星野富弘展を見て 八月末、松山のデパートで開催されていた「星野富弘

星野富弘展を見て
八月末、松山のデパートで開催されていた「星野富弘詩画展」を見に行きました。
星野さんのことは、以前、本紙(「光明寺だより」26号)で紹介しましたので、ご存知の方
も多いかと思いますが、ここでごく簡単にそのプロフィールを紹介します。
星野さんは群馬大学を卒業後、体育教師として高崎市内の中学校に赴任されるのですが、そ
の二ヵ月後、クラブ活動のマット運動の指導中、誤って頸髄を損傷し、首から下の運動機能
をすべて失うという大事故に見舞われます。
深い絶望の中、家族や周りの人の温かい愛情に支えられ、その闘病生活中、わずかに動く口
に筆をくわえ、絵や詩を書き始めるのです。
身障者センターの所長さんの強い勧めもあり、初めて展覧会を開いたところ、その作品は見
る者の心を打ち、大反響を呼びました。
やがて、新聞、雑誌で紹介されるに及び、瞬く間に全国の人々に感動の渦を巻き起こすので
す。
作品展は日本国内はもとより海外各地でも開催されていますが、
いずれも大きな反響を呼ん
でいます。
松山での展覧会は今回六年ぶりとのことでしたが、
最新作を含む百余点が展示されていまし
た。
私もこれまで、雑誌を通して何度かその作品を拝見しましたが、初めて目にする星野さんの
実物の作品は、私の想像を超える素晴らしいものでした。
その構図といい、色使いといい、その花の持っている美しさや、
「いのち」の輝きといった
ものが見事に表現されていました。また、どの作品にも星野さんの詩が添えられてあり、星
野さんがその花を通して、何を思い、何を語ろうとしているのか、ひしひしと伝わってきま
した。
ある花はひっそりと慎ましやかに、ある花は力強く伸びやかにと、さまざまな表情を持った
花が描き出されているのですが、添えられた詩を読めば「なるほど、なるほど、その通りだ
なぁ」と、深い感動をもって頷かずにはおれません。
まさに詩と絵が渾然一体となっているのです。
そうした作品の中から、いくつかご紹介したいと思います。
これは以前にも紹介しましたが、「菜の花」の作品があります。
力強く描かれた菜の花は、先端の茎が折れて、そこから花を咲かせているもので、その絵に
は次のような詩が添えられていました。
私の首のように茎が簡単に折れて
しまった
しかし菜の花はそこから芽を出し
花を咲かせた
私もこの花と同じ水を飲んでいる
同じ光を受けている
強い茎になろう
茎の折れた菜の花に、ご自身の人生を重ね合わせ、強く生きていこうと懸命に立ち上がる星
野さんの「いのち」の鼓動が伝わってくるような作品です。
また、オレンジ色に輝く「すかしゆりの花」の絵には、次のような詩が添えられています。
ブラインドの隙間から差し込む
朝の光の中で、二つのつぼみが
六つに割れた
静かに反り返ってゆく花びらの
神秘な光景を見ていたら
この花を描いてやろうなどと
思っていたことを高慢に感じた
「花に描かせてもらおう」と思った
「花を描く」のではなく、
「花に描かせてもらう」と、おっしゃる星野さんですが、そこには
「いのち」に対する深い畏敬の念と慈愛の心が感じられます。
星野さんは、手足の機能を失うことによって、それまで当たり前だと思っていたことが、ど
んなに有り難いことであったか、どんなに尊いことであったかを知りました。その時、星野
さんの「心の目(いのちの目)」が開かれたのです。
その目は、一輪のすかしゆりの花の中に、厳粛な「いのち」のドラマを見てとるのです。そ
うして、その「いのちのドラマ」がそのまま、この世界の縮図であることに気づいていかれ
たのです。
「椿の絵」には、そんな思いを表した詩が添えられています。
役割を果たし今まさに散ろうとして
いる花
そのとなりでは開きかけたつぼみ
一枝の椿も大自然の縮図だ
星野さんの「心の目」に映るこの世界は、まさに「いのち」の光り輝く世界だったのです。
私は、星野さんの作品を通して、一番強く感じたことは、この、見えないものを見る「心の
目(いのちの目)」を持つことの大切さでした。
私には「いのち」や「愛」は、容易に見えません。しかし「心の目(いのちの目)」を静か
に見開けば、星野さんのように、きっとそれが見えてくるのだと思います。
私たちが、何気なく見過ごしていたものや、当たり前のように思っていたものの中に、本当
は一番大切なもの、尊いものが潜んでいるのです。
展覧会場は、まさしく星野さんの「いのち」への限りない愛情と優しさに満ち溢れた世界で
した。
私は、何とも言えない暖かいものに包まれていることを感じながら、会場を後にしました。
平成17年10月
「光明寺だより42号」より