プロダクション・ノート PRODUCTION NOTES ルイ・ザンペリーニの物語は、誰の心にも忘れられない映画を作るだけの素材があった。1998 年、CBS でルイに関するスポー ツ・ドキュメンタリーが放映され、番組を見た映画プロデューサーのマシュー・ベールは内容に強い印象を受け、映画が出来 上がるまでの 16 年間の旅に乗り出した。 2002 年、ルイとベストセラー作家ローラ・ヒレンブランドが出会い、2010 年 Unbroken が出版された。飛ぶように売れるベ ストセラーとなり、現在までアメリカ国内では 400 万部売り上げている。 2011 年には脚本家リチャード・ラグラヴェネーズに脚本が依頼された。初稿はルイの戦後の生活で終わっていた。その後ウィ リアム・ニコルソンが引き継ぎ、手を入れた。 製作について ベールが 2012 年、アンジェリーナ・ジョリーにシナリオ草稿を見せると、彼女はすぐにルイの物語に魅了された。 「 世界はこ んなにも苦痛に満ちています。今、私たちが求めているのはこのような物語なのです。闇の中でも光を求めてやり抜く男の旅。 私たちを助け、鼓舞し、目覚ましい何かを示してくれ、人生を肯定的に見ることが出来るようにしてくれる物語」。 ルイの物語はほぼ一世紀に渡る多くの出来事を含むので、いかに物語を語るかだけでなく、どのくらい語るのかという難しい 問題にも決定を下さなくてはならなかった。 監督は準備稿をジョエルおよびイーサンのコーエン兄弟に送り、彼女のセンスを反映した新しいシナリオの製作を依頼した。 ジョエルは、映画がルイの戦争からの帰還で終わるべきだと感じ、カリフォルニアでの戦後の生活は魅力的ではあるが、また 全く別の映画になると考えていた。兄弟の意見は一致していた。 ジョリーとベールと緊密に連携しつつ、コーエン兄弟は物語をすっきりさせる作業に入った。冒頭の戦闘場面で観客をいきな りアクションとアドベンチャーに投げ込み、ルイの人生を彩る深い精神性を吹き込む。彼の人生のテーマ・出来事(信仰、戦争、 闘争、収容、忍耐、くじけない精神)は、はっきりと、そして生き生きと、際立った。 オリンピック選手にして爆撃手、そして 鳥 ( バード ) :キャスティング ジョリーが直面したキャスティング上の最初の問題は、誰がルイを演じるかということだった。 「 彼は、オリンピック選手だと 信じられるような人でなければならないし、最初は 47 日間も海の上をボートで漂流、それから捕虜収容所で肉体的、精神的虐 待に耐え抜くという最も過酷な状況を生き延びてきたと信じられるような人でなければなりません。こうした全てを肉体的に 可能であるような、そして強い精神力を持ちあわせてもいる人物を探し出さなくてはなりませんでした。 ジャック・オコンネルに会った時、彼の立居振舞、彼が自分や家族について話す話し方がルイに通じるものがあると感じまし た。話し合う程に、ジャックが物語のテーマを理解し、ルイを愛し、尊敬していることが分かって来たのです」。 ルイの役が決まると、ルイの敵であり、虐待の主であり、捕虜たちに 鳥 ( バード ) として知られた、渡辺役を誰にするかという 重要な課題に取り組んだ。ジョリーは言う。 「 私は、渡辺を、ブロークンな英語をしゃべり、怖い顔でにらみつけるような日本人 のカリカチュアにはしたくなかった。渡辺は実際のところ知的で、教養ある人物でした。ただ、人間として彼にはどこか均衡を 欠いているところがあったのです。彼には人に認められるような力があり、ローラが言うように、 『 美しく創られた怪物』だっ たのです。 爆発しやすく、容赦ない人物を演じる俳優を探す時は、その反対、つまりいい奴を探す必要があると確信していました。悪とい うもののより深い面を見出せるような俳優を探していました。選択肢が見当たらず、そこでふと思いついたのです。 『 ロック・ スターはどうだろう? ステージ上を歩くだけで、何も言わずともその場を支配できるような人は?』」。 ジョリーは現在の日本のロック・シーンを探り、この役に取り組むことが出来る才能はないか尋ねた。上がって来た名前は MIYAVI。 トーランスから太平洋上へ:デザイン、ロケーション、撮影 11 回のアカデミー賞 ® ノミネート歴を誇る撮影監督のディーキンスは、無数の試練が待ち受ける企画に惹かれたという。 「私 が心打たれたのは、ルイの人生と人柄の複雑さでした。これは単なる戦争サバイバルものではなく、他のどんな戦争映画とも 違う何かなのです」。 ディーキンスは、物語の幅広さ、出来事が起こる時代の変化、時代時代における文化の衝突の描き方に特に興味を持ったとい う。しかし本当に彼の心を動かしたのは、ジョリーの情熱と、彼女のこの物語に対する解釈が説得力を持っていたことだった。 二人は光と闇、影と日光についても大いに話し合った。それが『不屈の男 アンブロークン』の主題でもあったからだ。彼らは 二人ともシドニー・ルメットの『丘』のファンで、それが複数に渡る収容所の撮影に際して参照項となった。 撮影は 2013 年 10 月 16 日にオーストラリア、クイーンズランドの海岸で始まった。撮影は数週間太平洋上をさまよう、衰弱し、 疲弊したルイ、フィル、マックの場面から始まった。餓死寸前、食料も尽き、大自然に晒され、内面から来る恐怖によって痛めつ けられる。 海での作業を終えると、一同はスタジオのタンクで撮影するボート上の場面のため、一時間ほど南、オーストラリア、ゴール ド・コースト近くのワーナー・スタジオに移動した。これが終わると、クェゼリン島にあった日本軍の捕虜収容所の場面のた めにクイーンズランドのタンバリン山にキャンプが張られた。 典型的な捕虜収容所である大森のセットは、ブリスベン市郊外のフォート・リットン国立公園に建てられた。 「 クェゼリン島 の収容所は雨が土砂降りの、深い緑のジャングルにあります」と、美術監督のジョン・ハットマンは言う。 「 それに対して大森 は『埃』です。水に囲まれてはいますがこの土地は乾いて、土ぼこりが支配しているのです。真っ白な土ぼこり、色褪せた森、捕 虜の着るカーキ色の制服、みな自然ではありますが、生命力に欠けています」。 次に一行はシドニー湾のコッカトゥー島に陣取った。世界遺産となっている、アルカトラズのような島である。コッカトゥー 島の打ち捨てられた建物の内部やその周辺に、ハットマンとそのスタッフは直江津捕虜収容所と、湾岸市街のレプリカを作り 上げた。 ジョリーはこの収容所の撮影体験が自分にとってどんなものだったか振り返る。 「 戦争は時に、人間の中にある最良のものを 引き出します。お互いに助け合い、何のために戦っているのか思い出し、人間性を取り戻して、あえて他人を救おうとする時 に。戦争は人間の最も醜い部分をも引き出します。俳優たちと私でこの事を話し合い、研究し合いました。直江津と大森のセッ トで、アメリカ人の俳優と日本人の俳優が一緒に仕事し、仲良くなり、人生について話し合い、いかに自分たちに共通している ものが多いかを知り、それぞれの文化について学び合うのを見ることは素晴らしい経験でした。私たちは多くを学びました」。 直江津の場面を撮影し終えると、一行はシドニーから西に一時間ほどのカムデンに一時移動した。ルイがトーランス高校の陸 上チームで走る場面、そこでの観客たちとのやり取りを撮影した。ザンペリーニ家の内部は、シドニーにあるフォックス・ス タジオで撮影、その後一行は北西に飛び、ニュー・サウス・ウェールズにあるタムワースの近郊の人口 1500 人のウェリスク リークへ向かった。 ジョリーにとって、ランニング場面は貴重なレッスンを与えてくれた。 「 ルイはオリンピックで勝ったわけではありませんが、 最大限の力を発揮し、失敗を拒み、最後に最高のラップを叩き出しました。ベルリンで観衆が立ち上がったのは、誰かが戦うの を見たからではありません。勝ち負けの問題ではなかったのです。問題なのは懸命に挑戦すること、諦めないことだったので す」。 ランニング場面が終わると、一行は再びクイーンズランドのゴールド・コーストに向かい、ワーナー・スタジオのサウンドス テージで、映画の冒頭を飾る、アメリカ陸軍航空隊の B-24 スーパーマン号と日本の零戦の激しい戦いを撮影することになる。 『不屈の男 アンブロークン』の撮影は 14 週後、2014 年 2 月 4 日に終了した。 監督は言う。 「 こんな複雑な撮影に、素晴らしいスタッフが参加してくれたことに私は感謝しています。スタッフ全員がチーム となって、撮影のあらゆる面で助けてくれました。衣装、スタント、サメ、水、ボート、飛行機、視覚効果、物語の規模やスケール といったあらゆる面で。これは挑戦でした。でも私はルイの事を思います。彼の物語こそ、誰もがベストを尽くすよう促してく れたものなのです。私たちは、辛いロケでも、難しい局面でも、タイトなスケジュールでも、ルイのために一丸となれたのです。 辛い仕事でしたが、素晴らしい仕事でした」。
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