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尼崎教会講演要約
14/02/09
聖書に見られる弱さと強さの神秘
──弱い人が神によって新しくされる
──弱い人が神によって新しくされる──
弱い人が神によって新しくされる──
2014 年 2 月 9 日(日)
於:尼崎教会
弱い人とは?
聖書が「弱い人」という表現を用いるとき、そこには広い意味が含まれて
いる。弱い立場の人、能力が劣る人、貧しい人、病気の人、信仰に未熟な人、
問題を引き起こす人、罪人……。表現自体には、自分に責任があるのかどう
かが問われているわけではない。同じ意味で「小さい人」という表現も用い
られる。旧約における「弱い人」の典型は、やもめやみなしごであろう。新
約においてもやもめは登場するが、このほかに病人、罪人、徴税人、貧しい
人がイエスの向き合う相手としてしばしば取り上げられる。パウロ書簡など
では(つまり初代教会の中では)信仰に未熟な人が弱い人と呼ばれている。
なぜ、ある特定の人にこのような状況が生じるのか。この問題は、聖書の
中でも大きな疑問点として取り上げられている。一般的に、イスラエルの民
の間では、義人は神からの祝福を受けると考えられていたため、神からの祝
福を受けることのできない状況にあるのは、その人、あるいは親や祖先の罪
の結果であると考えられていた。「この人が生まれつき目が見えないのは、
誰が罪を犯したからですか。この人ですか。それともこの人の両親ですか」
(ヨハネ 9・2)。しかし、例えばヨブ記は、なぜ義人が不幸な状況に置かれ
るのかという問題に取り組んでいる。ヨブ記は、結局のところ、この問題の
答えに達してはいない。いや、これを神のみ心の深遠さとして受け止め、人
間には理解できない、しかし、神がすべてを支配しておられるかぎり、救い
のわざにとって意味があることととらえざるを得ないとの結論を出してい
る。これは、前述のヨハネ 9・2 の問いに対するイエスの答えにも通じるも
のである。「この人が罪を犯したのでも、この人の両親が罪を犯したのでも
ない。むしろ、神の業がこの人のうちに現れるためである」(ヨハネ 9・3)。
わたしたちには、なぜ「弱い人」が存在するのか、なぜ神がそれをお許しに
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なるのか、理解することはできないが、聖書をとおして、なぜ神が「弱い人」
に特に向かわれるのかを探ることはできる。そして、「弱い人」がどのよう
にこれを受け止めるべきかを探ることもできる。今回は、特に、この点につ
いて話したいと思う。
「弱い人」を選ぶ神
イスラエルの民は、周辺民族と比べて弱小民族の一つであったが、神はイ
スラエルをお選びになった。しかも、アブラハムの妻サラは子どもに恵まれ
なかったが、神はこの夫婦をイスラエルの祖先として選ばれた。預言者サム
エルは、同じように、子どもに恵まれなかった女性ハンナから生まれ、イス
ラエルの指導者となる。ダビデ王は、末の子どもであった。この構図は、イ
エスの誕生の際にも当てはまる。ルカ福音書の記述に従えば、洗礼者ヨハネ
の両親ザカリアとエリサベトに比べ、イエスの両親ヨセフとマリアは、明ら
かに見劣りのする夫婦であった。誕生の経緯も、イエスは住民登録のために
親戚から引きはがされ、宿屋に泊まることもできず、飼い葉桶の中で生まれ
る。イエスは、公生活の中で、病人、罪人、徴税人、貧しい人、つまり社会
的弱者に向かっていかれる。そして、「貧しい人々は幸いである。神の国は
あなた方のものである」
(ルカ 6・20)と言われ、神が「見失った一匹を見つ
け出すまで、跡をたどって行く」(15・4)方であると宣言される。教会の礎
となる 12 人の使徒の中には、「ボアネルゲス(雷の子)」という呼び名を付
けられたヤコブとヨハネ、徴税人であったマタイ、熱心党のシモンなどがい
た。後に熱心な宣教者となるパウロも、はじめは教会を徹底的に迫害する者
であった。明らかに、神は弱い人、罪人、問題児とされる人などをお選びに
なる。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらの
ことを知恵ある者や賢い者に隠し、小さい者に現してくださいました。そう
です。父よ、これはあなたのみ心でした」(マタイ 11・25-26)。
「憐れに思う」神
「憐れに思う」神
神は、なぜ「弱い人」をお選びになるのだろうか。ここで、「憐れに思う」
という表現が重要となる。新約に登場するこの単語、ギリシア語の「スプラ
ンクニッツォマイ」は、「はらわた」、「内臓」、「臓器」を意味する名詞から
派生した動詞である。この語は、「見る」という動詞と結びつき、目にして
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しまった相手の痛み、苦しみ、弱さ、どうしようもない状況を前にして、そ
れを相手の痛みと受け止めるのではなく、自分の痛み、自分の中の痛み、つ
まり命にかかわる内臓の痛みとして感じてしまうがために、放っておくこと
ができない、自分にでき得るかぎりのありとあらゆることをしないではいら
れないといった意味を表す。そして、新約においては、神やイエス、あるい
はそれを示すたとえの中の人物に使われている。神は、弱い人の置かれた状
況とその苦しみを目にしたとき、ご自分の中に苦しみを感じ、ありとあらゆ
ることをしないではいられない方なのである。この語は、例えば「よいサマ
リア人のたとえ」(ルカ 10・25-37)や「放蕩息子のたとえ」(15・11-32)
で使われている。サマリア人や放蕩息子の父親が、それこそ行き過ぎとも思
えるような行動をとるときの理由が、神の中に生み出される深い「憐れみ」
なのである。不思議なことであるが、弱い人ほど神からより大きな憐れみを
引き出すのであり、だから神は弱い人に向かわないではいられないのである。
「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」
(ルカ 6・
・36)
)
教会は、この神の憐れみ深さを自分のものとする。いや、洗礼をとおして
神がわたしたちの中で生きるようになり、わたしたちの中で憐れみ深くある
がために、わたしたちも憐れみ深くならないではいられないのである。マタ
イ 18 章は、教会内におけるキリスト者同士の関係をこの視点から説明して
いる。「このような幼子の一人を、わたしの名の故に受け入れる者は、わた
しを受け入れるのである」
(18・5)。最初に「幼子」と呼ばれたこの人は、
「小
さな者」と言われ、最後には罪を犯した兄弟、いや「わたしに」罪を犯した
兄弟と言われる。社会的通念に従えば、相手が罪を犯したのであれば、相手
が回心してわたしに謝罪すべきなのであり、なぜ害を被ったわたしが率先し
てその人を捜しに行かなければならないのか、と考えるであろう。しかし、
神の憐れみ深さが、教会を突き動かすのである。「わたしがお前を憐れんだ
ように、お前もあの仲間を憐れむべきではなかったのか」(18・33)。ここで
は、1 万タラントンもの負債を免除してもらったのだから、100 デナリオン
の借金くらい免除して当然ではないのかとは言われていない。むしろ、1 万
タラントンもの借金を帳消しにしないではいられなかった神の憐れみを自
分のものとするように求められているのである。神の憐れみ深さに理由がな
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いように、わたしたちの間の関係を規定する憐れみ深さにも理由はないので
ある。
「弱い人」が強くされる
では、教会は「弱い人」であふれ返り、立ち行かなくなってしまうのでは
ないだろうか。このような心配を持つ人も多いのではなかろうか。ここで注
意しなければならないのは、
「弱い人」が神の憐れみを受け、洗礼を受けて、
教会の一員となるとき、この人は「弱い人」でありながら神の子、新しい人
となるのであり、生きた聖霊が宿る者になるということである。おそらく、
新約の書物の中で、パウロがこの生きた一致について最も語っていると思わ
れる。パウロにとって、洗礼を受けた者は、もはやキリストと切り離すこと
のできない者となる。だから、弱いその人の中で、必ずキリストの強さ、力
が輝くようになる。弱い人の中にキリストの憐れみ深さが浸透し、周囲の弱
い人々に憐れみ深く接しないではいられなくなるはずなのである。
もちろん、さまざまな状況にある人に対して、一律に接することは神の憐
れみ深さの表現とはならないであろう。しかし、神が一人一人の中ではたら
いておられるその生き生きとした救いの営みに本人が気づいていないとき、
そのままその人の自由にさせておいて何も言わないのも神の憐れみ深さを
表現する行動ではないであろう。だからこそ、洗礼を受けた後のかかわり、
学び、深めが重要なのである。弱い人々すべてがキリストの恵みに満たされ、
その人の中ではたらかれる神の憐れみ深さに気づき、その人に固有のあり方
でこれを生き、証しすることができるように、ともにキリストのうちに成長
していければと思う。「キリストがあなた方のうちに形づくられるまで、再
び、わたしは産みの苦しみを味わっているのです」
(ガラテヤ 4・19)。
「キリ
ストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで、わたしは自分の
弱さを誇ることにします。……わたしは、弱っている時こそ、強いからです」
(二コリント 12・9-10)。
(聖パウロ修道会
4
澤田豊成)