伝統から創造へ - 学校法人 東京聖徳学園

日本学術振興会 人文・社会科学振興プロジェクト研究事業
平成十八年度研究報告
伝統から創造へ
〈 目 次 〉
研究会記録
1 .第1回
メンバーの研究領域紹介
………
2
2 .第2回
専門領域からみた「伝統」その1
………
13
高松晃子
………
13
岡田裕成
………
16
………
28
スコットランドのトラヴェラー・プロジェクト
―内側からの試み
…………………………………………………
エキゾティシズムの転倒―アンデス植民地美術・史/論における
『先住民的伝統』の幻想 ……………………………………………
3 .第3回
4 .第4回
専門領域からみた「伝統」その2
<女性性>と和歌・序―<感傷>の効用― …………………………
菅
聡子
………
28
日本の美術史編纂と<伝統>の創出あるいは生成 …………………
藤原貞朗
………
32
………
37
小塩さとみ
………
37
田井竜一
………
41
聡子・小塩さとみ
………
45
藤原貞朗・田井竜一
………
54
岡田裕成
………
66
小塩さとみ
………
76
………
83
………
94
専門領域からみた「伝統」その3
三味線音楽における創作と伝統 ……………………………………
『水口囃子』にみる芸能の戦略 ………………………………………
5 .第5回
教える・伝える
その1 …………………
高松晃子・菅
6 .第6回
教える・伝える
その2 …………………………………
7 .第7回
筝曲イベントを振り返る/教える・伝える
その3 ………………
論文と公開イベントの記録
1 .箏曲をめぐって
・論文
箏曲における伝承と創造 ………………………………………
・公開イベント記録
伝統と創造1
箏が今に伝えるもの・伝えたいもの
2 .和歌をめぐって
・論文 萩の舎における「伝統」の教授
―樋口一葉はどのようにして和歌を学んだのか ………………
・公開イベント記録
伝統と創造2
菅
聡子
歌のことば・女のことば
……… 100
3 .スコティッシュ・ダンスをめぐって
・論文 「伝統」はだれの手に?
―スコティッシュ・カントリーダンスの展開 …………………
・公開イベント記録 伝統と創造3
高松晃子
……… 110
スコティッシュ・ダンスは国境を越えて
―グローバルに維持されるローカルな伝統
……… 117
日本学術振興会 人文・社会科学振興プロジェクト研究事業
平成十八年度研究報告
伝統から創造へ
編 集
デザイン
制 作
発 行
高松 晃子
藤原 貞朗
(株)セイワコーポレーション
日本学術振興会 人文・社会科学振興プロジェクト研究事業
「伝統と越境―とどまる力と越えゆく流れのインタラクション」
「芸術文化における<伝統的なもの>」
グループ
発行年月日
2007年3月31日
はじめに
本書は,日本学術振興会人文・社会科学振興プロジェクト研究事業「伝統と越境」に属する研究グル
ープ「芸術文化における〈伝統的なもの〉」が,2004年2月から2006年9月までに歩んだ道程の記録
である。
このグループの目的は,いわゆる〈伝統的なもの〉の生成過程や現代における役割を考えることなの
だが,「創造された伝統」論が一定の評価を得て,人文社会科学における共通理解になっている現在,
敢えてこの問題にもう一歩踏み込もうとしたのには,次のような理由がある。このテーマに関する従来
の議論は,学問の各専門領域において個別に行なわれてきたため,他領域の問題を意識的に取り込むこ
とが難しかった。そこで,研究対象の限定を意図的に避けた結果,音楽・美術・文学といった複数の研
究領域からの寄り合いグループが誕生した。もうひとつ,このプロジェクトには,研究者としての立ち
位置を再考する目的がある。〈伝統的なもの〉に対してやや冷めた見方をしている研究者たちと,美し
いスローガンを追い風にして〈伝統〉の回復に勢いづく人々の間には,文字通りの温度差がある。いっ
ぽうで,担い手と呼ばれる人々は,何らかの思いを抱きながらも日常的に〈伝統〉と向き合い,そのほ
かの大多数の人々は,〈伝統〉の創造者,消費者,傍観者となりながら,この議論には欠かせない存在
感を示す。いやおうなしに変化する現実にあって,研究者はどのような行動を起こすべきなのだろうか。
最初の目的のために,私たちは固定メンバーによる研究会を継続しておこなった。本書の前半は,そ
の1回目から7回目までの記録である。2つ目の目的のためには,いわゆる〈伝統〉の担い手の方を交
えた活動を始めた。その道の第一線で活躍しているクリエーター/パフォーマーをゲストに,実演を交
えた公開イベント「伝統と創造」シリーズを開催したのである。その3回分の記録が,本書の後半に掲
げられている。これらのイベントでは,創造者ならではのアイディアを得て,伝統を踏まえた「創造」
部分まで射程に入れることができた。本書のタイトル「伝統から創造へ」は,これに由来している。な
お,各公開イベント記録の前には,その内容に近いテーマでメンバーが執筆した論文を1本ずつ掲載し
た。
本書において,〈伝統〉という言葉が指し示す具体的な事物やその概念については,必ずしも詳細に
検討されているとはいえない。ただ,権威的で硬直したイメージのつきまとう〈伝統〉概念を問い直し,
その案外ダイナミックで柔軟な姿を照らし出すことには,ある程度貢献できるかもしれない。本書には
収録されていないが,その後も私たちはさまざまなゲストを招いて活動を続けている。その記録は,ま
た別の機会に譲ることにしよう。
2007年3月
高松
晃子
(日本学術振興会
人文・社会科学振興プロジェクト研究事業
研究領域V-1 「伝統と越境―とどまるちからと越え行く流れのインタラクション」
第3グループ「伝統から創造へ」
サブグループ「芸術文化における〈伝統的なもの〉
」代表)
メンバーのプロフィール
岡田 裕成
田井 竜一
1963年生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士
1961年生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士
後期課程退学。文学修士。1994年大阪大学助手,
後期課程単位取得満期退学。1997年くらしき作
1997年から福井大学助教授。主要著作:『名画へ
陽大学音楽学部助教授,2000年から京都市立芸
の旅11
術大学日本伝統音楽研究センター助教授。主要著
バロックの闇と光』
(共著,講談社,1993
年),『西洋美術館』
( 共著,小学館,1999年),
『季刊民族学103号
特集:植民地時代アンデス
作:『ソロモン諸島の生活誌―文化・歴史・社会』
(共編著,明石書店,1996年),『都市の祭礼―
の教会美術』
(共編著,2003年,千里文化財団)。
山・鉾・屋台と囃子―』
(共編著,岩田書店,
専門・関心分野:美術史,特に16-17世紀スペイ
2005年)。専門・関心分野:民族音楽学,日本お
ンおよび植民地時代中南米の美術・視覚文化。
よびオセアニアの音楽芸能における動態論。
小塩 さとみ
藤原 貞朗
1966年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課
1967年生まれ。大阪大学文学研究科博士後期課
程人間文化研究科修了。博士(人文科学)。2002
程退学。文学修士。1997−2000年,リヨン第二
年から宮城教育大学助教授。主要著作:「長唄に
大学在籍。大阪大学文学研究科助手を経て,2002
お け る「 楽 」の 概 念 」,『 東 洋 音 楽 研 究 』第 64号
年から茨城大学人文学部助教授。主要著作:
(1999年),“Gender role in performing arts in
, post《Henri Focillon et son étude sur Hokusai》
Japan”, The Garland encyclopedia of world
face de Hokusa Ï par H. Focillon(Fage Édition,
music vol. 7,(Garland Publishing 2002年),
Lyon, 2005),「東洋美術史学の起源における歴
『音をかたちへ』
(共著,醍醐書房,2006年)。専
史観・文化的価値観・分析方法をめぐる日本と欧
門・関心分野:音楽学,特に日本の三味線音楽と
米の競合について」
(『茨城大学人文学部紀要人文
ベトナムの宮廷音楽や少数民族の音楽。伝統の伝
学科論集』45,2006年)
,専門・関心分野:フラン
承における変化と固定。
ス近代美術史,近代考古学・美術史学の学史研究。
菅 聡子
藤本 寛子(研究補助)
1962年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課
1978年生まれ。お茶の水女子大学大学院人間文
程人間文化研究科修了。博士(人文科学)。1993
化研究科博士後期課程在籍。修士(教育学)。論
年女子聖学院短期大学専任講師,1997年お茶の
文:「『日本音楽会』の設立とその運営―伊沢修二
水女子大学助教授を経て,2006年同大学教授。
との関わりについて―」
(『お茶の水女子大学人文
主要著作『時代と女と樋口一葉』
( 単著,NHK出版,
科学研究』第2巻,pp. 97-108〔2006年〕),
「明治
1999年),『メディアの時代
20年代の東京音楽学校と日本音楽会」
(『お茶の水
明治文学をめぐる
状況』
(単著,双文社出版,2001年)。専門・関心分
音楽論集』第8巻,pp. 11-23〔2006年〕)。専門・
野:近代日本文学,樋口一葉・尾崎紅葉を中心と
関心分野:音楽学,明治期の日本における「音楽」
する明治文学,近現代の女性表現。メディア時代
環境と「音楽」概念の変化。
の表象をめぐるジェンダー機制。
高松 晃子
(研究代表)
根来 章子(研究補助)
1963年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士課
1975年生まれ。お茶の水女子大学大学院博士前
程人間文化研究科修了。博士(人文科学)。1994
期課程人間文化研究科修了。修士(人文科学)。
年福井大学助教授,2004年から聖徳大学教授。
2003年から2006年まで沖縄県立芸術大学音楽
主要著作:『環境と音楽』
(共著,東京書籍,1991
学専攻助手。現在,お茶の水女子大学大学院博士
年),『はじめての世界音楽』
( 共著,音楽之友社,
後期課程在学中。専門・関心分野:音楽学,特に
1999年),『スコットランド
20世紀前半フランス音楽及び音楽における異文
旅する人々と音楽
―
「わたし」
を証明する歌』
(音楽之友社,1999年),
『スコットランド文化事典』
(共著,原書房,2006
年)。専門・関心分野:音楽学,特にスコットラ
ンドを中心とした英国音楽,音楽を通じた少数民
族の自己表現。
化受容の問題。
研 究 会 記 録
第1回研究会 メンバーの研究領域紹介
<日時>2004年2月5日10:30∼17:30
形成の手段として用いられてきた「伝統」の検証,③国民
<場所>聖徳大学2号館1階研修室
国家以前の状況に関する研究,④他者のまなざしを意識し
<出席者>岡田裕成,小塩さとみ,菅
聡子,田井竜一,
高松晃子,福岡正太,藤原貞朗,藤本寛子(研
の議論が続いた。
発表者の専門分野であるスコットランド音楽では,
究補助)
“tradition”は口頭性と強く結びつく用語である。[その他
<スケジュール…発表順>
1.福岡正太(ゲストとして参加
て想像される「伝統」や「文化」について論じるものなど
国立民族学博物館助
教授)
数例は省略]別の話だが,最近,福井市で子守歌の調査を
した。子どもの検診にくる母親300余人を対象に,子ど
2.高松晃子/藤本寛子
もへの歌による働きかけについて尋ねたところ,どの母親
3.菅
も歌っているが,その歌は「伝統的」な子守歌とはレパー
聡子
〔昼食〕
トリーが異なることがわかった。つまり,レパートリーは
4.藤原貞朗
移動したが,子どもを寝かしつけつつ歌うるという行為は
5.岡田裕成
保たれているわけだ。そして,「伝統的」なレパートリー
6.田井竜一
はというと,「癒し系」音楽として,大人社会の領域に入
7.小塩さとみ
っている。一般的な認識のレベルでは,「伝統」がどんど
8.総論
ん創られていくようだ。
<内容>
【討論】
プロジェクト・メンバー初顔合わせ。
(高松)レジュメ(4)②[省略]にあるように,「和太鼓」
プロジェクト・リーダー福岡とサブリーダー高松より,
プロジェクトの概要説明をした後[本書では省略],メン
という言葉に対して違和感がある。
(田井)外からの視点で作られた感じがする。地域で民俗芸
バー全員が,自己紹介を兼ねて,各自の研究領域から「伝
能をやっている人々はそのような呼び方をしない。
統」テーマに即した話題を提供し,討論。
新しいジャンルとしての太鼓アンサンブルが確立し
ていく中で,名称が広がっていったのではないか。
1.高松晃子
【報告】
(岡田)いつ頃から「和太鼓」というのか?
(田井)この二十年くらいではないか。
「創られた伝統」論(1983年)で,ホブズボームは,コ
(高松)鬼太鼓(おんでこ)座などは初めの頃は固有名詞で紹
ミュニティの成員に認められていることと,反復と過去か
介されていたが,その後,似たような団体を紹介す
らの連続性を重視して「伝統」を定義し,3つのパターン
るために使われるようになったのか。ジャンルとし
を提示した。①集団の結びつきやアイデンティティを確立,
て正典化,規範化が為されている。特に音楽教育に
象徴するもの,②権威の制度や地位,権威の関係を正当化
おいては,「日本の伝統的な楽器」を教えなければ
するもの,③コミュニティの成員の社会化を促すものであ
ならないから,期待が寄せられているのではないか。
る。
ホブズボーム以後,①アンダーソンの『想像の共同体』
のように,ホブズボーム路線を拡大するもの,②国民国家
2
(福岡)やはり「伝統」と言う時に問題となるのは,学校に
おける「伝統」教育問題に顕著なように,イデオロ
ギーだろう。「伝統」を定義しようとする動きも出
てくるだろうし。「伝統」という言葉は秘儀的な付
【討論】
加をもっているのではないか。音楽教育などで子ど
(藤原)美術では同じ時期に展覧会という活動があるので音
もたちに「こんな音楽性を」と言った場合には,実
楽だけでなく,他との連関(演劇やスポーツなど)を
践的な問題としても出てくる。
考えながら進めていった方が良いだろう。
(小塩)ただし,音楽教育の場合,音楽性を教えるのか,そ
(福岡)音楽会を「伝統」で切ることによって得られるもの
れともとりあえず日本的なものを教えようとしてい
と失うものがあることに注意しなくてはならない。
るのかが問題となる。
慣習や制度化で論じることもできる。「伝統」とい
う言葉を使うことの意味を考える必要がある。
(高松)クラス運営目的であることもあるだろう。
(田井)道徳や規律,集団的な面の強調といったことにも, (藤原)
「伝統」という日本語の言葉自体が問題ではないか。
一歩間違えれば危険を感じる。
「音楽における伝統」という意味を持ったのは,
1940年くらいであり,それまでは「伝承」くらい
(岡田)
「和太鼓」は確かにそのような枠組みでは一番使い
の意味で使われていた。
やすい。
(高松)本来,日本の音楽はそれほど集団的ではなく,教え
(岡田)
「伝統」という言葉の歴史性が曖昧だ。日本では昭
る場合も一対一で行われる場合が多い。
和30年代に“tradition”の訳語として使われるよ
うになったが,柳田国男らは政治的なニュアンスを
(岡田)鬼太鼓座のように,「和太鼓」でみんな揃って演奏
もって言及している。1930年代に彼はその言葉を
するのは「伝統的」ではないのか?
(田井)新しいスタイルだろう。
使うことに抵抗があると証言している。それは彼が
(小塩)舞台で見せるために,規律があった方が見やすいと
まさにナチなどの民族研究と結びつく言葉として受
容していたためであり,「民間伝承論」という言葉
いうことでは。
を提言している。「伝統」という言葉の曖昧さは常
(岡田)たばこのCMのイメージも強い。
に問題になるだろう。
2.藤本寛子(研究補助)
(藤原)
“tradition”も今のように「国家の伝統」などと使
【報告】
われるようになったのは,日本と同じ頃であり,そ
の前だと「伝承」の意味だろう。
明治・大正時代における「音楽会」について研究してい
る。誰が誰にどんな音楽を発信していたのか,つまり,ど
のような人々に「聴かせたいのか」という方針の変化を追
3.菅
っている。音楽会の「伝統」とは,現在の日本におけるク
【報告】
ラシック音楽の音楽会でいえば「鑑賞する」場。今日では
聡子
「日本文学研究における<伝統>―その脱構築の現在」
日本在来の音楽の音楽会(上演)でも「鑑賞する」という。
というタイトルでお話したい。日本文学では「創られた伝
しかし,江戸時代の「きく」「みる」環境は「静聴」する
統」ブームはすでに落ち着いている部分はあるが,国民国
ことを強制しない。「鑑賞する」という姿勢はどのように
家論の展開とリンクして研究されてきた。代表的な研究は
して形成されたのか?現在は日本音楽会(明治20年設立) 『創造された古典』
(シラネ他編1999)であり,日本文学の
について研究中。
根拠が「捏造されている」ことをまとまった形で問うもの
である。
このテーマの研究は,植民地における国語教育問題の研
3
究が先行している。たとえば,『万葉集』がどのようなプ
が読める人しか知らなかったものが,活字にされる
ロセスの中で「国民歌集」として「発見」されたか。この
ことによって,一般に受容されていき,国民文学と
観点において,発表者は,和歌の言葉という表象が,共同
して作り上げられていった。メディアとの関わりは
に対して規制する時にどのように機能するか,という点に
重要だろう。
関心があり,それは「理性」というより「感傷」のレベル
(高松)短歌についてはどうか?
で働くのではないかと考えている。明治30年頃に「和歌」 (菅) 短歌研究は,短歌を詠む人自身が批評も行うという
から「短歌」へ変化した。つまり,古典としての「和歌」
現状にある。その結果,そこで用いられている言葉
がそこで「近代化された」わけだが,それは「伝統」とつ
の客観性が問われてしまう。また,彼らには「和歌」
ながっているのか。皇族のつくる「御歌」は「和歌」と
からの
「伝統」
を崩しつつ,崩せないジレンマがある。
「短歌」のどちらなのか。
(岡田)日本美術史も文学史同様,1890年代に形成され,
さて,日本文学研究における解体・脱構築には次の2つ
同じ方向性の研究が行われている。また,美術でも
の方向性があろう。「正典」の形成をめぐる検証と,「国
工芸の分野では,短歌研究のような傾向(作家自身
語・国文学」という概念と研究領域の形成に関する検証で
が批評する)がある。
ある。現在は,カリキュラム成立の問題,敗戦時に国語・
国文学がどのように延命されたかという問題(ポストコロ
4.藤原貞朗
ニアル・ジェンダー論と交差),日本文学(特に平安文学) 【報告】
の特徴とされた女性性と明治日本が主眼とする男性性の矛
盾など,研究領域が細分化されている。
日本文学研究において国民国家論の枠組みを用いるのは
今日の報告の前提としているのは,『今,日本の美術史
学を考える』
(東京国立文化財研究所編1999)である。こ
れは,「日本美術史がいかにして創られたか」を論じた国
難しい。結論は明らかであり,検証の手続きが同じになっ
際研究集会(1997)の結果をまとめたものだ。そこでは,
てしまうからである。明治日本が近代国民国家として編制
AとBという異なる文化圏がある場合,それぞれを固定し
されていく一環として,国文学は定立されており,現在性
たものとすると,影響はその交渉と考えられると論じられ
を問う場合でも,ナショナリズムや天皇制の問題とどこか
ている。しかしながら,事実はそう簡単ではなく,交差し
で関わってしまう。このような困難を感じつつではあるが,
た部分でハイブリッドなものが出てくると発表者は考え
このプロジェクトにおいて発表者は,はじめに述べた和
る。例えば,日本美術で言うところの「洋画」や「日本画」
歌・短歌の問題あるいは,次に述べた国文学の現在性を問
などである。
う形(例えば70年代の女性作家による正典の脱構築・再利
用について)で研究を進めていきたい。
【討論】
(高松)受け手側(読み手や批評家)についてはどのような動
きがあるのか?
(菅) 明治20年代は出版メディアが展開され,
「古典文学」
というジャンルが立ち上がった時期。例えば,博文
館による古典全集が出版され,それまではくずし字
4
「伝統的」なものは,このハイブリッドな部分でできる
ことが多いのではないか。
この問題を考えるに当たり興味深い例として,1930年
代に「伝統的」と言われるものと「異国的/植民地的」と
に変化して生成した伝統という概念の様態を正確に捉えて
みたい。
言われるものが,形としてよく似てしまう現象が指摘でき
よう。『戦時下日本の建築家』
(1995年)
〔初版『アート・
【討論】
キッチュ・ジャパネスク,大東亜のポストモダン』
(1987
(小塩)今のAとBは,伝統音楽の世界と西洋音楽の世界で
年)
〕 での井上章一の指摘はこうだ。上野・国立博物館
起こっている図式と似ている。例えば,伝統音楽の
(1937頃)とアメリカ大使館(1931)の建築様式はいずれ
人が西洋音楽のものを取り入れたり,西洋音楽の日
も帝冠様式とされる。しかし,第二次大戦後,特にモダニ
本人作曲家が伝統的な音楽を作曲したりする時の演
ストによって,「コロニアル」なレリーフを有するとして,
奏者の問題があげられる。ただし音楽の場合には,
国立博物館はファシスト建築だと言われるようになる。そ
日本人の西洋音楽の演奏家に演奏させる場合とわざ
の結果,様式にそれほどの違いがなくても,イデオロギー
わざ伝統音楽の人達を借りてきて演奏させる場合が
が異なるために色分けされてしまう。
あり,そこに音楽特有の問題点が加わる。
フランスにおける似たような例として,パリの植民地博
(岡田)植民地文化論におけるコンタクト・ゾーン(接触領
覧会(1931)における建築,たとえば旧アフリカ・オセア
域)で働いている力関係は,「ハイブリッドなもの」
ニア博物館がある。フリーズには,中央にヨーロッパ,左
といってしまうとその差異が見えにくくなってしま
にアフリカ,右にアジアを配置し,それぞれそこの産物や
うのではないか。特に植民地側から見ると支配・被
動物が描かれている。背景を考えると植民地様式が入って
支配という関係が働くので,そこで生まれるものも
いるように見えるが,建築史的にはモダン化した新古典主
政治的な影響を免れ得ない。
義で,ハイブリッドなものと言えるだろう。
ただ,難しいのは,18世紀までの「古典」と20世紀の
(岡田)博物館のレリーフで「コロニアル」とか「エキゾチ
「古典」は全く違う顔を持っているため,後者が美術史で
ック」といわれているのは,具体的には何に対して
は残らず,建築史にも出てこないことである。例えば,シ
ャイヨー宮(1937),パレ・ド・トーキョー(1937)など
がよい例だ。これらの建築は当時から「折衷的」と見られ,
「植民地を喚起しつつも,意図的に都市的かつ伝統的な様
式,特にギリシャ・ローマの伝統に関連づけている」と批
評された。
か?
(藤原)図像レベルでは明らかに取り入れているし,表現形
式としてもありうる。例えば,南米やエジプトの浅
浮き彫りであるとか,日本の入れ墨などと批評され
る。
(岡田)そこに隠蔽的なものを感じる。当時,批評をした人
アール・デコもハイブリッドという枠組みで論じられる
がそういうものだと思っていた,また,見たモチー
事象かもしれない。その作家たちは国際的に活躍しつつ,
フに引っ張られてそれらと結びつけて語っていたの
土着的・地方主義的な部分を残していた。単純に「伝統的」
ではないか。そこに批判が存在しないのは,力関係
とも「植民地的」とも言えないこのスタイルは,30年代の
が介在しているためだが,逆に彼らが語らなかった
フランスでは代表的な様式のひとつだったのではないか。
もので表現様式として近いのは「古典」だろう。征
これらの問題意識から,発表者はこのプロジェクトにお
服物語などをレリーフなどで流していく発想と語り
いて,たとえばAとBの二項の対立を前提として両者の影
口が近いのではないか。つまり,モチーフは非常に
響などを考えるのではなく,両者が交差する場所で,動的
コロニアル,エキゾチックだが,語り口,表現形式,
5
造形様式としては「古典」を用いている。しかし,
在の私達が考える「古典」と,明治の人達が考える
ヨーロッパ人は自分たちの伝統のローマ・レリーフ
「古典」,江戸の「古典」は異なる。ある段階までは
と似ているのに,そうとは言わずに,「南米とか日
その差異を何も意識することなく使っていたが,明
本のこれに似ている」と言う。
治の人にとっては,江戸のものは近代である。
(藤原)もちろん[フリーズを作った]ジャニオも古典主義
(岡田)日本との比較で面白いのは,ヨーロッパで「上」に
者としてローマ賞をとり,ローマで活動しているの
あるのは「古典」“classic”
( ギリシャ・ローマ)で
で,ギリシャやローマの影響を指摘しても良いが,
あり,“tradition”
( フランスの伝統,カトリックの
色々出てきているために決められないということ。
伝統など)は「下」の民衆イメージであるというこ
ポイントは,なぜ古典主義者が外部のものをもって
と。“populaire”と“traditionnaire”はかなり重な
きて,「新しいクラシック」,「伝統」ということを
ってくる。保守政権時,19世紀の民衆版画を意識
言おうとしたのか,である。ヨーロッパにおいて
してジャンヌ・ダルクやペタン元帥を描くことで,
「伝統」というものが今のように言われるようにな
これが「フランス的」「伝統的」であるというイメ
ったのも,このあたりの時期なので,交渉のなかで
ージが創られた。
決まったのだろう。これを美術側の伝承で述べたい。 (菅) それはつなげたいのか?
(岡田)
「創られた古典」というものはヨーロッパには無い。 (岡田)一生懸命つなげていたのがその時代で,特に美術史
すなわち,「ギリシャ・ローマのイメージが創られ
家による。例えばゴシックの彫刻を見ながら,ギリ
た」ということはなく,今でもそれが前提として機
シャ・ローマと比較する。直接,実証できなくても
能していることがわかる。それを言うのは,少なと
様式で語る。様式論の強さがここにある。
もこの十年くらいの間に創られた「伝統」だろう。 (菅) ヨーロッパはそのあたりが面白い。日本の場合,伝
しかし,
「伝統」はわかりやすいが「古典」は曖昧だ。
(高松)
『創造された古典』は,「古典」と訳しているが,原
語は“canon”だった。
(菅) 偶然あそこで取り上げられているものが,古典だっ
たためではないか。
(藤原)今,「古典」はどう訳すのか?
統とつなぐのは自分達のオリジンを遡るためで,中
国の影響を受けなかったということが言いたい。し
かし,ヨーロッパはギリシャ・ローマとつなげたい。
(藤原)むしろ日本の方が特異なのではないか。
(菅) 明治のときに中国を排除した。同じオリジンをつく
りたいというその方向性が異なるのか?
(菅)“classic”。文学領域では,あのような研究がはや
りだして,“canon”という言葉が流通した。それ
(岡田)
たぶん“tradition”は地域性を参照するのに対して,
まではほとんど使われていない。
“classic”は歴史性を参照する。ヨーロッパ人がギ
(岡田)授業の中の英文表記でも“classic”か?
リシャ・ローマとつなげるときは,地域性に頼って
(菅) そうだ。“tradition”は使わない。
しまうとつながらないため,歴史発展のストーリー
(高松)文学では様式の用語として「古典」を使うのか?何
を創り上げて起源をつくる。日本の場合は外からの
用語なのか?
影響の排除した中にピュアなものがあると言いた
(菅) 様式ではない。時代区分だろう。
い。その時は“tradition”の方が超歴史的な概念で
(岡田)
「古典」といった場合,日本は時代のずれがある。
便利だろう。この土地に永遠不変な,なにかしら本
(菅) そう。ただ,逆に「古典」という言葉を使う時,現
質的なものがあることを想起させる。
6
(藤原)
「ヨーロッパの伝統」という言い方はあまりしない。 「近代」と「他者」という二元論が展開される。「革新」で
フランスの国立図書館の電子データで“tradition”
“traditionnaire”を含む書名を調べたところ(5分の
包み隠されることで,「伝統」は「歴史のない」閉じた社
会を言う時の便利な/きれいな言葉になるようだ。
1調べた段階),最初はカトリックの言葉として出
ここで,「メスティソ(混血)美術」を例に南米植民地美
てきて,19世紀の終わりまではその文脈でしか使
術と「伝統」について考えてみよう。発表者の問題意識は,
われていない。その後は音楽が多く,民族学にも見
メスティソ美術 というものが, 単にふたつのものが混ざ
られる。今のような形で「フランスの美術の伝統」
り合ってできたものではないのではないかというところに
等がいわれるようになったのは,20年代30年代で,
ある。メスティソとは,南米の植民地美術のオリジナルな
“tradition”についている形容詞を見ると,とても
地域的である。『ピカソとフランスの伝統』
(1927)
という本があるが,そこでは“tradition”という言
葉を使っている。
部分として,1920-30年代,南米の特に白人系のエリー
トが用い始めた概念である。モチーフの問題で言えば,
「先住民的なもの」として,熱帯の果物を持った人魚が描
かれることなどがそれに当たる。モチーフの起源をどこか
にもとめて「オリジナル」と呼び,それが教会等に取り入
5.岡田裕成
【報告】
はじめに,
「伝統 tradition」の概念について述べようと思
れられたことで「混交」と称する。しかし問題は,モチー
フはそれぞれの起源に基づいて個別に説明されてきたにも
かかわらず,人魚や熱帯果物,生物などが,「南米的」と
っていたが,これまでの発表で色々と言及されているので
してしばしばセットにして説明されることにある。これは,
省略する。今日指摘したいのは,美術史において
「伝統」と
ヨーロッパ側で16世紀にはすでにかなり準備されていた
いう言葉・概念は,意外と正面から使われていないのでは
南米表象だった。南米の植民地当局と交渉する場にあった
ないかという点である。「伝統」という言葉は,ギリシャ・
先住民は,これらの図像に接する機会が多いことを考える
ローマ以来の発展の歴史という大きなストーリーをたてる
と,彼らは先住民社会での表象,ヨーロッパでできた像を
中で,あまり都合がいい/便利な言葉ではなかったためか
あやつることによって,自分たちの社会におけるある種の
もしれない。例えば,『英国美術の英国性』
( ペヴスナー
権威を再編成し,政治的な機能を持って受け入れられてい
1956)の中では「伝統」は使われておらず,「国民性」と
ったのではないか。つまり,単純にふたつのものが混じり
いう概念で議論が展開するし,
『美術史の基礎概念』
(ヴェル
合って新たな伝統を生み出したというのではなく,色々な
フリン1915)は,様式発展史を美術史において意義づけ
政治的な文脈の中で積極的に取り込まれていったものなの
るとともに,「歴史を貫く国民的類型/国民性」の重要性
ではないかと考えられる。
に言及している。いっぽう,「伝統」とは,「個人」よりも
「集団」に馴染む語であるため,
「伝統」の担い手として,エ
リートよりも民衆を想起させる。また,変化・革新よりも
【討論】
(高松)スコットランドのイメージもイングランドによって
不変・継承をより強く意識させ,閉じた社会を想定させる。
創られていた。16世紀のイングランドの演劇の幕
ヨーロッパにおいて「伝統的な文化」として語られがち
間には,必ずといって良いほどスコッチ・チューン
なものは,中世ヨーロッパの美術や民族芸術である。後者
という音楽が入る。単純で五音音階でドローンを使
を論じた代表例である『20世紀美術におけるプリミティ
った「粗野な」音楽だが,イングランド人に負けな
ヴィズム』
(ルービン1984)では,革新する自己としての
いくらい多くのスコットランドの作曲家が多くこの
7
「擬似スコットランド表象」を作った。
(田井)発表において「単純にA+Bではない」というのも
興味深かったが,ヨーロッパにおける「伝統」のあ
面の中でずっと考えていたため,「伝統」がプリミ
ティヴな呼称であることが興味深い。日本では「誇
り」として「伝統」を使う。
る種限定的な使われ方も面白かった。ユネスコの世
(藤原)
『近代絵画と北方ロマン主義の伝統』というロバー
界遺産関係の伝統芸能セクションの国際会議におい
ト・ローゼンブラムの研究がある。南の「古典」に
て,歌舞伎や文楽に対する日本側とヨーロッパ側の
対して,北の「伝統」を打ち出している。ヨーロッ
認識が一致しないのと通じる。つまり,ヨーロッパ
パの芸術を語る際は,“classic”と“tradition”を
人にとっての「伝統芸能」とはいわゆるローカルな
組み合わせて論じるべきだろう。
ものであって,歌舞伎や文楽はファイン・アート, (高松)SIMS(Symposium of the International Musicologクラシックの世界のものであり,それを世界遺産と
ical Society)1990において,タイトルの“Tradi-
するのはおかしいということがあったようだ。
tion and its Future”に対して,主に英語圏の西洋
(岡田)もう少し前ならば認められたかもしれない。ある時
点で「アート」に「格上げ」されたと言える。
(小塩)世界遺産の選定の場合,制度的に伝える枠組みがあ
る程度できている芸能を申請しなければ通らないと
いう政治的な問題がある。そうすると日本の場合は,
音楽研究者から異論が出た。“tradition”は過去も
未来もない不変なものであり,“future”とは語感
があわないということのようだ。
(藤原)実際に“tradition”は作り手にすら“conservative”
の意味になる。
「アート」の方がしっかりしているので通りやすい。 (田井)民族音楽学においてかつて,いわゆる「民族音楽」
ヨーロッパのそれにあたるものは,ユネスコの無形
という言葉で,西洋芸術音楽以外のものすべてを指
文化遺産として残さなくてもすでに存在している。
していたという状況に近いものを感じる。我々は
結果,ヨーロッパの場合は選択対象が他地域と異な
「伝統」をニュートラルに使っているつもりだった
るといういびつな形の中で選定していることも関係
しているかもしれない。
(田井)結局,簡単に歌舞伎というが,どの歌舞伎なのか,
が,欧米人は違うようだ。
(小塩)アメリカ人は“tradition”を「悪しき慣習」として
使うこともある。「捨てるべきもの」という意識だ。
松竹のやっている歌舞伎なのか,農村歌舞伎なのか。 (高松)音楽の場合もそうだが,口で伝えられるもの,紙に
そういった形で,選定する時の問題点も出てくる。
残さないものは縦糸が見えなくなってしまうため,
それにしても,「伝統」という言葉を当たり前に使
説得するときうまく言えない。
っていたが,実際はそうではないようだ。
(田井)だから,ある種“classic”は強い。
(藤原)歴史よりも音楽の方がわかりやすいだろう。“clas-
(藤原)
「 伝統」は日本では完全にポジティヴな言葉だが,
“tradition”とはどうなのだろうか。
sic”
は楽譜として残っているものであるのに対して,
“tradition”は口承で伝えられるという意味で使わ
(田井)
ヨーロッパではポジティヴな意味合いとは限らない。
れる。美術は形として残っているので,“tradition”
(菅) 日本において「伝統」の継承は皇室の義務だろう。
というのはなじまないような気がする。また,日本
(藤原)その時の「伝統」は少し違うのではないか。
「伝承」
?
の芸能も同様で,無くなっていくものというニュア
(菅) 私が考えていたのは和歌のことで,多分,和歌を継
ンスがある。
承していくのは皇室の仕事とされている。日本の局
8
6.田井竜一
【報告】
(田井)田植えも機械化されているので,まず太鼓田はなく
なった。囃子田も徐々になくなり,現在はごく一部
いまも問題になったが[本書では省略],「民俗芸能」と
の地域にしか伝承されていない。しかし,逆に千代
いう言葉は昭和20年代終わりから30年代にかけて一般的
田は戦前から観光とタイアップしてきた経緯がある
に使われるようになった。それまでは「郷土芸能」「郷土
ため,現在でもNHKによる中継放送もあったりする。
舞踊」「民俗芸術」「民間芸能」などの言葉が用いられてい
(岡田)今日における珍しさから逆算して「ここはこうなっ
たが,「郷土」という言葉はローカリティを強調しすぎる
ていたんだ」などど,機械化が逆に神話化してしま
ということで,「民俗芸能」が採用された。しかし,この
っている部分がある。「これこそ原風景だ」という
言葉に近代や戦後というニュアンスがあることは語られる
ような決まり文句もある。
ことなく,今日に至っている。「民俗芸能」には,「郷土」 (藤原)
美術関係だと,岡本太郎が撮っている風景がこれだ。
「地方」「伝統」「素朴」「古風」「始原」「固有」「日本的な
この時期に「あやしげなもの」を無菌化しているよ
もの」というイメージがつきまとっており,そうでないも
うな気がする。この時代を経て,「日本美術をやる」
のを意図的に排除するという戦略がとられることが多い。
とか「日本美術史をやる」ということに対する抵抗
それではまず,「民俗芸能」は本当に「素朴」「古風」
をなくしていくが,このあたりの仕組みがどうなっ
「固有」なものなのか,中国地方の囃子田を例に考えてみ
たのかはあまり研究されていない。「伝統」につい
よう。囃子田には①日常で行うもの(太鼓田)と②儀礼的・
て抵抗無く言えるようになる。こちらの方が重大で
娯楽的なもの(花田植,供養田植)があり,現在,一般的に
はないか。
知られている囃子田は後者である。日常的な太鼓田や供養
(田井)
「郷土」や「日本の固有のもの」といった戦時中のま
田植は隠蔽されて,狭義の囃子田がクローズアップされて
ずかったものをある種リセットしてということか。
いるのだ。しかしながら,この狭義の囃子田は明治期に禁
(藤原)なんとなくそうなっていったのであって,政治的に
止されたため,しばらく行なわれなかったものを,昭和初
やったのではないから怖い。
期に復興させたにすぎない。イメージとしての「民俗芸能」 (田井)ただ「良心的」だったかもしれないが,仕掛けた部
と動態の中の「民俗芸能」は乖離しているのが現状だ。そ
分もある。例えば,日本青年館で行われている民俗
こで,本プロジェクトにおいて発表者は,山・鉾・屋台の
芸能大会や東京文化財研究所の組織で「民俗芸能」
祭りと囃子の事例を用いて,新たな文脈での祭礼囃子にま
という言葉を名称として使うなど,そのようなこと
つわる諸問題を検討していきたい。
が「民俗芸能」という言葉の定着に寄与していたと
いうことはあると思う。
【討論】
(田井)昭和30年代の終わりから40年代にかけて,文学の
人達が入ってきたことによって,『田唄研究』とい
(岡田)昭和30∼40年代に無菌化というのは,文化財保護
の整備に関連するだろう。高度成長期に「国を守れ」
ということでやれるようになったのか。
う雑誌ができている。
(菅) 一種の権威付けとなろう。実際にやっている人達は
それをまた利用して,ということもあるのか?
(田井)そういうところもある。
(菅) 実際に担い手の数は多いのか?
(藤原)音楽のことはわからないが,[田井所属機関の]パ
ンフレットの「日本伝統音楽」という言葉が面白い。
「伝統美術」とはいわないから。
(田井)音楽では,民俗的なものに価値が置かれない場合も
9
あって,実は難しい問題がある。美術史では,ある
中心である。その研究は曲の成立背景,年代特定等が多く,
ものがクローズアップされる一方で他が隠蔽される
「伝統」をめぐる議論は最近まであまり行われてこなかっ
ということはあるのか?例えば「洛中洛外図」や
た。そんな状況ではあるが,日本音楽における「創られた
「祇園祭礼図」はどうか?
(岡田)あれは桃山を代表するものとして,美術史に位置づ
けられている。
伝統」を論じるときの材料になりそうな例を挙げてみよう。
まず,近代国家の日本にとっての雅楽。近代国家と結び
つけられて,特に「伝統」がつくられたのだが,長野オリ
(田井)絵馬は?
ンピック開会式において国歌を笙で演奏することなどによ
(岡田)あれはちがう。
って,「雅楽が正統な日本の伝統音楽だ」というイメージ
(田井)民俗文化財か?
が植えつけられている。
(岡田)
日本美術史の人があれをやっているとは思えないが,
古ければありうる。
(藤原)古くて絵としていいものならばありうる。寺社にあ
る分には美術史扱いとなるだろう。
次に,西洋音楽と日本音楽を折衷した曲が見せる存在感。
このジャンルは明治期に西洋に国家の正統性を頼って作ら
れたものであるにもかかわらず,一般的には「もっと古く
からあるもの」と認識されている。「伝統音楽」の研究者
(田井)視覚的な表象物であっても,あるものは美術史でと
にとっては,これが「伝統的」スタイルではないというこ
りあげられ,あるものは民俗学の領域とされるとい
とは常識だが,「伝統的」というイメージが一律ではない
うことがあるということか。
ために,一般の認識とはズレがある。
(岡田)性格は異なるが,浮世絵はある時期まで日本美術史
「日本的」なイメージは,鳴っている音の古さや正当性
の対象にされていなかった。学生時代,「浮世絵は
とは関係なく生み出される。たとえば,鼓童のアクロポリ
日本美術ではない」ということで,浮世絵は卒論の
ス・ライブ(アテネにおける和太鼓の演奏)は「伝統的な日
テーマとしては許されなかった。
本」のイメージづくりに成功したが,伝承曲の編曲4曲の
(菅) 浮世絵の場合,いわゆる図像学にあたるような方法
論はないのか?
(藤原)ないだろう。浮世絵で図像学が成立しないのは,や
はり「伝統」ではないからではないか。結局,百年
間しか使えないものしかできない。文化研究にはな
っても,図像学にはならない。
(田井)ヨーロッパでは貫通しているから武器としてつかえ
る。
他はすべて新作であった。また,「江戸小唄」といわれる
ジャンルは,SPに収録するため短くアレンジされた明治
時代の小歌曲だが,江戸のイメージの強調することで,
「古い日本」を演出している。
「伝統音楽」という語が使われ始めたのには,ふたつの
目的があっただろう。まず,「俗楽」
(「正楽(雅楽)」に対す
る卑俗な音楽)という否定的なイメージをうち消すために,
次に,西洋音楽に対して,日本にも芸術音楽があるという
(岡田)しかし,西洋の図像学も基本的にキリスト教の図像
ことアピールするためである。歌詞改良運動,楽譜化,家
学であるから,近代の美術に関しては全く通用しな
元制度,無形文化財認定制度などを考え合わせると,日本
い。
音楽の地位向上のために「伝統」という言葉が強調された
のではないかという感を強くする。
7.小塩さとみ
【報告】
従来の音楽学における日本音楽研究は「日本音楽史」が
10
それでは,「伝統」からの創造,あるいは,戦略として
の「創られた伝統」にはどのような例や問題点,可能性が
あるだろうか。思いつくままに述べてみよう。武満徹は
《秋庭歌》で,楽器・演奏者は「伝統的」なものを用いつ
つ新しい音の響きを展開しそれを五線譜に記した。国立劇
場の怜楽復元,新作雅楽の委嘱は,日本音楽史家から猛反
発を受けた。ポピュラー音楽と結びついた東儀秀樹の音楽
8.総
論
【今後の切り口について】
・ふたつの文化が出会ったときのハイブリッド的な面白さ
を追求する。
は,「伝統イメージ」を与えながら若者にとって雅楽を身
・
「古典」
「正典」
“classic”
といった類似の概念を検討する。
近なものにしたが,それで雅楽の音楽構造等がわかるよう
・新たな文脈における創造,つまり「伝統を操る」方法論
になるわけではなく,日本の音楽学者は批判的に見ている。
学習指導要領における「伝統楽器」の学習(中学校)に,具
体的な規定はなにもない。
「創られた伝統」は,我々の日常生活に確実に進出して
いる。そのときに重要な役割を担うのは,衣装,楽器など
を探る。
・「伝統」という言葉の各国におけるイメージの相違を調
査する。
・教育における問題を検討する。
→もう少し発表を行ってから,方向性を定めることに。
の「見た目」である。伝統音楽・古典音楽に普段親しんで
いない人は,理解しやすい音楽(=西洋的な音楽)に伝統的
【キーワード】
(議論が拡散しないために)
な色合い(楽器・衣装など)が加わった時に,伝統性を強く
・反復
感じるようだ。「創られた伝統」の正当性を強化するメデ
・連続性
ィアの役割も無視できない。特に,縦の系譜(伝承)を強調
・「伝統」再編にあたっての他者の目
(接触)
する最近のメディアの傾向は顕著だ。音とは別の次元のと
西洋の目を意識して「伝統」を再編した国々に対して,
ころで,付加情報として「伝統性」が強化されているので
西洋にはそれがない
ある。このような現状を考え合わせると,頭の中で作られ
=西洋では「伝統」を語りにくい
たイメージと,実際に見聞きして受け取るものとの間にギ
ャップが生まれている可能性が考えられる。
・パフォーマンスの相違
音楽には再現者が介在/技法や演奏の「伝統」を語っ
ている
【討論】
・「日本には伝統がある」というような前提の排除
(田井)感覚でとらえる若者の反応が面白い。
・一般のレベルで維持される伝統観
(小塩)
もうひとつ感じるのは「伝統」はあくまで人ごとで,
自分が関わる必要はないと思っていること。
「私達の
音楽はあくまで西洋音楽」という意識があるようだ。
(田井)
メディアが発信しているため,とりあえず「大切だ」
とは答える。
(小塩)
「そういうもの」
(伝統音楽)があるという情報は知っ
ているし,長い年月を重ねているから貴重だとは考
えているようだ。
(田井)どれだけリアリティをもっていけるかというより,
→硬い議論と柔らかい議論が必要
・「伝統」の再編と創造の間には断絶があるのか,接続し
うるのか
時代や受容対象によって,「伝統」の受け取り方が異
なる
例)ネオナショナリズム,モード
・コミュニティのコミュニケーションのきっかけをつくる
「伝統」例)よさこい
「郷愁」によって呼び起こされるある種の安心感―
「日本の原風景」のすりこみ
むしろ感覚的に良いかどうかということが重視され
「郷土」という言葉
ているようだ。新しい受容の仕方なのだろうか。
「懐かしい」という言葉:形容詞としてはフランス語
11
にはないのでは
・「伝統」をめぐる人々の行動
歴史ではやりにくい可能性も
【次回の研究会について】
<日時>2005年3月29日11:00∼17:30
<場所>聖徳大学2号館1階研修室
<発表者>岡田裕成,高松晃子
<方向性>柔らかい議論のテーマとしては「感傷や郷愁と
いったレベルで維持されるに支えられるもの」,
硬い議論のテーマとしては「ハイブリッドなも
のの扱い」を。
12
第2回研究会 専門領域からみた「伝統」その1
<日時>2005年3月29日
(火)11:00∼17:30
③類似概念の整理 → 将来的に必要
<場所>聖徳大学2号館1階研修室
④イデオロギーとの関わり
<出席者>岡田裕成,小塩さとみ,菅
例)和太鼓
聡子,田井竜一, (5)柔らかい議論の可能性
高松晃子,藤原貞朗,藤本寛子
(研究補助)
<スケジュール>
1.前回のレビューと本日の進め方の確認
2.報告1「スコットランドのトラヴェラー・プロジェク
ト−内側からの試み」
(高松晃子)
①感傷や郷愁とったレベルで維持される伝統:「懐かし
がる」日本人。
②見た目や付加情報によってリアルなものになる(しか
ない)伝統文化
今日の議論は4①と5①に焦点を当てて行う
〔昼食〕
3.報告2「エキゾティシズムの転倒−アンデス植民地
美術・史/論における『先住民的伝統』の幻想」
(岡
田裕成)
4.討論
5.今後の進め方の検討
2.高松晃子
「スコットランドのトラヴェラー・プロジェクト―内側
からの試み」
【報告】
最近,スコットランドの音楽界ではあまり「伝統伝統」
と騒がなくなってきたようだ。伝統的なものがポピュラー
1.前回のレビューと本日の進め方の確認
(1)「伝統」という言葉のイメージは研究対象によって大
音楽にうまくとけ込んでいった結果,すたれる気配がなく
なり,安心感が生まれたのかもしれない。しかしながら,
きく異なる。日本文学においてはポジティヴに捉えら
ここまでくるのには曲折があった。今日は,伝統の担い手
れる一方で,西洋美術においては「古典」という「上
「トラヴェラー」の話題を中心に,伝統の保存(記譜と口頭)
のもの」を指し示す語の存在が大きく,「伝統」は地
と再発見(外側からの内側の発見),多様性と標準化などに
域性を参照するにとどまる傾向がある。日本美術にお
ついてお話しする。
いては政治的色合いが特に強く現れており,非西洋音
楽において「伝統」はある種自明のものであり,問い
直さずに用いるところがある。
(1)問題の所在
スコットランドのうたは,18世紀以来,文字化・楽譜
(2)「伝統」という言葉の意味内容は地域と時代によって
化が進められたため,現在まで伝えられているものはたい
大きく異なる。現在の「伝統」と大正時代における
ていが記譜伝承の産物だ。しかしながら,口頭伝承を続け
「伝統」が異なることは明白。
(3)硬い議論と柔らかい議論の両方の必要性がある。「伝
てきた人々もわずかながら残っていた。そんな数少ない口
頭伝承の担い手が1950年代に「発見」されると,彼らの
統」「古典」という言葉の概念を問い直す議論が必要
歌は常に外側の人々(研究者やメディア)の文脈(つまり,
な一方で,日常レベルで維持されている感覚を忘れて
スコットランドの伝統回復)で紹介され,内側の人々が保
はいけない。
ってきた歌唱の文脈(ファミリー・トラディションの伝承)
(4)硬い議論の可能性
は必ずしも十全に理解されたとは言えなかった。そこに問
①複数の文化が出会ったときに生まれるハイブリッド的
なものが,なぜか「伝統」の顔をする
②過去との関係をどのように説明するか。
題を見出したアバディーン大学エルフィンストーン研究所
が,内側の視点を取り入れた新しいプロジェクトを展開し
ている。
13
(2)トラヴェラーの「発見」
たことによってライバル意識が表面化し,困ったことにも
1950年代アメリカに始まるフォーク・ミュージック・
なった。従来,トラヴェラーにとって歌うことは家族のつ
リバイバルでは,まず学術レベルでフィールド調査が盛ん
ながりを確認する手段であった。それは,家族の団結は強
になり,民衆レベルではスキッフルが流行して,「自分た
固な割にトラヴェラー集団としての意識は希薄であること
ちも歌える」という意識が広がった。その運動が英国に飛
も示唆している。そのような状況で,特定の人や家族が注
び火し,「よく歌える人々」であるトラヴェラーが研究者
目を浴びることによって,それまでなんとか保っていた社
に「発見」される。(トラヴェラーとは,スコットランド
会のバランスが崩れてしまったわけだ。
の非定住民グループである。)スコットランドの「伝統」と
もうひとつ彼らを悩ませたのは,非トラヴェラーが持ち
して共有すべき遺産が見つかったというのが,当時の一般
出す音楽的よしあしの判断基準が理解できないことだっ
的な認識だった。
た。音程がとれているか,選んだ曲目がトラディショナル
トラヴェラーのパフォーマンスは録音,放送,舞台発表
かどうか等,別の世界の評価基準がコンクールに適用され
を 通 じ て 紹 介 さ れ , ジ ー ニ ー ・ ロ バ ー ト ソ ン Jeannie
たため,彼らはそれに対応するのに苦労した。審査員は,
Robertsonのようなスター歌手が誕生した。ロバートソン
西洋音楽の教育を受けた学校の教員やリヴァイヴァル歌手
の「発見後」の演奏をその前の演奏と比較すると,どんど
たちだったのである。
んテンポが遅くなって身体の身振りが大きくなり,聴衆に
聞かせるためのアーティスティックな意識が芽生えてくる
ことがわかる。
(4)「外側」からの試みの問題点
トラヴェラーにはトラヴェラーの理屈があり,歌の伝承
トラヴェラー紹介の仕掛け人たちに悪気はなかった。古
には独自の機能と方法があるにもかかわらず,それを非ト
いものにめぐり合えた驚きと良いものを紹介する喜び,特
ラヴェラーの理屈(下の①∼⑤)で絡め取ったことが問題だ
に,フォーク,フォーク・ロックがジャンルとして確立し
った。
つつある中,無伴奏でソロという「汚染されていない伝統」
①トラヴェラーはスコットランドの伝統の担い手である
を守りたいという意識があったようだ。
②歌は教えることができる
トラヴェラーが発見されたことにより,古いうたを歌っ
③歌唱は善し悪しを評価することができる
て残そうという機運は高まり,普及および伝統維持装置と
④歌唱の善し悪しは,テンポを保つこと,リズムの正確
してのコンクールやサマースクールが,1960年代後半く
さ,音程の正確さ,などの視点で測ることができる
らいから開催されるようになった。ただし,教えられたり
⑤歌を発表するにはコンサートという形式がふさわしい
教科書に載ったりすることによって,うたの多様性は均さ
れ,規格化・無菌化されることになった。
(5)「内側」からの試み―アバディーン大学のトラヴェ
ラー・プロジェクト
(3)トラヴェラーの反応
2003年に始まった同プロジェクトは,トラヴェラー自
こうした動きは,トラヴェラー社会にいくつかの影響を
身がプロジェクトに加わりながら,内側の声を反映させて
与えた。まず,「スコットランドの伝統の担い手」という
いこうとするものである。3年間のプロジェクトで,いく
タイトルを得ることにより,偏見が薄まるのではないかと
つかの異なる試みを組み合わせてきたが,中でも代表的で
いう淡い期待が生まれたのは明るい一面である。しかしな
ユニークな活動は学校訪問やワークショップである。これ
がら,特定のトラヴェラーばかりがスポットライトを浴び
らは,一般的に見られるような,「教え込む」形はとらず,
14
トラヴェラーが子どもたちや市民の参加者を前に,ひたす
(藤原)もともとtraditionという言葉が「伝承」として今で
ら個人的な思い出を語り,歌うものである。結果的に,彼
も使えるので,そのまま使うということではないか。
らは「トラヴェラー集団」を代表しているわけでなく,
それが日本語の「伝統」の意味で使われているのか
「ファミリー」に属する「個人」であることが強調される。
内部の人間がやりたいようにやるにはどうしたらよいの
か,それを手助けするのが研究所スタッフの役目である。
どうかの区別が問題だ。
(高松)
そう。このような議論をスコットランドで行う場合,
traditionという言葉に違和感はないが,日本で議論
する場合,traditionを「伝統」としてしまうと,隔
【質疑応答】
たりを感じる。一方,「伝承」を英語で言おうとす
(田井)なぜJeannieが選ばれたのか?仕掛け人がいたのか,
ると,面倒な言い回しになる。
彼女が立ち回ったのか?
(藤原)トラヴェラーと非トラヴェラーの区別が必要となっ
(高松)Alan Lomaxのスコットランドの弟子が彼女を「発
たときに「伝統」という言説が出てくるとすれば非
見」した。Jeannieはトラヴェラーの中でも良い歌
常に興味深い。区別するために,日本語でいうとこ
い手だという評判もあったし,迫力もあった。
ろの「伝統」みたいなものを作ろうとした人がおり,
(田井)
なるべくしてなったという部分もあるということか。
しかし,それはある意味で失敗に終わったのではな
(高松)そうだ。しかし,別のイチゴ畑にいた別の人だった
いか?
かもしれない。偶然でもあるだろう。
(高松)
おそらくここでは「伝統を創る」というのではなく,
(田井)このプロジェクトはうまくいく予感があるが?
口頭伝承のわずらわしさを軽減するという程度では
(高松)受けは良いようだ。子どもたちの気づきのきっかけ
ないか。
にもなっている。
(田井)トラヴェラー自身にも評判が良いのではないか?
(高松)参加している人は生き生きしているが,周囲の反応
は異なり,やはり数人のエリートがひっぱっていく
ものにはなっている。全員をひっぱりあげて,みん
なが納得できるものにするのは難しい。
(田井)元々このコンクールというのは,スコットランド全
体の伝統的なものをやろうという趣旨のものなの
か?
(高松)そうだ。1960年代にフォーク・フェスティバルと
いうのができ,それに付随してできたものだ。
(田井)やはり楽器を使ってはいけないのか?
(藤原)トラヴェラー・プロジェクトの中で「伝統」という
言葉はあまり使われないのか?
(高松)最初はそうだったが,後に伴奏部門と無伴奏部門が
できた。そもそもスコットランドは,踊りがそうで
(高松)結構使っているが深い意味はなく,「今まで受け継
あるように,コンクール文化をもっている。
いできたもの」という程度で,非常に気軽に使われ
(田井)それはトラヴェラーとは相容れない発想だ。
ている。
(田井)
「伝統」は「家のスタイル」というレベルか?
(高松)
「家の流儀」ということ。今,プロジェクトの資料
はないが,何度かtraditionという言葉を使っている。
(岡田)避けようとはしていないのか?
(高松)
していない。むしろあまり気を付けて使っていない。
(岡田)それはやはり,農耕の休閑期に力自慢大会をやるよ
うな,定住民的な感覚なのではないか。このプロジ
ェクトをやっているのはどのような研究者か?
(高松)エルフィストン研究所というフォーク・カルチャー
を専攻するセクションのスタッフで,民族音楽学や
15
民俗学の専門家がいる。
(岡田)
「発見」された時に使われていたtraditionの言葉遣
ここでは接触領域(contact zones)と呼ぶことにする。S
の内部にはDの近くにいる先住民社会のエリートが存在す
いのニュアンスと現在の(あまり気にしない使い方
る。つまり,Sの中にさらにdとsが存在すると考えられる。
の)ニュアンスにずれはあるのか?
しかし,Dの内部にdとsは設定されない。なぜなら,Dは
(高松)あると思う。「発見」したときには,変わらない過
去を体現してくれたというのが大きかったと思う
が,変化しながらも生きているのを目の当たりにす
基本的に少数で固定的であるため,接触領域におけるDが
D(d)だとは限らないからである。
「伝統」や「先住民的なるもの」に関する言説はしばし
ると,全然その重みと方向性が違っている。
ばDからSへの一方的なきめつけとして起きる。もちろん
(岡田)
漠然と大きな枠組みで,ディテールはわからないが,
SがDに言及することもあろうが,それはしばしば言語化
おそらく,相対主義批判が行われた後のことだろう。
されないため残らなかったり,言語化されてもDの言語で
今,容易にこの言葉を用いることは危険だが,50
表されてしまったりする。ヨーロッパと非ヨーロッパの関
年代は文化相対主義の文脈の中での閉じた伝統社会
係においては,最初の接触の段階から一方的なまなざしが
というニュアンスで使われていた。その時は正義の
設定されるというのが発表者の基本的な考え方である。
言葉として使われていたし,それにかなりポジティ
「伝統的なもの」が作られる局面で注目したいのは,S
ブな意味を与えてそれを使っていた。このプロジェ
(d)
のふるまいである。S
(d)
はDのまざなし(大きな権威)
クトはその後の閉じた社会という枠組みで捉えるこ
を利用して,S(s)に一方的なまなざしや言説を向けるこ
とに対する批判を意識して行っているものだと思わ
ともあれば,Dのまなざしを逆手にとって交渉の材料にす
れる。
ることもあるからである。
(田井)研究者が方向付けないというのが現在のスタイルな
のではないか。
(2)アンデスの植民地美術について
ここで,アンデスの植民地美術を例に考えてみよう。ア
ンデスの都市部にはヨーロッパ化された芸術がヨーロッパ
3.岡田裕成
「エキゾティシズムの転倒―アンデス植民地美術・史/
論における『先住民的伝統』の幻想」
人植民者を中心として行われてきた。いっぽう,山間部に
は植民者と巨大な先住民人口が存在し,接触領域の舞台と
なってきた。
【報告】
今日は,近代に「伝統」や「∼的なるもの」が作られる
16世紀末頃から現れるアンデスの植民地美術は,基本
ことについて話してみたい。ヨーロッパと非ヨーロッパの
的に教会装飾(部屋の中の壁画,浮き彫り建築)であり,そ
関係において,この問題の根幹はおよそ大航海時代にまで
れはしばしば「先住民的なるもの」
(lo indígena)とヨー
遡る。
ロッパ美術との「混血=メスティソ」と解釈されている。
しかしながら,文化における混血とはなにを表す比喩なの
(1)対称的文化交渉モデルについて
このモデル(図1)は,支配側Dと従属側Sの文化交渉の関
か,また,「先住民的なるもの」の実態はどのようなもの
なのか,きちんと検討されてきたわけではない。
係(ただし明確に区分されるわけではない)を表したもので
ある。
そこには
16
(3)アンデス植民地美術における「メスティソ美術論」
両者の相互乗り入れ的領域が存在し,それを
アンデス植民地美術における「混血(メスティソ)」の概
図1
非対称的文化交渉モデル
念は20世紀の産物である。Angel Guidoが,エスティ
る図像(オウム,猿,半裸の先住民,人魚,果物)は,じつ
ロ・メスティソという言葉を初めて用いた。ギドは,芸術
は大航海時代にヨーロッパ人が作ったアメリカ表象であ
におけるアメリカの「再発見」を目指して1920年代から
り,それらは絵地図や旅行記の挿絵などとして流通した。
研究を始め,特徴的な建築・美術がチチカカ湖周辺などの
これらは,16世紀の新大陸に関わる文脈では「驚異」に
先住民が多い地域に分布していると指摘,“lo Indio”と
関わるイメージであった。たとえば,人魚とグロテスク文
“lo español”の「幸福な合体」に基づいた創造と位置づ
様などの組み合わせは,古代の不思議な文様体系と新大陸
けた。
という地理的に遠い世界との,潜在的な類縁性を持ちえた
続いてTeresa Gisbertが植民地美術論にイコノロジーを
のではなかろうか。これらのモチーフは大航海時代の文化
持ち込み,メスティソ様式の典型的モチーフと言われるも
の枠組みで解釈されるのが普通だっただろう。ヨーロッパ
のを具体的に特定し,それぞれの意味や由来を論じた。た
では,これらは祝祭の場で用いられたが,これらは帝国や
とえば,オウム,人魚,猿といったモチーフの源泉を先住
教会の繁栄や拡張を賞賛するイメージのために用いられた
民文化の中に探したわけである。
可能性がある。
こうしたメスティソ美術論は,常にアンデスやアメリカ
以上のことから,次の2点を指摘したい。
先住民の「ネイティヴなもの」や自然環境に注目する。ま
①個々の「民族的」モチーフが,それ以前の何かと結びつ
た征服後の時間的経過に伴う歴史的現実にはほとんど触れ
くことにさしたる根拠はない。むしろそれらは,セット
ず,それよりも前の「不変の部分」
(「先住民的感覚」)に議
でとらえるべきであり,そのソースはヨーロッパ人が作
論を限定した。先住民の植民地美術への関与を非常に単純
った他者表象としてのアメリカイメージである。
化しているのはないか?
②これらのモチーフはヨーロッパ側の権力表象として使わ
れ始めたのではないか。つまり,一連のセットは新しい
(4)アンデス植民地美術「史」について
(16世紀以降)
上の疑問に基づいて歴史的事実を検討してみよう。アン
シンボリズムや機能を表しているのではないか。そして
それは両者の交渉の中で現れると言えよう。
デスの教会装飾においてしばしば組み合わさって表現され
17
(5)これらのモチーフは先住民社会においてどのよう
に理解されていたのか
人魚のモチーフやグロテスク文様などは,先住民のコミ
ュニティで作られた,織物や杯にも用いられる。ヨーロッ
(藤原)初めて岡田さんに人魚の絵を見せてもらったときに,
直感的に博物学の絵と同じだと思ったので,やはり
西洋的なものだと重ね合わせて見られた。内容には
非常に賛成だ。
パ人の権力表象であったこれらは,先住民にとっては何な
のか。
(田井)接触領域のネイティヴ・エリートについてだが,彼
たとえば,17世紀の先住民記録者ワマン・ポマが描い
らは非常にうまく立ち回っているように見える。自
たインディアスの地図はこの点について考える上で興味深
分たちが表象されていることをうまく使っていると
い。インカ時代の概念でとらえつつも,ヨーロッパの地理
いうところに,もう少しプラスのイメージ,つまり
認識をもとに描いたそのインディアスの地図には猿,ユニ
文化の操作性を認めても良いのではないかと思うが
コーン,人魚などが描き込まれている。それは,自らの土
どうか?
地をあらわしながら,他者から見られるイメージ(目線)を
(岡田)そのあたりはもう少し材料が必要なので今日は触れ
意識して書いていることは明らかだ。つまり,それを書い
なかったが,基本的には本質的な意味での抵抗であ
た先住民のエリートは,ヨーロッパが投げかけた表象を知
ったと思う。植民地時代というのは,支配される側
っており,使っていた。その結果,転倒したエキゾティシ
からすれば,社会的にも経済的にも圧倒されており,
ズムが生まれることになる。
通常の意味での抵抗はできなかっただろう。その中
ヨーロッパ側のアメリカ表象で装飾された山車と,それ
でどう立ち回るかというときに,支配階級の支配文
を先導する先住民という図像(クスコの聖体祭を描いた絵
化の材料を流用して,自分たちの居場所を作ってい
画シリーズ)もよい例である。先住民のエリートはそうし
くということを評価したいが,今日のところはそこ
た一方的な他者表象を受け入れることによってしか,植民
までの材料がない。
地社会において,彼らの地位・権力を保持できなかったと
言ってもよいだろう。こういった現象はヨーロッパ人と先
住民の視線の交錯によって生まれたものだが,支配の側の
力が強いのは当然のことだからである。
(菅) 他者表象の部分に逆にアイデンティティをこめてい
るということか。
(岡田)そのとおり。ただし,その意味を具体的に細部まで
再現するのはとても難しい。
20世紀の植民地美術論は,皮肉にもヨーロッパ人の作
(菅) ただし,あまりアイデンティティを強調しすすぎる
りだしたにすぎないアメリカ表象を,先住民の自己表現と
とGisbertと同じところに戻ってしまう。それとは
して解釈してきた。そこには,二重の暴力が見出されるの
異なるということを示すのが大変だろう。
である。
【質疑応答】
(藤原)発表では「異教のもの」というのも大きな位置を占
(田井)時代は異なるが,第二次大戦後に南太平洋ではやっ
たギター音楽は,完全に欧米の音楽と混ざったよう
めていたように思う。宗教の方で読み解く部分も大
なものだった。それがある程度時間が経過すると,
きいのではないか?
自分たちの「伝統的なものだ」と表象されていく。
(岡田)
オウム,猿,人魚というセットで話を進めたいので,
宗教主体では説明が難しくなってしまう。
18
(岡田)そのとおりだ。
その中心的な役割を果たした接触領域のエリート
(つまり,米軍基地に接触できた人,少し前ではイ
ギリスの植民地政府にアクセスできた人)がある種
期にはあまり問題にならないが,20世紀の植民地
の操作をして,そうした音楽を作っていくという経
時代,イギリスの場合はエリートだが,特にフラン
緯があったのだが,今の話とパラレルだと思う。
スの場合はDの「おちこぼれ」がインドシナにやっ
(岡田)
「伝統音楽」という言葉は,d→Dのベクトルに使わ
てくる。そのような彼らがSのエリートと会い,そ
れる言葉だと思う。ここの人たちが自分たちの文化
のようなものができてくるという関係が非常に複雑
をヨーロッパの価値観にあわせてプロモーションす
だ。西洋ではできないようなとても西洋的なことを
る時に,比較的便利で,使いやすい言葉が「伝統」
dに教え,現地でより一層西洋らしくやってしまう
だったのではないか。それを意識的にやる人もいれ
こともある。「伝統」はDもSも意識化しておらず,
ば,ヨーロッパナイズされて無意識にやっている人
接触面でできており,できたものがフィードバック
もいるだろう。
されていくのだと思う。接触面が重要なのは,Dと
Sが本質的な議論をしなくて済むということだろう。
(田井)逆にsの人は言わない。そのことを言いたがるのは
dだろう。
(岡田)僕の議論の問題点はそこで,Dすなわちヨーロッパ
(田井)フィールドワークにおいて,私たちが相手にしてい
をひとつにしている,ということ。ただし,こうい
るのはdであり,彼らは私たちの期待にそって伝え
う表象はカトリックもプロテスタントも関係なくヨ
る人々となっていると言える。
ーロッパという規模で流通していると思うので,こ
こでは捨象してしまって良いと思う。アメリカ表象
(岡田)現地に行くと,大抵助手という人たちがおり,彼ら
はdについている。助手は現地語との翻訳をしてく
となるとヨーロッパ人の中でも違いが出てくるが,
れるわけだが,今考えると,わかりやすく説明して
この場合はエキゾティシズムの主体ということで,
くれるがために,かえって彼らなりの解釈をすでに
ひとつに括って,歴史も超えて一貫性があると言え
加えてしまっていたと言える。ヨーロッパ側にとっ
るのではないか。
てわかりやすい先住民文化というのが,dによって
しばしば作られている。
(田井)dが民族誌というようなものを作っていると,それ
を喜んで写してしまうということもある。
4.討
論
(高松)まずは非対象文化交渉モデルに関して,それぞれの
専門領域からコメントを。
(岡田)民族誌の枠組みというのはまさにこの図式で,世界
(菅) 明治というのは微妙で,単純にD,Sとならないだ
地図やそこに出てくる位置というものを彼らは知っ
ろう。まず支配者の側から見ても,Sの側が二分し
ていた。その上で,伝統的民族衣装をまといつつ,
ているとは限らない。ヨーロッパの場合は確かにこ
ヨーロッパ人がアメリカを象徴するようなものを引
のように見ているだろうが,自己の定め方が異なる
っ張っていくというのは,そちらの人が要求してい
のではないかと思う。
る自分たちが何なのかということをよくわかってい
(藤原)文化的には日本もコロナイズされたところがないと
るということだろう。まさにフィールドワークで補
はいえない。文化的にはこういう図式がよく当ては
助をする現在の知識人と同じ役割だ。
まるタイプの稀有な国のひとつでは。
(岡田)D,S(d)
,S(s)は固定的ではなくて,局面次第でかな
(藤原)岡田さんは「Dにdは作らない」とおっしゃってい
り入れ替わるのかもしれない。力の働き方は日本で
たが,僕は接触面にいるDにも興味がある。この時
もこのようなことがあるかもしれないとも思うが。
19
(高松)西洋音楽導入期の日本はまさにこの状況なのではな
いか。
(藤原)例えば,僕の存在もDでもあるし,Sでもある。
づけていたのだろうか。
(岡田)その文学的主体の成立の「主体」というのはヨーロ
ッパ的な概念だ。
(菅) それがまず大きい。あと,和歌は修養して,これま
(菅) 研究者はどの位置なのか?
(藤原)まさにコンタクト・ゾーンなのではないか。フラン
でのものをいかに自分のものとするかが重要であり
「私」がいてはいけない。それに対して,与謝野晶
スに留学するとアジアのことをやり,帰ってくると
子のものが和歌ではなく短歌と呼ばれるのは「私」
あちらのことをする。接触面でしか文化はないとい
をうたっているからだ。和歌から短歌という場合,
うことではないか。
これが一番言われていることで,近代になったから
(菅) 外国に行って日本のことを語る時は,まなざしはど
ちらにおいているのか?見られるものとしての日本
というところに自分をおいているのか?
(藤原)それもあるが,ヨーロッパに行って,初めてアジア
といって,すぐに和歌から短歌へ呼称が変わるわけ
ではない。
(藤原)女性がその役割をうけおった,というのが面白い。
「文学」というのとはまた位相が異なる。
に興味をもち,ヨーロッパのなかで,ヨーロッパ人
(菅) もうひとつは文章の修養ということがある。一般の
のようにアジアの勉強をする,ということもある。
女性に対して,手紙の書き方の本などが出るわけだ
(高松)先日参加したトラヴェラー・プロジェクトのイベン
トで話す際,あちらから与えられた私の発表タイト
が,女性は「やまと」を担わなければならないから,
そこでは和文を書くように教える。
ルは“ A View from afar ”だった。私としては内部
に入ったつもりだったが。
(高松)女性に日本的なものを担わせる,ということはなか
なかないような気がする。スコットランドではあり
(高松)接触面で何か起こっているものが,往々にして「伝
統」になりがちであるという方向性が漠然と見えて
(菅) つまり民族の誇りは男性の方が担っているというこ
きた。こういう図式は日本では使いづらいとおっし
とか。そこが日本の立ち回りのすごいところかもし
ゃっていたが,和歌が短歌になったというのは,何
れない。
かと何かが接触して起こったのか?
(菅) いや。和歌が短歌になったのは,あくまでも文学的
20
えない。
(岡田)日本の場合,平安時代から男は漢で,外来のものを
どこかに想定し,大きなDをどこかに意識している。
主体の成立という近代のおとずれということだ。そ
自分たちが男性としてdになろうとした時,男性で
のあたりは次回に話したい。今,私がこの図で思っ
はないものをsにおかなければならないので,女性
ていたのは,明治維新のときに,天皇家がすべてを
を和だとし,sとした。明治維新でDが漢からヨー
分解して洋装にあわせつつ,一方で,これまで連綿
ロッパに変わったために,文学的主体は男性が担う
と続く和歌などをひとつの伝統表象とし,それを女
から,女性は和歌をやりなさいということなのでは
性が継承しているという形は,どのような位置取り
ないか。衣装の問題も同様だろう。
になるのか,ということ。つまり,Dにヨーロッパ
(菅) 断髪令が出された時,男性は髪を切らなければなら
的なるもの,Sに明治期の人々をおいたときに,彼
なかったが,女性は逆に切ると罰せられた。
ら自身(S)の自己認識は自分たちをどのように位置
(岡田)インカの人たちにとってDというのは未体験のもの
だったが,日本の場合,近代以前からDは枠組みと
(藤原)プリミティヴなという意識はないのか?
してずっと存在していた。中国というDを代理する
(岡田)それもあるかもしれない。しかし,やはり四大陸の
ことでdとして文化的に君臨していた人たちは,明
擬人像といった時に,オウムは必ずアメリカについ
治維新はDがヨーロッパに変わるだけで,構図とし
てくるし,猿もしばしば同様の傾向を見せる。
ては変えなくてすんだ。
(菅) 敗戦後は「自分たちは女性だったから」といって和
の方に寄り添い免れようとする。立ち回りがうまい。
(高松)少々「伝統」という言葉がつかいにくいという感じ
がしてきたが,スコットランドでは「自分たちの伝
(田井)岡田さんがおっしゃるように,南米などは突然Dが
統」というと,揶揄,笑いの対象に成り下がりかね
出てきたから,どのように対応するかは,想像以上
ない。例えば,1920年代のミュージックホールに
の苦難であっただろう。
おいて,スコットランドの芸人がタータンの衣装を
(岡田)近代化において,そのような外に大きなスタンダー
着て,スコットランドなまりで話していくことがイ
ドを想定するという枠組み自体に日本は慣れていた
ングランドの人に大受けした。それを受けて,スコ
が,そうでない地域の方が多いというのが世界の現
ットランド人自らがスコティッシュなものを格好悪
状だ。
いという意識をもち,伝統的なものがジョークの対
象となってしまった。
(菅) 先程の発表で「地図を模写して自己表象をする」と
(小塩)イングランドという価値基準があるということか。
いうのがあったが,そこで与えられたイコンはなぜ
(高松)そう。Dが身近にあり,いつも笑われているという
猿などなのか?
(田井)わりと早くにヨーロッパでは猿のイメージが出来て
いたのか?
(岡田)中世にも猿やオウムや人魚はある。しかし,16世
状態で,ある種屈折している状況だ。スコティッシ
ュなものを笑うというのが日常となっているのに対
して,日本で伝統芸能や古典芸能を笑うというのは
ありえない。
紀のそのコードで読んだかというのが問題だ。16
(菅) 大きなDの居場所が違うのではないか。
世紀の文脈でこそ,猿とオウムと人魚はひとつのセ
(藤原)違うところは「伝統」というのはモダニズムと切っ
ットとして結びつくということが言いたい。
ても切れないことではないか。日本のように完全に
(菅) 自己表象の彼らの枠組みごと取り入れて,というこ
モダン化したところでこそ「伝統」が言われる。モ
とか。
(田井)では,ヨーロッパ側がそれをセットとして取り込ん
だのか,というのが問題だ。
(岡田)オウムももちろんアメリカとの接触以前から図像と
してあり,ヨーロッパでも知られていたが,色鮮や
ダンがないところで伝統という必要はない。例えば,
東北地方のおばあちゃんが自分の語る言葉を「伝統」
として胸を張っているわけではなく,胸を張る「伝
統」というのは完全に近代化した歌舞伎などになっ
ている。
かなオウムは南米原産で非常に印象的だった。絵地
(高松)しかし,おばあちゃんは自分では「伝統」と言って
図の中の動物を研究している研究者によれば,地図
いなくても,周りで言っていると案外使うようにな
の中で一番出てくるのはオウムであり,次は猿だっ
ったりするのでは。
た。猿は旧世界にもたくさんいたが,新大陸にはや
はり珍しい猿がいたからかかもしれない。
(小塩)東北地方に行くと,物語を毎日毎日,観光客相手に
話している人がいる。完全にスクリプトができてお
21
り,そういう人にとっては,言葉には出さないかも
ドの人も踊るようになった。懐かしいものを移住先
しれないが,「伝統」を伝える誇りもあるような気
に求めるというのがひとつの流れではある。
がする。
(菅)「懐かしい」や「感傷」は共同幻想でなければなら
(高松)
「研究者が教育していく」というのは常に思うこと
ないが,なぜみんながそう思うのか?個人的に思う
だが,なかった概念をふきこむことによって,スタ
のではなく,みんながそう思ってしまう媒介は何だ
イルが変わってしまうということがある一方で,
ろうか?
色々なものに接して新しい概念を取り入れていくと
いうこともどこでもありえる。
(田井)先程のネイティヴ・エリートということと同じだ。
(岡田)
「 懐かしい」は共同幻想だとおっしゃっていたが,
伝統の消費者として大衆のようなものが出てきた時
に,その人たちの感情を表す一番便利な言葉だと思
我々もそれが悪いとは言えない。ある意味強制され
う。audienceが成立するときにはそれを消費しや
ておらず,自分たちで選択して語りだしている。
すい形にしてくれるシステムが必要で,「懐かしい」
というのはハードの面でも近代にかなりよりかかっ
(高松)感傷や郷愁というレベルで維持される伝統について
はどうか?
(田井)もう少しあとの時代になってくると出てくるのか。
ある時期から中南米などでも出てこないのか?
ているものなのではないか。
(田井)岡田さんが説明してくれた状況下で,先程示してく
れた例を考えた場合に起こりうるということか?
(岡田)植民地時代にあのようなエキゾチックイメージの意
(岡田)それはわからないが,モダンが繁栄してきたときに
味をS(s)は考えてもみなかったと思う。S(d)やそ
出てくる現象なのではないか。「懐かしい」という
の周辺の人たちはそこに意味をよみとろうとか,解
言葉で言ったかどうかは別だが,20世紀にメステ
釈すべきものとしていたかもしれないが,共有の基
ィソと言うのは自分の故郷を作りたいためだ。むし
盤はなかったのではないか。それが近代になってく
ろ音楽のFolkloreの方が「郷愁」のようなイメージ
ると,メスティソという概念も含めて普及させられ,
が強いかもしれない。完全に近代の産物だと思うが,
一体感や共有する感情となるのではないか。懐かし
「懐かしい伝統」としても消費されている。
(田井)そのあたりの話と高松さんのフォーク・リバイバル
の話はどこかでリンクするのか?
さというのは,近代のある種の情報共有の枠組みと
結びついたものなのではないかと思う。
(藤原)懐かしいというのは論理的にいって何等かの切断が
(高松)
「懐かしい」と言っても実際には聞いたことがない
ある。時間的な切断があるのは近代だと思うが,日
わけだから実感できないが,「こういうものがあっ
本人にあまりないのは,おそらく距離的な切断だろ
たはずだ」という「幻想に対する懐かしさ」という
う。西洋人のノスタルジーと一致しないのは,日本
のは出てくるのかもしれない。それを実際に音で確
人の「懐かしい」はもっぱら過去にのみ向かってい
かめたい人は,カナダのケープ・ブレトンの移民の
るのに対して,西洋のノスタルジーは距離的な遠さ
ところなどに行く。これも幻想かもしれないが。
にも言及している。それゆえ,懐かしいというのは,
(田井)実際に古いものがあるのか?
すぐれて近代的な概念なのだろう。
(高松)ステップダンスなどはケープ・ブレトンで生きなが
22
らえていて,本国ではほとんど伝承がなかった。こ
(高松)こうしてみると,「伝統」は辞書的な意味では「大
の15年くらいの間に逆輸入されて,スコットラン
衆がつくってきたもの」とされてきたが,大衆とい
うのは伝統の消費者であって,目に見える形で「伝
たように,わりと実利的なものだったようだ。
統」を提示するのは大衆ではない。目に見える形に
(藤本)源氏物語で和歌を勉強するという話もあるが。
なって,消費するようになってはじめてどんどん
(菅) そう。私たちは散文中心に読むので物語と扱うが,
「伝統」というものが取り上げられるようになって
いるように思う。
(田井)見えないところがある意味「伝統」議論の巧みなと
ころだ。
(岡田)いったん消費の文脈にのってしまうと,作り手が消
えてしまう。
(高松)ただ,作者がわかっていて明らかに根を探れるもの
を「伝統」と呼ぶ場合もある。一般的に民族音楽学
では「伝統」という言葉は作者不詳という概念と非
同時代の人にとっては和歌が重要だった。和歌があ
れほどなければそれほど称揚されなかったのでは。
(高松)規則を教えてくれる人というのは事実上おらず,完
成品をもとに学ぶということか。効率は悪い。
(菅) だから歌論などが出てくる。
(小塩)テキストやカリキュラムがあれば最低限のものが伝
わる。伝えるようになったきっかけというのはある
のか?
(菅) 和歌がどんどんすたれて,漢詩の方に力が注がれる
常に結びつきやすかったが,英国の場合はそうでも
ようになった時代があり,危機感をもったようだ。
なく,作者がわかっている民謡と呼ばれるものがた
やはりシステムは同じだと思う。
くさんあり,伝統と作者不詳という概念は必ずしも
(小塩)やはり漢詩というDの存在がある。
相容れないものではないというのは当たり前となっ
ている。日本も同様だろう。和歌の場合も詠んだ人
がわかっていて,伝統が積み重ねられているのでは
ないか?
(菅) いや,意外とそうでもない。うたの中心は詠み人知
(藤原)今,伝承の効率の話が出たが,中国の美術において,
「手本」とされるものが「写した」とされて伝えら
れているものの,全く同じように写されているわけ
ではない。元本がわからないほどだが,誰が何を写
らずであり,天皇の名前がついているものも天皇自
したという情報は書かれている。つまり「写した」
身が全部を詠んだとは限らない。例えば額田王がそ
ということが重要なわけだ。
うであったように,職業的に天皇の口の代わりをす
(田井)そのことで何が伝わったのか?
る歌人がおり,彼らが天皇の立場にたって詠んだも
(藤原)
「誰々は樹木をこのように書いている」
「木はこうい
のも,天皇の名前で歌集に収録されている。固有名
う風にかかなければならない」というような集積が
詞や作者は誰かという概念自体,文学的には近代の
どんどん増えていき,それを色々なところから集め
ものだろう。「伝統」といいつつ,和歌の伝授とい
て,マニュアルができる。集めてくるという点では
うのは意外と後からできたものだ。口伝がシステム
聖書も同様だ。
化するのは意外と新しいようだ。
(小塩)音楽においても中国の人は弾き方を変えるというこ
とを日本に比べて気にしない。しかし彼らは「前の
(高松)では,口伝がシステム化される以前はどうだったの
か?
(菅) 自然と学んでいる。歌論というものは,和歌の発生
曲をきちんと伝えている」と言う。
(高松)やはり「伝えた」「見ました」というのは大事なこ
となのか?
と同時にあったわけではない。歌論の最初は「この
(藤原)それはとても大事だ。しかし,専門家もどういうつ
言葉とこの言葉は一緒に詠んではいけない」といっ
もりで彼らが「写す」と書いたのかわからないと言
23
っている。模写ではない。
(高松)
「写す」というのは英語ではcopyで良いのか?
ので,おそらくシステムとしてそのような考え方が
あるのではないか。
(藤原)
じっさいには模写
(コピー)
しているわけではないが, (田井)ダブル・スタンダードということか。
訳すとcopyとしか言えないだろう。
(小塩)個人個人で肉体は違うので,それをどう変えるかは
(田井)日本語の場合は結構そのまま写す。
各自が考えるが,骨組みは伝えたいということだろ
(菅) たまに誤字などはあるが,異本研究ができるのは,
う。
これが誤字だと判断できるからだ。好き勝手にスト
ーリーを変えたりはしない。
(田井)中国の美術の場合,変えても良いという了解があっ
たということか?
(高松)ただし,それは明文化されているわけではないので,
効率が悪いといえば悪い。
(小塩)そして本当に教えられたとおりに教えているのか,
言説としてだけ添えているのかはわからない。
(藤原)実際には有名な人,権威の名前を書いている。それ
こそ「伝統」だ。
(高松)教えるということは,伝えるためのひとつのポイン
トで,教える人がどう動くかでその後の形態が大き
(高松)変えて良いのかダメなのかというのは色々あると思
うが,日本の場合は変えない方が美徳なのか?
く変わってくる。美術の方で伝える/教えるという
ことに関してはどうか?
(小塩)高松さんの発表にあった「家の伝統」の時にも考え
(藤原)古典教育という点でいえば,いわゆる「カノン」が
ていたが,日本で家の伝統という話がよく出てくる
教えうる範囲だろう。アジア人が「伝統」好きだと
のは歌舞伎の芸だろう。歌舞伎の場合,初役で演じ
すれば,カノンではなく,教育されない自由さとい
る時は教えられた通りに演じるが,2回目以降は自
うのを含めての意味を伝統という概念(伝承ではな
分で工夫して良いようだ。また,地歌箏曲の演奏家
くて)を持っているからかもしれない。例えば,日
富山清琴氏は「一応このように教えるが,本当にう
本の工芸では,1920年代くらいから桃山時代の茶
まくなったら自分の声や性格にあわせて細部は変え
陶を「再興」する動きが現れるが,出来上がったも
て良い」と言う。どこは変えても良くてどこがダメ
のの形は,桃山のものと全く似ていなかったりする。
というのは,言葉で特定はできないが,明らかに両
方ある。
(岡田)ふれこみが大事なのであって,本当の実態を問い始
めたら絶対の「再興」などありえない。「伝えてい
(菅) 小塩さんがそれを弟子に伝えるならば,自分が変え
る」というふれこみが「伝統」では大事なのではな
たものを教えるのか?それとも先生に教わったもの
いか。精神を受け継いでいるというのはある部分で
を教えるのか?
説得力がある。
(小塩)それは人によって,流派のシステムによって,色々
(小塩)その意味では,狂言や能など伝わっている時間の長
なパターンがある。長唄の場合は自分のものを教え
い方が,ふれこみ術がうまいように思う。
るパターンが多い。ただし,それも素人弟子とプロ
(高松)過去にそのようなものを求めておけば,過去はわか
に教えるのとでは異なる。プロに教える場合は,お
らないから,証明のしようがない。
そらく自分が習った方を教えると思う。狂言などは, (菅) しかし,歌舞伎などでは,これから映像資料が残っ
24
色々な流派の人が芸談で「自分が習ったとおりを教
ていくので,検証が非常に容易になってしまう。そ
えて,自分が変えたものは伝えない」と言っている
れよりも前のものは,芸談や言説が残っているだけ
で,実像はない。
(小塩)ただし,「団十郎の型はこうである」というように,
人は記憶の中にある名器であり,だからこそ「復興」
といいつつ作る人も自分の創意で作ることができた。
パターン化されて伝わる技術が出てきている。「少
なくともここには残っている」というように,断片
(小塩)クラシック音楽の方はどうなのか?多くの録音など
化してこの部分に具体例をあげるという形で見せら
が残っているわけだが,伝統音楽の方で起きている
れるようになっているのではないか。
ようなことは起きていない。違いを楽しんで聞くよ
(高松)そう。ひとまとめにして言うのは難しくなっていく
うな文化があるはずなのに,日本の芸能の方はなぜ
が,モチーフ研究に移ってきたように,微に入り細
テープでそれがダメになったと言われてしまうの
に入りの研究は逆にしやすくなる。
か?
(小塩)あとは,思い入れて見るなど,いくつかのシステム
でそれが保証されているのではないか。
(高松)西洋音楽の場合はもともと楽譜という規範があるた
めではないか。
(菅) しかし,それは100%正しく継承されるのか?
(菅) 落語ももとはお師匠さんが3回話してくれるのを聞
いて覚えるという形だったが。
(田井)今はテープを聴いたりビデオを見るという形で学習
の仕方が変わっていく可能性があるように思う。
(高松)1回のパフォーマンスが刷り込まれていくため,許
容度の学習が必要になる。
(高松)前提にはなっているだろう。
(田井)運用のレベルではかなり口頭伝承がある。実際の運
用に当たっては,そうした付加情報が必要となる。
(小塩)もちろん西洋の楽譜と日本の楽譜は違うわけだが,
日本でも楽譜に頼って学習もしているにもかかわら
ず,聴き手の方からみて固定的になってしまう。
(岡田)アバウトな「伝える」というふれこみで,これまで
「解釈を楽しめる」という懐の違いがあるように思
許容性をもってやってきたから,モチベーションを
うが,その違いはなぜなのか?昔は伝統音楽の方も
維持して伝わってきたのだと思うが,映像で
聴き手の方に色々なものを受け入れるだけの土壌が
100%残ってしまい,その通りやらなければなら
あったように思うが,それが枯渇してしまっている
ないとなってしまったら,モチベーションを維持す
というのが,記録をしたときに伝統を破壊してしま
るのは実質的に難しくなるのではないか。これまで
うという,非常に脆弱なものになっていることと関
は適当にあやふやな部分があって,記憶など無意識
係しているのではないかと思う。
に変えることも可能なものだったから,人間的な芸
(高松)西洋の芸術の場合は,個人の表出ということを重ん
能の伝播というものが起こり,心のこもったものと
じていて,個を楽しむというのが大前提だが,日本
して伝えられてきたが,映像という形で固定されて
のものは一応集団として受け継ぎ「集団としての何
しまったら,死んでしまう可能性もある。
かが出てくるはずだ」という期待がある。楽譜に書
(菅) 伝統芸能を保存するアーカイブを作るために,モー
かれている情報量も違う。
ションキャプチャーを使うところもあるようだ。
(岡田)美術においても,桃山復興の話は詳しく知らないが, (小塩)スコティッシュの場合,この表出というのはあるの
今まで過去の名品とのずれがあまり具体的に指摘さ
れなかったのも,名器というのはなかなか目にする
機会がないということによるのではないか。大抵の
か?
(高松)
最近はある。ただし,いわゆるフォークなどであり,
コンクールではあまり言われない。
25
(小塩)やはり守るべきものがあるということか。
正典がなくて,いいかげんに伝えられていくという
(高松)守るべきものがあると思っている人が守っている。
ことだ。
ただし,一人の人が色々なジャンルを行き来できる
ような風通しのよさがある。ところで,日本では録
音すると伝統破壊と言われるのか?
(高松)ある種いいかげんだが,厳しいところは厳しい。違
いがわからないこともある。
(小塩)先日,狂言の山本東次郎さんが,子供の頃にお父さ
(小塩)日本の伝統音楽の色々なジャンルの人が「昭和30
んに「違う」と言われたことの意味が,60歳くら
年代くらいから芸風が変わった」と言う。やはりそ
いになってようやくわかってきたというお話をして
れはテープで稽古するようになったということと,
くださった。もちろん少しずつわかっていったわけ
踊りでは昭和50年代くらいからビデオにとるよう
だが,システムを自分なりに解き明かしたのはそれ
になったということに原因を求めているようだ。そ
くらいの歳だとおっしゃっていた。しかし,それは
れはミクロなレベルだと思うが,それが芸をつまら
わからないうちに次の世代を教えているということ
なくさせていて,伝統芸能市場を活発にしていない
でもある。
と皆さんおっしゃる。
(高松)教えてはいるが,教えるシステムが確立されていな
(田井)その差というのは,伝承のレベルなのか?発声法な
いところで教えているから,それに気付くのにすご
ど声の質とかそういうレベルであるようにも思う
く時間がかかる。ピアノの場合は用語が確立してい
が?
るが,トラヴェラーのように普段あまり教えるとい
(高松)やはり均質化されてくるわけだから,平均律を聞い
ているとそうなるということではないか。その説明
う行為をしていない人は,何が違うかわからない生
徒にどう対応したら良いかわからない。
の方便として,録音をかつぎだしているような気も
する。また,日本で「伝統」教育をするようになる
と,また色々な変質が起こるのかもしれない。
(岡田)言語による概念化がされている芸術とそうでない芸
術があって,西洋音楽や西洋美術は比較的概念化が
進み,言語化されたことによって,ある意味教える
(田井)美術の方での伝承というのはどうなのか?
のは効率化されたのだろう。効率化された時に,個
(岡田)日本の美術には粉本というのがあって,狩野派は狩
というものを強調する論理的可能性も出てきたのか
野派の粉本がある。システムとしてはほとんど家元
もしれない。西洋美術で個が強調されるのはルネサ
制度だ。ふれこみとしては,それを組み合わせて描
ンス以降で,ミケランジェロなどの個性神話が出て
き,それで画風が守られていくという。
くるのは,理論家の登場と併行した現象のようだ。
(藤原)ヨーロッパで「伝統」というのは合わないという話
それができなかったり,しなかったり,とにかくそ
はしたが,クラシックの教育の場合は同じだ。しか
う選択をしなかった領域というのは,伝達に非常に
し,彼らは「伝えている」という意識はないのでは
時間がかかる。
ないか。それがマスターしないと絵は描けないとい
うレベルだ。
(高松)前回,伝統美術という言葉はないと言っていたが。
(藤原)しかし,日本の場合はぴったりくるというのは,今
日の話を聞いていてなんとなく雰囲気がわかった。
26
(藤原)
工芸では,技術的な伝統は秘密にされる場合が多い。
そこで口頭伝承,さらには,単に見て学ぶ,という
のが大事になる。
(岡田)
どちらの場合もパラレルだ。メソッド化した場合は,
表に出して「ここから先は自分でやりなさい」とな
るが,メソッド化されない場合は,されないからこ
そ勝手にできる改変があって,そこに暗黙のうちに
(高松)一方で,伝承がある程度確立されていて,保証がな
いものはダメだということだったが?
この働きを容認している。やはりこの働きをどこか
(小塩)そう。また,マスターピースを選ぶのか,危機に瀕
で容認していないと,世代を超えてものづくりのモ
しているものを選ぶのか,ユネスコ側が明らかに提
チベーションを維持するということはできないとい
示していないというのも問題だろう。
う気がする。よって,メソッド化されない領域の不
利な点は,(メソッド化する領域もパラレルかもし
れないが)本来言語化しないところにこの働き口が
あるため,中途半端に言語化してしまうと,衰退し
やすくなってしまうということかもしれない。
(小塩)または「伝統」を打ち出していく時には,逆に言語
5.今後の進め方の検討
【今日のふたつの柱について】
・硬い議論:非対称文化交渉モデルを共通認識とする。固
有のものを不変のものとしてとらえる見方に対して,接
触領域に注目するという方向性で話をまとめていきたい。
化しないと「伝統」が何なのか伝わらないため,彼
・柔らかい議論:モダンが介入してきたことによって,大
らは言語化しなければならない状況に押し込まれて
衆という存在が伝統の消費者として動き回るようにな
いるのだと思う。
り,「伝統」が懐かしいレベルのものになった。移民の
問題もある。モダンと大衆の動きの解明を軸に,これま
(高松)前回より,伝統,伝承,正典,古典という言葉が使
で伝統の作り手であると思われていた大衆が,実は消費
われるが,日本の芸能の場合に「古典芸能」という
者であったということを説明していく方向で進めたい。
言葉から「伝統芸能」に置き換わっているというこ
とがあったが?
(小塩)ハイカルチャー云々の差別があるということで「伝
統芸能」になっている。
【次回の研究会について】
<日時>2005年5月21日
(土)11:00∼17:30
<場所>聖徳大学2号館1階研修室
(高松)一本化しようということか?
<発表者>菅
(小塩)明確に区別しないということだと思う。どこまで意
<議論の柱>第2回と同じ。特に日本の近代(モダン)の問
図的かは別として,そのような傾向はあると思う。
聡子,藤原貞朗
題について。
ただし,文化庁の重要無形文化財指定の対象となる
のは「古典芸能」と呼ばれているものについてだけ
で,いわゆる「民俗芸能」は民俗文化財という別カ
テゴリーの指定であり,芸術扱いではない。プロフ
ェッショナルかノンプロフェッショナルかというと
ころで線引きをしているようだが,不安定な状態で
はあるようだ。
(高松)ユネスコの傑作選を見ていると,色々なものが入っ
ているが。
(小塩)ユネスコ側としては,歌舞伎の中に農村歌舞伎が入
らないことに不満を持っているらしい。
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第3回研究会 専門領域からみた「伝統」その2
<日時>2005年5月21日
(土)11:00∼17:30
承の正統性を維持できる。記憶のなかの名器や名演奏
<場所>聖徳大学2号館1階研修室
<出席者>岡田裕成,小塩さとみ,菅
「伝えている」というふれこみを欠かさないことで,伝
聡子,高松晃子,
藤原貞朗,藤本寛子(研究補助)
<スケジュール>
1.前回のレビューと本日の進め方の確認
(幻想)を手本にし,そこからのつながりを正当化するに
は「伝えている」というふれこみが重要。いっぽう,メ
ソッドが確立して伝承が効率化されたとき,価値観のシ
フト(集団→個,あやふや→正確)
が起こる。
2.報告1「<女性性>と和歌・序―<感傷>の効用―」
(菅
聡子)
〔昼食〕
3.報告2「日本の美術史編纂と『伝統』の創出あるい
は生成」
(藤原貞朗)
2.菅
聡子「<女性性>と和歌・序―<感傷>の効用―」
【報告】
今日の報告における問題意識は,女性が近代の中でどの
ように国民化するのかというところにある。明治期には,
4.今後の進め方について
文との関わりの上で国民化を学習していくという側面があ
5.討論
るが,その際に女性が担うのはどのような文なのか,また,
実際の性別とは別に,女性性がどのように関わっているの
1.前回のレビューと本日の進め方の確認
かという問題は非常に興味深い。特に,伝統の捏造/創造,
【第2回研究会レビュー】
伝承/継承について考える場合,それらは具体的な修身と
(1)異文化接触が「伝統」を生む(非対称文化交渉モデル
いうレベルではなく,民衆の感傷(センチメンタリズム)の
〔岡田作成〕を共通認識とする)可能性
中で起こるではないか,その際,もっとも効力を発揮する
支配と従属から成る関係のもとで異文化が出会ったと
のが和歌ではないかと考えている。
き,その接触領域で「伝統」や「∼らしさ」「∼的なる
例を挙げてみよう。
もの」がつくられていくようだ。
(2)モダニズムあっての「伝統」
「知らずしてわれも撃ちしや春闌くる
――
バーミアンの野のみ仏在さず」
(美智子皇后)
モダンが介在しないところでは「伝統」概念導入に必然
これは,ほんらい固有名詞を必要としないうたで,すべ
性がない。モダニズムは「ナショナリズム」や「大衆」を
ての人が自身を投影することができる。しかし,皇后(=
はじめ,
「伝統」が担ぎ出される要因を数多く生み出した。
われ)という名が機能しはじめると,和歌を媒介として,
(3)「伝統」の消費者としての大衆
大衆は伝統の作り手ではなくて消費者。消費者が「懐か
しい」という共同幻想を抱くところには「伝統」が成立
するが,そのためには担い手側の「ふれこみ」が重要ら
ある種の感傷が一方的に形成され,かつそれは歴史的な文
脈を召還することが可能となる。
「爆撃にたふれゆく民の上をおもひ
いくさとめけり身はいかならむとも」
(昭和天皇)
とのないもの(幻想)である。「懐かしさ」を成立させる
「国がらをただ守らんといばら道
―――
すすみゆくともいくさとめけり」
(昭和天皇)
時間的切断をもたらしたのも,モダニズムである。
ドキュメンタリーを制作するときなどにはしばしば取り
しい。懐かしさの対象は,しばしば実際に見聞きしたこ
(4)教える,伝える
上げられる上2首は,「国体の護持のためにいくさをとめ
口頭伝承や写して覚える式学習は,効率が悪くかつ不正
た昭和天皇」という幻想形成に寄与している。受信する側
確な面もあるが,「誰々から習った」「誰々のを写した」
がセンチメンタリズムを共有することによって,限りなく
28
思い入れを込めることができるわけで,それが,現在でも
和歌が機能する証左である。
(3)明治国家と和歌
明治天皇が「歌聖」と呼ばれるように,皇族の場合,う
たの格は人格に等しい。天皇にとっての和歌については,
(1)一葉と日清戦争:明治において和歌が女性性とい
「天皇にあってはその帝王学の一分野であった」
(加藤孝男
「近代国家と和歌−明治天皇,山県有朋,森
かに接続されているのか
外」
『国文学』
「われわれ仲間では,少しも戦争なんて影響されません
2005.2),「天子諸芸能之事,第一御学問也」
(「禁中並公
ね」などの一葉の発言から,「女子」=「国民」からの離
家諸法度」第一条),「天皇は和歌を詠むことで,和歌にこ
脱という一葉神話が発生した。この神話は,女子を特権化
もる霊力により,万物が言祝がれ,新しい精気が吹き込ま
していく危険性がある一方で,一葉は「第二級国民」とし
れるとされた。」
(『天皇・皇室辞典』2005)のような考え
ての女性をとらえたからこそ,その内部で女子であること
方があり,これが明治天皇の歌聖呼称につながっている。
で,その存在矛盾を描くことができたとも言える。ただし,
一葉の国民/国家観を考えるに当たり,和歌の伝統が機能
(4)女性と国家・和文
していることに注意する必要がある。
「吹かへす秋のゝ風におミなへし
「おもひたつことあり
うたふらく
すきかへす人こそなけれ敷島の
ひとりはもれぬのべ
にぞ有ける」
(M26.12.2)という一葉の和歌は,詞書がな
ければ,和歌の伝統の枠組みではほとんど意味をなさない。
うたのあらす田あれにあれしを」
詞書にある「憂国の士」のような言葉により,一葉が国家
これは,一見するところ国家に関する私見を述べている
を思う女であることが,肯定的にせよ否定的にせよ同時に
ように見えるが,内容的には商売を辞める決意を歌った和
意識されるのである。一葉はある段階まで,少なくとも国
歌である。この歌の詞書に現れる「国是の道」や「国家の
民という同一性のもとに,「男も女も何のけじめがあろう
大本」という言葉は,「敷島の」から自動的に導かれたも
か」という逆説的な幻想をもっていたが,後に女性である
のであり,その方法論は「われ」が介入する余地のない題
ことに絶望した。この歌からは,女性であり国民であると
詠の伝統である。
いう当時における一葉のジレンマをうかがい知ることがで
きよう。
(2)感性の共同機制―一例としての<丁汝昌>像
ここで,はじめに述べた,感傷レベルで機能する共同幻
女性であることと国民であることは,文章にどうかかわ
ってくるのだろうか。「女らしく優美なる言葉を用ふべし」
想について,日清戦争時の敵国の提督,丁汝昌に対して明
(佐佐木信綱『日本女子用文章』M25),「女子に適する文
治の人々が抱いていた感傷的幻想を例に補足しておこう。
体は即和文」
(『新撰普通 女子用文独稽古』M29)との記述
丁の逸話は,国木田独歩「愛弟通信」,森鴎外「徂征日記」,
に見られるように,女性には「やまと」の担い手として,
一葉「詠草」23番歌などいろいろな資料に現れているが,
優美な言葉,女性らしい言葉が求められてきた。その女性
これらの書き手は決して自ら丁を取材したわけではない。
が,文章を書いて習ったあとには「歌をもよみ習ふべし」
たとえば一葉は新聞報道もしくは人づてで丁の物語を知っ
と接続されていく(佐佐木,前掲書)。その理想を体現した
たように,全員が共有している「あはれ」という感傷の源
象徴的な例が,明治期の理想的な女性モデルとして表象さ
はメディアであり,仮想現実が感傷の中でリアルなものに
れる美子皇后である。美子皇后は明治天皇同様,歌聖と呼
なっていくのである。
ばれ,和歌を通じて,女性を教育していく側面を担った。
皇室で詠まれてきた和歌を総合的に研究することで,女性
29
であることと国民であることの関係性が解明されると思う
意図して詠んではいないが,国学の人として,「や
が,とりあえず今日は「序」としての発表を終えたい。
まと」の国を思って詠んでいるのは確かだ。
(岡田)本居の考えていた「やまと」は,明治のイメージと
【質疑応答】
(岡田)和歌が共同体と結びついているとおっしゃっていた
はかなり違うのではないか?
(菅) もちろん違う。しかし「やまと」ということで読み
が,共同体を代理するという意味なのか?
替えられていく。そしてそこには,本当は違うのに,
(菅) いや,ちょっと違う。伝統的な和歌の詠み方の中心
歴史的に継続する「我々」という形で,逆に共同体
的なものに題詠がある。それは与えられた題に対し
が生み出されていく。
て,イメージを召還しつつ詠むというもので,個別
(岡田)和歌が共同幻想などと結びついていくというのはわ
の体験を詠むのではない。つまり,そのイメージが
かったが,その共同性が国家というものとイコール
これまでの文学的な伝統としてその場にいる人に共
になるかというのは,また別の問題なのかなとも思
有され,ひとつの価値が共有されている,というこ
う。和歌が共同性と結びつく問題と,共同性の中身
と。
が何なのか,本居的な曖昧な感傷的なものなのでは
(岡田)そうすると,共同体という言葉がもっているニュア
ンスと微妙に違うような気がする。共同体といった
なく,近代国家的なものにすりかえられるのは,ち
ょっと違う問題なのではないか?
時に,例えば本居宣長の和歌が前提としているもの
(菅) 発表で日清戦争を出しているのは,日清戦争が近代
は,共同体といっても非常に曖昧模糊とした「やま
の日本においては,国民や国家というものを人々に
と」のような気分で,「国家」などではない。それ
学習させる最大の出来事だったためだが,私が関心
に対して,一葉の場合は「国是の道」のように漢語
をもっているのは,人々が国民としての自分をどの
になっているというところに段差を感じる。共同体
ようにして学ぶのかということ。ここで例に出して
という言葉でつなげてしまおうとすると,そこには
いるのは意識の高い文学者ばかりなので,最初から
くくりきれない相違があるのではないかと思うのだ
「国家」という単語を当然として学習してしまって
が?
おり,それが一般の人においてはどうなのかという
(菅) もちろんそのとおり。しかし,国民国家が作られて
のはわからない。しかし,和歌を共有できる人達と
いく中で,本居の歌も,幕末から明治にかけての尊
いう限られた範囲において,そういうところが見え
皇攘夷運動においてイデオロギーとして召還されて
てきはしないかと考えた。
くるように,もともと「敷島のやまと」という形で
(岡田)反論しようとしているわけではなく,僕も面白いと
和歌の流れで詠まれている歌が,尊皇攘夷の動きの
思う。和歌自体がもっている潜在性みたいなものと,
中で「やまとごころ」を生んでいく。それが今度は
和歌を政治的に利用としようとする力学と,問題が
記号的な表象としては,「敷島の」や「山桜花」と
ふたつあるのではないかと思った。
いった個別のものを生み,何かの文脈の中で「山桜
(藤原)僕は近代的な国家というものが,この時期にそれほ
花」が出てきたら,オートマティックに「敷島の」
ど明確な形で対立するものとして,違和感あるもの
などの文章が生まれてしまうという規制が生じた。
とも思えない。例えば「国体」といった言葉が出て
(岡田)本居はもともと尊皇攘夷的文脈で詠んだのか?
きても,それはとても感傷的な理解であって,非常
(菅) もちろんこの人は国学者なのでそうだ。尊皇攘夷を
に漠然としていると思う。
30
(藤原)
「感傷」という言葉が気になる。やまとことばには
表現の定型があり,それは感情表現と言われるけれ
ならないだろうか?ここをずばりと言うことが答え
ども,個人的具体的な表現ではない。それが古典派
になるのだと思う。
を経て,色々なイメージがありながらも,次第に個
(菅)「もののあはれ」だろうか。しかし,もともと本居
の表現に取って代わられていくというのが西洋音楽
が「からごころ」を排するということを傍らにおき
の流れ。イメージの集積というものが,ひとつの幻
ながら言っているから難しい。
想,伝統的な表現になっていく。それがひとつでは
(藤原)
「あはれ」が文学史の中で伝統的なものとして見な
なく,これを聞くとあれもこれもという形で,大き
されるのは,かなり後のことで,しかもそれは外国
な実を結んでいくという現象が音楽にはあると思
人が日本独特のものと見なしてから。しかし,それ
う。日本音楽の場合はどうか?
以前から「あはれ」を使っている。
(小塩)長唄の作曲は,何かひとつの話題(テーマ)が出ると
(菅) たくさん使っている。やはり「あはれ」という言葉
それを表す音型が出てくる場合は多い。歌詞のも関
に共有性があると言えるだろう。丁に対しては,み
連した言葉がつながって出てくるものが多い。しか
んなが「あはれ」で述べている。
し,明治の後半から,このような作曲法が古いと思
(藤原)敵に対して「あはれ」を感じているというのは,国
民的なものと一致するのか?
(菅) いや,自分たちの愛国心というのとは別だ。丁の死
われて,むしろ西洋的な形式や構成感のしっかりし
た曲を目指そうという方向にシフトしていく気がす
る。新しさがでてくる一方で,何だかとってつけた
に方は個人的なものではなく,部下を守り,国に殉
ような曲になってしまうということがあるだろう。
ずるということ。一方,中国で丁がどのように評価
西洋音楽では段々と個が出てくるというが,ロマン
されているのかというと,留学生によれば,わりと
派の時代には,それまでみんなが持っていたイメー
最近は再評価されているようだ。この人が歴史的に
ジは使われなくなっていくと言えるのか?
本当にどのような意味を担うのかは,まだ調べてい
(高松)まったく断絶があるというわけではない。例えば,
ない。ただ,国木田独歩の記事にあるように,何か
半音階が出てきたら,ある種の苦悩や悲しみが表出
のために自決するという共同性は,場面が変わって
されていると解釈するだろう。今の邦楽で長唄の新
自分たちの側にひきつければ,そのような姿勢にな
曲を作る場合,基本的にまず形式を考えるのか?
ると思う。
(藤原)例えば日本の武将が死んでも「あはれ」と和歌で言
うのか?
(菅) 武将の死を歌った歌というのは,あまり知らない。
(小塩)
作曲者によっても異なると思うが,まず詞を読んで,
それで何等かのイメージのようなものを探すのだと
思う。昔ならば定型の音楽的ボキャブラリーが曲の
構成要素として数多く使われたが,新曲では,
「雪の
歴史物語の中にはでてくるだろうが,題詠で固有の
手」のように現在でも頻繁に使われるボキャブラリ
名詞,具体的人物や歴史的な事件はもともと詠まな
ーも存在はするが,それ以外のところでは,自分の
い。それは文化が関与する領域ではないからだろう。
イメージに基づいた音作りの方が多分多いと思う。
そこでは作曲者の知っている長唄以外の音感覚が影
(高松)皆さんで共有できる話題を考えていたのだが,ひと
響し,ポップ的になったり西洋音楽的になったりし
つは,表現定型の集積によるイメージが作りという
て,新しい感じ曲が出てくるのではないかと思う。
点だ。音楽でいえば,バロックの音楽には,色々と
(高松)西洋音楽の場合かなり高度な分析力がないと,ある
31
モティーフを聞いてもわからないということもあ
期と第二段階に分けると,次のようになろう。草創期
る。言葉に比べると抽象的な分析能力が必要になる
(1870∼1914)の中心人物は岡倉覚三,九鬼隆一,フェ
ような気がする。
(小塩)しかし,和歌の場合もそれだけ多くの歌を知ってい
ないと,連想できないのでは。
(菅) 和歌ではなくて短歌になると逆にそのあたりは問わ
れなくなる。
ノロサ(第一世代)で,ここでは「伝統」に関する議論は鮮
明ではない。第二段階(1914∼1945)の中心人物は瀧精
一など(第二世代)で,経験的で実証的な研究を口実に,岡
倉らの美術史構想を修正しながら,今日につながる美術史
の方向を定めた。
まず,正史以前の状況を概観しておこう。1872年の壬
3.藤原貞朗「日本の美術史編纂と<伝統>の創出あるい
は生成」
【報告】
申調査と1870年代の『観古図説』には,欧化政策の中で
打ち捨てられたものを集めようという意識がみられるが,
1900年の正史には直接つながらない。1874年に設立さ
日本美術史編纂をめぐる政治学についてお話したい。こ
れた起立工商会社は,万博,ジャポニスム・ブームにのっ
の問題は,1990年代に高木博志の著作(『近代天皇制の文
て外貨を稼ぐのが直接的な目的であり,良いものを守ると
化史的研究』)を契機に問題化され,東文研などを中心に検
いう姿勢は見られなかった。1882年に,フェノロサの
討されてきた(『語る現在,語られる過去―日本の美術史学
『美術真説』が登場。フェノロサらは「日本古来の」芸術
100年』
(東京国立文化財研究所編1999))。近年は,江戸
品を作るよう奨励したが,日本人にとって美術品と言えば,
末期から明治,大正の大日本帝国のイデオロジックな歴史
中世日本および中国の「書画骨董」であり,江戸期の文物
プロセスの中に日本の画家や美術史家の仕事を位置付ける
はがらくた,仏像は宗教品であって芸術品ではないという
試みが主流となっている。
感覚があり,両者の間には溝があった。
発表の目的はふたつある。①明らかにパラレルに進展し
1883年に公刊された,ルイ・ゴンスの『日本美術』
てきた日本美術史編纂プロセスと近代日本美術史の動向を
L’art japonaisは,フランスで書かれた「世界初」の日本美
あらためて並行的文化現象として検討すること(1914年
術史だが,江戸期の美術品に大きな分量が割かれ,正倉院
までを両者の第一成立期〔草創期〕として検証),②非対称
の文物などは触れられなかった。これにせよアンダーソン
文化モデルのヴァリエーションを提起すること,である。
の『日本美術全書』
(1887年)にせよ,日本の美術的価値
後者の理由として,政治的には植民地化されなかった日本
観とは大きくかけ離れていた。
に,このモデルをそのまま適用すると抵抗が生じること,
再び日本に目を転じると,1883年に工部美術学校が創
また,文化交渉の場に政治的な主従関係を用いた場合,文
立される。ここでの教師はすべてイタリア人で,西洋美術
化的にも主(従)であるという非常に短絡的な解釈格子に陥
が教えられた。1887年に創立された東京美術学校は,日
ってしまう危険があることを指摘しておく。
本の絵のみを教えた。美術史は西洋美術史のみ(日本美術
史という講義がたつのは1891年)で,他者の目から日本
(1)日本美術史成立プロセス
(草創期:1870∼1914)
を意識し始めたことがわかる。
基本的には,『稿本日本美術略史』Histoire de l’art du
1880年代半ば以降,いわば外向きの自画像を次第に内
Japon(1900年パリ万博で公刊)を日本(大日本帝國)初の
面化していく段階に入る。1888年に行われた畿内地方宝
官製の正史とし,今日の「日本美術史」の原型とみなすの
物調査は,初の行政レベルでの日本の社寺仏閣の遺物調査
が常識となっている。その上で,美術史成立の時期を草創
(岡倉,フェノロサ,浜尾らによる)であった。彼ら第一世
32
代が配慮したのは「時代の沿革」であり,美術作品を美術
「洋画家」たちの欧州留学が始まる。1880年代に帰国し
として見るというよりは,時代の産物として見る方法論を
た彼らは,西欧の規矩をいかに日本の文化の中に移入して
とっていた。美術によって日本の「古代」の歴史を作ると
ゆくか悪戦苦闘し,西欧の物語画=歴史画至上主義を日本
いう意識があった。
にも応用しようとした。このような流れを背景に,1870
1890年代に入ると,いよいよ日本美術史の編纂が開始
年代∼19世紀末の日本美術界には,外向きの輸出工芸の
される。この時期に古代,中世,近世という日本美術史の
制作から「内なるもの」の意識へとシフトする傾向がみら
大枠が決定したようだ。1897年には1900年のパリ万博
れる。
における「日本美術回顧展」の準備も組織化され,同年,
②日本化の絵画史(1880∼1900年代):「日本画」成立
古社寺保存法が成立する。そして1900年のパリ万博にお
プロセス
いて「日本美術回顧展」開催,正史『日本美術略史』が刊行
いっぽうの「日本画」であるが,1880-1890年代に,
された。古美術を中心に編まれたこの正史は,基本的に皇
西洋画(油絵)への反動として「内なるもの」への眼差しが
国史観に則った歴史として書かれている。この点が,これ
生まれるのをきっかけに誕生した。1876年に開校した工
までの欧米の日本美術観と決定的に異なる点であり,欧米
部美術学校が,西洋画の教育のみを行っていたこと,
の研究者に戸惑いを与えたと思われる。そのせいか,日本
1877・1881年の内国勧業博覧会では「洋画」が優位に
の美術史家第二世代によって,軌道修正されることになる。
あったが,1882年の絵画共進会は洋画の出品を拒絶した
こと,1885年に龍池会が当代美術の展覧を開始したこと,
(2)「日本画」成立プロセス
次に,「日本画」というジャンルについて考えてみたい。
まず前提となるのは,「洋画」「日本画」の名称は,当初
「西洋の絵」
「日本の絵」という素朴な意味で使われており,
1887年設立の東京美術学校が日本画の教育のみを行った
ことなどは,西洋から「内なるものへ」という視点の変化
を物語る。
1880-1890年代になると,「内なるもの」への眼差し
今日のように「ジャンル」を意味しなかったことだ。「日
はいっそう強くなり,「外向き」の「日本画」が奨励され
本の絵」を意味する限りでは,日本人が描く洋画も「日本
た。1902年に岡倉が「現代日本美術に関するノート」の
画」であるはずだが,そういう使われ方はしない。明治期
中で,伝統主義でも西洋主義でもない新しい流派The
における「洋画」の成立が,日本画の成立に深く関わって
New Schoolを提唱したことは象徴的である。
いると言えるだろう。
①欧化の絵画史(1870∼1880年代)
:「洋画」の成立プロ
セス
まず,「洋画」成立以前の出来事について。1879年代
この時期,外向きと内向きの二重構造が見られることが
特徴的である。
③「日本(東洋)主義」の想像―「伝統」の生成・創出(1910
∼1930年代)
に,欧米の先進技術としての油絵の受容が始まった。例と
1900年,東京美術学校に洋画科が設置されることによ
して,高橋由一の記録絵,五姓田芳柳の横浜絵,写真絵な
り,日本画と洋画の区別が明確になると,次第に,西欧に
どがある。1870-1880年代は「外向き」の油絵(横浜絵)
受け入れられるモティーフを主題とする(すなわち西欧的
の時代で,長崎で油絵を学んだ芳柳などは,横浜で外国人
な規準に則った)日本画家たち,と,日本的なモティーフ,
向けに作品を制作した。
日本的な表現を油彩画にする洋画家たち,という,対立的
やがて1870-1880年代になると,技術から芸術へとい
な関係にありながら同種の方向性をもった傾向が顕著とな
う気運が高まり,「洋画」が意識されるようになった結果,
る。つまり,「西洋的日本画」と「日本的西洋画」という
33
べきものが大量に生産され,おそらく,このなかで,日本
(菅) 少なくとも内向きの中での闘争はあまりない。美術
の「伝統」なるものの意識が想像/創造されていったよう
では洋画と日本画というのがあるが,日本で生産さ
に思われる。
れた文学は近代に書かれても日本文学であって,洋
画と日本画にあたるような構図のものを文学で想定
【質疑応答】
(菅) 美術史の記述についてだが,日本文学史も書かれる
のが1890年で,それまで文学史という概念がなか
った。イギリスの文学史などを輸入して書かれたと
言われているが,日本の文学をひとつの流れとして
書くその背景には,日本の歴史の連続性を求めると
いう欲望がある。美術史にもそういうことはあるの
か?
(藤原)少なくとも1900年の正史ができる頃には,日本美
術が連続している,というのは,当時の人々にとっ
することはできない。
(藤原)文体などはどうか?
(菅) 口語と文語の対立というのは,西洋との対立として
とらえているわけではない。
(高松)翻訳文学の模倣のような流れは考えなくてもよいの
か?
(菅) 翻訳していても,日本語は日本語の文体なので,模
倣とは言えない。
(高松)しかし,プロットや書き方は考慮するのではない
か?
ては,あたりまえ,前提であったような気がする。 (菅)『罪と罰』が翻訳されたときには,北村透谷などは
連続性という点でいえば,インド,中国,日本の美
非常に衝撃を受けているが,「あのように小説を作
術史の連続性が,問題となっていた。
ろう」と思って衝撃を受けているわけではなく,内
(菅) 文学ではインドの影響はない。中国はもちろんある
が。
面の何かに衝撃を受けている。あのプロットを真似
して小説を書こうとはならない。例えば,ジャンル
(藤原)美術の歴史の構想には美術品には絶頂や発展という
的には探偵小説が輸入されれば確かに探偵小説を書
のが絡んでくる。文学の場合,歴史の絶頂点は近代
いているが,今の話を聞いた限りでの洋画と日本画
にくるのか?
というようなせめぎあいとは,少々違うと思う。
(菅) いつが絶頂というのはあまりないが,近代化に向か
っているという観点はある。
(藤原)そのあたりは大分違うと思う。一方では,経済的価
値などもからんでもくる。
(岡田)万葉集が一番と言っていたのも,そういうことなの
か?
(菅) 一番というのは,価値としてというわけではない。
(藤原)どうだろう。今の話を聞いているとますます同じと
言いたくなる。例えば,フランス文学者の歴史を考
えてみると,『海潮音』などは明らかに影響がある
ように思う。
(菅) 確かに詩の場合は,フランスの詩の影響を受けた人
たちが日本で書いている。しかし,それは逆にいえ
ば日本に詩がなかったということでもある。
万葉集は意図的な国民国家の形成と関わっており, (藤原)僕は大学に行ってフランス語ができなくても,フラ
国民としての統合と接続しようとしている。おそら
ンス文学をやろうと思った。つまり,同じ日本語を
く美術の方の価値の高さとは違うのではないか。
読んでいても,フランス文学と日本文学は違うと思
っているわけで,そのような違いは日本画と洋画の
(藤原)外向きと内向きというのは,文学の場合,あまり考
える必要がないですよね?
34
違いに近いものがあるのではないか?
(菅) まだ,納得はできない。日本の近代小説はヨーロッ
パの影響で,先に『小説神髄』というマニュアルが
パリのサロンに入選したりしている。
小説よりも先に書かれているわけだから,逆に日本
(小塩)認められたのは山田耕筰が最初だと思う。瀧廉太郎
の近代文学史というのは常に西洋志向と言える。で
は病気になって途中で帰ってきてしまう。
は,日本画にあたるのは何かといったときに,露伴
(藤原)留学先から帰ってから作ったものは,西洋っぽいも
などの文語を想定するのはちょっと抵抗があり,実
感としてうなずきがたいものがある。
(岡田)小説と言ってしまった時点で洋画に対応している。
のとして聴けるものなのか?
(小塩)そう。山田耕筰はドイツで勉強して,オーケストラ
の作曲法とドイツ風の歌曲の作曲法を身につけた最
たぶん日本画にあたるのは,今我々が文学と呼んで
初の日本人だとされている。しかし,ドイツにいる
いないもの,例えば文楽など,あのような形で残っ
ときはドイツ語に曲をつけるから模倣が完璧にでき
ているものではないか。近代的な概念で呼ぶとすれ
たが,日本に戻ってきて日本語に歌詞を付けようと
ば,文学と芸能に分けざるを得ないが,本来,日本
したときに困って,それから随分苦心して歌の作曲
の文脈の中では,今我々が思うほど区別していない。
スタイルを探したということは伝記などを見ると書
今,文学からはじいて見ているものが,ちょっとひ
いてある。
いて見てみると,意外とそちらに対応しているのか
もしれないと思う。
(高松)日本歌曲の歴史というのは,かなり屈折しているの
かもしれない。西洋風の発声で日本語を歌うという
こともそうだし,西洋の語法で日本の歌を作るとい
5.討
論
(高松)美術史の問題は音楽史とパラレルに語るには話が大
うのもそうだ。
(小塩)
それと教育用に唱歌というジャンルの歌が生まれて,
きすぎるが,日本音楽の人たちは日本音楽史を語る
それと歌曲がどういう風に差異化されていくのかと
というよりは,流派の問題を気にするのか?
いうのも問題だ。新民謡など似たようなジャンルで
(小塩)それもあるが,『歌舞音楽略史』のように複数の音
ちょっとずつ違うものを,同じ作曲家が結構作って
楽ジャンルの歴史を扱った書物も明治の始めに出て
いたりもする。
いる。
(藤本)明治21年刊行。
(藤原)日本美術もそうだと思う。流派はあって,独自の流
派については語れたけれども,という。
(小塩)ソースについて語るという面はないのか?
(藤原)結構似ている部分もあって,雅楽に相当する部分は
美術では何かということを,今考えなければならな
いと思った。
(岡田)雅楽は江戸の終わりにはどうだったのか?
(藤原)ソースについて語る意味をたぶん感じなかったし, (小塩)京都と奈良,それに江戸将軍家の楽人たちによって
やりたいとも思わなかったのではないか。フェノロ
伝承は行われていた。また,復古主義的な動きがあ
サは狩野派の絵師に学ぶが,その時,画論も学ぶ。
り,昔のなくなってしまったジャンルを復興しよう
それは流派によって違う。
という動きもあった。遷都した時に京都と奈良の楽
人が東京に来て,江戸の将軍家の楽人とひとつにな
(藤原)演奏家を含めて,日本の音楽家が初めて西洋で認め
り,今の宮内庁の楽部につながっていく。そういう
られるのはいつ頃からか?美術では,例えば1900
意味では,菅さんの和歌とちょっと似ていて,皇室
年くらいになったら,画学生たちはパリに行って,
の伝統の音楽における象徴という形で雅楽が位置づ
35
けられる。
(藤原)そういうものに相当する美術作品はあまり思い浮か
ばない。例えば,天皇の家にどんな絵が飾ってある
のかなど,ちょっと想像できない。
(藤本)屏風や襖の絵などはどうか?
(藤原)江戸期の屏風で想像するようなのは,商人や武士な
どではないか。
(岡田)しかし,やはり狩野派なのではないか。江戸ほど羽
振りは良くなかったと思うが,京狩野の方はやっぱ
り皇室と一番深く結びついていたのではないかと思
う。
【次回の研究会について】
<日時>2005年8月26日
(金)11:00∼17:30
<場所>聖徳大学2号館1階研修室
<発表者>小塩さとみ,田井竜一
<議論の柱>第2回,第3回と同じ。
36
第4回研究会 専門領域からみた「伝統」その3
<日時>2005年8月26日
(金)11:00∼17:30
いる。しかし,明治時代と第二次大戦後は,新曲の創作に
<場所>聖徳大学2号館3階2301教室
重きが置かれた。今日は,次の3点についてお話してみた
<出席者>岡田裕成,小塩さとみ,田井竜一,高松晃子,
い。①第二次大戦後の長唄界における創作状況はいかなる
藤原貞朗,藤本寛子(研究補助)
<スケジュール>
ものだったのか,②創作作品の中で「新しさ」と「伝統」
はどう扱われているか,③その頃作られた作品は,現在の
1.前回のレビューと本日の進め方の確認
長唄レパートリーにおいてどのような位置づけとなってい
2.報告1「三味線音楽における創作と伝統」
(小塩さとみ)
るのか。
〔昼食〕
3.報告2「『水口囃子』にみる芸能の戦略」
(田井竜一)
4.今後の進め方について
(1)戦後の日本の音楽状況
第二次大戦後に創作が活発化した理由はいくつかある。
まず,戦時中の音曲に対する抑圧(音楽をしている場合で
1.前回のレビューと本日の進め方の確認
はないという抑圧,花柳界と結びついた音楽という抑圧)
【第3回研究会レビュー】
から解放され,政府機関により,新しい時代にふさわしい
(1)一を聞いて十呼び起こされるイメージの蓄積が「伝
芸術文化の創造が奨励されたこと。文化庁主催の芸術祭
統」をつくる(?)。
(1946∼)がそのよい例である。芸術祭賞という目的のた
(2)「伝統」が人を束ねる力をもつ。国家・共同体・家元…
めに新作が多数創作され,それらは公的な「お墨付き」を
(3)非対称文化モデルの再検討。政治的には植民地化さ
もらうことによって,通常のレパートリーに入っていった。
れなかった日本の事例には,どのように応用できるか。
次に,「伝統文化」としての位置づけが行われたこと。「重
要無形文化財保持者(人間国宝)」認定制度(1955∼)が始
【継続して検討】
まり,「国立劇場」が開場(1966∼),「長唄協会」が復活
(1)「伝統」
「伝承」
「正典」
「古典」など,類似概念の整理。
し,「伝統音楽」「伝統芸能」という用語が登場した(国立
(2)イデオロギーとの関わり。特に日本の学校教育にお
国会図書館NDL-OPACの検索結果による)。「伝統音楽」
いて。
(3)見た目や付加情報によってリアルなものになる(しか
ない)伝統文化。
初出は,おそらく小泉文夫の『フィルハーモニー』及び
『音楽芸術』の連載記事(1954)で,1960年代後半から
は多くの日本音楽関係者が使用している。ちなみに,それ
(4)異文化接触が「伝統」を生む。
以前は「邦楽」「日本音楽」といった語が中心であった。
(5)モダニズムあっての「伝統」。
また,「伝統芸能」初出は高野正巳(『図書』1965)/音楽
(6)「伝統」の消費者としての大衆。
では国立劇場(『図書』1973)か。1980年代後半から,
(7)教える,伝える。ふれこみの重要性。伝承が効率化
無形文化財保護の関係で記述が激増している。どうやら,
されたときの価値観のシフト。
「伝統」という言葉が音楽と関係して使われるようになっ
たのは,1950年代後半くらいからのようである。
2.小塩さとみ「三味線音楽における創作と伝統」
【報告】
現在の長唄界は古典曲中心の演奏レパートリーを展開し
ているため,新しい伝統を実感しにくいジャンルとなって
(2)戦後に活躍した長唄関係の作曲者の事例
それでは,代表的な作曲家を3人挙げて,その活動ぶり
を比較してみよう。
37
まず,東京音楽学校講師,東京芸術大学教授であった山
田抄太郎(1899-1970)について。彼の活動の特徴は,家
元組織から離脱したこと(「東音会」を組織)と,ラジオ局
(3)現代作品における「伝統」の継承
上の3人の作品は,どのような形で継承されているのだ
ろうか。
からの委嘱および東音会のための作曲が多かったことであ
まず,山田抄太郎作品のうち,現在でも好んで聞かれた
る。古典的な長唄の特徴を強調した作曲手法が基本で,具
り演奏されたりしているのは,古典的な作風をもつもので
体的には次のような作風になっている。①他の三味線音楽
あり,西洋の要素を取り入れたような新しい作品は,流派
のジャンルの様式を模倣し,それを組み合わせて新しさを
の中でのみ演奏されている。今藤長十郎作品は,伝統とは
出した(これは江戸時代にも行われていた作曲手法であ
かなり離れた(西洋的な)作品であるが,家元制度という,
る)。②低音あるいは高音域の補充,旋律の多声化をめざ
もともと伝統を継承するための組織の中で演奏されてい
し,新しい楽器を開発した(長唄以外のジャンルでは,戦
る。杵屋正邦作品は,伝承・普及のために伝統的組織を使
前から行われている方法である)。③固定した終止形から
っていない。音楽的要素としては,古典的なものも使用さ
逸脱しており,④文学作品や落語など,従来の長唄とは異
れているが,「現代邦楽」という伝統とは対比されるジャ
なるテクストを使用した。
ンルの中に位置づけられている。これは興味深い現象と言
次の例は,今藤流家元の三世今藤長十郎(1915-1984)
えないだろうか。何を伝統的なものと見て,何を新しいも
である。彼の活動の特徴は,家元制度にとどまったこと,
のと見るのかが,その人の立場や所属している社会的な位
西洋音楽に傾倒したこと,放送局や日本舞踊家からの委嘱
置によってかなり異なるわけである。
および自主リサイタルでの作品発表が目立ったことであ
る。作風の特徴としては①モティーフ操作,和声付け,多
(4)次世代の邦楽作曲家にみる創作と伝統
様な声の利用,西洋音楽的な作品構築と古典的な作風を曲
現在活躍している長唄の今藤政太郎や地歌箏曲の米川裕
中で組み合わせる,②女声の活用,③箏パートの導入など
枝の世代になると,演奏レパートリーと作品との音楽様式
が挙げられる。
がさらに乖離している。
3人目は,作曲専業の音楽家,杵屋正邦(1914-1996)
である。彼は,演奏家兼作曲家という伝統的な音楽活動を
【質疑応答】
放棄した点で非常に個性的である。長唄というジャンルを
(高松)
「伝統的なもの」は,誰が,何を,どのような立場
越えて作曲活動をした彼の作品は,「現代邦楽」という別
で見るかによって異なるというもうひとつのモデル
ジャンルのものとして扱われている。しかしながら,「杵
が描けるのではないかと思って聞いていた。
屋」を終生名乗ることで,家元の地位にあり続けた。作品
(田井)家元制度から離脱した山田が意外に古典的で,家元
の特徴としては,次の4つの点を指摘できるだろう。①三
制度の中にいた今藤がかなり画期的なことをできた
味線作品は,五線楽譜を刊行することにも表れているよう
というのは,一種の逆転現象で面白い。しかし,世
に,演奏家の所属ジャンルを限定しないものが多い。②歌
代的な差異もあるのではないか?
のない純器楽曲が中心。③西洋楽器や西洋の声楽と邦楽器
(小塩)作曲スタイルに関しては,確かに世代差と個人的な
の混在する曲も多い。④初期は西洋音楽の模倣だが,晩年
音楽聴取の違いだと思う。ただし,山田の場合には,
は古典曲の音楽語法を活かした作品が増える。古典曲では
家元制度から離脱したにもかかわらず,現在は東音
ないものをやりたいという人達が,ジャンルを越えて彼の
会が準家元制度化している。長唄というジャンルの
作品を伝承している。
中で,曲やひとつのスタイルを伝承する時には,家
38
元制度的な組織というのを使った方が伝承しやすい
のではないかと思っている。
どのようなことをプロモーションしているのか?
(小塩)
芸術祭賞自体に,西洋音楽,日本音楽の区別はなく,
芸術祭というひとつのイベントの中で行われてい
(田井)60年代70年代というのは,西洋音楽の作曲家も邦
る。審査員の方も西洋音楽関係者と日本音楽関係者
楽曲を作っている時代だが,この動きとそちらの動
の両方がおり,審査員は出身の区別なく,全てのジ
きはリンクするのか,またリンクしないのか?
ャンルを審査する。
(小塩)小泉文夫が西洋音楽の人たちに向けて「伝統音楽」 (岡田)では,長唄部門というのがあるのではなく,その年
という言葉を使っていることを考えると,リンクす
の新曲といったカテゴリーなのか?
ると思う。杵屋の「現代邦楽」という枠組みに一番
(小塩)部門としては,演奏会部門,放送部門,レコード部
近いところに位置づけられることになるだろう。た
門,舞踊部門という形で分かれている。新作をして
だし,少なくとも邦楽を演奏する大半の人にとって
いるのか古典を演奏しているかという区別はない。
は,西洋音楽における伝統楽器を用いた作曲は伝統
その結果,演奏会で新作が優れていたため芸術祭賞
的なレパートリーではなく,むしろ新しい試みで,
をもらうこともあれば,古典の優れた演奏に対して
自分たちの音楽とは違うものという意識がある。伝
賞が出ることもある。あくまでも,水準の高い芸術
統を守りたい人と新しいことをやりたい人の両方が
活動に対して与えられる。
邦楽の中にもおり,新しいことをやりたい人は西洋
音楽の人たちと結びついて活動する。しかし,そう
すると本来属していたジャンルへの意識がなくなっ
てしまって,伝統を意識しにくいのではないか。
(岡田)そうすると,だいたいは演奏会部門で賞をとってい
るのか?
(小塩)作曲に関しては放送部門も重要。かつては放送局に
とって芸術祭賞の受賞は栄誉だったので,たくさん
(田井)依頼されて演奏はしているけれども,自分たちの伝
の委嘱があった。最近は,放送局が芸術祭賞をとる
統とも新しいジャンルとも捉えられていないという
ことに熱心ではなくなってきたこともあり,放送局
ことか。それでも演奏をしているということは,な
の依頼で曲を作ることは少なくなってきている。
にか別物という扱いなのか?
(小塩)ひとりの演奏家の中に二つの面があり,西洋作曲家
と協力して新しいものをする時というのは,伝統的
なことをしているというより,彼らにとっては新し
(岡田)長唄が芸術祭賞などの賞をとるというのは,毎年と
いうわけではないが,数年に一回ということはある
のか?
(小塩)それは芸術祭への参加数などとのバランスの問題も
いことをしているという意識が強い。そこで生まれ
あると思うが,何年かに一回はとっていると思う。
たものを自分たちのレパートリーに加えたり,伝統
ただし,50年代60年代には,主に新作に対して芸
的なものと結びつけたいという考えは少ないのでは
術祭賞が与えられていたのに対して,次第に古典の
ないかと思う。
優れた演奏に対して与えられることの方が多くなっ
(田井)一種のダブルスタンダードみたいな形で対応してい
たということか。
ており,時代による変化はあると思う。
(岡田)では,最近はあまり新作で賞は取っていないのか?
(小塩)新作の発表で受賞する人もいるが,古典だけを演奏
(岡田)芸術祭賞の中で,長唄というのはどのような位置づ
けで,どのような評価を受けて,どのような人が,
した人が受賞する年もある。新作を出したら得とい
うわけではない。
39
(田井)演奏家の人にとってはかなり大きな賞で,これを取
ったら,その後の活動が経済的なことを含めて,ステ
イタスが全然違ってくる。放送だと名誉的な要素は
あるが,必ずしも経済的なものが伴うわけではない。
(小塩)そう。また,芸術祭賞をとっているということが大
きなきっかけになって,再演されることもある。作
江戸の中でもより狭く区切ることも可能なので,ど
こまでを古典的と言うのかは難しい。
(藤原)言葉の上で,他のジャンルとのズレがあって面白い
と思った。ただし,それは長唄の古典であって,雅
楽などとの関係でというわけではない?
(小塩)そう。あくまで長唄の古典。
品自体が優れているということもあるかもしれない
が。
(藤原)発表の中で出てきたような曲はどのような人が愛好
しているのか?
(藤原)1950年代には,美術など他のジャンルでも[芸術
(小塩)
音楽として愛好している人となると,少ないと思う。
祭と]同じようなイベントが作られており,例えば
しかし,舞踊家が伴奏音楽として好むので,このよ
総理大臣賞などの賞を取ることがステイタスにな
うな新しい作品は今でも創作されている。また,レ
る。そちらではまた別の歴史があるが,その中で伝
トロな新しさを好む人は,このような曲が好きなの
統工芸などが出てきたのではないか。
かもしれない。一方で,古典を好む人は,新しい作
(岡田)しかし,伝統と言いながら,業界的には新しい。ネ
品を軽く見る傾向にある。
タ自体は昔からあったかもしれないが,戦後,協会
(田井)あとは,やはり楽譜が出版されないということが結
などを作ってアピールする際には,国の権威のある
構大きい。出さないというのは,やはり秘技的とい
賞が非常に大きな意味を持ち得た。家元とはまた違
うか,出してしまうと,家元のコントロールがきか
う。芸術祭賞などは家元制度を超えたところで機能
なくなるといった理由があるのか?
したから,特別な値打ちが生まれる。
(小塩)ただし,踊りなどの場合,家元制度の隆盛はむしろ
戦後だったので,そのあたりも含めて考えていった
方がよいかもしれない。
(小塩)経済的に出版しても何も変わらないということもあ
るのでは。
(高松)愛好のしようがない。NHKが放送しないかぎり,愛
好できない。
(岡田)ある種売り物的にできる文脈があったのだろう。伝
(小塩)そして,NHKが放送しても,その時聞かなければ,
統を前面に出して,社会の中でアピールするという
それで終わり。そういう意味では「愛好させよう」
流れがいろんな領域であった。
という意識すらあまりないのかもしれない。
(藤原)今ほど伝統が偉かったわけではないと思う。気楽と
いうかしっくりきたんだろう。しかし,この辺につ
いては,まだしっかりした研究はないように思う。
(藤原)作曲家はどのようにして生計をたてているのか?
(小塩)舞踊家からの委嘱結構多いのではないか。舞踊家は,
新しいことへの挑戦や,自分だけの曲を作ってもら
うことに価値を置いているので,委嘱料を払ってで
(藤原)山田の説明の際に,古典的要素や古典的な作風とい
う表現があったが,長唄にとっては,江戸が古典に
なるのか?
(小塩)そう。様式的には江戸から,明治20年くらいまで。
もっと狭くとらえると,幕末までとなる。もちろん
40
も,新曲を依頼する長唄の人にとって,舞踊曲の作
曲は重要な収入源のひとつと言えるだろう。
3.田井竜一「
『水口囃子』にみる芸能の戦略」
【報告】
町内の選抜メンバーによる「水口ばやし保存会」と「水口
ばやし八妙会」であった。
今日の発表の発端は,滋賀県教育委員会による曳山祭り
の囃子の調査(1998)である。調査前には,水口町には同
系統の囃子が分布していると予測していたが,調査の結果,
(4)鵜飼眞五氏と水口ばやし八妙会
八妙会リーダーの鵜飼眞五氏(1931-1998)を紹介しよ
関西系の囃子がほとんどの中,水口町と日野町は江戸系の
う。彼は東部地区の作坂町に生まれ,幼少時より自他とも
囃子を有していたことがわかった。その後,水口町教育委
に認めるヤマキチとして育った。昭和20年代後半くらい
員会による調査(2001,2003)において,水口町の囃子を
からすでに囃子を「広めよう」と思っていた彼は,手始め
詳しく調査する機会に恵まれた。
に公民館主催の文化祭に会を作って出ようと考える。
1959年,「水口ばやし八妙会」を結成した。これは,作
(1)滋賀県の曳山祭りと水口曳山祭り
坂町の人を中心としていたが,「西」の人も参加していた。
(2)水口曳山囃子
初めは東の囃子のみであることに対する批判的な意見もあ
水口曳山祭りとは,水口神社の四月神事である。囃子の
ったが,鵜飼氏は「本質はひとつ」であるとして取り合わ
楽器構成は,笛3∼5,大太鼓1,小太鼓2,鉦2で,これ
なかった。実際,東西では楽器や細かい奏法が違うので,
は江戸系囃子の構成である。囃子の担い手は「囃子子」,
統合は難しいのである。1969年頃から普及を最優先に活
責任者は「親笛」と呼ばれることから,笛が重要な役割を
動した結果,次第に内容は二の次になっていったが,
担っていることがわかる。地域によって「東の囃子」と
1983年,活動中におきた事故を契機に,「文化的な活動」
「西の囃子」に分かれる。
に限定,内容について反省を始めた。これが彼の「見せる」
活動である。
(3)外にむかう囃子
祭礼の文脈において行われてきた囃子は,やがて外に向
一方,「教える」活動にも積極的だった彼は,結成後10
年位から,アマチュアのグループに囃子を伝授し始めた。
かった。その動きは,1932年3月,バスの祝賀行事で奏
教えるという行為により,それまで漠然ととらえていた囃
されたことをきっかけに町の枠をこえたグループができた
子の構造的な側面を客観化し,教材化することもできたの
ことから始まった。同年4月,鵜飼眞五氏が大阪放送局の
である。その結果,水口囃子は全国的な広がりをもつよう
ラジオ放送を申し込み,「水口祭囃子」としてメディアに
になり,祭礼には各地からシンパが集まることに。1994
登場,1934年11月には日本放送協会のリレー番組で
年,吉村克之が「水口ばやし全国講習会」をプロデュース
「水口神社祭礼囃子」として紹介された。鵜飼氏らが,民
間レベルの伝承を組み合わせて囃子の由来を「創作」し,
それは放送により定着したようである。
した祭には,八妙会は講師を派遣している。
次に,鵜飼氏のスタンスと戦略について述べていこう。
彼は,自分達の囃子を外部の人に積極的に広めていこうと
1961年には,滋賀県教育委員会により,祭礼行事が
いう強い指向性をもっていた。普及のためには,可能な限
「水口祭」の名称で無形文化財民俗資料に選定された。こ
りどこへでもでかけていく,習いたい人には喜んで教える
れを機に,「水口祭」や「水口囃子」といった名称が一般
という方針だった。しかしながら,本来の文脈において行
的になった。その後,民俗芸能の公開行事や公的な行事に
う場合は町内の囃子を重視し,八妙会の囃子を各町にもち
滋賀県代表としてたびたび派遣されるが,それは特定の町
こむのを嫌った。また,神前奉納の曲は神聖なものなので,
内の囃子子ではなく,水口祭保存会によって編成された各
八妙会ではあまりやらないというポリシーをもってもい
41
た。人との接触により囃子は変わりゆくという認識をもち
だったが,最近は担い手が少なくなってきているた
つつ,本質は守ってほしいという意識があったのは明らか
め,子どもにも教えた結果,練習についてきた母親
である。
たちもやるようになった。ただし,祭礼においては,
しかし現実には,町内の囃子とは異なる八妙会版囃子が
誕生すると,楽譜集の発行(1977)も手伝って,狭いヤマ
現在のところ,神社の直前で女性と子どもはヤマか
ら降ろされる。
から解放された囃子に新たな演奏スタイルが誕生した。そ
(高松)先日のICTM(国際伝統音楽学会)でイギリスのモリ
の影響力は強く,伝承力が弱まった町内囃子は八妙版の浸
ス・ダンスの発表をした人も,全く同じことを言っ
透を免れなかった。
ていた。本来担い手は男性だが,若者は流出してし
まっているため,子どもとその母親が教育的側面を
(5)「水口囃子」の成立とその戦略
水口曳山囃子は,担い手自身が外に向かい,外側からの
部外者は迎え入れるという開かれた戦略によって,全国レ
ベルで「水口囃子」として認知されるようになった。それ
担っているのだが,本番には出られないという。
(小塩)若衆が不足しているため,他の囃子のところからリ
クルートするということはあるのか?
(田井)それはあまりないようだ。ただし,祭礼には全部の
にはもちろん,八妙会と鵜飼眞五氏の功績が大きいが,
ヤマが出るわけではないので,例えば隣の町が今年
「全国曳山囃子大会」の開催も大きなプラス要因になった。
は休みだったら,手伝うというようなことはある。
全国のグループが集う場で,曳山町の若者達自身が伝承の
(高松)それは容易にできるくらいの音楽的差異なのか?
主役であるという自覚を深めるようになり,水口の住民も
(田井)同じ東の町内であれば容易にできるが,東と西の協
また新たな文脈で水口曳山囃子を見つめ直し,改めてその
力は非常に困難。地域ではっきり区切れる。
意味を問い直すきっかけになったからである。水口曳山囃
子は,早い時期より様々な回路を通じて常に外部との関係
(岡田)鵜飼さんのふたつのスタンスが非常に象徴的だと思
を重視し,その関係性の中で,自らのあり方を律してきた
って聞いていた。広めるという行為はある種の妥協
と言えよう。
だが,それは場合によってはアートに変わりうるも
の。ステージアートとしての囃子とオーセンティッ
【質疑応答】
クな囃子を分けていくことになる。現実問題として
(高松)伝統が個人のふるまいによって決まっていくという
は,オーセンティックなものを維持する社会的バッ
思いを強くした。ひとつ気になったが,八妙会から
クグラウンドがなくなってきているため,逆転現象
囃子を習った人達は持ち帰ってどうするのか?
が起こっているのではないか。囃子を伝承するには
(田井)お囃子同好会の人達なので,各地の似たようなもの
そうするしかないのかもしれないが,ステージアー
を習って,自分たちで発表したり,楽しんだりして
トとしての囃子が活力を持つことは,オーセンティ
いる。
ックなものの維持とはあまり関係ないし,時にはそ
(小塩)八妙会は外の女性たちにも教えているということだ
が,その後,地元の女性たちもお囃子をするように
なったのか?
の土台を崩してしまうような要素を持っている。
(田井)岡田さんがおっしゃったようなことを,まさに鵜飼
さんの息子が言っている。お祭りの現場はシンパた
(田井)今回,その話はしなかったが,その点で町内でも伝
ちでいっぱいで,ものすごく活気はあるが,お祭り
承において大きな問題がおきている。本来は若衆祭
の活性にはなっていないと。地元の人もそのあたり
42
を意識している。
(岡田)ある意味,それは時代の流れかもしれない。伝統芸
(藤原)江戸祭りが入り込んでいる理由には,どのようなこ
とが考えられるのか?
能というのは,これまでのように宗教性と結びつい
(田井)関東周辺では東海道沿道に江戸祭り囃子系が入り込
たり,女性を排除したりしているのでは保てなくな
んでいるということもあるが,水口については一種
ってきた。維持するためには伝統の方が変わらなけ
の飛び地現象だと思う。伝承としては,水口商人が
ればいけないのだが,一方で,変わるというのはど
持ち帰ったという説もあるが,商人ルートは難しい
ういうことなのかと突き詰めてしまうと,芸能では
と思っている。一番考えられるのは,囃子好きの殿
なくアートになることであり,ステージにあがるこ
様や武士がいて,自分のところに出入りする使用人
と。そのあたりの問題がよく露出していると感じた。
に,江戸系の囃子を習わせて伝えるということ。た
この人がいたおかげで,ある意味先見性もあったが,
だ,やはり近畿では非常に珍しい。
問題も先取りした。
(岡田)この前,聞いた話では,笛の音を東の人はピーヒャ
ララというが,西の人はコンチキチンと言うと。
(小塩)伝承力が弱まったときに,八妙会版がとって代わる
(田井)落語の「祇園祭り」での囃子の描写がまさにそう。
ということが東の町内で起きたということだが,そ
この調査の時も,どうしてこういう囃子が受け入れ
れは八妙会という活動が,お祭りや町内の活動にも
られたのかが不思議だった。
直接的な影響を及ぼしたということなのか?
(田井)それはないと思う。これはあくまでも同好会的な活
(藤原)形式的には,こういうものでなければ,広めるとい
うことが成り立たないような気もする。
動だ。むしろ,もともと商業地であった東の地域の
(田井)その通りだろう。祇園囃子だったら,かなり難しか
人が少なくなっているということが大きい。それに
ったと思う。江戸系の囃子は,笛の名人をリーダー
対して,西は農村地帯で,最近は郊外にも人が増え
として囃子連がお祭りからある種自立して活動して
てきているので,伝承はしっかりしている。
いる。そういう構造が囃子自体にあるから,祭礼の
(小塩)その西と東の伝承力の逆転現象というのは,いつ頃
文脈からはずしてもっていくということが可能だっ
起きたのか?
たのではないか。
(田井)この20年くらいではないか。そういう意味で八妙
(岡田)そして,まわりがみんなコンチキチンの中でこの人
会が活発に活動するのと軌を一にしているので,何
たちだけがこれをやっていると,自分たちのやって
か関係がある可能性はある。
いることは特別なんだという自意識が,余計に強ま
ったかもしれない。
(藤原)[楽譜を回覧しながら]楽譜でかなり再現できるもの
なのか?
(田井)まねごとはできるだろうが,即興などのことを考え
(田井)関東の人たちにしても,江戸系の囃子は身近にいく
らでもあるのに,わざわざ水口に習いに来るという
のも不思議だ。
ると,やはり習わないと難しいのではないか。
(小塩)
楽譜には伝承の仕方についても書いているようだが, 【次回の研究会】
町内で教えるときも使うのか?
(田井)それはない。これはあくまでも八妙会による外向け
のもの。
<日時>2005年10月15日
(土)11:00∼
<場所>聖徳大学
<内容>各自が<教える(学習)・伝える(伝達)>というテ
43
ーマに関わる話題を持ち寄り,それについてジャ
ンル別ではなく角度別に検討する。プレゼンテー
ション自体は5分程度で,議論を重視して進める。
研究会の後半には,今後の方向性(どのようなと
ころを柱に据えていくのか等)
について討論。
44
第5回研究会 教える・伝える その1
<日時>2005年10月15日
(土)11:00∼17:30
との記述がある。
<場所>聖徳大学2号館1階研修室
②スコットランドではトラディショナル・ソングに手を加
<出席者>小塩さとみ,菅
聡子,高松晃子,藤本寛子
(研究補助)
<スケジュール>
1.前回のレビューと本日の進め方の確認
えさせるのに対し,日本では音楽には手を加えずにその
まま聴かせるようだ。
歌を固定させず,替え歌によって受け継いでいくのは,
ある意味とても伝統的な方法であるのだが。
2.報告1(高松)
〔昼食〕
3.報告2(菅)
【質疑応答】
(菅) 日本の音楽教育は基本的に西洋音楽中心のプログラ
4.報告3(小塩)
ムであるのに対し,スコットランドは伝統音楽がそ
5.今後の進め方について
のまま音楽教育の中心プログラムとなっている。そ
6.発表の検討・整理のためのディスカッション
のあたりで差ができるのではないか?
(高松)そうだろう。また,イギリス,特にイングランドに
1.前回のレビューと本日の進め方の確認
も西洋音楽一辺倒だった時期があり,90年代から
【第4回研究会レビュー】
かなり見直された。イングランドの場合,完全に伝
(1)家元制度などの伝統維持システムの検討。
統的なものを無視した教科書の作りで,後にモリス
(2)カリスマ的な個人が伝統を創造する。
ダンスなど地元のものを含めようという動きが出
(3)伝統というものの社会的重要度の変化。現在ほど
た。その流れもあり,スコットランドなど他の地域
「偉い」存在ではない以前の「伝統」
。
(4)伝統を維持するために変化する伝統。ステージアー
トとしての活力の重視。
*これから数回にわたり,「教える・伝える」というテー
マに関して,小さな話題を複数提供→全員で検討。
でも教科書の見直しが行われている。
(小塩)教科書には載っていなくても,人々の身近なところ
に地域の音楽,伝統的な音楽が存在していた点が日
本と違うところであろう。日本の場合,「日本音楽
のよさに気づくこと」が求められているということ
は,言い換えれば,日本音楽のよさを知らない人ば
2.報告1(高松晃子)
【報告】
(1)学校教育における伝統音楽の取り扱いについて―
かりになってしまったということ。「尊重しようと
する態度」が重視されるのも,よさに気づいていな
い子どもを対象に伝統的な音楽を教えなければなら
スコットランドと日本の比較
ない状況があるからではないか。一方で,日本はジ
①スコットランドでは音楽そのものに向き合うのに対し,
ャンルの識別ということをあまり重視していない。
日本では目的が別にあるようだ
和楽器を導入するときも,楽器の種類は「何でもい
スコットランドの中学校教育ガイドラインを見ると,中
い」とされている。知識を教えないでよさを気づか
1には様々な音楽の語法を識別すること,中2には様々な
せようとするから,おかしなことが起きているので
音楽様式を識別し,話し合うことを要求している。いっぽ
はないか。
う,日本の中学校学習指導要領には,「我が国の伝統的な
音楽のよさに気づき,尊重しようとする態度を育成する」
(菅) 日本の学校の音楽教師は,基本的に西洋音楽を学ん
でいる人たちで,日本音楽を詳しく分析して教える
45
ということ自体が無理なのだと思う。複数のタイプ
(高松)そうだ。
の音楽の先生がキャラバンのように学校をまわると
(小塩)だから発言力があり,権威があるのか。
面白いかもしれない。
(高松)別の団体ができた1929年に反発して分かれた人達
(小塩)日本で雅楽を教えるというのは,スコットランドで
がいるので,アイリッシュ・ダンスの場合,現在は
バラッドを教えるとか,ヘンリー・パーセルを教え
二本立てになっている。スコットランドのRSCDS
るということに近いのではないか。その時にトラッ
は,「ロイヤル」の称号がついているとおり,王室
ドのような音楽であれば,すでにその音楽を「楽し
のバックアップつきの権威あるものだ。
む」素地があるから,音楽学的な授業ができる。日
本の場合は,長い歴史からアプローチするので,現
在の趣味としての音楽とかけはなれているものが
「伝統」として教えられる。また,西洋対日本のよ
うな構図もありそうだ。
【報告】
(3)教え方について
スコティッシュ・カントリーダンスは,8人一組になり
フォーメーションの美しさを楽しむものである。その習得
(高松)イギリスでヘンリー・パーセル,すわなち自国の古
プロセスは次のようなものだ。まず5種類の基本ステップ
典を教えるということは,今度考えてみたら良いか
を習得し,踊りながら膨大なフォーメーションを少しずつ
もしれない。
学んでいく。ウォークスルー(MCのコールを聞いて実際
に歩いてみること)で踊れるようになったら,トークスル
ー(MCのコールだけを聞いて踊る)で踊れるようにする。
【報告】
(2)スコットランド,アイルランドの「標準化→スク
RSCDS規格でステップにおける足の位置などが細かく決
められている。
ール開設→コンペで普及」方式について
まず,アイリッシュ・ダンスについて。1893年に創設
されたゲーリック・リーグ(Gaelic League)は,大陸の要
【質疑応答】
素が入っているセット・ダンスを禁止し,「民族舞踊」を
(小塩)どういう人が作曲するのか。家元制度の名取りにあ
一本化するためにステップやフォーメーションを規格化し
た。1920年代からダンス・スクールの設立が始まり,そ
こでは認定試験に合格した人以外は講師になれないシステ
たるような人がいるのか?
(高松)いや,完全に個人の営みだが,RSCDSの専属作曲
家のような人もいる。
ムになった。1929年にアイリッシュ・ダンス・コミッシ
(菅) その作品はその人個人の名前で出てくるのか?
ョンが発足してコンペティションが開始される。アイリッ
(高松)そう。新曲は,既成の曲を使って,ステップだけを
シュ・ダンスは,
このように中央集権的に標準化されてきた。
スコットランドのバッグパイプやカントリーダンスも類
似 の プ ロ セ ス を も つ 。 後 者 で は , 1923年
RSCDS
(Royal Scottish Country Dance Society)が創設され,ダ
ンスの標準化と普及に貢献してきた。
考えることもあれば,曲から作ってしまうこともあ
る。
(小塩)学校教育の話で出たように,既成の曲の別バージョ
ンを作るということもあるのか?
(高松)別バージョンというよりも,正しいバージョンとい
うものがない。記譜されていなかったり,されてい
【質疑応答】
てもたくさんあったりする。違和感なく同一の曲と
(菅) ゲーリック・リーグの創設は国の政策なのか?
認識されれば同じとされる。
46
(小塩)歌の歌詞を変えるように,全く違ったフォーメーシ
ョンで作るということはあるのか?
(高松)同一の曲にちがった振り付けをするかどうかという
(小塩)名取りや師範のようだ。
(菅) 集団的でもある。
(高松)カントリーダンスはそう。ハイランド・ダンスはソ
問 題 か 。 そ れ な ら あ る 。 例 え ば ,《 Flowers of
ロなので,また違う。ハイランド・ダンスの場合は,
Edinburgh》というダンスがあったとする。このダ
曲とステップが完全に固定している。なお,東京デ
ンスだと認識する要素は,ステップとフォーメーシ
ィズニーシーのイベントで見たハイランド・ダンス
ョンの組み合わせであって,曲ではない。カントリ
は,実際には存在しないステップを使うなど,ハイ
ーダンスには大体4曲くらいの曲がメドレーで使わ
ランド・ダンスを全く知らない人が振り付けて,踊
れる。寸法があっていて,その中に《Flowers of
っているようだが,いかにもそれらしい衣装を着て
Edinburgh》という曲が入っていれば,後の3曲は
やっている。しかし,素人がスコティッシュらしさ
何でもいい。別のダンスの中に《Flowers of Edin-
を感じるのは,そういうところなのかとも思う。
burgh》の曲が出てくることもありうる。
(菅) 見よう見まねで,イメージで踊っている。
(菅) では頭の部分でその曲が流れていなくても,そのフ
(小塩)ということは,紅白歌合戦の歌手の後ろで花柳社中
ォーメーションをとっていたら,それだと認識され
が踊るのとは違う。紅白では,振り付けもおそらく
るのか。しかし,いつかは出てこなくてはいけない
花柳の人がやっている。流派の名前を使うからには,
のか?
お墨付きをもらってやっているはず。結局,伝統を
(高松)
そう。そもそもはその曲の名前で呼ばれていたので。
正しく受け継いでいるかどうかということは細かい
(小塩)では,新曲を作るというのは,ステップとフォーメ
部分になると,知っている人にしかわからない。
ーションの型を作るということか?
(高松)そうだ。ただちょっと混乱するのは,日本語では
(高松)イメージの伝統というのはそうやって作られていく
のだろう。
「1曲,2曲」というが,それは音楽を言っているの
ではなくてダンスを指している。新しいダンスを作
るということはステップとフォーメーションの新し
いセットを作るということになる。音楽を作るとい
うものまた別の創造行為だ。
(菅) では,踊る人は全て暗記しているのか?
(高松)フォーメーションさえ覚えていれば,あとはその組
み合わせをコールしてくれる人がいるので,コール
【報告】
(4)伝統的モノゴトの役割
日本の伝統的モノゴトは,「技の習得」や「心の修練」
などカバーする領域が広いため,いろいろな利用方法があ
る。スコットランドの芸事は「社交(楽しくやる)」または
「コンペ(うまくやる)」のどちらか。愛国心を育てるため
にバッグパイプを吹きましょうとはならない。
されたものを瞬時に覚えれば良い。しかし,教師に
なる試験を受ける人は大体頭に入っている。試験に
【質疑応答】
は筆記と実技があって,筆記試験では,個々のダン
(高松)スコットランドの場合,みんなコンペコンペで燃え
スや,RSCDSの精神や歴史などを問われるが,実
尽きてしまう。
技試験では実際にコールしなければならない。また, (小塩)吹奏楽や合唱コンクールと同じか。
途中でわからなくなってしまったセットをどのよう
に指導するのかということも試験される。
(高松)それで食べていけるわけではないので,後に続かな
い。アイリッシュ・ダンスの場合,今だとコンペ出
47
身者はリバーダンスに入るというのがひとつの就職
(高松)そう。アートとしてというのがスコティッシュでは
形態だが,スコティッシュはいくら頑張ってメダル
なかなか成功しない。やはりスコットランドの場合
をとってもそこで終わりだ。
はあの衣装が重要で,あれを脱いでしまうとなんだ
(小塩)コンペは若い人向けなのか?
かわからなくなってしまう。しかし,いったん着て
(高松)そう。ハイランドは20歳をすぎたら体力的にきつ
しまった民族衣装はなかなか脱げない。スコティッ
い。カントリーダンスはお年寄りでもOKだが。
(小塩)シルバーバージョンを作るといったことはないの
か?
(高松)ない。ジャンプが基本なので,そこを緩めるとハイ
ときいてコントロールされており,ある程度不変な
まま伝統的な物事というのが保たれてしまっている。
(小塩)個人はあまり出てこないのか?
ランド・ダンスでなくなる。ハイランドをやってい
(高松)そう。規格からはずれるのには勇気が要るし,でき
た人がカントリーに行くというのは,踊りに大きな
たとしてもそれを世に問う場がない。コンペでは
ギャップがあるので難しいが,最近はステップダン
「規格外」は認められないから,よほど誰かが持ち
スなどがリバイバルであるので,その辺に移行する
上げてくれないと,やっていく場がない。だから徒
人はいるかもしれない。メダルをとるほど頑張って
党を組んでやったリバーダンスというのは成功した
いた人たちというのは,その後困ってしまう。
が,小規模ではなかなか敢行できないという図式に
(菅) メダルはまだ,それほど頑張る魅力があるものなの
か?
(高松)そうだと思う。親も熱心だ。しかし,ダンス教室の
先生になったとしても安定した職とはいえない。
(菅) 国をあげてこういうシステムを決めているのに,ゴ
ールまで行ってもプロになれるわけではないのが面
白い。日本の場合だと,吹奏楽コンクールなどは別
かもしれないが,プロの道に通じているのではない
か?
(小塩)吹奏楽コンクールはオーケストラに入っていく人材
なっている。
(小塩)しかもそれが商業的に成功すれば広まるが,ただ趣
味でこういうものを作りましたと言ってもインパク
トがない。そうすると,あまりローカルな違いとい
うのはないのか?
(高松)全然ない。地域性を諦めて,国家としてのやり方に
かけようという決断だったと思う。
(菅) だからといって,滅びそうという様子を見せている
わけではないのか?
(高松)見せていない。
も作っていくので,プロの道に通じていると言える
(小塩)あと何世代続くだろうか。日本では,家元制度への
だろう。プロになれないのは国立芸能団がないとい
傾倒はここ一,二世代でぐっと減っている。
うことと関係しているのではないか。
(高松)そう。アイリッシュにはあるがとても小規模。いず
(高松)裾野は広いと思う。ただ,カントリーダンスなどは
今はたくさんサークルがあるが,みんな中高年層な
れにしても,競技ダンスなので,見せるというエン
ので,次の世代がどうなるかというのはわからない。
ターテイメントに変換できない。しかし,アイリッ
しかし,バッグパイプ同様,見れば格好いいし,や
シュはそれを壊して,あのようなストーリーをたて
りたくはなる。
て,みんなで踊った。
(小塩)
〔第4回研究会レビューの〕「ステージアートとして
の活力を重視する」ということか。
48
シュ・ダンスの場合は社会的な維持装置がしっかり
(小塩)この手のものは魅力的なのか?
(高松)
今はバッグパイプよりサッカーの方が人気があるが,
魅力はある。しかし,バッグパイプが格好いいとい
うのは,コンペで優勝するというのがひとつの理由。
(3)一葉と歌会始
政府はそれをよく理解している。日本で「三味線コ
一葉は塾に入って間もない頃から,歌会始で出される題
ンペをやりましょう」と言っても,こんなに燃える
を詠んでいるが,すべて落選した。しかし,同じ題の天皇
かどうか…。
の歌と比べると,発想は同一である。つまり,題詠という
(小塩)基準が一元化されていないから,コンペでは燃え上
がれない。
(高松)だから日本は計画的ではないけれど,地域や家元制
度など,小規模に伝えていく。スコットランドでは
同じイマジネーションで歌が作られている。公性を意識し
て与えられた題に従って,和歌の伝統をふまえて歌えば,
必然的に天皇の御代を言祝ぐ言葉が自動的につむぎだされ
るわけだ。
一斉にサマースクールからコンペという流れが決ま
っている。しかし,その後がないのでやりがいが見
出せないようだ。
(4)萩の舎の修行方法
萩の舎は,中島歌子による民間の和歌の塾で,全盛期で
あった明治19年ごろには千人くらいの門人を有していた。
3.報告2(菅
聡子)
【報告】
「伝統」の習得と国家
門人のタイプは,和歌を習い事として学ぶ上・中流階級の
女性と,和歌の教師になることを目指す女性とに分かれて
いた。
修行方法の場としては,歌会(原則としてゲストによる
(1)沖縄県と和歌
競点あり),各評(あらかじめ出詠歌を無記名で撰者に回覧
17∼18世紀,和歌は琉球王朝の上流階級などにとって
させ,多数決によって優劣を決める),難陳(口述または筆
は,薩摩との政治的な関係を支えるために必須の教養科目
記で論難し,それに対して作者が陳弁して,判者が優劣を
だった。それが琉球王国の崩壊によって,同好の士や結社
決定する),数詠(短い時間で与えられた題に対して,ふさ
の活動に受け継がれる。明治12年の琉球処分後,明治13
わしい歌を何首詠めるか),当座詠(当日出された題によっ
年に会話伝習所を設置。共通語と琉球方言の対訳本である
て即興で詠み,提出後,添削および採点),宿題(あらかじ
『沖縄対話』が刊行される。これは,皇民化の第一歩は共
め題を提示し,次の稽古日に提出させ,添削,採点)など
通語の習得であるとの理解に基づいたものである。同じよ
があった。添削では私たちが見て全く違う歌になっていて
うに大日本帝国の「伝統」を得て国民となっていく中で,
も,「心」が同じであれ同じ趣向のものとされた。
和歌も何らかの役割を果たしたのではないか?
これらの修行方法は明らかに伝統的な方法で,一葉が和
歌を座の文学として,つまり「私」ではなく「公」を詠む
(2)一葉と沖縄
一葉の日記に一カ所だけ沖縄県が登場する(「蓬生日記」
修養をしたことがわかる。鉄幹の『明星』が,結社として
ではなく,個人の歌自由に個性を詠うことを目指したのと
M24.10.13)。そこで,「沖縄名所」について詠んでいる
対照的である。一葉のしたような題詠は,短歌を衰退させ
のだが,一葉は沖縄に行ったことがない。つまりそれは,
るものと見られるきらいがあるが,題にはこれまでに歌わ
題詠という和歌の伝統的な文脈に従って作ったものだ。そ
れた和歌が背景にあり,歌われた歌は多層的なハイブリッ
う考えると,一葉も和歌を通じて国家や大君と通じるシス
ドなものとなる。
テムの中にいたことになる。そのシステムの代表的なもの
が歌会始である。
題詠には,二つの特徴がある。一首でも同時に色々な物
語世界や過去の歌を背景にもつことができて多層的である
49
こと,しかしそれは同じ文学的コンテクストが共有されて
の歌を詠んだ上で,破調の歌にいくというのが普通
いる人達の間でしか理解されないことである。
のようだ。しかし,俵万智の登場以来,短歌で彼女
の系列に属する人達は,常にジャーナリスティック
【質疑応答】
な新しい人達という評価だ。しかし,俵万智は言葉
(高松)題詠の題にまつわるイメージの蓄積というのは,み
が違うだけで,実際には57577を崩していない。
んなで築き上げてきた共同幻想ということか?い
短歌で一番ラディカルなのは自由律系だが,短歌の
や,幻想ではないか…。
世界では定型を大事にする人が断然多い。
(菅) 文学的蓄積。題詠がいつから始まったのかというの
は諸説あるが,題詠という言い方自体は後世のもの
(高松)歌会始には歌を詠まれる人が出席するのか?
だ。題を詠むというのが明確に意識されているのは
(菅) 皇族や政府の人は別として,そうだ。投稿して,選
平安時代後期くらいで,それ以前は詠んでいる本人
ばれれば招待される。歌会始が面白いのは,その年,
は題を歌うという意識はない。
選ばれた人が,次の年,歌人として活躍するか否か
(高松)方法論に具体的に名前をつけると,それが固定的な
ものに見えてしまう。結果的に得策だったのだろう
か。
(菅) それがわかるためには,伝統を学ばなければならな
い。また,短歌と呼ばれるようになってからは,基
何の継続性もない。
(高松)歌会始に出てくる人達は題詠をやるわけだから,や
はり今までの伝統の蓄積を普段から心がけている人
達でなければいけないだろう。
本的に題詠という方法は批判されている。ただ,結
(菅) ただ,例えば「日出山」という題は伝統的なものだ
社の中には題詠を見直して,やり始めているところ
から,過去にたくさんの歌があるが,最近の題は例
も最近はあるようだ。それぞれの結社は機関誌を出
えば「阪神大震災」といったような出来事などで,
しているが,最近は「題詠コーナー」というものを
今年のテーマのようなもの。だから,同じ題詠でも
作っている。
題の質が違う。
(高松)しかし,今の題詠と過去の題詠は違うのではない
か?
(菅) そこが問題。「題詠がこういうもの」と言っている
(小塩)評価の観点も違うのだろう。
(菅) そう。選ばれ方が違う。明治期の歌はその題にふさ
わしい伝統をふまえているため,どれも似てしまう。
のは研究者であって,実作の人達とは断絶がある。
明治期に新聞にのった,高崎正風など御歌所の人達
実際に歌を詠んでいる人にとっては,与えられた題
の歌,天皇の歌,皇后の歌,一般の人達の歌は,ど
で想像力を働かせて歌うという程度だ。例えば,
れも大体同じだ。しかも当時は帝国主義なので,
「題詠とは国家と接続する」といったものは,ある
生々しい題を出さなかった。日清戦争の最中にも歌
意味では研究者の偏った問題意識とも言える。ただ,
会始は行われたが,実戦を感じさせるものは一切出
今でも古今集から学んでおり,最初から破格の歌を
ていない。むしろ文学的な題,抽象的な題だけを詠
作るわけではないようだ。
んでいる。それに対して,今は具体的だ。
(小塩)それは和歌なのか?それとも短歌なのか?
(菅) 和歌でも短歌でも,いきなりそれをやってもその業
界では認められない。まず,57577の常識な形で
50
とはまったく関係ないということ。あの場所限りで,
(小塩)しかし,一方でそれを見直すという動きもあるとい
うことだが?
(菅) 今の結社の伝承方法なども,今度阿木津さんに教え
ていただくといいと思う。ただ,一葉のところの方
が,ある意味では先ほどのダンスの画一化ではない
が,評価はしやすかっただろう。
(高松)短い主題を与えられてすぐ作るのは,ヤマハの即興
演奏の英才教育と似ている。和声のレッスンも似た
ようなもの。バスが決まっていて,上も無限にパタ
のも教えた。
米川裕枝は敏子の次女で,四代目家元を継ぐことがすで
に家元組織において認められている。古典を身につけつつ,
最近は作曲活動も活発に行う(2005年11月に行われるリ
サイタルでは箏とヴィオラによる新曲を発表予定)
。
このような歴史のある米川家(研箏会)に入門した場合,
ーンがあるわけではない。現代音楽を作る人で,古
まず古典曲より先に,流派の手ほどき曲を習い,米川スタ
典を知らないでいきなりいく人はいるのだろうか。
イル(敏子の曲が多い)に慣れることから始まる。手ほどき
(小塩)作ったとしても,古典を通った人達には見下される
曲は,江戸時代にはあまりなかったので,各家で作曲され
のでは。
る傾向があるが,その意味では,箏を習う時には最初に新
(菅) 俳句や短歌でも,定型をやりつくして,その後で初
しい曲を習うことが多いと言える。お浚い会でも必ず敏子
めて自由律が出るととらえられている。皇居のうた
や琴翁の曲が弾かれ,それらは弟子たちの基本レパートリ
のレッスンも面白い。明治時代は,明治天皇が女官
ーとなる。敏子の曲を大人数で演奏することもある。伝統
達に毎日題を出して作らせていた。面白いのは,伝
の中で新作を弟子に伝えるという意識のあらわれではない
統的な題に加えて,「ビスマルク」といった新題も
だろうか。
出されていたこと。しかし,一般的にそれは新奇な
ものとして軽蔑されているものだった。
【質疑応答】
(菅) ある家の曲を別の家に習いに行くことはないのか?
4.報告3(小塩さとみ)
【報告】
(1)米川家の「伝統」:古典と創作の両立
(小塩)皆無ではないが稀だ。ただし宮城道雄の曲は例外か
もしれない。楽譜が公刊されているし,箏曲を勉強
するために東京芸術大学に入学すると,出身流派に
箏曲における家元制度は,明治になって当道座が廃止さ
かかわらず必ず彼の曲を勉強する。その意味では宮
れた時に,伝統を維持するために作られたシステムである。
城の作品は多くの演奏家に共有されているレパート
研箏会の初代家元である米川琴翁は,中国地方の出身で,
リーと言えるだろう。しかし,米川琴翁や敏子の作
明治になってから上京し,初代家元となった。古典曲への
品は,弾きたい場合,直接米川家に習いに行かなけ
箏手付,中国地方を中心とした伝承曲の伝授,新作の作曲,
れば作品にアクセスできない。
低音部を充実させた新しい楽器の開発,教授のための楽譜
(十三線譜)などをおこなった。
二代目を琴翁の長男が継いだ後,三代目を琴翁の娘であ
る米川敏子が継承した。敏子は,戦前より作曲活動をおこ
(菅) 十三線譜は共有されていないのか?
(小塩)されていない。
(高松)それは門外不出という意味で読めないのではないの
か?
なったが,西洋音楽を多少学んだこともあって,その手法
(小塩)そうではない。単に記譜システムが違うので,楽譜
はかなり自由であり,それほど古典的ではない。また,長
の読み方が他の流派の人にはわからないというこ
唄など他ジャンルへの手付,オーケストラとの共演,劇伴
と。また,新しいレパートリーに対しては,各家で
など多彩な活動をした。作品は100曲以上あり,弟子へ
スタンスが異なる。米川家の場合は新しい作品が家
の教授活動においては,古典曲および琴翁が手付をしたも
の伝統として受け継がれている。富山家の場合は,
51
新しい作品も作られレパートリーが広がってはいる
プロセスを言語化することによって,新しい観客を獲得し
が,その広がり具合が米川家と比べるとゆるやかで
ようとしていると見ることもできるのではないか。
ある。藤井家は最近まで楽譜を使わずに芸を伝承し
てきており,今あるものをそのまま伝えていこうと
【質疑応答】
いう形と言える。
(菅) 一般的な評価として,狂言の方が人気があるように
(菅) 家というのはいくつくらいあるのか?
思うが,客観的評価として,能の方がステータスは
(小塩)どこまで分けるかによる。米川家の場合でも,琴
高いのか?
翁−敏子−裕枝の系統とは別の系統もあるので,大
(小塩)ステータスは高い。能は和歌と同じで,古典の世界
きく見ればひとつだが,ふたつとも言える。どこま
を知っていれば知っているほど,深い解釈ができて
でをひとつと考えるかは,家元単位で考えるか,芸
はまりこむおもしろさがあり,狂言とは芸としての
の系統で考えるかによっても異なるが,現実的には
質の違いはあると思う。狂言は口語(せりふ)中心の
弟子の人数やサポーター(後援者)がどれだけいるか
演劇であり,古典をあまり知らない人にとっても比
などで決まってしまう部分もあると思う。米川家の
較的わかりやすい。歌舞伎の場合も似ていて,明治
場合,新しい作品の創作が,米川家内の別系統との
時代になって一気に観客層が広がったため,「勧進
違いを示す新しい伝統として機能している。米川敏
帳」のようなストーリーのはっきりしたものが,歌
子は,弟が先に家元となったこともあり,弟子に教
舞伎にくわしくない観客にアピールしていた。また
えること以外に,西洋音楽との共演など新しいこと
狂言の場合,「三歳からの稽古」という伝統的な教
に関わって仕事をした時期が長かった。それが現在
授を強調する一方で,シェイクスピア劇への出演や
の米川家の伝統のバックグラウンドになっているの
サイバー狂言など新しいことをやっている。能の人
ではないか。前回の長唄の報告でも言ったが,一般
も新しい試みを行っているが,狂言にはかなわない。
的に,社会的な立場として何らかの劣等感をもって
これはさきほどの地歌箏曲での社会的地位と新しい
いて,なんとか巻き返しを図りたいと思っている人
創造の関係とちょっと似ている。ステータスによっ
の方が,前衛と結びつくような新しいことをやるこ
て,「伝統」という枠の範囲が変わってくるのでは
とが多いように思う。社会的な立場として,負の部
ないか。野村家に関しては,新しいことをやりつつ
分があるからこそ,伝統の中に新しいものを取り入
古いこともやるのが「家の伝統」と位置づけられて
れていく自由とエネルギーがあるのではないか。
いくのではないか。
(菅) 猿之助がスーパー歌舞伎を始めた時も色物のように
【報告】
(2)狂言における伝統のイメージ
言われたが,あれはいまや猿之助の家の伝統のよう
になっているのではないか?
和泉元彌は「家元」「宗家」をマスコミに連発し,とう
(小塩)早替りや宙乗りは市川家の「伝統」だろう。しかし,
とうプロレスへの参戦を表明した。その行為からは,家や
スーパー歌舞伎についてはどうだろうか。猿之助が,
家元を売りにして,狂言のステータスをあげたいという意
「若い研修生にスーパー歌舞伎ばかりやらせていた
識がうかがえないだろうか。また,野村万作・萬斎はトレ
ら,普通の歌舞伎をやった時にどうも間がおかしい。
ーニング方法についての芸談やドキュメンタリーを公開し
これではいけないと感じた。」という意味のことを
ている。これらは本来隠すべきものとされてきたが,学習
書いているのを読んだことがある。つまり,スーパ
52
ー歌舞伎は「新しい歌舞伎の伝統」というよりは,
弾いているときに頭で拍を数えているとわからなく
「歌舞伎とは違う性質をもつ新しい芸能」と位置づ
けられているように思う。
(菅) 勘三郎や勘九郎なども色々やっているが,あれはス
なる。
(高松)かと言って,4拍単位で書くのにも無理がある。
(小塩)例えば,富山清琴作曲の音楽は,4拍をひとまとま
ーパー歌舞伎とは違う位置づけなのか?
りとして進んでいく。それに対して,米川琴翁の作
品はそうでないのに驚いた。
(小塩)あれは新作ではなく,古典歌舞伎を現代演出でやる
とどうなるかという試みが中心。一方,スーパー歌
(高松)富山清琴さんの方は4拍単位で書かなければという
舞伎は新たに台本を書き起こして作っている。どち
意識がどこかにあるのかもしれない。
らの事例でも,問題は新しいものを受け継いでいく
人がいなければ伝統にはならないということだろう。
5.今後の進め方について
(省略)
【次回の研究会】
(小塩)西洋音楽における
「伝統」については,
「ベルリンにお
日時:2005年11月26日(土)11:00∼
けるバッハの伝統」という捉え方があるようだ。ベ
場所:聖徳大学2号館1階研究室
ルリンという土地はドイツの中でも非常に保守的な
内容:第5回研究会と同じ
(報告者:田井,藤原)
ところだったようで,メンデルスゾーンの作曲の勉
強の仕方は,数字付きのバス低音をやり,4声のコ
6.発表の検討・整理のためのディスカッション
ラールを作って,対位法を学ぶというバッハの時代
*各発表の要点をカテゴライズ*
そのままのものだったようだ。つまり,かなり古い
・イメージの共有…スペインのギルド/題詠によって歌わ
作曲技法から習っていたということ。当時はtraditionという言葉は使っていなかったと思うが,近い
ものがあったようだ。彼の作曲練習帳も残っている。
(高松)誰から習ったかというのが大事だ,という話が前に
あった。
(小塩)ドイツにおける伝統ではなくて,「ベルリンにおけ
る」,というのがポイントのようだ。
れる和歌の多層性
・社会的な「負」の存在…劣勢と結びつく前衛/学習プロ
セスの言語化と公開/リバーダンスの例
・「添削」の範囲
音楽の場合も,ひとつの音を変えると作品全体に関わる
が,「機能は同じ」という考え方
・教育方法の違い…スコットランド・アイルランドの「標
準化→スクール開設→コンペで普及」方式/萩の舎の二
(高松)十三線譜に小節線はひかれているのか?
(小塩)通常は小節線はひいていない。江戸時代の箏の楽譜
には小節線に似たものがあるので,十三線譜にない
のがとても不思議だ。
(高松)ある意味で楽譜はあとで作られたものだから,そも
種類の修行の形/結社と座の立ち位置の違い
・学校教育における伝統音楽の取り扱い
*伝統的なものに関しては,内容に相当に精通していない
と,基本の逸脱範囲がわからないために評価できないだ
ろう。
そも無理がある。区切れるところではないところで
小節線がひかれている。それを考えれば,米川楽譜
の方が音楽に沿っているだろう。
以上の要点は次回に持ち越し,残りの発表と併せて考え
る。
(小塩)米川楽譜では音楽の変化はわかりやすい。しかし,
53
第6回研究会 教える・伝える その2
<日時>2005年11月26日
(土)11:00∼17:30
<場所>聖徳大学8号館8716教室
<出席者>小塩さとみ,田井竜一,高松晃子,藤原貞朗,
藤本寛子(研究補助)
いうものはあるのか?
*伝統的なものに関しては,内容に相当に精通していない
と,基本の逸脱範囲がわからないために評価できないだ
ろう。
イメージの広がりを自分なりに実感していないと評価で
<スケジュール>
1.前回のレビューと本日の進め方の確認
きない,楽しめない。基本の逸脱範囲がわからないと評
2.報告1(田井)
価できない。それでもわかりたい → 簡易版の登場 →
本家をしのぐ?
〔昼食〕
3.報告2(藤原)
4.イベントおよび今後の予定の検討
(3)新たな伝統を構築する場合,ナショナリズム以外
の文脈では何があるのか?
1.前回のレビューと本日の進め方の確認
【第5回研究会レビュー】
「伝統を教える・伝える」その1
①カリスマ的な個人が出現する。
②社会的に「負」の存在や劣勢の勢力が「前衛」と結び
つく。
例)リバーダンス
③劣勢が巻き返す。
(1)正当なものを伝えるためのさまざまな方法
①スコットランド・アイルランド方式
方法として,学習プロセスの言語化と公開,衣装や歴
史など見た目や付加情報に頼る,など。
例)
狂言
標準化 → スクール開設 → コンペで普及
上からの方式で,それほどの時間はかからない。
②萩の舎方式
2.報告1(田井竜一)
【報告】
「公」を歌うためのイメージの蓄積→その使用の訓練
「〈水口囃子〉にみる芸能の戦略」の顛末
身近ではない存在を使うことができる/自動性/規範
の構築までそれなりの時間がかかる。
ほかにどんな方法があるだろうか?
(0)目的
第1回研究会で報告した「『水口囃子』にみる芸能の戦
略」のその後,特に西の囃子の担い手である野村和仁氏に
(2)正しいものを伝えるための添削やレッスン
ついてお話ししたい。
創作において,具体的な音や表現が違っていても「機能」
が同じ(正しい)ものは「同じ」「だからよし」とする場合
がある。
(1)天神町(西の囃子)の野村和仁氏(1967年生れ)につ
いて
・和歌のレッスン:見かけは違っても「心は同じ」とする
考え方
囃子を追究してやまない姿勢はまさにヤマキチ,「現代
の鵜飼氏」とも言える野村氏は,若衆頭の経験者で,西の
・音楽の和声のレッスン:ひとつの音を変える作品全体に
囃子の責任者(兼笛方のリーダー)
「親笛」と呼ばれている。
関わるが,和声上の「機能は同じ」という考え方がある。
前回の報告でも述べたように,「東の囃子」と「西の囃子」
機能を守れば音は入れ替え可能
では,曲名・曲の構造の細部・使用楽器・奏法や装飾法等
・美術の場合は?
54
ここさえ守っていれば変えてもOKと
に差違が見られる。野村氏は,「東の囃子ばかり取り上げ
られるが,両方があってはじめて水口囃子である」との考
いが始まって,太鼓のソロと全体が組み合わされる
えをもっており,水口ばやし八妙会へ入会し,中心的メン
構造は同じ。配布資料にあるような,精緻なパーツ
バーとして活躍するも,東の色彩が強い同会から独立して
を組み合わせて作られている。
自身の囃子グループを結成するに至った。
(3)水口ばやし八妙会の問題点―野村氏の意見
(2)野村和仁氏の鵜飼眞五氏および水口ばやし八妙会
への眼差し
野村氏は,鵜飼氏に対して次の3つの疑問を投げかける。
①水口ばやし保存会から誘いがあった時に断ったことによ
上のようないきさつはあるが,野村氏は鵜飼氏の囃子を
り,地元における囃子の活性化の可能性がとざされてしま
きわめる姿勢や囃子を普及させた功績を評価している。し
ったのではないか。②外部の団体へ,不完全な形で囃子を
かしながら,鵜飼氏のとった普及戦略に対しては懐疑的で
伝授してしまったのではないか。③演奏の機会毎に,その
ある。前回お話ししたように,鵜飼氏は「水口ばやし」普
内容について反省し,メンバーがお互いに切磋琢磨するこ
及にあたって2つの戦略を取った。可能な限りどこへでも
とによって,囃子の内容をより高める姿勢が次第に欠落し
出かけて囃子をはやすことと,ならいたい人にはよろこん
てしまったのではないか。楽しければ良いという風潮がで
で囃子をおしえることである。その結果,大阪吹田市の
てきてしまったのではないか。
「郷土サークル野火」,東京小平市の「花しょうぶの会」な
どのアマチュア・グループや,けやき座・田楽座・わらび
座などのプロの芸能集団も鵜飼氏の教えを受けた。自分の
その結果,野村氏は八妙会を脱退し「水口囃舎」を設立,
「水口囃子の正確な形での内部における伝承および外部へ
の伝播」を打ち出す。
芸は厳しく追究しながら,普及に当たっては「どこにでも
いく」「鳴ったらええんや」「少々難があってええ」という
【質疑応答】
言葉に象徴されるような柔軟性が鵜飼氏の持ち味であっ
(高松)現在も八妙会は存在しているが,内部で楽しむ,外
た。その結果,とんでもない「水口囃子」が成立すること
の人にもくる者拒まず教えるという姿勢。それとは
になる。
一線を画すという形で「正しい伝承」ということを
このことに対し,野村氏は次のように考えている。受容
旗印に活動しているということですね。
した団体が,独自の創造をおこなうことは全く構わない。 (田井)野村氏の水口囃舎では,もちろん頼まれたら出張演
ただし,ここだけはさわってはいけない(もしさわると囃
奏もするし教えにも行く。そういう意味では鵜飼さ
子がこわれてしまう)というコアの部分だけは,きちんと
んの八妙会を基本的に継承している。ただし,肝心
伝承してほしい。たとえば,〈ヤタイ〉における掛け合い
なところ,絶対崩してはいけない部分をきっちりと
では,大太鼓がきまった部分にきまった部品(精密な1フ
伝授するというところに主眼をおいている。
レーズ)をいれる構造になっている。ここは変えてはいけ
(小塩)水口ばやし保存会は,現在でも活動しているのか?
ない部分である。
(田井)形だけ存在しているが,ほとんど機能していない。
そこで発表で述べた批判「鵜飼さんがもうちょっと
【質疑応答】
保存会の方をやってくれれば」という思いになるよ
(藤本)東も西もこのフレーズは決まっているのか?
うだ。
(田井)基本的にこのような形になっているが,少々掛け合
いのやり方が異なったりする。こういう風に掛け合
(小塩)野村さんは保存会には入っていないのか?
(田井)野村さんの世代になると,ほとんど休眠状態になっ
55
ているので入っていない。
ている面もある。ただ,整合性があれば芸能として
いいかというと,それは別問題だろう。
(高松)
共同体の中での,わりと無意識的な伝承の時点では,
あまり「ここが大事だ」とか「ここは変えてはいけ
(小塩)何をもって「水口囃子」と呼ぶかというところにつ
ない」ということを言語化しない。外の何も知らな
ながっていく。水口囃子の人から習ったからそう呼
い人に教えるときに,今まで感覚的に知っていたこ
べるのか,それとも他の部分で何か保証するものが
とを言語化して,システマティックに教えるという
あるのか…。先ほどは太鼓の変化に触れられたが,
形に持っていかなかった場合,八妙会のようになる
笛の旋律はあまり変化する可能性はないのか?
のか?野村さんが外部に教えるときは,やはり「こ
こは変えてはいけない」というのを理論的に教えて
る部分があるのでは。江戸系の囃子で笛というのは,
いるのか?
名人芸の世界で個人様式が非常に展開しやすい。逆
(田井)そうですね。ただ実はそれは八妙会のレベルでも既
に太鼓のようなリズム系の部分は,パーツを組んで
に行われていた。野村氏自身も,八妙会にいた時に,
とても精緻に出来ている。そこを,枠を越えて過度
外部の人におしえることが,自分達がやっている囃
に装飾したり,パターンを変えたりしてしまうと,
子を客観的・理論的にとらえるきっかけとなったと
囃子がガチャガチャになってしまう。その点,笛は
いっている。ポイントはスタンスの違いで,八妙会
かなり自由度が高いと言えるが,逆に笛で各地の江
は「それでもええんや」,それに対して野村氏は
戸系の囃子を比較しようと思うと大変。
「外の人でも水口囃子と名乗るからには」というも
(小塩)現地同士のお囃子を比較する際についてはそうだと
の。野村さんのある種,原理主義者的立場というの
思う。しかし,この水口囃子の本場物と伝播型を比
は,実は水口ではそれほど共感を呼ばないという側
べる場合,太鼓の方がある意味自由に変えやすく,
面もある。
笛は習ったものを比較的変えにくいのではないので
(藤原)田井さんはこれをどういうスタンスで眺めてらっし
はないかと思った。
ゃるのか?これを60,70歳の師匠ではなく,38
(田井)その意味で言うと,やはり打楽器系統の方が変えら
歳の方(野村氏)が言っても,説得力はあまりないと
れることが多いと思う。だから野村さんはそこが非
思うし,どれくらいまで自分で見つけたのか。彼は
常に気になっている。
そのあたりをどのくらい自覚的に言っているのだろ
(小塩)音を聞いていると,笛はほとんど同じように聞こえ
うか。実際のところ,もとは残っていないしわから
るが,打楽器はビデオのわらび座の三つの公演を見
ないというのが,本来の伝承の形。逆説的な言い方
ても,全然違っている。小太鼓の方が地をやってそ
だが,ビデオで見たわらび座などの方が,舞台にか
こをやっていくというパターンが完全に崩れてい
けるためとはいえ,伝統っぽいかんじがする。実は
る。
方向的には逆に行っているという矛盾がよくわかる
主題でもおもしろい。
(田井)まさに両極ですよね。ただ,私は野村さんが言って
いることも一理あると思う。一方,確かに実践的に
は,彼らがやっていることもそれになりに評価され
56
(田井)それなりにあると思う。むしろ笛の方が個性を出せ
(藤原)芸の期間としては,わらび座の方が長い修行期間だ
と言えるのでは?
(田井)そうでもない。わらび座全体の伝承はそれなりにあ
っても,彼らも若い。
(高松)色々な地域のものをやっているんですよね?
(田井)そうです。
(藤本)定期的に水口に来て習い直すということはしないの
か?
(田井)そういうことはない。だから,わらび座の演奏は
か?
(田井)そうですね。祇園囃子もいくつかのところに伝播し
ているが,祭礼以外で行われるということは全くと
言っていいほどない。でも,水口囃子の場合は,
40年くらい前に習ったものの展開系といえる。小
色々なグループが様々な文脈で担っていく経過をた
塩さんが言うように,確かにわらび座と比較すると,
どっている。そういう意味で,ある種の伝統が伝播
太鼓の方がある意味自由に変えやすいとも言えるか
しているわけだが,その中でどのような文脈・方法
もしれない。ただ,現地の伝承を見ると笛も結構変
で囃子を伝えていくのか,見ていて面白い。
わってきている。
(小塩)太鼓は一見技巧的に見えたが,変えるパターンとい
うのはみんな同じなのか?
(田井)基本的には同じ。ただ,パターン内でやはり個人的
に工夫はするようだ。
(高松)野村さんの発言とは裏腹に,現地の方で太鼓の入れ
場所やフレーズが,変わってきているということは
ないのか?
(小塩)これを見ていて私が思い出したのは,歌舞伎の「能
取り物」。歌舞伎の場合は習いに行くのではなく,
盗み見的に,それらしく能の真似をする。能の人か
ら見れば,いい加減なところがいっぱいある。
(田井)いい意味で言えば,創造的とも言える。
(小塩)そう。そして,見ている人には,能らしい雰囲気も
伝わる。
(田井)それはあまりない。やはり長老がいるし,感覚的に
(田井)能を見たことがない人はむしろそちらを本物と思っ
もかえてはまずいという意識があるようだ。録音の
たりして。わらび座の方がむしろ「正統的な」水口
時も,入れ場所を間違えたので,取り直しをしたり
囃子,これこそ本物っぽいということになるかもし
する。
れない。ただ,一方で,本物でないとも言えない。
(小塩)たしかにそのエッセンスはある。
(高松)わらび座の話に戻るが,このわらび座の若い劇団員
たちは誰からどのように習うのか?
(田井)わらび座の先輩がわらび座の後輩に教えるという形
をとっている。西洋音楽の世界のように,先生が行
ったところに留学したりするということはないよう
だ。
(高松)その先輩がどのように教えているかに興味がある。
(田井)練習しているところを見せてもらったが,基本的に
は口頭伝承のようだ。その点ではわらび座もある意
味,現地のやり方を踏襲している面もある。
(藤原)ある意味「伝統的」。
(高松)たしかに能取り物の場合は,「これは虚構の世界だ」
ということがわかって見ている人と,そうでない人
がいる。
(田井)本当はわかっている人が見るから面白いのだが,最
近は元を見ていない人が多い。
(高松)そうですよね。だから,見る人の側でもそれが作り
替えられていく。
(小塩)それこそディズニーシーのスコティッシュダンスと
一緒。
(田井)そこで本家なんとかのような話になってくると,
「お遊びでやっているうちはいいけれど」というこ
(高松)しかし,色々な地域の芸能をやっているわらび座の
とになってくるのかもしれない。ただシーンの棲み
人達は,各地の唱歌を覚えるわけにはいかない。や
分けはしている。地元の人達も水口囃子をならった
はり師匠のやっているそれを見て写すことになるの
人々がお祭りに大挙してやってきて,はやされたの
57
ではたまらない。あちらはあちらで別にやっている
というわけだ。
(田井)なかなか難しいが,野村さんの意見も一理あると思
う。八妙会は八妙会で鵜飼さんというカリスマを失
(小塩)わらび座の演奏として,評価するということか。
って,今後どう展開していくのかを悩んでいる。鵜
(田井)野村さん自身も,わらび座のものはそれなりに評価
飼さんの息子さん自身も言っていることだが,シン
している。他のグループとくらべればきちんと伝承
パの人達が大挙してお祭りには来ているが,お祭り
しているし,うまい面もあると言っている。
および囃子の伝承は実は危機的な状況にあるとい
う。これはなんとかしなければいけないという思い
(藤原)このケースの場合は世代差も感じる。つまり野村さ
も切実なようだ。色々な意味で,プラスの遺産,マ
んたちは伝統というのは,オリジナルがあって,そ
イナスの遺産を背負ってしまっているというのが,
れを守らなければならないと考えているわけだが,
鵜飼さんたちなのではないか。
本来は,批評家などの実際に演奏しない人が他で言
うことが多いと思う。話は変わるが,笠間で焼き物
(高松)劇場版では,思いっきり音を弱くしてからクレッシ
のシンポがあって,フランス人の作家や日本人など
ェンドして最後盛り上げる演奏があったが,それが
が集まった。その時フランス人は「批評基準は何
逆に現地の伝承に入っていくということはないの
か?」ということをすごく聞きたがったが,日本の
か?
作家の偉い方はそれを嫌がった。よくあるパターン
(田井)今のところないようだが,将来はわからない。やっ
だが,カノンのようなものを求めようとするのは,
ていけないということではない。町の規範として許
すごく教育されたものと言える。
容すれば不可能ではないと思う。
(田井)こうした問題は,伝習のプロセスに問題が生じつつ
(高松)
やってしまったら,結構受けるかもしれない。ただ,
ある時に出てくることなのかもしれない。伝承が活
実際の文脈だと,盛り上げるのが効力を発揮するよ
発に行われていたらおこらないだろうが,内部で伝
うな場はないのか。
承が滞ってしまったときに出てくる動きに通じるも
のなのではないか。
(田井)もちろん基本的にはヤマの中で囃しているのだが,
神社で整列している時に,時間を決めて,ヤマの前
(高松)前回の研究会で「見かけは違っても心が同じなら同
に並んで出てはやすということが現在おこなれてい
じ」というのがあったが,年月が経つにつれて,心
る。そのような文脈では今後,今の話のようなこと
も少しずつ変わってくる。常に同じ規範では語れな
も起きる可能性がある。現時点でも,その場では,
い。
やはりテンポが速くなって,ということが起きつつ
(田井)
「見かけが一緒でも,心は違う」ということもある
あるというのが現状だ。
だろう。それぞれ楽しくやればいいという人もいる
(高松)どうして出てきたのか?
し,つきつめてやりたいという人もおり,色々なレ
(田井)やはり目立ちたい,基本的に見せたいという思考が
ベルの人達がいる。
(高松)その点,よさこいはそういう人達をうまくすくい上
げている。
(藤原)田井さんは単に客観的なスタンスをとっているの
か?
58
ある。
(高松)そういう場はもともとあったのか?
(田井)御神輿が入ってくる前に,それぞれが囃すというこ
とは伝統的にあった。でも,あくまでもヤマの中に
入った状態でやっていた。それがその前にシートを
敷いて並んでとなるのは,この10年位の話である。
(小塩)それはお祭りにたくさん人が来るようになったこと
とも関係するのか?
アな部分の話はきっちりしていこうということ。彼
はそれを理解してくれたら嬉しいと言っており,後
の部分まで縛るつもりはないようだ。
(田井)
それもあると思う。一方で,非常に厳密な面もある。 (高松)見た目的には随分違うものができあがる可能性のあ
以前話したように,神社に行くまでは御簾を降ろし
てヤマの中でのみはやす。
(小塩)そこを守るために他は見せようということか。
(高松)何かひとつ守らなければならないことがあると,他
る教え方。
(田井)しかし結局,囃子というのはそういう教え方しかで
きないのではないか。
(高松)
「教える」となれば。通常「教えない」
。
は妥協するということがある。制服の着方のように。 (田井)そう。本来教えるものではない。本来そういうシス
スコティッシュダンスは全部決まっているので,逸
テムになっていない。小さい頃からお母さんの背中
脱のしようがないが…。
に背負われて練習を見に来て体になじんでいくも
の。だから八妙会でも,最初は相当苦労したようだ。
(田井)野村さんの意見は,絶対的とは思っていないが,ひ
とつの見解としては面白いなと思う。
(高松)実際,野村さんの現地での評判というのはどうなの
か?
「こう」と言っても,受講生は簡単にはできない。
(高松)今,アフリカの子ども達に伝統的な木琴音楽を教え
ることが行われているが,今や彼らは本当にたたけ
ないようだ。
(田井)現地でも若衆頭としては評価されていると思う。た
だ,お囃子の話になると,楽しければいいという人
(田井)わらび座の演奏で何か気づいたことはあるか?
が多いのは確か。その意味で彼は大勢の人達とは違
(藤原)もともと見せるものではないものを,関心のない者
う。野村さんは若衆を集まるところにも積極的に出
ているし,そういうところでお祭りを活性化してい
に見られる舞台を作っている。
(小塩)
「 春の喜びを∼」というような解説が面白かった。
こうというときには,皆さんとかなり一緒にやって
それはお囃子の人はたぶん言語化していない。しか
おり,一目置かれているところもあるようだ。ただ,
し舞台では,そのシチュエーションを与えないと観
ことお囃子の話になると,ついてきてくれないと彼
客はどう見たらよいかわからない。
が言っている。
(高松)本来は見よう見まねで,長い時間をかけて,それな
りに自由に時間がつかえる本来の伝承を,数の限ら
(田井)たぶんそれぞれの季節のお祭りを集めて組み合わせ
て,四季というフォーマットに構成するからなので
しょうね。
れた講習会である程度教えなければならないとき, (小塩)日本の四季のような。
一応,教え方というのを考えなければならない。一
(高松)結果,そこに来ている人達というのは,一年を実感
般の人を短い時間で教えなければならない場合,最
するわけだが,実感の仕方が本来と違う。水口囃子
初の鵜飼さんのやり方と野村さんのやり方というの
を現地でやっている人は「あの祭りが春にある」と
は,大分差があるのか?
いうところで一年を実感するわけだが,そこに来て
(田井)基本的に野村さんも八妙会でやっていたので,やっ
ていること自体は,それほど鵜飼さんと変わらない
と思う。それは彼も言っていた。ただ,要するにコ
いる人達は「春の祭りはこれ,夏はこれ」という形
で日本の一年はめぐると錯覚する。
(小塩)しかもそれは自分達の生活とは全く関係のない劇場
59
の中だけで感じるものだから,非常に不思議な日本
気はする。笛もある程度,年齢を重ねないとできな
の四季ができあがっている。
いことがあるように。
(高松)見せるためには,クラシックなど,よその要素をも
(田井)表情がやはりプロの表情ですよね。
ってきている。それを取り入れなかったときはどこ
(高松)私もダンスを習うときは,「顔!」と言われる。ス
で勝負するかというと,別のところになる。
コティッシュを人前で踊る時はとにかく「笑顔!」 (田井)だから,わりときっちりしているけれども,音色の
と。
(田井)それは村祭りでやっているレベルでもそうだったの
変化などはやっていない。ノリや勢いといった面を
全面的に出している。
か?上から教えていくというカリキュラムの中での
話なんだろうか?
(高松)カリキュラムの中だろうか。特にコンペの前は,顔
(高松)着るものはあれで良いのか?
(田井)現地の人達も今は法被が増えているが,本当は法被
や視線を注意される。
ではなくて,土方のような格好をする。ヤマの中で
(田井)それが評価の対象になるのか?
やっている期間が長かったから,あまり服装は関係
(高松)なる。
ないのではないだろうか。
(藤原)チアガールもそうですね。
(田井)もちろん伝統的な文脈でも,自発的に出てくる笑顔
3.報告2(藤原貞朗)
というのはあるのだろうけれど,今のはある種の規
【報告】
範として設定されているものですよね。
(1)清朝絵画における「 (倣)
」
(高松)あとアイコンタクト。日本の芸能はあまり顔で合わ
せない。
(田井)水口囃子の場合,パーツからパーツで受け渡すとき
まず,絵に書き込まれる「
」「学」という文字に注目
したい。たとえば,「営邱(李成)を学ぶ」とか「戴文進の
筆法〔に
う〕」などだ。前者では,描き手は李成のもの
に,「パッ」とバチを出すのは,地元の人達もやる。
を見たことがないはずなのに「学ぶ」とあり,後者では様
それをわらび座の人達が「面白い」ということで,
式レベルで異なるにもかかわらず「
ショー的により派手な形でやっているというか。
絵師は画帖の類を見て描いているにすぎない。
(高松)バチを出すというのは,その時々で受け渡しが変わ
るからか?
」とある。つまり,
次に,沈宗騫『芥舟学画編』巻二,乾隆四六からの引用,
「前章において『
古には必ず個性を確立せよ』といった
(田井)そうです。
のは,『古人の様式(法度)を使って自己の心情を自由に表
(高松)わらび座の人達は,決まっていても出すのか?
現せよ』の意味である。従って描くときは必ず筆法は某家
(田井)そう,そこに振り付けを感じる。
のものを,構図は某家のものを使おうと考えよ。」から考
えると,結局誰に学んでも良いことになる。
(藤原)テクニック的にはどうなのか?
また,董其昌『画禅室随筆』巻二には,「平遠形式の山
(田井)なかなか良いのではないか。
水画を描くには,宋の趙令穣を,重なる山々は江貫道を手
(藤原)やはり3,4年でマスターできるということか?
本とせよ。皺法は董源を,樹木は董源,趙孟
(田井)そこは,プロだからやれるという面もあるかもしれ
唐の李思訓と郭忠恕の法を用いよ。」とあり,「学ぶ」こと
ない。ただ,全体的にうねりや味わいはないような
60
が幅をもって理解されていることがわかる。
を,石には
20世紀に入ってからの贋作をみると,この「学ぶ」幅
すなわち,古きに学ぶということである。実景があ
を利用した次の手法がみられる。①実際に存在するものを
って,それを誰々風に描くという訳ではない。無か
そのまま写す,②まったく存在しないものをその人の様式
ら出てくるのではない。
で描く。
(高松)菅さんの和歌の話と似ている。
(藤本)
「誰々に倣った」という言葉がなければ,誰に倣っ
【質疑応答】
(高松)絵を描いている人に師匠はいるのか?
(藤原)画塾などはあったと思う。詳しくは知らないが,筆
の使い方などの基本的なところは教えると思う。
たのかということはわからないのか?
(藤原)
「誰々に倣った」という言葉があったとしても,じ
っさいには誰の模倣をしたのかは,素人目にはわか
らない。
(高松)
音楽の場合,一生,師匠との関係が密に続くのだが, (田井)しかし,タッチなどに相当するような,その人自身
絵の場合,ある程度技術を習得すれば,実在のもの
に倣っていけば良いのか?
の痕跡は残らないのか?
(藤原)宋時代の絵画であれば多少残っているが,しかし,
(藤原)それはどうだろう。画論で言っているのは先生レベ
伝説になるのは,王維などそれ以前のもので,「そ
ルでの話。全部習得した人が「さあ絵を描こう」と
の筆になる」というのは,たいてい,実物など存在
いう時の教えと思っていいと思う。ポイントは「倣
していない。すでに「倣った」ものしかない。
う」という幅広さ。この開き直り方のすごさからす
ごいオリジナリティがでてくる。
(高松)あくまでも「倣う」と書いた上で,とんでもないも
のが出てきているのか?
(田井)古代ギリシャの場合のように,古代のものを見たり
聞いたりというのはなかったのか?
(藤原)古代ギリシャの場合も,たとえば彫刻などは,たい
ていローマ時代のコピーで,オリジナルは少ない。
(藤原)そうですね。「古きに学んだら個性を確立せよ。そ
実は,古典(クラシック)というのはオリジナルがす
うでないとただの写しになってしまう。」というこ
でに失われている,消えている,といえるのではな
となのだろう。古いものを認めつつも,絶対的なも
いか。古典は完品を見ることができない,だから,
のとは見ていない。
完璧なのだろう。中国の場合も,伝説的な画人の作
(小塩)たしかに音楽でも中国の人は,変えることをそれほ
品はもはや存在していないので,存在していないも
ど厭わない。ずっと続いてきたものを,旋律の骨格
のをどう継承してきたのか。伝統というものを考え
が合っていれば自由にして変えてかまわないという
る上では重要なモデルケースとなると思う。
ところは日本とちょっと違う。そういうのと似てい
(田井)参照すべきものはたくさんあるようだが,どれをと
るのか。
るかというのは自由で,その組み合わせてオリジナ
(藤原)そもそもこのようなものを描く人達というのは,こ
リティがでてくるわけだ。日本の粉本の場合は,完
の時期になると,音楽もやっている人が多い。音楽
全にコピーしていくから,型にはまっていくという
家と同一の次元でやっている人も多い。
ことか。
(高松)しかし,「倣う」と書くのだから,何らかの形で過
去とのつながりを保ちたいという気持ちはある。
(藤原)中国の絵というのは,実写ではないので,古いもの
(藤原)そう。特に清朝の時代に歴史主義が顕著になる。何
家と何家があって,と考え始める時期に「倣う」
「学ぶ」ということが一般的になった。
を下敷きにするしかない。絵を描くということは,
61
【報告】
える人の役割を果たす…。
(2)19世紀フランスにおける装飾芸術復興運動と「図
案」の誕生
(高松)心はわからないけれども見た目が伝わっていくとい
うことか…。
1850年代に装飾芸術(陶芸,金工,木工,織物など)の
(田井)評価する際にはどこを評価するのか? 何をもって
復興運動が始まり,1870年代に国立美術学校に「装飾芸
良いとされるのか?
当時,どう評価されたのかと
術科」が設置。ここで装飾芸術を教えることが国家の課題
いうことと,今,美術史家がどう評価するかという
となった。以後,デッサン教育によって「デザイナー」が
問題があると思うが?
養成され,デザイナーは「優れた図案」を作り,その図案
(藤原)中国の古いものに関していえば,学術的にはいまだ
に基づいて職人が工芸品を作ることになり,大量生産が可
良く分かっていないものがたくさんあるので,専門
能となった。この時期に「デスクに向かう装飾家」=芸術
家でもなかなか評価することは難しい。ずっと王宮
家,デザイナーというイメージが形成される。
にあったということが確実なものや,日本に請来さ
れて確実なものは別であるが。
【報告】
(田井)しかし何らかの見る基準はあると思うが?
(3)起源(教える人)の消去によって,伝承は「伝統」 (藤原)筆法などの技術の水準は,今日的にも批評規準のひ
となる(伝統は完成する)?
とつにはなるだろう。
日本では,1930年代頃に,桃山時代の陶芸(楽,備前
(田井)いかに描いているか,ということか。
など)が復興され,日本での陶芸の「伝統」論が浮上した。 (藤原)たとえば,「気韻生動」という概念があるが,批評
しかし,興味深いことに,それ以前に,日本の陶芸がフラ
基準,カノン,という点でいえば,きわめて精神的
ンスに渡り,当地で伝統復興の機運のようなものが現れて
で曖昧なもの。音楽の評価と同じではないか。また,
いたといえなくもない。19世紀末期のカリエス派などの
そもそもそういうものを見抜くことができる人自体
フランスの陶芸家には,「日本では陶芸の伝統が途絶えて
が素晴らしい,達人とされる。
しまったらしい。ならば私たちが受け継ごう」という意識
があったようだ。たとえばジャン・カリエスやウィリア
ム・リーら(ファン・ゴッホもよく似た言葉を残している)。
(高松)
このような絵を描いた人は誰で,何のために描いて,
誰が見ていたのか?
こうした例は,「奇妙な」伝承(伝統)継承システムとして
(藤原)もちろん,職業的な画家がいて,流派もあり,王族
考察の対象としうるだろう。(もちろん,作品の質が悪い,
や貴族や,金持ちの商人などが所望する。
という問題はあるけれども。)カリエスは万博で茶碗を見
(高松)このような絵は,もとになっている絵を知っていれ
てから陶芸を始めた人。リーはイギリス人だがフランスで
活躍した陶芸家で,『陶芸
日本とフランス』
(1913)を著
ば知っているほどわかって面白いのか?
(藤原)もとになったもの自体空想なので,なんともいえな
いが,「倣」の元となった画家について知っていれ
した。
ば,それなりに面白いだろう。
【質疑応答】
(高松)清朝絵画とフランスの陶芸,いずれも直接的に「教
える人」がいないのか?
(藤原)
「いない」というか,書物や伝世のコピーなどが教
62
(高松)では,その人が描いた他の絵を知っていれば知って
いるほど楽しめるのか?
(藤原)むしろ,李成に倣ったのであれば,李成の伝世の言
葉や考え方がそこに反映されているかもしれないの
で,言葉や詩との対比のほうが,楽しむときの重要
なポイントではないかと思う。
(田井)こういうものをもとにして描いていて,いかに描い
ば,いつ頃の人に倣うのか?
(藤原)もちろん,現在でも,南画系の画家はごまんといる
だろうが,必ずしも「倣う」ということを重視して
ているかというような知識は基本的に必要ないとい
はいないだろう。日本でも画壇があるが,「倣う」
うことか?
の伝統はないのではないか。
(藤原)そう,多数の残っている画論の知識があれば,残さ
れた絵図の解釈や評価も可能だろう。
(高松)しかし,董源の「∼図」というのはないけど,董源
が作ったその他の絵はあるのでは?
(藤原)いくつかあるというか,画論などにある。オリジナ
(高松)いつ頃から「倣う」と書かなくなったのか?大きな
ことでは?
(藤原)そうですね。しかし,今はちょっとわからない。た
だ,今でも題跋は絵の中に書かれている。いい絵に
するために,これをいいと言ってくれる有名な詩人
ルは普通の人はもてない。あるとすれば王宮にある。
を探して,その人に絵を題に歌を詠んで,印を押し
作品がないのでみんな求めており,いかにも本当ら
てもらう。
しいのを添えてあれば信じてしまうという状況。本
(田井)挿絵のようだ。そちらをメインで評価するという。
当らしくみせるために,かなり伝世を複雑にしたよ
(藤原)そういう基準で評価する先生もいらっしゃる。
うだ。
(高松)大抵は絵の方が先に描かれるのか?
(小塩)伝説で聞くというときの伝説のソースも,このよう
な伝世の描かれたものなのか?
(藤原)それを利用することもあるし,いかにもありえそう
な話をつけることもある。
(高松)では,例えば李成に倣って描いた謝蘭生のような人
は,どのようにして名を残すのか?
(藤原)伝世の書物のなかに,自分の言葉を残すことで,名
が残るということもあるだろう。
(田井)詩にインスピレーションを得て,絵を描くというこ
とはないのか?
(藤原)あるだろうが,これに関しては素人なので…。
(高松)時間をかければ,たくさん色々似たような例が出て
きそうな気がする。
(藤原)
逆に言えば,例えば王維の絵が現に存在していれば,
こんな伝統は成立しなかっただろう。起源が即物的
には存在しない,ということがすごく大事だと思う。
(小塩)
「李成の画は見ることができない」
という言葉ですね。
先ほどの囃子なら,あれがカノンになってしまった
(田井)作品よりもこちらで残す。
ら,かえって衰退してしまうのでは。
(藤原)実際,清朝の画家の名前は全然残ってない。
(田井)これだと技術があればいいということになる。極論
(高松)カノンになったら,コンペをやらないとダメ。アイ
すれば,ネタはもうみんなが共有しているので,あ
リッシュ・ダンスの場合はそうで,装飾芸術の話に
とは組み合わせと技術ということになるのでは。
非常によく似ている。作ってしまって,上手い人が
(藤原)そう。史実で,いかにもありそうで,意味もあって
いれば。それ以上わかりようがない。
(田井)いかに書き込むかというのが,評価されるわけか。
全国に広めろと。
(田井)規則力とかではなく,工場で作るための話だったの
か。
(藤原)そう。だから,長い間,今日的な意味での,「デザ
(高松)このような清朝の絵画というのは,現在にも何らか
イナー」にあたる言葉はなかった。フランス語には
の形で受け継がれているのか? また,倣うとすれ
いまもなく,英語のデザイナーをそのまま使ってい
63
る。言葉がないということは,それまで存在しなか
ルが始まったかと言うと,ロンドン。出稼ぎにいっ
った職業ということ。
て,ロンドンに住み着いたスコットランド人がとい
(田井)逆にやってみて,日本の美術学校のように,基礎教
育になっていくということもあるのか?
(藤原)日本の美術学校は,19世紀末期のヨーロッパで成
うもの。
(藤本)東洋音楽学会の時の塚田先生のエイサーの話に似て
いる。
立した近代的なデザイナー養成の教育システムを導
(小塩)名古屋近郊に出稼ぎにいった沖縄の人達がエイサー
入したわけで,そのシステムで,専門的な図案家と
をやって,それを沖縄にもってかえってきて新しい
いう職業が生まれた。
様式が生まれたという話だった。
(高松)図案を作る人は図案だけを作るのか?
(藤原)そう。
(田井)たとえば,エミール・ガレは自分で製作していたの
か?
(藤原)ガレは自分で全然やっていないと思う。もともと陶
器工房の息子として生まれたので,当初は,作陶も
(田井)さきほどの桃山陶芸というのは,日本というよりも
この人達が見いだすということなのか?
(藤原)大げさに言えばそう。
(田井)そして日本でも再評価されていくのか?
(藤原)桃山陶芸のブームに限っては,逆輸入ではないが,
逆輸入パターンは多い。
したかもしれないが,大勢の職人をかかえていた。 (田井)ウィリアム・リーなどは日本の陶芸のどのようなと
19世紀半ばまでの工房では,基本的なデザインも
ころに惚れたのか?このフランスの収集家たちはど
なく作っていたので,できるものにかなりムラがあ
のようなところに魅力を感じているのだろうか?
り,レベルもあがらない。一方,高級品は,芸術家
(藤原)フランスにも,フランスの伝統工芸というのがあっ
が作っていて,できるものはといえば,大衆志向で
て,実は,日本の陶器にも似ていたりする。日本人
はなくて,芸術品。その中間にあたるものを作ろう
はついジャポニスムという観点からだけで見てしま
としたときに,デザインという考え方ができた。フ
うが,フランス的と言える側面もある。根元的なも
ァッションでも,プレタポルテの世界になって,優
の,プリミティヴなものへの興味があったといえる。
秀なデザイナーが必要になった。ガレは微妙で,有
また,現在で言えば欧米で大流行の楽焼。欧米には,
名なのは,一点物の,ようするに芸術的なものであ
楽焼をしていると自認する陶芸家やアマチュアがた
り,デザイナーとしての彼の役割は,結局,中途半
くさんいる。とにかく,彼らは日本的な芸術的焼き
端で,工業デザイナーとしては,成功しなかったと
物のことをRAKUと呼んで,独特の陶芸を展開して
いえる。
いる。日本人は,こうしたものを全然評価していな
いが,こういうものをどう歴史的に位置づけ,美的
(高松)そして報告の3つめの事例になると,完全に起源は
消えてしまい,伝承がまた地理的にも遠く離れたと
観点から評価するのか,ということは,これからの
課題として必要だと思う。
ころにいく。
(藤原)そう。結局,伝統というのは,よその国にいってし
まうと,伝統と言われなくなってしまう。これはち
ょっとおかしい,というか問題ではなかろうか。
(高松)スコティッシュダンスの場合は,どこからリバイバ
64
4.イベントおよび今後の予定の検討
企画1:2006年2月に,筝曲演奏家の米川裕枝さんをゲ
ストにレクチャー・コンサート(聞き手は小塩さ
とみ)
企画2:2006年3月に,歌人の阿木津英さんをゲストに
講演会(聞き手は菅聡子)
2月レクチャー・コンサート翌日に,反省会と研究会。
65
第7回研究会 筝曲イベントを振り返る/教える・伝える その3
<日時>2006年2月19日
(日)10:00∼12:00
線が引けるものではないが,お箏の場合は,明治新
<場所>聖徳大学2号館研修室
曲のあたりまでを古典とするのが一般的だろう。つ
<出席者>岡田裕成,小塩さとみ,田井竜一,高松晃子,
まり,検校制度の中で生まれ育ってきた音楽と,そ
藤原貞朗,藤本寛子(研究補助)
<スケジュール>
の後,一般の人もお箏を演奏会などで演奏するよう
になって生まれてきた曲との間に,境界線はあるだ
1.音楽イベントを振り返る
ろう。しかし,レパートリーは流派によって異なる
2.報告
(岡田)
し,個人によっても境界線は動くかもしれない。宮
3.今後の予定の検討
城会の人達なら,宮城道雄の作品は古典の方に入れ
るかもしれないというように。
1.筝曲イベントを振り返る
(高松)2006年2月18日に,米川裕枝さんをお招きしたレ
(藤原)実際に「古典」や「現代曲」というような言葉遣い
をしているのか?
クチャー・コンサートが無事終了しました。聞き手
(小塩)
「古典」という言葉はよく使う。
を務めてくださった小塩さん,お疲れ様でした。こ
(岡田)いつごろから使い始めたのか?今の我々は明治くら
こで話しておきたいことはありますか?
(小塩)ひとつのポイントは,伝承者の頭の中では,古典と
現代が我々が考えるほど明確に線引きされていない
ということ。ただし,裕枝さんの場合は,お母さん
の敏子さんが,古典曲と現代曲をあまり区別しない
いで線を引いているが,明治の人もどこかで線を引
いていたのか引いていなかったのか?
(田井)昨日の曲も,幕末近くの人にとっては新しいものだ
ったと裕枝さんが言っていた。
(小塩)
明治新曲も当時はたいへん斬新だったと思う。一方,
人だったということもおそらく関係しているだろ
例えば沢井忠夫のように現代的な作品を多く作った
う。
人の流派に属する人達は,それより前のものについ
(田井)独特の自由なところがあったというのは,ある種特
殊な事なのかもしれない。
ては,全部古いと思っているだろう。
(田井)そうすると,この前も少し話題に出たが,60年代
(小塩)それから,4番目に質問した男性のように,箏曲に
にいわゆる現代邦楽が出てきて,西洋派の人達が邦
親しみのない人達が,箏の音楽にどういうイメージ
楽器を使って現代邦楽というネーミングのもと,毎
をもっていて,昨日のような場面ではどのような反
週作品をNHKで放送するというようなことがあっ
応をするのかということも興味深い点であった。ま
た。その頃,新しい奏法や西洋楽器の奏法が取り入
た,これはどのような世界でもあることだと思うが,
れられていくようになったことが,いわゆる現代も
裕枝さん自身が「話をした後に弾いたら意外と古典
の,古典ものという意識が鮮明に出てくるようにな
的だったのね」とおっしゃっていたような点をどう
った要因と言えないだろうか。敏子さんもそうだが,
とらえていくか。聞き出してしまうのがいいのかど
コラボレーションや新しいこと,特に異分野の人と
うなのか,難しいところだ。
交流するというのは,その頃からなのではないか。
(小塩)しかし,それも遡れば,宮城道雄も同じだ。そうい
(藤原)基本的な質問だが,古典と現代はどのあたりで線が
引かれるのか?
(小塩)基本的に,流れとしてあるもので,どこかで明確に
66
う意味で線引きができない。
(田井)それ以前と比べれば,明治以降の展開が大きいこと
は確か。
(小塩)ただ,それも時代と社会制度が変わったということ
とからめて,大きな変化とみんなが感じているだけ
合は常に戻れるものがある。
(藤原)しかし,音楽の方では音楽の方の訳語から使ってい
なのかどうなのかも考えなければならない。
るのだろうが,邦楽の方にもそういうカノンみたい
(高松)あと,楽器を改良するとか調弦を変えるといった劇
なものはないのか?ヨーロッパ音楽の平均律のよう
的な変化が何回かあったが,それが本質的な部分に
どれだけ影響力をもつかというところがポイントだ
と思う。いくら楽器が変わっても,調弦法が変わら
に。
(田井)
日本の場合,色々な流派が並行的に進んでいるから,
トータルにというものはないのでは。
なければ手つきは変わらないので,同じような音型
(小塩)トータルに当てはまるものはない。
ができやすい。しかし,同じ楽器でも調弦を変えて
(藤原)しかし,素人耳でも,流派などはわからないが,一
しまうと同じ手つきをしても違う音が鳴るわけだか
定の旋律というのがあってというふうに聞こえる
ら,身体操作をまったく変えなければならない。弦
が。
を増やして音域を広げるというのは,それほど根本
的なものでもない。
(小塩)むしろ調弦法を変えて身体感覚がなくなってしまう
ということの影響は大きい。
(高松)だから,その時代時代によって,どこが古典でどこ
が現代という線引きはあるかもしれないが,今,私
たちがふりかえってみて,どの時点での変革がすご
く大きなものだったのかということが重要。
(田井)それぞれのジャンルに限って言えば,多少そういう
ことは言えるだろうか?
(小塩)そのように考えたことがなかったので…。
(田井)例えば清元ならどうなのか,常磐津ならどうなのか
ということを考えても,あまり明確には思い浮かば
ない。始祖に戻っているわけでもない。
(小塩)始祖として名前が言及されるということであれば,
義太夫節の竹本義太夫や,箏曲では八橋検校がいる
が,長唄で音楽的始祖と言われても,まったく思い
(岡田)その古典という言葉遣いに関して言うと,美術で古
典という言葉が使われ始めたのは,ヨーロッパ美術
つかない。
(田井)色々な名人を排出して展開していったというところ
なのだが,その古典は変わらないもの。その時代か
があるのか?
らこの範囲に変わったとか,比喩的には言い得るけ
(小塩)そうですね。
れども,やはり厳密に古典は何かと言われると,
20世紀でも16世紀でもギリシャ・ローマ。しかし, (高松)
「 古典」という言葉は誰が使い始めたのだろうか。
日本語に入ってきて,翻訳語になった古典というの
やっている人達ではないのでは?
は,そこで果たしている機能,レファレンスがちょ
(小塩)おそらく研究者のような気がする。
っと違う。古くなって規範ができてきたものを,と
(田井)
「現代邦楽」などが出てきたときに,対応するもの
りあえず古典と呼んでいる。
(田井)八橋検校などはカノンに成り得ているのだろうか?
一応,そういう面もあるような気がするが。
(小塩)音楽スタイルとしてのカノンではなくて,伝説上の
イメージという感じだとは思う。
(田井)そこのところが美術と違うのではないか。美術の場
として使われるようになった側面が大きいのではな
いか。すべてが古典なら古典と言う必要がないわけ
だから。
(小塩)そうかもしれない。調べてみたい。
(田井)面白かったのは,創作するときには伝統とか何とか
よりも,どういうメロディーにするかというのがま
67
ずあって,結果的に古典的な要素が強く出たとか,
逆に古典以外の要素が出てくるという話だ。創作の
は感じとれた。
(小塩)再演してもらえるのはとても嬉しいようだ。
「月彩」
立場にたったとき,何とか法などからは超越したレ
が日本舞踊になったというのも,ご本人はすごく喜
ベルでやっているというのが興味深かった。
んでいらした。
(岡田)あれもあの人のキャラクターなのか,一般的にそう
なのかというのはちょっと微妙なのかなと思う。
(田井)以前,現代邦楽のところで話題になったけれども,
初演1回だけという作品が圧倒的に多い。
(田井)
案外,創作者は「こうやってやろう」とは考えずに, (小塩)再演のときに,初演のときとは違った編成になって
むしろあのようなイメージからくるのかなという気
も,それを受け入れても上演したいという気持ちは
もしたが。
あるようだ。
(高松)あれも言葉の使いようで,「古典的な手が」と言っ
てしまうと「そうかな」と思うが,あれは「古典的
な手」と言っていいのだろうか。自分が慣れ親しん
(田井)作曲家の廣瀬量平は「1音符たりともさわってもら
っては困る」という。
(高松)近藤譲は違うかも。音によっては「これでもこれで
できた手つきという感じでは?
もいいんだ」と言うのを聞いたことがある。「作曲
(小塩)古典曲にも出てくるからそう呼ぶが。
家はすごく厳格で,ここに固定したら変えてはいけ
(高松)唱歌で呼べてしまう部分と,呼べない部分という感
ないと思われるかもしれないが,僕は…」という感
じだろうか。[富山]清隆さん(現・富山清琴氏)に聞
いてみると,全然違うことが返ってくるのかもしれ
ないが。
(小塩)明日,彼の新作を聴きに行くので,それも聴いた上
で,また考えてみたい。
じ。
(小塩)しかし,その近藤先生でもここは変えてもらっては
困るというところはあるのでは?
(高松)そう。意外とうろ覚えのところと密度濃くここは絶
対というところがあると思う。
(田井)全く違う立場の箏の人を呼んで,同じようなことを
(田井)どこまで逸脱していいのかという問題につながる。
ぶつけてみて,反応がどう違うかとやってみるのも
(小塩)楽譜ではどこまで変えていいのかわからないという
面白いかもしれない。
(高松)あともうひとつ面白かったのは,新作を作ってそれ
ところが問題。
(高松)
あとは衣装問題か。演奏会終了後のインタビューで,
が楽譜などの形で自分の手を離れた時に,いい曲に
洋服よりも着物で演奏するほうが好ましいという話
なるなら音を変えてくれてもかまわないというこ
が出た。たとえば,袖の扱いを考えてひとつ間がで
と。
きる,など,衣装が演奏に影響するそうだ。
(小塩)いい曲になるなら,というのがポイント。
(田井)あれは面白かった。セッティングもそう。毛氈とか
(岡田)そのあたりはわからない。
金屏風とかが大きな役割を果たしているということ
(高松)いい曲というのがどういうことなのかということも
もわかった。
ある。
(小塩)自分にとってのいい曲は自分が作ったものだろうか
ら。
(田井)ただ,わりとオープンなスタンスであるということ
68
(高松)単なるふれこみの技術ではなくて,演奏者の身体の
使い方に影響を与えるわけだ。
(田井)それから,受け手の印象もかなりそれに規定されて
いるという話が出た。ジーパンでやるのと和服でや
るのとでは違うと。
アカデミーの参照先は「古典(ギリシャ・ローマ)」であ
(藤原)男の人は羽織袴なのか?
る。古典は,西洋美術においては固定された存在で,批判
(小塩)一番正式なのは羽織袴で,羽織がなくて,袴だけと
がオープンであり,普遍性のふれこみとともに存在するカ
いうこともある。夏でラフな演奏の場だと,袴をつ
ノンであるため,個人で独占することは不可能になった。
けないということもあるが,正式には羽織袴。
普遍性を理解するためには知的でなければならない。「模
倣」するだけでは同じものしかできないため「判断」が必
2.報告
(岡田裕成)
【報告】
「教える・伝える」:ギルド・モデル(近世スペインの事
例)
(1)17世紀セビーリャの「聖像画家 printor de imaginería」のギルド
要になる。たとえば,ミケランジェロが「目の判断」を重
視した背景にはこのような考え方がある。また,「デッサ
ン力の上に成り立つデフォルメ」というピカソ評がよくあ
るが,これは,彼の作品が規範に基づいた納得できる「革
新」であると考えられていることのあらわれで,「革新」
と呼ばれないアフリカンアートと対照的である。
16∼18世紀ごろの話(中世のギルドと近世のギルドを
同様に論じられるかは不明であるが)。ギルドとは,徒弟
【質疑応答】
から職人,マエストロとつながる教育制度で,職業運営と
(田井)ギルドというのは職業集団,血縁を超越したものと
も重なっていた。基本は家族主義である。それには,たと
いうイメージがあったが,まさに血縁でというのが
えば,道具や版画のコレクション(お手本帳)などを相続で
新鮮だった。
きるといった,実質的な利点があった。手本を相続するこ
(岡田)フランスでもそうだった。フランスの場合は,マエ
とは,マーケット(顧客)を相続することになり,たいへん
ストロの子どもは自動的にマエストロになれる規程
効率的だったのである。17世紀のセビーリャの人口12,3
もあった。スペインは文字にはなっていないが,現
万人のうち30人くらいがマエストロで,家族主義を維持
実はそうだった。
するために婿をとることもあった。顧客である教会は,必
(田井)
確かに顧客リストなどを伝えていこうと思ったとき,
ずしも美術の専門家ではないため,注文方法は「慣習のと
家族主義を使うと確実性は高い。可能性のある人が
おり作りなさい」。慣習を知っているのはお手本帳を持っ
ふらりと来ても,入れてもらえる可能性が低いとい
ている人々,すなわち代々のマエストロということになる。
う…。
実際の作業や経営は,家族だけでは機能しないので,ギル
(岡田)低いですね。
ドという形で共同体を形成して親戚で行う。ギルド制度は, (藤原)実際,血縁といっても色々あるのでは。養子なども
近世においては,アカデミーとも共存した。
結構多いのではないか。実際に血がつながっている
かどうかの感覚は現代の人とは全然違うだろう。
(2)「人文主義モデル」とアカデミー
人文主義モデルとは,ルネサンス頃に出現した考え方で,
(田井)システムとしての血縁関係を維持していくというこ
との方が大事なのかもしれない。
美術芸術を知的な活動としてとらえようとするもの。背後
(藤原)そちらの方が大事だと思う。限られた家族というよ
にアカデミーという存在があったが,ギルド的な部分も認
り,地方の教会と一体化している感じでとらえた方
められる。アカデミーとギルドの大きな違いは,家族主義
がいいだろう。みんな教会を愛するように,その地
から脱却し,パブリックな性格を帯びたことだろう。
方の人達はその絵を愛しているわけで。
69
(岡田)本当の意味での狭い血縁ではないかもしれないが,
リャ派に対して「伝統的」といった言葉を使ってし
家族という形でまとまることは実質的に有利にはた
ばしば議論されるかというと,あまりされないから
らいた。教会の仕事は大きかったので,組んでやら
だ。これは次元が別で,例の西洋美術史でtradition
なければならないから。共同請負の団体を作れなけ
という言葉をあまり使わないというところにつなが
れば,契約の対象として選ばれない。つねに共同で
っていくのだが,言われるのはconventionやcon-
きる工房集団というのは安定的に作っておく必要性
servativeなという形。自分の文化についてtradition
があった。血縁にあまりこだわるべきではないのか
という言葉をあまり言わない。
もしれないが,養子にはしており,まったく関係な
しに継がせるということはない。自分の血縁という
のは動機付けとして大きかったと思う。
(藤原)絵は今よりもっと高価なものだった。現在では,宝
(高松)18世紀にギルドが弱った後の聖像画家たちは,ギ
ルドを離れて,脈々とconventionalなことをやって
いたのか?
石商が家系でつづいていくようなイメージだろう。
(岡田)基本的には教会の時代ではなくなって,需要がなく
(岡田)医者や政治家もそうかもしれない。人文主義モデル
なっていく。今でもセビーリャなどには子孫がいる
はその独占物の有り様を変えたと言いたい。
が,それはもうギルドという組織ではなくなってい
る。アーティストではない職人として,17世紀と
(藤原)アカデミーは結果的にえらくなってしまったが,
同じ道具を使って活動している。
18世紀くらいまではそうでもない。ギルドよりも
(高松)同じ構図で?
人数は少ないし,さらに小さな集団と言える。イタ
(岡田)あまり絵は描かない。今,需要があるのは彫刻の方
リア以外はアカデミーというとイタリア主義なの
なので,そちらでやっている人はいる。今でも17
で,その観点が強い意味を持っていたのだと思う。
世紀スタイルの聖像行列などをセビーリャではやる
アカデミーは外との交流がすごく大きい。
ので,壊れたら修復しなければならないし,新しい
(田井)イタリア主義というのは何を標榜していくのか?古
ものも作る。ただ,それにはギルドを作るといった
典を賞賛していくというようなところから出ている
のか?
レベルの社会的なボリュームはもうない。
(田井)やはり世襲的なのか?
(岡田)イタリア主義の中には古典が入っているので,やは
(岡田)そのへんはどうなのか…。世襲のような気がする。
りギリシャ・ローマ。それが普遍的価値をもつとヨ
(高松)一応「慣習の通り作る」という志は受け継がれてい
ーロッパで信じられていたので,みんなイタリアに
るということか。
行き,イタリア人を呼ぶ。イタリアは地域的なもの
(藤原)聖像に限るとそうかもしれないが,風景とか静物が
としてはとらえられていなかったのではないか。む
得意なギルドもあるので,conventionは宗教主題
しろ,ヨーロッパの母体みたいな形だ。
に限られると思う。このモデルがよくできていると
(藤原)アカデミーはそもそも外との交流を前提としている
思うのは,18世紀以降,ギルドが弱まっていく頃
ようなところもある。また,子どもについてはあま
にアカデミーが力を持ってゆくという構造が対比的
り考えたことはないが,有名なアカデミー画家の子
に浮び上がる点にあるだろう。たとえば,印象派な
どもが何をしているのかよくわからない。
どは時代は異なるが,アカデミー中心時代に出てき
(岡田)レジュメに「伝統??」と書いたのは,このセビー
たギルドみたいなもの,といってよいかもしれない。
70
(高松)アカデミー出の人達が,ギルドの人達がやってきた
家という,うまく棲み分けができている部分もあっ
ことを脅かすような聖像画を描くとか,教会の仕事
た。そこでやっている限りはもめ事はおこらないが,
を請け負うということは生じたのか?
教会の方に出てきてしまうと,ギルドの方は既得権
(岡田)18世紀くらいには,結構軋轢がある。ギルドの承
を守るために反応するというケースがある。
認を得ていない画家は,本来,教会の仕事を請け負
うことができない。その人達は王様の勅許状をもら
(田井)先程のデッサンの話だが,この前,藤原さんの話に
ったり,市役所の市議会みたいのから許可証のよう
も出たが,現在の芸術大学でもデッサンは大事だと
なものをもらったりして,活動を始める。フランス
言う。デッサンの重要性というのはどのあたりから
などでは明確に教会の仕事は請け負ってはいけない
なのか?アカデミーの中からの話なのか?
となっていたが,場合によっては請け負ったため, (岡田)人文主義モデルの中核だろう。
裁判沙汰になり,せめぎ合いがあった。
(藤原)デッサンというと広くなるが,要するに古代彫刻の
(高松)アカデミー出の人が描いた絵とギルド出の人が描い
模倣のためのデッサン。ギリシャの裸体の絵を描け
ないと,絵は描けない。このデッサン神話の効力は
た絵というのは似ているのか?
(岡田)一概に言い切れない部分があるのと,個別の事例で
絶大で,解体されるのは,ようやく最近になってき
思いつかないというのはあるが,結構違う
てからのことといえるだろう。大げさにいえば,こ
という
ケースはあるだろう。
(田井)時代の展開の中での新しさを,アカデミーは持って
いたということなのか?
(岡田)そうですね。アカデミーとは言えないかもしれない
の神話の残存が,20世紀美術における具象の停滞
の大きな原因といえると思う。
(高松)先程のデッサンとアフリカンアートの話だが,アフ
リカンアートの評価のされ方というのは,アフリカ
が,グレコはギルド社会の外からスペインに来る。
ンアートとして評価するのではなく,西洋のデッサ
この人が描いた絵というのは,当時スペインにあっ
ン力というところからスタートして,評価されがち
た絵とは全く違う。その一方で,ギルド外の人でも,
なのか?アフリカンアートは新しいことができない
ある程度慣習を受け取ってというか,見て描いてい
という根拠は何か?
た人もいるだろうと思う。ケースによってちょっと
幅があるかもしれない。
(藤原)アカデミーの人は初期は変な絵ばかり描いている。
(岡田)アフリカンアート自体の評価は,結局「伝統」とし
てしか評価されない。それは変化していくものとし
て評価されているわけでなくて,西洋が思いもつか
特定のパトロンのための人文主義的な絵(たとえば
ないものがここにある,また珍しいものがあるとし
プッサン)。明らかにギルドが作るようなたぐいの
かなかなか評価されていない。
ものではない。王宮などの上の方からギルドに注文
はあったのか?
(岡田)あまりないのでは。どちらかというと,宮廷社会側
(田井)先程の話は,むしろピカソの評価をするときに,背
後にデッサンがあるということが評価の基準になっ
ているということが大事なのではないか。
の人達,フランスが特にはっきりしているが,ギル
(岡田)ピカソに関しては。20世紀初頭の時点で,明らか
ドをある種疎外していく傾向は明らかにある。ギル
に芸術として評価されたのはアフリカンアートをも
ドは教会相手に街でやっている画家,アカデミー系
とにしたピカソ。アフリカンアートの方は,アート
の人は難解な絵を描いて,宮廷とかでやっている画
としてはきちんと評価されていなかったのではない
71
か。そこに今日のデッサンの話をからめると,ピカ
のような作曲の一方で,すごく和声ができるという
ソはデッサン力もあって,技術的デフォルメとして
話は聞いたことがない。
アフリカンアート的なものを表現しているので,芸
(岡田)音楽における規範は何だろうかというところ。先程
術的価値がある。それに対して,アフリカンアート
の古典の話ではないが,いわゆる古典派が古典なの
は,当時の人がいっていたわけではないが,デッサ
かということ。西洋美術史で言っているように機能
ン力がない,要件を満たしていないもの。民族的に
しているのかどうか。
作られてきただけの何かであって,ヨーロッパ人の
用語で言うと,まさにtraditionの領域で,面白い
traditionとしては評価された。
(藤原)
「 ピカソもデッサン力がある」とよく言われるが,
専門家,大学の人や画廊の言い分でしかない。
(高松)音楽でそのような言い方をするだろうか?
(田井)ひとつ確認しておきたいのは,デッサン力というの
(小塩)大学で作曲を勉強するというときは,それらを一通
が,藤原さんのおっしゃるように技術としてはあっ
りやって,卒業作品でいきなり違うものを書く人は
た方がいいものとして,実体をもっていたのか?イ
いる。
メージやイデオロギーとしてのものなのか?
(岡田)ヨーロッパにおいては,デッサン力というのはかな
(田井)ある種,和声法や対位法というのは,西洋音楽の中
ではカノンに近いのでは。
り明確にあると思う。それは見たらわかり,実体は
(小塩)それが芸術と結びつくという構想自体はそうかもし
ある。それは古典的な意味でのデッサン力で,要す
れない。作曲を志す人は,最初に,バッハのフラン
るに人体の構造とかをしっかりとらえて,線と陰影
ス組曲やイギリス組曲に似た曲を書くことから始め
で表現する特殊な技能。それがないと美術ができな
ると聞いたことがある。
いかというと,もっと原点に戻ってみると,そんな
ことはない。
(田井)人文主義モデルでやろうとするとそれが必要で,そ
れ以外の方法をとるなら,必ずしも前提ではないと
いうことか?
(岡田)先程の日本の場合の「古典」と,今の西洋音楽での
「古典」とやはり使い方がちがう。
(小塩)規範がオープンな形で公開されているのか,conventionalなものとして存在しているのかという違
(岡田)人文主義モデルというのは,そういうものなしに美
いは,西洋の芸術音楽と日本の芸能を,同じ芸術と
術はできないという大前提をどこかでたてた。そこ
して扱えるのかという議論において必ず出てくるこ
に本当の意味での合理的根拠は全然なかっただろう
と。規範を明らかにできない日本の古典に対して,
が,とにかくたててしまった。そこから美術は出発
「だから芸術ではない」との批判があらわれたとき
するんだというのが,ルネサンスの理念としてある。
に,「伝統」や「古典」という言葉を使って対抗し
(藤原)妙ですよね。そういう目ができてしまうと,デッサ
ンのない絵は認めないという。そういう判断はそも
そもアカデミーのモデルとしてできてくるので,ギ
ルドの作品は下手としか見えない。現実的に,僕た
ようとしていると考えることもできるかもしれな
い。
(田井)西洋美術と音楽は,そういう意味で,創作のレベル
では親近性があるかもしれないね。
ちにもそういう目ができてしまっている。しかし, (岡田)
「古典」と言いながら,実際には線をひけないとい
音楽もそうなのでは。
(高松)今,それを考えていたのだが,ジョン・ケージはあ
72
うのは,それは言い換えているだけで,実体はギル
ド・モデルの慣習的手本のシステムをやっていると
いうこと。慣習的手本というのは,ある集団の中で,
これが正しいと思われている漠然とした領域。
ある意味正当化でもある。そこから離れようとして,
「革新」や「アヴァンギャルド」と言えるのは,ど
(小塩)それは受け継がれてきているからこそ正しい。その
こかにカノンを設定しているからなのではないか。
財産として受け継がれるというのは,まさしく当て
(藤原)ただやはり古典としてあるものは,現実には存在し
はまる。
ていない,理念的なものにすぎない,という点が重
要だろう。古代ギリシャを直接参照しているのでは
(田井)アカデミーというのは一般人でも参画可能で,ギル
ドは基本的には入れないのか?
なく,たとえば,ラファエロを経由しているから,
あるときはラファエロ風の絵がカノンとなる。次の
(岡田)マエストロになるには,やはり婿になるか,子ども
時代には,たとえばダヴィッドがカノンとなる。古
でないと難しい。しかし,どちらかというと庶民的
典を謳いながら,出来てくるものは随分と違う。そ
なもの。アカデミーの方は,次第にある社会階層に
れぞれの「古典」様式は一時代特有の世代的なもの
偏っていく。
といえる。古典主義,新古典主義,ネオ・クラシシ
(藤原)もともと美術学校自体,普通の人は行けない。
スムと様々に名を変えて,美術史上に古典という概
(田井)ただ,そういう意味では,参入可能な面もあり,そ
念が登場する事実がその例証だろう。保守的な側と
こに入ってしまえばオープンで,常にカノンが供給
されるのではないか?
(岡田)理念としては。しかし,高いところで結びついてい
る社会だから,実際にそんなに自由競争が可能かは
わからない。
(藤原)アカデミー内部では,それほど様式なども受け継が
れないのでは。
(岡田)アカデミーは様式伝達組織としては弱いと思う。そ
れはやはりカノンを一般化したから。
(藤原)カノンは古典であって,古典主義は変わっていくと
いうパターンか。
いうのは,想像に反して,かなり変化している。
(岡田)ある意味,アカデミーシステム自体は本質的には保
守的じゃないと思う。ただ,例の近代美術の出現で,
保守側を演じることになってしまった。
(田井)権威主義という言説も聞くが,そのあたりはどうな
のか?
(岡田)保守派を演じたときに彼らのバックにあったのが古
典の権威であり,またある時期,王制と結びついて
いたこともあったため権威を背負っている。そのあ
たりでイメージがちょっと偏ってしまったのだろ
う。アカデミーシステム自体はそれほど保守的なシ
(岡田)古典に対して,「判断」や「革新」と言っていける
ステムではない。人文主義モデルというのは,むし
から。伝承モデルはそれが言いにくい。規範がある
ろ進歩主義で,20世紀美術が人文主義の極限だと
と主張していないわりには,伝達力が強い。しかし,
いうのは,進歩主義をつきつめたみたいなものだか
普遍化,一般化してしまったカノンというのは,そ
ら。ギルド・モデルはむしろ変化をおさえるモデル
れひとつしかないわけだから,それを守っていたら,
で,ある幅の中でゆるやかにしか変えないことを保
みんな永遠に同じことしかできないということに陥
証する。
ってしまう。だから,ミケランジェロは「目の判断」
ということを盛んに言わなければならなかったし, (高松)ギルドの方はきっちり手本があり,それは模倣して
そうしないと彼もコピーしか作れない。意識して言
変化を抑制していくパターンで,アカデミーの方は
ったわけではないだろうが,違うことをやるために,
どんどん変化していこうということだが,前回の研
73
究会の,中国の絵画の話に戻ってみよう。手本がな
いのに「倣う」と書いてあるものが受け継がれてい
くシステムでは,あの中から「革新」は生まれるの
か?
(藤原)
「 革新」というか,みんな独創性を目指している。
中国の場合,アカデミーに近い意識の人が,書き物
を残して,色々な資料集を作っていく。そういうも
のをもとにして描いていく人達というのは,「誰々
に倣ったので独創だ」と書いている。
(高松)いちいち革新の手続きを曖昧ながらも明らかにしつ
つ,手の内を見せながら,こんなにも変われるんだ
と言うわけか。
(藤原)何もないところからは生まれないという点は,西洋
とは違う。中国の場合,自然を前にして絵は生まれ
ないと考えている。絵は絵から生まれ,自然の描写
が絵ではない。見ないで描けるのがベスト。写すと
いっても模写をするわけではない。
(高松)昨日の筝曲のイベントともつながりそうだ。
(藤原)ギルドは結構普遍的というか,世界的な形。
(岡田)それはやはり家族主義だからだと思う。どんな社会
でも,自分の血縁に利益をまわしていきたいという
欲求はあると思う。そこにうまく利害としての芸術
資本をのせていったので,日本でもどこでも共通し
やすいのではないか。
(藤原)逆に言えば,アカデミーや人文主義モデルができた
ことが,西洋を西洋たらしめている。
(岡田)だから,古典というのが日本で使っている意味と違
うというのは明らかで,この意味での古典というの
はヨーロッパにしかない。こういう形でカノンを設
定した文化というのは,西洋の特殊性。
(田井)昨日のイベントでの「古典」というのは,ギルドで
いう「手本」に近いものではないだろうか。
3.今後の予定の検討
(省略)
74
論文と公開イベントの記録
1.箏曲をめぐって
箏曲における伝承と創造
小塩
さとみ
り響く感じがする。この曲は,宮城道雄(1894-1956)が
1.伝統音楽としての箏曲のイメージ
大学の「日本音楽史」の授業で箏の曲を聞くと「正月の
1929(昭和4)年に作曲したもので,宮城が春の瀬戸内海
音楽というイメージがある」とこたえる学生が多い。身近
を舟で通った時の印象にヒントを得て作られたと言われて
に箏を習っている家族や友人がいる場合を別にすれば,箏
いる。17世紀に始まるとされる近世箏曲の流れの中で見
の音を聞く機会は確かに正月がもっとも多いだろう。テレ
れば新しい曲の部類に入るこの曲は,冒頭部分が曲の最後
ビやラジオの番組やコマーシャルの音楽として,あるいは
にもう一度繰り返されるA−B−Aという三部形式をとって
スーパーや百貨店でのBGMとして,箏や三味線の旋律が
いること,尺八が主旋律を奏し,箏がそれを伴奏するとい
「日本らしさ」や「正月らしさ」を演出するのは,12月に
う旋律の分担方法,弦を左手の指ではじくピッチカート奏
入ると(最近ではもっと早いかもしれない)クリスマス音楽
法や重音の多用など,西洋音楽の影響を色濃く受けて作ら
が町に流れるのと,一見似ているように思える。しかし,
れている。それにも関わらず,多くの日本人にとって,こ
クリスマス音楽は,その曲の歌詞や作曲背景がクリスマス
の旋律が「伝統的」もしくは「日本的」な雰囲気を感じさ
と関連しているからその時期に流されるのであって,それ
せてくれるというのはなぜなのだろうか。
ぞれの曲の属するジャンルの音楽は他の時期にも耳にする
渡辺裕は著書『日本文化モダン・ラプソディー』の中で,
ことができる。ところが,正月に聞く日本の音楽の場合,
この≪春の海≫のイメージの問題を取り上げ,「日本の伝
耳にする曲がかなり限定されている上に,それらが本来
統のありようを反省してみるとき,われわれはそこに歴史
「正月用」に作られた曲,あるいは正月と何か関連をもつ
的コンテクストが奇妙に欠落していることを感じないわけ
曲というわけではない。しかも,これ以外の時期に同じジ
にはいかない」と述べた上で,≪春の海≫のイメージや意
ャンルの他の曲を聞く機会もほとんどないために,音楽の
味が,作曲当時と現代とで大きく異なっていると指摘して
内容やその曲のもつ音楽的背景が検討されることもなく,
いる(渡辺
正月にのみ聞こえてくる箏曲は,そのまま「正月の」そし
ランスの女性ヴァイオリニスト,ルネ・シュメーが,この
て「日本の伝統的な」音楽というイメージと結びついて,
曲の尺八パートをヴァイオリン用に編曲し,宮城道雄と共
多くの人々の間に定着しているのであろう。
演したこと,そしてその演奏が日本人に好意的に受け入れ
2002:38)。1932(昭和7)年に来日したフ
正月に聞こえてくる箏曲の中でもっとも有名な曲は≪春
られたことに対して,渡辺は「われわれには,≪春の海≫
の海≫である。曲名を知らなくても,箏がアルペジオ風の
は日本音楽の名曲という固定観念がある。それゆえ,ヴァ
フレーズを2回繰り返した後に,尺八が主旋律の演奏を始
イオリンによる編曲はその名曲を洋楽器を用いる形に書き
めるこの曲の冒頭部分
(譜例1)
を聞けば,
「ああ,この曲か」
直したものという位置づけになり,われわれの思考は,そ
とわかるはずだし,曲を聞くと,ほぼ自動的に,普段より
のような洋楽器を持ち込んでも,原曲の価値は損なわれな
ややかしこまった口調で話すアナウンサーの「新年あけま
いものか,という具合に進んでいく」と述べ,「伝統音楽」
しておめでとうございます」という声までもが頭の中で鳴
を西洋楽器で演奏することに戸惑いを感じている。一方,
当時の批評では「≪春の海≫は「一つの小曲」にすぎず
(中略)曲自体が非常に洋楽的なつくりになっており,シュ
メーの編曲は(中略)この曲本来の味を引き出したものとし
て位置づけられている」ことを知り,渡辺は大きな驚きを
示している(渡辺
譜例1:宮城道雄作曲≪春の海≫冒頭
(宮城
76
2006)
2002:41-42)
。
西洋の近代芸術音楽を出発点として音楽文化の研究を行
っている渡辺は,≪春の海≫を現代の日本人にとって揺る
サイザーを組み合わせた≪越天楽幻想曲≫が1999年に大
ぎない「日本音楽の名曲」だと考えていたというが,箏曲
ヒットして雅楽の認知度を大きく上げたし,最近では尺八
や三味線音楽に馴染みのある人間にとって,この曲が洋楽
の都山流に属する藤原道山が,西洋楽器とのコラボレーシ
的要素を多く含むことは自明のことであり,その旋律を洋
ョンで注目を集めている。
楽器で演奏することを「信じられないこと」と驚く彼の反
このようにマスメディアを通して紹介される日本の伝統
応に,むしろ驚きを覚える。渡辺は現代に生きる「われわ
芸能・伝統音楽は,保守と革新の極端な部分が強調されて
れ」と,宮城道雄の同時代者とで,日本音楽がどうあるべ
いる。しかし,実際には,ジャンルによる程度の差はある
きかという音楽観が違っていると考え,後者が「洋楽の要
ものの,どのジャンルであっても,過去からのレパートリ
素を取り込んで改良していくこと」を課題としているのに
ーを受け継ぎ次世代へ伝える活動と,それまでにはない新
対して,前者は「純粋な日本文化」を求めている,とその
しい音楽を創り出す活動の両輪によって,「伝統」は作ら
違いを指摘する。しかし,実際には同時代に生きていても,
れているのである。箏曲に関しても,近世箏曲の祖とされ
日本音楽のあり方については,各自の音楽体験とも関わっ
る八橋検校(やつはしけんぎょう
て,多様な考え方が存在しているのである。
段物を作曲したのは17世紀中頃であるが,創設期から幕
≪春の海≫を純日本的と考えるのは,冒頭で指摘したよ
1614-1685)が組歌と
末までの箏曲の歴史を見渡しただけでも,地歌との合奏,
うに,それ以外の箏曲を耳にする機会が少ないことが理由
手事物の流行,幕末の箏曲合奏など,さまざまな音楽様式
であろうが,それをさらに強化するのは,マスメディアな
が生まれ,それらを総合的に継承しながら箏曲の伝統が作
どを通して作られる「伝統音楽は変化しない」というイメ
られてきたことがわかる。さらに,西洋音楽が日本に流入
ージではないだろうか。例えば,NHKのテレビ番組は,
し定着していく明治以降の箏曲の音楽活動では,西洋音楽
「宮内庁楽部∼1300年続く宮廷楽団∼」
(NHKスペシャル,
に触発された新しい創造が試みられつつ,八橋検校以来の
1999年1月放送)のように,伝承の年月の長さを強調した
古典のレパートリーも演奏されている。では,過去の音楽
り,「鼓の家」
(NHKスペシャル2005年1月放送)や「祇園
遺産の継承と新しい創造という一見相反する方向の活動
京舞の春∼井上八千代・三千子継承の記録∼」
( NHKスペ
は,いかにして共存し,それらが「伝統」という流れの中
シャル2000年1月放送),「野村萬斎わが子を鍛える
に置かれていくのだろうか。
狂
言三代の初舞台」
( にんげんドキュメント,2003年11月
放送)のように,親から子へ,祖父母から孫へと厳しい稽
2.師匠を手本にした伝承
古で芸を厳格に伝承する様子を詳しくレポートすることで
箏曲だけでなく,日本の音楽や芸能の学習に共通するこ
「時代を超えて変わらない」という日本の伝統芸能・伝統
とであるが,学習者は師匠の芸を手本とし,それを真似す
音楽のイメージを作るのに貢献している。
ることで芸を身につけていく。箏曲では,現在,楽譜を用
一方で,マスメディアでは,斬新な試みが大きく取り上
いた教授が一般的であり,弟子は予め楽譜を見てどんな旋
げられることも多い。上記の番組では「伝統的」な芸能の
律を弾き,歌うのかを知って準備した上で稽古に臨むこと
担い手として紹介される狂言師の野村萬斎は,NHK朝の
も多い。その点では,ピアノやヴァイオリンなど西洋楽器
連続テレビ小説「あぐり」に吉行エイスケ役で出演し人気
のレッスンと大きな違いはないように見える。しかしなが
を博したし,舞台「ハムレット」や映画「陰陽師」への出
ら,作曲者が自ら楽譜を記すことにより演奏者に曲を伝え
演など,狂言師の活動の場を越えた多彩な活躍をしている。
るというシステムが早くから確立した西洋音楽では,楽譜
雅楽では,宮内庁楽部を退職した東儀秀樹が篳篥とシンセ
に記されている情報が規範として演奏を規定する力が強
77
い。特に楽譜に記された音高に関しては絶対に従うことが
くた)検校へという系譜は「生田流」を名乗ってこれに対
要求される。レッスンの場で口頭で伝えられる情報は,音
抗したという。生田流門下はさらに次世代以降に分派して
楽を学ぶ者にとって重要ではあるが,楽譜に書かれたこと
「古生田流」
「新生田流」
「九州系生田流」
「京生田流」
「名古屋
をいかに解釈するか,楽譜に書かれたことを実現するため
系生田流」などの系統が生まれ,江戸にも生田流の系譜が
にどのような技術が必要かなど,楽譜に記された規範に対
伝わった。大阪においては「菊筋」
「中筋」
「富筋」のように,
する付加情報が中心である。一方,箏曲の稽古では,楽譜
検校の名前の最初の字を受け継ぐことで芸の継承を示す仕
はあくまでも曲を覚える手助けであり,稽古の中で譜の修
組みが生まれる。19世紀初頭に,江戸では,山田検校が
正が行われることも珍しくない。楽譜は伝承を記したもの
江戸で流行していた浄瑠璃(語り物の三味線音楽)の音楽様
であって,西洋音楽の楽譜と比べると規範力は小さい。近
式を大胆に取り入れた箏曲を創始し,これが山田流箏曲と
年,稽古回数が少なくなったために,学習における楽譜の
して江戸で広まった。山田検校の門下には四人の検校があ
重要性が大きくなってきてはいるものの,楽譜には記せな
り,その後それぞれの系統ごとに伝承が行われる。以上の
い微妙な音高変化のタイミングや,微妙なテンポ変化は,
ように,八橋検校の活躍した17世紀中頃から江戸時代末
学習者の解釈ではなく,師匠の手本を真似て覚えることが
までの約200年の間に,芸の系統は細分化したのである。
明治4年に明治政府によって当道制度は廃止され,以後
要求される。
このような眼前の師匠の芸を規範とする伝承では,芸の
は盲人男性以外でも箏曲の専門家として活動できるように
伝承に関して2つの態度が特徴的である。ひとつは芸の系
なる。九州や大阪など各地から箏曲家が上京し,東京を中
譜を重視する態度,もうひとつは芸の系譜の象徴として,
心に演奏活動を行うようになり,東京の中にさまざまな系
長期間の伝承において生まれた細かな差異に意味を見いだ
統の演奏家が共存を始める。現在では,継山流も含め,山
す態度である。
田流箏曲以外の系統の伝承を「生田流」と呼ぶことが多い
第1の態度に関しては,現在の箏曲の伝承では,ある演
奏家の演奏を聴く時に,その人がどの流派のどの会派に属
が,江戸時代に生まれた芸の系統は維持継承され,さらに
分派を重ねている。
するのかを知ることにより,芸の系譜を確認することがで
東京にさまざまな系統の演奏家が集まるようになり,異
きる。また,その演奏家が所属する会派が「名取制度」を
なる系統の演奏を互いに聴いたり,共演する機会が増える
もっていれば,芸名の中に,師匠の名前と共通する一文字
と,相互に芸風の違いを意識するようになる。これが,芸
が入っているので,名前からも芸の系譜がわかる仕組みに
の伝承に関する第2の態度,すなわち,芸系による細かな
なっている。
差異に意味を見いだす態度を生みだしたのではないだろう
芸の系統を重視する態度は,最近に始まったことではな
か。芸系によって,伝承曲(レパートリー)が異なるし,地
い。近世箏曲の祖といわれる八橋検校の門人たちが,それ
歌の三弦(三味線)との合奏曲の場合には箏の手付(てつ
ぞれの弟子に箏曲を伝えた時期から,すでに箏曲の伝承は
け:楽器の旋律)がまったく異なる場合もある。これらは,
いくつかの流儀に分かれている(中島;久保田
1984:
それぞれの系統で行われた創作が伝承されていった結果で
25-28,また同書p200-201には詳細な伝承系譜が示さ
ある。また,同じ曲であっても,曲の一部分で音の動きに
れている)。男性盲人の所属する当道での伝承では,八橋
異なる箇所があったり,フレーズの拍数が違うことは珍し
検校の門人である隈山(すみやま)検校からその弟子の継山
くない。さらには,テンポの変化のさせ方や,付点のリズ
(つぐやま)検校へという系譜は「継山流」と呼ばれ,やは
ムのはずみ方など,演奏における微細な違いもそれぞれの
り八橋検校の門人である北島検校からその弟子の生田(い
系統によって違いがある。このような芸の系統による差異
78
は,長い間に箏曲のレパートリーが受け継がれていく中で,
個々の演奏家が行ってきた工夫の積み重ねによって作り出
う2つの側面からたどってみよう。
裕枝の祖父の米川琴翁は,本名を親敏
(ちかとし)
といい,
されてきたものであろう。このような芸風の違いは,自分
岡山県の商家の二男として生まれ,姉の米川暉寿(てるじ
の芸系の特徴として認識され,「うちの派のやり方」とし
ゅ:本名は貞,1869-1946)と暉寿の師である斉藤芳之
て意識的に伝承されるようにもなる。
都(よしのいち,1847-1921)から三弦と箏を学んだ。
師匠の芸を手本とし,「うちの派のやり方」を受け継ぐ
1905(明治38)年,22才の時に上京し,熊本出身で在京
ことが重視される一方で,
「弟子は師の半芸」という言い方
の九州系地歌奏者の小井出とい(1840-1918)に三弦を学
が地歌箏曲にはある(富崎
1998:
んでいる。結婚後,一時,姫路に居住するが,1919(大
255)。この言い回しには,「師匠からもらえるものには
正8)年に再び上京し,翌年,一門の会として研箏会(けん
限りがあり,ただ教えてもらったことだけを勉強していて
そうかい)を創設し,門下の育成に力を注いだ。
1954:62,船曳
も師匠の芸の半分にしか達しない。そこに自分の工夫を加
琴翁と姉の暉寿が師事した斉藤芳之都は,表1に示すよ
えて,芸のコツや呼吸を身につけなければならない」とい
うに九州で伝承されてきた箏曲の系譜を受け継ぐ演奏家で
う意味が含まれている。個々の演奏家は師匠の芸を受け継
あった。また琴翁が上京後に三弦を学んだ小井出といも,
ぐ一方で独自の工夫を行い,その芸が次の世代へと伝承さ
九州系の地歌奏者である。従って,琴翁の芸は「九州系生
れ,また次の世代の演奏家の工夫がそこに加わるという形
田流」の流れに位置づけることができる。しかし,平野健
で,長い時間をかけて,その演奏家達の属する芸の系統の
次の調査によれば,暉寿は斉藤芳之都の前に,笹川潔寿
特徴は形作られてきたのであろう。自分の師匠がもってい
(いさじゅ)という葛原勾当の流れをくむ別の系統の演奏家
ない曲を他の演奏家に習いに行くことは珍しくないので,
に習っていたという(表2)。葛原勾当は,幕末から明治初
芸系の伝承曲(レパートリー)も固定されたものではない。
期にかけて活躍した地歌箏曲家で,京生田流の流れを受け
従って,箏曲における「伝統の継承」とは,単に過去の
継ぎ,それを福山や岡山など中国地方に伝えた人物で,こ
ものを変えずに維持することではない。系譜の歴史を意識
の系譜は「中国系生田流」と呼ばれている(中島;久保田
し,その系譜の特徴ある芸を受け継ぐ一方で,そこに新し
1984:200)。つまり,暉寿は二人の師匠からそれぞれ
いものや自分の工夫をつけ加え,そのことにより自分が受
の芸系を受け継ぎ,暉寿の芸の中で一体となった2つの芸
け継いだものをさらに充実させて次の世代に伝えていこう
系が,琴翁や,同じく暉寿に教えを受けた末妹の米川文子
という態度によって「伝統」は作られているのである。
3.米川裕枝の芸の系譜をたどる
2006年2月に行われた本研究プロジェクト主催のイベ
ント「シリーズ伝統と創造1:箏が今に伝えるもの,伝え
たいもの」にご出演くださった米川裕枝さん(以後敬称略)
は,母の米川敏子(1913-2005)より手ほどきを受け,祖
父(敏子の父)である米川琴翁(きんおう:1883-1969)も
地歌箏曲の演奏家という家で生まれ育った。ここでは,米
川裕枝の芸の系譜を,平野健次や福田千絵の研究(平野
1983,福田
2005)をもとに,古典の継承と創作とい
表1(左):米川親敏(琴翁)の芸の系譜(平野 1983:7)
表2
(右):米川暉寿の受け継ぐ別種の芸の系譜
(平野 1983:7)
79
(1894-1995)に伝えられたのである。米川家の現在の伝
ので,学習者は,フレーズ感を自ら体得していく必要があ
承曲に,≪春の寿≫や≪常磐の色≫など中国系生田流のみ
る。米川の芸の系譜に伝わる古典曲も,琴翁による箏手付
で伝承されている曲を含んでいることは,琴翁の姉であり
や新曲も,この楽譜に記されることで,次の世代へと確実
師である暉寿の芸が受け継がれていることを示している。
に伝承されることになったのである。
琴翁は,低音箏の開発,古典曲に対する新しい箏の手付,
米川敏子は,琴翁の長女として生まれ,4才の時から箏
新曲の作曲,三弦と箏の楽譜考案など,新しい試みを次々
を,7才から三弦を父に学んだ。敏子の活動は,古典曲の
と行っている。新曲の作曲および古典曲への箏手付の数は
演奏,門下の教育,作曲,他ジャンル演奏家との共演と多
200を越えると言われ,特に箏の手付は,その後の研箏
岐にわたるものであった。門下の教育に関しては,1948
会の重要なレパートリーの一部となっている。
琴翁の新曲作品のうち,1919(大正8)年に作曲された
(昭和23)年に独立して麗調会を主宰し,その家元となる。
その後,研箏会の二代目会長となった琴翁の長男で敏子の
≪収穫(とりいれ)の野≫と,翌年作曲の≪潮(うしお)の
弟の親利(本名恭男,1920-1981)が早逝したために,
響≫の2曲は,LPレコード『箏曲米川敏子全集』の中に収
1982(昭和57)年に研箏会の三代会長に就任,麗調会も
録されていて,聴くことができる。どちらも箏,低音箏,
研箏会の中に合併された。
三弦,尺八という編成による歌のない器楽曲で,尺八の手
作曲活動も非常に活発で,生涯に200曲近い作品を創
付は中尾都山(初世:1876-1956)が行っている。古典に
作した。18才の時に平岡次郎から作曲を習い,1939(昭
はない大胆な音の進行をとりいれたこれらの曲は,初演当
和14)年,26才の時に処女作≪苔水≫を作曲して研箏会
時の聴衆にとっては,大きな驚きをもって迎えられたので
演奏会で発表,1942(昭和17)年に作曲した≪御羽車(お
はないかと想像する。
はぐるま)≫は,日本文化中央聯盟・大日本三曲協会主催
現在も研箏会で用いている琴翁考案の箏の楽譜(譜例2)
のコンクールで一等入選となった。平野健次によれば,若
は,箏の弦数と同じ13本の線の上に,西洋音楽の記譜法
い頃には「新日本音楽から現代邦楽に至る過渡期の,戦前
で用いる音符を記すことで,弾くべき糸と音の長さを示す。
の新邦楽の作曲・演奏の若き美貌の女流旗手として有名」
現在,箏曲で広く使われている「大日本家庭式」の記譜法
であったという(平野
(譜例3)では,時間の流れをマス目で区切ることによって
1983:9)。敏子作品の楽器編成
は箏の独奏および重奏,箏と琴翁が開発した低音箏との重
空間的に示し,1つの拍が表間と裏間に分割され,4拍が
1つの単位となって旋律が記されていく。これに対して,
琴翁考案の楽譜では,個々の音の長さは西洋式の音符で示
されるが,それらを無理に4拍単位に纏めることをせずに
旋律が記される。
箏曲の古典曲では,フレーズが必ずしも4拍単位で進行
するわけではないし,基本拍も,原則は表間と裏間が2分
割されそれが規則的に繰り返されるが,フレーズの途中で
表間と裏間が入れ替わったようになることも少なくない。
このような変幻自在にも思われる旋律の動きを,琴翁の考
案した楽譜では,音楽の流れを損なわずに記すことができ
る。その代わりに,フレーズの区切りが楽譜に記されない
80
譜例2(左):琴翁考案の譜による≪千鳥の曲≫
譜例3(右):大日本家庭式の譜による≪千鳥の曲≫
(宮城 1966)
奏,箏と三弦の組み合わせ,そこに尺八を加えた三曲合奏
似の創作活動と考えることができるだろう。また,テレビ
などが中心で,古典の編成から大きくはみ出すものは少な
やラジオ番組のための作曲,映画や新派の舞台の音楽も数
いが,1953(昭和28)年作曲の≪青銅のキリスト≫では,
多く手がけ,特に昭和40年代(1965∼74)には,「竜馬
唄・箏・三弦・ヴァイオリンという編成を試みている。ま
が行く」
「樅の木は残った」
「新平家物語」
「国盗り物語」な
た歌のパートを「ソプラノ」と指定して,西洋の声楽家の
ど,多くのNHKの連続ドラマや大河ドラマで箏の音楽を
声を想定して作曲した作品も数曲ある。
担当している。さらには,他の邦楽作曲家の新曲初演に敏
敏子作品の代表作≪千鳥と遊ぶ智恵子≫(1953年,ラ
ジオ東京の委嘱作品)も,箏・低音箏・ソプラノのための
曲である。高村光太郎の『智恵子抄』の詩に音楽をつけた
子が演奏家として参加することも多かったし,古典曲の演
奏にも定評があった。
敏子の多彩な活動を可能にした要素として,徳丸吉彦は
この曲は,箏の弾き歌いを基本とする古典曲とは異なり, 「音楽性の固い基礎」と「柔らかい音楽性」を兼ね備えて
歌のパートが器楽から独立し,言葉のアクセントやリズム
いたことを挙げている(徳丸
をいかした詩の朗読を思わせる旋律を朗々と歌いあげる。
とは,正確な音感や合奏におけるバランス感などを指し,
西洋的な発声による歌を箏が伴奏するという形は,宮城道
柔らかい音楽性とは,新しさを求めて意図的に何かを作り
雄がすでに大正時代に実践しているが,敏子の作品では,
出すのではなく,自然な形で音楽を変化させたり作り出す
箏が単なる歌の伴奏にとどまらず,詩の内容を音楽的に表
ことを指す。この二種類の音楽性が,古典曲の演奏と新作
現する役割を担っている。箏の印象的なソロで始まる長大
の創作や演奏を別のものとして区別しない敏子の音楽活動
な前奏部分では,波の音,千鳥の声など詩の情景が音画の
に対する態度を生みだしたのであろう。徳丸はこれらの音
ように描かれる。箏と低音箏も,主旋律と伴奏という単純
楽性を,敏子が父の琴翁から受け継ぎ,娘の裕枝に伝えた
な関係ではなく,音域も音色も異なる両者が複雑に絡み合
とも指摘している。世代を越えて受け継がれ,伝統を形作
って旋律を紡ぎだし,大胆に緩急をつけることで詩の中に
るものは,伝承曲(レパートリー)や演奏スタイルだけでな
潜むドラマ性を音楽で表現している。このように,敏子の
く,このような音楽に対する態度も含まれるのであろう。
作品には,それまでの古典曲にはない,しかも単なる西洋
そして,琴翁と敏子の芸を受け継いでいるのが米川裕枝
音楽の模倣とも異なる新しい音楽表現がある。
1993)。音楽性の固い基礎
である。母から手ほどきを受け,長年に渡り母と共演して
敏子作品の新しさは,≪千鳥の曲≫の低音箏の手付にも
きた裕枝も,古典曲の演奏,新作の作曲,他ジャンルの演
見ることができる。≪千鳥の曲≫の作曲者である吉沢検校
奏家との共演,門人の教育と多岐にわたる活動を行ってい
本人による替手の旋律を知った上で,低音箏という音域の
る。作曲に関しては,1988(昭和63)年に八橋検校作曲の
異なる楽器を用いて,吉沢検校の本手・替手の合奏とはま
≪みだれ≫に三弦の替手手付をしたのを始めとし,2006
ったく異なる音の世界を作り出した敏子の創作力は,驚く
(平成18)年12月に初演された≪天の綾≫(箏,十七弦,
べきものがある。
新作の創作に加えて,長唄や大和楽(やまとがく)など,
小鼓・大鼓)で27作目を数える。裕枝作品にはさまざまな
楽器編成の曲があり,音楽様式も多彩であるが,≪海−た
他の三味線音楽の作品に箏のパートを新たに作曲したもの
ゆとふ−≫≪雪のぼれろ≫≪萌ゆ≫≪月彩(つきあや)≫な
も敏子には多い。特に長唄の≪秋色種(あきのいろくさ)≫
ど,箏と十七弦の合奏を基本とした器楽曲群では,やわら
や≪喜三(きみ)の庭≫は,舞踊の伴奏曲として奏される時
かな響きで自然の様子を音楽的に描写する独特の作風が共
には,現在,しばしば敏子手付の箏入りで演奏される。こ
通している。また長唄≪鶴亀≫や清元≪青海波≫を初めと
れらは,琴翁が古典曲に対して新しい手付を行ったのと類
する他ジャンルの邦楽作品のために箏のパートを作曲した
81
米川敏子全集(LPレコード)解説書』,東京:ビクター音楽
ものも多く,この点でも母敏子の創作活動を受け継いでい
る。裕枝は敏子の逝去により研箏会の会長となり,2007
年8月には「二代米川敏子」の襲名が行われる。
産業,pp. 6-13.
福田千絵
「箏・三弦の手付と米川裕枝の伝承」,『邦楽の新しい響き
以上のように,米川家の三代にわたる活動を見てみると,
古典曲の継承を核としながらも,多彩な創作活動が行われ,
琴翁・敏子の創作作品もまた米川家の重要なレパートリー
2005
∼手付の変遷と可能性
米川裕枝−箏・三弦リサイタル
(演奏会プログラム)』,ページ数なし.
船曳健夫
1998
として現在の研箏会に受け継がれていることがわかる。琴
「師匠で親なら師匠が勝つ−富山清隆(地歌箏曲家)」,『親
翁の末妹である米川文子の芸の系統では,琴翁の系譜と比
子の作法』,東京:ベネッセコーポレーション,pp. 247-
べた場合,古典曲の継承により重点が置かれ,同じ米川の
系譜の中で古典曲に関してのレパートリーおよび芸風を共
有しながらも,それぞれの芸系の特徴が生まれていること
に気が付く。
256.
北條秀司(編)1954
『富崎春昇自傳』
,東京:演劇出版社.
渡辺
裕
2002
『日本文化モダン・ラプソディ』
,東京:春秋社.
【使用楽譜】(公刊されているもののみ)
4.さいごに
「長い間変わらずに伝えられてきたもの」というイメー
ジで見られることの多い伝統音楽だが,実は古いものを受
け継ぎそれを守りながらも,その中に新しい工夫や創作を
加えていることを示してきた。しかし,時代によって,芸
宮城道雄
1969
(62版,2004)
『生田流箏曲
宮城道雄
千鳥の曲(替手付)』,東京:邦楽社.
2006
『宮城道雄作曲集
春の海(五線譜付)』,福岡:大日本家庭
音楽会.
の系統によって,また個人によって,「守り伝えること」
と「創作」のどちらに重点を置くかには違いがある。今回
の事例は,芸の系譜を重視するという態度を前提とした音
楽活動に限定されるものであった。本論で取り上げなかっ
た現代邦楽や,ポピュラー音楽との融合など,より創作に
重点をおいた活動の中で,芸の伝承について何が起きてい
るのかについては,別の機会にぜひ考えてみたい。
【参考音源】
CD『響演
春の海』,ビクター伝統文化振興財団(VICG-
41121).
LPレコード『箏曲米川敏子全集』,ビクター音楽産業(SJ1034∼1043).
CD『人間国宝米川敏子箏曲の魅力−オリジナル作品編』,キン
グレコード(KICH 2054).
CD『海−たゆとふ−』,日本コロムビア(COCJ-20463)
.
【参考文献】
小塩さとみ(監修)2004
『人間国宝米川敏子と研箏会のあゆみ』
,東京:研箏会本部.
徳丸吉彦
1995
「米川敏子先生の音楽性」,徳丸吉彦(編)『米川敏子80年
の歩み』,東京:研箏会.
中島警子:久保田敏子
『日本芸能セミナー
平野健次
1984
箏三味線音楽』
,東京:白水社.
1983
「米川敏子師の伝承と芸歴−監修の辞を兼ねて−」,『箏曲
82
「箏が今に伝えるもの,伝えたいもの」記録
日時:2006年2月18日
(土)14:00∼
於
:聖徳大学10号館12階小ホール
筝曲イベントは,地歌筝曲演奏家の米川裕枝さんを講師
おりませんけれども,歌を習った…習ったというか,
に招き,岡崎敏優さん,中川敏裕さんの共演を得て開催さ
習ったことはないんですね,本当は。お弟子さんの
れた。聞き手は研究メンバーの小塩さとみ。
ように,反対側に座って,一対一で手取り足取り習
米川裕枝さんは,3歳より母,故米川敏子(人間国宝・
ったという記憶は全くないんですけれども,地歌の
文化功労者)に地歌・筝曲の手ほどきを受ける。NHK邦楽
歌を歌いました時に,「振り落とし」
(という声の技
技能者育成会で現代邦楽を学んだこともあり,古典から現
法)が子どもなのでできなかったんですね。そうし
代曲まで幅広いレパートリーを持つ。創作活動も活発で,
ましたら母が「どうしてできないの?」と言うんで
作品に《海―たゆとふ―》《月彩》など。平成7年度文化
すね。教えてもらってもいないのに。やり方も教え
庁芸術祭優秀賞,2004年エクソンモービル音楽賞受賞。
てくれないで,「どうしてできないの?」と不思議
研箏会会長,くらしき作陽大学特任教授。
に思ったらしいんですね。その時に私はうちの子ど
プログラムは,前半に古典,後半に米川さん自作の演奏
もというのは自然にできるのが当たり前で,できな
が配置され,ところどころにインタビューをはさんで構成
いといけないのだと自分で思って,それで自分で一
された。演奏曲目は,《乱》
(八橋検校作曲,米川裕枝三弦
生懸命練習して,できるようになったというか。
手付),《千鳥の曲》
(吉沢検校作曲,本手・替手),《千鳥の
(小塩)それはおいくつ位の時だったのでしょうか?
曲》
(吉沢検校本手作曲,米川敏子箏低音手付)
,《月彩》
(米
(米川)たぶん小学校高学年にかかる頃だったと。
川裕枝作曲)である。
(小塩)じゃあ,10歳になるかならないかの時に,「あらど
以下の記録には,当日のインタビューをほぼそのままの
形で採録する。
うしてできないの?」と。それまでは,「できない」
とか「難しい」ということはあまり思ったことはな
かったということなのでしょうか?
1.《千鳥の曲》
(吉沢検校作曲,本手・替手)演奏後のイン
(米川)そうですね。弾くことに関しては見よう見まねで。
タビュー:手ほどき∼米川家の伝統∼古典と新しいもの
糸まちがいをするとか,練習不足でできないという
(小塩)3歳の頃からお母様から手ほどきを受けたというこ
ことはありましたけれども,どうやって弾いたらい
とですけれども,最初の頃のお稽古の様子というの
いか教わらなければわからないということはなかっ
はどんな感じだったのでしょうか?
たので,質問をしたこともあまり記憶にないですね。
(米川)まったく覚えておりません。たぶんうちの人間とい
(小塩)なるほど。そうすると,最初から敏子先生の音の世
うのは見よう見まねでどういう形で弾くとかそうい
界の中でお育ちになったのですね。箏曲の方たちが,
うことが,自然にわかってしまっていると思うんで
ご自分の「伝統」についてお話になる時には,流派
すね。お子さんは指が細いので,糸と糸の間に指が
と関連づけてお話になることが多いと思うのです
ずぼっと落ちてしまうのが通常で,最初はなかなか
が,裕枝さんから見て,米川の芸の伝統というのは
弾くことが大変だと思うんですけれど,たぶん私は
どういうところにあるとお考えですか?
そういうことがなく,形から入って弾けたのだと聞
いたことはありますけれど。
(小塩)お稽古のことで覚えていらっしゃる最初の頃の記憶
にはどんなことがありますか?
(米川)そうですね…本当に小さい時のことはあまり覚えて
(米川)うちの特色として,一番私が強く思うのは,音色
(ねいろ)です。音色にこだわっているというか,母
は「そのためだったらなんでもする」というところ
がありましたね。音色がいいということがうちの特
徴だと思っております。それには箏柱の大きさとか
83
糸の張り具合とか爪の大きさや糸への当て方。そう
いうことをすごく考えながら,祖父もきたのだと思
います。
(小塩)おそらくご自分のおうちの箏の世界にだけいらした
ときは,そういうことに気づかれなかったのではな
いかと思うのですが,米川の芸の伝統についてご自
身で気づかれるようになったのは,どういう機会だ
写真1
米川裕枝氏
(右)と聞き手の小塩さとみ
ったのでしょうか?
(米川)若い時に他の派の方と合奏するということがあまり
るので,真似をしようと思って押さえるんですけど,
なかったものですから,NHKの邦楽技能者育成会
絶対に遅れてしまって…。それがなかなかできなか
に21∼22歳で入ったときに,カルチャー・ショッ
ったですね,
クでした。他の派の方―流儀は山田流の方もいらっ
しゃったし,生田の方もいらしたんですけれども―
(小塩)レパートリーという点では,米川家の特色はどこに
あるでしょうか。
生田流の中の他の派の方の弾き方と爪の大きさ。ツ
(米川)うちは古典のほかに,祖父が作ったものや母が作っ
ルツルっていう弾き方―「すくい爪」っていうんで
た新曲が多いので,そういう点では,古典だけをな
すけれども―ツルツルをやるときに,みなさんが突
さっているおうちの方と違って,古典の弾き方,あ
然こう弾いていたものを,こう角度を変えるんです
るいは表現の仕方も多少違うのではないかと思いま
ね。それでびっくりして「何をやっているのかしら」
す。
って思って見てましたら,音色が全然違うんです。 (小塩)例えば,それはどういうところで違いが出てくるも
うちの爪が小さいので同じようにはできないのです
けれども,うちはふつうに〔実演〕こう弾くんです
(米川)古典というのは強弱もなく,あまり緩急もないよう
が,横になさって〔実演〕ちょっと音がでないです
に聞こえがちなんですが,実は現代邦楽のようには
けど,〔実演〕爪の音をサクサク,ザクザクとなさ
っきりした表現ではないけれども,細かいところで
るんですよね。
音量も微妙に動かしながら弾いているという,そう
(小塩)爪を皆さんに見せていただけますか。
(米川)うちはすごく小さくて薄い爪なんです。皆さんの爪
は自分の指よりかなり上に出るんですね,だから横
いう感覚はうちは強いかなと思いますね。
(小塩)そうすると,表現のときの幅というのが少し大きい
と。その幅というのは音量であったり…。
にすることができて,すくう時に糸に当てる場所が
(米川)ニュアンスですね。
うちとは違うんです。それで音色も違うので,何が
(小塩)裕枝さんが子どもの頃から色々な曲をお覚えになる
始まったのかなと思って…ザクザクザクザクと。そ
ときに,古典と琴翁さんや敏子さんの曲を区別して,
れが最初にびっくりしました。
違うものを弾いているという意識がおありになった
(小塩)他に,別の流派の方と合奏なさっていて「ここが違
うわ」というふうにお感じになる点はありますか?
(米川)細かく言えば「後押し(あとおし)」などは,宮城派
の方はツンとすぐ押さえる〔実演〕。瞬時に押さえ
84
のでしょうか?
のでしょうか?
(米川)古典とですか?いえ全然ないです。
(小塩)現在,お弟子さんたちに曲を教えるときにはどうで
しょうか?
(米川)弾き方は基本的に変わりはないですね…古典にしろ
現代邦楽にしろ。表現が違ったり,リズム感が違っ
いう感じに。それから小学校の1年か幼稚園のとき
に,どうも自分が作ったらしい楽譜が残ってまして。
たり。古典の様式というのは形としてありますので, (小塩)それはお箏の曲だったんですか?
そこからそんなに逸脱しないで,古典というものを
習っていきます。現代邦楽に関しては,色々表示が
あり,自分で表現するのは自由にできるわけですよ
(米川)そうですね。曲というほどではないんですけれど,
《お庭の椿》という題名で,自分で歌詞をどうも作
ったらしくて,それが1作目かもしれません。
ね。まぁ,そういうところを例えば「もっとダイナ
(小塩)映像に音をつけて「あら曲って書けるんだわ」とお
ミックに」とか指導はしますけれども,基本的には
思いになった後,曲をどんどんお書きになるように
やはりいい音で,きれいな音で,正しい音程で,正
なったのは,どういう経緯でしょうか?
しいリズムで,ということに変わりはないですね。
(小塩)次に《千鳥の曲》で,敏子さんが低音の箏を手付
(米川)自発的にやることはなかなかしませんので,先程の
《乱れ》の替手を手付をしたのが,その次ですね。
(てつけ)なさったものを聞かせていただきます。敏
その時に「あ∼面白い」と思って。「面白いものだ
子先生はたくさんの手付をなさっていますけれど
な」と思い始めました。それから色々新作を作る演
も,敏子先生の手付の特徴を,裕枝さんは演奏なさ
奏会がありましたり,そういう団体に所属するよう
っていて何かお感じになりますか?
になって,致し方なく作っているうちに,だんだん
(米川)そうですね,祖父もその時代にしてはとても斬新で
あったと思うんですけれども,母もとてもモダンな
曲が増えてきたということですか。
(小塩)なかなか言葉で表現するのは難しいかと思うんです
感じですね,曲の作り方が。私の方が古典的かもし
けれど,《乱れ》の手付をしたときに「あ∼面白い」
れない。
と思われた,その面白さというのはどういうところ
(小塩)たしかに次に聞いていただく《千鳥の曲》は先程聞
にあるんでしょうか?
いていただきました吉沢検校の《千鳥の曲》とはま
(米川)先程の《千鳥の曲》のように,もとの旋律があるも
ったく違ったモダンな音の世界が広がっているよう
のに対して,すごくふくらむというか,全く違う旋
な気がします。では,演奏をよろしくお願いいたし
律をつけて,同じ曲なんだけれども違うイメージに
ます。ありがとうございました。
するということがすごく楽しいなと思いました。
(小塩)そうすると,手付としての面白さということでしょ
2.《月彩》演奏前のインタビュー
作曲すること∼手付∼新作の作曲方法∼調弦
(小塩)第2部では,作曲家の米川裕枝さんについてお伺い
したいんですけれども。作曲をするようになったき
っかけは,どういうことだったんでしょうか?
うか?
(米川)そうですね。
(小塩)手付のときと,全く何もないところから新しく曲を
作るときには随分作り方は違うものですか?
(米川)全くないところから作るというのはすごく大変です
(米川)私は作曲家ではないのです,一応演奏家で。きっか
ね。まず自分で調弦を考えないと,お箏の場合はダ
けというのは,そうですね,映像に音をつけるとい
メなもので,調弦ができてしまうと,その曲のイメ
うお仕事をさせていただいたのが最初で,2,3分
ージが半分くらいできてしまうんですね。だから調
ですか,とても短かったんですね。ふたつの場面を
弦を考えることに,すごく時間をかけまして,それ
作りまして,それが「あ,曲って書けるんだな」と
ができたところで,自分でなんとなく思い浮かんだ
85
ことを弾いていくんですよ。それで,最初のうちは,
するので,演奏法とか古典の奏法とか,そういうも
弾いてみて「書こう」と思ったらもう忘れているの
のを頭で考えては作っていませんけれども,結局は
で,最近はちゃんとテープを横に置いておいて,こ
自分の中に染みこんでいる手の動きでできていくわ
う自分でイメージを作っていって弾いたものをあと
けですよね。だから基本的な演奏をするという形は
から楽譜にひろいあげるということが多いです。
まったく共通です。ただ後で考えると,古典の奏法
(小塩)作曲のやり方に,だんだんうまくプロセスができて
きたということなのでしょうか?
(米川)曲によって,そういうふうにスムーズにいくのもあ
れば,あるいはもうどんどんできちゃう場合もある
が入っていないことが私は多いですね。それはたぶ
んメロディーを作っていくからなんですかね。いか
にも古典という手を使わないで作ってしまうことが
自分では多いです。
し,いくら考えても次にいかないときもありますね。 (小塩)調弦を考えるとき,古典曲の調弦法と変えようとお
(小塩)今度聞かせていただく《月彩》という曲は,お箏に
考えになりますか?
3つのパートがありますけれども,これはどれかひ
(米川)それはありますね。基本的な日本音階の,平調子や
とつの旋律が最初にできて,そこに他のパートを組
雲井調子で新しいものを作ろうと思うと,押手(お
み合わせていくという形で作られたんですか?
しで)がすごく多くなってしまうんです。押手とい
(米川)基本的にはそうなんですけれども,ここに次のパー
うのは左手で弦を押さえて音程を変える技法です。
トのこの音が入ってきたらいいなというのを,例え
それが大変なので,ある程度音階の中に,本来なら
ば楽譜を2段にして書きながら進んでいく部分もあ
押手で作る音も入れて調弦を考えることが多いです
ります。全部ではないですけれど。
ね。
(小塩)そういう場合も,やっぱり自分の前にはお箏があっ
て,作っていくのでしょうか?
(米川)そうですね。基本のラインはやっぱり楽器と一緒に
(小塩)では,次に弾いていただく《月彩》の調弦について,
どのように工夫されたか教えてください。
(米川)工夫はしてないですが,〔実演〕こういう調弦です。
進行していって,その上に十七弦や他のパートを付
で,工夫…まぁ基本的に私たちは,
(2本の弦の)間4
ける場合には,新幹線の中でやったり,それからど
本でオクターブなんですね。この調弦で間4本で弾
こか楽器のない机の上でやるということも,締切が
くと…〔実演〕
( 1オクターブにならない)。だから
間に合わずにやったこともありますけれど。
古典の手法でシャンとやろうと思うとオクターブに
(小塩)先程休憩時間に「答えるのは難しいわ」と言われて
ならないんです。それは工夫ではありませんけれど,
しまったんですけれど,古典の曲をたくさん演奏し
間4本でオクターブにしまうと,先程言ったように
ていらして,おそらくその音楽性がもう体の中に入
弦を左手で押さなければならないので,そういう音
っていらっしゃると思います。ご自分が新しいもの
程を含めてしまって並べています。ところが,そう
を作るときには,古典の中ではぐくまれた音楽性が
すると音域がすごく狭くなっちゃうんですね。間の
どんなふうに影響しているんでしょうか?ご自分で
音(本来押手で作っていた音)を入れてしまうと。だ
そういうことを自覚されることはないのかもしれま
から,なるべく音域は広く使いたいので,この2と
せんが,何かそういうことをお感じになるというこ
3の弦の間がすごく跳んでいるんです〔実演〕
。
とはありますか?
(米川)わりに私は自分が作るときには,メロディーを優先
86
(小塩)こことここに柱(じ)があるということは,それだけ
離れているということですね。
(米川)こういうところでつじつまを合わせて,巾
(きん)―
舞踊で舞踊化もされています。今後,他の流派の人
一番端の(一番高い)音―が低くならないように,
が演奏したいと思われた時に,より広くいろいろな
一番低い音と一番高い音の幅をなるべくとるように
人に弾いてもらおうとお考えでしょうか。
考えています。
(小塩)どうもありがとうございました。それでは演奏をよ
ろしくお願いいたします。
(米川)作る時は,全くそんなことは夢にも思わずに作って
いるんですけれども,思いがけず,一昨年,鹿児島
で,これを94人で弾いて下さった所があります。
もうびっくりして,「絶対揃わない!」と思ってた
【演奏後の質疑応答】
んですけれど(笑)。打楽器を入れるバージョンがあ
(小塩)せっかくの機会ですので,もう少し裕枝さんにお話
りまして,打楽器が入っていたので,幸いに,リズ
を伺おうと思います。最初に私から2つ質問をして,
ムをとってもらったので,速いところがすごくよく
その後,ご来場のみなさまからも質問をお伺いしま
そろって見事にうまくいきました。その時に,うち
す。
は楽譜がちょっとお箏の中でも違ってまして,13
(小塩)今,《月彩》の演奏を聞いて,メロディーを中心に
作っていくという感じがよくわかりました。古典の
曲を演奏なさる時には,シャシャテンとかコロリン
など唱歌(しょうが)で覚えているかと思いますが,
線譜といって13本線のある…
(小塩)今日みなさまにお配りした曲目解説に,
《千鳥の曲》
と《月彩》の最初の部分の楽譜が載っています。
(本書p. 80,譜例2を参照。)
この曲を裕枝さんが弾いていらっしゃる時には,頭
(米川)乱視の方は頭が痛くなりそうな…13本の線の上に
の中ではどのように音を弾いていらっしゃるのでし
おたまじゃくしが載っているのですが,これをタテ
ょうか?
譜という普通のお箏の楽譜に作り直しまして,それ
(米川)えぇ…たぶん「ミファシドレドシファ,ミファシド
レドシファ…(笑)」と思っていると思います。
(小塩)ところどころ,古典な奏法と共通する部分が出てき
ますが,その時に頭の中でスイッチが切り替わると
いうことはありますか。
をお渡しして(鹿児島で)やっていただきました。公
刊譜を作るところまで至るかはわかりませんが,こ
れを機会にいろんな方に弾いていただきたいと思い
ます。
(小塩)それではみなさまからも質問を頂きましょう。
(米川)シャテシャテですね。今,自分で弾きながら「ああ, (質問者1)
《 月彩》の最後の音ですが,あれもお箏でお出
これは結構入っている」と思ったんですけど(笑)。
しになったんですか?
〔実演しながら〕シャテシャテ。はい,そうですね。 (米川)ウィンドチャイムです。
その時は「ミミミミ」とは言ってませんね。
(小塩)
[楽器を見せながら]最初と最後は実は私が陰の方
(小塩)そうすると,バイリンガルの人のように,頭の中で
に行きまして,この楽器を鳴らしました。
切り替えているということなんでしょうか。
(小塩)この楽器は初演の時から加わっていたんですか?
(米川)というか,間違えやすいところはソルフェージュし
て,「ミだから十(の糸)」というように…。
(小塩)
その音をしっかりと頭の中に残すということですね。
わかりました。
(小塩)とても素敵な曲で何度も再演されていますし,日本
(米川)これだけはあったんです。
(小塩)お箏にこの楽器を加えたのはひらめきだったんでし
ょうか?
(米川)
宇宙的なというか,幻想的な音がほしいなと思って。
いろんな他の楽器を入れるところまではその時はま
87
だ考えてませんでした。その後に打楽器をいっぱい
入れていただくバージョンができたんですけど。
(高松)いま裕枝さんのお作りになった曲を,将来的にまた
れていたということなのですね。
(質問者2)たいへん結構な演奏を聴かせていただきまして,
ありがとうございました。最近の殺伐とした世の中
別の方がお弾きになる時に,「あ,ここのところ,
で,こういう癒しの音楽を聴けるというのは,もう
この辺ちょっと変えてみたいわ」とか,手付をする
本当に惚れ惚れしました。ただ,お箏はあまり一般
とか,音を変えるとか,そういう人が現れた場合,
的じゃないような気がします。限られた世界の人が
作曲者としてはどういう気持ちでいらっしゃるの
楽しんでいるようで,もったいないですね。もっと
か,ちょっとその辺うかがいたいと…。
ポピュラーになっていかないものでしょうか。それ
(米川)曲がよくなるのだったら,―変になるのはイヤです
ともうひとつ,洋楽器とのコラボレーションはでき
けど―,よくしていただけるのなら,本当の曲の形
るのかできないのか,聞かせていただければありが
になっていく可能性っていうのはありますね。
たいと思いました。
(小塩)先程,琴翁さんや敏子さんが,音色にとてもこだわ
っていらして,爪や柱(じ)にいろいろ工夫をなさっ
たというお話をされていました。その点についても
う少し説明をお願いできますか?
(小塩)ふたつ目の質問の方から先にいきましょうか。洋楽
器とのコラボレーションについて。
(米川)もちろんいろんな方がなさっていらっしゃいます。
私の母も大正2年生まれで,先だって亡くなりまし
(米川)音量は落ちるんですが,箏柱の幅が狭い方がいい音
たけれども,あらゆる楽器と共演をした珍しい箏弾
質になるんですね。それでわざわざ既成のサイズか
きで,それこそ洋楽器ともさんざんやって,まった
ら,もったいない象牙を削って,細い柱にして母は
くその日初めて会ったプレイヤーとスタジオで初め
使ってましたし,祖父のも細いのがあります。今日
て合奏して,ぴったり合ってしまって,それがレコ
使用している箏柱も割に細めなんですけれども,こ
ードになっているということもあります。私自身は
れが基準で,もう少し大きいのを使っている方もい
昨年,ヴィオラとお箏の曲を作って演奏しました。
ます。
(小塩)細いというのは幅のことですか?
(小塩)ヴィオラとお箏を合わせてみようとお考えになった
のは,何かきっかけがありましたでしょうか?
(米川)
厚みですね。厚い方が確かに音量は出ます。だから, (米川)
洋楽器との曲を書いたのは本当に初めてなんですが,
会場が大きくなりましたし,大合奏することも多く
演奏会場がたまたま紀尾井ホールの洋楽ホールだっ
なったので,音量を重視する方は,そういう工夫を
たんですね。邦楽専門ホールとふたつあるんですけ
逆になさっています。あと,爪もやっぱり大きい方
れども,キャパシティの都合で洋楽専門のホールを
が大きい音がするんですが,音質が落ちるんですね。
お借りすることになったので,これはやっぱり洋楽
それで難しいところなんですけれども,ちょうど妥
器の響きも一緒に聞かせたいなという気持ちがあり
協点ぐらいのギリギリの大きさで私はしてますけ
ました。もちろん古典も演奏したんですけれども,
ど,母はもっと小さい爪で弾いてました。
最後の自分の作品は洋楽器とのものにしようと考え
(小塩)明治になって,音量の変化をつけて大きい会場で演
奏するようになり,音量が重視されるようになった
と一般には言われますが,それ以外の工夫も,演奏
家の音楽の好みや,目指すところによって色々行わ
88
ました。
(小塩)
実際に曲をお作りになって,ホールで演奏してみて,
新しい可能性が広がったとお考えになりますか?
(米川)はい,評判はとても良かったと思います。今のご質
問の方のように,一般の,邦楽の聴衆でない方に,
う形だったのが,今だんだん変わりつつあります。
とても楽しめたと言われたんですね。そういうとこ
古典を習わずに,今のような私の曲などから入って
ろから邦楽器に親しんでいただくこともできます。
きて,古典を弾く方が少なくなってきたような気が
紀尾井ホールの中ホールは洋楽のファンの方が多い
するんです。でも古典の奥深さ―長い間ずっと受け
ので,邦楽器をなかなか聴くことはないと思うんで
継がれてきた中にはいろんな曲があったわけで,古
すけれども,そういう方が邦楽と出会うチャンスに
典も最初は新作で,それがどんどんなくなっていっ
もなればと思いました。
て残っているものが今の古典であるわけだから,そ
(小塩)もうひとつのご質問,お箏を広めてゆくことに関し
れを大事に伝えていかなきゃいけない。伝える任務
ては,裕枝さんは,学校でお箏の授業をされたり,
もあると思っております。現代邦楽から先に入って,
学校の先生を対象にお箏の実演教室を行ったり,い
それから古典をやるという順番の違いは,影響があ
ろいろな活動をされていると思いますけれど,その
るのかないのか,まだ何年も経たないとわからない
あたりを少しお話いただけますでしょうか?
ことですけれども,とにかく両方やるということで,
(米川)先生を対象とすることもありますが,中学校の授業
両方の難しさも良さも違いもわかるようになるんで
でお箏を生徒さんに教えることがあります。先週も
すね。ですから両方弾けるというのが私にとっては
行ってまいりました。学習指導要領が変わったので,
理想ですね,
邦楽器が学校に入ってきたんですね。でも一方で, (小塩)その理想というのが今日の演奏会からもおわかりい
音楽や美術が選択になったり,なくなるという方向
ただけたのではないかと思います。それではプログ
に動いているというので,それは絶対にいけないと,
ラムには載っていませんけれども,最後にもう1曲
私たちもがんばっているんです。さきほど(ご質問
演奏をお願いします。アンコールということで,米
の方も)おっしゃったように,生徒さんたちもお箏
川敏子さんの作曲された《花》という曲を演奏して
をさわることで,心がなごむと感じられるんですね。
いただきます。
だからそういう教育は大事だと思います。私も機会
があればどんどん伺って,いい音を聴いていただい
(文責:小塩さとみ)
て,感動して…。中学生は,感性が一番高まってい
る時期でとても敏感ですので,何でも吸収してくだ
さるし,真剣に取り組むんですね。そういう姿を見
ていると,私たちももっと努力しなければならない
と思います。
(小塩)箏曲は,古典の伝承と創作の両方がからみあって現
在の伝統が作られているんだと思いますが,裕枝さ
んは今後,お箏の伝統や伝承が,どのようになって
いってほしいとお考えでしょうか?
(米川)大変難しいんですが,私たちの年代と,もうちょっ
と後の人たちまでは,古典を先に勉強して,それか
ら今のような新しい曲とか現代邦楽の曲を習うとい
89
<資料>第1回公開イベント
チラシ(表)
<資料>第1回公開イベント
チラシ(裏)
論文と公開イベントの記録
2.和歌をめぐって
萩の舎における「伝統」の教授―樋口一葉はどのようにして和歌を学んだのか
菅
聡子
明治期における女性の国民化がどのようになされたの
である。この「依頼」がどのようなものであったのかは不
か,その過程はたとえば女子教育の変遷ならびに良妻賢母
明だが,一葉個人への依頼とは考えられないので,師であ
主義の成立のなかに見出すことができるだろう。あるいは,
る中島歌子,あるいは歌塾萩の舎に対してのものと思われ
若桑みどり『皇后の表象』
(筑摩書房,二〇〇一年)は,明
る。ちなみに,この折りに詠んだと思われる和歌は次のよ
治天皇の皇后・美子の表象をめぐって,どのような女性像
うなものだ。
が国家にとって理想であるかが女性たちに伝達された様相
を明らかにしている。
沖縄名所
一方,女性の国民化は文章教育を通じてもなされた。す
でに,拙稿「〈女性作家〉と〈国民〉の交差するところ―
1
真玉川いかなる玉かしつむらむそこゆかしくもおもほ
ゆる哉
一葉日記を読む」において論じたように,女性たちにふさ
都まで名もとゞろきの瀧といへはよそに聞たにすさま
わしい文体として奨励されたのは「和文」であり,ここに
しき哉
は文化資本の学習・継承におけるジェンダー化が見出され
あ曳するいとまの浦のあまの子はくるしきことや覚え
る。同時に,「和文」の伝統がそのまま「日本」という国
さるらん
(詠草23「四季応雑
園のわか艸」
)
家の歴史性・永続性・唯一性を証するものであることを考
えれば,その学習と継承は,国家が女性に要請する役割で
言うまでもなく一葉は沖縄の地に赴いたことはない。そ
れどころか,「沖縄県」という場所をどの程度認識してい
もあった。
同様の問題意識から,この報告では明治期の女性におけ
たのか,それすら疑わしい。しかし,上記のように,「沖
る「和歌」の学習をとりあげたい。中流・上流階級の女性
縄名所」として歌枕風の題詠をなすことは,その方法さえ
たちにおいては,和歌の習得は,女性らしいたしなみとし
習得していれば可能なのである。
て奨励されるものであった。しかし,和文の学習と同様に,
ところで,いわゆる「琉球処分」により琉球藩が沖縄県
和歌の習得もやはり,伝統の継承という側面から国家と深
となり,琉球王府が崩壊したのは明治一二年(一八七九)で
く関わるものである。さらに,和歌という表現様式の持つ
ある。沖縄の人々の「皇民化」を急いだ明治政府は,翌一
自動性が,詠歌の主体の意識とは別のところで,必然的に
三年(一八八〇),沖縄県学務課内に「会話伝習所」を設置
「天皇」に接続する機能を発揮していた。これら,女性と
し,さらに共通語・琉球方言対訳本『沖縄対話』が沖縄県
和歌の関係について女性の国民化という側面から問題化す
によって刊行された。沖縄の人々に対する「皇民化」政策
ることは,本研究プロジェクトを通じての継続的な課題と
の第一歩は,共通語の習得から始められたのである2。
したいが,ここでは,その考察の前提として,樋口一葉を
そのなかにおいて,〈和歌〉はどのような役割を果たし
事例に明治期の女性の和歌学習法を確認することとする。
ていたのだろうか。一七世紀から一八世紀にかけて,すで
に和文学と琉球文学の交流が見られ,薩摩との政治的関係
を側面から支えるためにも「和歌を詠むことが必修の教養
1.〈伝統〉の習得と国家
沖なわ県より依頼の歌師の君に添刪乞はんとてもて
行
ものへ行給ひて留守成しこそ
そ参らめとて帰る (「蓬生日記
いと筌なし
又こ
一」明治24・10・13)
科目として士族たちに課せられていた」という3。首里王
府の士族階級を中心に盛んに詠まれたと思われる「和歌」
は,王府の崩壊・明治政府による新たな支配といった大き
な政治的変動を間にはさみつつ,「同好者の結社」の活動
一葉日記に「沖なわ県」が登場するのはこの一箇所のみ
94
へと引き継がれた。その活動の一端が知られる『琉球新報』
紙上では,たとえば次のような「和歌」が見られる4。
岩かねのゆるきなきよは人のミかあそへるかめもうれ
しけにミゆ
(詠草33「詠艸」
)
大君の御代の光りに霊魂のまよふ暗路もあらじとぞお
もふ
護得久朝置
いずれの年も,一葉の歌は入選しなかった。ちなみに,
(「琉球日報」岡本恵徳「近代の沖縄における文学活動」
両年の天皇御製歌は,「山の端に懸れる雲も晴れそめての
『沖縄文学全集 第20巻 文学史』
海風社,一九九一年)
ほる朝日の影のさやけさ」「動きなき秋津嶋根の巖の上に
よろつ代しめて亀はすむらん」で,歌の巧拙は別として,
ここでの「大君」とはいったい誰のことだろうか。明治
一葉の歌においても明治天皇の歌においても,発想・用語
天皇だろうか,それとも幻想の古代の王だろうか。「和歌
ともにほぼ同趣であることに気づくだろう。たとえば,徳
習得は文化の習得であ」り,「その文化はナショナリズム
川義寛『宮中歌会始』は次のように述べている。
に結びつくものである」とするとき,詠歌という行為がほ
とんど自動的に「大君」を呼び出すという側面が焦点化さ
明治二年に歌会始が催された時には,詠進を許され
れよう。すなわち,自己表出の方法といったようなレベル,
たのは宮中御縁故の人たちであったが,明治七年には
歌う主体の意識とはまったく別のレベルにおいて,自動的
御題を公表して宮中民間の区別なく詠進が認められ,
に〈帝国〉と接続してしまう機能を明治の〈和歌〉が備え
明治十二年には點者により秀歌が選ばれて預選歌には
ているという側面である。
御前披講の栄誉が与えられた。皇室と一般国民が和歌
一葉もまた,この自動性と無縁ではありえなかった。そ
の一例として,歌会始の詠進歌の試作を見てみよう。萩の
舎への入門まもない最初期の詠草資料に,すでに明治一七
年度の題「晴天鶴」によるものが残されているが,ここで
によって結ばれるという劃期的行事は,其の後続いて
今日に到った。宮中の私的行事が公的行事となった…。
(徳川義寛「序」『宮中歌会始』菊葉文化協会編,毎日
新聞社,一九九五年)
は,明治二十四年・二十五年の二回,翌年の歌会始のため
の詠進歌として試作されたものを見ることにする。明治二
この言葉が示唆するのは,「歌会始」が和歌を媒介に天
十五年度の題「日出山」のために六首,二十六年度の題
皇と国民を結びつける装置として機能したことだろう。こ
「巖上亀」のために四首が残されている。そのうちの数首
の「歌会始」という装置の内部にあっては,一葉の歌がそ
うであるように,「公」性を意識し,与えられた「題」に
を紹介しておこう。
従って「和歌」の伝統をふまえて歌う限り,天皇の御代を
言祝ぐ言葉が自動的に紡ぎ出されるのである。
日出山
あし引の山たちいつる日のかけはいつくの国のひかり
一葉がこのとき詠進歌を試みたのは,おそらく「萩の舎」
成らん
という場所と深くかかわっている。「和歌習得」という本
のとかなるミよのすかたを山のはに見せてものほる天
質はさることながら,何よりもその人脈においてである。
津日のかけ
つづいて,一葉の和歌習得の場所であった「萩の舎」につ
(詠草27「詠艸」
)
いて見ることにしよう。
巖上亀
君かよのやすきになれて青渕のいはほにねむるかめも
有けり
2.「萩の舎」の教授方法
「萩の舎」は,女性歌人・中島歌子の歌塾である。一葉
95
が入門した明治一九年
(一八八六)
当時は全盛を誇っており,
像がよくかかつてをつた」5というが,萩の舎の書が属する
稽古日の土曜日には「坂の右側に,磨き上げられた黒塗り
千蔭流の祖・加藤千蔭は,賀茂真淵の高弟であった。稽古
に金の御定紋入りの人力車がずらりと並」んだという(疋
日は毎週土曜日で,そのほかに例会として月次会(十一月
田達子「樋口一葉」『主婦之友』1947・5)。まず,中島
は納会),年に一度の発会(二月)があった。この発会につ
歌子について簡単に紹介しておこう。
いて,一葉は日記に次のように記している。
中島歌子は,弘化元年(一八四四),現在の埼玉県坂戸市
に生まれた。中島家は太田道灌の重臣の子孫で,代々名主
師君(引用者注・中島歌子のこと)と共に車をつらねて
を務めた名家である。また,母方の福島家は幕府御用達の
会席へ趣く
豪商で,母もまた川越城の奥勤めをし,鍋島家と深い縁を
会者は四十人斗の見積り成し所追々に増加して五十人
結ぶことになった。嘉永五年(一八五二)頃には小石川安藤
にもなりぬ
坂の池田屋を買収して,旅館も経営するようになった。歌
別に小宴を開きて佐藤井岡田中三君并に師君おのれな
子は十歳の頃から水戸藩の分家・松平播磨守邸に御殿女中
ど歌話あり
に上がり,十八歳で水戸藩士・林忠左衛門と結婚した。忠
勘定のはなしなどす
みの子君すでに参り居られたり(中略)来
此日の点取題雪後春月(中略)諸君帰宅後
終会は八時頃成き
(「につ記
車を小石川によせて
二」明治25・2・21)
左衛門は藩内でも過激な勤皇派である天狗党の一員として
奔走しており,明治維新を眼前にして,元治元年(一八六
これらの歌会では,原則として競点がなされた。萩の舎
四)重傷を負い,自害して果てた。このとき歌子は二十一
で教授された詠歌方法は,伝統的な「題詠」である。あら
歳。維新後の東京に戻った歌子は,加藤千浪に師事して和
かじめ出詠歌を無記名で撰者に回覧させ,多数決によって
歌・書道を学び,旧派の歌人として名を知られるようにな
優劣を決める「各評」,あらかじめ出詠歌を参加者に回覧
った。明治一〇年(一八七七)頃,安藤坂(小石川水道町十
させ,当日,口述または筆記で論難し,それに対し作者が
四,現・文京区春日一一九)に歌塾・萩の舎を開き,上
陳弁して,判者が優劣を決定する「難陳」のほか,各門人
流・中流階級の女性を中心に,最盛期には千人余の門人を
の家でもよく自発的にもたれたのが「数詠」であった。一
抱えていた。
葉の親友・伊東夏子は次のように回想している。
明治期,歌塾においてどのような教授がなされていたの
か,その実態を伝える資料がほとんど残されていないなか
あの時分は数詠みといひまして,一日に三十題とか五
で,樋口一葉がその日記に詳細に書き記した萩の舎での稽
十題も出ます。その題の書いてある紙を片つぱしから
古の様子,門人たちの自主的な切磋琢磨,詠草資料として
開いては詠む,さういふ会を樋口さんと田中さんと,
残された中島歌子による添削の様相,また一葉日記に触発
それに私の母と私の四人で私の
されての一葉関係者による回想等は,当時の民間歌塾の教
た。ひとつ詠むのに一分間も考へてゐる暇がありませ
授・修行方法についての貴重な資料である。以下,それら
ん。
( 田辺夏子「わが友樋口一葉のこと」『婦人朝日』
資料に基づき萩の舎での稽古風景を見てみよう。
一九四一年九月)
家でもいたしまし
萩の舎は家のしつらえは二階造りで,教場は十二畳の部
屋を使い,四畳ぐらいの控間があり,居間と客室は二階に
稽古日当日には,当日出された題によって即興で詠む
あった。教場には床がついていて,いつも文人画などの掛
「当座詠」がなされた。一葉の入門当時は三∼四題で三∼
物と活花で丹精に床飾りがしてあった。佐佐木信綱の回想
七首程度であった。提出後,歌子が添削し,十点満点で採
によれば「坐敷の床には,真淵翁の考案に成つた人麿の画
点し,点を競わせた。これを「点くらべ」または「点取」
96
と言う。また,一葉が日記で「宿題」と呼んでいるものが
記している。
あった。これは広義の兼題,歌題をあらかじめ提示してお
いて作るものである。歌子は,毎回,宿題として五∼六題
此月は発会の事にて侍れば九段の坂上なる万亀ろうに
を与え,各題について数首を作らせ,次の稽古日に提出さ
て有けり
せ,添削し,評を加え,符号で評点を付した。そのほかに,
るに目とゞめてみればげにや善尽し美つくしたるきぬ
一葉は「恋百首」のように,百首歌の競作を友人等ととも
のもやうのおびの色かゞやく計に引つくろひ給ふ
人びともはや来給ひてこなたへとの給はす
(「身のふる衣
におこなっている。
まきのいち」明治20・2・21)
このほかに,萩の舎では書の指導に加え,『源氏物語』
や『古今和歌集』の講義等も行われていた。
のちに一葉は,社会への洞察を深め,これら上流階級の
概観しただけでも,門人としてこれらの修行に本気で取
女性たちの生活に強い反感を抱き,萩の舎的世界からは距
り組んだならば,それはかなり多忙でかつ厳しい修行の
離を置くことになる。それはまた,小説家としての一葉の
日々となっただろうことが推測される。実際のところ,門
自律のときでもあった。
人たちは,一葉や田辺花圃(=三宅花圃),田中みの子らの
さらに女性門人としては,田辺龍子(花圃)・天野瀧子・
ように自ら歌門を開くことをめざす者たちと,女性のたし
片山照子・田中みの子・伊東夏子・嶋田政子・乙骨まき・
なみとして和歌を学ぼうとする者たちとに分かれていた。
鳥尾広子・高田不二子・前嶋きく子・橋本花子・田辺静
樋口一葉は,現在では小説家として知られているが,彼女
子・清水田鶴子・小笠原つや子・水野銓子・中村とし子・
の本来の念願は,歌門をひらき歌の師匠として自立するこ
長齢子・中牟田常子・伊沢夏子らがいる。彼女たちの名前
とで,このことは,明治社会における女性の職業・自立を
は一葉日記に頻繁に登場し,一葉をめぐる女性たちの関係
めぐる価値観やジェンダー・バイアスを考察するにあたっ
性を形作っている。このような女性同士の関係性の場とし
て興味深い事例である。
て萩の舎を再考する必要があるだろう。
ところで,萩の舎の社会的地位を保証するものに,その
さて,このような門人たちの顔ぶれに加え,歌人として
門人たちの格の高さがあった。これはひとえに,中島歌子
の中島歌子自身の人脈が,加藤安彦・梅村宣雄・鈴木重
をめぐる親の代からの人脈によるものであった。先にふれ
嶺・伊東祐命・江刺恒久・小出粲・黒川真頼・三田葆光・
たように,歌子の実家は,母以来の鍋島家との縁が深く,
佐佐木信綱等々といった人びとの名を歌会への出席者とし
門人には鍋島侯爵夫人栄子・梨本宮妃伊都子・前田侯爵夫
て残すことになった。一葉が先にふれた歌会始への詠進歌
人朗子・綾小路子爵姉妹・中牟田子爵令嬢等々,錚々たる
を制作したのも,萩の舎の人脈と深く関わっている。次に,
貴顕の女性たちが名を連ねていた。一葉が萩の舎に通い始
これらの人脈と「国家」
(天皇)への道筋について,もう少
めた折の日記を「身のふる衣
し詳しく見てみたい。
まきのいち」とあたかも王
朝日記でもあるかのように名づけたのも,これらの人びと
に交わる萩の舎での生活が,まだ少女であった一葉には宮
3.詠歌と天皇
仕えのように感じられたからだろう。何より一葉は,ほか
宮内省に「御歌所」が設置されるのは明治二十一年(一
の門人たちとは異なり,「内弟子」という形での入門で,
八八八)
である。それに先立つ「歌道御用掛」
「文学御用掛」
奥の仕事等を手伝いながら歌の指導を受け,ほかの門人た
「御歌掛」の諸機関にはすでに,高崎正風・伊東祐命・小
ちの目からみれば「女中」を兼ねるような仕事も受け持っ
出粲の名が見えるが,いずれも中島歌子と深い親交のあっ
ていたのである。初めての発会の体験を彼女は次のように
た人々であった。伊東祐命とは加藤千浪門下において同門
97
であり,歌子は祐命の遺稿『柳の一葉』の跋に「伊東祐命
ぬしの加藤千浪の門にあそびしころ,おのれもかの園立な
らしつゝありければ,したしうかたらひ,になき言の葉の
九日
鍋島邸に行幸あり
師君参邸
午後十時頃帰宅
此日半井ぬしのもとに文を出す
十日
同じく行啓あり
師君参邸せられんとす
おの
友とむつびかはしたりき」と記している。高崎正風との交
れは明日宅に事ありて夫がもうけなさんとて暇を乞
流も,歌会などでの同席のみならず,私的な交遊に及んで
ふ
西村の礼どの参る
是に諸事をゆづりて帰宅
(「しのふくさ」明治25・7・9,10)
いたことが北里闌『高崎正風先生伝記』
(一九五九年)など
に見られる。また,小出粲は,その主催の歌会に明治一〇
年頃から参加するなど,歌子が専門歌人として世に出た当
この記述からは,一葉が師・歌子と明治天皇の距離を,
初からの知己である。萩の舎での歌会でも多く點者を務め,
そして自らと天皇の距離をどのように測定したのか,その
一葉日記にもその名はしばしば現れる。一葉が詠進歌を試
ことはうかがえない。両日とも,一葉は萩の舎の留守を預
作した明治二十四・二十五年当時をみれば,「御歌所」の
かっていたわけだが,九日の記述にある桃水宛の手紙は,
所長は高崎正風であり,また小出粲は二十五年から寄人を
現存資料では七月八日付のもので,萩の舎での醜聞により
務めていた。
別離を余儀なくされた桃水に対し,「私しは唯々まことの
この高崎正風・伊東祐命・小出粲という人脈は,萩の舎
兄様のやうな心持にていつまでもく御力にすがり度願ひに
門下に多くの華族階級の子女を集める一助となった。高崎
御坐候を」思いがけなく変なことになってしまった,「男
正風は「御歌所」所長として,皇后の和歌の指導に携わっ
女の別さへなくは此様にいやなことも申されず」おそばに
ていた。また,前節でふれたように,歌子の母・いく子は,
いて,時にはあなたのご苦労も分かち合えただろうに,と
鍋島侯爵家と深い親交があった。「萩の舎の後援者として
思いのたけを語っている。歌子が天皇と同席する栄誉に浴
6
の鍋島家の後光は,強大なものである」
(藤井公明)。萩の
しているあいだ,一葉の胸は桃水への思いで占められてい
舎門下の名流子女を代表する鍋島直大侯爵夫人栄子・梨本
たのかもしれない。
宮妃伊都子・前田利嗣夫人朗子,さらに交流が確認される
しかし,一葉の個人的感情とは別に,萩の舎という場所
近衛篤麿夫人衍子・貞子,伯爵広橋胤保夫人利子はいずれ
で〈和歌〉を詠み続けるかぎりにおいて,一葉と天皇は自
も鍋島家一門の女性たちである。また,御歌掛参侯綾小路
動的に接続してしまうのである。そしてそこには,和歌の
有良の娘八十子,子爵中牟田倉之助の娘恒子など,「令姫
機能,とくに「題詠」という詠歌方法が深く関わっている。
たち」
(一葉「よもきふ日記」明治26・2・26)を数え上げ
たとえば,佐佐木幸綱は次のように指摘している。
ればきりがない。萩の舎発会に初めて参加したおり,一葉
が彼女たちの姿を「おしならびて坂下り給ふさまむろにこ
幕末から明治のはじめにかけて,幾人もの優れた才能
めつる八重ざくらをならべ出たる如く」
(「身のふる衣
ま
を迎え入れつつも,短歌史の停滞を打破しえなかった
きのいち」明治20・2・21)と記したのも無理はないほど
現実があった。たとえば野村望東尼,たとえば樋口一
の華やかさが,萩の舎にはあったのである。
葉。彼女たちが「題詠」の規制力から自由だったとし
この人脈ゆえに,中島歌子は,鍋島家に明治天皇の「行
たら,換言すれば,文学の中で文学を考えず,自然,
幸」ならびに皇后の「行啓」があった際には,いずれもそ
現実,具体を遠ざけず,個性の顕現を抑制しなかった
の筵に連なった。この「行幸」「行啓」について,一葉日
ならば,ずいぶん短歌史はちがったものになっていた
記はそれぞれ次のように記している。
はずである。
(佐佐木幸綱「題詠とは何か」
『論集〈題〉の和歌空間』
98
和歌文学会編,笠間書院,一九九二年)
クスチュアリティのもっとも洗練された形の一つであるこ
とも確かだと思われる。このような文学的側面からの「題
「近代」文学としての短歌史を叙述する際の典型的な視
詠」の問題,そしてそれが同時に,自動的に「天皇」や
点であるが,しかし,明治期における「国家」と「和歌」 「国家」と接続する機能を有すること,この両者の交錯す
の連関を考えるにあたっては,むしろこの「題詠」という
る場として,明治期の女性歌についてさらなる考察を重ね
詠歌法こそが注目される。この点については,すでにその
ていきたい。
一端を拙稿「〈女性作家〉と〈国民〉の交差するところ―
一葉日記を読む―」
(『お茶の水女子大学
人文科学紀要』
第56巻,2003・3)
「樋口一葉と〈和歌〉」
(浅田徹ほか編
『和歌をひらく
第五巻
帝国の和歌』岩波書店,2006)
で論じたが,今後さらに,本研究会において,とくに昭憲
皇太后の和歌を対象としながら考察していきたいと思う。
佐佐木信綱は,萩の舎での樋口一葉を次のように回想し
ている。
注
1 菅
聡子「〈女性作家〉と〈国民〉の交差するところ―一葉日
記を読む―」
『お茶の水女子大学
人文科学紀要』第56巻,
2003
2 伊高浩昭「琉球処分
沖縄語
共通語」
『 思想の科学』87
号,1978・3
3 関根賢治・上里賢一「琉球の和文学と漢文学」
『岩波講座日
本文学史
第15巻
琉球文学,沖縄の文学』岩波書店,
1996
会の日には,一葉女史は次の間で机の前に座つて,当
座の探題をこしらへたり,競点の歌のあつまつたのを
清書などして,師を助けてをられ,披講のはじまる頃
から席上に出て,つゝましやかに人々と話などをして
をられた面影が,今もまざまざと目に浮ぶ
4 岡本恵徳「近代の沖縄における文学活動」
『沖縄文学全集第
20巻
文学史』国書刊行会,1991。和歌の引用も同資料
による。
5 佐佐木信綱「一葉女史と当時の歌壇の回顧」
『心の花』
1922・12
6 藤井公明「新旧歌壇の推移」
『明日香路』1954・5∼8
(佐佐木信綱「一葉女史と当時の歌壇の回顧」
『心の花』
1922・12)
* 本文中,一葉日記の引用は『樋口一葉全集
(筑摩書房,1976)
『同
先にもふれたように,萩の舎的世界との決別が,小説
家・樋口一葉としての自律のときであったのは事実であ
る。しかし一方,一葉は最後まで表現方法としての「歌」
を手放すことはなかった。日記には,彼女が新しい「歌」
に,また一葉歌(「詠草」資料)の引用は『同
第四巻(上)』
(筑摩書房,1981)
による。
* また,萩の舎の作歌修練法については,藤井公明「新旧歌
壇の推移」
(『明日香路』1954・5∼8),山根賢吉「萩の舎」
(『樋口一葉事典』おうふう,1996),野口碩「注記」
(『樋口
による表現を模索していたさまが数々残されている。その
一葉全集
試みにおいては,伝統的「題詠」からは遊離しつつ,しか
子については藤井公明『続樋口一葉研究
しなお「題詠」の手法が採用されている。このことは何を
第三巻(上)』
第三巻(下)』
(筑摩書房,1978)
第四巻(上)』筑摩書房,1981)を,また中島歌
中島歌子のこと』
桜楓社,1984)
等を参照させていただいた。
意味するのだろうか。前述の佐佐木幸綱の指摘にもあるよ
うに,従来,「題詠」の方法は「歌」の表現を画一化し,
ともすれば創造性を欠いたものとしてしまう,とするのが
一般的な評言であった。しかし一方,「題詠」が高度な文
学的知識・教養を背景としてなされる,いわばインターテ
99
「歌のことば,女のことば―その継いできたもの―」記録
日時:2006年3月18日
(土)14:00∼
於
:聖徳大学10号館12階小ホール
文学イベント「歌のことば,女のことば―その継いでき
たもの―」は,現代を代表する女性歌人・阿木津英氏を講
ら興味深い実践であるので,その様子を採録の形で一部そ
のまま掲載する。
師に迎えて開催された。
阿木津英氏は一九五〇年福岡県生まれ。九州大学哲学科
を卒業後,二四歳のときから作歌をはじめ,出版社勤務等
第一部 Ⅰなぜ「短歌」だったのか
Ⅱ文学としての「短
歌」 Ⅲ性差の問題
のかたわら,歌人としての道を歩み始めた。七九年,『紫
阿木津氏が自己表現としての「短歌」に出会ったのは二
木蓮まで』三〇首によって短歌研究新人賞を受賞。従来と
四歳の末だったが,当時はすぐに「短歌」の道に進んだわ
は全く異なる女歌の世界を予兆させるものとして高く評価
けではない。敗戦を境に,「伝統的なもの」に対する否定
された。『紫木蓮まで・風舌』
(1980,短歌研究社)で現代
的評価が時代風潮としてあったことも,その一因であった。
歌人集会賞受賞。八四年,『天の鴉片』で現代歌人協会賞
一方,「短歌」というジャンルを前近代的なものとし,比
受賞。歌人としての活躍に加え,フェミニズム批評ならび
較的低く評価する傾向も社会には存在した。
にジェンダー論を基軸とする多くの短歌論を発表し,評論
そのようななかで阿木津氏が短歌に心ひかれたのは,自
家としても名高い。ほかに『阿木津英歌集』
(1989,砂子
分の能力を十全に発揮したい,そしてその実力を実力のま
屋書房)
『宇宙舞踊』
(1994,砂子屋書房),評論集『イシ
まに評価されたい,という思いを抑えきれなくなったから
ュタルの林檎』
( 1992,五柳書院)
『 短歌のジェンダー』
だ。とくに歌人・石田比呂志との出会いが,短歌という表
(2003,本阿弥書店)ほか多数。
現,文学の可能性を大きく感じさせた。同時に,斎藤茂吉
の歌を本格的に学ぶなか,自分の表現を手に入れるために
「産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさ
みどりのなか」
おいて,文語定型は旧態依然の表現として否定される傾向
「男女にて棲むあわれさは共どもに瓢箪に呑み込まる
るごとし」
にあり,とくに新世代の歌人たちにあっては,文語定型へ
の反抗は,ある種の社会的・時代的圧迫感への抗いと同義
「水楢の林にくらくまもられてわれ立てりけり。―黄
葉流るる」
は,まず「文語定型詩」を学ぶ必要を強く感じた。戦後に
阿木津英
であった。阿木津氏もその一人であったが,斎藤茂吉歌と
の出会いにより,文語定型に身を投じることを通して,言
葉のリズムや韻文と散文の差異など,広範な問題意識と可
全体のプログラムは大きく二部からなり,まず第一部で
能性を示されることとなった。
は阿木津氏の個人史と重ねるかたちで,戦後の短歌史,と
七〇年代から歌人として歩み始めた阿木津氏は,短歌を
くに女性短歌史が概観された。さらに,その講演内容をふ
めぐるいくつかの大きな時代の変わり目に立ち会うことに
まえて,司会担当者(菅)との対話のかたちで,さらに女性
なった。その一つは,俵万智の登場を一つの象徴とする,
短歌をめぐるさまざまな見解が示された。続く第二部では, 「短歌」の(ある意味での)一般化である。メディアとの関
自身,大学やカルチャーセンター等で短歌指導を続けてい
係のなかでその受容層は大きく広がった。同時に,出版マ
る阿木津氏が,それらの受講生が創作した短歌を素材に,
ネージメントとの関係も生まれた。もう一つは,「歌」を
添削指導のプロセスを再現するかたちで実践された。以下
めぐる性差の問題である。大学を卒業後,社会に出て,そ
の記録では,まず第一部については,司会を担当した菅の
れまで意識したことのなかった性差の抑圧を体験すること
文責において,その講演内容ならびに対話の内容を要約す
になった阿木津氏は,それへの抗いから,「阿木津英」と
る形で示す。第二部については,伝統の教授という観点か
いう中性的なペンネームを選んだのだと言う。一方,作歌
100
をめぐっても,ジェンダー・バイアスは色濃かった。「恋
歌」は女向きのテーマとされ,思想的な歌は男性のテーマ
とされていた。そのなかで,阿木津氏ら新しい世代の女性
写真2
歌人たちは,そのようなジェンダー・バイアスとある時は
阿木津英氏
(右)と聞き手の菅
聡子
戦い,ある時は戦略的に「女」を歌うことによって,表現
者としての自己を確立していった。道浦母都子・河野裕
在しないという非対称が象徴するように,本来「文学」は
子・松平盟子・今野寿美といった新世代の女性歌人たち
男のものであって,女がなすそれは,わざわざ「女流」と
が,次々と新しい表現の道を拓いた。そのような動きの一
断られねばならなかった。それに対して,伝統的な「和歌」
つとして,阿木津氏もその企画・開催に携わった,女性歌
の系譜においては,むしろ女性歌人が存在することそれ自
人のみをパネリストとしたシンポジウムなども行われ,多
体が「和歌」の伝統だという観点は,近代以降の文学にお
くの聴衆を集めた。
ける性的役割分担を照射する興味深いものだと思われる。
女性たちが家父長制度下の役割を離れたところで,自ら
の欲望や身体を自由な感性で歌う試みが次々となされ,八
〇年代から九〇年代にかけて,女歌の領野は大きく拡がっ
たのである。
第二部
バーチャル歌会
このパートでは,司会担当の菅が生徒役となり,歌会で
の競点,また添削指導を再現するかたちで進められた。あ
さて,続く司会担当者との対話のパートにおいて,阿木
らかじめ阿木津氏より与えられていた十首の歌(実際に阿
津氏は「伝統」という観点から,「和歌」と「短歌」の連
木津氏が講師をつとめるカルチャーセンターで,受講生が
続性についても論じた。一般に,文学史上では明治近代以
作歌したものを,本人の了承を得たうえで,このバーチャ
降の歌,とくに正岡子規の短歌革新運動をメルクマールと
ル歌会の素材として提示された)から,まず,菅が「好き
して,近代以降の歌を「短歌」と呼んでいる。たとえば,
な歌」として選んだものについて,対話がなされた。以下
与謝野晶子の歌は「短歌」だが,樋口一葉の歌は「和歌」
は,その一部の採録である。
である。しかし歌人としての阿木津氏の実感においては,
和歌から短歌への転換は,決して過去のものを切り捨てな
がら行われたのではないと言う。『万葉集』や『古今集』
「カルチャーの椅子に座りて安らぎし思い叶いて還暦
すぎに」
の痕跡が昭和の歌人の歌にも見出される。むしろ,長い時
間の積み重ねのうえに,新たな歌の言葉が生み出される。 【選んだ理由】この歌を読んで物語が浮かんだ。
「還暦すぎ」
その際に,もっとも意識されるのは「言葉」そのもの,具
とあるので,戦争の終わり頃か終戦の頃生まれた方で,戦
体的には一方には伝統的な歌の言葉としての「雅語」があ
後の日本をともに歩んでいらした女性の方の歌だと思っ
り,しかし時代の変遷とともに,俗語や性的な色彩を帯び
た。結婚して,子どもを育てて,自分の時間を持たずに,
る言葉などが詠み込まれる。この言葉の感覚をめぐっては,
がんばってきた。今やっと自分のために時間を使おうと思
第二部の実践において具体的な教授がなされた。
ったとき,自分の学びのための時間とした。男性も可。
また,『万葉集』の時代以来の女性歌人の存在それ自体
(阿木津)そうですね。この歌は,今おっしゃったように,
が,「和歌」「短歌」における伝統である。この指摘は,女
たぶん女性だろうと思うんですが,自分の学びの機
性表現者をめぐる新視点であり,興味深い。すなわち,
会をいつもいつも先に先に繰り延べてきた人の歌で
「女流文学」という語は存在するが,「男流文学」の語は存
すよね。自分はそれを十分にできなかった。ようや
101
くすべての子どもが大きくなって結婚させて,いろ
として受け入れられる。
んなことが終わったその人生の最後に,還暦という
(阿木津)そう。俵万智さんの言葉はそういうふうにできて
のは人間のちょうど節目ですけど,その時にその思
いる。無理してないですね。無理に文語になんかし
いが叶ったという,そこのところがとてもよく出て
ていないから,今流布しているままの,通俗は通俗
いていいんですよね。そういう点で賛成です。ただ,
なりの言葉をそのままとっているから,変でないん
ちょっと表現の上でですね,問題があるんですが,
ですね。
それはどこでしょう?
(菅) 還暦すぎに思い叶いてというのが自然な順序では。
(阿木津)その方がスムーズに流れますよね。気持ちも良く
出ると思う。
(菅) 「安らぎし」は文法的に正しいですか?「安らげり」
でしょうか?
(阿木津)
「安らぎし」「安らげり」というのは変。「安らけ
(菅) それはそれで統一されていると言ったら変ですけれ
ども,そうすると不自然さはないわけですね。
(阿木津)そうです。でも,どこか俗っぽい言葉に変わりは
ない。根がないということも同じです。それから
(この例歌には問題が)もう一個あるんです。それは
「カルチャーの椅子」。「カルチャーの椅子」って何
でしょう?
し」というのが正しいのです。「安らぐ」というふ
(菅) そうですね。直訳すると「文化の椅子」。笑。
うに私たちは使いますね。緊張していたものが解け
(阿木津)これは省略しているんですね。本当はカルチャー
ていくというように感じられます。しかし辞書に
センター。言うなれば,「カルチャーセンターで椅
「安らぐ」
「安らぎ」という言葉はないんですよ。「安
子に座りて」ですよね。この省略,これもいけない
らぎの空間」なんてない。歌の中には使えません。
んです。私たちカルチャー,カルチャー言っている
使うとなんだか変なんですね,直感的にそう思う。
からね。それはそれで通じるんだけど,歌にすると
(菅) 変だと思うのは,そもそもその言葉がないからです
きには,どうしてもこの省略語っていうのは軽薄に
か?
なって。なじまない。
(阿木津)ないというか,来歴がない言葉だから。その言葉
(菅) たぶんあれですよね。そうしちゃうと五・七・五・
に根がないからです。TVとかで最近出来た言葉だ
七・七にはまらないっていうのがあって。そうする
から,どこか俗っぽいんですね。実際に耳で聞いて
とついこう略語の方に走ってしまうという。違う言
いる間はそんなことは感じないんですが,いざ短歌
葉を見つけないといけないんですね。
の上にのせてみると変なんです。
(阿木津)なんとかしてやらないといけない。だから,そう
(菅) 第一部でご紹介されたメディアに上手くのった俵万
いうのをデモとかストとかね,それからJRとか
智さんのような,彼女以降の若い女性歌人がよく使
Suicaとかああいうやつはなかなか使えない。ビル
う言葉というのは,まさしく私たちが普段使ってい
でさえ使いにくいです。ビルディング。そこの辺に
る言葉のように思いますけど…。
あるビルをどのように歌に使うかっていう時に,ビ
(阿木津)あれはね,ここ「安らぎし」としているでしょ。
これ「安らぐ」というそもそも最近の言葉であるに
ルっていう言葉は非常に使いにくい。軽いんですね。
(菅) それはでも,使いにくいって感じられるのは阿木津
もかかわらず,文語体にしているから変なんですね。
さんだからであって,例えば私が今「あの建物をみ
これを「安らぎの空間」と使ったらいいんですよ。
て詠んでごらんなさい」と言われたら,「早春のビ
(菅) そうしてしまえば,逆に,それはそれでひとつ言葉
ルの何とか」。つい使ってしまいそうな気がするん
102
ですが。
らね,「郵便配達夫」は。漢語を歌の中に無思慮に
(阿木津)そうなんです。ところが,そこで私に「ビルなん
入れますと,レンガがね,ゴロゴロ転がっているよ
てダメだよ」とか言われるでしょ。お腹の中では
うなかんじがするんですね。歌はレンガがゴロゴロ
「ビルはビルじゃないの」って思ってたりするでし
じゃ困るんですよね。ちっとも美しくないんですね。
ょ。そういうことをずっと積み重ねていっているう
(菅) そうすると,その「郵便配達夫」と「文配り人」も,
ちに,「あぁやっぱりビルってなんかすごく使いづ
どちらにしようかというときは,むしろそこまでに
らいな」ってそういうふうに。
きている言葉の,使われている言葉の流れによって,
(菅) それが歌を学ぶっていうか,自分で好き勝手にノー
トにただ書くのとは違って,言葉を学ぶということ
なんでしょうか。
っていうことなんですか?それとも時代の違いです
か?
(阿木津)世間では大体「郵便配達夫」って言ってるんです
(阿木津)そうなんです。歌は,最初は勝手に作っていいも
ね,世間では。ところが,それを歌の言葉に入れよ
の,そこに三十一音ってあったら,自分で勝手に入
うとしたときに,はたと困る。「「郵便配達夫」は歌
れていいものに感じられます。ところが,ある程度
にならん」って思うわけですね。その時に一生懸命
やってくると,そこには自分では右にも左にもでき
考えるわけです。これを音だから,訓読みしてみる。
ないものがある。ということに,そういう感覚に気
訓読みにすると何か。文を配る人だから「文配り人」
が付くんです。歌がヤダって抵抗するんですね。そ
だなっていうふうに,そういう操作を経ないと馴染
んなもの入れないって。歌がはじき飛ばすというの
んでいかないというところがありますね。
か,右にも左にも,お前ひとりの力じゃ動かないぞ
っていったような力を発揮するんです。ですから,
このあと,さらに四首について対話がなされ,続いて来
和歌から短歌になろうというあのときに,「どんな
場者から推薦歌が示され,阿木津氏との質疑応答となった。
言葉だっていいじゃないか」と子規は言いました。
以下,その応答を抄録する。
「入れていい」って。「じゃあ入れましょう」って。
入れたっていい歌にはならない。というか,腹にこ
たえるものにはならないわけなんですね。例えば,
「木を歩む母猿の腹に下がりつつ空見たものを子猿の
われは」
テーブルっていう言葉ひとつ,カタカナ語ひとつ入
れるのさえ大変なんです。子規は何と使ったか。 (阿木津)これはどういうようなことを言っている歌だとお
「足高机」って。
(菅) かえって難しい。
(阿木津)そうなんです。でも,そう言わないとね,歌の繊
思いになったでしょうか?
(来場者)動物園か何かで,猿の親子を見ていて,その自分
の母親と自分になぞらえているのだと。
維がはじき飛ばすんですよ。それからもうひとつは, (阿木津)場面はどういう場面でしょうか?
いっぱいあるんだけど,「郵便配達夫」。あれを「文
配り人」と言った。「文配り人」って言わないとね,
(来場者)木の間をつたっていくのかなと思いました,母猿
と子猿が。
歌がちゃんとなってくれないんですよ。でも今は, (阿木津)そうですよね,木の間。そして,子猿はどうして
それがいつの間にか「郵便配達夫」って,むしろきち
んと言った方がよくなってます。あれは漢語ですか
いる?
(来場者)しがみついて。
103
(阿木津)どこに?
ってね。「枝の間の空の青さを見たりしものを」と,
(来場者)母猿のお腹のところに。
こうきますと,すごくいい歌になりますよね。子猿
(阿木津)そうですよね。そういう歌です。木をつたって歩
はいらないんです。もう子猿って言葉はいらないん
いている母猿の腹にしがみついている小猿ですね。
です。「母猿の腹に下がりて」といったら,もう子
そしてその子猿から見た空,空を見たなぁ,子猿の
猿に決まってますから。母って出したら子ですよね。
私はっていうふうな歌になっている。ただ,一読で
(菅)「私」も示さなくてもわかるということですね?視
わからないですよね。大変に読みづらい,意味がす
線の動きをたどるだけで,これは私が見ているのね
ぐにはこないです。ただ,面白いと思います。これ
っていうのがわかる?
は自分が子猿になったつもりで,歌を作っているん
(阿木津)そうそう。
ですね。では,それがわかるように歌わなきゃいけ
(菅) そういうときは,「我」とか「吾(あ)」だとかはい
ない。こういうところに,ある意味,修練がいるわ
らないんですね。
けなんですよね。これ人が読んでもわからないです
(阿木津)いらないんです。子猿もいらないですよね。「あ
から。面白いんだけど。だから,わかるように歌う
の空の枝の間の空の青さを,子どもの頃見たのにな
ためにはどうするか。「木を歩む」を削りますね。
ぁ」というふうな詠嘆が出てくるんですね。
それから,「母猿の下がりて」,もうここは自分が子
(菅) なんかちょっとせつない。もう子どもじゃないんだ
猿になって歌わないといけないんですね。外から見
たようにしてこの人は最初始めているんです。どこ
という。
(阿木津)そして,あの空の青さは何だったんだろう,と。
を歩んでいるかなんてわかるもんですか,こうやっ
あの目にしみるような青さは。そういう思いがある
てぶらさがっていたら。だから子猿の気持ちになっ
わけなんですね。「見たりしものを」,見たのになぁ
て歌わないと。
ということですね。とてもいい歌になって。めった
(菅) だからわかりにくいんですね。前半の視線の位置と
後半のが一致していないんですね。
(阿木津)そうです。前半は外側から見ている。子猿にとっ
にこんな歌ないですよね,こんな風に子猿の,自分
が子猿になった気分になって歌ってるなんて,そん
なのないですよね。だから,とても面白い歌です。
ては,地面を歩いていても,木の上を歩いていても,
しっかりぶらさがっていたら,空しか見えないわけ
ですから,「木を歩む」はいらないわけなんですね。
さらに,阿木津氏は提示された歌について,それぞれ丁
寧な解説と添削を実践し,実に興味深いものとなった。会
「母猿の腹に下がりて」そしてここで空を見ればい
場の参加者からも,活発な発言がなされた。そのなかで示
いわけなんですね,どんな空が見えるか,木の上を
された,先にふれた「言葉」の感覚をめぐる阿木津氏の発
歩いていると。ここで木が出てくればいいんですね。
言を以下に採録する。
こう抱きついていると,「あぁ今木の上歩いてるな」
っていうふうに思えるのはなぜかっていうと,枝が
あるからきっと。枝が見えるでしょう。だから「枝
104
(菅) どういう言葉が自分の言葉かっていうのは,自分に
しかわからないことですか?
の間の」ときますよね。「母猿の腹に下がりて枝の
(阿木津)自分の手の内に入った言葉ですから,使いやすい
間の空の青さを」,ここは私がつけたして。曇って
言葉ですね。でも,それを常に常にたくさん言葉を
たかもしれないけど,やっぱり青の方がいいなと思
読んで,詩袋,詩の袋っていうんですけど,それを
ふくらませておかないと,使ったら使っただけの垢
に私がやってみましょう,と。「寒夜の月」ってこ
がつきますので,一回目は手持ちのでいい歌ができ
ういう伝統的な題で作るんですね。「破れ窓に」,昔
ても,また同じことを繰り返していけば絶対,硬化
はガラスの窓ではありません,板戸ですから破れ窓
っていうか動脈硬化を起こすんですね。だから,そ
なんですね,あばら屋です。「破れ窓に凍れる月の
うならないために,いつもなんていうか言葉を繰り
影さして」,冬の寒い月の影が板戸の隙間から差し
入れていく努力っていうことはしないといけないで
てくるわけですね。「北吹く風に」,北風がピューピ
すね。
ューと吹いていて,「狐鳴くなり」と,狐がコーン
(菅) それは何かを読んだりというだけでなくて,むしろ
と鳴いていると。すごいという風景を出しているわ
ひとつのものを見たときに,いろんな言葉で表現で
けですね。ちょっとこけおどしのような感じもあり
きるようにする,そういうことですか?
ますが。こういうふうにして和歌は作るべきだと言
(阿木津)それもあるし,いつもものを読んで,その言葉を
っている。典型的な伝習した和歌ですよね。「破れ
採集っていうんだけど,するし。実際,私たちがし
窓に凍れる月の影さして北吹く風に狐鳴くなり」こ
ゃべるっていう言葉は,英語でもそうなんだけど,
れじゃつまらんじゃないかと。だから,口語でやっ
しゃべるためには,ごく少ない語彙でいいんですよ
てみましょう,私がやってみましょうっていったの
ね。少ない言葉でいいわけなんです。近代の短歌と
がどれか,どんな歌かというと,「きらきらと破れ
いうのになったら,やはり昔のように,「ちゃんと
障子に月さして風はひゅうひゅう狐きゃんきゃん」
暗記して,古典の和歌学んで,そういう歴史的な古
っていう。
典を勉強してからじゃないとできませんよ」みたい
なことはなくて,ぽっと作っても,歌は歌だという
(中略)
(阿木津)そうなんです。口語っていうのは作るとこうなっ
ふうになってきているわけなんですね。ですから,
ちゃうんです。そういうことで,それから比べます
小学生でもできるし,誰でもそういうことをしたこ
と,うんと自由に口語でいい歌を作っていますけれ
とがない人でも,作っていいものはいい,となるわ
ども,しかし,それでいいっていうなら,次の新し
けなんですけども,その時にどうしても口語になり
い世代が出て,今の時代はこんなのが新しいんだよ
ます。学生なども口語を使うんですが,それは学生
って自分の時代の口語で作っていくでしょう。でも,
だから新しい口語の歌ができていいなっていうそれ
それは私は近代の迷信だと思うのね。新しいものが
ではどうもダメなんですね,歌っていうのは。私も
いいことだと,自分の言葉で歌うのが自然だ。これ
最初抵抗しましたように,口語自由律っていうのは,
はやはり近代の迷信っていうか呪縛っていうか,そ
当然,言文一致体が始まったと同時に始めたことで
ういうのものだと思うんです。本来,どこの国でも,
ありまして,そっちでやるべきだ,っていうふうな
どんなところでも知的に洗練された人っていうの
流れは実は明治時代からありました。これはいつも
は,いろんなレベルの言葉,言語を獲得しています。
面白いから言うんですけど,言文一致の主張で和歌
自分の国だけでなく,よその国のものまでも獲得す
改良論があって,「寒夜の月」っていうのがあって,
るわけなんだけど。様々なレベルの言語を獲得して
これは林甕臣っていう人の和歌改良論の中で,「口
いるわけなんですね。そういう人を,人も尊敬する
語で作ったらいいじゃないか」「普通にしゃべる言
わけなんです。ですから,そういうふうに自分の手
葉で作ったらいいじゃないか」っていうので,試し
持ちのもので間に合わせでね,それが新しいんだっ
105
ていうのは,それは違う。だからやっぱり私たちは
少なくとも文化というものを求め,持っている限り,
少しでも新しい,新しいっていうか古い様々な次元
の,レベルの言葉っていうものを獲得したいと願う
のか。人間の自然な,そこに自然と使いたいですね,
自然な欲求です。新しいものを知りたいというのは
人間の欲求だから。そして,新しいものはどんなも
のかっていうと,自然体ってよく言うでしょ。あん
な風な自然体じゃないんです。自然に反するときに
一番生き生きするわけで,型っていうようなものが
ありますよね,そういうふうな型にあてはめられよ
うとする,その時にはある抵抗が働きます。その抵
抗がまた人間を何か生かしていくわけなんですよ
ね。武道で自然体っていうのは,―「私は自然体で
歌っている」というような言い方を聞くたびにむか
むかしてたんですけど―自然体っていうのは武道の
言葉ですよね。本来は最初に武道の剣だの,刀の振
り方から全部型で学んでいって,最後にそれが抜け
出たときに自然体っていうんですよね。それが今で
は最初から,最初の初期,入った入り口で,何にも
知らないでつったっているのを自然であるとか言
う。それはやっぱり非常に何て言うかつまらないこ
とだなと思います。
(文責:菅
106
聡子)
<資料>第2回公開イベント
チラシ(表)
<資料>第2回公開イベント
チラシ(裏)
論文と公開イベントの記録
3.スコティッシュ・ダンスをめぐって
「伝統」はだれの手に?―スコティッシュ・カントリーダンスの展開
高松
晃子
1.はじめに
するための実に便利な記号である。しかし,踊っている
文化のグローバル化に関する議論は,ここ10年ほどの
人々にとって,ナショナリスティックな文脈はほとんど機
間に勢いを増したが,現在はおおよそ3つの方向に落ち着
能していない。彼らにとってそれは単なる趣味であり,し
いてきたように見える。ひとつは,ある支配的な文化の力
かも,多くの場合スポーツに近い。「スコットランド」と
が強すぎるあまり,地球上どこへ行っても同じようなもの
してのナショナリスティックな記号は,たいていの場合,
に出会ってしまうという,いわゆる文化のマクドナルド化
踊らない人が利用するものであり,舞踊の本質は,だれが
現象を憂慮するもの,もうひとつは,文化の接触・融合の
どこに行っても同じように踊れる,国籍不問の共通言語的
結果生まれる,ハイブリッドなおもしろさを積極的に論じ
性質なのである。
るもの,そしてまた別に,グローバリズムの渦中で自文化
本稿では,次の2つの点を考えていこう。まず,スコテ
を主張しようとする動きに見え隠れするナショナリズムに
ィッシュ・カントリーダンスが現在「ナショナル・ダンス」
注目するものである。
としての地位を獲得していることについて,少々疑ってみ
本稿で考察対象とするスコティッシュ・カントリーダン
ることにしたい。この舞踊は,「ナショナル・ダンス」と
ス Scottish Country Danceも,きわめてグローバルに展
しての実体をどのようにして獲得し,その正当性はいかに
開している地域文化のひとつである。ところが,その割に,
して説明されうるのだろうか。もうひとつは,その伝承の
グローバル化議論の対象になることが少ない。理由を見つ
されかたに関する問題である。グローバリズムの文脈にお
けるのはそれほど困難なことではないだろう。第一に,こ
いては,エスニック・アイデンティティの表出を目的とし
の舞踊の存在のしかたには,抑圧や抵抗や諦めといった,
た舞踊行動や,それをよりどころとした共同体の維持ある
グローバル化問題にお決まりの構図が見られない。スコテ
いは創出は,人々をある閉じた領域に囲い込むことを前提
ィッシュ・カントリーダンスが世界中で踊られていること
として語られる。しかし実際は,地域や国家を越えて開い
は,力ずくで異文化を接収してゆくような,文化の支配/
た空間に散らばっている,いっけん関係性をもたない人々
被支配の論理で説明できるような性格のものではなく―も
の興味に訴えることによって,ある舞踊文化が伝承される
ちろん,おおもとにはその問題があるのだが―ある種平和
場合がある。スコティッシュ・カントリーダンスはそのよ
的な戦略の結果なのである。第二に,スコティッシュ・カ
い例である。自分たちの伝統を,思い切って他人の手に委
ントリーダンスは,地球上のどこで踊られようと変化のし
ねるとどうなるのだろうか。
ようがなく,従って,ハイブリッドなものが出現する可能
性はないに等しい。第三に,この舞踊を踊るということは,
2.「ナショナル・ダンス」概念の生成
ナショナル・アイデンティティの表出とほとんど無関係で
スコットランドには現在,一般的に「ナショナル・ダン
ある。もう少し正確に言うと,ナショナル・アイデンティ
ス」あるいは「トラディショナル・ダンス」と認識されて
ティに関しては,見かけと本質に大きなずれがある。この
いる舞踊が4種類ある。本稿で取り上げるスコティッシ
舞踊は,うわべはたいそうナショナリスティックなものに
ュ・カントリーダンスと,ハイランド・ダンス Highland
見える。それは,踊り手が身につけている,誰が見てもそ
Dance,スコティッシュ・ステップ・ダンス Scottish
れとわかるスコットランドの衣装によるところが大きい。
Step Dance,ケイリー・ダンス Ceilidh Danceである。
実際に,その外見を利用して観光ショウや大使館のレセプ
スコティッシュ・カントリーダンスとケイリー・ダンス
ションなどに役立てられていることを考えれば,スコティ
は,基本的には社交のための舞踊であり,コミュニケーシ
ッシュ・カントリーダンスは,スコットランドをアピール
ョンと踊り自体を楽しむことが大きな目的となる。それに
110
対して,ハイランド・ダンスは競技舞踊で,はじめから人
さきがけとなったのは,テイラー Taylor, G. Douglas に
に見せること,競技で優劣をつけることを目的としている。
よる『スコットランドの伝統舞踊Some traditional Scot-
スコティッシュ・ステップ・ダンスはその中間の性質をも
tish dances』
(Taylor: 1929)で,しばらく間があいてマ
っている。これはソロ・ダンスで,個人のテクニックを磨
クレナン MacLennan, D.G. による『ハイランド・ダン
いていくことが楽しみのひとつだが,互いに向かい合って
スと伝統舞踊Highland and traditional Scottish dances』
踊ったり,ラインになって踊ったりと,自由な形で楽しま
(MacLennan: 1950)
とサーストン Thurston, H.A. によ
れてきた。ただ,この舞踊は本国ではすっかり廃れてしま
る『スコットランドの舞踊Scotland’
s dances』
(Thurston:
い,現在はスコットランド人の移住先のひとつ,カナダの
1954)が現われる。
(それまでも「スコッチ・リール」の
ケープ・ブレトンで復興されている。
ように地域名が付されたことはあったが,それは単に他地
さて,スコットランドにおいて,
「ナショナル」の語が舞
域の類似の舞踊と区別するためだった。)この動きについて
踊と結びつき,一国の舞踊の総論が書かれるようになった
は,スコティッシュ・カントリーダンス協会Scottish
のはそう古いことではなく,20世紀初頭になって初めて現
Country Dance Society
(SCDS)
の設立
(1923年)
がひとつ
れる
(例えば,J. Grahamsley Atkinson, Scottish National
の契機になったと考えて間違いないだろう。この協会が,
Dances, Edinburgh, 1900, Donald R. MacKenzie, The
National Dances of Scotland, Glasgow, 1910)。それま
「伝統」の実体を作り,それが受け入れられていったこと
については後述する。
での写本や出版物は,個々の舞踊の踊り方教本が中心のき
わめて実用的なものであり,それも,ジャンル別に語られ
るのが普通だった。19世紀に出版された舞踊書の表題を
見ると,「カドリール」「ストラススペイとリール」といっ
たように,当時一般的に用いられていた具体的な舞踊のジ
3.「ナショナル・ダンス」としてのスコティッシュ・カ
ントリーダンス
3-1
概観
スコティッシュ・カントリーダンスは,いわゆるセット
ャンル名,あるいは,現在のスコティッシュ・カントリー
(組)
・ダンスである。踊り手の男性はキルトを身にまとい,
ダンスの母体となった「ボールルーム・ダンス」なる語が
女性は白いロングドレスにタータンの長い布を肩から垂ら
多く(例えば,William Smith, Complete Guide to the
すのが決まりだ。いまやスコットランドを表わす記号とし
Ballroom, Inverness, c. 1889),内容は個々の曲をどう
て全世界的に認知されているタータンを使っていること
踊るかというガイドに終始している。舞踊を歴史として記
で,このダンスの出自は誰の目にも明白に映る。
述したり,ナショナリティを表出あるいは代弁するものと
しかしながら,スコティッシュ・カントリーダンスはき
捉えたりした様子は見られない。1805年に出版されたピ
わめてグローバルな展開をしている。いまや,一部の地域
ーコックの書物は例外的だが
(F. Peacock, Sketches rel-
を除けば世界中どこでも踊られていると言ってよいほどに
ative to the history and theory but more especially to
普及しているのである。この現象にスコットランド移民が
the practice and art of dancing, Aberdeen, 1805),そ
一役買ったことは間違いない。カナダ,アメリカ,オース
のタイトルが示すように,これとて歴史や理論よりも実用
トラリア,ニュージーランドなどで盛んに踊られているこ
を重視した記述になっている。
とについては,移民を持ち出すことで妥当な説明になろう。
舞踊の文脈で「トラディショナル」という言葉が現われ
しかし,日本にも愛好者が1万人単位で存在し,教師の養
たり,「スコティッシュ」と「国籍」の但し書きがついた
成やダンス・パーティーが行われていることや,はるかア
りするようになるのはも,20世紀に入ってからである。
ルゼンチンやボリビアにもロイヤル・スコティッシュ・カ
111
ントリーダンス・ソサエティ(RSCDS)の支部があること
でもなかった。というのも,スコティッシュ・カントリー
は,どのように考えればよいだろうか。
ダンスは,その成立過程からして純正スコティッシュとは
一般的に,ある国や地域に伝えられる「伝統的なもの」
いえないところがある。そもそも,カントリーダンスとい
は,しばしば伝承の危機に陥るが,それをいかに乗り越え
うジャンルが発生したのは17世紀のイングランド宮廷で
るかで,地域の人々の知恵が試される。結論から言うと,
あった。エリザベス朝時代にイングランドの上流階級の間
スコティッシュ・カントリーダンスは,地域性や秘儀性を
で流行し,スコットランドの貴族社会にそのスタイルが流
あきらめて汎スコットランド主義を採用したことにより,
入したのは1700年頃である。スコットランドに入ったカ
世界的な流通性を獲得して命脈を保ったのであった。多様
ントリーダンスでは,リールと呼ばれる,8の字を描くス
性を重んじるこの国にしては珍しく強引な方法論であり,
コットランド様式のフィギュア(床に描く形)が用いられる
それが行われた1920年代から現在に至るまで,この大改
ようになり,それが好まれたためか盛んに踊られた。
革に対する批判は絶えない。しかしながら,当時そのまま
1700年からいくらもたたないうちに,その他の階層にも
地域の伝承に頼っていたら,ダンスの命運はどうなってい
浸透し,スコットランドの18世紀は,カントリーダンス
ただろうか。
の黄金時代を迎えることとなった。ミリガンがこの時代に
憧れたのも無理からぬことである。ただし,少なくとも
3-2 スコティッシュ・カントリーダンスの出自と「ナシ
ョナル・ダンス」の創設
上述の汎スコットランド主義を決断したのは,1923年
18世紀末までは,スコットランドにおいても,カントリ
ーダンスはイングランド起源であり,外来のものと認識さ
れていたようである(Flett 1966: 4)
。
にスコティッシュ・カントリーダンス・ソサエティ
19世紀に入ると,上流階級の舞踏会では,サークル・
(SCDS)を設立したジーン・ミリガンJean Milliganである
ダンスやスクエア・ダンスの人気に押されてスコティッシ
(SCDSは1952年にロイヤルの称号を得てロイヤル・スコ
ュ・カントリーダンスは次第に踊られなくなっていった。
ティッシュ・カントリーダンス・ソサエティ(RSCDS)に
さらに20世紀になると,第一次世界大戦後のジャズの興
改称。この先,この団体に言及する際はRSCDSに統一)。
隆により,スコットランド音楽とそれに伴う舞踊の数々は
彼女は,
“traditional”
,
“correct”
,
“authentic”などといった
一掃されてしまう。それ以外の階級や田舎の地域において
言葉を愛用しつつ,直前の19世紀ではなく18世紀からの
は,変化の訪れはより緩やかで,第一次世界大戦直前まで
連続性を希求し,国民的舞踊の再構築に心血を注いだ。各
は好んで踊られていた。しかし大戦中の空白期をはさんで
地で伝承されていたスコティッシュ・カントリーダンスの
戦後を迎えたところで,同様の結果が待っていた。古いタ
ステップやフォーメーション(動き)を規格化してレパート
イプの舞踊は,新しい音楽とカップル・ダンスにすっかり
リーを再構築し,ナショナル・ダンスとして再生したので
取って代わられたのである。
ある。衣装を規定し,スコットランドらしさを前面に打ち
出したのもRSCDSである。
その事態を憂えてスコティッシュ・カントリーダンスの
復活を希求したのが前述のミリガンであり,彼女の
ただ,ミリガンにはスコットランドのナショナリズムを
RSCDS設立が,ナショナル・ダンスなる概念とその実体
かき立てる意図はなかったというのが大方の見立てであ
を造り上げたのであった。これは,同時期に起こったいわ
る。衣装や動きで過剰に「スコティッシュ」レッテルを貼
ゆるスコティッシュ・ルネッサンス運動(1)と連動する一
ることになったのは,この舞踊をスコットランドのものと
社会現象と見なすことも可能だが,ミリガンの個人的趣味
して再解釈するための方便であり,それ以上でもそれ以下
と教師的厳格さが大いに発揮されている点で,単に時代の
112
流れからだけでは説明できない側面がある。次の項では,
りの人生を楽しく生きられるように,心の支えになるよう
ミリガンの意図したところとRSCDSの方針について述べ
な何かを授けたいという気持ちが強かったという(本書p.
ていこう。
118参照)。
そのミリガンの熱意を支えたのがスチュワートであっ
3-3
ジーン・ミリガンの挑戦
RSCDSは,ジーン・ミリガンとイザベル・スチュワー
トYsabel Stewart of Fasnacloichという二人の女性が設立
た。貴族の生まれで,経済界とつながりのある彼女は,出
版社パターソン社から300ポンドの援助を取り付け,そ
れを元手にRSCDSを設立したのだった。
した組織である。ミリガンの熱意をスチュワートの財力が
支えたという言い方もできよう。
ミリガンは,グラスゴーのジョーダンヒル教師養成学校
3-4
RSCDSによる舞踊の標準化
RSCDSの設立当初の目的は次のようなものだった。
(Jordanhill Teachers’
Training College,現ストラスクライ
ド大学教育学部ジョーダンヒル・カレッジ・オブ・エデュケ
ーション,Jordanhill College of Education, Strathclyde
University)の体育教師Lecturer in Physical Education
(1909-1948)で,もともと古い儀礼や伝統的なものに対
して並々ならぬ関心があった。その熱意は,比較的ダンス
の盛んな地方(ボーダー地方ロクスバラ)からグラスゴーに
(a)スコットランドにふさわしい形のカントリーダンスを
実践し,保存すること。
(b)スコティッシュ・ダンスに関する古い書物や絵画を蒐
集すること。
(c)ダイヤグラムと楽譜つきの簡便なカントリーダンスの
手引書を,廉価に頒布すること。
嫁いできた,彼女の母親譲りでもあっただろう。母親は古
い舞踊の優れた踊り手であり,それを見て育ったミリガン
ミリガンは,まずは古い写本や書物,絵画などからダン
は,第一次世界大戦前,ベルテン・ソサエティBeltane
スのレパートリーを掘り起こし,それをきちんとした形に
Societyなる結社で活動していた経歴ももっている。ベル
整えることから始めた。この作業は,「正確さ」と「洗練」
テンとはケルト民族の五月祭で,火祭りの一種であるが,
をモットーに行なわれたことは,ミリガンの次の発言から
ここでは単なるグループの名称にしかすぎず,活動の中心
も明らかである。
は古いカントリーダンスを稽古して踊り継ぐことだった。
ミリガンはこの結社で主導的な役割を果たしていた。
[RSCDSの設立当初]スコットランドの素晴らしいナ
ところが第一次世界大戦後になると,前述のように,ス
ショナル・ダンスは,衰退の道をたどるか,踊られて
コットランドらしさを伴う舞踊や音楽は衰退する。ここで,
はいても不正確で乱雑になってしまっており,国民的
ミリガンの懐古趣味とその熱意が,カントリーダンス復興
性質を全て失うところであった。
(中略)どのように踊
へと彼女を突き動かすのである。こうして見ると,スコテ
られるべきかがわかっており,ダンスとテクニックの
ィッシュ・カントリーダンス復興のきっかけは,スコット
正しい形について,適切で信頼できるauthenticな情
ランドのアイデンティティを世に問うといった大それた野
報を持っている人々がまだ大勢いたことは幸運だった。
心ではなく,あくまでも彼女の個人的な「趣味」に留まる
ほとんどが年配者ではあったが
(Milligan 1951: 7)
。
ものだったと言えそうだ。また,彼女にはもうひとつミッ
ションがあった。第一次世界大戦で多くの男性人口が失わ
レパートリーの再構成と並行して,テクニックの整備が
れ,未亡人が増化したことが心痛のもとで,彼女たちが残
行なわれた。書かれた記録から舞踊を復興するときに厄介
113
なのは,曲の構成はともかく,ステップやフォーメーショ
は,フランスの影響の強いスコットランド宮廷で発展した
ンが実際にどのように踊られていたか,厳密には明らかで
が,ミリガンの改革により,庶民の踊りが一見品の良い貴
ないことである。つま先の角度や跳躍の高さがどの程度で
族趣味に仕立て上げられたことになる(2)。
あったか,カップルが近づいたときに手を取るか取らない
ミリガンはたいへん厳格な指導者で,「どちらでもよい」
か,などといった細かいことは,記述されないのが普通だ。
という態度は決してとらなかった。1951年に出版された
ミリガンはこの確定作業を,身近な年配者に対する聞き取
ダンス・マニュアル(Milligan: 1951)を見ると,つま先
り調査をもとに行なった。その中には,当然彼女の母親も
の開き具合やステップの足の高さ,フォーメーションを描
含まれていたに違いない。こうして行なわれたテクニック
くときのカウントのとり方や,互いにすれ違うときの視線
整備について,彼女みずからが「標準化」という言葉を使
の交わし方までが,事細かに記されている。RSCDS風に
って説明している。
踊るためにはこのマニュアルを遵守しなければならず,ま
た,RSCDSの傘から出たところでは踊る場も少なければ
次にテクニックを標準化した。素晴らしいテクニック
認められて上昇する機会もないため,RSCDS規格の踊り
を身につけていた年配の方々の手を借りたので,これ
方は絶対多数として安定的な位置を保ち続ける。
は簡単な仕事であった。つまり,現在のダンスは,スコ
ティッシュ・ダンスを200年間維持してきたメソッド
4.ナショナル・ダンスからインターナショナル・ダンスへ
に基づいた,標準の形だと言える
(Milligan 1951: 7)
。
4-1
普及の方法
SCDS設立時点では,ダンスが国境を越えていくことは
ミリガンは,この標準化作業の詳細を記述として残して
想定されていなかったかもしれないが,それでも,伝承の
いないために,実際どの程度の地域的多様性が存在して,
ユニットとして地域の共同体にこだわらなかったことは,
そのうちのどれを取ってどれを捨てたかということについ
普及方法から見ても明らかである。規格化された新しい伝
てはまったくわかっていない。ゆえに伝聞情報に頼ること
統を伝えるために,RSCDSは実に周到な方法をとった。
になるが,例えば,彼女が導入した「パデバ pas de
ミリガンの指示を正確に伝えることのできる教師の養成,
Basque」というステップは用いられていない地域があっ
公認教師が教授の腕前を発揮するためのスクールの開設,
たこと,また,彼女が「スキップ・チェンジ・オブ・ステ
教師や学習者に動きを正しく理解させるためのマニュアル
ップ」で移動するよう指示を出している箇所を,「パデバ」
の作成,踊り手の要求を満たすための新しいレパートリー
のステップで行なっている地域があったことなどが伝えら
の開拓と公開などなどである。その結果,地域の共同体を
れている。当時,自分たちのやり方と異なるミリガンの方
超えた新しい伝承組織が生まれた。ミリガンとRSCDSに
法を拒絶した地域もあったということだ
(本書p. 118参照)
。
賛同する人々が国境を越えて作り上げた,いわゆる想像上
洗練された正確さを追及するのに,フランスのバレエ用
の共同体(3)である。いまや,RSCDSは世界中に169の支
語とテクニックを援用したミリガンのやり方は,現在もな
部と355の公認グループを擁している。中国,西アジア
お批判されるところである(Bennet: 1994)。特に,4種
にはまだないが,日本にも3つの支部と22の公認グルー
類の「ポジション」を設定したことや,ジュテやプリエと
プがある。
いった用語を使って説明する点などはまさしくバレエであ
り,共同体で社交のために踊られてきたダンスにはなかっ
た発想だ。たしかに,スコティッシュ・カントリーダンス
114
4-2
想像上の共同体
実は,筆者も20年来の踊り手である。踊っていて感じ
るのだが,たとえタータンのサッシュを肩に留めていても,
とは一線を画していることが,RSCDS共同体メンバーの
筆者にはスコットランドのナショナリズムに肩入れする気
特徴と言えるだろう。
持ちはさらさらない。スコティッシュ・カントリーダンス
RSCDS共同体のメンバーが,地域アイデンティティと
は,外見的に一目でスコットランドのものとわかるという
距離を置いていることは,彼らが身につける衣装からも推
点できわめて有効な記号であり,利用しやすいオフィシャ
察できる。普段の練習時の衣装は特に決まってはいないが,
ルな「伝統」でありながら,日常的に楽しむ人々には,国
どこかで踊りを披露するときは,男性はキルト,女性は白
家を背負っているなどという実感は微塵もないだろう。こ
いロングドレスにタータンのサッシュを着用する決まりに
の,ある種の無責任感は,スコティッシュ・カントリーダ
なっている。これらの衣装はスコットランドの正装で,ス
ンスの伝承の基盤が,地理的共同体にないことからくると
コットランド人にとってはそれなりの意味がある。彼らは,
いうのはひとつの説明になる。ただし,ナショナリズムや
家ごとに異なるタータンを受け継いでいることになってい
愛国心などというものは,案外どこの国でも,「伝統的な
るため,ある柄のタータンを身につけることはその家の出
もの」を伝承する当事者ではない人物のもつボキャブラリ
身であることの表明につながるからである。しかし,非ス
ーなのかもしれない。
コットランド人の踊り手が身につけるタータンには,何の
RSCDS仕様の「伝統」を伝えるのは地理的根拠をもつ
意味もない。彼らは,家に由来しない,地名のついたター
共同体の構成員ではなく,RSCDSの運営方針に賛同する
タンを身につけたり,何の関係もない家のタータンを拝借
人々が地域や国境を越えて形作る想像上の共同体に住む
したり,新しいタータンを作り出してそれを着用したりす
人々である。そこでは,すべての議論はミリガンの標準化
るのである。彼らがほとんど遊び感覚でタータンを選び,
/規格化したものから始まるために,「伝統」そのものの正
身につけるのは,それがRSCDSの規則だからであるにす
当性が問われることはほとんどない。ときどき議論される
ぎない。規則に従わないと踊る場がなくなる。彼らはそれ
のは,ミリガンが指示しなかった細かいテクニックやフォ
を避けたいまでである。
ーメーションの方法についてである。たとえば,「プーセ
スコティッシュ・カントリーダンスに対する考え方や距
ット pousette」という,前後の組が入れ替わるためのフ
離のとり方は,RSCDS共同体メンバー,スコットランド
ォーメーションがある。これはもともと,カップルが中央
という大きな共同体の中の非RSCDSの人々,さらに,ス
で手を組み,左足から踏み出して踊られるものだった。と
コットランド共同体メンバーでダンスを記号として利用し
ころが,18世紀に英国でワルツが取り入れられたときか
ようとする人々,また,非スコティッシュで非RSCDSの
ら,ワルツの手の組み方で踊られ,足も右から出すように
人々では,それぞれ異なっているだろう。後の2組,つま
変化した(Morrison 2004, 51)。ミリガンは,中央で手
り,ダンスをスコットランドの記号として利用しようとす
を組む古いスタイルに戻したものの,足の指示はしなかっ
る人々と,非スコティッシュで非RSCDSという,スコッ
たため,どちらから出すべきか,ときどき話題になる。し
トランド文化初心者にとって,この舞踊はナショナル・ア
かしそれは,プーセットそのものの発生からその伝承過程
イデンティティを表出したり受け取ったりするのにする便
を問い直すような議論には発展しない。このように,「規
利なアイテムである。しかしながら,大部分のスコットラ
格品」の背景を視野に入れることなく,RSCDS仕様の標
ンド人はこの舞踊に無関心であるか,時代遅れで国家主義
準版を伝えることに徹する,というのが,この共同体の構
的な香りをかぎつけて敬遠するかだろう。さらに,踊って
成員が取るべき態度である。舞踊としての歴史に無関心で
いる人たちのほとんどは,舞踊は楽しみでありスポーツで
あること,ナショナリズムあるいは地域アイデンティティ
あるとしか考えていない。タータンのキルトやサッシュと
115
いうスコットランドを表わす記号は,ひたすら他者(見る
参考文献
者,利用する者)のためにあるのであって,着ている本人
アンダーソン,ベネディクト
にはそれほど大きな意味をもたないのである。
1983 Imagined communities: Reflections on the origin
and spread of nationalism. London: Verso. (Revised
5.むすび
スコティッシュ・カントリーダンスが表出するスコット
ランドらしさは,他者へのアピール力は強いが当事者には
ほとんど意識されない。これはいっけん奇妙にうつるが,
政治家が声高に「伝統」を叫ぶ一方で,その「伝統」の担
い手たちが淡々と仕事を続けているという状況は,どこに
でもありそうではないか。
スコティッシュ・カントリーダンスは,明らかに創造さ
れた伝統であり,ナショナリズムをくすぐるには不十分な
ところがある。それを承知の上かどうかはわからないが,
スコットランドの人々は,その伝承を,自国の担い手に頼
るという方法論にこだわることなく,地球規模に広がる想
像上の共同体に託した。ダンスそのものの不変性を保障し
た上で,担い手を大量に確保するとは,ある意味で賢明な
方法ではあるが,それには地域的多様性と変化という,文
化のもつもっとも自然な活力を諦めなければならなかった
のである。
Edition: 1991, London and New York: Verso)
2004 日本語訳
『増補
想像の共同体―ナショナリズムの
起源と流行』東京:NTT出版.(初版:1987,東京:リブ
ロポート)
Atkinson, J. Grahamsley
1900 Scottish National dances. Edinburgh.
Bennet, Margaret
1994“Step-dancing: Why we must learn from past mistakes.”West Highland Free Press, 14/10/1994.
Flett, J.F. and Flett, T.M
1966
Traditional dancing in Scotland. Nashville, Ten-
nessee: Vanderbilt University Press.
MacLennan, D.G.
1950 Highland and traditional Scottish dances. Edinburgh: Oliver & Boyd.
MacKenzie, Donald R.
1910 The National dances of Scotland . Glasgow:
MacLaren.
Milligan, Jean C.
1951 Won’
t you join the dance?: Manual of Scottish
country dancing. London: Paterson’
s Publications.
Morrison, Cecily
注
(1)第一次世界大戦後のスコットランド文学界で起こった現象。
2004“Culture at the core: Invented traditions and imag-
文学伝統の再検討が行われると同時にゲール語圏が注目さ
ined communities. Part II: Community formation.”
Inter-
れた。
national Review of Scottish Studies. 24, 49-71.
(2)現在,カナダのケープ・ブレトンで,スコットランド移民が
中心になってスコットランドのステップ・ダンスを復興して
Peacock, F.
1805 Sketches relative to the history and theory but
いるが,同様にステップやマナーを整える動きが出始めた。
more especially to the practice and art of dancing.
ベネットは,そこでもスコティッシュ・カントリーダンスと
Aberdeen.
同じ展開になる可能性を示唆している(Bennet:1994)
。
(3)アンダーソンの提唱した「想像の共同体 imagined communities」は,国民とは,創造されたナショナリズムを共
有する想像された共同体であるとする考え方である(アン
ダーソン:2004)。この思考枠組をよりミクロなレベル
に設定すれば,創造された伝統を共有する想像された共同
体の存在を想定することも可能であろう。
116
Smith, William C.
1889 Complete guide to the ballroom. Inverness.
Taylor, G. Douglas
1929 Some traditional Scottish dances. London.
Thurston, Hugh A.
1954 Scotland’
s dances. London: Bell.
「スコティッシュ・ダンスは国境を越えて―グローバルに維持されるローカルな伝統」記録
日時:2006年9月30日
(土)14:00∼
於
:聖徳大学2号館奏楽堂
クリエーター/パフォーマーを迎えて,実演と研究メン
バーとのトークで構成するイベント企画の3回目,「スコ
〔実演〕《ジョン・マクファーレン師
The Reverend of John MacFarlane》
ティッシュ・ダンスは国境を越えて―グローバルに維持さ
れるローカルな伝統」は,ロイヤル・スコティッシュ・カ
(高松)ありがとうございました。これが完成品ですね。そ
ントリーダンス協会(RSCDS, Royal Scottish Country
れでは,これがどんな部品に分かれているかを,岡
Dance Society)公認教師である岡田昌子さんを迎えて開
田さんからご説明いただきましょう。
催された。
岡田さんは,イラストレーターで絵本作家。世界の民族
(岡田)はい。まず,いま踊り終わったところで,最初の組
が3番目にいますね。2番目に踊った組は,はい,
舞踊と衣装の研究に発し,40年前からはスコットランド
そこにいます。このように,1回踊り終わるたびに
を専一に国内外で研究指導に従事。1982年日本における
順番が下がる,というのが,プログレッシブという
ハイランド・ゲームズ(Japan Scottish Highland Games)
原則です。そして,踊り自体はいくつかのパーツか
の設立に参画,同委員を務めた。1989年,「海と島の博
ら成り立っています。最初の8小節では,ひとりひ
覧会」
(Scotland Festival)プロデューサー,RSCDS東海ブ
とりが数字の8という字を描いています。こういう
ランチ・チェアマン,読売文化センター講師(スコティッ
動きを,リールといいます。その次は,やはり8の
シュ・カントリーダンスおよびハイランド・ダンス)。著
字を書きますが,自分たちだけで描いて,しかも半
書にCostume of Scotland(フォークロアインスティテュ
分で終わってしまいました。これを「ハーフ・リー
ート)ほか。現在はスコティッシュ・ダンスの普及のため,
ル・オブ・エイト」といいます。次がスリップ・ダ
指導者養成に努めている。
ウン。いまセットをしますが,このセットというの
ステージは,「伝統の誕生」と「伝統の越境と創造」の
は挨拶です。そこから,1組が下の組と入れ替わる
二部構成。第一部では,ナショナル・ダンスといわれるも
ための動きが始まります。このように,入れ替わる
のがどのように生まれたのか,つづく第二部では,出来上
ためのフォーメーションを,プログレッシブのフォ
がった伝統が国境を越えて世界中の人々に愛好されている
ーメーションと呼びます。こうやって,32小節終
こと,さらに,新しいものを創造する方法が,実演を交え
わると最初の組は下に下がり,次の組が踊り始める
て語られた。東京スコティッシュ・ブルーベル・クラブお
わけです。たいへん民主的に,みんながトップの座
よび八丁堀SCD教室の方々の協力を得て,ステップやフ
をもてるようになっているんですね。全部の人が,
ォーメーションがよくわかる華やかな舞台となった。以下
同じ回数踊り終わったときに,踊りが終わります。
の記録は,実際の語りに多少の字句の修正を加え,実演中
この踊りの最初と最後に必ずお辞儀が入る,という
心の部分は適宜補いつつ,採録したものである。
スタイルになります。
(高松)ということは,基本的にはカップル同士が組になっ
第一部
伝統の誕生
1.スコティッシュ・カントリーダンスの概要
ていて,それが4組ある,先頭の組がファースト・
カップルと呼ばれ,フォース・カップルまである,
(高松)まずはどんなダンスなのか見てみることにしましょ
そして,ファースト・カップルがだんだん下に下が
う。これからある1曲のダンスについて,それがど
ってくる,というわけですね。そして,動きのひと
のように構成されているか,完成品を部品に分解す
つひとつに名前がついていて,何々,何々,とおっ
るように説明していただきます。
しゃってくだされば,すぐ踊れるということです。
117
(岡田)はい。よく私どもはこのように言います。ステップ
は,文字だと思ってください,そして文字が集まっ
てフォーメーションになりますが,それは言葉だと
写真3 (左から)聞き手の高松晃子,岡田昌子氏,東京スコテ
ィッシュ・ブルーベル・クラブと八丁堀SCD教室のみなさん
思ってください,それらが集まるとセンテンスにな
る,ダンスはセンテンスだと思ってください,と。
(高松)いまのものが,ひと通りのダンスの構成でした。と
とはっきり言っていらっしゃいました。もうひとつ
てもわかりやすくて,あいまいさのないものになっ
の理由は,もうひとりの創立者のミス・ミリガンが,
ています。理屈の上では,フォーメーションが身に
大学の体育の先生で,ご自分の授業の中に前からダ
ついていれば踊れるダンスと言えます。しかし,こ
ンスを取り入れていたことがあります。また,当時
のわかりやすさは,自然にできあがったものではな
は第一次世界大戦の終わったころで,自分のまわり
いようですね。
に,若くして恋人や連れ合いを失った方々が非常に
さびしい思いをしていらっしゃった,彼女たちに生
2.「伝統」の作られ方―規格化という選択―ミス・ミリ
ガンとRSCDSの仕事
(高松)いま見せていただいたステップやフォーメーション
は,地域差のない共通言語で,スコットランドじゅ
きる元気を与えるために,スコティッシュ・カント
リーダンスは必ず役に立つんじゃないかと思ったん
ですね。そんな2人の2つの考えがひとつになって
始まったことだったんです。
うどこへ行っても通用します。しかし,昔からそう
(高松)なるほど。だからこのダンスは,カップル単位で動
であったわけではありません。ダンスは,地域によ
くにもかかわらず,女性同士が組んだりセットを作
って,いろいろな多様性を有していたのです。それ
ったりしてもかまわないと言われるわけですね。
が,20世紀の始めごろ,標準化・規格化されるよ
(岡田)そうです。
うになりました。その作業を具体的に進めたのが, (高松)
ありがとうございました。こうして,1923年以降,
ミス・ミリガン,ミセス・スチュワートという二人
徐々にダンスの規格化が始まります。ただ,そうす
の女性でした。このふたりが1923年に,ロイヤ
ると,それまで踊っていた人たちの中には,自分た
ル・スコティッシュ・カントリー・ダンス・ソサエ
ちのダンスが否定されていやな思いをするようなこ
テ ィ( R S C D S )と い う 協 会 を つ く っ た の で す 。
とも起こったのではないですか?
1923年といえば,第一次世界大戦が終わり,スコ
(岡田)はい。ソサエティできっちり習うのではなくて,ふ
ットランドではイングランドに対抗して自己主張を
だん,家族や何かで楽しんでいる人のほうがはるか
していこうという時期になりますが,この頃ダンス
に数が多いです。やはりこれは僕たちの踊りではな
が整えられた背景には,やはりスコットランドらし
い,という人たちが,現に今でもいます。
さを再認識し,アイデンティティを強化する意図が
(高松)そうですか。そのあたり難しいところですね。みん
あったのでしょうか。
なが躍れるようになるには統一してあったほうがや
(岡田)そういう部分もあったように思います。設立者のひ
りやすい,でも,自分たちの踊りが変化するのも困
とりは,スコットランドのガールスカウトのリーダ
る,というわけで,どの文化でも難しい選択を乗り
ーをしていた方で,スコットランドの子女を育成す
越えて伝承していくということになると思います。
るためには「スコットランドの」踊りでやりたい,
118
続いて,古いダンス《パース男爵 Duke of Perth》の規
理由としては,たとえば移動するときに,もう少し
格化に話が及んだ。同じダンスを,まず古いやりかたで示
たくさん移動できるステップが必要なんじゃない
した後,新しいやり方で見せることになった。
か,そのために,もともとのステップをちょっと変
化させて,たくさん進めるようにした,ということ
〔実演〕《パース男爵》を古い形で
がありました。そして5種類のものが,まったくの
創作ではなくて,そのときにあったものを改善した
(高松)続いてRSCDS規格といいますか,それが新しく生
まれ変わった形を見てみましょう。どこに注意して
形で,できあがりました。ひとつずつご紹介しまし
ょうか。
見たらいいですか?
(岡田)第一に,4小節でいくつのステップをつかってどこ
ここから,5種類のステップが実演で示された。スキッ
の位置に行きなさい,というような細かい指示はこ
プ・チェンジ・オブ・ステップ,パデバ,スリップ・ステ
の当時はまったくなかったと思ってください。そう
ップ,トラベリング・ステップ,セッティング・ステップ
いうことを加味したのがRSCDSの教え方です。で
である。
も,みんながさっきよりずっと楽しそうですよね,
そういうのを見ると,教師としては,いまのような
(岡田)この5つが現在使われているステップです。
形に整えていくことに疑問をもつこともあるんで
(高松)ありがとうございました。ステップは,規格品を作
す。でもこれだったらば,次に踊った人がどんどん
るときに重要な部分です。この5つのステップを変
踊りを変えていきますよね。それを食い止めようと
えていこうとか増やしていこう,という動きはない
いうのがRSCDSの考え方でした。
のですね。
(岡田)まったくそれはないですね。
〔実演〕《パース男爵》を新しい形で
(高松)1にテクニック,2にマナー,ということですが,
マナーに関してはいかがでしょう?
続いて,衣装の話題になった。ここでは,RSCDSがデ
(岡田)
踊りのはじめと終わりにお辞儀が入ります。これは,
モンストレーション用に白い衣装を決めたということの
踊りに誘ってくれてありがとうという気持ちと,申
み,記しておこう。
し出を受け入れてくれてありがとう,踊れて楽しか
(高松)さて,RSCDSによるダンスのリニューアル,規格
ったよという気持ちのあらわれです。それともうひ
化といっても,そこにはきっとミリガンさんたちの
とつは,自分のパートナーだけでなくセットとして踊
方針や基準があったと思います。そのポイントとし
れて楽しい,というのがこのダンスの特徴で,それが
て,岡田さんは3つの点を指摘されていますね。1
お辞儀といったマナーにもあらわれているんですね。
つはテクニック,2つ目にマナー,3つ目に形とい
(高松)それからもうひとつ,変えてはいけないところ,そ
うことです。1つずつ,実演を交えてご説明いただ
の3として「形」がありますね。今のマナーの話と
けますか?
も関係があると思うのですが,具体的に教えてくだ
(岡田)それではまずステップのことからお話しましょう。
さい。
当時,ステップは非常に数が少なくて,3種類しか
(岡田)おっしゃったとおり,フィギュアと呼んでいるので
なかったと聞いています。それが今のようになった
すが,フィギュアというのは,何小節かをつかって
119
踊りの一連の動きをすることを言うんですね。いろ
りますね。RSCDSは普及という点でも奮闘したの
いろな部分を集めてひとつの踊りを作り上げるとい
ですが,ここでもポイントは3つ,「人」
「場所」
「物」
うスタイル,それは変えてはいけません。
です。まず,
「人」
というのはどういうことでしょう。
(高松)それでは,頭から新しいものをどんどんつくってい
(岡田)普及させていく場合にはそれを指導する人材がいな
くというのではやはりだめで,何かと何かを組み合
いと正しくは伝わっていきませんよね。ダンスの場
わせていくという作り方,それが基本ですね。わか
合も指導する人間と,その人材の派遣,というのが
りました。さきほどは速い踊りを見せていただいた
大きな仕事のひとつになると思います。
のですが,5つのステップのところでゆっくりの踊
(高松)岡田さんご自身も公認教師という資格をお持ちなわ
りも見せていただきましたよね。それから,マナー
けですが,これにはなにかテストのようなものがあ
ですとか,ひとりで踊るのではなくて,カップルで,
るんですか?[教師認定試験について。ここでは省
あるいはセットで,お互いのことを思いやりながら,
略]
コミュニケーションをとりながら踊る,というその
(高松)たいへんな道のりなんですね。これがまず「人」と
へん全体を拝見したいと思いますので,何か例をお
いうことです。次に「場所」ですが,これはさきほ
願いします。
どの話で言えば,正しい教師のもとで正しく練習す
(岡田)はい。では,リール・オブ・フォーをお目にかけま
る「場所」ということになろうかと思いますが。
しょう。パートナーと,あるいはお互いどうしすれ
(岡田)たとえば日本で言いますと,東京の中だけでも何十
違う者がコミュニケーションをとりながら,なおか
というクラスがあり,たいていのところでは公認教
つ,床の上に描く図形が―今日はきっと見えてしま
師が教えています。世界中みてもそうです。それ以
うと思いますが―美しいものであって,音楽に合っ
外でも,ソサエティが年に1回,サマースクールと
ていて,みんながにこやかである,というのが理想
いう形で4週間の講習会を開きます。そこには教師
のフォーメーションですね。
だけでなくビギナーも含めて世界中のダンサーが参
加します。現地の雰囲気を味わいながら世界中の人
と交流を持って戻ってくる,という形です。
〔実演〕リール・オブ・フォー
(高松)いまのが場所でした。次は「モノ」ですが,これは
勉強するダンスをどのように提示するか,というこ
(高松)ありがとうございました。
とでしょうか。
ここで,テクニック,マナー,形がよくわかるような例
として,《サルタイア・ストラススペイ
The Saltire
Strathspey》が通して踊られた。
(岡田)はい。もともとあった踊りを資料として公開すると
いうのが,「モノ」の提供として大事なことのひと
つなのですが,もうひとつ,普及に関しては,教え
るための教科書が豊かにないとやっていけません
3.RSCDS
スコティッシュ・カントリーダンスを普及
させるための手段あれこれ
(高松)ダンスが規格化されれば,それを正しく理解しさえ
120
し,日本ではそれほどピアノを弾いて躍らせてくれ
る人がいないので,ダンス音楽のCDが必要です。
本とCDということになりますね。
すれば同じものがどこへでも伝わっていく理屈です
(高松)この3点のバックアップがあって,はじめて世界に
が,そのためには何らかのルートと戦略が必要にな
普及するということになりますね。どこかに旅行に
行ったときなど,ほんとうにどこへ行っても,スコ
のダンスの創造や革新,越境といった,新しい側面
ティッシュ・ダンスのクラブがあります。旅行者も
に迫りたいと思います。
気軽に受け入れてくれて,多少へたくそでもたいへ
ん楽しく踊れます。まあさきほどソーシャルなダン
第二部
スだということがありましたけれど,いくらテクニ
1.伝統の越境について
ックが上手でも,社交のダンスだということが大事
なんですよね。
(岡田)あるときスコットランドのチームが踊ったときに,
伝統の越境と創造
(高松)スコティッシュ・ダンスは型がきっちり決まってい
て普及しやすい。そのため,ナショナル・ダンスで
ありながらインターナショナル・ダンスになる可能
ソサエティの人からこう言われたそうです。「皆さ
性が充分。そして実際そうなっています。いまや世
んなんて上手に踊っていて,なんてきれいなフィギ
界中にスクールやクラブがありますね。岡田さんも
ュアなんでしょう。でも,この中でソーシャル・ダ
教師として,あるいはイベントのため,世界中にい
ンスを踊っている人は何人いるかしら」って。
らしていて,ダンスが越境する状況をしばしばごら
んになっていると思うのですが,「越境」に関して
4.水準維持のための手段
何か面白いエピソードはありますか?
(高松)公認教師が全国にいてスクールを組織し,そこでた
(岡田)ひとつはハワイのサマースクールでのことです。私
くさんの人が学んでいることはわかりました。それ
は日本人で,日本で教師をしていますでしょ。でも
で標準的なレベルを保つことは可能だと思います
その私を講師として呼んでくれて,世界中の人にお
が,中にはもっと高いレベルを目指そうとする人も
教えするチャンスに恵まれたことがありました。そ
いるのではないでしょうか?そういう人たちのチャ
のとき,本当にインターナショナルなものだと実感
レンジの場というか,より高い水準を維持するため
しました。なぜ私がスコティッシュにスコティッシ
の仕組みはあるのですか?
ュ・ダンスを教えるのだろう,と驚いたことを覚え
(岡田)いくつかの有名なコンペティションがあります。た
ています。
とえばエディンバラでは毎年5月に市長杯をかけた
(高松)もうお一方,ピアニストの笠間さんにも伺ってみま
国際的なコンペティションがあります。コンペティ
しょう。笠間さんはオランダに住んでいらっしゃい
ションに参加してテクニックをみがいていくという
ますが,オランダでもスコティッシュ・カントリー
のも,楽しみのひとつです。
ダンスとの接点はありますか?
(高松)ありがとうございました。スコティッシュ・カント
(笠間)とても盛んです。日本で言いますと九州ぐらいの大
リーダンスは,スコットランドのナショナル・ダン
きさの小さい国ですが,ブランチの数もいくつもあ
スといわれていますが,20世紀前半に形が整えら
りますし,踊れる方も多いですね。
れた,ある意味では新しいダンスです。型が決まっ
(高松)ブランチというのは,RSCDSの支部ですね。それ
ていてわかりやすく,誰にでも開かれたダンスであ
で,ご自身も踊られると思いますが,スコットラン
る一方で,高いレベルを目指していくらでも突き詰
ドで踊るとき,オランダで踊るとき,日本で踊ると
めていくこともできます。でも,だれが,どんな場
き,と,何か違いがありますか?
面で躍るにしても,その精神が「ソーシャル・ダン
(笠間)大きな違いがあります。自分の感想ですけど,日本
ス」という点にあることがわかりました。後半はこ
とスコットランドでは上手になるために学習します
121
が,オランダでクラスやパーティーに行きますと,
が作ったのかわからない,ずっと踊り継がれてきた
大騒ぎなんですね。やたら複雑な動きのあるダンス
ダンスではなくて,作った人もわかっており,場合
を持ってきて,「あっち!」とか「違う!こっち!」
によってはそのための新しい曲も作曲されている,
とか声を掛け合ってめちゃくちゃになって,崩壊す
「創作されたもの」です。
る寸前にダンスが終わって,何とか最後までいった, (高松)その例として,実に岡田さんのために作られたとい
とみんなで大喜びで大笑いというどたばた騒ぎなん
ですけど,とっても楽しいです。その中には教師と
う,《マサコMasako》というダンスがあるとか。
(岡田)実は,フレッド・モイーズというアコーディオンの
呼ばれる方もいらっしゃいます。上手になるために,
上手な人がおりまして,日本に何度か来てくれてい
きちんとまじめに学習しないところが,国民性があ
るのですが,私のために曲を作ってくれたんです。
らわれていてなんとも面白いなと思いました。
ただしね,私,受け取ってから何日もたってないん
(高松)ありがとうございました。日本ではどうでしょう。
です。だから今日,この人たちに,こんな踊りだよ
日本人ならではの踊りの特徴みたいなものはありま
と言いながら,初めて踊ってもらおうと思うんです。
すか?
うまくいきますかどうですか…。
(岡田)日本人はその反対でね,日本人は学ぶの好きなんで
(高松)それではさっそくお願いしましょう。
すよ。ですから一生懸命練習して,ダンスの「道」 (岡田)さきほど申しましたように,ダンスはフォーメーシ
になってしまうんです。非常に上手になるのは早い
ョンのつながりでできています。この踊りは40小節
んですけど,みんなで楽しむというのが下手という
で,4組がいっせいに踊る踊りなんですね。踊り終
かね。
わるとファースト・カップルは元に戻っています。
フォーメーションを言葉で言えば,初めての踊りな
2.創造について―新曲の創造
んですけど,たぶん踊ってもらえると思うんですね。
(高松)さて,伝統は守るものでもありますが,また変わる
ファースト・カップル近づいて,二アラー・ハンド
ことも必然です。いままでのお話ですと,スコティ
をちょっと取ったうえでキャスト・オフ・4プレイ
ッシュ・カントリーダンスのレパートリーはほとん
セズ,3,4の間にセカンド・カップルがステッ
ど決まっているように見えて,「つくる」というこ
プ・アップ,ボトムで内側の手を取ってダンス・ア
とがなかなかイメージしにくいのですが,まず,
ップ,セカンド・プレイスでフェイス・アウト,こ
「新作」はできるのですか?
こまでで最初の8小節です。次は,キャスト・ライ
(岡田)新しい踊りはどんどん作られています。ソサエティ
ト,次にアップ・オア・ダウンでカップルの間に入
が既存の踊りを収集して1,2年に1冊程度本を出
り,そこで4小節,セット,そこからアドバンシン
版してきたんですが,毎回8から10ぐらいの踊り
グ・セットでバック・トゥ・バックでフェイス・フ
を収集してきました。その本の中に初めて創作もの
ァーストコーナー,そこからパス・アンド・ターン
が現れたのが1945年です。第二次大戦が終わって,
です。パス・アンド・ターンの最後は3カップルの
勝戦記念号が出たんですが,その中に《51師団リ
アレマンドになります。アレマンドというのは古い
ール Reel of the 51st Division》という創作ものが
フォーメーションですがとても素敵で,場所を変わ
入りました。それをきっかけに,新しいダンスが発
るためのものです。真ん中の2組がライト・ハンド
表されるようになりました。新しいというのは,誰
でチェンジ,上下でレフト・ハンドでチェンジ,オ
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ール・4カップルでターン・ライトハンド。こうい
(岡田)これはプログレッシブのためのフォーメーションで
う踊りをいただいたんですね。じゃ,踊ってもらい
す。入れ替わるだけのフォーメーションなのになん
ましょうか。
て大げさな,という気持ちもあるんですが,美しい
でしょう。
〔実演〕新作《Masako》の例
(高松)
すると,フォーメーションはどんどん増えていって,
覚えるのもたいへんになりますね。いっぽう,変え
(高松)いまの《Masako》ですと,まず新しい音楽を作っ
てはいけないものはステップと,プログレッシブで
て,そこにダンスをつけていく,と。このダンスの
あるということ,そして,フォーメーションをつな
場合は,既存のフォーメーションから選んで新しく
げてつくるという方法,そして,そしてソーシャル
組みなおすというのが基本的な作業になりますね。
であるという点です。
もっと手の込んだ作り方はありますか?
ダンスの隊形―セットもいじってはいけないポイン
(岡田)既存のフォーメーションにちょっと手を加えて,華
やかで面白い形にすることができます。たとえば,
「ハーフ・リール・オブ・フォー Half Reel of Four」
トのひとつだということですが,これについてはま
だ拝見していなかったと思うので,ここで整理して
おきましょうか。どんな種類があるのでしょう。
というフォーメーションがあります。これをちょっ
(岡田)はい。まず,いちばんよく使われるのがロングワイ
と変えて,男性と女性が真ん中でくるっとピボッ
ズというセットです。ふつう,いまトップに来た人
ト・ターンする形があります。それだけでとても華
たちをファースト・カップル,そして,セカンド,
やかになります。
サード,フォースとなります。男性が左の肩を向い
ているほうがトップで,そちらに楽団が控えている
〔実演〕完全な形のハーフ・リール・オブ・フォーとハー
フ・リール・オブ・フォーをアレンジした形。
ことになります。トップが踊り終わるとセカンドの
位置に下がり,次々と下りていきます。それから,
次にポピュラーなのがスクエア・セットというもの
(高松)ちょっと手を加えるだけでずいぶんきれいになるも
です。この場合には,やはり音楽に一番近いところ
のですね。では,フォーメーション自体を創作する
がファースト・カップルで,時計と反対回りにセカ
というのは?
ンド,サード,フォースとなります。もうひとつ,
(岡田)ストラススペイ・タイムでターニーをやってみまし
ょうか。フランス語だそうですが,くるくる回るフ
ラウンド・ザ・ルームという大きなサークルのセッ
トがあります。
ォーメーションです。これは最初作られたときにあ
(高松)ということは,星型に並んだり,ジグザグ状態では
まりにも踊りにくいものですから,普及しないと思
じめたり,ということはないということですね。今
ったんです。でも,その複雑怪奇さと美しさが受け
のが隊形のお話,プログレッシブに進めていくとい
入れられて,とってもはやってしまいました。では,
うこともお話しいただきました。また,フォーメー
それを見ていただきましょう。
ションをつなげて作るというのも,変えてはいけな
いお作法であるというわけです。
〔実演〕あらたに創作されたフォーメーション,ターニー
(トゥルネ tournée)の例
(高松)さて,もうひとつ興味があるのは音楽です。音楽で
スコットランドらしさがぐんと際立つわけですが,
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新しい曲を作るときに,何か斬新な試みはあります
スコティッシュ・カントリーダンスと同じような踊
か?
り方をする種類の踊りがありまして,それはやはり,
(岡田)作る人がスコットランドの人でない場合,その国の
フィーリングが入ることがありますね。楽器の編成
や弾き方などでも,国柄が出ることがあります。
舞台の上で見る種類ではないので,世界のたいてい
の人の目にはあまり触れません
(高松)ありがとうございました。それでは,スコットラン
(高松)今日はせっかくピアニストにお越しいただいていま
ドのもうひとつの踊りである,ハイランド・ダンス
すので,いくつか曲の例をお示しいただきたいと思
をお願いしましょう。今日はバッグパイパーもいら
います。
していますので,バッグパイプの伴奏で踊っていた
だきます。
ここで,スコットランドの典型的な曲とそのラグタイム
風アレンジの例,《さくらさくら》和風バージョンと《さ
〔実演〕《ハイランド・フリング Highland Fling》
くらさくら》スコティッシュ風アレンジの例が,ピアニス
トにより提示された。
(高松)これまで見てきましたように,スコティッシュ・カ
ントリーダンスは,地域的な多様性に多少目をつぶ
(高松)ありがとうございました。このように,音楽の方で
って標準化・規格化の道を選んだことによって,結
は,スコットランドらしさを出しながら新しいもの
果的にワールドワイドに伝承されるシステムを作り
をつくっていくという方法がありますし,ダンスの
上げました。また,競技用,見せるためのダンスも
方でも,フォーメーションを比較的自由に扱うこと
あって,そちらのほうは今日はあまり触れられませ
によって新しいものへの道が開けていくというわけ
んでしたが,やはり世界的にうまく伝承されていま
ですね。
す。最初に標準化を決断するのは大きな冒険だった
かもしれませんが,それは結果的にはお得なことだ
3.創造について―ステージ・アートとしての可能性
(高松)こうやって新しいものを追いかけていきますと,ま
ったかもしれませんね。これだけたくさんの方が伝
えていっているわけですから。
あ最近ではアイルランドでリヴァーダンスなどが登
場して,ステージ・アート,つまり,お客さんに見
せるダンスという方向性が出てきました。スコティ
その後,会場からいくつかの質問を受け,最後はダンス
の実演により華やかに締めくくられた。
ッシュ・カントリーダンスがステージ・アート化す
る可能性はあるのでしょうか。
〔実演〕《ミス・ミリガンのストラススペイ Miss Milligan’
s
Strathspey》《イアン・パウリーのさらばアハタラ
(岡田)カントリーダンスであっても,技術を磨き上げて見
ーダー Ian Pawrie’
s Farewell to Auchterader》
せられるものにしようという動きはありますね。そ
れからもうひとつ,ハイランド・ダンスというジャ
ンルがあります。それははじめからソーシャル・ダ
【終演】
ンスとは違うもので,競技のため,ショウのために
踊られてきたダンスです。こちらがリヴァーダンス
に対応するものになりますね。アイルランドにも,
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(文責:高松晃子)
<資料>第3回公開イベント
チラシ(表)
<資料>第3回公開イベント
チラシ(裏)