神・人・世界・歴史 ――創世記 1‐4章から―― はしがき 本稿は、2006

神・人・世界・歴史
――創世記 1‐4章から――
水草修治(日本同盟基督教団小海キリスト教会牧師)
はしがき
本稿は、2006年6月に、改革長老教会の神戸神学館で行なった集中講義のノー
トに若干加筆修正したものです。以前東京基督神学校で行なった集中講義を整理した
ものをお話しました。聖書全体がコンデンスされた創世記1−4章を視点として、世
界観としてのキリスト教を少しでも明らかにできればと願いました。
大学浪人だった晩夏の一日、生きる目的をさがしあぐねていた筆者は、改革長老教
会東須磨教会の故増永俊雄牧師から、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、神
の栄光をあらわすことにある」と教えられました。さらに、先生は、その後、進学の
ため茨城県に転じた筆者を、懇切な手紙によって神学的にご指導くださいました。そ
の数十通にも及ぶ手紙は筆者の宝物です。増永俊雄先生は、カルヴィニズムに立つ神
学者であり、情熱に満ちて明快に福音を説くすぐれた説教者でいらっしゃいました。
今回の講義は、増永俊雄先生へのご恩返しという思いで奉仕させていただいたもの
です。本稿は講義ノートであって書物ではないために、文章として整っておらず、そ
の点、読者には読みづらいところも多々あろうかとも思いますが、何か役に立つ方も
いらっしゃるのではないかと思い、野町真理先生の場をお借りして公開することにい
たしました。
2007 年 11 月
筆者
目次
序
本講の意図
1.神――自存性・三位一体・創造主
(1)自存者・創造主
a.自存者・創造主
b.他の神観との比較・・・汎神論、多神論、理神論、有神論
(2)神の人格性
a.神の行為を表現することば
b.擬人論的神? むしろ、擬神的人間。
c.人格神
(3)聖三位一体・・・
「われわれ」である唯一の神
啓示の漸進性
a.1と3
①「われわれ」
②エハドとヤヒード
1
③新約聖書の啓示
Mt28:19
b.愛の構造と三位一体・・・アウグスティヌスとサン・ヴィクトールのリチャード
2.多様にして統一的な被造世界
(1)自然主義(汎神論)と聖書の自然観と人間
a.自然の有限性(Gen1:1 と Rev20:11)
b.人間の特異性(Gen1:26-28 と Rev20:12)
(2)多様にして統一的な世界
a.見事なシステムとしての世界
b.多様性「おのおのその種類にしたがって」
(3)時と歴史について⇒「5」を参照
(4)聖書解釈と人生の解釈の三要素
3.人―――玉座から落ちた王
(1)神との関係――善悪の知識の木
a.神のかたち
b.労働と環境保全
c.善悪の知識の木
ア.神の権威の代表――その名の意味
イ.神が禁じたというそれだけの理由で
(2)神に対する反逆
a.へび――サタンと聖書解釈原理
b.
「神を見ること」と「御顔を避けること」
c.サタンの奴隷、被造物の奴隷
d.聖書的な神観・人間観と異教のそれの本質的相違
e.善悪の知識の木から食べる・・・自律理性
「善悪を知るようになる」=「神のようになる」
(3)自己の内面における反逆――アウグスティヌス『神の国』14参照
a.裸の恥の意識
b.自律主義の自己矛盾
(4)人間関係における反逆と強制秩序
「神のかたちに創造し、男と女とに彼らを創造された。」
a.夫婦関係への呪い
愛と服従の秩序⇒⇒強制と隷従の秩序
b.被造世界における秩序の混乱と一般恩恵としての強制秩序
ローマ13章
上に立つ権威による強制秩序
被造物の反逆と強制秩序
(5)地の反逆――「文化命令」と堕落後の問題
a.地に仕える・・・・・Gn1-2
ア.人――偉大にして卑小な存在
2
イ.人の任務「地を耕し、守る」
b.地の反逆と文明による地の収奪・・・Gn3−4
ア.人と土地は敵対関係に陥る Gn3:18
イ.カイン族の都市文明・・・土地と人の相互疎外 Gn10-12、17
ウ.希望:全被造物贖いのビジョン Rom8:19
4.原福音と三つの神学体系
(1)
「へびの頭を踏み砕く女の子孫」(Gn3:15)
(2)
「いちじくの葉」と「皮の衣」
a.神が手ずから(Gn3:21)
b.血が流されて(Heb.9:22)
(3)原罪―神学体系のアルキメデス点
5.聖書的歴史観の概要
(1) 始まりと終わりがある歴史
a.ギリシャ的(異教的)歴史観、退歩史観、進歩史観
b.聖書の歴史観(創世記1:1と黙示録 22:12,13)
(2)繰り返しつつ前進し完成に至る
創世記 1:14
レビ記 24-25 章
(3) 神の国と地の国
a.創世記 3:15;4:16-26
b.地の国の権力者とサタン(ルカ 4:5-8、黙示録 13:2)
(4)終わりの時・時の中心
序
本講の意図
信州の標高 1,000 メートルほどの山間地の町や村で開拓伝道を始め、今年で 13 年目になります。
田舎で伝道を始めたとき、意外なことに気がつきました。田舎の伝道の方が、神学が必要である
ということです。しかも世界観的な意味での神学が。というのは、田舎では地域全体が視野に入
るからです。教育も家庭も政治も経済も環境問題もみんな身近にあるのです。人数が少ないだけ
に、ほとんどの人が自分の町や村をこれからどうしていこうかという意識を持っているのです。
また、人口が少ないので一人の発言の意味が大きいのです。
都会では、ほとんどの人は自分と自分の家族のことしか考える必要がないように思います。教
会も、ただ狭義の伝道だけ考えていれば一応ことはすみますし、それ以外のことを発言しても、
市長や議員にでもならなければ誰も聞いてもくれません。けれども、田舎では視点を高くもち視
野を広くもってものを言うことが、実際に求められています。また過疎の農村は危機的状況にあ
り、日本の問題性がそこに見えやすいかたちで存在しています。都市への人口集中と農村の疲弊、
国の農政の誤り、急速な高齢化と少子化、日本の伝統的因習と家の問題、環境破壊など。
3
そういうわけで、田舎に伝道を始めて、世界観的な神学が、福音宣教の現場で必要であり役に
立つという観を抱くようになりました。学者はスペシャリストであることが求められるのでしょ
うが、牧師はジェネラリストでなければならないと思います。とはいえ、薄っぺらなジェネラリ
スト、単なる雑学家では困るわけで、聖書からの一貫した視点でもって、もろもろの事態の本質
を見ぬく知恵が必要であると思います。そして、おそらく都会であっても、ほんとうはそうなの
だろうと思います。私などよりもっと大きな器であれば、都会に生きて、かつ広く高い視野に立
った神学が生きてくるのでしょう。
そういうわけで、聖書に基づいて世界を見る目を養うという大それたことをこの講義はもくろ
んでいるわけです。
私はあれこれ最新の学説研究をするといった学問的手続きをする、お金も時間も能力もない者
ですから、不十分を感じられる方たちはそれぞれご自分で補ってください。また、私は進化論者
ではありませんから、最新の学説が最良の学説であるとは信じていませんので、
「最新の学説」に
は余り関心がないのです。聖書を神のことばと信じる私にとっては、聖書的な学説こそ古かろう
と新しかろうと最良の学説と信じているのです。
では、世界観の基本構造を聖書、特に創世記の最初の四章から学んでまいりましょう。
「だから天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一
家の主人のようなものです。」マタイ13章52節
1.神―――自存性・三位一体・創造主
(1)自存者・創造者
a.自存者・創造主・摂理の主
「初めに、神が天と地を創造した。」創世記1:1
この一節が教えていることは、神以外の一切のものつまり被造物は、自存的ではないというこ
とである。たとえば、私という人間は、家族、食べ物、水、空気などの環境、そしてこれらを備
えてくださった神に依存して存在している。被造物は、結局創造主に依存しているわけである。
なにしろ創造主が「ありなさい」と命じていらっしゃるかぎりにおいて、
「ある」のが被造物であ
るから。
創世記1:1と対応する個所が、黙示録 20:11 である。神が意志されれば被造物は無に戻る。
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃
げ去って、あとかたもなくなった。
」黙示録 20:11
しかし、創造主である神は他の何者にも依存しないで自ら「ある」
。世界が存在する前から存在
なさる絶対者なのである。主イエスも次のように祈られた。
「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっし
ょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」ヨハネ 17:5
神は絶対者であり、唯一である。
「わたしは『わたしはある』という者である」とモーセに自己
紹介なさった神は、自存的なお方である(出エジプト3:14)
。自存性というのは、他の何者に
もよらず自分で存在するということである。
4
b.他の神観との区別
ここで他の宗教や思想における神観との区別を簡単にしておきたい。
①汎神論
pantheism
汎神論は「すべては神である」という立場である。したがって、神はひとつということにな
る。神の存在は万物の存在と同時的なのである。万物は神の現われである。自然なしに神は存在
しない。大乗仏教、ネオプラトニズム、スピノザ、ドイツ観念論はその例である。日本でいえば、
たとえば「夏草やつわものどもが夢の跡」と芭蕉が詠むとき、人間の営みは限りがあっても「夏草」
に象徴される自然は悠久であるという意識がある。つまり、自然を永遠と見ているのである。日
本人の世界観には汎神論的気分がそこにある。
②多神論 polytheism
神話における神々である。神々は有限であり、多数いて相争ったりするのであるから、相対
的な存在である。典型的には古代オリエント神話、ギリシャ神話、北欧神話、古事記など。汎神
論は、こうした神々をも包摂するものである。
③理神論 deism
時計と時計工の関係に譬えられる。彼らは、被造物というものは、創造にあたっては神に依
存したが、その存続にあたっては自存的であると考える。代表的にはチャーベリーのハーバート
が理神論者とされる。またフランス革命期の啓蒙主義思想家たち、たとえばヴォルテールなどは
ほとんど理神論者であった。
ただし deism という用語自体は、今日では理神論という意味で定着しているが、少し古い米国
独立戦争期のジェファソンやフランクリンの書いた文書では、有神論 theism と同義で用いられて
いることもあるので注意されたい。
④有神論 theism
聖書的な神観を意味する。創造主は万物を「無から ex nihilo」創造し、かつ、これを保持
なさる摂理の主でもある。ご自身が創造なさった被造物世界を摂理しておられる。神は超越者で
あることを基調としつつ、摂理において被造物に対して内在的に働かれる。
(2)神の人格性について
創世記 1 章の創造の記事に出てくる、神の行為を表現することばを注意深く観察して見てみよ
う。
「創造する arb」
(1)
「仰せられる rma」(3)「見られる har」(4)
「区別する ldb」
(4)「名
づける arq」(5)
「造る hc¥[](7)
これらの行為から、神がどのようなお方であるということがわかるだろうか。いわば神は人間
のように、創造し、語り、見、区別し、名づけ、造るお方なのだということを私たちは知る。神
は人間のようなお方なのである。
ここで問題になるのは、アンスロポモロフィズムであろう。神を擬人化しているという問題で
ある。一般にアンスロポモロフィズムというのは、ギリシャ神話や古事記などにおいてゼウスだ
のアポロンだの、アマテラスなどスサノウだのが、人間と同じような存在として描かれているこ
とをさす。つまり、神々を人間の延長線上にあるものとして描いているというわけである。人間
が本体であり、神々はその延長線上の想像して表現されたのだというわけである。
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しかし、後に見るように、聖書は逆のことを語っている。人間が神のかたちに造られたのであ
る。人間が、擬神的存在なのである。したがって、神こそ本来の意味で創造し、仰せになり、見、
区別し、名づけ、造るという行為をなさるお方であるということができる。
「耳を植え付けられた
方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ごらんにならないだろうか。」(詩篇94:
9)私たちは不十分な意味で、創造し、語り、区別し名づけ、造るにすぎないが、神は本来の意味
でそうなさるのである。
また、そうであるからこそ、神はご自分の行為を擬人的な表現をもってあらわしてくださり、
我々もそれを理解することができるのである。創世記 1 章にかぎらず、新約聖書において主イエ
スのたとえ話を見れば、ルカ伝の放蕩息子の父親や、ぶどう園の主人などに、神をたとえていら
っしゃる。
ところで、
「創造し、語り、見、区別し、名づけ、造る」存在者とはどういう存在者であろうか。
それは、知性と感情と意志をそなえた人格的存在である。聖書においてご自分を啓示なさる神は
人格神なのである。
神が人格的存在であることについて。A.E.MacGrath「キリスト教神学入門」P366 以下に述べてい
ることを参照しながら説明したい。
人格とはなにか?テルトリアヌスによれば、人格とは語り、行為する存在である。もともと人
格ペルソナとは演劇における仮面を意味した。ボエティウスは「人格とは理性的本性を備えた個人
の実体である」という。
そしてマクグラスは「人格というのは、社会という劇において役を演じる者のこと、他者とか
かわりをもつもののことなのである。
」「人格神という観念によって表現されている根本的な思想
は、我々がかかわりを持ちうる神であるということ、そして、そのかかわりが人格を持つ他の人
間とかかわりと類比的であるということなのである。」
人格神ではない、
「哲学者の神」たとえばアリストテレスの神、スピノザの神は人とかかわり被
造物を愛することなどはありえないとされた。神とはアリストテレスにとっては自らは動かず他
者を動かす者であったが、神以外のものを愛しかかわると、自らのうちに変化が生じるからであ
る。ギリシャ哲学においては、
「神とは変化しないもの」であり、
「神とは苦しまない者」である
という観念があり、古代や中世の神学者たちは、その枠を聖書の啓示にあてはめてしまったよう
であり、その営みには相当無理があったと思われる。聖書にご自身を啓示された神は、放蕩息子
がとぼとぼと帰ってくると、矢も盾もたまらず駆け寄って接吻してやまない父にご自身を譬える
ようなお方であるからである。
(3)聖三位一体
しかも、この唯一の神のうちには、父と子と聖霊という三位格の間の愛の交流がある。神のう
ちに多様性とまったき統一性があり、愛の交流がある。
a.1と3
聖書の啓示は、旧約時代から漸進的に progressive にベールを外されて来たが、新約聖書にい
たって最も明白にこの真理は明かにされる。しかし、旧約聖書でもすでに神には複数の位格があ
6
ることが暗示されていた。
①「われわれ」
神のうちには複数の人格があるので、神は唯一のお方であられながら、時々、ご自分を指して
「われわれ」とおっしゃるようである。
「尊厳の複数」という見かたをする人々もあるが)
「そして神は、
『われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。
・・・・』
」
(創世記1:
26)
「私は、
『だれが、われわれのために行くだろう。
』と言っておられる主の声を聞いたので、言っ
た。
・・・」
(イザヤ6:8)
②エハドとヤヒード
参考>Theological Wordbook of OT, Moody press,
Herbert Wolf
旧約聖書がかかれたヘブライ語には「1」を意味することばが、二通りあります。ひとつは「エ
ハド
」であり、もうひとつは「ヤヒード
」。
「ヤヒード」は、単純に「一つ」
「ただ一つ」という意味。たとえば創世記22:2「あなたの
ひとり子イサク」と用いられたり、詩篇35:17「私のただ一つのものを若い獅子から奪い返
してください。
」と一つしかない「命」の意味で用いられる(他に詩篇22:20、アモス8:1
0)
。
他方、
「エハド」は、
「一つのうちにおける多様性」を暗示する「1」を意味するときに用いら
れる言葉である。例えば、出エジプト26:6「・・・幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋に
する。
」同26:11「天幕をつなぎ合わせて一つとする。
」、創世記2:24「ふたりは一体とな
るのである。
」同34:16「・・・私たちはあなたがたとともに住み、私たちは一つの民となり
ましょう。
」、エゼキエル37:17「その両方をつなぎ、一本の杖とし、あなたの手の中でこれ
を一つとせよ。
」などはそうした用例である。
では、「聞け。イスラエル。」と始まる申命記6:3のみことば「主はただひとりである」の場
合にはどちらが用いられているか。実は、
「エハド」が用いられている。
「主はただひとりである。
」
という神の唯一性の宣言文には、そのうちに多様性が暗示される唯一性を示すエハドが用いられ
ているのは意外な感じがするだろう。ここに、聖書を通して語られる唯一の神のうちには複数の
人格があるという神秘が暗示されている。
また主に遣わされた御使いが神とされているところがある。創世記18:1から
21でアブ
ラハムのところに現われた御使三人のうち一人は主御自身であるとされる。これは新約における
啓示から推して、受肉以前の神の御子であると考えられている。なぜなら、御子は特に人への啓
示をその務めとされるから。
また、神の御霊が人格であることが明白に啓示されたところがある。
「神である主は私を、その
御霊とともに遣わされた。
」
(イザヤ48:16)
「しかし、彼らは逆ら い、主の聖なる御霊を痛
ませたので・・・」(同63:10)
このように啓示されているが、旧約時代において強調されているのは、やはり神の唯一性のほ
うである。まことの神から遠ざかってしまった人間は、すぐに多神論に陥ってしまうので、まず
神は唯一であるということを徹底的に教える必要があるからであろう。
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③新約聖書
新約聖書にいたって、神のうちに三つの位格があることが明白に啓示される。御子の受肉と聖
霊の注ぎが記述されているからである。イエスのバプテスマと関連して(ルカ3:21,22)
。
ここで、御子がバプテスマを受けたとき、天の父から声がして、御霊が注がれた。
主イエスがバプテスマについてお命じになったことばの中に三位一体があきらかにされている。
「父と子と聖霊の御名」
(マタイ28:19)というとき、
「御名」にあたる名詞 onoma は単数
形が用いられているが、これは三位一体の神秘を示している。また、御子イエスは世界の存在す
る前からの御父との愛の交流について、御父に向かって次のように祈っていらっしゃる。「今は、
父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょに持って
いましたあの栄光でわたしを輝かせてください。」
(ヨハネ17:5)
「あなたがわたしを世の始ま
る前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためで
す。
」
(ヨハネ17:24)
ほかに2コリント13:13,1コリント12:4−6、1ペテロ1:2などを見ていただき
たい。父子聖霊の三位が共に表わされている。
聖書はこのように神が唯一であること、御父、御子、御霊がそれぞれ神であることを啓示して
いる。御子の神性についての証言は、ヨハネ1:1「初めに、ことばがあった。ことばは神とと
もにあった。ことばは神であった。
」 エホバの証人は「ことばは神であった」の「神」ということ
ばには、定冠詞がないということを理由に、
「神のような者」だといい、それゆえ「ことばは人と
なって私たちの間に住まわれた」イエスは、神ではなく神のような者にすぎないのだと教えてい
る。
しかし、ギリシャ語において定冠詞の有無は英語のそれとは意味が違う。例えば、明かに父な
る神を表わす十八節の神は定冠詞がない。18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところ
におられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」また同じヨハネ福音書20章28
節「私の主。私の神。
」トマスがイエスに向かって「私の主、私の神」と告白する時には、この神
には定冠詞がついている。この場合「私の」が限定しているので定冠詞が付くのは当たり前である
が。
実際には、ヨハネ一章一節の「ことばは神であった」は定冠詞を除いて倒置法とすることによ
る強調語法なのである。だから、ここは丁寧には「ことばはまさしく神であった」とでも訳すべ
きところなのである。よってイエス・キリストはまさしく神なのだとヨハネ福音書は冒頭から宣
言して始まり、結び近くにおいて疑い深いトマスがイエスに向かって「私の主、私の神」と告白
しているという構造をなしているわけである。ヨハネ福音書はイエスの神性を高らかに告白して
いると読まなければ、聖書読みの聖書知らずとのそしりをまぬかれまい。
御子が神であるという証言は、ほかに「しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私
たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御
子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」
(1ヨ
ハネ5:20)などがある。
では聖霊についてはどうか。しばしば、聖霊は油や風や火にたとえられるので、力・影響力と見
られて人格的存在であることを見落とされがちなのだが、これは誤りである。聖霊は人格であら
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れる。詳しくは、聖霊についてのところで学ぶが、たとえば・・・
「そこで、ペテロがこう言った。
「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺
いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、
売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あな
たは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。
」使徒5:3,4。
欺くというのは、モノを相手にはありえないことであり、人格に対してのみありうることであ
る。風のような人といえば、飄々とした人物をイメージするだろう。火のような人といえば情熱
的な人物を思い浮かべよう。聖霊が油、風、火、水などにたとえられるのは聖霊のご性格を表現
しているのであって、聖霊に人格がないということではない。人格が風のようであることは可能
だが、風が人格であることはできない。
b.愛の構造と三位一体
アウグスティヌスは、
『三位一体論』において神の三位一体を説明して、「愛する者、愛される
者、愛」の三位一体を説明した。真実の愛は、必ず対象を他に求める。ゆえに自己愛は真実の愛
ではない。しかも、神は自存的な方であるということは、被造物を対象とせずとも己の内に、し
かも他者として愛の対象を持つということである。ということは、神は被造物から超越した唯一
の方でありながら、その内に他者を持たれるということを意味する。主イエスのいわゆる大祭司
の祈りを見ると御子と御父の人格的な愛の交流のありさまがうかがえる。
「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょ
におらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さっ
たわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」
(ヨハネ17:24)
中世期にサン・ビクトールのリチャード(リカルドゥス)は御子が御父から永遠に生まれたこ
とについて次のように言っている。
「最高善、全く完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全なかたちで存在し
ている。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けているこ
とはありえない。なぜなら、愛以上に優れたものはないからである。しかるに、自己愛を持って
いる者は、厳密な意味では、愛(caritas)を持っているとは言えない。したがって、『愛情が愛
(caritas) になるためには、他者へ向かっていなければならない』。それで位格(persona)が二
つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。
」(de Trinitate,LiberIII−11,
caput2,P.ネメシェギ訳)
さらに聖霊の発出について次のように言う。
「もしだれかが自分の主要な喜びに他の者もあずかることを喜ばなければ、その人の愛はまだ
完全ではない。したがって[ふたりの]愛に第三者が参与することを許さないならば、その人の
愛はまだ完全ではない。反対に、参与することを許すのは偉大な完全性のしるしである。もしも
それを許すことが優れたことであれば、それを喜んで受け入れることは一層優れたことである、
最もすぐれたことは、その参与者を望んで求めることである。最初に述べたことは偉大なことで
ある。第二に述べたことは一層偉大なことである。第三に述べたことは最も偉大なことである。
したがって最高のかたに最も偉大なことを帰そう。最善のかたに最もよいことを帰そう。
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故に、前の考察で明かにしたあの相互に愛し合う者[すなわち、父と子]の完全性が、充満す
る完全性であるために、相互の愛に参与する者が必要である。このことは、以上と同じ論拠から
明かである。事実、完全な善良さが要求することを望まなければ、神の充満する善良さはどこへ
行ってしまうであろうか。また、たとえそれを望んでも実現することができなければ、充満する
神の全能はどこへ行ってしまうであろうか 。」(ibid.caput11)
リチャードがあたかも論理必然的に、まことの神は三位一体であらねばならないという話し方
をしていることは問題がある。人間はその論理によって、三位一体を知ることはできないからで
ある。が、彼は実際には三位一体を啓示された者として、これを「神は愛である」という御言葉
をきっかけとして述べているのであって、これは傾聴に値することであろう。
推薦図書>P.ネメシェギ『父と子と聖霊』南窓社
2.多様にして統一的な被造世界と人間
(1)自然主義(汎神論)と聖書の自然観・人間観
a.自然の被造性・有限性
創世記第一章におけるたいせつなメッセージの一つは、自然界つまり光、天と地、海、植物、
天体、鳥、海の生き物、陸の生き物—昆虫から大きな動物、そして人間までのいっさいが、神の被
造物であって神々ではないというメッセージである。というのは、当時のオリエント世界におい
ては、これらはみな神々として崇められていたからである。エジプトではファラオは太陽神の息
子とされていたし、ナイル川も神とされ、蛙も神々とされ、糞転がしというコガネムシも智慧の
神とされていた。つまり、多神教である。これに対して NO を突きつけたのである。
創世記一章の記述は私たちを多神教の迷信から解放する力を持っている。
「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え
かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と棲家と、またかくのごとし。
」と
いう長明の慨嘆においては、うたかたにも似てはかない人と家とが、川の流れに象徴される悠久
の自然が対照されている。神すなわちまことの永遠を見失った人は、しばしば自然のなかに永遠
を見てきた。自然崇拝である。
詩人だけでなく科学者たちもビッグバン理論が定説化する前は、恒常宇宙論という立場で、宇
宙は永遠であると信じ、神に背を向ける理由とした。永遠なる神を信じないかわりに、永遠なる
宇宙を信じたのである。科学的合理主義が限界につきあたった今日では、ニューエイジ思想とい
う名で汎神論(自然宗教)が息を吹き返してきている。スコットランドの学者ジェイムズ・ラブロ
ックが提唱する「ガイア仮説」もまた汎神論的な地球観・自然観である。
汎神論者にとって、神と人と自然は一つである。あるいは神とは自然であり、人は自然の一つ
の現われに過ぎない。自然である神は悠久の大海であり、人はそこに現われては消える波にすぎ
ない。
しかし、聖書はそうは言っていない。永遠者は神のみである。この無限の三位一体の人格神が、
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ご自分の計画にしたがって無から天地を創造されたので、天地は無限でもなければ永遠でもない。
天地は神が許すかぎりにおいて存在するものなのであり、神がその存在を意志されなければたち
どころに消滅する。実際、最後の審判のとき、新天新地の創造に先立って、古い天地は消え失せ
る。
「大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、
あとかたもなくなった。
」(黙示録20:11)
b.人間の姿
創世記 1:27-28
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼
らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。
「生めよ。ふえよ。
地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。
」
これと対応するのが、 黙示録20:11,12
「また私は、死んだ人々が、大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。」
地と天が御前から逃げ去って、跡形もなくなった、その時、そこには何が残るのか。大きな白
い御座、裁き主永遠なる神がいますのは当然である。驚くべきことは、その御座の前に人間が立
っているという事実である。人は決して永遠者ではないが、永遠者である神の前に責任ある存在
として復活せしめられて、そこに立つのである。
「神のかたち」として造られたがゆえに、人は、天地が滅びうせてのち、審判者である神の前
になお存在せしめられるのである。これは、自然宗教における人間観となんという大きな隔たり
だろうか。
(2)多様にして統一的な世界
「おのおのその種類にしたがって」
a.システムとしての世界
また、三位一体の神は、この天地は多様にして統一的な秩序ある世界として造られたことが、
創世記第一章の天地創造のみごとな記述のうちに表現されている。世界は一つのシステムなので
ある。
物質界・植物界・動物界は一つのシステムを成していて、どれを欠いても成り立たない。創造の
七日間の「日(ヨーム)
」を地質学的な非常な長期間と理解すべきであるという説もあるが、もし
事実そうだとすると、植物が造られたのが三日目であり、動物が造られたのが五日目、六日目で
あるから、植物だけで何百万年も存在していたということになる。しかし、それではシステムと
しての世界が成り立たない。たしかに動物は植物がなければ食べ物がなくてすぐに死に絶えてし
まうが、他方、ほとんどの植物は昆虫に受粉を助けてもらってこそ、次の世代を残すことができ
るし、また、かりに受粉を必要としない植物であっても、植物である以上光合成をしなければな
らず、その二酸化炭素は動物から供給されているからである。しばしば温室の中で石油ストーブ
を焚くのは、保温のためだけではなく、二酸化炭素を補うためでもある。このように、動物が植
物に依存しているだけでなく、植物も動物に依存しているのである。
また、養分のことを考えても、鳥をはじめとする動物たちが自然界における養分の循環に寄与
していることが知られている。養分は物理的には、上から下にのみ向かって移動する。川の流れ
は森林の根っこにある窒素・燐酸・カリを河口部に運び、そこに昆布などが育ち、魚たちの住みか
11
となる。養分はこのように山から川、川から海へ、つまり上から下へと流れる。このように物理
的な力だけであれば、山の養分は失われる一方である。しかし、実際には鳥を始めとする動物た
ちが栄養分を下から上へと運ぶのである。鳥は魚を食べ、山の巣へもどっては糞をする。サケは
産卵のために川をさかのぼり、そこに産卵した後は、氷漬けになって春には動物たちのえさにな
り、動物たちは森林をかけめぐって糞をしてまわり、それが森林の養分となる。カナダ、シベリ
ヤ、北海道の森林地帯が維持されているのは、サケたちによるとされる。
植物の光合成のためには太陽エネルギーが必要である。太陽エネルギーがなければ地上の温度
を、動植物のいきられる適温に保つことはできない。しかし、単に太陽エネルギーがあるだけで
は、地球の温度が適温に保たれるわけでもない。地球は自転しているからこそ、灼熱の砂漠と寒
冷地獄の星にはならない。さらに、地球は傾いているので適温面積が広いのである。さらに、地
球には、大気の循環システムがあって、雲によって水が簡単に内陸部まで輸送されるようにされ
ていてこそ地球の温度は適温に保たれ、動植物はまた相互にささえあって生命を維持している。
もし大気の循環システムがなければ、内陸部は砂漠となってしまう。
太陽の運行、地球の自転、大気の循環、植物と動物の相互扶助・・・まだまだ知られていない
ことはたくさんあるが、とにかく地球環境は調べれば調べるほど知恵に満ちたシステムである。
推薦図書>槌田敦『エコロジー神話の功罪』ほたる出版
b.多様性
多様性については、たとえば、生物についていえば植物も動物も「おのおのその種類にしたが
って」造られたとあるように(創世記1:11、12、21、24)
、自然界は実に豊かな多様性
に満ちた世界である。春の野山を散策してみれば、神はどうしてこんなに多種多様な植物をお造
りになったのだろうと驚かされる。しかも、この多種多様な自然界がひとつの調和した全体とし
てあることは、さらに驚くべきことである。
聖書の自然観は、
「種の起源」を一つの原始的単細胞生物とする進化論的な自然観とは、本質的
に異なった自然観である。
キリスト者のうちには、特にインテリを自任するキリスト者のうちには有神論的進化論を唱え
る人々も多くいるが、筆者は進化論は根拠を持たない仮説であると考えている。ここで詳しくは
論じる暇はないが、進化論は確率論からも、天文学(コメットの年齢、隕石の堆積)からも、古
生物学(化石における中間種の欠如)からも、遺伝学(平均回帰の法則・種と種の壁)からも、疑問
が多い。進化論は、生物は非常な大昔(十億年前と無根拠に言われる)にきわめて単純な姿で一つ
出現し、非常に長い時間をかけて多種多様な姿をなすにいたったという仮説である。しかし、自
然界に残されている実際の証拠は、生物は過去のある比較的最近のある時点に、突然、多種多様
な複雑な姿で、地球上に出現したことを告げている。まさに生物は「種類にしたがって」出現した
のである。
御霊と主と父なる三位一体の神の作品が、豊かな多様性をもちつつ、しかも一つであるという
ことは、
「キリストのからだ」と呼ばれる教会の姿を思い浮かべても容易に理解できよう。足には
足、手には手、耳には耳、目には目の役割があり、しかも、調和して互いに生かし合っているの
である。
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
(1コリン
12
ト12:27)神の作品のうちには、聖三位一体の多様性と統一性が影を落としているといえる
のではないか。
神学において、こうした議論をすることをアナロギア(類比)の論と呼ぶ。トマス・アクィナス
は、これを analogia entis すなわち存在の類比と呼んだ。スコラ哲学者が有限なものから無限な
ものへとアナロギアによって推論を展開したことには行き過ぎがあった。ウィリアム・オブ・オ
ッカムは、知られている有限から知られない無限を類比によって推論することの誤りを指摘した。
もちろん神は創造者であり、被造物は創造主にその存在を依存しているのだから、両者のありか
たの質的違いを見落としてはならない。しかし、聖書的に見て、両者の無限者と有限者、自存者
と依存者、絶対者と相対者という質的違いをわきまえつつ、そこにアナロギアがあることはみと
めて良いのではないだろうか。たとえば、神は人をご自身のかたちに創造された。ゆえに、神と
人との間にはなんらかの意味での類比が存在している。だからこそ、そこに祈りにおける人格的
な交流がありえる。また、神の三位一体と、神の作品である教会の多様性と一性とにはこのよう
になんらかの類比があると聖書は暗示している。1 コリント12:4−6という教会における一致と
賜物の多様性を語ろうとする始まりの部分において、
「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類があ
りますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働き
にはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
」と
いうふうに「御霊・主・神」の三位が組になって啓示され、その後に教会の多様性と一性が啓示
されていく。エペソ4:4−6でも「御霊、主、父なる神」という三位一体との関連で、教会の一
致が啓示され、教会の賜物と務めの多様性が語られる。
パスカルも『キリスト教弁証論』の草稿集『パンセ』
(ラフュマ版第一部)の結論の直前部分「キ
リスト教的道徳」のつづりの中に次のように言っている。
「神につけば一つの霊となる。われわれ
はイエス・キリストの肢体であるがゆえに、自己を愛する。われわれは、イエス・キリストが全体
であり、われわれがその肢体であるがゆえに、イエス・キリストを愛する。三位一体のように、全
体は一つであり、一は他のうちにある。
」L372、B483
さらに発展させて考えてみれば、
「多様性と統一性の両立している存在のみが、豊かな意味深い
存在である。」それはあらゆる存在においてそうなのである。たとえば一幅の絵画であっても、一
編の詩であっても、料理であっても、そこに多様性と統一性があってこそすばらしい作品という
ことができる。
芭蕉の芸術理念に「不易流行」ということばがある。不易とは「変らない」ということである。
以前、フエキ糊というのがあったが、あれは、それまでの米で作った糊がかびが出たのに対して、
防腐剤を入れて変質しないように改良した糊ということである。つまり不易とは時代を超えて変
らない普遍的なもの、すなわち伝統ということ、すなわち「一」の原理である。他方、
「流行」と
いうのは時代に応じて変ること、すなわち「多」の原理である。芭蕉は伝統と流行とが切り結ん
だところにこそ、よい俳句ができると考えたのである。
存在は多様性のみで、部分同士が相互の関連を失えば、ばらばらになって無意味になってしまう。
他方、統一性だけでは、個が全体に埋没して無意味なものになってしまう。社会の形態に当ては
めてみれば、個人がすべてであるという個人主義は社会を破壊してしまうし、逆に全体主義も人
間の個性を奪って均質化され社会の豊かさを破壊してしまう。
この世界の多様性と統一性の見事な調和は、創造主の見事な腕というほかない。まことに世界
13
は三位一体の神の影が落とされている作品である。
(3)時と歴史について
たいへん重要な項目であるが、これは堕落後の問題を含むので、ヒントだけ言って、詳細は後
に扱う。世界には創造による始まりがあり、審判による最後がある。始まりと終わりのある時間
がある。したがって、「今」は常に特別な点である。今という時は一回限りであり、二度と来ない
のである。
同時に、時は、暦、季節、日、年のために設定された天体によって(創世記1:14)、繰り返
しつつ前に進む。ここで創造主が空間と時間とを関係づけておられるのは、興味深いことである。
レビ記 24‐25 章には循環的な時がある。時は、循環しつつ前進する、つまり螺旋的な進み形を
するのである。一本の線としての時でありながら、それが繰り返されるという構造は、時におけ
る多と一の構造なのであろう。しかも、その時の循環は地球の自転と公転という空間運動との関
連によっている。
(4)被造世界の認識における統一性と多様性
オランダの法哲学者ヘルマン・ドーイウェルトは、
『理論理性の新批判』において、カントの認
識論の批判をし、新たな認識論を打ち立てた。まだその価値は十分に理解され味わわれたとは言
いがたいのではなかろうか。ドーイウェールトによれば、われわれの意味ある認識は宇宙的時間
によって15の様態的側面 modal aspects に分節されていくことによって、成り立っている。被
造世界は15の意味・価値の側面があるのであり、それぞれの様態的側面はそれぞれ固有の核
modal kernel を有していて領域主権を有しており、互いに還元することはできない。デカルトや
カントの場合、分析論理的側面を絶対化(偶像化)してしまったのである。
15 信仰的側面
14 道徳的側面
13 法的側面
12 美的側面
11 経済的側面
10 社会的側面
9 言語的側面
8 歴史的側面
7 分析論理的側面
6 感覚的側面
5 生物的側面
4 物理化学的側面
3 延長的運動的側面
2 空間的側面
1 数的側面
たとえば「ここに1冊の聖書がある」という事態について考えて見よう。聖書は1冊であると
14
か、1900ページから成っているという数的側面がある。この 1 冊の聖書は日本のこの町のこ
の学校のこの教室のこの教卓の上という空間を占めているという空間的側面がある。この聖書は
つい 10 分前までここにはなかったが、聖書はあちらからこちらに運ばれたという延長運動的側面
がある。また、この聖書は化学的に分析すれば紙の成分、表紙のビニールの成分、インクの成分
がそれぞれ化学式で説明できるであろう。また、この紙は植物繊維のパルプから作られたという
生物的側面があり、この聖書を触ってつるりとした触感を感じ、臭ってみればインクとビニール
のにおいがし、見た感じは黒に金文字が視覚に入ってくるという具合に感覚的側面がある。聖書
の文章は分析論理的に把握される面があるが、それだけでは不充分で歴史的背景を知ることが必
要であり、また、言語的側面としてはこれがヘブル語とギリシャ語から現代日本語に翻訳されて
いるということもある。また聖書の内容には社会的背景がありまた、聖書が社会に及ぼしている
影響ということもある。この聖書は5000円であるという経済的側面があり、また、この聖書
のことばの表現の美的な側面、また聖書装丁のデザインの美的側面もある。またこの聖書の版権
を問題にすれば、聖書には法的な側面があることがわかる。また、聖書の内容には人がいかに生
きるか、社会正義はいかなることかという道徳的な教えの側面があり、そして聖書は神と人との
関係における信仰的側面がある。
このように1冊の聖書を取ってみても、そこには多様な側面――とりあえず15と考えられて
いるが――があるわけだ。しかし、人はえてしてそうした多様な側面の一部しか見ることが出来
ず、その一側面にすべての価値を還元できるかのように考える還元主義者は、思想的偶像崇拝に
陥っている。これがもろもろのイズムである。
「愛や正義という観念など大脳における電気のパル
スでしかない」として説明して得々としている愚かな分子生物学者は物理化学的側面の偶像崇拝
に陥っている。下部構造が上部構造を決定するといって一切の社会現象を経済的側面から説明し
て得々としているマルクス主義者は経済的側面の偶像化をしている。また人間の思考・感情をすべ
て性欲から説明できるというフロイト主義者は生物学的側面の偶像化をしており、聖書を解釈す
るのに法律的観点から説明し尽くせるかのごとき言いかたをする法律家の神学者は法的側面の偶
像崇拝者であり、イエスを単なる道徳的教師として理解しようとした「史的イエス」探求者は道
徳的側面の偶像崇拝者であり、イエスに注がれた高価なナルドの香油について「ああもったいな
い、これを売れば 300 デナリになったのに。」と換算した弟子は信仰的側面を経済的側面に還元し
た拝金主義に陥っていた者であった。講義の終わりの方でとりあげるデカルトは、分析論理的側
面のみを絶対化したために、歴史を見落としてしまったし、デカルト的思惟がフランス革命の悲
劇の一因となった。敬虔な信仰者が陥りがちなのは、狭義の信仰的側面の絶対化であろう。お金
があれば献金することだけが意味ある行為であって、食事をしたり、部屋の飾りつけをしたりす
ることは単なる無駄遣いであると考えるというようなことである。
道徳的側面と信仰的側面の質的違いについて深い考察をしたのは、キルケゴール『おそれとお
ののき』である。彼はここでアブラハムのイサク奉献を取り上げて、あの場面においてイサクを
殺すことは信仰的側面というものと道徳的側面との質的なちがいを際立たせている。
ともかく、神は多様にして統一的な豊かな世界を用意された。私たちは、これを享受すること
が許されている。
推薦図書>H.ドーイウェールト『西洋思想のたそがれ』法律文化社
J.M.スピアー『カルヴァン主義哲学』1967
15
(5)聖書解釈と人生の解釈――多様性・統一性・歴史性をわきまえる
神の造られた作品の理解において、多様性と統一性と歴史性は決して見落としてはならない三
要素である。聖書啓示の解釈ということを考えるときに、これはたいへん重要。
聖書啓示の構造自体が、多様性と統一性と歴史性によって成り立っているのであるから、それ
を見落としてはならない。神様は聖書を啓示なさるにあたって、多くの聖書記者たちの能力・性
格・環境など多様なものをお用いになった。しかも、聖書は 1 冊の統一性ある書物として啓示さ
れた。そして、啓示は無時間的な体系として与えられるのではなく、歴史の中に――実に 1600 年
ほどもかかってプログレッシヴに与えられるように摂理されたのである。
こうした聖書の統一性・多様性・歴史性をわきまえて聖書を解釈するときに、意義豊かな聖書解
釈が成り立つ。
正統主義神学の傾向として、聖書の統一性のみを強調したということがあったと言えよう。聖
書は教義のプルーフテキスト集のように扱われ、聖書そのものを読むということは信徒にも勧め
られなかった。そこでは聖書のもつ豊かさが十分に享受されたとは言いがたい。
逆に、各書を独立的に扱って、パウロ神学、ヨハネ神学、マルコ神学といったことを強調しす
ぎて、その統一性を犠牲にすることも間違いである。今日の自由主義的な聖書解釈には、こちら
の傾向が強い。さらには、各書の統一性をも破壊して、文書資料に分解してタマネギの皮むきの
ようなむなしい作業をしたということもあった。そこには、多様性のみによる断片化が生じるの
である。そこではそもそも組織神学ということが成立すること自体が否定された。さらにポスト
モダンの聖書解釈は、解釈者の勝手解釈を推奨する傾向がある。いよいよ多様性のみ偏重するこ
とによる断片化と無意味化が進むことはいうまでもない。
聖書の統一性・多様性・歴史性をわきまえて聖書を解釈するときに、意義豊かな聖書解釈が成り
立つ。
あなたの人生も神の作品であることをわきまえるならば、あなたの人生の解釈にも統一性と多
様性と歴史性の三要素が適用される。人生の岐路に立つときには、三つの問いを自らにしてみよ
う。一つ目は「私にもできることはなにか?」である。神があなたをキリストのからだのうちに
お召しになった以上、あなたにもできることが必ずある。二つ目の問いは、
「私にしかできないこ
とはなにか?」からだは多様な器官から成っているから、あなたにしか、できないことがあるは
ずである。三つ目の問いは歴史性に関すること。人間は年をとる存在である。
「今ならばできるけ
れども、十年後には出来なくなっていることはなにか?」このように三つの問いをするならば、
おのれの人生に対する主の導きを知るために助けになる。
4.人――玉座から落ちた王(創世記1−4)
(1)神との関係――善悪の知識の木
a.神のかたち
被造物世界のなかで、人間は特徴ある立場を持つ。それは、神が人間を「神のかたち(ツェレ
ム、デムート)
」として創造されたからである(創世記1:26、27)
。それゆえ、先に述べた
16
ように、人間は最後の審判において地と天が御座の前から逃げ去って跡形もなくなったその時に
もなお、御座の前に立つべき責任ある存在なのである。
ところで「神のかたち」についていろいろな議論がある。古代教会のオリゲネス、テルトリア
ヌスは「神のかたち(ツェレム)」と「神の似姿(デムート)」を区別して、前者は堕落によって
も失われることなく維持され、後者は堕落によって失われ救済によって回復されるものと考えて
いる(オリゲネス『諸原理について』IIIvi1,テルトリアヌス『洗礼について』5。、A.マクグラ
ス『神学入門』pp600-601)こうした区別は創世記9:7で堕落後の人間においても「神のかたち」
があると述べられていることからも裏書きされうるので、簡単に見捨てるにはもったいない。
ベルカウアー(Man, the Image of God)
、K.バルト(我と汝の関係として造られたところが
三位一体のかたちだとする)などは、
「神のかたち」についていろいろな議論をしているが、ここ
では伝統的な改革派神学の表現で整理しておきたい。「神のかたち」の意味する内容は、
「真の知識」
と「聖」と「義」であることがキリストにあって新生した人のうちに回復する神のかたちにかん
する記述からわかる。新生した人は「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出され」た
とあり(エペソ4:24)
、また「新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、
真の知識に至る」とある(コロサイ3:10)
。
「真の知識」とは真の神を畏れる知性、「聖」とは真の神のみをあがめる宗教性、
「義」とは真
の神に従う道徳性である。人間は、有限であるゆえに他の被造物と同じく、神の御前にはちっぽ
けな存在である。しかし、人間は知性と宗教性と道徳性とを備えた神のかたちとして造られたゆ
えに、神に対しては霊的交流を持つことができ、人に対しては人格的交流ができ、他の被造物に
対してはこれを統治・保護する任務がある。人間における、真の知識は預言職、聖は祭司職、義
は王職を果たすための基本的な能力である。
b.労働と環境保全
神は何のために人間をご自身のかたちに造られたのか。それは、人間が神の代理として被造物
を支配するためである。この聖書の主張は、環境破壊を嘆く人々の間ですこぶる評判が悪い。い
わく「キリスト教は人間を他の自然から特権的な立場においたゆえに、ヨーロッパ文明は自然を
破壊してきたのである。
」と。たしかに、古代教会がヨーロッパの森林に住むゲルマン人・ケルト
人たちに宣教するにあたって、宣教師たちが彼らの前で彼らが神と崇める大木を切り倒すといっ
たデモンストレーションをしたという記録がある。しかし、それは森林破壊というものではなく、
偶像破壊にすぎない。ゲルマン人たちが、神木に動物や人間の子どもをいけにえとして捧げてい
たから、彼らをそういう迷信から解放したのである。創世記1章26節のみことばは、人間を被
造物崇拝の迷信から解放する力を持つ。
しかし、人間の被造物支配は決して暴君的なものであってよいと聖書は教えていない。人間は
神のかたちに造られた者として神のみこころにそって、被造物を支配することが求められている
のである。では神のみこころにかなう被造物の支配とはどのようなことであろうか。それは創世
記2章15節に示されている。
「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」
すなわち、
「耕し、かつ、守る」ことをもって被造物を支配するのである。神は被造物を利用す
ることを許しておられるが、それを収奪し尽くすことは許しておられない。むしろこれを保護す
ることを求めておられるのである。
17
ちなみに歴史を振り返ると環境破壊は、キリスト教文明にかぎらず、多神教文明でも行なわれ
てきた。多神教が支配していた古代メソポタミアは森林であったが、森林伐採によって農地・放
牧地を広げ、灌漑農法をするうちに、地下水や河川の水に含まれる塩分のせいで塩害が起こり、
農地は耕作不能となってしまい、砂漠化したことが指摘されている。ヨーロッパもかつて森林が
おおっていたが、中世中期に農業革命が起こり農地が拡張されるために森林は伐採されていった。
さらに大航海時代になると軍艦建造競争が始まり、各国は競って森林を伐採して軍艦を建造した。
一つの軍艦ができるためには、一つの森が消失したといわれる。産業革命以降も同じことである。
結局、環境破壊の一番の要因は経済的なもの、つまり、主イエスが指摘なさった最大の偶像であ
る富マモンなのであり、人間の貪欲なのである。
「 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重
んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるというこ
とはできません。
」マタイ 6:24
したがって環境保全を実効あるものとするためには、人間の貪欲をコントロールすることを工
夫しなければならない。
それはさておき、神は「耕しかつ守れ」とおっしゃって、労働の一部として環境保全を命じら
れた。
c.善悪の知識の木
善悪の知識の木がりんごであると思っている人が結構いる。アダムとエバを描く絵画において
りんごの絵が描かれたからであろう。 善悪の知識の木 lignum scientiae boni et mali の実がり
んごとして描かれるようになったわけは、ラテン語聖書において、善悪の「悪」にあたることば
malum のスペルが「りんご」malum と同じであることから連想され誤解されたのである。
アップル・コンピュータでかじられたリンゴ Adam’s apple がデザインされているわけ。bite と
byte をかけたのであるというが、かじられたリンゴについては諸説あって定説はない。恐らくコ
ンピュータの知識が人にとって本来禁断の知識であるという意味であろう。
ア.サクラメントまた神の権威の代表(象徴)としての善悪の知識の木
――「善悪の知識の木」という名の意味
この木について、
「善悪の知識の木」と呼ばれているのは、ただ2回であって(2:9,17)
、他
の個所では「園の中央にある木」(3:2)
「賢くするというその木」(3:6)「わたしが食べて
はならないと命じておいた木」
(3:11)と呼ばれることから、この名にさしたる意味を認めな
い解釈者もいる(榊原康夫)。しかし、それはいかがなものか。
*旧約聖書の広い文脈において「善悪の知識」とは
善悪をわきまえないことは、幼子の未熟さを意味し(申命記1:39)
、年老いて愚かになった
ことを示す(2サムエル19:35)
。「善悪の知識」がないことが未熟さ、愚かさを意味すると
す れ ば 、「 善 悪 の 知 識 」 が あ る こ と は 成 熟 や 賢 さ を 意 味 す る と い う ふ う に 逆 算 で き よ う
(Keil-Delitsch)
。
積極的には、聖書において善悪をわきまえる力は神が王に賜るものとされ(1 列王3:9)、神
18
の御使いの知恵(2サムエル14:17)とされている。そして善悪をわきまえることは、最高
の意味では神ご自身に帰せられることである(創世記3:5,22)。
(以上、カイル・デリッチ
p85)つまり、
「善悪の知識」は本来的には神に属するものであり、理性的被造物である人が善
悪の知識を持つという場合は、神がこれを彼らにお与えになっているというかぎりでよいものな
のである。
釈義的原則からしてみると、まず、最も近い同じ文脈における「善悪の知識」を中心に理解す
べきである。
ここでは、創世記 3 章 5 節と 22 節に見るように、「善悪を知るようになる」ことが、「神のよ
うになる」ことと同値として扱われていることがわかる。
「善悪の知識」はここでは本来的に神に
属するものとされているのである。人間のばあいは、神がお定めになった善悪の基準にかなって
善悪をわきまえることが、知恵とされる。だから、王が善悪をわきまえることは神からの賜物と
されている。しかし、神においては、神ご自身が万物の主権者でいらっしゃるから、神を超える
善悪の基準があるわけではない。神ご自身が善悪の基準なのである。神が善とすることが善であ
り、神が悪とすることが悪である。これは絶対の主権者である神においてのみ正当な行為である。
とはいえ、善悪の基準と神が別個にあるわけではない。神ご自身が最高善でいらっしゃるのであ
る。
被造物にすぎない人間が、主権者である神の戒めに背いて、善悪の知識を得ようとすることは、
自ら神のようになろうとすることにほかならない。それは言いかえると、自分が善悪を定める権
威があるとすること、すなわち、己を自律的(autonomous)な存在であるとすることなのである。
神に対する反逆である。これこそ、あのへびの誘惑であり(創世記3:5)
、最初の夫婦が犯した
罪であった(創世記3:22)
。彼らは、神のように全知全能の絶対者になったという意味で神の
ようになったわけではないが、その資格も実力もないのに自律的自存的な者として思い上がるよ
うになったという意味で「神のようになった」のである。
新聖書辞典(いのちのことば社)はたいへん簡潔に要所を示す。
「霊的にこれを理解すれば、いのちの木とは信仰の木であり、神を信じ、神を愛し、神に従う心
構えの木であり、善悪の知識の木とは、自分の知恵で何が善で何が悪であるかをわきまえる道徳
的判断の木である。」
イ.神が禁じたまうたというそれだけの理由で
アウグスティヌスは「罪はたんに食物にかんしてなされたのであって、その食物がただ禁じら
れていたということのほか、悪しきものでも有害なものでもなかった。というのも、神は、あの
ように大きな幸せの場所に何か(筆者注:悪しきもの有害なもの)をつくられたり植えられたり
なさらないであろうから、と。
」
(『神の国』14:12)という。つまり、
「善悪の知識の木」が(神
を離れて)それ自体に魔力や毒があるとか、その木の実に知識を与える成分があったといった神話
的理解はあやまりであって(カイル・デリッチ、キドナー)
、「その掟によって、この被造物にご
自身が主であることを思い出せて、かれらにご自身への自由な奉仕を委ねられた神であった。」
(
『神の国』14:15服部訳 p322)つまり、善悪の知識の木は、園に対するそして人に対する
神の主権のシンボルであった。
19
契約神学の立場から、ここに創造の契約を読み取る立場からは、善悪の知識の木は「契約のし
るし」サクラメントであると解釈される(G.Vos、Biblical Theology)
。すなわち、ノアに対する
契約において虹がしるしとされ、アブラハム契約において割礼がしるしとされ、キリストにある
新しい契約において、パンとぶどう液がしるしであるように(Lk22:20)、善悪の知識の木は創造の
契約における契約のしるしである。
聖餐においてパンと葡萄酒それらの物質自体に効力があるのではなく――そう考えると魔術に
なる――、聖餐を定めた主のことばによって意味と効力が生じるように、その木の実の物質それ
自体に意味はないが、神のことばが禁じたがゆえに、意味が生じたと理解することがたいせつ。
だからこそ、この木にどう対するかが、純粋に神に対する従順・不従順のテストとしてふさわ
しかったのである。もし木の実自体になんらかの毒や効能があったとすれば、神の禁止をはなれ
ても、毒があるとか効能があるからという理由で、人が食べなかったり食べたりするということ
が起こったであろう。そうなると、神のことばが神のことばであるがゆえに服従するという中心
点が不明瞭になってしまう。
「けれども、掟においてとくに求められていたのは従順であった。従順はある意味で、理性的
被造物においては、すべての徳の母であり保護者の役割をもつものである。たしかに、被造物の
つくられた条件というのは、服従していることがそれにとって有益であり、かつ、それをおつく
りになったかたの意志のかわりにそれ自身の意志をなすことがそれにとって有害であるというも
のだからである。
」
(アウグスティヌス同上個所)
榊原康夫は次のように言う。
「人はわけもわからずに、中央の木だけを食べるなと、禁じられました。彼にわかっているこ
とといえば、なぜだか知らないが神はこの木を禁じておられるということだけでした。人は訳が
わかるからでなく、神がそう言われたという理由だけで、神の言い付けを守らされるわけで
す。
・・・神のみ言葉にしたがっている場合でも、それが神のみことばだからだというより、自分
にも納得がいくから従っているということが多くなります。自分に納得できないところは、神の
みことばから除外し、飛ばして聞き、無視しがちです。
・・・私たちは自分も賛成できるから神の
言いつけに従うのではなくて、神のみことばだからというただそれだけの理由で、従うべきなの
です。
」
(榊原康夫『創造と堕落』p123)
「わけがわかったから、納得できるから、従う」というのは、実は、従っているのではなくて、
自分がしたいことをしているにすぎない。主に従うということ、主を信じるということの意味を
よく考えて見よう。
また、あの善悪の知識の木は、人に対して神の権威を代表するものであった。善悪の知識の木
を犯すことは、神の権威を侮ること、反逆を意味していたのである。
(2)神に対する反逆
a. 蛇—サタンと聖書解釈原理(神戸集中のためにキリ神特別講義に付加)
「さて、神が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に行った。
『あ
なたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』
」(創
世記 3:1)
20
神に対する人間の反逆という問題について入る前に、どうしても誘惑者である『蛇』について
考える必要がある。蛇の紹介にあたり、
『神が造られたあらゆる野の獣のうちで』と書かれている
ことを鑑みれば、この蛇をすなわちサタンということはできない。サタンが蛇を自分の道具とし
て、誘惑に用いたと理解すべきであろう。
世界観を論じるとき、神・人・自然という三者の関係として論じられることがあるが、聖書的観
点からいえば、もう一人の役者サタンを見落としてはならない。サタンの実在を見落とすと、現
実が見えなくなるであろう。実際、サタンは今日でも暗躍しているからである。私たちはサタン
の策略を見抜かなければならない。
創世記 3 章 1 節以下の女への誘惑において明らかになる点のひとつは、サタンはときに神の言
葉の解釈問題について誘惑を仕掛けてくるということである。
女は、
「この木に触れてもいけないと神は言われた」と言った。サタンの術中にはまって、善悪
の知識の木を魔術的なことがらとして考えているらしい。
荒野の試みにおいて、空腹のきわみにあった主イエスにサタンが「石をパンに変えよ」という
誘惑をしたところ、主イエスが旧約聖書申命記を引用して撃退された。そこで、サタンは今度は
旧約聖書詩篇を引用して主イエスを試みた。これに対して主イエスはさらに旧約聖書の引用「あ
なたの神である主を試みてはならない。
」をもって答えた(マタイ4:6−7)。これは、正しい
聖書解釈はなにかをめぐるサタンとの戦いなのである。ある聖書注解者は、サタンの旧約聖書解
釈がまちがっているということを、文脈や文法などから長々と議論しているが、その作業はナン
センスである。タンと対峙している緊急のときに、BDB やゲゼニウスを引用して、原語ではこう
いうことばだとか言う釈義の議論をしてなんの意味があるだろうか。ここでの主イエスの返答は、
神を畏れ愛するという態度をもって聖書を解釈することの重要性を私たちに教えている。聖書解
釈は、単なる文法的・歴史的に正しければ正しいということではすまない。解釈者の神に対する愛
の態度が重要なのである。
第一スイス信条第二項を見ておきたい。
「2 聖書の解釈について
この聖にして神的なる聖書は、まさにそれ自身からのみ、信仰と愛との規準によって、解釈
され説明されるべきものである。
」
* 『ウェストミンスター信仰告白』は聖書解釈について、神と神のご計画については、
「聖書
の中に明白に示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される」といっ
ているが、聖書解釈の態度としての神への愛や信仰に触れていない。これは欠陥ではない
だろうか。
J.H.リースは言う、
「改革派の解釈学は、解釈原理として愛の法則を主張していた。律法の
要約は、神を愛し、隣人を愛することである。それゆえ、すべての聖書解釈は愛を深める
のであり、兄弟愛を築けないなら、どのような解釈も再検討されねばならない。
・・・
(中
略)
・・・しかしながら、ウェストミンスター信仰告白から解釈原理としての愛の法則が抜
け落ちてしまったことは、破壊的な結果を後にもたらすことになった。教理が信仰生活か
ら遊離してしまう傾向を招いたのである。」
(『改革派神学の光と影』pp100-101)。
「問6 では、神についての真の正しい知識はなんですか。
21
答 神をあがめる目的で神を知ることであります。」(ジュネーブ教会信仰問答)
b.
「神を見ること」と「御顔を避けること」
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、
神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記3:8)
あたかも夕暮れどきの散歩のように、
「園を歩き回る神」という表現は、比喩として取られるむ
きもあるのだが、むしろ筆者としては、受肉以前のロゴスが人としてのかたちを取って来られた
という解釈を取りたい。人にいとも親しくご自分を適応させてくださる主である。この解釈は創
世記において受肉以前のロゴスが人の姿として何度か出現していることからも、無理のない解釈
である。アブラハムにも旅人の姿をもって近しく臨んでくださったあの主のお姿(創世記18:
1,13)
、ヤコブとすもうまで取ってくださった主のお姿である(創世記32:22−30)。
そして、これは、後の日に人となって地上にくだり、私たちと同じようになってくださった主イ
エスのお姿の予型であると読み取れる。実際、主イエスご自身が、受肉以前にご自分がアブラハ
ムに会ったことを示唆していらっしゃる(ヨハネ8:56−58)。
善悪の知識の木から取って食べる前には、あたかも人のように親しく臨んでくださる主の前に
出ることはアダムにとってこの上ない喜びであった。しかし、今や、彼らは「主の御顔を避けて
園の木の間に身を隠さ」なければならなくなった。
「主の御顔を見る」
「神を見る」ことは人間にとっての究極の祝福を表わす。この個所と直接に
対応するのは、新しい天と新しい地にあって神の民が神の御顔を仰ぎ見るといわれているところ
である(黙示録22:4)
。アダムにあって失われた、御顔を仰ぎ見る祝福が、この御国の完成の
時に回復する。
本来、
「神の御顔」を見ることは、人にとってすばらしい祝福だった。だが、堕落以後、それは
人にとって恐怖となり、神の御顔を見る者は死ぬと信じられた(創世記 32:30、出エジプト3:6、
イザヤ6:5etc.
)
。旧約時代にあって、親しく神を見ることが許されているのは極度に特殊
な例であり、モーセのみといってよい(民数記12:8)
。大祭司アロンにさえそれは許されなか
った。
終わりの日に神の御子が受肉され、十字架と復活によって、恩寵において、神との交わりが著
しく回復された。これによって、神を見ること、神の御顔を見るということが、一般の信徒に、
もうひとたび祝福として帰ってきた。アダムの堕落以来の画期的なことである。主イエスは山上
の祝福において、弟子たちに対して言われる。
「心のきよい者はさいわいです。その人は神を見る
からです。
」
(マタイ5:8)
。キリストにある者は、すでにこの世にあってある程度、神を見てい
るのであるが、それはあたかも古代の銅鏡に映すようにぼんやりと見ているにすぎない(1 コリ
ント13:12)
。しかし、究極的な祝福にあずかるときには、
「顔と顔とを合わせて見ることに
なる。
」
(同)
ちなみにアウグスティヌスは「神を見る」ことと関係させて聖化論を『三位一体論』で展開して
いる。関心ある人は読まれたい。
善悪の知識の木から取って食べ、自分が「神のようになった」とき、人は神を見ることができ
22
なくなってしまった。神は恐怖の的となり、人は神から逃げ出すようになってしまったのである。
また、善悪の知識の木からとって食べた人間は、自分を神のように考えているので、まことの創
造主の指導・支配をいとわしく思うようになったのである。ちょうど放蕩息子が、父親の監督をい
とわしく思うようになったように。
参照>マックス・ピカート『神からの逃走』
c.サタンの奴隷,被造物の奴隷
善悪の知識の木から食べた人間は、このように自律者としての誇り、自分は神のようなものだ
という傲慢に膨れ上がっている。
「私は神である、私の私による私のための人生である」とうそぶ
いている。しかし、実態はどうだろうか。
実際には善悪の知識の木から取って食べた人は、サタンの罠にかかり、罪の奴隷、被造物の奴
隷となってしまう。その被造物は神に代わる偶像である。
家の家による家のための人生
カネのカネによるカネのための人生
会社の会社による会社のための人生
国家の国家による国家のための人生
思想的には、××主義ということになる。
ちなみに、ヘルマン・ドーイウェールトはさまざまな「主義」とは、被造物世界における15
の様態的側面 modal aspects の一つを取り上げて、これに一切を還元しようとする思想的偶像礼
拝にほかならないと指摘している。
d.聖書的な神観・人間観と 異教のそれとの本質的相違
サタンはアダムを誘惑するとき、
「あなたがたは善悪を知るようになり、神のようになれる」と
言った。被造物にすぎないものが、神のようになろうとする。ここに罪の本質がある。
ここに異教思想との根本的な違いがある。異教にあっては、人が神になることこそ、究極的理
想とされるのである。ギリシャ思想において人の不幸は人が神のようでないことにあるとされる。
そして、ギリシャ思想における理想は、人が神のようになることにほかならない。人は弱い、強
くなって神のようになることが理想なのである。
哲学の例でいえば、
「一者」との合一を目指すプロティノスの瞑想がある。しかし、これはギリ
シャにかぎらずインドにおいても同じ。ブラフマン(宇宙の最高原理、大宇宙的概念)とアート
マン(個体の本質、自己、小宇宙的概念)の合一。梵我一如。ブリハド・アーラヌカ・ウパニシ
ャッド第四章『自己の探求』参照
「ウパニシャッドの確信をなすのは、いわゆる『梵我一如』――ブラフマンとアートマンとが
本質的に一体であるという思想である。ブラフマンは宇宙の最高原理として、アートマンは個体
の本質として、先行する時代からすでに重要な概念となっていた。ウパニシャッドは一歩進めて
両者を神秘的に合一化したのである。そしてその同一化を成り立たせたのが呪法の論理であり、
大宇宙と小宇宙との等質的対応の思想であった。」
(服部正明)
現代のニューエイジ・ムーブメントにおける救いの理解も、これと同じことである。
23
ところが、聖書は、人が人であることにとどまらないで、神のようになろうとするところに罪
を見る。人が己の越えて思い上がることが罪。御使いの堕落も、その点にあった(ユダ書6)
。異
教においては、人が神となることに人類救済の理想を見るのだが、聖書はむしろ逆に、神が人と
なられたという受肉の出来事にこそ、人類救済のかぎがあるという。
では、
「あなたがたの父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい。
」といわれた主
イエスのみことばはどのように理解されるべきか。文脈的には、
「あなたの敵を愛しなさい」とい
う命令にかんするところ。これは人が本質において神と合一することを意味しない。神の愛を模
範として、愛を実践せよという意味である。神のかたちとして造られた人として、
「神のかたち」
である分にとどまりつつ、神のかたちらしく生きよとも言えようか。あるいは、神が人となられ
た主イエスの、その完全な人性にならって生きよと言っても良いのであろう。
<付加的考察>
東方教会において救済を「神化(theosis)」と理解する神学的伝統がある。
「アタナシオスにとって救済は、神の存在への人間の参与にある。神のロゴスは受肉によって
人間に分け与えられるのである。普遍的な人性という前提に立って、アタナシオスはロゴスは単
にイエス・キリストという特定の人間存在をとっただけではなく、人間の本性一般の存在をとった
のであると結論する。その結果、あらゆる人間は受肉から来る神化に参与出来るわけである。人
間の本性は神の存在に参与するという目的をもって創造された。ロゴスが降ってくることで、こ
の能力が最終的に現実化されるのである。」
(マクグラス『入門』pp589-590)
「神的位格としてのキリストが降ること(katabasis)で人間は聖霊において上昇すること
(anabasis)が出来るようになった。神の子の自発的な謙卑、贖いをなす自己無化(kenosis)が起
こることは必要であった。罪に堕ちた人間が本来の召命である theosis、つまり造られざる恵みに
よる被造物の神化を達成するために、である。こういうわけでキリストの贖いの業は、むしろも
っと一般的に言うならば言の受肉は、被造物の究極的目的である神との結合を知ることと直接に
関係している。この結合が人となった神である神の子の位格において達成されたのであれば、今
度はそれぞれの人間が恵みによって神となること、聖ペトロの言葉によれば『神の本性にあずか』
る者となること(2 ペトロ1:4)が必要となる。
」
東方教会の伝統とはいえ、筆者(水草)としては、ここに異教的な臭いを感じる。すなわち、
ギリシャ的な宗教の伝統が入り込んでいるのではないか、と。
もっとも東方教会の神学では、神に反逆して自力で神になろうとしたことがアダムの罪であり、
神の恩寵によって神化されるということは人に対する本来的な召しであるとして、神に対する反
逆によって神化を目指した過ちと、恩寵によって神化を受けることとを用心深く区別するのでは
あるが。
参考図書>高橋保行『ギリシャ正教』
(講談社学術文庫)
日本ハリストス正教会教団『正教要理』
e.
「善悪の知識の木」の現代思潮認識への適用
ア.自律的理性の問題
24
神が善とすることが善であり、神が悪とすることが悪である。神こそが善悪を決定する権威者
である。善悪の知識はもともと神に属しているものである。人がこれからとって食べるというこ
とは、人が思い上がって神の権威を侵し、自ら神のごとくに善悪を決定する権威を持つという思
い上がりを意味している。その罪の内容とは、権威に対する反逆である。
蛇は、3:11「あなたがたがそれを食べるそのとき、あなたがたの目が開け、あなたがたが
神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。
」と誘惑した。これはあな
がち嘘ではなかった。実際、人の堕落後、神ご自身が「見よ。人はわれわれのひとりのようにな
り、善悪を知るようになった。
」とおっしゃっている(創世記3:22)これをうがって神の皮肉
を読む見解もあるが(清水武夫)
、うがちすぎな解釈であろう。人は善悪の知識の木から取って食
べたという行為によって、神の主権に服さないで、自律的な(autonomous)存在、つまり自分で何
が善であり何が悪であるかを決定しようとする、そういう意味で神のような者となったというの
が素直な解釈であろう。
では、人はほんとうに自分の理性で善悪を決定できるのであろうか。数年前、17 歳の殺人事件
が立て続けに起こり、そのとき「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いが大人たちに突き
つけられた。満足な答えを与えることができるものは、だれもいなかった。人にとってなにが善
でありなにが悪であるかということは、創造主が決定しているのであって、人自身が決められる
わけではないのである。
罪の本質は神の権威への反逆である。それは思い上がり。傲慢。
自律的理性の問題については、後に少し詳しく扱いたいと思うが、自律的理性こそ近代・現代の
西洋思想を貫く根本的問題である。理性の自律というドグマの問題性。
デカルト的理性と近代主義についてここから発想する。デカルトについては講義の後半で、比
較的詳しく学ぶ積もりであるが、彼のコギト・エルゴ・スムという考え方は、啓蒙主義・近代合
理主義の態度の土台となっていく。合理主義 rationalism とは、すなわち理性主義、理性崇拝、
理性中毒である。
「外的世界は理性によって理性によってのみ知られるという考え方」(マクグラ
スp133)である。
確実で人類に共通している理性(良識)を土台として、神の存在、外界の存在を証明し、あらゆる
首尾一貫した学問体系・世界観を築くことができるとデカルトは構想したのである。理性は目的、
計画を持ち、集中的に世界を構想した。
イ.理性と啓示の関係
理性は神学において必要であるが、理性が神知識の唯一の源泉だとし、理性を啓示の上に置き、
あるいは啓示を否定する合理主義は有害であり、過ちである。それはすなわち、善悪の知識の木
から実を採って食べた、自律的理性の主張にほかならない。
合理主義者のキリスト教への批判は、理神論によってまずなされた。たとえば理神論者である
ジェファソンは、三位一体論、キリストの二性一人格論に対して批判した。彼は創造主を信じ、
イエスは素朴な合理的な人間の教師であったと信じる。
18 世紀終わり頃からの「史的イエスの探求」という運動は、こうした合理主義的な立場からの
ものである。彼らのいわゆる「史的イエス」とは分別ある合理的な人間教師であり、彼らによれ
ば、新約聖書は人類の罪からの贖い主という誤解のイエス像を提供しているということになる。
25
カントは『単なる理性の限界内における宗教』において、イエス・キリストに対する理性と良心
の優位を主張し、理性が言うこととイエスが言うことが一致する場合にのみイエスを尊敬すべき
だという。
(マクグラス p252)
*思想史上、
「理性と信仰」の対立構造という言い方がされてきたが、聖書的な観点から見た真
相は、理性と啓示の対立でなく、「真の信仰と偽りの信仰の対立」であり、「再生理性と非再生理
性の対立」である。詳細は春名純人論文参照。
ウ.プロタゴラスとポストモダン――相対主義
しかし、こうした理性に対する信頼は、現実問題と衝突するときに揺るがされる。人間理性は
確実でも絶対でもないからである。
数年前,17歳の殺人事件が相次いだ。そのとき、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という
問いが17歳の座談会で発せられた。これに対して大人たちは有効な答えを持っていない。そう
いう書名の本も岩波新書から出たが明晰判明な答えは提供されていない。
「なぜ殺人してはいけな
いのか?」
「なぜ姦淫してはいけないのか?」
「なぜ盗んではいけないのか?」
「なぜ偽証してはい
けないのか?」こうした問いに対する答えは,人の中からは出てこない。しかし、善悪の知識の木
の実を取って食べたときから、人は自分で自分の善悪を決定しうると思い上がって悲劇に陥った。
善悪という絶対の参照点を必要とすることがらを、相対的な人間が決定しうると思い上がったゆ
えの悲劇であり、喜劇である。
古代ギリシャにプロタゴラス(前 500 頃−430 頃)というもっとも有力なソフィストがいた。彼
は「人間は万物の尺度である」といったことで有名である。
このことばについて、プラトン「テアイテトス」においてソクラテスは言う。
「それでは彼の言おうとしているのは、何でもこういうようなことではないか。それぞれのもの
は、僕にかくかくの性質のものとして現われているなら、僕にはそのような性質のものとしてあ
り、また君にかくかくの性質のものとして現われているなら、他方で、君にはそのような性質の
ものとしてある、というのではないか。そして人間というのは、君や僕のことではないか。…時
には、吹いている風は同じでも、僕たちのうち一人は寒気を感じるが、他の一人は感じないとい
うことがあるのではないか。」(田中美知太郎訳)
神が万物の尺度でなくなるとき、人が万物の尺度となる。ところが、人はそれぞれによって考
え方も感じ方も異なっている。よって、相対主義に陥って、客観的真理・絶対的な正義などという
ものはないということになるというわけである。絶対者である神を見失うとき、人は必然的に相
対主義、懐疑論におちいる。
・ポストモダンと聖書解釈
ポストモダニズムという今日的思潮はまさにそれ。モダン(近代)とは理性に対する信頼のあ
った時代である。理性によって一つの普遍的な真理の体系がくみ上げることができるというがか
つてあった。デカルト、スピノザ、ライプニッツなど思想家が、その理想としたのはユークリッ
ド幾何学であった。ところが、非ユークリッド幾何学の発見がなされた。それもまた、内的な一
貫性を持っているのである。
同じような信頼の揺らぎ 18 世紀の啓蒙主義に対してもおこる。普遍的合理性などというものは
26
存在しないのである。虚構である。あるのは多様な合理性だけなのだということがいわれるよう
になった。
ポストモダニズムとは「一般に、絶対や確固とした確かさや基礎をもたない文化的感受性とい
ったものとうけとめられている。多元主義と多様性を重んじる。あらゆる思想の徹底的に「具体
的な位置」について考え抜こうとするものだというわけである。これらの問題の一つ一つについ
ておいて、ポストモダニズムは啓蒙主義の総合化に対する意図的・意識的な反動である。」
(A.E.
マグラス「キリスト教神学入門」p162)
たとえば、ポストモダンの影響下にある聖書解釈者は、「あらゆる思想の具体的な位置」を考え
抜こうとする。たとえば、「神」についても創世記 1 章でいわれている「神」と、1列王記におけ
る「神」と、マルコ福音書における「神」とローマ書における「神」と、現代人がいう「神」はそれぞ
れ別の思想とみなそうということになる。聖書全体を体系として捉えるというのは、ナンセンス
ということになる。
ほんとうは、聖書各書において啓示されている神のすがたの多様性を認めつつ、全体としての
一貫性を見るという多と一の原理が聖書解釈においても、神学においても重要なことなのである。
啓示の多様性を無視して安易に統一性のみで解釈すると、啓示の豊かさを見落とすことになろう
が、統一性を犠牲にして、聖書啓示の一貫性・一体性を投げ打つならば、それは断片化と無意味化
しかもたらさない。
(3)自己の内面における反逆――いちじくの葉とリビドー
a.裸の恥の意識
「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そ
こで、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」
(創世記3:7)
「目が開かれ、自分たちが裸であることを知った」というのは、彼らが以前盲目だったという
意味ではない。彼らはもちろん以前から裸であることを知っていたのであるが、それを恥じるべ
きものとしては知っていなかったという意味である。実際、彼らには恥じる必要がなかったので
ある。しかし、堕落後、彼らに裸を恥じる必要が生じ、恥じる意識が生じたというのである。
いちじくの葉について、よく考察しているのはアウグスティヌスをおいてほかにない。
「この神が軽んじられたがゆえに、正義にかなった罰がその結果として伴ってきたのであった。
すなわち、あの掟を遵守しておれば、人間は肉においてさえ霊的なものとなるはずであったが、
いまやその霊においても肉的なものとなり、そしてその高慢によって自己自身に満足した人間は、
神の正義のゆえに自己自身へ任されてしまったのである。」
(神の国14:15服部訳 p322)
アウグスティヌスのことばの背景には、ローマ書1:28「また、彼らが神を知ろうとしたが
らないので(神を知ることは無益を考えたので)、神は彼らをよくない思いに引き渡され、そのた
め彼らはしてはならないことをするようになりました。」がある。
以前は神の加護のもとにあった人が、神に反逆した結果、自己自身に任された結果、人は自分
27
で自分を統御できなくなり、悪魔の奴隷となったのである。
「人間は、彼自身においてあらゆる仕方で自己自身の力で統御するというわけにはいかなくなり、
かえって、自己自身と不和となって、あれほど熱望していた自由のかわりに、罪を犯すことによ
ってサタンと和合することとなって、そのもとに過酷で悲惨な隷従の生を生きるようになったの
である。
」p322
悪魔の奴隷となった人間は、内的な不従順・混乱を経験する。すなわち、意志の下位にあるべき
精神と肉が意志に逆らうようになって苦しみを生じるようになった。
「一言でいうなら、罪にたいするあの罰において、不従順にたいして報復されたものは、まさ
に不従順にほかならなかったのである。じっさい、人間の悲惨とは、かれがなしえたところのこ
とを欲しなかったゆえに、かれがなしえぬところのことを欲するという、自己自身に逆らう自己
自身の不従順をおいて他に何があるというのであろうか。
・・・・・
自己が自己自身にしたがわないかぎり、すなわち、精神および精神の下位におかれた肉がその
意志に従わない限り、かれがなすことを欲しながらもなすことのできないものがどれほどおおく
あるか、だれがそれを数え上げることができようか。
・・・・」
(
『神の国』14:15服部訳p3
24)
善悪の知識の木からとって食べてしまったとき、最初の男女はその腰をいちじくの葉でおおっ
たとある。これについて、近代の聖書注解者たちはあまり考察をしていないのは、どういうわけ
だろうか。十分に考察をしているのはアウグスティヌスである。アウグスティヌス『神の国』第
14 巻 15 章―26 章を熟読玩味されるがよい。
いちじくの葉について、これは人が仮面をかぶるようになったこと、つまり、虚栄心、自己防
衛本能と結びつけて理解する向きもある。それもあながち間違いとはいえないだろう。しかし、
文脈から推した直接的・正確な理解のためには、彼らが隠したのが、顔でなく、足でなく、腹で
もなく、性器であったことに注目しなければならないであろう。欲情(リビドー)とのかかわり
があって、彼らは性器を隠したと理解すべきである。
彼らは神に背く前には、おたがい裸を恥ずかしいと思わなかった。アウグスティヌスによれば、
「それは、かれらが自分たちの裸に気づかなかったからではない。裸がまだ恥ずべきものとなっ
てはいなかったからである。それというのは、欲情が彼らの自由な決定力とは無関係に身体のこ
の部分を喚起するようなことはなかったからだ。肉はまだ、ある意味で、それ自身の不従順によ
って、人間の責められるべき不従順を示す証拠を見せていなかったのである。
」
(『神の国』14:
17服部訳p328)
堕落前は、生殖器が意志の統御の下に服していたので、恥じる必要がなかったのである。しか
し、堕落後、
「この恩寵が除去されることによって、不従順が不従順という罰をもって叩き返され
た。そのとき、かれらの身体の動きに、ある種の淫らな好奇をそそるものが出現したのであった。
それがもとで、裸であることが見苦しいものとなり、自己意識を生じ、かれらを狼狽させたので
ある。
」(『神の国』14:17服部訳 p330)恩寵がはぎとられて、情欲に刺激されて生殖器が意志
と精神から独立して、ほしいままにふるまうようになった。裸であるお互いを見るときに、それ
にふさわしい TPO でもないのに、情欲が身体を突き動かすことゆえに恥じたのである。だから、
28
これを恥じていちじくの葉をつづり合わせて腰帯にしたのである。
「これ以後、すべての種族が恥
部を隠すという習性を保持することになった。
」
アダムとエバの堕落の結果、秩序において下位にあるべきものが、上位にあるものをあなどり、
秩序を破壊するという状況は、人の内面においてまず起きたということができる。「不従順が不従
順という罰をもって叩き返された」のである。「心の中で情欲をもって女を見る者はすでに姦淫を
犯したのである。
」と主イエスが言われるとき、ほとんどの男性は罪を自覚しないではいられなく
なった。それは、本来、神の権威の下に置かれていた人が、神の権威に逆らったことに対する呪
いである。不従順に対して、不従順というのろいがかけられた。人は量るように量り返されたの
である。
ローマ書1章21−32節には、神に背いた人間の罪のリストが出てくる。始めに上げられる
のは、偶像崇拝である(21−25節)
、次に、性的な倒錯(26−27節)、そしてもろもろの
罪が上げられている(28−31節)
。注目すべきは、性的な倒錯という情欲の問題が、偶像崇拝
の次に特筆されていることである。性欲の問題は、おそらく人間にとって非常に根本的なことな
のである。
アウグスティヌスは『神の国』第十四巻十六章において「性的な欲情の悪」について、十七章で
は「裸の恥について」、」第十八章では「性行為における恥の感情について」
・・・と論を展開する。
省略(2)情欲(libido リビドー)について
近代の心理学者たちは、リビドーにおいて人間を把握しようとした。
『岩波心理学小事典』によると
「リビドー:(性的エネルギー)性欲、性的衝動。本来は欲望という意味であるが、1898 年にモ
ルが性欲という意味に使った。フロイトによると、上が栄養摂取の衝動を発動させる力であるよ
うに、リビドーは性衝動を発動させる力である。それは性欲をダイナミックに表わしたものであ
り、性のエネルギーである。しかしフロイトは、性欲は思春期になってはじめて現われるもので
はなく幼児期の始めから口唇性欲・肛門性欲などとして存在していると考えていたから性欲と言
っても、一般に考えられている性欲よりも概念が広い。彼によると、エネルギーを蓄電池に蓄え
るように、リビドーはある対象に注がれ、蓄積される。このようなリビドーを対象リビドーとい
い、逆に自我に満たされたリビドーを自我リビドーという。ユングはリビドーを性的エネルギー
と考えず、広く生命のエネルギーつまり、ベルクソンのエラン・ビタールと同様のものと考えた。
ショウペンハウアーやハルトマンが・・云々・・」
b.自律主義の自己矛盾
―――自律を誇りつつ他律に陥る人間
ア.自律・他律・神律
人は、神からの自律を目指して神のようになろうとして善悪の知識の木の実を食べたのである
が、その結果、自律どころか自分の肉体の欲求さえも律することができなくなってしまったので
ある。自律主義の自己矛盾である。
自律主義とは宗教的表現を取れば、自己偶像崇拝の破綻である。自己は神たるにふさわしいだ
けの実力を持たないのに、自己を神として崇めた結果、偶像崇拝者の悲惨に陥っているのである。
29
また、アダムは本件について問い詰められたとき、
「あなたが私のそばに置かれたこの女が・・・」
と言った。人は、神のようになった、自分は神に頼らず生きられると自律や(カント風にいえば)
「成人」たることを誇りながら、実際には、神と女に罪を転嫁するという無責任性、幼児性の自
己矛盾を見せる。神なしで生きて行けると自律を誇りながら、自らの行動に責任を取ろうとしな
いという矛盾である。自律を主張する者は、自分で行動を選択する自由があると同時に、その行
動とその結果に関する責任を自分で取ってこそ自律の人と言いうるであろう。自分のしたいこと
をして、その責任は他に転嫁する者は自律した者とは呼ばれず、単なる幼稚な利己主義者つまり
わがまま者にすぎない。
「あの人が私にこうさせたのだ」と他者に自分の行動にかんする責任を転
嫁するということは、自分は他者の奴隷だと言っているのである。自由な者は、自らの行動は自
らの責任によるものであるという。
善悪の知識の木の実を取って食べたということは、人間は自律できるという主張である。神抜
きにして己の良心をもって自らを律して生きることができるという、態度表明である。
「良心」と
は、一般的に「何が自分にとって善、悪であるかを知らせ、善を命じ悪を退ける道徳意識」を意
味する(『岩波哲学小辞典』
「良心」の説明後半)。ところが、実際に、神を捨て神のようになろう
として神に背を向けた人間は、みずからを律することができたのか。できなかったのである。神
の支配を厭い神のいのちから離れた人間は、自分の欲求の奴隷となって、自由ではなく不自由を
経験するようになった。theonomy 神律を捨て autonomy 自律を望んだのに、実際に得たのは肉
欲による heteronomy 他律にすぎなかったのである。ここに良心主義の自己矛盾がある。
イ.夏目漱石――良心主義の自己矛盾
夏目漱石が生涯課題として苦しんだのはこの良心主義の自己矛盾という問題であった。彼は明
治 の 家 社 会の heteronomous な 生 活 から 飛 び 出し て 、 西 洋 で主 張 さ れる 個 人 主義 に よ る
autonomous な人生を目指した(
『私の個人主義』)
。ところで、個人主義が倫理的に可能な条件は
個人である私という人格の良心の高潔者・完全さである。しかるに、私という人間は自我の病(エ
ゴイズム)に犯されているので、良心の要求するように生きることができないという現実にぶつか
ってしまったのである。
『こころ』の主人公の「先生」の生涯をみよ。
「あんなやつ(強欲のおじ)
のようにはなるまいと思っていた自分が、あんなやつであった」という悲惨な現実を「先生」は
認識したのである。
漱石はその苦悶のなかで、この自我の苦悶から逃れる方法としては、発狂するか、宗教に自分
の自我を放下するほかないと言っている。しかし、彼はそれができないまま苦悶のうちに死んだ。
良心主義の自己矛盾とは、神学的表現をすれば自力救済の現実的不可能性ということであり、
律法主義の自己矛盾ということ
(4)人間関係における反逆と強制秩序
「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたの
で・・・」創世記3:17
30
「しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。
」創世記3:16後半
a.夫婦関係への呪い
ア.かしらなる夫とふさわしい助け手
エバが先に誘惑されて木の実を食べ、これを夫にも与えたにもかかわらず、なぜ神はアダムを
まず追及されたのか?
神は本来、夫婦において夫を契約のかしらとして選んでおられる。さればこそ、善悪の知識の
木から女が取って食べたときにも、神はまず夫アダムを追及された。
新約聖書が、キリストにあって回復した夫婦の秩序について、夫は妻のかしらであり、妻はそ
のからだであるとし、夫には妻を愛することを命じ、妻には夫にしたがうことを命じていること
からも、本来的な夫婦の秩序はそのようなものであることがわかる(エペソ5:22−33、1
ペテロ3:1−7)
。夫は妻にとって神を代表するところの権威であり、夫は家庭におけるかしら
である。
夫婦が神の御前で人として同等の尊厳を持つことは事実であるが、夫と妻が同等の権威を託さ
れていないということは聖書から明らかである。妻は、かしらである夫の権威の下、その保護の
下にある。
イ.結婚関係に及んだ呪い
ところが、堕落後、呪いを受けた夫婦の秩序に混乱が入り込む。創世記3:16.妻は本来、
子を得ることと夫との愛の交流を祝福として与えられていた。この二つの祝福が完全に奪われた
わけではないが、そこに呪いがもたらされる。出産には格別の苦しみが伴うことになり、夫の関
係には不調和が生じる。
「女が夫を恋い慕う」という「恋い慕う」(8669 teshuqa:n.f.longing 語根 shuq)ということば
は、創世記4:7に記されている「罪は戸口で待ち伏せし、あなたを恋い慕っている。だが、あな
たはそれを治めるべきである。」と同じ語(teshuqa)が使用されていることに注目して釈義される
べきであろう。後者において teshuqa は罪が擬人的(擬獣的)に表現されカインを食いつくそう
としているととが比喩的に用いられている。実際、罪はカインを捕らえてしまうのである。この
ことと重ね合わせて考えるならば、3:16 にいう「妻が夫を恋い慕う」という表現が意味すること
は、単に妻が夫のことを好きで好きでたまらなくなるということを意味するのではないであろう。
むしろ妻が夫を我が物にして己のコントロールの下に置こうとするという意味だと理解すべきで
あろう。ちょうどデリラがサムソンを暗い情欲をともないつつ恋い慕って彼をコントロールの下
に置こうとしたように(士師記 16 章)
。
ところが、このように妻が夫の権威をあなどり、夫を己のコントロール下に置こうとすればす
るほど、夫は妻を「支配する mashal」であろう。それは、暴君的な支配、強制的な秩序である。堕
落前の本来の秩序にあっては夫は妻を愛し、妻は夫に自発的に従うといううるわしい秩序であっ
たが、堕落後、妻は夫の権威を脅かそうとし、夫は妻を強制的に支配するようになったのである。
強制的秩序である。本来的な上位の者が下位の者を愛をもって導き、下位の者が上位の者に従順
であるという本来のすがたが、上位の者は下位の者を暴君的に支配し、下位の者は隷従するとい
うものになってしまったのである。
31
「トピック
夫婦の悪循環とよい循環」
悪循環
夫
↑
反逆
↓
暴君・無責任
↑
↓
妻
アダムの罪に対する神の追求のことばにも着目。
「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、
土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。」(創世記3:17)
もともと、このテストは善悪の知識の木という神の権威を代表する者によって行なわれ、この
代表権威を侵したことが罪であった。
推薦書>ラリイ・クリステンソン『幸福な家庭』
b.被造世界における秩序の混乱と強制的秩序
ア.上に立つ権威の強制秩序
ローマ書13章
人は善悪の知識の木のテストにおいて、神の権威を犯した。善悪の知識の木は、神の代表権威
であった。神に対する不従順に対しては、まず不従順という報いが人の内面において生じた。つ
まり精神の統御を拒否するリビドーに人は悩まされることになる。それだけでなく、夫婦ひいて
は社会関係においても同じように不従順という報いが生じたのである。そこで、強制的秩序よっ
てこれを維持するほかないということになった。こうした破壊は、人間社会と被造物世界全体に
及ぶことになる。
人間社会は、剣の権能による権威と隷従という強制秩序によって、ようやく保たれているにす
ぎないものとなった(ローマ13:1−4)。とはいえ、強制的な秩序は、神によって立てられて
いると啓示されていることからわかるように、一般恩恵として理解すべきものである。たしかに、
この世の権威はえてして悪魔のコントロールによって自らを偶像化して暴走することがある(黙
示録13)
。しかし、それでも、神は堕落後の世を維持するために、権威を立てていらっしゃる。
よって、この権威を重んじるべきである。
左翼思想との違いを認識しておくべきである。
イ.被造物の反逆と強制秩序
本来、神は人に土地を耕し守るように、これを治めるようにと命じられた。しかし、アダムの
堕落後、
「土地 adama」も人間の権威に逆らうようになり、人はこれを暴力的に支配するように
なった。
32
創世記3:17−18「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは一生、苦しんで食
を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生じさせ、あなたは野の草
を食べなければならない。
」
翻訳としては、l「あなたのために」ではなく、新共同訳「おまえに対して」のほうが適切であ
ろう。つまりいわゆる自然界(被造物)が人間に対して敵対的になってしまったということであ
る。本来、神は「地を支配せよ」とお命じになって人間に被造物を支配する権威をお授けになっ
たのだが、人が神に背いて以来、被造物は人間の権威に反逆するようになったのである。へブル
書2:8後半をも見よ。
以上、見てきたように、善悪の知識の木から食べるなという神の禁止命令に対して、人が傲慢
になり、不従順をもって答えた報いは、人間生活の諸関係における権威に対する全般的な不従順・
秩序の混乱ということであった。
内的には、欲情が肉を刺激して、肉は意志の統御を無視して動くようになってしまい、精神は
その苦悩を味わうことになってしまった。
夫婦関係においては、妻は夫に統御されることを嫌い、夫を支配することを願うようになった。
広く社会においても、権威に対して人は反抗的な精神を持つようになった。
被造物は、本来、その統治者である人に反抗的になった。
この混乱に対して、神は強制的な秩序をもって、これをともかくも維持することを意図された。
(5)人と被造物との関係
a.地に仕える
ア.人。偉大にして卑小なる存在
「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そ
こで、人は生きものとなった。
」創世記二:七
我々はこのみことばから、人の尊厳と人の卑小とをあわせて読み取り、それを自覚すべきであ
る。すなわち、人は神の息を吹き込まれた存在であるゆえに偉大なものであり、かつ、人は土地
のちりを材料として造られたものであるゆえに卑小なものである。周知のごとく、人はアダマー
(土)から造られたゆえに、アダムと呼ばれる。アダムは、土から形造られたものであるゆえに
他の土からの被造物たちの一員であることをわきまえ、かつ、神の息を吹き込まれ「神のかたち」
に創造されたゆえに神の代理者として地を支配する任にあずかっていることをわきまえるべきで
あった(創世記一:二六参照)
。
しかし、人間の神に似せられたゆえの尊厳と土から造られたという卑小の両面を知ることは
有益である。神は「みことばの受肉」と「からだのよみがえり」という啓示を歴史のうちに行な
われることによって、神は単に精神のみならず物質(肉体)をも贖い給うことを示された。
「人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣にひとしいかということばかり知らせるの
は危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。
人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険である。しかし、人間にその両方を示
してやるのは、きわめて有益である。人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使
33
にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべき
である。
」
(パスカル『パンセ』L121,B418)
イ.人の任務「地を耕し、守る」
神が人間に与えた任務はなにか。創世記一章は「地を支配せよ」
「地を従えよ」とある。しかし、
それが悪しき専制君主としての大地の支配・収奪を意味していなかったことは、創世記第二章十
五節からあきらかである。
「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそ
こを守らせた。
」
人が地を「支配し、従える」ことの内容とは、園を「耕し、守る」ことであった。ヘブライ語
において「耕す(アバド)
」と「しもべ(エベド)」が同根の語であることは興味深い。
「耕す」を
「仕える」とうがって訳してみれば、
「地に仕える」ことが人の大地支配の内容である。日本語の
語感からいえば「畑の世話をする」というあのことばに当たろう。
それを裏書きするように、創世記二章五節は言う。
「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ
一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す
人もいなかったからである。」注目したいのは、
「からである(キー)
」である。この文章を原因と
結果を倒置して、否定を肯定にして言い換えれば、つまり対偶をとれば、
「神である主が地上に雨
を降らせ、人が地を耕すゆえに、地は灌木や野の草を生やす。
」ということになる。人は神の協力
者として、地を世話することによって大地のうちに神が秘め給うた可能性を引き出すことが、す
なわち「耕す」ことである。つまり「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える
者になりなさい。
」と主が教えられた神の国の王のありかたこそ、本来の大地に対する人のありか
たである。
なお、新共同訳は、人が耕さないから木も草も生えないというのは不適当と考えてであろうか、
「地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨を お送りにならな
かったからである。また土を耕す人もいなかった。
」と区切って訳してしまっているが、従来の訳
のままがマソレテ本文に忠実である。
他方、
「守る」ということばは、農業という産業には、単に作物を得ることだけでなく、環境保
全という重要な役割があることを示唆するものとして読み取れるであろう。農業と工業の本質を
比較して、工業は周囲からいろいろなものを取り込んで製品とともに排気ガスや廃水をはじめと
するゴミを出す環境破壊型産業であるのに対して、農業は周囲からいろいろなマイナスをプラス
に転じうる産業であると指摘する(3)。
たとえば家畜の糞尿や生ゴミは堆肥化されれば、やがて作物となる。また、水田は豪雨をいっ
たんためて置いてゆっくり川に流すというダムの役割を果たす。日本では水田が五百億トンのダ
ムの役割を果たしている。また、水田には地下水の涵養という働きもある。近年、豪雨があると
都市部の河川がいとも簡単に氾濫するようになり、あるいは地下水が枯渇しているのは、都市近
郊の田園の宅地化が原因している。今後、コメの輸入自由化により中山間地の水田が破壊されて
いくにしたがって、河川下流域の洪水が慢性化することは必然である。また、農業は景観の保護
という役割もある。
このように、
「耕し、守る」農業には食糧生産のみならず環境保全の機能があるのである。ただ
し、これは後述するが、工業化された近代化学農法が環境破壊をもたらしていることも事実であ
る。しかし、本来的に農業は工業とちがって、食糧生産のみならず環境保護を同時に行なうこと
34
のできる産業なのである。そういう意味で、創世記が神が人間に最初に与えた仕事が農業であっ
たと啓示しているのは、意義深いことである。
b.地の反逆と文明による地の収奪
ア.人と土地は敵対関係に・・・創世記第三章
人類は始祖アダムにあって、神の戒めに背き、その結果、神との関係、隣人との関係、そして
大地との関係において不調和を来すことになった。創世記第三章から見れば、人はかつて信頼と
畏怖の対象であった神を恐怖と憎悪の対象と見るようになり(十、十二節)
、男はかつて愛と保護
の対象であった妻に責任を転嫁したり(十二節)、暴君的に支配するようになり(十六節)
、その
妻はかつて信頼と自発的従順の相手であった夫を意のままにあやつることを望むようになった
(十六節、三章七節)
。
土地はどうなったか。
「土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。あなたは、一生、苦しんで
食を得なければならない。土地はあなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の
草を食べなければならない。」とあるように、かつて人の働きに従順に答えて豊かに実りを産した
大地は、人の懸命の労働を徒労に終わらせようとするような性質を持つものとなってしまった。
なお新約聖書の記述から見れば、ここでいう呪われた「土地」は、単に地面だけではなく、被造
物全体を指していると見てよい(ローマ八:十八−二二)。
イ.都市文明・・土地に疎外され土地を疎外する・・・・創世記四章
アダムの子カインは、土地に弟アベルの血を流した。神は言われた。
「あなたは、いったいなん
ということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今は、あ
なたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受
けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。
あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」
(創世記四:十−十二)
土地に呪われたカインは、主の御顔の前から去って、エデンの東にノデの地に住みつく。ノデ
という名は流浪という意味だという。流浪の地に住み着くというのは聖書一流のアイロニーであ
る。カインはそこに初めて町を建て、これにエノクという名を付けた。 さらにカインの一族から、
最初の一夫多妻主義者にして傲慢な権力者レメクが生まれ、天幕に棲む者、家畜を飼う者、竪琴
を奏する者、青銅と鉄の鍛冶屋が出てきたという。都市、権力、文明の華々しい原初の姿がここ
に記されている。エリュールがいうように、
「都市の歴史がカインによって始まるということは、
数多ある些末事のひとつとみなすべきではない」のだ。これがアウグスティヌスが言う「地の国
(この世の都)
」の始まりである。
創世記第四章末尾には、カイン一族の華々しい「この世の都」の繁栄と比較対照されるように、
セツに始まるつつましい「神の都」の記述がある。まことに主がおっしゃったように「この世の
子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜け目がない」ものなのである。神は
敬虔なアベルの死後、アダムに彼の代わりにセツをお与えになる。セツから生まれたエノシュの
生まれた時から、
「人々は主(YHWH)の御名によって祈り始め」、ノアに至る一族は神を畏れ
る敬虔な一族となった。
ちなみに「エノシュ」という名は、
「アーナシュ」つまり「弱い、病気である」という語の派生
35
語と見られ、普通名詞として「人」という意味に用いられる場合には人間の弱さや死ぬべき運命
にある存在という意味を含む語として用いられる。たとえば神の御手のわざである星空を見上げ
たダビデの詩篇八編「人とはいったい何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」
とあるように(6)。あるいはエノシュは、親がその子のために日夜涙かわく暇なく祈らないではい
られぬほど病弱な子だったのかもしれない。神が祈りと認められる心の態度の第一は無力さであ
り、無力である人だけがほんとうに祈ることができるのであり、祈りは無力な人のためのもので
あると北欧の敬虔な神学者が言うように(7)、無力のなかでこそセツの一族は主の御名によって祈
り始めたのであろう。神の 国は心の貧しい者たちのものなのであった。
以上、創世記第四章の記述において注目すべきことは、神を畏れる敬虔な一族は人間の無力の
自覚と祈りをその特徴とし、神に背を向けた土地に呪われたカインの一族は「力への意志」をそ
の特徴とし、都市と文明はこのカインの一族のうちに最初に現れたということである。創世記記
者は文明・都市というものにつきまとう性質をこの記述のうちに暗示している。文明が神の御顔
から去り、土地にのろわれた一族のうちから生じたというのは、彼らが神の代用品として都市文
明を築いたということを示唆している。神から保護の約束をいただいてもなお神の保護を信じら
れなかったカインは、外敵を防ぐために城壁を築き、町を築いた。土地に呪われたカインは、か
えって土を忌み嫌ってこれを石畳で覆い尽くした。神の慰めを持たずたましいのうちに天使の賛
美を聞けぬカインの一族は自ら音楽をも工夫して、心の慰みとした。神の大盾を信じられぬカイ
ンの一族は青銅や鉄で武器を工夫して敵に備え、さらに侵略を企てた。
むろん、文明のもろもろの利器はカイン族のうちにとどまらず、セツの一族の用いるものとも
なって、そういう技術があったればこそ、ノアもあの巨大な箱舟を建造することができたであろ
う。また、後には神の民も楽器をもって神を賛美するようになるし、青銅器や鉄器も使うように
なる。ゆえに、文明即背教と創世記は語っていない。しかし、それにもかかわらず創世記第四章
は、都市と文明の発端について、背教的動機を語ることによって、我々に都市と文明を偶像化す
る危険に警戒を怠らぬように求めている。それは、バベルの塔の記事にも共通している。都市と
文明はえてして、人を傲慢にして、人を背教へと走らせる。この事実は、近代都市文明が、どれ
ほど人の心を神から遠ざけてきたかを見てもあきらかであろう。近年、都市文明のかつての栄光
が曇りつつあるものの、なお現代人にとって都市文明は巨大な偶像であろう。
特に、
「神と土と人」という主題から都市文明という問題を考えるとき、我々は都市文明が土を
忌み嫌い、土を疎外している現実に目を留めたいと思う。都会人は、泥臭いことを忌み嫌う。泥
臭いことは田舎じみたことであり、恥ずべきことと感じている。都市文明は土を忌み嫌い、土を
石畳で、コンクリートで、アスファルトで覆い尽くしてしまう。家を出てから会社に着くまで、
土の道を歩かずに済むことが都会人のあかしであるかのごとく誇りとしている。「職業に貴賤な
し」と口先ではいいながら、内心、泥にまみれる仕事はできれば避けたい仕事であり、机に向か
ってペンを取り、キーボードを打つような仕事が高尚であると信じている。土に呪われ土から疎
外され文明化された人間は、逆に、土を疎外することによって土に対して復讐を企てた。その象
徴が都市である。
ウ.全被造物贖いのビジョン
主の再臨が延ばされて、もし二十一世紀があるとすれば、人類が直面する三つの問題は人口爆
36
発と食糧危機と環境破壊である。国連の統計では二○二五年に世界人口は八十三億に達するとい
う。2001 年五月、世界人口はついに六十億を数えた。今、世界で十億人か ら十五億人は栄養不
良ないし栄養失調である。世界人口が八十三億に達したならば、食糧生産量と消費傾向が現状の
ままであれば、世界の半分は飢餓に苦しまなければならないことになる。
「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取る
に足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んで
いるのです。それは被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであ
って、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の
自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦
しみをしていることを知っています。」
(ローマ8:18−22)
「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」
(2ペテロ3:13)聖書に啓示された再臨のキリストが終局的にもたらす救済とは、人類の救
済のみならず全被造物の救済である。そこには人口爆発・食糧危機・環境破壊といった問題はな
い。人間はキリストにあって新しいからだを受け、被造物のかしらアダムの堕落以来、虚無に服
していた被造物は、栄光の状態に入れられる。イザヤは幻のうちに凶暴な「熊も獅子もわらを食
らう」御国を見た。
今、我々が置かれているのは、キリストにある贖いが「すでに」なされたことを感謝し、
「いま
だ」訪れていないこの新天新地の完全成就に希望をおいて生きるという、二つの「時」の間であ
る。ここにおいては、被造物の「産みの苦しみ」があり、我々もまた、産みの苦しみに参与すべ
きである。それが本来の「神と土と人」を回復することにほかならない。新天新地の訪れまで、
それは完成しないであろうが、託されたタラントに応じてその任務を果たすなら、かの日には主
に喜ばれより多くのものを任されるであろう。
6.原福音と三つの神学体系
原福音と呼ばれるのは、周知のごとく創世記3:15。そして、もう一つ考察したいのは、3:
21節。
(1)
「女の子孫」創世記3:15
蛇に対して語られるのろいの言葉において、「女のすえ」が蛇(サタン)の頭を踏み砕くと予告され
る。この女の子孫は、先に歴史観について学んだときにアウグスティヌスにしたがって述べたよ
うに、アベルーセツーノア・・・とつながっていく神の民の霊的系譜を意味していると見られ、
また、ローマ書 16 章 20 節にも神の民(クリスチャンたち)を指すという理解に基づいた記述があ
る。
同時に、女の子孫が「彼」と単数で受けられていることに、私たちはここに得にメシヤ預言を読
み取る。彼はサタンの頭を踏み砕く。蛇は彼のかかとに噛みついて、してやったりと思った次の
瞬間、踏み砕かれてしまう。主イエスご在世当時、古い蛇、サタンは当時の祭司階級・律法学者・
世俗の権力をつきうごかして、御子イエスに敵対させた。主イエスは彼らを「蛇ども、まむしの
すえども」と呼んだ(Mt23:33)
。神の御子イエスを十字架につけたとき快哉の叫びをあげたであ
37
ろうが、次の瞬間、蛇の頭は踏み砕かれていた。
神の民とメシヤが女の子孫と呼ばれるのはどういうわけか。女の出産を通じて救い(主)が来ると
いう約束であるからである。
旧新約聖書における神の救いの歴史において、女の出産が画期的な出来事として啓示されてい
ることに気づく。イサクの出産によってアブラハムへの約束が成就し、モーセの出産によって出
エジプト事件が始まり、サムエルの出産によって霊的暗黒の士師時代に終止符が打たれて王国時
代の幕開けとなり、バプテスマのヨハネの出産によって旧約時代の総括がされかつ新約時代が幕
開ける。そして究極的にキリストの誕生。女の子孫から神の救いは訪れ、メシヤは到来するので
ある。女の出産と救いの到来、これは聖書を貫くテーマである。出産に呪いが与えられ苦しみが
増し加えられたのは事実であるが、その女のいのちがけの出産を通して、神の救いの歴史が前進
するのである。
(2)いちじくの葉と皮の衣・・・創世記3:21
もう一つは、21 節「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてく
ださった。」
a.神が手ずから
このことばは、いわゆるアンスロポモロフィズム(神人同形論)のように映るので、それを警戒し
て、神が、あたかも毛皮商人や仕立て屋のように、獣を殺し毛皮をなめして縫い合わせて皮の衣
を作ったということではなくて、そうすることを人間に許可したという意味であるとカルヴァン
はし、おそらくカルヴァンの線にのっとってカイルとデリッチやアアルダースも同じことを言う。
おそらく神の尊厳にかかわることとしての心配の注解だろう。また、神が霊であるということゆ
えの注解だろう。
たしかにそこには人間としてはアダムとエバしかいなかったのであるから、皮衣を製作するこ
とが出来るものがいるとすれば、神ご自身か、この二人の人しか存在しなかったわけである。そ
して、神が自分で動物を殺し、皮をはぎ、これをなめし、縫製したというのを文字通り取れば、
難しいこともなくはない。
しかし、このようなゴリゴリした解釈では、
「神が彼らのために皮の衣を作って、彼らに着せて
くださった」という驚くべき恵み、その恩寵的表現が台無しになってしまう。
すでに創世記 2 章、3 章の表現を読めば、全体として神がいとも近きお方として、園を歩いて
回っていらっしゃるようすがうかがえるのである。先に、
「そよ風の吹くころ園を歩き回られる主」
という大胆な恩寵的・下降的な愛(アガペー)をすでに、創世記記者は霊感されているのである。こ
こもまた、神がどのようにしてか、手ずから彼ら罪人のために皮衣を作ってくださったという表
現を率直に読み取るべきであろう。
創世記全体の文脈を考えて見よう。そして聖書全体を。ここに、私たちは後の日には人となら
れる神を読み取るべきであろう。創世記の中には、主が御使いの姿をしてアブラハムを訪れたと
いう記事もあり(18 章)、あるいはヤコブとすもうを取ったりする主の姿も見られる(32 章)わけで、
上のような解釈は決して唐突ではないであろう。格別、堕落以前、神と人とはこれほど親しい交
わりがあったということを啓示されているのである。
38
人ではなく、主なる神が皮衣を作り、彼らに着せてくださったということを、すなおに読みと
ってこそ、先に人が自分の手でいちじくの葉で腰おおいを作ったこととのコントラストが明瞭に
なろうと言うものである。
b.血が流されて
「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」へブル9:22
カルヴァンは、それが麻やウールではなく荒荒しい皮衣であったわけについて、彼らに自己の
下劣さを思い出させるためであったと言い、ぜいたくを戒めているというようなことまで言った
りするが、それはいかがなものか。もちろん彼の聖書講解が聖書研究ではなく、日々、目の前に
集うジュネーヴの聴衆を前になされたことを考えれば、こうした適用もあながち否定はできない。
しかし、ここには、文脈的に見て、あきらかに人間がはだかの恥を覆うために、自分で作った
いちじくの葉の腰おおいとのコントラストがあると見るべきであろう。ちなみに旧新約聖書に一
貫して「裸」と「恥」ということばは対になって出現する。コンコルダンスで調べてみよ。裸を
誇るのは地中海的な異教文化の名残である。聖書的啓示の伝統においては、裸は恥じるべきもの
なのである。それはともかく、人間の手製のものはすぐに破れてしまうが、神が作ってくださっ
たものは長持ちする。それは単に着物として長持ちするという以上に霊的祭儀的な意味が読み取
られるべきであろう。
ここにキリストの贖いの予型をただちに読むのは、exgesus 読み取りでなく eisgesus 読み込み
であるという指摘もあるだろう。しかし、文脈を十分にわきまえるとき、読みこみとはいえない
と思われる。このときアダムとエバのために初めて動物の血が流され――というのは彼らはこの
ときまだ肉食をしていなかったから――、その衣で彼らが恥ずべき裸をおおったとき、彼らには
それは大きな衝撃であったろう。自分たちの恥を覆うには生き物の血が流されいのちが求められ
るのだと認識させられたのだ。
「それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ」と言われたの
に、率直な意味で死んだのは自分ではなくこの動物だったとき、その動物が身代わりとなったと
いうことを彼らは悟らざるを得ないであろう。この衝撃的な出来事に、霊的な意味を読み取らな
い方が不自然である。
人間が自分の恥をおおうために自分でなすわざを象徴するのが、いちじくの葉であるとすれば、
神が人の恥(罪)をおおうわざを表わすのが血を流して用意された動物の皮衣である。
罪深い裸の恥をおおう衣は、Ex28:40-42「裸をおおう亜麻布のももひき」というふうに祭司の服
として、そして、新約にあっては「キリストを着る」(ローマ 13:14、ガラテヤ3:27)「天から
の住まいを着る」(2コリント5:3−4)と展開する。そして殉教者たちに与えられる「白い衣」
と。(黙示録6:11)
このように見てくると、神が人のために動物を犠牲にして血を流して彼らの衣を作ってくださ
ったということを、後のいけにえの儀式の予型と見、さらにその延長線上にメシヤの十字架にお
ける血による罪の贖い、キリストの賜る義の衣の予型と見ることは、決して荒唐無稽な話ではな
く、むしろ妥当な読みであると考える。
C.ホッジは、
「人間はみなアダム以来、自力救済主義者となってしまった」と言った。人間の作
ったあの無花果の葉の腰覆いは自力救済主義の象徴である。人のわざ(肉のわざ)による罪と恥
39
のおおいは、小一時間もすればしおれて枯れてしまうようなものでしかないのである。イザヤが
いうように、人間の義は、神の目にはボロ雑巾にすぎない(イザヤ64:6)
。しかし、神が恵み
によって血の贖いによって人を罪から救って、義の衣をもっておおってくださる。救いにおいて、
主語は人でなく神なのである。「神が皮衣を作り、着せてくださった」のである。
(3)原罪――神学体系のアルキメデス点
創世記第四章に至ると、最初の夫婦の罪はその子孫にまで及んでいるということが判明する。
創世記 4 章 1 節のエバのことば「私は主によってひとりの男子を得た。」に、私たちは創世記3:
15の蛇の頭を踏み砕く「女の子孫」を得たのだという女の喜びの響きを聞き取るのであるが、あ
にはからんやその息子が人類の歴史上、最初の殺人者となってしまったのであった。罪は、一代
でとどまるのではなく子々孫々伝わっていってしまう恐ろしいものなのであるという現実がここ
に啓示されているのである。
ダビデはバテシェバ事件において恐ろしい罪を犯した後、悔い改めの詩を歌っている。そこで
彼は言う。
「ああ、わたしは咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
」(詩
篇 51:5)
原罪である。これがいかに転嫁されていくのかについての神学議論はここにするつもりはない。
関心のある人たちは、ご自分で組織神学書なり、J.マーレー『罪の転嫁』を読まれると良い。
原罪の教理について、18 世紀の啓蒙主義者たち、ヴォルテールやジャン・ジャック・ルソーなど
は、原罪の教理が人間の能力についての悲観的な見方を助長して、人間性と人間社会の発展を妨
げると主張する(今日の積極思考とか成功哲学を背景とする人々の主張と同じである)。またドイ
ツの啓蒙主義者たちは、原罪の教理はアウグスティヌスつまり 4‐5 世紀に始まるものであって、
本来、聖書から出たものではないかのように主張する。しかし、私たちは聖書の最初に、また旧
約聖書に、この人間本性の根本的な堕落の現実を見るのである。
原罪についての見かたは、神学体系におけるアルキメデス点であると A.A.ホッジは The Outline
of Theology 第四章で述べている。原罪のとらえ方によって、神学は三つの体系をなすことにな
る。三つの体系とは、
ペラギウス主義―ソッツィーニ主義の自力救済主義、
パウロ―アウグスティヌス主義―ルター・カルヴァンの恩寵救済主義、
そして、その中間に位置する半ペラギウス主義―アルミニウス主義である。
ペラギウスは生まれながらの人間は堕落前のアダムと同じ状態に生まれてくるとし、原罪の教
理を否定し、自力救済主義の道徳宗教を主張する。詳細はアウグスティヌスのペラギウス論争の
いくつかの書物を学ばれると良い。パウロないしアウグスティヌス主義は、人間が生まれながら
に原罪を抱えているとし、全的な堕落を主張する。全的に堕落している以上、人は自分で自分を
救うことはできないのであるから、ただ神の恩寵にすがるほかないということで恩寵救済主義と
なる。半ペラギウス主義は原罪を認めつつ、部分的に堕落しているとする。半恩寵・半自力救済主
義ということになる。
この三つのタイプの救済主義はキリスト論にも影響する。ペラギウスにとって救い主は人間自
身であるから、論理的必然としえキリスト観はせいぜい模範者(モデル)ということになる。アウグ
スティヌスにとっては、人間は自分で自分を救い得ないのであるから、キリスト観の根本は贖罪
40
主ということになる。半ペラギウスにとっては、両者の中間ということになる。
ドイツの啓蒙主義神学者ライマールスは「史的イエスの探求」をして、新約聖書の描く超自然的
な人類の贖い主でなく、常識的な愛の教師イエスを見出そうとした。イエスは単なる模範者、教
師にすぎないのである。啓蒙主義・自由主義神学は結局は「キリスト教」を装っていても、本質的
にはペラギウス主義の異端であって単なる人間主義的な道徳にすぎない。十九世紀、二十世紀、
ペラギウスの異端説にすぎない彼らがメインラインを称してきたのは、奇観というほかない。
<付録>
「自由意思」
堕落前、人は自由意思をもって罪を犯さないことができる posse non peccare 状態だった。
堕落後、人は罪を犯さないことができない non posse non peccare 状態になった。ただ罪を犯
すときに自由意思を働かせることができる。
完成のときには、罪を犯すことができない non posse peccare 自由を享受することになる。
5.聖書的歴史観の概要
(1)直線としての時と円環としての時
a.時には始まりと終わりがある
創世記1:1と黙示録22:12,13
宇田進博士は『現代福音主義神学』において、ベルジャーエフの言葉が引用して、ギリシャ思
想においては世界を完成したコスモスと美的に捉えているとされ、そこにおいては、時に始まり
も終わりもなく、いっさいは永遠の歴史的循環だとされる。しかし、古代ギリシャでもアリスト
テレスは『自然学』のなかで自然物の運動に即して、時間を「前後に関しての運動の数」と定義
したように、時間についての考察が皆無というわけではない。ただ、歴史という意識はないとい
うことはできるのであろう。
「歴史という語は、一方では過去の出来事の叙述を、他方ではその出
来事そのものを意味するが、出来事の単純な反復は歴史ではなく、出来事の継起が、発展の意味
をもつ場合に歴史となる」
(岩波『哲学小辞典』)からである。ギリシャ的歴史観、異教的歴史観
は円であるとされるから、歴史観そのものが無いと言ってもよい。ギリシャにかぎらず自然宗教
を背景とすれば、春夏秋冬の循環や、地に落ちて死んだ種から新しい芽ぶきが起こるその生と死
の循環を見ていると、時間のイメージは円となるであろう。したがって、思想において歴史は主
題的に扱われず、永遠のみが主題とされる。
ルネサンス以後を近代と見て、これを進歩史観の時代と見る立場もあるが(宇田進『現代福音
主義神学』p419)
、近世ルネサンス人たちが抱いていたのはむしろ退歩史観というべきではないだ
ろうか。ルネサンス期の人々は、古典古代こそ黄金時代であり、それが銀に、青銅に・・・と退
歩してきたと考えたからこそ、古典古代をこそ学ぼうとしたのである。さればこそルネサンス文
芸復興と呼ばれる。
ルネサンス以降を進歩の歴史と見たのは、むしろ 19 世紀ヨーロッパ人の観点によるものであり、
彼らこそ進歩史観に立っていたということができよう。ヘーゲル、マルクス、ダーウィンのみな
41
らず、コントを代表とする実証主義、デューイなどプラグマティズム、あるいは自由主義神学者
たちなど、あらゆる思想家たちは楽観的な進歩史観に色づけられている。思想界は 20 世紀を迎え
世界大戦の惨禍を見て、すぐに悲観的な歴史観が登場する(シュペングラー)が、自然科学と合理
主義になお楽観的な見方を持つ一般人の世界では、20 世紀末ころまではなおも進歩史観に立って
いたということができるのではないだろうか。1970 年万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」
であった。進歩史観に立てば、
「そんな考え古いよ」ということばは「それはだめだよ」と同義語
になる。いまだに「そんな考え古いよ」という一言で人の主張を一蹴できると思っている人、
「最
新の学説」をひたすら追い回してくたびれている学者もいるかもしれないが、そういう人は 19 世
紀人にすぎない。退歩史観に立てば、逆になる。新しいものほどだめなものであり、古いものほ
ど価値あるものである。
神が聖書において真理を啓示されたという信仰に立つわれわれは、その主張が新しいか古いか
によって価値の有無を判断基準とはしない。それが聖書にかなっているかどうかということこそ、
われわれの適切な判断基準である。
環境問題がクローズアップされ、地球の危機が現実性を帯びてくる状況において、20 世紀末、
21 世紀初頭にいたって、一般的意識も悲観的な歴史観の様相を帯びてきているのではないだろう
か。哲学者、思想家というのは、およそ 100 年くらい早く時代思想の成り行きを感じ取るらしい。
時には初めと終わりがあるという認識、
「今」という時は二度とは訪れない一回かぎりであると
いう認識、つまり、歴史意識は聖書のなかに現われる。アウグスティヌスの『神の国』はこの枠
の中で書かれた。彼はもともとギリシャ・ローマ的な教養人であったが、聖書にふれてこうした歴
史を知ったのである。それはまず『告白』における自己史において表現され、
『神の国』で大成す
る。
聖書は、時に始まりと終わりがあることを教えている。時は、神の創造によって始まり、神の
審判において終わるのである。ここに歴史意識が生じる。今というときは、歴史の中において一
回限りなのである。私の人生は一回限りであるということ。私の人生において、今というときは
一回かぎりであるゆえに、決断を迫る緊迫感。
b.時と空間は密接不可分であり、時は繰り返しつつ前進し完成に至る
時には初めがあり終わりがあるというのが、聖書的な歴史観の大枠である。
同時に、聖書によれば、時は天体の回転・運行する空間と関係づけられて、循環的性質を持っ
ている。
「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のた
め、年のために、役立て。
」創世記 1 章14節。すなわち、地球の自転一回転が一日であり、地球
の公転一回転が一年となる。本来天体の運行は時のために役立てるためであった。神は、このよ
うに時と天体の空間的な運行・回転を関係づけておられる。時と空間は密接不可分な関係にある。
よく考えてみると、天体の空間的運行は具体的な生きている時間と関係している。地球が太陽
に対して自転していることによって、昼と夜が訪れる。もし地球が自転せず、昼と夜がなければ
どういうことになるか。太陽に向かった側は、灼熱地獄となるであろうし、その反対側は暗黒の
寒冷地獄となってしまい、そもそも生命の存在が可能であるかどうかが疑わしい。生命の存在が
なく、したがって人も存在しないのだから、
「時間」をうんぬんすることは意味が無いだろう。天
体が自転するというのは、たとえば月がいつも地球に対して同じ面を見せているように、当たり
42
前のことではないのである。月の運行も地球の生命現象に深い影響があることが知られている。
満潮・干潮の現象は月の運動によって生じている。また地球の地軸が傾いており、太陽の周りを公
転することによって季節の変化が訪れて、動植物のさまざまな移り変わりがあるのである。
こうして見てくると、地球上における時間というものと、天体の運行という空間的現象とは、
きわめて深い関係があることがわかる。そして、そこに生命現象と人の人としての営みとが関係
している。
レビ24−25 章には、地球の自転と公転という空間運動によってもたらされた時の刻みを、ど
のように人生の中に意識化して生きるかが教えられている。七日に一度の安息日、一年一度のい
くつかの祭り、七年に一度の安息の年、安息の年を七回繰り返して 50 年目がヨベルの年。このヨ
ベルの年の解放の出来事は、メシヤ到来による解放の出来事の予型である(イザヤ61:1)
。つ
まり、時は繰り返しつつメシヤ到来という目的・完成に向かってらせん状に進んでいくという構造
をしている。
初めと終わりがあるかぎり、<今日という日は一回限りである>という緊迫感ある。が、時が
繰り返すということには、<きょうは失敗したが、明日がある>という慰めがある。時の経巡り
のうちにも、私たちはあのことばを思い出すだろう。「見よ、神の慈しみと厳しさを!」
(2)救いの歴史の中心
a.神の国と地の国
「わたしは、おまえと女との間、また、おまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼はおま
えの頭を踏み砕き、おまえは彼のかかとの噛みつく」創世記3:15
創世記3:15に、聖書的観点からの歴史の見方の一つの原理が提示されている。それは、歴
史を女の子孫と蛇の子孫との抗争の歴史と見る見方である。
この原理に立って歴史哲学を展開した史上最初の人は、アウグスティヌスであるといわれる。
彼は「神の都」において、神の都と地の都との抗争の歴史としての歴史哲学を展開した。女のすえ
と蛇のすえの歴史である。
「神の国」第15巻8章
女のすえ―――アベル――セツ族――――――――「神の子ら」(Gn6:1−2)
へびのすえ――カイン――カイン族――レメク――「人の娘」
創世記6章冒頭の「神の子」と「人の娘」とは誰か。神の子を天使と捕らえる向きもあるが、主
イエスによれば天使は娶ることもとつぐこともないので、不適切である。「神の国」22章におい
てアウグスティヌスは、神の子らとはセツの敬虔な一族つまり神の国の民をを指しており、人の
娘はカインの不敬虔な一族つまり地の国の民を指していると解釈している。神の国の男たちが、
地の国の女たちの色香に迷って雑婚を始めたことが、ノアの時代――大いなる裁きの前夜――の
堕落した世界の発端であったと指摘している。これは終末の時代である現代にも警告である。
創世記の 6 章にいたる歴史を簡略に述べてみよう。
サタンは思い上がって神に背いてしまう。サタンは、アダムとエバを「神のようになれる」と誘
惑して、彼らを罪に陥れる。アダムとエバから、カインとアベルが誕生する。カインはアベルを
殺し、カインの子孫は神に背く文明――地の都を形成していく。他方、神は死んだアベルに代え
てセツをお与えになり、セツ族からは神を畏れる祈りの一族――神の都――が生まれていく。し
43
かし、やがて両種族は結婚によって混じって行き、もはやノアの一家のほかに敬虔な家族はいな
くなってしまう。結婚・家庭がかぎである。
新約聖書は、神とサタンの間の宇宙的な格闘のなかで、カインとアベルという二人の人物の意
味をはっきりと決定している。カインは「悪しき者」つまりサタン(1ヨハネ3:12)から出たも
のである。アベルと同じようにエバから生まれたのであるが、カインは創世記3章15節で描写
された女のすえに属するものとみなされることはできない。カインは肉体的にはエバから生まれ
たが、霊的にはサタンのすえに属するのである。バプテスマのヨハネは偽善的な人々に向かって
「まむしのすえ」と言い、主イエスは敵対するユダヤ人たちに対して、
「あなたがたは、あなた方
の父である悪魔から出たものである」(ヨハネ 8:44)と言った。
女のすえとは、神に属する人々を意味しており(ローマ16:20)、究極的にへびの頭を踏み砕
く単数の「彼」と呼ばれる女のすえは主イエスをさしている。
*O.P.Robertson、The Christ of the Covenants を参照せよ。PP98‐99
明白に、女とへび(竜、サタン)との格闘として終末的な戦いのありさまが啓示されているの
が、黙示録 12 章である。十二の冠をかぶった女は旧約新約を貫く神の民であり、この神の民のう
ちから「男の子」キリストが生まれ、天に上げられ、竜は手下どもとともに天から落とされて、
女を迫害する。
*プラトン主義との比較
世界観について多様性と統一性というだけでは、実は、プラトン的な世界観とさして変わると
ころが無い。プラトンは、多様な個物の世界に意味ある統一性を与えている原理をイデアととら
えた。しかし、それは永遠的な理想世界を指してはいても現実を十分には把握しているとは言い
がたい。
聖書に特徴的なことは、統一的で多様な世界の認識に、神の聖定の展開としての時間的・歴史
的要素が加えられることである。アウグスティヌスは『告白』において自らの思想的遍歴を記し、
後に『神の国』で二つの国の抗争の展開としての歴史観をもってこれを記している。私たちが聖
書的な世界観というとき、そこに時間的歴史的要素を抜きにしては語ることができない。
アウグスティヌスが神の国と地の国の抗争の展開として歴史を捉えたのは、一つには彼がかつ
てマニ教の善悪二元論に染まっていたことが背景にあったからではないかという指摘がある。そ
うかもしれない。しかし、それだけではなく、彼が聖書を知り、同時に司祭となってもろもろの
苦しみ、悪の問題と直面するようになったとき、悪のリアリティと、それにもかかわらず未来に
神のさばきを信じるという信仰の真実があったからであろうと筆者は考える。彼の『自由意志論』
という書物を読むと、ギリシャ的教養人としてのアウグスティヌスが、司祭として聖書に耳傾け
ながら、牧会の現場に生きるようになっていく過程で、悪の問題の理解の深まりと歴史というも
のに目さめていく過程が手に取るようにわかる。
私たちが聖書的世界観を言うときに、役者としては、神、天使、人、自然だけでは足りない。
そこに悪魔がいることを考えに入れなければ、具体的な歴史を捉えることはできない。女の子孫
と、へびの子孫の抗争の歴史、そして最終的に主の勝利が約束された歴史として見るときに、は
じめて私たちはこの具体的歴史を見、また、具体的な歴史の中になお希望を持って生きることが
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できるであろう。書斎にこもってプラトン的な永遠的無時間的な理想世界をながめているだけで
は、私たちは歴史形成に参与することはできまい。プラトンは理想の哲人支配を唱える『国家論』
を書きながら、それが実現できずに失望のうちに生涯を閉じた。私たちは正しく聖書的歴史観に
立ってこそ、困難な福音宣教の前線に立って、戦うことができる。
b.地の国の権力者
ルカ4:5−8、黙示録13:2
旧新約の時代と貫く教会の歴史において、常に「教会と国家」の問題が繰り返されてきている
ことに注目せよ。
もう一つ歴史理解のために聖書から抑えておくべきことは、サタンが「この世の君」と呼ばれて
いること、サタンにはこの世の権力について一定の権威があり、サタン(竜、悪魔)が女(教会)
を迫害しようとするとき、竜は国家を道具として用いるということが、黙示録 12 章に続く黙示録
13 章に、記されている。教会と国家の対立抗争というのは聖書を貫き、歴史を貫くテーマである
ことに注目せよ。
サタンは、サタンにたましいを売る者(第一の獣)に権力を与えて権力者とする。権力者は横暴に
振る舞い、神の民(教会)を迫害する。その際、御用宗教(第二の獣)を利用する。世俗権力が宗教
性を帯びることの危険性を私たちは知るべきである。旧約聖書の例で言えば、ヤロブアムの国家
神道政策、ネブカドネザルの金の柱。そして、歴史上、教会を迫害したもろもろの悪魔的な統治
者たちを思い起こすがよい。ネロ、ディオクレティアヌス・・・ヒトラー、スターリン、毛沢東、
ポルポト、金日成など枚挙に暇が無い。
そもそも世界の王たちは、そのほとんどが祭司王として成立したことを文化人類学者が指摘し
ている。ラッシュドゥーニは政教分離的な理念は、ただ聖書的な伝統のなかにのみあったと指摘
している。モーセはかなり祭司王的であったが、それでもすでにアロンという祭司を立てていた。
サウル王の問題点は、王でありながら祭司職に属することを侵犯したことであった(1サムエル
13,15)
。ヤロブアムの罪は王でありながら、宗教を作り出して国家の統治に利用したことで
あった(1列王12:25−33)
。名君ウジヤ王の晩年の悲惨は、王でありながら祭司の職分を
侵したことが原因であった(2歴代26:16−21)。
「教会と国家」という問題。それは単にこの世の制度的な問題ではなく、サタンのからむ事柄
である。日本宣教の文脈において、靖国問題・天皇の問題について、聖書的な大きな枠をとらえて
おくことがたいせつ。
c.「救いの歴史の中心」と「終わりの時」
へびの頭を踏み砕くメシアの到来を待望する、女の子孫と蛇の子孫の抗争史として、アダム以
後の救いの歴史は展開されていく。
イザヤ61:1にあっては、ヨベルの年と到来は、メシヤの到来の型として理解され啓示され
ている。そしてイエスご自身、ナザレでの宣教の最初にこのイザヤ書を引用して、ご自分がメシ
ヤであることを暗示された。
神の御子の受肉について、「時満ちて」という表現がガラテヤ書4:4には取られている。アダ
ムの堕落以来、長く長く待ち望まれたメシヤの到来が、時満ちて成されたのである。
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へブル9:26「しかし、キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして
罪を取り除くために、来られたのです。
」とあるように、聖書的な歴史観によればキリストの初臨
によって、
「終わりの時」は始まったのである。それは農業に譬えれば収穫のときと言えば良いだ
ろうか。土を耕し種を蒔き水を蒔き草を取り、収穫のときを待つ。収穫の時は目指す「終わりの時」
である。収穫の季節が始まって何日間かかけて収穫の作業がある。この期間が「終わりの時」であ
って、
「終わりの時」にも終わりが来る。今、主イエスが来られて始まった収穫の時は、世界宣教
という収穫作業として続いているが、やがて「御国の福音が全世界に宣べ伝えられて、すべての国
民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。」(マタイ 24:14)という具合に収穫作業も終わる。
神様がペンテコステという収穫感謝祭を世界宣教のスタートのときに選んだのは、偶然ではない。
そして、イエス・キリストの到来の後は、すでに来られた女の子孫であるイエス・キリストを持
ち、かつ、再び来られるキリストを待望する時として救いの歴史はある。気取った表現として「す
でに」と「いまだ」の間に新約の教会は旅するなどと言い習わされている。そういう意味で、キ
リスト教的な救いの歴史観には、イエス・キリストという中心がある。
このような文脈で、コンツェルマンは『時の中心』というルカ福音書研究を書いている。
「救い
の歴史の中心」と表現すれば、端的にわかるのだが「時の中心」といった気取った表現で、わざと
わかりにくくしてあるように見えなくもない。
旧約時代・・・・・キリストの初臨・・・・・・・キリストの再臨
←・・・・・終わりの時・・・・・・→
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