよかったと思います。 虫のしらせ と
みついてくるわで、でんやわんやだった。揺れがお
いうかとにかく奇跡としかいいようがありません。
さまるのをまって、外に出ると、ほとんどの寮生は
それでも和島村の震度は 5 強 でした。それに
すでに外にいた。その時私はそれほど、大事件だと
全戸で断水という状態でした。地震発生時は、TV
思っていなくて、すぐにまた寮に戻れるだろう…。
を見ていました。「あっ 揺れている」と思った時
と思っていたのだが、それは大きな感ちがいだった。
には、もう歩けるような状態ではありませんでした。
外の道路は、信じられないくらいにひび割れ、テニ
台所の皿は割れ、
土壁ははがれ、家具はガタガタいっ
スコートは地面が沈下し、デコボコになっていた。
て、店の品物は落下(自営業の酒屋です。
)という
それを見て初めて被害の大きさがわかった。
感じでした。台所では火を使っていない時だったの
その夜は二体に避難し、寒さにふるえながら、な
が幸いでした。しかし、全体的に見ても夕食時なの
かなか眠れない夜をすごした。朝の 5 時、私はいつ
に火災がとても少なかったのが、すばらしいと思い
もなら目の覚めるはずのない時間に目を覚まし、隣
ます。やはり阪神大震災の反省点が活かされている
で眠っていた友人を起こし、坂の下の町を見に行っ
のだと思いました。その日の夕食は、午後 8:30 く
た。坂の下は、何軒か家が崩壊していて、まだ夢の
らいにやっと食べました。カップラーメンとおにぎ
中にいるようだった。しかし、学校付近ほどひび割
りとみそ汁でした。その日から、2 週間くらいは、
れなどはひどくなく、学校の被害は極めて大きな部
まともに寝れませんでした。ストレスでハゲるかと
類に入ると感じ、もしかしたら、しばらく休みになっ
思いました。
てしまうかも…と不安になった。
しかし、一番驚いたのは学校です。学校からの連
その不安は見事に当たり、次の日、寮の人の車で
絡が全くというくらいありませんでした。あったの
新潟までつれていってもらい、電車で地元に帰った。
は、「大丈夫でしたか ?」みたいな内容の電話だけ
地元は同じ新潟とは思えないほど平和で、気が抜け
でした。友人からのメールで休みになることを知り
新潟県中越地震体験記­ 99
ました。学校からくるべきではないのでしょうか。
で、本を読んでいたら、急に電気が消えて、本棚は
2 ヵ月の休みを経て再開してみても、校内、寮内の
揺れて、本が全部出ました。机の上や、テーブルな
いたる所で 板 、 立入禁止 。取り壊しなり、改
どの上に置いてあった MD コンポや、小物なども、
修なりの工事も行なう様子もありませんでした。
たくさんくずれて、部屋中がぐちゃぐちゃになって
この 2 ヶ月、何をやっていたんだろうかと驚きま
した。もう、こんな災害は経験したくありません。
早くおさまってほしいです。
しまいました。一回地震が止まったら、親が懐中電
灯をもってきて、すぐに家を出ました。
となりが祖父の家だったので、すぐに呼びに行き、
近くの公園に避難しました。近所の人もたくさん集
Y. O .
まり、たき火をおこして、ビニールシートをしいて、
一時そこに集まりました。何回か余震が起こったり
今回の地震では、自分の実家のほうは震度 4 くら
して、1 ∼ 2 時間がたち、町内会長が、公園に車を
いだったので、物が少し落ちた程度で済みましたが、
もって来て、車の中で寝るようにして下さいと言わ
長岡のアパートがひどい状況になっていました。
れたので、その日は車の中で寝ました。
地震が起こったときは実家にいたので、2 日後にア
次の日の朝は、パンが支給され、一時家の中に入
パートに行ったのですが、部屋中に物が散乱してい
りましたが、水、ガス、電気の全てが使えませんで
て、どこから手をつけたらいいのかわからないほど
した。自転車で、コンビニなどに行きましたが、当然、
でした。被害は物が散乱して食器が割れてしまった
開いていませんでした。その日の夜に公園で、お湯
のと、調理道具をしまってあるところの戸が壊れて
が配られたので、カップラーメンを食べました。次
しまったこと、数ヶ所のカベにひびが入ってしまっ
の朝は、水が使えましたが、塩素消毒がされていた
たことくらいで、それほど大きな被害はありません
みたいで、プールの臭いがして、くさかったです。
でした。
ガス・電気は、まだ使えませんでした。
自分の被害がそんなになかったので、高専もそん
3 日目の朝には、水・ガス・電気が復旧し、使え
なに被害はなかったんじゃないかと思い、見に行っ
るようになりました。コンビニやスーパーも開いて
てみたのですが、高専に近づくにつれて道路が陥没
いたので、飲み物、カップラーメンなどの食糧を買
していたり、マンホールが飛び出していたり、神社
いに行きました。車で 2 ∼ 3 分の所に、小学校があ
の鳥居が倒れていたりと被害が大きくなっていまし
るので、近所の人達は、ほとんど、小学校に行き、
た。高専に着いたときには、先生や寮生が入口の前
公園に残っている人は、あまりいませんでした。3
で集まっていて、そこで被害の状況を先生から聞い
日目の夜には自分の部屋で寝れましたが、午前中か
て、被害が大きかったことを始めて知りました。高
ら夕方まで、家の掃除などをしていました。食器が、
専に来る途中は車で親に送ってもらったのですが、
全て割れましたが、テレビなど、パソコンは大丈夫
道路が陥没していたので、運転するのにかなり苦労
でした。テレビで、ニュースをみて、震度 7 とかで、
していました。
ビックリしました。毎日のように余震が続くので、
自分は、今まで自分が災害にあうことはないだろ
うと思っていましたが、今回実際、地震にあってし
いつ出てもかまわないような暖かい格好をしていま
した。
まったことで、自分の防災の認識の甘さを痛感しま
友達からは、高専の被害状況や、今後の日程につ
した。災害はいつ襲ってくるかわかりません。これ
いて、メールがきたので、助かりました。この地震
からは、防災意識をしっかり持つべきだと思いまし
で、2 日間、車の中で生活しましたが、なかなか寝
た。
れないし、ストレスも溜り、とても良い状況ではあ
りませんでした。一週間ぐらいが過ぎて、余震など
T. O.
地震がおきた時は、自分の部屋にいました。部屋
100 ­新潟県中越地震体験記
も、あまり、こなくなってから、元の生活に戻れる
ようになりました。
この地震で、思った事は、今までの生活が、とて
も、大切だったと気づきました。いつも、当たり前
に、していることができなくなると、こうも、生活
がくるってしまい、大変になるんだなと思い、水・
K. K.
ガス・電気が、復旧した時は、とてもうれしかった
地震の日、僕はパソコンをしていました。そして
です。あと、家族や親せきの人達がケガひとつしな
急に強いゆれを感じました。その日の少し前にも小
くて、よかったと思いました。これからは、当たり
さな地震があったので、僕はすぐおさまるだろうと
前のような生活を、大切にしていきたいです。
あまり驚きませんでした。しかし、地震はゴーとい
う音から、すぐにゴゴゴゴという音になり、次に家
T. O .
がダンボールの箱のようにガッチャガッチャと四角
形からひし形になるようにゆれだしました。僕の隣
私は、中越地震が発生したとき家にいた。自分の
にあった本棚から本がくずれ落ちて机の上に重な
部屋でテレビを見ていると、いきなり強い揺れがき
り、僕の後ろの本棚は倒れて、部屋の入口への通路
たのだ。立ち上がろうとしても家が揺れすぎて座っ
をふさぎました。その直後に、停電しましたが、す
たままだった。あんなに強い地震におそわれたのは
ぐに直りました。停電が直ると、直前の部屋との違
初めてのことだったので家族全員であわててしまっ
いに驚きました。倒れた本棚には本がたくさん入っ
た。その後も強い揺れが続いて、家具が倒れそうに
ていたので、床には本の山ができていました。その
なったり、家がギシギシ音をたてていたので、2、
山を乗り越えて階下の台所に行くと、食器棚が倒れ
3 日は車中泊をして過ごした。やはりせまい車の中
て、食器が全部、床に落ちていました。
だとゆっくり眠れないし、体も痛くなるので散々
その後、家族全員で、家の外に出ました。その後、
だった。しかもニュースではエコノミークラス症候
余震が何回も来て、そのたびに道路にはいつくばっ
群になるというようなことを言っていたので、それ
ていました。周りの家は停電していたのに、なぜか
にかからないでよかったと思った。
僕の家の周りだけは電気がついていました。余震が
10 年くらい前に神戸で大地震が起きた。当時小
学生だった私は、毎日テレビから流れる衝撃的な
おきるたび、電柱がこちらに倒れてくるのではない
かと、ビクビクしていました。
ニュースの数々に驚き、大事なおもちゃなどをカバ
僕の家は市民体育館の近くなのですが、市民体育
ンに入れて、新潟でいつ大地震が起きてもいいよう
館には、家から避難してきた人でいっぱいでした。
にと準備をしていたのだ。しかし、中学校に入り、
僕はその近くの公園のトイレに行きましたが、何人
高専に入り、全く大地震が起こる雰囲気もなかった
かの人が順番待ちしていたのを覚えています。
ので、地震に対する準備をしなくなっていた。よく
その後は、しばらく家の前の道路にいて、ラジオ
天災は忘れたころにやってくるというが、まったく
を聞いていました。ふだんは聞かない FM 長岡が、
その通りなのだと感じた。
ずいぶん頼もしく感じました。その後、祖父母の家
私の住んでいる地区はそこまで被害はなかったの
に避難し、NHK をつけてみると、自分の街の長岡が、
だが、小千谷や山古志を中心とする被害が大きかっ
NHK に映っているのに変な感じがしました。その
たところの映像を見ていると胸が痛んだ。長年住み
後、二週間ほど祖父母の家に滞在し、その後、家に
慣れた家があんな地震のせいで住めなくなり、今ま
帰りました。
で見てきた街や山などの景色が、一夜にして変わっ
てしまったのだ。山はくずれて、田んぼや畑もめちゃ
くちゃにされていた。自然の力はこんなにも恐ろし
いのかと痛感させられた出来事だった。
Y. K .
中越地震が起きたとき、私は物理のレポートを
書こうとしていた。午後 6 時。ほんとうに強い地震
で、家がくずれて自分も死ぬかと思った。まさか自
分の住んでいる地域にこのような強いゆれがくると
新潟県中越地震体験記­ 101
は思ってもみなかった。もしきたとしても自分は机
は違うと思った。周りのタンスや机が踊る様に動い
の下に隠れて助かるとか、死ぬことはないだろうと
て倒れ、停電した時、周囲の泣き声やさけび声でやっ
思っていた。しかし、実際に地震がきてみると、本
と我に戻った。アパートの外にでると、子供が泣い
当に何もできないものだ。震度 6 弱というゆれは、
ていたり、老人が腰をぬかして地面に座っているの
今まで体験したことのないものだった。立っている
に気付いた。しばらくして、また大きな地震があり、
のもできない、流れに身をまかせるしかなかった。
近くの電信柱にしがみついたが、電信柱もゆれてい
また、あの地震で、水道・ガス・電気の大切さを
て危険な状態だった。
あらためて教わった。私の家はガスが止まったが、
しばらくは、近くの家のラジオに耳を傾けていた
ガスがないと何もできない。米も炊けなければ、風
が、時がたつにつれ、地震が収まったので、アパー
呂も入れない。水で頭を洗ったが、とても寒かった。
トに戻り、サイフと携帯を取りに行った。2 回目の
ガスは大切だと思った。
地震の影響で、食器棚は倒れていて足の踏み場が無
自然の力というのは本当に強力なものだ。なぜ、
かったに等しいのをいまでも憶えている。とりあえ
あのような強力なエネルギーが発生するのか。
後日、
ず、他のアパート暮らしをしている友達の家に行っ
テレビを見ていて地球科学で学んだことが放送され
て、合流したのが良い判断だったと今でも思う。避
ていたのでうれしくなった。また、土の授業で学ん
難した体育館は狭く、寝れなかった。余震も数えき
だことや、力学で学んだことがテレビで取り上げら
れないほど起きて、そのたびに、みんなザワザワし
れていた。自分はこのようなことを学習しているん
ていた。運よくその後、他人の車で寝ることが出来
だと思った。地震は自然が引きおこしたことだが、
たことは、本当によかった。
自然が発生させたことを学問的に考えることはとて
もすばらしいことだと思った。
地震発生時、私は、たまたま家にいたが、それは
次の日になった時には、みんな落ちついていたの
がすぐに分かった。僕は、すぐにコンビニに行った
が、食糧は、あまり無かったのを今でも憶えている。
本当に運がいいことだったと思う。土曜日のあの時
アパートの片づけは、思ったより楽だった。壊れて
間、私はよく山古志のあたりを車で走っていること
いたものが無かっただけ自分は運が良かった。食糧
があるのだが、もしその時、山古志村にいたら、と
は、たまたま地震の前日に買ったので困ることがな
てもすごいことになっていたと思う。車は土の中に
く、その日は、アパートで寝ることにした。午後、
うまっていただろうし、もしかしたら死んでいたか
5 ∼ 6 時になると周りは、すぐに暗くなった。いつ
もしれない。そう考えると自分は本当に運がいいと
もなら外灯などがあるが、今は、そんなものもなく、
思う。この地震で運悪く死んでしまった人もいるだ
本当に暗闇を体感したと思った。夜は、余震が怖かっ
ろうし、家がなくなってしまった人もいる。私の家
たが、それ以上にヘリコプターの音がうるさく、ヘ
は、家の中の家具が壊れたくらいで家自体は何とも
リコプターの影響で発生する風が、アパートに当た
なかったし、それだけでも喜ばなければならないと
る度に、ゆれを感じた。月曜日に親の車が来て、長
思う。
岡を離れたが、家のテレビを見て、自分はまだ、良
地震は、いつ来るかもわからない。日本は地震が
い方だと感じた。
とても多い。もしもの時に備えて、日ごろから準備
しておかなければならないと、今回の地震を通じて
学んだ。
Y. S.
十日町、小千谷、長岡の被害地に訪れる機会があ
M. K.
地震が起こった時、それ以前に震度 3、4 の地震
がけっこうあったので、また来たのか位にしか思わ
なかった。でも数秒後にドン ! という縦ゆれでこれ
102 ­新潟県中越地震体験記
り、つぶれた家、大きく傾いた家、崩れた道路など
多くの被害現場をみました。その時率直に「地震は
恐い」と感じました。日本は地震大国だけどひどす
ぎます。
地震発生時は三条の自宅にいました。いきなりの
大きな地震〈三条は震度 4〉だったの
でとっさに安全なところに移動しよう
と思いましたが、ゆれの中は頭が軽い
パニックになり、動くことができな
かったです。こういう時にとっさの正
しい判断ができないと死につながりか
ねない。予備知識や避難訓練はまじめ
に取り組まないと、と反省しなければ
と思いました。このせいで、犠牲になっ
た人がかなりの数いるのでしょう。
車で買い物に出かけたときに、地震
が発生したことがありました。そのと
きは震度 3 でしたが車の中でゆれはあ
まり感じませんでした。電線を見た
ら「ゆれている…ということは今地震
だったのか」という程度で、さすがに
震災後、初めて校舎内に立入り、荷物を搬出する学生
震度 4 以上になると異なりますが、こ
の現象は少々気になります。
来まで影響を及ぼすことがあります。三条水害時、
災害時前に月の色や温泉発生、くも、雷などの前
自宅は床上浸水でした。未だに雨の音をきくと、い
兆現象が言われていますが、今回の中越地震で気に
やな胸さわぎやこわくなるときがあります。失った
なったことがあります。高専付近ではカラスの群れ
ものは、いずれ元に戻せることがあるので(死以外
が多くて住民の方々は困っているそうですが、地震
で)早い復興へ期待しています。
発生前の何日か、カラスの姿をあまり見かけなくな
りました。調べてみたら、古くから動物の地震予知
は知られており、言い伝えも多くありました。動物
K . S.
には災害予知の DNA みたいなものが代々伝われて
地震が起きた 10 月 23 日の 17:56 分の時、自分
いるのかもしれません。それが解読されて、薬とか
は寮の自室でベッドの上で寝ころがっていた時にお
タブレットになって「飲むだけで災害予知」みたい
きました。まずは、上に突き上げるようにゆれたあ
なものが商品化されたら、世界が少しは平和になる
とに、すごい強さで横にゆれ、ロッカーの上や棚の
んだろうと思います。地球の環境問題が悪化してい
上の物が落ちてきたりして大変だぁっていうより
く中で、災害も比例しているのだろと思います。一
も、停電したり、あまりにすごいゆれだったので、
日も早く、「災害予知」の論文を誰か発表してほし
夢っていうか冗談だと思ってました。
いです。
ゆれがおさまったら宿直の人が「外へ避難しろ」っ
高専で学んでいる生徒の多くが、技術者や研究者
て大声でさけんでいたので、携帯とサイフを持って
の道へと進むのだと思います。学校も被害に遭い大
外へ出て、テニスコートまで出てみたら、学校で爆
変だったけれど、この大地震で体験したことはきっ
発が起きたり、コンクリートが割れたり、テニスコー
と役に立つはずなので、役に立ててほしいし、自分
トにひびが入ったりしていて、本当に地震が起きた
自身もこの体験や勉強したことを大切にして役立て
んだってやっと理解することができました。
たいと思います。
学校の周りの人達も学校に避難しにきていました
最後に、今回被害に遭った方々は本当につらいと
が、自分は学校の周りの状況が気になって、学校の
思います。私の友達の中にも引越しをした人、仮設
周りを歩き回ってみましたが、道路が陥没、隆起し
住宅に移動した人がいました。災害は、その人の将
たり、ひび割れ、電柱が傾き、電気はどこもついて
新潟県中越地震体験記­ 103
なく、倒壊している家もあり、自分は長岡は、もう
壊滅だなと思いました。
そして私達は、このままここにいても危険だと
思ったので、近くの栖吉中学校に避難しました。中
その後、下田の実家に帰りましたが、震度 5 以上
に入ると、もの凄い人の数でした。何とか寝泊まり
の地震も何回か起きた時は、正直「もう学校なんて
するだけのスぺースは確保出来ましたが、いつ大き
無理だろ」と思ってましたが、1 月現在の長岡を見
な地震が来るかわからないという不安と、もの凄い
るかぎりでは、すばらしい具合いに修復していて、
数の人達との避難生活で、私は、たちまち体調を崩
土建会社の方、ボランティアの方を尊敬しました。
してしまいました。そして私達は何か食料を持って
またボランティアの方々の存在に感動しました。こ
こようと思い、アパートへ向かいました。すると、
んな被害を受けたら、何もする気がなくなってしま
外は凍え死ぬかと思うような寒さでした。ただでさ
うのは被災者ならしょうがないと思います。だから
え体調を崩しているのに、凍え死ぬかと思うような
ボランティアの方々の協力は、被災してみればあり
外の寒さ。私は、歩くことすら困難でした。
がたいことなんだと今日になって知ることができま
やっとの思いでアパートに辿り着くと、見知らぬ
した。今度どこかで何かが起きたらボランティアし
車が駐車場に止まっていました。「大丈夫か ?」と
ようと思いました。
聞かれ、誰かと思って見てみると、隣に住む方でし
た。私の具合の悪い表情を見て、たちまち車の中に
T. S .
入れてくれました。車の中は、とても暖かく、食料
までもいただきました。私の安心した表情を見て、
昨年 10 月 23 日、PM5:56、私は長岡市中貫町
「今日は、ここに泊っていきなさい。」と言われ、そ
にあるアパートにいて、レポートを作成していまし
の優しさから思わず涙が出ました。私が、「なぜこ
た。初めは初期微動のようなものが起きたと思った
んなに優しいのですか ?」と聞くと、
「困った時は、
ら、次の瞬間に凄まじい揺れを感じました。電気、
お互い様だよ。お布団ありがとね。」と言われました。
水道、ガスが一瞬のうちにストップし、テレビ、た
私は、ただ地震直後に布団と毛布を貸しただけなの
んすなどが倒れ、家の中がめちゃくちゃになりまし
に、これほどのお返しをされてしまい、申し訳ない
た。揺れが一旦おさまって、私はアパートの前の駐
気持ちでいっぱいでした。
車場に避難しました。しばらくすると隣り、近所の
次の日、私は親に迎えに来てもらい実家へ帰りま
人達も避難して来ました。中には赤ん坊や足や腰の
した。世間は冷たいってよく聞く言葉ですが、これ
悪いお年寄りの方がいました。私は、この人達のた
ほど優しい方もいらっしゃると思うと、その言葉な
めに少しでも何かできることはないか ? と思い、無
んて必要ないんじゃないかと思いました。あんな地
我夢中でアパートの部屋に戻り、布団や毛布などを
震、もう二度と体験したくないけれど、地震により、
出しました。すると皆とても喜んで感謝しました。
人の優しさ を知りました。
私は見返りや正義を求めたわけでなく、とにかく何
か人の役にたつことをしようと思ってやったこと
が、これほど喜んでくれるとは思っていませんでし
た。
M. S.
ちょうど、友達と長岡駅で会って、別れたどころ
地震が起きてから 30 分後、長岡市中沢のアパー
だった。私はまだ駅内にいた。ゴーと大きな音がし
トに住む、Ci4 の友達の K 君が来ました。私はアパー
たので新幹線かと思ったら、突然ゆれて、まわりの
ト周辺に知り合いが一人もいなかったので、K 君が
店の物は落ち、騒然となった。とりあえず外に出な
来てくれたとき、ホットしました。地震が少しおさ
きゃと思い、出口に向かう。大きなガラスが倒れて
まったので、アパート周辺の様子を見ました。する
割れていた。エスカレータは止まっていた。とにか
と、ぺしゃんこになった家、浮き出たマンホール、
く早く家に帰ろうと思い、あわてて自転車に乗り、
うねった歩道、止まった信号など、この世の終わり
家に向かった。その途中にも、2 回大きなゆれがあっ
だと思いました。
た。信号は消えていて、道路は渋滞していた。今ま
104 ­新潟県中越地震体験記
で見たことのない光景だったので、ますます不安に
頑張ってくれたおかげだし、他にもたくさんの人た
なった。自宅のある中沢に入ると、灯油タンクが倒
ちのおかげで今の生活ができるんだとわかった。今
れて、流れでて、車が通れずに止まっていた。暗く
回の地震で感じた、人の優しさや、他人を思いやる、
てよく見えなかったが、走っていると平らなはずの
ということを忘れないでいたい。
道路でもガタンと自転車が上下する。だんだんと、
自分が想像するよりひどいのでは…と気がついてき
た。中沢は真っ暗だった。
Y. S.
家の前には近所の人たちが集まっていた。出かけ
10 月 23 日、私は寮生でしたが、帰省していて、
ていた母の姿もあり安心した。兄は家の中にいた。
上越市にいました。上越では震度は 5 で、被害はた
開いていた玄関から中をのぞくと、割れた鏡の破片
いしたことありませんでした。しかし、私は過去に
が飛び散っていた。棚は倒れ、食器やグラスはほと
体験したことのないほどの揺れに驚きました。そし
んど割れていた。中はとにかくめちゃくちゃで、玄
て、本震の直後に頻発した、余震にも恐怖しました。
関や庭にはひびが入っていた。外で近所の人たちと
私は運よく、上越にいましたから避難の必要はあり
いるときも、何度か余震があった。しばらくすると
ませんでしたが、もし、中越にいたら、不安な夜を
父親も帰ってきて、家族は全員無事だった。
過ごしたでしょう。
その日は、車の中で寝た。一体どうなるんだろう
次の日にTVで被災状況を見て、本当に自分は運
…と不安で仕方なかった。何度も余震がくるので、
がよかったと思いました。画面には地震で、とてつ
怖くてよく眠れなかった。ひたすらラジオを聞いて
もないことになっている山古志村や上越新幹線の悲
いた。
惨な光景が映しだされていました。しばらくして長
その後、2、3 日経って、電気が復旧。水道は 5、
岡高専も被害を受けて、しばらく休講という知らせ
6 日後、ガスは 2 週間ほど経って復旧した。中沢は、
を聞きました。私は、その時は、それほどたいした
道路の陥没、隆起や、マンホールがとび出ていたり
被害ではないと思い、授業再開も 2 週間くらいすれ
とひどく、しばらくあちこちで工事をしていた。倒
ば始まるだろう思っていました。しかし、なかなか
壊した家や、とり壊している家もあり、家が壊れな
始まらず 11 月になり、はじめて高専に行ったとき、
かったのは本当によかったと思う。
被害の大きさを知りました。その他にも、周辺の状
地震からしばらくは、不安もあり、辛かった。一
番辛かったのは、地震から 1 週間したとき、飼って
況を見てみると、この辺りはひどかったということ
がわかりました。
いた猫が死んでしまったことだ。余震がくるたびに
家でTVを見ていると避難している人々の映像が
おびえて、ごはんも食べなくなっていた。どれだけ
よく映っていました。車で生活している者、テント
こわかっただろうと思うと、かわいそうで仕方な
で生活している者、体育館で生活している者、いろ
かった。
いろな人を見ていると、この人達がもとの生活に戻
しかし、今回の地震で、たくさんの人たちが助け
ることができる日は、いったいいつになるのだろう
てくれた。隣の家の人は、あたたかいごはんを分け
と心配になりました。特に老人はこれから寒くなる
てくれた。水やお弁当をもってきてくれる人たちも
中、たいへんだろうと感じていました。
いた。近所の人たちとは、連帯感のようなものが生
私や私の家族は、今回の地震で直接的な被害は受
まれ、家族とも協力し合った。私は、19 歳にもなっ
けていませんでした。しかし、次に起こる地震で震
て、親には甘えてばかりだが、このときは、親のこ
源となりそうな場所は糸魚川だという説を耳にし
とが心配で心配でならなかった。家族がいてくれて
て、とても他人ごとのように聞いていることはでき
よかったと思った。それから、電気が復旧したとき
ません。
は本当にうれしかった。明るいし、ヒーターもつく
地震の研究は、まだまだだと思いました。それに
し、あたたかいものが食べられる。本当に、有難い
2004 年は世界中で自然災害が発生しました。7 月
ことなんだと思った。それも、東北電力の人たちが
の三条の集中豪雨、史上最大級の台風、猛暑、スマ
新潟県中越地震体験記­ 105
トラ島沖の津波などがありました。近年、地球温暖
そうして 1 ヵ月位たって、またけっこう大きいの
化が問題となっていて、その影響ではないかとも言
がきました。それからはあんまり大きな地震はこな
われています。私は思うのですが、今年はもっと自
いで今にいたっています。もう終わったといいんで
然災害が起こると思います。たぶんこれから毎年の
すが、今回の地震は生れて初めての体験した地震で
ように増えていくでしょう。
した。家は被害があったけどつぶれなかったし、家
人々は地球のことを考えずに自分たちのことだけ
族はだれもケガをしなかっただけ良しとしなければ
を考え、自然を破壊し続けました。その罰が災害と
なりません。それに避難所や車での車中泊などする
なって、私たちに警告しているのだと思います。私
ことがなくてよかったです。震源の川口や小千谷、
たちは少しでも地球環境のこと考えて生きなくては
山古志などの人に比べれば被害はたいしたことはな
なりません。先進国に生きる者として、人間と地球
いので、文句なんてゆってられないです。
上すべての生き物が共存していけるような環境を
阪神淡路大震災のときは 10 年ぐらいも前で小さ
作っていかなければいけないと思います。環境都市
かったし、遠いところでテレビとかで見て大変だ、
工学科という分野を選んだ人であるならば、先陣を
怖いぐらしか思っていなくて、まさか自分の住んで
きってこの問題にとり組むべきであると思います。
いる所では地震はおきないと思っていた、がおきて
この地震で多くの被害を受けました。ただ被害を受
しまった。昨年は地震、7 月には水害と新潟は災害
けて、悲しい思いをしただけで終わらせないために
に見舞われてしまったけど、今年は地震に負けず受
も、この身をもって知らせてくれた地球からのメッ
験勉強をがんばりたいです。
セージを、今後のために受け入れなくてはならない
と思います。
N. S.
S. S.
10 年前、テレビで見ていた阪神淡路大震災と同
程度の地震が新潟で起きた。日本は地震がいつ起き
平成 16 年 10 月 23 日土曜日に中越地震がおきま
てもおかしくない位置にあることも、長岡のあたり
した。地震がおきたとき、
私は家の 1 階の部屋でゲー
で大きな地震が起こるだろうという話も以前から
ムをしていました。父は 2 階にいました。母と祖父、
知っていた。知ってはいたが、「まさか起こるはず
祖母は台所にいました。姉はでかけていました。
がない」と思っていた。でも、それが現実となった。
1 回目の地震がおきたとき、何がおきたのかと思
地震が発生した 10 月 23 日の昼間、私は長岡にい
うほどの地震でした。1 回目のときは余震もなく突
た。いつもの週末だったら土曜日の夜は長岡にいる
然震度 6 くらいのがきたのでビックリしたという
のだが、11 月 1 日から寮に入ることになっていた
か、わけがわからなかったでした。しかも 1 回目の
ので、荷物をまとめるために、この日は早々に帰宅
地震で終わるのかと思ったら、続けて 2 回、3 回と 5、
した。私が家に着いて 5 分程経った頃、地震が発生
6 クラスの地震がきました。そのときは本当に家が
し、私は幸いにも大きな被害を受けることがなかっ
壊れたら死ぬと思いました。その日は、そのあとも
た。
予震がつづき震度 1 以上の体に感じる地震が 200 回
私の家は長岡から車で 1 時間ほど離れたところに
ぐらいあって、いつになったら予震、地震が終わる
あるので、私の周りでは特に大きな被害がなく、次
のか怖かったでした。あまりよく眠れませんでし
の日からいつもと変わらない生活を送っていた。そ
た。そしてもう終わったかなと思った 3、4 日後に、
んな環境にいたので、テレビでみる被災地は中越で
また震度 5 ぐらいの大きな地震がきて本当にいつに
はないような、地震があったなんて嘘のような感じ
なったら地震が終わるのかと心配でした。これでも
を受けることさえあった。でも、多くの友人・知人
うほんとうに終わったと思ったら、また 1 週間後く
が大きな被害を受け、学校も大きな被害を受け、私
らいに震度 5 ぐらいの地震がきてイヤでした。これ
のご先祖様も地震で墓石が割れるという形で被害を
が終わってやっと落ち着きました。
受けた。それはまぎれもない事実で、テレビで見る
106 ­新潟県中越地震体験記
映像も確かに私の知っている場所だった。
20 秒くらいたってからだった。以前、車の運転中
私に何かできることはないかと、インターネット
に大きな地震(ゆれ)にあうと車のコントロールが
などで支援の手段を探した。物資を送る、義援金を
できなくなると聞いたことがあるが、私の場合速度
送るなど、いろんな手段が見つかったが、私はまだ
が 20㎞ /h ほどだからすぐ道のはじに止まることが
学生の身分なので物資や義援金を出せるだけの経済
できたものの、もしこれが 60㎞ /h での走行中だっ
力がない。だから、店頭での募金とボランティア活
たらと考えると、たしかに車をコントロールして止
動をすることに決め、次の日、早速ボランティアセ
めるということはできないだろうと思った。
ンターへ行ってみた。その日は休日だったので多く
1 回目のゆれのあと、私は家のすぐそばにいたの
の人がセンターにいて、受付が締め切られてしまっ
で家にもどった。家につくと、まわりの家に住んで
ていた。せっかく行ったのにやれることがなくてと
いる人はほとんど家の外へ出ていた。当然この時点
ても残念だった。センターの方の話では、土地柄な
で、すでに停電しており、TVでの情報収集は無理、
のかボランティアセンターへの依頼があまりなかっ
ラジオ等も家から出るのに必死で、持ってこれない
たり、とりあえずの片付けが終わる時期でもあった
でいたので、何がおこっているのか、外に出た人全
から、依頼の数自体が減ってきているとの事でし
員がわかっていない状態だった。ここで役に立った
た。依頼が減っているのは良いことだから、その日
のがカーテレビだった。私の車にはちょうどよくT
は仕方なく家に帰った。(その後は、自分が足をケ
Vが付いていたので、多少、映像は悪かったが、小
ガしてしまったのもあって、ボランティアには行け
千谷周辺を震源とする震度 6 強の地震(のちに 7 に
なかった。)
修正されたが)という情報を手に入れることができ
今回の地震では、自然の力の威力と人間の力の無
た。
力さを改めて思い知らされた。人間が知恵を出して
2 回目の余震のあと、私たちの近所の人は、全員
築き上げたものを簡単に壊してしまう力。いつ、ま
ですぐ近くにある大積小学校へと避難した。もとも
たこのようなことが起きるか分からないけれど、人
と大積では近所とのつきあいなどがよく行われてお
間に自然災害を防ぐことはできないと思う。防ぐこ
り、そのためか小学校には、すぐ避難所本部がつく
とはできないけれど、少しでも、被害が少なくなる
られ、地元消防団が中心となって、情報収集等にあ
ように、もし起きても犠牲となる人が少しでも少な
たる体制がととのえられた。他の地域はどうだった
くなるように、また知恵を出して、自然災害に備え
のかわからないが、こういった比較的早い行動がで
ていくことがどんなに大切なことなのか、身近なと
きたのも、町内としてのつながり、まとまりがあっ
ころで被害がでて初めて分かった。
たためだろうと思った。
新潟中越地震以降、スマトラ沖の地震だけでなく、
翌日からは日中は家のかたづけ、夜は安全を考え
日本各地でも小さな規模ではあるが地震が多くなっ
て避難所という生活が続いた。電気も水道もない状
ているように感じる。偶然なのか、何かの前兆なの
態だった(ガスはプロパンのため火はすぐ使えた)
かは分からないけれど、偶然であってほしいと思う、
ので食事やトイレ等はとても大変だった。さいわ
今日この頃です。
い、2 日目の夜から市の用意した非常食が、3 日目
から電気、4 日目から水道が元にもどったため生活
Y. T.
には困らなくなった。だがその反面、食料が届きす
ぎるため、余ってくさるという事態もおきた。この
今回の地震では、私にとって始めてとなる体験が
点は他の地域でも同じようなことがあったらしいの
たくさんあった。10 月 23 日の地震発生時、私は車
で、非常時の備えは以外とできているのだなと感じ
を運転中だった。ゆれはじめの時はちょうど国道に
た(一方で物資すら届かない所もあったので、場所
出てすぐというところだったので、事故(追突)さ
によってということだが)。
れたのか、または車が壊れたのかということを考え
このように、今回の地震では聞いてはいたが、実
ており、まわりをよく見て、地震だと気付いたのは
際にその状況になってはじめて思ったりすることが
新潟県中越地震体験記­ 107
たくさんあった。また家の修理などでさまざまな作
無傷でした。
業(コンクリートぬりなど)もはじめて行った(コ
電気は、次の日の 11 時につき、そのとき初めて、
ンクリートは実習もしたが、実際に塗ったのは初め
通常の生活ができるようになりました。終わってみ
てだった)。今回の地震がおきたことで、家具への
れば、私の家は何の問題もなく、電気が使えなくて
ゆれ対策をしたりするというのも初めて行い、もし
不便だな、なんて思ってしまいました。明るくなっ
次に地震がおきたときどうすればよいか考えるよい
た街をもう 1 度、この目で見ると、地震の爪あとが
機会となったと思う。
そこにはあり、街に地震がきたんだなと実感しまし
最後に、私の父は公務員のため、大積小学校の避
た。その後、数々の余震が来たのですが、わずかな
難につめており、私も手伝いをしに行ったが、やは
ゆれも体が感じとってしまい、本当に寝れませんで
り地域住民のことを第一に考えなくてはいけないと
した。こんな風に寝れなかったのは始めてでした。
いうのは大変なことだと思った。父の話によると、
それだけ体に恐怖がうえつけられたということで
大積小学校では避難してきた住民が不満を出すこと
しょうか ?
はほとんどなかったらしい(地域性だろう)。しか
私の家は問題ないと言いましたが、私の知人の家
し市街地などでは、食料がいつもパンだけで不満だ
は全壊してしまい、私はその手伝いをしました。壊
といった声が出ているとTV等で聞き、食料がある
れた家に入ってみると、家は全て斜めで、気持ち悪
だけで十分にありがたいのに、なんて自分勝手なこ
くなるほどでした。中にはこんなに大変な人もいる
とを言っているのだろうと思った。こういう時こそ
と思い、この 2 ヵ月間、私はできるかぎり、手伝い
がまんしたり、謙虚さをもったりすることが必要だ
ました。
と思う。
現在、余震もおさまり、これ以上、破壊は進んで
いません。全て終わったと考えて、今の感想ですが、
J . T.
地震は本当に恐ろしい。突然やってきて、パニック
状態になっている間に、全てを破壊する。地震・雷・
私は地震が起こったとき飲食店でアルバイトをし
火事・親父とは言ったものです。地震に比べれば親
ていました。18 時を過ぎたあたりで、いきなり「グ
父なんてカワイイものです。天災なので、人間 1 人
ラリ」とゆれて、とても立っていられるものではあ
では何もできませんが、その神の力を少しでもやわ
りませんでした。その瞬間、電気は、すべて消え、
らげることのできる、発明、地震の予知など、これ
ガスも止まり、店はとても運営できるような状態で
からの技術が進めばと思う今日このごろです。もち
はありませんでした。お客はあわてて帰り、私も店
ろん、環境のことも考えて、私もいろいろな知識を、
をとび出したい気持ちでしたが、店をまかされてい
蓄えていこうと思います。
る身なので、そうもいきませんでした。
まず一番に家族は、無事なのか ? それだけが一番
心配でしたが、携帯電話はまったく使えず、家族の
H. T.
安否も分からぬまま、店で、ラジオをかけて地震の
今回の新潟中越地震で思ったことがたくさんあっ
状況を確認していました。21 時を過ぎた頃、店長
た。1 つは運がよかったということだ。10 月 23 日
が来てくれ、店を閉め、帰宅することになりました
の土曜日に地震が起きたが、その前日にたまたま帰
が、街は全て停電していて、暗く、信号もついてい
省していたので、けがすることもなく過ぎていった。
ない状態でした。国道は警察が立っていたのですが、
11 月の半ばぐらいに、貴重品だけを取りに寮に行っ
他の道は、誰もいなく縦横無尽に車が走っていて、
たとき、本当に帰省していて良かったと思った。部
それにびっくりでした。私も車でしたが、こんなに
屋は本棚などが倒れたり、自分のパソコンが机から
恐ろしい道は初めてでした。道は割れていて、橋な
落ってたりといろいろあった。一番驚いたのは自分
どにも、大きな段差ができていました。私の住んで
の身長ぐらいある本棚が机の後ろに配置されていた
いる土地はどうやら、地盤が良く、家もまったくの
が、その本棚が机のほうに倒れかかっていたのを見
108 ­新潟県中越地震体験記
て、地震の日に机で勉強をしていたら、けがをして
食を食べに車に乗っている最中でした。私は車の振
いたんじゃないかと思い、少し怖かった。地震の当
動で最初の地震には気付きませんでした。車を走ら
日、地元の上越にいたが、震度 5 でかなり揺れたが、
せ、トキメッセのラーメン屋さんに到着。いつも、
物が何も落ちなかったので、中越の震度 6 強がどれ
にぎわっている所ということを聞いていたのですが、
ほどのものかというのが感じられた。
その時は、お客さんは全然いませんでした。そして、
2 つ目に思うことは被災者のことです。ここ長岡
をはじめ、山古志の人たちや川口町、小千谷は甚大
店員さんが、店から顔を出していたり、違う店に行っ
ていたり、騒がしかったことを覚えています。
な被害を受けたと思う。自分が言うと人事だと被災
そして、店に入り、ラーメンを食べているとき
者は思うだろうが、死者が出るくらい規模のでか
に、2 回目の余震がきました。新潟市は震度 2 ぐら
かったから心配だった。学校の体育館などに避難し
いだったのでしょうか。電気の笠がゆれて、ちょっ
た人達をテレビで毎日のように見ていたが、自分
としたジェットコースターにでものっているような
だったらとても耐えられないと思った。テレビで見
感じで、体に伝わってきました。店員さん、友達も、
てた時は、これから本格的な冬を迎えるとあって、
そうだと思ったんだろう。
「地震じゃない ?」という会話をしました。しかし、
実際に地震なんか、体験したこともなく、断定でき
今は仮設住宅をかりて、冬でも充分しのげる生活
ませんでした。なぜか、私は、その場ではすごく落
ができているんだと思うと、少し安心する。だが、
ち着いていました。むしろ、
「まさか、新潟に地震
今現在も震度 2 や 3 の地震がちょこちょこきている
がくるわけがないから、絶対に違う ! ちょっとし
ので、今度は自分もそういう生活になるかもしれな
たゆれが、ずっと私達の感覚を麻痺させてるんだ !」
いと思うと少し不安になってくる。
と本当に思いこんでいました。
10 月 23 日の大地震の時もそうだったが、1 ヵ月
ラーメンを食べ終わり、トキメッセの展望台に向
ぐらい前の 9 月中にも震度 3 ぐらいの地震が何回か
かったのですが、当然、入れるわけもなく、しかた
来たのを覚えているので、今回も今の地震が大地震
なく帰っていた時、ラジオをつけてみると、あわた
の前兆だったら怖い。これは自分が考えていること
だしく、どこの放送局も、新潟県での地震のことに
だが、10 月 23 日の地震でプレートが微妙にずれた
ついて、伝えていました。そのとき初めて、あのゆ
んじゃないかと思っている。おそらく近いうちにも
れは本当に地震だったのかと、実感しました。地震
う 1 回でかいのが来ると思う。だができればそうい
を体験したのか、してはいないのか、複雑な気持ち
うことを考えたくはないが、実際のところやっぱり
でした。長岡は、もっとすさまじい揺れだったのか
不安である。
と思うとゾッとします。
3 つ目は話は変わるが地震が起きてからの自分の
去年の新潟県は災害だらけだった 1 年でした。水
生活だが、相当だらけていたと思う。毎日、昼に起
害に地震、人間の手では、とうてい防ぎようのない
きて、それから遊びに行ったり、家でワイドショー
ものです。しかし、そのあとの人間の対応はすばら
を見ながらゴロゴロしていた。今思うと無駄な時間
しいものだったと思います。2、3 日で物資が届き、
を過ごしていたと後悔している。そんな時間があっ
速く、人間が災害前の生活に近いものを暮らすよう
たらボランティアや今年の 4 月から就職試験などが
に援助したりしています。
始まるので、それに備えて勉強をすれば良かったと
もう 1 つ、感動したのは、土砂くずれの危険を伴
思う。最後に地震がこんな身近で起きると怖いとい
いながらの勇太ちゃんの救助。あのレスキュー隊の
うことがわかった。
方々の努力で、奇跡的に勇太ちゃんが見つけられま
した。私は、号外で、勇太ちゃんの無事を知ったと
H . T.
き、すごい運がいい子だなと思いましたが、それに
は、レスキュー隊の活躍があったからなのだとテレ
平成 16 年 10 月 23 日、土曜日。
ビを見て感動しました。この地震で、私は、人と人
私は、地震発生時、新潟にいました。ちょうど夕
との助け合いのすばらしさ、そして、人間の強さを
新潟県中越地震体験記­ 109
ではないかと不安に思っています。
また、大人がいないというのも不安に思う 1 つの
原因です。宿直の先生はいますが、寮生全員を見れ
るわけではありません。もし寮内でケガ人が出たと
したら。自分は適切な判断と行動を行うことができ
るでしょうか。もし自分がケガをしたとしたら…。
1 番最初の地震のときに、寮にいなくてよかったと
心から思いました。そして寮にいた人は本当に大変
だったと思います。地震が起きたら何をするべきか、
どこへ逃げるべきか、周りにどう対処するのか。そ
れが現実とならなければ分からないことはたくさん
届けられた支援物資を運ぶ教職員
あります。それでもただ一つだけ思うのは、冷静で
いたいということです。寮長として、寮生のことを
改めて実感させられました。
考えられるだけの余裕を持ちたいです。
学校が再開して、それでも使えない校舎は多くあ
M . T.
ります。環境の 3 号館が使えないのも悲しいです。
4 月までに復旧してほしいとは思いますが、それも
地震が起こったとき、私は寮から帰省していまし
無理そうです。しかし、このような状況の中で 1 つ
た。揺れは大きく、最近では体験していない規模で
だけ救われたことがあります。それは全学生、教官
した。しかし特に壊れたものもなく、
「また地震が…」
のだれ一人も死亡しなかったことです。これだけの
と思っていました。しばらくして 2 度目の揺れがあ
人が全員無事というわけではありませんが、1 人も
り、これには少し驚きました。そして地震に対して
欠けることなく、また学校に来ることができてうれ
忘れていた「恐怖」というものを思い出しました。
しく思いました。
突然やって来て、大きな大きな被害を与えるもの。
未だに予知は難しく、そのせいか普段は全く意識し
ないもの。そして私たち人間にはどうすることもで
きない巨大なエネルギー。
T. T.
電気が消え、何事かと思うと「ゴー」という変な
これを書いている今日は 10 日です。ついさっき
音とともに地面がゆれた。私は地震のとき、湯沢に
も地震がありました。寮の部屋に 1 人なので今は少
いたのだが、その場でもゆれが強かったので、震源
し恐いです。学校が再開して約 1 週間がたちました。
は湯沢近くなんだと思った。停電の中、その場にい
小さな地震が何度かありました。夜、寝ているとき
た知り合いは車のテレビを見た。「震度 6 強、震源
に起きたものもありました。寮という場所にいるこ
地小千谷」それを聞いたとたん、とてもショックだっ
とが、はっきり言って、不安です。もちろん怖さも
た。家が小千谷なのでとても家族のことが気になり、
あります。補強をしたと言っても完全に直っている
電話をしても、通じないし、メールを送っても返事
わけではない。現在も壁に亀裂が入っている場所や、
が来ない。「何かあったのか」と、とても不安でし
コンクリートがはがれて鉄筋が見えている場所があ
かたなかった。夜 10 時近くなって、やっと家族が
ります。幸い、女子寮には大きな被害はなかったの
無事なことを知り、とりあえず、一安心した。
で、何の工事もなく授業の再開をむかえました。し
和南津トンネルが通れず、国道上の車の中で一晩
かし、地震の影響で学校の盛り土の部分がすべって
すごし、翌朝から長野経由で小千谷に帰ることに
います。女子寮はすぐ裏側が斜面になっています。
なった。向かっている途中、何十台もの高所作業車
この位置が盛り土部分かは、分かりませんが、もし
や救援物資の車をみた。小千谷に無事についたのは
大きな地震が来たら、女子寮も土と一緒にすべるの
24 日の PM11:00 ぐらいだった。
110 ­新潟県中越地震体験記
地震後、2 日ぐらいで電気が、10 日で水が、3 週
ここで話はそれるが、祖父のことについいて書こ
間でやっとガスが通り、普通のくらしができるよう
うと思う。自分は高専の 1 年生の冬に寮をやめて、
になった。水や、ガスがでないと本当に不便でとて
祖父の家で一緒に暮らしていた。その時点で祖父は
も大変な生活をしていた。ガスが通って自宅の風呂
脳コウソクを発病していた。当時はボケも進行して
に入れた時は、今まであたり前だった生活がとても
いないで普通に生活していた。それから日がたつに
ありがたいと思った。
つれてボケが進行してきた。そして去年に入り、ま
私の家は幸い一部損壊という判定で住む所は確保
すますひどくなり、8 月には夏バテで入院した。そ
された。しかし、私の知り合いや親戚は仮設で暮ら
の時に尿が出なくなり、管をいれたが、もう少しで
さなければならない人もいて、とても大変だと思う。
直るところで、中越地震に遭遇してしまった。ここ
年末に親戚の手伝いで仮設住宅をまわった。普段な
からがとても長くて辛い日々だった。地震の日に、
ら大掃除をしたり、自分の家で鏡もちを作る家庭も
祖父は立川総合病院に入院していた。しかし、地震
あったのだが、みんなあまり、年越しという気分に
が起きて患者が大量に来たために病院を追いだされ
ならないのか、雰囲気がとても暗い家が多かった。
てしまった。そのため自宅に帰ることを余議なくさ
もう少しで、地震から 3 ヶ月がたとうとしている。
小千谷、川口では先日の大雪で雪下ろしをしている
れ、尿の管の管理なども全て自分達がやらされてし
まった。
家が、そこらじゅうにある。また仮設に住んでいる
10/23 日の夜、追い出され、11/3 日に新潟のケ
人も自分の家の雪下ろしと、仮設の雪下ろしの両方
アハウスに移動した。その時も自分の車で移動した
をしなくてはならず、とても大変そうである。
が、とても辛そうだったのが脳裏に残っている。施
今回の地震によって普通は学ぶことのできないこ
設に入った後、12/15 日に施設内で転倒して骨折し
とを沢山学んだし、じかに経験した。いつまでも被
てしまった。そして検査のため入院した時に CT を
災者ぶるのではなく、前向きに物事を考えることが
とったりしたら、23 日に医者にあまり良くないと
大事だと思う。こんな状況の中からでも楽しいこと
いわれ、24 日にもう近いと言われ、25 日の夜に亡
は見つけられることはできるはずだ。
くなった。ずっと、祖父と 2 人で暮らしていたので
地震前の暮らしにみんなが早く近づけるように
ショックが大きく、今だに立ち直れていない。この
なって欲しいと心から思う。死者が阪神大震災と比
出来事は一見、地震には関係ないように思えるが、
較してもとても少なく、時期もまだ雪の降っていな
これがなければ無事でいたような気がしてならない。
いときだったのが「不幸中の幸い」だと思う。
地震の心配ということを考えたことがなかった。
しかし、学校でやった避難訓練などは全く無意味な
D. N.
地震当日は、長岡市内で車を運転してた。今は違
ことが分かった。あのような緊急事態は、まず我先
にという意識が出てきて、自分も何をしていたのか
よく覚えていない。ただ協力などとは言ってられず、
うが、当時の家のすぐそばで地震にあった。最初は
ただ自分の身の安全のことだけを考えていた。今で
何が起きたか分からないでパンクだと思ったが、気
も地震のせいで、自分の生活が一変してしまったと
付いた時にはこの世の終わりだと思った。家は中の
思っている。学校は土曜日もあり連休がない。週休
物はふっとんだり、庭の石灯籠が倒れたりはしたも
2 日制って義務な気がするんだが…。住居も替えな
のの、倒壊等はなく済んでよかった。もっとも大き
ければならない、長岡市内でも道がデコボコである。
な被害は、車庫の屋根が落ちそうなこと、石油タン
いったい本当の復興までには何年かかるのであろう
クが倒れたこと、そして祖父の死である。
か。
車庫と石油タンクは壊れたが、両方とも業者がと
芸能人やスポーツ選手か被災地に来たらしい。わ
ても忙しく、直す時間もなく、今も放置されている。
ざわざ来ないでも 1 円でも多くの金を渡してくれた
こんなものは壊れても金さえ出せば返ってくるが、
方がうれしいと思う。金持ちにかぎって、こういう
人の命は返ってはこない。本当に衝撃的だった。
時に役に立たないと思った。楽天とかライブドアの
新潟県中越地震体験記­ 111
社長も出せるはずなのに…
ものが上から落ち、家自体を縦に激しく揺られてい
今回の地震で 1 つ分かったことがある。それはど
る感じでした。9 歳の妹は怯え、親は少し離れた場
んな人にも、やっぱり自分が 1 番大切なんだという
所から「大丈夫か !?」と叫び、自分は混乱し、妹
ことだ。これからは自分を大切に生きていこうと
を落ち着かせるのが精一杯でした。家に家族全員い
思った。
たのが幸いで、下手に外にでるのは危険だという考
えで、家の安全そうな場所で一晩を過ごしました。
T. N .
しかし、暗闇は自分たちに見えない恐怖を与えまし
た。
僕は栃尾に住んでいます。最初の地震が起こった
10/24(日)外が明るくなり家から出て、昨夜の
時、僕は風呂に入っていました。ちょうど湯船につ
地震の凄さを改めて実感しました。道路の地盤は沈
かって落ちついたと思ったら、まず小さい揺れがグ
下し、電柱は傾いたり、なぎ倒されていました。ま
ラグラっときて、グオォーンていう大きな横揺れが
ず食料を調達しようと家を出たが、冷静に考えれば
きました。風呂のタイルにひびが入り、割れてはが
店はやっているはずもなく、手に入りませんでした。
れたタイルが落ちてきました。そして家中の電気が
その日はあまり食べずに過ごし、夕方に近くの総合
消えて、僕は風呂につかまっているしかありません
体育館に自主避難をしました。驚いたことに体育館
でした。
だけ明かりがついていて、少し暖かかったです。そ
揺れがおさまって、風呂からあがってまず家族を
呼びました。声が聞こえたので、懐中電灯を探し、
の日の夜も余震は続き、親や祖母は避難して良かっ
たと口ぐちに言いました。
ばあちゃんを部屋から出して、茶の間で母ちゃんと
その 3 日目に温かい食べ物を食べることができ、
3 人になったとき、電気がついたと思ったら、2 度
4 日目に自衛隊による仮設風呂が設置され、入浴で
目の大きな揺れがきました。家がキシキシと音をた
きたのを覚えています。
てているのを聞いて、とても怖かったです。揺れが
中越大震災によって学んだことをあえて挙げれ
おさまると母ちゃんは台所のガス元をしめにいき、
ば、助け合うことの大切さを学びました。体育館に
僕はテレビをつけて、家にいなかった家族に電話を
避難している人がいれば、どこからともなく食料や
しました。でもつながらず、何時間も連絡がとれま
毛布などの救援物資が届けられ、また他県から炊き
せんでした。外へは避難せず、ずっと家にいました。
出しに来てくれた人たちも多くいて、ボランティア
下の部屋に布団をしき、みんなで寝ました。幸いに
の人たちの好意がとてもありがたく感じられました。
もケガ人もでず、家も風呂のタイルがはがれたり、
カベに少しヒビが入ったていどでした。
T. N .
H. N.
地震が起きた時間に、僕は部活動のため、長岡市
営陸上競技場にいました。揺れているときは立って
住んでいる所は小千谷 I.C. の近くです。幸い家屋
いることもできずに、地面に座り込んで、大手大橋
は一部損壊ですみ、家族が欠けることなく新年を迎
のきしむ音を聞きつつ、信号が消えたためか、渋滞
えることができました。新潟県中越大震災が起こっ
し始めた車の列を見ていることしかできませんでし
たのは 10 月 23 日 17:56 頃でした。当初、震源地
た。
は小千谷で、震度 6 強と報道されていましたが、後
揺れが収まり、1 人になった不安もあって、早く
に震源地は川口で、震度は 7 だったことが判りまし
寮に帰ろうと自転車をこぎ始めて、もう少しで、大
た。
手大橋だという所で、強い衝撃があり、驚いて戻っ
10/23(土)その日は新潟経営大学の文化祭の日
てみると 5 ∼ 7cm くらいの段差があり、かなり強
で、地震が起こる 30 分前に家につきました。17:
い揺れだったことを思い知りました。結局、その日
56 頃激しい揺れとともに明かりは消え、あらゆる
は、信濃川の東側の堤防で止められて、信濃町の方々
112 ­新潟県中越地震体験記
と避難をしました。
の中を整理して、夜には家の中で寝ました。もちろ
次の日に、道路や民家の様子を見ながら寮に戻り
んすぐ逃げられるように一階で寝ました。その日の
ました。中沢付近に着いてからは、道路が陥没やひ
夜に電気がやっとつきました。明かりがついて本当
び割れを起こしており、また、建物は傾く物や、ブ
にホッとしました。テレビをつけてみると、どの局
ロック塀が落ちていたりと、前日に見た町とはかけ
も地震の特番をやっていました。家から近い場所が
はなれた姿でした。寮についたら、自宅待機するこ
テレビに映ってたりして、あらためて被害の大きさ
とになっており、家族に迎えに来てもらい、自宅に
を実感しました。
戻りました。
それからも頻繁に余震がきて、落ち着かない日々
自宅に帰る途中でも、道路のひびや、ブロック塀
が続いていましたが、10 日間位たって、ようやく
の崩落、土砂崩れをよく見ました。自宅に戻って、
ガスも復旧して、とりあえず正常な生活に戻ること
前日の夜を思い出して、もし堤防で、呼び止められ
ができました。今回、地震によって家の方も色々被
なかったら、余震で崩れたブロック塀に巻き込まれ
害を受けました。しかし、周りにはもっと大きな被
たり、道路の陥没した部分に落ちたりして、大ケガ
害を受けた人がたくさんいました。今回の地震で亡
をしていたのかもしれないなどと考えていました。
くなってしまった人もたくさんいます。なので家族
また、呼び止められなかったら、そのまま寮までい
や友達が無事だっただけでもよかったと思います。
けるだろうと安易な考え方で、行動しようとした自
仮設住宅で暮らしている人達が少しでも早く元の生
分がいたのか、今後このような災害のときに、もっ
活に戻ればよいと思っています。
と危機感を持って行動しなければいけないなどと考
えていました。
K . N.
中越地震が起きたとき、自分は家の中にいました。
A. H.
僕は 10 月 23 日は用事で、たまたま大阪の家に
帰ってました。地震があった 17 時 56 分頃に知り合
いから電話があって、その時初めて知りました。慌
大きな揺れの直後に、電気が消えたので外に出てみ
ててテレビをつけると大騒ぎしていました。テレビ
ると、近所の家の電気も全て消えてしまっていまし
を見ていると「大丈夫か」というメールがたくさん
た。あまりに突然のことだったので、訳がわからな
きました。その後も震度 5 ぐらいの地震があり、明
くなってしまいました。まず、家族の安全を確認し
日戻れるかなと思いました。それからずっと戻る予
て、家族がみんな無事だったので安心しました。
定でいましたが、夜中の 0 時頃に専攻科の人に連絡
次に家の周辺の様子を見に行くと、近所の人達も
がきて聞くと、ひびが入ったりしているから戻って
みんな家の中から外に出ていました。近所の家の人
くるのは無理と言われて、戻るのをやめました。新
達もケガをしているような様子はなかったので安心
幹線が脱線するぐらいだからすごい地震なんだと思
しました。すると、また大きな揺れが起きて、みん
いました。その日の夜はあまり眠れませんでした。
な悲鳴をあげて、混乱していました。本当に映画み
次の日もその次の日も家にいるのが不思議な感じ
たいに、みんながパニックになっていたのを覚えて
でした。寮から勉強道具を持って帰ってきてたのは
います。その後、余震がずっと続く中、車の中に避
物理学実験のレポートだけでした。レポートをし
難しました。自分が町内がどんな感じになっている
終った後、家にずっといると疲れるので、自転車に
のか様子を見に行くと、電気は全て消えて、近所の
乗って少し遠い所まで運動をしたりしてました。あ
人達で集まって、寒さをしのいでいる様子を多く見
と、通っていた都島工業高校の文化祭が近づいてい
ました。結局その日は、避難所には行かずに、車の
たので、僕が入っていたクラブの手伝いをしに行っ
中で寝ました。
たり、図書館に行って色々な本を読んだりしました。
翌朝、また近所の様子を見て回ってみると、石壁
そして 11 月の 18 日から 19 日に少しの荷物を取り
は倒れ、道路にヒビが入っていました。その日は家
出せる日がきて、少しだけ教科書を持って帰りまし
新潟県中越地震体験記­ 113
た。
ことを正確に思い出そうと思っても、なかなか思い
そして 11 月 27 日と 28 日に高校の文化祭があり、
出せません。ほとんど無意識のうちに体が動いてい
クラブの OB 6 人がミニ SL を走らせるための準備
ました。ゲレンデに着き、今いたロッジを振り返っ
をしました。準備が終わって昼から交代で改札、誘
て愕然としました。家よりも断然大きいロッジがま
導に別れて手伝をしました。その集まったお金を新
るでプリンのようにくにゃくにゃ踊っていたので
潟県中越地震の義援金としました。SL を持って来
す。さらには雲がないのに山の頂きに電光が走りま
られた都島工業高校を卒業された方と色々な話がで
した。パニック状態になった人々を、市営の職員の
きてよかったです。
人はゲレンデに集まるように呼びかけました。その
そして 12 月 1 日に寮へ行って今度は寮の部屋の
中の荷物を全部出しました。100 選の問題がもらえ
ると知ってたので、専門教科の教科書を中心に家に
とき、テニスコートの近くの電柱が倒れ、一瞬ヒヤッ
としましたが、ケガ人はいなかったようです。
その頃やっと我に帰り、今のが地震だと自覚しま
持って帰り、他の荷物は体育館に置いておきました。
した。そうすると、上の方から助けを呼ぶ声が聞こ
今回、地震があってから色々な経験をしました。
えました。なんとリフトに取り残された人がいたの
これからは進路のことなどで忙しくなるので災害が
です。職員の人とともに私達高専スキー部 3 名のう
起きない良い年になってほしいです。
ち 2 名は、リフトに残っている人の救助に向かい、
残る 1 名はその場に集まった人達を落ちつかせる役
T. H .
になりました。私自身はリフトに残っている人を救
助するため、山の方向にゲレンデを走りました。リ
10 月 23 日 5 時 56 分、私は長岡市営スキー場にい
フトの上から「助けてくれ」という声が聞こえ、私
ました。突然下から突き上げられるような衝撃が体
達は救助道具を使い、リフトから降ろそうとしてい
を襲い、無我夢中でロッジからゲレンデへ走ったの
たときでした。遠くからゴォォォォッというすさま
を覚えています。その後はまさに戦時中のような夜
じい地鳴りがし、誰かが「くるぞ !」と叫びました。
でした。
それがちょうど 2 回目の大きな余震でした。ゲレン
地震が起きる前日私は友人と朝まで話をしていま
デの上の方にいたので、そこから街全体が見渡せた
した。気付くと夜が明けており、朝飯を食べた後、
のですが、まさに長岡市全体が揺れていました。そ
軽く仮眠をとり、10 時に長岡市営に行きました。
の時の恐怖は言葉には現わせないものがあります。
スキー場には、2 年前から仕事を手伝うかわりに、
その後も余震が続き、スキー場へ続く 2 つの道は
サマースキーをさせてもらっていて、ほぼ毎週行っ
陥没し、車での脱出は不可能、また山がどんどん崩
ていました。その日はいつもと変わらず順調に仕事
落し、いつ土砂崩れがくるのかもわからない状態が
をこなし滑りも快調でした。お客さんもほとんど帰
続き、子供たちはパニック状態、寒さも厳しかった
り、後はナイターを滑っているお客さん 6 名と、ゲ
です。私達はロッジの中から、ありったけの毛布と
レンデのそばにあるテニスコートで、テニスを楽し
食料を運び出し皆に配りました。大人達は車をゲレ
むファミリー 20 名くらい、そしてスキー場の職員
ンデの真ん中に集め、子供と女の人から中に入るよ
が 5、6 名、私達高専スキー部が 3 名になりました。
うに手配しました。当然、若くて一番元気のある私
すっかり日が沈み、当たりは暗くなった頃、いつも
達は最後まで外で待機し、トイレの設置や道路の偵
と同じようにナイターの電気が灯され、私達も後少
察などを任せられました。
しで仕事が終わると、少し疲れながらも楽しく会話
していました。
地震発生から 8 時間くらい経過した夜中の 2 時
頃、消防隊が市営の入り口までバス 3 台で迎えにき
そして、5 時 56 分…突然の大きな揺れ、スキー
たので、私達は 2 列になって山を下ることができま
場にいる多くの人がパニックに落ちいりました。私
した。その後、市役所で仮眠をとり、夜明けととも
も必死で皆の後を追ってゲレンデに走りました。も
に市役所を後にし、徒歩で高専に向かいました。そ
ちろん走っている間も揺れていました。今その時の
の時思ったのは、長岡市の中心街は、あまり被害は
114 ­新潟県中越地震体験記
なかったように思えました。川を越えた当たりから
した。まず寮のことが心配になり、すぐに N さんや
地割れがひどくなっていて、高専に近づくにつれて
O先生の方に電話しようとしましたがつながらず、
被害が大きくなっているように思いました。
寮に残っていたと思われる人にメールを送りまし
あの日は本当に長く感じました。消防隊が迎えに
た。しばらくして、2 度目の大きな地震がきました。
きてくれるまで、本当に生きた心地がしませんでし
そして、寮に残っていた人とは電話はつながりませ
た。私は今回の地震を絶対に忘れません。この経験
んでしたが、メールはできたので状況等を聞き、後
を胸にきざみ、これからがんばって行こうと思いま
は先生方の指示で行動してくれるようお願いしまし
す。
た。このような緊急事態の時に寮長がいないという
ことを悔やみました。
M. H.
寮にいる人達は大変な思いをしているのに自分だ
け、家でゆっくりしてはいられず、なんとかして寮
自分は地震のとき本屋で本を読んでいました。一
にいきたいと親にいいましたが、もちろん行かせて
回目の地震の時、初めは天井の電気がゆれはじめ、
もらえるはずがなく、落ちつくまで家にいるように
そのうちに本棚が倒れそうになり、本棚から本がた
と説得されました。一日目は、しばらく余震が続き、
くさん落ちてきて、本が体にあたっている人もいま
なかなか不安で寝れませんでしたが、中越にいた人
した。しかし人間はパニックになると体の痛みも感
はそんなもんではなかったと思います。
じなくなり、逃げることで頭の中がいっぱいになっ
二日目になり、朝ニュースをみてみると全部地震
てしまうことがわかりました。自分は生れて初めて
のことばかりでした。なんとかして、長岡に行こう
このような大地震を体感し、まったく体が動かなく
としましたが、行く方法がなく断念しました。なん
なってしまいました。
とか電話はつながる状態になったので N さんや先
まだ住んでいる所が新潟であったから助かったか
生と連絡をとり、状況等を聞きましたが、あまりに
もしれませんが、中越地方に住んでいる人は言葉に
ひどい様子でとてもしばらくは授業はないと思いま
できないほどの恐怖を体感したかと思います。自分
した。
はまだボランティア経験はありませんが、今後機会
があったら積極的に参加したいと思います。
三・四日目は何かできることはないかと思い、ずっ
と考えこんでいました。五日目に、後輩から連絡が
きて、ボランティアに行くことを決心しました。自
K . M.
自分は地震があった時はちょうど家に帰っていま
分の家の車を借りて、布団をつみ、食料を買い込ん
で長岡に向かいました。まず、様子をみるために、
学校の方まで来てみましたが、学校に近づくにつれ、
した。本当ならば土曜は部活があって、地震の時に
ひどくなっていくように感じました。学校には入れ
は寮にいるはずでしたが、十月に入って休みなしで
ないと聞いていたので入らず、そのまま長岡のボラ
練習をしてきていたので、たまたまO先生が土曜を
ンティアセンターに行きました。ボランティアは初
休みにして、お前も家に帰れと言われたので、しば
めてで受付をすまし、ボランティアの仕事を待ちま
らく家に帰っていなく、地元の友達と遊ぶ約束もで
した。仕事は、力仕事があったので、それを選びま
きたので偶然帰ったようなものでした。
した。偶然にも高専の先輩と同じ仕事にあたりまし
土曜の朝に副寮長の N さんに寮のことをまかせ
た。現場は市立図書館の辺りで、ガレキ運びをしま
て、昼すぎに家に帰りました。ちょうど家についた
した。そこのおばさんの話を聞いたところ、食糧は
時に地震はきました。自分の家はギシギシと音をた
困っていないようなので安心しました。
てていましたが、立っていられるくらいの揺れだっ
ボランティア二日目は、埼玉からボランティアに
たので落ちついて行動できました。まず、テレビを
きた元暴走族だった人と仕事をしました。その人は
つけ、どのくらいの震度だったのかを確かめようと
とてもいい人で、とても責任感が強く、積極的に仕
しました。震源は中越地方で震度 6 を記録していま
事をしていました。やはり困った時には助けあう力
新潟県中越地震体験記­ 115
が必要で、その力が地元の人たちに元気を与えてく
した。しかし時がたつと、その時に感じたことや思っ
れると感じました。
ていたことを忘れてしまいます。そうならないよう、
その後、寮の復興が始まり、寮の手伝いに、来ま
この貴重な経験を今後に生かしていきたいです。
した。また部活も除々に活動を始め、毎年行ってい
た筑波合宿に行くこともできました。
自分は地震があってから授業では学べないことを
M. Y.
体験しました。これから前のように生活できるよう
10 月 23 日土曜日、午後 5 時 56 分、学校で用事を
がんばらなくてはいけないと感じました。寮も部活
済ませ、車に乗ってエンジンをかけようとしたその
もこれからどうなるかわかりませんが、とにかく行
時だった。いきないり地鳴りがして激しく揺れた。
動していくしかありませんので、何事も一生懸命に
教官室の本棚が一気に倒れると共に、停電した。何
がんばっていこうと思います。
が起こったのかわからなかった。しかし、揺れが治
まると同時にこの状況が理解できた。「地震」だと
M . M.
いうことに…。揺れが治まり教官室の電気も点き、
一安心したその矢先、二度目の地震がきた。今度は
10 月 23 日午後 5 時 53 分頃、新潟県、中越地方で
理性を保ったままでいられた。しかし、先ほどの揺
地震がおきました。その時、自分は、新潟市の方へ
れと違い横揺れで、車が横転しそうな勢いだった。
出かけていました。なので、その地震のすごさに気
それに増して、揺れの時間も長く感じられた。とて
付きませんでした。帰りの車の中で家に電話をした
も怖くてハンドルを強く握りしめたまま、その態勢
のですが、全然通じないので、だんだん不安になっ
から動くことができなかった。揺れが落ち着き、早
てきました。そこで、ラジオを聴いてみると、地震
く家に帰りたいと思った。
「今なら帰れる !」…そう
の情報や伝言など流れていて、普通の状況ではあり
思った。しかし、それは不可能という三文字で片付
ませんでした。しかし、その時でも、まだ、後日になっ
けられた。三度目の地震がきたのだ。
てわかるような被害を想像などしてませんでした。
三度も強い地震がきて帰るのが怖くなり、車の中
見附の家に帰って見ると家族が近所の人たちと一
でじっとしていた。教官室の電気も点かない状態に
緒に、ブルーシートの上でかたまっていました。し
なっていた。周りを見渡しても明かりが見当たらな
かし、夜遅くなると、つゆとかでシートがぬれてし
かった。しばらくして教官がきて、「建物から離れ
まってきたので、その日は車の中で一夜をすごしま
なさい」と言われ外に出た。理性が戻って、家族が
した。朝おきると、電気もガスも水道も止まってい
心配になり急いで電話を掛けた。親の声を聞いたと
ることに気付きました。顔も洗えず、トイレにもい
きは涙が出そうだった。あんなに強い地震の中、家
けず、テレビで情報を得ることさえできませんでし
にいては非常に危険であったと思う。「けがもなく
た。そんな生活が 1 週間くらい続きました。1 日、
無事で本当に良かった」と思った。それから 4 時間
電気やガスがないだけで、ものすごく不便に感じま
ほど学校に避難して、そのあとは教官に家まで送っ
した。
てもらい家族と再会した。そして、その夜から一週
食器棚や本棚も倒れていて、震源から遠い見附で
間近い避難生活が始まった。
も、そのすごさを感じました。バイト先の S にいっ
避難生活は思っていたよりも精神的ダメージが大
てみると、食料品やカップめんはなにもなく、流通
きかった。多くの被災者と共に生活することはとて
ラインも確保できていない状況でした。道路はとこ
も気を遣うため、神経が磨り減ってしまった。また、
ろどころ隆起したり、陥没したりもしていました。
今までの生活と 180 度も変わり、当たり前だったト
そして何度もくる余震が不安でした。ライフライン
イレやお風呂に入ることができなくて、ストレスが
が復旧してくると、いろいろと情報が得られたり、
溜まっていった。食糧も同じだ。毎日おにぎりやパ
前の生活に戻れることでとても安心しました。
ンで、温かいものが食べられなかった。しかし、避
この災害にあっていろいろなことを感じ、考えま
116 ­新潟県中越地震体験記
難所によっては食糧が十分に足りない所もあったの
で、そういう所と比べれば待遇は良かったと思う。
が来る時間だったので、私のいる食品コーナーには
地震が発生して 3 日目に家に中に入った。「足の
たくさんの商品が置かれていた。地震があった時、
踏み場がない」という言葉を目の当たりにした。高
私は 5 階建てのビルの一番下である地下 1 階にいた
い所にあるものは全て落ち、食器や花瓶は割れてい
が、すごい揺れを感じた。初めは地震と同時に停電
た。重たいピアノやタンスなどは 30 センチ以上も
になったので、どうなったのか分からなくなった。
移動していた。家の中は、3 日前の様子と全く違っ
その後、非常用電気がつき、お客の誘導が始まった。
ていて、激しくショックを受けた。それでも片付け
私はその時、一時的な停電ですぐに電気が回復し、
れば、地震前の景観と変わらなかった。しかし、家
営業を再開するものだと思っていた。しかし、いつ
の中にいても「音」がしない…。
になっても回復しないで、ついにアルバイトは帰る
分かっていてもコンセントにプラグを差し込む、
ことになった。
無意味なことだった。被災地だということを感じた
後で聞いた話だと、その日限りで売らないといけ
時でもあった。顔を洗うのも水洗い、食事は冷たい
ない商品は、金額だけメモされた後、すべて処分さ
おにぎりとパン、空を飛び回る自衛隊のヘリ…。避
れたそうだ。他のスーパーでは付近の住民に配って
難所にいたら嫌でも地震という現実を見なければな
いたという話も聞いた。バイトから帰宅してからは
らないのに、家にいてもそれを感じてしまうのはと
懐中電灯で照らしながら、家の被害状況を確認した。
ても辛かった。私にとって「家」は安らげる場所で
暗くてよく分からなかったとはいえ、思った程大き
あったのに、その時の「いえ」は苦痛な思いをする
な被害は見られなかった。
場所でしかなかった。どこに居ても、地震という現
その時はただ、電気が使えなくて不便としか思え
実から逃れることはできなかった。昼間は片付けの
なかったが、だが、今思えば柏崎だけでなく、その
ため家に居ることができても、夜は避難所で寝泊ま
となりの長岡、小千谷、の電気が消えていたかと思
りしなければならなかった。家から避難所への道の
えば、とても珍しい光景だ。柏崎は地震の次の日の
りはとても気が重かった。
午後には、だいたいの地区に電気が通ったようだ。
このような生活を続けていく中で、父親が単身赴
10 月 25 日から特別な休みが始まったが、私はバイ
任先から物資を持ってきてくれたり、ライフライン
トをしていた。特別なことをしたかと言えば、興味
が次々に復旧したりと、地震から 20 日目で元の生
本意と被害の状況を知りたい思いで、夜中に友達と
活に戻ることができた。トイレやテレビ、温かい食
車で、液状化のあった道やくずれた道を見に行った
事、お風呂などといった、ごく当たり前のことに困っ
くらいだ。
たこの期間は、今の生活の豊かさを再認識した期間
でもあったと思う。また、おにぎりの製造元が毎日
違う県で、日本各地の方々の力があってこそ、こう
して生活できているんだ、とも実感できた。その他、
K . V.
地震が起こった直前に風邪をひいていた私は、寝
行政・自衛隊の皆さん、ボランティアの方々、今も
ていました。そのとき、突然ベッドが縦にすごく揺
復旧作業を行っている方々など、今回の地震におい
れて、私を起こしました。実際に普通に起きたら、
て協力してくれた全ての方の気持ちを忘れずに、そ
すぐ全部気が戻らないはずです。しかし、あの時の
してこの地震の経験を無駄にせず生きていこうと強
状況は気が 100%戻ってきました。しかも一回も経
く心に誓った。
験したことがないほど、すごく揺れて、あんな大地
震によって起きた直後の気持ちは言葉を失うほどこ
T. W.
わかったです。そのとき、急にベッドの下に隠れた
反応は全然考えずに、恐怖の反応だろう。
10 月 23 日、午後 6 時頃、私は 4 時∼ 11 時までバ
そして 1 回目の揺れが治まって、さっそくベッド
イトが入っていた為、バイト先にいた。夕方のし
から出て、ドアを閉めたロッカーをドアから押そう
かも土曜の 6 時といったら、スーパーでは一番お客
としたとき、改めて、一回目よりちょっと長く揺れ
新潟県中越地震体験記­ 117
て、またベッドの下に隠れました。あまり揺れすぎ
を貸してもらいました。すごく助かったです。その
て、私がいる建物がそろそろ倒壊するような気がし
夜みんな第二体育館に泊まることになりました。
ました。そして、そのとき「おれの人生は今日まで‼」
私は避難所に泊まったことないのですが、避難所
という死ぬ一瞬の気持ちが感じました。しかし、2
で生活する人々の気持ちのつらさがわかります。
回目の揺れが落ち着き、もう 1 回目ベッドから出て
なぜかというと、私は第二体育館に 3 日間泊まった
ロッカーを引き出して、やっと部屋から出ました。
からです。その 3 日間はお風呂に入ることができな
そして廊下の所に物がバラバラに散らかっていまし
かったです。そしておにぎりとパンしか食べれな
た。廊下を通ってやっと無事で外に出ました。
かったのです。
外に出た私は、やっぱり地震の経験がないので、
地震は非常に怖いものです。特に部屋に一人でい
逃げるとき、サンダルさえはかなかったです。T-
るときです。しかし、ネガティブの面を考えてばか
シャツと、寝るためのズボンしか着ていなかったで
りではなく、ポジティブの面も考えています。100
す。テニスのコートでほぼ 3 時間ぐらい、他の寮生
年いっぺん大地震を通して、無事で、ケガもなかっ
と避難していました。がまんできないほど寒かった
たし、とくに、地震がぜんぜんない国からきた私に
です。よかったことに、O 先生にあったかいセーター
とって非常に貴重な体験でした。
学
生
5
ないのでごろごろしていた。とりあえず電気はない
中越地震の被災体験
が、水とプロパンガスは出ていたので、少々安心し
K. U .
2004 年 10 月 23 日午後 5 時 56 分、自分は借りて
いるアパートの背が高いベッドの上でごろごろして
た。しかし小刻みにゆれが続くので寝付けず、どこ
から停電になってるのだろうかと、自転車で出かけ
た。しかし道の所々が陥没し、ひびが入り、液状化 ?
しているところもあった。
いた。其処にマグニチュード 6.8 の地震が起きた。
翌日の早朝、自宅と連絡がつき朝一番で迎えにき
はじめに「ダダダッ」と縦にゆれ、その後激しい横
てもらい、長岡を脱出し平穏な日々を過ごし、電気
揺れが襲ってきた。ベッドが壊れまいかとは思いつ
水道が復旧した後に、長岡に戻り現在にいたる。
つ、必死にしがみついていたのを覚えている。ゆれ
が収まりベッドから降りて、どうしようか考えてい
たら、すぐにまた震度 5 程度の地震がきた。今度は
部屋の壁に張り付いて、建物が崩れないことを祈り
中越地震を体験して
Y. K .
ながら過ごした。部屋の中の物の被害はパソコンが
10 月 23 日 17 時 56 分、 集中豪雨からようやく復
倒れたことと、ポットが棚から落ちたこと、 シンク
興し、平穏を取り戻した世界はこのときから異音を
かずれて元に戻らなくなったことぐらいだった。
発し壊れていった。中越地震は断層のずれから来る
その後、いったん外へ避難した。そのときに全く
直下型の地震であった。集中豪雨からやっと復興し
情報が無い中、思ったのが「ここが震源地だったら
た新潟県民を奈落へと突き落とすものであった。地
いいなあ」であった。もし自分の地元がある下越が
震は面的な災害である。ひとたび、災害が発生して
震源地であったなら、もっと格段にひどいことに
しまうと、その周辺一帯が被災してしまう。地震発
なって家族が心配であったからだ。 しばらくして 2
生直後は多くの道路で使用不可となってしまった。
回目の震度 6。外に出ていたので、身の危険は感じ
これはライフラインである電気が止まった影響が大
なかったが、周囲の家々が嫌な音を立ててきしんで
きい。暖房や連絡もうまく取れず、人間がいかに電
いた。建物自体に大きな損傷がなく、さすがにもう
気に頼っているかが良くわかった。
大きいのはこないだろうと部屋に戻り、することも
118 ­新潟県中越地震体験記
10 月ということで日本海側に属する新潟は雨に
よる地滑り、また火災などの二次災害の危険性も多
まったくわからなくなったが、家族の悲鳴で地震だ
くあった。地震でも集中豪雨でも本当に怖いのは一
と気づき妹の部屋に行き、妹を連れて携帯の明かり
次災害ではなく二次災害である。(災害の被災者の
を頼りに、
倒れてくる家具をどかしながら外へ出た。
多くは二次災害による被災が多い。)
こんなものすごい地震を体験したことがなかったの
地震後の生活、ここでも地震の影響は大きかった。
でしばらく混乱していた。外へ出ても地震が続き、
地震により多くの家は何かしらの被害を受けライフ
落ちてくる瓦を避けながら避難した。この日は、近
ラインが断絶され、人々は避難所での生活を余儀な
くの中学校へと避難して家族みんな車ですごした。
くされたが、この避難所への指示、もしくは避難所
次の日、家へ帰ると最悪の状態であった。ガラス
の中での指示が混乱していた。
は割れ、壁は落ち、物は壊れ、掃除する気にもなれ
地震直後、私が住んでいる若草町では人々が外に
なかった。ガス、水道、電気とライフラインがたた
出て皆周りを見渡していた。もし、この地震が冬に
れ、どれだけ毎日快適に過ごしていたのか思い知ら
起きたらさらに被災者が増えたのではないかと考え
されました。中学校での配給や、ガスコンロの貸し
られ、地震発生直後の早急な指示が必要であると考
出し、近所の方々の助けととても助かりました。自
えられる。電気もつかないまま、結局車の中で一夜
分は今町 1 丁目に住んでいるのですが、何日かして
を過ごした。
市の方が自宅や車庫の調査にやってきて、自宅の方
この次の日、避難所の誘導のために町内会の人が
出ていた。地震により悠久山近辺のマンホールなど
は一部損壊でしたが、車庫がいくつもあるのですが、
ほとんどが赤紙を張られました。
が浮き上がり、交通機能が麻痺していた。交通機能
町の中にも道路が陥没したりと、いたるところに
は都市の重要な機能である。この機能が麻痺すると
被害が出ていました。この震災でこっちの土木企業
いうことは都市が死んでしまうということである。
の株はだいぶ上がったようです。金の亡者はとても
小千谷方面、見附方面両方面ともに交通規制が敷か
怖いです。
れ、2、3 日通行不可であった。
この地震ではわかったことは、地震自体の被害も
今回の中越地震を通し、多くのことを学んだ。地
大きかったですが、避難所での車の中での凍死など
震はこの日本には切っても切れないものである。僕
の二次災害の大きさや、一人暮らしの老人の避難な
らが日ごろ学んでいることを実際に体験できたのは
ど、社会的機能の影響などですが、いろいろ見直さ
大きいことであると思う。この地震による被害は大
なければいけないことがたくさんあったと思いまし
きかったが、これからまた新潟は復興していくだろ
た。被害にあった人たちも思ったよりもみんな明る
う。僕もその力になりたいと感じている。
いことにもびっくりしました。近所の方々との助け
合いなど、被害は大きかったですが勉強になること
新潟県中越地震について
K. T.
もたくさんありました。今年の冬は暖冬になりそう
だということですが、仮設住宅の方々など無事にい
い春を迎えられれば幸いです。
2004 年 10 月 23 日 17 時 56 分 頃 に 新 潟 県 中 越 地
方の深さ約 10㎞でマグニチュード(M)6.8(暫定)
の地震が発生し、最大震度 6 強を観測した。また、
同日 18 時 12 分頃に M6.0(暫定)、18 時 34 分頃に
M6.5(暫定)の地震が発生し、いずれも最大震度
6 強を観測した。
新潟県中越地震実体験
K . S.
地震発生時、僕は北部体育館にいました。 ハンド
ボールの市民大会が終了し、寮生を寮に送ろうと体
自分はこの時、夕食を食べ自分の部屋に戻りテレ
育館を出ようとした時に地震に遇いました。はじめ
ビをつけたところ地震が発生した。最初は何が起き
は、「あっ、地震だ」と思ったのですが、だんだん
たかわからず、落ちてくる棚や落ちそうなテレビを
揺れが大きくなってきて、ガラスがガタガタと鳴り、
支えていた。そしていきなりの停電、何が起きたか
物に掴まってないと立てないくらいの大きく揺れま
新潟県中越地震体験記­ 119
した。驚いたのは体育館を出てからでした。 とりあ
僕は楽しんでいました。 めったに体験できないこと
えず、車のラジオを聞きながら高専の寮まで向かっ
を経験し、同じことを経験した友達もたくさんいる。
ていました。 その途中、家の中から避難する人々、
避難生活なのに修学旅行にでも行ったかのように楽
ガラスのショーウィンドウが割れたお店を見まし
しみました。 結局、夜中の 4 時くらいまで話をして
た。その時にただ事ではないと感じました。
いたと思います。
高専についたら、学校の先生方が集まっていまし
起きたら、帰れる人は実家に帰ってくださいと言
た。 先生方は困惑し大変そうでしたが、僕は事の大
われたので、新潟方面の人を連れて長岡を脱出しま
きさが良く分かっていなかったので、かなり興奮し
した。長岡の道はでこぼこしていて、電柱は斜めに
ていました。 今まではテレビでしか見なかった災害
傾いている。 塀は崩れ、家も傾いている。 そんな長
の現場に今自分がいる。 これは僕にとって貴重な経
岡の状況を見ながら、今回の地震がすさまじいもの
験で、興奮していた自分が良くわかります。高専の
だったということを再確認しながら新潟に帰りまし
駐車場で、地震の起きたこと、どこにいたか、大丈
た。新潟まで行くと、被害はまったく無かったです。
夫だったか等、先生と話をしたり、友達と話をした
道は普通、ライフラインも普通。 車で 1 時間ちょっ
りしているときでした。 地面がゴゴゴとなるような
との距離しか違わないのに全然違いました。
余震が起きたとき、ドンッ !! という音が聞こえまし
地震により学校面 ( 授業、卒研 ) にかなり甚大な
た。 その音が 5 号館 1 階のガス爆発であると知った
被害がでた。 今までやっていた卒研のサンプルがす
とき、そしてその現場を見たとき、まるで映画のよ
べてダメになり、技大の研究室で卒業するまで研究
うに感じました。
をすることになった。 テーマも変わり、毎日技大へ
しばらくすると、寮生が食堂に避難しているか
通う日々、なかなか大変です。しかし、貴重な経験
らー緒に食堂に避難しましょうということになり、
を得ることができた。いくらお金を払っても、こん
食堂に避難しにいきました。 寮にいた友達はみんな
な経験をさせてくれるとこなんてありません。 ある
元気でほっとしました。地震で大変だったのにもか
意味僕はラッキーです。起こってしまったものは
かわらず、笑顔で体験談をしゃべる友達、そこに寮
しょうがない。 これからは得られた経験をもとに、
生の強さを感じることができました。 僕も寮生だっ
物事を前向きに考えていきたいと思っている。
たのでちょっとやそっとではへこたれません。
最終的に高専の第二体育館へ避難することが決定
しました。 アパートに帰って一人寂しく夜を明かす
のが怖かったので、僕も体育館で一夜を明かすこと
中越地震について
T. I.
にしました。 布団を取りにアパートに帰ったとき、
2004 年 10 月 23 日 午 後 5 時 56 分 か ら 6 時 24 分
食器は全部割れたなとか、電子レンジは床に落ちて
にかけて震度 6 を超える地震が立て続けに 3 回起き
るのかなとか、パソコン大丈夫かなとか、いろいろ
た。避難者は 10 万人を超え、7 月の水害に続き新
なことを考えながら自分の部屋に入りました。 入っ
潟にまたもや災害が降ってきた。ちなみに地震が起
てみると、食器は割れておらず、棚に入れておいた
きたそのとき、僕は運良く新潟市内で友達と一緒に
教科書がただ床に落ちているだけでした。 棚が倒れ
いて、震度 6 の地震から逃れることができた。新潟
ることも無く、食器が割れることも無く、重大な被
市内でも震度 4 の地震だった。その日は帰ってこな
害といったらライフラインがすべて止まったことで
い方がいいと親から連絡があったので、 その日は友
した。
達の家に 1 泊した。友達の家は新津だったのだが、
布団を担ぎ、第二体育館に戻りました。 寮生も寮
テレビでニュースを見たが、これが本当に自分達に
から布団を持ってきたりしていました。 第二体育館
起きていることが信じられなかった。翌日長岡に帰
はあっという間にテレビに映っているような避難所
ると、被害状況はすさまじいものだった。道路は陥
になりました。 仲のいい人同士が集まって布団を並
没し、電柱は傾き、倒壊している家屋もちらほら見
べていました。 しかし、避難生活にもかかわらず、
えた。自分の家もめちゃくちゃだった。しかも、本
120 ­新潟県中越地震体験記
震が終わっても続く余震は、本当に怖い思いをした。
こと、もうひとつはこんなこと二度とごめんこうむ
高専にも入ることができたが、ひどい有様だった。
るということです。もう経験したくないです、でき
早く元通りになればいいと願うばかりである。
れば。本震のあった 10 月 23 日 18 時ごろ、私はパ
地震の起きた 2 日後に長岡高専に行くことができ
ソコンに向かっていましたが、ぐらりぐらりとした
た。中に入ることはできなかったが、外から学校の
かと思うとどんどん揺れがひどくなり『大変だ !』と、
様子を見ることができた。まず、3 号館と食堂の間
座ったままじっとしていたのでした。初めの地震で
は陥没していて歩くことができない状態だった。食
真上の蛍光灯が、私の頭の横をかすめて机に落ちど
堂は地滑りを起こして傾いていた。3 号館はコンク
きりとしました。机にはそのときの傷が残っていま
リート実験室の入り口付近から大きなヒビが入って
すが頭に当たっていたら、被害者第 1 号になってい
いた。土質実験室の前は建物が盛り上がっていた。
たかもしれないと悔しく思っています。弟は車を運
他の棟はよく見ていないので、何とも言えないが、
転中でした。まず、車の故障を疑ったそうです。彼
3 号館だけ特に被害が大きいように見えた(実際 3
もなんとか無事でした。
号館が一番被害が大きかったようだ)。後で高専の
震災もたいへんでしたが、もっとたいへんなのは
ある土地は切り土と盛り土をしていて、盛り土の部
その後の避難生活と復興作業だと感じました。避難
分が地滑りを起こしたという話を聞いた。それで食
生活は電気、水道が使えません。生活はものすごく
堂のあたりが陥没し、3 号館に亀裂が入ったのだと
不便でした。明かりは蝋燭、ご飯はカップ麺やおに
わかった。さらにこの地滑りにより 6 号館も甚大な
ぎり、パンです。こんなときのために防災グッズな
被害を受けたことはみなさんも驚いたと思う。建設
るものを用意しておくと大変便利だと思いました、
技術が向上しても自然の力には勝てないということ
が、いまだ私のうちはこの震災を経験した後もそん
だ。
なものは用意していないのです。復興作業は徹夜で
さらにそれから 1 週間くらい経ち、高専の中に入
ることができたが、中は外よりも被害が大きいよう
行われ、特に交通は最優先で復興が急がれました。
すばやい対応に感心してしまいました。
に思えた。3 号館の亀裂を中から観察したが、下を
震災によって、人の助け合いの精神に深く感銘を
見ると 1 階の廊下が見え、上を向くと空が少し顔を
覚えましたし、また、人間の無力なるを知ったので
のぞかせていた。自分たちの研究室、実験室は見る
あります。また、家族が生きておって本当に幸いで
も無惨だった。机はすべて倒れ、棚は自分の方に倒
した。ありがたい、ありがたい。
れていた。実験室ではガラス機器は大半が割れ、装
置もいくつか倒れて故障していた。
今年は本当に災害の多い年となった。7 月 13 日
の水害や地震。しかも新潟県だけでなく、広島や京
新潟県中越地震について
K . Y.
都なども台風の被害にあい、大変な 1 年だったと思
2004 年 10 月 23 日午後 5 時 56 分ごろ、新潟県中
う。しかし、今年は復興元年として、県民 1 人 1 人
越地方を中心に広い範囲で強い地震が発生し、川口
が―丸となってこの災害からの復興に取り組んでい
町で震度 7、小千谷市で震度 6 強を観測した。本震
かなければならない。そして、この災害の教訓を、
に加え、度重なる大きな余震による建物崩壊、上越
もしまたどこかで災害が起きたときの糧にして欲し
新幹線の脱線、各交通網は寸断された。山沿いの集
いと思う。
落は土砂崩れなどにより孤立し、ヘリコプターなど
で救出され、山古志村では全村避難により離村し
新潟県中越地震を体験して
T. Y.
た。これにより多くの被災者が仮設住宅で生活せざ
るをえなくなった。また、エコノミークラス症候群
やショック死など地震の間接的被害も多発した。過
人生に一度体験するかしないかの大震災を経験し
去にはない被害をみせた中越大震災だが、降雪によ
て、まず思うことは生きていて幸いだったなという
る 2 次災害や 2 ケ月以上たった今現在も続いている
新潟県中越地震体験記­ 121
余震など被災地の不安は続いている。
大震災のほうが大きいことになります。また、どち
この中越大震災で自宅にいた自分も被災した。自
らも直下型の地震であったため、震源地付近が莫大
宅は、上越新幹線が脱線した現場がすぐ見えると
な被害を受けました。阪神淡路地震では、そのエネ
ころにある。2 階の自室にいたとき、最初の地震が
ルギーの大きさゆえに、建物の倒壊が多く見られま
発生した。幸い家族全員怪我はなく、その後 1 週間
た、火災も発生したため多くの死者が出ました。一
ほどは車中で寝泊りをしていた。家屋の被害状況
方中越地震では、死者・負傷者は阪神淡路に比べ少
は、外観は見かけ上はなんともないのだが、家が土
ないものの、 液状化による道路の破壊が大変目立っ
地ごと浮いたのか沈んだのか大きいところで上下
た地震だったと思います。
40mm、左右に 80mm はずれ(コンクリの地面に
また、復旧活動には阪神淡路大震災の教訓が生か
段差ができている)、水道管も割れ、家の敷地内か
されていると感じました。阪神淡路大震災の時は、
ら一部水が吹き出ていた。しかし、基礎自体に大き
大都市で人口が多かったということもあり、国や自
なひびは無く、傾きも規定範囲内のため半壊とはな
治体などの支援が困惑していた印象がありました。
らず一部損壊として認定された。家屋が一応無事な
しかし、今回の地震では、国や自治体の支援が何を
こと、怪我人もでなかったことを考えれば被害は比
すべきかを的確に把握して、スムーズな復旧活動で
較的小さかったといえるかもしれない。
あったのではないでしょうか。実際に長岡で生活を
今回のような大きな震災を、よくある話だが ま
している中で、避難場所での支援、ライフライン、
さか 自分が体験するとは思わなかった。 そのため
道路の復旧が目まぐるしくまたスムーズに行われる
備えなどはしておらず、ライフラインが回復するま
さまを見て感動しました。
で、食料や水、生活用品を送ってくれた親戚や友人
には本当に助けられた。また、この地震の際に協力
新潟県中越地震について
して生活を送るなど、近所関係はより親密になった
K . S.
ように思う。今回のように、人に助けられた、助け
たという経験を、今後なにかの役にたてられればと
平成 16 年 10 月 23 日午後 5 時 56 分ごろ、新潟県
中越地震が発生した。この地震では、避難者約 10
思う。
長岡高専の被害も大きく、学生や職員の方々も被
万人、住宅損壊約 9 万棟、被害額約 3 兆円を超える
災したなど大変な状況ではあるが、1 日も早く全員
大規模災害であり、地域社会への深刻な打撃は「阪
が本校で講義を受けられるようになること、また、
神・淡路大震災」にも匹敵する。その被害は大き
多くの被災者が元の生活に少しでも戻れることを心
く、建物の破損、倒壊や道路の陥没など、今も完全
から願っている。
には直っていない。電気、 ガス、 水道などのライフ
ラインは一時ストップし、 余震も続いたため避難所
新潟県中越地震
や車内泊などの生活が続いた。今は余震もあまりな
T. T.
く、国や県などの支援もあり、ある程度落ち着いて
いる。しかし、家や仕事などを失った人だち、仮設
今回のレポートでは、 新潟県中越地震の概要と地
住宅などで生活している人もいる。今でも不自由な
震の規模について知らなかったことを調べてまとめ
人たちもいて、地震の影響はまだまだ消えることは
ました。震度は、2 から 3 と 6 から 7 では同じ 1 あ
ないだろうと思う。しかし、地震前よりも人とのつ
がるにしてもその規模は 6 から 7 になるほうがとて
ながりなどが良くなったという話もある。人の助け
も大きく、マグニチュードは、0.2 上がるごとにそ
や地域のつながりが大切だと考えたことはあまりな
のエネルギーは 2 倍になることがわかりました。
いが、 この地震でありかたいとはっきりわかった気
阪神淡路大震災の時は、M7.2 であったのに対し
て、今回の新潟県中越地震は M6.8 でありマグニ
チュードのエネルギーとしては、 約 4 倍も阪神淡路
122 ­新潟県中越地震体験記
がする。こういった思いを持って復興していってほ
しいと思う。
する。これが 5 号館でのガス爆発である。しばらく
私自身の体験
後、IがRさんとともにやってくる。このときIは
Y. H .
10 月 23 日の夕方、私は 5 時過ぎから寮の風呂に
血を流している。爆発に巻き込まれたとのことであ
る。幸い外にいたため怪我は大きなものではなかっ
たようである。
入っていた。 5:50 ごろに 4 号館増築 4 階の部屋に
エコーライフの方から食料を提供していただく。
戻り、椅子に座っていた。すると小さなゴゴゴ…と
皆夕食を食べておらず、精神も消耗しているので非
いう音とともに足元に小さな振動を感じた。次の瞬
常にありかたい。私もおにぎりをいただく。
間、ドンという衝撃とともに横揺れがやってきた。
寒いので避難場所を寮の食堂に移す。食堂では寮
この瞬間までは 9 月中旬に続いた地震と同程度の地
生以外の者も集まっている。その場にいた者たちの
震だろうと思っていた。しかしすぐに横揺れはかつ
無事をお互いに確認する。寮の食堂も床が隆起 ( 陥
て体験したことのない大きさの揺れとなった。とっ
没 ?) している箇所がある。怪我人を病院へ搬送す
さに机の下に潜り、揺れが収まるのを待った。この
る車が用意できたとのことで、Iを皆で車まで運ぶ。
間、私は机の脚をつかみ、ただ揺れが収まること、
寮の食堂でもガス漏れがあるらしく、安全ではな
寮が倒壊しないことを願うしかなかった。
いため別の避難場所を用意する必要があった。第 2
揺れが収まってみると、机の後ろに設置していた
体育館へ移動することになる。第 2 体育館は当初照
本棚が倒れかかっていて脱出しづらい。本棚を起こ
明が点かず、行動に苦労した。なんとか階ごとに集
すことを試みるがどうにもならない。落ち着いてよ
合し、先生や副寮長からの連絡を聞く。しばらく後
く見ると、ぎりぎり這い出られる隙間があったので
に照明が点灯する。
なんとか這い出て部屋から出る。すでに多くの寮生
1 ∼ 3 号館生は順番に荷物を取りに寮へ入ること
は外へ向かった模様。見ると山田君が部屋で携帯電
が認められたが、4 号館生及び増築館生には認めら
話を探していたので、とにかく建物を出ようと誘う。
れない。入り口の柱が破損しているためである。夜
4 階の廊下を歩いて ( 走っていたかもしれない ) い
は大変寒かったが、長岡市から毛布の配給があった
たときに 2 回目の大きな揺れがやってくる。とても
ため、それでなんとか寒さを凌ぐ。また、Sから服
立っていられず、壁につかまる。このとき天井が落
を貸してもらう。これにはとても助かった。
ちてこないことを願った。落下物があれば怪我では
困ったのがトイレである。この手の災害では毎回
済まない。揺れが収まるのを待って階段を急いで降
問題になるが、今回も例外ではない。仕方が無いの
りる。1 階へ降りると、4 号館入り目の柱が破壊し
で道路脇の側溝で小用を足す。水道管が破裂して水
ているのが見られた。
が流れているので流してもらうことにする。
外に出ると、暗いが道路が割れたり落ち込んだり
家への連絡は寮務係の固定電話から行った。親に
しているのが確認できる。先に避難していた寮生た
とにかく明日迎えにきてもらうよう話をつけ、この
ちとともにテニスコートヘ避難する。テニスコート
目は就寝した。一夜明け、明るい状態で外を見ると
であれば安全であろう。テニスコートヘ降りてみる
被害の様子がよくわかる。親にきてもらい、新発田
と、ここでも地面が凸凹になっていることがわかる。
へ戻る。地震の体験はひとまず終わりである。現地
階ごとに集合するが、この日が土曜日であったこ
に居たのは地震発生から僅か一晩であるが、その様
ともあり、全員の点呼が取れない。とにかくテニス
子をみると、皆の行動は割と落ち着いていたように
コートで待つしかない。するとIがやってくる。様
思う。大きな混乱もなく(小さな混乱はあった ?)
、
子を見に来たとのことである(このとき無傷 )。さ
先生や副寮長の指示に従って行動してくれた。各自
らに待っていると 3 回目の大きな揺れがくる。この
が勝手に危険な行動を取っては混乱を増やすだけで
ときはテニスコートにいたこともあり命の危険は感
あろう。
じなかった。
3 回目の揺れからまもなく学校の方から爆発音が
新潟県中越地震体験記­ 123
新潟県中越地震について
中越地震について
K. M .
T. S.
2004 年 10 月 23 日、後に「新潟県中越地震」と
昨年の 10 月 23 日には新潟県中越地方を震源とす
命名されてしまうような大きな地震が起きたわけだ
る大地震が発生した。そのために今回のレポートで
が、被災した当初は周囲の被害が分からなかった事、
は新潟地震について調べ、今回の中越地震と比べて
大きな地震を体験した事がなかった事から、そんな
みることにした。
に大事になっているという感覚はあまりなかった。
新潟地震は今から 40 年ほど前におこった地震で
近所の被害状況や、隣接する地域の被害が分かるに
あり、父親の話によると地震当時は、水田の水が
つれて、自分が今、凄い状況にいるという事は理解
チャッポチャッポ跳びはね、立っていられないよう
できたが、未だに実感としてはあまりない。まるで
な状況であったという。また、地震発生の時間は昼
絵空事のように思えるのは、人間が、自分を守るた
すぎということもあり、火災が多く発生したそうだ。
めの防衛策なのかもしれない。
中越地震の場合も、すごい揺れで立っていられる
それはさておき、今回のレポートを書いていて
ような状態ではなかった。長岡高専寮の壁には大き
思った事は、人間の感覚というのは素晴らしいとい
な亀裂があちこちに入り、住めるような状態では無
う事である。報道の情報と感覚との差がいくつかあ
くなった。長岡市内の道路ではマンホールが飛び出
り、それを自分の中で納得させるためにも、このレ
し、電柱が傾いていた。
ポートを書いたわけだが、裏付けとなりそうなデー
今回の地震によって交通や通信がマヒし、不便な
タが出てくること、出てくること。恐らく、一番「報
思いをしたことで、改めて文明のありがたみを実感
道と違う !」と言い続けてきた母や近所の人が知っ
することができた。また、科学技術の進歩した現代
たら「やっぱり !」と言うのではないだろうか。考
社会においても、人間は大自然の驚異にはとうてい
えてみれば、昔、震度は人間の感覚で決めていたわ
かなわないことを実感した。しかし、地震後の復旧
けで…。地震に関してだけではない。人間の感覚と
活動をとおして、人間の「なんとかしよう」という
いうものは様々な所で発揮されており、それによっ
適応力も実感することができた。今回の地震では被
て成り立つ部分は計り知れない。人間の感覚という
害もあったが、自分のなかでは貴重な経験となり、
ものは機械よりも優れた部分を持っているのだ。こ
それから学ぶべきこともあった。この貴重な経験を
のレポートを書いていて、ふとそんな事を思った。
忘れずに、これからの生活をおくっていきたい。
新潟県中越地震を体験した感想
T. O .
今回の中越地震が発生した時、私は加茂市の自宅
に居たのですが揺れがくる前にすごく大きな地響き
を聞きました。最初は近くで工事をしていたので、
こんな遅くまで工事をしているのかと思いました。
そのあとに揺れたので、ビックリしました。しかし、
私よりお父さんが慌てていた事が印象に残っていま
す。地震の中、私は夕飯を作りました。
124 ­新潟県中越地震体験記
「新潟県中越地震」後から授業再開までの対応等
年 月 日
平成16年10月23日
事 項
午後 5 時 56 分頃、震度 7 の「新潟県中越地震」が発生。(長岡市は震度 6 弱)
校長を本部長とする「長岡高専災害対策本部」を設置
寮生・通学生併せて 192 名の学生が本校第 2 体育館に避難
職員宿舎等居住の教職員・家族も避難
10月24日
寮生・通学生 159 名が自宅に戻る
残る 33 名の寮生・通学生は引き続き避難
学生・教職員の安否確認開始
「休校のお知らせ」を本校ホームページに掲載。また、NHK、FM 長岡に放送を依頼
(独)国立高等専門学校機構本部、各高専・大学から救援物資が届いた
10月25日
留学生 12 名は新潟大国際交流会館に移動
残る 21 名の寮生・通学生が自宅に戻る
引き続き、職員宿舎居住の教職員・家族が本校合宿所に避難
4 号館講義室を教職員の居室とした(水道=断水、ガス=不通、トイレ=プールの水を使用)
午後 3 時過ぎに停電
午後 9 時過ぎに長岡技科大より小型発動機を借用
10月26日
教職員の安否確認終了(教員 1 名が自宅で負傷)
応急危険度調査を開始
構内の地割れ箇所に雨水による地割れ拡大を防ぐため、ブルーシートを敷設
危険箇所に立ち入り禁止措置
4 号館内に庶務課(1 階教研実践室)、会計課(2 階一般教育研究支援室)が移動
午後 8 時 15 分に電気が復旧
10月27日
午前 10 時 40 分頃、震度 5 強(長岡市)の余震が発生
余震により応急危険度調査を中止
職員宿舎居住の教職員・家族の避難場所を合宿所から1号館中央棟 1階及び職員集会室に移動
10月28日
本校敷地の地滑りの影響により 2 地区に避難勧告が発令
10月29日
学生の安否確認終了(学生 2 名が負傷)
本校敷地の地滑りの影響により広範囲の 6 地区に避難勧告が発令。高専も対象に
10月30日
避難勧告により本校事務局を長岡技科大総合研究棟 2 階に仮移転
下村文科省大臣政務官、文科省文教施設部舌津施設企画課長が本校を視察
(独)国立高等専門学校機構本部小山事務局長らが本校を現地調査
「休校のお知らせ」及び「長岡技科大へ仮移転のお知らせ」を各報道機関に依頼
11月 2日
グランド内の地割れに、
雨水による地割れ拡大を防ぐため、
ブルーシートの敷設開始
(約7,000㎡)
避難勧告発令の 6 地区に対する長岡市との合同説明会(対象:町内会長)
11月 3日
環境都市工学科教員及び技術職員による校内定時巡視(20 地点の写真撮影、目視観察)開始
11月 4日
担任からの、電話による学生のケア及び現況確認開始
11月 6日
保護者に対し、現状報告・奨学金関係のお知らせ及び本校と学生との連絡方法等を郵送
11月 9日
教員が新潟大国際交流会館に出向き、留学生に対するケア及び現況確認
6 地区の一部避難勧告解除。本校も解除
被災度区分判定調査を開始
地盤の応急対策工事を開始(グランド、東側法面、悠久町宿舎側等)
11月10日 (独)国立高等専門学校機構本部高塩理事らが本校を現地調査
新潟大人間科学部教育実習宿泊施設「和光寮」を年度末まで借用
11月12日
長岡技科大において専攻科履修ガイダンスを実施
専攻科生については、長岡技科大の研究室を借用して特別研究を再開
避難勧告発令の 2 地区に対する長岡市との合同住民説明会
新潟県中越地震体験記­ 125
年 月 日
事 項
11月13日
長岡技科大において「平成 17 年度専攻科(学力)後期」入学選抜試験を実施
11月14日
臨時の後援会支部懇談会を実施(小千谷支部を除く)
11月17日
各学科ごとに学生に対するガイダンスを開始
学級担任による被災学生訪問
避難勧告発令の 2 地区に対する長岡市との合同住民説明会
11月18日
寮生の荷物搬出(寮及び教室)開始(11/19 まで)
1 地区を除き、避難勧告解除
11月19日
長岡技科大内に学生相談室を設置し、学生相談を実施
11月21日
専攻科・5 年寮生及び県外の寮生の荷物搬出
和光寮入寮希望者に対するガイダンスを実施
11月22日
日本建築学会調査団による本校建物調査
通学生の荷物搬出開始(11/26 まで)
11月23日
和光寮への荷物搬入
臨時の後援会小千谷支部懇談会を実施
11月25日
後期の臨時学年暦が決定
本科 5 年及び専攻科の長岡技科大における授業時間割が決定
11月27日
寮生の寮内荷物搬出開始(12/5 まで)
ロボコン全国大会出場(特別賞(ソリッドワークス)受賞)
11月30日
県内大学図書館協議会加盟大学の協力を得て、本校学生が各大学図書館の利用可
12月 3日
新潟大国際交流会館にいる留学生を和光寮に移動
和光寮開寮(入寮者 52 名)
12月 6日
長岡技科大において、本科 5 年及び専攻科 1 年の授業が再開
本科 5 年生も長岡技科大内の研究室を借用して卒業研究を再開
12月 7日
長岡地区進学説明会を実施(昨年度より倍近い参加者)
再度、進学説明会に参加した中学校への訪問を実施(12/10 まで)
12月12日
1 ∼ 4 年生の保護者会を実施(12/15 まで)
12月16日
1∼ 4年生に対し、
「平成17年1月以降の臨時学年暦」及び
「同年1月4日の授業再開式」を郵送
12月20日
全教職員長岡高専キャンパスヘ復帰
1 ∼ 4 年生の寮生保護者会を実施(12/13 まで)
長岡技科大内(総合研究棟 2 階)に「長岡高専連絡事務所」を設置
12月22日
専攻科 1 年生に対する進路指導ガイダンスを実施
12月23日
残り 1 地区の避難勧告が解除された
12月25日
学生寮への荷物搬入開始(12/27 まで)
12月26日
スマトラ島沖地震発生
12月27日
スマトラ島沖地震による留学生の安否確認
12月28日
和光寮を閉寮
平成17年1月 3日
和光寮を開寮
1月 4日
授業再開式を実施(その後、各クラスごとにホームルーム)
本科 5 年及び専攻科生については、長岡技科大にて授業開始
本校学生寮を開寮
126 ­新潟県中越地震体験記
おわりに
1964 年(昭和 39 年)6 月「新潟地震」が起こりました。この年7月には北陸水害があり、長岡の悠久山で開
催予定の新潟国体水泳競技が中止になりました。前年には今も長岡の最深積雪記録 318cm になっている「三八
豪雪」がありました。平成 16 年(2004 年)の「新潟県中越地震」前の7月に三条市、見附市の「7.13 水害」
があり、地震後の冬は近年では久しぶりの大雪となり、新潟県にとっては 1964 年と似た災害の年となってしま
いました。
「新潟県中越地震」についての学生諸君からのレポートは、このような印刷物にするなど考えず、書いてもら
いました。そのため名前はすべて仮名にしました。差し支えのある内容は削除あるいは少々修正させていただき
ました。参考のために、平成 16 年度の地震後の授業関係の臨時学年歴(※)を最後に載せました。
長岡高専の地震関係の記録としては「新潟県中越地震(16 年 10 月 23 日)被災記念写真集」
(平成 17 年3月)
と「震災を乗り越えて ? 教育研究の正常化・復興への歩み ?」(平成 19 年 5 月)があります。欲をいえば全学科
の学生、全教職員からの、このような体験記録を残せれば良かったのでしょう。多忙の中、玉稿をいただきまし
た校長先生はじめ教職員の皆様に厚く御礼申し上げます。脱線した新幹線内の記録はあまり知られていないので
はないでしょうか。
今回、寄せられた「新潟県中越地震」の体験を読ませていただいて、この一つの地震で実に様々なドラマがあっ
たことを、改めて気付かせてくれました。私自身、被災し辛い日々を送りましたが、江戸時代とまではいかずと
も昔だったら、もっともっと大変なことだったでしょう。社会の仕組みの進歩で、被災しなかった各地から、物
資が、人が応援に来てくれたからです。長岡市内ですら、東山地区から少し離れた所では、地震直後でも商店や
レストラン等、ほとんど普段と変わらない状況でしたから。
しかし、学生諸君の体験談にあるように、自然の強大さに謙虚にならなければならないこと、人と人とのきず
なの大切さ、そしてこの体験、教訓をこれからの人生に活かしていきたいという力強いメッセージは、なんと勇
気づけられることでしょう。
この小さな冊子「新潟県中越地震 体験記 長岡高専」が、現在を生きる私達そして未来の人達への、貴重な
生々しい一つの記録として、教訓として、伝えられていくことを願っています。
平成 22 年(2010 年)2 月
長岡工業高等専門学校 環境都市工学科 佐 藤 和 秀 ※臨時学年歴(平成 16 年度 後期)
10 月
4 日(月)
後期授業開始
25 日(月)
後期授業中断(地震被害による緊急措置で実施)
6 日(月)
授業再開(5 学年、専攻科)(12,1,2 月の祝日には授業を行う)
28 日(火)∼ 1 月 3 日(月)
冬期休業
4 日(火)
授業再開(1∼ 4 学年)
(1,2 月の土曜と祝日に授業を行う)
31 日(月)∼ 2 月 4 日(金)
中間試験期間(1 ∼ 3 学年)
授業(5 学年、専攻科)
7 日(月)∼ 12 日(土)
学年試験
20 日(日)∼ 31 日(木)
学年末休業
29 日(火)
第 39 回卒業式、第 4 回専攻科終了式
11 月
12 月
1月
2月
3月
新潟県中越地震体験記­ 127
新潟県中越地震体験記 長岡高専
発 行 日 平成 22 年 2 月
発行編集責任者 独立行政法人国立高等専門学校機構 長岡工業高等専門学校
環境都市工学科 佐 藤 和 秀
〒 940-8532 新潟県長岡市西片貝町 888 番地
Tel 0258-32-6435(代表)
Fax 0258-34-9700
http://www.nagaoka-ct.ac.jp/
写真提供 独立行政法人国立高等専門学校機構 長岡工業高等専門学校
印 刷 あかつき印刷株式会社
〒 940-2127 新潟県長岡市新産 4 丁目 4 番地 7
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Fax 0258-46-9394