1 欠如としての映像、過剰としての言葉 ―人類学×映像表現/序説

欠如としての映像、過剰としての言葉
―人類学×映像表現/序説―
松村圭一郎
1.はじめに
7 年ほど前から、エチオピアで映像を撮るようになった。たまたま購入したハンディカ
ムをエチオピアにもっていくと、村では中東への出稼ぎブームが始まっていた。急に村中
の若い女の子が海外渡航の手続きを始めている。乾季の終りの村は、日差しがきつく、埃
っぽい。男たちは雨乞いの儀礼を行い、播種のために雨が降り始めるのを待ちわびてい
た。女たちはビザ発給の連絡を待っていた。2 週間ほど村にいてカメラを回していると、
ストーリーが浮かんできた。帰国後、「マッガビット―雨を待つ季節―」という 20 分ほど
の映像を編集した。
以来、何本かエチオピアの出稼ぎ女性を主人公にした映像をつくった。偶然、始めただ
けなので、これまでなぜ映像なのか、映像で何が表現できるのか、あまり考えないまま撮
り続けてきた。「このテーマで論文を書いてもおもしろくなりそうにない」という思いも
あった。では、映像ならおもしろくなるのか?
なるとしたら、どういう意味で?
本稿
では、人類学の表現手段としての「映像」について、少し考えてみたい。
もともとこれは中川さんに訊ねられた問いだ。
「文章では表現できないの?」。いつもの
ように中川さんと大学近くでお昼を食べ、いつもの店でエスプレッソを飲んでいるとき、
そう訊かれて言葉に詰まった。映像のほうが、いろんなことをよく写し撮れる。なんとな
くそんな前提があった。でも、よく考えてみれば、文章で表現できないことなどほとんど
ない。空の青さだって、人の表情だって、風の音だって。
そのときの会話は、ハーバード大学・感覚民族誌学研究所が作成したドキュメンタリー
映画に及んだ。『Sweetgrass』や『リヴァイアサン』などの代表作は、世界中で上映さ
れ、国際映画祭でいくつも賞を受賞している。人類学にとって、「映像」はこれまでの
「民族誌映画」というジャンルにとどまらない表現手段となっているのかもしれない。し
かし、それは人類学の意義がアカデミックな枠組みとは違う地平で問われることを意味す
る。そして、そもそも何が人類学的なのか、という根本的な問いを想起させる。
カメラを手に現場に入って、人びとと関係を築きながら、映像を撮る。それは誰にでも
できる。人類学者の先行研究を参照する必要もない。人類学者が撮るから民族誌的なの
か? ある表現手法自体が民族誌的なのか? ドキュメンタリーやノンフィクションとは何
がどう違うのか? 人類学にとっての映像表現を考えることは、「人類学」というジャンル
/制度そのものを問い直すことでもある。
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2.ドキュメンタリーと民族誌映画の交差
「ドキュメンタリー」という言葉は、ロバート・フラハティの映画『モアナ』(1926
年)の批評文のなかで用いられたのが最初とされる(谷川 1971:9)。『極北のナヌーク』
(1922 年)を撮ったフラハティは、民族誌映画の原点として、かならず引用される人物
だ。フラハティは、地質調査や地図の測量を専門とする探険家だった(村尾
2014)。彼
は、鉄道建設工業主の依頼を受けて、1910 年から 15 年にハドソン湾周辺で 4 回の鉱物資
源の探検調査を行いながら映像撮影を続けたが、すべてのフィルムを焼失してしまう。
1916 年には、資源調査の仕事を辞し、フランスの毛皮商人から資金を得て、本格的な映画
撮影に取り組んだ。
完成した『極北のナヌーク』は興行的にも成功をおさめ、パラマウント映画から南洋を
舞台にもう一本のナヌークを撮るよう依頼を受けた(谷川 1971)。それがサモアを舞台に
2 年かけて撮影された『モアナ』だ。その後も、フラハティは、イギリスの帝国通商局や
ゴーモン・ブリティッシュ映画、アメリカ農業局などからの依頼で作品を撮り続けた。
このフラハティの作品に「人類学的な何か」を見出したのが、後に映像人類学を確立し
たフランスの人類学者ジャン・ルーシュだった。
「フラハティがハドソン湾の小屋に現像室をつくり、スクリーンにできたての映像を映
して、彼の最初の観客であるエスキモーのナヌークに見せたときに、これは彼の知らな
いことだったが、非常に不充分な装置を用いて、30 年後に社会学者や人類学者たちが
用いるようになる「参与観察法」と今日われわれがいまだに不器用にも試みている「フ
ィードバック」の二つを発明していたのであった」。(ルーシュ 1979:78)
フラハティの作品は、いずれも撮影対象社会に 1 年から 2 年をかけて住み込み、ときに
家族を同伴して現地で生活をともにしながら撮影された。フラハティ自身は、いかなると
きも人類学者と名乗ることはなかった(ド・ブリガード 1979: 25)。それでも、彼の撮影
スタイルが長期参与観察調査を柱とする人類学の方法論と重なることで、人類学者によっ
て民族誌映画の原点とされてきたのだ。
ただし、対象社会への長期にわたるコミットメントは人類学の専売特許ではない。日本
の戦後の代表的ドキュメンタリー監督で、ともに岩波映画製作所出身の土本典昭と小川紳
助、そして、それに影響を受けた次の世代の監督たちも、撮影の現場に長期にわたって滞
在し、対象への深い関与のなかで作品をつくりあげてきた。日本のヌーベルヴァーグの旗
手だった大島渚は、草創期のテレビドキュメンタリーを舞台に実験的な作品をつくり、ド
キュメンタリーの原則を「対象への愛」と「長期取材」とテーゼ化している(佐藤
2006:8-9)。
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1970 年代の日本のドキュメンタリーを牽引した土本と小川は、いずれも岩波映画を辞め
たあと、ひとつの現場にこだわった連作を世に出してきた。土本は『水俣―患者さんとそ
の世界』(1971)をはじめとする水俣シリーズの 13 本におよぶ連作を撮り、小川は、『日
本解放戦線・三里塚の夏』(1968)などの 7 本の三里塚シリーズを現地でスタッフと共同
生活を送りながら撮った(佐藤 2006:9)。とくに土本は、2004 年発表の『みなまた日記―
甦える魂を訪ねて』まで、じつに 30 年以上にわたって水俣を撮り続けてきた。
土本のもとで『無辜なる海―1982 年・水俣』(1983)の撮影に参加した佐藤真は、1987
年から新潟水俣病の阿賀で映画撮影の準備を進め、88 年から「阿賀の家」と名づけた借家
を拠点に 3 年あまりの撮影を続けた。1992 年に完成した『阿賀に生きる』は、全国各地
でロードショーとなり、30 をこえる国際映画祭で招待上映される話題作となった(佐藤
1997)。
この佐藤も、フラハティの『極北のナヌーク』を高く評価している。
「長期滞在、対象
の懐に飛び込むこと、加担することで生じる共犯関係、ラッシュフィルムを見せることで
進む人間関係・・・・・・ドキュメンタリー映画の原点がすべてここにある」(佐藤 2006:116)
と述べて、その姿勢を次のようにも評している。
「雪と氷に閉ざされた僻遠の地に暮らすエスキモーを対象にしながら、民族学的関心や
珍奇な風俗習慣への興味といった<大義>にけっして足をすくわれていない。ただただ
ナヌークとその一家の日常を凝視することだけに関心を集中させているのだ。そのた
め、このドキュメンタリーは世界の果ての物珍しい風俗としてではなく、どこにでもあ
る家族の日常を描いた映画として大いなる普遍に到達したのだ。フラハティは政治の道
具でも啓蒙の道具でもなく、ただ映画のためだけにこの映画をつくった」(佐藤 2006:
79)。
ルーシュとまったく同じポイントをドキュメンタリーの原点として評価する佐藤の言葉
は、民族誌映画とドキュメンタリーとの交差する関係をあらわしている。同時に、フラハ
ティの作品や撮影スタイルをもって「映像人類学」というジャンルの独自性を主張するこ
との限界も示している。長年のフィールドワークをとおして対象と信頼関係を築いている
からこそ、人類学者にしか撮れない映像があるという言明には、何の根拠もない。映像と
いう表現手段を使って人びとの生活を描くという点において、ドキュメンタリーも民族誌
映画も同じ土俵に立っている。むしろ、人類学という学問にとっては、人類学的な探究に
なぜ映像が必要なのか、文字では表現できない何を描きうるのかが、より重要な問いかも
しれない。
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3.欠如としての映像
この原稿を書くためにドキュメンタリー監督の書いた本を集めて読んでいると、彼らが
いかに自分たちの作品について饒舌に語っているかがわかる。音楽もナレーションも字幕
も入れず、一切の説明を排した「観察映画」で知られる想田和弘は、
『精神病とモザイ
ク』(2009)で映画『精神』について、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(2011)
で、映画『Peace』を中心に前作の『選挙』や『精神』にもふれながら、『演劇 vs.映画』
(2012)では映画『演劇』について、それぞれの作品の背景や撮影プロセスを詳細に披露
している。
それらはどれも読み物として、とてもおもしろい。一方で、作品の意味は鑑賞者にゆだ
ねるという姿勢を貫いてきた監督が、文字での補足的な「説明」を必要とし、鑑賞者もそ
の「説明」を欲しているという点は、別の意味で興味深い。結局、撮る者も、観る者も、
映像だけでは意味の「理解」に十分ではないのだ。
想田は、著書のなかで、映像で撮ることと本に文字として書くことの戸惑いを印象的に
述べている。映画『Peace』に登場する植月さんの描写について。
「実は、僕はこの原稿で「植月さんには知的障害と足の障害がある」と書く際に、かな
りのためらいを感じた。/というのも、僕は植月さんの映像を撮り映画に使わせてもら
う過程で、そういう表現をする必要が一切なかったからだ。つまり映像的には、植月さ
んは黄色いヘルメットを被りゲートルを巻いた、寿司を美味しそうに食べるユーモアの
センスのあるおじさんで、歩くときには足を引き摺るようにしていて、言葉はちょっと
聞き取るのが難しい。それだけだ。/しかし彼の状況を説明するために、「知的障害」
とか「発話に何らかの障害」とか「足に障害」と表現した瞬間に、植月さんは既成の
「障害者」というイメージに押し込められてしまう危険がある。」(想田 2011: 136137)
映像は、意味を固定できない。もちろん編集によって、あるコマとコマとの関係(モン
タージュ)から「意味」を示唆したり、誘導したりすることはできる。しかし、それをど
う受けとるか、その解釈の幅は、文字に比べればきわめて大きいまま残る。だからこそ
「意味」を補うために、ナレーションを入れたり、登場人物にそれらしいことを語らせた
り、言葉が必要になる。映像は、つねに「欠如」なのだ。
しかし、「欠如」しているからといって、映像が「意味」を伝えられないわけではな
い。むしろ、映像における「意味」は、つねに潜在的なものとして、そこに映り込んでい
る。たとえ前もってその「意味」が想定されていなくとも、観る者は何かを感じとれる。
たとえば、文章を書くとき、主語と述語の関係や文と文との論理的関係を意図的に組み替
えたり、ずらしたりすれば、読み続けることすらできないだろう。一方、撮影した映像の
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コマをランダムにつなぎあわせても、そこに何らかの「意味」を読みとったり、存在しな
い「意図」を見いだしたりすることは可能だ。映像が「意味」を固定せず、あいまいなま
まにできるからこそ、そこに意図せざる何かを読みとる余地が生じる。
ロジックや概念の定まらない文章は何も表現できない。ある言葉を使うという時点で、
すでに意味を固定する覚悟を決めなければならない。だから、つい言い過ぎてしまう。言
葉はつねに「過剰」になる。だが、映像には明確なロジックや概念はかならずしも必要な
い。あらかじめ設定された意図や意味もいらない。ただ、すでに何かを映しとっているだ
けで、観る者は何かを感じることができる。
だとしたら、やはり民族誌を映像で表現することは、文字で民族誌を書くことと、まる
で違う営みになるはずだ。そう思えてくる。映像では論文は描けない。少なくとも、「論
文」が何かを論理的に表現し、「考え」を概念と概念の関係をとおして深めるものである
限りは。では、ひたすら描写だけが続く記述的な民族誌なら、映像と同じ表現が可能なの
だろうか。実際に、オスカー・ルイスの民族誌『サンチェスの子供たち』など、映画化さ
れた民族誌もある。文字と映像の表現としての差異の中心は、どこにあるのか。
4.イメージとコトバ、そして時間
映像が映し出すイメージと、そこに意味を定着させる言葉、その関係をどうとらえたら
よいのか。箭内は、次のように述べて、映像と文字言語を対立させるべきではないと指摘
する。
「人類学者が民族誌を書くとき、フィールドの経験における人びとの具体的なイメー
ジ、具体的な日常の場面、具体的な言葉、具体的な風景を念頭に置きつつ文章を綴って
おり、そこからより抽象度の高い考察に移る時も、その抽象的なイメージが最初の具体
的なイメージから完全に切断されたものになることはない。・・・・・・当然、読者もまた、
民族誌や人類学的著作を読むとき、そのような具体的および抽象的なイメージを文章か
ら受け取りながら・・・・・・文章を読んでいくのであり、つまりその読書は言語的行為であ
ると同時に深くイメージ的な行為なのだ。他方、映像は、それ自体においては具体的な
事物を具体的な形で映し出すだけだが、しかし映像を見る人はいつも、映像をその具体
的次元で受けとめると同時に、部分的には言葉を使って考えながら映像を眺めている」
(箭内 2014: 19-20)。
たしかにイメージとコトバは互いに絡み合いながら、ある「意味」の像を結んでいく。
書くときも、読むときも、撮るときも、観るときも。それは確かだ。しかし、それでも民
族誌をイメージのまま映像として提示することと、ある固定的な概念を文字として定着さ
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せながら表現することのあいだには、なお大きな溝があるように思う。
映像では、コトバによって限定されないイメージが中心的に提示される。かならずしも
論理的一貫性がなくとも、表現としては成り立つ。一方、コトバは、さまざまなイメージ
のあいまいさを特定の概念へと縮減することによってのみ、表現可能となる。イメージか
ら意味への変換を、表現者自身が前もって行う必要がある。映像を撮るとき、撮影や編集
に先立つ概念の明確化は必要ないが、書くときには、その覚悟が求められる。なぜ映像で
は、それが可能なのか。
ソ連の映画監督のタルコフスキーは、映画を「時間の彫刻」だと言った(タルコフスキ
ー 1998: 183)。映像が表現できて、文字で表現が難しいことのひとつが、この「時間」
だ。もちろん、文章で時間の経過を記すことはできる。しかし、「時間の流れ」そのもの
を取り込むことはできない。映像では、たとえ意味や意図がわからなくても、少なくとも
「時間」だけは流れる。全編が超スローモーションだったり、静止画だったりする映画
は、あまり想像できない。文書では、「一年後」とひと言で一年の経過を表現することも
できるし、1 秒の出来事を 10 頁にわたって描写することもできる。しかし、映像は時間の
スピード自体を多少変更することはできても、時間そのものを取り除くことはできない。
何かが数秒間、そこに映し出される。それは制約でもあり、可能性でもある。観る者
は、いちおう「観た」というためには、その時間分、映像の前にとどまっていなければな
らない。観る者は、映っている人やモノの時間の流れに身をゆだねる。映像の前にとどま
り、そして「理解」を欠いたまま終幕を迎える。少なくとも十分な理解なのか不確かなま
ま留め置かれる。何が映っていたのか、それが何を意味していたのか、映像の断片が頭の
なかをめぐり、意味の穴を埋めるコトバを探し求める(文章なら、読む者は自身のなかで
生じたイメージを書かれた文字の概念と照合しながら反芻できる)。だから、わからない
ときは、わからないまま時間だけが過ぎる。
同時に映像を撮る者も、そこに映り込んでいる時間に思考や論理をゆだねる。意味や理
解を留保したまま、映像という時間の断片をつなぎ合わせ、投げかけることができる。
(黄金餅ではないけれど)生煮えのまま、思考を放棄できる。その意味で、人類学者にと
って、映像はいまだ民族誌になりえない「時間」をとどめる記憶装置なのかもしれない。
私が「出稼ぎというテーマではおもしろい論文にならない」と感じて、映像を撮りはじめ
たのは、その「意味」を宙づりにし、態度を留保したまま、ただその時間を記録しておき
たかっただけなのだ。
突然、村中の女性たちが国境を越えて働きに出る。世界中で繰り返されてきたこの事態
を目の当たりにして、私はまだ状況をよく飲み込めないままでいる。だから、ノートにコ
トバとして意味を固定するまえに、カメラを回すしかなかった。言い尽くされた物言いで
はない「理解」を見いだせるまで、イメージをイメージのまま、時間の断片を撮りため
る。まだそれしかできていない。映像は、その意味の欠如を、いつか納得のいく言葉が埋
めてくれるまでの未完の民族誌なのだ。
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5.むすびにかえて
テレビ世代の私たちにとって、映像を撮影し、編集することは特別のことではない。い
まこの瞬間も世界中で無数の写真や映像が撮影され、Web 上にアップされている。このイ
メージの氾濫する時代のなかで、人類学があえて映像を表現手段として使うべき理由など
ないようにも思える。映像を撮って編集するだけなら、人類学者である必要はない。
もちろん、人類学が思考してきた世界の理解をひとつのイメージの表現として世に問う
ことは、有意義だと思う。イメージが問いを喚起し、あらたな「理解」への模索を駆動で
きるのであれば。書かれた民族誌をこえる喚起力があるのならば。映像は、思考をとおし
て概念を紡ぐ作業を、半分、観る者にゆだねる。そこに「喚起」の可能性も芽生える。未
完の思考を撮る者と観る者との共同作業で埋めていく。でも、だからこそ、難しさもあ
る。観る者がありふれたコトバでその「欠如」を埋めてしまうことを回避できない。
映像を用いた表現が「人類学」になるためには、その試みの根底に、浮遊するイメージ
の断片に言葉を与え、意味の欠如を補っていく思考のプロセスが欠かせない。それが学問
としての人類学の仕事だろう。映像の撮影と編集は、そのプロセスの一部であり、終着点
ではない。
この数日間、
「映像人類学」というジャンルに感じてきた違和感に言葉をあてはめるた
めに、ぐるぐると考えあぐねてきた。文章を書くことは、混沌としたイメージに輪郭を与
え、手持ちの概念をあてはめ、連結していく作業だ。映像の編集にも膨大な時間がかかる
し、いろんな迷いと模索が続く。ただ、どこか思考を止めて、そこに映り込んだ時間の流
れにゆだねてきたようにも思う。人類学が学問である以上、言葉/概念を紡ぎ出すことを
諦めてはいけない。いちおう、この確信までたどりついて、今回は時間切れ。
最後に、これまで作った映像の解題を載せて、結びにかえたい。映像のもうひとつの可
能性は、いまだコトバにならないイメージを未整理のまま共有できることだ。未完の民族
誌の散らばったイメージの断片を共有し、コトバを埋める作業に参加してもらえると、た
いへん助かります。
以下、視聴は YouTube チャンネル(https://www.youtube.com/user/keimatu1/)で。
■ マッガビット~雨を待つ季節~ /Megabit: Waiting for a rain (2013)
エチオピア暦のマッガビット月(3 月頃)は、長い乾季の終りにあたる。人びとはみな雨
が降りはじめるのを待っている。男性たちは雨乞いの儀式をしながら空を眺める。雨が降
らなければ、土地を耕して種を蒔くこともできない。2 週間の撮影を行った 2008 年 3
月、村の多くの女性たちが中東の都市へ出稼ぎに行こうとしていた。いったい彼女たちは
どんな未来を待ちわびているのか。
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■ ウバンチ
エピソード1 ~名前を変える
人生を変える~
/Ubanchi, episode 1: Change the name, Change the life (2013)
17 歳のウバンチは、同世代の村の女性たちと同じく、家政婦として働くために海外に渡っ
た。しかし結局、5 ヵ月で強制送還になってしまう。キリスト教徒でありながら、イスラ
ーム圏で働くためにムスリムの名前に変えた彼女。2009 年 3 月に約 20 日間で撮影した映
像をもとに、農村で生まれ育ったひとりのエチオピア人女性の過去と未来について、村の
女性たちの生活と重ね合わせながら描く。
■ ウバンチ エピソード2 ~あらたな世界で~
/Ubanchi, episode2: A New World (2013)
2011 年 11 月と 2012 年 3 月、中東で働くウバンチのもとを訪ねた。あらたな世界で彼女
はどんな生活を送っているのか?彼女は何を心の支えにして働き続けているのか?エピソ
ード2では、大人びたウバンチの変化とその前向きな表情の裏にある不安定な生活を描き
出す。
■ 帰ってきたラザ ~村の女に戻る~
/Raza Returns: Becoming A Village Woman Again (2013)
2013 年 8 月。ラザが家政婦として出稼ぎに出ていたオマーンから帰国した。帰国後の 10
月に撮影したラザとその家族の様子から、中東諸国への出稼ぎに行く女性たちの思いやそ
の帰国を待ち望む夫の葛藤などを描く。海外出稼ぎによる家族の離別は、エチオピアの村
にあらたな「家族」のあり方をもたらしているのかもしれない。
■ アンバルとアブド~「家族」のゆくえ~
暫定版
2013 年 11 月、サウジアラビア政府が不法移民の取締を強化したことをきっかけに、首都
リアドの移民の多い地区では、アラブ人の若者と移民との衝突事件が起きた。大量のエチ
オピア人女性が保護を求めて出頭し、収容された。アンバルもそのひとりだった。1 ヵ月
後に帰国したアンバルは、夫のアブドと村での生活を再開したが、「家族」は元のかたち
には戻らなかった。女性の海外出稼ぎの経験をとおして、夫婦や家族のあいだに生じた
溝。2014 年 2 月に撮影したアンバルとその家族の様子から、エチオピアの村の「家族」
のゆくえに思いをめぐらせる。
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<参考文献>
佐藤眞
1997『日常という名の鏡:ドキュメンタリー映画の界隈』(凱風社)
2006『ドキュメンタリーの修辞学』(みすず書房)
想田和弘
2009『精神病とモザイク:タブーの世界にカメラを向ける』(中央法規)
2011『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)
2012『演劇 vs.映画:ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか』(岩波書店)
谷川義雄
1971『ドキュメンタリー映画の原点:その思想と方法』
(風濤社)
タルコフスキー,アンドレイ
1988『映像のポエジア:刻印された時間』(キネマ旬報社)
ド・ブリガード,エミリー
1979「民族誌フィルムの歴史」,マーガレット・ミード他著(石川栄吉他訳)『映像人類
学』(日本映像記録センター),p.15-44.
村尾静二
2014「映画を撮ること、観ること、共有すること:ロバート・フラハティの「人類学
的」映像製作」,村尾・箭内・久保編『映像人類学:人類学の新たな実践へ』(せりか
書房), p.28-43.
箭内匡
2014「序章
人類学から映像―人類学へ」,村尾・箭内・久保編『映像人類学:人類学
の新たな実践へ』(せりか書房), p.7-26.
ルーシュ,ジャン
1979「カメラと人間」
,マーガレット・ミード他著(石川栄吉他訳)
『映像人類学』(日
本映像記録センター),p.75-95.
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