Proceedings of the 58th Conference September 27 — 28 , 2003 at HIROSAKI UNIVERSITY The Tohoku English Literary Society 東北英文学会 Proceedings of the 58th Conference The Tohoku English Literary Society ©2004 The Tohoku English Literary Society 目 次 CONTENTS 東北英文学会第 58 回大会プログラム・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ iii SYMPOSIUM 英文学部門 ジェンダーと英文学 修 ジェイン・オースティンと家父長制 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 佐藤 恵 Helen Maria Williams の政治姿勢とファロゴセントリズム ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 今井 裕美 第三の性の仮面―『荒地』テイレシアス考 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 熊谷 治子 性と政治の狭間で― The City-Heiress におけるパフォーマティヴな 自己形成の可能性について― ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 福士 航 he Passion of New Eve Carter において― のT ジェンダーを攪乱する― Angela ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 相田 明子 司 会 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 箭川 1 2 9 14 20 26 アメリカ文学部門 アメリカ文学とキャノン問題 博次 31 博次 32 等 40 潤 46 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ Kuniya Nasukawa On Directionality of Movement: A Case of Japanese Right Dislocation ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ Jun Abe Anti-ECP Effects, Antisymmetry and the Cyclic Computation 47 司 会 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 齋藤 文学教育とキャノン論争 ―カリキュラム改革とアンソロジー改革を巡って― ・ ・ ・ ・ ・ ・ 齋藤 アウラ精算の場としてのキャノン ・・・・・・・・・・・・・・細谷 英語学部門 The Correspondence between Hierarchical Structure and Linear Order 司 会 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 阿部 Word-final consonants: argument against a coda analysis ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ Nobuhiro Miyoshi 54 62 PAPERS The Prelude の‘one life’に関する考察 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 江口 スーはなぜ敗北したのか? 真理 70 淳 77 ―『日陰者ジュード』におけるパラドックスとしての「自由」― ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 鈴木 ii On Syntactic Derivation of Tough Constructions ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 富岡 豊嘉 英語知覚動詞の受動化について ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 中野 一幸 Temporal Quantifiers and Tense ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ Kiyomi Kusumoto 84 92 100 日本で育ち多民族(日本人・白人の両親のハーフ)である青少年期女子の 言語・文化・ジェンダーに関するアイデンティティーについて ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 鎌田 D・ローレル 108 多文化教育の視点を取り入れた授業の展望 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ James M. Hall 115 雑録・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・122 会員名簿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・125 東北英文学会会則・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・130 東北英文学会賞規定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・131 iii 東北英文学会第 58 回大会 第1日 開会式 司会 弘前大学講師 菅澤 プログラム 9 月 27 日(土) (13:00) 404 講義室 信夫 ◯ 開会の言葉 東北英文学会会長 原 英一 ◯ 挨 弘前大学人文学部長 藁科 勝之 拶 SYMPOSIA(13:30 〜 16:00) 英文学部門 304 講義室 ジェンダーと英文学 司 会 東北学院大学教授 講 箭川 修 師 三島学園短期大学講師 佐藤 恵 山形短期大学助教授 今井 裕美 仙台白百合女子短期大学助手 熊谷 治子 東北大学大学院生 福士 航 東北学院大学大学院生 相田 明子 アメリカ文学部門 302 講義室 アメリカ文学とキャノン問題 司 会 岩手大学教授 講 齋藤 博次 師 岩手大学教授 齋藤 博次 明星大学助教授 細谷 等 英語学部門 303 講義室 The Correspondence between Hierarchical Structure and Linear Order 司 会 東北学院大学助教授 講 阿部 師 東北学院大学助教授 那須川訓也 東北学院大学助教授 阿部 潤 東北大学助手 三好 暢博 潤 iv ---------------------------------------------------------------------------------------------------------- 特 別 講 演 (16:15 〜 17:45) 404 講義室 司会:弘前大学教授 村田俊一 筑波大学名誉教授・聖学院大学大学院教授 山形 和美 「文学とキリスト教」 ---------------------------------------------------------------------------------------------------------- 懇親会(18:30 〜) 会場: ホテルニューキャッスル 第2日 9 月 28 日(日) 研究発表(10:00 〜) 第1室 1. 小田 友弥 The Prelude の“one life”に関する考察 司 会 司 会 (304 講義室) 山形大学教授 青森明の星短期大学講師 江口 真理 市原 聡子 2. スーはなぜ敗北したのか? ―『日陰者ジュード』におけるパラドックスとしての「自由」― 東北大学大学院生 鈴木 淳 3. 『オーランドー』における異性装と語りの関係 弘前大学助教授 ―『お気に召すまま』との比較から見えてくるもの― 東北大学大学院生 司 1. 2. 3. 第2室 (303 講義室) 阿部 潤 On Syntactic Derivation of Tough Construction 東北大学大学院生 会 漆原 幸子 富岡 中野 楠本 豊嘉 一幸 紀代美 東北学院大学助教授 英語知覚動詞の受動化について Temporal Quantifiers and Tense 東北大学大学院生 弘前学院大学講師 第3室 (302 講義室) 木村 宣美 1. 日本で育ち多民族(日本人,白人の両親のハーフ)である青少年期女子の言語・文化・ジェン ダーに関するアイデンティティーについて 青森明の星短期大学教授 鎌田 D.ローレル 2. 多文化教育の視点を入れる授業の展望を考える 岩手大学講師 James M. Hall 司 会 弘前大学教授 閉会式 (12:00 〜) 司会 ◯ 閉会挨拶 弘前大学講師 404 講義室 菅澤 弘前大学教授 信夫 佐藤 憲和 シンポジアム【英文学部門】 ジェンダーと英文学 箭川 修 これまでの私の研究傾向からすれば,ジェンダー論というのはもっとも縁遠い領域のように 感じられるのだが,司会者としての責を担うことを了解した手前,大会プログラムには以下の ような文章を掲載した. 近年の文学研究において頻繁に耳にする「ジェンダー」はどのような広がりを持っているのだろう か.「ジェンダー」は「フェミニズム」や「セクシュアリティ」とどのような関係にあるのだろうか.ジ ュディス・バトラー(Judith Butler)がジェンダー論の中心的な論客の一人であることは疑い得ないが, 彼女は理論家なのだろうか,実践家なのだろうか. 今回のシンポジウムでは,各講師が―バトラーの『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳 青土社 1999 年;原著は 1990 年出版)を共通テクストとし,この著作に登場するいくつかのキーワードの中 から一つを重点的に取り上げつつ―自らが専門とする時代・作家のテクストにどのようなジェンダー 的読解の可能性が存在するかを提示する. シンポジウムに出席される方々には,各講師の議論を参考にしながら,ジェンダーにまつわるキー ワードやそれを支える概念装置を自らの研究する作家・作品に適用した場合,どのような議論が可能か を積極的にご提示いただけると幸いです. これを踏まえつつ,今回のシンポジウムの特徴を確認しておきたい.一つには講師を通常より は多い(しかも概してお若い),5 人の方にお願いした.これは,ジェンダーを題材としてシン ポジウムを編成する際に,重要な作家を網羅することは不可能にせよ,ある程度は時代的な広 がりを視野に納めたかったためである.具体的には,佐藤氏には(文学史上,伝統的に評価さ れてきた女流作家を現代的なジェンダーの視点から考察していただこうと)Jane Austen を,今 井氏には(Austen とほぼ同時期に活躍しながらもあまり注目されてこなかった理由を探ろうと) Helen Maria Williams を,福士氏には(文学史的に見て極めて特異な存在に思え,英文学史上初 の職業女流作家とも言える)Aphra Behn を,熊谷氏には(ジェンダー論とは必ずしも相性がい いようには見えないモダニスト作家の中から,両性具有というテーマを中心として)T. S. Eliot を,相田氏には(ジェンダー論と極めて相性がよく,ジェンダー論を下敷きとして創作したの ではないかとまで感じさせるポストモダン作家)Angela Carter を取り上げていただいた.講師 5 名ということで,必然的に各講師の持ち時間が限定されることになるため,全体としてはワー クショップのような雰囲気が出ればよいと願ってもいた.二つ目には,一口にジェンダー論と いっても様々な論客がおり,様々な研究領域・研究姿勢が存在されることが予測されるため,議 論を噛み合わせるための土台ないし Arena(闘技場)として,各講師にはジュディス・バトラー の『ジェンダー・トラブル』を共通テクストとし,さらにはバトラーの議論を支えるキー概念の 一つないし二つを意識した議論をお願いした. シンポを実現するにあたって,司会者の身勝手な構想を快く聞き入れてくださり,問題点の 整理や議論の摺り合わせを行うために,頻繁にメールのやり取りを行い,時間を割いて集まり, 熱心な議論を重ねてくださった講師の方々,そして会場において真剣に議論に耳を傾けてくだ さった聴衆の皆様に心からの感謝を申し上げたい. Proceedings of the 58h Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) シンポジアム【英文学部門】 ジェイン・オースティンと家父長制 佐藤 恵 1787 年から 93 年頃までに書かれたジェイン・オースティン(Jane Austen)の習作作品群 (Juvenilia)は, 当時の流行小説を中心に既存の形式をパロディ化して描かれたものであり, その 貪欲で暴力的・不道徳的な特徴, さらには不法犯罪的なものさえも含むその作品世界は, 伝統的に 評価されてきたいわゆるオースティン作品とは異なる. そのため従来軽視されてきたが, 近年評 価が行われてきている. 出版の失敗を経験した後, 市場の要請を意識しながら世に送り出された 主要作品に対して, この習作作品群は内輪の娯楽として書かれた私的なものであり, そこには社 会規制に囚われない自由な発想が見られる. 後年の作品で消失するこうした初期の特徴が, オー スティンの創作活動の展開においてどのような意味を持つのか. 本論では, ジュディス・バトラー (Judith Butler)の論を援用しながら, まず習作作品の中でも 1791 年に書かれた「ヘンリー四世 の治世からチャールズ一世崩御までのイングランドの歴史」( “The History of England from the reign of Henry the 4th to the death of Charles the 1st”)における歴史の記述法に注目し, さらに習作 期とその後の作品間に見られる歴史の扱われ方の違いを考察する. こうした軌跡を追うことで, 伝統的なオーサーシップ(authorship)が持つ男性性と男性中心主義的な〈歴史〉記述の問題に対峙 したオースティンが, 当時の家父長制社会の中でどのように創作活動を模索していったのか, 如 何にしてオースティン作品が伝統的に認知されうるものとなっていったのかを考える. オースティンが 16 才で書いた「イングランドの歴史」は, 当時広く読まれていたオリバー・ゴ ールドスミス(Oliver Goldsmith)の歴史書をパロディ化した, 愉快で辛辣な小品である. 分厚く て重い権威的な歴史書に対して, ゴールドスミスの縮約版の歴史はより読みやすいものであり, 子どもの教育書として学校教育の中で広く用いられていた. 従来解釈では, オースティンが書い たこのステュアート朝贔屓の歴史を, 既存の歴史書, 特にウィッグ党の歴史観を攻撃したものだ としている. また, スコットランド女王擁護とエリザベス女王批判を執筆目的としている点から, 『ノーサンガー寺院』(Northanger Abbey, 1818)の主人公キャサリン・モーランド(Catherine Morland) が嘆いているような, 女性の登場しない男性中心主義的な〈歴史〉に対して修正を行うもの, い わゆる女性史(her-story)の創作を試みているものだとしている. ここでは, こうした従来の批評を 踏まえながら, オースティンがこの歴史パロディの中で, 如何にして家父長制社会における男性 中心主義的な歴史記述を攪乱する戦略を行っているのかを具体的に考察する. By a partial, prejudiced, & ignorant Historian. To Miss Austen eldest daughter of the Revd George Austen, this Work is inscribed with all due respect by The Author N. B. There will be very few Dates in this History. (138) これはこの小品への献辞の部分であるが, 「不公平で, 片寄った, 無知な歴史家による」という明 佐藤 恵 3 示は, 〈歴史〉記述の公平性・真正性を自認する男性権威の歴史家への揶揄となっている.「この 歴史には日付がほとんどない」という但し書きは, 「日付のない」歴史であったゴールドスミス の歴史書への示唆である. ここでその歴史書が正味 10 ページ位にパロディ化されることによっ て, 権威的な歴史書への攪乱作用がさらに増幅される. オースティンの歴史記述の中で特徴的なことの一つは, 次の引用にあるように, 歴史の内容に ついて詳しくは劇を参照するようにとしている点である. . . . the King made a long speech, for which I must refer the Reader to Shakespear’s Plays, & the Prince made a still longer. (Henry the 4th; 139) He afterwards married the King’s daughter Catherine, a very agreable Woman by Shakespear’s account. (Henry the 5th; 139) . . . I have nothing to say in praise of him[Sir Walter Raleigh], & must refer all those who may wish to be acquainted with the particulars of his Life, to Mr Sheridan’s play of the Critic, where they will find many interesting Anecdotes as well of him as of his friend Sir Christopher Hatton. (James the 1st; 147) 歴史的事象の記述の途中で, 後はシェイクスピアやシェリダンの劇を参照するようにと言ってペ ンを置く行為は, 事実の公正な記述である歴史と劇作家の想像力によって脚色された劇との垣根 を揺るがしている. このジャンルの攪乱によって, 〈歴史〉の真正性への疑念を生じさせ, その虚 構性や恣意性の問題を浮かび上がらせるものとなっている. 特に, ジェームズ一世の項で言及さ れているシェリダンの『批評家』(The Critic, 1779)の場面は, 劇のリハーサル場面にやって来た劇 作者パフ氏(Mr. Puff)と友人が, 舞台上で演じるサー・ウォルター・ローリーとサー・クリストファ ー・ハットンの台詞や動作に茶々を入れる場面であり, 虚構性を強調するメタドラマとなってい る箇所である. この場面を〈歴史〉として参照させることによって, さらに〈歴史〉をパロディ 化し, その虚構性を明らかにしている. また, オースティンの歴史記述の中で目を引くのは, 言葉遊び ‘sharade’(148)や次の引用にある ようなジェンダーを交錯させた冗談(gender-crossing joke)の挿入である. It has indeed been confidently asserted that he killed his two Nephews & his Wife, but it has also been declared that he did not kill his two Nephews, which I am inclined to believe true; & if this is the case, it may also be affirmed that he did not kill his Wife, for if Perkin Warbeck was really the Duke of York, why might not Lambert Simnel be the Widow of Richard. (Richard the 3rd; 141) これは, 庶民の出でありながらウォーベック伯を名乗り王位を詐称したランバート・シムネルを リチャード三世の寡婦に見立てた冗談であり, あり得ないことの例えとして用いられている. こ のジェンダーを交錯させた冗談によって, 男性中心主義的な正史を茶化し, そのパロディ的笑い によってジェンダーを攪乱させている, と見ることができる. また, 執筆の主目的とされたスコッ トランド女王擁護とエリザベス女王批判の叙述では, こうした既存の〈歴史〉に対して, 女性性 を強く押し出した声高な主張を行っている. この「イングランドの歴史」は, 「不公平で, 片寄った, 無知な歴史家による」と宣言している ように, オースティン自身の政治的・宗教的心情や感情的嗜好に片寄った, 愉快なパロディ形式で 書かれた歴史である. このように, オースティンの歴史記述の特徴を見ていくと, ジャンルやジェ ンダーを攪乱させるようなパロディ的手法の反復によって, 男性中心主義的な〈歴史〉の真正性, そしてその〈歴史〉を叙述する権威的な歴史家, さらにはその伝統的なオーサーシップのもつ男 性性が, 文化的虚構にすぎないということが暴かれている, と見ることができよう. これらの問題 については, オースティンの他作品おける歴史の扱われ方を見ることによって, いっそう浮き彫 りになってくると思われる. 4 ジェイン・オースティンと家父長制 次に取り上げる作品は同じく習作作品の一つで, 翌年に書かれた「キャサリンあるいは東屋」 (“Catharine or the Bower,” 1792)である. キャサリンは, オースティンのヒロインたちの中では珍し く歴史好きの存在であり, 「彼女は近代史をよく読んでいた」‘She was well read in Modern History’(198)と描写される. しかし, その歴史とは, 男性中心主義的な〈歴史〉ではなく, オーステ ィンの歴史パロディ 「イングランドの歴史」に見られるような歴史であることがわかる. “Queen Elizth, said Mrs Stanley who never hazarded a remark on History that was not well founded, lived to a good old age, and was a very Clever Woman. ” “True Ma’am, said Kitty; but I do not consider either of those Circumstances as meritorious in herself, and they are very far from making me wish her return, for if she were to come again with the same Abilities and the same good Constitution She might do as much Mischief and last as long as she did before . . . What do you think of Elizabeth Miss Stanley? I hope you will not defend her. ” (201) この引用にあるように, エリザベス女王に対するキャサリンの批判的姿勢が明らかにされている. これは 「イングランドの歴史」の主目的の一つとされたエリザベス女王の治世の叙述と一致し, キャサリンの好んで読み耽る歴史の内実が判明する. そして, このことはこの小品の献辞で既に 想定されていたものであるのがわかる. Encouraged by your warm patronage of The beautiful Cassandra, and The History of England, which through your generous support, have obtained a place in every library in the Kingdom, and run through threescore Editions, I take the liberty of begging the same Exertions in favour of the following Novel, which I humbly flatter myself, possesses Merit beyond any already published, or any that will ever in future appear, except such as may proceed from the pen of Your Most Grateful Humble Servt (192) 「イングランドの歴史」に肖像画を添えてくれた姉カサンドラへの献辞では, オースティンの歴 史パロディが「王国内の全ての図書館に置かれ, 六十版を重ねた」ものと設定されている. キャ サリンの歴史観は, 「不公平で, 片寄った, 無知の歴史家」と同様に激しい感情によって支配され ている. そうしたキャサリンの歴史への感情的態度に対して, エドワード・スタンリー(Edward Stanley)の理性的態度が次のように対比されている. . . . they were very soon engaged in an historical dispute, for which no one was more calculated than Stanley who was so far from being really of any party, that he had scarcely a fixed opinion on the Subject. He could therefore always take either side, & always argue with temper. In his indifference on all such topics he was very unlike his Companion, whose judgement being guided by her feelings which were eager & warm, was easily decided, and thought it was not always infallible, she defended it with a Spirit & Enthuisasm [sic] which marked her own reliance on it. (230-31) 一見, 感情に流されて正しい見方のできない女性の歴史への態度を批判し, 一方理性によって冷 静に公正な見方をする男性の歴史への態度を対峙させているように見える. しかし, 「イングラ ンドの歴史」やこの作品の献辞からわかるように, この二つの態度のうちキャサリンの方に共感 が込められているのは明らかである. そして, 逆にその分別を持った公正さを「常に」と過度に 強調することによって, 現実の男性中心主義的な〈歴史〉記述や, 公平性や真正性を自認する男 性歴史家たちへの皮肉を包含し, 暗にその,恣意性や虚構性に言及していると考えられる. いかな る政党にも肩入れせず, いかなる立場をも理解できるが,「定見」がないのであれば, 実際歴史家 たちは事象を定めて歴史書に記すことなどできないからである. しかしながら, オースティンのこうした〈歴史〉に対する攪乱的手法は, 身内の私的サークル 内にのみ循環する習作作品に限定された特徴であり, 後年の出版作品では消失する. それがオー スティンの創作活動の展開においてどのような意味を持つのかを探る上で, 出版を試みて失敗し た『ノーサンガー寺院』と, 出版に成功し, 社会から好意的な認知を獲得した後の作品との相違 佐藤 恵 5 を見ることが手助けとなろう. 『ノーサンガー寺院』は一度出版社に買い取られたが, 出版されないままだったため買い戻さ れ, 結局は 1818 年に死後出版された作品である. 元は『スーザン』(Susan)と題され,1798 年頃 の執筆と考えられており,そのためこの作品は習作に近い特徴を有している. 女性作家の流行小 説を愛読する主人公キャサリンは, 王侯の争いごとばかり書かれた女性の登場しない歴史は退屈 な「作り話」‘invention’(108)であるとして, 〈歴史〉の男性中心性や虚構性の批判を展開し,〈歴 史・男性/小説・女性〉というジャンル・ジェンダーの対立軸を想定する. しかし, 同時に, 男性側 ヘンリー・ティルニー(Henry Tilney)からは女性作家及びその作品への揶揄が発せられている. ヘ ンリーはキャサリンに次のように話しかける. “. . . it is this delightful habit of journalizing which largely contributes to form the easy style of writing for which ladies are so generally celebrated. Every body allows that the talent of writing agreeable letters is peculiarly female. Nature may have done something, but I am sure it must be essentially assisted by the practice of keeping a journal.” (27) “As far as I have had opportunity of judging, it appears to me that the usual style of letter-writing among women is faultless, except in three particulars.” “And what are they?” “A general deficiency of subject, a total inattention to stops, and a very frequent ignorance of grammar.” (27) 女性の書き物を単に日記や手紙を書く習慣から派生したものとし, ファニー・バーニー(Fanny Burney)に代表される女性作家の書簡体小説への揶揄がなされている. 女性の書くスタイルの三つ の欠点として挙げられている「主題の欠如」「冗長さ」「文法の無視」という批判は, バーニーの 『カミラ』(Camilla, 1796)に対する批判的書評(Monthly Reviews, Oct. 1796)を想起させる. このよう な男性側からの揶揄によって, 伝統的なオーサーシップへの女性の参与が否定的に提示される. 「イングランドの歴史」の一方的に展開される声高な主張とは異なり, 登場人物の声として双方 の見地を併置させている. しかし, 次の引用にあるように, 女性性を帯びたナレーターの声が突如 として立ち現れ, 女性の書き物を擁護する. . . . we are an injured body. Although our productions have afforded more extensive and unaffected pleasure than those of any other literary corporation in the world, no species of composition has been so much decried. From pride, ignorance, or fashion, our foes are almost as many as our readers. And while the abilities of the nine-hundredth abridger of the History of England, or of the man who collects and publishes in a volume some dozen lines of Milton, Pope, and Prior, with a paper from the Spectator, and a chapter from Sterne, are eulogized by a thousand pens, —there seems almost a general wish of decrying the capacity and undervaluing the labour of the novelist, and of slighting the performances which have only genius, wit, and taste to recommend them. (37) ヘンリーが展開したような女性の書き物への批判に対して, 特に女性の小説家たちを「傷つけら れた一団」と表現する. その際に注目されるのは, 女性作家の小説に対し, 男性性を有する伝統的 なオーサーシップの書き物として〈歴史〉を筆頭に対峙させている点である. これはキャサリン が〈歴史〉批判を展開する際に含意した, 〈歴史・男性/小説・女性〉というジャンル・ジェンダ ーの対立軸と重なり合ってくる. 『ノーサンガー寺院』は当時流行していたアン・ラドクリフ (Ann Radcliffe)の『ユドルフォの謎』(The Mysteries of Udolpho, 1794)のパロディとなっていると 同時に, そこではこうした女性性を強く打ち出した〈歴史〉批判と小説擁護が行われ, 伝統的な オーサーシップのもつ男性性との対峙が行われている. この作品が出版に失敗した理由は定かで はないが, 一度版権を購入しながらも, 社会規制や市場の要請を考慮した出版社が, 出版をためら った理由の一つとして, 『ノーサンガー寺院』のこのような特徴を挙げることができるかもしれ 6 ジェイン・オースティンと家父長制 ない. オースティンが出版に成功した最初の作品は『分別と多感』(Sense and Sensibility, 1811)である が, 当時の書評等から男性権威の支配する文壇や貴族社会でも好意的に受け入れられたことがわ かる. しかし, 出版に際し, オースティンも当時の家父長制社会の中で女性作家を取り巻く状況を 考慮しなければならなかった. 未だ公に女性が物を書くこと, さらにはそれによってお金を得る ことには, 社会的道義性ゆえに慎みを要求され, オースティンのような女性作家は匿名での出版 を行っていた. さらに, 社会道徳を低下させ, 道徳的堕落を引き起こすものだとして小説に対する ジャンル批判も存在していた. こうした社会的状況の中で, オースティンの作品は, 「ある婦人に よる」‘By A Lady’ とタイトルページに印刷され, 「小説」 ‘A Novel’と明示されて世に送り出さ れた. こうした匿名性は作者に対する好奇心を喚起した. 貴族階級のレディによるものだとして 考えられたり, さらには, パーク・ホーナン(Park Honan)が指摘するとおり, 表題の下に ‘authoress’ という女性形でなく ‘author’が使われていたこと, かつ作品が機知に飛んだ皮肉を含む文体で書 かれていたということから, 女性を装った男性作家によるものとすら想像された. A later reviewer assumed the author was a man, but a female pseudonym or a ‘by Jane Austen’ would not have asserted female authorship more plainly since men, especially in satirical works, often wrote under female pseudonyms. The word ‘author’ not ‘authoress’ appears at the bottom of her title-page . . . . So she burst on the world. (289) 出版に成功したこの作品からは, 習作作品で見られたような特徴は消失し, 穏やかで道徳的な世 界へ, 巧妙な皮肉を含んだ文体へと変化している. 主要作品よりも習作作品の特徴を高く評価す るマーガレット・アン・ドゥディー(Margaret Anne Doody)は, 出版の失敗を経験し, 市場の要請に直 面したオースティンのこの変化について次のように分析している. But the Austen who was writing in the early 1790s was not yet disciplined––or fenced in––by the necessities of the market-place. She had not yet experienced the pressures that the middlemen of that market exerted on women writers, although she knew about the pressures of the marital market-place. . . . These early works are not only parodic but also highly non-realistic variations on themes and scenes supplied by the contemporary novel, but these exquisite, aggressive, and intellectual variations have a force all their own. These are expressionistic works. (xxxi-xxxii) Jane Austen in maturity made a choice and went in another direction. At the crossroads, she had to choose, and she then wrote the realistic novel of courtship, closely and apparently even modestly related to the style of novel that had frightened her, stimulated her, and made her laugh. She could not laugh so loudly in the later works. She could not be wild as she had been in the notebook Volumes. She had to become genteel, and act like a lady. (xxxviii) 身内の娯楽として私的に書かれた習作作品では, 規制や抑圧のかかる公的な場では見られない, 自由な発想や創作態度が見られたが, 出版の失敗を経て, 市場の要請を意識したオースティンは, 習作作品の特徴を放棄しなければならなかったとする. 従って, これまで見て来たような女性性 を強く押し出した声高な主張, 家父長制社会における既存の文化的枠組みを揺るがしかねないパ ロディ的笑いも, 出版に際し社会に受け入れられるために馴致されてしまったと考えることがで きる. このような社会的馴致とひきかえに, 一方では女性作家を取り巻く家父長制社会の規制の 中, オースティンは「小説」と公言した上で, 女性性を帯びたオーサーシップではなく, 自立した 一個の作者(author)として社会的承認を獲得したと言えるだろう. 『分別と多感』に続いて, オースティンは『高慢と偏見』(Pride and Prejudice, 1813), 『マンス フィールド・パーク』(Mansfield Park, 1814), 『エマ』(Emma, 1816)と世に送り出していったが, そ れらの中にももはや家父長制社会における〈歴史〉や伝統的なオーサーシップに関するジェン ダー規範を攪乱し得るようなパロディ的反復は見られない. しかしながら, オースティンは家父 佐藤 恵 7 長制社会の抑圧や市場の要請を意識して完全に社会的に馴致されてしまったわけではないよう に思われる. 次の引用は, 歴史ロマンスを書くようにという勧めに対して, 自らの文体を固持した オースティンの有名な手紙(1816 年 4 月 1 日付)である. You are very, very kind in your hints as to the sort of Composition which might recommend me at present, & I am fully sensible that an Historical Romance, founded on the House of Saxe Cobourg might be much more to the purpose of Profit or Popularity, than such pictures of domestic Life in Country Villages as I deal in—but I could no more write a Romance than an Epic Poem. —I could not sit seriously down to write a serious Romance under any other motive than to save my Life, & if it were indispensable for me to keep it up & never relax into laughing at myself or other people, I am sure I should be hung before I had finished the first Chapter. —No—I must keep to my own style & go on in my own Way. . . . (312) 王侯につながる側, 摂政の図書館長からの申し出に対して, オースティンは自分が描くのは王侯 貴族の男性中心主義的な〈歴史〉ではなく, 田舎の紳士階級の女性たちが活き活きと闊歩する家 庭生活を描いた〈小説〉であるという意志を示した. 自ら描くものに対する介入を拒否したオー スティンは, 自立したオーサーシップの状態を保持したと言える. そしてこの後, 習作作品や『ノ ーサンガー寺院』で見られた〈歴史〉とオーサーシップに関する問題が, オースティン最後の完 成作品『説得』(Persuasion, 1818)の中に再び顕在化する. 『説得』では,〈歴史〉に依拠し, その中に自らの〈歴史〉を刻み込もうとする父親が描かれ る. サー・ウォルター・エリオット(Sir Walter Elliot)は「心の慰みに手にする本といえば, 必ず准男 爵位名簿にきまっていた, という人物」‘a man who, for his own amusement, never took up any book but the Baronetage’(3)であり, さらには准男爵位名簿に決して公的に書かれることのない自らの歴 史を手書きで書き込み, それを耽読しているのである. その一方で, 彼は没落しかけた現実の経済 状況を把握し, 適切に対処することができないでいる. このように〈歴史〉に囚われた父親, 既存 の社会的枠組みが崩壊する危険性に気付かない父親を描き出すことで, 家父長制社会の枠組み, さらには彼の依拠する〈歴史〉への疑念が生じて来ることになる. サー・ウォルターによって書 物に書き込まれた手書きの〈歴史〉は, 決して活字となって出版されることのないものであり, それは公的に認められるものではない. さらにこの作品では, 次の引用にあるように,〈歴史〉を 初めとする書物の男性中心主義的な記述や, 伝統的なオーサーシップの持つ男性性への直接的言 及が行われる. これは女性の移り気に関して議論しているハーヴィル大佐(Captain Harville)と主人 公アン・エリオット(Anne Elliot)の会話である. “. . . But let me observe that all histories are against you, all stories, prose and verse. If I had such a memory as Benwick, I could bring you fifty quotations in a moment on my side the argument, and I do not think I ever opened a book in my life which had not something to say upon woman’s inconstancy. Songs and proverbs, all talk of woman’s fickleness. But perhaps you will say, these were all written by men.” “Perhaps I shall. —Yes, yes, if you please, no reference to examples in books. Men have had every advantage of us in telling their own story. Education has been theirs in so much higher a degree; the pen has been in their hands. I will not allow books to prove any thing.” (234) これは, 習作作品や『ノーサンガー寺院』で見られたような, 女性登場人物や女性性を帯びたナ レーターに女性性を強く打ち出した主張をさせるのとは異なっている. 「でも多分あなたは, そ れらはみんな男によって書かれたものだと言うのでしょうね」と代弁的に女性の言葉を語って あげている風を装う男性登場人物によって, 伝統的なオーサーシップの持つ男性性の問題が持ち 出され, そして穏やかにそれを受け流しつつも, その問題意識を追認する女性登場人物という構 図が取られている. ここには習作作品を包んでいた声高なパロディ的笑いもなく,『ノーサンガー 寺院』で突如として立ち現れる女性性を擁護するナレーターの声もなく, オースティンは穏やか 8 ジェイン・オースティンと家父長制 なかたちで再びこれらの問題を作品の中に顕在化させている. 以上見てきたように, 出版に際し社会規制と市場要請に直面したオースティンは, 家父長制社 会の既存の文化的枠組みを攪乱し得るパロディ的反復を断念し, 社会的馴致によって作品から初 期の特徴を消失させた. それと同時に, 既存のジャンル形式のパロディ的模倣から, 自ら「小説」 と公言する, 「独自のスタイル」‘my own style’を確立していった. 機知に富む皮肉を含んだ文体 によって織り成される, その高い道徳性を包含する作品世界は, 家父長制社会の中で男性権威の 支配する文壇や貴族社会をはじめとする社会的な認知を得, 女性性を帯びたオーサーシップでは なく, 自立した一個の作者として社会的承認を獲得していったと言えるだろう. しかしながら, オ ースティンの手紙や『説得』の中で見たように, オースティンは〈歴史〉やオーサーシップへの 問題意識を持ち続けながら創作活動を展開していった. 出版に成功した『分別と多感』以降の主 要作品では, 『ノーサンガー寺院』のティルニー将軍(General Tilney)のような家父長制社会を象 徴する抑圧的父親という対立軸は不在となり, 日常生活の中で活き活きと闊歩する女性たちの姿 が描かれている. 攪乱的なパロディ的笑いではなく, 穏やかだがその皮肉的微笑みによって描か れるこのようなオースティンの作品は, 保守的な社会層に認知されると同時に, フェミニズム批 評の精査にも耐えうるものとなっている. まさにこうしたバランスこそが, オースティン作品を 当時の家父長制社会においても, 今日までの保守的な社会層やフェミニズム批評においても,伝 統的に絶えまなく認知され得るものとならしめているのではないだろうか. 参照文献 Austen, Jane. Jane Austen’s Letters. Ed. Deirdre Le Faye. 3rd. ed. Oxford: Oxford UP, 1995. ––––. Catharine and Other Writings. Ed. Margaret Anne Doody and Douglas Murray. Oxford: Oxford UP, 1993. ––––. The Oxford Illustrated Jane Austen. Ed. R. W. Chapman. 6 vols. Oxford: Oxford UP, 1988. Grey, J. David. Jane Austen’s Beginnings: The Juvenilia and Lady Susan. Ann Arbor: UMI, 1989. Honan, Park. Jane Austen: Her Life. New York: Fawcett Columbine, 1987. Pearson, Jacqueline. Women’s Reading in Britain 1750-1835. Cambridge: Cambridge UP, 1999. Scott, Joan Wallach. Gender and the Politics of History. Rev. ed. New York: Columbia UP, 1999. Southam, B. C., ed. Jane Austen: The Critical Heritage Volume 1, 1811-1870. 1979; London: Routledge, 2001. Tomalin, Claire. Jane Austen: A Life. New York: Knopf, 1997. Tuite, Clara. Romantic Austen: Sexual Politics and the Literary Canon. Cambridge: Cambridge UP, 2002. ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』竹内和子訳, 青土社, 1999. Proceedings of the 58h Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) シンポジアム【英文学部門】 Helen Maria Williams の政治姿勢とファロゴセントリズム 今井 裕美 Ⅰ ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』の功績を考えた場合,1990 年代のフェミニ ズムやジェンダー研究の流れに,クイア理論へと至る道を開いたことが第一に挙げられるであ ろう.しかし,それ以上に重要な功績は,デカルト以来の西洋の知に根強く残る,「二元論」へ の新たな挑戦にある.バトラーは,「主体」をめぐる自由意志と決定論,「性別」をめぐる生物 学的決定論と文化決定論といった,不毛な堂々巡りをもたらす思考の罠に果敢に挑んだのであ る.そして,彼女の議論の中で最も注目すべきものが,「男根ロゴス中心主義(ファロゴセント リズム)」の批判である.元来この語は,ラカンのファルス中心主義とデリダのロゴス中心主義 とを結合させた用語であり,『現代フェミニズム思想辞典』では「男性が世界を対象化し,世界 を自分自身の言葉に還元し,すべてのものの代わりに話すための主要手段である」と定義され ている.換言すると,主体形成に密接にかかわる言語の使用において,「男性」が発話主体の地 位を占める一方,その地位を「女性」すなわち「表現手段を持たず,文化的に表象されえない 存在」が構造的に支えるという,言語的男性中心主義のことである.特にフランス系のフェミ ニストたちが,その批判と破壊に力を注いだイデオロギーでもある.1 同様な姿勢をとるバトラ ーにとって,「ファロゴセントリズム」は二元論的な思考を支える構造上の要であり,「女性」 の主体問題を扱う議論においては避けることの出来ない焦点となる. 『ジェンダー・トラブル』において,バトラーは不自然なるものが自然なものとして構築され るイデオロギー作用を繰り返し強調するが,「ファロゴセントリズム」に関しても同じことが言 える.すなわち,異性愛主義的マトリックス(認識格子)における「ファロゴセントリズム」 を語るとき,「原因」となるべきものが「起源」として表象され,禁止・抑圧作用が結果的にそ の対象を生産するという機構の危険性を指摘するのである. 女性の文化的表象可能性を奪い,性差に不均衡な関係を作り出すイデオロギーを相手に,女 性自らが主体のポジショニングを行うことは決して容易ではない.しかしながら,この厄介な 「ファロゴセントリズム」こそが「トラブル」を起こすべき場であるとし,二元論的に固執する 既存のジェンダー・ノームの攪乱をバトラーは果敢に目指すのである. Ⅱ ところで,フランス革命を支えた啓蒙主義思想とは一体何であったのか?多様性に満ちたそ の言葉の定義は非常に難しいが,経験による知識の獲得や,教育による人間形成を信奉するル ソー的な人間主義に支えられていることは間違いないであろう.そして,理性により真に自由 となる主体を想定し,意志の力で自らの行動を統率する「超越的な主体」を探求するのが目的 10 Helen Maria Williams の政治姿勢とファロゴセントリズム である.いわば,この理想を社会システムのレベルで実現しようとしたのが,フランス革命で あったと言える. しかしながら,封建的家父長制が根強い旧体制にあっては,その啓蒙主義の理想とする主体 は「男性」の主体であり,ファロゴセントリックな意味機構の中で「女性」は存在しえない. そのような社会の支配的ジェンダー・イデオロギーは,「男性」には公的領域を,「女性」には家 庭を中心とした私的領域を振り当てる.性別の文化的意義を明確に分離する規範からすれば, 「女性」と公的領域とは全くの無縁であるはずであった.だが,1790 年から盛んになった革命 論争では,Mary Wollstonecraft や Helen Maria Williams らが,Thomas Paine や Edmund Burke ら との論争を通じて女性の政治的スタンスを公的に表明するようになる.このような行為は,当 然ジェンダー規範への「違反行為」とされ,ファロゴセントリズムに立脚した「男性性」への 挑戦と解釈される.本来ファロゴセントリズムは,その巧妙な仕組みによって男性の優位を確 かなものにしようとする機構である.すなわち,「男性主体」は,「ファルスになり得ない女性」 に自らを照射することで逆説的に存在証明をする.それ故に,構造上の必然として危うい「綻 び」を内包する.そして,その弱みを隠蔽するために,「女性」に対するイデオロギー作用が働 くのである. そこで,ファロゴセントリックな構造を揺るがしかねない局面,そして規制による制御不可 能な領域の発生といった状況を念頭におきながら,フランス革命を体験的に語る Helen Maria Williams の政治姿勢とポジショニングとを考察してみたい. Ⅲ Helen Maria Williams(1761–1827)は,8巻にもわたる書簡集を著し,フランス革命に関する 情報を祖国イギリスに提供してきたことが評価されている.その一方で,省察そのものが ‘truly feminine’ と評されるなどして,彼女の評価には「女性性」が付される.時にそれは ‘feminine sensibility’ と呼ばれ,例えば Williams が自らの政治的スタンスを表明する際に典型的に現れる. In answer to these accusations, I shall only observe, that it is very difficult, with common sensibility, to avoid sympathizing in general happiness. My love of the French revolution, is the natural result of this sympathy, and therefore my political creed is entirely an affair of the heart; for I have not been so absurd as to consult my head upon matters of which it is so incapable of judging. Letter IX, 1790 (91) 2 そもそも,Williams がフランス革命に深くかかわるきっかけは,非人道的な旧体制の権力介入 を知人から直接に見聞きしたことに始まる.3 この引用では,Williams が革命一周年記念の連盟 祭に歓喜する中で,彼女を革命に向かわせたものこそが ‘common sensibility’ であると述べられ ている.そして,その政治信条は “entirely an affair of the heart” であると表現され,ここにおいて Williams は,「政治的なことは私的なことである」との政治姿勢を宣言するのである. その一方で,彼女の政治姿勢に反感を抱く The Gentleman’s Magazine などは,女性としてあ るまじき政治的行動に対し,次のような批判の言葉を向ける. She “saw it, and was glad,” and perhaps rejoices that she has made a profitable book of it. [. . . ] Every trait that Miss W. relates bespeaks the levity, fickleness, and fantasticalness of the French. The whole is pantomime. Reflection is laid aside. The present moment is their only care. Miss W. has caught the contagion, [. . . ]. [February, 1791] (218) その記事は,フランス革命に賛同する女性として Williams を名指しし,彼女の感情に任せた 短絡的な姿勢を揶揄するばかりでなく,彼女が「フランス病」に罹ってしまっていると批判す 今井 裕美 11 る.“The whole is pantomime.”と称されるように,Williams が革命について述べることはすべて フランス特有の刹那的な軽率さや移り気に基づくとみなされる. ここで,公的領域に侵入する行為以上に記事の執筆者を苛立たせたのが,Williams の行動にみ られるフランス的女性性,つまり「フランス」というイデオロギーと同化している点である. とりわけ,Williams の行動をフランス風の「省察なきパントマイム」と同一視する部分では,言 葉をもてず,発話行為の主体にはなれない女性の存在を如実に表現しているとも言える.言い 換えれば,ファロゴセントリックな意味機構において, 「安易な啓蒙主義思想にかぶれない男性」 の存在を,その正反対に位置づけられる「フランス的女性性」を批判することでその優位性を 保つ機構が窺える. そこで,今一度 Williams の政治姿勢を見てみると,すべてが感情や感受性に基づくわけでは なく,性別や国籍を超えた「人間主義」へと向かう方向性も示している. Oh no! this was not a time in which the distinctions of country were remembered. It was the triumph of human kind; it was man asserting the noblest privileges of his nature; and it required but the common feelings of humanity to become in that moment a citizen of the world. For myself, I acknowledge that my heart caught with enthusiasm the general sympathy; my eyes were filled with tears; and I shall never forget the sensations of that day, “while memory holds her seat in my bosom.” Letter II, 1790 (69) 革命記念日に喜ぶフランス国民を前にした Williams の様子を伝える場面だが,特に注目すべ きは,“the triumph of human kind”,“the common feelings of humanity ”,“a citizen of the world”,そ して“ the general sympathy ”といった,いかにも啓蒙主義的な言葉が使用されている点である. ここでの Williams の言説の特色は,‘sensibility’ や ‘sympathy’ が,‘humanity’と結託して普遍な人 間主義へとむかう点にある.つまり,‘feminine sensibility’ がその度合いを強めた結果,その政治 姿勢が希求するベクトルは,一見ファロゴセントリックな男性主体の欲望と同化しているよう にも見える. Ⅳ ところで,このような人間主義や人類愛へとつながる女性の感受性については,当時一番の 政治的活動をしていた女性,Mary Wollstonecraft が『女性の権利の擁護』(1792) 第8章の中で次 のように述べている. Women are supposed to possess more sensibility, and even humanity, than men, and their strong attachments and instantaneous emotions of compassion are given as proofs; but the clinging affecttion of ignorance has seldom any thing noble in it, and may mostly be resolved into selfishness, as well as the affection of children and brutes. (288) 4 ここで Wollstonecraft は,「女性は男性よりも感受性に富み,人間愛も男性より豊かだと考え られているが,その無知ゆえのしつこい愛情は,子供や動物の愛情と同じで,大抵は利己心の 寄せ集めであり,彼女たちの人類愛の実際は 雀の涙程度か,束の間の憐れみの感情に過ぎない」 と断言している.もちろん,このような見解があってこそ,女性の悪しき特質を不当に作りだ す社会制度の是正を求めるのだが,女性の見境ない同情心や自己満足に過ぎない「人類愛」を Wollstonecraft は否定的に捉えている. そこで,先ほど指摘した Williams の ‘humanity’ の提唱は,Wollstonecraft が批判する,自己愛 にのっとられた女性的人類愛にすぎないのであろうか.確かに Williams の目指す「人類愛」は, 女性的な ‘compassion’ に基づくものに見える.しかしながら,ここで Williams が6年間にもわ たって続けた革命報告の中で,何を批判対象にしてきたかを考え合わせてみると,興味深いも 12 Helen Maria Williams の政治姿勢とファロゴセントリズム のが見えてくる. 彼女の批判は,革命の流れに沿って大きく2種類に分かれる.1つは,旧体制批判,特に結 婚制度に介入する国家権力への批判である.そして2つ目は,当初の啓蒙主義精神を台無しに した恐怖政治,特にロベスピエールらのジャコバン派の暴力性への非難である.特に恐怖政治 時代については,様々な文人・思想家にアイデンティティ・クライシスをもたらした事象であっ たが,Williams はロベスピエールらの処刑で恐怖政治を終わらせた結果を重視し,正しい選択を 行ったフランス国民の賞賛へと向かう.そして,このような見解の延長線上で,Williams は英仏 両国の比較を奴隷貿易に対する処遇を以って行うのである. Ah, let us, till the slave-trade no longer stains the British name, be more gentle in our censures of other nations! I know not how that partial morality can be justified, which measures right and wrong by geographical divisions; and, while it pours forth the bitterness of declamation against human crimes in France, sanctions them in Africa. I have related to you, with the detestation I have felt, the evils of that tyranny which assumed the name of revolutionary government; but the faithful historian of a salve-ship would perhaps admit, that there are horrors beyond the drowning scenes of Carrier, or the guillotines of Robespierre. Letter VII, 1796 (189) 奴隷貿易廃止に関しては,フランスが革命の過程で早々に廃止へと踏み切ったのに対し,イ ギリスが遅れをとった事実がある.ここでは,イギリスが人間性よりも貿易の経済効果を優先 させ,道徳上のダブル・スタンダードを行使する不誠実さが非難されている.同時にそれは,フ ランス国民が恐怖政治の過ちを自己浄化した結果ではなく,革命進行上の一時的な混乱現象の みを問題視するイギリス人への批判となる.ここで興味深いのは,恐怖政治後のフランス政治 を擁護する Williams の論点が,いつの間にかフランス革命を否定する祖国イギリスへの批判に 移行していることである.そして,この議論の移行を仲介したのが,奴隷貿易および奴隷制批 判であった.図らずも経済とモラルの間の矛盾を表出させたこの局面は,当初の「女性性」に 基づく感情主義的な政治スタンスから生まれた,新たな展開と言えるのかもしれない. また,次のような 1796 年当時のテキストでは,Williams 自らがこれまでとは異なる政治姿勢 を表現している. With all the feelings of an Englishwoman at my heart, a heart that glows for the real honour of my country, I pour the fervent wish that she may speedily wipe away this foul reproach; and that, while her sources of commercial wealth flow in lavish abundance from every quarter of the globe, she may reject with indignant scorn that execrable traffic or which humanity is the barter. Letter VII, 1796 (189) 虐げられ,惨めな死を迎えるしかない奴隷たちの境遇に同情し,Williams は,経済的利益を優 先する英国の不名誉を批判するが,この言及には,これまでに見られなかった「英国人」と 「女性」という2つのアイデンティティが明示されている.もはや,「政治的なことは私的なこ とである」としてきたスタンスが,「愛国者」という正反対の立場のものに置き換わっている. 啓蒙主義の理想である「人間主義」を彼女なりに追求した結果,不道徳性や非人間主義と自ら の「英国人/女性」という立場を対比させ,Williams は新たな自己のポジショニングを行ったこ とになる. 以上のような考察を踏まえ,一連の Williams の革命評価をまとめてみると,次のような点が 指摘できるであろう.革命当初からの ‘feminine sensibility’ に基づく革命擁護の姿勢は,一見ファ ロゴセントリックな機構に取り込まれているようにも見える.しかし,「女性的」な啓蒙主義の 精神を反復的に推し進めてゆくと,それはもはや domestic ideology を超え,国家や人種のレベル での ‘sympathy’ へと入り込むイデオロギーとなる.つまり,二項対立的なジェンダー・システム の中で,女性的価値観を強調する価値逆転の手法が,結果的に異なる差異や審級の結合を呼び 今井 裕美 13 込む局面をもたらしたのではないだろうか.すなわち,Williams の戦略が,イデオロギー批判に 新たな切り口をもたらした瞬間であると言えるのかもしれない. 注 1 『ジェンダー・トラブル』の中では,「男性性」偏重の根拠であるファロゴセントリズムに「女性」がど う対抗しうるかを,ボーヴォワール,イリガライ,クリステヴァ,ウィティッグらの理論に関して比較 検討している. 女性主体回復の可能性として,1) 主体形成プロセスの時間軸を遡る方向,2) 主体形成後に女性性の優 勢を価値逆転的に求める方向,3) ジェンダー規範の外に位置する第三の性へと逃れる方向,の3種類が 提示されている.バトラーはそのいずれにも満足な解決法を見出していないが,可能性の選択肢として 認識しておく必要があるであろう. 2 以下,Williams の書簡集 Letters Written in France, in the Summer 1790, to a Friend in England; Containing Various Anecdotes Relative to the French Revolution; and Memoirs of Mons. and Madame Du Fossé (1790) および Letters Containing a Sketch of the Politics of France, from the Twenty-eighth of July 1794, to the Establishment of the Constitution in 1795, and of the Scenes which have Passed in the Prisons of Paris(1796),また,The Gentleman’s Magazine の引用テキストは,Neil Fraistat, Susan S. Lanser eds, Letters Written in France; Helen Maria Williams. Canada, New York: Broad view Press, 2001 によるものである. 3 Williams のフランス語家庭教師として知り合った女性のことを指し,家父長制と専制政治の犠牲者であ る Mons. & Madame Du Fossé の悲劇として,その詳細が Letters Written in France, in the Summer 1790 の中 で語られている. 4 Janet Todd ed, Mary Wollstonecraft: Political Writings. Toronto: U of Toronto Press, 1993. からの引用である. 参考文献 Johnson, Claudia L. Equivocal Beings: Politics, Genders, and Sentimentality in the 1790s. Chicago: U of Chicago P, 1995. Kelly, Garry Revolutionary Feminism: the Mind and Career of Mary Wollstonecraft. New York: Macmillan Press, 1992. Kennedy, Deborah. Helen Maria Williams and the Age of Revolution. London: Associated U P, 2002. Mellor, Anne K. Mothers of the Nation: Women’s Political Writing in England, 1780-1830 Indianapolis: Indiana U P, 2000. Shuter, Jane ed. Helen Maria Williams and the French Revolution. Austin,Texas: Raintree Steck-Vaughn Publishers, 1996. Sussman, Charlotte. Consuming Anxieties; Consumer Protest, Gender & British Slavery. Stanford: Stanford U P, 2000. ジュディス・バトラー著 竹村和子訳『ジェンダー・トラブル』 (青土社,1999 年) ソニア・アンダマール他著 奥田暁子他監訳『現代フェミニズム思想辞典』(明石書店,2000 年) 竹村和子編 『“ポスト”フェミニズム』(作品社,2003 年) 『現代思想―ジュディス・バトラー vol. 28-14』(青土社,2000 年) Proceedings of the 58h Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) シンポジアム【英文学部門】 第三の性の仮面―『荒地』テイレシアス考 熊谷 治子 T.S.エリオット(Thomas Stearns Eliot, 1888-1965)の作品をフェミニズム的視点から捉えよ うとする傾向は,80 年代頃から盛んになり,皮肉にも芸術の「非個性」を主張する詩人の意図 に全く反して,詩人自身のホモセクシュアルな側面,ヴィヴィアンとの結婚の破綻などの私生 活が暴露されてきた.1915 年頃から,詩人の妻ヴィヴィアンはラッセルと親密な間柄となって いたが,神経症を患っている妻を救うことができない詩人は,妻の浮気を黙認していた.初期 の詩篇には,性的行為を非個人的な視点から表現した言葉が垣間見られ,その理由として,不 毛さや,それにともなう罪悪感や憤りがあるとも指摘されるに至っている 1.しかしながら, 『荒地』 (The Waste Land,1922)に登場するテイレシアスが,いったいなぜ,若く美しい理想化さ れた両性具有者ではなく,老いた盲目の両性具有者という明確なアイデンティティを欠いた一種 の中間状態の人物として登場するのか,という問いは,いままでに発せられたことがなかった. 詩人は,そのようなテイレシアスの属性を通じて, 『荒地』のジェンダーの何かを破壊し,何かを 再生させようとしたのだろうか. ジュディス・バトラーは,シモーヌ・ボーヴォワールの『第二の性』における「ひとは女に生 まれない,女になる」に,疑問を投げかける.すなわち,女に「なる」ことをおこなう「ヒト」 は誰なのか,その人間は「女」になるまで「女」でなかったと考えていいのか,「女」が構築さ れるときの時期,あるいはそのメカニズムは何なのかを説明する必要があるのではないか,と いうわけである.そこで,バトラーのジェンダー論にあやかって,『荒地』の「テイレシアスは 両性具有に生まれない,両性具有になる」という仮説を立てた.両性具有に「なる」ことをお こなう「ヒト」は誰なのか,「両性具有」になるまで「両性具有」でなかったのか,「両性具有」 が構築されるメカニズムとは何か,について考察することで,『荒地』のジェンダーの新たな地 平を探る. 1.両性具有に「なる」ことをおこなう「ヒト」は誰なのか? 詩人によって 50 個所ほどの注と説明が付けられている『荒地』は,ヨーロッパ文学の古典リ ストとしても活用できそうなほど,読者に文学古典にたいする知識を要求する作品でもある. 実際『荒地』は,読者に文学古典の記憶を喚起させ,その記憶の残像の助けによって,作品世 界を構築していくといえる.その一例としてテイレシアスを考察するとき,それは‘I Tiresias, though blind, throbbing between two lives, / Old man with wrinkled female breasts,’ (ll. 218-9)とテイ レシアス自らが語っている箇所をあげることができる.ここで注意したいのは,この引用箇所 を目にする読者が,厳密にいえば,三つの段階を経ることにより,盲目の両性具有の老人テイ レシアスを認識するという点である. 第一に,読者が ‘I Tiresias, though blind’ を目にするとき,ギリシア神話において,テイレシア 熊谷 15 治子 スは,テーベの予言者で,若いとき,女神アテネの水浴を見たため,また一説にはゼウスとヘ ラとの論争でゼウスに味方したためヘラの怒りを招き,盲目にされたが,かわりに予言の力を 与えられ長命を保った,という故事が想起される. What Tiresias sees, in fact, is the substance of the poem. と原注に記されていることについて,テイレシアスが予言者として未来を見透かし ていることや 2,テイレシアスの意識の流れが作品の本体を構成しているともいわれている 3. このようなテイレシアス像の前身として,「ゲロンチョン」(“Gerontion”)に,あらゆる感覚を 失ってしまった老人物が登場する. I have lost my passion: why should I need to keep it Since what is kept must be adulterated? I have lost my sight, smell, hearing, taste, and touch: How should I use them for your closer contact? 上記引用からうかがえるように,この場合,失ったのは視力だけでない.五感を失うことに加 えて,情欲をも失い,人間の属性を超えた形而上的な存在として描かれている.ここに,視力 を失うことと引き換えに,予知能力を授かったテイレシアスの特徴の一端をすでに見ることが できよう. 第二に, throbbing between two lives,’では,オヴィディウスの『変身物語』において,深い森 のなかで交尾している二匹の大きな蛇を杖で激しく殴りつけた折,男であったテイレシアスが 女にかわり,ふたたび蛇を殴ることにより男に変身することが追憶される. 第三に, Old man with wrinkled female breasts, に至るとき『荒地』においては,盲目で,か つ男女両性の身体的特徴をかねそなえた老人として,テイレシアスは登場していることが,読 者の古典に対する教養とその追憶の助けを借りることによって認識される.『荒地』の全体像を 示唆するエピグラフとして選ばれたのは,老いさらばえたシビルである.クーマエの巫女シビ ルは,アポロに一握りの砂の数ほど長い半永久的な命を懇願するのだが,若さを維持できるよ うにと願うのをわすれたため,老いさらばえた身となって「死にたい」と願いながらも死ねず に,いはば「生きた屍」となっている.また詩人が『荒地』の骨組みを形成するうえで重要な 役割をはたしたのが「聖杯伝説」である.漁夫王には,腰に傷を負い,性的に不能になってい るため,漁夫王の統治国の人々および動植物たちも,新しい生命を生むことができずに,国土 が荒れ果ててしまっているという連想があるからである. 以上のような経緯を経ることによって,詩のなかの1行の解釈が,詩全体の意味の解釈から 類推されるように,テイレシアスもまた,シビルと漁夫王からの類推を受け,両性具有に「老 い」が付加される.いわば,読者の追憶と詩人の願望と混ぜ合わされるのである.老いた両性 具有のテイレシアスの身体的特徴は,詩人が提供するこの詩の全体像を把握する上で重要な人 物たちの特徴と,読者がそれを編集し類推する共同作業によって,最大公約数的にみちびき出 された結果であると想像できよう. 2.「両性具有」になるまで,「両性具有」でなかったのか? 前述のとおり,テイレシアスは,218 行目になってはじめて, I と名乗る人物が当の本人 であることを明らかにする.しかしながら,これは,『荒地』において重要人物としては遅すぎ る登場とはいえないか.そこで,テイレシアスのこの詩の中における特徴として,重要な点を 確認してみると,詩人によって記された原注には,つぎのように記されている. Tiresias, although a mere spectator and not indeed a ‘character’, is yet the most important personage in the poem, uniting all the rest.Just as the one-eyed merchant, seller of currants, melts into the Phoenician Sailor, and the latter is not wholly distinct from Ferdinand Prince of Naples, so all the women are one woman, and the two sexes meet in Tiresias. What Tiresias sees, in fact, is the 16 第三の性の仮面―『荒地』テイレシアス考 substance of the poem. 引用文中の片目の商人,フェニキアの水夫,ナポリ国の王子ファーディナントや女性たちは, 本篇においてテイレシアスが登場する以前に登場している.つまり,テイレシアスは,自分が テイレシアスであることを名乗って 218 行目で登場する以前から,さまざまな人物に成りすま して,すでに登場していたということになるのだろうか. テイレシアスが,はじめてその存在を現す際に, I と名乗っているところから,一人称代 名詞の例を,テイレシアスの登場以前に遡ってみる.‘I will show you fear in a handful of dust.’の I は,マリーでもあり,エゼキエルでもあり,シビル,トリスタン・・・とその曖昧さゆえに, 何通りもの解釈が可能であるだけでなく,男女を問わず複数の人物を重層的に示している ということができる.そして,可変的な人称代名詞 I I に気づくことで,『荒地』のジェンダ ーもまた,玉虫色に変幻することが理解できる. 例えば,不精ひげのスミルナの商人ユーゲニデスは, I なる人物に,ホテルでランチをと って週末をいっしょに過ごそうと誘う.ここで注意しなくてはならないのは,「ユーゲニデスは 同性愛者である」とする解釈は, I いうことである.もし, I が男であるという前提があってこそはじめて成り立つと が男性と解釈するなら,男性対同性愛ユーゲニデスとなり, I が女性である場合は女性対男性ユーゲニデス,また I がテイレシアスの時は老いた両性具 有対男ユーメニデスというように,ジェンダーをめぐって I の実相は二転三転するという ことである.すなわち,テイレシアス視点に立てば,異性間の交わりは,同性間でもあり,両 性具有間ともなりうるのである.さらにいうならば,『荒地』の詩人エリオットを I あると解釈することが可能なのはもちろんのことだが,読者もまたその中に同化され 本人で I と 成りすまして解釈することもできる.そうなると, I を男性か女性に規定することはおろか, そのジェンダーのヴァリエーションは各種各様の組み合わせによって生成されていくことにな るといえるのである. バトラーは,遺伝子による男女の決定法が,仮説にすぎないことを指摘する.すなわち XY 染色体構造が生物学的に男性を意味し,XX 染色体構造が生物学的に女性を意味するというのも, 多くの例外的事例を文化的に淘汰した結果にすぎない,というわけである.このようなジェン ダーの不確定性は,ちょうど『荒地』における, he とこが可能となる.なぜなら, he も指し, she she においても,同様に論を展開する が先行する男性のみを指すのではなく,女性,両性具有者 もまた,女性のみではなく男性および両性具有者を指すという屈折した解釈が可 能になるからである.染色体 X か Y かによってジェンダーを特定できないのと同様に,三人 称代名詞 he か she によって男女を区別することも難しいといえるのである.いわば『荒 地』における人称代名詞は,ギリシア悲劇の仮面であり, he や she という名の仮面の背後で, その役者は,男でも女でも両性具有でもあり,いずれの性でもない 4.おのおのの人称代名詞が指 示する対象としてのペルソナは,つねに変化しつづけ,そう認識された瞬間には,その全体との 類推によって違うものへと変容していく.したがって,ここにおいて, 「男」がいつのまにか「女」 になり「両性具有」にもなるとらえどころのない, 『荒地』の人称代名詞は,バトラーの言葉を借 りるまでもなく「幻の構造物」にすぎないことが明るみに出るのである. このような不確定的な人称代名詞がこの詩のなかに投げこまれている数が,260 回近くにおよ んでいることもまた,『荒地』のジェンダーをより複雑にしているといえるのだが,さらに,文 法ルールの錯綜もまた,より人称代名詞を複雑にしている.『荒地』において,はじめて人称代 名詞が用いられているのは,5行目で, Winter / Kept us warm 指しているのかは,その後,10 行ほど読み進めると のである.この us が誰を My cousin’s he took me out on a sled,/ And I was frightened.He said, Marie, / Marie, Hold on tight.And down we went. に至ることに 熊谷 よって, us 17 治子 は,一組の男女のことを指すのだとわかる. Marie という人物名が初出で,その後 we という人称代名詞がくるのではなく,その順序 は逆になっている.つまり『荒地』において,人称代名詞が,それに先行する人物を指す,と いう一般的な文法上のルールは破られているといえる.テイレシアスは,男であろうと女であ ろうと関係なしに,すべての登場人物を統合する.モダニズム特有の複眼的視点によって書か れた『荒地』の断片をつなぎ合わせる,唯一中心的な重要な役割を担っていたといえよう.そ して,「私,テイレシアスは」と名乗る以前から, he she の場合も,テイレシア スは 218 行目おいて両性具有の老人と読者に認識される以前から, I はテイレシアスであっ た.すなわち I の場合も は,「両性具有になる」以前から両性具有であったといえるのである. 3.「両性具有」が構築されるメカニズムとは? ミシェル・フーコーは,「両性具有者エルキュリーヌ・バルバンの手記に寄せて」において,男 性性または女性性を明確に分類できる「真の性」というものは本当に必要なのか,という疑問 を投げかけている 5.いいかえるなら,これは,男性にも女性にも属さない性のアイデンティテ ィーが不明確な位置に追いやられて,両性具有者が差別された事例の紹介ともいえる.ここで 確認しておきたいのは,その両性具有に関して,われわれは「真の両性具有」があるという幻 想を抱いてはいないか,という点である.すなわち男女を統合体としての第三の真の性として, 若く美しい両性具有を理想化・神秘化する傾向があったのではないだろうか. プラトンの『饗宴』によれば,人間の性には三つのタイプがあり,太陽から生まれた男,地球 から生まれた女,そして月から生まれた両性具有の男女(おめ)があったとされていた.傲慢な 人間をこらしめるためにオリンポスの神々の怒りをかい,ゼウスがかれらを真っ二つに断ち割っ た.その後,失われた半身を求めることは,恋人同士が求め合う行為の暗示となってきたことは いうまでもない.それは,原始的本性,原初の統合体への憧憬あるいは回帰願望,さらには男と 女が合体したアンドロギュノスを理想化・美化する傾向へと結びついていく.フランスの小説家, ジョゼファン・ペラダンは「いと優しき性,見るだけで孤独の慰められる性・・・いと慈悲深き性, 我らに夢を与える性,・・・奇跡の性,永遠の性」とアンドロギュノスを絶賛する. 一方,『荒地』の老いた両性具有者テイレシアスに関して言うならば,これまで検証してきた ように,両性具有が構築されるメカニズムの一部として,読者と作者の共同作業によるイメー ジの類推や,過剰に散りばめられた人称代名詞おのおのが指示する対象が変幻するという特質 をあげることができる.と同時に,両性具有というものは,若く美しく理想的な身体であると いう幻想は打ち砕かれ,われわれは幻想のジェンダーから覚醒する.すなわち,老いた両性具 有は不毛の象徴とする解釈は,理想的な両性具有は若く美しくあるべきだという観念から派生 した,幻の両性具有像であったということに気づくことができるのである. まず,第 1 節でふれたように,確かに,老いたテイレシアスには,視力を失っているだけで なく十分な生殖機能が失われているといえるかもしれない.しかしながら,それは真の両性具 有,正しい,理想の両性具有とは異なり,劣った両性具有ということにはならないはずである. ただ単に,性の欲望の枯渇が,生殖の不毛,何も生み出さないことを指すというよりは,むし ろ,より高次な愛を創造すると考えることができる 6.なぜなら,テイレシアスが視力とひきか えに未来を見透かす予知能力さずかったのと同様に,老いによって五感を失うことによってさ らに個を超越した非個性的な,歴史的感覚に立脚した視点が獲得されるからである.老いによ る欲望への執着から自由になったテイレシアスの非個人的な視点の導入によってこそ,ジェン ダーにとらわれない本来の自己への覚醒が深化され,『荒地』の登場人物たちにカテゴリーから の脱却,幻の自己からの覚醒,ジェンダーの開放がもたらされるのではないだろうか. 18 第三の性の仮面―『荒地』テイレシアス考 次に,第 2 節において述べた,万華鏡的に変幻する人称代名詞の仕掛けに注目すれば,老い たテイレシアスは限りなくジェンダーを生成するメカニズムを有しているといえる.『荒地』の 登場人物たちは,自分を見失い,自分たちがダンテの『神曲』的な「煉獄」にいることすら気 づいていない.いい換えるなら,自分が男/女の仮面をかぶって,欲望のおもむくままにドラ マを演じるだけで,真実の自己確信に基づいた行動をしていない.逆に,テイレシアスには, 仮面を被ることによって抽出された普遍的な本来の自己への目覚めがある.冷静な目で真実を 見つめ将来を予見する力があり,『荒地』の登場人物たちが男/女の仮面を被り,演じているこ とを,少なくとも読者に気づかせる存在といえる.テイレシアスの意識の流れの中には,テイ レシアスの変身と変心が織り成されている.いわば,男から女への転轍であり,男/女の仮面 の背後でテイレシアスの意識が変化したにすぎない.テイレシアスの被るジェンダーの仮面は, その生命の普遍性と可変性の狭間で漂流しつづける.しかし,その本質は変わらないのである. 老いた両性具有者テイレシアスは,作者の個人的経験を隠蔽する装置でもないし,『荒地』に おける不毛の象徴でもないことがこれまでの論考より明らかになったと言うことができる.実 は,老人テイレシアスは,『荒地』と遭遇する者たちよって,ジェンダーの無限生成の触媒とな り,現代の神話を構築する役割を担う存在だったのだ.『荒地』以前の出版になる「伝統と個人 の才能」における過去と現在の同時的存在すなわち「歴史的感覚」は,男性性と女性性を含む 対立するすべてを形而上的「反対の一致」によって統合へと導く同時共存的感覚として, 『荒地』 の老いた両性具有者テイレシアス像の構築メカニズムに組み込まれているといえよう.『荒地』 の登場人物たちの「幻のジェンダー」は,老いたテイレシアスの存在によって,そして読者と 詩人の共同作業の助けをかりて,そのヴァリエーションを豊かに繁殖し続けるのである. 注 1 Peter Ackroyd, T.S.Eliot, (London: Penguin Books, 1993) pp.66-8. 2 B.C. Southam, A Studets’s Guide to the Selected Poems of T.S.Eliot (London:Faber and Faber, 1994) p.172. 3 Graham Hough, “Imagism and Its Consequeces,” Modern Critical Interpretations T.S. Eliot’s The Waste Land, ed., Harold Bloom, (New York: Chelsea House,1986) p.49. 4 “Like the mask in Greek tragedy interchangeable not only from scene to scene but from actor to actor and behind which the events and occasions took place without chronology or sequence” William Faulkner, Absalom, Absalom!, 5 6 (New York: Random House, 1993) p.60. 「墓穴のような空気」の漂う部屋で南部を語るローザは,両性具 有的な錯綜した恋愛感情をいだき,年齢,ジェンダーを超越した語り手として登場しており,『荒地』に おける「死者の埋葬」や不毛というテーマとの類似が読み取れる. 両性具有の一般的なイメージとしては,半陰陽,両性愛,服装倒錯(トランスヴェスティズム) ,同性愛, 奇形(フリークス)も含まれているように見うけられる.アメリカの心理学者ジューン・シンガーは,男 女両性具有は,「一個人が男女両性の性的特徴を具有する生理学上の異常」である半陰陽(ハーマフロデ ィズム)ではないし,「ジェンダーにおける区別の明瞭ではない者」をいう両性愛(バイセクシュアル) とも違うと述べている.シンガーの言葉を借りるなら,男女両性具有とは,一瞬一瞬,自己発見を重ね ることにより,ジェンダーにとらわれない本来の自己の覚醒を深化させ,より一層の全体へと向かう行 為といえる. George Williamson, A Reader’s Guide to T.S.Eliot, (London:Thames and Hudson,1980)pp.123-4. 参考文献 Ackroyd, Peter. T.S.Eliot. London: Penguin Books, 1993. Butler, Judith. Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity. New York & London: Routledge, 1990. 熊谷 治子 19 Bloom, Harold. ed.. T.S.Eliot, New York: Chelsea House, 1999. ––––. ed.. T.S.Eliot’s The Waste Land. New York: Chelsea House, 1986. Eliot, T.S. The Complete Poems and Plays. London: Faber and Faber, 1990. ––––. Eliot, T.S. Selected Essays. London: Faber and Faber, 1991. Faulkner, William. Absalom,Absalom! New York: Random House, 1993. Foucault, Michel. Herculine Barbin dite Alexina B. Paris: Gallimard, 1985. Peladan, Josephin. De L’androgyne: Theorie Palastique. Puiseaux: Pardes, 1988. Plato. Plato, 3vols. trans. W.R.M.Lamb. Cambridge, Massachusetts: Harvard UP, 1983. Singer, June. Androgyny: Toward a New Theory of Sexuality. New York: Doubleday Anchor Press, 1976. Wheelwright, Philip. “Piligrim in The Waste Land.” The Burning Rhetoric: A Study in the Language of Symbolism Indiana: Indiana UP, 1954. 荒木映子 「ヒステリーの死,男らしさの死―エリオットとフェニズム批評」T.S.Eliot Review 14, 2003. 田村一男「『荒地』の人称代名詞」SELLA 25, 1996. ※ 本稿は,東北英文学会第 58 回大会 (2003 年 9 月 27 日,於 弘前大学)におけるシンポジアム・イ ギリス文学部門の口頭発表「テイレシアスは両性具有に生まれない,両性具有になる!?」に基づき, 加筆と修正を施したものである.なお,既に翻訳出版されているテクストも参照したことをお断りして おく. Proceedings of the 58h Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) シンポジアム【英文学部門】 性と政治の狭間で The City-Heiress におけるパフォーマティヴな自己形成の 可能性について 福士 航 Aphra Behn が,いわゆるフェミニズム批評家たちが精力的に行ってきた,文学史の書き直しの なかで評価を得てきた女性作家であるということは,夙に知られている.これまでのフェミニズ ム批評における Behn の作品の読解では,例えば Catherine Gallagher が,Behn は真の自分自身を 保存するために娼婦としての仮面をつけた作家であると論じているが,それはこれまでの Behn 研究者たちの態度を象徴するものであると言えよう.1 作品中の女性表象がいかになされている か,また作者によるそうした表象の戦略がいかなるものであるかを検証することで,Behn の女 性作家としての主体性を再構築しようとする批評態度が,多くの批評家たちに共有されてきたこ とは明らかであるからだ.そして多くの場合,Behn がどれだけフェミニスト的な主体性を持ち 合わせていたのか,あるいはいなかったのかという点が焦点になってきたと言えるだろう.2 しかし本論では,Judith Butler による女性主体あるいはフェミニスト的主体という概念の再構 成を踏まえて,Behn の「女性主体」に違った角度から焦点を当てるような作品の読解を試みた い.3 具体的には,当時の政治的な状況を取り入れた芝居 The City-Heiress (1682)を取り上げ,ま ず作中で「ホモソーシャルな欲望」のいち形態がどのように機能しているかを,ふたりの主要 な男性登場人物,Wilding と Sir Charles の関係を中心に検証する.次にそこで強化されている 男性の絆によって,一つの政治的な立場,つまり王党派支持の立場が同時に強化されているこ とを明らかにする.そしてそのホモソーシャルな欲望の陰で,どのようなものが犠牲にされて いるのかを確認し,そこでの表象戦略によって,いかに Behn がパフォーマティヴに自己形成し ていると言えるのか,一つの読解の可能性を提示したい. Ⅰ まず,Butler のキーワードの一つである「ホモソーシャルな欲望」とは,どのようなものであ るのだろうか.この概念は,彼女自身示唆しているように,Eve Kosofsky Sedgwick が問題化し 批判した,男性同士のホモソーシャルな関係とほぼ同じ構造を持つものである.つまり女性を 交換の媒体として形成される,男性同士の連帯感なのであるが,それを Sedgwick が挙げている, William Wycherley の The Country Wife (1675)の例を範にとって手短に図にまとめてみると,以下 のようになる. Margery Pinchwife 福士 Horner ● 航 21 Pinchwife ● 異なる家,もしくは価値体系に属する二人の男性,田舎紳士の Pinchwife と都会の洒落者 Horner の間に強力な社会的絆をつくりあげるために,Pinchwife の妻 Margery が,交換される モノとして Horner にゆだねられると Sedgwick は述べ,Pinchwife が脅迫観念的に男性同士の絆 4 を求める姿をつぶさに拾い上げている. The City-Heiress においては,Sedgwick や Butler が批判 するこのホモソーシャルな構造が,多少形を変えて見受けられるだろう. この劇において,そのような男性たちは Sir Charles と Wilding であり,二人は友人関係にあ る.放蕩者で,多数の女性と同時進行の関係を保つ Wilding に対して,Sir Charles は“How can you love two at once?”(1.1.173)5 と尋ねるように,二人は性愛上の価値観が異なっている.一方 交換される女性にあたるのが,未亡人 Lady Galliard である.彼女ははじめ Sir Charles の気弱さ を嫌い,Wilding に心ひかれ,彼も同様に彼女の魅力にひかれている.二人が互いにひかれ合い ながらも,ともに恋の駆け引きにおいて主導権を握ろうと策を練り,機知を戦わす様子は,風 習喜劇に頻繁に見られるカップルの形式で,John Harrington Smith が「陽気なカップル(gay couple)」と呼んだものに相当するだろう.6 陽気なカップルの一般的な型とは異なり,最終的に 結婚に至ることはないのだが,彼らは劇中で性的関係を持つことになる.Wilding の口説きのレ トリックは,Behn がしばしば描き出した,放蕩者のその場しのぎの表現とほとんど変わるとこ ろがないのだが,二人の関係で特徴的なのは,Lady Galliard の Wilding に対する感傷的にも見 える愛情が劇の終りまで持続しているようである点だろう. LADY GALLIARD. No, your [Sir Charles’s] unwearied Love at last has vanquisht me. Here, be as happy as a Wife can make ye––One last look more, and then––be gone fond Love. [Sighing and looking on Wilding, giving Sir Charles her hand] (5.1.586-8) 彼女の感傷的にも見える台詞や,劇中での性的関係の表象は,彼女が Wilding に「属する」関 係であったことを浮き立たせる機能を果している.それはまた,Sir Charles との結婚によって, Willding から Sir Charles へと Lady Galliard の所有権が移ることをより鮮明にするのである. Wilding も Lady Galliard ほどではないにせよ,彼女に未練を残しつつ,Wilding は Charlot と, Lady Galliard は Sir Charles と結婚することになる.このような関係を背景に Lady Galliard と Sir Charles のカップルは成立するのだが,女性の交換の果てに形成される Sir Charles と Wilding の関係には,ある種のホモソーシャルな関係性が見られることになる.二人の男同士をつなぐ 絆は,端的に言ってしまえば,王党派的な党派心ということになるだろう. Ⅱ Sir Charles が Lady Galliard と結婚に至るまでには,一つの大きな転機がある.それは彼が伯 父 Sir Anthony の導きに従って酒を飲み大騒ぎし,彼女の寝室に押し入り,陰に隠れて覗き見て いた伯父を証人にとって,強引にとりつけた結婚の約束を法的に有効なものに仕立てようとす るという出来事だ. SIR CHARLES. And if I keep it not, say I’m a Coward, Uncle. 22 性と政治の狭間で― The City-Heiress におけるパフォーマティヴな自己形成の可能性について SIR ANTHONY. More Wine there, Boys, I’ll keep the Humour up. SIR TIMOTHY. How! young Meriwill so close to the Widow!––Madam–– [Addressing himself to her, Sir Charles puts him by] SIR CHARLES. Sir Timothy, why what a Pox dost thou bring that damn’d Puritanical, Schismatical, Phnatical, Small-beer-face of thine into good company? Give him a full Glass to the Widow’s Health. (3.1.218-24) 王政復古期に流行したリバティニズムを論じる際に,性的な放蕩行為のみがその特徴としてし ばしば取りあげられるが,ここで Sir Charles が繰り広げているような酒を飲み浮かれ騒ぐとい う行為は,James Grantham Turner が指摘しているように,リバティニズムの底流にあるものの 一つである.7 更に Sir Charles は,決して魅力的ではないやり方であるが,一人前の放蕩者よろ しく Lady Galliard の寝室に夜這いをかける. SIR CHARLES. No frowning; for by this dear night, ’tis charity, care of your Reputation, Widow: and therefore I am resolv’d nobody shall lie with you but my self. You have dangerous Wasps buzzing about your Hive, Widow––mark that––(She flings from him.) Nay, no parting but upon terms, which in short, d’ye see, are these: Down on your knees, and swear me heartily as Gad shall judge your Soul, d’ye see, to marry me to morrow. (4.1.487-93) 押し入った先で結婚の約束を取り付けようとするところは,一夜を共にしようとするためだけ に侵入する放蕩者とは一線を画している点が興味深い.しかし彼は飲み騒ぐ行為を経て,更に 夜中に女性の寝室に押し入るという行為を経ることによって放蕩者のアイデンティティを獲得 していくことになる点がより重要であるだろう. この劇が上演された 1681 年当時,リバティニズムは性的・歓楽的な行為の基盤をなすだけで なく,政治的に王党派の色合いを帯びるものでもあった.国王チャールズ二世を中心とした宮 廷人たちの私生活において,愛人を次々と囲い,蕩尽の限りを尽くすことは珍しい状況ではな く,宮廷と放蕩は密接に結びついたものとして捉えられていたことが,数多く残されている風 刺詩などからわかっている.8 また Susan Owen が指摘しているように,この当時の王党派と議 会派の政治的対立の中では,政治上のライバルをおとしめるレトリックに性的な言説が極めて 頻繁に利用されており,性と政治とは骨絡みの問題であったのである.9 従って,Sir Charles が放蕩者のアイデンティティを獲得したことは,彼が立派な王党派として のアイデンティティを獲得したことと同等の意味合いを持つと言えるだろう.先述したように, 彼が Lady Galliard の寝室に押し入る行為は非常に粗暴で,ともすれば脅迫あるいはレイプ未遂 ともとれるようなのだが,その過剰なまでの強引さにも関わらず,彼に備わる“unwearied love” (5.1.586)を彼女は最終的に評価し,Wilding に未練を残しつつも Sir Charles との結婚に同意する. Sir Charles の行為は Wilding のような洗練された所作には程遠いが,放蕩者の所作と言う点で は共通する部分を持つものだろう.つまり,Wilding が相思相愛の状態にいた,言葉を変えると 肉体的にも精神的にも占有していた Lady Galliard を,Sir Charles との間で交換することによっ て,男同士の絆として形成されるのは,同じ放蕩者同士の絆,あるいは王党派同士の連帯感な のである.それを明らかに示しているのが以下の場面だ. WILDING. I’ll propose fairly now, if you’ll be generous and pardon all: I’ll render your Estate back during Life, and put the Writings in Sir Anthony Meriwill’s and Sir Charles his hands.–– I have a fortune here that will maintain me, Without so much as wishing for your death. ALL. This is but Reason. SIR CHARLES. With this Proviso, that he makes not use on’t to promote any mischief to the King and Government. ALL. Good and just. [Sir Timothy pauses] SIR TIMOTHY. Hum, I’d as good quietly agree to’t, as lose my Credit by making a noise. [Aside] –– 福士 23 航 Well, Tom, I pardon all, and will be friends. [Gives him his hand]. (5.1.573-83) Sir Charles の台詞に端的に表れているように,Sir Timothy は「王と政体」にとっての害悪とし て表象されている.この劇の終りに当たる場面において,それを共同で懲らしめることで,二 人の連帯感が強調される幕引きになっているのだ. 男性同士の間で女性が交換される構造が,もう一つ Sir Timothy と Wilding との間にも見られる. しかし,この男性同士の間での女性の交換は,Sir Charles と Wilding との関係と異なり,連帯感で はなく上下関係をはっきりと示すものになっている.Sir Timothy は甥である Wilding の放蕩を好 まず,遺産の相続を拒否しており,劇の冒頭では二人の力関係で上位にいる.強情な彼に一泡吹 かせてやろうと,Wilding は自分が囲っている Diana という女性に Charlot の変装をさせて彼のと ころへ送り込む.この策略は見事に成功し,Sir Timothy はタイトルロールの“the city-heiress”たる Charlot であると思い込んで,素性の怪しい Diana と結婚してしまい,さらに Wilding が遺産譲渡 の証書を盗み出すという荒技をやってのけているために財産を失ってしまってもおり,彼の強欲 さ,色欲の深さが徹底的にからかいの対象とされるのである.ここで Sir Timothy と Wilding の力 関係は完全に逆転する.Wilding はまんまと遺産の相続権を手にしているが,Sir Timothy は囲われ 女 Diana との結婚が確定してしまっていて,財力的な面でまず二人の関係は上下が逆転する.と 同時にここで示されているのは,政治的な力関係の逆転である.ヨーク公ジェームズの王位継承 権の是非を問いながら激しさを増していた政党間の対立に,議会を解散することによって国王が 強引に終止符を打った時期にあっては,議会派のリーダーであったシャフツベリ伯爵と重ね合わ させるように描かれている Sir Timothy が,魅力溢れる放蕩者 Wilding に屈する姿は,王党派のプ ロパガンダにも思える程の,政治的な権力関係の表象になっているのである. Ⅲ このようにホモソーシャルな関係のなかで高められた王党派的な党派心は,政治的な権力関係 の表象となって,テクストが当時の歴史的状況に関与するものであることを示している.しかし, テクストには,同時にそのようなホモソーシャルな関係によって犠牲となるものも書き込まれて いる.その一つは,はじめに確認した Wilding と Lady Galliard の関係における彼女の感傷的にも 見える愛情,そして二つめには Wilding と Sir Timothy との間で交換される Diana の身体が挙げら れるだろう.性と政治の言説の結節点には,女性の身体がつねに関わってくるのだ. SIR TIMOTHY. . . .’tis Law by Magna Charta. Nay, had you married my ungracious Nephew, we might by this our Magna Charta have hang’d him for Rape. DIANA. What, though he had my consent? SIR TIMOTHY. That’s nothing, he had not ours. DIANA. Then shou’d I marry you by stealth, the danger wou’d be the same. SIR TIMOTHY. No, no, Madam, we never accuse one another; ’tis the poor Rogues, the Tory Rascals, we always hang. (3.1.179-83) ここで Sir Timothy は当事者間での合意が問題になるのではなく,政治的な力関係で上位にある ものが,その行為に意味を書き加えることができると述べている.つまり,政治的な権力関係 と男女のジェンダー間の力関係が連動し,犠牲になる女性が存在するということが,テクスト には書き込まれているのである. Diana のように,また Wilding への愛情を犠牲にしながら Sir Charles と結婚する Lady Galliard のように,結婚という制度のなかで苦境にある女性の姿を描き出すことは,Behn の劇 作品に共通して見られる一つの大きなテーマであるだろう.そして Behn はまた,家父長的な人 物によって決められた,強制された結婚から逃れようと奮闘する女性を多く描き出してもいる. その意味では,彼女のデビュー作である The Forc’d Marriage (1670)のタイトルは示唆的であり, 24 性と政治の狭間で― The City-Heiress におけるパフォーマティヴな自己形成の可能性について 強制された結婚という状況は彼女の代表作 The Rover (1677)の女性主人公,Florinda と Hellena を思い浮かべればすぐに想起できるだろう.この点に焦点を当てて,Behn が抑圧された女性へ の共感を持ったフェミニスト的主体であるという類いの読解が多くなされてきたことは,ある 程度までは共感できる批評態度だと言えるかもしれない. しかしこれまで確認してきたように,Behn の作品には,王党派的な価値観を擁護する視点も また盛り込まれており,それに従って王党派的な放蕩者を魅力的に描き出し,共感を寄せてい る一面も数多く見られる.The Rover の副題は or The Banish’d Cavaliers ―追放された王党派 貴族―であり,その“rover”たる Willmore の無邪気なまでの放蕩ぶりを,Behn は辛辣に批判 する視点を盛り込むことなく描いていることを思い浮かべれば,王党派的放蕩者への共感とい う点もまた Behn の一つの大きなテーマであることが理解できるだろう. Behn の劇作品は,この二つの大きなテーマのどちらか一方だけを選択するのではなく,ほと んどの場合その間のどこかにあり,容易にその位置を特定できない仕掛けが施されている.The City-Heiress においても,先程確認した犠牲となる女性像以外にも,そうした仕掛けが見られる. それは本作品のレイクヒーローたる Wilding が,劇の始まる以前においては Sir Timothy のもと で Whig として都市生活を営んでいたという点に起因する. SIR TIMOTHY. him, . . . Before he fell to Toryism, he was a sober civil Youth, and had some Religion in (1.1.50-51) ここで使われている“civil という言葉は,「市民の,公民の」または「公共の利益になる」とい うような幅の広い概念を語源的に有しており,内乱(the Civil War)期の議会派側の価値観をよ く表わすものだ.もう一点,Sir Timothy の出自に関する興味深い台詞がある. SIR TIMOTHY. Hum! I had rather indeed he turn’d Turk or Jew, for his own sake; but as for scandalizing me, I defie it: my Integrity has been known ever since Forty One; I bought three thousand a year in Bishops Lands, as ’tis well known, and lost it at the Kings return; for which I’m honour’d by the City. (1.1.96-99) ここで述べられているように,Sir Timothy は内乱の時期に教会の地所を手に入れた,中産階級層 出身の新興の貴族階級でもあるのだ.つまり,最終的に形成される Wilding と Charlot というカッ プルと,“Sir”という呼称のつく Sir Charles と“Lady”という呼称のつく Lady Galliard の二人との間 には,階級的な面で差があり,シティーと宮廷の対立というお馴染みの構造を王党派同士の絆の 中に内包してもいることになる.Wilding という本作品のレイクヒーローが「真性の」王党派貴族 ではなく,Sir Charles というレイクヒーローとは呼べない人物が「伝統ある」王党派貴族であるよ うに設定されており,王党派同士の絆が一枚岩のものではないことを示してもいるのである. 以上を踏まえて,最後に,Behn の主体性はどのようなものであるのかという,Behn 研究に おいては避けられないと思われる点に,一つの可能性を提示して結論としたい.Aphra Behn は 劇作のキャリアのなかで,女性への共感という一つの極と,王党派的放蕩者への共感というも う一つの極の間の点のどこかを,その時々において,Butler の言葉を借りればまさにパフォーマ ティヴに選択し,自らの劇作家としての主体性を固定化することなく提示し続けていたのだと 言えるだろう. Notes 1 Catherine Gallagher, Nobody’s Story: The Vanishing Acts of Women Writers in the Marketplace 1670-1820 (Berkley: U of California P, 1994), 1-48 を参照.また Derek Hughes は Gallagher に反論する中で,彼女の主 張のポイントを“the persona of the authoress as prostitute”と簡潔にまとめている.Derek Hughes, “The Masked Woman Revealed; or, the prostitute and the playwright in Aphra Behn criticism,” Women’s Writing 7 (2000): 149- 福士 2 3 4 5 6 7 8 9 航 25 64, 151 を参照.Hughes はまた,Behn の全劇作品を執筆年代順に論じた著作の中で,The City-Heiress と 当時の政治的状況との関わりの重要さを示唆している.Derek Hughes, The Theatre of Aphra Behn (Basingstoke: Palgrave, 2001), 133-57 を参照. Behn の主体性を考察した研究は多数あるが,テクストに矛盾の形で表出する当時の社会的・文化的な諸 問題を検証し,Behn の女性作家としての主体性を議論した Elin Diamond の論文はその後の Behn 研究に 決定的な影響を与えている.Elin Diamond, “Gestus and Signature in Aphra Behn’s The Rover,” ELH 56 (1989): 519-41 を参照. Judith Butler, Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity (New York: Routledge, 1990), 1-34 を参 照.また,シンポジウムにおける発表時には,主に邦訳を参照した.ジュディス・バトラー,『ジェンダ ー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』,竹村和子訳(東京,青土社,1999 年)17-73 頁を参照. Eve Kosofsky Sedgwick, Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire (New York: Columbia UP, 1985), 49-66 を参照.「ホモソーシャル」の概念については Introduction で提示されている.1-20 を参照. 訳注や簡潔に要点をまとめたあとがきが有益な邦訳も参照した.イヴ・K・セジウィック,『男同士の絆 ―イギリス文学とホモソーシャルな欲望』,上原早苗,亀澤美由紀訳(名古屋,名古屋大学出版会, 2001 年)1-31, 75-102 頁を参照.また The City-Heiress における女性の交換を議論した論文では以下のも のが参考になる.Mark Lussier, ‘“The Vile Merchandize of Fortune”: Women, Economy, and Desire in Aphra Behn,’ Women’s Studies 18 (1991): 379-93 を参照. Aphra Behn, The City-Heiress: Or, Sir Timothy Treat-all, ed. Janet Todd, The Works of Aphra Behn, 7 vols (London: Pinckering, 1996), 7, 1-77. 以後 The City-Heiress からの引用は全てこの版を用い,括弧内に幕・場・ 行数を示す.なお以降の引用における強調の為の下線は全て筆者による. 「陽気なカップル」の定義については,John Harrington Smith, The Gay Couple in Restoration Comedy (1948: New York: Octagon Books, 1971), 3 を参照. James Grantham Turner, Libertines and Radicals in Early Modern London: Sexuality, Politics, and Literary Culture, 1630-1685 (Cambridge: Cambridge UP, 2002), 120 を参照. George deForest Lord, et al., eds., Poems on Affairs of State: Augustan Satirical Verse, 1660-1714, 7 vols (New Haven: Yale UP, 1963-75), Vol. 1-2 を参照. Susan Owen, Restoration Theatre and Crisis (Oxford: Oxford UP, 1996), 157-82 を参照. Bibliography Behn, Aphra. The City-Heiress: or Sir Timothy Treat-all. Ed. Janet Todd, The Works of Aphra Behn. 7 vols. London: Pinckering, 1996, 7, 1-77. Butler, Judith. Gender Trouble: Feminism and the Subversion of Identity. New York: Routledge, 1990. Diamond, Elin. “Gestus and Signature in Aphra Behn’s The Rover,” ELH 56 (1989): 519-41. Gallagher, Catherine. Nobody’s Story: The Vanishing Acts of Women Writers in the Marketplace 1670-1820. Berkeley: U of California P, 1994. Hughes, Derek. The Theatre of Aphra Behn. Basingstoke: Palgrave, 2001. ––––. ‘The Masked Woman Revealed; or, the prostitute and the playwright in Aphra Behn criticism,’ Women’s Writing 7 (2000): 149-64. Lord, George deForest, et al., eds. Poems on Affairs of State: Augustan Satirical Verse, 1660-1714. Vols.1-2. New Haven: Yale UP, 1963-5. Lussier, Mark. ‘“The Vile Merchandize of Fortune”: Women, Economy, and Desire in Aphra Behn,’ Women’s Studies 18 (1991): 379-93. Owen, Susan. Restoration Theatre and Crisis. Oxford: Oxford UP, 1996. Smith, John Harrington. The Gay Couple in Restoration Comedy. 1948: New York: Octagon Books, 1971. Turner, James Grantham. Libertines and Radicals in Early Modern London: Sexuality, Politics, and Literary Culture, 1630-1685. Cambridge: Cambridge UP, 2002. セジウィック,イヴ・K 『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望』上原早苗,亀澤美由紀, 名古屋,名古屋大学出版会,2001 年. バトラー,ジュディス 『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』,竹村和子訳, 東京,青土社,1999 年. Proceedings of the 58h Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) シンポジアム【英文学部門】 ジェンダーを攪乱する ― Angela Carter の The Passion of New Eve において― 相田 明子 Judith Butler は,もしジェンダーが衣服を纏った姿であったり近づこうとする理想を作り出す パフォーマンスであるならば,そのジェンダー的なふるまいは身体の上に意味を書き込むこと によって,内なる性やアイデンティティの幻想を確立するのだと述べている.これは自然に存 在するセックスと行為が構築するジェンダーといった,セックスとジェンダーの二元論を解体 し,アイデンティティが「セックス」に起源をもつ固定的なものではなく,パフォーマティヴ に構築される攪乱的なものであるとして捉えなおすものである.この「パフォーマティヴな主 体」についての Butler の議論は,ポストモダンのフェミニスト作家である Angela Carter のテク ストを解析していくうえで非常に有効であると思われる.Carter の描く登場人物は設定がどの時 代にあっても「女性性は社会的な言説の中で構築されたパフォーマティヴなものではないだろ うか?」ということを読者に問いかけ,我々をリアリティの真実性にたいする疑問へと導いて いる.本発表では The Passion of New Eve(1977)を取り上げる.これは Carter 自身が,女性性 という文化的な構築物に関して特異かつ具体的なものを提示するために構想した作品である. そのため作中登場人物たちはそれぞれがジェンダーをパフォーマティヴにふるまっている.そ の方法は多少奇抜ではあるものの,自然であるとみなされているものが実際は幻想による構築 物にすぎないということを,パロディをもちいて明確に表現することに成功していると思われ る.本論では中心的な登場人物である Eve(lyn)と Tristessa が繰り返し行うジェンダーのパフォ ーマティヴを明らかにしながら,最終的には作品中でセックスとジェンダーがどのように配置 されて行くのか,その方向性を考察したい. I 物語の語り手でもあるイギリス人男性 Evelyn.彼にとって女性は自分の欲望を投影する「対 象」にすぎない.したがって恋人の Leilah が妊娠したとき,Evelyn は母性が芽生えた恋人に嫌 悪と恐怖を感じ始める.そしてもはや自分の欲する対象ではなくなった Leilah を捨てて旅に出 る.旅の途中で砂漠で道に迷った Evelyn は,Mother という人物に捕らえられ外科手術で女性 に作り変えられて Eve と名付けられる.このように新しいセックスと新しい名前を得た Eve(lyn)は,Butler が言うところのオリジナルとなるジェンダーを持たない存在として,そのジ ェンダーのパフォーマティヴな性質を明らかにして行くことになる. もう一人の中心登場人物である Tristessa は「世界で最も美しい女性」(5)と形容される女優 である.かつて一世を風靡しながらも現在では姿を隠してしまっている伝説のハリウッドスタ ーである Tristessa の存在は,Evelyn の心の中に住み続ける理想の女性であり,彼の抱く女性性 相田 明子 27 についての神話イメージを完璧に表象する人物として観念的に崇められている.Evelyn は Tristessa について次のように述べている. Tristessa. Enigma. Illusion. Woman? Ah! And all you signified was false! Your existence was only notional; you were a piece of pure mystification, Tristessa. Nevertheless, as beautiful as only things that don’t exist can be. . . . She had been the dream itself made flesh though the flesh I knew her in was not flesh itself but only a moving picture of flesh, real but not substantial. (6-8) Tristessa の存在は,Evelyn が自分のなかで作り上げてきた女性性のイメージを映し視る対象, つまり彼の理想を完全な具体性で表象する人物である.しかし Tristessa がこれほどに完璧な女 性であるのは何故なのだろう.このことはパフォーマティヴなジェンダーを明らかにする仕掛 けとして,作品中でさらに展開されて行く. Ⅱ 女性に作り替えられた Eve(lyn)に話を戻したい.Eve(lyn)は,地球の内側に創られた子宮をイ メージさせる女性だけの都市 Beula(配偶する都市の意味)に連れてこられる.そこでは,まる で魔法のように現世での信用を得るための外科手術としての仮装が行われており(49), 母権制 的なイメージを具象化した姿をする Mother と呼ばれる人物によって支配されている.かつて人 間であった Mother は,自分の姿を具体的な「神聖さ」を顕す「もの」に作り替えた(57)ので ある.そして Mother が Evelyn を Eve に作り替えたのは,Evelyn がこれまで女性に対して残 酷な行為をはたらいてきたことや,自分のセクシュアリティを快楽を得る道具としてのみ用い てきたことに対して罰を与えるという理由からであった.以下の引用は Eve が作られた工程に ついて Eve 自身が述べているものである. The plastic surgery that turned me into my own diminutive, Eve, the shortened form of Evelyn, this artificial changeling, the Tiresias of Southern California, took, in all, only two months to complete. During much of this time, I was deeply anaesthetised; I would, occasionally, awaked to a sense of deadended pain and the knowledge of grievous internal wounds that would never heal, never. Then, as I stretched vaguely on my bed, the programming began and, wonder of wonders, old Hollywood provided me with a new set of nursery tales. . . . this is what you’ve made of women! And now you yourself become what you’ve made . . . . Certainly the films that spun out a thread of illusory reality before my dazed eyes showed me all the pain of womanhood. Tristessa, your solitude, your melancholy—Our Lady of the Sorrows, Tristessa; you came to me. . . in your incomparable tears, every kitsch excess of the mode of femininity. . . . Sophia gave me massive injections of female hormones daily and sometimes came and sat at my bed-side. She would turn down the volume of the sound of the movies and give me minatory lectures, . . . hour after hour was devoted to the relation of the horrors my old sex had perpetrated on my new one. (71-73) これはいわゆる「去勢された男」である女としての Eve(lyn)の完成である.身体の作り変えが終了 した後は,Eve(lyn)のセクシュアリティを完全なものにするために精神外科的な治療が施された. この精神のプログラミングは Eve(lyn)の内部にジェンダー・アイデンテイティを埋め込むための 作業である.まず初めに Tristessa の映画が見せられる.Eve(lyn)の目の前に,孤独でメランコリ ックで悲しみに暮れる Tristessa の,過剰なまでの女性性の様態が繰り返し映し出される.続い て母性本能のイメージを与えるために用意された映像(子猫に授乳する親猫,同様に子鯨と親 鯨など)や,ファルスの対極にあるイメージをもつものの映像(こんこんと泉の沸く洞窟や, 蜂に蜜を提供するバラの花)が見せられた.さらに有史以来男性が女性に対して強いてきた残 酷な関係(割礼の儀式やインドの寡婦殉死や古代中国の纏足)について聞かせられとき, Eve(lyn)は「自分の昔のセックスが自分の新しいセックスに対してしてきたこと」に直面させら れる.このように「去勢された男」となった Eve(lyn)の内側にイメージとしての女性性を書きこ 28 ジェンダーを攪乱する― Angela Carter の The Passion of New Eve において― む儀式が終了するのだが,果たして Eve は完璧な女性性を付与されることができたのだろうか. このとき Eve の視点を通して見えてくるものに目をむけたい. But when I looked in the mirror, I saw Eve; I did not see myself. I saw a young woman who, though she was I, I could in no way acknowledge as myself, for this one was only a lyrical abstraction of femininity to me, a tinted arrangement of curved lines. . . . I was a woman, young and desirable. . . . They had turned me into the Playboy center fold. I was the object of all the unfocused desires that had ever existed in my own head. I had become my own masturbatory fantasy. . . . The psychoprogramming had not been entirely successful. (74-75) 身体的なセックスの転換に伴って自動的に女性性が付与されることはなかった.それどころか Eve(lyn)にとっては,鏡に映る自分の姿が自分自身の欲望の対象ですらあったのだ.結果として Eve は,Evelyn としての視点を保持する Eve としての女の歴史を持たない生き物となったのであ る.ところで,Mother の目的は精子バンクを使って Eve(lyn)を妊娠させることであった.生まれ てくる子供が,男性中心主義に満ちた世界を一掃して男の介在がない女性の空間に世界を花開か せることが願いなのである.Eve(lyn)の受胎はすでに決定されているのだが,Evelyn にとってそ うであったように,いまだ不完全な女性である Eve にとって「妊娠」や「母性」は恐怖と嫌悪で しかない.いよいよ受胎が明日に迫った時,Eve(lyn)は再び逃亡してしまうのである. Ⅲ 再び砂漠に迷い込んだ Eve(lyn)を捕らえたのは Zero という男であった.Zero は詩人で(phallus の代替物としてペンをもつ存在),「野蛮な支配者」として絶対的な男性性を誇示する人物とし て描かれている.Zero は Eve(lyn)の美しさに魅了されて8番目の妻に加える.Eve(lyn)はそこで, 他の妻たちの女性らしいふるまいを観察し模倣することを覚える.妻達は Zero の欲望の対象と して扱われているのにも関わらず,それを柔順にむしろ喜びとして享受しているのだが, Eve(lyn)にとって Zero の扱いは苦しみ以外のなにものでもなかった.Eve(lyn)はこれを「女とし ての残酷な見習い期間」であると思い,この痛みを通して過去の自分が女性におこなってきた ことに罪を感じ始める. I had spent three months as a wife of Zero. It was as savage an apprenticeship in womanhood as could have been devised for me and, if Mother had selected me, however arbitrarily, to atone for the sins of my first sex vis-à-vis my second sex via my sex itself, I would say that, by the time the chaste and delirious spring awakened all manner of plants that love dry places from the sand and began to warm the nights a little, I had become almost the thing I was. (107) あるとき Zero が Eve(lyn)のふるまいに疑惑を持ち始める.「Eve(lyn)の行為が女性的すぎる」と いうのである. However, the result of my apprenticeship as a woman was, of course, that my manner became a little too emphatically feminine. I roused Zero’s suspicions because I began to behave too much like a woman and he started to watch me warily for signs of the tribade. If he had spied any, or surprised me fingering any of his girls, he would have shot me. His hatred of female homosexuality was inflexible; it was obsessional. (101) Eve(lyn)は自分が対象として視てきた女性の行為やスクリーンを通して崇めてきた Tristessa の美 しさ,または Zero の妻たちから学んだ女性らしさといった,これまでの Evelyn(または Eve) の視点からみた理想的なジェンダーのエッセンスを自分の身体に投影させてパフォーマティヴ に再現していた.しかしその反復による女性らしさがあまりにも完璧に「女性的すぎ」て,結果 的に Zero の視線には不自然なものとして映るという.このことは,つまり女性性という様態に は確固たる起源などなく,男性の視線がそれを映し見る対象に抱く幻想にすぎないということ 相田 明子 29 を提示していると思われる. Ⅳ 再び話を Tristessa に戻したい.Evelyn 同様 Zero にとっても Tristessa は特別な存在であった. しかし Zero は自分の欲望のすべてを魅了した Tristessa の美しさが自分の男性機能を不能にし てしまったと思い込んでいて,彼女を憎みいつか殺してやろうと決めている.そして Zero が Tristessa を見つけ彼女の真実を暴く時,Butler がいうところの安定したセックスの起源に対する 信仰がさらに揺らいで行く. 復讐欲に燃える Zero はついに砂漠の中で Tristessa を発見する.Zero に鞭打たれ衣服をはが された永遠の美女の姿を見て一同は驚愕する.そこに露わにされたのは彼女が男性であるとい う紛れもない事実であった.この時 Eve(lyn)は,Tristessa の存在が不可解なほどに完璧な女性性 を保持していた理由を次のように語る. I could not think of him as a man; my confusion was perfect . . . the implicit maleness it had never been able to assimilate into itself. That was why he had been the perfect man’s woman! He had made himself the shrine of his own desires, had made of himself the only woman he could have loved! If a woman is indeed beautiful only in so far as she incarnates most completely the secret aspirations of man, no wonder Tristessa had been able to become the most beautiful woman in the world, an unbegotten woman who made no concessions to humanity. How could a real woman ever have been so much a woman as you? When I saw Tristessa was a man, I felt a great wonder since I witnessed, as in a revelation, the grand abstraction of desire in this person who represented the refined essence of all images of love and the dream. (128-9) このように,Tristessa の完璧な美しさは彼のアイデンティティではなく,自分の内なる欲望を具 体的に投影したものにすぎなかった.そしてそれ故にその美が実態を伴うことはなかったのであ る.自分を不能にした原因だと思いこんでいた女が実は男であり,さらには自分の欲望のすべて をのみこんだ Tristessa が,自分が最も忌み嫌う対象である「おとこ−おんな」のような存在であ った.この事実に憤った Zero は Tristessa と Eve(lyn)を結婚させることにする.このとき Eve(lyn)は,かつて男だった自分の願望そのものであった者の妻になるという状況に至る. 「私を自由にしてください」と Tristessa に懇願され,Eve(lyn)は二人で Zero のもとから逃亡 する.ところで,Tristessa はかつて完璧な女の身体になることを求めてあの Mother を尋ねたこ とがある.そのとき Tristessa は既に充分な女性性を持っていたのだが,一方で彼の身体には根 絶できないほどの男性の性質が備わっていることがわかり,Mother はやむをえず手術を拒否し た.しかしそれでもなお女優 Tristessa は神話であり続けることができたのである.Tristessa は Eve(lyn)に次のように語る. But when the years passed and my disguise became my nature, I no longer troubled myself with these subterfuges. Once the essence was achieved, the appearance could take care of itself. (141) これが Tristessa のジェンダー・パフォーンスの核心である.Tristessa のジェンダーはいつしかパ ロディ的なアイデンティティを形成し,それが永遠の美女 Tristessa としての外面を自然に再現 するようになったのだ.このように Carter はアイデンティティが「セックス」に起源をもつ固 定的なものではなくパフォーマティヴに構築される撹乱的なものであるということを提示して いる. 二人で砂漠の中を逃げるうちに,Eve(lyn)はこれまで経験したことのない思いが自分の身体の 内側から沸いてくる感覚を覚える.この Eve(lyn)のまったく新しい情熱は,これまでの内省を経 て辿り着いた Tristessa にたいする愛情と欲望である.Eve と Tristessa は,お互いの中に浸透す 30 ジェンダーを攪乱する― Angela Carter の The Passion of New Eve において― る女性にも男性にも完全に分化されることはないセックスを超越して,ありのままの自分たち として愛し合う.互いのなかに再び新たな欲望が芽生えたとき,Eve は肉欲的な身体の内側に 曖昧な表記物が言葉を必要としているような感覚にたどり着く.言説化することのできない, Eve の内に芽生えた声にならない「もの」.これが今新しい Eve の辿り着いた自分自身のセクシ ュアリティなのだ,と Eve は認識する. But what the nature of masculine and the nature of feminine might be, whether they involve male and female, if they have anything to do with Tristessa’s so long neglected apparatus or my own factory fresh incision and engine-turned breasts, that I do not know. Though I have been both man and woman, still I do not know the answer to these questions. Still they bewilder me. (149-150) このとき Eve は Tristessa との間に子供を妊娠する.生まれてくる子供は「二人の父親と二人の 母親」を持つことになるのである. Ⅴ 以上のように,Eve と Tristessa のジェンダーパフォーティヴを通じて,Carter はあたかも自 然発生的に存在するとみなされている女性性の「主体」への幻想を解体している.また女性とし ての起源も言説も持たない「新しい」Eve は,ジェンダーの文化配置(異性愛のみを強制する文化 配置)を攪乱する物語,フェミニズムに新しい出発点を提起する物語を生み出す可能性を秘めて いるのである. Bibliography Andermahr, Sonya and Terry Lovell. A Concise Glossary of Feminist Theory. London: Arnolde, 1997. Carter, Angela. The Passion of New Eve. London: Virago, 1977. ––––. “Notes from the Front Line” in Michelene Wandor., ed. On Gender and Writing. London: Pandra, 1983. Gamble, Sarah. The Fiction of Angela Carter. London: Icon Book, 2001. 88-109. Johnson, Heather. “Unexpected Geometries: Transgressive Symbolism and the Transsexual Subject in Angela Carter’s The Passion of New Eve” in The Infernal Desires of Angela Carter, ed. Joseph Bristow. London: Longman, 1997. 166-183. Minsky, Rosalind. Psychoanalysis and Gender. London: Roultledge, 1985. 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London: Macmillan, 2000. 58-83. ジュディス・バトラー.『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』.竹村和子訳. 東京:青土社,1999 年. シンポジアム【アメリカ文学部門】 アメリカ文学とキャノン問題 司会兼講師 講師 岩手大学教授 明星大学助教授 齋藤 細谷 博次 等 狭い意味でのキャノン問題とは,文学教育の中でどのような作家,どのような作品を扱うのか といった問題につきるだろう.実際,アメリカでキャノン論争の火付け役になったのは,スタン フォード大学が 1988 年に行った一般教育課程におけるカリキュラム改革であったし,さらには 1990 年の The Heath Anthology of American Literature の出版であった. しかし,キャノン改革は,文学教育の問題を大きく越える内実を孕んでいた.そもそも,キャ ノン改革の先陣をきったのは,男性中心主義的なキャノン構成に異を唱えたフェミニスト批評家 たちであった.1965 年の移民法改正による人種・民族別人口構成の変化と,それに伴う多文化主 義の台頭も,キャノン改革の原動力となった.男性/白人/ヨーロッパを中心としたキャノン構 成への批判ないし反省は,文学教育や文学研究の問題だけでなく,大学や学問の在り方,さらに は社会のあるべき姿に関する問題とも直結していた.だからこそ,キャノン改革に関しては,ア カデミズムの中だけでなく,新聞,雑誌,テレビなどのメディアの場でも激しい議論を喚起した のである. キャノン論争を通してあぶり出されてきた問題の中には,キャノン形成過程における社会的権 力関係の問題,或る作品が優れていると判断する際の価値基準の問題,キャノンを巡る「文学制 度」の問題など,それまで省みられることがあまりなかった問題が含まれている.文学作品に内 在する普遍的な価値によってキャノンが決められるという考えに疑問符が付され,文学の「内」 と「外」を巡るヘゲモニー争いの視点からキャノンを再考する試みも行われたりした. キャノン改革が提起した問題は,どれも簡単に片付くものではなく,多様な観点からアプロー チする必要がある.今回のシンポジウムで扱うのは,そうした問題のほんの一部でしかないが, これをきっかけにしてキャノン改革によって提起された問題の意味を改めて考えていきたいと思 う. Proceedings of the 58h Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) シンポジアム【アメリカ文学部門】 文学教育とキャノン論争 ―カリキュラム改革とアンソロジー改革を巡って― 齋籐 博次 (1)序 Gerald Graff は,キャノンとは「教える価値があると思える一連の文学作品」(the body of literature thought to be worth teaching)であると述べている(4).Graff は文学教育の観点からキャ ノンを論じているので“teaching”という一言で済ましているが,これを読み手の立場から考える と「読む価値があると思われる一連の文学作品」となり,さらに文学研究の立場を加味すると 「研究する価値があると思われる一連の文学作品」ということになる.また,文学作品を一種の 文化財と捉えるなら,キャノンとは「未来の世代に向けて伝達するに値する作品」ということ もできる.古典として位置づけられる作品,あるいは,古典として位置づけられはしないもの の,優れた作品,価値ある作品として評価されたものがキャノンだということになる. このようにキャノンを定義すると,そこからすぐにキャノンの選択を巡る幾つかの問題点が 浮かび上がってくる. 第一の問題は,或る作品がキャノンであることを判断するのは誰なのかという問題である. もちろん,一部の特定の人間がキャノン形成の決定権を握っているわけではなく,そこには, 数多くの多様な人間が介在している.だが同時に,キャノンの形成過程には,グラムシのいう ヘゲモニーの問題が関与しているのも否めない事実であろう.文化的・社会的な力関係がキャノ ン構成を規定してきたのではないかという疑問.こうした疑問が,フェミニストによる「男性 中心主義」的なキャノン構成への批判や,多文化主義者による「ヨーロッパ中心主義」的なキ ャノン構成への不満を貫いている.階級や経済格差の問題を重視する研究者が「エリート主義」 的なキャノン構成を問題視するのも,同じ理由からである.こうして,権力の周辺にいた作家 の作品をキャノン化する動きが,多方面から進められるようになってきた. 第二の問題は,或る作品が優れていると判断する際,その判断基準,美的基準は何なのかと いう疑問である.これについては後で詳述するが,ここでは Uncle Tom’s Cabin の再評価に大き く寄与することになった Jane Tompkins の論文をとりあげてみたい. Tompkins は論文の中で,Uncle Tom’s Cabin に対して出されてきた幾つかの批判を挙げている. 第一の批判は,この小説が「お涙ちょうだいのエピソード」(tearful episodes)を満載した感傷的 な小説,一種の「メロドラマ」(melodrama)であり,道徳や教訓を垂れる「日曜学校小説」 (Sunday-school fiction)でしかないという批判.第二に,この小説が「通俗的」(conventional) であり,「独創性」(uniqueness)に欠けているという批判.そして第三に,「精妙な文体」 (stylistic intricacy),「精緻な心理描写」(psychological subtlety),「複雑な認識論」(epistemological 齋籐 博次 33 complexity)といった,優れた小説を特徴づける要素が欠けているという批判である.Tompkins はまた,「偶発的なエピソード」(accidental episodes)を多く含み,もっともらしい筋立てになっ ていないことが,この小説の欠点とされてきたと述べている. こうした批判に対し Tompkins は,19 世紀後半以降に発達してきた「リアリズム」や「モダ ニズム」の美的基準を Uncle Tom’s Cabin のような小説に適用することの不当性を強調する.宗 教的改心を読者に促し,奴隷解放という明確な社会批判を含んだ小説に対して,「精妙な文体」 や「精緻な心理描写」や「複雑な認識論」といったことを理由にして批判を加えるのは的外れ ではないのか.「リアリズム」や「モダニズム」小説とはまったく異なる目的,機能,規範で Uncle Tom’s Cabin が書かれている以上,そうした点をきちんと踏まえて別の尺度から評価すべ きではないのか.こうした立場から Tompkins は,この小説の創作原理が,聖書を奴隷解放の物 語として書き換えることにあったこと,Sacvan Vercovitchi が The American Jeremiad の中で指摘 した“jeremiad”という特質を備えていること,女性や家庭の中に「権力の中心」(center of power) を据えることで,権力の転倒を内包した小説になっていることなどを指摘して,こうした点を 高く評価する.そして Tompkins は次のように述べて,Uncle Tom’s Cabin を初めとする19世 紀アメリカの「感傷小説」(sentimental novels)は,Hawthorne や Melville の小説とは異なる特質 を持った価値ある小説であると主張するのである. It is not my purpose . . . to drag Hawthorne and Melville from their pedestals, nor to claim that the novels of Stowe, Fanny Fern, and Elizabeth Stuart Phelps are good in the same way that Moby Dick and The Scarlet Letter are; rather I will argue that the work of the sentimental writers is complex and significant in ways other than those that characterize the established masterpieces. (Tompkins 23) キャノン論争の中で指摘された第三の問題点は,文学―特に現代文学―がキャノンとして 残る過程で,どのような社会的・経済的な力が作用するのかという点である.たとえば Richard Ohmann は,“The Shaping of Canon, 1960-1975”の中で,ベストセラーが作られる過程における大 手出版社の広告戦略の役割について言及している.Ohmann によれば,Random House 社や Harper 社などの出版社が,The New York Times Book Review に支払っている広告費の額と,The New York Times Book Review が書評で扱う作品の数には相関関係があるという.広告費を多く支払 う出版社の本は書評で扱われる割合も高くなり,それによって,一般読者の関心が高まるだけで なく,出版代理店の販売戦略や「ブッククラブ」の推薦にも大きな影響を及ぼす.特に,Alfred Kazin や Irving Howe といった著名な批評家が The New York Times Book Review の一面で新刊書を 高く持ちあげれば,当然,それは本の売り上げに大いに影響する.ベストセラーになった作品は 「キャノン候補生の地位」 (precanonical state)を得て,やがて文芸批評家や文学研究者によって文 芸雑誌や研究書などで繰り返し批評の対象となることで,現代文学におけるキャノンの仲間入り を果たすことになる.Ohmann は,この過程,つまりベストセラーが生まれ,それがやがてキャ ノンとしての地位を得ていく過程において,ある特定の社会グループ―同じ学歴,趣味,関心, 生活経験を共有するグループ―が大きな役割を果たすという.文化産業においてヘゲモニーを 握ったグループがキャノン構成に大いに関与しているというわけである. こうした問題点が多くの文学研究者によって提起されるにつれて,それまであまり疑問視さ れることなく受け入れられてきたキャノンの在り方を問い直す動きが活発化してきた.この動 きは,文学研究者が扱う作品の対象を拡大するとともに,文学教育の場でどんな作品を選んで 教えるべきなのかという議論にも発展していった.とりわけ,1988 年にスタンフォード大学が 試みた「一般教育」(general education) におけるカリキュラム改革と,1990 年に出版された The Heath Anthology of American Literature(以下,The Heath Anthology と記す)は,文学研究者の間 だけでなく,新聞やメディアを巻き込んで侃々諤々の論争を引き起こすことになった.キャノ 34 文学教育とキャノン論争―カリキュラム改革とアンソロジー改革を巡って― ン改革は,文学教育や研究の意義について再考を迫るとともに,文学と政治の関係やアメリカ 社会のあるべき姿といった問題ともからんで,多くの人々の関心を呼んだのである.ここでは, スタンフォード大学のカリキュラム改革と The Heath Anthology の出版に焦点を当て,キャノン 改革によって提起された問題について考えてみたい. (2)スタンフォード大学のカリキュラム改革 フェミニズム批評家による女性文学の再発見の試みに見られるように,文学のキャノンを巡 る問題提起は 60 年代後半から既に始まっていたが,それは主にアカデミズム内の,言うなれば 文学研究者の間での議論だった.ところが,スタンフォード大学が 1988 年に行なった「一般教 育」のカリキュラム改革に対しては,New York Times, Washington Post,Wall Street Journal とい った新聞が批判的な記事を書くとともに,New Criterion や Commentary といった新保守主義の 雑誌もこれに呼応して,スタンフォード大学のカリキュラム改革に対して批判の矢を放ち始め た.これによってキャノン問題は大学内での議論を越えて,アメリカの社会問題として論じら れるようになったのである(Graff 16-22). スタンフォード大学のカリキュラム改革に対する批判は,手短に言うと,この改革が西洋の 伝統や文明への挑戦ないしは破壊を目指しているという批判であった.たとえば,Roger Kimball は,60 年代の公民権運動を行なってきた左翼的知識人がその後大学内で「テニュアを 獲得した過激派教師」(tenured radicals)となり,60 年代の街頭闘争で果たせなかった夢をキャ ンパス内で実現しようとしていると批判した.Kimball によれば,こうした教師がやろうとして いることは,「西洋の古典的な芸術,思想の中に具現されている高級文化の伝統」(the tradition of high culture embodied in the classics of Western art and thought)を「破壊」(subvert)することなのだと いう(Kimball xi).こうした Kimball の批判は,Allan Bloom や Dinesh D’Souza といった,60 年代以降の高等教育の改革に批判的な論者に共通するものである. しかしながら,スタンフォード大学のカリキュラム改革は,その内容を子細に眺めれば,伝 統や文明を破壊するような代物では全くなかった. スタンフォード大学は,1935 年に一般教育の授業科目の中に西洋文明を教える授業科目を導 入した.この科目は 1970 年に一旦廃止されたが,古典や歴史を教える教官からの強い要求があ って,1980 年に全ての新入生を対象とした通年の必修科目,“Western Culture”が導入された.こ の授業は,学生の専攻や学習目的に即した複数のサブ・コース(track)から構成されていて,新入 生はそのサブ ・コースの中から一つを取ることになっていた.また,この授業には「共通の読書 リスト」(core reading list)があり,どのサブ・コースを履修しようと,リーディング・リストにあ る「必読書」を読むことが義務付けられていた(この「必読書」には,聖書からマルクス,エ ンゲルス,フロイトにいたる著作が含まれている).この授業の中身を変えようとする試みが, 1988 年のスタンフォード大学のカリキュラム改革だったのである.“Western Culture”に代わる新 たな必修科目は,2年にわたる検討のすえ,1988 年の 3 月に導入が決定された(Pratt 17-27). 新しい授業科目名は“Culture, Ideas, and Values” (CIV)と名づけられた.この科目は,8つのサ ブ・コースに分かれ,学生は,従来同様,その8つのサブ・コース の一つを通年で履修するとさ れた.だが,CIV の授業の中身は,それまでの“Western Culture”と大きく変わるものではなかっ た.変わった点と言えば,従来あったサブ・コースに“Europe and the Americas”という新たなサ ブ・コースが一つ加わったことと,全コースに共通の「読書リスト」がなくなり,それぞれのサ ブ・コースごとに「読書リスト」が作られるようになったことだけだった.他のサブ・コースの 授業内容は,基本的には従来と同じように構成され,サブ・コースごとに指定する「読書リスト」 の中身も大きな変化はなかった.ちなみに,1989-1990 年の年度でどんな作品が「読書リスト」 齋籐 博次 35 として選ばれたかというと,8つのサブ・コースの全てにおいて,聖書,シェイクスピア,フロ イト,アリストテレス,聖アウグスティヌスが選ばれ,プラトン,マキャベリ,トマス・アクィ ナスは6つのサブ・コースで必読書として選ばれている.CIV の導入によって西洋文化の古典的 作品が授業から消えうせたり,受講者全員がフランツ・ファノンや孔子を読むようになるといっ たことは,実際はありえないことだった(Mowatt 129-30). 改革によって新たに加わった“Europe and Americas”は,そのシラバスの中に“The complex interactions of colonialism, slavery, migration and immigration . . . have produced on this side of the Atlantic societies that are highly diverse in origin, and in many cases multicultural and syncretic.”と謳わ れているように,「新植民地主義」や「多文化主義」の思想を反映した授業だったが,このサ ブ・コースでも従来の読書リストの一部は維持されていて,マイノリティー集団以外の作品も扱 われていた(Pratt 28).しかも,このサブ・コースを受講した学生は,1989 年の入学者 1500 のう ち,わずか 50 人だけだったという(Mowatt 131). 以上のことを踏まえるなら,スタンフォード大学のカリキュラム改革は実に慎しいものだっ たということができる.“Europe and Americas”を除けば,他の全てのサブ・コースで扱われてい たのは,従来通り,ほとんどが「白人,男性,西洋文化」に属する作品であり,そこにわずか に「黒人」や「女性」の作品が付け足されたというのが,「西洋文明を破壊する改革」と喧伝さ れたカリキュラム改革の実態であったのである. スタンフォード大学のカリキュラム改革に対する過剰な反応,過剰な批判には, 「多文化主義」 や「新植民地主義」の思想がキャンパス内で勢力を増してきたことに対する保守主義者の危機 意識を読み取ることができる.Kimball が危惧するように,名門と目される大学で一つの改革が 試みられれば,それは多くの大学に波及する恐れがある(27).保守派の知識人・ジャーナリス トにとって,スタンフォード大学の改革は単なる一大学の問題ではなく,高等教育における文 学教育の未来を左右する「大事件」に見えたにちがいない.だからこそ,改革の内容を誇張し, それを由々しき問題として喧伝することで,同様の改革が他の大学に広がるのを食い止めよう としたのだと思われる. 保守派からの過剰な批判は,いっぽうで,人種的・民族的に多様化が進む中で「アメリカ人と しての文化的アイデンティティーの問題を巡って高まってきた不安のレベル」(levels of anxiety that have developed around the issue of national cultural identity)を反映している(Pratt 16) .Bloom, Kimball, D’Souza といった論者が錦の御旗として掲げた「伝統」や「文明」といった概念は,現 在のアメリカ社会の中で,白人男性を中心にして広がっている文化的アイデンティティーの不安 に強く訴える効果があった.だからこそ,大学内のカリキュラム改革という,それ自体ニュース になりにくい話題が,多くのメディア,多くの人々の関心を引くことになったのだろう. (3)The Heath Anthology とキャノン問題 スタンフォード大学のカリキュラム問題が世間の注目を集めてから2年後の 1990 年に,Paul Lauter の編集による The Heath Anthology が出版された. このアンソロジーは,過去のキャノン 改革の成果を反映しているだけでなく,今後のアメリカの文学教育の在り方自体を変えること を意図したアンソロジーであった. The Heath Anthology が多くの大学で採用されることになれば,それは授業で扱う作品自体が 変化することを意味する.将来このアンソロジーで文学教育を受けた学生が教える側に立つよ うになれば,新しいキャノンがそのまま確立されたキャノンとして認められる可能性もでてく る.従来のキャノン編成の偏りを批判してきた Lauter や,その主張に賛同してきた研究者が, 新しいアンソロジーの作成に着手したのは当然の成りゆきであった.The Heath Anthology のウ 36 文学教育とキャノン論争―カリキュラム改革とアンソロジー改革を巡って― エブ・サイトに載っている 1991 年秋の”News Letter”によると,このアンソロジーを採用した大 学の数は 500 にのぼり,かなりの売り上げを示している. The Heath Anthology は従来のアンソロジーが扱ってこなかった作家,作品を数多く収めると ともに,従来のアンソロジーに入っていたものを省いたこともあって,多くの議論を引き起こ す契機となった.ここでは,The Heath Anthology を巡って出された異論や疑問点を視野に入れ ながら,キャノン改革が孕む問題点について言及したいと思う. このアンソロジーに対しては,キャノン改革に肯定的な研究者から賞賛の声が寄せられるい っぽうで,ある種の政治的意図から作品が選ばれているのではないかという疑問が出された. 日本でも,1991 年 6 月号の『英語青年』で,渡辺利雄氏は以下のように述べて,The Heath Anthology への疑問を表明している. これら,従来まともに扱われなかった作品がアメリカ文学の正典に加えられたことは歓迎す べきことであろう.しかし,見直しが,これほどまでに限られた特定の文学者・作品に集中 しているのを見せつけられると,そこに政治的意図,党派的偏向,そして一つの路線に対す る無批判的なある種の体制順応主義を思わざるを得ないのも事実である.裏返された魔女狩 りにも似た,「不寛容」(intolerance)の硬直化が感じられる.(渡邊 15) ここで渡辺氏が直接言及しているのは,Lauter が The Heath Anthology を出す前に編集,出版し た Reconstructing American Literature に対してであるが,引用のすぐあとで,「この RAL の路線 に従って出版された HAAL にも,そうした傾向はそのまま現われている」(15)とあるように, 渡邊氏は The Heath Anthology に関しても「政治的意図」や「党派的偏向」を読みとっている. The Heath Anthology を作る目的の一つに,「失われたり,忘れられたり,抑圧されたりしてき た数多くの文学テキスト」(the large number of lost, forgotten, or suppressed literary texts)を収める ことがある以上(vol. 1, xxxi),過去のアンソロジーが排除してきた作品を多く取り入れ,その 代わりに,従来のアンソロジーで優遇されてきた―と Lauter たちが考える―モダニズムと ポストモダニズム系作品を冷遇したのは,ある意味で自然なことだった.とはいえ,このアン ソロジーができるだけ多くの研究者の声を反映させている,或いは反映させる努力をしたとい う点はここで指摘しておいてもいいだろう.アンソロジーの製作過程においては,全国の文学 研究者の意見をできるだけ広範囲に取り入れるため,男性,女性,白人,非白人を含む大規模 な編集委員会が組織されているし,実際に作品を選ぶ段階でも,アメリカ文学を教えている数 千の研究者からアンケートを取っている(vol. 1, xxxv) .編集方針の制約があるとはいえ,多様な 意見をできるだけ反映させようとする姿勢は貴重である. The Heath Anthology が「下」からの声を重視する姿勢は,第2版で南部作家,モダニズム, ポストモダニズム系の作家がかなり復活することになったことにも窺える.Lauter は第2版の 序文で,「作品選択と構成に関わるヒース・アンソロジーの基本原理は,学生と教師の両方にと って有益だった」(its [The Heath Anthology’s ] central principles of selection and organization worked well for both students and teachers)と述べ(vol. 1, xli),アンソロジーの基本方針を修正する考えが ないことを表明しているが,その一方で,初版の内容についてできるだけ多くの研究者と学生 から意見を求めている.その結果,第2版では,「現代」(Contemporary Period)に属する作家を中 心にして約 50 人の作家を新たに加え,また,初版で省いた南北戦争以前の白人作家についても, 読者からの意見を取り入れて,手直ししている(Vol. 1,xli). The Heath Anthology は「政治的」に編纂されているのではないかという疑惑の背景には,そ こに収められた作品が文学としての価値を本当に持っているのかという疑問が横たわっている. 文学の価値あるいは評価に関わる疑問である.この点に関する Lauter の考えは,先に述べた Tompkins の考えと基本的に同じであり,評価基準の多様性という理念を強調する. 齋籐 博次 37 たとえば Lauter は,“Caste, Class, Canon”というエッセイの中で,労働者階級の文学をキャノ ンに取り込む必要性を強調する.労働者階級の文学は,その目的,創作過程,機能,テーマが, “high culture”の文学―ローターの言葉を借りればブルジョア文学―とは違うのであるから, 両者を同じ尺度で論じることは不適切だと言う.そして Lauter は,黒人霊歌の“Roll, Jordan”と John Donne の詩“A Valediction: forbidding morning”を例に挙げ,「重要な問題は,どちらが優れて いるかということではなくて,『優れている』という言葉でわれわれが何を意味するかというこ とである」(the central issue is not which is “better,” but what we mean by “better”)と述べる(Lauter, “Caste, Class, and Canon” 233-34).というのも,「優れている」という判断は,判断基準をどこに 求めるかによって変わるのであり,したがって,形而上学の詩を論じるのと同じやり方で労働 者階級の文学を論じることはできないからである. My main point...is that if there probably are no working-class metaphysical poets, neither did Donne write verses for “Roll, Jordan.” And if “Roll Jordan” does not demonstrate the fine elaboration of complex language to be found in “A Valediction,” it is also the fact that none of Donne’s poems––not all of them together I dare say––has served to sustain and inspire so many thousands of oppressed people. (Lauter, “Caste, Class, and Canon” 234) 文学の価値を評価するのに「普遍的な価値基準」がないことは,Lauter の言う通りであろう. また,作品の目的,機能,創作原理などに応じて異なる基準があるべきだという主張も受け入 れることができよう.しかし,そのいっぽうで,世に言う「美的価値」(aesthetic value)あるい は「文学性」(literariness)の意味を問わないままに「批評基準」の多様性を主張することは好ま しいことなのかという疑問が出てくるのも確かである.もちろん,「文学や文学研究を,文学を 基本要素として含む社会や文化と再結合させる」(reconnect literature and its study with the society and culture of which it fundamentally a part)ことが The Heath Anthology の編集方針の一つである以 上(vol. 1, xxxiii),「芸術性」や「文学性」といった理念を掲げてそれを批判するのはお門違いの 批判だと言うこともできる.しかし,アンソロジーに収められた作品のすべてが,社会的意義 の観点から選ばれているわけでもない.The Heath Anthology は作品の芸術的価値をどう考えて いるのかという疑問が出された所以である. たとえば,Richard Ruland である.Ruland は,Lauter 自身がアンソロジーの中で書いた 19 世 紀前半の文学状況の説明に言及し,Lauter が「もともと美的価値という観点から概念化された アメリカンルネサンス期の中心的位置」(the centrality of an American Renaissance originally conceived in terms of aesthetic value)を認めながら,その一方で,「社会的意義」(social relevance) という観点を軸にしてキャノンの拡大を行なっていることを批判する.そして,Lauter が「19 世紀初頭の多くの文学が目指していたのは,同時代の問題に関して読者に影響を与え,それに よってその行動にも影響を与えることだった」(much literature of the early nineteenth century was directed to influencing the audience’s ideas about the issues of the time and thus their actions in the world) と述べて,モダニズム以降の美的価値で 19 世紀文学を評価することを批判するのに対し, Ruland は「巧みな芸術性」(effective artistry)と「できのよいプロパガンダ」(successful propaganda)の違いをわきまえる必要を説く(Ruland 343-45).或る作品が人を政治活動や社会運動 に駆り立てる原動力になったというだけで,その作品をキャノンとして認めていいのか.これ が,Lauter に対する Ruland の批判だった. The Heath Anthology に直接言及してはいないが,Edward W. Said もまた文学作品の独自性と 普遍性を強調し,プロパガンダ的文書を文学作品と同列に扱うことに釘をさしている(172-89). Said は,フェミニストや新植民地主義者たちが文化研究の面で果たしてきた「コペルニクス的 革命」を高く評価するが,同時に,キャノン改革論者の中に垣間見られる「アイデンティティ 38 文学教育とキャノン論争―カリキュラム改革とアンソロジー改革を巡って― ーの政治学」に対しては,これを強く非難する.「ヨーロッパ中心主義」を批判する者が「自民 族中心主義者」となって,「我々」と「彼ら」との間に境界線を引くこと.そしてその結果, 「我々」に属するものなら高く評価し,「彼ら」に属するものなら排除すること.Said は,キャ ノン改革論者に見られるこうした態度を非難し,「あたかも五流のパンフレットと偉大なる小説 が同じ意義があるとでもいうように,優れた書物と政治的に正しい行いとを区別することがで きない」(unable to distinguish between good writing and politically correct attitudes, as if a fifth-rate pamphlet and a great novel have more or less the same significance)者に異議を唱えている(188). Said は Ruland と違って,「芸術的価値」という概念を信奉しているわけではないが,文学作品 が他のテキストとは異なる特質を持っていることを肯定する点では,Ruland と同じ立場をとっ ている.こうした立場は,文学の豊かな要素を「政治やイデオロギー」という「たった一つの レンズで眺め回す」(scrutinize the riches of literature through a single lens)ことの愚かさを指摘した Irving Howe も共有するものである(Howe 167). 以上のような批判に対して Lauter は, 「文学性」という概念を捨て去るつもりはないとしなが らも,同時に「技巧的に優れたレニ・リーフェンシュタールの映画『オリンピアード』やエリオ ットの反ユダヤ主義,黒人をステレオタイプ化したストウ夫人の小説で不快感の原因となる社会 的価値を不問にする気にもなれない」(. . . neither am I prepared to submerge the social values that produce nausea at Leni Riefenstahl’s technically brilliant film Olympiade, at Eliot’s anti-Semitism––or at Stowe’s stereotyping of blacks)と述べている(Lauter, “On the Implications” 332).この Lauter の言葉 からは,「美的価値」を優先しすぎてきた従来の批評への根強い反感と,文学の「社会的価値」 を抜きにしては文学自体を語ることができないとする信念が窺える. 文学と政治を巡る論争は,文学教育の目的を巡る対立としても現れた.政治やイデオロギーの 問題を重視することによって,文学教育の場に「意識改革」(consciousness raising)という目的が入 り込む可能性がでてくる.キャノン改革の基本にあるのは,「人種,性,階級」という要素であ るから,キャノン改革に基づく教育は,自然と「反アメリカ的」な色彩を帯びてくる.キャノン 改革に対して保守主義者が目くじらをたてざるをえないのも,こうした危惧があるからである. 実際の教育現場で新しいキャノンがどのように教えられているかは教師によって千差万別で, 実際は,The Heath Anthology のウエブ・ページに紹介されているように,様々な試みが行なわれて いる.ただ,教育的に見て色々難しい点があることは,たとえば,Paula Bennett が,実際にこの アンソロジーを使って授業をした報告を読むと推察することができる(165-74).Benett の授業は, 一旦社会に出たあとで大学に入学してきた学生や普通の主婦などで構成されたクラスで,三分の 一ぐらいがカトリック教徒だったという.このような学生を相手に Bennett は The Heath Anthology を使った授業をするわけだが,学生がそれまで抱いていたアメリカのイメージを覆す ようなテキストを読むのであるから,学生は新鮮な印象を受けとると同時に,衝撃的な体験とも なる.Bennett は The Heath Anthology を使った教育効果の高さを報告しているが,それでも,或 る女子学生が授業内容についていけず,授業を放棄した例を紹介している.授業が一種の「政治 的競技場」 (political arena)と化していて,自分は「人質」 (captive audience)となっているという のが,授業放棄した学生の言い分であった(171).このエピソードは,キャンパス内の政治意識と キャンパス外の政治意識の落差の大きさと,その落差を埋めることの難しさ,さらには The Heath Anthology を使って授業をする際に出会う学生からの抵抗の大きさを物語っている. キャノン改革を巡る論争は 80 年代後半から活発になったが,その後,キャンパス内の「文化 戦争」は PC(political correctness)やスピーチ・コード,さらにはアファーマティブ・アクション 入試政策を巡る論争へと発展し,キャノン問題は「文化戦争」の前線からは退いていったように 見える.大学という制度の内部だけに目を向けるなら,少なくとも文学研究や教育の場では,多 齋籐 博次 39 文化主義やフェミニズムの思想は多少の批判では揺るがないほどの力を獲得してきた.Henry Louis Gates が多少の皮肉を込めて言うように,アカデミズムの「内部」ではキャノン改革はあっ けない勝利をおさめたといえるかもしれない(192).アメリカ社会に大きな変動が起こらない限り, 1980 年代後半から 90 年代前半にかけて起こったようなキャノン論争は蒸し返されることはない だろう.しかしながら,この過程で論議された様々な問題―文学と政治を巡る論争,文学の価 値を巡っての対立,文学教育の意義に関する論争―に決着が付いたわけでない.いや,そもそ もキャノン問題とは決着がつく性質のものではなく,文学に関わる者の「原点」を問う問題なの かもしれない.答えは,問われた者自身の価値観と未来に向けての行動に委ねられている. 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Proceedings of the 58h Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) シンポジアム【アメリカ文学部門】 アウラ生産の場としてのキャノン 細谷 等 今日,文学キャノンを疑問に付すことは,とりたてて目新しいことでもなければ,挑発的なこ とでもない.事実,すでに 1980 年代初頭には,The New Feminist Criticism (1985)において Elain Showalter をはじめとするフェミニズム批評家たちが白人男性中心主義的イデオロギーと関連し てキャノンの政治学を問うていたし,またほぼ同時期に Canons (1983)という同じくキャノンを 批判対象化したアンソロジーが出版されていた.このような状況にあって,例えば,「文学とは 英文科で教えることであり,英文科で教えることが文学である」,といった Leslie Fiedler の言 葉はもはや通用しなくなる.(Hallberg 310)いまやキャノンは定義だてする必要のない暗黙の前 提でもなければ,Canons と複数形で語られてしまうように,それは一枚岩的な所与のものでも なくなってしまった.Terry Eagleton に倣っていえば,批判のためであれ擁護のためであれ, 「キャノン」と名指すその行為によって,それはイデオロギーとしての「みずからの有限な境界」 (its own finite frontiers)を暴露してしまったのである.(Eagleton 58) では,文学キャノンは失効してしまったのかといえば,現状はそうではないように思われる. 実際,キャノンが再生産される場としての大学の授業,とりわけ文学史の授業を考えてみた場 合,アメリカ文学についていうならば,Melville,Twain,Faulkner の系譜は相変わらず健在で ある.その理由は,教授者が意識的に,あるいはほとんどの場合無意識に,イデオロギーを行 使しているからだけではなく,カリキュラム上の問題もその一因となっている.というのも, 通年換算でおよそ 24 コマ(国公立系だと 30 コマ)の限られた時間のなかで米文学史を教えざ るを得ない状況では,Susan Waner,Charlotte Perkins Gilman,Frederick Douglass,Leslie Marmon Silko といった女性・マイノリティー系の作家たちに時間を割くよりかは,先に挙げた三人の巨 頭が代表する白人男性作家を選択するケースが往々にして生じてきてしまうからだ. もっとも,そうした現状も,もはや時間の問題なのかも知れない.Paul Lauter によれば, Melville が「南海諸島の物語を書いた無名の作者からアメリカ文学の傑出した小説家」に格上 げされたのは 1920 年代になってからのことであり,キャノン中のキャノンに位置する作家と いえども,その評価は歴史的に見てけっして安定したものではなかった.(Lauter[1994] 1)したが って,これまで多くの女性作家が受けてきたように,明日はその名前が過去の遺物として周縁 に追いやられてしまうことも,あながちあり得ないことではない.事実,Barrett Wendell が 1900 年に出版した A Literary History of America では,Melville は数行の言及で片づけられてい た作家であった.(松崎 107) このようにキャノンの内容は変わるかも知れないし,実際,Columbia Literary History of the United States (1988)にその典型を見るように,確実にその内容は変わってきている.しかし,内 容や顔ぶれがいかに様変わりしようとも,その根底の部分は何ひとつ変わっていないのではな 細谷 等 41 いだろうか.つまり,キャノンの内容ではなく,その機能には何も変化がないように思われる のだ.そして,これから論じていくように,この機能の維持にこそキャノンの存続を保証する 第二の,しかし重要な根拠があるのだ. 「複製技術の時代における芸術作品」において,ヴァルター・ベンヤミンは複製技術というテ クノロジーの発達によって,芸術作品のもつ一回性,すなわちアウラが消失し,その結果芸術 が誰でも入手できるものになった,という有名なテーゼを提出した.(ベンヤミン 15-7)そこで はベンヤミンは写真と映画について集中的に論じたが,ひとつ彼が触れなかった複製技術によ る芸術がある.文学である.しかし,オリジナルとコピーの関係を最初に破棄したと思われる この芸術形式に,敢えてベンヤミンが言及しなかった理由は分かる気がする.というのも,原 理上は誰もが本屋に行けばアクセスできるはずのこの芸術は,実際には誰もが容易にアクセス できるわけではない複製技術の産物という矛盾した性格を孕んでいるからだ.本屋に行けば, 誰でも『白鯨』や『ユリシーズ』を簡単に所有することはできる.しかし,実際にそれを所有 するのは,大学関係者をはじめとするほんの一部の人間に過ぎない.複製技術の芸術作品であ りながら,特定のグループにしかアクセスを許さないアウラをそれは放っているのだ.この自 家撞着した性格を文学に与えているものこそ,キャノンの機能にほかならないわけである. では,キャノンの機能とは何か.それについて述べるまえに,まず文学,とりわけ小説の機能 を問うてみたい.なぜなら,まさに小説の社会的機能こそが,のちに形成される文学キャノン の機能の原型となっているからだ. Iwan Watt の The Rise of the Novel で詳述されているように,小説は中産階級の勃興と連動して 十八世紀イギリスで誕生した.(Watt 35-59)要するに,中産階級の教養,マナー,そして「正し い英語」(standard English)の読み書き能力を向上させる文化的装置としてそれは発明されたわけ だ.したがって,小説の誕生は,階級と,あるいは敷衍させてジェンダーや民族と切り離せな い関係にあった.Etienne Balibar と Pierre Macherey がいうように,「文学言語それ自体が階級矛 盾によって形成された」のだ.(Balibar and Macherey 89)文学言語は階級間の「言語的分割」 (linguistic division)を生産・再生産し,中産階級が所有・投資する文化資本を形成していったのであ る.(Balibar and Macherey 85) しかし,この文化資本は,その性質上,ひとつの階級が独占するようなものではありえなかっ た.それは,自らのイデオロギーを拡散・浸透させる目的で,周縁グループに配分しなければな らない資本でもあったのだ.学校制度の確立がこの資本分配に大きな役割を果たし,最初は日 曜学校等の初歩的な教育機関を通じて,次いで義務教育の普及にともなって,文学を通じた読 み書き能力の修得が労働者階級,あるいは移民や植民地の人間,女性といった周縁に位置する グループにまで浸透していった.もちろん,この一見して啓蒙的なプロセスには,中産階級的・ 男性中心的な論理を「人間の普遍的な営み」として刷り込む,というひとつの政治学が潜んで いたことはいうまでもない.しかし,階級を差異化させると同時に同質化させるという文学言 語の矛盾した機能は,当然のことながら,種々の意図しない効果を産み出した.その最たる例 が,アメリカの女子教育であろう. Nancy F. Cott が The Bonds of Womanhood で解説するように,独立革命期のニュー・イングラン ドでは白人女性の半数が文盲であったのにたいし,女子教育の急速な発達によって,1840 年に はほぼ全員が読み書き能力を身につけていた.(Cott 101)もともとその意図は,新興民主主義国 家アメリカをさらに発展させるべく,家庭教育の重要性が留意されたことにあった.つまり, 子ども(当然,男の子)を将来有用な国民に育成するには,まず家庭教育の充実が必要であり, そこから家庭における指導者たる母親・女子の教育の必要性が叫ばれたのだ.しかし,当初は国 家主義的な見地からなされた文化資本の分配は,例えば Elizabeth Cady Stanton のような女性た 42 アウラ生産の場としてのキャノン ちが 1848 年に Seneca Falls で歴史上初のフェミニズム集会を開いてしまったり,あるいは Elizabeth Stuart Phelps や Susan Warner のような女性作家,Hawthorne いうところの「忌まわし い物書き女ども」(damned mob of scribbling women)を大量に産み出してしまうという予期せぬ効 果をもたらしてしまった. このように文学言語は,読み書き能力の教育手段としてあった限りは,その差異化の効力,ピ エール・ブルデューに倣っていえばディスタンクシオン効果を失わざるを得なかった.(ブルデ ュー 特にⅠ:29-97 を参照)そこで文学の再ディスタンクシオン化を計るべく導入されたのが, 大学における文学教育の専門化,そしてそこにおける文学のキャノン化であったのだ.その結 果,John Guillory が簡潔にまとめているように,従来読み書き能力に使われていた文学作品が 徐々に高等教育に独占され,「読み書きそろばん」的な初歩的マテリアルが代わりにあてがわれ るようになった.(Guillory 242)さらに附言すれば,同じマテリアルであっても,その解釈手続き に決定的な差異を設けることによって,ディスタンクシオンを保証するようになったのである. 卑近な例を取れば,中学・高校で読む『こころ』と,大学の国文科で読む『こころ』との差異を 思い浮かべればよい.前者は漢字や熟語を覚えたり,せいぜい作者の意図を当てるぐらいのも のであるのにたいし,後者はとても素人では太刀打ちできないような解釈術にもとづいて読解 が行われるのである. イギリスおよびアメリカにおいて,文学が読み書き能力のためのマテリアルから,それ自体自 律した専門領域へと変遷していった過程は,ちょうど世紀転換期における大学教育改革のなか に辿ることができる.専門化される以前,文学は趣味とみなされ,けっして本格的な研究対象 としては認知されていなかった.1887 年,雑誌 Nineteenth Century に“Can English Literature Be Taught?”という文学教育の改善を訴えた論文が掲載されたが,この題名自体が物語るように,文 学は大学教育の科目として適格かどうかすら疑問視されていた.そのため,同論文のなかで嘆 かれているように,文学は文献学のサブテクストとして,「その傑作ですら,文法・統語・語源の 練習問題へと還元されていた」のだ.(Collins 644)事実,1883 年に開催された MLA 第一回大会 では,MLA 自体が「まず第一に,趣旨においても会員構成においても文学のための組織ではな く」,組織内で文学は「(言語)教育上のツール」(pedagogical tools)として扱われていた(Warner イングリッシュ 2, 4).現在でも「英文科」のことを“English”というが,当時文学はまさに言語・言葉の教育のた めにあったのである. しかし,十九世紀も終わり頃になると,言語教育に従属した位置から文学を脱却させようとす る動きが見られるようになる.例えば,1887 年の PMLA 誌上で,Albert H. Smyth という高校教 師は「文学研究の目的と性格についての誤解」を指摘し,それが「言語研究とは別種の研究」 であることを訴えている.(Smyth 239)同様に,1884 年の同じく PMLA において,James Morgan Hart というシンシナティ大学の教授も,ほとんどの学者が「二つの根本的に異なる事柄,すな わち文学と言語を混同している」現状を憂い,研究者に意識改革をするように迫っている. (Hart 85)Theodore H. Hunt という修辞学および英語の研究者は,文学が「たんなる嗜み」として しか認識されていない現状を嘆き,英文科のより一層の体系化と拡大化こそ,「たんなる言語能 力の完成を越えた,真の文学的インスピレーションを保証するのだ」と提言した.(Hunt 126) 以上のような当時の研究者たちの悲願は,結局達成されることになる.大学の学部編成という 教育改革の波にも乗って,文学は徐々に独自の領域を形成していった.アメリカ文学にかんし ていえば,その専門分野としての確立は第一次大戦以降で,1923 年に MLA にアメリカ文学部 門が開設され,29 年に専門誌 American Literature が創刊される.(Graff 211, Lauter[1983] 440, 松 崎 113-4)「本誌は教育雑誌でもなければ現代文学の雑誌でもない.それは通俗雑誌でもなく,学 術誌(a scholarly publication)なのだ」という American Literature 創刊号における宣言には,アメリ 細谷 等 43 カ文学を正規の学問として認知させようとする意気込みがよく伝わってくる.(Editors 75)また, 松崎博が指摘するように,創刊号に掲載された Norman Foster の The Reinterpretation of American Literature にたいする書評にも,同じような専門化への意志が伺える.そこでは,Foster の本が 「一般読者」(the general reader)を対象としたものではなく,「学者,批評家,教員」(scholars, critics, and teachers)といったプロフェッショナルが扱う専門書であることが強調される.(松崎 113-4, Canby 79) 読み書き能力のためのマテリアル,あるいは「(言語)教育上のツール」からのこのような文 学の脱却は,1930 年代における New Criticism の誕生という象徴的な出来事で完結するといえ よう.その文学以外のあらゆるリファランス(歴史,作者,意図)を拒否する身振りは,文学 が他の学問・目的に従属していたという歴史にたいするひとつの反動であったのだ.(Graff 210) そして,文学をより学問らしくするために着手されたのが,キャノン化という手続きであった. 「象徴」,「テンション」,「曖昧さ」といった新たに開発された専門用語・概念を規準に,「高級文 学」と「大衆文学」,American Literature のような「学術誌」向きの作品と「通俗雑誌」向きの 作品の選別が行われるようになる.(Lauter[1983] 442)前述の Melville リヴァイヴァルは,まさに この選別作業の一貫であったといえよう.さらに,Gerald Graff がいうように,Twain や Cooper といった「一般読者」が元来読んでいた本ですら,「脱大衆化する形で」(depopularized)キャノン のなかへと組み込まれていった.(Graff 222) キャノンの形成による「高級文学」と「大衆文学」との選別,そして「専門家」と「一般読者」 との差異化.こうして文学は再びディスタンクシオン機能を取り戻し,そのアウラを復権させ たのである.Frank Kermode が聖書解釈について述べたのと同じく,文学は中産階級の文化資本 から,「解釈のライセンスを有した」(licenced for exegesis)一部専門家の文化資本へと移行してい った.(Kermode 180)しかも,以前より独占形態を強化した形で. このようにキャノンをディスタンクシオン機能の見地から考えてみたとき,その所在をもう一 度しっかりと再認識する必要が出てくるであろう.キャノンというと,その対象となる文学作 品そのものを思い浮かべてしまうことがある.いわば,キャノンの物象化が起きてしまうのだ. しかし,キャノンの語源は「定規」(rule),「尺度」(measure)であり,その所在は測定される作品 にではなく測定する規準にある.前述した Twain や Cooper のような流行作家のケースを考え れば,そのことははっきりするであろう.おそらく当時の一般読者は,Huckleberry Finn を Tom Sawyer の続編としてしか読まなかったと思われるが,現在その二つを同列に読むことを禁じる のは(あるいは,Huck の後半部を文学的価値を落とすものと指定するのは),作者でもなけれ キャノン ば作品でもなく,外部からあてがわれた尺度なのである. このような自明ともいえることを改めて述べるのは,昨今のキャノン批判,とくにフェミニス トによるキャノン批判に,まさにこの誤認があるように思われるからだ.Lillian S. Robinson が 批判した Nyna Baym の逡巡などは,この誤認の典型といえよう.Baym は十九世紀アメリカの 女性作家による作品に独自の価値を認めつつも,「美学的・知的・道徳的な複雑さと芸術性」には 欠けると思わず吐露してしまう.(Robinson 216-7)彼女が陥ったこのアポリアは,男性作家の作 品群をキャノンそのものと取り違え,それに対抗して単純に女性作家を持ち出したことの帰結 といえるだろう. Sandra M. Gilbert もまた,同じ誤認を犯している.“What Do Feminist Critics Want?”という論文 で,彼女は文学キャノンを「伝統的に男性のもの」とし,Spencer, Shakespeare, Milton といった 男性作家群とそれを同一視する.(Gilbert 38)しかしその一方で,フェミニスト批評の学術性を強 調することで,キャノンの差異化機能は温存してしまうのである.そうした態度が期せずして 現れてしまうのは,彼女がフェミニストの仕事や成果に耳を貸さない同業者を批判するときで 44 アウラ生産の場としてのキャノン ある.彼女はそうした同僚を「スーパーマーケットぐらいしか行くところがなく」,「授業以外 で読む本といえばテレビ・ガイド」といった俗物として非難する.(Gilbert 37)かなり穿った見方 ではあるが,この発言の背後には,フェミニズム批評もしくは女性文学は,「スーパーマーケッ ト」に行き「テレビ・ガイド」を読むような人間,つまり「一般読者」には無縁のものであると いう意識が働いているとはいえないだろうか.このように,Gilbert はキャノンを物象化するこ とによって,実体化されたキャノンは否定しつつも,「専門家」と「一般読者」とを差異化する その機能は肯定してしまうのである.女性文学だけでなく,黒人文学やネイティヴ・アメリカン の文学にしても,評価する側が「尺度」そのものを不問にしている限り,同じような結果が繰 り返されるといえよう. 極論すれば,文学を学問として正当化しようとするあらゆる行為が,キャノンのディスタンク シオン効果を発揮する.Paul Lauter の言葉どおり,「New Criticism から構造主義,そしてポスト 構造主義へと批評形態がいかに変わろうとも,主に批評家の社会的ステータス,権力,業績に 関連していえば,その機能は不変」なのだ.(Lauter[1991] 236)作品を差異化し,それを読解する 者を差異化させる機能.いかに従来のキャノンに対抗して,例えば Toni Morrison を持ち出して も,彼女の作品が文体論のうえで解釈に値するとか,ポスト・コロニアル的な読解に格好のテク ストであるといった前提に立つ限り,文学史の顔ぶれこそ変われ,キャノンの機能は手つかず のままなのだ.その結果,Morrison は特殊な解釈,あるいは「解釈のライセンス」がなければ 読めない作家として,一般読者はそこから疎外されていく.黒人女性の声として文学的に公認 されればされるほど,当の黒人女性たち,「スーパーマーケット」に行き「テレビ・ガイド」を 読むような「一般読者」としての黒人女性たちは,ますますそこから引き離されてしまうとい う逆説が生じるのである. マイノリティーズの声を文学史に刻み込みたいと思うならば,つねにキャノンという物差しを 参照しなければならないというジレンマ.それは,大橋洋一がマイナー文学に潜む「逆マイノリ ティー戦略」と呼んだものを想起させる.(大橋 120)マイノリティーズの作品を,例えば Columbia Literary History of the United States に記載したいと思えば,文学をアカデミックな学問領 域として保証してきた概念に,つまり「リアリズム」 , 「モダニズム」 , 「曖昧さ」 , 「テンション」 , 「政治的無意識」 , 「脱構築」 , 「ポスト・コロニアル」といった概念に準じた解釈を施さなければな らない.それらマイナー文学は,けっしてマイナーの規準にメジャーを引き込むことなく,メジ ャーな規準のなかへと回収されていく.この意味で,キャノンは T. S. Eliot の「伝統」と合致す る.(Eliot 50)それは新しく来た異質なものを次々と飲み込み,差異化の機能を与えることで,そ れらを同化・吸収していくのだ.そして,もはや「奥義」に通じた者しか「正しく」読めなくな ってしまったテクストは,Oxford World’s Classics や岩波文庫に収められることで,複製技術の生 産物でありながらもアウラを放ち,読者の選別をしていくことを止めないのである. Works Cited 大橋洋一.「断片と全体」.『現代思想』特集:カルチュラル・スタディーズ.青土社.一九九六年三月,11623 頁. 松崎博.「「白い」鯨とアメリカ文学―メルヴィル・リヴァイヴァルをめぐって」.愛知学院大学文学部『紀 要』第 30 号.二〇〇〇年,107-16 頁. ブルデュー,ピエール.『ディスタンクシオン―社会的判断力批判』Ⅰ・Ⅱ.石井洋二郎 訳.藤原書店,一 九九〇年. ベンヤミン,ヴァルター. 「複製技術の時代における芸術作品」.ベンヤミン著作集2『複製技術時代の芸術』, 佐々木基一 編,高木久雄 他訳.晶文社,一九七〇年,7-59 頁. 細谷 等 45 Balibar, Etienne and Pierre Macherey. “On Literature as an Ideological Form.” Untying the Text: A Post-Structuralist Reader. Ed. Robert Young. Boston: Routledge & Kegan Paul, 1981. 79-99. Canby, Henry Seidel. Book Review to Norman Foerster, Ed., The Reinterpretation of American Literature. American Literature 1 (1929-30). 79-85. Collins, J. Churton. “Can English Literature Be Taught?” The Nineteenth Century 22 (July-December 1887). 642-58. Cott, Nancy F. 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The first speaker, Kuniya Nasukawa argued that what appears to be located in a right-peripheral position in syllable structure is in fact placed in the leftperipheral position of the following empty unit. Given that there exist two contrasting points of view concerning the syllabification of word-final consonants, that is, they are assumed to occupy either a syllable coda, or alternatively, a syllable onset, Nasukawa argued that the latter case, which places final consonants in the onset of an otherwise empty final syllable, has the advantage of being able to account for a range of phonological phenomena that are difficult to explain under a syllable coda analysis. In so doing, Nasukawa provided new evidence to support a similar onset-based analysis for Japanese and other languages. The second speaker, Jun Abe discussed what is a proper analysis of Japanese Right Dislocation (JRD). Contrary to what appears to be the most plausible analysis for it that involves rightward movement, Abe argued for the ellipsis analysis that involves complex clausal structure and leftward movement. It was shown that this analysis is superior to not only the rightward movement analysis but also the double-preposing analysis in offering natural accounts for such phenomena of JRD as (i) quantifier scope interaction, (ii) island effects, and (iii) Condition C effects. This led to the conclusion that JRD is no more a challenge to the asymmetrical structure theory, according to which rightward adjunction is prohibited altogether. The third speaker, Nobuhiro Miyoshi discussed anti-ECP effects or the accessibility restriction in Verb-Initial languages under Kayne’s (1994) antisymmetric approach, speculating on the following two questions concerning Verb-Initial languages: A) whether the derivation of Verb-Initial word order is homogeneous in an abstract sense, and B) whether we can capture any correlation between the derivation of Verb-Initial word order and certain properties of Verb-Initial languages. Miyoshi demonstrated that anti-ECP effects come from two different sources, arguing that only one of them is predictable under the antisymmetric approach. On the basis of this argument, Miyoshi claimed that the derivation of Verb-Initial word order cannot be homogeneous and putative correlates of “basic” word order observed in classical typological works should be reconsidered. We hope that all these points made by the three speakers were of some use for the audience to clarify the issues on the correspondence between hierarchical structure and linear order and to investigate how the correspondence is regulated in Universal Grammar. Proceedings of the 58th Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) シンポジアム【英語学部門】 Word-final consonants: arguments against a coda analysis Kuniya Nasukawa 1 Introduction There exist two contrasting points of view concerning the syllabification of word-final consonants: they are assumed to occupy either a syllable coda, or alternatively, a syllable onset. The latter case, which places final consonants in the onset of an otherwise empty final syllable, has the advantage of being able to account for a range of phonological phenomena that are difficult to explain under a syllable coda analysis. While my arguments for English in §2 basically follow Harris & Gussmann (1998, 2002), I will provide new evidence to support a similar onset-based analysis for Japanese in §3. The final part of this paper will summarize the consequences of both analyses for English and Japanese and will also comment on the direction of future research. 2 Word-final consonants in English 2.0 There are some well-established arguments that word-final consonants in English occupy not a syllable coda, but a syllable onset of an otherwise empty final syllable; these are presented in Kaye (1990), Kaye, Lowenstamm & Vergnaud (1990), Harris (1994, 1997), Harris & Gussmann (1998, 2002) and elsewhere. This subsection will follow the very clear discussion given in Harris & Gussmann (1998, 2002), providing evidence against the final-coda analysis of English (§2.1) as well as positive evidence to support the final-onset analysis of English (§2.2). 2.1 Evidence against the final-coda view The evidence to be reviewed here is based on the argument that a word-final consonant cannot be treated as occupying a syllable coda if its behaviour is different from that of a word-internal coda. The discussion will focus on syllable typology, word stress and vowel length. Firstly, in the case of syllable typology, if we assume that a word-final consonant occupies a syllable coda, in languages which allow this structure we might expect a coda to be found in word-internal positions too. However, this matter is less straightforward than would first appear, since there are languages like Luo which permit word-final consonants but not word-internal codas. Conversely, there also exist languages like Italian which disallow word-final consonants but do allow word-internal codas. This observation undermines the assumption that a word-final consonant should be equated automatically with a word-internal coda. Secondly, in English word-stress assignment, a word-internal coda contributes to the weight of the preceding syllable, while a word-final consonant fails to contribute to syllable weight in this way; instead, it is regarded as extrametrical. A similar situation is attested in many other languages besides (Hayes 1995). The extrametricality of a word-final consonant provides further evidence for the conclusion that a word-final consonant is not a syllable coda. Thirdly, under certain conditions, a word-internal consonant influences a preceding vowel, while a word-final consonant does not display such behaviour. Closed-syllable shortening in English, for example, requires the preceding vowel of a word-internal coda to be short, whereas the same condition does not hold in the case of a vowel preceding a word-final consonant. This 48 Word-final consonants: arguments against a coda analysis also strengthens the argument that a word-final consonant cannot be a coda, given that it does not mirror the behaviour of a word-internal coda. Further evidence comes from the relation between the ability of a syllable nucleus to support a length distinction and the identity of a following consonant. When a super-heavy VVC・ syllable appears word-internally, some tight restrictions control the characteristics of the consonant C, as follows (Harris & Gussmann 1998: 144, 2002: 7): (1) a. C must be a fricative or a sonorant, e.g. pastry, oyster, danger, council, boulder, ancient (*beypti, *å…kmi); b. if sonorant, C must be homorganic with the following onset, e.g. council, paltry (*kåwnbel, *pø…lbri); c. in the case of (b), the place of C is (almost) invariably coronal (*kåymp\l, *i…mpri). In contrast, when VVC appears word-finally, no restrictions are placed on the specification of C. This also reinforces the point that the C of word-final VVC] cannot easily be identified as a coda if the word-internal cognate is a coda. Similar arguments are provided by Harris & Gussmann to show that a word-final consonant is not a coda in other languages such as Icelandic and Ponapaean. 2.2 Evidence in support of the final-onset view According to Harris & Gussmann, there are at least two pieces of evidence to support the view that word-final consonants in English occupy an onset rather than a coda. These concern the phonotactic distribution of final consonants and the relation between a nucleus and a following consonant in a VVC context. First, with regard to phonotactics, English final consonant clusters (CC]) are to some extent similar to internal coda-onset clusters (C・C). Examples are given below: (2) a. b. c. d. CC clusters STOP-STOP: SONORANT-STOP: FRICATIVE-STOP: SONORANT-FRICATIVE: Medial, Final chapter, apt: vector, sect ... pamper, damp: winter, flint ... mister, mist: whisper, wisp ... cancer, manse: dolphin, golf ... The final-coda approach views the parallel between word-internal C・C and word-final CC] as totally accidental, forcing the same set of phonotactic regularities to be stated twice: wordinternally and word-finally. In contrast, according to the final-onset view, the parallel between C・C and CC] is entirely expected, and the phonotactic regularities in both contexts need be stated only once: CC] behaves just like C・C since the former is a coda-onset cluster and is syllabically identical to the latter. Further positive evidence stems from the relation between the ability of a syllable nucleus to support a length distinction and the identity of a following consonant. As discussed in the previous subsection, there are tight restrictions on the characteristics of the coda consonant following a diphthongal/long vowel (VVC・: e.g. pastry, shoulder). The same restrictions are not found in word-final VVC]. This asymmetry is straightforwardly explained by the assumption that a final consonant is an onset and word-final VVC] is syllabified as VV・C]. In this view, it can be said that the restrictions imposed on VVC・ do not apply to VV・C] since the final C of VV・C] is in fact not a rhymal consonant. Closed-syllable shortening and closedrhyme shortness are also explained in the same manner. For a discussion of these phenomena, see Harris (1994) and Harris & Gussmann (1998, 2002). 49 Kuniya Nasukawa 2.3 Final onsets followed by an empty nucleus The argument so far has rejected the assumption that final consonants are codas in favour of an onset analysis. In general, in spite of the context where an onset appears, it has to be followed by a nucleus since a nucleus is obligatory in a syllable. This is formalized in various ways in the literature (Clements & Keyser 1983, Prince & Smolensky 1993). In order for a syllable theory to maintain a level of restrictiveness, the syllable where a final onset appears must not behave as an exception: a final onset must be followed by a nucleus. In such a case, the nucleus is silent, more precisely, melodically empty. ‘Empty’ means that a certain position may, in the appropriate circumstances, receive no phonetic interpretation at all –– or, as it will be discussed in the next section where an analysis of Japanese final consonants is given, the interpretation of a position need not necessarily be transcribed using a specific alphabetic vowel symbol. The notion of empty category –– which is commonly used in modern syntactic theory –– is not a novel idea in phonology. For example, this notion figures in the study of h-aspiré, where an onset is treated as empty (Clements & Keyser 1983). There are at least two arguments which support the existence of empty nuclei following a final consonant. One claims that the incorporation of empty nuclei into metrical structure brings about a more straightforward analysis of English word-stress assignment. Under a final-dullsyllable account, the final-consonant extrametricality of a standard final-coda account reduces to syllable extrametricality: irrespective of the existence of a final empty nucleus, a final syllable is regarded as weak and is prevented from participating in foot structure (e.g. (Cána)da, (édi)t^). This treatment has not been offered under a standard final-coda analysis, where the stress-assignment regularities observed in words like Cánada –– which ends with a vowel and receives antepenultimate stress –– are analysed as exceptional in terms of final-consonant extrametricality and are never subject to the same analysis as words like édit. Another argument to support the existence of final empty nuclei refers to the phonetic manifestation of the empty position in English –(e)s/–(e)d suffixation, which involves the epenthesis of a vowel to break up impossible sequences of sibilants or alveolar plosives: πz/\z as in kisses and rushes, and πd/\d as in wedded and waited. Under a final-coda analysis, resyllabification is always required: a nuclear position, in which the epenthetic vowel docks, is inserted and a stem-final consonant is resyllabified from a coda position (e.g. kˆs・) to an onset position (e.g. kˆ・sπz). This process loses some degree of theoretical restrictiveness: on the one hand, the lexical source of the epenthetic position is unidentified; and on the other hand, the syllabic transformation of the stem-final consonant from coda to onset violates a strict version of structure preservation (Harris 1994, Backley & Takahashi 1998) or faithfulness between input and output forms. In contrast, a final-onset analysis does not call for any type of resyllabification. Given that the representation of a consonant-final stem ends with an empty nucleus, that stem-final consonant is separated from a following consonantal suffix –(e)s/–(e)d by an empty nucleus, as in [[h√g^ ]z ]. In most cases, the nucleus does not manifest itself phonetically. However, consonantal sequences such as sibilants and alveolar plosives force the empty position to become audible, with the result that the sequences are split, as illustrated below: (3) a. kisses O N O | | | [[x x x | | | k ˆ s b. N O N | | | x] x x] | π z wedded O N O | | | [[x x x | | | w e d N O N | | | x] x x] | π d Here, there is no insertion of syllabic positions and no resyllabification involved: the manifestation of an epenthetic vowel is attributed to the phonetic interpretation of a lexically 50 Word-final consonants: arguments against a coda analysis assigned position –– a stem-final empty nucleus. In this sense, the term epenthesis is no longer appropriate according to an analysis consisting of a final onset and a following empty nucleus. This section has attempted to identify the type of syllabic position occupied by a word-final or stem-final consonant. A range of evidence, involving syllable typology, word stress, vowel length and phonotactics, confirms that a final consonant should not be treated as occupying a syllable coda, but rather, should be viewed as belonging to an onset position which is followed by a melodically empty nucleus. 3 Word-final consonants in Japanese 3.0 This section will also claim that a word-final consonant in Japanese is not a coda, but in fact, is an onset followed by an empty nucleus. One of the differences between English and Japanese comes from the phonetic status of an empty nucleus: apart from some cases like the one discussed in the previous section, the empty nucleus usually remains silent in English, whereas in Japanese it manifests itself phonetically by some way. In order to explain this, let us focus on the placeless nasal  , which is the only final consonant permitted in this language, and investigate some of the phonetic and phonological characteristics of this segment. The aim is to provide evidence to support the claim that the placeless nasal does not occupy a syllable coda. 3.1 Characteristics of the placeless nasal in Japanese The placeless nasal  shows both consonantal and vocalic characteristics. First, its consonantal features are evident from phonological phenomena such as the lexical contrast of nasality and pitch accentuation. As for the lexical contrast of nasality, the feature is not distinctive on vowels in Japanese. Since consonants are the only segments on which a nasality contrast is expressed, the placeless nasal is considered to have a consonantal trait. Another consonantal characteristic attributed to the placeless nasal is the fact that this segment never bears pitch accent, which is also the case with consonants in Japanese (McCawley 1968, Vance 1987). Besides consonantal characteristics, there are several ways in which vocalic characteristics are also exhibited by the placeless nasal. One is that, like vowels, but quite unlike consonants,  has no clear place of articulation. Another is due to the fact that  bears high/low pitch just as vowels do (McCawley 1968, Vance 1987). This makes native speakers of Japanese detect a ‘beat’ called moraicity or syllabicity in the nasal segment. For this reason, the placeless nasal in Japanese behaves like a vowel in certain phonological processing tasks such as transposition in speech errors (Kubozono 1985), secret language games (e.g. Babibu language: Haraguchi 1991) and particle vowel reduction in casual speech (Hasegawa 1979). The Japanese syllabary also provides an interesting insight into the nature of the placeless nasal. The language employs two syllable-based writing systems called Hiragana and Katakana, in which most of the letters represent a CV sequence (or sometimes CjV). Given that CV is a fundamental structure of Japanese letters, however,  and the five vowels å, i, }, e, o do not fit this pattern. It is commonly considered that vowels occupy only the V position of a CV sequence and that the C position is not filled with any consonantal material. As for Â, however, its syllabification gives rise to some controversy, which is discussed in §3.3. 3.2 Phonotactics of nasals We next consider the phonotactic constraints imposed on placeless nasal compared with other nasal sounds in Japanese. In phonemic terms, Japanese has three kinds of nasals: alveolar nasal n, bilabial nasal m and mora nasal  . Unlike the placed nasals n and m,  exhibits four allophonic variants [n] (in ho[n]doo ‘main temple’ < ho ‘main, real’+ doo ‘temple’), [m] (in ho[m]mono ‘real thing’ < ho ‘main, real’ + mono ‘thing’), [˜] (in ho[˜]ka ‘main building’ < ho ‘main, real’ + ka ‘building’) and [Â] (in ho[Â]i ‘real intention’ < ho ‘main, real’ + i ‘intention’). Furthermore, those variants of the placeless nasal retain their moraicity/syllabicity during phonological processes. In terms of phonotactics, the placed nasals never occupy word- Kuniya Nasukawa 51 final positions: they are always followed by a vowel. On the other hand, the placeless nasal can never occupy a word-initial position: it is always preceded by a vowel. Bearing these facts in mind, phonologists have a consensus that placed nasals occupy syllable onsets. However, there is again some controversy surrounding the syllabic status of the placeless nasal Â. 3.3 Syllabic status of  : some controversial arguments The literature has proposed at least two approaches to syllabification: in a coda approach,  occupies the coda position of a closed syllable CVC, which is considered to be a marginal structure (Itô 1986, et passim); in a nucleus approach, on the other hand, it occupies the V of a CV syllable (Yoshida 1990). According to the former view, which is widely accepted in phonological studies, the coda position where the placeless nasal appears belongs to a higher prosodic category ‘mora’ (represented by µ) which encodes the moraicity/syllabicity of Â. In contrast, according to Yoshida’s position,  is in a syllable nucleus which exhibits moraicity/syllabicity and its preceding onset is empty. These two models have some conceptual problems in their argumentation. First, the coda approach does not explain why only the placeless nasal (and the first member of a geminate consonant) is allowed to occupy a coda. Furthermore, this view does not provide any reasons why a CVC type structure is employed in Japanese: it seems to have been invoked simply as a convenient way of describing the syllabic status of the placeless nasal. The nucleus approach also has a potential problem. The appearance of a placeless nasal in a nuclear position entails a rather undesirable prediction. If nasality is allowed to occupy a nucleus, we may well assume that some other nasalized melody is also permitted to occupy and function contrastively in this position. However, there is no empirical evidence to support this prediction for Japanese. There is another problem that is common to both coda-based and nucleus-based approaches. In both analyses, morphological concatenation triggers resyllabification (e.g. sin・ ‘to die’ + a・ na・i NEGATIVE > si・na・na・i ‘(somebody) does not die’ in the coda analysis; si・ ‘new’ + ka ‘turning’ > si˜・ka ‘evolution’ in the nucleus analysis). In other words, if we treat the nasal as a melody in a coda or nucleus, prosodic reorganization is required. Such reorganization implies the necessity of overriding particular structural conditions that hold at lexical representation. However, this kind of structure-changing operation is undesirable in terms of faithfulness to lexical forms, since it entails a degree of arbitrariness and has the effect of weakening the restrictiveness of the theoretical model. 3.4 An alternative structure for  In order to avoid the problems mentioned above, I propose that a placeless nasal consists of not a single syllabic position such as a coda or a nucleus, but rather, consists of two-position sequence: an onset and a nucleus. In the onset position, consonantal characteristics are specified, while vocalic characteristics are due to the presence of a nuclear position. In more precise terms, as illustrated in (4a), the melodic properties of nasality and stopness fill the onset, the interpretation of which gives us a nasal stop without any place of articulation. (4) a. Placeless nasal O N | | x x | [Nas] [Stop] 〔  〕 b. Alveolar nasal O N | | x x | [Nas] [Stop] [Cor] 〔n } 〕Phonetic interpretation 52 Word-final consonants: arguments against a coda analysis Moraicity comes from the interpretation of a following nucleus, which is unspecified in terms of melodic material. Here I claim that, in Japanese, unlike English, a final-empty nucleus must be phonetically interpreted, which means that words/morphemes usually have a vowel ending. However, in the case of Japanese, also unlike English, the interpretation of a final-empty nucleus is not necessarily transcribed by an alphabetic vowel symbol. What is crucial to the interpretation of empty nuclei is not really the characteristic acoustic resonance of ‘vowel’, but rather, its contribution to metrical structure. As long as one ‘beat’ can be detected, the interpretation of an empty nucleus does not have to be a ‘vowel’. In Japanese, a final-empty nucleus following an onset position with a place element, on the other hand, is phonetically interpreted as a high back unrounded vowel, which is the most neutral vowel within the Japanese vocalic space and is often used as an unmarked vowel in the nativisation of loanwords (e.g. slip ‘slip’ > s}ripp}). The existence of a place element (such as coronality in 4b) prevents its associated position from being phonetically superimposed by the characteristic acoustic resonance of a following empty nucleus. As a result, this kind of sequence manifests itself as a sequence consisting of a placed nasal (n in 4b) and the neutral vowel }. For a more detailed discussion, see Nasukawa (1998). There are several pieces of evidence to support the claim that  is the phonetic manifestation of a placeless nasal and empty nucleus. First, with regard to physical duration,  is longer than the other nasal consonants and is equal to the duration of a consonant plus a vowel. This may support the structure given in (4a). Second, the phenomenon that } plus a nasal consonant is often interpreted as a placeless moraic nasal (e.g. }ma ‘hourse’ >Â(M)ma) provides evidence that } is apt to receive nasality from a neighbouring position, and hides its independent appearance and its contribution to moraicity. A third piece of evidence comes from the fact that  is perceived as a sequence consisting of } plus a nasal consonant by kindergarten children when they play a word game called Shiritori, which one player has to say a word starting with the last syllable of the word given by the previous player. Using the approach proposed here, some phonological phenomena receive a simplified explanation. One example comes from a dialectal change involving nasals which is found in the Oogami (one of the Okinawa dialects) and Kagoshima dialects. In these dialects, nouns ending with the sequence n} in the Tokyo dialect are pronounced with  in word-final position (e.g. i ‘dog’ in these dialects is the equivalent of in} in Tokyo dialect). In descriptive terms, the final vowel is lost and the alveolar place-specified nasal changes into a placeless nasal. However, in my analysis, only a single phonological process of lenition suffices to account for the dialectal difference: only a place element is suppressed in the onset position of the final ON-sequence. In the same manner, historical sound changes involving a placeless nasal are also explained (e.g. the Old Japanese negative suffix n} became  as in siran} ‘someone does not know’ > siraÂ). In addition, the proposed analysis involves no prosodic reorganisation in the course of morphological concatenation (e.g. si・n ^ ‘to die’ + a・na・i NEGATIVE > si・na・na・i ‘(somebody) does not die’; si・ ‘new’ + ka ‘turning’ > si・ ˜・ka ‘evolution’). This offers a distinct advantage in terms of theoretical restrictiveness, compared with the competing models discussed in §3.3. 4 Conclusion This paper has provided ample evidence to support the claim that, in both English and Japanese, domain-final positions always end with a sequence of an onset and a following nucleus: they never end with a coda. The difference between these languages is due to the phonetic interpretability of the final-empty nucleus. This perspective has provided some simplified and improved analyses of a number of relevant phonological phenomena. The same arguments also hold for other languages such as French (Charette 1991), Icelandic and Polish (Harris & Gussmann 1998, 2002), although in order to make the claim universal, further research on a wider range of other languages will be required in the future. Kuniya Nasukawa 53 References Backley, Phillip & Toyomi Takahashi (1998). Element activation. 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Proceedings of the 58th Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) シンポジアム【英語学部門】 On Directionality of Movement: A Case of Japanese Right Dislocation Jun Abe 1. Introduction The main purpose of this paper is to consider what is a proper analysis of a construction that appears to involve rightward movement. The construction in question is illustrated in (1b). (1) a. b. John-wa Mary-o hihansita. -Top -Acc criticized ‘John criticized Mary.’ John-wa hihansita, Mary-o. (1a) illustrates the canonical word order of Japanese sentences: S(ubject)-O(bject)-V(erb). Haraguchi (1973) claims that (1b) is an instance of Japanese Right Dislocation in which Mary-o is moved rightward from the underlying order SOV; henceforth, let us call it the JRD construction. Recently, this construction has attracted much attention due to the development of interesting restricted theories of phrase structure. There are mainly two positions with respect to how phrase structure is constrained. One comes from the idea, first proposed by Saito (1985) and followed with slight modifications by Fukui (1993) and Saito and Fukui (1998), that the direction of adjunction is constrained by X’-theory. Let us call this the restricted adjunction theory. The spirit of this theory is, if we put it in Fukui’s (1993) terms, that the value of the head parameter should be preserved in derived structures in a maximal way, so that an adjunction operation should create a structure that is consistent with the value of the head parameter in a given language. According to this constraint, a phrase must be adjoined to a category on the side opposite to that of its head. Thus, a head-final language such as Japanese is allowed to have adjunction only on the lefthand side, and hence should never allow rightward adjunction. This nicely captures the fact that Japanese is a strictly head-final language, with no phrase put after a head. The JRD construction is an exception in this respect, and if Haraguchi’s (1973) claim is correct, this construction will constitute a piece of counterevidence to such a restricted theory of phrase structure. The other position comes from the idea, first proposed by Kayne (1994) and adopted with some opposing modifications by Takano (1996, 1998) and Fukui and Takano (1998), that hierarchical structure unambiguously determines the order of terminal symbols, thereby denying the existence of symmetrical structures such as those given below: (2) a. XP X’ YP b. ZP X XP ZP X’ X YP Let us call this the asymmetrical structure theory. According to Kayne, hierarchy and precedence correspond roughly as follows: what precedes is structurally higher than what follows. He further argues that the universal basic structure is S(pecifier)-H(ead)-C(omplement), as given in (2b), and that various word orders exhibited by different languages are derived from this basic word order by applying movement operations to heads and phrases. According to this asymmetrical structure theory, rightward movement is universally prohibited, since if it were allowed, it would create a structure, such as the one given in (2a), in which what Jun Abe 55 follows is structurally higher than what precedes. Hence, the JRD construction appears to raise a problem to such a theory. In fact, by examining a construction in Turkish similar to JRD, Kural (1997) argues that this language is underlyingly head-final and has the option of rightward movement. In this paper, I defend the restricted adjunction theory and the asymmetrical structure theory by offering an alternative to Haraguchi’s analysis of the JRD construction in the hope that the Turkish Right Dislocation discussed by Kural will be reanalyzed in terms of this alternative. I argue that this construction involves a complex clausal structure that involves ellipsis and leftward movement of a postverbal phrase. 2. Three Possible Accounts for JRD Facing an apparently problematic case to his conditions on the direction of adjunction sites, Saito (1985) argues that a case of JRD such as (1b) cannot be derived from rightward scrambling on the basis of the following facts: First, the JRD construction is strictly a root phenomenon, unlike leftward scrambling (this is also observed by Haraguchi (1973) and Kuno (1978)):1 (3) *John-ga Mary-ni watasita, sono hon-o koto -Nom -Dat handed that book-Acc fact ‘the fact that John handed that book to Mary’ cf. Sono hon-oi John-ga Mary-ni ti watasita koto that book-Acc -Nom -Dat handed fact Second, no subject/object asymmetry is observed with the JRD construction whereas according to Saito (1985), leftward scrambling cannot apply to subject: (4) Mary-ni sono hon-o watasitanda, John-ga. -Dat that book-Acc handed -Nom ‘John handed that book to Mary.’ Finally, overt resumptive pronouns are possible with the JRD construction, unlike leftward scrambling (this is originally observed by Haraguchi (1973)): (5) John-wa kanozyoi-o nagutta, Maryi-o. -Top her -Acc hit -Acc ‘John hit her, that is, Mary.’ cf. *Maryi-o John-wa kanozyoi-o nagutta. -Acc -Top her -Acc hit The above data convincingly show that the JRD construction does not involve scrambling. This leads Saito to conclude that the JRD does not involve rightward movement and hence that Japanese obeys strictly to his conditions on adjunction sites. It does not follow from this, however, that this construction does not involve any kind of movement whatsoever. On the contrary, it has been observed (see Simon (1989) and Rosen (1996), among others) that this construction exhibits island sensitivity, a typical property of movement, as shown below: (6) (7) (8) Watasi-wa [John-ga e sono hon-o kureta to] itta, watasi-no musume-ni. I -Top -Nom that book-Acc gave Comp said I -Gen daughter-Dat ‘I said that John gave that book to my daughter.’ ?*Watasi-wa [John-ga e kureta] hon-o yondesimatta, watasi-no musume-ni. I -Top -Nom gave book-Acc have-read I -Gen daughter-Dat ‘I have read the book John gave to my daughter.’ ?*Watasi-wa [John-ga e tabeta node] kare-no hahaoya-o sikarituketa, keeki-o. I -Top -Nom ate because he -Gen mother -Acc scolded cake -Acc ‘Because John ate cake, I scolded his mother. The grammaticality of (6) shows that the JRD construction is not clause-bound. (7) shows that this construction is sensitive to the relative clause island, and (8) shows that it is sensitive to the adjunct island. In what follows, we will consider three types of analysis for the JRD construction that can capture the island effects observed above. The first type of analysis is that of Haraguchi’s (1973), according to which the JRD construction is derived from a head-final underlying structure by applying rightward movement to a constituent so as to put it postverbally, as schematized below: (9) a. S O V 56 On Directionality of Movement: A Case of Japanese Right Dislocation b. [S t V] O (rightward movement of O) Since we have seen Saito’s (1985) argument that the JRD does not involve rightward scrambling, it will be more plausible for this analysis to assume that the rightward movement in question is some kind of operator movement. The second type of analysis may be called the double-preposing analysis, according to which the JRD construction will be derived in the following way: (10) a. b. c. SVO O [VP S t V] [VP S tO V] O tVP (leftward movement of O) (VP-preposing) Note that in this derivation, the trace of the object is unbound, thus inducing an apparent violation of the Proper Binding Condition (PBC). According to Müller’s (1993) generalization, however, PBC effects arise only when the antecedent of an unbound trace undergoes the same type of movement as that of a phrase dominating that unbound trace. Thus, if VP-preposing is a kind of movement different in the sense relevant to the PBC from the leftward movement of the object in (10), then an unbound trace within a preposed VP is not illegitimate. Given that the object is most likely to undergo an operator movement, as assumed in the above rightward movement analysis, let us suppose that VP-preposing undergoes scrambling, which is, according to Müller’s generalization, taken to belong to a type of movement different from operator movement. The third analysis, which I would like to support here, is an ellipsis analysis according to which (1b) is analyzed as follows: (11) a. b. John-wa eci hihansita, Maryi-o [John-wa ti hihansita] John-wa eci hihansita, Maryi-o [ e ] (leftward movement of O) (deletion under identity) In this derivation, Mary-o is preposed to the top of the second clause and then the rest of this clause is deleted under identity with the first clause. This analysis may be regarded as a plausible instantiation of Kuno’s (1978, 61-2) claim that the JRD construction involves “a process that adds afterthoughts to the end of a sentence.” In this sense, it is misleading to regard the relation of the two clauses in (11) as that of conjunction, since these two clauses just repeat the same proposition. Thus, it is more appropriate to regard the relation of them as that of clause-repetition. Let us further assume, with the other two analyses mentioned above, that the preposed phrase in the second clause has undergone operator movement. In what follows, we will consider two kinds of phenomena in the JRD construction: (i) quantifier scope interaction, (ii) island effects. It will be shown in Section 3 that the rightward movement analysis cannot account properly for the first phenomena. In Section 4, we will see that island effects hold even if resumptive pronouns are inserted in JRD constructions and that this phenomenon can be properly dealt with only under the ellipsis analysis. 3. Quantifier Scope Interaction: Counterevidence to the Rightward Movement Analysis Kural (1997) argues for the rightward movement analysis of the Turkish counterpart of the JRD construction illustrated in (1b). His arguments are based upon the facts about quantifier scope interaction, which show that postverbal constituents are higher than preverbal ones in Turkish. He, then, claims that these facts indicate that the asymmetrical structure theory proposed by Kayne (1994) cannot be maintained as it stands and hence that this theory must be weakened in such a way that it allows some languages such as Turkish to be underlyingly head-final and also allows rightward movement to a structurally higher position. It is not immediately clear, however, whether these Turkish facts are compatible only with the rightward movement analysis. It is likely that the other two analyses can also accommodate them. In particular, these facts are also expected under the ellipsis analysis, since according to this analysis, seemingly postverbal constituents undergo leftward movement to the top of the second clause, as schematized in (11), hence structurally higher than preverbal constituents. The Japanese facts with respect to quantifier scope interaction show a more complicated pattern. Kuroda (1971) observes that the surface order of quantifier phrases (QPs) affects their scope order in Japanese. Compare the following examples: (12) a. b. Sannin-no otoko-ga hutari-no onna-o kinoo tazuneta. three -Gen man -Nom two -Gen woman-Acc yesterday visited ‘Three men visited two women yesterday.’ Hutari-no onna-oi sannin-no otoko-ga ti kinoo tazuneta. two -Gen woman-Acc three -Gen man -Nom yesterday visited (3>2) 57 Jun Abe ‘Two women, three men visited yesterday.’ (3><2) In (12a), sannin-no otoko ‘three men’ takes scope over hutari-no onna ‘two women’, whereas in (12b), either QP can take scope over the other. This shows that a QP that undergoes scrambling, crossing another QP, makes the scope order ambiguous. Let us describe these facts in terms of such interpretive rules as follows: (13) a. b. [ ... Q1 ... Q2 ] -> Q1 > Q2 [ ... Q1 ... Q2 ... t1 ] -> Q1 >< Q2 where Q1 c-commands Q2 and Q2 c-commands t1 and order is irrelevant. The same pattern of facts are also observed with the IO-DO and DO-IO orders (cf. Hoji (1985)): (14) a. b. John-ga sannin-no otoko-ni hutari-no onna-o syookaisita. -Nom three -Gen man -Dat two -Gen woman-Acc introduced ‘John introduced two women to three men.’ John-ga hutari-no onna-oi sannin-no otoko-ni ti syookaisita. -Nom two -Gen woman-Acc three -Gen man -Dat introduced (3>2) (3><2) With the assumption that the IO-DO order reflects the underlying word order, these facts follow from the interpretive rules given in (13): since (14a) reflects the underlying order and hence does not involve any movement, sannin-no otoko ‘three men’ takes scope over hutari-no onna ‘two women’ according to (13a), whereas in (14b), hutari-no onna-o crosses sannin-no otoko by scrambling, and hence the sentence becomes ambiguous according to (13b). With this background in mind, let us see how quantifiers interact in the JRD construction. Consider the following pair of sentences: (15) a. b. Sannin-no otoko-ga ei kinoo tazuneta, hutari-no onna-oi. three -Gen man -Nom yesterday visited two -Gen woman-Acc ‘Three men visited two women yesterday.’ ei Hutari-no onna-o kinoo tazuneta, sannin-no otoko-gai. two -Gen woman-Acc yesterday visited three -Gen man -Nom ‘Three men visited two women yesterday.’ (3><2) (3><2) (15a) is derived from (12a) by putting the object hutari-no onna-o ‘two women’ postverbally, while (15b) is derived from (12a) by putting the subject sannin-no otoko-ga ‘three men’ postverbally. The scope ambiguity observed in (15a) is straightforwardly accounted for by the interpretive rules given in (13), no matter whether we take the rightward movement analysis or the ellipsis analysis. (15a) has the following schematic structures under these analyses: (16) a. b. Rightward Movement Analysis: [[three men ... ti ... ] two womeni] Ellipsis Analysis: [ ... ], [two womeni [three men ... ti ... ]] Either structure instantiates case (13b), thereby inducing a scope ambiguity. On the other hand, it is not immediately clear why (15b) is ambiguous with respect to scope interaction, in particular, why it has the reading of 2>3. The same situation emerges with the scope interaction between IO and DO, as illustrated below: (17) a. b. John-ga sannin-no otoko-ni ei syookaisita, hutari-no onna-oi. -Nom three -Gen man -Dat introduced two -Gen woman-Acc ‘John introduced two women to three men.’ John-ga ei hutari-no onna-o syookaisita, sannin-no otoko-nii. -Nom two -Gen woman-Acc introduced three -Gen man -Dat ‘John introduced two women to three men.’ (3><2) (3><2) In (17a), the underlyingly lower DO is put postverbally whereas in (17b), the underlyingly higher IO is put postverbally. Again, the question is why (17b) has the reading of 2>3. There is a natural way of offering appropriate structures for representing the scope ambiguity observed in (15b) and (17b) under the ellipsis analysis, but such structures are unavailable to the rightward movement 58 On Directionality of Movement: A Case of Japanese Right Dislocation analysis. I propose that the reason why these sentences have the reading of 2>3 is that the direct object hutari-no onna-o can serve as the topic of the second clause. Thus, these sentences can have the following structures under the ellipsis analysis: (18) a. b. [ecj hutari-no onnai-o kinoo tazuneta], [^topic(i) [sannin-no otoko-gaj [tj eci kinoo tazuneta]]] [John-ga ec j hutari-no onnai-o syookaisita], [^ topic(i) [sannin-no otoko-ni j [John-ga t j ec i syookaisita]]] In each of these representations, the zero topic refers to hutari-no onna ‘two women’ and it binds the null object in the second clause. (15b) and (17b) are derived from these representations by deleting the content inside the most inner brackets in the second clause under identity. The plausibility of this analysis is confirmed by the following examples, in which the zero topics are replaced by overt ones: (19) a. b. ?Hutari-no onnai-o kinoo tazuneta, hutari-no onnai-wa two -Gen woman-Acc yesterday visited two -Gen woman-Top sannin-no otoko-ga (kinoo tazuneta). three -Gen man -Nom yesterday visited syookaisita, hutari-no onnai-wa ?John-ga hutari-no onnai-o -Nom two -Gen woman-Acc introduced two -Gen woman-Top (John-ga) sannin-no otoko-ni (syookaisita). -Nom three -Gen man -Dat introduced These sentences are awkward due to repetition of phrases and yet are still acceptable. Given that the second clause of each sentence in (19) has the reading of 2>3 (and in fact this is the only reading available to it), it will follow that the representations for the second clauses in (18) also represent the reading of 2>3. This is exactly what we expect with the interpretive rules given in (13), if we assume that zero topics are basegenerated at the top of sentences, in which case the second clauses under consideration are all regarded as cases of (13a). The other reading available to (15b) and (17b), namely the reading of 3>2, is then derived from the representation that does not involve a zero topic.2 4. Island Effects and Resumptive Pronouns We have seen in Section 2 that JRD constructions exhibit island effects (cf. (6)-(8)). Interestingly, Cecchetto (1999) observes that these effects still hold even if resumptive pronouns are inserted into alleged gaps. Consider the following examples: (20) (21) (22) Watasi-wa [John-ga (kanozyo-ni) sono hon-o kureta to] itta, I -Top -Nom her -Dat that book-Acc gave Comp said watasi-no musume-ni. I -Gen daughter-Dat ‘I said that John gave that book to my daughter.’ ?*Watasi-wa [John-ga (kanozyo-ni) kureta] hon-o yondesimatta, I -Top -Nom her -Dat gave book-Acc have-read watasi-no musume-ni. I -Gen daughter-Dat ‘I have read the book John gave to my daughter.’ ?*Watasi-wa [John-ga (kanozyo-o) nagutta node] kare-no I -Top -Nom her -Acc hit because he -Gen hahaoya-o sikarituketa, watasi-no musume-o. mother -Acc scolded I -Gen daughter-Acc ‘Because John hit my daughter, I scolded his mother.’ It is usually assumed that if an operator and its underlying position make a chain by movement, then replacement of the gap by a resumptive pronoun makes the chain free from island effects. This is quite often illustrated by the resumptive pronoun strategy for English wh-question formation across islands, as shown below (the examples are taken from Chomsky (1982, 11)): (23) a. b. the man whoi they think that if Mary marries *(himi), then everyone will be happy. I wonder whoi they think that if Mary marries *(himi), then everyone will be happy. According to the standard account, when the resumptive pronoun him appears as the variable of who in these examples, who is base-generated in the Spec-CP position and creates a wh-operator-variable chain without Jun Abe 59 recourse to movement, thereby circumventing any island violation. If this is correct, it will be a total mystery under either the rightward movement analysis or the double-preposing analysis why islands effects do not disappear when resumptive pronouns are inserted into the gap positions in JRD constructions. Under the ellipsis analysis, on the other hand, we can offer a rather straightforward account for this fact. Let us consider what kind of structure is assigned to the examples given in (20)-(22) under this analysis. Suppose that these examples have the following schematic structure: (24) [ ... kanozyo-ni/oi ...] [watasi-no musume-ni/oi [ ... ti ... ]] In this structure, movement takes place in the second clause irrespective of whether a resumptive pronoun is inserted into the alleged gap in the first conjunct or not. If this is a right structure for the examples in question, it follows that island effects do not go away even if resumptive pronouns are inserted in JRD constructions. Note that what enables us to give a straightforward account under the ellipsis analysis is the fact that only this analysis assumes a complex clausal structure, so that what happens in the first clause can be independent of the effects observed in the second clause. A question immediately arises as to what guarantees that watasi-no musume-ni/o involves movement in the second clause in (24). If it were possible that the resumptive pronoun strategy could be involved in the second clause, then we would lose our account for the island effects observed in (20)-(22). Saito (1985) notes that scrambling does not allow resumptive pronouns. Let us consider the following examples: (25) a. b. *Mary-oi John-ga [pro kanozyo-oi nagutta to] itta. -Acc -Nom her -Acc hit Comp said ‘Mary, John said that he hit her.’ ?Maryi-wa/-saemo John-ga [pro kanozyoi-o nagutta to] itta. -Top/-even (25a) is supposed to illustrate the fact that scrambling of Mary does not allow the resumptive pronoun kanozyo-o to be inserted into its trace position. It contrasts with (25b), where Mary is attached to by a topic marker -wa or the particle -saemo ‘even’ rather than the accusative case marker. This is supposed to show that unlike scrambling, topicalization or focalization allows resumptive pronouns. Though the crucial question to be asked here is why this distinction holds true, I do not have any deep explanation for this. Nonetheless, let us hypothesize that the restriction in question is not imposed upon scrambling per se but rather is imposed upon chain formation with the overtly case-marked head of a chain, as stated below: (26) In a chain CH, a resumptive pronoun is disallowed as a member of CH when its head exhibits an overt case marker. Given this condition, a resumptive pronoun cannot appear as the variable of the operator watasi-no musumeni/o in the second clause of (24). This guarantees that the only possible option for deriving the sentences in (20)-(22) is the one involved in movement in the second clause, as schematically shown in (24), and hence that island effects remain even if resumptive pronouns are inserted in the first clause. This leads us to an interesting prediction: if the postverbal phrases in (21) and (22) are changed into the ones bearing the topic marker -wa or the particle -saemo, the island effects should go away. The acceptability of the relevant examples strongly suggest that this prediction is borne out. Consider the following examples: (27) a. b. c. (28) a. ?*[John-ga (kanozyo-o) nagutta node] kare-no hahaoya-o -Nom her -Acc hit because he -Gen mother -Acc sikarituketa, watasi-no musume-o. scolded I -Gen daughter-Acc ‘Because John hit my daughter, (I) scolded his mother.’ ?[John-ga pro nagutta node] kare-no hahaoya-o sikarituketa, -Nom hit because he -Gen mother -Acc scolded watasi-no musume-wa/-saemo. I -Gen daughter-Top/-even ??[John-ga kanozyo-o nagutta node] kare-no hahaoya-o -Nom her -Acc hit because he -Gen mother -Acc sikarituketa, watasi-no musume-wa/-saemo. scolded I -Gen daughter-Top/-even ?*[(sore-o) azuketa] ginkoo-ga tuburete-simatta yo, musume-no it -Acc deposited bank -Nom went-bankrupt daughter-Gen 60 On Directionality of Movement: A Case of Japanese Right Dislocation b. c. 100man en-o. million yen-Acc ‘The bank in which (I) had deposited my daughter’s one million yen went bankrupt.’ ?[pro azuketa] ginkoo-ga tuburete-simmata yo, musume-no deposited bank -Nom went-bankrupt daughter-Gen 100man en-wa/-saemo. million yen-Top/-even ??[sore-o azuketa] ginkoo-ga tuburete-simmata yo, musume-no it -Acc deposited bank -Nom went-bankrupt daughter-Gen 100man en-wa/-saemo. million yen-Top/-even When the (b) examples are compared with the (a) examples above, we see that there is a dramatic improvement in acceptability when the postverbal phrases are changed into the ones bearing -wa or -saemo. The (c) examples are the same as the (b) examples except that overt resumptive pronouns are put in the first clauses. They are somehow degraded though they seem to be still better than the (a) examples. I speculate that this has something to do with some restrictions on overt pronouns used as backward reference, though I do not have any particular account to offer here. If these unclear interfering effects can be safely relocated from our main discussion, it is reasonable to conclude that the present analysis is confirmed by the fact that island effects go away when postverbal phrases bear overt markers other than case markers in JRD constructions. Notice that once condition (26) is established, both the rightward movement analysis and the doublepreposing analysis cannot account for why JRD allows resumptive pronouns. Let us consider (5), repeated here. (29) John-wa kanozyoi-o nagutta, Maryi-o. -Top her -Acc hit -Acc ‘John hit her, that is, Mary.’ Under either analysis, Mary-o and kanozyo-o must be directly linked to make a chain but this violates condition (26). Hence, (29) should be as bad as (25a), contrary to fact. Hence, if the above argument is correct, these two analyses cannot account for why JRD constructions allow resumptive pronouns. 5. Concluding Remarks I have shown that the ellipsis analysis is superior to the rightward movement analysis and the doublepreposing analysis in offering natural accounts for the following phenomena of JRD: (i) quantifier scope interaction and (ii) island effects. This established, JRD is no more a challenge to the restricted adjunction theory and the asymmetrical structure theory mentioned in Section 1. The former theory predicts that Japanese, a head-final language, never allows rightward adjunction, and the latter predicts that rightward adjunction is universally prohibited. The ellipsis analysis of JRD is compatible to both theories, since the direction of adjunction involved in this analysis is always leftward. We may make an even stronger claim by considering how Japanese children know the structure of JRD. That the rightward movement analysis is untenable for JRD suggests that this option is not available to Japanese children. This will be unexpected if the direction of adjunction is restricted in no way in UG. Thus, it may be claimed that what we found out in this paper lends support to either the restricted adjunction theory or the asymmetrical structure theory. What about the double-preposing analysis? If this option were available to Japanese children, nothing would prevent them from adopting this analysis for JRD. Again, that this analysis is untenable for JRD suggests that it is unavailable to Japanese children. Recall that Müller’s (1993) generalization about the PBC forces us to assume that two preposing operations that are involved in deriving a JRD construction must be different in nature. I suggest in Section 2 that the second application of preposing is an instance of VP-scrambling. I speculate that this option is not available in UG at all or at least in Japanese for some reason. It is beyond the scope of this paper to pursue this matter further here, but our findings about the structure of JRD suggest that something like this must be correct. Our conclusion that the ellipsis analysis is the right one for JRD indicates that the option of ellipsis is available to Japanese children. This is supported by the existence of other ellipsis constructions in Japanese. For instance, Abe and Hoshi (1997) argue that the following example is an instance of Japanese gapping: (30) John-ga Mary-ni, sosite Bill-ga Susan-ni kinoo atta. -Nom -Dat and -Nom -Dat yesterday saw ‘John saw Mary, Bill Susan.’ Jun Abe 61 It is quite likely that since the option of ellipsis is universally available, Japanese children can assign the correct structure to JRD and Japanese gapping without any instructions. Notes 1 2 In what follows, phrases put postverbally will be italicized in English translations unless they are clearly indicated in translations themselves. One may wonder if the double-preposing analysis can accommodate the facts of scope ambiguity observed in (15b) and (17b). Under this analysis, (15b), for instance, will have the following structure: (i) [VP ti hutari-no onna-o kinoo tazuneta]j [sannin-no otoko-gai tj] Note that in this structure, neither hutari-no onna ‘two women’ nor sannin-no otoko ‘three men’ c-commands the other and hence the interpretive rules given in (13) have nothing to say about this structure. One may add the following rule to (13) in order to account for the scope ambiguity of (i): (ii) Q1><Q2 when these quantifiers take the same scope domain and either QP does not c-command the other. It remains to be seen whether this rule captures a correct generalization. References Abe, Jun and Hiroto Hoshi (1997) “Gapping and P-Stranding,” Journal of East Asian Linguistics 6, 101-136. 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In this respect, his restricted theory of phrase structure provides a new theoretical basis for the typological study of “basic” word order and its correlates. A theoretical possibility predicted by this theory of phrase structure is that there is a deeper explanation of the connection between “basic” word order and its putative correlates. Taking this particular view of phrase structure as our starting point, this paper investigates so-called anti-ECP effects observed in verb initial languages. The goal of the paper is to argue that the effects reflect the nature of the cyclic computation, showing how the antisymmetric approach fits into the current version of Minimalist Program. More specifically, we start by asking whether anti-ECP effects can be regarded as a correlate of verb initial order in an abstract sense.3 We point out that although Kayne’s proposal provides important theoretical insights to account for anti-ECP effects, it cannot capture the whole phenomena; and then we offer a phase-based account of the anti-ECP effects, arguing that basic insights of the antisymmetric approach should be incorporated into the current version of Minimalist Program without any substantive modification. Anti-ECP Effects in Malagasy In this section we discuss anti-ECP effects in Malagasy. Malagasy is a VOS language as shown in (1): (1) Manasa ny lamba amin’ ny savony ny reny.4 (Sabel 2002) Pres-AT-wash the clothes with the soap the mother-Nom ‘The mother washes the clothes with the soap’ Wh-movement in Malagasy exhibits curious extraction asymmetries, termed anti-ECP effects. Subjects are more extractable than objects, and even adjuncts are more extractable than objects. The relevant examples are given in (2). (2) a. Subject Extraction [CP Iza no [IP manasa ny lamba amin’ ny savony t]]? who Foc. Pres-AT-wash the clothes with the soap ‘Who washes the clothes with the soap?’ (Sabel 2002) Nobuhiro Miyoshi 63 b. Object Extraction *[CP Inona no [IP manasa t amin’ ny savony ny reny]]? what Foc. Pres-AT-wash with the soap the mother ‘What does the mother wash with the soap?’ c. Adjunct extraction<where> [CP Aiza no [IP manasa ny lamba amin’ ny savony ny reny]]? where Foc. IP Pres-AT-wash the clothes with the soap the mother ‘where does the mother wash the cloth’ d. Adjunct extraction< why> [CP Nahoana no [IP nanasa ny lamba amin’ ny savony ny reny]]? why Foc. Past-AT-wash the clothes with the soap the mother ‘Why did the mother wash the clothes with soap?’ The phenomena have been given no principled account under the standard ECP-based approach, because the pattern predicted by the ECP is exactly the opposite: objects are the most extractable, since objects are always properly governed in the standard formulation of the ECP. The core cases are given below: <ECP effects> (3) English <subject/object asymmetry> a. *Who do you think [CP that t bought that book]? b. What do you think [CP that John bought t]? (4) English <argument/adjunct asymmetry> a. ?? what do you wonder [CP whether John bought t]? b. *Why do you wonder [CP whether John bought that book t] In this paper, addressing the issue of whether anti-ECP effects can be regarded as a correlate of verb initial order, we offer an account of anti ECP effects within the current version of Minimalist Program, claiming that these effects reflect cyclic nature of linguistic computation. 3. An LCA-based Account Before going into the analysis of the anti-ECP effects, we need to discuss the derivation of VOS order of Malagasy. If the antisymmetric project is on the right track, the basic word order of Malagasy (VOS) must be derived from the underlying SVO in one way or anther. There are two possibilities. One possibility, proposed in Pensalfini (1995), is that the derivation of VOS order involves V-raising. The other possibility, proposed in Pearson (2001) and Whiteman (2002), is that the derivation involves VP-raising. Observe (5): (5) a. [Misotro toaka] sy [mihinam-bary] Rakoto [NomP.drink rum ]and [NomP.eat-rice] Rakoto “Rakoto is drinking rum and eating rice” b. [Henon-dRabe] sy [nojeren-dRajaona] ny mpihira gasy [heard-Rabe] and [Pst-AccP.watch-Rajaona] Det folksinger “The folksinger, Rabe heard (him) and Rajaona watched (him)” These examples indicate that VP-coordination is possible in Malagasy, suggesting that a verb and its object form a syntactic unit in this language. Under the V-raising approach, the grammaticality of the sentences in (5) is hard to predict, because the approach does not predict that the verb and its object form a constituent. On the other hand, the VP-raising approach correctly predicts the grammaticality of the sentences in question. Taking (5) as evidence in favor of the VP raising approach, we conclude that the derivation of VOS order in Malagasy 64 Anti-ECP Effects, Antisymmetry and the Cyclic Computation involves VP-raising.v Let us turn to the anti-ECP effects. Given the VP-raising approach, suppose that (6) illustrates the relevant structure of Malagasy. (6) XP VP V X’ OBJ Adjunct vP SUB v’ v VP | t In (6), Adjunct and SUB, but not OBJ can be extracted since OBJ is contained in the moved category (= VP). We claim that the anti-ECP effects in Malagasy can be regarded as a violation of the Freezing Principle.6 The present approach has an empirical advantage. In several previous studies, it has been argued that the subject occupies the right specifier position of IP and it is a potential landing site for wh-movement of the object. Under such an analysis, the anti-ECP effects can be reduced to Relativized Minimality effects. For example (2b) is ruled out because the wh-object and the subject compete for the spec of IP. (cf. Guilfoyle, Hung, & Travis (1992) and MacLaughlin (1995)). It is true that such a proposal is theoretically attractive, but there is a potential problem. Now consider (7): (7) a. Nividy ny vary taiza Rabe? (wh-insitu) Past-AT-buy the rice Past-where R. ‘Where did Rabe buy the rice?’ b. Taiza no nividy ny vary Rabe? (wh-movement) Past-where Foc Past-AT-buy the rice Rabe ‘Where did Rabe buy the rice?’ Referential wh-adjuncts can remain in situ in Malagasy as shown in (7a); (7b) is an example of wh-movement of taiza (= where).7 If taiza in (7a) remains in its base-generated position, a question arises as to why (7b) is acceptable. In other words, if the subject occupies the spec of IP and that position is a potential landing site for moment of taiza, (7b) would be ruled out as a violation of Relativized Minimality, because it has to skip its potential landing site, the spec of IP. The relevant portion of the derivation is illustrated in (8). Nobuhiro Miyoshi 65 (8) CP C’ C IP I’ Rabe I’ I where VP V ? the rice On the other hand, the problem never arises in our analysis, because we assume that there are no right specifiers and the base generate position of adjuncts are higher than the position of the surface subject. 4. Tagalog In the previous section, we offer an account of the anti-ECP effects in Malagasy, showing that they can be regarded as a correlate of VOS word order: the anti-ECP effects in Malagasy follow from the interaction between the VOS structure derived by VP movement and the Freezing Principle. The next question is whether the account proposed in the previous section can be extended to other languages. In this section, we discuss anti-ECP effects in Tagalog, arguing that a purely structural account does not go through. Tagalog, which is a VSO language, also shows so-called anti-ECP effects, as shown in (9): (9) a. Subject Extraction8 Sino ang b-um-ili ng damit? who ANG bought(AT) INH-dress ‘Who is the one that bought the dress?’ b. Object Extraction *Ano ang b-um-ili si Juan? what ANG bought(AT) ABS-Juan (‘What is the thing that Juan bought?’) c. Adjunct Extraction Saan b-um-ili si Juan ng damit? where bought(AT) ABS-Juan INH-dress ‘Where did Juan buy a dress?’ On the face of these examples, one might think that the proposed account ought to be able to capture the effects in Tagalog as well, because (2) and (9) show the same pattern with respect to extraction of wh-phrases. However, this is not possible. Observe (10): (10) Absence of anti-ECP effects in recent pasti9 66 Anti-ECP Effects, Antisymmetry and the Cyclic Computation a. Subject Extraction Sino ang kabibili lang ng tela? who ANG buy(RP) just INH-cloth ‘Who is the one that has just bought some cloth?’ b. Object Extraction Ano ang kabibili lang ni Juan? what ANG buy(PR) just ERG-Juan ‘What is the thing that Juan has just bought? In (10), anti-ECP effects are absent in recent past tense in Tagalog. Recall that the account offered in section 3 essentially claims that the nature of the anti-ECP effects in Malagasy reflects structural properties of this language. But the facts in (10) suggest that such a purely structural account cannot accommodate the anti-ECP effects in Tagalog, since there is no principled way to describe the aspectual differences in the account. To sum up so far, anti-ECP effects apparently come from two different sources. The antisymmetric approach does not predict the whole phenomena. It only predicts the anti-ECP effects of the Malagasy type. In the next section, we suggest that the two types of anti-ECP effects are not totally different, in the sense that they reflect a certain property of the computational system. 5. The Cyclic Computation The goal of this section is to show that the anti-ECP effects reflect the nature of the phasebased computation, showing that basic insights of the antisymmetric approach fit into this particular view of the computational system. Chomsky (2000, 2001) introduces the notion of “phase of derivation,” putting forth the view that the computational system is strictly local in the sense that neither “looking ahead” nor “back tracking” is allowed. This strict local model of the computational system is built on the following two conditions: (11) The head of a phase “inert” after the phase is completed, triggering no further operations (cf. Chomsky 2000; 107) (12) The Phase Impenetrability Condition (= PIC): in phase α with head H, the domain of H is not accessible to operations outside α, only H and its edge are accessible to such operations From the interaction of these conditions, it follows that a phase constitutes a closed syntactic unit in that derivations proceed phase by phase. The PIC in (12) forces movement to be edge-to-edge, deriving the successive cyclic nature of movement. Consider (13): (13) a. b. YP = phase XP ZP = phase Y’ XP Z’ ⇒ Y t (copy of XP) [P-feature] Z YP = phase t Y’ Y t Nobuhiro Miyoshi 67 Suppose that YP and ZP are phases and suppose further that XP has to move out of YP. Given the PIC, XP must move to the edge of YP before the phase YP is completed and this movement is motivated by a P-feature of the head Y (cf. Chomsky (2000)). Notice that the presence of a Pfeature in the head of a phase is indispensable for legitimate successive cyclic movement. Given this system, let us consider another logical possibility shown in (14), which is minimally different from (13) in that the lower phase head Y has no P-feature.: (14) * ZP = phase edge Z’ Z YP = phase Y [no P-feature] XP In this configuration, XP cannot move out of YP. The reason is as follows. In order to move out of YP, it must move to the edge of YP. But this movement is not allowed because it is not motivated by any feature checking requirement. So the movement does not satisfy the Last Resort requirement on movement. Our claim is that the derivation illustrated in (14) abstractly indicates what happens in the anti-ECP effects in Tagalog (cf. (9)). The relevant configuration is given below. (15) XP edge X’ X’ X YP (Aspect) = phase Y Wh OBJ Given the system, the difference between (9b) and (10b) will be whether the relevant phase head, which is presumably the head of Aspect Phrase, has a P-feature or not. In (10b), it has a Pfeature while in (9b), it does not. Of course, further empirical investigation is required, but note that our claim is not incompatible with Travis’ (1991) conclusion that the spec of Aspect Phrase is the landing site for shifted objects in Tagalog. In the rest of this section, we show that the anti-ECP effects of the Malagasy type also reflect the cyclic nature of the computational system, arguing that the effects of the Freezing Principle follow from the PIC. Consider (16): 68 Anti-ECP Effects, Antisymmetry and the Cyclic Computation (16) YP = phase edge Y’ Y XP = phase ZP=edge α X’ X … Suppose that in (16) XP is a phase and ZP is the edge of X. The claim is that the element α cannot be extracted out of the phase XP. The PIC forces α to move to the edge of XP in order to move out of this phase. However, this is not possible. Given that the movement of α to the edge of XP must be motivated by a P-feature of X, α cannot move to the edge of XP, because it is not in the search domain of X. Therefore it follows that no element embedded inside the edge can be extracted. On the assumption that the landing site for VP-raising in Malagasy is the edge of some phase, presumably the edge of Topic Phrase, we claim that anti-ECP effects in Malagasy also reflect the nature of the phase-based computation.10 6. Summary Taking Kayne (1994) as our starting point, we have conducted on a study of the anti-ECP effects. We have claimed that both types of the effects reflect the nature of the cyclic computation, and offered a phase-based account. If our argument is on the right track, it supports the current version of Minimalist Program, since we have argued that the framework accommodates the phenomenon that was problem with any GB-based approaches. We have also shown that the basic insights of the antisymmetric approach to the anti-ECP effects in Malagasy can be incorporated into the proposed analysis, so Kayne’s theoretical claim that phrase structure always determines word order should also be supported. Notes 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 See Chomsky (1994), Takano (1994), and Fukui and Takano (1998) for other order-free frameworks. For arguments for directionality in the computational system, see Fukui (1993) and Saito and Fukui (1998). As Chris Collins pointed out, Kayne’s (1994) formulation of LCA is not unproblematic in that it needs to refer to the notion “precedence”. I put aside this technical problem through out this paper. See Chomsky (1995) for the relevant discussion. The phenomenon was captured by the accessibility hierarchy in the sense of Keenan (1976)and Keenan and Comrie (1977). AT = Agent Topic See Pearson (2001) for further arguments for the VP-raising approach. To my knowledge, the original idea should be credited to John Whiteman. He briefly mentioned this possibility at the beginning of his talk at MIT. Here I develop his basic insights. Wh in situ is not always possible in Malagasy. For restrictions on wh in situ, see Sabel (2002). ABS = Absolutive Case, INH = Inherent Case ERG = Ergative Case The analysis might be able to extend to CED effects in the sense of Huang (1982) if adjuncts are always in the edge of some phase. Nobuhiro Miyoshi 69 References: Chomsky, N. (1994) Bare Phrase Structure. MIT Occasional Papers in Linguistics 5. Chomsky, N. (1995) The Minimalist Program. MIT Press, Cambridge. Chomsky. N. (2000) Minimalist Inquiries. In R. Martin, D. Michaels, J. Uriagereka (eds.) Step by step: Essays on Minimalist Syntax in Honor of Howard Lasnik, pp. 85-155. MIT Press, Cambridge, MA. Chomsky. N. (2001) Derivation by Phase. In Kenstowicz (ed.) Ken Hale: A Life in Language. pp. 1-52. MIT Press, Cambridge, MA. Culicover. P and K.Wexler (1977) Some Syntactic Implications of a Theory of Language Learnability. In Wasow, T and A. Akmajian (eds.) Formal Synta, pp.7-61 Academic Press, New York. Fukui, N. (1993) Parameters and Optionality. Linguistic Inquiry 24: 399-420. Fukui, N. and Y. Takano (1998) Symmetry in Syntax: Merge and DeMerge. Journal of East Asian Linguistics 7: 27-86. Guilfoyle, E., H. Hung and L. Travis (1992) Spec of IP and Spec of VP: Two Subjects in Austronesian Languages. NLLT 10: 375-414. Huang J. (1982) Logical Relations in Chinese & Theory of Grammar Ph.D. dissertation, MIT. Kayne, R. (1994) The Antisymmetry of Syntax. MIT Press, Cambridge. 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Proceedings of the 58th Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) The Prelude の ‘one life’ に関する考察 江口 真理 ワーズワス(W. Wordsworth)の自叙伝的作品『序曲』(The Prelude, or Growth of a Poet’s Mind)の原 形は, 「コールリッジに贈る歌」として 1799 年に完成した The Two-Part Prelude である.これは, The Prelude の Book I と Book II にあたり,後に加筆され 1805 年ごろに全 13 巻として完結した ものが今日の『序曲』(The Prelude) の初稿である.ワーズワスはその後 70 歳になる頃まで推敲 を重ね, 『序曲』(The Prelude) には,Ernest de Selincourt が A・B・C・D・E に分類整理した 5 種類の 完全原稿のほかに,13 種類の部分原稿が今日残されている.しかしながら,出版そのものは 1850 年にワーズワスがその生涯を閉じてから,最終的な原稿(D・E)にもとづき初版本が出版され た.初稿のあいまいな表現が,初版では明確な考えを打ち出した的確な表現に書き改められてい る個所は随所に見られるが,特に注目すべきところは,汎神論的宇宙観を表明している個所が, 後に正統のキリスト教思想に抵触しないように書き改められている点である.具体的には 1799 年版第 2 部と 1805 年版 Book II の 430 行目にある‘one life’が,1850 年版において削除されてい る点である.ここでは,この‘one life’という言葉に焦点をあて,それが表出してくる思想の背景 としてコールリッジの影響もさることながら,ケンブリッジ・プラトニストによる影響の可能性 を探りたい.啓蒙主義や自然科学の進歩,それに伴う産業革命といったものから生み出される初 期のワーズワス的自然観形成の出発点の一つが,このケンブリッジ・プラトニストにあると考え られるからである.さらには,‘one life’との関連で,人間が自然界に属し,自然の中で自己を見 出すというプロト・エコロジストとしてのワーズワスの現代的位置付けをみていきたい. さて,自然科学の進歩は,神について,あるいは自然についての観念を,常に変容させてきた. 目の前にある物質としての自然は不動のものだが,これまでに人間はそれを様々に解釈してきた. この自然観の変化を考える場合,ワーズワスに限らず,諸分野において,多大な影響を与えた十 七世紀という時代を考慮に入れていく必要性がある.十七世紀は自然科学とそれまでのキリスト 教の宗教観を揺るがし,ホッブズやスピノザを経て,自由神学や理神論を生み出した.そして, その中でも,この十七世紀におけるケンブリッジ・プラトニストたちの自由宗教が,近代精神の 概念と構造に関わる諸問題を提示し,ひいてはワーズワス的自然観を形成する一助となっている と考えられる.例えば Beach はワーズワスの「空にあり大地にある自然の霊」(The Prelude, I, 490-491) がカドワース(Ralph Cudworth),ヘンリー・モア,バークレイ,シェリングらの流れを汲 むものであることを指摘し,宇宙の物質を絶えず再生し状態を保っていく原動力について,ニュ ートンによる「能動的原理」(active principle)1 をあげ,以下に引用する『序曲』(The Prelude) の 一節の中に万物を動かす力を見ている.2 宇宙の叡智,その霊よ. 永遠の思想なる魂よ. 江口 71 真理 世界の事物と形象とに息吹を与え, やむことなき動きを与える. (The Prelude (1805), I, 428-431) そもそも神学の始まりは,神の啓示や救済神への信仰と人間の知性との妥協点を見出すことに あった.中でも歴史上宇宙観の変化ほど,キリスト教教義の修正を迫るものはなかったであろ う.キリスト教教義と結びついて権威をもっていた天動説から地動説への発想の転換は,その 最たるものであり,これに続くニュートンの万有引力の法則の発見,ダーウィンの進化論など がキリスト教教義に修正を余儀なくしている. もともと自然の科学的探求は,神の賛美につながることであった.近代科学の基礎をきづいた 十七世紀の科学者たちは,おおかた個人の興味から探求を行い,それは同時に創造主たる神の 計画と意思とを自然の中に読み取る最良の方法であり,そのことが神の栄光に対する賛美につ ながると考えられていた.『黄金計量者』(Il Saggiatore, 1623)の中にある「神の言葉は聖書の中に あると等しく自然の中にも展開されているのであって,神は自らの姿を,聖書の中に顕し給う とまったく同様に,自然の中にも顕し給うのである.」というガリレオの言葉は,この時代の確 信と心情を表しているものである.このような「神の栄光」に結び付けられていた自然の探求 が,啓蒙主義により「人間の進歩」のための自然科学の探求となることにより,神への信仰と 自然探求を別の次元でとらえるようになったのである. このような啓蒙主義,科学至上主義に対し,自然のなかに合理性や秩序を見出すのではなく, 自然そのものものの美しさ,偉大さを読み取り,人間の奥深い精神に語りかけるロマン主義が 出現してくるわけだが,その理念は必ずしも科学の否定という単純なものではない.ワーズワ スは『序曲』(The Prelude)のなかで,ケンブリッジの学寮の庭にあるニュートン像の前にたたず み,その偉大さに感銘を受けたことを述懐している.3 このニュートンとケンブリッジ・プラトニ ストには,神と人間の間に介在する,何らかの神の計画や意思をうけ実行するものが存在する と考えた点で共通点を見出すことができると考えられる. ケンブリッジ・プラトニストの立場は,反カルヴィニズムと,反ホッブズ主義をかかげ,プラト ンの思想をキリスト教に結び付けて解釈することにあった.それは信仰と理性の調和,反唯物論, 反無神論を説き,宗教的寛容と信仰の自由を柱としている. 「理性にそむくことは神にそむくこと」 であり,信仰のうちにある道徳や倫理を重んじる彼らにとって,無神論者は道徳の基礎を切り崩 す社会悪と映っていた.そして彼らが最大の敵とみなしたのは,人格の尊重に関わる,理性の節 度と愛の精神からもっともかけ離れた狂信と非寛容であった.彼らは後に宗教的寛容を強調する 「自由主義者」と呼ばれ,1650 年頃にケンブリッジ全体に浸透したが,この学派を開いたウィチ カット(Whichcote or Whitchcote, Benjamin 1609-1683)の寛容主義は,ロックやシャフツベリーへと引 き継がれ,カドワースの「形成的自然」(plastic nature)4 に影響されながら自然研究を始めたジョ ン・レイや,ジョセフ・グランヴィル,ジョージ・バークリーへとその流れは続いていく. ケンブリッジ・プラトニストは,ホッブスの無神論的な唯物論や,デカルト主義者たちの機械 論的な世界観に対し,プラトンやプロティノスのイデア論や観念論を用い,その目的は,理性 の力によって神についての客観的真理を知ろうというものであった.中でもラルフ・カドワース の『宇宙の真の知的体系』(The True Intellectual System of the Universe , 1678)に現れている「形 成的自然」(plastic nature)は,天体の運行を存続させる動因としてニュートンの説にある「能動 的原理」(active principle)に近似している.両者は神と人間の間にワンクッションを置き「形成的 自然」という概念であらゆる自然の動きを説明している.この形成的自然には二種類があり, 第一は「特殊的形成的自然」と呼ばれ,動物の体の諸器官の生成の指揮をし,生命的原理とし て働く,体という統一のとれた小宇宙を形成するものである.第二は「一般的形成的自然」と 72 The Prelude の‘one life’に関する考察 呼ばれ,万物を貫いて全世界,全宇宙を形成するものである.カルヴィニズムでは神は宇宙を 創造し直接宇宙を統治すると想定されていたが,カドワースはこの形成的自然を考案し,神意 のもとに自然を統治する中間的存在を作り出したのである.カドワースはこの概念の導入で, 動物の生命活動をデカルトの機械論から取り除き,なおかつ神が直接支配する中世的宇宙観を 否定し,カルヴィニズムの予定説も退けることができたのであった.この「一般的形成的自然」 と類似しているニュートンの「能動的原理」(active principle)という言葉を,ワーズワスは次のよ うに,『逍遥』(The Excursion)の中で用いている. さすらい人が断言する. 人間の精神の崇高な王座である能動的原理が宇宙に浸透していると. 幼少時代においてはこの原理はなんと生き生きとしていることか. (The Excursion, IX, 1-3) また,カドワースはやはり『宇宙の真の知的体系』(The True Intellectual System of the Universe , 1678)の中で,すべてのものを超越する存在として「一つの始原的魂」(original mind)5 を示して いる.これは,コールリッジやワーズワスのいうところの‘one life’という汎神論的観念を生み出 す背景に結びついていると考えられる.ワーズワスはコールリッジとの交友関係において,お 互いに詩のやり取りをして作品を書いているが,『序曲』(The Prelude)の執筆には,次にあげる コールリッジの作品に対する呼応詩としての側面があった.コールリッジの The Eolian Harp に みられる‘one life’ はわれわれの内と外にある「一つの生命」だが,これはそのままワーズワス の『序曲』(The Prelude (1805), II,417-434)にみられる‘one life’と同一のものであろう. おお,我々の内と外にある一つの生命よ. それはあらゆる動きと調和し,その魂となり, 光が音に,音に似た力が光に,そして律動が あらゆる思考に調和し,歓喜がすべてに漲る. このように生命に満ちた世界において あらゆる物を愛さずにはおれないと思う. そこでは微風が歌い,静かな空気は アイオロスの琴の上で眠る音楽であるからだ. (The Eolian Harp, 26-33) そしてただこういう時に私は, 真に心の満足をおぼえたのだ.それはゆるぎない至上の幸福感をもって, 大いなる実在感が,生動する一切のもののうえに, 静止していると見える一切のもののうえに,人間の思考や 認識を超えて,はるかかなたに見失われ, 人間の目には見えないけれども,人間の こころには,はっきりと生きている一切のもののうえに, とびはね,走り,叫び,歌い,あるいは よろこびあふれる大気を打つ一切のものの上に,また波涛のしたに, そうだ,波涛そのもののなかに,また,大いなる海原の深淵に滑走する 一切のものの上に,ひろがりゆくのを実感するときに.はたして私の恍惚が 事実,そのようなものであったかどうかなどと,疑わないでくれ.というのは, いまや私は,一切の事物のうちに,一つの生命を観てとり,しかもそれが 喜びであることを実感したのだ (The Prelude (1805), II, 423-431) この ‘one life’は汎神論的であるが,ワーズワスはそれを‘God’と呼んで,神的な存在として説明 しようとしている個所もある. だが,それ以上に,もっとしばしば,この泉から私は引き出していたのだ, さらに,さらに深く沈潜するこころのよろこびを, 江口 73 真理 恒常的で普遍的な運動に対する,ある静かな感覚を,さらにまた あの,精神に賦与された最高のたまものとを. それは空間と時間を超え,感情のうねりにも 左右されず,神そのものであり,神の名で呼ばれる 一つの卓越した生命にふさわしい ひとつのしるしなのだ.超越的な平和と沈黙, そうしたものが,私の青年時代にしばしば心の慰めとなって, こうした瞑想を待ちうけていてくれたのだ. (The Prelude (1805), VI, 150-159) ここにおける「神」は,あらゆる存在を超えたものとしての神であるといえよう.ワーズワス の「神」はいたるところに姿を現し,「ティンターン僧院」(‘Lines Written a few miles above Tintern Abbey, on revisiting the banks of the Wye during a Tour, July 13,1798’)に見られた森羅万象の 中と人の心の中にある霊的な存在である“A Presence”6 や,『序曲』(The Prelude) のなかにみられ る “Wisdom and Spirit of the universe”「宇宙の叡智」(The Prelude(1805), I, 428)や “eternity of thought”「永遠の思想なる魂」(The Prelude (1805), I, 429)といった表現で表されている.また,ワ ーズワスは,既成の概念や教義といったなにものにも惑わされない,真の理性や不屈の精神, 真理といったものが,自然との交流により見出だされるという姿勢を随所で表明している.次 の 2 箇所は特にそのことを示しているのでここに引用する. この不安な時代において, この憂欝な失望の荒野の中にあって, この無関心と無感覚の歪んだ歓喜の中で, 本来善良な人がどういう訳か,至る所で 利己主義に陥り,平和とか静けさとか 家族愛といった優しい名の仮面をかぶり, 真の理想主義者を嘲笑う連中に喜んで 仲間入りする,このような荒廃と狼狽の 時代にあっても、それでもなお私は 人間の性質に絶望せず,ローマ人にも劣らぬ 不屈の信念を持ちつづけている. それはあらゆる悲しみの中でもなお 常に私の支えであり,幸せの糧である. その贈り物はまさしく汝からのもの, 汝ら山々,大自然の贈り物なのだ. 汝は私の崇高な思考を育ててくれた. だから私は,汝の中に,我々の この不安な心を静める歓喜と純な感情の 不滅の原理を見出すのだ. (The Prelude (1805), II, 478-96) ワーズワスの「この不安な時代において」という表現であるが,ワーズワスの生きた時代は実 に激動の時代であった.産業革命,フランス革命に続く経済的パニックがあり,啓蒙主義的合 理主義からドイツ的理想主義的形而上学への流れがあった.さらには,ゴドウィンの合理主義 哲学,マルサスの『人口論』による悲観的な未来への展望,そしてアダム・スミスの『国富論』 にみる自由資本主義による重商主義批判といった多くの価値観の混迷があった.人びとは指針 になるもの,目標になるものを捜し求め,あるいは失っていた.このような時代において,ワ ーズワスは惑う人びとに対して,精神的に高貴な喜びへの扉を開いているのである. 科学の心には燈がともされ, 退屈で生気のない眼が, ものに縛られ苦役に屈することもない. それはものごとの成り行きを 74 The Prelude の‘one life’に関する考察 忍耐強く眺めることを学び, 秩序と明晰のために奉仕する.しかも 科学の至高の用途,至上の役割が はるか旅ゆかんとする精神に 明らかな道を示し,欺かず支える そのことにあるのを忘れてはならない. (The Excursion, 1254-63) このように,真理の探究に対する真摯な姿勢は,ワーズワスとケンブリッジ・プラトニストに共 通して見られるものである.カッシーラ(Ernst Cassirer)は,スミス(John Smith)やウィチカットの 言葉の後に,ミルトンの『失楽園』(Paradise Lost)のなかでサタンの語る言葉, “The mind is its own place, and in itself / Can make a Heav’n of Hell, a Hell of Heav’n.”「心というものは、それ自身一 つの独自の世界なのだ./地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうるものなのだ.」(Paradise Lost, Book I, 254-5)を引用し,ケンブリッジ・プラトニストのモットーを簡潔に伝えている. 「「人がどのようにあるか,それに応じて,その人の神はある」というゲーテのこの言葉を始め て哲学的な正確さで定式化し,あらゆる方面に展開し基礎づけたのはおそらくケンブリッジ学 派であろう.」とスミスは語り,「宗教それ自体は常に同一である.しかし宗教に関する事柄は 必ずしも同一ではない.宗教的な状態(the state of religion)は善き心と善き生活にあり,その他の 一切は宗教に関する事柄である.だから人は宗教の補助的部分(the instrumental part of religion)を 宗教的な状態(the state of religion)と取り違えるべきではない.」とウィチカットは語っている.7 ワーズワスの自然探求は「不安の時代」に触発されたものではあったが,その結果彼が見出し た‘one life’は普遍的な要素を持つものであった.デカルト以降,近代科学の発展とともに,物質 と精神,あるいは自然と人間を分かつ二元論は,一方で人間の生活を便利にしてきたが,他方 で取り返しのつかない環境破壊を進めてきたという見方もある.しかしまた,人間が生態系と いう自然の中に含まれるという,自然界の仕組みを明らかにしてきたのが科学の力であったの も事実なのである.‘one life’の概念はこの二元論的対立を解消する一つの方法であり,その意味 では現代の「不安の時代」にも当然通じる普遍性を持つ. 1979 年にジェイムズ・ラブロック(James Lovelock)は「ガイア仮説」を提唱した.これは,「地 球上の生命体,空気,海洋,地表がひとつの複雑な体系を形成し,それはひとつの有機体と見 なすことができ,我々の惑星を生命に適した場に保ってくれるという仮設あるいはモデル」で ある.そしてJ・ベイトによると‘one life’はこのガイア仮説を先取りしている.ベイトは,『ロマ ン派のエコロジー』(Romantic Ecology: Wordsworth and the Environmental Tradition)の序文におい てティンターン僧院(97-103 行)を扱い,ロマン主義は「自然の普遍的権利の宣言」として生き返 り,これからの世代にとって計り知れない価値を持ち得ることを述べている.その意味で,わ れわれはエコクリティシズムの視点からイギリス・ロマン派に共通して見られる,人間が自然界 に属し,自然の営みの中で自己を見出すという,エコロジーの原点に戻る必要に迫られている. リン・ホワイト Jr.(Lynn White Jr.)が『サイエンス』(Science) 誌 1967 年 3 月号に発表した論文 は「現代の生態学的危機の歴史的根源」(The Historical Roots of Our Ecological Crisis)と題され, 環境問題の歴史的根源を最も人間中心主義的な宗教である,ユダヤ・キリスト教的世界観にある としている.旧約聖書が『創世記』の中で人間の自然に対する支配権を強調していることから, そこに見られる人間の自然に対する超越,自然に対する正統な支配という立場が,環境問題の 一部の原因となっているというものである.この人間中心主義に対する反省が環境中心主義の 出現を促し,環境保護や環境の保存という流れを作っていくことになる.これに対し,ジョン・ パスモア(John Passmore)は,1974 年の『自然に対する人間の責任』(Mans Responsibility for Nature: Ecological Problems and Western Traditions)で,キリスト教を弁護する議論を展開し,人間 江口 真理 75 は「羊飼い」として支配下にある動植物の世話をするという,人間中心的な環境保全のあり方 を示している. 環境保全の視点から見たキリスト教義の解釈は,このように否定的な立場や肯定的な立場を含 めて,さまざまな展開が可能である.その事実は同時に,人間と自然(環境)との関わり合い が,宗教の始まりにまで遡ることのできる長い歴史を持つことを教えている.このような歴史 軸で見た場合,産業革命による環境破壊から生じた十九世紀のロマン主義の自然愛は,神と自 然と人間の関わり合いに理想的な解決点を見出そうとした点において,大きな意味を持つ.「新 世界」であるアメリカにおいては,目前の荒野,原生自然は乗り越えられるべき障害であり, 征服し管理すべき開拓をする土地であったため,森林や動物の乱伐がされていった.しかし同 時に,自然の全体性,人間と自然の一体性を説く思潮は,自然を神秘主義的に捉えるロマン主 義からエマソンやソローといった超絶主義者へと引き継がれていったのである.その意味で, レイチェル・カーソン(Rachel Carson)の『沈黙の春』(Silent Spring)以来,物質的な環境破壊の危機 のみならず,人間の精神には自然が必要であるという主張は,そもそも「自然保護」という概 念の生まれた産業革命の時代の申し子であるイギリス・ロマン主義に端を発している. 自然には再生能力がある.物質的な循環,再生にととまらず,精神的な自己回復あるいは,自 己の原点に立ち返るといった視点から見ると,ワーズワスにはある種の健全さがある.“plain living, high thinking”(‘London 1802’ (Sonnet))を重んじるという姿勢は現代における社会のあり 方のひとつとして注目されるべきであろう.また「自然を師とせよ」(“Let Nature be your teacher”) (‘The Table Turned’,16)という詩句にみられる自然賛美は,書物や形式によらず,自然 と面と向かった時に得られる人間存在の原点である.そこでは「自然が伝える知識は美しい. 干渉しすぎる知性は,もののうるわしい姿を歪める.われわれは分析しようとしてものの命を 奪ってしまう.」(25-28 行)(Sweet is the lore which nature brings; / Our meddling intellect / Misshapes the beauteous forms of things; / - we murder to dissect.)と,人為的に創られた自然に対す る批判が展開されている. この「自然を師とせよ」という自然賛美には,自然と人間のネットワークの中に根源的な神を 見るというワーズワスの世界観が集約されている.すなわち,盛期のワーズワスにおける人間 存在のキーワードは,伝統的キリスト教の父と子と精霊の三位一体に対峙するものとしての, 自然と人間と神の三位一体なのである.そして,ワーズワスが捉える神とは,正統的キリスト 教における人格神ではなく,また,自然と一体の汎神論的な神でもない,一つの生命(‘one life’) として感じられる,あらゆる存在を越えた「神」といえるのではないだろうか. ワーズワスはこのような「神」を通して,時代による変化を伴う宗教の教義や科学的知識に対 し,各自が自然を介しての真理の探求,あるいは神に真正面から向き合っていこうとする姿を 常に示している.思想史を振り返ると,カッシーラが指摘したように,ケンブリッジ学派は中 世の神中心主義から近代の人間中心主義へという時代思潮転換の足がかりをつけ,その点にそ の存在意義があった.ルネッサンスと十八世紀啓蒙主義,近代への橋わたしをしたのがケンブ リッジ・プラトニストであるとするならば,「個と宇宙」の関係において,十八世紀を基点とし, 環境保護が叫ばれ始めた十九世紀そして,現在への橋わたしをしているのが,ワーズワスであ ると言えるだろう. 注 76 1 2 3 4 5 6 7 The Prelude の‘one life’に関する考察 . . . seeing therefore the variety of Motion which we find in the World is always decreasing, there is a necessity of conserving and recruiting it by active Principles, such as are the cause of Gravity, by which Planets and Comets keep their motions in the Orbs . . . . (Sir. Isaac Newton, Opticks, Query 31) . . . he had been impressed with this problem of the preservation of the original ‘quantity of matter’ in the universe, and had felt the need for an active principle (or spirit) for its solution seems to me clearly indicated in the verses quoted from the Influence of Natural Objects’: (Beach, The Concept of Nature in Nineteenth Century English Poetry, p.77). from my bedroom I in moonlight nights Could see right opposite, a few yards off, The antechapel, where the statue stood Of Newton with his prism and silent face. (The Prelude, (1805), III, 56-59) . . . ere is a plastic nature under him, which, as an inferior and subordinate instrument, doth drudgingly execute that part of his providence, which consists in the regular and orderly motion of matter; yet so as that there is also, besides this, a higher providence to be acknowledged, which, presiding over it; doth often supply the defeats of it, and sometimes overrule it; forasmuch as this plastic nature cannot act electively, nor with discretion. (Ralph Cudworth, TIS, bk 1 ch 3 sec 37.5 [vol.1, p.223-24]) . . . it is evident also, that there can be but one only original mind, or no more than one understanding Being selfexistent; all other minds whatsoever partaking of one original mind ; and being, as it were, stamped with the impression or signature of one and the same seal. From whence it cometh to pass, that all minds, in the several places and ages of the world, have ideas or notions of things exactly alike, and truths indivisibly the same. (Ralph Cudworth, TIS, bk 1 ch 5 sec 1 [vol.3, p.71]) ‘Lines written a few miles above Tintern Abbey’, 95. Ernst Cassirer, The Platonic Renaissance in England, p.32. 主な参考文献 Bate, Jonathan. Romantic Ecology: Wordworth and the Environmental Tradition. London and New York: Routledge, 1991. Beach, W.J. The Concept of Nature in Nineteenth Century English Poetry. New York: Russell and Russell, 1966. Brantley, E. Richard. Wordsworth’s “Natural Methodism”. New Haven and London: Yale Univ. Pr., 1975. Cassirer, Ernst. The Platonic Renaissance in England. trans. by James P. Pettegrove. Austin: University of Texas Press, 1953. Cudworth, Ralph. The True Intellectual System of the Universe. (3 Vols.) with a new Introduction by G.A.J. Rogers, reprint of the 1845 Edition. Bristol: Thoemmes Press, 1995. Wordsworth, William. ed. Darbishire, Helen. The Prelude, or Growth of a Poet’s Mind. Oxford: Oxford Univ. Pr.,1959. Lehmstedt, Mark. ed. Digitale Bibliothek Band 59: English and American Literature from Shakespeare to Mark Twain. Berlin: Directmedia, 2002 . Passmore, John. Mans Responsibility for Nature: Ecological Problems and Western Traditions. New York: Charles Scribner’s Sons, 1974. Willey, Basil. The Seventeenth Century Background: Studies in the Thought of the Age in Relation to Poetry and Religion. London: Chatto and Windus, 1953. 新井 明・鎌井 敏和編『信仰と理性−ケンブリッジ・プラトン学派研究序説』御茶ノ水書房,1988 年. 鬼頭 秀一『自然保護を問い直す』筑摩書房,1996 年. 桜井 邦朋『人はなぜ,夜空を見上げるのか−宇宙物理学の変遷と天才たち−』PHP 研究所,2000 年. ジョン,W. ドレイバー,平田 寛訳『宗教と科学の闘争史』社会思想社,1968 年. エルンスト・カッシーラ,三井礼子訳『英国のプラトン・ルネッサンス』工作舎,1993 年. 渡辺正雄編『イギリス文学における科学思想』研究社出版,1982 年. Proceedings of the 58th Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) スーはなぜ敗北したのか? ―『日陰者ジュード』におけるパラドックスとしての「自由」― 鈴木 淳 Ⅰ スーはなぜ敗北したのか.これまでフェミニズム批評は,その理由を社会的コードによる抑圧 としてきた.たとえば,ペニー・ブーメラはスーの母親としての役割,そしてローズマリー・モー ガンはジェンダーと父権制によるスーのセクシュアリティの否定を敗北の原因と論じた.近年も ジェイン・ウッドが,病理学的観点からスーのパッションを退廃とみなすディスコースが当時の社 会に存在したと論じている.一方では,構造主義的視点から,テス・オートゥールが,スーの抑圧 を個人の経験がアーキタイプへと押し込められることによる物語の威圧と解釈している. しかし,これらの批評史でまず私が問題にしたいのは,最終的なスーの敗北が社会的コードの 抑圧によるものだという前提である.というのも,テクストは,同時にそれに反抗する女性の姿 も提示している.実際,スーは,自由や個人主義を求め,社会秩序を虚構であると主張する.し かしまた,スーが社会に敗北するのも事実である.では,なぜスーが社会に敗北したのか.これ までの研究では,この矛盾からスーの敗北が捉えられることはなかったように思われる.したが って,本論では,まず始めに,スーがある程度まで社会に対して自由であったと仮定し,逆にそ れこそがスーを社会に敗北させた原因ではなかったかということを論じていく.つまり,そこに は,社会からの自由を渇望しながらも,実際にそれを手にすると,人間は不安や恐怖を感じると いうパラドックスがあるのだ.スーの転向は,社会の外に広がっていたカオス的世界とそれに伴 う自己存在の無意味さへの不安と恐怖の結果なのである.だから,スーは,再び自らに進んで枷 をはめ,キリスト教神話の下で安全に生きることを選択した.だが,テクストでは,結果的に, スーはその神話によっても救われず,二重に敗北する.彼女は,自然の掟に突き動かされるコン トロールできない第二の自己に苦悩するのである. 本論の最終目的は,このヴィクトリア朝社会の神話の解体こそがハーディを小説から詩へ向 かわせたということを示すことにある.というのも,その際に浮かび上がってくる「存在」と いう新たな地平は,小説の語りで捉えられるものではない.しかも,その問題を小説で追うこ と自体が袋小路であり,機械的人間という存在の不安を生み出す.だからハーディは,詩にお いて「存在とは何か」という問題を熟視しようとした.そこには,「自由意志」によって第一原 因と向かい合うことで,人間は世界を「改良」することができるというハーディの改良主義が 表明されている. Ⅱ 始めに,従来の批評の前提を覆すために,スーが社会の抑圧に対してどのような態度を取って いたかということを見ていく.出版当時から「フェミニズム運動の先駆者」1とも評されたスー 78 スーはなぜ敗北したのか?―『日陰者ジュード』におけるパラドックスとしての「自由」― は,既存の権威を批判する「新しい女」である.テクストにおいて,彼女は,社会秩序を象徴す るエルサレムの模型を虚構の産物と批判したり,『新約聖書』をバラバラにしてから組み直し, 『新・新約聖書』を作ったりする.また, 『ソロモンの雅歌』の各章に付記されたシノプシスについ ても,彼女は,宗教的権威者たちが「抽象的理念でその偉大な熱情的な歌の中にある人間の愛を 覆い隠そうとしている」(157)と非難する.スーにとっては,これらの秩序は「自然」に対する冒 涜なのである.さらに,彼女は, 「社会的鋳型」に対して個人のアイデンティティを主張する. ‘. . . the social moulds civilization fits us into have no more relation to our actual shapes than the conventional shapes of the constellations have to the real star-patterns. I am called Mrs. Richard Phillotson, living a calm wedded life with my counterpart of that name. But I am not really Mrs. Phillotson, but a woman tossed about, all alone, with aberrant passions, and unaccountable antipathies. . . .’ (JO 216) スーは,星座と実際の星の姿との関係に文明の操作を読み取り,それを自らの婚姻後の状況に 当てはめる.モーガンによれば,ヴィクトリア朝の結婚制度は奴隷制に近く,夫の姓を名乗る ことで「非個人化」が起こった.そこでは自由が認められない.したがって,「男性や,男性の 書いた書物を恐れない」(152)と言うスーは,J.S.ミルの On Liberty を引用し,「女にせよ男に せよ,『一生の方針を選ぶのに,世間または自分の関係している世間の一部分にその選択を委ね て置くならば,サルのような模倣能力のほかに,何らの能力も要らない』」(234)と言う.さ らに,フンボルトの言う「人間の多様性」を主張するスーは,一般化されるのを嫌う.彼女が 求めるのは,あくまでも現在に生きる個人の自由であり,「重力と発芽以外の全ての法則を逃れ た」(143)自然の状態なのである. Ⅲ それならば,なぜスーの転向が起こるのか.これまでは,それが,ジェンダーによる抑圧や カーラ・L・ピーターソンの言うパウロの言葉の抑圧(90)など,直接「社会的コード」による ものと解されてきた.しかし,これらを一概に彼女の敗北の原因とすることができないことは, ジュードとスーの次の会話からも明らかである. ‘. . . I have sometimes thought, since your marrying Phillotson because of a stupid scandal, that under the affectation of independent views you are enslaved to the social code as any woman I know!’ ‘Not mentally. But I haven’t the courage of my views, as I said before. I didn’t marry him altogether because of the scandal. But sometimes a woman’s love of being loved gets the better of her conscience, and though she is agonized at the thought of treating him cruelly, she encourages him to love her while she doesn’t love him at all. . . .’ (253) ジュードは,スーの一貫性のなさを,スーの自立が見かけだけで実際は社会的コードの奴隷で あるためだと言う.しかし,スーは,それを否定する.彼女の精神は,社会に屈してはいない. むしろ問題は,スーが自分の考えに自信を持てないことにある.その不安は,一つには,時折, 自分の中の自然に根ざした感情が理性を超えて思わぬ行動を起こすことに起因している.さら には,その「自然」に対する不安は,リトル・ファーザー・タイムの事件によって確信となる. ‘. . . We said – do you remember? – that we would make a virtue of joy. I said it was Nature’s intention, Nature’s law and raison d’etre that we should joyful in what instincts she affords us – instincts which civilization had taken upon itself to thwart. What dreadful things I said! And now Fate has given us this stab in the back for being such fools as to take Nature at her word!’ (357-8) それまでスーが思い描いていたのは,人間を幸福へと導くワーズワース的な自然の意図であっ た.つまり,彼女は,社会に反抗し,自然が与えた本能に従うことが人間の自由だと思ってい た.しかし,実際には,子供が生まれると,生活は困難になり,「自然の掟」は苦しみを生み出 鈴木 淳 79 すものになる(352).さらに,自然の掟の結果であるスーの妊娠がリトル・ファーザー・タイム の事件を誘発し,ジュードとスーの子供たちの命は奪われる.自然が行うのは,全てこのよう な不調和である.自然は,人間の幸不幸に関心がなく,もはや「聖なる計画」ではない.それ は,何の目的も予定調和も持たずに人間を操ることで,人間の中に恐怖と不安を生み出す2. 実際に,リトル・ファーザー・タイムの事件以前から,スーは,社会よりもむしろ「世界」に 対して説明の付かない強い不安と恐怖を抱いていた(232,351).このことに関連して,語り手 は,事件後には「ある曖昧で奇妙な想像」が彼女の頭から離れなくなっていることを述べる. Vague and quaint imaginings had haunted Sue in the days when her intellect scintillated like a star, that the world . . . was wonderfully excellent to the half-aroused intelligence, but hopelessly absurd at the full waking; that the First Cause worked automatically like a somnambulist, and not reflectively like a sage; . . .. But affliction makes opposing forces loom anthropomorphous; and those ideas were now exchanged for a sense of Jude and herself fleeing from a persecutor. (361) スーが想像していたのは,世界が「目覚めている者」にとっては絶望的なほど不条理なものであ り,創造主である「第一原因」が賢人ではなく夢遊病者のようなものだということである.だが, 見過ごしてならないのは,その直後に語られるスーの心理である.この「苦悩」による不可解 な力である「第一原因」から人格化された「神」への転換は,何を意味するのか.それについては, ハーディが影響を受けたと言われるドイツの哲学者ハルトマン3が,『無意識の形而上学』の中 で,これまで人間が神に自意識を付与してきたことについて二つ理由を挙げている.ハルトマ ンによれば,人間が人格神を認めようとするのは,もし人格神が想定されなければ,人間は自 己存在に特別な意味を失うからである.さらに,そこには,神が優れた意識的存在ではないと 考えることへの人間の恐怖がある.というのも,そうでなければ,人間に降りかかる不運の説 明が付かなくなるからである.この人間の心理は,実際にハーディの『帰郷』(1878)において も述べられている. Human beings, in their generous endeavour to construct a hypothesis that shall not degrade a First Cause, have always hesitated to conceive a dominant power of lower moral quality than their own; and, even while they sit down and weep by the waters of Babylon, invent excuses for the oppression which prompts their tears. (RN 296) 人間は,「第一原因」が引き起こす不運に何とか道徳的理由を与え,それによって世界と自己存 在に意味という「安心」(RN 297)を得ようとする.このことは,スーの場合にも同様である. 自らを「野蛮人のように益々迷信深くなっていく」(JO 361)と言うスーは,世界に理解不能な 「何かがいる」(370)ことを感じた.敵は,ジュードの言う「人と無感覚な環境」(361)ではな い.だから,スーは,「敵が何であれ,怖気づいてしまった」(361)と言い,社会に屈すること を「選択」した.というのも,神の懲罰という論理を用いれば,子供たちの死に説明を与え, 不条理な世界を垣間見た自己を救うことができる.この点について,ミッケルソンは,カレン・ ホーナイの心理学を援用し,スーの不安が防衛手段として服従するための支配力を必要とした と述べている(133).スーが「世間とその習慣は,多少の価値を持つ」(JO 380)と言うのも, おそらくはキリスト教神話のプロットを不条理への防衛手段として見たためである.その意味 では,マジョリー・ガーソンがリトル・ファーザー・タイムを「キャラクターというよりスーをフ ィロットソンに引き渡す不恰好なプロットの装置」(198)と述べたことは,的を射ている.実際, スーは,子供たちの死を「裁き」であり,「罪の浄化の第一段階」(384)と解する.ポール・タ ーナーはスーの敗北には聖書外典『エステル記』と『スザンナ物語』という二つの神話的プロ ットが下敷きとしてあると指摘するが,スーの行為は,ピーター・ブルックスの言う「19 世紀 の人間の不安による世界の説明のためのナラティヴの必要」(6)だったのだ. 80 スーはなぜ敗北したのか?―『日陰者ジュード』におけるパラドックスとしての「自由」― Ⅳ 最初は社会を批判していたスーが結果的に神話の枠に組み入れられるのには,自由の先に見た カオス的な「自然の掟」と「不条理」が関係していた.彼女は,悲劇を神話的に解釈することで そこに意味づけをし,理解を超えた「世界」に対する不安を消そうとしたのである.だが,ハー ディの神話に対する態度は,曖昧である.ハーディは,神話を「昔のメタファを文字通りに解し た,いわば言語の病にすぎない」(Literary Notes 61)と言う.それは,シャーロット・トンプソンも 言うように,「文化のシナリオ」(114)による現実の抑圧である.しかし,抑圧されたものは消 えたわけではない.しかも,フロイトの言うように,抑圧されたものが再び現れることで,それ は「不可解なもの」(the uncanny)になり,「不安」を生み出す(166).実際,スーは,「弱き女性」 として従順に振舞おうとすることで,逆に自分の中に統制できない自己を発見する. ‘I cannot tell you. I have done wrong to-day. And I want to eradicate it. Well – I will tell you this – Jude has been here this afternoon, and I find I still love him – O, grossly! I cannot tell you more.’ (JO 415) 罪の償いの努力にもかかわらず,スーは,エドリン夫人に自分がジュードを依然として愛して いると告白する.それも,ここで重要なのは,“grossly”という表現である.それは,言うまでも なく抑圧した自然の痕跡である.それが自らの中に存在することは,スーを神話の枠から逸脱 させる.この存在の不安のために,スーは最終的に『新約聖書』に誓いを立て,フィロットソ ンに身を委ねるのだ.彼女は,肉体を「アダムの呪い」(363)とみなし,「体中をピンでつつい て,中の悪を血と一緒に出してしまいたい」(364)と言っていたが,それによって,エペソ書 にもあるように,自らに「聖なる,汚れなき者」(Eph 5:25-8)という意味づけをしようとしたの である. しかし,スーの神話による自己の意味づけは,アラベラの最後の言葉によって疑問に付され る.アラベラは,スーが手にしたという平穏を否定し,そしてこれからもスーが平穏を手にす ることはないだろうと言う.というのも,自然の本能は,キリスト教の道徳で抑制できるもの ではない.逆に,自然が与える感情こそは,人間存在を支配する.たとえば, 『テス』において, トールボットヘイズの三人の娘たちは,自分たちが「予期することも,望むこともない感情」 (TD 115)によって苦しめられていた.『ジュード』においても,アラベラは,夫のカートレッ トの死後は福音書以外のことを考えないつもりだと言っていたが,自分自身をコントロールで きず,結局はジュードを取り戻したいと望んだ(JO 331-2).このように,人間は理性で自己抑 制をする一方,「性と呼ばれる組織の一部」(TD 115)であり,自分の意図と関わりなく突き動 かされる存在でもある.モーガンはアラベラをスーの解釈者として信頼できると言っているが, そのアラベラが最後に思い描いたのは,理性による信仰と抑制できない感情の間で板ばさみに なり苦悩するスーであった.つまり,スーを本当に敗北させたのは,社会の抑圧ではなく,「不 条理」な世界とそのミクロコズムである不可解な自分自身だったのである4. Ⅴ エドマンド・ゴスは,1895 年に St James’s Gazette の中で『ジュード』を「存在の無意味さ」 を描いた悲観的な小説と非難した.だが,ハーディは,逆にそれが目的だとでも言わんばかり に,ゴスに次のような書簡を送る. . . . The ‘grimy’ features of the story go to show the contrast between the ideal life a man wished to lead, and the squalid real life he was fated to lead. . . . The idea was meant to run all through the novel. It is, in fact, to be discovered in everybody’s life, though it lies less on the surface perhaps than it does 鈴木 in my poor puppet’s. 81 淳 (Later Life 41) ハーディが最後の小説で示したのは,不条理な世界と人間存在の不可解さだった.また,おそ らくこれがハーディを小説から詩に転向させた理由である.というのも,実は,ここで生じる 「存在とは何か」という問題は,これまでも『帰郷』や『カスターブリッジの町長』,『テス』な ど一連の小説で浮かび上がりながらも,いつも答えを与えられず,曖昧にされてきた.それは, 小説の行き詰まりを示していた.『ジュード』の最後の場面が語り手の言葉を介していないこと は,その行き詰まりの究極的な現れである. さらには,作家自身というレヴェルで見た場合にも,一連の小説におけるこの同じパターン の繰り返しがハーディを詩に向かわせた原因の一つだったと思われる.「繰り返しの効果」につ いて,ハーディは,次のように記している. . . . “no longer knew what he was saying: it was as if he were possessed by a machine that moved & spoke without his interference.” (Literary Notes 119) ハーディは,小説執筆で袋小路に迷い込むことでスーと同様に自分自身も自動機械であるかの ように感じていたのではないか.つまり,ハーディを詩に向かわせたのは,小説で同じことを 機械的に延々と書き続けることから生じる自己存在についての不安なのである. 一方,ハーディは,詩の中に,小説が踏み込むことのできない事物や現象の「秘密」を扱い, それを「解釈する力」を見ていた. The grand power of poetry is its interpretative power . . . the power of so dealing with things as to waken in us a wonderfully full, new, & intimate sense of them, [so that] we feel ourselves to have their secret. (Literary Notes 133) ここで言う詩の「解釈する力」とは,おそらく,小説における神話のプロットという既存の枠 組みではなく,詩人自身の「経験による哲学」のことである.ハーディは,1890 年にはすでに 「詩という目に見えない翼を再び始めようと考えることで新たな地平が開けたようだ」(Early Life 302)と述べていた.そして,詩人ハーディは,その目に見えない翼によって,天空に向かうので はなく,「長くて暗い地下墓地の回廊」に降りていき,そこで小説が沈黙する最悪の状態をあえ て熟視しようとする.実際,『ジュード』の構想・執筆時期と重なる 1893 年には,『彼には自分 が分からない』という詩の中で人間を「自動人形」として見る(Later Life 26).しかし,『ジュー ド』の出版と同時期に書かれた『暗闇の中で』という詩にもあるように,詩が小説と異なるの は,最悪の状態で終わるのではなく,改善の状態を目指すために最悪を見るところである. . . . if way to the better there be, it exacts a full look at the Worst, . . . (“In Tenebris II,” Complete Poems 168) さらに,詩の声は,小説では「夢遊病者」として諦めの念を持って描かれた第一原因に直接働 きかける.人間は,小説におけるスーのように第一原因を恐れ,安心を求めて人間が作った神 に屈するのではなく,詩においては第一原因と向かい合い,その目覚めを信じようとする.し かも,『断片』と題された詩にもあるように,その場合,人間は第一原因に影響される存在であ ると同時に,それ自身の慈愛の精神の「目覚め」を導く「パイオニア」的存在でもあるのだ. ‘Since he made us humble pioneers Of himself in consciousness of Life’s tears, It needs no mighty prophecy To tell that what he could mindlessly show His creatures, he himself will know. (“Fragment,” Complete Poems 513) 82 スーはなぜ敗北したのか?―『日陰者ジュード』におけるパラドックスとしての「自由」― 詩人ハーディが詩という地下墓地の回廊で出会った人々は,驚くことに死者ではなく,最悪の 状況の中でも希望を失わない,生きている人間だった.むしろハーディにとっては,自らの自 由を捨ててまで小説の安全な枠に落ち着こうとする人間の方こそが本当の意味での生ける屍だ ったのである.こうして,詩人ハーディは,小説における神話という「言語の病」を抜け出し, 最悪の状態に向かい合い,人間の自由意志によって不条理な世界を改良していこうとするパイ オニア的人間の列に自らも加わる.そして,暗闇の中から,人間の幸福を求め,第一原因に対 して次のように問い始めるのである5. Part is mine of the general Will, Cannot my share in the sum of sources Bend a digit the poise of forces, And a fair desire fulfil? (“He Wonders About Himself,” Complete Poems 510) 注 1 2 3 4 5 フェミニズム運動の先駆者としてのスーについては,ハーディ自身が『ジュード』の序文において当時 のドイツの一批評家の言葉を記している.その批評家によれば,スーは「知的で,解放された神経の持ち 主」である. 自然の不調和による人間の不安については,ハーディ自身が伝記で次のように記している. “A woeful fact – that the human race is too extremely developed for its corporeal conditions, the nerves being evolved to an activity abnormal in such an environment. Even the higher animals are in excess in this respect. It may be questioned if Nature, or what we call Nature, so far back as when she crossed the line from invertebrates to vertebrates, did not exceed her mission. This planet does not supply the materials for happiness to higher existences. Other planets may, though one can hardly see how.” (285-6) ハーディへのハルトマンの影響については,ラトランドに詳しい記述がある. ハーディ小説と不条理のテーマについては,中期の作品『塔の上の二人』(1882)に関してローズマリー・ サムナーが論じている. ハーディは,限られた程度ではあるが人間の自由意志を認めていた.伝記において,実際次のように述 べている. “This theory, too, seems to me to settle the question of Free-will v. Necessity. The will of a man is, according to it, neither wholly free nor wholly unfree. When swayed by the Universal Will (which he mostly must be as a subvervient part of it) he is not individually free; but whenever it happens that all the rest of the Great Will is in equilibrium the minute portion called one person’s will is free, just as a performer’s fingers are free to go on playing the pianoforte of themselves when he talks or thinks of something else and the head does not rule them.” (125) Works Cited Bjork, Lennart A., ed. The Literary Notes of Thomas Hardy. Goteborgs: Acta Universitatis Gothoburgensis, 1974. Boumelha, Penny. Thomas Hardy and Women: Sexual Ideology and Narrative Form. Sussex: Harvester, 1982. , ed. Jude the Obscure. London: Macmillan, 2000. Brooks, Peter. Reading for the Plot: Design and Intention in Narrative. New York: Random, 1984. Garson, Marjorie. “Jude the Obscure: What Does a Man Want?” Boumelha. 179-208. Hardy, Florence. The Life of Thomas Hardy. 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Postal (1971):目的語繰り上げ分析 Postal(1971)は tough 構文と対応する形式主語構文が意味的に同義であるという前提に立ち, 両者は同一の基底構造から派生されたと主張した.tough 構文(2a)と形式主語構文(2b)の基底構 造は(3)であると考えられる.(3)の基底構造から for Tony to hit Jack が文末に外置されると(2b)の 形式主語構文が派生される.さらに(2b)から他動詞 hit の目的語である Jack が主節の主語の位 置に繰り上げられ,形式主語 it と置き換わると tough 構文(2a)が派生される. (2) (3) a. Jack was difficult for Tony to hit. b. It was difficult for Tony to hit Jack. [(it) [S for Tony to hit Jack]] was difficult (Postal (1971:27-8)) 2.2. Chomsky (1977): wh 移動による分析 Chomsky(1977)は tough 構文と wh 移動構文との平行性に着目し,tough 構文にも wh 移動 が関わっていると主張した.例えば tough 構文(5a)は(4a)のように wh 句が同一節から移動でき ることを示している.また tough 構文(5b)は(4b)のように多重に埋め込まれた節の中からも wh 句が移動できることを示している.さらに tough 構文(5c)は(4c)のように複合名詞句制約にも従 うことを示している. (4) (5) a. I wonder [who John saw t]. b. I wonder [who John believed [that Mary would claim [that Bill would visit t]]]. c. *I wonder [who John believed [NP the claim [that Bill would visit t]]]. (Chomsky (1977a:97)) a. John is easy (for us) to please t. b. John is easy (for us) to convince Bill [to tell Mary [that Tom should meet t]]. c. *John is easy (for us) to convince Bill of [NP the need [for him to meet t]]. (Chomsky (1977a:103-4)) 以上のことから Chomsky(1977)は(6)に示したように tough 構文内で wh 移動が起きていると主 張した. 富岡 (6) 豊嘉 85 John is easy [CP who [PRO to please t]]. この分析は wh 移動と wh 要素の削除という操作の複雑性から,(7)のように wh 要素の特徴を 持つが音形を持たない要素である null operator が移動していると捉え直された. (7) John is easy [CP OPi [PRO to please ti]]. 2.3. null operator 移動分析の問題点 先ほど見た null operator 移動分析では説明できないような例が存在する.例えば補文からの 抜き出しに関する(8)-(11)のデータを見てみてみよう.null operator 移動分析をとると(8)-(11)のデ ータは全て文法的であると予測する.しかし,事実はこの予測とは異なる. a. This book is tough [OPi [PRO to read ti]]. b. This car is easy [OPi [PRO to believe [Betsy to have fixed ti]]]. (9) a. *Betsy is easy [OPi [PRO to expect [ti fixed the car]]]. b. *That language is impossible [OPi [PRO to believe [ti to have discouraged Greg]]]. (10) a. *Today will be easy [OPi [PRO to catch the bus ti]]. b. *This way is impossible [OPi [PRO to learn the language ti]]. (11) a. ??This car is hard [OPi [PRO to claim [Betsy fixed ti ]]]. b. ??That language is impossible [OPi [PRO to say [Greg will learn ti]]]. (Stowell (1986:477)) (8) (9a, b)から null operator が補文の主語位置からは移動できないことがわかる.次に(9a)と (11a,b)から主語位置からでも目的語の位置からであっても定形節の中から null operator が移動で きないことがわかる.最後に(10a-b)から付加詞の位置から null operator は移動できないという一 般化が得られる. 3. 分析 ここでは tough 構文について目的語繰り上げ分析を用いて分析する.まず(12b)に示した通り, tough predicate である easy は補文の動詞 please が目的語 John に与える対格を吸収する働きが あり,目的語が格を得るために主節の主語位置へと移動すると仮定する.この tough predicate の働きを次のように定式化することができる.tough predicate は最も深く埋め込まれた vP 内の 任意の対格付与子から対格を吸収する.この分析は(13)のような受動文において過去分詞を形成 する形態素-en が他動詞の対格を吸収し,目的語が格を得るために主節の主語へと移動するケー スと平行的であると考えられる.受動文における動詞の過去分詞は weak phase を形成し, strong phase を形成しないと考えられる.従って tough 構文が受動文と平行的であるとすると tough 構文においても中間の CP, vP は weak phase を形成すると考えられるので,目的語が主節 の主語位置へと移動することが可能であると思われる.もし numeration に it が含まれている場 合,tough predicate による動詞の対格の吸収は行われず,主節の主語位置は it が占めることに なるので形式主語構文が派生されると考えられる. (12) a. John is easy to please. b. △ is easy to PRO please John. ACC 86 On Syntactic Derivation of Tough Constructions (13) Johni was hit ti by Mary. この分析を motivate するデータとして(14-16)が挙げられる. (14) Getting herselfi arrested on purpose is hard for me to imagine [Betsyi being willing to consider t]. (Postal & Ross (1971:544)) (15) These pictures of himselfi will be difficult PRO to tell Billi about t. (Pesetsky (1987:127)) (16) a. The sonatai is easy to play ti on this violin. b. The violini is easy to play sonatas on ti. (Chomsky (1977a:105)) Binding Condition (A)に従うと,(14)では照応形である herself は動詞 consider の目的語の位置 にいなければならない.(15)も同様に himself が about の目的語の位置にいなければならない. 従って,これらのデータは主節の主語位置にある名詞句が元位置から移動したことを支持する 証拠であると考えられる.さらに(16)のデータを見ると(16a)では,他動詞 play の目的語である sonata が移動しているのに対し,(16b)では前置詞 on の目的語である violin が移動しているよ うに思われる.他動詞の目的語の位置から名詞句が移動する場合,目的語への対格付与を引き 起こすような feature は v のφ-feature である.従ってこの場合,tough predicate は他動詞の v のφ-feature を吸収すると考えられる.また,前置詞の目的語の位置から名詞句が移動する場合, 前置詞とその目的語が merge した際に何らかの feature-checking があるとすると,tough predicate は目的語の case-feature の値を決定するような feature を前置詞から吸収すると考えら れる.従って tough predicate が最も深く埋め込まれた vP 内で対格を吸収すると仮定すると,ど の対格付与子から対格を吸収するのかは任意であると思われる. それでは tough 構文の派生の過程を実際に(17)の例で見てみよう. (17) This book is tough PRO to read t. (cf. (8a)) (17’) TP T’ T VP [φ comp] [EPP] V AP is A CP tough C TP PRO T’ T to vP v [φ comp VP ] V read this book [φ comp] [CASE] 富岡 87 豊嘉 tough predicate である tough が v からφ-feature を吸収する.目的語である this book は主節の T と agree し,格素性が Nom であると値が決定される.その後,T の EPP-feature を満たすた めに this book が TP-Spec に移動する. この目的語繰り上げ分析の利点としては,null operator 移動分析では説明することができなか った補文からの抜き出しのデータを説明することができるという点である. (18) *Betsy is easy [OPi [PRO to expect [ti fixed the car]]]. (cf. (9a)) (19) *That language is impossible [OPi [PRO to believe [ti to have discouraged Greg]]]. (cf. (9b)) (20) a. *Today will be easy [OPi [PRO to catch the bus ti]]. (cf. (10a)) b. *This way is impossible [OPi [PRO to learn the language ti]]. (cf. (10b)) まず時制節の主語位置からの抜き出しである(18)の例を見てみよう. (18) *Betsy is easy [OPi [PRO to expect [ti fixed the car]]]. (cf. (9a)) (18’) TP T’ T1 VP [φ comp] [EPP] V AP is A CP easy C TP PRO T’ T2 to vP v1 VP V expect CP C TP T’ T3 vP [φ comp] [EPP] Betsy v’ [φ comp] [CASE]v2 VP [φ comp] V fixed the car [φ comp] [CASE] tough predicate である easy は v2 のφ-feature を吸収する.Betsy は local な T3 と agree し, 格素性が Nom と決定される.さらに T3 の EPP-feature を満たすために Betsy が T3 の Spec へと 88 On Syntactic Derivation of Tough Constructions 移動する.ここで Betsy の格は既に決定されているので Betsy は T3 の Spec から主節の主語位置 に移動することは不可能である.従って定形節の主語の位置からの抜き出しは不可能になる. 次に ECM 構文の主語位置からの抜き出しである(19)の例を見てみよう. (19) *That language is impossible [OPi [PRO to believe [ti to have discouraged Greg]]]. (cf. (9b)) (19’) TP T’ VP T1 [φ comp] [EPP] V AP is A CP impossible C TP PRO T’ vP T2 to VP v1 [φ comp ] V believe TP T’ vP T3 to [φ per] that language v’ [EPP] [φ comp] VP [CASE] v2 [φ comp] V have discouraged Greg [φ comp] [CASE] tough predicate である impossible は v2 のφ-feature を吸収する.that language は local である T3 と agree する.しかしこの T3 は T-def であるためφ-feature は person しか持たない.従って この時点では that language の格素性は決定されない.その後 that language は T3 の EPP-feature を満たすために T3 の Spec に移動する.さらに v1 と that language が agree するのだが,本来 は(19)のように Nom と決定されるべき格素性が Acc と決定されてしまう.従って ECM 構文の 主語位置からの抜き出しは不可能になると考えられる. それでは最後に付加詞の位置からの抜き出しである(20)を見ていこう. (20) a. *Today will be easy [OPi [PRO to catch the bus ti]]. b. *This way is impossible [OPi [PRO to learn the language ti]]. (cf. (10a)) (cf. (10b)) 富岡 豊嘉 89 目的語繰り上げ分析の下では today, this way が付加詞の位置から移動していると考えられる. しかしこれらの today, this way は bare NP adverb であり,そもそも構造格を必要としない.従っ て today, this way が構造格を得るために主節の主語に移動することなどありえない. 4. too to 構文,enough to 構文との関連性 4.1. 共通点 最後に tough 構文と too to 構文,enough to 構文との関連性を考えていくことにする.too to 構文,enough to 構文と tough 構文との共通性として以下のものが挙げられる.第一に(21)で示 したように too to 構文,enough to 構文でも他動詞の目的語の位置や,前置詞の目的語の位置に 空所が見られる. (21) a. The mattress is too thin to sleep on t. b. The football is soft enough to kick t. (Lasnik & Fiengo (1974:536)) 第二に(22)で示したように too to 構文,enough to 構文,tough 構文は補文に受け身文を許さない. (22) a.*Socrates is dull enough (for me) to be bored by t. b.*The policeman are too stupid (for the demonstrators) to be captured by t. (Lasnik & Fiengo (1974:538)) c.*John is easy (for Bill) to be outsmarted by t. (ibid. :549) 第三に(23)で示したように補文に there 構文を許さない. (23) a.*George is too obscure for there to be a book about t. b.*This species is common enough for there to be knowledge of t. (Lasnik & Fiengo (1974:538)) c.*North Vietnam is easy for there to be bombing raids over t. (ibid. :549) 第四に(24)に示したように補文が与格構文の場合,前置詞の目的語を主節の主語位置へ移動させ ることができる.しかし,(25)のように二重目的語構文の場合,間接目的語を主節の主語位置へ 移動させることはできない. (24) a. My adviser is too meticulous to give this thesis to t. b. John is dumb enough to sell the Brooklyn Bridge to t. c. John was tough to give criticism to t. (25) a.*My adviser is too meticulous to give t this thesis. b.*John is dumb enough to sell t the Brooklyn Bridge. c.*John was tough to give t criticism. (Lasnik & Fiengo (1974:550)) (ibid. :549) (Lasnik & Fiengo (1974:550)) (ibid. :549) 4.2. 相違点 4.1.で見たように tough 構文と too to 構文,enough to 構文には共通点を観察できたが,いく つか説明できない相違点も存在する.第一に too to 構文,enough to 構文では主節の主語が PRO や代名詞と同一である解釈ができる点である. 90 On Syntactic Derivation of Tough Constructions (26) (27) a. Maryi is shrewd enough PROi to win the election. b. Johni is dumb enough PROi to blow up a bank. c. Maxi is too dumb PROi to pass the exam. d. Einsteini is too well-known PROi to travel unnoticed. Bobi is hard PROi to arrive. (Lasnik & Fiengo (1974:537)) (Stuurman (1990:128)) 例えば(26)では too to 構文,enough to 構文では補文の不定詞句の主語である PRO が主節の主語 と同一であるとの解釈が可能である.一方,tough 構文では(27)に挙げたように不定詞句の主語 である PRO が主節の主語と同一であるという解釈はできない. (28) (29) a.*This problemi is too abstract to solve iti. (Lasnik & Fiengo (1974:558)) b.*Johni is easy to please himi. (ibid. :555) a. This problemi is too abstract for us to solve iti. b. This problemi is specific enough for there to be a solution to iti. (Lasnik & Fiengo (1974:558)) さらに(28)に挙げたように too to 構文,enough to 構文では tough 構文と同様,主節の主語と同 一内容の代名詞を他動詞の目的語の位置に置くことはできない.しかし(29)に挙げたように too to 構文と enough to 構文の場合,for 句を挿入すると文法的になる.(29b)は there 構文も許して いる点にも注目していただきたい. 第二に too to 構文,enough to 構文には tough 構文と異なり,形式主語構文が存在しない点で ある.第三に too to 構文,enough to 構文は tough 構文とは異なり主節の主語が各々,too の後 ろにある形容詞と enough の前にある形容詞によってθ-mark されている点である. (30) (31) (32) The mattress is too thin to sleep on t. (=(21a)) a. John is easy to please. b. [To please John] is easy. The rock is impossible for me to move t, and that one is equally impossible. (Jacobson (1992:282)) too to 構文である(30)では the mattress は thin によって叙述されていると考えられる.一方 tough 構文では tough predicate が主節の主語名詞句を叙述しているようには思えない.例えば (31a)において主節の主語 John は tough predicate である easy によって叙述されてはいない.こ れは(31b)に示したように tough predicate は命題を主語にとる形容詞であると考えられるからで ある.同様に(32)では the rock は impossible によって叙述されてはいない.ちなみに(32)の後続 の文,and that one is equally impossible では impossible が that one を叙述しているように見える が,これは文脈が整っていて不定詞句を省略しているからであると考えられ,例外である.従 って tough 構文の主節の主語位置は tough predicate によってθ-mark されているとは考えられな い.以上のデータは tough 構文と too to 構文,enough to 構文が必ずしも同一の構文であるとは 限らないことを示している. 5. まとめ それでは最後に本発表のまとめをしたいと思う.本発表では tough 構文の先行研究として Postal(1971)の目的語繰り上げ分析と Chomsky(1977)の Wh 句移動分析を概観してきた.さらに Chomsky の Wh 句移動分析に関する問題点を指摘した.そこで本発表では tough predicate が対 富岡 豊嘉 91 格付与子の対格を吸収することによってこれらの補文の抜き出しのデータを説明できることを 見てきた.さらに too to 構文,enough to 構文との関連性を考察し,too to 構文,enough to 構文 が tough 構文とは異なる可能性を探ってきた. * 本論文は東北英文学会第 58 回大会(2003 年 9 月 28 日於弘前大学)で口頭発表したものに加筆・訂正を 加えたものである.司会者の阿部潤先生,および発表会場にて有益なコメントを下さった方々に感謝の意を 表したい. 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Takahashi, Daiko (1996) “Move-F and null operator movement.” The Linguistic review 14: 181-196. Proceedings of the 58th Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) 英語知覚動詞の受動化について 中野 一幸 1. Introduction 英語において,知覚動詞は(1)のような裸不定詞補文をとることができるが,この知覚動詞構 文は(2)のように主節の知覚動詞を受動化することができない.一方,(3)(4)に見られるように, DP のみを補部にとる動詞,ECM 構文は主節動詞の受動化が可能である. (1) We saw John draw a circle. (2) *John was seen draw a circle. (3) a. Fifty thousand people saw the match. b. The match was seen by fifty thousand people. (4) a. John believed Mary to be intelligent. b. Mary was believed to be intelligent. 知覚動詞の裸不定詞補文の範疇は vP であり,裸不定詞を含めた原形動詞は統語的に認可されな ければならないと,本稿では提案し,上記の事実はこの提案から導かれるものである.さらに, 知覚動詞構文の持つ他の諸特性にも,この提案から説明を与えられる. その諸特性の一つは,(5)に見られるように,裸不定詞補文の主語からの wh 抜き出しが可能 であるというものである.これは,(6)に示すように DP のみを補部にとる動詞の場合も同様に, wh 抜き出しが可能である.一方,ECM 構文では,(7)に示すように補文の主語からの抜き出し は容認されにくい. (5) a. Which planeti did you see [a picture of ti] appear on your computer screen? b. Which presidenti did you watch [ a picture of ti] burn in the wastebasket? (6) Whoi did you hear [jokes about ti]? (7) ??Whoi did you believe [a picture of ti] to be on sale. (Basilico 2003) (Takahashi 1994) 以上の事実は(8)のようにまとめることができるが,これらは,先に述べた提案から導かれるも のである. (8 ) 中野 93 一幸 また,(1)の受動文として(9)のように裸不定詞の直前に to を加えた文は容認されるが,この 種の受動文は,ECM 構文から派生されるものであると,本稿では主張する. (9) John was seen to draw a circle. 2. Prevention of Passivization 本節では,Felser(1998)の知覚動詞構文の分析を概観し,その分析には問題点が残ることから, 代案を提示し,この代案が妥当であることを示す.そして,本論の分析は他の知覚動詞構文の 諸特性も説明できることを見る. 2.1. Felser(1998) Felser(1998)は,(10)のように,裸不定詞補文は AspP(Aspect Phrase)である分析している. (10) TP AspP Ti Asp’ ei Asp VP DP we V’ V AgrOP saw AgrO’ AgrO AspP e-PROi Asp’ Asp [± prog] VP DP John V’ V draw(ing) DP a circle 94 英語知覚動詞の受動化について Felser(1998)によれば,主節の[Spec, AspP]の event 項が補文の[Spec, AspP]にある event 項をコン トロールし,補文の時間的位置づけを保証しているが,主節動詞が受動化されると,主節の項 構造が変化し,主節の event 項がなくなるため,補文の event 項がコントロールされないまま 残ってしまい,(2)のような受動文は非文となる. しかし,この分析には問題が残る.Felser(1998)は,補文内の主語が主節の[Spec, AgrOP]へ移 動し格照合を行うと仮定しているが,Takahashi(1994)に従うと,Chain Uniformity あるいは Shortest Movement Condition に違反するため,補文内の主語からの抜き出しはできないという誤 った予測をしてしまう(5).従って,Felser(1998)の分析は適当ではないと言える. (11) (12) Chain Uniformity Chains are uniform. (Takahashi, 1994) Shortest Movement Condition. Make the Shortest Movement. (Takahashi, 1994) 2.2. Proposals 前節で,Felser(1998)の分析は妥当ではないことを示した.そこで本節では,代案として,裸 不定詞補文の範疇は vP であり(13)のような構造を持つものであると提案する. (13) TP T’ T vP We v’ v VP saw vP Mary v’ v VP draw a circle また,動詞は屈折された形で導入される語彙論仮説を採用すると,原形動詞(裸不定詞)も 屈折を得ている形で具現化していると考えることができる.そこで,本稿では Ishii(1987)の仮説 を採用し,(14)(15)のように提案する.また,格,屈折の認可は Agree (Chomsky (2000, 2001))に よって行われるものとする. (14) Perception verbs may assign a bare inflection to the head of its complement. (cf. Ishii 1987) (15) Passive morphology absorbs an inflection of verbs to be assigned to the head of its complement. 中野 一幸 95 (cf. Ishii 1987) 2.3. Consequences 本節では,2.2節の提案から,第1節で見た,主節動詞の受動化と補文内の主語からの抜 き出しの可否が説明されることを見る. まず,知覚動詞構文の受動化から見ると,本稿の提案(15)より,知覚動詞は受動形態素によっ て裸不定詞に原形を付与できなくなってしまう.その結果,裸不定詞の具現化が認可されない ことになり,受動化された知覚動詞構文の非文法性を捉えることができる. (16) a. John saw Mary draw a circle. b. *Mary was seen draw a circle. 一方,DP のみを補部にとる動詞は,受動化されたとしても認可されずに残る原形動詞がない. また,ECM 構文は,受動態になったとしても,to が原形動詞を認可できる.このように, (17b)(18b)の文法性も説明することができる. (17) a. Fifty thousand people saw the match. b. The match was seen by fifty thousand people. (18) a. John believed Mary to be intelligent. b. Mary was believed to be intelligent. 次に,第1節で見たもう一つの特性である,補文内の主語からの wh 抜き出しについて検証 する.知覚動詞構文の派生(13)で注目すべきは,補文内の主語が移動しない点である.そのため, (19)のような wh 抜き出しは Chain Uniformity,Shortest Movement Condition に違反せず,文法的 であると正しく予測できる.また,(20)の文も同様に説明される. (19) a. Which planeti did you see [a picture of ti] appear on your computer screen? b. Which presidenti did you watch [ a picture of ti] burn in the wastebasket? (20) Whoi did you hear [jokes about ti]? 一方,Takahashi(1994)に従えば,ECM 構文は(21)に示してあるように,埋め込みの T の EPP 素性を照合するために[Spec,vP]から[Spec,TP]へ移動するため,wh 抜き出しは Chain Uniformity, Shortest Movement Condition のいずれかに違反することになり,(22)の非文法性を捉えることが できる. (21) John believed [TP Maryi to [vP ti be [intelligent]]] (22) ??Whoi did you believe [a picture of ti] to be on sale. 以上,本節では2.2節での提案から,第1節で示した,知覚動詞構文の特性を説明できること を見た. 2.3. Further Consequences 本節では,2.2節の提案が知覚動詞構文の示す他の特性も説明できることを見る. まず,その一つとして,補文に法助動詞,屈折,完了相の have,進行相の be が現れること 96 英語知覚動詞の受動化について ができない. (23) a. *We saw him will draw a circle. b. *We saw him draws circles. c. *We saw him have drawn a circle. d. *We saw him be drawing a circle. (Felser 1998) これらの要素が vP よりも高い位置に生起しなくてはならないとすると,本稿で提案した(13)の ような構造では,これらの要素の生起できる位置がないことになり,(23)の非文法性にも説明が 与えられる. 次に,裸不定詞補文内では,(24)のように補文内の主語が bare plural であっても existential reading しかされないという事実と,(25)に示してしるように individual-level predicate は認めら れないという事実があるが,Diesing(1992)の Mapping Hypothesis(26)に従えば,これらの事実も 裸不定詞補部の範疇が vP である(13)の構造から説明される. (24) We saw dinosaurs eat kelp. (Felser 1998) (25) a. *We saw John have a car. b. *We saw Mary be tall. (Felser 1998) (26) Mapping Hypothesis Material from VP is mapped into the nuclear scope. Material from IP is mapped into a restrictive clause. (Diesing 1992, 10) Diesing(1992)に従えば,主語の generic reading は(27)のように,主語が[Spec,IP](本稿では [Spec,TP])の位置で解釈を受けることにより派生される. (27) Deriving the generic reading restrictive clause IP Spec firemen I’ I are VP Spec nuclear scope V’ V AP available (Diesing 1992, 21) しかし,本稿で提案する構造では,裸不定詞補文は vP までしか投射しないので,主語が generic 中野 97 一幸 reading される位置が存在しない.従って,(24)の文の解釈を正しく説明することができる. 次に,Diesing(1992)は,(28)のように,individual-level predicate の主語は[Spec,IP](本稿では [Spec,TP])のみに現れることができるとしている. (28) LF representation of bare plural subjects Subjects of stage-level predicates can appear either in [Spec, IP] or in [Spec, VP]. Subjects of individual-level predicates can appear only in [Spec, IP]. (Diesing 1992, 22) 本稿で提案した(13)の構造では,裸不定詞補文は TP まで投射しないため,individual-level predicate の主語が生起する位置がなく,その結果 individual-level predicate の解釈は裸不定詞補 文内では成されないことになる. 以上,本節では,知覚動詞の裸不定詞補文の範疇は vP であるという提案を行い,この提案が 妥当であることを見た. 3. Passivization and To 前節では(16b)の非文法性に説明を与えたが,本節では,(9)の文法性を考察する. (16) a. John saw Mary draw a circle. b. *Mary was seen draw a circle. (9) John was seen to draw a circle. 本稿では,(9)のような受動文は,to が存在することから明らかなように,ECM 構文を受動化さ せたものであると主張する.この主張は,Declerck(1983),Felser(1998)の主張と一致するもので ある. (9)のような文が ECM 構文から派生したものであるとすれば,ECM 構文と対応関係があると 考えられるが,以下の事実は,この主張を裏付けるものである. (29) a. John wondered if he heard us call. b. *John wondered if he had heard the man to have a hoarse voice. c. *John wondered if a bell had been heard by him to ring. (Declerck(1983)) (30) a. We’re seeing Apollo 19 take off. b. *We’re seeing the figure to be a woman. c. *Apollo 19 is being seen by us to take off. (Declerck (1983)) (29)は wonder if に知覚動詞を用いた構文を埋め込んだ例,(30)は知覚動詞を進行相にした例で あるが,どちらも,to が裸不定詞に先行する受動文(29c)(30c)の文法性は,裸不定詞を補部にと る知覚動詞構文(29a)(30a)ではなく,to 不定詞を補部にとる ECM 構文(29b)(30b)に対応してい る. また,Pesetsky(1991)によると,ECM 構文は動作主性を示す動詞の補部にはならないという一 般化がある.例えば,(31b)(32b)(33b)は,それぞれ ECM 補部をとる動詞が動作主性を示す環境 で用いられている例であるが,これらの容認度は低い.これらの動詞は(31a)(32a)(33a)に示して あるように,動作主性が必要とされない環境では ECM 補部をとれることから,動作主性がこ れらの ECM 構文を非文法的にしていることは明らかである. 98 英語知覚動詞の受動化について (31) a. Poor Bill. I remember him to have made valuable contributions to his field. b. ??Please don’t offend Bill. Remember him to have made valuable contributions to his field. (32) a. Sue assumed God to exist during the writing of her theology dissertation. b. ??Sue was careful to assume God to exist during the writing of her theology dissertation. (33) a. I hope you won’t feel me to be unduly prying into your personal affairs when I ask three questions. b. ??Try not to feel me to be unduly prying into your personal affairs when I ask three questions. 動作主性を示す動詞は ECM 補部をとらないという一般化が正しければ,動作主性を示す知覚 動詞は ECM 補部をとらないと予測されるが,(35)に示してあるように動作主性を示す watch, listen to は ECM 補部をとらず,この一般化に従っている.さらに,watch,listen to は(34)のよ うに裸不定詞補文をとれるが,本稿で主張しているように,to が裸不定詞に先行する受動文が, ECM 構文から派生するならば,受動文は非文法的になると予測されるが,(36)はこの予測が正 しいことを示している. (34) a. Bill saw John come to your house yesterday. b. Mary heard Tom sing a song every hour. c. We watched John draw a circle. d. We listened to Mary sing a song. (35) a. John was seen (by Bill) to come to your house yesterday. b. Tom was heard (by Mary) to sing a song every hour. c. *John was watched to draw a circle. d. *Mary was listened to to sing a song. (36) a. We saw John to be intelligent. b. I heard him to be very foolish. c. *We watched John to be intelligent. d. *We listened to him to be sleeping. 以上,本節では,知覚動詞の受動態で,to が裸不定詞に先行する文は ECM 補文をとる知覚動 詞の受動態であるという分析の妥当性を見た. 4. Concluding Remarks 本稿では,裸不定詞を補部にとる知覚動詞構文の諸特性について考察した.そして,この諸 特性は,裸不定詞補文の範疇は vP であり,原形動詞も原形という屈折を認可されなければなら ないという,本稿の提案から導かれるものであることを見た. 中野 一幸 99 References Baker, Mark, Kyle Johnson, Ian Roberts (1989) “Passive Arguments Raised,” Linguistic Inquiry 20, 219-251. Basilico, David (2003) “The Topic of Small Clauses,” Linguistic Inquiry 34, 1-35. Chomsky, Noam (1995) The Minimalist Program, MIT Press, Cambridge, MA. 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According to Dowty (1979) and others, the semantic function of position adverbials as well as tenses is to restrict the time variable of main predicates, as in (2), where s denotes the speech time of the sentence: (2) ∃t [t < s & t⊆ Today & Dance(John)(t)] Applying this approach to sentences with temporal quantifiers leads us to a scope paradox. (3) a. b. ∃t [t < s & ∀x [Monday(x) → Dance(John)(t) & t ⊆ τ(x)]]1 ∀x [Monday(x) → ∃t [t < s & Dance(John)(t) & t ⊆ τ(x)]] (3)a entails that a particular past time is contained in every Monday and (3)b entails that every Monday is in the past.2 Neither of them is an unattested reading of the sentence. A correct representation of the sentence should be something like the following, (4) ∃t [t < s &∀x [Monday(x) & τ(x) ⊆ t → ∃t’[Dance(John)(t’) & t’ ⊆ τ(x)]]] where tense restricts the variable contained in temporal quantifiers. Analyses along this line imply that the semantic function of the two types of temporal adverbials is to be distinguished in relation to tenses. This paper is an attempt to answer the following two questions concerning the two types of temporal adverbials above: (i) what the semantic role of temporal adverbials is and (ii) how the tense interacts with temporal adverbials. 2. TWO RECENT ANALYSES We examine two recent analyses on this issue. One is by Pratt and Francez (2001) (henceforth P&F) and the other is von Stechow (2002). P&F treat both types of temporal adverbials in the same manner; they are what they call temporal generalized quantifiers of type <<e, t>, <i, t>>. Combined with temporal prepositions, they become expressions of type <<i, t>, <i, t>>, which takes unmodified VP denotations. It follows that tense interacts with both types of temporal quantifiers in the same manner. von Stechow on the other hand argue that two types of temporal adverbials should be distinguished regarding their semantic function. This means that they interact with tenses in different ways. 2.1. PRATT AND FRANCEZ (2001) The central idea proposed in P&F (2001) is the introduction of temporal variables in the denotation of nouns that occur in temporal preposition phrases. P&F analyze temporal quantifiers such as every Monday as temporal prepositional phrases with null temporal prepositions such as during. Sentences like John Kiyomi Kusumoto 101 danced every Monday are thus analyzed as John danced during every Monday. Monday as occurring in a complement position of a temporal preposition incorporates a temporal variable, as in (5)a. The denotation of every is of an ordinary generalized quantifier type. (5) a. b. [[Monday]] = λxλt[Monday(x) & τ(x) ⊆ t] [[every]] = λPλQ∀x[P(x) → Q(x)] When they are combined we get the following denotation: (6) [[every Monday]] = λQλt∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ t → Q(x)]3 P&F define the null temporal preposition during as follows: (7) [[during]] = λpλQλt[p(ly[Q(τ(y))])(t)]4 The entire temporal prepositional phrase thus denotes a function of type <<i, t>,<i, t>>. (8) [[during every Monday]] = λPλt∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ t → P(τ(x))] This is of the right type to combine with unmodified sentence denotations (VP denotations) since P&F analyzes them as follows: (9) [[John dance]] = λt∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ t]5 The final denotation P&F derive is the following: (10) [[during every Monday]]([[John dance]]) = λt∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ t → ∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ τ(x)]] P&F do not discuss tense, but as von Stechow (2002) says, it is not difficult to accommodate a well-known theory of tense, say a referential theory of tense into the picture. Under a referential theory of tense, tenses are treated on a par with pronouns (see Partee 1973, Heim 1994 etc.). Unlike pronouns whose semantic type is e (denoting individuals), tenses are of type i, denoting time intervals. In the following semantics, g is a variable assignment function and c is the context of utterance. (11) [[pasti]]g,c is defined only if g(i) is before the speech time tc. When defined, [[pasti]]g,c = g(i) With this semantics, the final representation of the sentence looks like the following: (12) [[during every Monday]]g,c([[John dance]]g,c)([[pasti]]g, c)= ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ pasti → ∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ τ(x)]] This correctly predicts the meaning of the sentence, where every Monday quantifiers over a contextually salient past interval. P&F further argue that not only what we call temporal quantifiers such as (during) every Monday, but also position adverbials such as in February should be given the same account. That is, they claim that all temporal adverbials are temporal generalized quantifiers. For instance, in February is analyzed as follows, depending on the context it occurs. (13) [[in (the) February]] = λPλt∃!x[February(x) & τ(x) ⊆ t & ∃x[February(x) & τ(x) ⊆ t & P(τ(x))]6 b. [[in (a) February]] = λPλt∃x[February(x) & τ(x) ⊆ t & P(τ(x))] a. 102 Temporal Quantifiers and Tense Sentences like John danced in February for instance receive the following interpretation when February receives an indefinite reading: (14) [[in (a) February]] g,c([[John dance]] g,c)([[past i]] g, c) = ∃x[February(x) & τ(x) ⊆ past i & ∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ τ(x)]] Comparing (14) and (12), we see that both types of temporal adverbials interact with tenses in the same manner. Tense restricts the variable contained in temporal nouns. 2.2. VON STECHOW (2002) One problem of P&F’s theory noted by von Stechow (2002) is about sentences involving temporal adverbials like today. Although P&F do not discuss today, their claim is that all temporal adverbials are temporal generalized quantifiers and therefore today, too, should be analyzed as such with a null temporal preposition. Following von Stechow, suppose that today is analyzed as on the actual day with the denotation given below: (15) [[today]]g,c = [[on the actual day]]g,c = λPλt∃!x[actual-day(x) & τ(x) ⊆ t & ∃x[actual-day(x) & τ(x) ⊆ t & P(τ(x))] Using P&F’s theory, the semantics of the sentence (15)a comes to (15)b. (16) a. b. John danced today [[on the actual day]]g,c([[John dance]]g,c)([[pasti]]g,c) = ∃!x[actual-day(x) & τ(x) ⊆ pasti & ∃x[actual-day(x) & t(x) ⊆ pasti & ∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ τ(x)]] The sentence asserts, according to the above interpretation, that the entire time span of today is in the past, which is obviously not correct. Other problematic adverbials include this week, this year etc. A Dowtystyle semantics works better in this respect. von Stechow (2002) concludes from this example that we should not treat all temporal adverbials in the same manner. von Stechow’s solution to this problem amounts to saying that temporal adverbials come in two types: (i) position adverbials (temporal adverbials like today) denote a definite time interval and therefore are of type i, and (ii) temporal quantifiers (temporal adverbials like every Monday) are temporal generalized quantifiers and are of type <<e, t> <i, t>>. Thus von Stechow adopts basic insights of Dowty for position adverbials and those of P&F for temporal quantifiers, supplemented with a theory of tense and aspect. According to him, today is analyzed as follows: (17) a. b. c. [[today]]g,c = today (= the time interval starting 0:00am of the day of the speech time and ending 12:00pm of the same day) [[on]]g,c = λtλt’[t’ ⊆ t] [[on today]]g,c = λt[t ⊆ today] Today is analyzed as on today with a null preposition on. On denotes a relation between two time intervals. Thus on today as a whole denotes sets of times included in today. The rest of von Stechow’s analysis of sentences with position adverbials goes as follows: Unlike temporal quantifier phrases, position adverbial phrases like on today do not take unmodified sentence denotations as their argument. Instead, they function as modifiers. Thus the denotations of unmodified sentences and position adverbial phrases are intersected. In sentences like John danced today, we intersect λt[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ t] and λt[λ ⊆ today]. The result is λt∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ t & t ⊆ today]. Applying this to the denotation of the past tense yields the correct interpretation. In the section that follows, we see a problematic example to both of the above theories. Kiyomi Kusumoto 103 3. SAUERLAND’S (2001) EXAMPLE Consider the following examples from Sauerland (2001): (18) a. b. I dance every Monday this month I danced every Monday this month Suppose that there are four Mondays this month, 6th, 13th, 20th and 27th. According to Sauerland, from 1st to 27th(before a dancing event takes place) the use of the present tense (18)a is appropriate. From 28th to 31st, the use of the past tense (18)b is appropriate.7 Under von Stechow’s theory, the sentence (18)b receives the following representations depending on whether this month modifies Monday or the VP: (19) ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ pasti & τ(x) ⊆ this-month→ ∃e[dance(I)(e) & τ(e) ⊆ τ(x)] ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ pasti → ∃e[dance(I)(e) & τ(e) ⊆ t(x)& τ(e) ⊆ this-month]] a. b. (19)a is a ‘so far’ reading. (19)b entails that all Mondays in a contextually salient past interval include my dancing event of this month. This latter representation captures the right meaning only when the assignment function happens to pick up the interval of this month. Otherwise, the sentence is a nonsense. Under P&F’s theory, we get the following interpretation: (20) ∀x[∃!y[month(y) & τ(y) ⊆ pasti & tc ⊆ τ(y)] & [∃y[month(y) & τ(y) ⊆ pasti & tc ⊆ τ(y) & Monday(x) & t(x) ⊆ τ(y) → ∃e[dance(I)(e) & τ(e) ⊆ τ(x)]] This has the same problem as the one pointed out by von Stechow. That is, it asserts that the entire time span of this month both include the speech time and is contained in a past time, which is impossible. A representation we want is something like: (21) ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ this-month → ∃e[dance(I)(e) & τ(e) ⊆ τ(x) & τ(e) ⊆ pasti]] where the past tense restricts the event time of the main predicate in the nuclear scope. 4. PROPOSAL I agree with von Stechow in that an elaborate theory of tense an aspect is crucial for an adequate theory of temporal adverbials. Thus, this section starts with a theory of tense and aspect. In the literature of sequence of tense phenomenon, more and more linguists accept that a distinction between semantic and morphological past should be distinguished (Stowell 1993, Heim 1994, Ogihara 1996, etc.). For the purpose of the present discussion, I follow Kusumoto (1999) and assume the following distinction between the two types of past tenses. (22) a. b. [[pasti]]g,c = g(i) [[PAST]]g,c = λP∃t[t < tc & P(t)] Unlike von Stechow, I assume that the morphological past is not completely empty semantically. It denotes a particular interval given by an assignment function. The semantic past is what yields the meaning of anteriority. I assume that it introduces an existential quantification over times. Bare VPs denote properties of events. (23) [[John dance]]g,c = λe[dance(John)(e)] The relations between events and times are introduced by aspectual relations (Kratzer 1998,cf. Klein 1994). A relevant aspectual relation here is called PERFECTIVE: (24) [[PERFECTIVE]]g,c = λPλt∃e[P(e) & τ(e) ⊆ t] 104 Temporal Quantifiers and Tense A simple sentence such as John danced is analyzed as follows: (25) a. b. John danced [[ [ TPPAST λi past i [ AspP PERFECTIVE [ VP John dance]]] ]] g,c = ∃t[t < t c & ∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ t] I also follow von Stechow (2002) and claim that temporal adverbials come in two types. Position adverbials (temporal adverbials like today) denote a definite time interval and therefore are of type i. Temporal quantifiers (temporal adverbials like every Monday) are generalized quantifiers and are of type <<e, t>, t>. I differ from von Stechow in the following way. In his system, tense always takes scope over temporal adverbials. This yields a desired result in the semantics of temporal quantifiers, namely that variables introduced by temporal quantifiers are restricted by tense. I argue, however, that, depending on the position of temporal quantifiers, tense may restrict a time variable in the restrictor or the nuclear scope. I show that this explains the pragmatic restriction of Sauerland’s example. Another small but crucial difference between P&F’s/von Stechow’s theories and mine is a treatment of type mismatch between temporal nouns and quantifiers. Nouns that occur in the complement position of temporal prepositions are defined to denote relations between individuals and intervals, unlike ordinary nouns that are usually assumed to denote sets of individuals. Quantifier denotations, however, do not reflect this difference. (26) a. b. [[Monday]]g,c = λt λx[Monday(x) & τ(x) ⊆ t] [[every]]g,c = λP λQ λt∀x[P(x) → Q(x)] Every requires an expression of type <e, t>, which Monday is not. Due to a type mismatch, nouns like Monday cannot be directly combined with quantifiers. P&F (and also von Stechow, who follows P&F) appeal to a special mechanism of pseudo-application (see note 3). I adopt Enç’s (1986) suggestion and argue that the time argument slot of nouns like Monday is saturated by a time variable in syntax: (27) This makes the entire temporal quantifiers like every Monday of type <e, <e, t>>, the ordinary generalized quantifier type. Position adverbials on the other hand are of type i. Thus, today denotes today (i.e., the time interval starting 0:00 am and ending 12:00 pm today) and this month denotes this month (i.e., the time interval starting 0:00 am of the first day of the month of the speech time and ending 12:00 pm of the last day of the same month).8 For null temporal prepositions, I adopt von Stechow’s more intuitive meaning: (28) [[on]]g,c = λxλy[τ(x) ⊆ τ(y)] where x, y are events, individuals or intervals Now let us come back to Sauerland’s example. (29) John danced every Monday this month One syntactic structure assigned to the sentence is the following, where tense takes scope over the temporal quantifier phrase. Kiyomi Kusumoto 105 (30) This structure is basically the same as what von Stechow would assign to the sentence. Thus, the semantic representation it yields has the same interpretation as von Stechow’s (cf. (19)a). (31) a. [[every ti Monday on this month]]g,c = λQ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ ti & ti ⊆ this month → Q(x)] b. [[John dance on ej]]g,c = λe[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ τ(ej)] c. [[PERFECTIVE]]g,c([[John dance on ej]]g,c) = λt∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ t & τ(e) ⊆ τ(ej)] d. [[λj pasti PERFECTIVE John dance on ej]]g,c = λj∃e dance(John)(e) & τ(e) ⊆ pasti & τ(e) ⊆ τ(ej)] e. [[every ti Monday on this month λj pasti PERFECTIVE John dance on ej]]g,c = ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ ti & ti ⊆ this month → ∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ pasti & τ(e) ⊆ τ(x)] f. [[(30)]]g,c = ∃t[t < tc & ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ t & t ⊆ this month → ∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ t & τ(e) ⊆ τ(x)] This yields a ‘so far’ reading. In the other structure, tense takes scope under the temporal quantifier. (32) 106 (33) Temporal Quantifiers and Tense [[every ti Monday on ei]]g,c = λQ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ ti & ti ⊆ ei → Q(x)] [[PERFECTIVE]]g,c([[John dance on ej]]g,c) = λt∃e[dance(John)(e) & τ(e) ⊆ t & τ(e) ⊆ τ(ej)] [[PAST λk pastk PERFECTIVE John dance on ej]]g,c = ∃t[t < tc & ∃e[dance (John)(e) & τ(e) ⊆ t & τ(e) ⊆ t(ej)] [[every ti Monday on ei λj PAST λk pastk PERFECTIVE John dance on ej]]g,c([[this month]]g,c) = ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ ti → ∃t[t < tc & ∃e[dance (John)(e) & τ(e) ⊆ t & τ(e) ⊆ t(x)] [[(32)]]g,c = ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ this month → ∃t[t < tc & ∃e[dance (John)(e) & τ(e) ⊆ t & τ(e) ⊆ t(x)] a. b. c. d. e. The final representation says that all Mondays of this month contains a past event of John’s dancing, and therefore correctly predicts that the sentence is inappropriate when uttered in the middle of this month. Notes * This paper is based on the talk given at the 58th conference of the Tohoku English Literature Society held at Hirosaki University, September 27-28, 2003. I would like to thank Jun Abe and Norimi Kimura for giving me this opportunity. I also thank the audience and Chris Tancredi for comments, discussion and/or English judgment. 1 τ is a function that takes an event or a time span and yields the time interval over which it occurred. 2 One might think that the problem stems from treating tenses as existential quantifiers. Assuming referential theory of tenses yields representations like the following: (i) 3 ∀x [Monday(x) → Dance(John)(pasti) & pasti ⊆ τ(x)], where pasti is a contextually salient past time. Thought this is not a scope paradox, the entailment this sentence has is the same as that of (3)b. There is a type mismatch here since every needs an element of type <e, t> whereas Monday is of type <e, <i, t>>. The following method is used to avoid uninterpretability. (i) 4 5 6 7 8 suspend the time variable of Monday [[Monday]] = λx[Monday(x) & τ(x) ⊆ t] (ii) apply the determiner meaning in the usual way [[every]]([[Monday]]) = λQ∀x[Monday(x) & t(x) ⊆ t → Q(x)] (iii) restore the time variable λQλtλ∀x[Monday(x) & τ(x) ⊆ t → Q(x)] p is of type <<e, t>, <i, t>>. P&F do not give an analysis as to how such denotations are to be derived in a compositional manner, especially where event variables and time variables come from. We will come back to this issue later. [[in]] = [[on]] = [[during]] Except for an implicit “so far” interpretation (Chris Tancredi p.c.) The compositional derivation of the semantics of this month is as follows: (i) (ii) [[month]]g,c =λxλt[month(x) & τ(x) ⊆ t] [[this]]g,c(P) is only defined when there is a unique day x and there is a time t such that τ(x) ⊆ tc, τ(x) = t, and that P(x)(t) = 1. When defined, [[this]]g,c(P) is that unique x. REFERENCES Dowty, David (1979), Word Meaning and Montague Grammar, Reidel Dordrecht. Enç, Mürvet (1986), ‘Toward a Referential Analysis of Temporal Expressions’, Linguistics and Philosophy 9, 405-426. Heim ,Irene (1994), ‘Comments on Abusch’s Theory of Tense’, in Hans Kamp (ed.), Ellipsis, Tense and Questions, 143-170. DYANA deliverable R.2.2.B, University of Amsterdam. Klein Wolfgang (1994), Time in Language, Routledge, London. Kratzer, Angelika (1998), ‘More Structural Analogies between Pronouns and Tenses’, SALT VIII, CLC Publication, Cornell University. Kiyomi Kusumoto 107 Kusumoto, Kiyomi (1999), Tense in Embedded Contexts, Ph.D. dissertation, University of Massachusetts, Amherst. Ogihara, Toshiyuki (1996), Tense, Scope, and Attitude Ascription, Kluwer, Dordrecht. Partee, Barbara (1973), ‘Some Structural Analogies between Tenses and Pronouns In English’, Journal of Philosophy 70, 601-609. Pratt, Ian and Nissim Francez (2001), ‘Temporal Prepositions and Temporal Generalized Quantifiers’, Linguistics and Philosophy 24-2, 187-222. Sauerland, Uli (2002), ‘The Present Tense is not Vacuous’, Snippets 6. von Stechow, Arnim (2002), ‘Temporal Prepositional Phrases with Quantifiers: Some Additions to Pratt and Francez (2001)’, Linguistics and Philosophy 25-5-6, 755-800. Stowell, Tim (1993), ‘The Syntax of Tense’, ms., University of California, Los Angeles. Proceedings of the 58th Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) 日本で育ち多民族(日本人・白人の両親のハーフ)である 青少年期女子の言語・文化・ジェンダーに関する アイデンティティーについて 鎌田 D. ローレル この研究は英国のランカスター大学言語学部において進行中の博士論文の一部分である.研 究対象は,日本で育ち日本の公立学校に通っている「ハーフ」の6名の思春期(12 才からの3年 間)の女子である.彼女らは両親の一方が日本人,もう一方が外国で育ち英語を母国語とする外 国人であるという環境に生まれ育った友人同士のグループである. 関西地方でインタナショナル・スクールがある環境の中にありながら,彼女らの家庭は彼女ら の教育に関して日本の学校を選んでいる.彼女らは,英語の使用レベルに差があり,英語の能 力が非常に高い者も,英語を理解することや,英語で表現することが殆どできない者もいる. この論文で主に使うデータに出てくる二人(リナとナオミ)は共に完全なバイリンガルであ り,読解力も非常に高い.フォーカス・グループのディスカッション(Focus Group Discussion) と形式ばらない面接を行い,ディスカーシブ・ディスコースの分析方法(Discursive Discourse Analysis)をとりながら,彼女らのさまざまな社会的アイデンティティーを検討した. 社会的構成論 この研究は社会的構成論(Social Constructionism)に限定し,すべての知識は歴史的・社会的に 個々の交流に基づいていることを示す.人が自分の世界のことについて表現する際に利用でき る言葉は,社会的・歴史的に伝わっている言葉である.言語はディスコースとして社会的世界を 作るものであり,人はディスコースも作るが,それと同様にプロデューサーでもある.世界の 事実を説明するのは,どのような説明でも可能であるが,どのような世界の説明・言葉であれ, 決して他の説明・言葉でそれを反対されることはなく,変更されない説明・言葉はない.どのよ うな説明でも,どのような反論でもその可能性がある. 社会的構成論は西洋モダニズムと相対するものである.西洋モダニズムは,知識が脳の中に 映る鏡のように,社会の反映が反射されたものと考えた.それに対し社会的構成論の世相は世 界がわれわれの概念を作らなく,われわれの概念は世界をそれぞれ見ることによって構築され ることになる.例にあげると,植物学者,庭師,不動産屋が皆違うように私の庭を見ているこ とがあげられる.これは,皆違う精神的分類で見ていることを示す.(Gergen, 2000, p.11). 世界を意味するのは世界の記述ではなく,言語として動作を行う事により世界が説明される. 現実という意味はすでに世界にある声,ディスコース,レプトワーズ(repertoires), などを使うこ とである.例えば, It is good.”「いいなあ」という文章は何も意味を表さない.しかし,ある夕 方ケンがタロウに,こたつの中でお酒を飲みながら,そのように言った場合に,その話の中に 意味ができてくる.そして,タロウが「いいなあ」と答えた時に,その言葉は新たに同意,結 束の意味になり,先ほどの言葉は意味が生じることになる(Gergen, 2000, p. 130-1 から適応した). 鎌田 D. ローレル 109 アイデンティティー この研究はアイデンティティーの構成に対する概念として,「主観性」(subjectivity)という言 葉を使う.アイデンティティーというのは固定的なことではなく,前後関係によって,アイデ ンティティーは変化し,変わることである.主観性は自分を構成するアイデンティティーを含 み,同時に,社会的に構成されるアイデンティティーも含んでいる.この研究対象の6名の女 子に対するアイデンティティーに関して,主にジェンダー(gender)と民族性(ethnicity)の主 観性を検討する. この理論的根本はディスカーシブ・ディスコース分析で検討した上で,この6名がどのように 言葉を使って,自分をポジショニング (positioning = 位置調整)するのかを分析し,言葉としての 働き,動き,効用,目的を分析することに主眼をおく.人は自分の世界を説明するためには解 釈的レプトワーズ(interpretive repertoires)を使うことをする. Potter & Wetherell によると, 解釈的レプトワーズは人が出来事と行動を説明するための言葉と隠喩であり,個人の記録から 出てきて,世界を説明する(1987, p. 138).この研究のデータに出てくるレプトワーズの例を次 にあげる.(実際に話した言葉は太字で,そしてその下の括弧に入る言葉はその日本語訳であ る.) 1. 多民族性に対して,アウトサイダー化にされるレプトワー *They call you “Hamigo” Then they completely bully you. (かれらが「ハミゴ」と呼んでから,完全にいじめる.) *They’ll call me 「外国人やから」とか (かれらが「外国人やから」とか呼ぶ) *It’s just that I sometimes was bullied by boys. (私は時々男の子にいじめられた.) *And they are like, “Well you’re kind of different, so. (そして,彼らは,例えば,「あなたはちょっと変わっているから」.) 2. 多民族性に対して,特殊に与えられるレプトワー *I feel that, yeah, I have many choices for my future and bilingualism kind of um, expands my future. (私は,そうですね,私の将来に対して沢山の選択の幅があって,そして,バイリンガルで あることは私の将来にとって,より広がりがあるように感じる.) 3. 日本の社会からアウトサイダー化レプトワー *I’m like really different from everyone. (私は皆と非常に違う) *I try to be different. (私は皆と違うようにしようとする.) 4. 日本の社会のメンバーとしてのレプトワー *Actually identity, I feel more of a Japanese citizen because Japan is where I have lived most, well ALL of my life and . . . (アイデンティティーについていうと,私は日本にずっと住んでいるので,ま,ほとんど住 んでいるから,日本人だと感じている) 5. 多民族性の人々と日本人との違い 身体的レプトワー *Here, if they’re people I meet for the first time, they’re like “Oh my gosh, she’s not Japanese” (最初に会おう人なら,彼らは,例えば,「へー,彼女は日本人ではない」) *Sara has a high nose, yeah 110 日本で育ち多民族(日本人,白人の両親のハーフ)である青少年期女子の 言語・文化・ジェンダーに関するアイデンティティーについて (セラは鼻が高いね) 精神的レプトワー *Yeah, because we thought we were very kind of mature, but mentally (そうね,われわれが非常に{ちょっと}大人らしいと思っていたけど,それは精神的に) 6. ジェンダーに対するレプトワー 男らしさ,男であることの方がよいレプトワー *I wish I were a boy. (男だったら,いいなあ.) 女らしさ,女であることの方がよいレプトワー *if you are girls they just let you be, but if they are boys they might bully you (女の子だったら,許せるけど,男だったら,いじめるかも) 人は話す時,社会的にそれまでにある単語と言葉の資源を機能的に使う.例えば,願うこと, 謝罪すること,そして沈黙することや間をおくことなど.人は一つのアイデンティティーのみ ではなく,いろいろなアイデンティティーズ(selves)を現在において,過去において,そして 歴史的にも異文化的にも異なった言語的行動で表現する(Potter & Wetherell, 1987, p. 102). イデオロジカル(概念学的)・ジレンマ 人はよく同じ出来事について二つの(矛盾する)ようなレプトワーズを使う.レプトワーズ に関して面白いことはこの二つのレプトワーズはどのような目的で使われるかという点にある. これはイデオロジカル(概念学的)・ジレンマ(Ideological Dilemmas)と呼ばれ,ディスカーシ ブ理論者に関するジレンマのお面白さがこの矛盾している二つの考え方がどのように同時に表 されるかという点に見られる.なぜならそれは,ある出来事や物に対する異なった話し方(説 明)は,何の背景もなく出てくるものではなく,少しづつ表出してくる歴史的・議論的交流の中 で対立的な二つの立場として発達してくるためである(Billig, et al, 1988, p. 204). データに出てくるイデオロジカル・ジレンマ 1. 他民族性: a.アウトサイダー化する,b. 特殊を与えられる 2. 社会的所属: a.日本の社会からアウトサイダーとしてのアイデンティティー,b.日本の社会 のメンバーとしてのアイデンティティー 3. 多民族性の人と日本人との違い: a.身体的で説明する,b. 精神的で説明する 4. ジェンダーに対する彼女らのアイデンティティー: a.) 女らしさ,女であることはよい特性, b.) 男らしさ,男であることはよい特性 位置づける「ポジショニング」(Positioning) 位置づけること(ポジショニング)には二面性がある.ある人のアイデンティティーを説明 す る場合は次に挙げる二つである. 1. 人に位置されること:歴史に位置づけられたり,他人に位置づけられることもある.ディス コースの構成されたポジショニングの面である. 2. 自分を位置すること,そして相手を位置づけること.個人的な意思で自分をポジショニング することである. Davis & Harré (2001, p. 262-263)によると,人があるポジショニングを受けると,その立場から世 界を見るようになる.しかし,そのポジショニングは固定されるものではなく,人と世界のデ ィスカーシブ行動を通じて構成したり,構成されたりするものである.人は過去から蓄積され た彼らの環境に利用できるレプトワーズを利用し,自分にポジショニングをしたり,再ポジシ 鎌田 D. ローレル 111 ョニングをしたりする(p. 264).ポジショニングはどのような時に起こるのかというと,それ は,特性をつけること,特定の個人の出来事の話しや,それぞれの人格に役割を課す時である. 言葉の社会的行動の機能だけではなく,その言葉はどうのように話し手の物語と相手に対する ポジショニングが認知されていくことにより出来ていく(p.269). データの分析:はみでる (データ # 1 参照) リナは,もし自分が男性であると判定した時,弟のレンと似ていると考える.言語的にも, ディスカーシブ的にも,この会話のお面白さはナオミとリナの一般に受けられている日本語の 翻訳ではない点にある.ナオミとリナは完全なバイリンガルなので,「はみでる」という言葉の 英語の解釈は特例な概念になる.和英辞書に「はみでる」の定義しているのは,“to protrude, to project, to jut out, to stand out.” 突き出るという意味になる.しかし,ナオミとリナは「はみでる」 の英語翻訳を同意している面白さは,‘being yourself in the society’ 「社会の中で自分らしくす る」または「はみでる」(目立っている)という意味を表している点にある.自分らしくする (‘being yourself’)ことを遠慮する必要があり,はみ出さず,目立たず,自分らしさの本質を隠す ことをする必要があるという意味である.78-79 行目でリナははっきりこのことを言う.“if you just try to be yourself and you’ll stand out from the crowd. . . .” (自分らしくしようとすれば,ハ ミデル.)リナのまとめは,男である場合,自分らしくするのは(女子よりも)難しいことにな る(78-79 行目). リナは自分の女子のポジショニングとして,男子よりも自分のアイデンディディーを表すた めに社会的境界がより広いというポジショニングを受けている.それに対して, “more Japanese than me (55,56 行目),”「私よりも,男子は日本人らしくしないと困る」.男子は,女子ほど社会 の中で自分らしさを表せない.リナは,男子には(女子よりも)社会的な重圧を感じている. リナは,自分の多民族性を隠して,同化しなければならないという圧力は,自分の弟に比べる と少ない.73,74 行目では, “if you’re girls they just let you be, but if they’re boys they might bully you”「女子だったら構わないが,男子だったら,いじめられる可能性が高くなる」という言葉 は,彼女のように多民族性を背景に持つ場合,日本社会の中においての女子は男子よりも安全 な立場を持つということになる.リナの使っているレプトワーは女子よりも,男子の方が being themselves”自分らしくすることによって,いじめられる可能性が高くなることを示す. データの分析:大人らしさ:精神的な (データ # 2 参照) 大人らしさ(maturity)という課題を最初に出したのはリナであった.次の話しはその続きで, 日本人と多民族性を背景に持つの女子達の大人らしさに対する違いについてのものである.(デ ータ#2を参照) リナのレプトワーは彼女の多民族性(multi-ethnic)の友人は日本人の友人よりも「精神的に大人 らしい」(”mentally mature”)ということを示す.リナによると日本人の女子の友人同士での話と 遊びは(‘low level stuff’)「低いレベルのもの」と捉えている,例えば,犬の散歩や外の遊び, 雪の中の遊びなどである.これに対して,リナは,もっと大人らしい多民族性(multi-ethnic),つ まり女子仲間は家の中で,音楽を聞いたり話したりすることであると言う. リナのポジショニングは自分に対して特殊であることを与えていたが,今度,リナは別の注 意深く言葉を選んだレプトワーも使ってイデオロジカル・ジレンマを表している.それはその日 本の女子の友人は(“catching up”)「追いつこうとしている」ということを意味する.この場合, リナは,日本人女子をポジショニングするのは,多民族性女子のように「大人らしい」という ことに関して共通の興味を持っている.リナは日本人の女子が,最近リナと共通の話題を楽し めると言っている( well basically the same interests )「ほとんど同じような興味」「社会的所属」 というテーマでは日本の社会からアウトサイダー化(例えば,「私は違う」)のようなレプトワ 112 日本で育ち多民族(日本人,白人の両親のハーフ)である青少年期女子の 言語・文化・ジェンダーに関するアイデンティティーについて ーも使うし,そして日本の社会のメンバー(日本人の友達も大事)も使っている.次に説明するこ の話の続きではもう一つのテーマにつぃての例を示す.それは多民族性女子や日本人女子の身 体的違いのことについてである. データの分析:大人らしさ:身体的な (データ # 3 参照) 精神的大人らしさはとても計りにくいが,身体的大人らしさは思春期の女子においては,生 理の始まりにより計ることができる.このことに関して,リナは日本人の友人と比べて遅れて いる.生理が始まるという出来事は女子にとって,とても大切な意味を表す.Lovering 氏 (1995) と Coates 氏 (1999)の研究では女子の生理に対するディスコースはほとんど否定的である. しかし,これに対して,リナのレプトワーは積極的で,生理の始まりは大人らしさと関連して いるディスコースになる. 結果的には,リナは自分と多民族性の友達が日本人の友達よりも精神的に大人らしいポジシ ョニングをしているが,自分と多民族性の友達,日本人の生理もすでに始まった友達に比べる と,身体的に遅れていることは説明できない. まとめ 最後に,このデータは一部であるが,このデータの分析において,いくつかのイデオロジカ ル・ジレンマが見える.日本に住んでいる多民族性の人は目立たなく,はみださないような行動, 格好をする必要がある.多民族性の「自分らしさ」は,自分の特性は一方では隠さないとアウ トサイダー化になるが,もう一方では,多民族性の女子達は自分の特殊化というポジショニン グもする.例えば,「精神的に大人らしい」というポジショニングをする.ジェンダー・ポジシ ョニングも彼女らの話のレプトワーに出てくる.例えば,「多民族性男子の方は女子よりも社会 的な圧力が激しい」,「多民族性男子は自分らしさを隠さないといじめられるが,同じことをし ても,女子だったら許される.」 「多民族性」というテーマではアウトサイダー化する(いじめられる)のようなレプトワー も使うし,そして相手に対して,自分が特殊性を与えられることになる.「(かれらは)低いレ ベルのもの」,「(われわれは)精神的に大人らしい」など.[{about them}“low level stuff”; (about us) “We’re more mentally mature”].それに対して,身体的には「(われわれ)が遅れていて,(か れらは)身体的に大人らしい」がある.このようにこの6名の多民族性女子の例から,レプト ワーズを使うことにより,自分をポジショニングをしたり,相手をポジショニングさせたり, そして相手のポジショニングと社会的なポジショニングをされたり,反対されたりすることを 明らかにした. 参考文献 Billig, M.; Condor, S.; Edwards, D; Gane, M; Middleton, D; Radley, A. (1988). Ideological Dilemmas: A Social Psychology of Everyday Thinking.Sage, London. Coates, J. (1999). Changing Femininities: The talk of teenage girls. In Bucholtz, M.;Liang, A.C.; Sutton, L. Reinventing Identites: The Gendered Self in Discourse. NY and Oxford: Oxford University Press. Davis, B. & Harré, R. (2001). Positioning: The discursive production of selves. In M. Wetherell, S. Taylor, & S. Yates (Eds.), Discourse Theory and Practice: A Reader. London: Sage. Gergen, K. (2000). An Invitation to Social Construction. London: Sage. Lovering, K. M. (1995). “The bleeding body: Adolescents talk about menstruation.”In S. Wilkinson and C. Kitzinger (eds.), Feminism and Discourse: Psychological Perspectives, 10–31. London, Sage. 鎌田 D. ローレル 113 Potter & Wetherell, M. (1987). Discourse and Social Psychology. London: Sage. Potter, J & Wetherell, M. (2001). Unfolding discourse analysis. In M. Wetherell, S. Taylor, S. Yates (Eds.), Discourse Theory and Practice. London: Sage. Schilling, C. (1993). The Body and Social Theory. London: Sage. Wetherell, M. (2001). Themes in discourse research: The case of Diana. In M. Wetherell, S. Taylor, & S. Yates (Eds.), Discourse Theory and Practice: A Reader. London: Sage. Wetherell, M; Taylor, S.; Yates, S. (2001). Discourse Theory and Practice: A Reader.London: Sage. Wetherell, M; Taylor, S.; Yates, S. (2001). Discourse as Data: A Guide for Analysis.London: Sage. データ #1: はみでる R = リナ: 13 才女子(中学校1年生) N = ナオミ: 13 才女子(中学校1年生)L = ローレル イタリック=言葉の翻訳:次の行で,あるいは同じ行で括弧の中 ボルド=実際に話した言葉 50 R: If I was a boy, I think I, I don’t know, I think I’d be really similar to my brother, 51 Ren. 52 男だったら,そうね,家の弟のレンのような感じ 53 L: Yeah, what’s he like? (あっそう,彼はどんな人) 54 R: Well, I mean, even if he is, I mean he is into Japanese society and he seems more 52 Japanese than me, but that’s because boys are more difficult to get out of this society 53 than girls. 54 だから,かれは私よりもずっと日本の社会になじんでいる,それは男の子は女の子より社会 55 から出るのは難しい. 56 L: Get OUT of the society? 57 社会から出るって? 58 R: Well not ‘get out’, どうか,何というかな,はみでる,はみでる? 59 出るんじゃなくて,I mean, how do I say that? Hamideru, Hamideru [They stand out.] 60 N: ah, um, be yourself in the. . . 61 えっとー,自分のように 62 R: yeah, be yourself in the society. 63 あそうだ,社会の中で自分のようにする 64 L: in Japan? (日本で?) 65 R: Yeah. (そうよ) 66 L: Do you think he’s more, You said you think he’s more assimilated to Japanese than you. 67 どう思う?かれはもっと,あなは,かれがあなたより日本に順応している. 68 R: Yeah, because, I mean if you’re in, if you’re girls they just let you be, but if 69 they’re boys they might bully you. 70 そうよ,だから,もし,女の子だったらそのまま許される,けど,男だったら,いじめら 71 れる. 72 L: Oh, I see. (あ,わかった.) 73 R: If you’re, if you just try to be yourself and you’ll stand out from the crowd, so I 74 think it would be much harder to just be yourself. 75 もし,自分のようにすれば皆からはみ出ってしまって,だから,男だったら,自分のように 76 することはもっと難しい. 77 L: uh-huh. (ええ.) データ#2: 精神的な大人らしさ R =リナ: 12 才女子(小学校 6 年の終わりごろ,3 月) L = ローレル L: Do you find that all of you are more mature than the Japanese girls your age? あなた達(のハーフの)女の子たちは同じ年齢の日本人の女の子たちより大人らいと思いますか? R: Oh, well, yeah, in a way, yes. Yes. そうですね,ある意味では,そうですね. L: In what way, would you say? どのようにだと思う? R: Mentally. 精神的. 114 日本で育ち多民族(日本人,白人の両親のハーフ)である青少年期女子の 言語・文化・ジェンダーに関するアイデンティティーについて L: Mentally? What does it mean ‘mental maturity’ though? 精神的?精神的に大人らしいって,どういう意味でしょうか? Well like, um . . . like in what we do. Like they prefer, um, to play outside you know, play outside and uh in the snow, when it snows and stuff, while we would rather, um, on cold days like that, go indoors, and play music (laugh) and talk and stuff and you know all the teenage girls’ stuff (laugh). だから,えっと,たとえば,われわれのすること.例えば,彼女らは,えっと,外の遊びの方が好で, えっと,雪の中とか.雪の振る時.私たちは,そのような寒い日には,家の中で,音楽を聞いたり, 話したり,テイーンエジャー「10 代の女の子達」がするようなこと,とか. Yeah.(はい.) But, um, yeah they seem to be kind of more outdoor, you know and you know walking dogs and all that kind of thing and also that our conversations a year ago, our conversations didn’t seem to match. They’d be talking about more kind of low level stuff. We’d be talking about more. . . you know like music and that kind of stuff, but this year I feel like they are all catching up, so it’s much more, easy to play with them, because we all seem to share the same interests--well basically the same interests. でも,ね,彼女はもっと外のような,だから,犬の散歩とか,そのようなこと.一年前にはわれわれ の話はあわなかった.彼女らは低いレベルのことについて話したりしたけど,今年彼女らは話題につ いて来ていているから,彼女と一緒に遊びやすくなっていて,同じような興味があって,まあ,殆ど 同じように. I see.(んー.) Yeah. (えー.) R: L: R: L: R: R = L: R: L: R: L: R: L: R: データ#3: 身体的な大人らしさ リナ: 12 才女子(小学校6年生の終わりごろ,3月) L =ローレル What about PHYSICAL maturity? 身体的に大人らしいというのは? Well, none of us bilingual girls have gotten our periods yet and all, most of my school girlfriends have periods. んー,われわれのバイリンガルの女の子達は生理がまだ始まらないけど,殆どの学校の友達が始まって いる. Oh really. あっ,本当? Yeah because we thought we were very kind of mature, but. . . そう,われわれは大人らしいと思っていたけど yeah へー . . . mentally (laughs) yeah. 精神的に Interesting. 面白いね. Yeah, yeah. Very interesting. そうね,とても面白い. (数行後) L: That really surprised me that they, that they had their periods before . . . それは驚いた.それ,彼女等の生理は, R: Yeah. ねっ. L: Yeah. ねっ. R: because I thought that we’d have them way before them, but . . . わたしは彼女らより早く始まると思った.けど, L: yeah そうね. R: . . . none of us have gotten. われわれ,だれにも,まだ Proceedings of the 58th Conference The Tohoku English Literary Society (March, 2004) 多文化教育の視点を取り入れた授業の展望 James M. Hall Education is not the Filling of a Pail, but the Lighting of a Fire − William Butler Yeats 始めに 多文化教育の理想的な教育法は,詩人 William Butler Yeats が述べるように,知識を注入する ことではなく,「火をともす」ことだと私は思っている.そして,多文化教育がどのように “The Lighting Of a Fire” できるのか,と問われれば,学生・教師双方が自分の信じてきた価値観を意識 化し,もう一度問い直すことにあると答えたい.そこで,この論文では多文化教育の概念に基 づき,多文化教育のカリキュラムを通して教師と学生が自分の価値観を問い直すことを目指す ために行った授業について述べ,更に,今後の多文化教育の授業のあり方について考えてみた. 1.0 多文化教育とは 多文化教育は幅広い分野であり,固定した教授法がない.Banks and Banks(2003)によると,多 文化教育は 1 つの科目やプログラムではなく,むしろ教育全般において,障害がある集団,下 級階級集団,少数派の言語的背景を持つ集団,少数民族集団,そして女性に対する公正さを実 現しようとするの様々なプログラムや教授法の総称であると述べている(6).多文化教育は, 教育現場の事情(地域や学生の構成など)や取り入られる科目(理科や歴史など)によって異 なってくる.また,多文化教育は学生中心の教育法だともいえる.なぜなら,多文化教育の視 点を授業に取り入れようとする教師は,学生と地域の教育事情を必然的に考えなければならな くなるからである. 2.0 多文化教育の前提 Pamela and Iris Teidt の Multicultural Teaching Handbook の多文化教育のコースを支える Assumption(前提)のリストを参考にし,大学の教育事情に合わせた多文化教育を含むカリキュラ ムの開発に取り組んだ.まず,このリストから筆者の勤務する大学でも通用すると思われる二 つの前提を選び,これを授業の基盤にした. 2.1 前提 1 :我々は多文化社会に住む [省略] we live in a multiculture, a society comprised of many diverse cultures. All of living, including schooling, involves contact between different cultures and is therefore multicultural [省略]… (Teidt & Teidt, 2001:27) 小・中・高等学校で,日本人生徒ばかりの環境になじんできた日本の大学生にとって,日本が 多文化社会であるということは考えがたいようである.しかし,1990 年から 2002 年までの日 本における外国人の登録者は 1,075,317 人から 1,778,462 人に増加し,総人口に占める割合は 1.5% になった.更に,日本における国際結婚が 1988 年から 1998 年には 2 倍の 28 組に 1 組 となり,総出生数の 38 人に 1 人は親が外国人であるという(130). 116 多文化教育の視点を取り入れた授業の展望 このような現状にあるが,日本が単一民族国家かどうかを考える際に,日本人ではない民族 は無視されやすいという恐れがある.例をあげると,1996 年度の秋季人権週間での講演会にお いて,立教大学の非常勤講師である作家,徐京植(ソ・キョンシク)は,在日朝鮮人としての立 場から,このような話をした. ある教員が在日朝鮮人の学生にあっさりと,「日本籍に帰化して一流企業に入ればいいじゃな いか」と言った.しかも,なぜそれが差別になるのか,よくわからないという人がたくさんい るそうだ(立教大学人権問題委員会, 1996 : 13).なぜ日本人には,このような典型的な反応 があるか「多くの人々は,基本的人権は日本国民にのみ許された特権であると今でも解釈して います」(27)からだ. 上記の現状を考えると.これから先いつか異文化の子供を教える可能性が高い,将来教員と なる学生にとっては,少数派の視点を受け入れるための多文化教育を含めた教育を受けること が,今後重要な鍵になるだろうと考えられる. 2.2 前提 2 :我々が住んでいる社会は偏見に囲まれていて,我々の考え方はこの偏見に大きい . 影響を与えられている.このことを認めることが必要である. We should not pretend or aim to be creating teaching materials that are bias-free. Instead, we should guide students to recognize the biases from which they and all people operate. (Teidt & Teidt, 2001:27) Teidt & Teidt は,偏見がない教材を作ることは難しく,偏見がない教材を作るより学生が囲 まれている周りの偏見に気が付くように指導すべきであると主張する.偏見とは,自分の価値 観や考え方が正しい,又は,当たり前だと考えがちなところから生まれる.ここで,多文化教 育の目的をもう一度振り返ってみると,学生が,教師が,そして社会全体が,偏見の存在に気 付き,それぞれのものの見方を考え直すことができるようになることが目的ではないかと考え た.そして,学生にとって多文化教育とは,頭が知識でいっぱいになるのではなく,意識に火 をつけて考えるきっかけを得ることなのではないだろうか.将来教員となる者には本当にこの ような教育が大切だと私は考えるのである. では,ここで前提 1 と前提 2 を基本とし,現在主流とされている社会的視点を判断的に見よ う(critically think)と試みた授業について紹介する. 3.0 主流社会の価値観を問う “The Hero Class” の工夫と実践 今年度前期英語科教育法において,5 月の末から 6 月の中旬, “The Hero Class” というテーマ で授業を行った.受講生は 3 学年,または 4 学年であり,人数は 20 名であった.全ての受講 生は学校教員養成課程の学生であり,その中でも英語科教育を専攻する学生は 17 名であった. この受講生以外に,インドネシアの留学生 1 名が聴講生として授業に出席していた. 授業の流れは以下のとおりである. ①全学生に, “Who is your hero and why ?” という質問を与え,答えを求めた. ②学生が 5 つのグル−プに分かれ,各グループでクラス以外の日本人5名と外国人5名を大学 内でランダムに探し,①と同じ質問を英語で行い,回答を収集した. ③次の授業で,①②の結果を分析した. “Who is you hero and why?”という質問への回答者は,英語科教育法の受講生を含めて,出身は 11 カ国で,日本人は 42 名,日本人でない者の人数は 21 名であった.日本以外の国籍と回答 者の人数は:アメリカ合衆国-5 人,中国-3 人,インドネシア—2 人,韓国—2 人,フィリピ ン—2 人,ミャンマー—2 人,アルゼンチン—1 人,ザンビア—1 人,ブラジル—1 人,マダガ スカル—1 人,マレーシア—1 人. James M. Hall 117 3.1 ヒーロー:トピック選択の意義 G・ホフステードの「多文化世界」に掲載された文化論を参考にしながら,この授業活動を工 夫し,実践した.ホフステード(1995: 7)は次のように「ヒーロー」を定義している. ヒーローとは,その文化で非常に高く評価される特徴を備えていて,人々の行動のモデル とされる人物である.現在生きている人物である場合も故人である場合もあり実存の人物で ある場合も架空の人物である場合もある.おとぎ話や漫画の主人公の場合もある.…省略… 現在のようなテレビ時代には,ヒーローの条件として,以前よりも外見が重視されるように なっている. 学生や,留学生にとって「ヒーロー」が誰であるかを明らかにする目的を,日本における目に 見える文化(物・人など)を通して,目に見えない文化(価値観)に気が付き,さらに主流的な視 点を持たない少人数派の存在に気がつくこと,とした.そして,教師と学生は少数派と主流派の 価値観を理解し,自分の所属する集団の価値観を判断的に考えることで,主流視点の改善を考え ようとするきっかけとなるように工夫した. 図 1 価値観の固定的・否定的面 ホフステードは,人間の価値観というのは文 化の最も中枢であり, 「ある状態の方が他の状態 より好ましいと思う傾向である」(8)と述べてい る.価値観にはそれぞれ肯定的,否定的な面が あり,文化の価値観によって「良い,悪い」, 「美しい,醜い」等は異なってくる.図 1 はホ フステードを参考にし,価値観のそれぞれの固 定的・否定的な面を分類したものである.実際, 子供は 10 歳までにこのような体系をしっかり 身につけてしまうため,それを変えようとする ことは非常に難しくなるそうだ. 3.2 結果と授業における分析 付録 A は,学生が収集したデータである.ここで,授業で全ての回答者があげたヒーローは, 学生達自らが作ったカテゴリに分類されている.この表が示しているように,総計で 63 名は 48 のヒーローを選び,一番多いカテゴリは「Family」,二番目に多かったのは「Comic Book Hero」であった.教師は,学生にこの結果を見せた上で,次の 2 つの論点を提示した.一つは, 日本人のヒーローのとらえ方はどうであるか,もう一つは,なぜ男性の方がヒーローとして多 く選ばれたのかである. 3.21 課題 1 :日本人のヒーロ ーのとらえかた 表 1 では,回答者を日本人と 日本人ではないグループに分け, 各グループがあげたヒーローの タイプが載せてある.日本人の 回答者が一番多く選んだタイプ は「Comic Book」と「Pop Star」 であり,日本人でない者が多く 選んだタイプは「Family」であ った. この結果に,学生は次のよう 118 多文化教育の視点を取り入れた授業の展望 な理由をジャーナルに書いている. ① ② Maybe teacher had better to give questions for us concretely. Japanese’s hero is different from Non-Japaneses’. …省略… hero has the meanings of not respect (Family) but longing (Pop Star, Comic Book Character, Athlete) in case Japanese people. If we are asked, “who is your respectable person?, we may answer “my father,” “my mother,” “my parent” and so on. このジャーナルのコメントからわかるように,日本人と日本人ではない者ではヒーローのイ メージが違うのではないかという意見が多くあった.そこで,日本語の辞書(新村出編:1997) と英語の辞書(Random House:1987)でヒーローの定義を調べたところ,次のように表記されて いた. 両言語の辞書によるヒーローの定義は大きくは異なっていないが,漫画またはテレビの影響 が大きいためか,多くの日本人学生がヒーローを思い浮かべるとき,学生のコメント②でも述 べられているように a person of longing ,つまり idol のような人物を考える傾向にあることが わかった.しかし,日本人が選んだヒーローと,日本人ではない者が選んだヒーローとを比較 した時の問題点として,回答者が少ないことと,日本人以外の国々の中での文化の多様性を無 視されること,これらの二つの要因により,学生の収集したデータから比較に関して確実な結 論を出すことは出来なかった. 両者を比較しての結論がはっきり出なかったとしても,日本人でない者の考えるヒーローは, 多くが「家族」であり,日本人学生が挙げたヒーローのカテゴリとは異なっていることから, 学生はこれまでとは違った認識を持つようになったようだ.つまり,行動のモデルであるヒー ローは,アイドルや選手だけではなく,家族の人でも挙げられるということに学生は気がつい たのである.この場合,見える文化はヒーローであり,見えない文化は人々にとって価値があ るヒーローの特徴だと言える.さらに,学生と一緒にホフステドの価値観に再び戻って考えて 見たが,この時も,「ヒーローは尊敬すべき人か」,「ヒーローは美しいか」,「ヒーローはたくま しいか」など,学生がその多様なとらえ方に気がついたようだった. このように,この授業の中で学生は自分が考える以外にも,もっと様々な価値観があること を認識することができたと言える. 3.22 なぜ,男性の方がヒーローとして多く選ばれたのか? 表 2 日本人と日本人ではない回答者の格性別が選んだヒーローの性別 James M. Hall 119 表 2 のように,回答者を日本人と日本人ではない者に分類し,回答者が日本人か,日本人で はないか,男性か,女性か,にかかわらず,男性をヒーローとして多く選ぶ傾向がみられた. 「なぜ,男性の方がヒーローとして選ばれたのか?」という問題と上のデータについて,学生間 で次のようなディスカッションが行われた. A) B) C) D) 日本では男の英雄はヒーロー,女の英雄はヒロインとは呼ばれています,その影響が 大きい. Most people have an impression that hero is a man not woman. So we should ask, “who is your hero or heroine?” Man’s status tends to be seen higher than woman’s status. Japanese tend to think man is stronger physically mentally than woman. (学生のジャーナルから抽出) 上のように,AとBのコメントのグループは,CとDのコメントのグループと議論になった. A・Bをコメントしたグループは,言葉の定義上の問題で多数の回答者がヒーローに男性を選ん だと述べ,C・Dをコメントしたグループは我々が住む社会では,女性より男性の方が高く評価 されているからだ,と主張したのである.A・B グループの意見も C・D グループの意見も裏付 けがなければ,もちろん否定することができない. 「広辞苑」(新村出編 1997)でヒロインの定義を調べてみると,「事件又は小説・物語・戯曲の女主 人公」のように定義されている.それにもかかわらず,ヒーローは男の英雄,ヒロインは女の 英雄と思っていた学生が多かった. そこで,次の授業で,主流的な視点にどれくらい女性が現れているかを考えるために,日本 の学校で使われている歴史と理科の教科書に登場する男性人物と女性人物の割合を調べてみた. その結果,女性の方が非常に少なかったのである.そして学生から,女性は,主流社会ではあ る程度疎外されているという結論が出され,ヒーローの調査の中で男性が多数を占めたことに, このことがある程度影響を及ぼしただろうということも話合われた. 4.0 ディスカッション 今回の授業の「目に見えない文化を判断的に見る」という課題は,前提 2 の「我々が住んで いる社会は偏見に囲まれていて,我が考え方はこの偏見に大きい影響を与えられ,これを認め ることが必要.」に由来している.さらに,「ヒーローは?」という調査をとおして,主流的な 視点を含まない少人数派の存在に気がつく目標が,前提 1「我々は多文化社会に住む」と関係し ている. 授業の結果から,前提 2 について学生が特に実感することができたと思われる.学生が,授 業中のディスカッションで,なぜ男性が多くヒーローとして選ばれたのだろうか,という疑問 をきっかけに,「ヒーロー」という言葉上の問題のせいである,または男性が女性よりも高く評 価されているからである,という仮定をたてた.そして,女性はなぜ教科書にはあまり載って いないのだろうかということや,なぜ男性の方が「heroic」のように考えられているか,という 疑問に取り組み,女性の視点を少し抜きにしている主流的な視点を判断的に見極めることも出 来た.つまり,主流的な視点は女性に対する偏見を持っているかどうか,ということについて 学生自らの力で判断的に考えることができたのである. 前提 1 については,日本人ではない者を回答者に含めた理由として,調査に「少数派の視点」 を入れたいという目的があった.しかし実際は,日本人ではない者の回答者が少なすぎたため, この調査からは,もう一つの論点である「日本が多文化社会であるか」にまで行きつくための 裏付けとなる結果を出すことは出来なかった.ただ多くの学生が,日本人ではない回答者がヒ ーローとして「家族」を多く選んだことに驚きを見せ,彼らの違う価値観に気付づくことで自 らを考え直すという体験が出来たと私は思っている. この授業の大きな目的は,教師が学生の価値観を変えようとするのではなく,むしろその学 生自らが自分の価値観に気付き,それをもう一度問い直すことであり,教師の役割は,機会を 120 多文化教育の視点を取り入れた授業の展望 提供し,その援助をすることであった.この授業の中で学生に「問い直そうとする意識」が生 まれたのであれば,私は大変嬉しく思う. 5.0 結論と多文化教育の展望 多文化に関する理解も自分の文化に関する理解も,他国と自国についての事実を集め,ただ 比較することではなく,むしろ長時間に渡る学習者の意識の問い直しを通して,再構成してい くことだと私は考える.そこで,多文化教育の視点を入れた授業の中での教師の役割は,学習 者の意識の問い直しを導くことであると私は考えている.日本における多文化教育の,現在の 最も重要な課題は,学習者の意識の問い直しを導くことではないだろうか.そこで今回の授業 の結果からわかった,学習者の意識の問い直しに成功するための条件として,次のような項目 を挙げてみた.参考になれば幸いである. 一:最も大切 学習者が発言できるような授業環境を作ること 学習者が自主的な学習方法を身につけられるように,サポートすること 二:不可欠 学習者の興味に合う,又は学習者の生活と関係があるテーマを考える 学習者にはっきりとした目標を提示すること (例:私たちが囲まれている見えない文化について検討する) 多文化教育で使うテーマは,学習者が受けている他の授業科目と関連がはっきりしていること 一の条件は主に学級の雰囲気と学習者の態度に関連している.一方,二の条件は授業の内容 に関連している.今回この論文では,どのようにこれらの条件を実現できるかについて充分に 述べられていないため,今後の研究でそれぞれについて論じていきたい. 多文化教育は幅が広く,その教育方法を具体的に述べることは容易ではない.しかし,幅が 広いからこそ,また柔軟性もあると思う.この柔軟性を生かすことによって,多文化教育は 様々な科目に渡り,さらに小・中・高等学校のいずれの段階においても,私が述べた上記のよう な条件をふまえて行われる限り,通用する教育法であると考える. 参考文献 Banks, J. A. and C.H. McGee Banks (eds.), 2003. Multicultural Education New York: John Wiley & Sons Barfield, A. and Nix, M. (eds.), 2003. Autonomy You Ask! Tokyo: Japan Association of Language Teaching 江原武一. 2000『多文化教育の国際比較』玉川大学出版 Erickson, F. 2002. “Culture in Society and Educational Practices” in J.A Banks and C.H. McGee Banks(eds.) Multicultural Education New York: John Wiley & Sons G.ホフステード/岩井紀子・岩井八郎訳. 1995.『多文化世界』有麦閣 榎井緑. 2000.「新しい外国人・ニューカマーの子供の日本語・母語指導について」山本雅代編 『日本のバイ リンガル教育』明石書店 李節子. 2002.「いのちをみつめる在日外国人の母子保健−多様性を尊重しながら」in 渡戸一郎・川村千鶴子 編『多文化教育を拓く』明石書店 立教大学人権問題委員会. 1996. 『人権シリーズ第五集』立教大学 新村出編. 1997.『広辞苑辞書 第四版』岩波書店 Teidt, P.L and Teidt, I.M., 2002. Multicultural Teaching Boston: Pearson Education The Random House Dictionary of the English Language 1987. New York: Random House 渡戸一郎. 2002. 「広がるマルチカルチュラルな社会空間と多文化主義の課題」 渡戸一郎・川村千鶴子編 『多文化教育を拓く』明石書店 James M. Hall 121 122 雑 録 2003(平成 15)年度東北英文学会評議員会議事録 日時 場所 出席者 9 月 27 日(土) 弘前大学 共用会議室 会長 事務局員 評議員 午前 11 時 30 分より 12 時 30 分 原 英一 齋藤 智香子 13 名 議 題 1.平成 15 年度事業報告 原会長から,以下の事項について報告があった. ・大会準備委員会の開催.(4月,7月) 研究発表応募原稿の審査等を行った. ・東北英文学会賞:今年度は応募者なし. ・大会 Proceedings 第二号の発行. 第 57 回大会の発表者,司会者へ原稿を依頼. 2003 年 3 月に発刊. 2.平成 14 年度決算 原会長から,本年度の決算について以下の報告があった. ・準備委員には,委員会の度にわざわざ青森から仙台まで足を運んでもらったので, 前年度と比較すれば,一時的に旅費が増加している. ・大会資料の印刷を安い方法に変えることで出費を抑えた. ・ Proceedings の印刷は充実したものになった. 3.平成 15 年度予算 原会長から,来年度の予算案について以下の提案があった. ・個人会員制をとるようになった過去二年間の決算を省みて,収入よりも支出が多 いのが大きな問題である. ・解決法としては年会費を上げることも考えられるが,今回は行わず,来年度は予 備費を取り崩す形で事業を行う. 決算と予算案の詳細については,大会 Proceedings 第三号において報告することになった. 4.来年度開催校 原会長から,評議員への検討依頼があった. 5.質疑応答 ・評議委員の在り方について個人会員制となった現在も,団体加入方式であった過去 の選出方法を踏襲していることについて,疑問が投げかけられた.福島大学の川田 潤評議員より,日本英文学会のように5名以上の会員がいる大学が評議員を推薦で 雑 録 123 きるようにしてはどうかという提案があった.原会長から,来年度の予算案につい て以下の提案があった.原会長より,一つの大学で5名以上の加入者のいる大学は それほど多くないので,2 〜 3 名という基準で考慮してみるという回答があった. 原会長から,改革にともない様々な問題点がでてきているので,また後ほど E-mail 等 で検討するという提案がなされた. 6.会長選挙 原会長の任期満了に伴う会長選挙の投票が行われ,現会長の原英一氏(東北大学大学 院文学研究科)が,満票で再選された. 原会長から,かつて会長定年制についての議論があったことへの言及があり,会長の 任期は二期までとしてはどうかという提案がなされた. 124 雑 録 125 会 員 名 簿 ©東北英文学会 2003 ○この名簿は 2004 年 2 月 15 日までに登録(会費納入)された会員を掲載しています. ○名簿は姓の五十音順です. ○電話番号は掲載しておりません.必要な場合は事務局までお問い合わせください.ただし.会員以外の方 には回答いたしません. ○この名簿の無断転載を禁じます. *印は評議員.(院)は大学院生. 専門分野の略号はおおよそ次の通り.(英)=英文学.(米)=アメリカ文学.(語)=英語学.英語教育. (教)=英語教育.(比)=比較文学.比較文化.(コミ)=コミュニケーション論 氏 名 〒 住 所 PDF版では名簿は公開しておりません。 所属先等 専門 分野 126 氏 東北英文学会会員名簿 名 〒 住 所 所属先等 専門 分野 127 東北英文学会会員名簿 氏 名 〒 住 所 所属先等 専門 分野 128 氏 東北英文学会会員名簿 名 〒 住 所 所属先等 専門 分野 129 東北英文学会会員名簿 氏 名 〒 住 所 所属先等 専門 分野 130 東北英文学会会則 一, 二, 名 称 本会は,東北英文学会と名づける. 目 的 本会は,東北地方における英米文学,英語学,英語教育及びその他の関連分野の研究を 促進し,併せて会員相互の親睦をはかることを目的とする. 三, 事 業 以上の目的を達成するために,次の事業を行う. (イ) 大会(毎年一回 秋季) (ロ) 東北英文学会賞の選考と授与 (ハ) 大会 Proceedings の刊行 (ニ) その他 四, 組 織 (イ) 会 員 本会は,本会の趣旨に賛同する者を以て組織する. (ロ) 役 員 本会に次の役員を置き,任期はそれぞれ三年とし,選出は付則による. 会 長 一名 副 会 長 一名 評 議 員 若干名 会計監査委員 二名 五, 機 関 (イ) 評議員会 原則として毎年一回,秋季大会と同時に開催する. 評議員会においては,予算,決算,その他の重要事項を審議する. (ロ) 常任大会準備委員会 大会の企画を行う. (ハ) 事務局 原則として会長の所属する加盟校に置く. 六, 会 計 (イ) 会 費 本会の経費は,会費ならびに寄付金を以てこれに当てる.ただし,会員は一人四千円の年会費を納入す るものとする. (ロ) 会計監査 会計監査は,原則として年一回,会計監査委員が行い,評議員会に報告するものとする. 付 則 一, 役員の選出 (イ) 会長の選出は,評議員会において無記名投票によって行う. (ロ) 副会長は,会長が指名する. (ハ) 評議員は,同一の教育・研究組織に属する会員が互選する.ただし,教員十名以下一名,二十 名以下二名,三十名以下三名,三十一名以上四名を推薦する. (ニ) 会計監査委員は,会長が評議員の中から指名する. (ホ) 常任大会準備委員は,会長が委嘱し,六名(英文学二名,米文学二名,英語学・英語教育二名) を以て構成する. 任期は二年半数交替とする. 二, 東北英文学会賞の選考は別に定める規定によるものとする. 三, 会則の変更は,評議員会の議を経なければならない. 四, この会則は,平成十三(2001)年十月一日から施行する. 131 東 北 英 文 学 会 賞 規 定 第1条(名称) 本賞は東北英文学会賞と称する. 第2条(目的及び賞金) 本賞は英文学,米文学(それぞれ比較文学・比較文化を含む),英語学(言語学, 英語教育を含む)の各分野における研究を奨励するとともに優れた業績を顕彰することを目的と する. 各分野の入賞者には賞状及び賞金5万円を授与する. 第3条(基金) 本賞の基金は,東北英文学会元会長村岡勇氏より寄付された基金を原資とする.必要に応 じて募金を行って基金に組み入れる. 第4条(対象)本賞は,東北英文学会大会における研究発表またはシンポジウム発表の内容が,後日論文ま たは著書として刊行されたものを対象とする. 2 応募論文・著書では,東北英文学会大会において発表された内容に基づいていることが,本文また は注の中に明記されていなければならない. 3 対象となる論文・著書は平成 7 (1995)年 10 月 1 日以降に刊行されたものとする. 第5条(応募締切及び応募要項) 応募締切は原則として毎年 6 月 30 日とする.応募要項は別に定める. 第6条(審査) 応募論文・著書の審査は,東北英文学会賞審査委員会(以下「審査委員会」という)が行 う.審査委員会の委員長は東北英文学会会長とする. 2 審査委員会は,英文学,米文学(それぞれ比較文学・比較文化を含む),英語学(言語学,英語教 育を含む)の 3 分野につき,それぞれ 3 名で構成する. 3 審査委員は東北英文学会会長が指名する. 4 審査委員は東北英文学会会員の中から選任するが,必要に応じて会員以外の者に委嘱することも できる. 5 審査委員の任期は 2 年とする.但し重任を妨げない. 6 授賞論文・著書は各分野につき 1 年に 1 編とし,佳作は設けない. 7 授賞論文・著書の決定は,審査委員会全体の合議により行う. 第7条(授賞) 授賞の発表は東北英文学会大会開会式において東北英文学会会長が行い,受賞者に賞状と 賞金を授与する. 付 則 本規定は,平成 7 (1995)年 10 月 1 日より施行する. 東北英文学会賞 2004(平成 16)年度応募要項 (1)応募者は東北英文学会の会員であることを要しない. (2)応募論文・著書には,東北英文学会大会において発表された内容に基づいていることが,本文または注 の中に明記されていなければならない. (3)応募者は,対象となる論文・著書を三部(コピーでも可)提出すること. (4)略歴を添付すること. (5)応募論文・著書は,あらかじめ申し出がない限り,返却されない.返却を希望する場合は,返送に必要 な額の郵便切手を応募の際に同封すること. (6)締切 平成 16(2004)年 8 月 31 日 消印有効・締切厳守. (7)宛先 東北英文学会事務局 〒 980-8576 仙台青葉区川内 東北大学大学院文学研究科 英文学研究室内 (8)受賞者は東北英文学会第 59 回大会開会式において会長から発表される.応募者には審査結果を別に 通知する. 付記 応募は本人以外の推薦によるものも受け付ける. 応募論文・著書は締切日現在で刊行済みのものに限り,ゲラ刷りによる応募は受け付けない. 会費納入のお願い 当学会は会費を納入していただいた方を会員として登録しております.払込料金受取人払い の郵便振替用紙を同封しましたので,これにより新年度(2004 年度)の年会費 4,000 円をご納 入ください.教員組織のご事情によっては,従来通り評議員がまとめて納入するという方法を とっていただいてもけっこうです. 学会は会員の積極的な意志によって成立・運営されるものです.皆様のご協力をよろしくお願 い申し上げます. 東北英文学会は上部組織のない独立学会ですから,会員は東北地方在住者に限りません.英 米文学,英語学,英語教育,比較文学/文化の研究者であればどなたでも加入できます.カバ ーする領域が広く開放的である,会費が安い,Proceedings により研究業績を短時間で形にでき る,すぐれた研究業績に対して学会賞が授与されるなど,他の学会より有利な点が多々ありま す.お知り合いの方にも入会を是非お勧めください. 事務局から ○大会 Proceedings の第 3 号をお届けします.今回も 130 ページを超える充実した内容のものとなりました. 大会準備委員の熱意と努力,さらに会場校をお引き受けいただいた弘前大学のご尽力により,大会が大きな 成功をおさめたことを慶び,関係者各位に深く感謝申し上げます. ○今回もダイレクト印刷方式で印刷しております.1 ペーパー当たり組上がり 8 ページ以内で組みました. 見た目が窮屈だったり,印刷不鮮明な部分については,経済性を重視した結果ですのでご了解ください. ○研究発表者で掲載されていない方がお一人おられますが,ご本人が執筆を辞退されたためです. ○事務局の組版担当者が公務で多忙を極めていたため,校了から印刷出来まで時間がかかってしまいました. お詫び申し上げます. ○事務局の庶務担当者は東北大学英文学研究室の助手齋藤智香子と講師岩田美喜が務めています.お問い合 わせ等は齋藤,岩田,または会長まで直接お願いいたします. 東北英文学会大会 Proceedings 第 58 回大会 平成 16 (2004) 年 3 月 25 日印刷発行 発 行 東北英文学会 〒 980–8576 仙台市青葉区川内 東北大学大学院文学研究科 英文学研究室内 TEL & FAX 022(217)5961 E-mail : [email protected] http://charles.sal.tohoku.ac.jp/tohoku-eibun.html 印 刷 (株)東北プリント
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